工事の進んでいた友人の飲食店の契約部分の工事が終了し、先週に引き渡しを済ませてきた。今回は予算の関係上、工務店の請け負う部分と友人が自らDIYする部分と工事が分けられて進められてきた。このような工事の監理は初めてだったが、デザイナーが全体をコントロールすることの難しさとその意味を考えさせられた。共通の言語を持つ工事の専門家とは意思疎通がスムーズに行えるが、専門家ではない友人とはスムーズに行えない部分がある。技術的にもプロとそうでない友人とは大きな差がある。空間的にも精度の高いものとそうでないものを共存させなければならない。結果的に依頼主である友人が納得すればもちろんそれでいいとは思うのだが、依頼された以上自分の能力を最大限発揮しなければいけないし…難しい。
住宅であれば、生活の器となる建築を依頼主に引き渡した後、特に相談などなければその空間をどのように使うかは依頼主の自由である。こちらが意図していないような使い方や依頼主の趣味思考で選ばれた生活の道具が並んでも嫌悪感よりむしろ新しい発見の方が多い場合がある。atelierHUGEとしても「寛容性」を訴えている以上、提供する空間はそうありたいと考える。
昨今「リノベ風」の住宅特集等でよく見かける。手付かず(のような)の無垢なエレメントで空間全体を構成させることで、使用する人の多様で流動的な思いや意思、ライフスタイルの変化に寛容であろうとする一つの方法であると思う。今回の友人の店舗では無垢なコンクリート・フレームと友人の大らかな施工に、精度の高い「オブジェクト」をぶつけ、空間にコントラストをつけることを試みてみた。お店は友人の手によって今後も手が加えられていく予定だが、どのように空間が変化していくのか見守っていきたい。
住宅であれば、生活の器となる建築を依頼主に引き渡した後、特に相談などなければその空間をどのように使うかは依頼主の自由である。こちらが意図していないような使い方や依頼主の趣味思考で選ばれた生活の道具が並んでも嫌悪感よりむしろ新しい発見の方が多い場合がある。atelierHUGEとしても「寛容性」を訴えている以上、提供する空間はそうありたいと考える。
昨今「リノベ風」の住宅特集等でよく見かける。手付かず(のような)の無垢なエレメントで空間全体を構成させることで、使用する人の多様で流動的な思いや意思、ライフスタイルの変化に寛容であろうとする一つの方法であると思う。今回の友人の店舗では無垢なコンクリート・フレームと友人の大らかな施工に、精度の高い「オブジェクト」をぶつけ、空間にコントラストをつけることを試みてみた。お店は友人の手によって今後も手が加えられていく予定だが、どのように空間が変化していくのか見守っていきたい。
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