俄然、夏です。

突然に猛暑日が続き、日中に外を歩くと身体がとけていくような気がしますし、ベランダの洗濯物を取り込むだけで汗だくになってしまいます。
こんなときは、あっさりとしたものが食べたくて、食べたくて、だしを作ります。
だしは山形の郷土料理で、清涼感のある夏野菜を細かく刻み、しょうゆベースの味付けをしたものです。
ツイッター上で習ってから、毎年作ります。
美味しいし、食欲がなくても食べれるし、栄養もあるし、冷蔵庫の一掃にもなります。
ごはんにかけても、素麺やうどんにかけてもよい感じです。

今日は、茄子、胡瓜、茗荷、大葉、めかぶで。
本場は納豆昆布(がごめ昆布)を入れるらしいですが、無いのでめかぶで代用しましたが、野菜だけでも美味しいです。
茄子は水に晒してあくを抜き、ぎゅっと水を絞ります。
味付けは、創味のつゆと寿司酢です。
完成したら小一時間味を馴染ませてから食べます。
IMG_2695
今日は冷奴にかけて。
写真にはありませんが、素麺にもかけました。
ねばねばがよい感じ。


いつもわたしがわたしの外にいてさびしい豆腐のみずも細く逃して
/大森静佳『てのひらを燃やす』
パックの豆腐にはクッションとして水が入っています。豆腐を使う前にその水を捨てるところでしょうか。もしかしたら、ぴっと包丁で切り込みを入れて水を出しているのかもしれません。
「わたしがわたしの外に」いる。日常的な下句に比べて抽象的な上句ですが、なんとなくわかる気がします。
私ひとりであれば確固たる私は存在しないのかも知れません。あくまで他者を鏡として、あるいは他者と比すことで私を認識することが多くある。そう考えると、本当の自分なんてものは無いような気がしてきます。そして、その認識には一抹のさみしさが宿ります。
豆腐の水「も」とあるので、細く流れ出る豆腐の水と自分の外に存在する私とが、作者には響き合っているように感じられたのかも知れないな、そんなことを思いました。


5年近く前、穂村さんのエッセイを読んで、なんとなく短歌をはじめようと思った私は、何をしたらよいのかわからず、角川短歌を買いに行きました。
はじめて買った角川短歌の巻頭には、空の写真とともに大森さんの短歌が載っていて、その中の一首が妙に心に残ったのをおぼえています。歌意はよくわからんけど、提示されたイメージに残るものがあったようで、なんとなくおぼえてしてしまいました。
同時代の短歌で最初に暗記した短歌だと思います。
その歌が、少しだけ表記をかえて、『カミーユ』に入っていて、おおっ!っと思いました。

夕暮れは穴だからわたし落ちてゆく壜の砕ける音がきれいだ
/大森静佳『カミーユ』


『カミーユ』、復刊した『てのひらを燃やす』の二冊の歌集を短いスパンで読みました。

われの生まれる前のひかりが雪に差す七つの冬が君にはありき
どこか遠くでわたしを濡らしていた雨がこの世へ移りこの世を濡らす
/大森静佳『てのひらを燃やす』
ああ斧のようにあなたを抱きたいよ    夕焼け、盲、ひかりを掻いて
細部を詠めという声つよく押しのけて逢おうよ春のひかりの橋に
/大森静佳『カミーユ』
例えばこんな歌を読んだあと、果たして私には短歌で何ができるのか、もしかしたら私はもう歌を詠まなくてもよいのではないか、そんな感慨がふっと湧きます。
抽象的なイメージと具体的なイメージに殴られながら歌集を読み進めていると、そんなことを考えてしまいます。
それは、短歌をはじめるかはじめないかの頃に刻まれた一首への印象と遠いところで呼応している、ような気がします。

それでも、短歌を作るのは辞めれないので、ここにある達成から、果たして私は何を得ることができるのか、そんなことを思うのです。