時には昔の話を(01)

時には昔の話を(02)
時には昔の話を(03)
時には昔の話を(04)
時には昔の話を(05)
時には昔の話を(06)
時には昔の話を(07)
時には昔の話を(08)
時には昔の話を(09)
時には昔の話を(10)

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 この昔語りを書き連ねている最中、ふと思ったことがある。
「僕にとってどこからどこまでが『昔』にあたるのだろう?」ということだ。
 高校生くらいの頃、小学生の自分を思い出して「昔さ~」と話したところ、母親から「大して歳も食ってないくせに昔という言葉を使うな」と怒られたことがある。その言葉通りに考えるならば、26歳の僕も「昔」という言葉はまだ使うべきではないのだろう。しかし逆に使い始めてしまった以上は、「昔」を僕自身で定義しなければならない。
 そうして自分なりに「昔」の定義を考えた結果、感覚的には「10年よりも以前の過去を昔と呼ぶ」ことにした。しかしそうすると、既に18歳までを書いてしまっているから、またしても辻褄が合わなくなってしまう。これはどうしたことだろう。安直に紅の豚の挿入歌から題を拝借したのがそもそもの間違いだったのだ。

「それ、そんなにこだわるポイント?」

 自分でもそう思う。しかし、そういう細かい部分が妙に気持ち悪くなることがある。普段は大雑把なくせに、妙なところだけ神経質な性質なのである。世間で捉えられているネガティブなB型のイメージそのものだ。僕の血はBで出来ている。だから仕方ない。僕は悪くない、血が悪いのだ。
 閑話休題。
 前置きがとてもとても長くなってしまったが、今回から少しだけ題を変えて「時には過日の話を」とする。
 日本語には意味の似た、けれど微妙にニュアンスの異なった表現が多くあるからありがたい。繊細な意味の違いが表現できない言語であれば、B型の僕は神経質をこじらせて死んでいたかもしれない。そう考えると、アメリカ大陸にはきっとB型の人間は存在しないに違いない。


 ――。


 僕は大学生になった。
 大阪にある偏差値50そこそこの私大で、法学部の法律学科を専攻した。
「以前から法律に関しては興味がありました」という程度の動機で法学部を選択したのは大きな間違いだった。
 いわゆる「知っておくと役に立つ法律マメ知識」みたいなテイストは一切ない。入学当初からガチガチの憲法、民法、刑法各論の講義を受けた僕は絶望した。全然面白くなかったからだ。「不動産? え、建物のことじゃないんですか?」ぐらいの人間が叩いていい門戸ではなかったのだ。僕はもっとラフに「隣の家の敷地に植えてある柿の木の枝がうちの敷地にまで伸びてきてるんだけど、勝手に実を取って食べていい?」という話がしたかっただけだったのだ。この理想と現実のギャップに、僕は大いに苦しみ続けることになる。ちなみに上記の答えはNOである。
 そんなわけだから、僕は大学の学部にあまり友達は多くなかった。入学式翌日の資料配布の際、隣に座っていた林くんに話しかけたからこそ辛うじて行動をともにする人間はいたものの、物凄く狭い交友関係の大学生活を送っていた。
 また、入学前からサークルに入ることはほぼ諦めていた。
 実家から大学までは片道で2時間かかった。1限目がある日には、5時半には家を出なければ講義には間に合わなかった。それは事前に分かっていたことなので下宿を考えたが「下宿するなら生活費を全てアルバイトで賄え」と言われていたので、どちらにせよサークル活動に勤しむ時間的な余裕はなかったように思える。奨学金を考えなかったわけでもないが、当時の僕は借金に対して物凄く抵抗感があったので、その選択肢は初めからないのと同じだった。
 そんなわけだから、学部に友達は少ないが、かといって学部外にも友達もいなかった。
 早朝、暗くて寒い空の下を自転車で30分走って駅に向かい、満員電車を乗り継いで1時間半。微塵も興味が湧かない講義を眠たい頭で聞き、交友関係も狭いため特に何のイベントなども起こらず、そそくさとまた2時間かけて帰って、飯を食って寝る。起きる、学校、帰る、寝る。起きる、学校、帰る、寝る。華の金曜日がやってくる。地元のコンビニで夜勤のバイトがあるので遊びには行かない。帰る。働く。寝る。……。
 心の摩耗が凄まじい、無味乾燥で無機質な毎日だった。
 入学当初の高揚感が手伝って夏まではなんとかモチベーションを保ったが、夏休みに入って地元の友達と夜通し遊び倒すことが増え、生活リズムは完全な逆転を見せた。
 2010年8月、まだ18歳の僕は完全にポンコツ大学生のそれであった。


 そして秋が訪れ、幾つかの転機が僕には訪れた。


 まず、金曜の深夜だけのシフトだったコンビニのアルバイトを、日曜の深夜も増やしてもらった。深夜勤務の終わり時間は早朝の6時である。必然、月曜日の1限目の講義は出席できないことになる。
 これは要は、僕の中で大学生活の優先順位が地の底まで落ちてしまっていたことを示している。
 大学で出会った林くんはよく「今日も休むの?」と連絡を寄越してくれていて、今でこそそれは優しさだったと思えるようになったのだが、当時の僕は大学に関わる全ての事柄を煩雑だと考えるようになっていた。
 遅刻するペースが増え、休講するペースが増え、自主的に休学するペースが増えた。
 この頃には色々な面で考え込むことが多くなっており、漠然と大学を辞めたい気持ちも抱えていた。が、当時の僕にとってみれば大学を辞めるということはかなりの一大事であったので、親には言えないままで、ずるずると怠惰な生活を過ごしていた。
 それと同時に自分の好きなこと、やりたいことについて改めて考えてみた。
「特技は」と聞かれると一切の答えが出てこなかったと思う。しかし、本を読むことが好きだったので、大学で勉強をする時間の代わりに本を読むことにした。なんとなく時間潰しに立ち寄った本屋で森見登美彦の「夜は短し 歩けよ乙女」という小説を買って、大学の講義中に読み始めた。
 僕は、改めて本の魅力に囚われた。
 森見登美彦の作品を読み終えて、興奮も冷めやらぬままに勢いに身を任せ、1冊10円~の中古本を100冊単位で購入した。
 毎日3冊、予定のない休みの日には4冊ぐらいのペースで読んだ。安く出回っている本だったのでクソみたいな内容の本も多かったが、清濁併せ吞むの気概で読み倒した。
 そして、そうやって乱読を重ねているうちに、まだ行動には出ないまでも「自分で小説を書いてみたい」という気持ちが自分の中に湧き立ったのだと思う。


 コンビニの深夜勤務で増えた日曜日のシフト。
 自分が働いていたコンビニでは2人体制で深夜のシフトを回していた。
 従来の金曜の相方は身体が物凄く大きいスキンヘッドのおじさんだったが、新たな日曜日の相方は1歳上の小柄なお姉さんだった。そしてめちゃくちゃヲタク趣味の人であった。
 このお姉さんとの出会いが、まさしく僕のサブカルチャーの起源と呼んでも相違ないだろうと考えている。
 7つ歳上の兄はバリバリの理系男子でヲタク趣味全開だったが、昔の僕はそれが恥ずかしくて、そういうヲタク文化にまつわるものを忌避していた。偏見の塊なのは承知の上で申せば、ジブリやサザエさんは誰にでも受け入れられるある意味高尚な作品であり、逆に深夜に放映されている萌え系の女の子が登場するようなアニメは総じて陳腐なものだと考えていたのだった。
 そんな僕がお姉さんに薦められたのが「マクロスF」というアニメだった。
「まあ薦められたし、とりあえず3話ぐらいは見てみるか」と浅はかな考えでマクロスFに挑んだ僕は、見事に寝食を忘れて一気見してしまうという大敗北を喫することになる。悔しいけどヲタク文化に感じちゃったビクンビクンな僕は、暇な文系大学生の多くが陥るのと同じようにして、深夜アニメをひたすらに視聴するアニメの豚となったのだった。
 丁度時を同じくして、コンビニの深夜勤務で廃棄の商品を好きなだけ食べてもよい時期だったので、様々なストレスを食にぶつけた僕は、名実ともに薄汚い豚へと変貌を遂げたのである。高校1年生から3年生まで一貫して63kgだった体重は急激に増加し、気が付けば70kgの大台に乗っていた。
 会うたびに「久しぶりやな!」と声を掛けてくる林くんからは、「ファンキーデブメガネ」というありがたいあだ名を頂戴したりもした。そのあだ名で思い出したが、当時の僕は頭部の側面を刈り上げた完全なモヒカンで、そのモヒカンはピンクに近い赤に染まっており、刈り上げた側面には旭日旗を模したラインを施していた。絶望的に知能と治安の悪い豚であった。
 

 物の見方によっては、2つの作品によって人生の軌道が変わったと言えるだろうか。
 大学生とは世を忍ぶ仮の姿で、その実は本を読みアニメを見て飯を喰らう豚、というような生活をしばらくの間、送り続けていた。
 恐らく本来の大学生の領分とは全く異なっているが、しかし様々なものを吸収して今の自分の土台のようなものが出来た時期なのには間違いないので、振り返ってみれば必要な時期だったのだろうと思う。
 秋に訪れた幾つかの転機が、また新たな人生の道を作り、今の自分に糸を繋げるエピソードを生んでゆくが、それはまた次のお話。


(続)