2016年01月

夜中、ひとりでぼーっとお酒を飲んでいると、なにか、あらゆるものから自由になれている気がします。
エバンスのピアノトリオを小さな音量で流し、ぼーっとする。
ひたすらぼーっと。

こんなとき、不意にクロノトリガーという、古いテレビゲームを思い出します。
このゲームは強くてニューゲームというシステムがあって、他のゲームデータの状態でまた最初からプレイことができる。
ようするに、レベル1からはじめないわけで、異様に簡単にゲームを進めることができるのです。

時々、リセットボタンを押したくなります。
今あるしがらみから解き放たれて、人生を別の地点からやり直したい。そんなことを不意に思います。
でも、本当にリセットしてしまうと、意味がないので、今の記憶を持ち込みたい。クロノトリガーのシステムのように。
そんなことを考えていると、だんだんアルコールが満ちてきて、思考はさらにとりとめがなくなっていきます。


最近、夜中に飲むのはラフロイグ。
有名なシングルモルトのスコッチウイスキー。
俵万智さんのエッセイ、百人一酒にも登場します。
正露丸、消毒液なんて呼び名があるほど、風味にクセのあるウイスキーですが、慣れてしまうと抜け出せなくなります。
村上春樹が、「10年ものには10年ものの頑固な味があり、15年ものには15年ものの頑固な味があった」と書いているように、若い年数でもとても美味しい。


ウイスキー夜半にし飲めば舌ひびく今のひととき妻も子もなし
/高野公彦「汽水の光」
夜中にひとりで飲むアルコールには不思議な力があるようで、その瞬間、本当に世界から切り取られるような感覚があります。
掲出歌でも、妻と子がいる人生が心から嫌なわけではないと思います。
しかし、ふっと、そうではない自分を夢想する瞬間がある。
それは、夜半に、ひとりウイスキーを飲んでいるときが、1番しっくりくるのではないでしょうか。

気持ちよく眠りにつき、また翌朝には日常があらわれる。
人生とはそのようなものなのでしょうか。

今、学生時代に住んでいた下宿のすぐ近くで働いているので、時々、学生時代の残骸みたいなものに出くわします。

お昼休み、職場近くのあんまり美味しくないコーヒーを出すカフェでぼーっとしていると、唐突に思い出す。
僕はこの店に来たことがある。

大学四年生の時にこのカフェに来たことがある。
確かその日は急な夕立に遭って、このカフェに駆け込んだんだ。バイト先の後輩とふたり。前後の文脈はまったく思い出せない。
その店に駆け込んで、僕はしば漬けチャーハンを食べた。
そのチャーハンが高い割に全然美味しくなくて、彼女が頼んだ飲み物もまずくて、ふたりで、まずいね、まずいねと囁きあっていた。
その後、どうしたのかは全然思い出せない。しばらくの間、ぼーっとふたりで、やまない雨を眺めていたように思います。

その後輩とはそのあとで付き合いはじめ、なんやかんやあって別れました。

今日のAランチはBLTサンド。
普通に美味しい。
コーヒーは相変わらずあんまりやけど、食べ物は美味しくなっていて、少し腹が立つ。


花水木の道があれより長くても短くても愛を告げられなかった
/吉川宏志「青蝉」
僕は恋愛ドラマが気恥ずかしくて観れないような人間なので、相聞歌が苦手です。
ただ、この歌は好き。
そこには、きみと付き合うことに対する等身大の敬虔さみたいなものを感じるからでしょうか。
きみに愛を告げることができたことに対して、とても謙虚に受け止めているように思えます。

僕たちの日常には、長すぎたり短かすぎたりする花水木の道が現れることがあります。
時々、自分の人生を振り返り、そんな長かったり、短かったりした花水木の道を思い出してしまいます。

先日、学生短歌会の歌会にお邪魔しました。
歌会に誘ってもらえたので、図々しくも遊びに行くことにしたのです。
学生短歌会にお邪魔するのははじめて。ただ、母校の短歌会やから、施設の勝手はわかるので、そこまでは難渋しませんでした。

不思議なものです。
そこにいるのは、10歳近く歳の離れ人たちで、僕は明らかに闖入者で、にも関わらずフラットな議論が進んでいく。
単純にすごいなぁと。

歌会後には、近くのタイ料理屋で飯を食う。溢れんばかりの炭水化物を頼み、お腹はぱんぱんにしながら、馬鹿話をして笑っていました。

あぁ、単純にいいなぁ。
この子達は、短歌をやめない限り、ずーっと繋がっていられるのかと思うとくらくらします。
学生時代の友人とはだんだんと疎遠になっていきます。
久しぶりに会うと、結婚するとか、したとか、子どもができたとか、できないとか、転職したとか、会社への呪詛とか、そんな話題でテーブルが満ちてゆく。
でも、短歌があればそれ以外の形で繋がっていられるような気がします。青春の頃とかわらぬ何かを持ったまま、大人になれる、そんな気がします。

とりあえず、短歌の人ともっと会いたい。ずいぶんと遅れてはじめたなぁと思っていたけど、きっとまだ全然大丈夫。
もっと色んな人と仲良くなったり、喧嘩したり、仲直りしたりしたい。
願わくばその過程で納得いく歌が詠めればいうことはありません。
そんなことを思いながら帰路につきました。


さて、今日のお昼はマーラーメン。
担々麺に似ているんだけど、少し違う。ゴマの入っていない、山椒の効いた中華麺です。
辛いお店は唇が真っ赤になるほど辛いけど、ここのは普通にスープを啜れるレベルです。

美味しい。

生きるとは汗流すこと赤く辛き担々麺を湯気ごと喰らふ
/喜多昭夫「青霊」

最近、どんどん辛いものが好きになっていく。
辛味は味覚ではなく痛覚である、という話を聞いたことがあります。
辛さをグレードアップしていく行為はある種の自傷性があるような気がします。
生きていると実感するために、辛いものを食う。しかし、辛いものは慣れてしまうので、エスカレートせざるを得ない。
少し違うかも知れませんが、掲出歌にもそんな思いが込められているような気がします。

仕事が嫌で、あーってなったとき、思い出したように田村元さんの「北二十二条西七丁目」を読み返します。

企画書のてにをはに手を入れられて朧月夜はうたびととなる

古典のみわれにやさしき立秋の何がそんなに辛いのだらう

われはいま水族館へ行くのだと暗示をかけて職場へ向かふ

サラリーマン向きではないと思ひをりみーんな思ひをり赤い月見て
/田村元「北二十二条西七丁目」

どうやらわたはしは、今もどこかでサラリーマン以外の自分があり得るような気がしている節があります。
そして、サラリーマンではない自分を妄想して、いまの自分との落差にヘコんでしまうのです。
赤い月はわたしにだけ赤いわけではなくて万人を赤く照らしている、その認識には苦味があります。されど、そこから抜け出せない以上は受け入れていくしかありません。
わたしにとってこの歌集は、現実を受け入れるための潤滑油のような存在なのです。


職場で嫌なことが続くと、お昼は近くのカフェに避難します。
コンクリート打ちっ放しの内装に、ジャズが流れる、あまり混まないカフェ。
飲食店が足りていないのか、わたしの職場の周りは、お昼休みにはどこもかしこも混んでいるのですが、このカフェだけは空いていて、オアシスのよう。
まぁ、高くてあんまり美味しくないのが理由なのですが…


食後にエバンスやマイルスを聴きながら、そんなに美味しくないコーヒーを飲む。
コーヒーは薄くて、しかも地獄のように熱いのでほとんど味がしません。
それでも、この場所が日中唯一の避難場所なのです。
最近は美味しくないからこそ、いいような気がしてきました。



コーヒーにミルクを注ぐ  仕方なく不意にすべてが等しくなりぬ
/濱松哲朗「春の遠足」現代短歌12月号
コーヒーに注がれたミルクは最初は白い筋を描き、最終的には真っ黒だったコーヒーを褐色に変えてしまいます。
描かれている情景はとってもシンプルですが、「仕方なく」に作者の苦味が込められているような気がして、そんなに美味しくないコーヒーを飲みながら、この歌の事を考えてしまいます。
気がつけば社会の歯車となって、きこきこと変な音をたてながら働く自分。
均質的で平凡な日常が一杯のコーヒーに象徴されているようで、少し恐い。

いつからでしょう、このそばめしという奇体な食べ物が市民権を得たのは。
いつから私はこれを受け入れているのか。

こいつは我が家の献立の一角を確実に占めていて、僕は時々こいつをつくり、少し不思議な気分になります。
焼きそばははたして必要なのか、と。

一度、焼きそばなしのそばめし、つまりソース味の焼き飯を作ったことがありますが、何か物足りない。
美味いには美味いのですが…

というわけでそばめしです。

にんじん、玉ねぎ、舞茸、白菜とある野菜を適当に刻んで、豚肉も細かく切って、冷凍庫で眠っていたイカリングフライも油で揚げて刻みました。
焼きそばも適当なサイズに刻みます。

豚肉、野菜、焼きそば、ごはん、イカリングと炒めていって、ソースで味付けを。野菜まで入れたら、塩コショウと創味シャンタンDXを入れます。


やっぱり、不思議な食べ物です。
不思議な美味しさ。
簡単やし、何を入れても美味しい。



にんじんの皮は剥かずに切り刻むその断面が春になるまで
/嶋田さくらこ「やさしいぴあの」
不穏な歌。
にんじん、皮を剥かずに、切り刻む…何処となく猟奇的なにおいがします。
人参と人間がなんとなく似ているからでしょうか。そう考えると、にんじんの色も血の色みたく思えてきます。
塚本邦雄の「不安なる今日の始まりミキサーの中ずたずたの人參廻る」を思い出します。

ただ、不穏なだけではない。下句には救いがある。
にんじんの色は普通に考えれば可愛らしい色です。それは花の色であり、果実の色。春の色なのです。
それを不穏な人体の色に見せているのは主体の精神状態ゆえ。
作者は知っているのです。この感情が一時のものであることを。そして、料理がある種のカタルシスをもたらしてくれることを。

この歌集の中で一番好きな歌です。

仕事の事を考えながらざくざくとにんじんを刻んでいると、なにとなくこの歌を思い出してしまいました。

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