日銀の利上げが決定しました。
これは「日本経済はゆるやかに拡大している」ということがほぼ確かであると認識された、ということのひとつの結果であると見ることができる。
ほほう、やっと長期不況脱出か。よかったよかった…。
しかしながら、では「景気がよい」のか?と言うと、どうもそういう感じがしない。なぜでしょうか?
「景気がよい」と言うと、銀座あたりの高級クラブで葉巻をくわえたおっさんがホステス達に向かって札ピラを放射状に散布している様が脳内想起されるが、そういう人たちは出現していないと思う。
一部、株の売買で一山当てた個人投資家が家賃150万の超高級賃貸マンションに住んでいたりもすると思うが、そういう人間は日本国民全体の「ひと握り」であって、彼らの消費が日本経済全体を牽引するなどということは有り得ない。
内閣府などが発表しているいくつかのマクロ経済指標を見ても、国民全体の平均所得は決して上昇していないのである。
つまり、今回の日銀の決定を支えている経済の拡大基調というのは、「日本企業が生産した製品やサービスを、国民が消費する」というドメスティックな経済活動によって生まれているのではなく、「生産した製品やサービスが海外で売れに売れている企業の海外部門の好業績」によって生まれている。たとえばトヨタ自動車である。
しかしながらそのトヨタ自だって、北米ではぼろ儲けしているが国内市場では伸び悩んでいる。
少子高齢化や人口減少、環境志向などのため伸び悩む市場にブレークスルーを起こせていないのである。基本的に、国内の世帯や個人をターゲットにした企業の多くはこの「市場飽和」という問題にぶち当たっている。
願わくば日本の企業がみな海外部門を有しており、かつ好業績をたたき出していればよいのだが、残念ながらそうではない。
ということは、多くの企業は、日銀の決定を支えている景気拡大要因となった「企業部門の好業績」には、直接的には関係がない、ということになる。
国民所得が上昇しなかったり、「景気がよい」という実感が感じられにくいのはこのためである。
1960年代の高度成長期から80年代くらいまでの「景気のよさ」の基盤というのは、優れた技術で良質な製品を生産する日本企業の製品が国内でも海外でも売れ、その好業績の恩恵を受けた企業社員(つまり人口のマジョリティである中間層の世帯主)の給料は上昇し、そのお金でまた日本製の製品を消費する・・・という好循環であった。
しかしながら、もはやそういう好循環は生まれない。
日本人は既に十分豊かであり、今後中間層が量的に拡大したりその所得が大きく向上したりするということは起こらない。
今後、政策主導によりいくつかのシーンで「好景気」という演出がなされるころもあるかもしれないが、それは「マイナスがゼロに戻った」だけのことである。
これから「めちゃめちゃプラス」にはならない社会で、どうったら「ゼロでも楽しい」生き方ができるか、そういうことを考えていかなければならないと思う。
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街を歩けばリクルートスーツ姿の学生を見かけない日はない季節になってきた。
僕のところにも、はるばる関西から母校の学生さんがやってきたりする。
ある学生さんがこんな質問をしてきた。
「御社はどういう人材を求めてらっしゃるのでしょうか?」
うむ。どんな人材だと思うかね?僕は人事の人間ではないので、会社がどういう学生さんを求めているのか正確にはわからない。
だから「個人的には、こういう学生さんが新卒で自分のチームに入ってきてくれると嬉しい」という人材像を伝える。ごめんね参考にならなくて。
ところでこういう問いに対しては、どの業界の企業の人事部の人からも、だいたい共通して聞かれる答えがある。
それは、
「コミュニケーション能力の高い学生さん」
だということである。
コミュニケーション能力とは何ぞや、ということについては色々な意見があろうかと思う。
しかしこれは、「プレゼンテーションでの話し方が上手である」とか、「仕事終わりに疲れていても、上司・先輩から飲みに誘われたら断らずに楽しそうな顔をして嬉々として居酒屋に出向く能力」であるとか、「上司のビール瓶が空になったらすかさずビールを注ぐ能力」や、「お取引先の担当者が商談中に冗談を言ったら、くだらない冗談でも面白そうな顔をして笑う能力」などでは「ない」。
コミュニケーション能力というのは、「話のうまさ」「人当たりのよさ」「性格のよさ」「世渡り上手であること」などでは決して無い。
(いまだにそれで学生を採用している企業はないと思うが、もしあれば早晩倒れるでしょう。)
それは一言で言うならば、「自分以外の人や組織(つまり「他者」)についての想像力」のようなものである。
ビジネスというのはいかなる意味においても、「他者」との間で行われるものである。
同僚、上司、取引先担当者、取引先の役員、消費者、株主…そういった、「自分ではない人」たちに対して、自分のやりやいことを伝え、動かし、収益をあげていかなければならない。
そのためには、「もし自分が上司なら、どのような報告がもっとも簡潔で的を得ていると思うか?」「もし自分が取引先担当者の立場なら、どういう提案がいちばんベストだと感じるか?」「もし自分が1人の消費者なら、この商品に本当に魅力を感じるか?」「もし自分が取引先社長なら、本当にこの経営戦略を実行すると思うか?」というように、「自分ではない人間」の判断や価値観にいて、可能な限り想像力を働かせ、ものごとが最大限の効果を得られるように努力しなければならない。
逆に言えば、そういうことがうまく出来さえすれば、仕事というのは案外楽に進むものである。
ある広告クリエイターが、企業のブランド構築(ブランディング)についてこんなことを述べていた。
「ブランディングというのは難しくない。そのカスタマイズこそが難しい」。
つまり、「強いブランドを作るためのセオリーや手順はかくかくしかじかで…」ということを考えたり、覚えたりすることは大して難しくない。
難しいのは、そういったセオリーや手順を踏まえたうえで、どうやったら「まさに千差万別で個別的な条件や事情にがんじがらめになっているクライアント」にとって最もベストなブランドを構築できるか?ということを、見極め、判断し、実行していくことなのである。
それを成し遂げるには、どんなに狭い意味でも、どんなに広い意味でも、「他者に対する想像力」というのが欠かせないのだ。
色々な企業が、「コミュニケーション能力の高い学生さん」を欲しがるというのは、逆から言えば、「我々の仕事の困難の多くは『ヒューマンエラー』に起因している」ということを、意識的にせよ無意識的にせよ知っているからである。
仕事が困難につきあたる場合、その原因というのが、本人の知識不足や資金不足であるということは少ない。
多くの場合それは、「プロジェクトの意図が取引先に十分理解されていなかった」「担当者同士が犬猿の仲で、結論がどうしても中庸的になる」「担当者が自己実現に走りすぎて、中期的な戦略を見失ってしまった」といったような、「他者との関わりで起きた人為的な過誤」に起因している。
逆に言えば、そういった困難は、「取引先の立場、事情を把握し、十分伝わるようなプレゼンテーションやリスクヘッジを行う」「議論が担当者同士の縄張り争いに終始しないよう、論点を共通の経営目標に設定する」「担当者が自己実現に走りすぎないよう、役員をプロジェクトに入れるよう働きかける」といったことができれば、クリアできるということである。
そういうったことには、もとをたどれば全て「他者に対する想像力」が必要なのである。
以前なら、そういうった能力は特に必要なかったのかもしれない。
日本経済は右肩上がりで、どの企業もしばらくはある程度成長が見込め、企業活動に多少のヒューマンエラーがあっても、それで大きくシェアを落としたりということは無かったのかもしれない。
しかしいまでは日本経済は成熟しており、総人口は減少に入り、多くの市場は縮小していく。企業間の競争力にも差がなくなりつつある。そこに他業界からの新規参入組みも入り乱れての仁義なき戦いが始まっている。
そういう時代には、企業は「コミュニケーション能力」も動員しないと、競争に勝ち残れないのである。タブン。
それにしてもこういうことを、他人への思いやりや優しさが著しく欠如している僕が言うと、全く説得力がないですね。