さて、無事に柳川を秀吉公から頂戴した宗茂公。
 その後、どうなったか。

 あ、何度も言いますけど、宗茂という名前は晩年ですが、
 面倒なので宗茂で統一ね。


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 筑後柳川11万石を拝領した宗茂公。
 九州平定なった後の『知行宛行(あてがい)』は以下の通り。
 つまり、大名となったのはこれだけということですな。
 
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 柳川の南には肥後熊本を拝領した佐々成政がおりますね。
 佐々成政は尾張出身で信長公に仕えていた武将でしたね。

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 佐々が充てがわれた肥後という土地は結構面倒な土地なのです。
 なんせ南北朝以来、南朝に味方してきたような土地です。
 南朝の雄である菊池氏は当時はもう没落していますが、
 それでも反骨精神溢れる土地ですから難治と言われていました。

 今でも熊本のおじさん達は頑固ものです。
 だいたい無口でいつもムスっとした印象ですが、
 一度相手を認めてしまうとずっと面倒をみるようなタイプ。
 まあ、肥後もっこすと言われますがそんな感じ。



 さて、もともと内政には一定の評価があった佐々でしたが
 残念ながら肥後の国人衆からは認められなかったのです。
 検地の問題があった等といろいろ言われていますが、
 ともあれ、佐々成政に対して肥後国人衆が一揆を実行したのです。

 一揆というと土一揆みたいな農民の武装蜂起をイメージするでしょうが、
 国人一揆というだけあって、国人衆による蜂起ですね。
 おもに滅亡した菊池家の旧家臣団が中心といったところです。

 私の父方の先祖もおそらくここで根絶やしとなったと想像されまする。
 菊池家家臣団の中にその名字を発見しましたが、
 その後は他の家臣団とともに片田舎で集住しております。


 佐々成政はこの一揆の責任をとって切腹。
 ちょっとかわいそうな感じもしますね。
 ちなみに、佐々淳行の先祖は佐々成政。

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 ともあれ、この肥後国人一揆にも立花宗茂は出陣してますし、
 小田原攻めにも出陣していますし、唐入りにも出陣しています。
 ところが、秀吉公亡き後で転機が訪れます。
 なんと、関ヶ原で西軍についちゃうのです、宗茂公。


 立花家の重臣たちはいろいろと助言もしました。
 殿、西軍とかありえないでしょうと。
 幸いに内府殿からも宗茂殿は東軍にと誘いも受けておりますと。
 どうか東軍としてお働きあれと再三助言するのですが、
 もともと義に篤い男ですからね。
 西軍に味方し、大津城の京極高次を攻めてこれを落とします。

 ところが、関ヶ原はたったの1日で終わってしまったので
 宗茂はそのまま大坂城へと帰還して籠城を進言しますが、
 大坂方の幹部はこれを受け入れませんでしたので
 是非もなしとのことで宗茂公は兵を率いて柳川に帰還します。


 さて、その途中のこと。
 同じくごく少数で関ヶ原に参陣して
 敵中突破の捨てがまりで戦線離脱してきた島津義弘と合流しました。

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 島津家といえば、実父である高橋紹運がこもる岩屋城を攻めた父の仇。
 岩屋城攻めで紹運以下763名の士卒は壮絶な玉砕を遂げております。
 宗茂自身も立花山城を十重二十重に囲まれた相手です。

 家臣達は早速に宗茂に進言します。
 いまこそ、仇討ちの機会到来ですぞぉ!!
 島津は負け戦でボロ布同然ですじゃ!!
  (*´Д`*)ハァハァ/lァ/lァ/ヽァ/ヽァ ノ \ア ノ \ア / \ ア

 しかし、宗茂はこう言っちゃうのです。
 敗軍を攻めて討ち取ったところでなんの手柄になろうか。
 それは武家として恥ずかしいことさ……ふ(キリッ
 (`・ω・´)キリッ


 ただでさえ残党狩りの多い関ヶ原直後の情勢下です。
 少ない兵でウロウロしていては義弘公の命も危ない。
 そこで宗茂公は島津隊を護衛して
 船着き場まで送り届けてあげるのです。
 
 
 その後、無事に柳川まで帰り着いた宗茂公でしたが、
 なぜか西軍同士で味方だったはずの鍋島軍から攻められてしまいます。
 苦戦しましたがこれを蹴散らした宗茂。
 さあ、もう徹底的にやるぜと腹を括ったところに
 やってきたのがあの男たち。


 黒田官兵衛と加藤清正でありました。

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 まあ、みな唐入りで苦労を共にした間柄。
 加藤清正のピンチを命懸けで救ってくれたのが宗茂公でしたしね。
 義に篤い清正としては「宗っち、もういいから。俺がなんとかするから!」と。
 そういう想いでハラハラしながら懸命に宗茂を説得します。


 これで恭順を決意した宗茂公は
 柳川城を手放して城を出ていきます。


 そうそ、この時、無事に薩摩に到着した島津義弘公。
 柳川の立花宗茂が鍋島から攻撃を受けていると聞くと
 ぬおおおおお!っと槍を引っさげてすぐさま北上。
 誰が宗茂を攻撃しよるんじゃ、ぼけえ!と攻め上がってきました。
 んが、義弘が柳川に到着した頃にはもう宗茂は降伏。
 島津は島津で恩義に篤い男達でありました。


 さて、清正公は柳川の村落に陣触れして
 立ち退く立花家中の者にちょっかいを出すなと厳命します。
 さらに、立花家臣団の多くを加藤家預かりとして預かってくれまして
 多くの家臣団が加藤家に一時的にお預かりとなったのです。


 宗茂は柳川を出たあと、
 しばらく熊本に滞在しましたが
 やはり京にいないと家康にも会えません。
 そこで、上洛して居場所を転々としながら
 家康に会えるチャンスを伺います。


 その間、清正や勘兵衛といった面々が
 なんとか宗茂赦免を願い出ましたが
 家康はなかなか宗茂を許しません。
 ま、そりゃそうですな。


 宗茂の家臣団は解体されまして、
 多くは加藤家などに預けられていきましたが
 数人程度は宗茂に従っている者もいました。
 彼らは傘張りなどの内職をしながら
 懸命になって宗茂を支え糊口を凌ぐ毎日を送ります。
 由布雪下、十時摂津という道雪以来の老臣たちです。
 なかなかに内職は大変だったでしょうな。

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 由布:な〜に、殿のひとりやふたり、
    楽に食わせてやりますわい!

 十時:そうじゃ、なんのこれしきのこと。
    針仕事でもちくちくやれますわい!

 
 まあ、こんな感じだったのでありましょう。
 こういう浪人生活がしばらく続きますが、
 親友であった本多平八郎忠勝から
 すぐに江戸に出てこいという連絡が入ります。

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 徳川四天王である忠勝の周旋によって
 やっと家康のお許しが出そうだぞということでした。
 そこで、家臣を引き連れ今度は江戸へ上がりじ〜っと蟄居の日々。
 ようやく登城の命を受けまして忠勝の推挙によって御書院番頭を拝命します。
 この時には5000石を宛行われます。

 御書院番頭は将軍の親衛隊ですので、
 それ以来、秀忠から可愛がれることとなります。
 なんせ秀吉公以来の猛者ですからね。
 いろんな逸話を知っているわけで
 秀忠も暇があれば「宗茂殿を」と呼ばわります。

 将軍の覚えがめでたければ
 出世も当然でありますから
 今度は奥州棚倉に1万石を宛行われます。
 これで大名として復帰することになったのです。
 一度改易された大名が復帰するという例は
 ほぼ皆無であります。

 
 その後、大阪の陣が始まろうかという頃。
 家康は宗茂を呼び寄せてなんとか大阪方にはつかんでくれよと説得します。
 真田幸村が大阪方へついて肝を冷やしていましたしね。
 宗茂公まで大阪方についてはちょっと……と思ったのでしょう。

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 家康の意を受けて宗茂公は秀忠の幕僚として傍に控え
 敵軍の行動を予知して的中させるなどずば抜けた能力を発揮します。


 そして1620年、なんと旧領であった柳川を再び宛行われます。
 改易された大名が旧領に復帰した例は宗茂以外にないため
 これが唯一といったところです。
 とはいえ、その後も秀忠・家光から目を掛けられまして
 ほとんど領国経営は息子の忠茂に任せきりという感じだったようです。
 あと、領国経営や天下普請等で何かと物入りだったようですので、
 秀忠から個人的に五万両くらい借金したりしてますね。


 島原の乱では70を超えていながら
 甲冑を来て戦陣を駆け巡りまして
 昔日の西国無双はかくやあらんと四方を唸らせました。


 寛永15年(1643)に江戸表で死去。
 まさに波乱に富んだ人生でありました。
 墓所は柳川市内の福厳寺(ふくごんじ)という菩提寺。
 また、三柱神社にもお祀りされております。


 また立花家は明治維新までちゃんと残っておりまして
 現在は17代の立花宗鑑氏が当主であります。
 次期当主の18代もイケメンであります。
 http://www.tachibana-museum.jp/blog/?m=20130219


 この宗茂公、まだ大河ドラマにはなっておりません。
 そんなにメジャーじゃないしね。
 できれば、三谷幸喜さんにでも書いていただいて
 真田丸と同レベルのクオリティでお願いしたいところ。


 宗茂は実はオンナだったとか要らないからw
 その辺りは察していただきまして
 どうぞよろしくお願い致しまする。