併合前の朝鮮は、首都のソウルですら多くの国民が竪穴式住居のような所に住み、日中は外の地べたで暮らし、道は狭く、不衛生で糞尿の臭いが漂よい、夏には、伝染病が蔓延し多くの人が命を落としました
0001
ソウルの様子
ol06


ビショップ夫人著「30年前の朝鮮」より

「市民は地上に瓦または藁を並べた平屋の下に潜り込んで生活している。
いや不潔な道路に蠢動していると形容した方が良いだろうか。
その道路は広くても二頭の馬が並べるほどではない。

狭いところで大きな荷物を担いだ人が通ると、それだけで往来を塞いでしまうほどである。
道路のはしには悪臭が辺り一面臭ってくる溝があり、
路面は埃まみれの半分裸の子供達と、猛悪な犬とによって占領されている。」

「下水道は、市内の汚水を昼夜絶え間なく城外へと排せつしている。
そのため、下水道の泥は真っ黒で、
遙かな昔からの汚水によって染められ悪臭を空気中に放散して旅人を悩ましている。」

「ソウルは汚いことと臭いことでは世界一である。」

フランス人宣教師シャルル・ダレ「朝鮮事情」より抜粋

1871年から、1872年にかけて、驚くべき飢餓が朝鮮半島を襲い、国土は荒廃した。
あまりの酷さに、西海岸の人々のなかには、娘を中国人の密航業者に一人当たり米一升で売るものもいた。

北方の国境の森林を越えて遼東半島にたどり着いた何人かの朝鮮人は、
惨たらしい国状を絵に描いて宣教師達に示し、「どこの道にも死体が転がっている」と訴えた。
しかし、そんなときでさえ、朝鮮国王は、中国や日本からの食料買入れを許すよりも、
むしろ国民の半数が死んでいくのを放置しておく道を選んだ。

英国人女性旅行家 Isabella L. Bird  が見たSeoul
都会であり首都であるにしては、そのお粗末さはじつに形容しがたい。
礼節上二階建ての家は建てられず、したがって推定25万人の
住民は主に迷路のような道の「地べた」で暮らしている。

路地の多くは荷物を積んだ牛同士が擦れ違えず、
荷牛と人間ならかろうじて擦れ違える程度の幅しかない。
おまけに、その幅は家々から出た糞、尿の汚物を受ける穴か溝で狭められている。

酷い悪臭のするその穴や溝の横に好んで集まるのが、
土ぼこりにまみれた半裸の子供たちと、疥癬もちでかすみ目の大きな犬で、
犬は汚物の中で転げまわったり、日向でまばたきしている。

ソウルの景色のひとつは小川というか下水というか水路である。
蓋のない広い水路を黒くよどんだ水が、かつては砂利だった川床に堆積した
排泄物や塵の間を悪臭を漂わせながらゆっくりと流れていく。
水ならぬ混合物を手桶にくんだり、小川ならぬ水たまりで洗濯している女達の姿。

周囲の山々は松の木が点在しているものの、
大部分は緑がなく、黒い不毛地のうねりとなってそびえている。

Seoulには芸術品がまったくなく、公園もなければ見るべき催し物も劇場もない。
他の都会ならある魅力がSeoulにはことごとく欠けている。

古い都ではあるものの、旧跡も図書館も文献もなく、宗教にはおよそ
無関心だったため寺院もない、結果として清国や日本のどんなみすぼらしい町にでもある、
堂々とした宗教建築物の与える迫力がここにはない。


また、酷い差別社会でもあり、酷い文化や伝統もたくさんありました

乳出しチョゴリ
女性は子を産むと誇りとして胸を出して生活していた
例(多少のモザイク処理もしております)
乳出しチョゴリ

キーセン  妓生
いわゆる風俗みたいなものであり、当時の朝鮮では幼い幼女妓生も容認していました
李能和によれば、李王朝の歴代王君のなかでは9代国王成宗と10代国王燕山君が妓娼をこよなく愛した。

とりわけ燕山君は暴君で知られ、後宮に妓娼をたくさん引き入れ、王妃が邪魔な場合は処刑した。化粧をしていなかったり、衣服が汚れていた場合は妓生に杖叩きの罰を与え、妊娠した妓生は宮中から追放し、また妓生の夫を調べ上げて皆斬殺した。

燕山君は名寺刹円覚寺を潰し、妓生院を建て、全国から女子を集め大量の妓生を育成した。燕山君の淫蕩の相手となった女性は万にいたったともいわれ、晩年には慶会楼付近に万歳山を作り、山上に月宮をつくり、妓生3000余人が囲われた。燕山君の時代は妓生の全盛 (絶頂) 期ともいわれる一方でこれらは燕山君の淫蕩な性格に起因するといわれており、妓生の風紀も乱れた。

試し腹 
女は子を産む道具でしかなかった当時の朝鮮では、これこの通り、妊娠できる体でございますと
いうことを証明するために、父親かまたは「種男」という男が娘を犯し、妊娠した状態で輿入れさせた

奴隷身分制度 
両班が白丁(農奴・奴隷階級)などを奴隷としてこき使った
国民の大部分を占めていて、日本が併合するさいに無くそうとすると
身分解放に反発する両班は抗議デモを行った

病身舞 
身体障害者などを小馬鹿?にして真似して踊る 日本敗戦後に復活する

他にも、残虐な尋問や指詰め、〇の食文化や酒やクスリ、〇洗顔(〇は伏せじ)などいろいろあるが、
たくさんありすぎるのと、酷いものなので全部はのせない
また、その国の恥の文化や伝統なのでバカにしたり差別してはいけない


日韓併合後の朝鮮

ハーグ密使事件以降の大日本帝国国内では、「朝鮮を自国領土に組み込み朝鮮人を皇民とせしは皇国民の質の劣化である」という見地により、反対の意見も根強かった。併合時に必要となる莫大な資金の負担についても政財界より併合反対の意見があった。

反対に、軍部出身者を中心とした中国への膨張政策のため、日韓併合賛成派もあり、「我が国上下輿論沸然として鼎(かなえ)の湧くが如く、或いは新聞に、演説に併呑を論じ、合邦を説くこと盛んなり」という記事にされるなど、国論は併合賛成・反対に二分されていたが、1909年7月6日の閣議で併合方針は明確となった。朝鮮統監であった伊藤博文の暗殺で、親日派と早期併合に向かった。

伊藤博文は、国際協調重視派の軍部としばしば激しく対立した。韓国併合については、保護国化による一時的(実質)な統治で充分であるとの考えから、併合反対の立場を取っていたとされるが、1909年7月6日の併合方針では閣議決定を否定して無い。近年発見された伊藤のメモには「韓国の富強の実を認むるに至る迄」という記述があり、これについて伊藤博文研究の第一人者とされる京都大学教授の伊藤之雄は、「伊藤博文は、韓国を保護国とするのは韓国の国力がつくまでであり、日韓併合には否定的な考えを持っていた事を裏付けるものだ」としている。統監として朝鮮の権限剥奪や軍隊解散、皇帝の退位などに関与で抗日独立派から敵視される立場だった。死の間際には、自分を撃ったのが朝鮮人だったことを知らされ、「俺を撃ったりして、馬鹿な奴だ」と呟いたといわれている。

二分された国内世論に慎重な日本政府は併合の正当性について列国に打診している。アメリカとイギリスは、このまま韓国を放置することは地域に混乱与えると考え、韓国併合に賛成した。その他、清国、ロシア、イタリア、フランス、ドイツといった当時の主要国からの反対も全くなかった。各国の賛成を得て、また一進会も併合を望み、日本は韓国併合に乗り出した。 当時の統治の仕方では植民地支配が主流だったものの、日本政府は、当時最も穏やかな併合だったスコットランド併合を参考に韓国の併合を進めました。日韓併合条約が締結された。

当時の朝鮮はアジア最貧国で、特に魅力はなかったものの旧ソ連や清に占領されてはやっかいだと見て、統治しましたが、ただ単に統治したのではなく、当時の日本の良心で台湾同様に同じ国として、多大なるお金や労力を使い、膨大な借金も肩代わりし、近代化させながら併合を進めました。それが日本のやり方でした。他の欧州諸国にとってはほとんど無い事でした。
当時の列強国 植民地支配し、奴隷の様に扱い、国民が生産した利益は宗主国の物となる
日本の考え 例えば 同じ人間なんだから 人類皆兄弟 人類差別反対

併合時の写真

b06
併合初期のソウル

b08
併合された平壌の様子 まるで日本のよう

b09
女子高等普通学校 教育機関も充実させてあげました
京城帝国大学創設(1924)、旧ソウル師範学校(現ソウル大学)、梨花女子大など1000校以上建設
(ほぼ皆無から→ 小学校5,213校建設、生徒数2,389,135)
(識字率  3-8% → 80%)

b11
ソウルの朝鮮銀行前

b10
京城駅

b12
南大門通り

デパート
↑1937年にソウルに開業した丁字屋デパート。
ソウルにはこの他に、三越・平田・和信(韓国系)などの百貨店があり
日本内地の流行を敏感に反映させながら競い合っていた。

005
↑1936年のソウル、南大門通り。
左側が商業銀行。市電は複線になっている。
看板の文字は真ん中がレートクレーム(化粧品の名前)、右側がキリンビール。

繁華街
↑ソウルの繁華街、本町2丁目の商店街。
東京の銀座に相当する街筋は、
街灯が消える夜半まで人通りが絶えなかった。

008
↑平壌の夕暮れ。

007
↑平壌府営業の市内電車。
運賃は市内一律で5銭。

009
↑新興工業都市、興南。1942年撮影。
朝鮮窒素肥料・日本マグネシウム・朝鮮鉱業などの工場が次々に進出した。

010
↑世界最大級の水力発電所、水豊ダム。
当時出力世界二位のダムで、朝鮮及び満州の電力をまかなった。

011
↑水豊ダム。 発電用のドラフト・チューブの埋め込み。

朝鮮に施した主な政策

司法の整備、中央銀行の設置、産業開発、民間資本投入、教育振興、
ハングルの普及、大学及び各種の学校設置(ほぼ皆無から→ 小学校5,213校建設、生徒数2,389,135)
京城帝国大学創設(1924)、旧ソウル師範学校(現ソウル大学)、梨花女子大など1000校以上建設
人口調査、土地調査、戸籍謄本制度導入、
治山、治水、植林6億本、灌漑、農地改良、小作制度の改善、医療の改善、予防接種の普及、
各種工場の運営、これら全てに関わる施設の建設、上下水道施設、送電設備建設、
通信設備建設、道路整備、橋梁建設、鉄道敷設178000km、陸路・鉄路トンネル821貫通、
港湾建設、世界最高峰のダム建設、水力発電87基設置等、
ため池(韓国国内のため池の半分は、いまだ日本帝国謹製)
考え得る限りのありとあらゆるインフラ・法・教育を整備

朝鮮文化を研究・調査 して膨大な書籍を発行し、
中国史の研究しかしなかった両班の代わりに35巻2万4千ページに及ぶ朝鮮史を編纂し、
残虐な拷問を禁止し、悪習を断絶し、身分制度を撤廃し、
衛生の概念を教え、人権の概念を教え、
人口を2倍に増やし、平均寿命を2倍に伸ばし、
穀物を内地から輸入し且つ安価で販売し、
農家から米を高く買い安く販売し、
朝鮮総督府予算不足分を補う為、内地国家歳入の15~20%を補填にあて、
内地及び台湾に比べて税は安く、
優秀な人材は国費で内地に呼び学ばせ、あるいは留学させる↓
朝鮮の王族と日本の皇室との結婚もあったし、朝鮮出身の国会議員、士官、将軍もいました。

1945年の敗戦までに朝鮮半島につぎ込んだ資本・資産は現在の価値に換算して
80兆円以上になる

日本は、悪習や文化を廃止させ、ほぼ未開状態だった朝鮮を多額の資金をかけ、ありとあらゆるできる限りの法設備やインフラ設備をし、近代化させましたが、全くもって感謝される事はありませんでした

韓国は、日本は朝鮮植民地支配し、奴隷のように扱い、虐殺したと主張するが、
それとは全く別物である
アジア最貧国で、未開状態だった朝鮮を近代化させた事は、
逆に感謝しなければならない



朴泰赫

日本人地主は、韓国人の小作人の間で、きわめて評判が良かった。
日本人がやってきてから、改良された堆肥を奨励したし、
化学肥料が配給されるかたわら、改良品種や、進んだ農業技術を導入したので、収穫が増えたし、
農地開拓と河川整備を進めたので、村人の生活水準が大きく向上したからだ。

それに日本人地主は、昔の両班たちよりもはるかに寛容だった。
両班のように小作人(ソチクイン)である常人を理不尽に苛めるようなことがなかったし、
不作のときには、小作料を安くしてくれた。日本人地主のほうが、物わかりがよかった。

だから、日本人の地主は人気があった。
みんなは、韓国人の地主の小作人となるよりは、
日本人地主の小作人になりたがったのは、当然のことだった。

日本人のもとで働いていた常人たちは、羨望の自で見られていた。
日本人が所有していた農地は、独立後に、「敵産」(チョクサン)としてすべて没収された。
しかし、日本人が今日の韓国農業の発展の基礎をつくったことは、否定できない。

■ 元韓国空軍大佐の崔三然

「アフリカなどは植民地時代が終わっても貧困からなかなか抜け出せない状態です。では植民地から近代的な経済発展を遂げたのはどこですか。韓国と台湾ですよ。ともに日本の植民地だった所です。他に香港とシンガポールがありますが、ここは英国のいわば天領でした」「戦前、鉄道、水道、電気などの設備は日本国内と大差なかった。これは諸外国の植民地経営と非常に違うところです。諸外国は植民地からは一方的に搾取するだけでした。日本は国内の税金を植民地のインフラ整備に投入したのです。だから住民の生活水準にも本土とそれほどの差がありませんでした」と証言


あれから数十年ほど立ちましたが、韓国は恩を仇で返し、世界一の反日国家となりました
一方で、同じく併合された台湾は日本に感謝し、世界一の親日国となりました
その他、統治された国々も独立できた事や、発展させてくれた事に感謝し親日国となりました