冬になると牛乳を買います。
普段は牛乳を飲む習慣が無いのですが、冬になるとホットミルクのお酒が飲みたくなるのです。

ホットミルクに蜂蜜を垂らして、バーボンを入れてシナモンをふればホットカウボーイ。
チャイを淹れてラムをたらせばチャイラムに。
ホットミルクにアマレットを入れても美味しいです。

中でも一番よく飲むのが、ホットチョコレートラム。
牛乳に板チョコを割り入れてレンジで加熱し、ダークラムを入れてよく混ぜ、最後にシナモンをふるだけ。
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甘くて、温かくて、とても幸せな味。

毎年、アイリッシュコーヒーを作りたいなぁと思うのですが、作らないまま冬が終わります。
濃いめのコーヒーに砂糖を入れて、アイリッシュウイスキーを注ぎ、ホイップしたクリームをのせる。
クリームをホイップするのが微妙なハードルです。
今年こそは…!、と思っているのですが、冬ももう闌けてきています。


こわいぐらい真面目なことは話さずにホットミルクの膜をわけあう
/谷川電話『恋人不死身説』
恋人と1つのマグカップに入ったホットミルクを回し飲みしているのでしょうか。
ホットミルク、色味や温度感を含めてとても普段着な飲み物やと思います。
そこに真面目な話はそぐわない。
たぶん、真面目な話とは、ふたりの将来の話だったり、具体的な生活の話なのでしょう。
主体はそんな話をする必要を感じているのかも知れない、しかし、今はホットミルクを飲んでいるのです。
肩の力を抜いた話の方が合っている、ような気がします。

膜をわけあう、という表現がとても肉感的でふたりの距離感を表しています。
インパクトのある歌集なので、あまり目立たない歌かも知れませんが、好きな歌です。

『恋人不死身説』は不思議な歌集です。
恋人のことが、あるいは恋人の不在が歌集を通して描かれ続けるのに、恋人の像はあまり立ち上がってきません。
主体はその行動を通じて、どんどんとイメージが喚起されるのに、恋人はその容姿も、性格も想像がつかない。
先日の批評会で内山晶太さんが、「圧倒的自分感」という言葉で語っていましたが、確かにそうやなぁと。
恋人を描いていると見せかけて、恋人はあくまでも自分を確認する装置のようなもので、描かれているのは主体自身なのかも知れません。
ただ、現実の恋愛もそんなもんかも知れんなぁ、とも思います。

気持ち悪さというタームで語られることが多い歌集ですが、この歌集の気持ち悪さは現実に引きつけるおもりのようなものなのかも知れません。
批評会の中で服部真里子さんが、この気持ち悪さは自然なもの、という趣旨の発言をされていましたが、日常をあえて露悪的に描くことで、そこにリアリティを宿しているように思います。
言われてみれば、ペットボトルをふたりで飲めば唾液は混じるし、掃除を怠れば結果的に恋人の髪の毛を保存している状態になる。
歌集中の恋人がともすれば抽象的な存在になるのを繫ぎ止めるための「気持ち悪さ」なのかも知れない、そんなことを思うのです。

基本的に恋人という主題があって、歌集中の歌はその構成に奉仕しています。
そこには作者の戦略的な意図があるのでしょう。
時に秀歌性のようなものを削いでまでも、ひとつの主題を描くことはすごい勇気やなと、純粋に思います。
わたしと電話さんは同い年。
わたしも頑張らねばと思うのでした。

二種類の唾液が溶けたエビアンのペットボトルが朝日を通す
/谷川電話『恋人不死身説』

寒い日が続いています。
雪がちらつき、雪害のニュースが流れています。
やはり、温かいものが食べたくなります。

鍋、ですね。

すぐ出来て、洗い物もそんなに出ない。
今年は葉物が高いのであんまりしていませんが、やはり鍋。
まだ、今冬は牡蠣鍋を食べていない、そう思うとだんだんと食べたくなってきます。
一度、殻付きの牡蠣を頂いて、酒蒸しにしましたが、あれは別物。
アツアツの牡蠣をはふはふしながら食うやつ、あれ。
このままだと牡蠣鍋をせずに春を迎えてしまいそうなので、牡蠣の土手鍋にしました。

牡蠣は塩水で軽く洗います。余力があれば大根おろしで洗ってもです。
赤味噌、白味噌(なければなんでもよいです。今日は麦味噌です)、味醂、砂糖を混ぜて鍋の土手に塗ります。
鍋に水を張り、白だしで薄めに味付けをし、大根やらキノコやら火の通りにくいものを入れて火にかける。
火が通ってきて、味噌が溶けだしたら、もやし、豆腐、牡蠣、春菊なんかを入れ、牡蠣に火が入ればできあがりです。

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やはり牡蠣、です。
はふはふと食べる牡蠣は本当に美味しい。

牡蠣は当たると食べられなくなると言います。
牡蠣を愛しているのに、生牡蠣で当たるようになり、ついに焼き牡蠣で当たってしまい、牡蠣フライすら食べれなくなる、絲山秋子さんがそんなエッセイを書いていて、怖い話やな、と思います。

牡蠣が食えることに感謝をしつつ、はふはふする、幸せな夜です。


加熱用牡蠣のにおっている孤独
/八上桐子『hibi』
貝って何となく孤独な気がします。
それは殻にこもっているからなんでしょうか。
でも、加熱用牡蠣の孤独は少しだけ違う気がします。
例えば、スーパーに売っている水がパンパンに入ったロケットの牡蠣。
あるいは、ぎっしりとプラスチックパックに詰められた牡蠣。
そこには、たくさんの人に囲まれた時に味わうような孤独感が漂っている気がします。

加熱用牡蠣、少しだけ位が下がる感じもします。
そんな牡蠣達の感じている孤独に思いを馳せているのでしょうか。


葉ね文庫で買った、八上桐子さんの『hibi』がとてもとても好きでした。
そこには意味を超えた納得感が詰まっている、気がします。

空豆のおそらく知っている雲間
石を積む夜が崩れてこないよう
夕暮れがギターケースにしまわれる
よごれてもよい手と足で旅に出る
走り出すちいさく一度揺れてから
ひんやりとはじまるものを春と呼ぶ
/八上桐子『hibi』
どの句にも解釈の余地があります。
例えば一句目、空豆と雲間の縁語的な関係や大地から生えた空豆と大空の絵画的なイメージ、「おそらく」という作者の謙虚な認識なんかを語ることができるかも知れません。
しかし、それを語ることが必ずしも句を豊かにしないような気がしてしまいます。

そこには、空豆が雲間を知っているという提示があって、まずはなんとなくそれに納得してしまう感覚がありました。
意味を味わう前に、納得感がある感じ。
あぁ、空豆は雲間を知っとるかもな…、みたいな感じ。
もちろん、意味をとっていく事もできるんだけど、その必要がない、そんな印象を受けました。

凄まじいほど、切り取り方が絶妙だと思います。

私も日常をすくい取って歌を作ります。
私より上手く日常をすくう歌人をみると、よし、その境地に達したいと思います。

けど、川柳という詩型でそれをやられると、何かこう、ぐうの音も出ないな、と感じてしまいます。
川柳のことは全然わかりませんが、松田俊彦句集を読んだ時にもそんなことを思いました。

575の詩型が頭から離れんくなるのと相まって、しばらくうまく歌が作れなくなる、そんな気がします。

出ておいで桜はみんな散ったから
/松田俊彦句集

皆去ってさくらの下が濡れている
/八上桐子『hibi』

年が明けました。

ベッドタウンに住んでいるので街がすかすかしていてよい。
コンビニはさみしく光をこぼし、スーパーはやる気なく動いています。
道も空いているし、洗車機も順番待ちなしに使える。
街が帰省モードゆえに、帰省しないと快適に住めます。

大晦日は詰め残ったおせちで日本酒を飲み、
元日はおせちで日本酒を飲み、
2日は肉を焼いてビールと焼酎を飲む。
年始は酒に合うものが続くので、どうしても連日飲むし、一回に飲む量が増えます。
ただでさえ年末から飲んでいるのでここら辺で小休止を。

冷蔵庫ある賞味期限の切れかけた納豆を食べる。
納豆、ちょっとやそっと賞味期限が切れても大丈夫ですが、やはり期限内に食べなければと思ってしまいます。

納豆をよく混ぜて、玉子を入れて、すりおろしたトロロも少しだけ入れます。
味をみて醤油を少しだけ足す。
ネギとキムチを添えて。


かりかりとかき込みます。
ご馳走が続いたあとは静かな夜をと思うのです。


卵入り納豆ごはんかき込めば箸はかなしく軽やかに鳴る

/濱松哲朗「湖をめぐる灯」/穀物第4号


歌意は明瞭です。

卵を入れた納豆ごはんを食べていると、箸が悲しく鳴っている、というシンプルなもの。


納豆ごはんでは箸はそこまで鳴りません。

卵を落とすことで、ご飯の密着感が薄れて茶わんに箸先が触れやすくなって、かっかっかって音が出ます。

また、かき込むとい動詞も俄然生きてきます。

卵がキーになるという発見。


かき込めば、かなしく、軽やかと「か」の音が連続し、かっかっかっと箸の音が聞こえてくるようです。


納豆ごはんを食うているだけの歌なのに、芸が細かくて素敵です。


また、これだけやと軽やかな歌になってしまうのですが、かなしくの一語で短調に転調してしまいます。

連作に流れているマイナーメロディに綺麗にはまり込んでしまう。

納豆ごはんが物悲しくすら感じてしまう。


魯山人のこだわりを持ち出すまでもなく、納豆ごはん、ましてや卵入りのご飯は必ずしも悲しさを出す小道具ではありません。

晩年の茂吉に「わが生はかくのごとけむおのがため納豆買ひて帰るゆふぐれ」(『つきかげ』)という歌がありますが、納豆は生活に密着したもので、必ずしも悲しい食い物ではない気がしますし、かっかっかという音も必ずしも悲しくはない。

それが、主観的な形容詞ひとつで完璧にうら悲しくなる。素敵です。


三が日も終わり、明日から日常がはじまります。

悲しいですが、今年もしっかり生きていきたいと思います。

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