【地図】日本の主な岬マップ〔改訂版〕【おまけつき】

この記事は、拙稿「【地図】日本の主な岬マップ」の改訂版です。


岬って、あまり注目されることがないのか、まとまった情報があんまりなかったので、
自前で「日本の主な岬マップ」をつくりました。

日本の主な岬マップv1.02


オススメ本
 

芥川賞受賞作
 

貝塚爽平 著
 

海岸から地球を見る
 

海岸の過去と未来
 


「でんでんむしの岬めぐり」さんの記事によると、日本には3,858の岬があるそうです。ひぇ〜!!

そんなにたくさんはとても書ききれないので、
とりあえず有名どころと思われる34の岬を地図にしました。


中学・高校の入試問題や、学校の定期テストで出そうな岬は全部カバーしてあると思います。

有名な観光地も大体カバーしたつもりですが、
「あの岬が漏れている」といったことがございましたら、ご指摘ください。

地図作成にあたっては、「カビパン男と私」さんの白地図を利用させていただきました。
ありがとうございます。


◆おまけ◆
岬の名前を答える問題形式の画像も作りました。
ご活用ください。

(1)初級編【小学生・中学生向け】
日本の主な岬マップ クイズ初級編


解答
ア 宗谷岬〔そうやみさき〕
イ 知床岬〔しれとこみさき〕
ウ 納沙布岬〔のさっぷみさき〕
エ 襟裳岬〔えりもみさき〕
オ 竜飛崎〔たっぴざき、たっぴさき〕
カ 犬吠埼〔いぬぼうさき〕
キ 野島崎〔のじまざき〕
ク 石廊崎〔いろうざき〕
ケ 御前崎〔おまえざき〕
コ 潮岬〔しおのみさき〕
サ 室戸岬〔むろとみさき〕
シ 足摺岬〔あしずりみさき〕
ス 佐田岬〔さだみさき〕
セ 佐多岬〔さたみさき〕


(2)上級編【地理マニア向け】
日本の主な岬マップ クイズ上級編


解答
1 ノシャップ岬〔のしゃっぷみさき〕(野寒布岬も可)
2 宗谷岬〔そうやみさき〕
3 知床岬〔しれとこみさき〕
4 納沙布岬〔のさっぷみさき〕
5 襟裳岬〔えりもみさき〕
6 地球岬〔ちきゅうみさき〕(チキウ岬も可)
7 神威岬〔かむいみさき〕
8 大間崎〔おおまざき、おおまさき〕
9 竜飛崎〔たっぴざき、たっぴさき〕
10 魹ヶ崎〔とどがさき〕
11 入道崎〔にゅうどうざき〕
12 犬吠埼〔いぬぼうさき〕
13 野島崎〔のじまざき〕
14 禄剛崎〔ろっこうざき、ろっこうさき〕
15 東尋坊〔とうじんぼう〕
16 石廊崎〔いろうざき〕
17 恋人岬〔こいびとみさき〕
18 御前崎〔おまえざき〕
19 伊良湖岬〔いらごみさき〕
20 羽豆岬〔はずみさき〕
21 大王崎〔だいおうざき〕
22 御座岬〔ござみさき〕
23 潮岬〔しおのみさき〕
24 日御碕〔ひのみさき〕
25 室戸岬〔むろとみさき〕
26 足摺岬〔あしずりみさき〕
27 佐田岬〔さだみさき〕
28 都井岬〔といみさき〕
29 佐多岬〔さたみさき〕
30 長崎鼻〔ながさきばな〕
31 辺戸岬〔へどみさき〕
32 残波岬〔ざんぱみさき〕
33 喜屋武岬〔きゃんみさき〕
34 東平安名崎〔ひがしへんなざき〕



◆おまけのおまけ◆
かつて作成した白黒の岬マップです。

岬new

問題用紙も。
岬quiz


投稿日時 2020.04.28 15:00
最終更新 2021.07.10

【一覧つき】『水路上観察入門』で墨田区を知ろう

先日、暗渠マニアックスのお二人の最新著作まち歩きが楽しくなる 水路上観察入門』が刊行されました。

前作『暗渠パラダイス!』に引き続き、本書にも、墨田区の水路跡が随所に出ています!

まず、表紙には、大横川ちょん切られた橋跡の写真が2枚も!
平川橋は、前作の帯にも登場していましたので、2作連続2度目の「出演」です。
このモニュメントには、人を惹き付ける何かがある気がします。
水路上観察入門編集

第1部第2章では、竪川暗渠化のミステリーが取り上げられていて、謎解き心をくすぐられます!
なぜ、竪川は途中までしか暗渠にならなかったのか。
分かりそうで分からない、そういう謎に挑む営為はほんとに楽しいですよね。

首都高が通る前の竪川の俯瞰写真(p.57)も最高です。
1964(昭和39)年に読売新聞に掲載された写真と同じタイミングで撮影されたのではないかと思いますが、本書の写真の方が解像度が高くて、細部までよく分かります!
手前から奥まで折り重なるように橋が連なるアングルが素晴らしく、
両岸には荷揚げ用のクレーンらしきものや、材木置き場らしき場所も見えます。
遠くが霞んでいるように見えるのは、当時の東京の大気の状態(スモッグ)を物語っているような気も。

第2部第1章では、『あしたのジョー』の冒頭の一コマが引用されています(p.117)。
川の流れがよどみ、ごみくずが溜まっているシーンです。
作者・ちばてつや氏の自伝等によれば、子ども時代〜青年時代に墨田区で暮らし、六間堀が埋め立てられて間もなく、その真上に建てられた家(現・墨田区千歳)に家族で住んでいたこともあったそうです。
その頃の経験から、『あしたのジョー』で、川やドブ板といった水辺の風景を描いたとのこと。
ですから、このシーンは、氏による墨田区の水路観察の結果生まれたもの、と言えるかも……?

第2部第2章では、再び竪川が登場。
蓋を掛けられた水路(暗渠)の上に、蓋(高速道路)が掛けられている「蓋on蓋」の一つとして、紹介されています。
本書によると、竪川のように、高速道路が通った後に暗渠化されるケースは珍しく、大体は暗渠化と高速道路の建設が同時か、暗渠化の方が早いそう。
竪川は、「蓋on蓋」の中でも特別な存在のようです!

などなど、本書には注目ポイントが盛りだくさん。
ということで、墨田区の水路跡等が載っている箇所を下にまとめました(旧水路ラボ調べ)。
◆表紙 大横川(写真)

キーワード【平川橋】【清平橋】【ちょん切られた橋】



◆pp.55-63 竪川

キーワード【複雑性】【永井荷風】【首都高7号小松川線】【暗渠化の謎】



◆p.81 古川(鷭堀)(写真)

キーワード【舟コレクション】



◆pp.132, 133 隅田川(写真)

キーワード【上空蓋】【吾妻橋】【首都高6号向島線】【区境】



◆p.117 あしたのジョー(漫画)

キーワード【よどみ】



◆pp.132, 134, 137 竪川(写真・表も)

キーワード【蓋on蓋】【首都高7号小松川線】【区境】



◆p.136 隅田川(写真)

キーワード【蔵前橋】【裏側】【覗き見るわくわく感と繊細さ】



◆p.154 曳舟川(写真)

キーワード【更生橋】【親柱】【八広小学校】【暗橋】【剥製】


もちろん、墨田区内には他にもたくさんの「水路上」があります。
みなさんも、本書を片手に街に出かけて、水路上観察をしてみませんか。

水路上観察入門


投稿日時 2021.06.22 02:22
最終更新 2021.06.30 22:22

【本所 旧水路名鑑】六間堀(ろっけんぼり)

投稿日時 2017.12.23 01:22
最終更新 2021.03.18

水路の名称六間堀(ろっけんぼり)
誤記の実例堀、六間間堀
別名・俗称六間堀川
六間川

※「六間川」に関しては、別名ではなく、誤表記の可能性もある。
五間堀の別名(または誤記)である「五間川」に比べると、「六間川」と表記する例は少なく(その例として『本所の過去及び現在』)、この僅かな例をもって別名の存在を裏付けることは難しい。しかし、五間堀が「五間川」と呼ばれることがあったのであれば、六間堀が「六間川」と呼ばれることがあったとしても、それほど不思議なことではない。

水路の位置墨田区千歳3-18(北端)

〜江東区常盤1-19(南端)

六間堀航空写真
[写真a]1947(昭和22)年9月8日の六間堀(国土地理院提供の航空写真を編集)
本所両国 痕跡地図も参照

同名別水路六間堀(大田区羽田)

跡地は「六間堀緑地」(大田区羽田4-23-10)などになっている。
近くにある「六間堀仲羽公園」(大田区羽田4-18-12)にもその名が残る。
京急バスには「六間堀」という停留所もある。

水路の長さ約900m

文献によって、498.3間 = 約906m(『東京案内 上巻』)としたり、約909m(『都市計画河川一覧表』)としたりと、多少の差はあるが、概ね900mである点で違いはない。

水路の深さ明治初年:2〜9尺 = 約61〜273cm(『東京府誌 10』)

※ただし、ほとんどの地点は、2〜3尺 = 約61〜91cmとされている。

明治後半:2尺5寸〜3尺 = 約76〜91cm(『東京案内 上巻』)
昭和初年:約1尺5寸 = 約45cm(『帝都復興區劃整理誌 第三編 各説 第四巻』)
水路の幅員明治初年:6〜8間 = 約10.9〜14.5m(『東京府誌 10』)

※ただし、ほとんどの地点は、6間 = 約10.9mとされている。
なお、1884(明治17)年に、東京府知事が内務省に提出した東京市區改正意見書では、六間堀の幅を一律8間 = 約14.5mに広げることが計画され、1889(明治22)年の東京市區改正委員會による決定案でも、六間堀の拡幅が記載された。しかし、1894(明治27)年に勃発した日清戦争の影響もあって、結局、拡幅は実現しなかった。(『帝都復興史 第貳巻』)

明治後半:6.1間 = 約11.1m(『東京案内 上巻』)
昭和初年:約6間 = 約10.9m(『帝都復興區劃整理誌 第三編 各説 第四巻』)
名称の由来6間ほどの幅だったため(『東京府志料 1』)

※ただし、上流部はやや幅が狭くなっているなど、場所によって水路の幅は多少異なる。

水路成立年安土桃山時代以前か(「六間堀はいつ誕生したか ―追跡・六間堀『源流』―」)

水路成立年については、諸説ある。
1671(寛文11)年の新板江戸外絵図(いわゆる寛文五枚図)には、六間堀と思しき水路が記されている([図1]参照)ことから、遅くともその頃には誕生していたと考えられる。この点で異論はないと思われる。(『江東区の文化財 史跡』も参照)
問題は、そこからどれだけ遡れるかである。
寛文五枚図 六間堀色付き
[図1]寛文五枚図に記された六間堀(国立国会図書館提供、水面部分に着色)

◆従来説の問題点
この点、従来、唱えられてきたのは、主に慶長年間説万治年間説である。(『江東区の文化財 史跡』)

慶長年間説(1596〜1615年)は、深川村が成立した時期に開削されたとする説である。江東区関係の文献で比較的多く言及されている。
ただし、この説では、それを裏付ける特段の根拠が提示されているわけではない。

万治年間説(1658〜1661年)は、明暦の大火(1657年)の後に行われた本所開発の際に開削されたとする説で、江戸時代後期に幕府関係の文献で採用されている。長年、通説的地位にあったと言ってよいだろう。この説の中には、ピンポイントに1659(万治2)年だとするものもある。

万治年間説を採るものとしては、『町方書上』の「本所起立記」の項、「松井町弐丁目」の項、「善兵衛屋鋪」の項がある。ただし、後述するように、「深川六間堀町」の項では、「御堀割等之年月旧記無之相知不申候」とある。
その他、『御府内備考』、『葛西志 全』79-80頁、『墨田区史』226頁、『墨田誌考 上』38頁なども、その記述内容から万治年間説に立っている(少なくとも肯定的に捉えている)と考えられる。


この説の論拠となっているのは、『本所深川起立』の「竪川を上口二十間敷十四間深さ一丈四尺ニ掘立其後横川十間川六間堀をも右深さに準じ掘」という記述である。一般に、竪川の開削は1659(万治2)年とされているため、六間堀も竪川と同時か、そのすぐ後にできたと考えるのである。

『本所深川起立』は、本所起立と深川起立を合わせたもので、本所起立の部分は1755(宝暦5)年に成立している。(『補訂版 国書総目録 第7巻』383頁)
すなわち、上記の引用箇所は、本所開発が始まってから約100年後に書かれたものである。


なお、慶長年間に細い水路を開削し、本所開発のときに六間になったという、慶長説と万治説の2つを折衷したような説もある。(『江東区史跡散歩』)

水路ができたのは慶長年間だとする説なので、これは慶長年間説のバリエーションの一つであると位置づけることも可能だろう。
他方で、幅6間の水路として完成した時点を「六間堀の成立」と定義するならば、この説は万治説の一つであると見做すこともできる。ただし、この名鑑では、水路の幅にこだわらず、水路ができた時期について検討することにしたい。


しかしながら、これらの説は、どれも採用することができない。根拠に乏しい慶長説はもちろん、万治説も下記のように疑問点が多いからである。

(1)六間堀村
『町方書上』の「深川海辺大工町」の項によれば、1596(慶長元)年に六間堀村が成立している。これに従うなら、本所開発が始まる60年以上前から「六間堀」という名が存在していたことになり、本所開発で六間堀ができたとする万治説と矛盾しそうである。

『町方書上』とは、江戸幕府が地誌を編纂するために、その資料として町々の名主に提出させた文書をまとめたものである。「深川海辺大工町」の項は、同町を含む付近一帯の名主である八左衛門が、1828(文政11)年に提出した文書を写したものであると推測される。
1596(慶長元)年から200年以上経って書かれたものであり、六間堀村がその年にできたことが確実であるとまでは言えない。したがって、これだけを根拠に万治説を否定することはできないだろう。
また、六間堀村の「六間堀」が、今問題にしている「六間堀」とは別の水路である可能性も捨てきれない。その意味でも、この『町方書上』の記述が、万治説を否定する決定打にはならないと言える。

町方書上 海辺大工町の項 分郷六間堀
[図2]『町方書上』の「深川海辺大工町」の項より(国立国会図書館提供

(2)堀の形状
本所開発では、竪川・横川・南割下水・北割下水・柳島堀・錦糸堀・斎藤堀等が造られたが、それらは街路に合わせて直流している。しかし、六間堀は、隅田川に沿うように曲流しており、本所開発で計画的に造成されたにしては不自然な流路になっている。

(3)周辺の道
寛文五枚図を見ると、堀の南側に、緩やかに蛇行した道が複数確認できる(前掲[図1])。
本所北部の区割からも分かるように([図3]の赤で囲った部分)、本所開発の時点で既に存在していた集落は、区画整理が行われず、不規則な街区のままになったと考えられる。
寛文五枚図 本所北部の街区 hspace=
[図3]本所北部の街区(国立国会図書館提供、水面部分に着色)

六間堀南部も古くから村落があったため、蛇行した道が残ったのであろう。このような、人々の生活の場がすでに形成されているところに、堀を通すとは考えにくい。
加えて、もし村落を貫く形で堀を開削したのなら、元からあった東西方向の道は堀によって分断されたはずである。しかし、分断されたことを窺わせる道は見当たらない([図4]の矢印)。堀の東西で、元々は一つの道であったと推認できるものが全くないのである。
道筋を見る限りでは、先に水路があって、後から東西それぞれに道ができていったと考えるのが自然であろう。
したがって、万治年間に実施された本所開発よりも前から道が存在し、その道ができるよりも前から水路が存在した可能性、つまり万治年間よりも前から水路が存在した可能性が、寛文五枚図から読み取れるのである。
寛文五枚図 六間堀付近の古道
[図4]六間堀付近の古道(国立国会図書館提供、水面部分に着色)

このように、万治説には不可解な点が多く、むしろ、本所開発の前から六間堀は存在していたと考える方が合理的である。

(4)『本所深川起立』の解釈
さらに、万治説の論拠となっている『本所深川起立』の記述も、実はすっきりしない書きぶりになっている。
『本所深川起立』の「竪川を上口二十間敷十四間深さ一丈四尺ニ掘立其後横川十間川六間堀をも右深さに準じ掘(拙訳:竪川を、水面の幅20間、川底の幅14間、深さ1丈4尺に掘り立て、その後、横川・十間川・六間堀をも竪川の深さに準じて掘った)」という記述は、確かに、竪川と同時期に六間堀が開削されたとも読める。
しかし、竪川について水面の幅、川底の幅、深さについて述べている一方、横川・十間川・六間堀は深さについてしか記されていない。横川・十間川・六間堀については、「元からあった水路の幅はそのままに、1丈4尺まで掘り下げた(浚渫した)」と解釈する余地がある書き方なのである。横川(大横川)や十間川(横十間川)も、元々その辺りに自然河川があったと言われていることを踏まえれば、このような読み方も十分成り立つように思われる。

以上から、六間堀は本所開発で開削されたものではなく、六間堀の誕生は万治年間よりも遡る可能性が高いと考えられる。(「六間堀はいつ誕生したか ―検証・万治開削説―」)

◆六間堀誕生の経緯
では、六間堀はいつ、どのように誕生したのだろうか。
六間堀の存在が確認できる同時代史料としては、寛文五枚図(1671年)が最古であり、『武蔵田園簿』(1650年頃)や『小田原衆所領役帳』(1559年)など、万治以前の古い史料で六間堀の情報を記したものは見つかっていない。そのため、誕生の経緯を検討するにあたっては、間接的な証拠を積み上げていく必要がある。
先ほど取り上げた史料も用いつつ、六間堀周辺に成立した集落との先後関係を中心に検討してみよう。

(1)古道
前述したように、寛文五枚図に描かれた六間堀付近の蛇行した古道を見ると、六間堀開削によって分断されたと認められるものは一つもない([図4]の矢印)。
このことは、先に水路があって、後から道ができていったことを示唆しているが、道ができる前から水路があったということは、集落が発達する前からここに水路があったということを間接的に示していると言えるのではないだろうか。
寛文五枚図 六間堀付近の古道
(再掲)[図4]六間堀付近の古道(国立国会図書館提供、水面部分に着色)

(2)『町方書上』の解釈
『町方書上』の記述も手掛かりになるかもしれない。
本書の「深川海辺大工町」の項には、1596(慶長元)年に深川村分郷六間堀村が成立したと書かれている一方、「深川六間堀町」の項には、六間堀がいつできたのか分からないとある。
町方書上 深川六間堀町の項 六間堀
[図5]『町方書上』の「深川六間堀町」の項より(国立国会図書館提供

両項は、同一人物(代々続く付近一帯の名主、八左衛門)が同じタイミングで書いたものなので、基本的にその内容に齟齬はないと考えられる。
そこで、両項の記述を整合的に解釈してみると、「六間堀村(集落)が成立する以前から六間堀(水路)は存在した」という可能性が浮かび上がる。入植時点(六間堀村成立時点)で既に水路があったとすれば、その成立年が分からないのは当然である(なお、同書「両国橋御役船」の項も参照)。
このような解釈は、前述の古道から導き出される内容とも符合する。

なお、「深川六間堀町」の項とは異なり、「松井町弐丁目」や「善兵衛屋鋪」の項は、1659(万治2)年開削説に立っている。万治説に問題が多いことは先に述べたとおりであるが、別の観点からも「松井町弐丁目」や「善兵衛屋鋪」の項における六間堀の記述は、それほど信憑性が高いものであるとは考えられない。
というのも、松井町弐丁目や善兵衛屋鋪は、元禄年間(1688〜1704年)以降の成立であり、万治年間には存在していないのである。したがって、1659(万治2)年に六間堀ができたという記述は、六間堀の開削を目撃した先祖から代々伝えられてきた事柄ではなく、外部からもたらされた、いわば「後付け」の情報であると考えられる。
このことから、少なくとも、「松井町弐丁目」の項や「善兵衛屋鋪」の項の記述の信憑性が、「深川六間堀町」の項よりも高いとは言えないということが分かるだろう。
古くからある町(深川六間堀町)では、六間堀がいつからあるか分からないといい、新しくできた町では、町が成立する前の出来事であるにもかかわらず、具体的な年を挙げて述べているのが興味深い。


(3)位置・方向・形状
六間堀の特徴的な流路も示唆的である。
隅田川沿いにあった墨田区内の水路のうち、片葉堀(藤代町入堀)・御蔵堀(横網町入堀)・梅堀(石原町入堀)・奴堀などは、隅田川からほぼ直角に分岐していた。それに対して六間堀は、隅田川の至近を、隅田川に並行して、隅田川の湾曲に沿うように流れていた。しかし、わざわざそのような流路にする必要性に乏しく、そこに計画性を見出すことは困難である。流路の特徴が似ている梅若堀(浦ノ川・内川)は、本来自然河川だったといわれている([図6]の矢印が梅若堀、その左が隅田川)。六間堀も同様に、河川の流路変化の中で生まれたのではないだろうか
伊能忠敬 江戸府内図
[図6]伊能忠敬 江戸府内図(北)に描かれた梅若堀と隅田川(国立国会図書館提供

以上の諸点を総合すると、六間堀は人工的につくられた水路ではなく、安土桃山時代以前に自然の営力によってできた古い水路である可能性が高いと考えられる。元々、隅田川の川幅が六間堀の辺りまであり、隅田川東岸と、その近くにできた砂州との間の水辺が、六間堀のルーツなのだろう。そこに目をつけた深川八郎右衛門のような開拓者が、流路を整えていった━━このように考えると、上記の諸点を整合的に説明できるのである。
明治時代の地図でも、隅田川に砂州が描かれており、この辺りは土砂が堆積しやすかったことを窺わせる。
東京府武蔵国日本橋区濱町及本所区相生町深川区常盤町近傍
[図7]東京図測量原図(1884(明治17)年)より(国土地理院提供)

◆竪川以北の「六間堀」
ところで、六間堀の元となる水路の成立が万治より前であるならば、ある疑問が浮かぶ。万治年間の竪川開削より前の時期に、六間堀の上流部はどうなっていたのか、という疑問である。
 これについても確実なことは分からない。しかし、手掛かりがないこともない。その一つが、亀沢池かめざわのいけである。
亀沢池
[図8]1821(文政4)年頃の亀沢池の図(『葛西志 全』308頁、水面部分に着色)

この池は現在の両国小学校・両国公園の辺りにあった大池で、『葛西志』によれば江戸時代を通じて徐々に埋められていったようである。

〈1761〜1771(宝暦11〜明和8)年頃〉
葦などが生い茂る「ものすごき池」。 亀沢町大通り(現・京葉道路)にはみ出ていた。
〈1789〜1801年(寛政年間)〉
面積は600坪あまり(約2,000屐法0韻箍(イネ科の多年草)が多く生えていた。
〈1801(享和元)年〉
竪川・横川等の浚渫土で半ば埋められる。
〈1821(文政4)年頃〉
面積約100坪(約330屐法
[表1]亀沢池の変遷
三島政行『葛西志』309頁の記述をもとに作成

この亀沢池のすぐ南が六間堀という位置関係から、両者は竪川疎通以前に繋がっていた、というのが私の仮説である([図9]参照)。
もう一つの手掛かりは、17世紀までの地図に見られる本所御蔵敷地の不自然な区割りである。亀沢池の北の辺りだけが、斜めに切り落とされたかのような形になっていた([図9]参照)。そしてこの斜めの方向は、隅田川の流路の向きとほぼ一致しているのである。この部分が元は水路だったという直接の証拠はないが、六間堀の流路がこの辺りまで伸びていたとしても不思議ではない。
六間堀と亀沢池 ブログ用
[図9]六間堀と亀沢池(国立国会図書館提供、水面部分に着色)

◆まとめ
六間堀にあたる水路は、16世紀までに形成された、隅田川の名残であると考えられ、古くはその上流が本所エリアの中央付近にまで達していた可能性がある。

支流・分流(北から)堺川、五間堀、六間堀町下水、森下町下水、八名川町下水、神明門前下水、井上堀
接続した川上流部:竪川
下流部:小名木川
橋梁の名称(北から)松井橋、山城橋、汐時橋、北ノ橋、六間堀橋、中ノ橋、猿子橋、細川橋
水路の形状周辺の掘割と異なり、流路が曲がっている。その理由については諸説ある。

【A説】江戸時代初期、現在の墨田区千歳1〜2丁目、江東区新大橋1〜3丁目、同常盤1丁目付近は、隅田川左岸(東側)の自然堤防が東京湾に突き出す形で伸びていた。その東側に広がる湿地帯を埋め立てる際、堤防の東岸沿いを埋め残してできたのが六間堀である。(『江戸の都市計画』)

【B説】六間堀は、万治2(1659)年に自然堤防を利用して開削された。(『図説 江戸・東京の川と水辺の事典』)

【C説】六間堀はかつての隅田川左岸(東側)であり、六間堀部分を埋め残して、その西側を埋立てた。(講演会での久染健夫氏発言)
埋立て前の段階で、左岸付近に中洲があった。場所は、現在の墨田区千歳1〜2丁目、江東区新大橋1〜3丁目、同常盤1丁目付近である。(久染健夫氏への取材)

A説とB説とでは「埋め残し」か「開削」か等で見解に相違があるものの、自然堤防に沿って流路が設定されたとする点は一致している。C説は自然堤防ではなく中洲であったとし、それを利用しながら埋立てを行って隅田川の川幅を狭めたという。
いずれの説が妥当であるかを判断するには、地質学や考古学の見地から調査・研究の進展を俟つ必要があるだろう。
もっとも、六間堀の西側が古くから陸地化していた(微高地だった)ということは、全ての説で共通しており、実際のところ、各説の差はそれほど大きくないのかもしれない。

なお、「水路成立年」の項ですでに述べたように、史料を分析する限り、六間堀は自然の営力によってできた水路である可能性が高い。したがって、六間堀の東西は、入植前からかなりの部分が陸地だったと見るのが妥当であるように思われる。
往時の様子◆何に使われた?
灌漑・水運に利用された(『江東区の歴史』)という。

しかし、六間堀は海に近く、その水にはかなり高濃度の塩分が含まれていたと考えられる。はたして、そのような水を灌漑に用いるだろうか。
【参考】小澁晴信ほか「都市河川感潮域における塩水の遡上特性に関する現地観測」(2008年)


小名木川の水運の補助的機能を担い、船舶の繋留や修理をする場所として使われていたのではないかとする見解もある。(「江東の川・掘割 小名木川と五間堀・六間堀」)

大正時代の初め(1910年代前半〜半ば)頃、小舟の賃貸しが行われていた。(『江東区の歴史』)

最も身近な用途は、汚穢おわい船による汲み取りだった。川沿いの家は、汲み取り口を川に面して設けてあった。
また、荷を積んだ伝馬船の往来も時折見られた。
水上警察のモーターボートが土左衛門を縄で牽引しながら、高速で走り抜けていったことがあった。(以上は、1925(大正14)年生まれの地元住民、貞本祐男氏の証言。『われわれの本所両国』所収)

◆水質はどうだった?
水は清らかで、泳ぐ人もいたという。(1918(大正7)年生まれの地元住民、遠藤美代子氏のブラタモリ内での証言)
だが、遊泳禁止だったため、水上警察が、泳ぐ子どもを追いかけていたらしい。(『古老が語る江東区の町並みと人々の暮らし<上>』)

一方、汚かった時期もあったようで、永井荷風は1934(昭和9)年の随筆で次のように書いている。
〔柾木稲荷の〕華表とりいの前の小道を迂回して大川の岸に沿い、乗合汽船発着処のあるあたりから、また道の行くがままに歩いて行くと、六間堀にかかった猿子橋という木造の汚い橋に出る。この橋の上に杖をとどめて見ると、亜鉛トタンぶきの汚い二階建の人家が、両岸から濁水をさしばさみ、その窓々から襤褸ぼろきれをひるがえしながら幾町となく立ちつづいている。その間に勾配の急な木造の小橋がいくつとなくかかっている光景は、昭和の今日に至っても、明治のむかしとさして変りがない。
「深川の散歩」より引用
〔 〕は引用者による補足、下線も引用者

何年かに一度の浚渫工事の際には、匂いが酷かったようで、窓を開けていられなかったという。(1925(大正14)年生まれの地元住民、貞本祐男氏の証言。『われわれの本所両国』所収)

六間堀に接続する小名木川について、川の水が汚れだしたのは関東大震災(1923(大正12)年)以降であるという証言があり(『隅田川とその両岸(上巻)』)、六間堀もほぼ同時期に汚濁し始めたと推察される。

戦後、何年かの間は、隅田川・竪川とともに澄んだ水が流れており、昼休みにのんびりと釣り糸を垂れる人の姿が見られた。(『墨田区立両国小学校創立95周年記念誌 本所の四季』)

◆空襲時の様子は?
1945(昭和20)年3月10日未明にあった東京大空襲では、六間堀に入って助かったという証言が残っている。
次の引用文の筆者は、被災当時満18歳。
 もう駄目だ 六間堀(幅約10m)に飛び込むしかない。
 私はバケツを一つ持って梯子で岸壁を降り、水に入った。私に続く人は誰もいない。
 丁度満潮だった。堀の両側は木造家屋がぎっしりと立ち並んでいる。
 橋の下から北の方の山城橋の方を見ると家々は黒煙の中で油紙に火がついたように急にボッと火の塊になる。
 煙が橋下まで舞い狂う。橋の近くで行き詰った人達が堀へ雪崩れ込んできた。
 私は堀の中央辺りで首まで水に漬かり、バケツを被る。火の粉がバケツにバラバラ当たる。そのうち木片がガタガタ叩く。
 息をするためバケツを少し上げると煙と火の粉が舞い込んでくる。少しでも風当たりが少ない岸壁に身を寄せた。
 近くの家々が強風でたちまち火炎に包まれ、火炎の中心部分はすぐ白熱化して焼け落ちる。ほんの数分である。
 熱さと煙でもう駄目だと思った。近くの人のうめき声や「助けて」の弱々しい声が耳に入る。
 どれ位過ぎただろうか。堀の水は大分引いて夜が明けた。助かった と思ったが、目は煙と火の粉でやられ、喉や気管はすっかりただれた感じで呼吸も容易でない。頭はガンガンし、ずぶ濡れの体は震える。心臓麻痺で死ぬかもしれないと思った。
 付近の建物は焼け落ちているので岸に上がりたいがその気力がない。近くに人々の姿は見当たらない。煙に包まれて離れた処は見えない。
 近くに一人いた。私より2~3歳年上と思われる。「招集令状がきているのだが…」としきりに心配していた。
 やっと堀から上がって風上の自分の家の方へ行こうとしたが、風に押され、息が苦しくて行かれない。
「六間堀は命の川」より引用、原文ママ

◆そして六間堀は…
戦災で生じた灰燼かいじんを処理するため、水運の利用が減っていた六間堀が処分地の一つに選ばれた。(『墨田区史 上』、『東京都戦災誌』、『建設のあゆみ』、『都政十年史』ほか)
貨物取扱量1921(大正10)年:25,516t(『帝都復興事業誌 土木篇 下巻』)
埋立て実施 大多数の文献では、最初の埋立て工事についてしか記載されていないが、埋立ては2度に分けて実施された。

埋立て実施に関する当時の公文書を除くと、一度に全てを埋立てたわけでないことに触れた文献は極めて少ない。第1次埋立てと第2次埋立ての間に調査が行われた『隅田川とその両岸(中巻)』は、その意味で非常に貴重である。
また、最初の埋め立て工事についても、大多数の文献は、当時の史料的な制約もあって、不正確な内容になっている点は注意を要する(詳しくは後述)。


以下では、六間堀の埋立てについて、当時の公文書を紐解くことで明らかになった事実を中心に記述していく。

第1次埋立て 1949(昭和24)年12月23日以降?〜1950(昭和25)年12月27日以前

埋立て計画決定日1947(昭和22)年11月26日
埋立て免許取得日1949(昭和24)年12月23日
埋立て工事開始日不明
竣工認可の申請日1950(昭和25)年12月27日
竣工認可された日1951(昭和26)年3月20日

(1)埋立て決定
六間堀の埋立てが決定したのは1947(昭和22)年。

戦災復興院告示第百二十二号
 東京特別都市計画運河、河川、河川埋立及び高潮防禦施設決定の件を次のように内閣総理大臣が決定した。その関係図面は東京都廰に備え置いて縦覧に供する。
 昭和二十二年十一月二十六日
   戦災復興院総裁 阿部美樹志
(後略)

(2)埋立て開始
ところが、当時は財政難で、すぐに費用を捻出できなかったため、実際に埋立て工事が始まったのは1949(昭和24)年以降である。(東京都公報、『東京都戦災誌』)

東京都告示第六号
 公有水面の埋立を昭和二十四年十二月二十三日次の通り免許した。
   昭和二十五年一月七日
          東京都〔知事〕 安井〔誠〕一郎
        記
 一、起業者 東京都
 一、埋立の場所
  東京都墨田区千歳町二丁目竪川分岐点から
  同  江東区常盤町二丁目細川橋下流六・八米まで
  六間堀川水面
 一、埋立の面積 二千九百八十八坪二合一勺
 一、埋立の目的 道路敷地及宅地造成
 一、工事竣功期限 昭和二十五年九月三十日まで

1950(昭和25)年1月7日東京都公報第565号3頁より引用
〔 〕は引用者による脱字の補入

着工日に関する細かい議論(クリックで展開/折りたたみ)


(3)埋立て完了
当初、工事完了は、1950(昭和25)年9月末の予定だったが、「諸事情」により工事が長引き、同年12月末まで工期が延長された。(同年9月15日建河発第503号、同年10月2日建河収第1570号、同年10月10日東京都告示第813号)
その後、ようやく工事が終わって、1950(昭和25)12月27日付で竣功認可の申請があり、翌1951(昭和26)年3月20日付で竣功認可が行われた。(1950(昭和25)年12月27日建河発第116号の4、1951(昭和26)年3月20日建河収第287号)

したがって、『江東區史 全』にある「昭和二十六年三月埋めたてられた」という記述や、『図説 江戸・東京の川と水辺の事典』の「同〔昭和〕二十六年三月に工事が完了している」という記述は、竣功認可をもって、工事完了と捉えたということであろう。
しかし、上記のように現場レベルでは、すでに1950(昭和25)年の暮れには工事が完了していたとみられる。『平成六年度 平成七年度 江東区民俗調査報告書―深川北部総合民俗調査―』掲載の「〔昭和〕二五年に完了した」という地元の古老の話は、この意味で実態を正確に掴んだものではないかと考えられる。
なお、『東京都戦災誌』の灰燼処理に関する箇所は、その内容から1951(昭和26)年8月以降に執筆したものであると考えられ、執筆時点ですでに六間堀の埋立て工事は「竣功認可」を受けているはずである。にもかかわらず、同書内の一覧表にある「竣工日」を示す欄は空白になっているのである。この理由について断言することはできないが、『東京都戦災誌』は正確性に欠ける点が多く、本件についても単に書き忘れた(または最新の資料を集めずに執筆した)ものであると考えた方が自然であろう。この空欄は、工事未完了を意味しているわけではないと思われる。

(4)埋立てに使った灰燼かいじん
六間堀の埋立てには、戦災灰燼が使われた。 →往時の様子の項に関連内容
灰燼は、墨田区や江東区など近隣から運ばれたのではないかと推測される。
この灰燼の出どころについて、2012年放送のブラタモリ「江戸の運河(前編)」では、より詳しく、「昭和24年から昭和27年に出た墨田区のガレキの6割が六間堀を埋めることで処理された」と解説している([図10]参照)。
しかし、これは誤りである可能性が極めて高い。

[図10]ブラタモリ「江戸の運河(前編)」より

ガレキに関する細かい議論(クリックで展開/折りたたみ)


(5)埋立て完了後の様子
六間堀はこの工事でほとんど埋立てられたが、小名木川に接続する南端部分だけは辛うじて生き残った。(『隅田川とその両岸(中巻)』)
[写真b]の赤で囲ったところが六間堀南端部分である。

[写真b]1957(昭和32)年3月29日の六間堀南端(国土地理院提供の航空写真を編集)

埋立て完了から5年ほど経った北ノ橋跡の写真を見ると、まだ瓦礫がむき出しになっている様子が分かる。→1955(昭和30)年頃の北ノ橋の写真

ここでこぼれ話を一つ。六間堀跡の北半分は、堀の中央部に下水敷が通っている。このように真ん中に下水敷を通すという設計は、初めから計画されていたわけではなかったそうだ。
当時の行政文書を読むと、当初は東側護岸に沿って幅1.5mの下水敷を造ろうとしていたようなのだが、それだと下水管の口径の都合で上手くいかないということが後で分かり、幅2mの下水敷を堀の中央部に造ることになったらしい。(1949(昭和24)年11月2日整土発第328号)
下水敷の幅を広くするのは理解できるが、なぜ中央部に変更したのだろうか。大きな口径の下水管を護岸が近接する位置に埋設するのが、技術的に困難だったということだろうか。あるいは、将来、下水の需要が増加し、口径を大きくしなければならないという事態を予め想定して、比較的自由がきく中央部を選んだということだろうか。真相は藪の中である。


第2次埋立て 1957(昭和32)年〜1959(昭和34)年頃か

埋立て免許取得日不明
埋立て工事開始日不明
竣工認可の申請日不明
竣工認可された日不明

ついに南端部分も埋立てられ、六間堀の水面は全て消えた。
新しく造成された土地は、1961(昭和36)年に完成した新小名木川水門(『河川部三十年のあゆみ』、『建設局事業概要1961』、『建設局事業概要1962』)の監視所敷地として今も使用されている([写真c]参照)。
なお、第2次埋立て工事については、当時の公文書が見つかっておらず、正確な時期は明らかになっていない。ただし、当時の航空写真や、水門建設工事の時期から、おおよその年を絞ることはできる。

[写真c]1963(昭和38)年6月26日の六間堀南端(国土地理院提供の航空写真を編集)

名残・遺構 六間堀児童遊園(墨田区千歳3-1-1)

六間堀から五間堀が分岐するあたりに設置されたミニ公園(351.30屐法1959(昭和34)年4月1日開園。
「児童遊園」と名乗っているが、児童が遊んでいることは稀で、普段は仕事や人生に疲れた大人たちの休憩スペースになっている(※個人の感想です)。
ちなみに、この公園は、墨田区・江東区にまたがって存在している。しかし、両区が共同で管理しているわけではなく、墨田区が単独で管理している。
また、近くにある五間堀公園内にも両区の境界が通っているが、こちらは江東区が単独で管理している。
同様に五間堀跡地にある菊一児童遊園も区境上にあるが、こちらは墨田区が管理しており、その隣にあるトイレ江東区が管理している。
両区は、どこかの区と違って、持ちつ持たれつ、上手くやっているようだ。
ただ、かつてはそうでなかったらしく、昭和の初め頃、まだ墨田区・江東区が誕生する前の、本所区・深川区時代には、両区の間に「領土紛争」があったという。(『斉藤堀』)

六間堀児童遊園
[写真d]六間堀児童遊園(2017(平成29)年撮影)


千歳三丁目西(六間堀跡)停留所(墨田区千歳3-15-6付近)

2012(平成24)年に開業した墨田区内循環バスの停留所。六間堀のかなり上流部分にある。
六間堀の名がバス停に刻まれ、本所・深川の旧水路ファンは歓喜したとか、しなかったとか。
バス停の目の前には、2016(平成28)年11月まで山崎製パン株式会社の中央研究所があった。不思議なことに、翌年になってもここを通るとパンのいい香りがした。
研究所の建物は2018(平成30)年に解体された。

[写真e]千歳三丁目西(六間堀跡)停留所(2017(平成29)年撮影)


六間堀東側護岸

家と家の間に残る六間堀の護岸。六間堀児童遊園の近くにある。
[写真f]の真ん中が護岸で、その左が六間堀の水路だった部分。現在は家が建っている。
写真では分かりにくいが、護岸を境に右側の土地が低くなっている。この護岸は、土留めの役割を担っており、そのため、現在まで破壊・撤去を免れたのだと思われる。
六間堀の東側護岸としては最も保存状態が良く、本所の旧水路全体で見てもトップレベルの貴重な遺構である。

[写真f]六間堀東側護岸(2017(平成29)年撮影)

小説の舞台 ◆池波正太郎 鬼平犯科帳シリーズ

第7巻 第6話「寒月六間堀」⭗
第7巻 第7話「盗賊婚礼」△
第8巻 第1話「用心棒」△
第10巻 第7話「お熊と茂平」△
第16巻 第2話「網虫のお吉」△


※鬼平犯科帳はマンガ化もされた(画:さいとう・たかを)。

ワイド版第22巻「寒月六間堀」⭗

◆藤沢周平 獄医立花登手控えシリーズ

第3巻『愛憎の檻』第3話「みな殺し」⭗
第4巻『人間の檻』第1話「戻ってきた罪」⭗
第4巻『人間の檻』第3話「待ち伏せ」⭗
第4巻『人間の檻』第4話「影の男」⭗
第4巻『人間の檻』第5話「女の部屋」⭗
第4巻『人間の檻』第6話「別れゆく季節」⭗


◆藤沢周平 彫師伊之助捕物覚えシリーズ

第1巻『消えた女』第1話「かんざし」⭗
第1巻『消えた女』第2話「やくざ者」⭗
第1巻『消えた女』第3話「ながれ星」○
第1巻『消えた女』第7話「闇に跳ぶ」○
第2巻『漆黒の霧の中で』第1章△
第2巻『漆黒の霧の中で』第3章○
第2巻『漆黒の霧の中で』第4章⭗
第3巻『ささやく河』第2話「古いつながり」△
第3巻『ささやく河』第3話「彦三郎の笑い」⭗
第3巻『ささやく河』第6話「ひとすじの光」⭗


◆藤沢周平 用心棒日月抄シリーズ

第2巻『孤剣』第6話「凩の用心棒」⭗


◆藤沢周平「唆す」⭗ 同『冤罪』所収


佐伯泰英 居眠り磐音江戸双紙シリーズ

主人公が六間堀近くで暮らす時期があるため、よく描写される。


※居眠り磐音は映画化された(主演:松坂桃李)。



◆宮部みゆき「時雨鬼」○ 同『あやし』所収

◆稲葉稔 剣客船頭シリーズ

第17巻『涙の万年橋』第1章「伊達男」⭗
第17巻『涙の万年橋』第2章「家人」⭗
第17巻『涙の万年橋』第3章「岡っ引き」⭗
第17巻『涙の万年橋』第4章「後添い」⭗
第17巻『涙の万年橋』第5章「浅草奥山」⭗
第17巻『涙の万年橋』第6章「簪」⭗
第17巻『涙の万年橋』第7章「決着」⭗


◆笹沢左保 音なし源捕物帳シリーズ

第1巻『花嫁狂乱』第7話「花嫁狂乱」⭗


◆聖龍人 盗っ人次郎八事件帖シリーズ

第2巻『みだれ月』第2話「六間堀」⭗


◆洒落本

金金先生『当世気とり草』△(リンク先:早稲田大学図書館古典籍総合データベース)
リンク先の右ページ3行目に「六間堀」とある。


※記号の意味

⭗ 話の本筋の中で水路名が出てくる
○ 水路名は出てこないが、間接的に描写されている(例:橋梁名が登場)
△ 本筋以外で水路名がちらっと登場、水路名を含む町名が登場(例:六間堀町)

参考文献等 ◆江戸幕府・東京府・東京市・東京都

『町方書上 七』(江戸東京博物館友の会、2013年)342頁
『町方書上 八』(江戸東京博物館友の会、2014年)1, 110, 111頁
『東京府誌 10』(文化図書、2009年)171, 175, 181, 186, 189, 208, 212, 215頁
東京都『東京府志料 1』(東京都、1959年)55-56頁
東京市編『東京案内 上巻』(東京市、1907年)43頁
復興調査協會編『帝都復興史 第貳巻』(興文堂書院、1930年)1801-1807頁
復興事務局『帝都復興事業誌 土木篇 下巻』(復興事務局、1931年)5頁
東京市役所『帝都復興區劃整理誌 第三編 各説第四巻』(東京市役所、1932年)516頁
東京都編『東京都戦災誌』(東京都、1953年)536-537、539-540頁 ※復刻版
東京都建設局『建設のあゆみ』(東京都建設局、1953年)206, 212頁
東京都編『都政十年史』(東京都、1954年)282頁
東京都建設局編『建設局事業概要1961』(東京都建設局、1961年)63頁
東京都建設局編『建設局事業概要1962』(東京都建設局、1962年)63頁
建設局河川部『都市計画河川一覧表』(建設局河川部、1972年)114-115頁
河川部30周年記念事業実行委員会編『河川部三十年のあゆみ』(河川部30周年記念事業実行委員会、1982年)7頁


◆墨田区

東京都墨田区役所編『墨田区史』(東京都墨田区役所、1959年)222, 226, 1005-1006頁
墨田区役所編『墨田区史 前史』(墨田区役所、1978年)322頁
墨田区役所編『墨田区史 上』(墨田区役所、1979年)184-188頁
墨田区役所企画部広報課編『墨田誌考 上』(墨田区役所、1975年)38頁
記念誌編さん委員会編『墨田区立両国小学校創立95周年記念誌 本所の四季』(墨田区立両国小学校、1970年)106頁
孝親会『われわれの本所両国』(坂本政彌、2001年)166頁
大金誠之助「六間堀は命の川」墨田区立両国小学校昭和14年度卒業生(江ひがし会)『あの日 あの時 あの思い出 東京大空襲の日』(墨田区立両国小学校昭和14年度卒業生(江ひがし会)、2005年)3-4頁


◆江東区

東京都江東区役所『江東區史 全』(東京都江東区役所、1957年)1286頁
『江東区の歴史』(江東区教育委員会社会教育課、1976年)25頁
『古老が語る江東区の町並みと人々の暮らし<上>』(東京都江東区総務部広報課、1987年)58頁
東京都江東区教育委員会社会教育課編『江東区の文化財 史跡』(東京都江東区教育委員会社会教育課、1988年)33頁
江東区民俗調査団『平成六年度 平成七年度 江東区民俗調査報告書―深川北部総合民俗調査―』(江東区教育委員会生涯学習部生涯学習課文化財係、1996年)6頁
江東区深川江戸資料館「江東の川・掘割 小名木川と五間堀・六間堀」資料館ノート69号(2007年)


◆その他

旧水路ラボ「六間堀はいつ誕生したか ―検証・万治開削説―」すみだ史談53号(2019年)3頁
旧水路ラボ「六間堀はいつ誕生したか ―追跡・六間堀『源流』―」すみだ史談54号(2019年)1-2頁
三島政行『葛西志 全』(国書刊行会、1971年)〈第1巻〉79-80,308-309頁
鈴木理生編『図説 江戸・東京の川と水辺の事典』(柏書房、2003年)259-260, 393頁
鈴木理生『江戸の都市計画』(三省堂、1988年)175-176頁
早乙女勝元『東京大空襲』(岩波新書、1971年)5頁
小山荻村ほか『本所の過去及び現在』(本所の過去及び現在社、1926年)79頁
細田隆善『江東区史跡散歩』(学生社、1992年)131頁
永井荷風「深川の散歩」野口冨士男編『荷風随筆集 (上)』(岩波文庫、1986年)199頁
永井壯吉『荷風全集 第17巻』(岩波書店、1994年)293頁もほぼ同じ) ※青空文庫
高梨輝憲『斉藤堀』(高梨輝憲、1966年)109頁
豊島寛彰『隅田川とその両岸(上巻)』(芳洲書院、1961年)210頁
豊島寛彰『隅田川とその両岸(中巻)』(芳洲書院、1962年)7頁
『補訂版 国書総目録 第7巻』(岩波書店、1990年)383頁
ブラタモリ「江戸の運河(前編)」(NHK総合、2012年2月16日(木)22:00〜)

関連文献等 ◆散策

吉村生「不思議な引力を持つ暗渠」東京人394号(2018年)50-51頁 →筆者のブログ記事
旧水路ラボ「六間堀は本所・深川の『姫』である」東京人430号(2020年)60-62頁
「すみだの大名屋敷 探訪」みらい259号(2016年)1頁
黒田涼『江戸東京狭隘路地探索 おれの細道』(アートダイジェスト、2015年)154-159頁


◆戦災灰燼処理(墨田区)

墨田区議会史編さん委員会編『墨田区議会史・通史編』(墨田区議会、1995年)168頁
墨田区議会史編さん委員会編『墨田区議会史・資料編』(墨田区議会、1995年)316頁


◆戦災灰燼処理(その他)

千代田区役所編『千代田区史 中巻』(千代田区役所、1960年)832-833頁
東京都中央区役所編『中央区史 下巻』(東京都中央区役所、1958年)404-406, 1168-1169頁
東京都中央区役所編『中央区三十年史 上巻』(東京都中央区役所、1980年)538-542頁
馬島繊悵属羸唇賚詐伝』(大学書房、1962年)157-162頁
越沢明『東京の都市計画』(岩波新書、1991年)234-235頁
石原成幸「東京における戦災復興と河川埋立に係る一考察」関東支部技術研究発表会講演概要集38巻(2011年)-36頁
太刀川宏志・大沢昌玄・岸井隆幸「戦災復興における瓦礫処理の実態」都市計画論文集49巻3号(2014年) 691頁
池田弥三郎ほか『東京の12章』(淡交新社、1963年)69頁
山本純美「江戸東京の川」矢田挿雲『新版 江戸から東京へ(五) 本所(下)』(中公文庫、1999年)397-412頁
盪咳冀法崑膾筺,靴澆犬澆函∫篝遏本田創ほか『はじめての暗渠散歩』(ちくま文庫、2017年)225頁


◆その他

菅原健二『川の地図辞典 江戸・東京/23区編〔三訂版〕』(之潮、2012年)128頁
「角川日本地名大辞典」編纂委員会編『角川日本地名大辞典13 東京都』(角川書店、1978年)761頁
高梨輝憲『小名木川物語』(高梨輝憲、1987年)52-53頁

【本所 旧水路名鑑】五間堀(ごけんぼり)

投稿日時 2018.01.21 16:07
最終更新 2021.05.27

水路の名称五間堀(ごけんぼり)
誤記の実例堀、五間
別名・俗称五間堀川

※上流の北西部分を「北五間堀川」、下流の南東部分を「五間堀川」と呼び分けるケースもある。

瓢簞堀(『東京府志料 1』)
川堀(『帝都復興區劃整理誌 第三編 各説 第四巻』)

※明治期に延長した南東部のことを指していたという。(『江東区の文化財1 深川北部』)
ただ、南東部に該当しない伊予橋(現・新大橋通り)付近を川堀と記している新聞記事もあり、断定はできない(東京朝日新聞1931(昭和6)年11月13日朝刊11面に「伊豫橋上から過って川堀に墜落」とある)。
 →南東部開削について
1936(昭和11)年3月16日亥河第8393號付属の深川區五間堀川堀住民一同による「陳情書」では、五間堀と川堀を併記しており、北西部と南東部で呼び分けていたことを窺わせる。
徳川堀の名は、五間堀南東部の開削を主導した尾張徳川家に由来していると思われる。この点に関する直接的な証拠はないが、「徳川堀」の名が登場する史料が、五間堀南東部の開削時期より後のものばかりであることが、間接的にそれを裏付ける。

他方、田安徳川家が堀の近くにあったことから、徳川堀と呼ばれたのだろうとみる説もある。(『小名木川物語』)
しかし、[図1]からも分かるように、五間堀と田安徳川家は隣接していたわけではなく、徳川堀の名の由来を田安徳川家に求めるのは、やや不自然にも思える。

[図1]五間堀と田安徳川家の位置関係(国立国会図書館提供

弥勒寺橋ノ堀(『東京府志料 3』)
彌勒寺川(『十一時五十八分 懸賞震災實話集』)
伊豫川(『悲凄慘絶 大震大火遭難哀話』)
五間川(『本所區史』、『東京案内 上巻』、『東京案内 下巻』、『本所の過去及び現在』、『水上生活者の生活現状』)

※「五間川は、五間堀の別名である」とはっきり述べる文献を見たことがなく、もしかすると単なる誤記で、「五間堀」とすべきところを「五間川」にしてしまっただけなのかもしれない。しかしながら、(1)「堀」という字を筆で書いたり、その活字を組んだり、あるいはタイプしたりする際に、うっかり誤って「掘」としてしまうことはあっても、「川」になることはそうそうないと考えられること(「五間堀川」とすべきところが脱字で「五間川」になるという方がまだあり得そうだが、それにしてもそう頻繁に起こることではないだろう)、(2)それにもかかわらず「五間川」と表記する史料がいくつもあること、(3)付近を流れる竪川や横川には「竪堀」「横堀」という別名があり、「川」と「堀」は置換可能な場合があること(『増補 東京市下水道沿革誌』も参照)、(4)周辺には十間川(横十間川)や二十間川(仙台堀川)などがあり、「〇〇間川」という呼称が珍しいものではないことから、「五間川」という別名が存在していた可能性は十分あると思われる。以上から、現時点では「別名・俗称」の欄に入れている。

水路の位置墨田区千歳3-1(北西端)

〜江東区森下3-13(南東端)


[写真a]1936(昭和11)年6月11日の五間堀(国土地理院提供の航空写真を編集)
本所両国 痕跡地図も参照

同名別水路五間堀川(宮城県岩沼市、同県名取市、同県柴田郡柴田町)

阿武隈川水系に属する現役の一級河川。
長さ20,671m、流域面積91.1㎢。(「五間堀川圏域河川整備計画」)

水路の長さ約1,100m

『東京案内 上巻』には、591.7間 = 約1,076mとある。

水路の深さ明治初年:2尺余り〜9尺 = 60cm余り〜約273cm(『東京府誌 10』)
明治後半:1尺〜1尺5寸 = 約30〜45cm(『東京案内 上巻』)
昭和初年:約1尺2寸 = 約36cm(『帝都復興區劃整理誌 第三編 各説 第四巻』)
水路の幅員明治初年:5〜8間 = 約9.1〜14.5m(『東京府誌 10』)
明治後半:5.4間 = 約9.8m(『東京案内 上巻』)
昭和初年:5〜6間 = 約9.1〜10.9m(『帝都復興區劃整理誌 第三編 各説 第四巻』)
第1次埋立て後:平均17m(『江東地区恒久高潮対策事業計画書』)
名称の由来5間ほどの幅だったため(『東京府志料 1』)

※ただし、下流部を中心に、場所によって水路の幅はかなり異なる。

水路成立年万治年間(1658〜60年)、またはそれ以前(『江東区の文化財 史跡』)

明暦の大火(1657年)の後に行われた本所開拓の際に誕生したという説(万治年間説)と、それ以前から存在していたという説(慶長年間説)が存在する。

万治年間説を採るものとしては、『町方書上』の「本所起立記」の項、「本所林町壱町目横町」の項がある。ただし、「深川森下町」の項では、「堀割年代年旧儀ニ而相知れ不申候」とあり、「深川三間町」の項では、「堀割年代年旧儀ニ而書留無御座相分り不申候」とある。

また、両者を折衷して、深川村が成立した慶長年間に細い水路を開削し、本所開拓のときに五間になったという説もある。(『江東区史跡散歩』)
いずれにしても、一次史料に基づくものではないため、推測の域を出ない。

1671(寛文11)年発行の新板江戸外絵図には、五間堀と思しき水路が記されていることから、遅くともその頃には、誕生していたと考えられる。(『江東区の文化財 史跡』)

[図2]新板江戸外絵図に記された五間堀(国立国会図書館提供

支流・分流東森下町入堀(現・五間堀公園付近)、東元町入堀(現・高森公園付近)
接続した川上流部:六間堀
下流部:1876(明治9)年頃までは堀留(行き止まり)だったため、接続河川無し
    堀留解消後は、小名木川と接続(『文化財と旧跡』) →南東部開削について
橋梁の名称(西から)新山城橋(のち、大塚橋)、弥勒寺橋、大久保橋、伊予橋、とうげん橋、入舟橋

※東元橋の読み方は「大日本改正東京全圖」による。

水路の形状六間堀以上に折れ曲がっていた。
残念ながら、このような流路になった理由は明らかでない。

川沿いに多くの蔵を建てるために、川筋を屈曲させて長くしたのだろうか(例:深川佐賀町「中之堀」のクランク状流路)。
しかし、かりにそうだとしても、屈曲の謎とは別に、なぜ周囲の街路に対して斜めに流れているのかという謎もある(この点、中之堀は、街路に沿うように流れている)。
万治年間の本所開拓時に造成されたといわれる河川の多くは、碁盤の目状の街路に沿うように掘られている(例:竪川、大横川、横十間川、南割下水、北割下水)。五間堀が万治年間に開削されたのだとすると、あえて例外的に流路を斜めにする何らかの動機があったとみるのが自然であろう。それは何か。謎である(一説には、地質に関係があるとも)。
あるいは、万治年間より前から五間堀は存在していて、五間堀を開削した当時には、周辺一帯に広く整然とした街路を造るという構想が、まだなかったということなのかもしれない。本所開拓であとから街路が整備されたのだとすれば、川筋と街路の方向がズレていても、それほど不思議なことではない。

往時の様子◆何に使われた?
灌漑・水運に利用された(『江東区の歴史』)という。

しかし、五間堀は海に近く、その水にはかなり高濃度の塩分が含まれていたと考えられる。はたして、そのような水を灌漑に用いるだろうか。
【参考】小澁晴信ほか「都市河川感潮域における塩水の遡上特性に関する現地観測」(2008年)


小名木川の水運の補助的機能を担い、船舶の繋留や修理をする場所として使われていたのではないかとする見解もある。(「江東の川・掘割 小名木川と五間堀・六間堀」)

下の[図3]は、江戸時代後期に描かれたものである。これを見ると、何艘もの船が五間堀を行き交っており、水運の利用が活発であったことを示唆している。右端には弥勒寺橋も見える。

[図3]「本所弥勒寺」(『江戸名所図会』所収、国立国会図書館提供

◆五間堀南東部は?
江戸時代を通じて、南東部は堀留になっていた。
南東部を小名木川と繋げる五間堀延伸工事は、1875(明治8)年7月26日以降に始まったと考えられる。(『史跡ガイド1969』参照)
付近の地主だった尾張徳川家(徳川よしのり、徳川慶勝)及び加藤嘉庸が私費で工事を実施し、遅くとも1877(明治10)年3月までに小名木川と接続した。(『東京市史稿 市街篇 第六十』)
※延伸工事を裏付ける史料 →明治十年 既決簿 市街地理第六号

この工事によって、既存水路と新規水路が鋭角に接続された。しかし、申請段階では、既存の流路を変更することによって、鋭角に接続することを避ける計画になっていた。いつ、どうしてこの計画が変更されたのか。金銭的・技術的な制約が発生したのか、工期を短縮する必要が生じたのか、水路の利用目的や利用方法が変わったのか。この点については今後明らかにしていきたい。


◆水質はどうだった?
永井荷風は、1932(昭和7)年に、六間堀と五間堀を散策し、五間堀下流の様子を「市内の掘割にて最不潔なるはこの処なるべし」と述べている(『断腸亭日乗 3』。1934(昭和9)年執筆の「深川の散歩」も参照)。
水運としての役割が低下し(『江東区の歴史』)、生活排水や工場排水が流されるようになったのではなかろうか。
これを裏付ける資料として、1934(昭和9)年に提出された、五間堀の埋立てを求める住民による陳情書がある。これによると、当時の五間堀は糞尿運搬以外にほとんど全く利用されておらず、堀の内部はゴミや汚物で満たされ、夏の炎天下のときには臭いがきつかったらしい。また、夕方から夜にかけては蚊の大群に四苦八苦し、しまいには転居すると言い出す者もいるから早急に埋立ててほしい、といったことも書かれている。(1936(昭和11)年3月16日亥河第8393號付属の深川區五間堀川堀住民一同による「陳情書」)
貨物取扱量1921(大正10)年:35,619t(『帝都復興事業誌 土木篇 下巻』)
埋立て実施 第1次埋立て 1936(昭和11)年5月16日〜1937(昭和12)年12月30日

1936(昭和11)年3月19日、宅地・道路・物揚場等を造成するため、東京市が河川敷9,936.9屬遼篶免許を取得した。(1936(昭和11)年3月24日東京府告示189号)
工事は直ちに開始されたとするものもあるが(『江東區史 全』)、当時の行政文書によれば、工事着手は同年5月16日である。(同年5月22日土發第4838號)
荷風の日記には、1936(昭和11)年12月25日時点で「伊予橋下…の一部埋立中」という記述があり、工事が進行している様子が分かる。(『断腸亭日乗 4』)
この工事は、1937(昭和12)年12月30日まで行われ(1938(昭和13)年6月13日土發第4838號)、明治になってから開削した南部を除き、全て埋め立てられた。
※五間堀について記述した二次史料の多くは、「1936(昭和11)年に埋立てられた」などのように、あたかも埋立て許可が出た年に埋立て工事が完了したかのような記述になっている。このような誤解を招く表現をしないよう、書き手は免許取得日・工事開始日・工事完了日・竣功認可日の違いを意識化すべきである。読み手としても、誤った認識をもたないよう、この点には特に注意して読む必要がある。

[写真b]1948年3月29日の五間堀南部(国土地理院提供の航空写真を編集)


第2次埋立て 1955〜56(昭和30〜31)年、または1956(昭和31)年

1955(昭和30)年12月22日、埋立て免許が東京都に、翌年3月31日までの期限で与えられた(1956(昭和31)年1月5日東京都告示第7号)。免許が出たのは年の瀬であることから、本格的な工事が始まったのは、1956(昭和31)年になってからである可能性が高い。
このときは、残っていた五間堀南部のうち、上流部分が埋立てられた。
現在、その跡地にあるのは、都営高橋アパート(1957(昭和32)年着工、1958(昭和33)年11月7日竣工)と、森下三丁目第三児童遊園(1975(昭和50)年4月1日開園、222.52屐法
[写真c]の青で囲ったところが高橋アパートである。このアパートの裏手(西側)には、今も五間堀の護岸が残されている。 →写真

[写真c]1975(昭和50)年1月20日の五間堀南部(国土地理院提供の航空写真を編集)


[写真d]北東方向から見た都営高橋アパート(2017(平成29)年撮影)

五間堀南部の下流部分(最南部)は、なおも埋め残されて、そばにあった製材所の貯木場等として利用されていたようである([写真c]の赤で囲ったところが五間堀最南部。水面上や、その左手に木材らしき影も見える)。


第3次埋立て 1979(昭和54)年8月3日以降〜10月15日

最後まで残っていた五間堀最南部も、ついに消え去る時がくる。
1979年3月に小名木川との接続部分が閉鎖され(『東京都河川図』)、その年のうちに埋め立てられた(1979(昭和54)年1月26日東京都告示第99号、同年8月16日東京都告示第912号、1980(昭和55)年4月30日東京都告示第490号)。
[写真e]は第3次埋立てが完了した直後の様子である(赤で囲ったところが五間堀最南部)。
現在、この最南部の跡地には高森公園があり(1982(昭和57)年10月6日開園、約3,700屐法∨摸戮凌慌嫉庵目第三児童遊園とともに一体的に整備されている。
つまり、現在の五間堀南部は、北から、高橋アパート → 高橋夜店通り(高橋のらくろ〜ド)の一部 → 森下三丁目第三児童遊園 → 高森公園の一部になっている。

[写真e]1979(昭和54)年11月6日の五間堀南部(国土地理院提供の航空写真を編集)


[写真f]森下三丁目第三児童遊園から南の高森公園を望む(2018(平成30)年撮影)

名残・遺構五間堀公園(江東区森下2-30-7)

弥勒寺橋跡と大久保橋跡の間に造られた細長い公園(862.71屐法3園したのは、真珠湾攻撃のちょうど2か月後の1942(昭和17)年2月8日。1950(昭和25)年9月末までは都立公園だったが、同年10月1日に江東区に移管された。(『江東区年表』、『江東区史 下巻』)
この公園の中に墨田区と江東区の境界が通っている。公園の半分以上は墨田区内にあるが、管理は江東区が行っている。 →六間堀児童遊園の項に関連内容

[写真g]五間堀公園(2017(平成29)年撮影)


伊予橋際公衆便所(江東区森下2-31-2)

現在の新大橋通りが五間堀とぶつかるところに架かっていたのが伊予橋。そのたもとあたりに年季の入った公衆トイレがある。正式名称は「江東区立伊予橋際公衆便所」(江東区立公衆便所条例昭和28年6月29日条例第8号別表参照)。すでに橋は存在しないが、橋の名はトイレの名称として保存されている。
[写真h]は、かつての伊予橋や五間堀周辺の様子が描かれた、トイレの目隠し。江東区の公衆トイレには、その地にゆかりのある事物の絵や解説のある楽しいものが多い。ただし、トイレをパシャパシャ撮っていると、変な目で見られることがあるかもしれないので、注意が必要。

[写真h]伊予橋際公衆便所の目隠し(2017(平成29)年撮影)


五間堀南部の護岸群(江東区森下3-10-20、同3-13-9)

高橋アパートと、高森公園には五間堀の護岸が残っている。
土留めとしての利用価値を見出され、今日まで生き残ったのだろう。
高橋アパートの護岸は、歩道から少し距離があるものの、[写真i]のような姿を見ることができる。

[写真i]高橋アパートの裏手にある五間堀南部西側護岸(2017(平成29)年撮影)

高森公園の南西際には、わずか数mだけだが、五間堀最南部の護岸が残っている。
[写真j]の正面奥、灌木が生えているあたりから左手(東)が、ありし日の水面。
この護岸は、写真の先で右手(西)に曲がっていて、小名木川の旧北側護岸と現在もつながっている。河川接続部の遺構が残っているのは、旧水路ファンとしては嬉しい限り。

[写真j]高森公園にある五間堀最南部西側護岸(2017(平成29)年撮影)

高森公園の南東際にも、五間堀・小名木川接続部分の護岸らしきものが、わずかに顔を出している([写真k]の矢印)。写真は南を向いて五間堀最南部の東側を撮ったもの。白いコンクリートの右側が、かつて五間堀の水面があったであろう部分。この写真の左手には小名木川の旧北側護岸が続いている。

[写真k]高森公園にある五間堀最南部東側(2018(平成30)年撮影)

小説の舞台 ◆芥川龍之介「奇怪な再会」○ 芥川龍之介全集 第7巻所収 ※青空文庫

作品のクライマックスで、弥勒寺橋が、「亡くなった者と生きている者を結び付ける、生と死の境界のような橋」(神田由美子氏の講演録より。『芥川龍之介―こころのふるさとは本所両国―』所収)として登場する。


◆池波正太郎 鬼平犯科帳シリーズ

弥勒寺門前の茶店「笹や」(お熊婆さん)が登場する話には、近くの五間堀もよく出てくる。
第6巻 第6話「盗賊人相書」⭗
第7巻 第6話「寒月六間堀」⭗
第8巻 第1話「用心棒」○
第9巻 第1話「雨引の文五郎」○
第10巻 第2話「蛙の長助」⭗
第10巻 第7話「お熊と茂平」⭗
第20巻 第7話「寺尾の治兵衛」⭗


◆藤沢周平 獄医立花登手控えシリーズ

第4巻『人間の檻』第4話「影の男」⭗
第4巻『人間の檻』第6話「別れゆく季節」○


◆藤沢周平 彫師伊之助捕物覚えシリーズ

主人公 伊之助の職場が五間堀近くにあるため、よく描写される。
第1巻『消えた女』第1話「かんざし」⭗
第1巻『消えた女』第2話「やくざ者」⭗
第1巻『消えた女』第4話「離れの客」○
第1巻『消えた女』第7話「闇に跳ぶ」⭗
第1巻『消えた女』第9話「春のひかり」⭗
第2巻『漆黒の霧の中で』第1章○
第2巻『漆黒の霧の中で』第2章⭗
第2巻『漆黒の霧の中で』第3章⭗
第2巻『漆黒の霧の中で』第4章⭗
第3巻『ささやく河』第2話「古いつながり」○
第3巻『ささやく河』第3話「彦三郎の笑い」○
第3巻『ささやく河』第5話「霧の中」○
第3巻『ささやく河』第6話「ひとすじの光」⭗
第3巻『ささやく河』第8話「再び闇の匕首」○
第3巻『ささやく河』第10話「ひとの行方」⭗
第3巻『ささやく河』第11話「浮かんだ顔」⭗
第3巻『ささやく河』第12話「人間の闇」⭗
第3巻『ささやく河』第14話「三人目の夜」⭗


◆笹沢左保 音なし源捕物帳シリーズ

第1巻『花嫁狂乱』第7話「花嫁狂乱」⭗


※記号の意味

⭗ 話の本筋の中で水路名が出てくる
○ 水路名は出てこないが、間接的に描写されている(例:橋梁名が登場)
△ 本筋以外で水路名がちらっと登場、水路名を含む町名が登場(例:六間堀町)

参考文献等 ◆江戸幕府・東京府・東京市・東京都

『町方書上 七』(江戸東京博物館友の会、2013年)356, 357頁
『町方書上 八』(江戸東京博物館友の会、2014年)1, 113頁
東京都編『東京市史稿 市街篇 第六十』(東京都、1969年)394-398頁
『東京府誌 10』(文化図書、2009年)181, 220, 224, 244, 249, 254頁
東京都『東京府志料 1』(東京都、1959年)56頁
東京都『東京府志料 3』(東京都、1960年)134頁, 139頁
東京市編『東京案内 上巻』(裳華房、1907年)43頁、50頁
東京市編『東京案内 下巻』(裳華房、1907年)624頁713頁

東京市下水改良事務所総務課『増補 東京市下水道沿革誌』(東京市下水改良事務所総務課、1914年)32頁 口語訳版(東京都下水道サービス、2012年)20頁
復興事務局『帝都復興事業誌 土木篇 下巻』(復興事務局、1931年)5頁
東京市役所『帝都復興區劃整理誌 第三編 各説第四巻』(東京市役所、1932年)516頁
東京府学務部社会課『水上生活者の生活現状』(東京府学務部社会課、1933年)冒頭の地図
東京都『江東地区恒久高潮対策事業計画書』(東京都、1955年)3頁
東京水上警察署『東京都河川図』(東京水上警察署、1979年)64頁


◆墨田区

東京市本所區編『本所區史』(東京市本所區、1931年)400頁
墨田区役所編『墨田区史 前史』(墨田区役所、1978年)322頁
墨田区教育委員会事務局生涯学習課文化財担当編『芥川龍之介―こころのふるさとは本所両国―』(墨田区教育委員会事務局生涯学習課文化財担当、2013年)84頁


◆江東区

東京都江東区役所『江東區史 全』(東京都江東区役所、1957年)1292-1293頁
東京都江東区役所編『江東区年表』(東京都江東区役所、1969年)245, 274頁
江東区編『江東区史 下巻』(江東区、1997年)62頁
『江東区の歴史』(江東区教育委員会社会教育課、1976年)25頁
東京都江東区『史跡ガイド1969』(江東区役所企画室、1969年)122-123頁
江東区教育委員会『文化財と旧跡』(江東区教育委員会社会教育課、1978年)20頁
東京都江東区教育委員会社会教育課編『江東区の文化財 史跡』(東京都江東区教育委員会社会教育課、1988年)35頁
江東区地域振興部文化観光課文化財係編『江東区の文化財1 深川北部』(江東区地域振興部文化観光課文化財係、2012年)23頁
江東区深川江戸資料館「江東の川・掘割 小名木川と五間堀・六間堀」資料館ノート69号(2007年)


◆その他

「大日本改正東京全圖」(『明治初期東京地籍圖集成』(科学書院、2002年)所収)
震災共同基金會編『十一時五十八分 懸賞震災實話集』(東京朝日新聞社、1930年)1-2頁
古麪i曲圈愴畧慘絶 大震大火遭難哀話』(二松堂書店、1923年)102頁
小山荻村ほか『本所の過去及び現在』(本所の過去及び現在社、1926年)83頁
永井壯吉『断腸亭日乗 3』(岩波書店、1980年)113-114頁
永井壯吉『荷風全集 第22巻』(岩波書店、1993年)502-503頁も同じ)
永井壯吉『断腸亭日乗 4』(岩波書店、1980年)120頁
永井壯吉『荷風全集 第23巻』(岩波書店、1993年)490頁も同じ)
永井荷風「深川の散歩」野口冨士男編『荷風随筆集 (上)』(岩波文庫、1986年)199-200頁
永井壯吉『荷風全集 第17巻』(岩波書店、1994年)294頁もほぼ同じ) ※青空文庫
細田隆善『江東区史跡散歩』(学生社、1992年)131頁
高梨輝憲『小名木川物語』(高梨輝憲、1987年)55頁
宮城県「五間堀川圏域河川整備計画」(2014年)1頁

関連文献等 ◆散策

吉村生「不思議な引力を持つ暗渠」東京人394号(2018年)50-51頁 →筆者のブログ記事
旧水路ラボ「六間堀は本所・深川の『姫』である」東京人430号(2020年)60-62頁
「すみだの大名屋敷 探訪」みらい259号(2016年)1頁
黒田涼『江戸東京狭隘路地探索 おれの細道』(アートダイジェスト、2015年)157-159頁
モリナガ・ヨウ「江戸東京今昔めぐり 小名木川」本郷144号(2019年)20-21頁


◆散策(小説)

野口冨士男『野口冨士男自選小説全集 上巻』(河出書房新社、1991年)416-417頁


◆その他

鈴木理生編『図説 江戸・東京の川と水辺の事典』(柏書房、2003年)393頁
菅原健二『川の地図辞典 江戸・東京/23区編〔三訂版〕』(之潮、2012年)128-129頁
「角川日本地名大辞典」編纂委員会編『角川日本地名大辞典13 東京都』(角川書店、1978年)288頁

【戦前】六間堀近辺の写真【千歳町二丁目】

国会図書館で『町会要覧』(千歳町二丁目町会、1933年)という文献を発見しました。

千歳町二丁目は、六間堀沿いにあった町です(現在の墨田区千歳二丁目全域と千歳三丁目のごく一部)
この文献には、六間堀自体を撮影したものはありませんでしたが、
昭和戦前の付近の街並みを撮った貴重な写真が3枚収録されていました。

竪川通りより見た千歳橋と国旗掲揚塔
[写真1]竪川通りより見た千歳橋と国旗掲揚塔(巻頭写真)

1枚目がこちらです。
千歳橋は、1929(昭和4)年7月に創架されたトラス橋です(震災復興橋)。
親柱の上には、背の高い灯具が立っていたようです。
空が広いですね。

写真左には国旗掲揚塔が見えます。
国旗掲揚塔は、町会単位で設置されることが多く、
しかも、わざわざキャプションに書いているくらいですから、
この掲揚塔は千歳町二丁目のものだと考えられます。


千歳橋2021年
[写真1']架け替えられた千歳橋(2021年(令和3))

千歳橋は、1981(昭和56)年に上部構造が架け替えられて、現在は鋼箱桁橋となっています。
また、千歳橋のたもとに掲揚塔は見当たりません。現存していないのではないかと思います。



山城橋より見た千歳町二丁目本通り商店街
[写真2]山城橋より見た千歳町二丁目本通り商店街(巻頭写真)

2枚目がこちらです。
左角の「和洋酒類」の看板が掲げられている店は、小槌屋酒店。
山白雪(日本酒の銘柄?)の特約店で、他に味噌、醤油、缶詰、ビン詰を取り扱っていたようです。
その奥の「毛皮」の文字は、永井商店。
毛皮や毛皮加工の請負だけでなく、洋傘の製造販売もしていたようです。
通りの反対側やや奥に見える「巴」の看板は、巴商会
「国栄号」「巴号」などの自転車の販売や、修理を業としていたようです。


千歳町二丁目本通り2021年
[写真2']様変わりした千歳町二丁目本通り(2021(令和3)年)

現在、この通りには商店が少なくなり、セブンイレブンがあるくらいです。
その代わり、住宅や会社が多くなっています。


巴ノ自転車
[写真a]六間堀と「巴ノ自転車」を竪川北岸から望む(1950(昭和25)年頃、カラー化)

ちなみに、六間堀の埋立て直前に撮影された、この文献とは別の写真に「自転車」という名が見えます。
六間堀沿いに巴商会の倉庫か何かがあったのかもしれません(情報募集中)。



汐時地蔵尊
[写真3]汐時地蔵尊(50頁)

3枚目がこちらです。
汐時地蔵は、町内にある要津寺というお寺に安置されているお地蔵さんです(損傷が激しいものの現存)。
江戸時代、六間堀の底に沈んでいたところを引き揚げられたといわれています。
このお地蔵さんは、満潮の時間になると表面が濡れ、干潮になると乾いて、
人々に「しおどき」を知らせたことから、「汐時地蔵」の名がついたという伝説があります。
咳の病に御利益があるということで、かつては、多くの参詣者がいたようです。

1930(昭和5)年には、要津寺門前の通りが六間堀とぶつかる所に新しく橋が架けられ、
汐時橋と命名されました。汐時橋も千歳橋同様、震災復興橋です。


2021年の汐時地蔵尊
[写真3']汐時地蔵尊(2021(令和3)年)

近年は、檀家でない限り、汐時地蔵の実物を見ることが不可能な状況が続いていましたが、
最近、境内の一角に台座つきのお堂と、由来を記す石碑が作られ、そこに安置されるようになりました。
ちなみに、こちらの汐時地蔵尊は、関東大震災後に作られた2代目です。


この『町会要覧』には、写真以外にも様々な情報が掲載されています。
関東大震災からの復興直後の街の様子が分かる貴重な史料です。
千歳の郷土史にご興味がある方には、面白い文献だと思います。

旧水路ラボとは?

江戸東京旧水路ラボ本所支部とは?

本所深川向島あたり(東京都墨田区・江東区)のを楽しむ団体です。
たまに、それ以外のものも楽しみます。

京島蛇道
現・墨田区京島三丁目の水路(京島蛇道)、1953(昭和28)年頃撮影


旧水路ラボとは?

江戸東京旧水路ラボ本所支部のメンバーの活動名(個人名)です。

団体として活動するときは「江戸東京旧水路ラボ本所支部」と名乗り、
個人として活動するときは「旧水路ラボ」と名乗っています。

普段は、水路の歴史痕跡調査執筆をしたり、
水路跡に関する講演発表ガイドを行ったり、
関連するトークイベント作品展示などの企画制作運営をしたりしています。

近年の活動内容こちらのページにまとめてあります。

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また、個人としては、すみだ史談会の幹事や、
すみだ景観フォーラムの実行委員を務めており、
地図ラーの会の会員でもあります。


近年の活動

ここ数年の主な活動内容のまとめです。
こうして振り返ると、多くの方々のお世話になってきたことが、改めてよく分かります。
皆さま、いつもありがとうございます!

【受賞】
2018.12.26すみだの魅力PR動画コンテスト2018 ナイスアングル賞
「となりのスイロ アト」


【講演・発表・ガイド】
2018.12.08地図だら
「痕跡 謎解き 本所區史」

@平井の本棚(主催:千葉・地図ラーの会)
地図だら発表スライド1地図だら発表スライド2
2019.02.17すみだ史談会 研究発表
「旧水路研究 六間堀編」

@八広地域プラザ 吾嬬の里 中会議室
史談会研究発表2019スライド1史談会研究発表2019スライド2
2019.03.16すみだ景観フォーラム シンポジウム
「これからのすみだの景観」

@すみだリバーサイドホール ミニシアター
景観フォーラムシンポジウム2019.3.16スライド1景観フォーラムシンポジウム2019.3.16スライド2
2019.09.15すみゆめプロジェクト企画
「みんなで作ろう 六間ロール」

@ブレーメンカフェ(共催:墨田区)

当ブログ告知
すみゆめ公式

みんなで作ろう 六間ロールチラシおもて
六間ロールスライド1六間ロールスライド2
2019.11.01第7回634サミット
「水都すみだの634」

@東京スカイツリータウン J:COM Wonder Studio
634サミット(旧水路ラボ)スライド1634サミット(旧水路ラボ)スライド2
2019.11.24すみゆめネットワーク企画
「『小名木川物語』上映会 失われた川の視点から」

@両国門天ホール

当ブログ告知
すみゆめ公式
映画『小名木川物語』公式サイト(告知)
映画『小名木川物語』公式サイト(報告)

小名木川物語スライド1小名木川物語スライド2
2019.12.12水の循環講座 すみだと世界をつなぐ水の大切な話 第4回
「都市と水」

@みどりコミュニティセンター、六間堀、新小名木川水門、扇橋閘門(主催:墨田区)

公式サイト

水の循環講座パネル水の循環講座スライド
2020.02.16すみだ史談会 研究発表
「間違いだらけの両国小学校史!?」

@すみだ生涯学習センター ユートリヤ 視聴覚室
間違いだらけの両国小学校史!
両国小学校は、芥川龍之介の母校ではなく、天皇が視察した事実もなく、創立から140年以上経つ学校でもないということを、多数の同時代史料をもとに論じました。
2020.11.15 アートプロジェクト「本と川と街」参加企画
公開制作「墨の記憶 〜堀・火焔・復興〜」(「堀の記憶」関連企画)

@深川ときわ荘 2階(制作:石井穂幸(いしい すいこう)さん)

詳細(facebook)
六間堀の墨(石井穂幸さん筆)
六間堀跡から出土した炭を、小名木川の水で溶いた墨を使った公開制作を行い、六間堀や出土した炭についての解説を担当しました。


【企画・制作・運営】
2019.07.07すみだ景観フォーラム 特別講座
「水都すみだの水のない水辺」

@墨田区役所 13階131会議室(講師:吉村生さん、盪咳冀砲気鵝

盪海気鵑離屮蹈

景観フォーラム2019特別講座チラシおもて
2019.09.01
-09.30
すみゆめプロジェクト企画
「すぐそこにあった不思議な水路 六間堀ものがたり展」

@ブレーメンカフェ(共催:墨田区)

すみゆめ公式

すぐそこにあった不思議な水路 六間堀ものがたり展告知画像すぐそこにあった不思議な水路 六間堀ものがたり展告知画像v2
2019.09.29すみだ史談会 講演会
「すみだ暗渠マニアック!」

@すみだ生涯学習センター ユートリヤ 視聴覚室(講師:吉村生さん、盪咳冀砲気鵝
2019.11.23すみだ景観フォーラム まちあるき
「すみだ暗渠めぐり 〜ちょっと昔の水辺を歩く〜」

@すみだリバーサイドホール 会議室、曳舟川、京島蛇道、大横川(講師:吉村生さん)
景観フォーラム2019まちあるき1景観フォーラム2019まちあるき2
2020.01.21すみだ史談会 公式WEB開設
すみだ史談会公式WEBトップ
2020.10.31
-11.29
アートプロジェクト「本と川と街」参加企画
作品展示「堀の記憶」

@深川ときわ荘 1階

詳細(facebook)
公式レビュー

堀の記憶 開催期間延長版
2020.11.07すみだ景観フォーラム 特別講座
「すみだの”へり”を味わう」

@墨田区役所 13階131会議室(講師:吉村生さん、盪咳冀砲気鵝

盪海気鵑離屮蹈
すみだ景観フォーラム特別講座 すみだの“へり”を味わう


【雑誌記事】
2019.04.01すみだ史談53号(2019年4月)
「六間堀はいつ誕生したか ―検証・万治開削説―」

すみだ史談53号3頁
2019.10.01すみだ史談54号(2019年10月)
「六間堀はいつ誕生したか ―追跡・六間堀『源流』―」

すみだ史談54号2頁すみだ史談54号1頁
2020.04.24すみだ史談55号(2020年4月)
「間違いだらけの両国小学校史!? (1)」

すみだ史談55号4頁
2020.09.03東京人430号(2020年10月号)
「六間堀は本所・深川の『姫』である」

東京人430号(2020年10月号)表紙東京人430号(2020年10月号)目次

【パブリック・コメント】
2019.01.06墨田区都市計画マスタープラン(改定素案)に対する意見
墨田区都市計画マスタープラン(改定素案)に対する意見

墨田区都市計画課「パブリック・コメントの実施結果について」
パブリック・コメントの実施結果について


墨田区都市計画マスタープランが改定されることになり、区がパブリック・コメントを募集していたので、「『水路あと』が織りなす風景も墨田区の景観資源に十分なり得る」という意見を提出しました。この意見が認められ、マスタープランの改定版に「水路の痕跡」が景観資源として明記されました。

【情報提供】
2018.09.27横網町公園に移設された「石原町遭難者碑」の旧地

横網町公園内にある石碑の元あった場所が、専修寺(本所区石原町)であることを突き止め、この碑を研究されている名古屋大学の武村雅之氏にお知らせしました。
この石碑は、夏目漱石門下である内田百里凌鑄「アヂンコート(アジンコート)」にも登場します(なお、内田百痢崢構婢瓠も参照)。
詳細については、武村雅之『東京都における関東大震災の慰霊碑・記念碑・遺構(その1 墨田区・江東区)』(名古屋大学減災連携研究センター、2019年)30-31頁、66頁に記載されています。
石原町遭難者碑

【地図】日本の主な岬マップ

この記事は旧版です。
改訂版はこちらです→【地図】日本の主な岬マップ〔改訂版〕【おまけつき】



投稿日時 2017.06.24 21:45
最終更新 2020.04.26

岬って、あまり注目されることがないのか、まとまった情報があんまりなかったので、自前で「日本の主な岬マップ」をつくりました。

岬new

この地図は旧版です。
改訂版はこちらです→【地図】日本の主な岬マップ〔改訂版〕【おまけつき】






「でんでんむしの岬めぐり」さんの記事によると、日本には3735の岬があるそうです。ひぇ〜!!

そんなにたくさんはとても書ききれないので、とりあえず有名どころと思われる34の岬を地図にしました。


中学・高校の入試問題や、学校の定期テストで出そうな岬は全部カバーしてあると思います。

有名な観光地も大体カバーしたつもりですが、「あの岬が漏れている」といったことがございましたら、ご指摘ください。


ちなみに、日本列島の「端」ばかりをまとめた「日本走覇」さんの記事もなかなかマニアックで面白いです。ご参考まで。
2020年4月26日追記
残念ながら、「日本走覇」さんの記事は、Yahooジオシティーズのサービス提供が終了した影響で、閉鎖となったそうです。



◆おまけ◆
岬の名前を答える問題形式の画像も作りました。
ご活用ください。

岬quiz


解答
1 ノシャップ岬〔のしゃっぷみさき〕(野寒布岬も可)
2 宗谷岬〔そうやみさき〕
3 知床岬〔しれとこみさき〕
4 納沙布岬〔のさっぷみさき〕
5 襟裳岬〔えりもみさき〕
6 地球岬〔ちきゅうみさき〕(チキウ岬も可)
7 神威岬〔かむいみさき〕
8 大間崎〔おおまざき、おおまさき〕
9 竜飛崎〔たっぴざき、たっぴさき〕
10 魹ヶ崎〔とどがさき〕
11 入道崎〔にゅうどうざき〕
12 犬吠埼〔いぬぼうさき〕
13 野島崎〔のじまざき〕
14 禄剛崎〔ろっこうざき、ろっこうさき〕
15 東尋坊〔とうじんぼう〕
16 石廊崎〔いろうざき〕
17 恋人岬〔こいびとみさき〕
18 御前崎〔おまえざき〕
19 伊良湖岬〔いらごみさき〕
20 羽豆岬〔はずみさき〕
21 大王崎〔だいおうざき〕
22 御座岬〔ござみさき〕
23 潮岬〔しおのみさき〕
24 日御碕〔ひのみさき〕
25 室戸岬〔むろとみさき〕
26 足摺岬〔あしずりみさき〕
27 佐田岬〔さだみさき〕
28 都井岬〔といみさき、といのみさき〕
29 佐多岬〔さたみさき〕
30 長崎鼻〔ながさきばな〕
31 辺戸岬〔へどみさき〕
32 残波岬〔ざんぱみさき〕
33 喜屋武岬〔きゃんみさき、きやんみさき〕
34 東平安名崎〔ひがしへんなざき〕



地図作成にあたっては、「カビパン男と私」さんの白地図を利用させていただきました。
ありがとうございます。

銅像堀(どうぞうぼり)【電柱に残る旧水路の歴史#001】

(1)見上げれば、水路の名残

かつてあった川や堀の痕跡を探すとき、多くの場合、地面付近を観察しますが、
実は、見上げたところにも、水路の名残が存在していることがあります。

DSCN9989銅像堀支電柱
[写真a]銅像堀の名をとどめる電柱番号札

[写真a]は、首都高速6号向島線の向島入口の近く(隅田公園少年野球場の北)にある電柱です。
「銅像堀支 4」という文字が見えます。

これは<電柱番号>といって、電柱1本ごとに付けられている識別コードです。
<電柱番号>には、地名や施設の名称から付けられたものがたくさんあります。

例えば、町名、橋名、駅名、寺社名、劇場名、店舗名など。


一度付けられると、電柱が交換されても、<電柱番号>は変わらないようで、
昔の町名などが<電柱番号>の中に保存されているケースも少なくありません。
中には、埋め立てられて今はない水路の名前が付いているものもあります。

その一つが、上の写真の「銅像堀どうぞうぼり」です。

なお、「銅像堀支 4」の「支」は、「支線」の意です。全体で「銅像堀支線の4番目の電柱」ということを表しています。



[図1]「銅像堀支 4」の電柱が立っている位置


(2)銅像堀と銅像

「銅像堀」とは、墨田区の向島五丁目と堤通一丁目の間にあった入堀です。
隅田川と接続しており、北岸には大倉喜八郎の所有する蔵春閣(大倉別邸)がありました。

ちなみに、銅像堀は、その規模の割に強い境界性を有しており、市郡境だったことや、区境だったことがありました。

◆東京市成立以降の東京15区時代(1889-1932(明治22-昭和7)年)
銅像堀を境に南側が東京市(本所区)、北側が南葛飾郡(寺島村→寺島町)

◆東京35区時代(1932-1947(昭和7-22)年)
銅像堀の南が本所区で、北が向島区

◆墨田区誕生〜住居表示実施以前(1947-1964(昭和22-39)年)
南が墨田区向島須崎町(旧・本所区側)、北が墨田区寺島町三丁目(旧・向島区側)(1)

(1)1964(昭和39)年6月29日都告示第621号も参照。


下の[写真b]では、銅像堀に船らしき影が多数あることから、
よく利用される堀だったのではないかと考えられます。

銅像堀航空写真
[写真b]1947(昭和22)年7月9日の銅像堀(国土地理院提供の航空写真を編集)

銅像堀の名は、水路の南岸に銅像があったことに由来します(下の[写真c])。
明治時代の実業家(日本製靴業の祖(2))、西村勝三かつぞうの像で、高村光雲の作です。
1906(明治39)年に完成しました(3)
台座を除いた銅像部分だけでも、高さが3.6〜3.8mほどもある立派なものだったようです(4)
この銅像は、1943(昭和18)年に軍事資材として供出されたため、残念ながら現存しません(5)

(2)稲川實「靴の歴史散歩6」かわとはきもの61号(1987年)22頁参照。
なお、このコラムは、稲川實『西洋靴事始め 日本人と靴の出会い』(現代書館、2013年)にまとめて収録されています。製靴業の祖であることについては、同書15頁等に記載があります。

(3)人見幾三郎『京浜所在銅像写真 第1輯』(諏訪堂、1910年)14頁

(4)文献によって微妙に違いがあり、1丈2尺(約3.63m)とするもの(栗田翦『帝國銅像鑑 上巻』(大日本帝國史蹟硏究會出版部、1935年)130頁)、3.7mとするもの(杉田幸三『日本の心 銅像は生きている』(永田書房、1971年)492頁)、3.79mとするもの(稲川實「靴の歴史散歩54」かわとはきもの109号(1999年)26頁、稲川實『西洋靴事始め 日本人と靴の出会い』(現代書館、2013年)120頁)があります。
稲川氏によれば、山崎寛猛『西村勝三翁事歴』(1921年)に、銅像の身長が「一丈二尺五寸」と書かれているとのことですが、『西村勝三翁事歴』は入手が極めて困難な書物のようで、国会図書館や全国の大学図書館などにも所蔵がありません。そのため、今のところ、同書の内容を確認することができていません。

(5)稲川實「靴の歴史散歩60」かわとはきもの115号(2001年)28頁参照。
稲川實『西洋靴事始め 日本人と靴の出会い』(現代書館、2013年)では、130頁に同じ記述があります。


西村勝三の銅像カラー化
[写真c]西村勝三の銅像(国立国会図書館提供の写真をカラー化)

銅像の周囲は、「きちんと整地され、芝生も見事に生え揃い、門構えもいかめしく一般の人の出入りは禁止されていました」。そして、「わんぱくが銅像公園内に進入するのを追い払うことを最上の喜びとしているような」「管理人の婆さま」がいたそうです(6)

(6)日野秀夫「小さなドブ川をはさんで(3)」すみだ史談8号2頁


1921(大正10)年 東京遞信局編『東亰市本所區〔訂正第2版〕』
[図2]銅像周辺の整備状況が窺える1921(大正10)年の地図(特別区協議会HP掲載の図を編集)


(3)銅像堀と古川

先ほどの航空写真([写真b])では、入堀になっていますが、
かつては南東〜南南東方向に水路が続いていたようです。
その部分は、古川(請地古川うけじふるかわ鷭堀ばんぼり)と呼ばれており、
曳舟川をまたいで、北十間川まで流れていました。
[図3]は、古川の名が記された江戸時代の地図です。

※江戸時代には、まだ「銅像堀」という名は付いていませんでしたが、便宜上、[図3]では「銅像堀」と記載しています。


銅像堀と古川
[図3]銅像堀と古川(東京都公文書館提供の図を編集)

古川の方が、銅像堀部分よりも先に姿を消したと考えられます。
地元住民の証言によれば、古川は、1934(昭和9)年に埋め立てられたそうです([図4])。
なお、[図4]では、上が南になっています。

すみだ史談28号1頁古川埋立て編集
[図4]古川を埋め立てた年が記載されている地図(すみだ史談28号1頁掲載の地図を編集)


(4)銅像堀の最期

銅像堀部分も、1960年代に消滅。
伊勢湾台風級の高潮から街を守るため、外郭防潮堤(カミソリ堤防)を造る際に、埋め立てられました。

[写真d]を見ると、銅像堀を埋め立てる前に、カミソリ堤防が建設され、
銅像堀が隅田川から切り離されたことが分かります。
その後、堤防と陸地の間の水面部分が埋め立てられました([写真e])。

銅像堀埋め立て中
[写真d]1963(昭和38)年6月26日の銅像堀(国土地理院提供の航空写真を編集)

銅像堀埋め立て後
[写真e]1966(昭和41)年11月3日の銅像堀(国土地理院提供の航空写真を編集)

そして、埋め立てられた土地は、
現在、「銅像堀公園」や「銅像堀自転車保管所」として利用されています([写真f])。
銅像堀は無くなりましたが、その名はあちらこちらに残っているのです。

銅像堀公園・銅像堀自転車保管所
[写真f]銅像堀公園と銅像堀自転車保管所と電柱

さらに幸運なことに、銅像堀は、名前だけでなく「現物」も残っています。
撤去を免れた銅像堀の北側護岸です([写真g])。
銅像堀の護岸は、1951(昭和26)年に補強工事が行われている(7)ことから、
現存する護岸はその時のものかもしれません。

(7)墨田区役所企画部広報広聴課編『墨田誌考 下』(墨田区役所、1976年)180頁。


銅像堀北側護岸
[写真g]銅像堀北側護岸


(5)探索ライフを充実させるには

墨田区は、かつて多数の水路が区内のあちこちを流れていました。
そのため、水路だった場所はたくさんあります。
しかし、橋や護岸などの構造物は、跡形もなく撤去されていることが多く、
水路跡で「現物」を見つけるのは、そう簡単ではありません。
銅像堀のように護岸が残っているのは、比較的珍しいケースなのです。

「現物」が少ないため、墨田区内で水路の痕跡を探索する場合は、
痕跡不足による「飢餓」状態に陥りがちになります。
充実した旧水路探索ライフを送るためには、
<電柱番号>などに手を広げるのも一つの手かもしれません。

というわけで、<電柱番号>を手掛かりにしながら、旧水路の歴史を辿る記事を、
これから不定期にアップしていきたいと思います。

【参考文献】
本文および註に掲げたもののほか、
岩崎和雄撮影『蔵春閣』(大成建設、2013年?)
小島惟孝『墨田区 史跡散歩〔改訂新版〕』(学生社、1993年)109頁
青木茂『書痴、戦時下の美術書を読む』(平凡社、2006年)47頁

【全文掲載】墨隄植櫻之碑(墨堤植桜の碑)

投稿日時 2020.03.21 02:00
最終更新 2021.02.21

隅田公園の中(墨田区向島5-4地先)にある石碑「墨隄植櫻之碑ぼくていしょくおうのひ」の文面を全てテキストデータにしましたので、以下に掲載します。

碑文には、
成島柳北:外国奉行、共済五百名社(現・明治安田生命保険)設立、朝野新聞初代社長
榎本武揚:外務大臣、文部大臣、農商務大臣、逓信大臣、蝦夷共和国総裁
安田善次郎:安田財閥の祖、安田銀行(現・みずほ銀行)設立、東大安田講堂寄贈
大倉喜八郎:大倉財閥の祖、帝国ホテル設立、大倉土木(現・大成建設)設立
川崎八右衛門:川崎財閥の祖、川崎銀行(現・三菱UFJ銀行)設立
などの名が見えます。
DSCN9946墨堤植櫻之碑50パーセント縮小

(1)前面
墨隄植櫻之碑
墨水其源出于秩父郡木賊谷合細流為荒川蜿蜒注九郡末會綾鷦始得斯名矣古昔東海之驛道以水界武総在五中將
寄懐乎渡口白鷗詠以國詩所謂都鳥之篇是也自徳川氏建覇府地属射獵之囿其隄經隅田寺島須小梅四村至枕橋長
二千一百餘間本曰葛西陂俗稱大隄甞置行殿於木母寺以寺北關屋里為游覽之場嚴有公擇櫻種於常州櫻川植之隄上
盖偕樂之遠慮而植櫻之權輿也享保二年有徳公又蓺一百株於隄上及渡口古道十一年植櫻桃柳各百五十本榜示以禁
剪伐且分種其萌蘗令勿廢絶歳給金若干永錢若干以充培植看護之資隅田村里正阪田氏世掌之亦見公保護祖宗遺愛
之一端焉而當時所植以隅田為限矣鄒以降世運極盛闔郷之農以種樹為業故其工寖資民力文化中寺島花戸佐原鞠
隖與朝川黙翁中山卜鄰謀蓺重瓣櫻百五十本於白髭祠南北天保二年阪田三七郎分種二百餘株於寺島須崎小梅三村
弘化三年洪水壊隄須崎花戸宇田川總兵衛幹修築為破產因憤慨植百五十樹以表其蹟長命寺畔合拱交陰者即是也安
政元年三七郎又分二百株繇是列植始連三圍祠上明治維新之七年小梅村人晉永機合衆力以蓺其村疆十三年舊水戸
藩知事徳川氏種其邸前至是列植遂達枕橋十四年寺島村人又補其闕而維新後之工不殖其半或因栽插不得候耶凡花
之性難保久且因境土之侶犖薄而有壽夭之別隄上無林丘擁護而接壤闤闠當郷路之衝平時来往之絡繹風日沙塵之
觸擊根幹為受其害與夫山陬幽蹊全其天者逈異以故櫻之受年大抵與人壽齊至重瓣則又半單瓣苟蓺植之不繼焉有數
而歸盡矣大倉喜八郎築居隄外裴回顧瞻有所興感乃語成島柳北曰隄櫻是居民所魄憤挂深壼竸既盡新栽亦不多殖
傷萎者摧折者或遺蘗或枯朽者比比有之不豫程補植之工則後必損勝區之譽某不敏敢當其任願與先生謀之柳北曰噫
美矣哉此舉請子督其工我則募同志先是墨上同人結一社詩酒徴逐命曰白鷗社大倉成島二氏即其社友也於是告同社
曁郷黨躾予委〔然應之南葛飾郡長伊志田君友方申之府知事而樹蓺亟就功其度長隄而栽培者計一千株時十六年
冬十月也吾寄老墨上每値花時冠蓋相望遊屐累至人士女繁絃醉歌驩謼狂舞水隈為震顧視木母寺行殿之址豐艸芊
緜不詳其所而櫻樹之培植逐年而益盛永傳甘棠之遺芳與芳野嵐山並名遂為 帝亰苑囿之域中將之詠盖為之兆耶抑
亦花之榮也哉曩柳北欲勒工事於石不果而逝其友人安田善次郎謀之喜八郎曁川崎八右衛門俱捐貲以成其志村人聞
有此舉自奮任力役而不受僱直余乃徴辯儺及古老紀植櫻顚末以竢後之繼工者云
明治二十年丁亥歲夏五月     梁川榎本武揚篆額     濱邨大澥撰文幷書       宮龜年刻字

異体字については、標準字体等で代用した箇所がある


(2)後面
是碑舊在距此西三十武之堤畔河水漲溢
激岸壊堤礎石日傾將有顚覆之患本所區
長飯島保篤甞憂之今茲明治二十九年三
月與大倉安田川崎三氏相謀卜地於此移
以加脩補於是礎石堅牢足以竢後之継工
者矣子爵榎本武楊小野義真二氏亦投金
若干以賛此擧云
 明治二十九年八月

異体字については、標準字体等で代用した箇所がある


(3)『墓碑史蹟研究』
以下は『墓碑史蹟研究 第5巻』に掲載されている翻刻です。
誤字脱字が数カ所ありますが、参考までに掲載します。
墨隄植櫻之碑
        ―東京市本所向島須崎町長命寺上.土手筋―

墨隄植櫻之碑
墨水其源出于秩父郡木賊谷合細流爲荒川蜿蜒注九郡末會綾鷦始得斯名矣古昔東海之驛道以水界武總在五中將寄懷乎渡口白鷗詠以國詩所謂都鳥之篇是也自川氏建覇府地属射獵之囿其隄經隅田寺島須崎小梅四村至枕橋長二千一百餘間本曰葛西陂俗稱大隄甞置行殿於木母寺以寺北關屋里爲游覽之場嚴有公擇櫻種於常州櫻川植之隄上盖偕樂之遠慮而植櫻之權輿也享保二年有公又藝一百株於隄上及渡口古道十一年植櫻桃柳各百五十本榜示以禁剪伐且分種其萌蘗令勿廢絕歲給金若干永錢若干以充培植看護之資隅田村里正阪田氏世掌之亦見公保護祖宗遺愛之一端焉而當時所植以隅田爲限矣鄒以降世運極盛闔之農以種樹爲業故其工寢資民力文化中寺島花戶佐原鞠隖與朝川默翁中山卜隣謀藝重瓣櫻百五十本於白髭祠南北天保二年阪田三七分種二百餘株於寺島須崎小梅三村弘化三年洪水壞隄須崎花戶宇田川總兵衛幹修築爲破產因憤慨植百五十樹以表其蹟長命寺畔合拱交陰者即是也安政元年三七郎又分二百株繇是列植始連三圍祠上明治維新之七年小梅村人晉永機合衆力以藝其村疆十三年舊水戶藩知事川氏種其邸前至是列植遂達枕橋十四年寺島村人又補其關而維新後之工不殖其半或因栽插不得候耶凡花之性難保久且因境土之間劇厚薄而有壽夭之別隄上無林丘擁護而接壤闤闠當路之衝平時來徃之絡繹風日沙塵之觸擊根幹爲受其害夫山陬幽蹊全其天者逈異以故櫻之受年大抵與人壽齊至重瓣則又半單瓣苟藝植之不繼焉有數而歸盡大倉喜八築居隄外裴回顧瞻有所興感乃語成島柳北曰隄櫻是居民所魄圃命者舊植既盡新栽亦不多殖傷萎者摧折者或遺蘗或枯朽者比比有之不豫程補植之工則後必損勝區之譽某不敏敢當其任願與先生謀之柳北曰噫美矣哉此擧請子督其工我則募同志先是墨上同人結一社詩酒徵逐命曰白鷗社大倉成島二氏即其社友也於是吿同社曁黨躾予委〔然應之南葛飾郡長伊志田君友方申之府知事而樹藝亟就功其度長隄而栽培者計一千株時十六年冬十月也吾寄老墨上每値花時冠蓋相望遊屐累至人士女繁絃醉歌驩呼狂舞水隈爲震顧視木母寺行殿之址豐艸芊緜不詳其所而櫻樹之培植逐年而裟恒変4怒之遺芳與芳野嵐山並名遂爲 帝京苑囿之域中將之詠盖爲之兆耶抑亦花之榮也哉曩柳北欲勒工事於石不果而逝其友人安田善次謀之喜八曁川崎八右衛門俱捐貲以成其志村人聞此擧自奮任力役而不受僱直余乃徵辯儺及古老紀植櫻顚末以竢後之繼工者云
明治二十年丁亥歲夏五月     梁川榎本武揚篆額  濱邨大澥撰文幷書  宮龜年刻字


『是碑舊在距此西三十武之堤畔河水漲溢激岸壞堤礎石日傾將有顚覆之患本所區長榲臺歹那獲之今茲明治二十九年三月與大倉安田川崎三氏相謀卜地於此移以加脩補於是礎石堅牢足以竢後之繼工者矣子爵榎本武楊小野義眞二氏亦投金若干以賛此擧云 明治二十九年八月』後面下部

磯ヶ谷紫江『墓碑史蹟研究 第5巻』(後苑荘、1927年)539-540頁より引用
異体字については、標準字体等で代用した箇所がある


   墨堤植桜の碑

             所在  墨田区向島五丁目一番 隅田公園

 この石碑は墨堤の桜の由来を記したもので、榎本武揚の篆額てんがく濱邨大澥はまむらたいかい
撰文、宮亀年の彫刻です。
 墨堤の桜は、初め四代将軍家綱の命で、皆と共に楽しむためにと植えさせ、
享保ニ年(一七一七)に八代将軍吉宗が百本の桜を、同十一年には桜、桃、
柳各百五十本植えさせ、その世話は代々隅田村の名主阪田氏が担当しました。
その後文化年間に佐原鞠塢きくう、朝川黙翁、中山ト鄰が百五十本、天保ニ年(一
八三一)に阪田三七郎が二百余株の桜を植えました。弘化三年(一八四六)
洪水で堤が決壊し、それを須崎村の宇田川総兵衛が独力で修築、そのことを
顕彰して村人が百五十本、安政元年(一八五四)に阪田三七郎が二百株、
明治に至り其角堂永機、旧水戸藩知事、寺島村の人々が各々桜を植えました。
 さらに大倉喜八郎、成島柳北が名勝を守るため白鷗社を設立、村人もこれに
応じ、南葛飾郡長伊志田友方は、このことを府知事に告げ植樹を助成しました。
志半ばで死去した成島柳北の遺志を継いで、安田善次郎、大倉喜八郎、川崎
八右衛門が出資し、村人の協力を得て墨堤の植桜が完成しました。
 このような功績を永世に伝えるため、明治二十年に建碑されましたが、後に
堤が壊れ碑が傾いたので、明治二十九年に本所区長飯島保篤が大倉、安田、川
崎三氏と共に起工し、榎本武揚、小野義真も出資して移設しました。
               平成ニ年三月
                 墨田区

異体字については、標準字体等で代用した箇所がある

【一覧つき】『暗渠パラダイス!』で墨田区を知ろう

『暗渠パラダイス!』は、本日発売です。
暗渠パラダイス

本書には、墨田区の水路跡が随所に出てきます。

第4章の「川区境データ──23区の区境を開渠と暗渠で見てみたら」〔盪海気鷦紘〕では、
墨田区と江東区を流れた 六間堀五間堀「胸アツ暗渠」と紹介されていて、胸アツ!!
墨田区と江東区の間のカクカクした不自然な区境が気になっている方は、ぜひ読んでみてください。
(しかも、この旧水路ラボのWEBを参考文献として引いてくださっています。ありがとうございます)

また、第8章の「文人とともに夜の妄想暗渠さんぽ──蟹川と六間堀、五間堀」〔吉村さん執筆〕では、
六間堀と五間堀がガッツリ登場!!
この文章はとっても素敵なので、皆さんにオススメしたいです。まさに「異世界へのゲートウェイ」。
そして、ぜひ永井荷風−野口冨士男−著者の吉村さんと続いてきたバトンを引き継いで、六間堀・五間堀の跡を歩いてみてください。


その他にも、曳舟川・大横川・竪川・北割下水・平作堀・お歯黒ドブなど、
墨田区の水路跡が盛りだくさんなので、載っている箇所をまとめてみました(旧水路ラボ調べ)。

様々な地域が取り上げられている中で、地元のことがこんなにたくさん載っていて感激です!

◆裏表紙 京島蛇道(デザイン)

キーワード【長屋】【電柱】【驚異の再現度】



◆帯(裏表紙) 大横川(写真)

キーワード【平川橋】【ちょん切られた橋】



◆p.70 「東京23区の交差点数」(表)

キーワード【交差点名】
→「暗渠にかかる橋の名前を冠した交差点」ランキングで、墨田区が上位に



◆pp.86-87 六間堀五間堀(本文・地図)

キーワード【区境】【境界】



◆pp.88-89 竪川斉藤堀五間堀六間堀(表)

キーワード【東京23区の区境と川】



◆p.91 「東京23区の川区境」(本文・表・グラフ)

キーワード【暗渠区境含有率】【川区境中の暗渠含有率】



◆p.95 曳舟川

キーワード【サッパコ】



◆p.98 お歯黒ドブ曳舟川

キーワード【漫画家・滝田ゆうの父】【作家・早乙女勝元の証言】



◆p.100 曳舟川(本文・地図・写真)

キーワード【流れる野菜】



◆p.101 北割下水曳舟川

キーワード【馬の転落】【タクシーの転落】



◆p.119 回向院前一ツ目弁天門前

キーワード【岡場所】



◆pp.186-189 六間堀五間堀

キーワード【永井荷風の親友】【荷風を追う野口冨士男】【五間堀公園】【弥勒寺橋】【区境長屋】【凛とした細道】【高橋夜店通り】【丸八倉庫】【猿子橋】【竹河岸の名残】【ひもで縛られ、廊下からドボン】



◆p.196 曳舟川(写真)

キーワード【更正橋交差点】【更正橋の親柱】



◆p.220 大横川竪川平作堀

キーワード【暗渠カレー】【川の交差】【寺島ナス】

※裏表紙のことについては、著者ご本人から教えていただき、加筆しました。(2020.2.21 00:00)
※六間堀・五間堀は途中から江東区に突入しますが、キーワードを選ぶ際に、江東区側を割愛することはしませんでした。
当ラボは六間堀・五間堀が好きなので、仕方ありません。




もちろん、これ以外にも、東京各地、日本各地、そして海外の「暗渠」のことがたくさん載っています。
『暗渠パラダイス!』は、墨田区はもちろん、
いろいろな地域のいろいろな「暗渠」が楽しめる一冊だと思います。


盪咳冀法Φ搬疾検悵典凜僖薀瀬ぅ后』(朝日新聞出版、2020年)



投稿日時 2020.02.20 00:00
最終更新 2020.02.21 00:00

【イベントやります】「小名木川物語」上映会 失われた川の視点から

小名木川物語上映会チラシ

暗渠マニアックスさんと再びタッグを組んで、映画の上映会をやります!!

旧水路ラボは、映画の中で登場する水路跡のことなどをご紹介する予定です。



“川のまち”を舞台にした映画を、新たな視点から鑑賞しませんか。

この映画では、深川のまちと人々を中心的に描きながらも、タイトルにもなっている小名木川をはじめ、隅田川大横川など、さまざまな「川の風景」が活写されています。その中には、役目を終え、あるいは、新たな役目を担うために消えていった「失われた川の風景」もあります。
本イベントでは、小名木川を取り巻く歴史や昔の風景について、川および失われた川に着目した解説をおこない、それらをふまえて映画を味わいます。
鑑賞後は、川に関する詩に触れ、「小名木川物語」の印象を各自がより深めることができるような時間をもうけます。
川は人々をつなぎ、そしてまちをつなぐものです。参加されたみなさんが、次第に川に関する想像力を増し、小名木川や周辺の失われた川たちに浸りながら帰路につくような夕べとなりますように。
特別ゲストに、劇中詩を書かれた、詩人・小説家の 小池昌代 さんをお迎えします。


  ◆ ◆ ◆ イベント概要 ◆ ◆ ◆ 

【日時】2019年11月24日(日曜日)午後3時〜午後6時
 ※開場は午後2時30分です

【参加費】2,000円
 ※参加費は当日会場にてお支払いください

【定員】50名(先着順)

【会場】両国門天ホール
 ※墨田区両国一丁目3-9 ムラサワビル1-1階

【お申込み】申込フォーム

【お問合せ】
 (1)facebookイベントページ

 (2)メール
  q316lab(あっとまーく)gmail.com
  ※(あっとまーく)を「@」に置き換えてください

【キャンセル】facebook・メール等でお知らせください

【主催】暗渠マニアックス&水路ラボ 「隅田川 森羅万象 墨に夢」実行委員会
【共催】墨田区
【特別協賛】YKK株式会社
【協力】小名木川物語製作委員会

【関連ページ】
 (1)映画『小名木川物語』公式サイト

 (2)主催者twitterアカウント
  暗渠マニアックス吉村
  暗渠マニアックス盪
  旧水路ラボ

 (3)主催者facobookページ
  暗渠マニアックス
  旧水路ラボ

上映会のお申込みはこちら

【イベントやります】「みんなで作ろう 六間ロール」

六間ロールチラシ0720

暗渠マニアックスさんとタッグを組んで、暗渠料理イベントをやります!!
その上、調理指導をしてくださるのは、ごはん同盟さんです!!

豪華すぎて、鼻血ブーです!!!!!!!!



作るのは、本所・深川を流れた六間堀(ろっけんぼり)の形をした巻き寿司。
六間堀は、隅田川に沿って流れたとても古い川で、謎がいっぱいの川です。
人々の暮らしを支え、命を救った川であり、人間のために姿を消した川なのです。
そんな愛しい六間堀を、みんなで力を合わせて、現代に蘇らせるという企画。

題して「みんなで作ろう 六間ロール」!!

具材にも徹底的にこだわった巻き寿司になる予定です。
歴史好き、地理好き、料理好き、お寿司好きのみなさんのご参加をお待ちしています。

お申込みはこちら



  ◆ ◆ ◆ イベント概要 ◆ ◆ ◆ 

【日時】2019年9月15日(日曜日)午後2時〜午後4時
 ※開始10分前にはお越しください
 ※開場は午後1時30分です

【対象】小学校3年生〜中学校3年生
 ※小学生の場合は保護者同伴での参加をお願いします

【参加費】300円(保険代)
 ※保護者の方も参加費が必要です
 ※参加費は当日会場にてお支払いください

【持ち物】エプロン・バンダナ(三角巾)・筆記用具・参加費など
 ※詳細は、個別にメールでお知らせいたします

【定員】20名(同伴の保護者を除く)
 ※応募者多数の場合は、抽選になります
 ※抽選結果は、当落にかかわらず、メールにてお知らせいたします

【会場】ブレーメンカフェ
 ※東京都江東区新大橋三丁目12-6 Kビル101

【お問合せ】q316lab(あっとまーく)gmail.com
 ※(あっとまーく)を「@」に置き換えてください

【キャンセル】食材の仕込みを行う関係上、参加をキャンセルされる場合は、できるだけ速やかにご連絡ください。

【主催】旧水路ラボ&暗渠マニアックス 「隅田川 森羅万象 墨に夢」実行委員会
【共催】墨田区
【特別協賛】YKK株式会社
【協力】いいね森下 六間堀・五間堀友の会 株式会社東北紙業社
【後援】すみだ史談会 NPO法人六三四塾
【資料提供】国土地理院 東京都建設局 江東区教育委員会 江東区中川船番所資料館 墨田区立ひきふね図書館 ほか

【関連ページ】
 (1)facebookイベントページ「みんなで作ろう 六間ロール」
  https://www.facebook.com/events/341361856771630/

 (2)すみゆめ公式WEBの紹介ページ
  http://sumiyume.jp/event/20191108/

 (3)主催者twitterアカウント
  旧水路ラボ
  namaさん
  中級暗渠ハンター(自称)『暗渠マニアック!』盪咳冀さん

 (4)主催者facobookページ
  旧水路ラボ
  暗渠マニアック!

【ご案内】
 会場となるブレーメンカフェでは、9月1日〜30日の間、
 六間堀や暗渠フードに関するパネル展示を行います。
 こちらは無料で見ることができます。お申込みの必要もございません。
 会場がカフェですので、コーヒーなどを飲みつつ、ご鑑賞いただければ幸いです。

 ◆ブレーメンカフェ◆
  所在地:東京都江東区新大橋3-12-6 Kビル101
  営業時間:午後5時30分〜翌午前2時
  定休日:火曜日
  電話番号:03-6659-3920
  ※貸切営業、臨時休業等の場合もございます。
   お店の営業については、お電話でご確認ください。


六間ロール作りのお申込みはこちら

【本所 旧水路名鑑】水路一覧

本所の主な旧水路
水路名別名・旧名備考
六間堀六間堀川
五間堀五間堀川
瓢箪堀
徳川堀
横網町入堀横網御蔵堀
両国川
現在の国技館の北部を流れた。
御竹蔵大溝御蔵大溝
大溝
本所御蔵(御竹蔵)を囲んだ水路。
本所七不思議「置いてけ堀」の舞台とも。
北割下水本所北割下水現在の春日通りのうち、本所2丁目の中ほどから大横川の間。
東北割下水を含めて北割下水ともいう。
東北割下水柳島堀現在の春日通りのうち、大横川と横十間川の間。
広義の北割下水に含まれる。
南割下水本所割下水
本所南割下水
現在の北斎通りのうち、清澄通りと大横川の間。
錦糸堀を含めて南割下水ともいう。
錦糸堀(割下水)東中割下水
金糸堀
現在の北斎通りのうち、大横川と横十間川の間。
広義の南割下水に含まれる。
本所七不思議「置いてけ堀」の舞台とも。
錦糸堀(貯木場)割下水の南。
錦糸町貨物駅に接続していた。
斎藤堀東南割下水
菊川堀
現在の新大橋通り。
英堀(仮)大横川から東へ入る入堀。現在のJR線路敷付近。
英橋が架かっていた。
用水堀蔵前橋通りの1本北の道(太平2丁目〜4丁目の途中)。
藤代町入堀片葉堀本所七不思議「片葉の葦」の舞台。
隅田川から回向院方向へ入る入堀。
途中で屈曲し、回向院北側の大下水に接続していた。
石原町入堀梅堀
本所梅堀
埋堀
隅田川から東へ入る入堀。
現在の横網2丁目11番地、12番地付近。
今も不規則な街並みが残っているので、分かりやすい。
楓川紅葉川大横川のすぐ西を南へ流れた。
菊川楓川の南側。
竪川と小名木川の間。
竪川開削前は、楓川と菊川は一本の大きな川だったと思われる。
堺川境川竪川のすぐ南を流れた。
本所と深川の境界。
山名堀(仮)
堺堀(仮)
太平町入堀(仮)
業平町入堀(仮)
押上町入堀(仮)
新小梅町入堀(仮)
正三堀小三堀
蘆沼(?)
本所表町 最勝寺・本久寺の裏。
鎌洗川本所中之郷竹町にあった。
道三堀本所中之郷竹町にあった。
古川請地古川
古川堀
銅像堀
本所区と向島区の境界。
銅像堀という名は墨堤以西。
曳舟川本所上水
亀有上水
白堀上水
古上水
小梅古上水
西井堀曳舟川の支流で、葛飾区側から南流していた。
墨田区内ではこの名称で呼ばれていなかった可能性がある。

現存水路
水路名別名・旧名備考
隅田川大川
浅草川
宮戸川
荒川
両国川
竪川竪堀大横川以東は埋め立てられた。
大横川横川
横堀
竪川以北は埋め立てられた。
横十間川天神川
十間川
横川
北十間川源森川源森川という名は大横川以西。

【地図】相撲部屋一覧マップ【大相撲】

記事作成 2014年11月18日02:19
記事更新 2017年09月29日14:33

相撲部屋の所在地を知るのに便利な、

sumomap
相撲部屋一覧マップ
のリンクを貼っておきます。




このマップは、随時最新情報が反映されます。
各部屋の師匠の現役時の四股名や、一門ごとの分布がすぐに分かります。

相撲部屋は、やっぱり両国周辺が多いですが、東京都以外にも結構あるようですね。





タモリさんと大宮台地

ブラタモリ #77 大宮 (2017年7月1日放送)で、
タモリさんは、「大宮台地」という言葉を初めて聞いたと言っていますが、
おそらく忘れているだけです。

というのも、タモリさん自身が、
東京の地形の成り立ちのバイブル》だと言っている(しかも、どういうわけか2冊持っているという)
『東京の自然史』の冒頭で、「大宮台地」が登場しているからです。

「武蔵野台地と大宮台地にはさまれた荒川ぞいの低地を荒川低地と呼ぶことにする」
貝塚爽平『東京の自然史』(講談社学術文庫、2011年)22頁(第I章第1節の2頁目)



この部分以外にも、例えば88〜89頁や197〜198頁に大宮台地に関する記述がありますし、86頁の16図にも大宮台地の情報が記載されています。


ちなみに、タモリさんが本書をバイブルだと述べたのは、
タモリ倶楽部「最新の微地形模型で味わう 高低差ファン待望! 東京凹凸ショー」(2012年9月29日放送)の1コーナー「地形クイズ」第2問でのことです。


功利主義とは?【概説・法哲学#001】What's utilitarianism?

この記事は、少しずつ加筆・修正して、内容をさらに充実させていく予定です。
更新したときは、投稿日時を新しくします。


功利主義の提唱者:ベンサム(Jeremy Bentham, 1748-1832)
ベンサムの主著:『道徳および立法の諸原理序説』〔1789年〕

ベンサム
ジェレミー・ベンサム



◎簡単に言えば、
功利主義最大幸福原理=「社会の幸福が最大になるように行為すべきだ」という考え方。



〓〓〓 古典的功利主義の2要素 〓〓〓

(1)「最大」=社会全体の合計値が最も大きくなること
社会全体の合計値のみに着目し、
社会における分配状況には着目しない(経済格差<それ自体>は、気にしない)

(2)「幸福」=快楽−苦痛 (快楽説 byベンサム)
幸福のみに着目し、
自由や平等それ自体には着目しない(自由や平等<それ自体>には、価値がないと考える)


 よくある疑問
 合計値しか考えず、格差を考慮しないなら、
 <Aさんの幸福値50+Bさんの幸福値50=合計幸福値100>の社会よりも、
 <Aさんの幸福値100+Bさんの幸福値1=合計幸福値101>の社会の方が、望ましいことになる。
 だが、このような社会はあまりに不公平・不公正ではないか?
 功利主義は、「公平・公正」という価値を無視した、欠陥のある考え方ではないだろうか?

 功利主義者の回答
 たしかに、功利主義では幸福値の合計が少しでも大きい方が「よい社会」とされる。
 だから、一見、功利主義は<Aさん100+Bさん1=合計101>の社会を目指しているように思える。
 しかし、実際には、Bさんの幸福値を減らす以上に、Aさんの幸福値が増えることはない。
 <Aさん50+Bさん50=合計100>の社会をベースに、そこからBさんの幸福値を49削ったとき、
 削った以上にAさんの幸福値が増えることはないのである。
 その根拠はいろいろあるが、一つの根拠が「限界効用逓減の法則」(詳しくは後述)
 それからすると、<Aさん100+Bさん1=合計101>になるような社会は、実際にはあり得ない。
 Bさんの幸福値を1まで削ったとしても、Aさんの幸福値はせいぜい60くらいにしかならないから、
 <Aさん60+Bさん1=合計61>となる。
 このように合計値が小さくなるから、こういう社会は、功利主義的にも「よくない社会」である。
 したがって、功利主義においても、不公平・不公正な社会は認められない

 なお、こうした功利主義者の反論をもってしても、功利主義の欠陥は依然存在すると考える人々もいる。
 この欠陥を是正しようと考え出されたのが、ロールズの正義論である(【概説・法哲学#010】で解説予定)。


〓〓〓 「功利」とは? 〓〓〓

功利効用(utility)とは、(物や制度<それ自体>の価値ではなく、)物や制度が人間にもたらす価値のこと。
ベンサムの快楽説で言えば、物や制度が人間にもたらす快楽のこと。

つまり、功利主義によれば、
漫画本という物の価値は、人間にどれだけの効用(快楽)を与えるかで測られ、
民主主義という制度の価値も、人間にどれだけの効用(快楽)を与えるかで測られる。
漫画本<それ自体>や、民主主義<それ自体>に価値があるとは考えない。

(細かい話は抜きに)もっと分かりやすく言うと…
たとえば、道に迷って困っている人を見つけたとき、声をかけて道順を教えてあげるのは、
通常の感覚からは<良いこと>のように思うかもしれないが、功利主義はそう考えない。

その理由は、こうだ。
功利主義は、「声をかけて道順を教えることで、困っている人がどれだけハッピーになるか?」で、
<良いこと>かどうかを判断する。
したがって、困っていた人が「道順が分かって、うれしー!!」と思うのであれば、
教えるという行為は、功利主義的に<良いこと>である。
しかし、もし道に迷っている人が極度の人間嫌いで、
「見知らぬ人から声をかけられるくらいなら、道が分からないほうがずーっとマシだ」という人だったとしたら、
教えるという行為は、<悪いこと>である、と功利主義は考えるのだ。

つまり、「教えてあげる」ということ自体に価値があると考えるのではなく、「教えてあげる」ことで効用(快楽=ハッピー)が増えるものだけに価値を見出すのが、功利主義なのである。

学校の道徳の授業なんかでは、
「道に迷っている人がいたら、教えてあげましょう。それはとても良いことです」
と習うかもしれないが、
功利主義は
「道に迷っている人に道を教えてあげて、もしもその人が喜ぶのなら、教えてあげるのは良いことだ」
と考えるのだ。


〓〓量的快楽・質的快楽〓〓

量的快楽説 byベンサム
快楽は、その強度や持続性などを指標にして量的に計測できる。

質的快楽説 byジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill, 1806-1873)
快楽には、質的な差がある。
肉体的快楽よりも、精神的快楽の方が質が高い。
───満足した豚であるより、不満足な人間であるほうが良い。
    満足した馬鹿であるより、不満足なソクラテスであるほうが良い。───

                           『功利主義論』〔1861年〕
ミル
ジョン・スチュアート・ミル


〓〓〓 現代功利主義の3要素 〓〓〓
現代では、功利主義を、帰結・厚生・総和の3要素から成り立つものと理解している。
古典的功利主義と比べると、「帰結」要素が追加されている。

(1)帰結主義
行為を評価する際、行為の帰結(結果)のみに着目。

 cf. 義務論
 帰結主義と対立する概念。
 (行為を評価する際、行為の帰結には着目せず)その行為が道徳的義務や法的義務に合致しているかに着目。

  ex. 遅刻
  ・帰結主義の場合(功利主義はこっち)
   遅刻の結果、相手に迷惑をかけた → 遅刻は悪いこと
   相手も遅刻したので、相手に迷惑をかけなかった → 遅刻は悪いことではない

  ・義務論の場合
   「時間(約束)を遵守する義務」に反しているので、遅刻は悪いこと
   相手に迷惑がかかろうと、かかるまいと、義務違反であるので、遅刻は悪いこと


(2)厚生主義(別名:幸福主義
個人の福利・厚生・幸福にのみ着目。

 ex.ある都市の生活レベルの調査
 平均所得、資産、余暇、公園の面積、水道普及率etc...に、厚生主義は着目しない。
 厚生主義が着目するのは、人々の福利・厚生(市民の生活満足度)
 所得や資産などは、それが人々の厚生に影響を与える限りでしか、意味をもたない。
 厚生だけが重要であり、他の要素は二次的、副次的。

 ★「個人の福利・厚生」とは?
 ・快楽説(快楽功利主義)=基数的(現在は少数説)
  快楽の強度・持続性が大きいほど、厚生の度合いが大きいと考える説。

 ・選好充足説(選好功利主義)=序数的(現在は多数説)
  2つの選択肢のうちの一方を望んでいるとき、その望みが叶っていることを厚生と考える説。
  つまり、選択肢の一方を選好していて、その選好が充足していることを厚生と捉える。

  快楽説と選好充足説はどう違うのか。
  快楽説は、あらゆる厚生の度合いを数値化できると考える。
  だから、厚生同士の足し算・引き算もできる、ということになる。
  選好充足説は、数値化するのは難しいが、どちらが望ましいかは判断できると考える。
  だから、複数の選択肢の間で、順位がつけられる、ということになる。

  選好充足説が多数説だが、選好充足をそのまま徹底すると問題がおきる。
  適応的選好の問題や、愚かな選好の問題 →後述(快楽説の問題点についても後述)


(3)総和主義
合計の大きさにのみ着目。
合計値が最大になる選択肢が、最善の選択肢となる。

 ex.国の豊かさをGDP(国内総生産)で測る
 生産額の総和のみに着目し、どのように分配されているか(分配されるべきか)には着目しない。

  ※ただし、後述の「功利主義の魅力best5」で述べるように、
   功利主義は限界効用逓減の法則から、平等である方が総和が大きくなると考える点に注意。
   功利主義は、平等<それ自体>に価値を認めているわけではないが、
   合計値を最大にするために、平等に価値を見出す。


以上をまとめると、現代功利主義とは、

 ある行為が≪結果≫として(帰結主義)
 人々の≪厚生≫に与える影響を集計し(厚生主義)
 それを≪最大化≫する行為が正しい(総和主義)と捉える考え方


と言える。


〓〓〓 功利主義の魅力best5 〓〓〓

(1)非-利己主義
功利主義は、利己主義を超える(功利主義は、利己主義と正反対の考え方である)

 利己主義…自己の幸福を最大化する

 功利主義…社会全体の幸福を最大化する

 ※多くの功利主義者は、「社会全体の幸福」を、
  「人間社会の幸福」に限らず、「動物の幸福(快苦)」まで含めて考える。
  その意味で、功利主義は、人間中心主義を超える。


(2)単純明快

功利主義は単純明快。
人間は、様々な現象を単純な一つの原理で表せることに美しさを感じる(ことがある)
例えば、ピケティ教授が提唱した r > g という単純な数式に美しさを感じるように。
例えば、アインシュタインが説いた、E = mc2 という単純な数式に美的訴求力があるように。

また、単純な原理のため、社会のあらゆる問題に明快な解答を与えることができるという魅力もある。


(3)自由
功利主義は、個人の自由を尊重する(反対に、功利主義は、全体主義を嫌う)

(功利主義の3要素のうちの)厚生主義が目指すのは、その人自身の観点からの幸福である。
道徳的観点や、常識的観点は考慮しない。
道徳的に問題があっても、非常識であっても、本人が幸福に感じれば、功利主義はそれを「善いこと」と見做す。

つまり、功利主義は、幸福の自己決定(自分にとって何が幸福かを、自分が決定すること)を肯定する。


(4)平等
功利主義は、平等を要求し、または、正当化する。

 (i)平等算入公準
  身分・階級・性などにかかわらず、全ての人の厚生が等しく算入される。
   ∴普通選挙や婦人参政権を正当化する

 (ii)限界効用逓減の法則
  モノやサービスから得る厚生の効果(効用)は、独占するよりも、
  多くの人で分け合った方が大きくなる。
   ∴所得再分配を正当化する
    ex.1杯目のビールの効用が「10」、2杯目は「7」、3杯目は「5」とする(1杯目が一番旨い)
      1人で3杯飲むと、効用の合計は10+7+5=22だが、
      3人で1杯ずつ飲むと、全員が1杯目の効用を得るので、効用の合計は10+10+10=30。


(5)反直観性
社会の中に差別的直観が蔓延しているとき、
直観に依拠しない功利主義は、直観とは独立した評価基準を提示することができる。
社会の現状を批判し、それを改善するための武器となる。

「功利主義者が主張することは、往々にして直観に反する(だから誤りだ)」というよくある批判は、
それだけでは批判になっていない。
 ∵この批判の前提には、「直観に合致するものが善く、合致しないものは悪い」という考えがある。
  この前提からすれば、功利主義は誤りである、と結論づけるのであるが、
  この論理構成は、いわゆる論点先取のびゅうであり、論証になっていない。
  「直観は正しい」ということを論証せずに、一方的に前提にしてしまっているのである。

このよくある批判を、意味のある批判にするためには、
「直観に合致するものが善い」といえる根拠、その前提を採らなければいけない理由を
説得的に提示しなければならない。




〜ここまでが功利主義の基本事項です。
 この先は、もっと詳しく功利主義について知りたい人向けです〜






〓〓〓 功利主義批判と、それに基づく修正案 〓〓〓

功利主義にはこれまで多くの批判が寄せられてきたが、
それを克服すべく功利主義は理論を修正し、深化させてきた。

 ex.快楽説の問題点を突かれた → 選好充足説を提唱し、理論を修正

以下では、帰結主義、厚生主義、総和主義それぞれに関する問題提起と、
それを克服すべく出された修正案を概説する。

なお、自由主義に様々なタイプがあるのと同様に、
功利主義にも論者によって様々なタイプが提唱されている。
以下でとりあげる各修正案は、
必ずしも功利主義者全員の一致した見解ではないということに注意されたい。


(1)帰結主義に関する問題

 (i)間接功利主義
  常に社会の幸福を考えて行動することを要求する功利主義者もいる(直接功利主義)

   ex.初期のゴドウィン(William Godwin, 1756-1836)『政治的正義』〔初版:1793年〕

  しかしそれは、現実にはかなり難しい。
  明日の朝、自分は何時何分何秒に起きれば、社会の幸福が最大になるか、
  無限にある献立の中から、朝食で何を摂れば、社会の幸福が最大になるか、
  無数にある服装のうち、どれを選べば、社会の幸福が最大になるか、
  などとひとつひとつ考えていたら、日が暮れてしまい、何も行動できない。
  それは「結果」からすると、不幸である(幸福度が減るという「帰結」をもたらす)

  功利主義は、帰結主義の一形態である。
  帰結主義とは、結果(帰結)を重視する考え方である。
  素晴らしい動機・目的で行ったことでも、結果が悪ければ、
  帰結主義からすると、その行為は「悪い」行為とされる。

   ex.患者の病気を治そうと手術を行った:行為の「動機」は良い
   手術がうまくいかず、死なせてしまった:行為の「結果」は悪い
    ⇒功利主義では、結果の善し悪しが重要なので、この手術行為は悪い行為であると判断される

  このように、帰結主義は、
  社会の幸福を最大化しようという「動機」や「目的」には、重きを置かない。
  むしろ、社会の幸福を最大化していないという「結果(帰結)を重視する。

  そこで、功利主義者の多数は、この帰結主義の観点から、
  行動の評価基準としてのみ功利主義を用い、
  行動の決定手続には功利主義を用いない方が良いと考える(間接功利主義)

  すなわち、ある行動が良いか悪いかの評価・判断をする際には、功利主義を用いるけれども、
  どの行為をしようか、と一人一人が決定する際には、功利主義を使うべきではないと考えるのだ。

  各人の行動からもたらされる結果が、功利主義の観点から望ましいものであるならば、
  (直接功利主義者のように)功利計算の結果としてその行動を選んだ、というわけではなく、
  誰かに命令されてやったことでも、
  ほとんど無意識のうちにやったことでも、
  よこしまな動機からやったことでも、構わない。
  むしろ、いちいち功利計算をすると、かえって悪い結果をもたらすから、すべきでないと考える。

  これが間接功利主義の立場である(多数説)
  こう考えることで、多数説は、「毎回、功利計算するのは非現実的だ」という批判をかわしている。



(2)厚生主義に関する問題

 (i)快楽説への批判 part1 消極的功利主義
  快楽説(快楽功利主義)は、
  <快楽がより多く、苦痛がより少ない状態が、より幸福な状態>、
  <「快楽の量−苦痛の量」が最大=最も良い状態>と考える。
  しかし、<快楽と苦痛は、同一直線上のプラスとマイナスである>と考えることは妥当ではない。
  人が何に快楽を感じるかは多種多様だが、人が何に苦痛を感じるかは相当程度共通している。
  それゆえ、快楽の量を増やすより苦痛の量を減らす方が、ずっと容易でありコストがかからない。
  したがって、苦痛の最小化を目指すべきである消極的功利主義、「最小不幸社会」)
  なお、消極的功利主義と対比するとき、快楽説を積極的功利主義と呼ぶことがある。

   ↓消極的功利主義を唱えたカール・ライムント・ポパー
   『開かれた社会とその敵 第1部』〔未來社、1980年〕
   ※英語版(閲覧無料)

 (ii)快楽説への批判 part2 選好充足説
  選好充足説(選好功利主義)は、快楽説を次の3つの点で批判する。

  [1]自他の効用比較は困難
  自分の効用(快楽)ならば、快楽を比較できるかもしれないが、
  自分と他者の快楽を比較するのは、難しい。

   ex.コンサートのチケットが1枚余っている。
   友人A、B、Cのうち、最も快楽を受ける人にあげようと思うが、どうやって調べるか。
   快楽の大きさを100点満点で自己申告してもらう、というのは上手くいかない。
   第一に、正しい数値を申告するとは限らない。
   第二に、全員正直者であったとしても、快楽のものさしが人によって違うので比べようがない。
   たとえば、快楽を感じやすく、快楽の最大値が大きい人の100点(本人にとっての100%)と、
   快楽を感じにくく、快楽の最大値が小さい人の100点(本人にとっての100%)では、
   前者の100点の方が快楽は大きいが、誰が快楽を感じやすいのかを正確に調べるのは難しい。

  [2]効用の数値化は困難
  そもそも、効用(快楽)を数値化することは難しい。

   ex.休みの日に、
   疲れをとるために家でゴロゴロするか、
   少しきついが早起きして海釣りに出かけるか、
   お金はかかるが、映画館で新作の映画を見たあと、贔屓の鰻屋で蒲焼きを食べるか、
   スキルアップのため、資格の勉強を進めるか、
   色々な選択肢の一つ一つにそれぞれ点数をつけることは簡単ではない。

  [3]人は必ずしも快楽を望むわけではない


 (iii)厚生主義自体への批判 事実判断と価値判断の混同
  <人間は、快楽を望んでいる>という事実判断がかりに正しいとしても、
  <快楽は望ましいものである>という価値判断を導くことはできない(快楽説を批判)
  同じく、<ある選択肢を選好している>という事実があったとしても、
  <その選好は望ましいものである>かどうかとは無関係である(選好充足説を批判)

  ↓この点でミルの快楽説を批判する岩崎武雄
  岩崎武雄『正しく考えるために』〔講談社現代新書、1972年〕93-97頁



(3)総和主義に関する問題



◆参考文献◆ ―さらに学びたい方へ―
瀧川裕英・宇佐美誠・大屋雄裕『法哲学』〔有斐閣、2014年〕3‐30頁


児玉聡『功利主義入門』〔ちくま新書、2012年〕

児玉聡『功利と直観―英米倫理思想史入門』〔勁草書房、2010年〕


安藤馨『統治と功利』〔勁草書房、2007年〕

法学協会編『註解日本国憲法』の成立経緯

もともとは、2013年6月21日3時52分の記事。
2016年6月2日に加筆修正。



戦後初期の概説書として有名な『註解日本国憲法』(有斐閣、上巻1948年、中巻1949年、下巻1950年、改訂版上巻1953年、改訂版下巻1954年)
「戦後初期の日本国憲法の解釈論に大きな影響を与えた本」(高橋和之・立憲主義と日本国憲法376頁)であり、
現在においてもなお、論文等で言及される古典的名著である。

この本は、17人の共同研究者によって書かれたものである(下記のとおり、錚々たる顔ぶれである)
その中には、憲法研究者は少数いるものの、
ほとんどはそれ以外の法分野を専門とする研究者なのである。
執筆者は全員、東京大学所属(五十音順)、太字は(当時またはのちの)東大教授
 石井照久 教授(商法の大家)
 石川吉右衛門 特別研究生(労働法の大家、のちの東大教授)
 伊藤正己 特別研究生(英米法の大家、のちの東大教授、最高裁判事)
 鵜飼信成 教授(憲法・行政法)
 雄川一郎 特別研究生(行政法、のちの東大教授)
 加藤一郎 特別研究生(民法、のちの東大総長)
 兼子一 教授(民訴の大家)
 木村剛輔 助手(のちの衆議院議員)
 鈴木竹雄 教授(商法、鈴木商店の一族)
 高田卓爾 助手(刑訴、のちの阪大教授)
 高柳信一 特別研究生(憲法・行政法、のちの東大教授)
 田中二郎 教授(行政法の大家、最高裁判事)
 団藤重光 教授(刑法の大家、最高裁判事)
 平野龍一 助手(刑法・刑訴、のちの東大総長)
 三ヶ月章 特別研究生(民訴、のちの東大教授)
 矢澤淳 特別研究生(詳細不明)
 綿貫芳源 助手(憲法・行政法、のちの東京教育大教授)


普通、憲法の教科書は、憲法学者によって書かれるので、
本書は、その異質さが際立っている。

なぜ、民事系や刑事系の研究者が、憲法の教科書を共同で書いているのだろうか。


最近、そのことについて触れている本を見つけた。
鈴木竹雄『幾山河 商法学者の思い出』(有斐閣、1993年)である。

幾山河―商法学者の思い出


この本によれば、

執筆の背景には、法学協会の財政的危機があり、
それを脱するべく鈴木竹雄が田中二郎に相談したところ、
田中が『註解日本国憲法』の執筆を提案したのだそうだ。

執筆にあたっての方針は、「不遜ないい方をすれば、いままでの憲法学は、何だか法律学らしくないから、われわれが民法とか商法とか行政法とかで鍛えた力で、憲法の解釈に当た」ること(同書136頁)。

執筆方法は、「割り当てられて分担したところを各人がばらばらに書いたものではなく、みんなが集まったところで報告して、田中二郎君たちみんなからこうではないか、ああではないかといわれてやったので、文字通りの共同研究」だった(同書138頁)。

ちなみに、鈴木竹雄の割り当て箇所は、居住移転の自由や財産権の保障などである(同書137頁)。

鈴木竹雄は、「後になって見れば、あの時分私は憲法について理解が十分でなく、政治的色彩が濃い憲法を民法や商法のような考え方で論理的に考えたのは間違っていたのではないか、ということを思わないわけではありませんが、当時は心底一生懸命になってやった」(同書137頁)と述懐している。


こういうことを知って改めて『註解』を読むと、また新しい発見があるかもしれない。
貴重な話を書き遺してくださった鈴木先生に感謝したい。


註解日本国憲法〈上巻〉 (1953年)
註解日本国憲法〈下巻〉 (1954年)


なお、大変うれしいことに、1948年の上巻は、
国立国会図書館の近代デジタルライブラリー内にデータ保管されていて、
ネットから自由に閲覧・保存・印刷ができる。

国会図書館のみなさんに感謝。

【まとめ】コンビニ再編の歴史

2015年8月15日改訂
〔10月1日微修正〕
 ファミマのココストア買収、ファミマとサークルKサンクスの合併を追加。
〔10月15日微修正〕
 ファミマとサークルKサンクスはファミマによる吸収合併となったため、表記変更。
 また、一言コメントを追加。
〔2016年4月13日微修正〕
 ローソンとスリーエフの資本・業務提携を追加。

コンビニ再編2016.4.txt


以下は2015年3月13日の記事。


――――――――――

にわかにコンビニ再編が加速してきたので、自分用にまとめをつくりました。

コンビニ再編.txt

大手6社の親会社・筆頭株主も末尾に掲載しました。


■■■掲載コンビニ一覧■■■
セブンイレブン
ローソン
ファミリーマート
サークルK
サンクス
ミニストップ
デイリーヤマザキ
セイコーマート
ココストア
ポプラ
スリーエフ

生活彩家
Kマート
チコマート
サンチェーン
ホットスパー
エブリワン
サンエブリー
ヤマザキデイリーストア
マイチャミー


まとめてみると、
売上高がずば抜けている孤軍奮闘のセブンイレブン、
中堅との提携を強化するローソン、
そして先般のファミマ=サークルKサンクス(ユニーグループ)の合併交渉と、
まさに天下三分の計のような状況になっています。


さらにファミマは、ローソン・ミニストップグループの一角、ココストアを飲み込もうとしています。
この合併交渉が成立すれば、ファミマはユニーグループも含め、一段と大きくなります。
そうなると、ローソンも提携企業との合併を真剣に考えていかなければならないかもしれません。

【日本】「にほん」と「にっぽん」【読み方】

「日本」という言葉は、「にほん」と読んだり、「にっぽん」と読んだりします。
その使用例をまとめてみました。

◆なお、「にほん」と「にっぽん」のどちらかが正しく、どちらかが間違っていると、
はっきり決まっているわけではないようです。
参考記事(NHK放送文化研究所「ことばの研究」)2004/4

◆政府見解(麻生政権時代)も、「どちらか一方に統一する必要はない」としています。
参考記事(2009年6月19日提出、同30日受領質問答弁)



例は適宜追加します。
面白い情報がありましたら、コメント欄などでお知らせください。

「にほん」 「にっぽん」 どちらもある
(1)地理日本橋(東京都中央区)
日本海
日本海溝
日本三景
日本アルプス
日本堤
日本平
日本橋(大阪市)






(2)歴史日本書紀(日本最古の勅選歴史書)
日本霊異記(日本最古の説話集)
日本史
日本永代蔵(井原西鶴著)


(3)飲食 日本料理
日本酒
日本茶
(4)動物 ニホンザル
ニホンリス
ニホンザリガニ
ニホンウナギ
ニホンジカ
ニホンカモシカ
ニホンオオカミ
ニホンカワウソ
Nipponia nippon(トキ)
ニッポンマイマイ
ニッポンバラタナゴ





(5)植物 ニホンタンポポ
ニホンズイセン
ニホンムラサキ
ニホンアカネ
(6)唱歌 日の丸の旗
 ♪ああ美しい 日本の旗は
(7)大学日本大学
日本女子大学

※ただし、略して「ぽんじょ」とも呼ばれる

日本医科大学
日本女子体育大学
日本体育大学

1981年から「にっぽん」と読むように




(8)企業日本航空(JAL)
日本生命(NISSAY)
日本経済新聞(日経)
東日本旅客鉄道(JR東日本)
西日本旅客鉄道(JR西日本)
日本銀行(日銀)
日本ハム
日本テレビ(日テレ)
日本電気(NEC)
西日本鉄道(西鉄)
(9)TV番組 ここがヘンだよ日本人
世界の村で発見!こんなところに日本人
爆笑問題のニッポンの教養

(10)政党日本民主党(保守系、1954-1955)
日本共産党(革新系、1922-)
(11)その他 ニホニウム(原子番号113)
日本画
日本車
日本赤十字社
日本棋院
ニッポニウム(幻の元素)
ニッポン、チャチャチャ
日本武道館


日本晴れ
日本刀
日本語
日本一
日本人

参考記事(「日本」の読み方閣議決定 「にっぽん」でも「にほん」でもいい)2009/7/5

参考記事(ニホンVSニッポン 「日本」の読み方、どっちが優勢?)2012/1/4

参考記事(ニホンvsニッポン? 力強さで「ニッポン」派増加)2016/6/17

法律書近刊・新刊リンク

※増やしてほしいリンク先がありましたら、コメント欄にお書きください。

有斐閣・近刊 新刊

日本評論社・近刊 新刊

信山社・近刊&新刊

成文堂・近刊 新刊 (改訂&重版)

弘文堂・近刊 新刊

青林書院・近刊 新刊 (改訂&重版)

法律文化社・近刊 新刊

悠々社・新刊 ※2017.6.30廃業

北樹出版・法律新刊

敬文堂・新刊

東京大学出版会・法律

創文社・最近刊 近刊 新刊

三省堂・近刊 新刊

新世社・社会科学系近刊 同新刊

尚学社・新刊

慈学社・近刊&新刊(刊行順リスト)

有信堂高文社・新刊&近刊

岩波書店(今月の新刊)

商事法務・近刊 新刊

外郭堤防に関する文献

難波匡甫「東京下町低地の高潮対策に関する歴史的考察」法政大学大学院デザイン工学科紀要第3号(2014年3月)

望月崇・島正之・篠田裕「隅田川における防潮堤の建設史」土木史研究第18号(1998年5月)545頁以下