2006年05月29日 00:09
2006年05月28日 00:00
「薔薇は美しく散る」
「そのままの君でいて」
「コンディション・グリーン」
「夢の世界へ」
「バーチャルスター発生学」
「TELL ME WHY」(PENPALS)
「コジコジ銀座」(ホフ・ディラン)
「ハミングがきこえる」(カヒミ・カリィ)
「The Sore Feet Song」 (Ally Kerr)
「ドラマチック」(YUKI)
「ユビキリ」&「ふれふれっぽんぽん!」
「そのままの君でいて」
「コンディション・グリーン」
「夢の世界へ」
「バーチャルスター発生学」
「TELL ME WHY」(PENPALS)
「コジコジ銀座」(ホフ・ディラン)
「ハミングがきこえる」(カヒミ・カリィ)
「The Sore Feet Song」 (Ally Kerr)
「ドラマチック」(YUKI)
「ユビキリ」&「ふれふれっぽんぽん!」
2006年03月17日 19:45
これで終わりです。
思いっきり旬を外してしまいましたが、一応書き切りました。偉い。
あーあ、議論の誘導間違ったな。
いいかげん『パラキス鑑賞記』のカテゴリー名も何とかしなくちゃいけませんね。(笑)
忘れた頃にそっとやってます。
とにかく。二項対立を馬鹿正直に選ぶのは地獄への一本道なのでやめましょう、みなさん。騙されたと思って。ね?
来たれ第3次反抗期。
思いっきり旬を外してしまいましたが、一応書き切りました。偉い。
あーあ、議論の誘導間違ったな。
いいかげん『パラキス鑑賞記』のカテゴリー名も何とかしなくちゃいけませんね。(笑)
忘れた頃にそっとやってます。
とにかく。二項対立を馬鹿正直に選ぶのは地獄への一本道なのでやめましょう、みなさん。騙されたと思って。ね?
来たれ第3次反抗期。
2006年02月02日 19:43
アップ。
うーん、基本的に何で弁証法の項が必要か分からない人も多いかもしれないんですが・・・・。
一種の『現代用語の基礎知識』ですよね?違いますか?
僕自身別にヘーゲルやらマルクスやらを意識して読んだりした経験があるわけではなく、あくまで伝聞とたまに目にする引用の範囲内で普通にこれくらい脳味噌に入ってしまっていたので、それを前提に”通俗弁証法の影響”なんてものを論じてしまっちゃったんですか。
書いてからすげえ疑問になってしまった。内容以前に。
うーん、基本的に何で弁証法の項が必要か分からない人も多いかもしれないんですが・・・・。
一種の『現代用語の基礎知識』ですよね?違いますか?
僕自身別にヘーゲルやらマルクスやらを意識して読んだりした経験があるわけではなく、あくまで伝聞とたまに目にする引用の範囲内で普通にこれくらい脳味噌に入ってしまっていたので、それを前提に”通俗弁証法の影響”なんてものを論じてしまっちゃったんですか。
書いてからすげえ疑問になってしまった。内容以前に。
2006年01月28日 19:41
まとめサイト。
宣言通りサクサク行きます。
とりあえず思い出せる/思い当たるものを一気に大放出。細かい解説は別途、いきなりファイルで。これ以上ブログを暑苦しくしてられない。(笑)
(マイルドなもの)
・第3の選択肢
・・・・「車で行く?電車で行く?いや、バイクで行く」。二項対立が厳密でない場合限定。
・弁証法
・・・・テーゼ(第一)meetsアンチテーゼ(第2)→→→ジンテーゼ(第3)
・いいとこどり(折衷・妥協)
・・・・「ポップなハードロック」
(創造的/破壊的なもの)
・いいとこどり(問題の否定)
・・・・「カレー味のうんこ?うんこ味のカレー?いや、カレー味のカレー」
・選択の拒否(ネガ)
・・・・「カレー味のうんこ?うんこ味のカレー?いや、食わない」
・選択の拒否(ポジ)
・・・・「やだやだ、両方欲しい」
・前提の破壊
・・・・いわゆる”コロンブスの卵”
・対立の否定
・両方の肯定
・両方の否定
・両取り
(アクロバティックなもの)
・問題構造のずらし/解消
・・・・”脱構築”(デリダ)、”憑き物落とし”(京極夏彦)など。
・対立構造の組み換え/再構築
・・・・提示された二項対立自体をまとめて一つの選択肢として含むような、
より大きな/高次元の対立・問題設定を瞬時に構想する。
僕も普段別に系統的に考えているわけではないので、まだまだあるような重複しまくりのような微妙な感じですが、ざっとこんなもんか。これから「解説」を書いていく中で自然に詰まって行くと思うので、逐次フィードバックして完成(?)させようかと。やれやれ(笑)。
宣言通りサクサク行きます。
とりあえず思い出せる/思い当たるものを一気に大放出。細かい解説は別途、いきなりファイルで。これ以上ブログを暑苦しくしてられない。(笑)
(マイルドなもの)
・第3の選択肢
・・・・「車で行く?電車で行く?いや、バイクで行く」。二項対立が厳密でない場合限定。
・弁証法
・・・・テーゼ(第一)meetsアンチテーゼ(第2)→→→ジンテーゼ(第3)
・いいとこどり(折衷・妥協)
・・・・「ポップなハードロック」
(創造的/破壊的なもの)
・いいとこどり(問題の否定)
・・・・「カレー味のうんこ?うんこ味のカレー?いや、カレー味のカレー」
・選択の拒否(ネガ)
・・・・「カレー味のうんこ?うんこ味のカレー?いや、食わない」
・選択の拒否(ポジ)
・・・・「やだやだ、両方欲しい」
・前提の破壊
・・・・いわゆる”コロンブスの卵”
・対立の否定
・両方の肯定
・両方の否定
・両取り
(アクロバティックなもの)
・問題構造のずらし/解消
・・・・”脱構築”(デリダ)、”憑き物落とし”(京極夏彦)など。
・対立構造の組み換え/再構築
・・・・提示された二項対立自体をまとめて一つの選択肢として含むような、
より大きな/高次元の対立・問題設定を瞬時に構想する。
僕も普段別に系統的に考えているわけではないので、まだまだあるような重複しまくりのような微妙な感じですが、ざっとこんなもんか。これから「解説」を書いていく中で自然に詰まって行くと思うので、逐次フィードバックして完成(?)させようかと。やれやれ(笑)。
2006年01月25日 19:39
最初に「相対化」と「プレッシング」を対比して言ったこと、ゲレーロさんに提案してみたかったこととは、話の筋がずれているようで実はちょっと気に入らないんですが。
『相対主義と第三の道』というエントリータイトルにある通り、今回のやり取りには関連はあるけれど独立もしている2つの主題が含まれていて、僕が言いたかったのは主に前者についての方ですね。または前者をめぐる(”相対主義”と”相対主義以前”という)絶対的な二項対立の取り扱い方について。
ただ『(個人レベルの)第三の道』、二項対立からどう脱出するかというのも、当然そこから派生(”連想”に近いと思いますが)する問題ではありますし、ちょっと前の『山田あゆみ問題』(笑)も含めて話の展開上このブログの継続的読者にとっては関心のあるところだと思いますので、一応一回言語化しておきます。
なおここまでのやり取りについては、手前味噌ですが「まとめサイト」的なものをファイル化しておきました。逐次追加予定。
まず断わっておきますが、これから羅列・説明して行くものは、あくまで”例示”であって”解答”ではないということです。
それは何を言うにせよ「これが正しい」「これが答えだ」という提示の仕方は、『第一の道』〜相対主義以前への先祖帰りを誘発してしまうというのが一つ。第三について語ろうとしているのに、それでは何にもなりません。ミイラ取りがミイラというやつです。
そしてもう一つ、こっちの方が本質的かと思いますが、肝要なのは二項対立は選ばないという忍耐力、倫理性の方であって、選ばない結果どうなるかその後どうするかというのは結局ケースバイケースであるからです。つまり・・・・通常ほとんどの「問題」形式として提示されるものである二項対立を選ばないというのは、出来合いの完成された「解答」への渇望を断念するということに通じるわけです。だから忍耐、だから倫理。
言い方を変えると選ばないのはデフォ、一種の習慣です、今となっては。代案が当面見当たらなくても一見正しそうなものがあっても、とにかく二項対立として提示されたものは選ばないわけです。・・・・勿論これは重要な/究極的な問題についてであって、単に現実的なあるいは問題設定自体にさほどの深い意味のないものについてはサクサク選びます(笑)。そうじゃないと宗教の人になっちゃいます。戒律になっちゃいます。
そして選ばない方法やではどうするかについて、経験的にいくつかのパターンが観察出来ることは事実ですが、それらは要するに後付けの整理であって実際に時々の脱出劇(笑)を支えているのは、”解答”の断念によって活性化された直観または思考の反射神経です。形のないものです。
その形のないものが苦闘してその都度見つけ出した脱出の道筋が、俯瞰で見てみると一定のパターンを持っていたという、そういう話なわけです。それが「例示」ということです。
だから「選ばない」以外の機械的一般則は今だ僕も得てはいないわけですが、逆にどんなに独創したつもりでも気が付くとあるパターンにはまっているものなので、そういう意味では安心(?)です。可能性はあるようでないです。ただ反射神経をサボらせるなと、それだけは肝に銘じておかなければなりませんが。
・・・・なんか根本的なことを言ってなかったような気がするんですが、そもそもなぜ(二項対立を)選ばないかは、選んだ場合必ずと言っていいほど罠にはまるからで、このこと自体経験的・感覚的(ひょっとしたら論理的)に分からない/心当たりがない人は、そもそも読む必要すらないのでそれについては説明しません。あしからず。
以上で前置き終わり。(笑)
『相対主義と第三の道』というエントリータイトルにある通り、今回のやり取りには関連はあるけれど独立もしている2つの主題が含まれていて、僕が言いたかったのは主に前者についての方ですね。または前者をめぐる(”相対主義”と”相対主義以前”という)絶対的な二項対立の取り扱い方について。
ただ『(個人レベルの)第三の道』、二項対立からどう脱出するかというのも、当然そこから派生(”連想”に近いと思いますが)する問題ではありますし、ちょっと前の『山田あゆみ問題』(笑)も含めて話の展開上このブログの継続的読者にとっては関心のあるところだと思いますので、一応一回言語化しておきます。
なおここまでのやり取りについては、手前味噌ですが「まとめサイト」的なものをファイル化しておきました。逐次追加予定。
まず断わっておきますが、これから羅列・説明して行くものは、あくまで”例示”であって”解答”ではないということです。
それは何を言うにせよ「これが正しい」「これが答えだ」という提示の仕方は、『第一の道』〜相対主義以前への先祖帰りを誘発してしまうというのが一つ。第三について語ろうとしているのに、それでは何にもなりません。ミイラ取りがミイラというやつです。
そしてもう一つ、こっちの方が本質的かと思いますが、肝要なのは二項対立は選ばないという忍耐力、倫理性の方であって、選ばない結果どうなるかその後どうするかというのは結局ケースバイケースであるからです。つまり・・・・通常ほとんどの「問題」形式として提示されるものである二項対立を選ばないというのは、出来合いの完成された「解答」への渇望を断念するということに通じるわけです。だから忍耐、だから倫理。
言い方を変えると選ばないのはデフォ、一種の習慣です、今となっては。代案が当面見当たらなくても一見正しそうなものがあっても、とにかく二項対立として提示されたものは選ばないわけです。・・・・勿論これは重要な/究極的な問題についてであって、単に現実的なあるいは問題設定自体にさほどの深い意味のないものについてはサクサク選びます(笑)。そうじゃないと宗教の人になっちゃいます。戒律になっちゃいます。
そして選ばない方法やではどうするかについて、経験的にいくつかのパターンが観察出来ることは事実ですが、それらは要するに後付けの整理であって実際に時々の脱出劇(笑)を支えているのは、”解答”の断念によって活性化された直観または思考の反射神経です。形のないものです。
その形のないものが苦闘してその都度見つけ出した脱出の道筋が、俯瞰で見てみると一定のパターンを持っていたという、そういう話なわけです。それが「例示」ということです。
だから「選ばない」以外の機械的一般則は今だ僕も得てはいないわけですが、逆にどんなに独創したつもりでも気が付くとあるパターンにはまっているものなので、そういう意味では安心(?)です。可能性はあるようでないです。ただ反射神経をサボらせるなと、それだけは肝に銘じておかなければなりませんが。
・・・・なんか根本的なことを言ってなかったような気がするんですが、そもそもなぜ(二項対立を)選ばないかは、選んだ場合必ずと言っていいほど罠にはまるからで、このこと自体経験的・感覚的(ひょっとしたら論理的)に分からない/心当たりがない人は、そもそも読む必要すらないのでそれについては説明しません。あしからず。
以上で前置き終わり。(笑)
2006年01月18日 19:37
で、それはそれとして別に無視出来ないずれが潜在しているように思いますので、ざっと注意を喚起しておきます。
1.「相対主義」の位置
そもそもの話の基点となったこの概念/用語ですが、これの占める位置、重要性に違いがあるようです。というかここさえ押えてあれば、そもそも「第一」と「第二」の転倒もありえなかったはず。
ゲレーロさんの場合は最初に「よく分かりませんが・・・・」と言っていたように、直接ではなく”ポストモダニズム”という多義的な概念のエッセンスの一つか、あるいは「商業主義」ということで問題となるだろう”貨幣の価値平準化機能”をより抽象化・一般化したものとか、そういうイメージor径路で僕の話について来た(笑)のでしょう。恐らく。
そしてそういう社会経済的思考の範囲内では、「商業主義」も「地域主義」も基本的には並列的な可能性の一つであって、第三も第四も第五もあるかもしれないというそんな感覚かと。
僕の場合は問題はもっと絞り込まれていて、固定的で無前提的な意味/価値/道徳/正義/真理etc.etc.がある(相対主義以前)vsない(相対主義)という対立。単なる並列ではなく、「相対性」という一つの主題を巡る必然的な対立であり、またある/ないという形で対立構造ははっきり「二」と決まっている。
・・・・ただ仮にゲレーロさんが日常的には僕の言う「社会経済的思考」を専らとしていたとしても、その中で既に僕の場合のような、あえて言えば「哲学的・文化人類学的思考」のレベルにちょいちょい思い至っていて、用語的にはずれていても直観/前意識のレベルではほとんどずれていないというかちゃんと噛み合ってるんじゃないかと思いますが。
2.内容・要素か、構造・関係か
ゲレーロさんが基本的に内容や要素性の方に重心を置いて考えを進めているのに対して、僕はそういう個別のことはほとんど気にせずに構造そのもの、要素間の関係性の方に力点を置いているように思います。(うわ何か書いてて恥ずかしいぞ)
つまりいいとこどり(ゲレーロ)というのは要素のピックアップという発想ですが、構造の組み方を変える・いじる(アト)というのは全体の形や関係の方を考えるという発想ですから。
言い方を変えると、(二項)対立に悩んだとしてゲレーロさんは「どれが正しいだろう」とそれぞれの選択肢を直視・吟味しているのに対して、僕の場合は「どうせどっちも正しくない」とハナから選択は放棄して、いかに対立構造の「罠」にはまらないか/脱出するか、「1」と「2」があった時にどうやって「3」を引っ張り出すかという形式的なことしか考えていないということですね。
ここまでのところで何か大きな誤解・不明点等あるでしょうか。
基本的にはゲレーロさんが文化ネタへの反応が良いので(笑)、だいたい同じような系統の教養・関心を持っているのだろうと推測してみたということだったんですけどね。
1.「相対主義」の位置
そもそもの話の基点となったこの概念/用語ですが、これの占める位置、重要性に違いがあるようです。というかここさえ押えてあれば、そもそも「第一」と「第二」の転倒もありえなかったはず。
ゲレーロさんの場合は最初に「よく分かりませんが・・・・」と言っていたように、直接ではなく”ポストモダニズム”という多義的な概念のエッセンスの一つか、あるいは「商業主義」ということで問題となるだろう”貨幣の価値平準化機能”をより抽象化・一般化したものとか、そういうイメージor径路で僕の話について来た(笑)のでしょう。恐らく。
そしてそういう社会経済的思考の範囲内では、「商業主義」も「地域主義」も基本的には並列的な可能性の一つであって、第三も第四も第五もあるかもしれないというそんな感覚かと。
僕の場合は問題はもっと絞り込まれていて、固定的で無前提的な意味/価値/道徳/正義/真理etc.etc.がある(相対主義以前)vsない(相対主義)という対立。単なる並列ではなく、「相対性」という一つの主題を巡る必然的な対立であり、またある/ないという形で対立構造ははっきり「二」と決まっている。
・・・・ただ仮にゲレーロさんが日常的には僕の言う「社会経済的思考」を専らとしていたとしても、その中で既に僕の場合のような、あえて言えば「哲学的・文化人類学的思考」のレベルにちょいちょい思い至っていて、用語的にはずれていても直観/前意識のレベルではほとんどずれていないというかちゃんと噛み合ってるんじゃないかと思いますが。
2.内容・要素か、構造・関係か
ゲレーロさんが基本的に内容や要素性の方に重心を置いて考えを進めているのに対して、僕はそういう個別のことはほとんど気にせずに構造そのもの、要素間の関係性の方に力点を置いているように思います。(うわ何か書いてて恥ずかしいぞ)
つまりいいとこどり(ゲレーロ)というのは要素のピックアップという発想ですが、構造の組み方を変える・いじる(アト)というのは全体の形や関係の方を考えるという発想ですから。
言い方を変えると、(二項)対立に悩んだとしてゲレーロさんは「どれが正しいだろう」とそれぞれの選択肢を直視・吟味しているのに対して、僕の場合は「どうせどっちも正しくない」とハナから選択は放棄して、いかに対立構造の「罠」にはまらないか/脱出するか、「1」と「2」があった時にどうやって「3」を引っ張り出すかという形式的なことしか考えていないということですね。
ここまでのところで何か大きな誤解・不明点等あるでしょうか。
基本的にはゲレーロさんが文化ネタへの反応が良いので(笑)、だいたい同じような系統の教養・関心を持っているのだろうと推測してみたということだったんですけどね。
どうも用語の混乱があるように思えるので、確認しておきましょう。
つまり「第一」「第二」「第三」それぞれの中身・性格についてですが。
簡単に言うと、「第一」と「第二」が引っくり返っているようです(笑)。以下に流れを。
アトの最初の問題提起
・ベタ、保守、価値判断・道徳判断に関する無防備さ、(勝ち組) ・・・・第一
・(文化)相対主義 ・・・・第二
『(古典的な)価値と道徳』 に対する 『相対主義』 に対する 『揺り戻し』としての”今時の若いモン”のベタさ=保守性 が主題。
いわゆる「第三の道」論とは直接関係なく、論理的・歴史的順番としての第一、第二。
ゲレーロの最初のレス
・相対主義、ポストモダニズム、保守的な左翼 ・・・・第一
・ベタ、保守 ・・・・第二
・”個人レベルの第三の道” ・・・・第三
アトのエントリー
・相対主義以前、エデンの園、ファンタジー ・・・・第一
”第一”の変形 : 「変な宗教」「”正解”」「ベタでストレートな”解決策”」
・相対主義/相対化、失楽園、プレッシング&コンパクト ・・・・第二
・二項対立を選ばない、二項対立の罠から逃れる、構造の組み方を変える・いじる、
ライカールトのバルサ、モウリーニョのチェルシ-、リッピのユーベ ・・・・第三
ゲレーロの次のレス
・商業主義、チェルシー&ユベントス ・・・・第一
・地域主義、アスレチック・ビルバオ ・・・・第二
地域主義への偏り=「”第二”の変形」
・いいとこどり ・・・・第三
そもそも僕が食い付いたのは(個人レベルの)「第三」という発想そのもので、ハナから気にしてないといえば気にしてなかったんですが、一般的な「第三の道」の定義から見てもゲレーロさんの「商業」と「地域」の順番は逆な気がするんですが。
何か根本的に勘違いしてますかね?そうでなければ後々の都合があるので、僕の順番づけに合わせてもらえるとありがたいです。(笑)
つまり「第一」「第二」「第三」それぞれの中身・性格についてですが。
簡単に言うと、「第一」と「第二」が引っくり返っているようです(笑)。以下に流れを。
アトの最初の問題提起
・ベタ、保守、価値判断・道徳判断に関する無防備さ、(勝ち組) ・・・・第一
・(文化)相対主義 ・・・・第二
『(古典的な)価値と道徳』 に対する 『相対主義』 に対する 『揺り戻し』としての”今時の若いモン”のベタさ=保守性 が主題。
いわゆる「第三の道」論とは直接関係なく、論理的・歴史的順番としての第一、第二。
ゲレーロの最初のレス
・相対主義、ポストモダニズム、保守的な左翼 ・・・・第一
・ベタ、保守 ・・・・第二
・”個人レベルの第三の道” ・・・・第三
アトのエントリー
・相対主義以前、エデンの園、ファンタジー ・・・・第一
”第一”の変形 : 「変な宗教」「”正解”」「ベタでストレートな”解決策”」
・相対主義/相対化、失楽園、プレッシング&コンパクト ・・・・第二
・二項対立を選ばない、二項対立の罠から逃れる、構造の組み方を変える・いじる、
ライカールトのバルサ、モウリーニョのチェルシ-、リッピのユーベ ・・・・第三
ゲレーロの次のレス
・商業主義、チェルシー&ユベントス ・・・・第一
・地域主義、アスレチック・ビルバオ ・・・・第二
地域主義への偏り=「”第二”の変形」
・いいとこどり ・・・・第三
そもそも僕が食い付いたのは(個人レベルの)「第三」という発想そのもので、ハナから気にしてないといえば気にしてなかったんですが、一般的な「第三の道」の定義から見てもゲレーロさんの「商業」と「地域」の順番は逆な気がするんですが。
何か根本的に勘違いしてますかね?そうでなければ後々の都合があるので、僕の順番づけに合わせてもらえるとありがたいです。(笑)
2006年01月17日 00:00
ここのコメント欄の続き。
長くなったのでエントリーにしてみました。今日のノルマ終わり。(笑)
タイトル:相対主義
せっかくだからサッカーで例えてみると、相対主義/相対化のプロセスを”プレッシング”とか”コンパクト”のようなものと考えてみるというのはどうでしょう。
プレスしたりコンパクトにすることが目的ではないし、それなしでサッカーしても別に死にはしないですが(笑)、少なくともトップレベルの、「追求するもの」としてのサッカーにとって、今日それを単に無視するのは馬鹿げているわけで。
相対主義/相対化のプロセスというのも一時あまりに”流行”して、「相対主義を絶対化するバカ」なんてジョーク(?)も生まれたぐらいで、多分ゲレーロさんの世代だとむしろそれへの反省の方が出発点だったりするのかも知れません。
でもこれもプレッシング同様いったんそうしたプロセスが意識されてしまったからにはもう後戻りは出来ない(失楽園?)、それを目的化するのはまずいですが無視してそれ以前に戻るのはもっとまずい、最終的に何を目指すにしろ準備作業・基礎教養としては欠かせないプロセスであると、そういうことなのではないかと思います。
相対主義を絶対化するのは確かにバカですが、相対主義を知らないのはもっと普通にバカです。(言葉は何でもいいです。気分・感覚だけでも。)
タイトル:第三の道
「第三の道」という発想、または「二項対立」を唯々諾々と選ばないというのは根本的に重要なことだと思います。そうでないと永遠に左右を行ったり来たりするか、「正解」を探して当てもなくさすらって、挙句変な宗教に掴まったりするのがオチですから。
問題は何をもって「第三」とするか、どのように「二項対立」構造の罠から逃れるかということで。それについて個人的には3つくらいのパターンを当面考えていますが、自説を朗々と開陳するのは遠慮しておきます(笑)。
ただ一つだけ注意を促しておきたいのは、第一や第二と全く並列的な「第三」や、完全に独創的な解決策を考えたりするのは危険だということです。それはあまりに途方もなくて絶望的な気分にさせる戦い方(現在ゲレーロさんはこれを感じているかもしれません)でありますし、また”ベタ”でストレートな「解決策」として、第三のつもりが実際は第一の変形でしかない可能性が非常に高いからです。
問題の本質は内容や要素ではなく構造にあって(ありきたりな言い回しですが)、つまり「二項対立」が二項対立であることには意味がある、あれはあれで完結したもの。だから最も無難な克服法は既にある材料を使ってただ構造の組み方を変える、いじることによって対立を無化するということかと。
再びサッカーの比喩を使えば、ライカールトのバルセロナにおける「プレッシング」と「ファンタジー」の関係などが参考になるかなと。改めて丁寧に組み合わせてみたら実は見かけほど対立してはいなかった、みたいな。
ちなみに個人的には模範解答過ぎて実はあれはあんまりそそられないんですが。
むしろモウリーニョのチェルシーやリッピのユーベなんかの方が、構造と苦闘した後が痛々しくて好感が持てます。辿りついたんだなという実感があります。
・・・・え?天皇杯のヴェルディ?いやいやそんな。おこがましい。(誰も言ってない)
全然ワカンネという苦情や、もっとこみいったor違う切り口でのディスカッションをご希望なら、メールでも掲示板ででも対応しますんで。大した悟り(笑)は得てませんが、経験値の差額分くらいはいくらでも提供しますよ。
長くなったのでエントリーにしてみました。今日のノルマ終わり。(笑)
タイトル:相対主義
せっかくだからサッカーで例えてみると、相対主義/相対化のプロセスを”プレッシング”とか”コンパクト”のようなものと考えてみるというのはどうでしょう。
プレスしたりコンパクトにすることが目的ではないし、それなしでサッカーしても別に死にはしないですが(笑)、少なくともトップレベルの、「追求するもの」としてのサッカーにとって、今日それを単に無視するのは馬鹿げているわけで。
相対主義/相対化のプロセスというのも一時あまりに”流行”して、「相対主義を絶対化するバカ」なんてジョーク(?)も生まれたぐらいで、多分ゲレーロさんの世代だとむしろそれへの反省の方が出発点だったりするのかも知れません。
でもこれもプレッシング同様いったんそうしたプロセスが意識されてしまったからにはもう後戻りは出来ない(失楽園?)、それを目的化するのはまずいですが無視してそれ以前に戻るのはもっとまずい、最終的に何を目指すにしろ準備作業・基礎教養としては欠かせないプロセスであると、そういうことなのではないかと思います。
相対主義を絶対化するのは確かにバカですが、相対主義を知らないのはもっと普通にバカです。(言葉は何でもいいです。気分・感覚だけでも。)
タイトル:第三の道
「第三の道」という発想、または「二項対立」を唯々諾々と選ばないというのは根本的に重要なことだと思います。そうでないと永遠に左右を行ったり来たりするか、「正解」を探して当てもなくさすらって、挙句変な宗教に掴まったりするのがオチですから。
問題は何をもって「第三」とするか、どのように「二項対立」構造の罠から逃れるかということで。それについて個人的には3つくらいのパターンを当面考えていますが、自説を朗々と開陳するのは遠慮しておきます(笑)。
ただ一つだけ注意を促しておきたいのは、第一や第二と全く並列的な「第三」や、完全に独創的な解決策を考えたりするのは危険だということです。それはあまりに途方もなくて絶望的な気分にさせる戦い方(現在ゲレーロさんはこれを感じているかもしれません)でありますし、また”ベタ”でストレートな「解決策」として、第三のつもりが実際は第一の変形でしかない可能性が非常に高いからです。
問題の本質は内容や要素ではなく構造にあって(ありきたりな言い回しですが)、つまり「二項対立」が二項対立であることには意味がある、あれはあれで完結したもの。だから最も無難な克服法は既にある材料を使ってただ構造の組み方を変える、いじることによって対立を無化するということかと。
再びサッカーの比喩を使えば、ライカールトのバルセロナにおける「プレッシング」と「ファンタジー」の関係などが参考になるかなと。改めて丁寧に組み合わせてみたら実は見かけほど対立してはいなかった、みたいな。
ちなみに個人的には模範解答過ぎて実はあれはあんまりそそられないんですが。
むしろモウリーニョのチェルシーやリッピのユーベなんかの方が、構造と苦闘した後が痛々しくて好感が持てます。辿りついたんだなという実感があります。
・・・・え?天皇杯のヴェルディ?いやいやそんな。おこがましい。(誰も言ってない)
全然ワカンネという苦情や、もっとこみいったor違う切り口でのディスカッションをご希望なら、メールでも掲示板ででも対応しますんで。大した悟り(笑)は得てませんが、経験値の差額分くらいはいくらでも提供しますよ。
2006年01月12日 00:00
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とっくに終わってますが(笑)今夜からノイタミナの新しいシリーズが始まるようなので、一応区切りをつけておきます。
ラス前の一大クライマックス、ファッションショーのエピソードは結構感動しました。
ああいうストレートというかベタなドラマツルギーこそが、この作者の本来の資質(または分)なんだと思います。それまでのしょうもなさは生真面目なおイモさんが無理して「オシャレ」だの「ポップ」だの「クール」だのを追求して、ハマり切らないどころかそれらしいイメージの切り貼りに終始して一向に実のあるものを生み出さなかったその結果だったんだなと再認識した次第。
綺麗な絵が描けるだけじゃね。内容的に多分作者もかつてはファッション(デザイナー)の世界を志すか憧れるかして、でも本当のセンスはなくて挫折したとかそういう背景が感じられるのですが。(当たってますか?知ってる人)
いいんですよイメージはイメージで。僕もそれほど反動的というかロマン主義者でもない。ただちゃんとやってくれと、それで押し切るスピード感を持って。例えばこのアニメのデコレーションと見せかけて実質上の中身である、トミーさんのオープニング曲のように。
トミーさんが原作のファンだというのは満更リップサービスではないんでしょう多分。ただ彼女はプロデューサー体質ですから、現実の作品を使って矢沢あいが実現した以上のものを脳内に実現してそれを楽しんでいるはず。パーツはきれいですからね確かに。でも全体として見るとどうにもぬかみそ臭くて、かなり能動的・好意的に解釈しないと僕には飛べない。
それはともかく。
この作品や主人公のいらいらさせられる行動、そしてその裏腹のこの作品や同じ作者の『NANA』が博しているらしい大人気などから僕が汲み取るべきは、「お前が馬鹿にするその生活感やスピード感を、切実な現実もしくは憧れのイメージとして生きている女が世の中には沢山いるんだぞ?」ということかと。
皮肉っぽく聞こえたらごめんなさい。いや実際皮肉でもあるんですが(笑)、真面目に受け止めているのも本当です。悪口書きながらちょいちょい反省・自戒していました。共感するのは無理ですけど。
「普通」を笑う奴は「普通」に泣く。これにて一巻の終わり。
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