May 14, 2008

ローとエコ[補足]

[書き足しました]

先日の民法と商法の交わらなさの記事だが、記事のポイントは、民法と商法の問題以外にもう1つ、ローとエコにもあった。こちらの点に関連して、たとえば、NYlawyer先生のブログでもご紹介いただいたし、コメントもいただいたし、トラックバックもいただいた。この記事では、トラックバックいただいたmy_T先生の記事を読んで考えたことを(以下に書くこと以外にも、民と商では、シンポについての捉え方もだいぶ違うんだー、という感想も抱いたわけだがそれはさておき)。

正直言うと、上記の記事を読んだ時にも、やはり私は何だか息苦しい感じを抱いてしまった。たとえば、「伊藤先生が、藤田先生の示される道だけが私法学の生き残る道ではないとおっしゃっていることは、藤田先生の問いにどのような解答を示すのかということを真剣に考えなければならない『我々』のなかに、実は伊藤先生も含まれているということを意味しているのではないでしょうか。[改行]そこで、もしこの問いに対して、『いえいえ、実証研究ではない手法を用いた研究には意味があるんですよ』というのならば、その根拠を示さなければならないはずです。」と、記事には書かれている。「そういうことを考えながら研究をするのって、面白いんだろうか」というのが、私の正直な感想だ。「示さなければならならない」「前述の問いに答える努力を真摯に行う責務が法学研究者それぞれにある」といった雰囲気が学界に強く漂いすぎると、一方で、若い者が気軽に論文を公表することを妨げ、他方で、論文を公表しない言い訳に使われる危険もある。

こういったことをしばらく前にも経験したことがあるな、と思い出したのが、比較法をめぐる議論(この記事がスタート)。「比較法」と自称する研究の中には意味のないもの、ないし、比較法と呼ぶに値しないようなものもある、ということが、一部の研究者によって述べられたことがある。藤田先生も、そういったことを書かれたことがある。でも、藤田先生によって意味がないと言われたような研究は、本当は、もっと行われて良かったのではないかと思って、そのような記事を書いたわけだ。ただ、その後、他のブログなどで、「比較法かくあるべし」とか、「そもそも比較法って何なの?」といった議論が盛り上がっているのを読むにつれ、私の方は、何だか違うという気持ちが強くなった。そういった話で盛り上がるのではなくて、それを棚上げにして、自分が書きたい論文を書いて公表することの方がよっぽど大事なのではないか、そういうふうに思った。

つまり何が言いたいかというと、法律学のあり方だとか、方法論だとか、そういった話は、大事でないわけでは決してないし、各人が考えていくべきことだが、そういうことを棚上げにしつつやりたい研究をやって書きたい論文を書くというのもありで、私はむしろそっちを選びたい、というわけだ。「そういうお前のやっている研究は意味が無い」と言われるかもしれないが、学者の世界は論文を数多く公表した者の勝ちなのだ(という学問の評価についての考え方自体が私の考え方ですが)。前の記事で書いた前半の話と後半の話が、それでは矛盾するのではないかと思われる方もいるかもしれないので念のために書いておくと、前半の話は「コメンテーターを呼んだ以上はもっとちゃんと絡みなさい」というシンポのやり方についての話、後半の話は「今後の法律学のあり方とかそういうことはめいめいが考えれてればいい話だ」という話なので、矛盾はしていないと思う。

なお、『私法70号』の読み方なのだが、吉田先生のフィクション論って、内田先生のコメントだけでなく、森田さんの質問への答えになっていると読むべきなのかしら…

assam_uva at 23:59│Comments(2)││研究 

この記事へのトラックバック

考え始めたら止まらなくなってしまったのでもう一度エントリを上げるのですが、もうひとりの自分が「そんなことより論文ちゃんと書きなさい」と言い始めているので、たぶん、これでおしまいになります。 まず、私は、早とちりでおっちょこちょいと指導教官の推薦状にも書か

この記事へのコメント

1. Posted by おおすぎ   May 15, 2008 17:35
前回の私のコメントで、少しまずい表現をしたのではないかと反省しています。近日中に自分のところでエントリーをするつもりです。
2. Posted by いとうY   May 15, 2008 21:35
お気になさらずに。エントリーを楽しみに待っています。

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