王将の餃子をはじめて食べた時のことはおぼえていないのですが、王将をはじめて認識したときのことは鮮明におぼえています。

小学校に進学する少しだけ前、大阪に住む叔父の結婚式のために、島根の山奥から大阪に出てきたことがあります。
親戚を幾人かピックアップして進む8時間近くかけた長旅で、乗り物に弱い私は疲弊した記憶があるのですが、仔細はあまりおぼえていません。
結婚式の記憶もあまりないのですが、親族紹介のときに、「いいね、順番がまわってきたら、甥ですっていうんだよ」って何度も言われて、甥ってなんなんだろうなぁと思ったことだけ妙にはっきりと記憶に残っています。

式の後、生まれてはじめてホテルに泊まりました。
式の記憶は途切れ途切れなのですが、ホテルの記憶ははっきりとある。
部屋に着いたらまず靴を脱いでみんなに笑われたこと、小さな冷蔵庫にテンションが上がり、その中にジュースがあってまたテンションが上がったこと。(絶対に飲んではならぬときつく言われたことも)

そのホテルの泊まった部屋の窓から、王将が見えたのです。
たぶん、その時のわたしが将棋に興味があったからか、変にテンションが上がって、「あれはなに?」と騒いだのだと思います。
「餃子屋さんだよ」
「なんで餃子屋さんが、王将なの?なんで?」
としつこく聞いた気がします。

ホテルにいる間、ぼうっと王将を眺めていました。
あたりが暗くなっても、ひっきりなしに人を吸い込む王将をじっとみながら、都会だなぁと思ったのでした。

それから30年近くが経ち、今は大阪王将の近所に住み、夕ご飯を食べたり、生餃子を買って帰って焼いたりと、日常的に王将のお世話になっています。

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箱に書いてあるレシピとは、異なりますが、水に片栗粉を溶いて、羽根つき餃子にするのが好きです。
さくさくと美味しい。
わたしは柚子胡椒をつけながら食べる。
ごはんでもビールでも、どんどん進みます。


多すぎたラー油をお酢で薄めつつ意地でも生きてやろうと思う
/小俵鱚太「ナビを無視して」/「ねむらない樹vol.4」

第2回笹井宏之賞の長嶋有賞受賞作から。
ラー油を入れすぎてしまって、お酢を足していると、意地でも生きてやろうと思った、そんな風に読みました。

上句で提示されている状況はよくわかる状況です。
「お酢で薄める」というのが、ちょっとおもしろくて、お酢もなかなかに強い液体なんですが、ラー油の方が強いのでお酢で薄めることになるのでしょう。事実の提示なのですが、どこかそれ以上の意味があるような気がして、下句の感慨にすうっと繋がっていきます。
下句の感慨は突飛なものではありません。どちらかというと平凡なものな気がする。ただ、上句が提示している状況と不思議に響いているように思います。
お酢で薄める、というのも解決策のひとつですが、一番シンプルな解決策は別の小皿に新しくタレを入れることでしょう。ただ、なんとなくそれはしづらい。もったいないですし、悪いのはラー油を入れすぎた自分ですし、なによりまだ食べることができるし、だから主体はお酢で薄めることになります。
なんとなく、人生もそんなものな気がします。新しい小皿に新しいタレを入れればいいのはわかっていてもなかなかできない。そういう場面は人生においてたくさんあるような気がします。仕事でも、家庭でも、短歌をやる上でも。新しい皿を出せばよいのは知っているけど、お酢を足してやり過ごしてしまう。だけども、だからこそ、「意地でも生きてやろうと思う」のでしょう。
掲出歌は3句目で切れずに「つつ」でつながります。この接続助詞で、一首は少しだけ不安定になり別の読み筋も生まれる反面、上句の状況の提示と下句の感慨はより密接になっている、気がします。


あの日、ホテルから見た王将は大阪王将だったのか、餃子の王将だったのか。
なんとなく記憶の中の像は餃子の王将なのですが、後々に補強されてしまった記憶な気もします。

いずれにしても、あの日のわたしが見ていた夜の王将に吸い込まれている側の人間として生きていることを、ふっと不思議に思ったりするのでした。

ナビを無視し続けたまま海へ出た記憶を撫でて眠りたいのだ
/小俵鱚太「ナビを無視して」/「ねむらない樹vol.4」

俄然、夏です。

突然に猛暑日が続き、日中に外を歩くと身体がとけていくような気がしますし、ベランダの洗濯物を取り込むだけで汗だくになってしまいます。
こんなときは、あっさりとしたものが食べたくて、食べたくて、だしを作ります。
だしは山形の郷土料理で、清涼感のある夏野菜を細かく刻み、しょうゆベースの味付けをしたものです。
ツイッター上で習ってから、毎年作ります。
美味しいし、食欲がなくても食べれるし、栄養もあるし、冷蔵庫の一掃にもなります。
ごはんにかけても、素麺やうどんにかけてもよい感じです。

今日は、茄子、胡瓜、茗荷、大葉、めかぶで。
本場は納豆昆布(がごめ昆布)を入れるらしいですが、無いのでめかぶで代用しましたが、野菜だけでも美味しいです。
茄子は水に晒してあくを抜き、ぎゅっと水を絞ります。
味付けは、創味のつゆと寿司酢です。
完成したら小一時間味を馴染ませてから食べます。
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今日は冷奴にかけて。
写真にはありませんが、素麺にもかけました。
ねばねばがよい感じ。


いつもわたしがわたしの外にいてさびしい豆腐のみずも細く逃して
/大森静佳『てのひらを燃やす』
パックの豆腐にはクッションとして水が入っています。豆腐を使う前にその水を捨てるところでしょうか。もしかしたら、ぴっと包丁で切り込みを入れて水を出しているのかもしれません。
「わたしがわたしの外に」いる。日常的な下句に比べて抽象的な上句ですが、なんとなくわかる気がします。
私ひとりであれば確固たる私は存在しないのかも知れません。あくまで他者を鏡として、あるいは他者と比すことで私を認識することが多くある。そう考えると、本当の自分なんてものは無いような気がしてきます。そして、その認識には一抹のさみしさが宿ります。
豆腐の水「も」とあるので、細く流れ出る豆腐の水と自分の外に存在する私とが、作者には響き合っているように感じられたのかも知れないな、そんなことを思いました。


5年近く前、穂村さんのエッセイを読んで、なんとなく短歌をはじめようと思った私は、何をしたらよいのかわからず、角川短歌を買いに行きました。
はじめて買った角川短歌の巻頭には、空の写真とともに大森さんの短歌が載っていて、その中の一首が妙に心に残ったのをおぼえています。歌意はよくわからんけど、提示されたイメージに残るものがあったようで、なんとなくおぼえてしてしまいました。
同時代の短歌で最初に暗記した短歌だと思います。
その歌が、少しだけ表記をかえて、『カミーユ』に入っていて、おおっ!っと思いました。

夕暮れは穴だからわたし落ちてゆく壜の砕ける音がきれいだ
/大森静佳『カミーユ』


『カミーユ』、復刊した『てのひらを燃やす』の二冊の歌集を短いスパンで読みました。

われの生まれる前のひかりが雪に差す七つの冬が君にはありき
どこか遠くでわたしを濡らしていた雨がこの世へ移りこの世を濡らす
/大森静佳『てのひらを燃やす』
ああ斧のようにあなたを抱きたいよ    夕焼け、盲、ひかりを掻いて
細部を詠めという声つよく押しのけて逢おうよ春のひかりの橋に
/大森静佳『カミーユ』
例えばこんな歌を読んだあと、果たして私には短歌で何ができるのか、もしかしたら私はもう歌を詠まなくてもよいのではないか、そんな感慨がふっと湧きます。
抽象的なイメージと具体的なイメージに殴られながら歌集を読み進めていると、そんなことを考えてしまいます。
それは、短歌をはじめるかはじめないかの頃に刻まれた一首への印象と遠いところで呼応している、ような気がします。

それでも、短歌を作るのは辞めれないので、ここにある達成から、果たして私は何を得ることができるのか、そんなことを思うのです。

くだものについてながく悩んできました。

時々、くだものをもらいます。
ひとつだけお裾分け、みたいな時もあるのですが、がっさりといただいてしまうことがある。
私はくだものを食べる習慣が無いので、山ほどもらったときに、少しあわわあわわとなってしまいます。
こんなに食べれません、そう言えばいいのですが、そんな空気ではないし、えいっと言ってみても、いやいや食べてくださいと笑顔で返されたりしてしまいます。

結果的にものすごい勢いで、意識的に梨やリンゴや葡萄を食べることになります。
なんか、これはくれた人にもくだものにも申し訳ないなぁと、毎回思うのです。

そんなことを考えながら生きていたのですが、結社の先輩からジャム作りは案外簡単と聞いて、ちいさく世界が変わりました。
「土鍋で炊いたらええねん。うまいこと炊けるよ」
そう言われて、やってみるとジャム作りは案外面倒ではなくて、むしろとても楽しいものでした。
沸き立つくだものがとけていって、ひたすらにあらわれる灰汁を掬い続ける。
気がつけば、水分は飛び、どろどろと立派なジャムができています。

なんで、今までジャムを作らなかったんだろう、ものすごい勢いで腹に詰めていったくだものに対して申し訳なさが起こります。


職場の人が2キロほどすももをくれました。
熟れ過ぎて出荷できないやつ。
これは、ジャムにするほかはありません。

よく洗い、水気を拭き取り、種を取る。
皮のまま土鍋に放り込み、砂糖をどばりと入れ、レモンを搾り入れる。
強めの中火で沸かし、沸いてきた灰汁を取り、弱火にする。
あとは、とろんとするまで、ひたすらに灰汁を取り続ければ大丈夫です。

煮沸した瓶に、瓶もジャムも熱いうちに詰めて、自然に冷やせば、真空に密封されて結構日持ちします。
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パンに塗ってもよし、ヨーグルトに入れてもよし、ラッシーに砂糖や蜂蜜のかわりに入れてもよしとなかなかに便利です。

ふつふつと沸いてくる灰汁をひたすら掬い、どろどろと形をなくしていくすももを見ていると、なんだかいろんなもんが一緒にとけていく、気がします。


朝食の後に舐めたりジャム瓶の底に余れるひと匙分を
/山川築『未来2018年6月号』
朝食。パンにジャムをぬって、パンを食べ終え、さて、ジャムの瓶を冷蔵庫にしまおうとしたら、瓶の底にほんの少しだけ残っていた、そんな感じでしょうか。
明日の朝を乗り切るには量は少ない。もしかしたらストックのジャムは違う味なのかも知れません。もう少し多めにぬればよかったかな、そんな小さな後悔をする作者を想像してしまう。
それで、最終的にぱくっと食べてしまう。
その感じ、わかります。

生活の些事が切り取られた歌ですが、倒置が効いていて、ほんのりと日常が異化されている気がします。
「朝食の後に舐めたり」と言われて、なんやなんや?と少し思い、あ、ジャム、しかもちょっと残ったラストジャムと納得する。

たぶん、作者はジャムが食べたいわけではない。
ただ、食べるのが最善な気がしたから、食べたのでしょう。
私も、最善だと思います。なんでかはうまく説明ができませんが。
こん感じで、状況によって食べさせられてしまうことって、日常の中でよく出くわす気がします。

そう考えると、私がいま食べているすもものジャムも、状況によって食べさせられているのかも知れないな、そんなことを考えてしまいます。

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