飛鳥ベスパー雑記

Ultima Online, Asuka, Vesper unemployed's note.

皆さんこんにちは、ベスパーの狸寝入り野郎ことOUTです。

今年もひじょうに沢山の作品をお寄せ頂きました飛鳥文学賞、
遅ればせながら、その表彰式をば執り行わせて頂きたい次第です!!


第三回飛鳥文学賞、表彰式は6月25日(土曜日)!!
22時から、ユー多目的ホールをお借りして開催です!

(肖像画コンの表彰などでもお借りしている、いつものホールです!)


会場へは『Library Cafe』、及び『ベスパーミニホール』から
テレポーターでスイッと飛んで行けます。
(前日までに設置しますね)


会場では、各賞を獲得された皆さんへの表彰・贈賞のあと、
応募作品に寄せられました熱く嬉しい感想本の数々を、
それぞれの作者様にお渡しする予定です。

応募者の皆さま、そして読者の皆さま、
是非お誘いあわせのうえご来場ください!!

お待ちしております!!!!




【No.18 Chandra作「Ballot Box 投票箱」】

本作はシリーズものである「箱三部作」の三作目ということであったが、公平を期すため、評者は一作目と二作目には敢えて目を通していない。


本作はほとんど登場人物同士の会話だけで状況が説明される。アルゼンチンの作家マヌエル・プイグの『蜘蛛女のキス』が思い出された。(地の文がまったく出てこない。)登場人物がたくさん出てくるので、まずは話の流れを整理してみよう。


友人ジェイスとの想い出の品であるバースレアの投票箱をPKギルドGODsの副ギルマスであるテゼレットから取り戻して欲しい、というテフェリーの依頼を引き受ける場面から話が始まっていく。詐欺師アダルベルトと、以前に彼をやり込めたことが示唆される同業者のウィルバーの二人がタッグとなって、この仕事に取り組むことになるが、投票箱が家にロックダウンされているために奪う隙がないというUltima Onlineの仕様に阻まれ、どうにかしてテゼレットに引っ越しさせる必要が出てくる。そこでアダルベルトはニッサというエルフの女に化け(別キャラを用意し)、GODsの内部に入り込もうとする。が、何の伝手もないので、ポーランという男を仲間に引き込むことになった。GODsはポーランが切り盛りしていた賭場のケツ持ちをやっていたからだ。しかし賭場はクリアニアに半ば乗っ取られているので、ポーラン→クリアニア→GODsとやや遠回りをすることで話をつけ、何とかアダルベルトはGODsに潜入することになる。


あまり詳細を書きすぎると、読む楽しみを奪ってしまいかねないから、ここらで止めておくが、最後に種明かしされることで評者は「なるほどな!」と膝を打ちたくなった。


さて、本作の面白いところは、生きていくために対応しなければならないような本質的な出来事は何も生じていないのに、人間が寄り集まると、それだけで想像力の力場が生じて、自ずと物語が展開していくことになるのだ、という有様を説得力のある形で描き切っているところだろう。


バースレアであるとはいえ、投票箱にはコレクションとしての価値しかない。もっと言えば、想い出補正がなければ、よほどの好事家以外、誰も見向きしないものだ。GODsの選挙も結局はギルドメンバーたちの気持ちの問題でしかない。だが、登場人物たちの目はギラついており、彼らの内部には熱が渦巻いていることを読み手は実感する。本作は文体や心理描写で読ませるものではないが、作者のストーリーテラーぶりは伝わってくる。


《書記が売っている「ペンとインク」、書写にも地図作成にも使えないため存在が認知されていないこのアイテムをバースレアと偽って好事家に売りつけるのだ》という発想なども非常に面白かった。


欲を言えば、人物造形にはもう少し力を割いてもよかったかもしれない。シリーズものであるから、前作を読むことが前提とはなるのだが、アダルベルトやウィルバーたちは思考こそ披露してくれるものの、人間性の部分がボンヤリとしてしまっている。作者はこれだけ書けるのだから、もっと彼らの見せ場を作ってやることはできただろう。(J)

 ※

やっぱりチャンドラ殿の作品はおもしろいのである。
UO内の小ネタをキーとして活用しつつ、ミステリ感のある構成を組み上げてくれる。読後、ああUOの小説を読ましてもらった! という満足感が得られるのも、その辺によるところであろう。
本作は、独立して読める話にはなっているがやはり連作の3本目なので、前2作を読んであるほうが楽しく読める。この点は、コンテスト作品としては足を引っ張る要素になってしまうのが残念だ。でも、本大会における連載みたいな感じにも思われて、うれしいし、実際おもしろかった。
本作品は友情についての問題を描いている。
今年寄せられた応募作品には、このテーマをガッツリ掘った作品が結構あって、それが単純な「ネタかぶり」になるのではなく、まるでお互いを補完し、補強し合うかのように、友情というテーマの奥深さ、喜びと苦しみ、一種の「業」のようなシルエットを照らし出している印象だった。これは、非常によい喩えが出来たと思います。どうですか。
しかしそんな寂しい舞台であっても、いやだからこそ、そこでひと仕事をする飄々とした男達を見るのは心地よかった。次作もたのしみ。(O)


【No.19 Foxbeater作「Wellen’s regret」】

「評価」を離れて「最も好みだった作品を選べ」ということならば、本作を選んだかもしれない。特に随所に出てくるフレーズには大変シンパシーを感じるものが多かった。《不審そうなフレイの呼びかけで我に返ったとき、ウェレンの取り分は全体の1/4を下回っていた》や《言い訳シミュレーションが完了したウェレンはやおら周囲を見渡した》などの淡々としてはいるが、間違いなく笑いを志向している言葉選びには「やられたな」という感じだ。


本作はドタバタのコメディではなく、ブラック・ユーモアに属する滑稽譚となっている。文化人類学者である山口昌男の『笑いと逸脱』(ちくま文庫)から言葉を引いてこよう。


《だから、笑いについて考えるひとつの方法は笑いと恐怖との結びつきを考えることです。よく言われますけれど、恐怖とユーモアが結び付くとグロテスク・ユーモアという。ふつうグロテスクというのは、汚くて見るも無惨なものというのが、一つの定義としてあるんです。ところが、時にはグロテスクとユーモアという反対のものが結びついてしまう。ですから、ゴヤの作品の多くは、そういうふうな全然、正反対のものから出発したものですね。恐怖にねざすグロテスクなもの、それから、それをとりこむための笑いというものが出会ったところに非常に不思議な世界ができる。笑いとは、何度も強調していますように、まず人間が出会う説明のつかない違和感というものを、まず克服するために示す反応だというふうなことが言えるわけです。》


作品全体には何か不穏な気配が張り巡らせられているが、特に象徴的なのはウェレンが自分の過去を回想するシーンだろう。幼きウェレンは巣から落ちた子ガラスの面倒を見るのだが、野に放した数日後にその子ガラスは《道端でアリにたかられ》てしまうのだ。悲惨な記憶だが、ウェレンがその記憶をどう受容しているのかが読み手には不明瞭で、彼は胡散臭い人物であるというよりも、何か底知れない狂気を抱えているかのように感じさせられる。


おまけにウェレンはよく分からない理由でフレイを背後から石で殴って昏倒させるのだ。一体なぜそんな蛮行をしでかしたのか? 《修正していくのです》という謎めいたセリフとともに何をする気なのか? これから恐ろしいことが起こる…と思いきや、ウェレンはフレイのブラとパッドを焚火で燃やし出すのだから、いやはや脱帽という他ない。


本作は《恐怖にねざすグロテスクなもの、それから、それをとりこむための笑いというものが出会ったところに非常に不思議な世界ができる》を地で行くもので、おそらく作者は心理洞察に長けた人物である。途中で面倒くさくなったのか何なのか、「なぜもっと量を書いてこないのか」と文句を言いたくなった。


 ※

なんか、すごい、ユーモアと不気味さを同じくらい感じて、怖いような楽しいような複雑なきもちで本を閉じた。
本書もまた、意味がわからないんである。
本大会にはしばしばこういう、「えっ、何……?」という話が来る。
かといって面白くないのかというと決してそんなことはなくて、要は登場人物の気持ちが理解できないだけであって、ここに記された場面、描写、筆致などはむしろとてもよく描けている。どんな人物がいて、何が起きたのか、それはしっかりとわかる。
「何故」なのかがわからない。
とても不安になるんだけど、惹きつけられる、まったく不可思議な作品だった。おもしろかった。(O)


【No.20 Super Cool J.作「Thieves Guild」】

本作に費やしたのは7~8時間程度で、推敲に時間をかけていない割にはそこそこのクオリティになったかと思っている。不遜なことを言えば、肩の力を抜き、手慰みに近い態度で書かせてもらった。書いている内に「これは長編化できるな」と構想が膨らんだものの、執筆に着手し始めたのが遅く、また別作を書くつもりだったこともあり、とりあえず筋が通るように話を切り詰めざるを得なかった。登場人物同士の会話なども軽口のたたき合い程度にとどめている。作者としては粗が目立つ仕上がりとなった。


盗賊として生きる悪人を主人公に据えたが、男を売るような描写をなるべく省き、不幸な境遇からなし崩しに生きざるを得ない者たちの内省的な弱さに焦点をあてるようにした。設定が設定ではあるので、男臭さはあまり抜けきらなかったかもしれない。また明るい話ではないため、読む人によっては気が重くなったことだろう。とはいえ、綺麗なものだけを、快適で善きものだけを人生に望むというのは、私の思想に反するところである。人生から理不尽を取り除くことはできない。暗闇の中に置き去りにされ、途方に暮れるしかない時間はあるのだ。その時間をなかったことにして自分というものを考えられないのである。


ノワールタッチで盗賊ギルドを取り上げてみたが、特に念頭にあったのはロープシンの小説『蒼ざめた馬』である。ロープシンは帝政ロシア時代に革命家として活動していた詩人であり、実際に貴族を爆弾で暗殺したこともあるテロリストだ。やがて共産主義に失望し、他国に亡命、そこで反共活動に精を出すが、ソ連国内におびきだされたところを捕らえられ、最後には自殺した。自伝めいた作品にはやるせないニヒリズムが充満しており、混沌とした社会動乱においてテロリズムに手を染める者の内面に興味がある人はぜひ手にとってみてもらいたい。


《「まあ司祭でもいいさ。だが、きみ言ってくれ――人は愛なしで生きていけるだろうか?」「もちろん、できるとも」「どうやっていけるんだ? どうやって?」「全世界に唾を吐きかけるのさ」「ジョージ、冗談で聞いているんじゃないんだ」「いいや、ぼくも冗談でいっているのではない」「気の毒だなあ、ジョージ、きみは気の毒な男だ……」》

ロープシン『蒼ざめた馬』川崎浹・訳、岩波現代文庫


どうでもいいが、冒頭の立ちんぼの少女が「ねえ、応援してよ」と腕を絡ませてくるシーンは実体験に基づいている。さらに余談だが、ノワール作品に興味があれば、諏訪部浩一『ノワール文学講義』を読まれるといいだろう。(J)


 ※

流石の一冊だった。
なんか、ツラいとか苦しいとかいう言葉で簡単に形容してはいけないような、深いところに横たわるどす黒く痛々しい魂の傷口を、ガーゼ越しにチラッと見てしまったようなかんじがした。
ワイはこのような生き方はしない人間だし、できないだろう。別にじぶんが享楽的だとは思ってないけれど、楽しいことに身を任せる時間に己をフォーカスしないと、他になんもやる気が出ない程度の精神力しか持ち合わせていないのである。
人生にはなんかこう独りの力ではどうにもならんデカい困難というか絶望がドスンと落ちてくる時があって、ワイはそれを、とりまエッチなことをしたりゲームをしたりグウグウ寝たりしてやり過ごして、そのうちになんとなく体力を取り戻してまたぼちぼちと歩き出すという感じの生活を送って来たから、こういう、キツい瞬間としっかり向き合うような話は実際のところ苦手で、なんで「お話」の中でまでツラい世界が当たり前のような顔をして存在せねばならんのかと、一種の腹立ちも覚えるくらいなんであるが、しかし、それが単なる露悪趣味でなく、人の魂の一段深いところに踏み込むための物語であった場合は、やっぱり、苦しいながらも無視できない感情が湧き上がってくるのである。
このお話の主人公には、抱きしめてくれる女性がいる。
だからよかった。男はみんな、そんな女性がすきだ。(O)


【No.21 Melody作「Through the Gates of… ペンと紙の門を超えて」】

読後、まず評者が感じたことは「この作者にはエンタメ作品の受容量が相当あるな」だ。キャラクターたちの言動の描き方は漫画っぽいのだが、戯画的な人物造形に振り切ることで「こんなヤツおったらオモロイやん?」というツボを心得たものとなっている。


後半に今回の文学賞に応募した各作品の要約が出てくる。アイディアとしてはとても面白かったが、要約の大本は他人の努力の成果であるため、残念ながらその箇所を評価の対象とするわけにはいかなかった。しかし、本作はメタを意識しているのだから、書かれていることの内容それ自体よりも、書きぶりの手腕に目を向けるべきだろう。


たとえば《「*grin grin*」「*guri to gura*」「*ran ran ruu*」》のようなネットミームの引用、《イタリアンギャングのようなステップで徐々に奇妙なポースをとり》に見られる漫画作品のパロディなど、全体的に荒唐無稽なパッチワークではあるのだが、アルバートの《ご都合展開のバーゲンセール》というセリフとは裏腹に実はかなり技術的に統制された作品となっている。適当に書いてはいるが、適当に作り上げてはいない、といったところだろうか。村上隆のポップアートに通じるものがあって、作者の確かな経験値を感じられた。


一方で「私が誰かって? スゥパァクゥ~~ル……ジェーーーーーーーイ!」と自分も作中に登場したくなる勢いがあり、ニヤニヤとさせられたし、また楽しむこともできた。(J)


 ※

これはずるい!! でも、面白い!!!
「書く」ことはホントに面倒だしむつかしいし、段々嫌気がさしてくるものなんだけれども、しかしそれでも「やめた!」とはならずに、泣き言を言いながらもペンを握り、なにかをひねり出そうとするのが、物書きのサガである。
何故と言うにやはり、物書きは、自分が書いたものが好きだからだろう。自分の書いたものが嫌いだ、という人もちょくちょくいるが、ワイはあれは自虐風ロールプレイか、単なる謙遜だと思っている。勿論、何年も前の自作を読み返してその拙さに気が触れそうになるというのはあるにしても、少なくとも書いて数週間くらいは、自分の頭から引きずり出したその織物を眺め、大なり小なり満足感を得られる。そうでなくては嘘である。
話が逸れてしまったが、とにかく本書はそういった苦悩の果てに見た白昼夢のような、幻想怪奇の万華鏡めいた物語と言えよう。
とことんパロディに振り切っているのもむしろ潔い。グッド。(O)


【No.22 FALF作「Inu No Hana」】

《二人からお互いの匂いが減った理由》をそれとなく探ってこい、と言われているのに、語り手のクーシーは真正面から聞いてしまうなど、「クソッ…コイツ、おバカ可愛いな!」という気持ちにさせられる作品であった。最後の猫の醒めた態度もいい。


語り手が誰かに向かって話しかけるという二人称スタイルの小説はいくつかあるが、物語を起こしてくるのはなかなか難しく、よくこのスタイルを採用する気になられたなと思ったが、少し立ち止まって考えてみると、キャラクターの「かわいさ」を読み手に実感させたければ、対象の外側から描くのが最適解なのではないか、と思わされた。つまり二人称以外にあり得ないのではないかと。


もし本作が夏目漱石の『吾輩は猫である』のように一人称視点だった場合、読み手は「かわいい」対象に感情移入しながら読むことになるので、キュンとするような体験は得られなかっただろう。むしろ「かわいい」は鑑賞者と対象との間にある絶妙な距離感においてこそ顕現するのであり、実は「かわいい」を言葉だけで取り出してくるのは高難度な文学的ミッションなのではないか、という気さえしてくる。


ドイツの美学者マックス・デッソワールが美的感情の質的差異にもとづいて整備した図がある。頂上に美、左回りに崇高、悲壮、右回りに優美、滑稽と下っていって、真下に醜と数珠つながりになっている至極分かりやすいものだが、本作から得られる「かわいい」という感情は優美…とは言えないし、滑稽に分類できそうもない。一体その性質は何であるのかを言語化するのは難しい。


おそらく作者は「かわいい」に精通した専門家だろう。ぜひ突き詰めていってもらいたいものだ。(J)

 ※

畜生の物語である。

にくたらしいことに、大変かわゆい。
ワイだって毛むくじゃらに生まれておれば、こういうかわゆい世界に生きられたのではないだろうか。毛むくじゃらの世界は平和であるべきだし、そうあれるよう、ワイらは常に全力でサポートしてゆかなければならない。
とても短いお話だが、この作風で長編を送られてしまうと、もう居心地のいい畜生たちの世界から戻って来られなくなる気がするので、このくらいでよろしい。
端的に言えば、好みである。こういうのをもっと読みたい。(O)


【No.15 TAIYOUJI作「DAEMON QUEST」】

「シュール」という表現は、周知の通り、芸術運動であったシュルレアリスム(=スーパーリアリズム、超現実主義)から来ている。


《超現実主義.理性の支配をしりぞけ,非合理的なもの,意識下の世界を表現する芸術革新運動で,抽象芸術と並んで20世紀におけるもっとも重要な芸術思潮の一つ.直接にはダダイズムの継続と反動から生れ,その名称はアポリネールの戯曲『テレジアの乳房』(1918)の副題『シュルレアリスムのドラマ』から来ている.しかし主義として確立されたのはブルトン(André Breton,1896-1966)が1923年発表した「シュルレアリスム宣言」(Manifeste du Surréalisme)においてである.その定義は「口頭にせよ,筆記にせよ,その他いかなる手段にせよ,思惟の現実のはたらきを表現しようとする純粋な心的オートマティスム.理性による一切の統制なしに,美的・道徳的な先入主なしに行われる思惟の書取り」である.》

竹内敏雄『美学事典 増補版』弘文堂


もともとの運動の趣旨としてはフロイトの精神分析の登場を受けて、無意識で起こっていること(狂気など)を積極的に評価し、それを芸術に取り入れようとしたものだ。画家ではルネ・マグリットやサルバドール・ダリが本邦ではよく知られているが、シュルレアリスムの創始者であるアンドレ・ブルトン自身は詩人である。


フロイトの精神分析の重要なアイディアの一つは自由連想法にあった。自由連想法とは《特定の要因(単語,数,夢のイメージ,ありとあらゆる表象)から出発するにせよ,自然発生的にせよ,心に浮かぶすべての思考を無差別にいいあらわすことにより成立する方法》(ジャン・ラプランシュ/ポンタリス『精神分析用語辞典』村上仁[監訳]、みすず書房)のことで、普段は抑圧している無意識の動きを観察することで、どの記憶が患者の精神症状を生みだしているかを突き止めることを目的としたものである。


さて、本作であるが、異世界転生ものによくあるようなテンプレ設定(スキル授与式など)を皮切りに、Ultima Onlineの設定の上でドラクエのパロディが繰り広げられていく。読み進めていく内に読者を煙に巻くようにして、話の筋がどんどんと混雑していくのに思わず声を出して笑ってしまった。死んだと思っていたビアンカは実は生きていて、親切だったピエールおじさんが実は竜王で、世界の人々は実は魔王によって洗脳&支配されており、ビアンカの師匠は実は魔法使いに扮していたピエールだった…といった具合に。


決して支離滅裂ではないが、読み手がストーリーラインを正確に追うためには、過去の記述をしっかり記憶しておく必要があり、負荷をかけることになるため、本作をエンタメ小説として位置付けるならば、そこは改善する必要があるだろう。ただ、独特な感性に裏打ちされた馬力で突き抜けていくところにシュールみを見出すならば、それは割と瑣末な問題であるように思えた。


とにかく評者が本作に触れて感じたことは「自由」である。本来ならば、前に提示した作中の事実を後になって改訂することの文学的狙いは「真実を読み手に告げること」だ。しかし作者は世界に隠されている謎を解き明かそうとしているわけではない。イメージの連想を辿っていくことで大団円的なエンディングを迎えたい、という作者のひたすら晴れ晴れとした欲望とその馬力に読者は笑わされ、また感嘆させられる…そのような作品だった。(J)

 ※

訳がわからないのである。
随所に差し込まれる挿絵や、著者の雄叫びめいた地の文、秒でひっくり返る展開など、端的に言ってこれは奇書の類としか言いようがない。
が、面白かった。UOとドラクエを足して2で割らず、溶けかけのポッキーで軽くステアして出されたような感じで、それに仰天する我々を見て嬉々とする著者の顔が目に浮かぶような、いやはやなんとも、こうなるとつられて一緒に笑ってしまうしかない。
まさに、この人にしか書けない一冊である。(O)


【No.16 Niboshi作「-Sincerity-」】

今回の応募作品の中で最も純文学的な可能性がある作品だと思えた。親しいはずの友人関係に生じる嫉妬のような、微妙な心の綾を取り上げているが、このテーマには普遍性がある。つまり、いつの時代、どの文化圏、性別年齢関係なく、人間が人間である限り、直面し続けてきたであろう問題に登場人物たちもまた直面しているということである。


我々は直視しにくい感情を否認しがちであるが、ウジウジとして悩むことがあるのも人間性の真実であり、軽蔑すべきものとして普段は抑圧している心性が実は人生を形作るのに大きな影響を与えていることはあり得るのだ。目的地に向かって真っすぐ進んでいる気になっているが、よくよく自覚的になってみると、真っすぐだったはずの道が実は緩やかなカーブを描いており、ゆっくりと致命的に目的地から逸れてしまっている…そのようにして我々自身から隠蔽されているような事柄がどのように人生に影響しているかを洞察するような作品として書き上げられれば、本作は普通に純文学作品としての評価に耐えられるのではないだろうか。


本作のテーマに通じる心理を描いている作品の一つに、たとえば平野啓一郎の『マチネの終わりに』(新潮文庫)があるが、作中には次のようなシーンが出てくる。


《洋子が蒔野に似合っているというのは、彼女を絶えず苦しめる想像だったが、今ほどそれを強く感じたことはなかった。洋子は、何もかもに恵まれて、華々しい、自らが主役としての人生を生きている。そして、自分は今、蒔野の人生の脇役として、擦れ違いかけた二人の人生を、この携帯電話を届けることで再び結び合わせようとしている。なるほどそれは、他の誰にも務まらない重要な役どころに違いなかった! 三谷は、惨めな気持ちになった。残酷な皮肉だったが、そもそもは自分で買って出た役目だった。蒔野はその間に、洋子から着信があったとしても、まさか自分が傷つくとは夢にも思っておらず、暗証番号さえ教えるほどに、人間としては自分を信頼しきっていた。》


スランプに陥っている天才クラシックギタリスト蒔野のスタッフである三谷が、蒔野と洋子が結びつくための唯一の機会を自分のために利用してしまう直前のシーンである。


本作のWyattもギルドの中心人物であり、ギルドマスターからも将来を嘱望されているのだから、《自らが主役としての人生を生きている》と言っていいだろう。一方、異国から来たと目されているHugoは言葉が達者でなく、また人を遠ざける性格からか、陰気なヤツとして敬遠されている《人生の脇役》である。そんな二人がギルドマスターの命令で組むことになった。相性自体はよく、このまま順調に友情を育んでいくかと思われたが、駆け出しの魔法使いのLouisの腕を磨かせるために、バディの変更を命じられることになる。


ここからHugoの心にヒビが入っていく。ギルメンからの人望がある通り、Wyattは人を惹きつけるところがあるのだろう。Hugoも同じくWyattに魅力を覚えるが、孤独を抱えている分、魅力的なWyattと過ごした時間がいかに自分にとって抜きがたいものになっていたかに気付くことになる。それは恋慕の情と見紛うほどだ。


Hugoの背景は伏せられているが、それはそれでよかったと思われた。脛に傷があるからなのか、あるいはトラウマのようなものがあるのか。集団に属しながらも、集団に馴染めない、孤独を抱えている者が、集団の中で強い影響力を持つ人物に対して複雑な感情を抱いてしまうというのは、人類史が始まってから何度繰り返されてきたのか。我々はどうしてこれほどまでに自分が他者からどう思われているのか、他者にとって自分は何なのかを気にしてしまうというのか。本作はそういった問題に切り込んでいる。


最後にHugoが《動かないWyattの手をとり、血に濡れて冷たいその指にそっと口づけ》をしてしまうのも、Hugo自身にも自分がどうしたかったのかが分からなくなってしまったのだろう。《ボクハ イツカ カレノ ドクニ ナル》とWyattから離れていくHugoの行動には、生物学的本性に根差した情念と文化的に習得された観念の軋轢にフィードバックループが生じて処理しきれなくなったことが伺える。


それは文学的な問題でありながら、生物学的な問題も射程に捉えている。進化論者たちの言葉をいくつか引いてこよう。


《社会的な反応としての羞恥心と、それに伴う身体的反応としての赤面は、どちらも自意識と密接にかかわっており、人間に特有のものに思える。同じことは、深く感じる善悪の観念とともに、行為に関する集団のルールを内面化する能力についても言える――この能力は、道徳的に価値があるかないかを判断する個人的な感覚に基づいたものだ。われわれ人間の程度の利他行動と協力では、さまざまな生物のなかでユニークと言うほどではないかもしれないが、ほかにどんな動物が、羞恥心を知ることによって、あるいは美徳の意識を発達させることによって、われわれのレベルに達しているだろうか? また、協力の社会的な役割を十分に理解しているために、みずからの利他行動を意図的に増幅する動物がほかにいるだろうか?》

クリストファー・ボーム『モラルの起源―道徳、良心、利他行動はどのように進化したのか』斉藤隆央[訳]


《類人猿を超えたこの二段階の進化的プロセス、すなわちまずは協同、そして文化に至るプロセスによって、現代ヒトは少なくとも三つの異なる道徳性の支配下にある。第一の道徳性は単純に、類人猿一般に見られるような、血縁個体や友達に対する特別な同情を中心に組織された協力的傾向である。すなわち、燃えているシェルターから助け出す最初の人間は、自分の子供か配偶者であり、熟考は必要ない。二つ目の道徳性は、特定の状況では特定の個体に特定の責任をもつという、協同という共同道徳性である。すなわち、次に助け出すべきは、今火を消すために協同していて火と格闘しているパートナーである(そしてこのパートナーとは共同コミットメントを築いている)。第三の道徳性は、文化集団のメンバー全員が等しい価値を持つという、文化規範と制度の(個人が表に出ない)集合的道徳性である。わたしたちの間でもっとも弱い個体(たとえば子どもなど)にはひょっとすると特別な注意が必要かもしれないが、この道徳性にしたがえば、その災難からすべてのメンバーを等しく、誰彼によらず助け出すことになる(あるいはもし道徳的コミュニティが人類全般なら、あらゆる人が対象になるだろう)。これらの異なる道徳性(道徳的方向性もしくは態度でも良い)が共存しようとしても、当然平和的共存は難しいだろう。ヒトが直面する道徳的ジレンマのうち、一見すると十分に満足できる解決策がなく、もっともやっかいなものの多くが、この道徳性の間で生じる対立に由来する。》

マイケル・トマセロ『道徳の自然誌』中尾央[訳]


もし本作を純文学作品に仕立て上げようとするならば課題は残されているが、評者には描けない心の綾を上手く取り上げており、三人称一元視点を活用した文章も読みやすく、こういった表現もできる書き手なのだなと思わされた。


ただ、惜しいことに、ゲーム的な死生観をベースにしたことが、テーマから物語を引き出してくるのを邪魔している面があった。特にHugoWyattLouisを蘇生すべきかどうかと葛藤するシーンは、相手を独り占めにしたい、いや、相手に自分のことを分かって欲しい、という気持ちを描くために必要なことではあっただろうが、Ultima Onlineの仕様の話と絡んでくるために、真に迫るものでなくなってしまっている。


ファンタジーのMMORPGを題材にしているので仕方がないのだが、作者には、あくまでブリタニアを舞台にしただけで、事の顛末をゲーム的な要素から離れたところで書いてみて欲しかった。(J)


 ※

なんとも、つらい。これはワイが普段あまり考えないようにしているたぐいのテーマで、何故と言うにワイはこう見えて結構執着心があるタイプだから、仲のよいお友達が他のお友達とすごく楽しそうにしているとワイといるより楽しいんだろうかと一瞬勘ぐって寂しくなり、ワイももっと気の合う誰かを探したほうがいいんだろうかとか思ったりして、いやお友達っていうのはそういうもんじゃないだろう別にワイに飽きたという話でもないんだろうし話題によって盛り上がる相手がそれぞれあるというのは至極当たり前の話ではないかと考え、しかし、でも、焼き餅というのは勝手にプクーとふくらんでくるのである。
他方、裏を返せばうぬぼれのそしりはまぬかれんかもしれぬけれどもワイに対して同様の気持ちを多かれ少なかれ抱いてくれる者もあるやもしれず、だとしたらワイ自身は当然その人をそんな気持ちにさせたくて他の人と遊んでおる訳ではないから、非常にごめんねと思うし、とりあえず謝罪の意味を込めて追ってイチャイチャする時間を作るので許してください、どうぞワイを捨てないでくださいねと謝るしかなく、だが、あんまりそんなようなことが続くと流石に温厚なワイも「ちょっと、なに、なんか……重いな……」と思ってしまう可能性もゼロではない。そんなこと、思いたくないのに。
これはひじょうに、悲しいスパイラルである。
ワイに対して抱いてくれておる友情に、等しい友情をその相手にも捧げたいと思う気持ちに嘘はないから、そうできるように、ワイは時間というものを有効にかつようしなければならない。
エッチな画像とかを探している場合ではないんである。
人生はみじかい。あまりにもみじかすぎる。
自分とお友達が、楽しい時間を一分でも多く過ごせるかどうかが、我々にとってもっともじゅうような課題であるのだ。(O)



【No.17 Gren作「Setsu Getsu Ka 雪月花」】

作者が応募された4作品の中で最も面白く読むことができた。3作書かれたことでエンジンがかかってきたのか、本作の文章は実にこなれたものとなっており、エンタメ作品としての完成度は非常に高い。UO小説としては長い方だろうが、評者としては短さに不満を覚えたぐらいである。


それぞれ独立しているように思えた短編が最後でつながってくる、という本作の構成自体は、短編集ではしばしば見られる手法ではある。パッと思いついたところで言えば、円城塔の『Self-Reference ENGINE』なんかがまさにそうだろう。一つの物が次々と所有者の手を渡っていき、それぞれの所有者に吉凶をもたらすような話もよくある。あまりいい例ではないが、これも今思いついたところならば、大藪春彦の『凶銃ルガーP08』などか。


別の時点・場所で起こった出来事が同一の過去(人狼村)に起源をもつ、別の時点・場所で同じ物(雪月花)が出てくる、という発想自体には小説としての目新しさはなくとも、ここにロック一族と人狼の歴史を絡ませ、タイムトラベルというSFの要素を取り込んでくるのは、読み手の想像力を刺激するところがあり、たとえば手塚治虫の『火の鳥』のような大河ロマン的な作品への発展の可能性を嗅ぎ取ることができた。さらには人間と人狼との間に不和をもたらすべく画策する邪悪なトリックスターとしての妖狐が出てくるのも面白い。


まずは雪の章から読んでいこう。


この章の情景はとても良いものだった。雪国は陽が閉ざされ、人の移動が制限されるやすいため、登場人物たちを内向的に描いても違和感が出ない。また辺りを白一色に染める雪景色を読み手は想像しやすく、容易に幻想的な気分に誘われるので、ダーク・ファンタジーにはもってこいの舞台である。(余談だが、だんだんと氷に閉ざされていく悪夢めいた世界を描いた作品にアンナ・カヴァンの『氷』がある。)


デシート島に自分の店を構えているというサラの年齢が18歳なのは少し若すぎる気もするが、独り身の女性が記憶喪失になっている年下の美少年(キール)を世話する、というイメージの選択は悪くない。ただ、繰り返しになるが、「親はどうしているのか?」と問いたくなる年齢ではあるので、サラの背景をもう少し掘り下げて記述して欲しくはあった。


もう一点気になったのは、店に押し入ってきた強盗が《お前さんを生かしてても、しょうがねぇよな》とサラを殺害しようとするところだ。「サラを救うためにキールが正体を現す」という展開的にそうせざるを得ないのは分かるのだが、サラは要求に大人しく従っているし、後段で《その顔は黒い布で覆われている》と記述されているように、そもそも強盗が顔を隠しているのは身元を割らせないためである。もしかしたら、この強盗は殺人に喜びを見いだすようなサイコパスなのかもしれないが、一般的な犯罪者の心理としては、目的はあくまで金などであって、殺人に忌避感があるし、重い罪を犯さずに済むならば、その方がいいのだ。偶然の出来事からサラが強盗の顔を見てしまい、殺人に踏み切らざるを得なくなるなどの描写に変更した方が説得力は増しただろう。


次は月の章である。前章の雰囲気とは打って変わって、本章は時代劇のような様相を呈する。


《平蔵さん、このままじゃ暴動が起きるんじゃないですか?それに皆自分が吊るされないようにしようと、他の人を貶めるんじゃ……》と茜が心配するくだりは、まさに人狼ゲームの醍醐味でもある疑心暗鬼の雰囲気が出ているし、本来は西洋的なイメージの人狼を東洋的な舞台でも違和感なく成立させられている。


最後のスフィーダの気遣いは粋な演出となっているが、平蔵のキャラがやや弱く、折角のアイディアを活かしきれてないように思われた。小太郎や茜に下手人の嫌疑がかかるだとか、何か切羽詰まった状況を与え、平蔵に「人間を庇う」という高潔な振る舞いをさせておけば、スフィーダの気遣いはより輝いただろう。


スフィーダ自体のキャラは立っているが、本章だけにしか登場しない割に癖が強すぎるので、初見の読者は戸惑うかもしれない。色んなところに顔を出してきてもおかしくない人物なので、本作を膨らませる気がないのであれば、もう少しキャラを弱めた方がよかっただろう。


一点注意しておいた方がいいのは、実在する歴史的な人物を思い起こさせる名前(長谷川平蔵)を採用する場合、読者が様々な理想を投げかけていることがある(『鬼平犯科帳』のファンであるとか)ため、迂闊な描写をすると物議を醸すことがあることだろうか。本作の「平蔵」にその心配はないが、念のため。


ラストは花の章である。


「ここからすべてが始まった」のだから非常に重要な章である。特におかしな点はなかったが、妖狐に唆された人間が人狼に敵対しようとする理由についてはもっと掘り下げた方がいいと思われた。人間があまりに受動的で愚かしい存在として描かれると、全体の印象が損なわれてしまいかねないからだ。


最後に魔女狩りの歴史に関する言葉をご紹介して締めくくりたい。とてもいい作品だった。


《魔女狩りのきっかけとなったのはつねに,個人と個人の関係の破綻だが,その背後には農民社会を打ちのめした個人的あるいは集団的な災厄の積み重ねがあった。宗教戦争(15621598),30年戦争(16181648),フロンドの乱(164849164953),その合間にはたびたび飢饉やペスト,獣疫の流行が続き,ますます思わしくなる経済状況……。16世紀末から17世紀前半にかけての時代は,このような現象の出現に絶好の条件をそなえていた。村人たちがこの災厄の原因の論理的な説明を求め,悪意ある人物の不吉なふるまいにそれを見いだしたのは無理もないことだ。》

ジャン・ミシェル・サルマン『魔女狩り‎』富樫瓔子[訳]、創元社


《魔術師(暗示者)が招霊しようと欲する幻影を多くの人びとは全然見もせず聞きもしないのであるが、しかし経験的にみると、実際問題として彼らはそれを見なかったとは自白したがらない。というのは、彼らもまた、暗示におちいった他の人びとが受けている驚愕や戦慄、恐怖の感情の動きをみて、たいていは自分自身も同じようにその感情の動きに支配されてしまうからである。これが集団催眠の集団催眠たるところで、この盲目的感情の動揺は、すべての人びとに集団的に襲いかかり、その動揺は相互作用で強められていく。》

クルト・バッシュビッツ『魔女と魔女裁判―集団妄想の歴史』川端豊彦・坂井洲二[訳]、法政大学出版局(J)


 ※

これはすごい力作だ、と思ったんである。
連作がひとつに収束するというのは非常に燃える展開であり、実際これをやろうと思ってもUO本の容量に収めるのは中々骨が折れそうなところ、なんと本作においてはまるで雰囲気の違う舞台に飛び移りながら、それを「人狼」という一本の骨で通している。一個一個の話の満足度も高い。
この力量はただものではない。ワイが今年の飛鳥文学賞で、もっとも「これ読んでみてよ、スゴいから!」とお薦めできる作品が、本書である。
作中にはオリジナル設定と思しきものも登場するので、その辺は好みが分かれるところであるし、なんならちょっと「こういう話にするためにこれを作りました」的な、ストレートすぎる装置に思われなくもないのだが、それを差っ引いても完成度という点では文句のつけようがない。
メタ的な要素がないのも、きちんと没入できるからよかった。
素晴らしい。(O)

【No.8 Gren作「Stay Tune」】

川原礫のライトノベル『ソードアート・オンライン』がヒットしたのはいつだったか。テーマも、ジャンルも違うが、本作を読んで、評者はふと連想させられた。本作はUltima OnlineVR化した世界を描いているが、それは話を動かす主要なテーマではなく、あくまで舞台装置の一つでしかない。


さて、以下の講評はやや厳しいものとなっているが、作者の力量を高く評価しているが故のものであることをご理解いただければ。


まず本作はファンタジー小説ではないので、リアリズムが基本的な大前提となる。であれば、主人公である佑真に大学4回生という設定を与えた以上、就活の状況などについては「必ず」(!)書かれるべきであった。就活は日本の学生たちにとっては人生を左右する非常に大きなライフイベントだからである。


朝井リョウの『何者』という小説では、自分が社会にとってどんな価値を示せるのかを証明する必要があるため、その何者かであらねばならない抑圧に浅ましいなりに順応しようとしたり、あるいは抑圧に向き合わないための言い訳ばかりをして自分を正当化するような人物たちの葛藤が描かれている。


《私たちはもう、たったひとり、自分だけで、自分の人生を見つめなきゃいけない。一緒に線路の先を見てくれる人はもう、いなくなったんだよ。進路を考えてくれる学校の先生だっていないし、私たちはもう、私たちを産んでくれたときの両親に近い年齢になってる。もう、育ててもらうなんていう考え方ではいられない》

朝井リョウ『何者』新潮文庫


大人になってしまえば、自分の行為の過程を逐一追って、「頑張ったね」と評価してくれる人などいないのだから、いつまでたっても達成されない100点を取ろうとするのではなく、たとえそれが20点でも10点でもいいからアウトプットする必要がある、10点しかアウトプットできない自分を50点に見せかけようとする自分は浅ましいかもしれないが、それでも100点を取るという言い訳に逃げて、いつまでも行動しない君はなんなの?という痛いところにダイレクトヒットするような会話をしているシーンからの引用である。


良し悪しはともかくとして、日本で生きる若者たちで、そのような問題に直面する人たちはそれなりの数がいるのだ。


6年制の学部であるとか、大学院への進学を考えているとか、そういった事情はあり得る。たとえばインターンをやっていたおかげで、既に内定をもらっていたとか、いっそ2回生とかにした方がよかったかもしれない。ともかくも、この設定だけは確かなものとする必要があった。なぜかと言えば、本作が登場人物たちの「価値観」をテーマにした話だからだ。


当初の佑真は「寄付」という行為について《自己満足の世界だ》と考えている。それだけ自分のアクションが他者に与える影響についてナイーブに考えてしまう人物なのだから、実家暮らしで、親の金で大学に行かせてもらっている身分であることを自覚しているだろうし、就活という独り立ちの機会についても真剣にならざるを得ないはずだ。「相手が喜ぶか分からない」と偽善性を見出すような人物が、もともとは遊びでしかないゲームに夢中になり、自身が置かれている抜き差しならない状況に対して何も思わないはずがない。


また、ゲーム内で初めてネットラジオの放送を終え、《次の日の大学の授業は居眠りで散々だった》というのも、基本的に主人公の佑真は自堕落な学生ではなく、生真面目であるという情報を読者に与えている。にもかかわらず、佑真は自身の将来について何を考えているのかが(読者に)知らされぬまま、Shotaの問題にクビを突っ込もうとしている。


もっと言えば、Shotaの身に降りかかった事件は確かに重いことだが、それが事実であるかどうかは(登場人物たちには)分からないのだ。VRゲームでは匿名アカウントを作れないなどの設定を記述することで、ある程度回避できるところはあるだろうが、それでもShotaの友人であるというKazuの言葉を信じられる根拠はないのである。あくまでYuma(佑真)とLisaShota3人はメールでのやり取りしかしている記述がなく、オフ会を実施するなど、「詐欺」でないことが確証される記述も見当たらない。


本作のテーマは「就活」でも「詐欺」でもないはずである。目敏い読者は設定と登場人物の行動との整合性がとれていないことに必ず気付くので、リアリズムが要請される作品で特定のテーマを取り扱う場合には重々気を配られた方がいい。YumaLisaShotaのためにゲームタイムを購入すべきかどうかを議論するシーンはとてもよかっただけに、それで評価を下げてしまうのは大変にもったいない。


最後に。作者のフォローをしておけば、学生時代のリアルタイムの心境を「想像」することは苦心されただろう。現在の自分とは異質な他者を主人公に据えるのは難しく、これまでの作風とも違うため、意欲的にチャレンジされたことであったと思う。(J)


 ※

BBNN:Friは、ウルティマ・オンラインが続く限り続く、UOと共に歩み続ける歴史の生き証人というじゅうような責務を負ったベスパーの公共放送なのである。この点はまず申し上げておきます。
さて、この中で描かれておるUO:VRであるが、これはワイもやってみたいと思うのである。何故なら、こんだけリアルな体験ができるゲームであれば、他の女性プレイヤーがすーっと歩いて行ったあとの残り香を嗅いだり、グラスを間違えたふりをしてその人の飲みさしのお酒を飲んで間接チュウをしたり、全裸になって包帯を巻いて頂いたりというプレイができるかも知れないからである。ひじょうに夢が広がる話だと思った。
あと、「リアルあってのUO」とは皆が口をそろえる話ではあるが、ここまでリアルのパートに力を入れた話はあんまり見ないので、なんか生々しくて、画面の向こうに人がいるというのを再認識させてもらう感があった。
「慈善」と「施し」と「感謝のしるし」の線引きはどこなのか、そもそも違うものなのか、それらはする側とされる側にどんな意味を持つのか、というのを、若者の目線でいっしょに考えさせてくれる話だし、なんか、やっぱりお金がないとつらいことになるから、無駄遣いせずにきちんと考えて使おうとおもいました。(O)



【No.9 Niboshi作「Golden Spring」】

本作は、黒熊亭の店主グレンから護衛の依頼を斡旋された新米冒険者リュアンが、先輩冒険者たちであるユキクモとタイヨウジらに同行し、旅先でのトラブルを解決する過程での登場人物たちの交流を描いた作品である。あたかもファンタジー世界のイラスト集をめくっているような気持ちにさせられた。


《うん、そうだな。誰かが掘りあてなけりゃタカラは逃げられやしないからな》というグレンのセリフ、《今日は動きやすいようにいつもより裾をあげたんだけど、あ、こういうの『尻っ端折り』って言うのよ。覚えておきなさい》というユキクモのセリフなど、各キャラクターたちの「らしさ」が丁寧に書き分けされているのはとても好印象であった。


本作は登場人物同士のやり取りに焦点があてられた物語となっているが、風景描写を多く取り入れてみるといいかもしれないと思われた。たとえば《目の前のたき火は流れてきた霧にすっかり勢いを弱められ、じびじびとよろめいている》といった細かい記述に光るものがあるが、要は語る者と語られるもの(キャラクターの行動や状況)との間にある距離をもう少し空けて、視野を広くしてみると作者の本領を発揮できるのではないか、ということだ。


本作では冒険が描かれているのだから、こういった評価は作者にとって不服かもしれないが、おそらく作者は「日常」を描くことを得手としているタイプの書き手である。つまり、登場人物たちに試練を与えて、思考実験的に物語を組み立てるタイプではなく、まず自身の体験に根差したイメージが先にあり、後から物語がついてくるタイプということだ。だからこそ、登場人物に接近しすぎるよりは、ある程度距離を置き、俯瞰するようにして彼らがどういう風に動いていくかを眺めた方が登場人物たちの日常を描き出しやすくなる。


オーストリアの作家ヘルマン・ブロッホがホフマンスタールについて語っている言葉を引いてこよう。


《一九〇八年に執筆され、郷愁の情に綴られた散文作『美しい日々の思い出』――この表題はホフマンスタールの全エセーに冠してもよかろう――中に、次のような記述がある。たそがれ前に、次いでたそがれ時のヴェネチアを散策し、思いきり街の印象を求めて足を伸ばした後、その夜日中の印象を想起し、筆にせずにはいられぬ、魔神に憑かれた、好ましい気持ちに駆られる有様、創作行為がじかに周囲の印象、風景や気分などから湧きあがって来る有様、そして筆を執ることで自我が完全に充足されるが、しかしそれでもなお自我をかき消してしまい、見たものを魔力によって受容し、再現する、つまり自我をすっかり解消して匿名状態に消滅させる魔力の模様が、そこには描かれている。》

ヘルマン・ブロッホ『ホフマンスタールとその時代――二十世紀文学の運命』菊盛英夫[訳]、筑摩叢書


本作には《創作行為がじかに周囲の印象、風景や気分などから湧きあがって来る有様》を感じられる。実際の知り合いたちを作品の中に登場させてしまったから、彼らの人物造形に注力されることとなったが、人物と風景を等価に「見守る」ことを意識されると、より魅力的な作品となるのではないだろうか。


 ※

本作はギルド #RPG のメンバー達が沢山登場して、ワイワイとお喋りしながら冒険する感じの物語で、なんとなくTRPGのリプレイ集を読んでるような微笑ましさを感じた。
勿論、これは著者による創作小説であるから、ホントにこういう冒険があった訳ではないのだろうが、しかしそもそもギルド #RPG はロールプレイギルドであって、以前はよくこのような形でロールプレイとしての冒険をやっておられたから、あながち全然突飛な作品という訳でもない。
「仲間と冒険する」というファンタジーRPGの大正義は、UOにおいてはともすると「ボスの討伐周回」「ドロップアイテムルーレット」みたいな感じになって、単純な戦闘作業の繰り返しになってしまうから、そこに物足りなさを覚えるプレイヤー達も多くいる。本作のようなお話を読むと、こうでありたいけどそうじゃないUOの現実に、なんか、一抹の寂しさを感じてしまう。
ワイもこういう、楽しい冒険がしたいな、と思わせてもらえる一冊だった。(O)



【No.10 Kryten作「Nujelm Bride ニュジェルムの花嫁」】

本作は「エスコートクエストNPCはなぜ花嫁の格好をしているのか?」をテーマとしているが、読後、作者はかなりUO小説を書き慣れているなと評者は感じた。


主人公のサミュエルは初対面のマウリタを自分の店に連れて行き、《きっとその衣装に似合いますよ。私からの贈り物です》とバニラの花をプレゼントするというなかなかキザなことをするが、決して胃もたれすることなく、如才ない人物造形となっている。


マウリタが花嫁の格好をしている理由についての噂話を聞かされることで読み手は何か深刻な物語が横たわっている気配を感じる(本作を読み始めたばかりの評者の頭の中ではジョー・サンプルとランディ・クロフォードの"Rio De Janeiro Blue"が流れ出した)のだが、それをあっさりと裏切られるのは痛快だった。読み手は紳士ぶっていたサミュエルと一緒に戸惑いながら、本作が実は喜劇であることに気付かされていく。


その書きぶりに評者はダンディズムの気配を感じ取り、好ましく思われた。


《ダンディは、自分の芸術的才能を見せてやろうと思うときには、こんな仕事も遊びの一つといった風を装う。あまり手のこんだ作品とか息の長い作品は禁物である。ダンディは白紙の苦悩と闘ったりなどしないものだ。深刻すぎる作品も駄目。むしろミュッセやバイロンの幾つかの詩篇に見られる冷やかし半分の態度であるとか、メリメのどれかの作品にある冷然たる構えなどが望ましい。ちょっとした彫像、アルバム用の版画、ジャーナリスト風の短い回想録、そんなものが良い。》

エミリアン・カラシュス『ダンディの神話』山田登世子[訳]、海出版社


一つやや疑問に思った点があった。「今の恋人は沼ドラゴンである」というユーモアはもちろん理解できるのだが、それでもマウリタは父の心残りに思いを馳せ、わざわざ花嫁の格好に着替えては、毎日長距離を移動して墓参りをしているのである。父の背中を追いかけて騎士になろうとしているぐらいなのだから、色恋に構っておられず、自分のやりたいことを優先するような男勝りの女性ではあるだろうが、なぜ恋人を見つける努力をしていなかったのか、はもう少し説明を要したかと思われた。(J)


 ※

予想外の展開になったので、ちょっと驚いたのである。

それも嫌な驚きではなくて、いい感じのホワッとした流れだったから、石部金吉金兜として知られるストイックなワイも、「あら~^^」とほほえましい感じになったことを申し上げておく。

その辺に突っ立ってるNPCにも色々ドラマがあるんだろうなぁとはみんな思うことであろうが、悲しいだけで終わらないのがワイは好きであるから、なんかよかったのである。

ところでゲートでエスコートすると、到着地にいた人からは全裸のNPCが現れたように見える問題があるが、この花嫁さんもそんな感じに見えたりすると困るので、やはり遠回りしながらゆっくりと行くのが正解であり、ワイも今後はそのようにしたいと思う。(O)




【No.11 BAR-chin作「Human TENSEI 2022 ヒューマン転生 2022」】

評者が「これは面白い!」と思うのは「自分単独では到底思いつかない」ものに出会う時だ。本作には笑わせられたが、単なる笑いに収まらないというか、なんと説明すればよいのか分からない、非常に奇妙な味わいをもたらす読書体験となった。


たとえば、サバンナのような熱帯の地域に原始的な部族が住んでおり、さらに彼らは氷や雪を見たことがないとする。そこで、彼らに「氷や雪が実在する」と、「それらは川に流れている水と同じものなのだ」ということをいくら言葉で説明しようとしても通じないだろう。「水が石みたいに固くなったり、砂みたいになったりするだって?」という具合に魔術めいたことを聞かされている気持ちになるに違いない。その物理的な変化の様子を実際に観察させてみれば彼らも納得するかもしれないが、言葉だけでは到底納得できないはずだ。(余談だが、1982年にノーベル文学賞を受賞したガブリエル・ガルシア=マルケスの『百年の孤独』には氷を生まれて初めて見て感動するシーンが描かれている。)


あるいは隠し絵があるとする。自分は草むらに隠れているシマウマを見つけたが、友人はまだ見つけられず、手こずっている。この時、「シマウマの絵が本当に存在していること」を教えることはできない。自分にできることはただ「気付き」を伝染させようとするだけだ。「ここだよ、ここ」と指し示したり、ジマウマの絵を模写してみせたところで、友人に隠し絵を見破る力がなければ、たとえば、もし彼に色覚異常があり、そして色覚異常の人には見えない仕掛けが絵に施されてあれば、シマウマには気付けないだろう。


上述の通り、言葉はあくまで思考や記憶を喚起するに過ぎない。それでも「作者はなぜその物語を描こうと思ったのか」という動機にはなんとなく思い至るものなのだが、本作に関してはアイディアの源泉がまったく読み取れないのだ。一体作者はどこからこんなヘンテコな話を思いついたのか?


《商魂たくましくケロケロと過ごす日々》を送る蛙たちは微笑ましくあるし、彼らの間で経済が発生しているという発想も面白い。一瞬、ジブリ映画の『平成狸合戦ぽんぽこ』のような展開になるのかという期待を抱かされるが、そこはサラッと書かれるばかりで、文と文の間にある独特なテンポの中に吸い込まれてしまう。


沼地に蛙社会がある→人間たちに荒らされる→人間に転生して荒らされた原因を究明し、沼地を守ることを決意する→転生して人間社会に溶け込んでいく→だんだんと蛙時代の記憶が薄れていく→エクソダス討伐戦で虫を幻視する→エクソダスと自分の肉体が交換される→人間だった時の記憶が薄れていく、が本作の流れだ。作中で提示された謎が明かされることはないし、また問題も何一つ解決されることなく、主人公の意識は転生した対象に同化して、消えていく。


ロアルド・ダールの短編だとか、カフカだとか、あれこれに結びつけて考えてみたが、いかなる解釈も寄せつけそうにない。お手上げである。悪い意味でなく、今回の応募作品の中で一番の怪作であると評者には思われた。


 ※

本書は終盤、明らかにイッてる感じの展開になるので、これは全体何を読まされたのだろうかと困惑しない者はおらんのではないかと思うのだが、しかし面白くなかったかというとそんなことはない。普通に楽しげな描写と、テンポのよい流れに身を任せて読む時間、それ自体は、じつに心地よいものであった。
エクソダスが出てくるし、どうしてもホラーな読み方をしてしまいがちになるのを一度踏み止まって冷静になると、やっぱり輪廻転生という人知を超えた大きな力に翻弄される魂、その無力感、及び「次は何にされるのかな」というワクワク感、巨大な大海を泳いでるつもりで実は流されているだけの一匹のカエルにも等しい自分自身、という壮大な景色が否応なく広がってゆく。
これは、仏教的な価値観が根底になければ書けないものではなかろうか。
しかし、ワイはその切り口においてもそれっぽいことを書けるだけの知識を持たぬので、なんかそういうことなんちゃうかな、という匂わせを記しておくことで、すごい読み解いた雰囲気を醸させて頂いておきます。(O)



【No.12 IPSの愚息チャンB作「CRAB_NET_#2」】

イギリスの批評家テリー・イーグルトンが次のように書いている。


《世界は、通常より強引かつ自意識的なやり方で言語を扱うことによって、その言語が囲い込む世界は、刷新され生気をとりもどす。ジェラルド・マンリー・ホプキンズの詩などは、このことをとりわけ鮮明に示す実例を提供してくれそうだ。文学言説は、日常言語を異化し遠ざけるが、しかし、そうすることで逆説的に、私たちが経験を、より完全に、またより親密に所有できるようにしてくれる。どういうことかと言えば、私たちはふだん何気なく空気を吸っている、つまり空気は言語と同じように私たちがそのなかで動いている媒体である。ところが、もし空気が突然澱んだり汚染されたりしたら、私たちは自分の呼吸に突然敏感になり、呼吸そのものに注意を向けずにはいられなくなり、その結果、私たちは自己の身体的生命活動を、これまで以上に鋭敏に経験することになるかもしれない。》

テリー・イーグルトン『文学とは何か――現代批評理論への招待(上)』大橋洋一[訳]、岩波文庫


これは言語の異化作用に注目し、文学についての理論を打ち立てようとしていたロシア・フォルマリズムについての概説で、テリー・イーグルトン本人は異化作用だけに着目しては文学的営為を捉えきれないとしているが、本作を読んだ際に不意に思い出された言葉だった。


本作は話の筋が明確でなく、小説でないことは確かである。書いている当人にしか分からない一言メモのような記述が畳みかけられることで、あたかもHIPHOPのリリックのような印象を醸し出している。韻は踏んでいないので、ポエトリーリーディング・スタイルということになるだろうが、個人的には、HIPHOPユニット舐達麻のメインMCであるBADSAIKUSHのようなラップに、崇勲の曲”Tuesday”のトラックをあてがいたくなった。


評者は詩を愛好する者なので、個人的にはかなり好みであったが、申し訳程度にUltima Onlineと関連付けているところなど、作品の仕上がりとして見れば、練り上げが足りないと評価せざるを得ない。何か揉め事が起きて、逃避行のようなことをしている、無計画に向かった先のクラブで出会った女の子を引っ掛けようとしたがうまくいかなった…という感じに読めるが、この全体のやや自暴自棄気味なトーンから《あの子イケたなぁ、ピンクに頬が染まった》で終わらせるのは非常に素晴らしかった。


この作者は文意が通じるような作品を手掛ける必要はなく、むしろ田村隆一のような現代詩作品を意識して、もっと色んな作品を書いてみていただきたい。(J)


 ※

ちょっと、何を書いてあるのかよくわからなかったんですけども、なんか不可解なテンポでぽんぽん進んでいって、読書体験としては嫌なかんじではなかったです。
90年代感、奇妙なUOのパロディ、コラージュなど、なんて言うか一行二行の頭に浮かんだ文章を、そのままどんどん書き連ねたようなかんじで、これは自分以外の誰かの思考を追体験するというのがまるでトリップのような効果をもたらしておるのかも知れんなと思ったのである。
これはオシャレを狙っているのではなくて、素の業だと感じるから、あんまりそんなことが出来る人は多くないので、これからも書きたいものをどんどん書いて行ってもらうと、更にエッジの効いた作品が生み出されるのではないかという期待を抱いた。よかったです。(O)



【No.13 Super Cool J.作「Even If Nobody Knows」】

これを書いたのは10年以上前だろうか。本作は私の黒歴史とでも言うべきものだ。なにせ実在する女性に宛てたラブレターなのだから。詳細については伏せておくが、相手の誕生日に短編を書いて贈っていたものだ。「他の人はこれをどう読むのだろうか?」と思い、今回の企画を受けて、ブリタニアナイズしたものを提出させていただいた。一部表現をUOに合わせただけで、ほぼほぼ当時と同じままの文章である。食えたものではないかもしれないが、煮るなり焼くなり好きにしてくれという感じだ。


本作は読書の習慣がない人向けに書いたものだ。分かりやすく、読みやすい文章にすることを意識したのを覚えている。落ち込みがちだった相手を励ます側に回ることが多く、そういう意図のもとに書かれている。唐突なエンディングを迎えるが、様々な人物や出来事に遭遇し、主人公が成長していく過程を毎年書くつもりだったので、この終わり方を採用した。(J)


 ※

キラッと輝く表現がページをめくるたびにあって、それが読後も心に残る。
セイレーンか何かに魅入られた男の、陸での最後の数週間という感じの物語。その構図を、ごく自然に「そうなるべくしてなる」話として、「決して悲劇的ではない」結び方で書いているところに、この著者が奉ずる人生観のようなものが見えてくる。
人間ただ生き続ければ良いというものではなく、それが欲であれ恋であれ、あるいは狂気であれ、一個の度し難い情動に突き動かされて嵐に身を投げ出す、その姿を、願わくば誰かひとりにでも、曇りのない瞳で見届けてもらうことができたなら、それ以上望むことはなにもないだろう。違うかい? と、ワイに訊いているような感じがした。
非常にカッコいいので悔しい限りであるが、そういった心境はすなわち、常に飢え続けている魂を腹の底に飼っている人生でもあるので、ワイのような凡庸な精神の人間には到底かなわぬことであり、耐えられるとも思えないので、せめて憧れのきもちを抱きながら作品を楽しむのが関の山といったところである。
すごく面白かった。(O)



【No.14 Park GUELL作「Britannia’s wind 2022」】

本作は文量が少ないために評価することは難しいのだが、経験したその瞬間は意識の俎上に載せられても、結果的に言語化されることもなく忘れ去られてしまうような意識の淡いについて書かれており、生活している内に見過ごされがちな心の隙間が、この作者にとっては注目されるべきものとなっているのは興味深いところだった。そこを掬ってこられるのは、作者が繊細な人物だからだろう。次回はぜひ量を書いてきていただきたい。(J)


 ※

普段「ゲハハハハーー!!」って笑っておるような人も、実は心の中ではひじょうにナイーブであって、ふと目にとまった花に感情移入をしたり、頬をなぜる風に昔をなつかしんだりするものなのである。
この本に書かれた詩はどちらも短くて、すぐ読み終わってしまうんだけれども、作者のこういう心のありようを垣間見させてくれることが、その短さゆえに、ホントにチラッと見えたような感じもあり、あなたは普段どんなことをお考えになっておられるんですかと、静かな喫茶店のテラス席で話を聴きたいような気分になった訳である。とても好ましい本であった。(O)










【お詫び】
NO.6 と NO.10 の、OUTの講評が入れ違っておりました。
差し替えさせて頂きます。大変失礼いたしました。


【No.1 mire「The Night Watch」】

植物や宝石の名称、色彩に関する様々な表現を多用し、博物学的とも言える記述を連ねたり、ソローニャの母親が息子の友達を「ファビオさん」と敬称で呼んだり、「~ねえ」という語尾を使ったり、天体についての憧憬を綴ったりするあたり、明らかに『銀河鉄道の夜』を意識されているのに、本作の登場人物であるソローニャとファビオのいずれにも後ろ暗いものは見られず、終始健康的に描かれているところが特に面白いと感じた。


たとえば稲垣足穂が次のように書いている。


《美少年の美とは、(美的美女の場合と同様に)「不幸に運命づけられた者のみに賦与された特権」とでも云いたい或物である。たとえば「家族伝説」的なもの、すなわち養父母関係、腹違い、人質、孤児、身許不詳等々が、その条件である。》

稲垣足穂『少年愛の美学―稲垣足穂コレクション〈5〉』ちくま文庫


萩尾望都の『ポーの一族』などに代表されるように、耽美志向の強い作品に登場する美少年は得てして不幸を押しつけられる運命にある。『銀河鉄道の夜』は耽美を志向しているわけではないが、それでもジョバンニはザネリにいじめられて鬱屈しているし、カンパネルラに対して嫉妬のようなネガティブな感情を抱いたりもする。ところが本作でネガティブなものが現れてくるのは、ムーングロウの望遠鏡のレンズが髑髏の眼窩のように感じられて不気味だと思うシーンぐらいである。


気になったのは、ソローニャとファビオが惹かれ合う必然性があまり描かれていない点だろうか。肢体の魅力についての丹念な描写を解釈の手掛かりとするならば、同性愛的傾向が二人を結び付けていることになる。しかし、芽吹き始めだとしても、少年たちの性はまだ眠っている。なのに、彼らはなぜお互いを選んだのか。単純に「コイツ、可愛いな」と見た目がタイプだったから仲良くなったのだろうか?


この疑問から評者は解釈のアイディアを得た。仮に「自ら美少年となって美少年を愛でたい」という作者の願望があったとしよう。つまり作者は、決して触れられない傍観者の距離から美少年を一方的に愛でることには満足できず、かといって自らが美少年となるだけでも始末がつかなかったとした時、もう一人の美少年の存在が必要なことになる。だからこそのソローニャとファビオだとしたら? 作者はソローニャでもあるし、ファビオでもある。ジョバンニとカンパネルラの関係性とは違い、一人二役のように循環的に自己の欲望を投影しているからこそ、双子のような人物造形となっているのだと解釈してみることができる。水鏡に写る自分の顔に見惚れて溺れ死んだギリシャ神話のナルシスはあくまで一人だが、本作はナルシスが自らの分身を望んだとした場合の物語であるのだと考えれば、かなり独創的だと言える。


もう一つ評者が疑問を覚えたのは、ソローニャとファビオが光そのもののような抽象的な存在となって共に空を翔け回った挙句、《よく勉強をして、善い智恵をつけて、正しい考えをする人にならなくてはいけない》と決意する展開である。この文字通りの飛躍が唐突に感じられたのだ。


先述の通り、ソローニャとファビオの間の精神的なつながりはほとんど記述されていない。生々しさが排除されているとはいえ、お互いが外見についてばかり注目しているため、ある意味「俗っぽい」関係性に閉じている。にもかかわらず、どうして二人は《いつだって誠実でいよう》と誓い合うのか? それを誓わねばならなかった動機はどこにあったのか?


宮沢賢治自身はクリスチャンではなく、熱心な仏教徒だったが、それでも『銀河鉄道の夜』はキリスト教の影響をかなり受けており、銀河鉄道自体が「昇天」のメタファーとなっている。そこに重ねてみるには、ソローニャとファビオの夜間飛行はかなり異質だ。ザネリを救おうとしてカンパネルラは死んでしまったが、ソローニャとファビオはどちらもピンピンとしているのだから。


二人がどうして突然に精神的なつながりを求め合うのかを合理的に解釈する手立てがなかったが、ジョバンニとかおる子が《ほんとうの神さま》について激論を交わす『銀河鉄道の夜』のシーンを読み返すことで、評者はようやく解釈のヒントを得られた。


キリスト教以前、少年愛が公然と認められていた古代ギリシャには、恋愛におけるエロスはイデアへの郷愁であるとするプラトンの哲学があった。


《美は、もろもろの真実在とともにかの世界にあるとき、燦然とかがやいていたし、また、われわれがこの世界にやって来てからも、われわれは、美を、われわれの持っている最も鮮明な知覚を通じて、最も鮮明にかがやいている姿のままに、とらえることになった。というのは、われわれにとって視覚こそは、肉体を介してうけとる知覚の中で、いちばんするどいものであるから。《思慮》は、この視覚によって目にはとらえられない。もしも《思慮》が、何か美の場合と同じような、視覚にうったえる自己自身の鮮明な映像をわれわれに提供したとしたら、おそろしいほどの恋ごころをかり立てたことであろう。そのほか、魂の愛をよぶべきさまざまの徳性についても、同様である。しかしながら、実際には、美のみが、ただひとり美のみが、最もあきらかにその姿を顕わし、最もつよく恋ごころをひくという、このさだめを分けあたえられたのである。》

プラトン『パイドロス』藤沢令夫[訳]、岩波文庫


このソクラテスの言葉は本作のラストで《よく勉強をして、善い智恵をつけて、正しい考えをする人にならなくてはいけない》と穏やかに会話するシーンに符号してくる。不幸な運命に囚われているジョバンニたちには《ほんとうの神様》が必要だったが、十分に健康なソローニャとファビオたちはお互いの見た目の美しさに惹かれ合うだけで精神的なものへと飛躍することができるし、不自然な展開でもないのである。


つまり、だ。古代ギリシャの哲学者のような健康な感性の持ち主が『銀河鉄道の夜』を一卵性双生児の美少年(ナルシス)の物語として変奏したならば、本作のようなテイストになるのかもしれないと思えた。


以上、長くなったが、話の筋としては「オマージュ」を超えたオリジナリティが本作にはあると言える。ただし、語彙や文体を『銀河鉄道の夜』に寄せすぎているため、作者らしさがあまりない。そこを磨けば、本作はもっと魅力的なものになるのではないか。


余談ではあるが、川端康成が『乙女の港』という小説を書いている。(正確には弟子であった中里恒子との合作。)手放してしまったので引用することはできないが、女学生同士の友情以上、恋愛未満の涙ぐましい精神的な絆が描かれている。ご参考になれば。(J)


 ※ 

ワイは少年愛的なものにピンとくるほうではないので、別にこれを読んでもエッチな気分が掻き立てられたりはしなかったのであるが、でもなんか、こういう優しい世界で素直な心が結びつき合っているのを見ると、こちらの心にぽかぽか安心感が広がるというか、なんか、ワイもこういう世界で生きたいなぁと思って、楽しくなるのと同時に、ちょっと、現実世界はあんまりそういう世の中とも限らないから、なんか寂しく感じたりもしました。
文章もすごい丁寧に考えて書かれてて、上手かったです。
あっ。文章も上手かったのであると、申し上げておくものである。(O)



★No.2 Gren「Diary No.7」

本作の情景描写は写実的であり、登場人物たちがブリタニアで本当に生きているかのように読める。しかし彼らは同時にプレイヤーとしての側面も持っているので、おそらくは意図的にキャラクターとプレイヤーの境界が曖昧にされた物語となっている。


ゲームのシステム的にはいくらでも復活することができるので、創作においてUltima Online内の死をどう扱うかは悩ましくなるが、「死んだらキャラクター削除」という縛りプレイをしている老人を描くことで、生の一回性を小説世界に導入することに成功している。対比的な人物である若者は何回でも死ぬことができる(=普通のプレイスタイル)が、彼の窮地を救うべく、老人が戦闘に加勢するのはなかなか胸が熱くなる展開だった。


すべてが終わった後、老人の日記を読むことでようやく事情を理解した若者が、その生き方にリスペクトを示しつつ、あくまで自分の生き方を維持したまま日記を継承する、というアイディアも悪くない。


さて、本作は物語としてはまとまっているのだが、全体的に物足らなさを感じた。それが何であるかを上手く言語化できなかったのだが、ドイツの文献学者E・R・クルツィウスの著作を久しぶりに紐解いたことで、ようやく腑に落ちる解釈を得られた。以下はフランスの作家バルザックが才能を自覚する瞬間について言及した箇所からの引用である。


《その時バルザックのうちになにが起こったのだろうか? 魂の発現が生じたのだ、それは同時に統合でもある一つのインスピレーションである。つまり、漠然とした直観としてすでに長いあいだ現存していた認識が、明瞭な輪郭をとって意識にのぼってきたのだ。バルザックは、これまでに創造したすべての作品が、一つの有機的関連にあるのを感じた。つまり、個々の作品はおおいかぶさる一つの全体の部分なのである。しかもこの全体は意味深い構成を示した。それは、物理的自然のなかに比較されるものがある一つの精神的事象であった。すなわち流動体が一瞬のうちに変化して、規則的な構造体となる結晶化の現象である。バルザックはあの日の認識を、「一人間であることは充分でない、一つの体系でなければならぬ」という文章に定着した。一つの体系であるということは、自己の創造を意味深く組織された関連として把握することを意味している。言葉を変えていえば、作品を生み出すだけでは十分ではなく、これらの作品の有機的な関連性を見ぬくところまで行かねばならないということである。人は自分の生産物に精神を吹き込まねばならない。また自分の作品のなかの自分自身と知り合いにならなければならない。》

E・R・クルツィウス『ヨーロッパ文学評論集』川村二郎・小竹澄栄・高本研一・松浦憲作・円子修平[共訳]、みすず書房


つまり「作品が生み出されはしたが、まだ精神は吹き込まれていないのではないか」ということだ。作者が過去に経験した出来事で何か引きずっているものがあり、それを今回の物語に当て込んだものの、プロットを成立させることを優先したので、人生に対する洞察が零れ落ちてしまって、「いい話だね」で終わってしまった感がある。


特に情景描写においてその傾向は顕著で、丁寧で分かりやすく、とても好ましいのだが、客観的な視点に徹しすぎている嫌いはある。人間はただ物を見ているわけではなく、必ず心情のフィルター越しに出来事に接している。ところが若者と老人のかかわりを記述している第三者が匿名的で、無味無臭なものとなっているために、状況を理解するためだけの情報が読み手に与えられる形になり、折角丁寧に描写されたものが心に残らない。


「誰々は何々をした」は作中の事実の基本単位となるわけだが、「作者はなぜその事実を小説世界に導入したのか?」である。何かに注目するということは、他のものには注目しないということでもあり、その取捨選択にクルツィウスの言うところの《有機的な関連性》がないと、作品の印象がチグハグになったり、希薄化してしまうのだ。


一度プロットを考えず、自分が次の一文に何を書くのか分からないという形で創作されてみるといいかもしれない。(J)


 ※

著者本人が、なんか地味になっちゃったってあとがきに書いてあって、確かに地味といえば地味なんだけど、丁寧に書いてあるからゆっくり読んで滋味を感じることもできる仕上がりになっておりますので、別に損した気にはなりませんでした。おもしろかった。
地味だとしても滋味があるんですよ。
どうですか……。(O)



★No.3 Zain「Natt the Nutless」

読後、作者には「もっと真面目にやってくれ」と伝えたくなった。ケチをつけているわけではない。この作者はやる気を出せば、相当な質のコメディを生み出すことができるはずだ。


本作の話の筋はどうでもよい。ナンセンスなものについて真面目に語ってもバカバカしいだけだ。荒唐無稽な出来事が起こっているという自覚が書き手にあるからこそ、滑稽譚は狂人が書いた文章となることを免れて滑稽譚となり得る。だからといって自覚を強く打ち出しすぎれば、そこから教訓を読み取ろうとするような「臭み」が出てきてしまう。本作には、ナンセンスなことはナンセンスのままにしておけばいいという潔さがあるように読めた。


また、この作者はおそらくディストピアものを書くことができるはずだとも思えた。オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』、ジョージ・オーウェルの『一九八四年』、あるいはP・K・ディックの『高い城の男』といった作品たち。


たとえば潔癖症が嵩じて、汚れを一切許すことができなくなった社会があったとしよう。しかし汚れを完全に除去することなどできるわけもない。それで「地下の闇の中で暮らしましょう。そしたら汚れについての認識を持たずに済むのだから、問題は解決されます」という結論を引き出したとしたならば? ディストピアは極端なアイディアを真剣に追求した結果、無理が生じて、グロテスクな欺瞞を抱えることになる。その皺寄せを押し付ける形で無実の人たちが抑圧されることになるが、そのような社会を外部から眺めるには、「そんなことマジでやっちゃうのかよ」という常識がもたらす醒めた意識が必要となる。つまり幻想への情熱に感染しやすいロマンティストはディストピアの描き手に向いていない。「笑い」をわきまえているリアリストにこそ担われるべきだと言える。


実際、歴史において「笑い」は政治的な批評性を発揮してきたのである。


《〈ご機嫌仲間〉は、腐敗に立ちはだかって政治的バランスを求める是正勢力へと、急速に成長していった。おおっぴらに嘲笑をうけることへの恐れは、規律を正す武器となることを狙う鋭い検閲の役割を果たした。後々のフール団は、そうした伝統をうけついだもので、中世にそれが大きな意味をもったのは無論のこと、一時衰えたとはいえ、十八世紀末ごろにはまた力をもり返している。十九世紀初期のデューレンのフール・アカデミーは、千人以上のメンバーを数えている。〈ご機嫌仲間〉の勢力が定期的に刈りこまれたのは、国家諸機関がそこに認めざるをえなかった脅威の度合いを確実に物語っている。》

C・V・バルレーヴェン『道化―つまずきの現象学』片岡啓治[訳]、法政大学出版局


そんなわけで「もっと真面目にバカをやってくれ」が私から作者へ送る讃辞となる。(J)


 ※

これを書いたヤツは、人の心がないんではないか。ワイはそう思ったのである。何故と言うにこんな、男の一番の急所をもぐだのもがないだのといった話を読まされると、こちらとしては非常に股間がスースーしてくる訳であるし、そもそもこの話の原型と思しきものが作者のツイッターにおいて一度公開されており、そこにおける主人こうが他ならぬこのご立派なOUT様であって、即ちこれは、ワイがギョクをもがれるという話を、再び丁寧に語り直したものとも言えるからである。
よって、この話を褒める者もまたすべて、ワイの敵ということになると申し上げておきます。(O)



★No.4 Gren作「Last Kill 君が最後に殺した相手を」

本作は、作者が応募された4作品のなかでは、(控えめではあるものの)作者の思想が一番前面に出ていたように読めた。特に《善人が行った行為が全て善とは限らない。良かれと思ってしたことが迷惑なこと、というのは程度の差はあれ、しばしばあるものだ》という箇所は倫理学の根本問題に関わってくるもので、評者を思考へと駆り立ててくれた。すなわち「人は自由意志を持っているのか」という問題に。


物語は「ドラゴンの死体はなぜ突然に出現したのか?」を巡るミステリー仕立てになっている。ガードのヒューバーは探偵役というよりも狂言回しのように事態の進行を見守る役を割り当てられている。薄給のためにプロ意識が低い人物という設定なので、無理に探偵役をやらせる必要はないし、日々の仕事などに追われ、感情的な反応が鈍くなっている人物に事の顛末について淡泊に語らせることで「世間の冷たさ」を演出するやり方が違和感のないものとなっている。


評者は本作を悲劇として解釈したが、「悲劇」と一口に言っても様々なので、アメリカの批評家ジョージ・スタイナーの悲劇論を下敷きにしてみよう。


《ユダヤ的ヴィジョンは、災厄の中に、特定の道徳的欠陥なり理解の欠如なりを見てとる。これに対してギリシャの悲劇詩人たちは、われわれの人生を形づくったり破壊したりする力は理性や正義の及ばぬところにあるのだと考えている。》

ジョージ・スタイナー『悲劇の死』喜志哲雄・蜂谷昭雄[訳]、ちくま学芸文庫


この《ユダヤ的ヴィジョン》とは、要は聖書(旧約&新約)の影響を受けている文化圏の想像力を指すが、端的に言えば「誰かがやるべきことをやっていたら、こんな問題は起こらなかった」という考え方のことである。あの時ああすればよかった、あいつがいなければこんなことにはならなかった、等々。それに対して古代ギリシャの悲劇詩人たちは「誰が何をどうしようがどうにもならない問題はある」という考え方をしている。それを受けて「正義のあるところに(本当の)悲劇はない」と見るのがジョージ・スタイナーの悲劇論であるわけだ。


さらにチェコの作家ミラン・クンデラの言葉を引いてこよう。


《人間は、善と悪とが明確に判別されうるような世界を望んでいます。といいますのも、人間には理解する前に判断したいという欲望――生得的で御しがたい欲望があるからです。さまざまの宗教やイデオロギーのよって立つ基礎は、この欲望であります。宗教やイデオロギーは、相対的で両義的な小説の言語を、その必然的で独断的な言説のなかに移しかえることがないかぎり、小説と両立することはできません。宗教やイデオロギーは、だれかが正しいことを要求します。たとえば、アンナ・カレーニナが狭量な暴君の犠牲者なのか、それともカレーニンが不道徳な妻の犠牲者なのかいずれかでなければならず、あるいはまた、無実なヨーゼフ・Kが不正な裁判で破滅してしまうのか、それとも裁判の背後には神の正義が隠されていてKには罪があるからなのか、いずれかでなければならないのです。》

ミラン・クンデラ『小説の精神』金井裕・浅野敏夫[訳]、法政大学出版局


進化論的には、正義の観念は生物学的本能に根差しているものと考えられているが、そこを掘り下げだすと紙数が足りなくなるので、ひとまず《だれかが正しいことを要求》してしまう我々の《生得的で御しがたい欲望》に自覚的となって、本作の核心部分を眺めてみよう。


テイマーのニケは自分が引退するにあたって、置き土産として(ペットのドラゴンの)ラストに一方的な葛藤をもたらしたし、それが引き金となって、いらぬ騒動を巻き起こしもしたのだから、自分勝手な人物であるように解釈することはできる。しかしギリシャ悲劇詩人たちのように、人間は結果に責任を負えない存在であり、悲劇性こそがむしろ人間関係の通常である、というペシミスティックな前提に立つならば、ラストの最期はそれほどむごたらしいものではないのかもしれない。


野生化することで主人を忘れてしまうよりも餓死を選択する方がマシだ、と恨めしくなるほどにニケを想うことができたラストは不幸だったのか? これは読み手によって解釈が異なってくるところだろうが、評者は「不幸だった」とは《判断》しない。ラストの幸不幸はラストにのみ決められることで、読み手が決めることではないからである。


最後に死神のシャーリーンを登場させることで、ラストの想いが報われる可能性を読み手に示唆してしまっているのは、本作の悲劇性を損なっている。そのために読み手が作品を通じて倫理的な問題に巻き込まれるのを回避できてしまうのは少々残念であった。物語の持つ必然性がその結果を導いているわけではなく、「実は夢でした」というオチと変わらなくなってしまうため、評者としては「(デウス・エクス・マキナとしての)シャーリーンは不要だったのではないか?」と《判断》せざるを得なかった。(J)


 ※


どうしてこんなつらい話を書くんですか。ワイは非常にかなしい気持ちになりました。うっうっ……。
やめてあげてください!!!! ラストが可哀相でしょう!!
もしワイがこのドラゴンが死ぬ前に見つけてあげていたら、うえじにしないように、きちんとフードをやって面倒を見たと思います!!! でもニケだけを飼い主と思っているラストは、ワイの手からはフードを食べないかもしれない!!!!! つらい!!!!!!!!!
ウワーーーーーーッ!!!!!!!(´;ω;`)(O)



★No.5 Snow-Spider作「Books Says その書が言うには」

本作は非常にまっすぐで、かつ疾走感のある作品になっている、というのが評者の感想であった。


復帰者が時代についていけず、仕様を手探りで調べていたところ、同じ復帰者に出会って、二人で冒険するようになる形で物語がスタートしていく。それで恋に落ちていくのは、何の衒いもなく、かといって俗悪なものに反発するようにして純粋さを希求するような気負いも見られない。作者にとってはただありのままを想像しているだけなのに、それが自然とピュアな物語に発展するのだから、なかなか得難い感性だと思われる。


「相手に好意を告げても報われないのではないか?」と臆病になってしまう主人公の気持ちはとても自然だし、女性側から贈り物をすることで気を引こうとする展開も新鮮で面白かった。しかし、予定調和的に二人が結ばれるエンディングに収束していく展開は読み手を安心させるからいいとしても、もう少し障害のハードルを高めに設定した方がよかったかもしれない。


恋に悩んだ古代ローマの若者たちの聖典から言葉を引いてこよう。


《恋愛は戦いの場である。もたもたしている奴らは退却しろ。この軍旗は臆病者どもが護るべきものではない。夜も、凍てつく冬も、果てしない行軍も、猛烈な苦痛も、あらゆる労苦がこの甘美な陣営の中にひそんでいるのだ。》

オウィディウス『恋愛指南―アルス・アマトリア』沓掛良彦[訳]、岩波文庫


空腹が最高のスパイスとなるように、《甘美》なる恋の喜びは不安や葛藤を通じてこそ得られるわけだが、とはいえ、変にスパイスを振りかけると、本作の颯爽とした持ち味は失われてしまうかもしれない。しかし、問題はそこではない。


恋愛が文学の端緒になることがあるのは、その欲求が切実だからである。特に恋がもたらす不安は「安心を得られる材料」を得るために、経験の分析とシミュレーションに駆り立てる。恋の病に罹った者は、相手の何気ない一言、それこそ目が合ったかどうかにすら深い意味を見出そうとしてしまう。だからこそ、それまで不明瞭だった自分の心理を説明してくれる作品に出会うことが文学的感動となり得るのだ。


つまり、ある状況に置かれた登場人物たちの関係性がどのような課題に直面しているか、その顛末を(想像されたものとはいえ)客観的に見届けることを書き手が心掛けないと、読み手はただ物語の展開が自分の趣味に合うか、合わないかを判断することに集中してしまいかねない。


たとえば、作中に「意中の相手が自分ではない他の人に恋をしており、そのために自分と同じように悩んでいたのではないか」という想像に苦しむシーンがある。この苦悩の様態を明晰に言語化しているフランスの哲学者ロラン・バルトの言葉がある。


《あの人の不幸に「真摯に」同一化しようとするまさにそのとき、わたしは、この不幸の中にわたしぬきという事態のあること、あの人が自分だけのことで不幸になったのであり、したがってわたしは見捨てられているのだということを、読みとってしまうからなのだ。わたし以外のことで苦しんでいるからには、わたしなどものの数に入っていないということだろう。あの人の苦痛は、あの人をわたしの外部で存立せしめるものであり、したがってわたしを無力にするものなのである。》

ロラン・バルト『恋愛のディスクール・断章』三好郁朗[訳]、みすず書房


こういった心理が記述されれば、読み手自身が抱える人生の課題を意識させ、我が事として物語に引き込むことができる。「それが作者のやりたいことであるか?」は別問題であるが、参考になれば。(J)

 ※


主人公たちがとても初々しい感じがして、大変ほっこりしたのである。
ずっと一緒にいると段々好きになってくるというのは、なんかわからんけど心理学的にもアレされておる人間心理の当たり前の反応であるから、相手にもそう思ってもらえるように、重すぎず軽すぎずのバランスを考えながらできるだけ自然に、長時間を共に過ごせるように、工夫をしてゆかなければならない。この塩梅を間違えると、いつの間にか「勝手に彼氏ヅラしてるやつ」みたいになるので、非常にしんちょうに調整してゆかなければならないのである。
sato はそのあたりに、天性のセンスを持っていたのであろう。羨ましい限りだ。チッ。
べつに嫉妬している訳ではない。(O)




★No.6 Alice de Tales作「I’m a Prisoner」

本作はエスコートクエストNPCとヤングプレイヤーのロマンスを描いているが、よくよく読んでみると、かなり深い解釈を許容する作品になっている。評者の解釈を披露する前にまずは素直に読んでみるとしよう。


受け身にしか行動できないNPC(自動人形)が自我を持っており、実は人間への愛情(もしくは恨み)を抱いている、という物語の組み立て方は古典的ではある。逆に機械に過ぎない相手を人間と勘違いしてコミュニケーションをとるのも、新しい発想かと言えば、そんなこともない。しかし自我は持っているがそれを表現することはできず、あくまでシステムメッセージを発することしかできないNPCと、人間だと勘違いして話しかけているヤングプレイヤー、この二人を出会わせて最終的にNPCとヤングプレイヤーが偶然に再会できるのは、評者の知る限り、あまり類例がない物語であるように思えた。爽やかなラブストーリーである。


さて、それで、よくよく読んでみると、どのような解釈が可能になるのだろうか? その鍵はヤングプレイヤーにある。作者が意図したことなのかどうかは分からないが、彼の言動は実のところかなり多義的なのだ。それを読み解く前に澁澤龍彦の言葉を借りてこよう。


《たとえば自動人形だとか、複雑な装置のある時計だとか、噴水だとか、花火だとか、オルゴールだとか、びっくり箱だとか、パノラマだとか……すべてこういった非実用的な機械と玩具の合の子みたいな巧緻な品物には、なにかしら、正常に営まれるべきわたしたちの生産社会に対する、隠微な裏切りにも似た、ふしぎな欺瞞の快楽にわたしたちを誘い込むものがあるであろう。それは芸術的感動ほどオーソドックスではなく、明らかにそれとは別種のものであり、どちらかといえば、うしろめたい快楽に属するといった方がよいかもしれない。またそれは、玩具に対する場合ほど、見る者が安心していてよいわけのものではなく、虚をつかれること、驚かされること、恐怖せしめられることを期待しつつ、いわば、精神にある種の装備をほどこすことを必要とするような種類の快楽であろう。》

澁澤龍彦『夢の宇宙誌』河出文庫


《正常に営まれるべきわたしたちの生産社会に対する、隠微な裏切りにも似た、ふしぎな欺瞞の快楽》を念頭に置き、ヤングプレイヤーの言動を整理してみたい。


まず始めから終わりまでNPCは「自分は自我を持っている」というシグナルを発することができていない。にもかかわらず、ヤングプレイヤーはNPCに熱心に話しかけている。それを《素敵な勘違い》とNPCは解釈しているが、ヤングプレイヤーが実際にどう考えていたかは記述されていない。つまり「ヤングプレイヤーが交流を求めていたのは人間ではなく、人形である」と解釈する余地があるのである。


ヤングプレイヤーはNPCに自我があることなど見抜いていないし、人間だと勘違いしてもおらず、最初から人形だと分かった上で話しかけていたのだとしたら? そうだとすると、かなり狂気じみた行動をとっていることになる。さらに言うならば、NPCの一人称で話が動いていくが、それすらも実はヤングプレイヤー自身によって書かれたものだとしたら…? 


自我を持たぬ人形を愛してしまい、その人形が自我を持っていたならば、という狂おしい願望から、人形視点の物語を妄想している男についての物語と解釈すると、《正常に営まれるべきわたしたちの生産社会に対する、隠微な裏切りにも似た、ふしぎな欺瞞の快楽》という澁澤龍彦の言葉の意味がだんだんと明瞭なものになってくるのではないだろうか。はたして本作は、システムに囚われているNPCの物語なのか、それとも妄執に囚われているヤングプレイヤーの物語なのか。


人形愛をテーマにした小説にヴィリエ・ド・リラダンの『未来のイヴ』がある。評者の解釈にピタッとはまってくる記述が作中にあるため、その箇所を引用しよう。


《あなたも仰つた通り(とエディソンは續けた)、あなたがあの女の中で愛していらつしやるもの、そしてあなたにとつて、それだけが、その實在であるものは、その通りすがりの女性の裡に現れているものではなくて、實はあなたの「願望」の實體なのです。それはつまりそこには無いもの、――しかもまた、そこに無いことをあなたが御承知のものなのです。何故かと申せばあなたは、あの女にも、また御自身にも欺かれてはいらつしやらないからです。あの戀人の裡に望ましいまぼろしだけしか認めまいとして、意志の力を働かせて、あなたは眼を――精神の眼を閉ぢていらつしやるのであり、――御自分の意識の否定を揉み消していらつしやるのです。從つてあの女の眞の人格は、あなたにとつては、あの女の美の閃きがあなたの全存在の裡に呼びさました「幻影」に他なりません。現實のアリシヤの致命的な、醜怪な、砂を噛むやうな空虛さのために、あなたが厭といふほど嘗めてをられる不斷の幻滅にも拘らず、あなたが最愛の女の存在の中に、是が非でも、生かさうと努力してをられるのは、この「幻影」だけなのです。この影だけをあなたは愛してをられる。この影のためにあなたは死なうとなさる。あなたが、絕對に、實在として認めてをられるのはこの影だけなのです! 要するに、あなたがあの女の中に、呼びかけたり、眺めたり、創り出したりしてをられるものは、あなたの精神が客觀化されたこの幻であり、あの女の中に二つに分けられたあなたの魂に他なりません。さう、これがあなたの戀愛なのです。》

ヴィリエ・ド・リラダン『未来のイヴ』齋藤磯雄[訳]、東京創元社


恋人のアリシヤは類まれなる美貌を持っているが、同時に卑俗な精神の持ち主でもあり、そのことに耐えられなかったエワルドは自殺すら考えるも、科学者エディソンの力を借りて、アリシヤの見た目を完璧に模倣した人造人間ハダリーを作り上げる…という話である。エディソンが言う《あなたがあの女の中に、呼びかけたり、眺めたり、創り出したりしてをられるものは、あなたの精神が客觀化されたこの幻であり、あの女の中に二つに分けられたあなたの魂に他なりません》を、そのまま本作のヤングプレイヤーの心理の説明として当てはめても解釈の筋が通る、ということだ。


いずれにせよ、評者は「ハッピーエンド」だと思えた。NPCに自我があるなら、彼女はヤングプレイヤーと一緒になれたのだし、NPCに自我がなくとも、ヤングプレイヤーは彼女を「所有」できたからである。


本作の軽やかな筆致から、このような解釈を引き出せるとは思わず、楽しんで読むことができた。もし作者が意図して多義的な解釈の余地を残されていたのならば、相当なレベルの書き手だろう。(J)


 ※

実際、初めてNPCベンダーを家に置いたときのうれしさというのは、なんか自分以外の人と一緒に住むことになったような、ちょっとワクワクするかんじというのを覚えるものなのである。
また、NPCの名前やら髪型やらは組み合わせが限られているから、リスポーンした際に「前にどっかで見たかも」というキャラが生成されても不思議ではなく、本作品ではそれが嬉しい偶然として発生している。
つまりこの作品は、短いながらも非常にUOらしく、ワイの大好きなしあわせエンドなので、けっこう類話のある「NPC視点の話」の中でもすごい面白く読めました。よかったです。(O)


注)本作のOUTの感想が、『ニュジェルムの花嫁』と入れ違っておりました。お詫びして差し替えさせて頂きます。失礼致しました。



★No.7 nekokap作「see you 会えたらいいね♪」

""""♪CV:キャプテン・ジョーダン)


詩人の最果タヒを彷彿とさせられる一人称の「僕」の使い方が大変好ましく、このライトでポップな文体でぜひ心理小説を書くことにチャレンジしてみて欲しいと思わされた。しっかりとオチもついており、「UOをテーマにした掌編小説」という意味での完成度は高い。


いかんせんボリュームがなく、また完成度が高いが故に隙を見出せず、文学的な解釈を引き出してくるのは難しい。しかし、キャラクターとプレイヤーが完全に切り離されているのはUO小説では珍しいのではないだろうか。


本作のキャラクターは(SF的な上位世界の)プレイヤーの存在に気付いていない。そのために自らの意志で動いている気になっており、「自キャラ同士のすれ違い」が生じている。これはかなり鋭い着眼点であると感じた。


作者がやりたい方向性と異なるのと、ややこじつけになってしまうので話は広げないが、アルゼンチンの作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスが『ボルヘスとわたし』という短編を残しており、本作に通じるものがあると思われたのでご紹介しておこう。現在の主観としての自分と、他人が話す自分や過去の作品に出てくる自分とのズレという哲学的なテーマについて書かれたものである。ご参考までに。(J)


 ※

これはなんかすごい、クスッとしたよね!
こういうので良いんだよ!!
途中まで結構ふつうに、真面目に読んでたから、いきなり舞台後ろのホリゾントをめくってネコカップちゃんが飛び出してきたようなビックリがあって、「やられた!」って感じがしてすごいたのしかったです。
なぅなぅ!!!!!(O)

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