2007年02月26日

ドラマと音楽、抜いた抜かれたの巻

5e16b3e5.jpgついに「華麗なる一族」が「花より男子2」世帯視聴率に抜かれました

やはり…。

松本潤が、ジャニーズ事務所の先輩・木村拓哉を抜いてしまいました。

「華麗なる一族」、山崎豊子の原作はきっと面白いんだろうなというのはわかるんだけど、脚本、演出がちょっと…。

それから「現代ドラマのキムタクはキムタクしか演じない(られない?)」ということが災いてるのか、キムタクが出ているシーンがどうしても高度成長期の話に見えない。

彼の演技、「キムタクが演じるのはキムタクである」ということがすごくいい方向に作用することもあると思うんだけど、今回はねぇ…。

あと3回、ひょっとしたら「ハケンの品格」にも抜かれるかもしれませんよこれは。


幸い「花より男子2」と「華麗なる一族」は同じTBS制作、プロデューサーも同一人物ということで、「華麗」が「花」に負けても誰かの首が飛ぶことはないでしょうけど、制作費に3億円かけたこの壮大なドラマが、いかにして金持ち子弟高校生たちの恋愛ドラマと派遣社員のドタバタドラマに敗れていくのか。

各作品の最終話までの展開を興味深く見守りたい。
(性格悪いですね僕。)

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とは言ってもどのドラマも世帯視聴率20%台前半ということで、歴史的見れば大成功とは言いがたい数字なのです。

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抜いた抜かれたということでいうと、2006年の有料音楽配信の売上がシングルCD市場を抜きました。

以前にも書いたとおり、日本の有料音楽配信売上の9割はパソコン経由ではなくケータイによってたたき出されている。(ちなみにこの比率は海外とはほぼ逆になっている。)

iPodがいくら売れているといっても、ケータイの普及台数とは桁が違う。

もちろん、ケータイの全てが音楽ダウンロードに対応しているわけではなく、またケータイで音楽を聴いている人というのも10代を中心に若年層に偏っている。

ただ年齢層の偏りならば、PCとある程度のITリテラシーを要するiPodとて同様である。

いずれにせよ同じ音楽再生デバイスとしてなら、iPodだけ作っていてはいずれケータイ市場に食われしまう。

ということで遅まきながらアップルもiPhoneなるものを投入したわけです。

あれ、インターフェイスは未来的でワクワクさせるものはあるんだけど、あのままでは日本のケータイ市場には持ち込めませんね。

片手で操作できるよう、優れた改良がなされるよう期待します。それからもうちょっと安く。

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日本のケータイというのは、現在9500万台ほど普及している。(法人用で多少重複はあるだろうけど。)

これらはおそらく今後3年以内に「すべて音楽ダウンロード対応」になるだろう。

そうすると、ウォークマンやiPodをも超える、「9000万人のモバイル・リスナー」が誕生するのである。

もちろん、その全員がケータイで音楽をダウンロードして通勤通学途中に聴くということはないかもしれないが、それでも少子化でシュリンクしていく市場トレンドを指をくわえて見ているしかなかった音楽業界にとっては、決して悪い話ではない。

「ケータイで聴く音楽なんて、音楽として認めない」なんて言ってないで、「それをどう使えば音楽文化を豊かにすることに役立つか?」という発想で考えるべきだと思いますね。

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写真は三宿「華屋」で隣席した人がもってた「ケータイ、タバコ、サイフ」の3点セット。

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R1グランプリは、なだぎ武のディラン優勝。おめでとう。昨年の博多華丸=児玉清に続き、モノマネでの優勝である。

審査員では桂三枝のみ徳井に投票。これはわかる気がする。

しかし、「面白ければどんな形態でもよい」というのがR1のルールである。

決勝で最も笑いをとっていたのは、たしかになだぎの「ディラン」であった。あとは、それを「プロ」である審査員達がどう評価するかだ。  

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2007年02月21日

景気動向ヨタ話/企業はどんな人材が欲しいのでしょう

2fefdd3e.jpg日銀の利上げが決定しました。

これは「日本経済はゆるやかに拡大している」ということがほぼ確かであると認識された、ということのひとつの結果であると見ることができる。

ほほう、やっと長期不況脱出か。よかったよかった…。


しかしながら、では「景気がよい」のか?と言うと、どうもそういう感じがしない。なぜでしょうか?

「景気がよい」と言うと、銀座あたりの高級クラブで葉巻をくわえたおっさんがホステス達に向かって札ピラを放射状に散布している様が脳内想起されるが、そういう人たちは出現していないと思う。

一部、株の売買で一山当てた個人投資家が家賃150万の超高級賃貸マンションに住んでいたりもすると思うが、そういう人間は日本国民全体の「ひと握り」であって、彼らの消費が日本経済全体を牽引するなどということは有り得ない。

内閣府などが発表しているいくつかのマクロ経済指標を見ても、国民全体の平均所得は決して上昇していないのである。

つまり、今回の日銀の決定を支えている経済の拡大基調というのは、「日本企業が生産した製品やサービスを、国民が消費する」というドメスティックな経済活動によって生まれているのではなく、「生産した製品やサービスが海外で売れに売れている企業の海外部門の好業績」によって生まれている。たとえばトヨタ自動車である。

しかしながらそのトヨタ自だって、北米ではぼろ儲けしているが国内市場では伸び悩んでいる。

少子高齢化や人口減少、環境志向などのため伸び悩む市場にブレークスルーを起こせていないのである。基本的に、国内の世帯や個人をターゲットにした企業の多くはこの「市場飽和」という問題にぶち当たっている。

願わくば日本の企業がみな海外部門を有しており、かつ好業績をたたき出していればよいのだが、残念ながらそうではない。

ということは、多くの企業は、日銀の決定を支えている景気拡大要因となった「企業部門の好業績」には、直接的には関係がない、ということになる。

国民所得が上昇しなかったり、「景気がよい」という実感が感じられにくいのはこのためである。


1960年代の高度成長期から80年代くらいまでの「景気のよさ」の基盤というのは、優れた技術で良質な製品を生産する日本企業の製品が国内でも海外でも売れ、その好業績の恩恵を受けた企業社員(つまり人口のマジョリティである中間層の世帯主)の給料は上昇し、そのお金でまた日本製の製品を消費する・・・という好循環であった。

しかしながら、もはやそういう好循環は生まれない。

日本人は既に十分豊かであり、今後中間層が量的に拡大したりその所得が大きく向上したりするということは起こらない。

今後、政策主導によりいくつかのシーンで「好景気」という演出がなされるころもあるかもしれないが、それは「マイナスがゼロに戻った」だけのことである。

これから「めちゃめちゃプラス」にはならない社会で、どうったら「ゼロでも楽しい」生き方ができるか、そういうことを考えていかなければならないと思う。

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街を歩けばリクルートスーツ姿の学生を見かけない日はない季節になってきた。

僕のところにも、はるばる関西から母校の学生さんがやってきたりする。

ある学生さんがこんな質問をしてきた。

「御社はどういう人材を求めてらっしゃるのでしょうか?」

うむ。どんな人材だと思うかね?僕は人事の人間ではないので、会社がどういう学生さんを求めているのか正確にはわからない。

だから「個人的には、こういう学生さんが新卒で自分のチームに入ってきてくれると嬉しい」という人材像を伝える。ごめんね参考にならなくて。


ところでこういう問いに対しては、どの業界の企業の人事部の人からも、だいたい共通して聞かれる答えがある。

それは、

「コミュニケーション能力の高い学生さん」

だということである。

コミュニケーション能力とは何ぞや、ということについては色々な意見があろうかと思う。

しかしこれは、「プレゼンテーションでの話し方が上手である」とか、「仕事終わりに疲れていても、上司・先輩から飲みに誘われたら断らずに楽しそうな顔をして嬉々として居酒屋に出向く能力」であるとか、「上司のビール瓶が空になったらすかさずビールを注ぐ能力」や、「お取引先の担当者が商談中に冗談を言ったら、くだらない冗談でも面白そうな顔をして笑う能力」などでは「ない」。

コミュニケーション能力というのは、「話のうまさ」「人当たりのよさ」「性格のよさ」「世渡り上手であること」などでは決して無い。
(いまだにそれで学生を採用している企業はないと思うが、もしあれば早晩倒れるでしょう。)

それは一言で言うならば、「自分以外の人や組織(つまり「他者」)についての想像力」のようなものである。

ビジネスというのはいかなる意味においても、「他者」との間で行われるものである。

同僚、上司、取引先担当者、取引先の役員、消費者、株主…そういった、「自分ではない人」たちに対して、自分のやりやいことを伝え、動かし、収益をあげていかなければならない。

そのためには、「もし自分が上司なら、どのような報告がもっとも簡潔で的を得ていると思うか?」「もし自分が取引先担当者の立場なら、どういう提案がいちばんベストだと感じるか?」「もし自分が1人の消費者なら、この商品に本当に魅力を感じるか?」「もし自分が取引先社長なら、本当にこの経営戦略を実行すると思うか?」というように、「自分ではない人間」の判断や価値観にいて、可能な限り想像力を働かせ、ものごとが最大限の効果を得られるように努力しなければならない。

逆に言えば、そういうことがうまく出来さえすれば、仕事というのは案外楽に進むものである。

ある広告クリエイターが、企業のブランド構築(ブランディング)についてこんなことを述べていた。

「ブランディングというのは難しくない。そのカスタマイズこそが難しい」。

つまり、「強いブランドを作るためのセオリーや手順はかくかくしかじかで…」ということを考えたり、覚えたりすることは大して難しくない。

難しいのは、そういったセオリーや手順を踏まえたうえで、どうやったら「まさに千差万別で個別的な条件や事情にがんじがらめになっているクライアント」にとって最もベストなブランドを構築できるか?ということを、見極め、判断し、実行していくことなのである。

それを成し遂げるには、どんなに狭い意味でも、どんなに広い意味でも、「他者に対する想像力」というのが欠かせないのだ。


色々な企業が、「コミュニケーション能力の高い学生さん」を欲しがるというのは、逆から言えば、「我々の仕事の困難の多くは『ヒューマンエラー』に起因している」ということを、意識的にせよ無意識的にせよ知っているからである。

仕事が困難につきあたる場合、その原因というのが、本人の知識不足や資金不足であるということは少ない。

多くの場合それは、「プロジェクトの意図が取引先に十分理解されていなかった」「担当者同士が犬猿の仲で、結論がどうしても中庸的になる」「担当者が自己実現に走りすぎて、中期的な戦略を見失ってしまった」といったような、「他者との関わりで起きた人為的な過誤」に起因している。

逆に言えば、そういった困難は、「取引先の立場、事情を把握し、十分伝わるようなプレゼンテーションやリスクヘッジを行う」「議論が担当者同士の縄張り争いに終始しないよう、論点を共通の経営目標に設定する」「担当者が自己実現に走りすぎないよう、役員をプロジェクトに入れるよう働きかける」といったことができれば、クリアできるということである。

そういうったことには、もとをたどれば全て「他者に対する想像力」が必要なのである。


以前なら、そういうった能力は特に必要なかったのかもしれない。

日本経済は右肩上がりで、どの企業もしばらくはある程度成長が見込め、企業活動に多少のヒューマンエラーがあっても、それで大きくシェアを落としたりということは無かったのかもしれない。

しかしいまでは日本経済は成熟しており、総人口は減少に入り、多くの市場は縮小していく。企業間の競争力にも差がなくなりつつある。そこに他業界からの新規参入組みも入り乱れての仁義なき戦いが始まっている。

そういう時代には、企業は「コミュニケーション能力」も動員しないと、競争に勝ち残れないのである。タブン。


それにしてもこういうことを、他人への思いやりや優しさが著しく欠如している僕が言うと、全く説得力がないですね。  
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2007年02月15日

漫才とコントをどう分けるかなど

517448b8.jpg「ハケンの品格」が調子よくて、今週の世帯視聴率は20.7%。

脚本、キャスト、演出、どれもいい。

「華麗なる一族」は21.0%だったので、もうすぐ並ぶ。こっちはキャスト以外が…うーむ。

今クールのドラマで調子いいのは、「ハケンの品格」「花より男子2」くらいですね。

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読書をする時間をレギュラーに取りたいと思って、出社を一時間早め、会社の前のエクセルシオールカフェで小一時間本を読むことにした。

夜帰ってからだと疲れてるし、面白い本に出会ってしまうと興奮して眠れなくなるという欠点があったこともあり、生活を朝方に変えようと試みる。

エクセルシールはコーヒーがそんなに美味しくないのが難点であるが、喫煙席とのパーティションがわりときっちり区切られているので、煙たくない。快適だ。

生活自体もなんだか引き締まってきた。やはり朝型のほうが健康的である。深酒して朝まで…というのは、もうあんまりやりたくないですね。(数少ない友人の皆様におかれましては大変恐縮なのですが誘わないで下サイ。)

***

そもそも僕が漫才とコントについてその違いをはっきりさせておきたいなと思ったのは、友人と焼酎お湯割を飲みながらM1グランプリなどの結果についてグダグダと言い合っているときに、「○○のネタはコントだから、M1グランプリとしては評価できない」というような話になった場合、人によって「コント」の定義がまちまちで話が噛みあわないためである。

なんだそんなどうでもいいこと?と思われるかもしれないが、お笑いについて生産的な議論を行うというのは、僕がお酒を楽しむ上で極めて高い優先順位に設定している事柄なので、看過することが難しいのである。お許しいただきたい。

(こんなヤツが居酒屋のカウンターで隣にいたら、うざいですよね。)


漫才とコントの意味について、それを一義的に規定する機関は存在しない。

よってその意味は、論者や文献、文脈によって様々である。

人によっては、

「ボケとツッコミが存在するのが漫才」

「ヅラや衣装を使用するのがコント」

というふうに両者を定義づけたりもする。

しかし中川家のコントのようにボケとツッコミの役割分担が存在するコントもあるし(その場合、漫才とは逆に剛がツッコミ役となることもある)、レイザーラモンのようにヅラや衣装を着用した漫才もある。

だからヅラや衣装の着用というのは、実は本質的な決定要因ではない。

そうではなく、「それ」が漫才であるかコントであるかを決定しているのは、「演者が、演者自身の人格としてパフォーマンスを行っているのか、そうでないか」ということであるというのが僕の「漫才とコントの違いについて論じるときの、判定基準の私案」である。


舞台上の演者が、初めから終わりまで終始一貫して「別の人格」としてパフォーマンスを行っている場合、それをコントというふうに規定してみよう。

そうすると必然的に、「どこかで『演者自身の人格』によってパフォーマンスが行われている」が漫才である、というふうに言うことができる。


もちろん実際のところ、漫才の中にも「演者が別人格としてパフォーマンスしている」という場合は多々ある。

たとえばM1グランプリ2003の千鳥の漫才では、ノブは「さっちゃん」という「少女」、大吾は「だい君」という「虫取りが得意な少年」という全く別人格の人間を演じるくだりがあり、笑いのほとんどはこの別人格のロールプレイング部分によって生み出される。

しかしながら、「夏休みに少年と少女が虫取りに行くというシーンを、ちょっと二人でやってみようか」という話になる前の部分は、「千鳥の大吾とノブ」という演者自身の人格によってパフォーマンスが行われている。

更に申し添えるなら、その別人格シーンの「終わり」は、

「さっちゃん、このままに死のう」
「もうええわ!」

というボケとツッコミによって訪れ、それがそのままこの漫才の「終わり」となる。

この「さっちゃん、このまま死のう!」は大吾の別人格である「だい君」の発話なのだが、漫才自体を終わらせるツッコミとなる「もうええわ!」を発話してるのは、どう見ても「さっちゃん」ではなく、「ノブ自身」の人格である。


ことほど左様に、いくらネタ中に「コント的な要素」が入っていても、その前後のどこか一部分にでも「演者の人格自身によるパフォーマンス」があれば、それは「漫才」としてオーディエンスに受容される条件を満たしているのである。

逆に、終始「別人格」しか出現しないパフォーマンスは、おそらく「コント」として受け止められるだろう。

「ヅラや衣装を用いているかいないか」というのは、あくまで「別人格を演じている」ということから生ずる「ひとつの現象」に過ぎないのである。

***

さて。

そもそもM1グランプリの結果についてあーだこーだと意見を交わしているとき、なぜ「それが漫才であるかコントであるか」が問題になるのだろうか。


M1グランプリの「M」は「漫才」の「M」である。

従って原義的にはM1は「漫才の日本一を決める大会」であり、その前提は多くの視聴者に共有されていると思われる。

また発起人の島田紳助がM1の創設を思い立った動機は、「漫才に恩返しがしたい」と考えたということであった。

ところが実際のところはM1グランプリには「漫才」以外の芸を行う芸人も多々エントリーしており、たとえばテツandトモは2002年度大会の決勝に出場し、ギターと踊りによる芸を披露している。

そしてそのたびに審査委員からは「これは漫才としてはどうなのか」という留保的なコメントがなされているのである。(2006年度ではザ・プラン9に対してそのようなコメントがあった。)


だがちょっと待ってほしい。

実際には漫才、コント、歌芸問わず出場を受け付けているのにも関わらず、いざ決勝に進出した段階で「それは漫才じゃないよね」と言うのはいったいどういうことなのだろうか。

であれば、まず最初に「M1グランプリは『漫才』のみを対象にした大会であること」を明言し、同時に「それが漫才であることの最低条件」を明確に定義すべきなのではないか。


それなしに「このコンビの芸は漫才としては…」という議論は始めることができないはずなのである。


果たしてM1グランプリとは、1930年代にエンタツ・アチャコによって確立されて以降70年以上にわたって維持されている「漫才」という型を有した芸能を保存するためのイベントなのか、それともそのような近代漫才枠組みをも崩壊させながら新しい笑いを生み出していくような芸の出現を目指すイベントなのか、一体どっちなのか?

僕はM1グランプリに、後者のほうの役割を期待したいと思う。
(関西でそのような役割を担っているのが「オールザッツ漫才」である。)

***

写真は近所のバーにいる犬のココちゃん。小さくて癒されます。  
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2007年02月02日

ディベート/mixiの会員数/中目黒「青家」「トリプル・クラウン」

d72faba5.jpg1泊2日の研修で、軽井沢に行ってました。

積雪してはいるものの、暖冬で降雪には遭遇せず。

ディベートのトレーニングだったのですが、自分がめちゃめちゃディベートと相性がよいということを発見しました。

たぶん試合中の僕は、滅茶苦茶生き生きしていたと思う。

でも同期からは「あいつ怖いからやだ」と思われただろうな。

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株式会社ミクシィの2007年3月期第3四半期の決算資料が公開されてたので読んでみる。

http://mixi.co.jp/ir/ir_material.html

この資料には2006年4月からの月次での加入者数が記載されている。

加入者はここ一年で500万人以上増加していて、いまや800万人を突破した。

飛ぶ鳥を落とす勢いのように見えるこのミクシィ。

しかしためしに前月からの伸び率を計算してその推移を見てみると、明らかに鈍化傾向にある。

最近ケータイからの加入もOKというシステムにしてちょっと持ち直しているが、かつて120%の伸びを示していたのが、2006年12月時点での前月からの伸び率は108.8%にまで低下してきているのである。

ケータイ効果がなければ、「伸び率100%(つまりゼロ成長)は目の前」という状態である。

えらい飽和が早いな、と思うのだが、結局このあたりが招待制というクローズドシステムのデメリットがモロに出ている部分なのかもしれない。


でもって株式会社ミクィシのmixi事業の収益源のほとんどは広告収入であるから、今後そのモデルで事業を成長させようとすると、

(1)会員を増やす

(2)会員一人当たりのPVを増やす

ということで「露出」を増加させるのがまずは手近な道である。


(2)については、mixiは既に「三日以内にログオンするユーザーが全体の67%を占める」という「会員フリーケンシーが高い」媒体であるから、まあこのまま順調に伸びていくか、最悪でも横ばいといったところだろう。(最近では「mixi疲れ」という言葉も聞かれるが、過渡的な現象ではないかと思う。)

問題は(1)のほうで、現状では基本的に「自然に広がるのを待つ」という対応になっており、それゆえ課員数増加率に鈍化が見られるのである。

広告主としては、現会員一人当たりのPV増加も結構だが、やはり一度に接触できる人数は多いほうがよいに決まっている。

したがって今後はmixiも、「プライベートな空間なんだけど、パブリック」というある種パラドキシカルなシステムを採用していかなければ、広告主の満足度向上や株価上昇、ひいてはミクシィ自身の事業拡大を達成することはなかなか難しいだろうと思う。

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で、今クールの連続ドラマについては「ハケンの品格」と「華麗なる一族」、あと石田ゆり子目当てで「今週、妻が浮気します」を観ています。

「ハケンの品格」は、派遣社員が現実に置かれている状況の「扱い方」をめぐって賛否両論あるようだが、ドラマとしては好くできていると僕は思う。

「華麗なる一族」は、初回の世帯視聴率(関東)27.7%という、「相対的には高レート」でデビュー。

その後、21.8%、23.5%と続いている。

これを「順調」と見るか「低調」と見るか。


このご時世、世帯視聴率で20%を超えるとういうのはなかなか大変なことだから、20%代維持というのは凄いじゃないか、と言うこともできる。

しかし第三回の数字「23.5%」は、同じTBSの金曜ドラマ「花より男子2」の第4回目世帯視聴率「23.1%」と変わるところがない。

制作とキャストにかかっているコストを勘案すると、これは「華麗」はやや低調と言って差し支えないでしょう。


キャストは「キムタク以外は非常に見ごたえあり」だと思う。

特に北大路欣也、武田鉄矢、西田敏行の熟達した演技は毎回楽しみです。
(それはさておき鶴瓶に標準語をしゃべらそうと言ったのは誰だ。)

しかしキャストと美術にコストをかけすぎて、演出、カメラや照明、CGに必要なコストがショートしているのではないかと心配になってしまうくらい、高度成長期の雰囲気が出ていないのが残念である。

***

中目黒でまた一件うまい店を発見。

青葉台あたりの路地を入った分かりにくいところにある和食屋「青家」。

木造二階建ての古い民家を使ったした店舗で、京野菜を使った料理が食べられる。

おばんざいもあるが、基本的には「材料は京野菜、味付けは創作和食?」といった感じで、普通のおばんざいの奥ゆかしい味わいというよりは、「食べた感」がよく感じられるはっきりした味の料理が多いと思う。

厨房に男性の料理人一人しかいないわりにメニューが多種で、がんばっていると思う。


それから、山手通をはさんで反対側の東山にあるバー「トリプル・クラウン」。

倉庫だった細長いコンクリの建物を改装しているので、天井が異様に高い。

バーだけであんな天井が高いのは、23区広しと言えどもなかなかないだろうと思う。

店の雰囲気はアイリッシュ・パブ風で、コンクリ打ちっぱなしの広い壁に、欧州サッカーの試合映像が投影されている。

カクテルはめちゃくちゃ美味しいというわけではないけど、シングルモルトからワインセラーまであるので選択肢は多いほうだと思う。簡単な食事も食べられる。

中目黒の二件目なら、たまに芸能人はいるけど騒がしい「スプートニク」(現在改装中)よりは、絶対ここのほうがいい。


トイレのドアにはなぜかもうすぐ公開の映画「バブルへGO!」のポスターが貼ってあった。

さてはと思いマスターに聞くと、やはりホイチョイ・プロダクションズの馬場社長が数回来店しているとのことである。


あ、漫才とコントについて書くの忘れた。  
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