【本所 旧水路名鑑】五間堀(ごけんぼり)

投稿日時 2018.01.21 16:07
最終更新 2023.05.07

水路の名称五間堀(ごけんぼり)
誤記の実例堀、五間
別名・俗称五間堀川

※上流の北西部分を「北五間堀川」、下流の南東部分を「五間堀川」と呼び分けるケースもある。

瓢簞堀(『東京府志料 1』)
川堀(『帝都復興區劃整理誌 第三編 各説 第四巻』)

※明治期に延長した南東部のことを指していたという。(『江東区の文化財1 深川北部』)
ただ、南東部に該当しない伊予橋(現・新大橋通り)付近を川堀と記している新聞記事もあり、断定はできない(東京朝日新聞1931(昭和6)年11月13日朝刊11面に「伊豫橋上から過って川堀に墜落」とある)。
 →南東部開削について
1936(昭和11)年3月16日亥河第8393號付属の深川區五間堀川堀住民一同による「陳情書」では、五間堀と川堀を併記しており、北西部と南東部で呼び分けていたことを窺わせる。
徳川堀の名は、五間堀南東部の開削を主導した尾張徳川家に由来していると思われる。この点に関する直接的な証拠はないが、「徳川堀」の名が登場する史料が、五間堀南東部の開削時期より後のものばかりであることが、間接的にそれを裏付ける。

他方、田安徳川家が堀の近くにあったことから、徳川堀と呼ばれたのだろうとみる説もある。(『小名木川物語』)
しかし、[図1]からも分かるように、五間堀と田安徳川家は隣接していたわけではなく、徳川堀の名の由来を田安徳川家に求めるのは、やや不自然にも思える。

[図1]五間堀と田安徳川家の位置関係(国立国会図書館提供

弥勒寺橋ノ堀(『東京府志料 3』)
彌勒寺川(『十一時五十八分 懸賞震災實話集』)
伊豫川(『悲凄慘絶 大震大火遭難哀話』)
五間川(『本所區史』、『東京案内 上巻』、『東京案内 下巻』、『第四回東京市統計年表』、『本所の過去及び現在』、『水上生活者の生活現状』)

※「五間川は、五間堀の別名である」とはっきり述べる文献を見たことがなく、もしかすると単なる誤記で、「五間堀」とすべきところを「五間川」にしてしまっただけなのかもしれない。しかしながら、(1)「堀」という字を筆で書いたり、その活字を組んだり、あるいはタイプしたりする際に、うっかり誤って「掘」としてしまうことはあっても、「川」になることはそうそうないと考えられること(「五間堀川」とすべきところが脱字で「五間川」になるという方がまだあり得そうだが、それにしてもそう頻繁に起こることではないだろう)、(2)それにもかかわらず「五間川」と表記する史料がいくつもあること、(3)付近を流れる竪川や横川には「竪堀」「横堀」という別名があり、「川」と「堀」は置換可能な場合があること(『増補 東京市下水道沿革誌』も参照)、(4)周辺には十間川(横十間川)や二十間川(仙台堀川)などがあり、「〇〇間川」という呼称が珍しいものではないことから、「五間川」という別名が存在していた可能性は十分あると思われる。以上から、現時点では「別名・俗称」の欄に入れている。

水路の位置墨田区千歳3-1(北西端)

〜江東区森下3-13(南東端)


[写真a]1936(昭和11)年6月11日の五間堀(国土地理院提供の航空写真を編集)
本所両国 痕跡地図も参照

同名別水路五間堀川(宮城県岩沼市、同県名取市、同県柴田郡柴田町)

阿武隈川水系に属する現役の一級河川。
長さ20,671m、流域面積91.1㎢。(「五間堀川圏域河川整備計画」)

水路の長さ約1,100m

『東京案内 上巻』には、591.7間 = 約1,076mとある。
「東京市の水利と改善に對する私見(其二)」には、580間 = 約1,055mとある。

水路の深さ明治初年:2尺余り〜9尺 = 60cm余り〜約273cm(『東京府誌 10』)
明治後半:1尺〜1尺5寸 = 約30〜45cm(『東京案内 上巻』)
大正中期:1尺 = 約30cm(「東京市の水利と改善に對する私見(其二)」)
昭和初年:約1尺2寸 = 約36cm(『帝都復興區劃整理誌 第三編 各説 第四巻』)

※深さはA.P.(霊岸島量水標零位)を基準にした値。

水路の幅員明治初年:5〜8間 = 約9.1〜14.5m(『東京府誌 10』)
明治後半:5.4間 = 約9.8m(『東京案内 上巻』)
大正中期:4.8〜11間 = 約8.7〜20.0m、平均6.8間 = 約12.4m(「東京市の水利と改善に對する私見(其二)」)
昭和初年:5〜6間 = 約9.1〜10.9m(『帝都復興區劃整理誌 第三編 各説 第四巻』)
第1次埋立て後:平均17m(『江東地区恒久高潮対策事業計画書』)
名称の由来5間ほどの幅だったため(『東京府志料 1』)

※ただし、下流部を中心に、場所によって水路の幅はかなり異なる。

水路成立年万治年間(1658〜60年)、またはそれ以前(『江東区の文化財 史跡』)

明暦の大火(1657年)の後に行われた本所開拓の際に誕生したという説(万治年間説)と、それ以前から存在していたという説(慶長年間説)が存在する。

万治年間説を採るものとしては、『町方書上』の「本所起立記」の項、「本所林町壱町目横町」の項がある。ただし、「深川森下町」の項では、「堀割年代年旧儀ニ而相知れ不申候」とあり、「深川三間町」の項では、「堀割年代年旧儀ニ而書留無御座相分り不申候」とある。

また、両者を折衷して、深川村が成立した慶長年間に細い水路を開削し、本所開拓のときに五間になったという説もある。(『江東区史跡散歩』)
いずれにしても、一次史料に基づくものではないため、推測の域を出ない。

1671(寛文11)年発行の新板江戸外絵図には、五間堀と思しき水路が記されていることから、遅くともその頃には、誕生していたと考えられる。(『江東区の文化財 史跡』)

[図2]新板江戸外絵図に記された五間堀(国立国会図書館提供

支流・分流東森下町入堀(現・五間堀公園付近)、瓢箪堀、東元町入堀(現・高森公園付近)

※瓢箪堀は1913(大正2)年頃に埋立てられた。(「東京市の水利と改善に對する私見(其二)」)

接続した川上流部:六間堀
下流部:1876(明治9)年頃までは堀留(行き止まり)だったため、接続河川無し
    堀留解消後は、小名木川と接続(『文化財と旧跡』) →南東部開削について
橋梁の名称(西から)新山城橋(のち、大塚橋)、弥勒寺橋、大久保橋、伊予橋、ひがしもと橋、入舟橋

※東元橋の読み方は『東京方眼圖』、『第四回東京市統計年表』による。ただし「とうげん」(「大日本改正東京全圖」)と読まれた可能性もある。

水路の形状六間堀以上に折れ曲がっていた。
残念ながら、このような流路になった理由は明らかでない。
六間堀の東に散在していた細い川や沼・池などをなぞるようにして五間堀を開削した(ので、このような流路になっている)のではないか、という推測もある(久染健夫「本所弥勒寺」)が、これを裏付ける根拠は未発見である。

川沿いに多くの蔵を建てるために、川筋を屈曲させて長くしたのだろうか(例:深川佐賀町「中之堀」のクランク状流路)。
しかし、かりにそうだとしても、屈曲の謎とは別に、なぜ周囲の街路に対して斜めに流れているのかという謎もある(この点、中之堀は、街路に沿うように流れている)。
万治年間の本所開拓時に造成されたといわれる河川の多くは、碁盤の目状の街路に沿うように掘られている(例:竪川、大横川、横十間川、南割下水、北割下水)。五間堀が万治年間に開削されたのだとすると、あえて例外的に流路を斜めにする何らかの動機があったとみるのが自然であろう。それは何か。謎である(一説には、地質に関係があるとも)。
あるいは、万治年間より前から五間堀は存在していて、五間堀を開削した当時には、周辺一帯に広く整然とした街路を造るという構想が、まだなかったということなのかもしれない。本所開拓であとから街路が整備されたのだとすれば、川筋と街路の方向がズレていても、それほど不思議なことではない。

往時の様子◆何に使われた?
灌漑・水運に利用された(『江東区の歴史』)という。

しかし、五間堀は海に近く、その水にはかなり高濃度の塩分が含まれていたと考えられる。はたして、そのような水を灌漑に用いるだろうか。
【参考】小澁晴信ほか「都市河川感潮域における塩水の遡上特性に関する現地観測」(2008年)


小名木川の水運の補助的機能を担い、船舶の繋留や修理をする場所として使われていたのではないかとする見解もある。(「江東の川・掘割 小名木川と五間堀・六間堀」)

下の[図3]は、江戸時代後期に描かれたものである。これを見ると、何艘もの船が五間堀を行き交っており、水運の利用が活発であったことを示唆している。右端には弥勒寺橋も見える。

[図3]「本所弥勒寺」(『江戸名所図会』所収、国立国会図書館提供

◆堀周辺の様子は?
1907(明治40)年10月に発行された雑誌に次のような記述がある。
往来(註1)は電車(註2)を通ずる為めに近く道幅が広げられて溝(註3)はまだ旧位置に遺つて居る。溝に沿うて夜店を出し始めた金物屋が「まだ昼は暑いね」と同業者に話して居る。弥勒寺橋の袂に売卜の老人が「貴君はなやみが多い、なやみは多いがまことの道を行けばよい、と斯う云ふ理合です」と鹿爪らしく喋舌つて居る。占を乞ふ男は腰までの衣服きものに脚絆を穿いた麦藁帽子の若者である。
夕暮方の水は高い川に幾艘の肥舟が繋がれて居る。雀はとまの中へ入つて肥桶のほとりをあちこちして居る。もやひ棹二つの間に船頭の股引がぶら下つて居る
対岸には低い家が並んで其一つの窓に裸体はだかの男が腰掛けて居る。穴蔵屋と云ふ古木ふるき屋の仕事場も見える。軒に風鈴が幽かに鳴つて、ふんどしが棹にゆらめく。
河岸に強硫酸のかめの積まれた車がある。向ふに小さく小供等が集つて「ばい(註4)」の遊びをして居ると其周囲に大人も立つて見て居る。此方こなた砂利置場の砂利函に入つて二三の女の子が騒いで居たが、やがて一人が泣き始める。
(中略)
川岸へ古縄を掲げて居る男が曰ふ「これでまだ日は暮れない」「まだ日は暮れるもんか」と他の一人が答へる。
子供が河岸で何かしやくつて居る。工場の笛がなる。向ふの煙突がそれか
河辺の路は木賃宿の群に尽きる(註5)。車夫船頭などの宿であらう。奥を覗けば裸体で幾人ごろごろして居る。車夫が車をなほして居る。一人は車を曳きながら椽台に休む老人に向つて「今日出るなら貸さうか」と曰ふ。うしろの方で「衣服きものをありがたう」と曰つて居るのもある。納豆売の甲斐々々しいのが荷を肩にして通つた。

(註1)二ツ目通り(二之橋通り)のこと。現在の清澄通り。

(註2)市電(高橋線)。高橋線の開通は、1908(明治41)年6月であり、この時点では未開通。

(註3)前掲の『江戸名所図会』所収「本所弥勒寺」にも描かれている、弥勒寺門前の水路と考えられる。

(註4)ベーゴマ(バイゴマ)。

(註5)「河辺の路」とは、五間堀とドヤ街に挟まれた道(深川区深川富川町31(現・江東区森下3-6, 7, 8)地先)のことか。後掲[図4]参照。


柏亭(石井柏亭)「弥勒寺」方寸1巻5号(1907年)6頁より引用
註および下線は引用者
河辺の路?
[図4]明治末〜大正期の五間堀と「河辺の路」?(特別区協議会HP掲載の図を編集)

この文章からは、
仝浚嵋戮鵬佑っていた弥勒寺橋(現・清澄通り)の袂に老人の占い師がいたこと
肥船が何艘も繋留されていたこと
K抉茲い膨秡慍伐阿連なっていたこと
じ徒擴亜蔽羝鼎量攤爐魄靴ε后砲あったこと
ジ浚嵋戮撚蹴慳品を運んでいたらしいこと
λ戮運搬に便利だったためか砂利置き場があったこと
Р牢澆子どもたちの遊び場になっていたこと
╋瓩に煙突のある工場があったこと
堀のそばにドヤ街が形成されていたこと
などが読み取れる。
また、「まだ昼は暑い」「夕暮方の水は高い」「これでまだ日は暮れない」といった記述から、石井柏亭が五間堀沿いを歩いたのは1907(明治40)年9月上旬ではないかと推測する。

◆五間堀南東部は?
江戸時代を通じて、南東部は堀留になっていた。
南東部を小名木川と繋げる五間堀延伸工事は、1875(明治8)年7月26日以降に始まったと考えられる。(『史跡ガイド1969』参照)
付近の地主だった尾張徳川家(徳川よしのり、徳川慶勝)及び加藤嘉庸が私費で工事を実施し、1876(明治9)年頃(遅くとも1877(明治10)年3月までに)小名木川と接続した。(『東京市史稿 市街篇 第六十』)
※延伸工事を裏付ける史料 →明治十年 既決簿 市街地理第六号

この工事によって、既存水路と新規水路が鋭角に接続された。しかし、申請段階では、既存の流路を変更することによって、鋭角に接続することを避ける計画になっていた。いつ、どうしてこの計画が変更されたのか。金銭的・技術的な制約が発生したのか、工期を短縮する必要が生じたのか、水路の利用目的や利用方法が変わったのか。この点については今後明らかにしていきたい。


◆水質はどうだった?
永井荷風は、1932(昭和7)年4月11日に、六間堀と五間堀を散策し、五間堀下流の様子を「市内の掘割にて最不潔なるはこの処なるべし」と述べている(『断腸亭日乗 3』。1934(昭和9)年執筆の「深川の散歩」も参照)。
水運としての役割が低下し(『江東区の歴史』)、生活排水や工場排水が流されるようになったのではなかろうか。
これを裏付ける資料として、1934(昭和9)年に提出された、五間堀の埋立てを求める住民による陳情書がある。これによると、当時の五間堀は糞尿運搬以外にほとんど全く利用されておらず、堀の内部はゴミや汚物で満たされ、夏の炎天下のときには臭いがきつかったらしい。また、夕方から夜にかけては蚊の大群に四苦八苦し、しまいには転居すると言い出す者もいるから早急に埋立ててほしい、といったことも書かれている。(1936(昭和11)年3月16日亥河第8393號付属の深川區五間堀川堀住民一同による「陳情書」)
貨物取扱量1921(大正10)年:35,619t(『帝都復興事業誌 土木篇 下巻』)
埋立て実施 第1次埋立て 1936(昭和11)年5月16日〜1937(昭和12)年12月30日

1936(昭和11)年3月19日、宅地・道路・物揚場等を造成するため、東京市が河川敷9,936.9屬遼篶免許を取得した。(1936(昭和11)年3月24日東京府告示189号)
工事は直ちに開始されたとするものもあるが(『江東區史 全』)、当時の行政文書によれば、工事着手は同年5月16日である。(同年5月22日土發第4838號)
永井荷風の日記には、1936(昭和11)年12月25日時点で「伊予橋下…埋立中」と書かれており、工事が進行している様子が分かる。(『断腸亭日乗 4』)
この工事は、1937(昭和12)年12月30日まで行われ(1938(昭和13)年6月13日土發第4838號。前述の1936(昭和11)年5月22日土發第4838號と号数が同じなのは偶然)、明治になってから開削した南部を除き、全て埋め立てられた。
※五間堀について記述した二次史料の多くは、「1936(昭和11)年に埋立てられた」などのように、あたかも埋立て許可が出た年に埋立て工事が完了したかのような記述になっている。このような誤解を招く表現をしないよう、書き手は免許取得日・工事開始日・工事完了日・竣功認可日の違いを意識化すべきである。読み手としても、誤った認識をもたないよう、この点には特に注意して読む必要がある。

[写真b]1945年4月2日の五間堀南部(米国国立公文書館の航空写真を編集)

[写真c]1948年3月29日の五間堀南部(国土地理院提供の航空写真を編集)


第2次埋立て 1955〜56(昭和30〜31)年、または1956(昭和31)年

1955(昭和30)年12月22日、東京都に対し、翌年3月31日までの期限で埋立て免許が与えられた(1956(昭和31)年1月5日東京都告示第7号)。免許が出たのは年の瀬であることから、本格的な工事が始まったのは、1956(昭和31)年になってからである可能性が高い。
「道路間、護岸間、宅地及び緑地を造成する」ことを目的とした埋立てであった。(同告示)
このときは、残っていた五間堀南部のうち、上流部分が埋立てられた。

[写真d]1956(昭和31)年3月13日の五間堀南部(国土地理院提供の航空写真を編集)

現在、その跡地にあるのは、都営高橋アパート(1957(昭和32)年着工、1958(昭和33)年11月7日竣工、前述の告示の「宅地」に該当)と、森下三丁目第三児童遊園(1975(昭和50)年4月1日開園、222.52屐∩綾劼旅霄┐痢嵶价蓮廚乏催)。
[写真e]の青で囲ったところが高橋アパートである。このアパートの裏手(西側)には、今も五間堀の護岸が残されている。 →写真

[写真e]1975(昭和50)年1月20日の五間堀南部(国土地理院提供の航空写真を編集)


[写真f]北東方向から見た都営高橋アパート(2017(平成29)年撮影)

五間堀南部の下流部分(最南部)は、なおも埋め残されて、そばにあった製材所の貯木場等として利用されていたようである([写真e]の赤で囲ったところが五間堀最南部。水面上や、その左手に木材らしき影も見える)。


第3次埋立て 1979(昭和54)年8月3日以降〜10月15日

最後まで残っていた五間堀最南部も、ついに消え去る時がくる。
1979年3月に小名木川との接続部分が閉鎖され(『東京都河川図』)、その年のうちに埋め立てられた。公園敷地(及び護岸敷地)にするためだった。(1979(昭和54)年1月26日東京都告示第99号、同年8月16日東京都告示第912号、1980(昭和55)年4月30日東京都告示第490号)
[写真g]は第3次埋立てが完了した直後の様子である(赤で囲ったところが五間堀最南部)。
現在、この最南部の跡地には高森公園があり(1982(昭和57)年10月6日開園、約3,700屐法∨摸戮凌慌嫉庵目第三児童遊園とともに一体的に整備されている。
つまり、現在の五間堀南部は、北から、高橋アパート → 高橋夜店通り(高橋のらくろ〜ド)の一部 → 森下三丁目第三児童遊園 → 高森公園の一部になっている。

[写真g]1979(昭和54)年11月6日の五間堀南部(国土地理院提供の航空写真を編集)


[写真h]森下三丁目第三児童遊園から南の高森公園を望む(2018(平成30)年撮影)

なお、一部の文献等(たとえば『江東区史 下巻』、「江東の川・掘割 小名木川と五間堀・六間堀」、『図説 江戸・東京の川と水辺の事典』、『川の地図辞典 江戸・東京/23区編〔三訂版〕』)では、出典等の根拠を何も示さないまま、第2次世界大戦後に六間堀とともに戦災瓦礫などで埋立てが実施されたと述べているが、そのような事実は確認できない。
また、『角川日本地名大辞典13 東京都』の五間堀の項にも、「六間堀とともに第2次世界大戦後の埋立で消滅」とある。戦災瓦礫について直接言及していないものの、それを匂わせる書き方になっている。しかし、こちらも根拠は示されていない。
さらに、1952(昭和27)年時点で墨田区の助役が、下町の戦災灰燼は大体片付いたので、曳舟川(墨田区内を流れた河川の一つ)を戦災灰燼を用いて埋め立てることは考えられないと発言している。(1952(昭和27)年12月22日墨田区議会建設委員会における梶原勝衛助役の答弁)
この答弁から3年も経って実施された五間堀の第2次埋立てに戦災灰燼を用いたと考えるのは困難である。

名残・遺構五間堀公園(江東区森下2-30-7)

弥勒寺橋跡と大久保橋跡の間に造られた細長い公園(862.71屐法3園したのは、真珠湾攻撃のちょうど2か月後の1942(昭和17)年2月8日。1950(昭和25)年9月末までは都立公園だったが、同年10月1日に江東区に移管された。(『江東区年表』、『江東区史 下巻』)
この公園の中に墨田区と江東区の境界が通っている。公園の半分以上は墨田区内にあるが、管理は江東区が行っている。 →六間堀児童遊園の項に関連内容

[写真i]五間堀公園(2017(平成29)年撮影)


伊予橋際公衆便所(江東区森下2-31-2)

現在の新大橋通りが五間堀とぶつかるところに架かっていたのが伊予橋。そのたもとあたりに年季の入った公衆トイレがある。正式名称は「江東区立伊予橋際公衆便所」(江東区立公衆便所条例昭和28年6月29日条例第8号別表参照)。すでに橋は存在しないが、橋の名はトイレの名称として保存されている。
[写真j]は、かつての伊予橋や五間堀周辺の様子が描かれた、トイレの目隠し。江東区の公衆トイレには、その地にゆかりのある事物の絵や解説のある楽しいものが多い。ただし、トイレをパシャパシャ撮っていると、変な目で見られることがあるかもしれないので、注意が必要。

[写真j]伊予橋際公衆便所の目隠し(2017(平成29)年撮影)


五間堀南部の護岸群(江東区森下3-10-20、同3-13-9)

高橋アパートと、高森公園には五間堀の護岸が残っている。
土留めとしての利用価値を見出され、今日まで生き残ったのだろう。
高橋アパートの護岸は、歩道から少し距離があるものの、[写真k]のような姿を見ることができる。

[写真k]高橋アパートの裏手にある五間堀南部西側護岸(2017(平成29)年撮影)

高森公園の南西際には、わずか数mだけだが、五間堀最南部の護岸が残っている。
[写真l]の正面奥、灌木が生えているあたりから左手(東)が、ありし日の水面。
この護岸は、写真の先で右手(西)に曲がっていて、小名木川の旧北側護岸と現在もつながっている。河川接続部の遺構が残っているのは、旧水路ファンとしては嬉しい限り。

[写真l]高森公園にある五間堀最南部西側護岸(2017(平成29)年撮影)

高森公園の南東際にも、五間堀・小名木川接続部分の護岸らしきものが、わずかに顔を出している([写真m]の矢印)。写真は南を向いて五間堀最南部の東側を撮ったもの。白いコンクリートの右側が、かつて五間堀の水面があったであろう部分。この写真の左手には小名木川の旧北側護岸が続いている。

[写真m]高森公園にある五間堀最南部東側(2018(平成30)年撮影)

小説の舞台 ◆芥川龍之介「奇怪な再会」○ 芥川龍之介全集 第7巻所収 ※青空文庫

作品のクライマックスで、弥勒寺橋が、「亡くなった者と生きている者を結び付ける、生と死の境界のような橋」(神田由美子氏の講演録より。『芥川龍之介―こころのふるさとは本所両国―』所収)として登場する。


◆池波正太郎 鬼平犯科帳シリーズ

弥勒寺門前の茶店「笹や」(お熊婆さん)が登場する話には、近くの五間堀もよく出てくる。
第6巻 第6話「盗賊人相書」⭗
第7巻 第6話「寒月六間堀」⭗
第8巻 第1話「用心棒」○
第9巻 第1話「雨引の文五郎」○
第10巻 第2話「蛙の長助」⭗
第10巻 第7話「お熊と茂平」⭗
第20巻 第7話「寺尾の治兵衛」⭗


◆藤沢周平 獄医立花登手控えシリーズ

第4巻『人間の檻』第4話「影の男」⭗
第4巻『人間の檻』第6話「別れゆく季節」○


◆藤沢周平 彫師伊之助捕物覚えシリーズ

主人公 伊之助の職場が五間堀近くにあるため、よく描写される。
第1巻『消えた女』第1話「かんざし」⭗
第1巻『消えた女』第2話「やくざ者」⭗
第1巻『消えた女』第4話「離れの客」○
第1巻『消えた女』第7話「闇に跳ぶ」⭗
第1巻『消えた女』第9話「春のひかり」⭗
第2巻『漆黒の霧の中で』第1章○
第2巻『漆黒の霧の中で』第2章⭗
第2巻『漆黒の霧の中で』第3章⭗
第2巻『漆黒の霧の中で』第4章⭗
第3巻『ささやく河』第2話「古いつながり」○
第3巻『ささやく河』第3話「彦三郎の笑い」○
第3巻『ささやく河』第5話「霧の中」○
第3巻『ささやく河』第6話「ひとすじの光」⭗
第3巻『ささやく河』第8話「再び闇の匕首」○
第3巻『ささやく河』第10話「ひとの行方」⭗
第3巻『ささやく河』第11話「浮かんだ顔」⭗
第3巻『ささやく河』第12話「人間の闇」⭗
第3巻『ささやく河』第14話「三人目の夜」⭗


◆藤沢周平「夜の橋」⭗  同『夜の橋』所収

作中では、六間堀も含めて「五間堀」と書かれている。


◆笹沢左保 音なし源捕物帳シリーズ

第1巻『花嫁狂乱』第7話「花嫁狂乱」⭗


※記号の意味

⭗ 話の本筋の中で水路名が出てくる
○ 水路名は出てこないが、間接的に描写されている(例:橋梁名が登場)
△ 本筋以外で水路名がちらっと登場、水路名を含む町名が登場(例:六間堀町)

参考文献等 ◆江戸幕府・東京府・東京市・東京都

『町方書上 七』(江戸東京博物館友の会、2013年)356, 357頁
『町方書上 八』(江戸東京博物館友の会、2014年)1, 113頁
東京都編『東京市史稿 市街篇 第六十』(東京都、1969年)394-398頁
『東京府誌 10』(文化図書、2009年)181, 220, 224, 244, 249, 254頁
東京都『東京府志料 1』(東京都、1959年)56頁
東京都『東京府志料 3』(東京都、1960年)134頁, 139頁
東京市編『東京案内 上巻』(裳華房、1907年)43頁50頁
東京市編『東京案内 下巻』(裳華房、1907年)624頁713頁
東京市役所編『第四回東京市統計年表』(隆文館、1907年)605頁606頁
東京市下水改良事務所総務課『増補 東京市下水道沿革誌』(東京市下水改良事務所総務課、1914年)32頁 口語訳版(東京都下水道サービス、2012年)20頁
復興事務局『帝都復興事業誌 土木篇 下巻』(復興事務局、1931年)5頁
東京市役所『帝都復興區劃整理誌 第三編 各説第四巻』(東京市役所、1932年)516頁
東京府学務部社会課『水上生活者の生活現状』(東京府学務部社会課、1933年)冒頭の地図
東京都『江東地区恒久高潮対策事業計画書』(東京都、1955年)3頁
東京水上警察署『東京都河川図』(東京水上警察署、1979年)64頁


◆墨田区

東京市本所區編『本所區史』(東京市本所區、1931年)400頁
墨田区役所編『墨田区史 前史』(墨田区役所、1978年)322頁
墨田区教育委員会事務局生涯学習課文化財担当編『芥川龍之介―こころのふるさとは本所両国―』(墨田区教育委員会事務局生涯学習課文化財担当、2013年)84頁


◆江東区

東京都江東区役所『江東區史 全』(東京都江東区役所、1957年)1292-1293頁
東京都江東区役所編『江東区年表』(東京都江東区役所、1969年)245, 274頁
江東区編『江東区史 下巻』(江東区、1997年)40, 62頁
『江東区の歴史』(江東区教育委員会社会教育課、1976年)25頁
東京都江東区『史跡ガイド1969』(江東区役所企画室、1969年)122-123頁
江東区教育委員会『文化財と旧跡』(江東区教育委員会社会教育課、1978年)20頁
東京都江東区教育委員会社会教育課編『江東区の文化財 史跡』(東京都江東区教育委員会社会教育課、1988年)35頁
江東区地域振興部文化観光課文化財係編『江東区の文化財1 深川北部』(江東区地域振興部文化観光課文化財係、2012年)23頁
江東区深川江戸資料館「江東の川・掘割 小名木川と五間堀・六間堀」資料館ノート69号(2007年)


◆その他

「大日本改正東京全圖」(『明治初期東京地籍圖集成』(科学書院、2002年)所収)
森林太郎立案『東京方眼圖』(春陽堂、1909年)129頁
長崎敏音「東京市の水利と改善に對する私見(其二)」工學會誌417巻(1918年5月)250頁280頁
震災共同基金會編『十一時五十八分 懸賞震災實話集』(東京朝日新聞社、1930年)1-2頁
古麪i曲圈愴畧慘絶 大震大火遭難哀話』(二松堂書店、1923年)102頁
小山荻村ほか『本所の過去及び現在』(本所の過去及び現在社、1926年)83頁
永井壯吉『断腸亭日乗 3』(岩波書店、1980年)113-114頁
永井壯吉『荷風全集 第22巻』(岩波書店、1993年)502-503頁も同じ)
永井壯吉『断腸亭日乗 4』(岩波書店、1980年)120頁
永井壯吉『荷風全集 第23巻』(岩波書店、1993年)490頁も同じ)
永井荷風「深川の散歩」野口冨士男編『荷風随筆集 (上)』(岩波文庫、1986年)199-200頁
永井壯吉『荷風全集 第17巻』(岩波書店、1994年)294頁もほぼ同じ) ※青空文庫
細田隆善『江東区史跡散歩』(学生社、1992年)131頁
高梨輝憲『小名木川物語』(高梨輝憲、1987年)55頁
廣瀬航也「雑誌『方寸』における都市の表象 ――「河岸の巻」を中心に――」日本文芸論稿44号(2021年)16頁以下
鈴木理生編『図説 江戸・東京の川と水辺の事典』(柏書房、2003年)393頁
菅原健二『川の地図辞典 江戸・東京/23区編〔三訂版〕』(之潮、2012年)128-129頁
久染健夫「本所弥勒寺」タウン誌深川273号(2023年9-10月号)43頁
宮城県「五間堀川圏域河川整備計画」(2014年)1頁

関連文献等 ◆散策

吉村生「不思議な引力を持つ暗渠」東京人394号(2018年)50-51頁 →筆者のブログ記事
旧水路ラボ「六間堀は本所・深川の『姫』である」東京人430号(2020年)60-62頁
「すみだの大名屋敷 探訪」みらい259号(2016年)1頁
黒田涼『江戸東京狭隘路地探索 おれの細道』(アートダイジェスト、2015年)157-159頁
モリナガ・ヨウ「江戸東京今昔めぐり 小名木川」本郷144号(2019年)20-21頁


◆散策(小説)

野口冨士男『野口冨士男自選小説全集 上巻』(河出書房新社、1991年)416-417頁


◆その他

「角川日本地名大辞典」編纂委員会編『角川日本地名大辞典13 東京都』(角川書店、1978年)288頁
磯辺勝『文学に描かれた「橋」』(平凡社新書、2019年)75-77頁

【本所 旧水路名鑑】六間堀(ろっけんぼり)

投稿日時 2017.12.23 01:22
最終更新 2021.03.18

水路の名称六間堀(ろっけんぼり)
誤記の実例堀、六間間堀
別名・俗称六間堀川
六間川

※「六間川」に関しては、別名ではなく、誤表記の可能性もある。
五間堀の別名(または誤記)である「五間川」に比べると、「六間川」と表記する例は少なく(その例として『本所の過去及び現在』)、この僅かな例をもって別名の存在を裏付けることは難しい。しかし、五間堀が「五間川」と呼ばれることがあったのであれば、六間堀が「六間川」と呼ばれることがあったとしても、それほど不思議なことではない。

水路の位置墨田区千歳3-18(北端)

〜江東区常盤1-19(南端)

六間堀航空写真
[写真a]1947(昭和22)年9月8日の六間堀(国土地理院提供の航空写真を編集)
本所両国 痕跡地図も参照

同名別水路六間堀(大田区羽田)

跡地は「六間堀緑地」(大田区羽田4-23-10)などになっている。
近くにある「六間堀仲羽公園」(大田区羽田4-18-12)にもその名が残る。
京急バスには「六間堀」という停留所もある。

水路の長さ約900m

文献によって、498.3間 = 約906m(『東京案内 上巻』)としたり、約909m(『都市計画河川一覧表』)としたりと、多少の差はあるが、概ね900mである点で違いはない。

水路の深さ明治初年:2〜9尺 = 約61〜273cm(『東京府誌 10』)

※ただし、ほとんどの地点は、2〜3尺 = 約61〜91cmとされている。

明治後半:2尺5寸〜3尺 = 約76〜91cm(『東京案内 上巻』)
昭和初年:約1尺5寸 = 約45cm(『帝都復興區劃整理誌 第三編 各説 第四巻』)
水路の幅員明治初年:6〜8間 = 約10.9〜14.5m(『東京府誌 10』)

※ただし、ほとんどの地点は、6間 = 約10.9mとされている。
なお、1884(明治17)年に、東京府知事が内務省に提出した東京市區改正意見書では、六間堀の幅を一律8間 = 約14.5mに広げることが計画され、1889(明治22)年の東京市區改正委員會による決定案でも、六間堀の拡幅が記載された。しかし、1894(明治27)年に勃発した日清戦争の影響もあって、結局、拡幅は実現しなかった。(『帝都復興史 第貳巻』)

明治後半:6.1間 = 約11.1m(『東京案内 上巻』)
昭和初年:約6間 = 約10.9m(『帝都復興區劃整理誌 第三編 各説 第四巻』)
名称の由来6間ほどの幅だったため(『東京府志料 1』)

※ただし、上流部はやや幅が狭くなっているなど、場所によって水路の幅は多少異なる。

水路成立年安土桃山時代以前か(「六間堀はいつ誕生したか ―追跡・六間堀『源流』―」)

水路成立年については、諸説ある。
1671(寛文11)年の新板江戸外絵図(いわゆる寛文五枚図)には、六間堀と思しき水路が記されている([図1]参照)ことから、遅くともその頃には誕生していたと考えられる。この点で異論はないと思われる。(『江東区の文化財 史跡』も参照)
問題は、そこからどれだけ遡れるかである。
寛文五枚図 六間堀色付き
[図1]寛文五枚図に記された六間堀(国立国会図書館提供、水面部分に着色)

◆従来説の問題点
この点、従来、唱えられてきたのは、主に慶長年間説万治年間説である。(『江東区の文化財 史跡』)

慶長年間説(1596〜1615年)は、深川村が成立した時期に開削されたとする説である。江東区関係の文献で比較的多く言及されている。
ただし、この説では、それを裏付ける特段の根拠が提示されているわけではない。

万治年間説(1658〜1661年)は、明暦の大火(1657年)の後に行われた本所開発の際に開削されたとする説で、江戸時代後期に幕府関係の文献で採用されている。長年、通説的地位にあったと言ってよいだろう。この説の中には、ピンポイントに1659(万治2)年だとするものもある。

万治年間説を採るものとしては、『町方書上』の「本所起立記」の項、「松井町弐丁目」の項、「善兵衛屋鋪」の項がある。ただし、後述するように、「深川六間堀町」の項では、「御堀割等之年月旧記無之相知不申候」とある。
その他、『御府内備考』、『葛西志 全』79-80頁、『墨田区史』226頁、『墨田誌考 上』38頁なども、その記述内容から万治年間説に立っている(少なくとも肯定的に捉えている)と考えられる。


この説の論拠となっているのは、『本所深川起立』の「竪川を上口二十間敷十四間深さ一丈四尺ニ掘立其後横川十間川六間堀をも右深さに準じ掘」という記述である。一般に、竪川の開削は1659(万治2)年とされているため、六間堀も竪川と同時か、そのすぐ後にできたと考えるのである。

『本所深川起立』は、本所起立と深川起立を合わせたもので、本所起立の部分は1755(宝暦5)年に成立している。(『補訂版 国書総目録 第7巻』383頁)
すなわち、上記の引用箇所は、本所開発が始まってから約100年後に書かれたものである。


なお、慶長年間に細い水路を開削し、本所開発のときに六間になったという、慶長説と万治説の2つを折衷したような説もある。(『江東区史跡散歩』)

水路ができたのは慶長年間だとする説なので、これは慶長年間説のバリエーションの一つであると位置づけることも可能だろう。
他方で、幅6間の水路として完成した時点を「六間堀の成立」と定義するならば、この説は万治説の一つであると見做すこともできる。ただし、この名鑑では、水路の幅にこだわらず、水路ができた時期について検討することにしたい。


しかしながら、これらの説は、どれも採用することができない。根拠に乏しい慶長説はもちろん、万治説も下記のように疑問点が多いからである。

(1)六間堀村
『町方書上』の「深川海辺大工町」の項によれば、1596(慶長元)年に六間堀村が成立している。これに従うなら、本所開発が始まる60年以上前から「六間堀」という名が存在していたことになり、本所開発で六間堀ができたとする万治説と矛盾しそうである。

『町方書上』とは、江戸幕府が地誌を編纂するために、その資料として町々の名主に提出させた文書をまとめたものである。「深川海辺大工町」の項は、同町を含む付近一帯の名主である八左衛門が、1828(文政11)年に提出した文書を写したものであると推測される。
1596(慶長元)年から200年以上経って書かれたものであり、六間堀村がその年にできたことが確実であるとまでは言えない。したがって、これだけを根拠に万治説を否定することはできないだろう。
また、六間堀村の「六間堀」が、今問題にしている「六間堀」とは別の水路である可能性も捨てきれない。その意味でも、この『町方書上』の記述が、万治説を否定する決定打にはならないと言える。

町方書上 海辺大工町の項 分郷六間堀
[図2]『町方書上』の「深川海辺大工町」の項より(国立国会図書館提供

(2)堀の形状
本所開発では、竪川・横川・南割下水・北割下水・柳島堀・錦糸堀・斎藤堀等が造られたが、それらは街路に合わせて直流している。しかし、六間堀は、隅田川に沿うように曲流しており、本所開発で計画的に造成されたにしては不自然な流路になっている。

(3)周辺の道
寛文五枚図を見ると、堀の南側に、緩やかに蛇行した道が複数確認できる(前掲[図1])。
本所北部の区割からも分かるように([図3]の赤で囲った部分)、本所開発の時点で既に存在していた集落は、区画整理が行われず、不規則な街区のままになったと考えられる。
寛文五枚図 本所北部の街区 hspace=
[図3]本所北部の街区(国立国会図書館提供、水面部分に着色)

六間堀南部も古くから村落があったため、蛇行した道が残ったのであろう。このような、人々の生活の場がすでに形成されているところに、堀を通すとは考えにくい。
加えて、もし村落を貫く形で堀を開削したのなら、元からあった東西方向の道は堀によって分断されたはずである。しかし、分断されたことを窺わせる道は見当たらない([図4]の矢印)。堀の東西で、元々は一つの道であったと推認できるものが全くないのである。
道筋を見る限りでは、先に水路があって、後から東西それぞれに道ができていったと考えるのが自然であろう。
したがって、万治年間に実施された本所開発よりも前から道が存在し、さらに、その道ができるよりも前から水路が存在した可能性、つまり万治年間よりも前から水路が存在した可能性が、寛文五枚図から読み取れるのである。
寛文五枚図 六間堀付近の古道
[図4]六間堀付近の古道(国立国会図書館提供、水面部分に着色)

このように、万治説には不可解な点が多く、むしろ、本所開発の前から六間堀は存在していたと考える方が合理的である。

(4)『本所深川起立』の解釈
さらに、万治説の論拠となっている『本所深川起立』の記述も、実はすっきりしない書きぶりになっている。
『本所深川起立』の「竪川を上口二十間敷十四間深さ一丈四尺ニ掘立其後横川十間川六間堀をも右深さに準じ掘(拙訳:竪川を、水面の幅20間、川底の幅14間、深さ1丈4尺に掘り立て、その後、横川・十間川・六間堀をも竪川の深さに準じて掘った)」という記述は、確かに、竪川と同時期に六間堀が開削されたとも読める。
しかし、竪川について水面の幅、川底の幅、深さについて述べている一方、横川・十間川・六間堀は深さについてしか記されていない。横川・十間川・六間堀については、「元からあった水路の幅はそのままに、1丈4尺まで掘り下げた(浚渫した)」と解釈する余地がある書き方なのである。横川(大横川)や十間川(横十間川)も、元々その辺りに自然河川があったと言われていることを踏まえれば、このような読み方も十分成り立つように思われる。

以上から、六間堀は本所開発で開削されたものではなく、六間堀の誕生は万治年間よりも遡る可能性が高いと考えられる。(「六間堀はいつ誕生したか ―検証・万治開削説―」)

◆六間堀誕生の経緯
では、六間堀はいつ、どのように誕生したのだろうか。
六間堀の存在が確認できる同時代史料としては、寛文五枚図(1671年)が最古であり、『武蔵田園簿』(1650年頃)や『小田原衆所領役帳』(1559年)など、万治以前の古い史料で六間堀の情報を記したものは見つかっていない。そのため、誕生の経緯を検討するにあたっては、間接的な証拠を積み上げていく必要がある。
先ほど取り上げた史料も用いつつ、六間堀周辺に成立した集落との先後関係を中心に検討してみよう。

(1)古道
前述したように、寛文五枚図に描かれた六間堀付近の蛇行した古道を見ると、六間堀開削によって分断されたと認められるものは一つもない([図4]の矢印)。
このことは、先に水路があって、後から道ができていったことを示唆しているが、道ができる前から水路があったということは、集落が発達する前からここに水路があったということを間接的に示していると言えるのではないだろうか。
寛文五枚図 六間堀付近の古道
(再掲)[図4]六間堀付近の古道(国立国会図書館提供、水面部分に着色)

(2)『町方書上』の解釈
『町方書上』の記述も手掛かりになるかもしれない。
本書の「深川海辺大工町」の項には、1596(慶長元)年に深川村分郷六間堀村が成立したと書かれている一方、「深川六間堀町」の項には、六間堀がいつできたのか分からないとある。
町方書上 深川六間堀町の項 六間堀
[図5]『町方書上』の「深川六間堀町」の項より(国立国会図書館提供

両項は、同一人物(代々続く付近一帯の名主、八左衛門)が同じタイミングで書いたものなので、基本的にその内容に齟齬はないと考えられる。
そこで、両項の記述を整合的に解釈してみると、「六間堀村(集落)が成立する以前から六間堀(水路)は存在した」という可能性が浮かび上がる。入植時点(六間堀村成立時点)で既に水路があったとすれば、その成立年が分からないのは当然である(なお、同書「両国橋御役船」の項も参照)。
このような解釈は、前述の古道から導き出される内容とも符合する。

なお、「深川六間堀町」の項とは異なり、「松井町弐丁目」や「善兵衛屋鋪」の項は、1659(万治2)年開削説に立っている。万治説に問題が多いことは先に述べたとおりであるが、別の観点からも「松井町弐丁目」や「善兵衛屋鋪」の項における六間堀の記述は、それほど信憑性が高いものであるとは考えられない。
というのも、松井町弐丁目や善兵衛屋鋪は、元禄年間(1688〜1704年)以降の成立であり、万治年間には存在していないのである。したがって、1659(万治2)年に六間堀ができたという記述は、六間堀の開削を目撃した先祖から代々伝えられてきた事柄ではなく、外部からもたらされた、いわば「後付け」の情報であると考えられる。
このことから、少なくとも、「松井町弐丁目」の項や「善兵衛屋鋪」の項の記述の信憑性が、「深川六間堀町」の項よりも高いとは言えないということが分かるだろう。
古くからある町(深川六間堀町)では、六間堀がいつからあるか分からないといい、新しくできた町では、町が成立する前の出来事であるにもかかわらず、具体的な年を挙げて述べているのが興味深い。


(3)位置・方向・形状
六間堀の特徴的な流路も示唆的である。
隅田川沿いにあった墨田区内の水路のうち、片葉堀(藤代町入堀)・御蔵堀(横網町入堀)・梅堀(石原町入堀)・奴堀などは、隅田川からほぼ直角に分岐していた。それに対して六間堀は、隅田川の至近を、隅田川に並行して、隅田川の湾曲に沿うように流れていた。しかし、わざわざそのような流路にする必要性に乏しく、そこに計画性を見出すことは困難である。流路の特徴が似ている梅若堀(浦ノ川・内川)は、本来自然河川だったといわれている([図6]の矢印が梅若堀、その左が隅田川)。六間堀も同様に、河川の流路変化の中で生まれたのではないだろうか
伊能忠敬 江戸府内図
[図6]伊能忠敬 江戸府内図(北)に描かれた梅若堀と隅田川(国立国会図書館提供

以上の諸点を総合すると、六間堀は人工的につくられた水路ではなく、安土桃山時代以前に自然の営力によってできた古い水路である可能性が高いと考えられる。元々、隅田川の川幅が六間堀の辺りまであり、隅田川東岸と、その近くにできた砂州との間の水辺が、六間堀のルーツなのだろう。そこに目をつけた深川八郎右衛門のような開拓者が、流路を整えていった━━このように考えると、上記の諸点を整合的に説明できるのである。
明治時代の地図でも、隅田川に砂州が描かれており、この辺りは土砂が堆積しやすかったことを窺わせる。
東京府武蔵国日本橋区濱町及本所区相生町深川区常盤町近傍
[図7]東京図測量原図(1884(明治17)年)より(国土地理院提供)

◆竪川以北の「六間堀」
ところで、六間堀の元となる水路の成立が万治より前であるならば、ある疑問が浮かぶ。万治年間の竪川開削より前の時期に、六間堀の上流部はどうなっていたのか、という疑問である。
 これについても確実なことは分からない。しかし、手掛かりがないこともない。その一つが、亀沢池かめざわのいけである。
亀沢池
[図8]1821(文政4)年頃の亀沢池の図(『葛西志 全』308頁、水面部分に着色)

この池は現在の両国小学校・両国公園の辺りにあった大池で、『葛西志』によれば江戸時代を通じて徐々に埋められていったようである。

〈1761〜1771(宝暦11〜明和8)年頃〉
葦などが生い茂る「ものすごき池」。 亀沢町大通り(現・京葉道路)にはみ出ていた。
〈1789〜1801年(寛政年間)〉
面積は600坪あまり(約2,000屐法0韻箍(イネ科の多年草)が多く生えていた。
〈1801(享和元)年〉
竪川・横川等の浚渫土で半ば埋められる。
〈1821(文政4)年頃〉
面積約100坪(約330屐法
[表1]亀沢池の変遷
三島政行『葛西志』309頁の記述をもとに作成

この亀沢池のすぐ南が六間堀という位置関係から、両者は竪川疎通以前に繋がっていた、というのが私の仮説である([図9]参照)。
もう一つの手掛かりは、17世紀までの地図に見られる本所御蔵敷地の不自然な区割りである。亀沢池の北の辺りだけが、斜めに切り落とされたかのような形になっていた([図9]参照)。そしてこの斜めの方向は、隅田川の流路の向きとほぼ一致しているのである。この部分が元は水路だったという直接の証拠はないが、六間堀の流路がこの辺りまで伸びていたとしても不思議ではない。
六間堀と亀沢池 ブログ用
[図9]六間堀と亀沢池(国立国会図書館提供、水面部分に着色)

◆まとめ
六間堀にあたる水路は、16世紀までに形成された、隅田川の名残であると考えられ、古くはその上流が本所エリアの中央付近にまで達していた可能性がある。

支流・分流(北から)堺川、五間堀、六間堀町下水、森下町下水、八名川町下水、神明門前下水、井上堀
接続した川上流部:竪川
下流部:小名木川
橋梁の名称(北から)松井橋、山城橋、汐時橋、北ノ橋、六間堀橋、中ノ橋、猿子橋、細川橋
水路の形状周辺の掘割と異なり、流路が曲がっている。その理由については諸説ある。

【A説】江戸時代初期、現在の墨田区千歳1〜2丁目、江東区新大橋1〜3丁目、同常盤1丁目付近は、隅田川左岸(東側)の自然堤防が東京湾に突き出す形で伸びていた。その東側に広がる湿地帯を埋め立てる際、堤防の東岸沿いを埋め残してできたのが六間堀である。(『江戸の都市計画』)

【B説】六間堀は、万治2(1659)年に自然堤防を利用して開削された。(『図説 江戸・東京の川と水辺の事典』)

【C説】六間堀はかつての隅田川左岸(東側)であり、六間堀部分を埋め残して、その西側を埋立てた。(講演会での久染健夫氏発言)
埋立て前の段階で、左岸付近に中洲があった。場所は、現在の墨田区千歳1〜2丁目、江東区新大橋1〜3丁目、同常盤1丁目付近である。(久染健夫氏への取材)
河川敷のような状態だった隅田川沿岸を埋立てし、その土地の東端を埋め残して六間堀をつくった。(久染健夫「本所弥勒寺」)

A説とB説とでは「埋め残し」か「開削」か等で見解に相違があるものの、自然堤防に沿って流路が設定されたとする点は一致している。C説は自然堤防ではなく中洲または河川敷であったとし、それを利用しながら埋立てを実施して隅田川の川幅を狭めたという。
いずれの説が妥当であるかを判断するには、地質学や考古学の見地から調査・研究の進展を俟つ必要があるだろう。
もっとも、六間堀の西側が古くから陸地化していた(微高地だった)ということは、全ての説で共通しており、実際のところ、各説の差はそれほど大きくないのかもしれない。

なお、「水路成立年」の項ですでに述べたように、史料を分析する限り、六間堀は自然の営力によってできた水路である可能性が高い。したがって、六間堀の東西は、入植前からかなりの部分が陸地だったと見るのが妥当であるように思われる。
往時の様子◆何に使われた?
灌漑・水運に利用された(『江東区の歴史』)という。

しかし、六間堀は海に近く、その水にはかなり高濃度の塩分が含まれていたと考えられる。はたして、そのような水を灌漑に用いるだろうか。
【参考】小澁晴信ほか「都市河川感潮域における塩水の遡上特性に関する現地観測」(2008年)


小名木川の水運の補助的機能を担い、船舶の繋留や修理をする場所として使われていたのではないかとする見解もある。(「江東の川・掘割 小名木川と五間堀・六間堀」)

大正時代の初め(1910年代前半〜半ば)頃、小舟の賃貸しが行われていた。(『江東区の歴史』)

最も身近な用途は、汚穢おわい船による汲み取りだった。川沿いの家は、汲み取り口を川に面して設けてあった。
また、荷を積んだ伝馬船の往来も時折見られた。
水上警察のモーターボートが土左衛門を縄で牽引しながら、高速で走り抜けていったことがあった。(以上は、1925(大正14)年生まれの地元住民、貞本祐男氏の証言。『われわれの本所両国』所収)

◆水質はどうだった?
水は清らかで、泳ぐ人もいたという。(1918(大正7)年生まれの地元住民、遠藤美代子氏のブラタモリ内での証言)
だが、遊泳禁止だったため、水上警察が、泳ぐ子どもを追いかけていたらしい。(『古老が語る江東区の町並みと人々の暮らし<上>』)

一方、汚かった時期もあったようで、永井荷風は1934(昭和9)年の随筆で次のように書いている。
〔柾木稲荷の〕華表とりいの前の小道を迂回して大川の岸に沿い、乗合汽船発着処のあるあたりから、また道の行くがままに歩いて行くと、六間堀にかかった猿子橋という木造の汚い橋に出る。この橋の上に杖をとどめて見ると、亜鉛トタンぶきの汚い二階建の人家が、両岸から濁水をさしばさみ、その窓々から襤褸ぼろきれをひるがえしながら幾町となく立ちつづいている。その間に勾配の急な木造の小橋がいくつとなくかかっている光景は、昭和の今日に至っても、明治のむかしとさして変りがない。
「深川の散歩」より引用
〔 〕は引用者による補足、下線も引用者

何年かに一度の浚渫工事の際には、匂いが酷かったようで、窓を開けていられなかったという。(1925(大正14)年生まれの地元住民、貞本祐男氏の証言。『われわれの本所両国』所収)

六間堀に接続する小名木川について、川の水が汚れだしたのは関東大震災(1923(大正12)年)以降であるという証言があり(『隅田川とその両岸(上巻)』)、六間堀もほぼ同時期に汚濁し始めたと推察される。

戦後、何年かの間は、隅田川・竪川とともに澄んだ水が流れており、昼休みにのんびりと釣り糸を垂れる人の姿が見られた。(『墨田区立両国小学校創立95周年記念誌 本所の四季』)

◆空襲時の様子は?
1945(昭和20)年3月10日未明にあった東京大空襲では、六間堀に入って助かったという証言が残っている。
次の引用文の筆者は、被災当時満18歳。
 もう駄目だ 六間堀(幅約10m)に飛び込むしかない。
 私はバケツを一つ持って梯子で岸壁を降り、水に入った。私に続く人は誰もいない。
 丁度満潮だった。堀の両側は木造家屋がぎっしりと立ち並んでいる。
 橋の下から北の方の山城橋の方を見ると家々は黒煙の中で油紙に火がついたように急にボッと火の塊になる。
 煙が橋下まで舞い狂う。橋の近くで行き詰った人達が堀へ雪崩れ込んできた。
 私は堀の中央辺りで首まで水に漬かり、バケツを被る。火の粉がバケツにバラバラ当たる。そのうち木片がガタガタ叩く。
 息をするためバケツを少し上げると煙と火の粉が舞い込んでくる。少しでも風当たりが少ない岸壁に身を寄せた。
 近くの家々が強風でたちまち火炎に包まれ、火炎の中心部分はすぐ白熱化して焼け落ちる。ほんの数分である。
 熱さと煙でもう駄目だと思った。近くの人のうめき声や「助けて」の弱々しい声が耳に入る。
 どれ位過ぎただろうか。堀の水は大分引いて夜が明けた。助かった と思ったが、目は煙と火の粉でやられ、喉や気管はすっかりただれた感じで呼吸も容易でない。頭はガンガンし、ずぶ濡れの体は震える。心臓麻痺で死ぬかもしれないと思った。
 付近の建物は焼け落ちているので岸に上がりたいがその気力がない。近くに人々の姿は見当たらない。煙に包まれて離れた処は見えない。
 近くに一人いた。私より2~3歳年上と思われる。「招集令状がきているのだが…」としきりに心配していた。
 やっと堀から上がって風上の自分の家の方へ行こうとしたが、風に押され、息が苦しくて行かれない。
「六間堀は命の川」より引用、原文ママ

◆そして六間堀は…
戦災で生じた灰燼かいじんを処理するため、水運の利用が減っていた六間堀が処分地の一つに選ばれた。(『墨田区史 上』、『東京都戦災誌』、『建設のあゆみ』、『都政十年史』ほか)
貨物取扱量1921(大正10)年:25,516t(『帝都復興事業誌 土木篇 下巻』)
埋立て実施 大多数の文献では、最初の埋立て工事についてしか記載されていないが、埋立ては2度に分けて実施された。

埋立て実施に関する当時の公文書を除くと、一度に全てを埋立てたわけでないことに触れた文献は極めて少ない。第1次埋立てと第2次埋立ての間に調査が行われた『隅田川とその両岸(中巻)』は、その意味で非常に貴重である。
また、最初の埋め立て工事についても、大多数の文献は、当時の史料的な制約もあって、不正確な内容になっている点は注意を要する(詳しくは後述)。


以下では、六間堀の埋立てについて、当時の公文書を紐解くことで明らかになった事実を中心に記述していく。

第1次埋立て 1949(昭和24)年12月23日以降?〜1950(昭和25)年12月27日以前

埋立て計画決定日1947(昭和22)年11月26日
埋立て免許取得日1949(昭和24)年12月23日
埋立て工事開始日不明
竣工認可の申請日1950(昭和25)年12月27日
竣工認可された日1951(昭和26)年3月20日

(1)埋立て決定
六間堀の埋立てが決定したのは1947(昭和22)年。

戦災復興院告示第百二十二号
 東京特別都市計画運河、河川、河川埋立及び高潮防禦施設決定の件を次のように内閣総理大臣が決定した。その関係図面は東京都廰に備え置いて縦覧に供する。
 昭和二十二年十一月二十六日
   戦災復興院総裁 阿部美樹志
(後略)

当時、「都市美」の観点から埋立てに反対する意見もあったが、灰燼処理を進めるための苦肉の策だったという。(1952(昭和27)年12月22日墨田区議会建設委員会における梶原勝衛助役の答弁)

(2)埋立て開始
ところが、当時は財政難で、すぐに費用を捻出できなかったため、実際に埋立て工事が始まったのは1949(昭和24)年以降である。(東京都公報、『東京都戦災誌』)

東京都告示第六号
 公有水面の埋立を昭和二十四年十二月二十三日次の通り免許した。
   昭和二十五年一月七日
          東京都〔知事〕 安井〔誠〕一郎
        記
 一、起業者 東京都
 一、埋立の場所
  東京都墨田区千歳町二丁目竪川分岐点から
  同  江東区常盤町二丁目細川橋下流六・八米まで
  六間堀川水面
 一、埋立の面積 二千九百八十八坪二合一勺
 一、埋立の目的 道路敷地及宅地造成
 一、工事竣功期限 昭和二十五年九月三十日まで

1950(昭和25)年1月7日東京都公報第565号3頁より引用
〔 〕は引用者による脱字の補入

着工日に関する細かい議論(クリックで展開/折りたたみ)


(3)埋立て完了
当初、工事完了は、1950(昭和25)年9月末の予定だったが、「諸事情」により工事が長引き、同年12月末まで工期が延長された。(同年9月15日建河発第503号、同年10月2日建河収第1570号、同年10月10日東京都告示第813号)
その後、ようやく工事が終わって、1950(昭和25)12月27日付で竣功認可の申請があり、翌1951(昭和26)年3月20日付で竣功認可が行われた。(1950(昭和25)年12月27日建河発第116号の4、1951(昭和26)年3月20日建河収第287号)

したがって、『江東區史 全』にある「昭和二十六年三月埋めたてられた」という記述や、『図説 江戸・東京の川と水辺の事典』の「同〔昭和〕二十六年三月に工事が完了している」という記述は、竣功認可をもって、工事完了と捉えたということであろう。
しかし、上記のように現場レベルでは、すでに1950(昭和25)年の暮れには工事が完了していたとみられる。『平成六年度 平成七年度 江東区民俗調査報告書―深川北部総合民俗調査―』掲載の「〔昭和〕二五年に完了した」という地元の古老の話は、この意味で実態を正確に掴んだものではないかと考えられる。
なお、『東京都戦災誌』の灰燼処理に関する箇所は、その内容から1951(昭和26)年8月以降に執筆したものであると考えられ、執筆時点ですでに六間堀の埋立て工事は「竣功認可」を受けているはずである。にもかかわらず、同書内の一覧表にある「竣工日」を示す欄は空白になっているのである。この理由について断言することはできないが、『東京都戦災誌』は正確性に欠ける点が多く、本件についても単に書き忘れた(または最新の資料を集めずに執筆した)ものであると考えた方が自然であろう。この空欄は、工事未完了を意味しているわけではないと思われる。

(4)埋立てに使った灰燼かいじん
六間堀の埋立てには、戦災灰燼が使われた。 →往時の様子の項に関連内容
灰燼は、墨田区や江東区など近隣から運ばれたのではないかと推測される。
この灰燼の出どころについて、2012年放送のブラタモリ「江戸の運河(前編)」では、より詳しく、「昭和24年から昭和27年に出た墨田区のガレキの6割が六間堀を埋めることで処理された」と解説している([図10]参照)。
しかし、これは誤りである可能性が極めて高い。

[図10]ブラタモリ「江戸の運河(前編)」より

ガレキに関する細かい議論(クリックで展開/折りたたみ)


(5)埋立て完了後の様子
六間堀はこの工事でほとんど埋立てられたが、小名木川に接続する南端部分だけは辛うじて生き残った。(『隅田川とその両岸(中巻)』)
[写真b]の赤で囲ったところが六間堀南端部分である。

[写真b]1957(昭和32)年3月29日の六間堀南端(国土地理院提供の航空写真を編集)

埋立て完了から5年ほど経った北ノ橋跡の写真を見ると、まだ瓦礫がむき出しになっている様子が分かる。→1955(昭和30)年頃の北ノ橋の写真

ここでこぼれ話を一つ。六間堀跡の北半分は、堀の中央部に下水敷が通っている。このように真ん中に下水敷を通すという設計は、初めから計画されていたわけではなかったそうだ。
当時の行政文書を読むと、当初は東側護岸に沿って幅1.5mの下水敷を造ろうとしていたようなのだが、それだと下水管の口径の都合で上手くいかないということが後で分かり、幅2mの下水敷を堀の中央部に造ることになったらしい。(1949(昭和24)年11月2日整土発第328号)
下水敷の幅を広くするのは理解できるが、なぜ中央部に変更したのだろうか。大きな口径の下水管を護岸が近接する位置に埋設するのが、技術的に困難だったということだろうか。あるいは、将来、下水の需要が増加し、口径を大きくしなければならないという事態を予め想定して、比較的自由がきく中央部を選んだということだろうか。真相は藪の中である。


第2次埋立て 1958(昭和33)年〜1959(昭和34)年頃

埋立て免許取得日不明
埋立て工事開始日不明
竣工認可の申請日不明
竣工認可された日不明


[写真c-1]1958年2月〜1959年5月の間に撮影された六間堀南端(中央区立京橋図書館提供の航空写真を編集)

第1次埋立てから10年足らずで南端部分も埋立てられ、六間堀の水面は全て消えた。
[写真c-1]は第2次埋立て直前の六間堀南端部分の写真である。
堀の西側から北側にかけて屋根のようなものが写っている。埋立て工事に関係したものだろうか。
新しく造成された土地は、1961(昭和36)年に完成した新小名木川水門(『河川部三十年のあゆみ』、『建設局事業概要1961』、『建設局事業概要1962』)の監視所敷地として使用された([写真c-2]参照)。
2023(令和5)年、水門監視所の建物は解体され、更地となった。
なお、第2次埋立て工事については、当時の公文書が見つかっておらず、正確な時期は明らかになっていない。ただし、当時の航空写真や、水門建設工事の時期から、おおよその年を絞ることはできる。

[写真c-2]1963(昭和38)年6月26日の六間堀南端(国土地理院提供の航空写真を編集)

名残・遺構 六間堀児童遊園(墨田区千歳3-1-1)

六間堀から五間堀が分岐するあたりに設置されたミニ公園(351.30屐法1959(昭和34)年4月1日開園。
「児童遊園」と名乗っているが、児童が遊んでいることは稀で、普段は仕事や人生に疲れた大人たちの休憩スペースになっている(※個人の感想です)。
ちなみに、この公園は、墨田区・江東区にまたがって存在している。しかし、両区が共同で管理しているわけではなく、墨田区が単独で管理している。
また、近くにある五間堀公園内にも両区の境界が通っているが、こちらは江東区が単独で管理している。
同様に五間堀跡地にある菊一児童遊園も区境上にあるが、こちらは墨田区が管理しており、その隣にあるトイレ江東区が管理している。
両区は、どこかの区と違って、持ちつ持たれつ、上手くやっているようだ。
ただ、かつてはそうでなかったらしく、昭和の初め頃、まだ墨田区・江東区が誕生する前の、本所区・深川区時代には、両区の間に「領土紛争」があったという。(『斉藤堀』)

六間堀児童遊園
[写真d]六間堀児童遊園(2017(平成29)年撮影)


千歳三丁目西(六間堀跡)停留所(墨田区千歳3-15-6付近)

2012(平成24)年に開業した墨田区内循環バスの停留所。六間堀のかなり上流部分にある。
六間堀の名がバス停に刻まれ、本所・深川の旧水路ファンは歓喜したとか、しなかったとか。
バス停の目の前には、2016(平成28)年11月まで山崎製パン株式会社の中央研究所があった。不思議なことに、翌年になってもここを通るとパンのいい香りがした。
研究所の建物は2018(平成30)年に解体された。

[写真e]千歳三丁目西(六間堀跡)停留所(2017(平成29)年撮影)


六間堀東側護岸

家と家の間に残る六間堀の護岸。六間堀児童遊園の近くにある。
[写真f]の真ん中が護岸で、その左が六間堀の水路だった部分。現在は家が建っている。
写真では分かりにくいが、護岸を境に右側の土地が低くなっている。この護岸は、土留めの役割を担っており、そのため、現在まで破壊・撤去を免れたのだと思われる。
六間堀の東側護岸としては最も保存状態が良く、本所の旧水路全体で見てもトップレベルの貴重な遺構である。

[写真f]六間堀東側護岸(2017(平成29)年撮影)

小説の舞台 ◆池波正太郎 鬼平犯科帳シリーズ

第7巻 第6話「寒月六間堀」⭗
第7巻 第7話「盗賊婚礼」△
第8巻 第1話「用心棒」△
第10巻 第7話「お熊と茂平」△
第16巻 第2話「網虫のお吉」△


※鬼平犯科帳はマンガ化もされた(画:さいとう・たかを)。

ワイド版第22巻「寒月六間堀」⭗

◆池波正太郎 剣客商売シリーズ

第9巻『待ち伏せ』第1話「待ち伏せ」⭗


◆藤沢周平 獄医立花登手控えシリーズ

第3巻『愛憎の檻』第3話「みな殺し」⭗
第4巻『人間の檻』第1話「戻ってきた罪」⭗
第4巻『人間の檻』第3話「待ち伏せ」⭗
第4巻『人間の檻』第4話「影の男」⭗
第4巻『人間の檻』第5話「女の部屋」⭗
第4巻『人間の檻』第6話「別れゆく季節」⭗


◆藤沢周平 彫師伊之助捕物覚えシリーズ

第1巻『消えた女』第1話「かんざし」⭗
第1巻『消えた女』第2話「やくざ者」⭗
第1巻『消えた女』第3話「ながれ星」○
第1巻『消えた女』第7話「闇に跳ぶ」○
第2巻『漆黒の霧の中で』第1章△
第2巻『漆黒の霧の中で』第3章○
第2巻『漆黒の霧の中で』第4章⭗
第3巻『ささやく河』第2話「古いつながり」△
第3巻『ささやく河』第3話「彦三郎の笑い」⭗
第3巻『ささやく河』第6話「ひとすじの光」⭗


◆藤沢周平 用心棒日月抄シリーズ

第2巻『孤剣』第6話「凩の用心棒」⭗


◆藤沢周平「唆す」⭗ 同『冤罪』所収

◆藤沢周平「夜の橋」○ 同『夜の橋』所収

作中では、「六間堀」が「五間堀」の名で描写されている。


佐伯泰英 居眠り磐音江戸双紙シリーズ

主人公が六間堀近くで暮らす時期があるため、よく描写される。


※居眠り磐音は映画化された(主演:松坂桃李)。



◆宮部みゆき「時雨鬼」○ 同『あやし』所収

◆稲葉稔 剣客船頭シリーズ

第17巻『涙の万年橋』第1章「伊達男」⭗
第17巻『涙の万年橋』第2章「家人」⭗
第17巻『涙の万年橋』第3章「岡っ引き」⭗
第17巻『涙の万年橋』第4章「後添い」⭗
第17巻『涙の万年橋』第5章「浅草奥山」⭗
第17巻『涙の万年橋』第6章「簪」⭗
第17巻『涙の万年橋』第7章「決着」⭗


◆笹沢左保 音なし源捕物帳シリーズ

第1巻『花嫁狂乱』第7話「花嫁狂乱」⭗


◆聖龍人 盗っ人次郎八事件帖シリーズ

第2巻『みだれ月』第2話「六間堀」⭗


◆洒落本

金金先生『当世気とり草』△(リンク先:早稲田大学図書館古典籍総合データベース)
リンク先の右ページ3行目に「六間堀」とある。


※記号の意味

⭗ 話の本筋の中で水路名が出てくる
○ 水路名は出てこないが、間接的に描写されている(例:橋梁名が登場)
△ 本筋以外で水路名がちらっと登場、水路名を含む町名が登場(例:六間堀町)

参考文献等 ◆江戸幕府・東京府・東京市・東京都

『町方書上 七』(江戸東京博物館友の会、2013年)342頁
『町方書上 八』(江戸東京博物館友の会、2014年)1, 110, 111頁
『東京府誌 10』(文化図書、2009年)171, 175, 181, 186, 189, 208, 212, 215頁
東京都『東京府志料 1』(東京都、1959年)55-56頁
東京市編『東京案内 上巻』(東京市、1907年)43頁
復興調査協會編『帝都復興史 第貳巻』(興文堂書院、1930年)1801-1807頁
復興事務局『帝都復興事業誌 土木篇 下巻』(復興事務局、1931年)5頁
東京市役所『帝都復興區劃整理誌 第三編 各説第四巻』(東京市役所、1932年)516頁
東京都編『東京都戦災誌』(東京都、1953年)536-537、539-540頁 ※復刻版
東京都建設局『建設のあゆみ』(東京都建設局、1953年)206, 212頁
東京都編『都政十年史』(東京都、1954年)282頁
東京都建設局編『建設局事業概要1961』(東京都建設局、1961年)63頁
東京都建設局編『建設局事業概要1962』(東京都建設局、1962年)63頁
建設局河川部『都市計画河川一覧表』(建設局河川部、1972年)114-115頁
河川部30周年記念事業実行委員会編『河川部三十年のあゆみ』(河川部30周年記念事業実行委員会、1982年)7頁


◆墨田区

東京都墨田区役所編『墨田区史』(東京都墨田区役所、1959年)222, 226, 1005-1006頁
墨田区役所編『墨田区史 前史』(墨田区役所、1978年)322頁
墨田区役所編『墨田区史 上』(墨田区役所、1979年)184-188頁
墨田区役所企画部広報課編『墨田誌考 上』(墨田区役所、1975年)38頁
記念誌編さん委員会編『墨田区立両国小学校創立95周年記念誌 本所の四季』(墨田区立両国小学校、1970年)106頁
孝親会『われわれの本所両国』(坂本政彌、2001年)166頁
大金誠之助「六間堀は命の川」墨田区立両国小学校昭和14年度卒業生(江ひがし会)『あの日 あの時 あの思い出 東京大空襲の日』(墨田区立両国小学校昭和14年度卒業生(江ひがし会)、2005年)3-4頁


◆江東区

東京都江東区役所『江東區史 全』(東京都江東区役所、1957年)1286頁
『江東区の歴史』(江東区教育委員会社会教育課、1976年)25頁
『古老が語る江東区の町並みと人々の暮らし<上>』(東京都江東区総務部広報課、1987年)58頁
東京都江東区教育委員会社会教育課編『江東区の文化財 史跡』(東京都江東区教育委員会社会教育課、1988年)33頁
江東区民俗調査団『平成六年度 平成七年度 江東区民俗調査報告書―深川北部総合民俗調査―』(江東区教育委員会生涯学習部生涯学習課文化財係、1996年)6頁
江東区深川江戸資料館「江東の川・掘割 小名木川と五間堀・六間堀」資料館ノート69号(2007年)


◆その他

旧水路ラボ「六間堀はいつ誕生したか ―検証・万治開削説―」すみだ史談53号(2019年)3頁
旧水路ラボ「六間堀はいつ誕生したか ―追跡・六間堀『源流』―」すみだ史談54号(2019年)1-2頁
三島政行『葛西志 全』(国書刊行会、1971年)〈第1巻〉79-80,308-309頁
長崎敏音「東京市の水利と改善に對する私見」工學會誌417巻(1918年5月)250頁280頁
鈴木理生編『図説 江戸・東京の川と水辺の事典』(柏書房、2003年)259-260, 393頁
鈴木理生『江戸の都市計画』(三省堂、1988年)175-176頁
早乙女勝元『東京大空襲』(岩波新書、1971年)5頁
小山荻村ほか『本所の過去及び現在』(本所の過去及び現在社、1926年)79頁
細田隆善『江東区史跡散歩』(学生社、1992年)131頁
永井荷風「深川の散歩」野口冨士男編『荷風随筆集 (上)』(岩波文庫、1986年)199頁
永井壯吉『荷風全集 第17巻』(岩波書店、1994年)293頁もほぼ同じ) ※青空文庫
高梨輝憲『斉藤堀』(高梨輝憲、1966年)109頁
豊島寛彰『隅田川とその両岸(上巻)』(芳洲書院、1961年)210頁
豊島寛彰『隅田川とその両岸(中巻)』(芳洲書院、1962年)7頁
『補訂版 国書総目録 第7巻』(岩波書店、1990年)383頁
久染健夫「本所弥勒寺」タウン誌深川273号(2023年9-10月号)43頁
ブラタモリ「江戸の運河(前編)」(NHK総合、2012年2月16日(木)22:00〜)

関連文献等 ◆散策

吉村生「不思議な引力を持つ暗渠」東京人394号(2018年)50-51頁 →筆者のブログ記事
旧水路ラボ「六間堀は本所・深川の『姫』である」東京人430号(2020年)60-62頁
「すみだの大名屋敷 探訪」みらい259号(2016年)1頁
黒田涼『江戸東京狭隘路地探索 おれの細道』(アートダイジェスト、2015年)154-159頁


◆埋蔵文化財調査(墨田区)

イソビク編『六間堀跡(墨田区No.59遺跡)-OZIO森下況設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書-』(アスコット、2020年)
墨田区教育委員会地域教育支援課文化財担当編『墨田区埋蔵文化財調査年報2 平成31(令和元)(2019)年度』(墨田区教育委員会地域教育支援課文化財担当、2021年)22-26頁
墨田区教育委員会編『六間堀供碧賄超No.59遺跡)-(仮称)墨田区千歳3丁目新築建物建設に伴う埋蔵文化財調査-』(山崎製パン・墨田区教育委員会、2022年)


◆戦災灰燼処理(墨田区)

墨田区議会史編さん委員会編『墨田区議会史・通史編』(墨田区議会、1995年)168頁
墨田区議会史編さん委員会編『墨田区議会史・資料編』(墨田区議会、1995年)316頁


◆戦災灰燼処理(その他)

千代田区役所編『千代田区史 中巻』(千代田区役所、1960年)832-833頁
東京都中央区役所編『中央区史 下巻』(東京都中央区役所、1958年)404-406, 1168-1169頁
東京都中央区役所編『中央区三十年史 上巻』(東京都中央区役所、1980年)538-542頁
馬島繊悵属羸唇賚詐伝』(大学書房、1962年)157-162頁
越沢明『東京の都市計画』(岩波新書、1991年)234-235頁
石原成幸「東京における戦災復興と河川埋立に係る一考察」関東支部技術研究発表会講演概要集38巻(2011年)-36頁
太刀川宏志・大沢昌玄・岸井隆幸「戦災復興における瓦礫処理の実態」都市計画論文集49巻3号(2014年) 691頁
池田弥三郎ほか『東京の12章』(淡交新社、1963年)69頁
山本純美「江戸東京の川」矢田挿雲『新版 江戸から東京へ(五) 本所(下)』(中公文庫、1999年)397-412頁
盪咳冀法崑膾筺,靴澆犬澆函∫篝遏本田創ほか『はじめての暗渠散歩』(ちくま文庫、2017年)225頁


◆その他

菅原健二『川の地図辞典 江戸・東京/23区編〔三訂版〕』(之潮、2012年)128頁
「角川日本地名大辞典」編纂委員会編『角川日本地名大辞典13 東京都』(角川書店、1978年)761頁
高梨輝憲『小名木川物語』(高梨輝憲、1987年)52-53頁
磯辺勝『文学に描かれた「橋」』(平凡社新書、2019年)75-79頁

墨田区の橋 × 地名【暗橋・廃橋】【旧町名・旧地名】

墨田区の橋と地名の関係について、簡単にまとめました。
凡例などは一番下にあります。
追加情報などがございましたら、ぜひぜひ教えてください。

墨田区の橋 × 地名

投稿日時 2023.08.27 19:00
最終更新 2023.08.29

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