May 10, 2008

『私法70号』で読む商法と民法の交わらなさ

先日、『私法70号』が届いた。私法学会の学会誌(各大学の附属図書館なり法学部図書館なりに必ず入っていると思いますので、興味のある学生さんはぜひ手にとってみてください)で、昨年度のシンポの模様などが載っている。昨年度学会では、私は、基本的には商法のシンポに出つつ、昼休み明け一番の民法シンポのコメンテーター(内田、藤田)の話だけを聴き、また商法シンポの部屋に戻るという過ごし方をした。その後の民法のシンポの議論の様子を知りたくて早速読んでみたわけだが…。そこで再確認したのは、この記事の表題にあるようなこと。藤田先生のコメントを一部引用。

【引用1】
「…周辺領域においてマクロな経済秩序とミクロな権利義務関係のインタラクションという認識が浸透していく中、もし自律的な私法秩序というものを守ろうという思考が民法の領域で強くあるとすれば、それは一体何に支えられているのかということを外部者としては知りたく思うからであります。
 内田先生のコメントは若干これに触れておられました。政治的なものから中立的な秩序というものに対する一定の評価をなされていたように思います。しかし、しょせん国家機関である裁判所がつくり出すルールというものについて、どうして政治的中立性が保たれるのか。昔は商法も技術的であり、政治から中立的な性格を持つ法だと言われていたこともありますが、今、本気でそれを信じている商法学者はほとんどいないと思います。特に最近の企業買収をめぐる会社法の判決などを見ていると、だれよりも政治的な役割を演じたがっているのは司法ではないかという気さえするわけであります。そういう中で政治からの中立性といったことから、私法秩序を自律的に構築するという思想というのがほんとうに健全かどうかも、私は直ちには理解できなかったところです。
 いずれにせよ自律的な私法秩序を守るという思考を基礎付けるものがあるとすれば、どういうところにあるのか、民法の先生方から教えていただきたいと思うところであります。」(p.12)

【引用2】
「…契約が不完備なので、関係的特殊的な投資があればホールドアップ問題が生じる、したがって法的介入が必要である。こういう抽象的な命題を語るだけではいつまでたっても理論的可能性の話をしているだけにすぎません。そして、抽象的な理論的な可能性で特定の介入行為を正当化するのは、本来非常に政治的な決定を透明な理論によって正当化しようとする意味で最も政治的な行為のようにすら思われます。
 法律学、より正確には実定法の解釈を生業とする人々は、理論構成や概念枠組みの構築には随分と力を注いできましたが、経済現象の実態を学問的な検証に耐え得る形で把握するということについては、熱心ではなかったと思います。そんなことは、およそ法律学の研究アジェンダではないと思っている人も多いかもしれません。このことはとりわけ政策としての民法といったことを構想したり主張したりされる方にとっては、かなり深刻な問題ではないかと思います。政策の議論を最終的に基礎づけるのは実証的な裏づけのはずだからです。これは従来の実定法には要求されなかった分析道具や能力が要求される作業ですが、例えば私の専門領域などでは、若い世代を中心にそういった動きが次第に強まってきているような印象を持っております。今後の民法学、とりわけ競争秩序とかかわる研究領域においてそういう方向での進展が見られるのか、それとも逆に実証といったことは拒絶して、より純化された思想の体系としての法律学として洗練されていくのか、外部者として静かに傍観させていただきたいというふうに思っております。」(p.15-16)

この民法シンポの記録を通してざっと読んでみたのだが、こういった藤田先生の問題提起は見事にスルー。民法学者同士が民法学者の言語で質疑応答を楽しむという民法学者ワールドが華々しく(笑)展開されている。これは、わざわざコメンテーターとして商法学者を呼んでおきながら、きわめて失礼な振る舞いなのではないかと思う。

ちなみに、商法学者である私が藤田先生のコメントについて何を思うかというと、…そういうふうに考えるのもまた、「息苦しい」というのはたしかだということ。商法学者の全員がローエコをバリバリに使えるわけでも実証研究をできるわけでもなく、というか商法学者の中でもそれができるのは本当のエリート(ちなみに人数にすると一桁。もちろん私は含まれてません)だけで、【引用2】で書かれてある「若い世代」というのも、結局そういう若くて本当に優秀でエリートな一握りの学者だけのことを言っているのだ。むしろ、ジュリスト1356号の常木淳論文で示された現状分析(結局、商法を含めて法律学界では、ローエコ等は一部の人がやってるだけで未来永劫メインストリームにはならない)が正確なところ。そして、藤田先生の思い描くような「あるべき姿」こそが「学問としての法律学が生き延びる唯一の道」だともいえないだろう。

というふうに私はなかなかアンビヴァレントな感情を抱いているわけだが、それにしてもやっぱり、藤田先生完全スルーというのはないよね。

assam_uva at 00:10│Comments(8)││研究 

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このエントリの趣旨 伊藤靖史先生のブログの「『私法70号』で読む商法と民法の交わらなさ」というエントリにコメントを入れようと思ったのですが、長くなったのでここに書くことにしました。普段の筆調と異なるのもそういった理由です。以下、前述のエントリの八つ目のコメ

この記事へのコメント

1. Posted by ローエコ族   May 10, 2008 12:16
>、ローエコ等は一部の人がやってるだけ

そうですか。意外でした。
てっきり、若手を占拠しているのかと
思いました。
研究者の世界ですから、目新しいものには
盛んにとびついているものと思って
いました。もう、古ぼけてきたのかな。
2. Posted by もりた   May 10, 2008 12:57
おいらエコ族w
3. Posted by いとうY   May 10, 2008 13:45
>ローエコ族様

正確にいいますと、若手の場合、「米国の(多かれ少なかれ)経済学的な手法を使った論文や実証系の論文を読んで(ある程度は)理解できなきゃダメ」というコンセンサスはあると思います。ただ、自分で論文を書くときに、ローエコや実証研究をバリバリと使いこなせるかというと、若手を含めて大半の商法学者はそうでもない、というわけです(したがって、もりた君は超エリートなんですよ)。もちろんこれじゃいけませんから、自分ではできないとしても、私が将来誰かを指導する機会があれば、「ローエコ勉強しなさい」と言うとは思います。

>もりた君

言いたいことは分かるぜ(笑)。「ロー」を付けるなってことなんだろ?
4. Posted by おおすぎ   May 10, 2008 14:41
禅問答が好きで、個々の経済主体の選好に関心のない人が○法研究に集まっているようですね。そういう方にとっては禅問答のほうが「本音」なんでしょう。△法学界がそうでないといえるかどうかは微妙ですが。
5. Posted by いとうY   May 10, 2008 16:38
おっと、危険な領域に入ってきました(笑)。続きはまた教科書編集会議後にでも。
6. Posted by F-name   May 10, 2008 21:41
法律学のメインストリームにあまり経済学的な要素が入っていないというのは、
良くも悪くも変わっていないなあ、と感じました。
7. Posted by ○法研究者   May 11, 2008 22:50
 大学で民法を教えている者です。いつも楽しく読ませていただいております。
 藤田先生のコメントに誰も触れていない、ということについてなのですが、それは意図的なものというよりは、シンポジウムの進行方法との関係でそうなったのではないでしょうか。
 私の記憶が正しければ、午前中の報告終了後に質問用紙を回収、午後のはじめに内田・藤両先生のコメント、その後すぐに質疑応答、ただ質問については提出された用紙を司会者が読み上げる、という進行でした。コメントを聞く前の質問を司会者読み上げだったので、コメントを踏まえた質問の修正は出されにくく、また、事前に出された質問が藤田先生のコメントと絡みにくいものだったので、結果としてスルーのように見えてしまった、ということなのではないかと思います。
 まあ、これはこれで商法(の一部?)と民法(の一部?)の交わらなさを示しているのかもしれないですが。
8. Posted by いとうY   May 12, 2008 07:27
コメントありがとうございます。そういえば民法シンポの進行方法はそうでしたね。むしろ、質問票への回答の前に、コメンテーターへの回答をきっちりやってもらった方がよかったのかもしれません(つまり、司会者の進行方法に問題あり)。せめて吉田先生の最後の包括回答で触れてもらえればよかったわけですが、彼の頭の中では完全スルーだったんでしょうね(もりた君の質問にも、まともに答えられてなかったですから)。

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