atusisugoiのblog

 38 狗子(くし)還(ま)た仏性あり也無(や

 上堂。拳。僧問ニ趙州-、狗子還有ニ仏性-他無。州云、無。僧云、一
 切衆生皆有ニ仏性-。狗子為ニ什麽-無。州云、為三伊有ニ業識在-。
 師云、趙州什麽為ㇾ人、固是親切。三僧不ㇾ然、有ㇾ問ニ狗子仏性有
 無-、向ㇾ他道、有無惧是謗。更問ニ如何-、和ㇾ声便棒。

 上堂(じょうどう)。挙(こ)す。僧(そう)、趙州(じょうしゅう)
に問う、「狗子還(くしま)た仏性あり也無(や)」。州(しゅう)云
(いわ)く、「無」。僧云(いわ)く、〔一切衆生(いっさいしゅじょ
う)みな仏性あり。狗子(くし)、什麽(なん)としてか無(む)な
る〕。州云いわ)く、〔伊(かれ)に業識(ごつしき)あるが為(た
め)なり〕。師(し)云(いわ)く、趙州恁麽(じょうしゅうかくのご
とく)人(ひと)の為(ため)にす、固(まこと)にこれ親切(しんせ
つ)なり、山僧(わたし)は然(しか)らず、狗子(くし)に仏性(ぶ
っしょう)の有無(うむ)を問(と)うものあらば、他(かれ)に向道
(い)わん、有無惧(うむとも)にこれ謗(ぼう)すと。さらに如何(
いかん)と問(と)わば、声(こえ)と和(とも)に便(すなわ)ち棒
(ぼう)せん。

 訳文

 上堂。公案をとりあげていわれた。ある僧が趙州(じょうしゅう)に質
問していうには、「狗(いぬ)に仏性(ぶっしょう)があるでしょうか」。
趙州がいうには、「ない」僧がいうには「一切衆生(いっさいしゅじょう)
はみな仏性があるというのに、どうして狗にないのでしょう」趙州がいう
には、「それは、狗にものをわけ隔てる分別の働きがあるからじゃ」。こ
れについて、師は言われた。趙州のこのような学人もあれば、かれに
いうであろう。あるというも、ないというも、いずれもまちがいであると。
さらに、それはどういうことかと問うものがあれば、声もろとも棒で打と
う。

 語義

 僧、趙州(じょうしゅう)に問う-
 
 宏智頌古(わんしじゅこ)十八による。

 有業識(ごつしき)在

 在は強意の助詞。                                                                                                                      

 付記

 趙州の狗子(くし)仏性(ぶっしょう)の公案をとりあげて、仏性が有
無の二辺を離れた行(ぎょう)としてとらえられるべきことを示す。

 39 外(そと)より入(い)るを放(ゆる)さず


 上堂。外不ㇾ放ㇾ入、内不ㇾ放ㇾ出。劈面一輝、大事了畢。不ㇾ用三如
何与ニ若何-、摩訶般若波羅蜜。


 上堂(じょうどう)。外より入るを放(ゆる)さず、内より出(い)ず
るを放(ゆる)さず。劈面(へきめん)に一輝(いっき)すれば、大
事了畢(だいじりょうひつ)す。如何(いかん)と如何とを用いず、摩
訶般若波羅蜜(まかはんにゃみつ)。

 訳文

 上堂していわれた。仏性(ぶつしょう)は、外から入ってくるものでなく、
内から出ていくものでもない。真正面からずばりと認得すれば、万事解決
だ、どうしてとか、どのようにしてとか、はいらぬことだ。そこが般若の大
智慧である。

 語義

 劈面(へきめん)

 面(かお)をつんざく。正面から勢いよく。

 外より入るを放(ゆる)さず、内より出(い)ずるを放(ゆる)さず。

 「外より入るを放(ゆる)さず、内より出(い)ずるを放(ゆる)さず、一
槌(いつつい)を痛下(つうげ)すれば、万事了畢(ばんじりょうひつ)」 
 『如浄語録』による語。




















 姫路市在住の旧友と、ドライブ旅行をすることになっていて、予定通り、
4月10日の朝、氏に「チサンホテル夢前川」へ車で迎えに来ていただき
ました。
 そして、早速出発です。まず、彼の家に案内していただき、かねて旧友
から、お聞きしていた庭を拝見させて頂きました。各種盆栽が所狭しと配
されていました。
 奥様は留守をしておられましたので、そのあと、三朝温泉に向け車を走
らせました。かなり長いドライブをしてから、三朝(みささ)温泉街を通過
し、時間もまだたっぷりとありましたので、倉吉博物館を訪ねました。が、
あいにく工事中で、休館中でした。
 それではと、近くに所在する、満開に咲き誇っている公園を散策し、さらに
道を少し下って行くと、白壁の土蔵や古い町屋街に出ましたので、少し観
光してみました。
そして、本日の目的地三朝温泉で一泊、翌日は、温泉津(ゆのつ)の旅館
に泊まりました。
 4月12日の朝、チェックアウトをして、石見銀山への道をドライブしま
した。
 このお話のつづきは、後日「小さな小さな同窓会(2)」で、あらためて記
事を書く予定にしていますので、このあたりにします。

 ということで、旧友に広島まで、車で送っていただき、娘夫婦達の家の近
くで、降車し、ここでお世話になった旧友に、謝意を述べ、別れました。
旧友はこれより400キロメートルの距離を、高速道を使用して、姫路への
帰路につきました。
 あとで、無事帰ったというメールをいただきました。ほんとうにありがとう
ございました。

 広島の家に到着しますと、まだ、孫たちは学校から帰宅していませんで
した。
 娘も、獣医師の免許を所持していますので、哲哉先生(旦那様)と一緒
に、家事もこなしながら夫婦で「伊藤愛犬病院」を開業しています。もちろん
看護師もいらしゃるのですが。
 多忙中にもかかわらず、階下から娘が上がってきて、旅の無事をよろこ
んでくれ、入れてくれたお茶を飲みながら、小生はゆったりとくつろぎま
した。
家内は4月9日の夜すでにここを訪れていて、今、四国の故郷に帰ってい、
本日、21時ころに広島の娘たちの家にまた戻り、再度ここで皆と合流とい
うことになっています。

 まもなく、今年高校一年生なった孫が、学校から帰ってきました。早速、
倉吉のしっくいの白壁の並ぶ町のお店で、かつて見たこともない大きな栗
まんじゅうを購入してきましたので、これを半分にして食べるようといい、
それを食した孫は、大変おいしいとのことでした。それなら、もっとたくさん買
っておくべきだったと後悔しました。
まもなく、中学生一年生の孫も帰宅しました。
 18時過ぎから、仕事を切り上げ、娘は、夕食の準備にとりかかっていま
す。
 共働きのようなものですから、家事と、子供の教育など、大変な思いで日
々活躍してくれていましたので、たのもしく眺めていました。
 哲哉先生は、家事にも協力的ですから、いつもながら感謝をしています。

 2017年4月13日(木曜日)

 家内は、布団を干したり、普段目の届かないところの掃除などで忙しく
働いています。
 孫たちも学校へ行き、娘たち夫婦は愛犬病院で仕事中ですので、小生
は、絵を描いてみました。
 午後から、家内は、庭園の手入れに励んでいます。
 
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 2017年4月14日(金曜日)

 家内は、今日も布団を干したり、洗濯物を干すのを手伝っています。
そのあと、引き続き庭園の手入れに精を出しています。小生は、3枚目の絵
を制作し始めました。

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 2017年4月15日(土曜日)

 午後、小生は、JR可部線の、可部駅から、あき亀山駅までが、再延長さ
れたと聞きましたので、その理由(わけ)を訪ねてさっそく出かけてみました。
可部線の古市橋駅の駅前には、このょうな「古市橋今昔」の碑が建立されて
います。

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 20分に1本の割合で運行されています、可部線の古市橋駅から、電車
に乗り、まず可部駅で下車しました。駅前はきれいに整備され、気持ちの
よい駅です。
 このロータリ-附近にいらっしゃった、ある係員の方に、「どこかこの辺りで、
文化財などがありますか」と、訊ねました。
すると酒蔵がありますとのことでした。酒蔵とは、久保田酒造のことだと思
います。駅でいただいたマップによりますと、代々守られてきた菱形の井戸
から湧き出る水を使った清酒「菱正宗」を製造。松と菱のシンボルマークは
版画の巨匠、棟方志功(むなかたしこう)の手によると記されています。
 おなじく、旭風酒造もあり、町屋造りの店舗には、1865年の創業時そのま
まの格子窓やしっくい、蔀戸(しとみど)風の扉が見られる、蔵元杜氏が個
性ある酒を作っている。と案内されています。
 また、明治初期に広島藩から贋金づくりを命じられたことで知られるよう
に、鋳物業が発展した可部。随所にその名残があるとも併記されています。
ここは、次回、また娘夫婦の家にお邪魔したに時に、ゆっくりと散策しようと
思います。
 ここ(可部駅)から再延長になった可部線の終着駅「あきの亀岡」を目指し
ました。
車窓からの空は、さっきまで太陽が降り注いでいたのに、今は鉛色の暗雲
が、近づいています。









 4月25日から、私たち水彩画サークル「虹の会」へ入会される方と、生
涯学習センターで待ち合わせをし、25日に持参する絵についての話などを
しました。氏の意見は、「自分は今、水彩で、塗り絵に彩色して楽しんでい
て、まだ鉛筆で画用紙にモチーフを描くことが無理です」とのことでした。
 それでは、「入会初日は、正直にその旨を先生に話して、先生の指導に従
がってください」と、いっておきました。
 その後、氏は府中市広報を小生に見せ、府中市美術館で、水彩画の展示会
が現在開催中ですので、鑑賞したいとのことでしたので、、さっそく、一し
ょに鑑賞しに行ってきました。
 主催の「パレット」さんも、私たちと同様、市の自主グループのメンバー
です。
パレットさんが、毎年この美術館の中に設けられたブースの市民ギャラリー
で、展示会を開催されていることは耳にしていましたが、実際に絵を拝観す
るのは初めてのことでした。
 絵画センスも、結構レベルが高い印象を受けました。従がってひとりで観た
だけでは、もったいないと感じましたので、順不同ですが、ここに紹介させて
いただきながら、もう一度自分も勉強したいと思いす。
 なお、カメラの関係で、画質が非常に悪くなった作品がありましたが、一部
割愛させていただきました。

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 4月8日、母、17回忌の法事がありますので、大阪入りをいたしました。
 代変わりし、母がお世話になっていました住職さんから御子息さんの時代
になっていましが、翌日ごく内輪で執り行いました。
 法要中はかなり長い経文をひとりひとりに渡され、みなで唱和する形式
でしたが、以前と変わりなく踏襲されていました。
 無事法事もすみ、昼食をとりながら、ゆったりと談笑の後、弟夫婦と、姉
も一緒に、車で、新大阪まで見送っていただきました。
 そして、18時ごろの新幹線に乗り込み、小生は、姫路駅で途中下車をし、
家内はそのまま、娘夫婦と、孫たちが待っている広島へ、ひと足先に向か
いました。
 小生は明日から、鳥取と島根方面へ、旧友と旅をし、広島で家内と合流
することになっています。

 姫路駅、1階中央改札出口で、大西君と久しぶりに再開しました。
 簡単な、挨拶を済ませると、まず、夜桜見物を予定通りにしましょうという
ことで、友に一つ自分の荷物を持っていただき、北の方角に位置する右姫路
城(白鷺城)へと向かう広い通りを歩きました。
 夜の風は少し冷たく、遠くに見える城郭の桜の花は弱い明かりに照らされ、
私たちを満開の笑顔で迎えて暮れているかのようでした。
大手門をくぐったあたりの広場では、夜桜を愛(め)でるため、シートを敷き、
酒など酌み交わし、楽しむ何組かの影が窺えました。
 お堀の周辺も夜桜見物をさせていただきました。姫路城を見ながら、あの本
能寺で、織田信長が、明智光秀に討たれた後、岡山城を攻め立てていた豊
臣秀吉が、城主に和睦案を示し、隠密裏に夜を日に継いで素早く引っ返して、
大阪の天王山で、明智軍を倒すという歴史なのですが、岡山から引っ返す途
中で、この姫路城へも立ち寄ったそうです。
そんなことを、束の間ですが、思いだしていました。
 相手の心を読む力と、知略、素早い行動力が、この人の特徴だったようです。

         以前、小生が描いた姫路城
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寒さも手伝い、早めに桜見物から引きあげ、姫路駅に戻りました。
 そして、JR」姫新線」の始発ディーゼル機関車に乗り、二駅で彼の家の
最寄り駅に到着し、ここから夢前川寄りに数分歩いた道路沿いの中華料理
店に入りました。
ここで乾杯をし、食事を済ませました。
 この辺りは、自然が、十分残されてい、住まいには、絶好の環境のように
感じました。
 店では、特別な話は出ませんでしたが、かれも、帯状疱疹にかかったこと
があり、その発症部位は首のあたりで、いまでも冷えるとその部分が痛むと
いう後遺症があるといいます。従がって、いまの季節には少々不似合いのよ
うなマフラーを首に巻いていました。
小生も自分の症例を話しましやが、余り夢のない会話だったように思います。
 そうそう、彼は、今は亡き大変かわいがっていた愛犬の話を、思いを込め
て話してくれました。
 勤務先から最寄り駅で降車すると、奥様と愛犬が、いつものように迎えに
来てくれていたこと、それに雷を大変恐れていたことなど・・・・・・・・。
 店を出て、夢前川沿いの桜並木を案内して頂きながら(とはいうものの、ほ
とんど外灯もない堤防の道ですが)20分くらい花見をしながら散策しますと、
今晩の宿泊先であるビジネスホテル「チサンホテル夢前川」に到着しました。
 中学生時代、かれが、夢前川で、水泳をしているところに、一度だけ遊び
行った記憶がありましたので、「当時夢前川のどのあたりで泳いでいたの?」
と、訊ねますと、旧友は詳しい位置関係を教えてくれました。この桜も当時は
苗木程度だったといいます。歳月の流れの速さ感じました。
 明朝、午前9時に、旧友が車で、このホテルへ迎えに来てくれ、鳥取県の「
三(みささ)温泉」へ、ドライブ旅行を予定しています。

 2017年4月10日の朝に撮影しました。宿泊したホテルの土手側に、2
階建の、ガラス張りした黒い建物が、レストランになっていて、朝食を摂りな
がら満開の桜が真(ま)じかに見えました。
 桜の花のすき間から夢前川の水の流れが見てとれます。

        ビジネスホテル「チサン夢前橋」
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             夢前川
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 昨夜は、向こうの桜並木の土手を歩いて、こちらのホテルへ向かって歩い
たのです

          夢前川と、桜並木
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  ソメイヨシノの花が、生き生きと近くで観える見事な風景でした
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 ブタペストに残されるこの(聖カタリナの殉教)が、クラーナハの初期の主
要作として注目を集めはじめたのは、1955年のイヴァン・フェニェーに
よる指摘を受けて以来でした。本作には、はっきりとした署名が施されてお
り、まるで宝石のように光り輝かんばかりの入念な仕上げがなされています。
クラーナハによる板絵は一般に、かれ自身が単独で描いたのか、あるいは
工房が関与したのか、そのいずれなのかが不明であることが多いだけに、こ
れほど抜きんでて良質の作品は、じつに貴重だといえます。ただし本作の
制作年代については、研究者たちの見解が分かれています。ディーター・ケ
ップリンやクラウス・グリムは1508/09年頃、つまり、クラーナハのネ
ーデルラント旅行の前後に制作されたという説を主張していますが、たとえば
、フェニェーや近年のボード・プリンクマンらは、本作をヴィッテンベルクの
宮廷におけるクラーナハの最初期の仕事、すなわち1504/05年頃の作と
みなしています。
この問題をめぐって、しばしば比較対象として注目されるのは、ドレスデン国
立絵画館にある1506年の同一主題の作品(聖カタリナ祭壇画)です。
ドレスデンの作品では、本作に見られるような劇的で大袈裟な表現は控えめ
であり、そこにはやや平面性の強い描写が認められます。本作の制作年代
がこのドレスデンの作品の少し後であるという見方の根拠としてまず挙げら
れるのは、本作において、植物の輪郭がややぼかして描かれていること、お
よび、死刑執行人と聖カタリナの二人の中心人物が、背景の倒れてごちゃご
ちゃになった男たちに引き立てられて、絵画空間のなかに見事に組み込ま
れていることです。
さらに、本作の聖カタリナと死刑執行人が、1508/09年ごろに制作された
木版画(洗礼者聖ヨハネの斬首)のふたりの中心人物と類似していることも、
本作がドレスデンの作品の後に制作されたことを示唆しています。さらに注
目に値するのは、本作の死刑執行人が、ドレスデンの作品よりも、はるか
に木版画の死刑執行人のほうに似ていることです。

 クラーナハは、アルブレヒト・デューラーによる同主題の木版画、ならびに
MZのイニシャルで知られる逸名の画家の木版画を眼にしていたにちがいあ
りません。さらにまた、かれは、グリムが推察していますように、デューラー
が1507年から1509年にかけてニュルンベルグで製作した(ヘラー祭壇画
)《焼失、17世紀のコピーがフランクフルトのシュテーデル美術館およびカー
ルスルーエ州立美術館に分蔵されている》の右翼パネル内側に描かれた
「聖カタリナの殉教」も、当然ながら知っていたことでしょう。というのもクラー
ナハは、1508年1月と7月に同都市に滞在しており、その地からネーデル
ラントに旅立ったからです。これに関連するグンナー・ハイデンライヒの発見
は、だいへん興味深い。それによれば、本作の板の組成は、クラーナハがヴ
ィッテンベルクにいた時期にもちいていたそれと異なっているのでした。つま
り、この板絵は旅の途上で制作されたのかもしれないのです。そんな本作品
はやがて1791年に、クラーナハではなくデューラーの作品としてライプツィ
ヒに持ち込まれることになるのですが、それまでの経緯は、残念ながら詳(つ
まび)らかになっていません。

 1508/09年頃
 油彩/(菩提樹材)
 112×95㎝
   聖カタリナの殉教  ラーダイ改革派教会、ブタペスト
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 1506年
      聖カタリナ祭壇画  ドレスデン国立絵画館
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 アルブレヒト・デューラー 1498年作
     聖カタリナの殉教  ロンドン大英博物館
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1508/09年に制作された木版画につづいて、クラーナハとその工房は、「ア
ダムとイヴ」というキリスト教における原初の人間を表わした作品を、板絵と
いう媒体において数多く制作しました。クラーナハとその工房が手がけた「ア
ダムとイヴ」は、現存する限りでも、構図の異なる50点以上の作品が知られ
ています。たいていの場合、分割された2枚の板に、ほぼ等身大のアダムと
イヴが対幅のかたちで描かれているか、または本作にみられうように、小さ
な矩形の画面内に両者がまとめられているか、そのいずれかです。しかし、様
々な差異はあるにせよ、クラーナハは、ほとんどすべての場合に、「堕罪」
の瞬間そのものを描いて見せました。
 もっとも、そのように多くの作品を制作したにもかかわらず、クラーナハは
いかにも彼らしく、あるイメージをただ同語反復的にくりかえすということは
しませんでした。人物像の姿勢や身振り、またその他の要素に関して、彼は
多彩なレパートリーを備えていたのです。工房で働いていた多数の弟子たち
は、クラーナハの表現的なレパートリーに、ちょっとしたアレンジを加えなが
ら、さまざまな作品を生み出した。それゆえ、本作に見られるいくつかのモテ
ィーフが、クラーナハの別の主題の作品のなかで再利用されているとしても、
驚くにはあたりりまん。地面に横たわる鹿、踊るように足を踏み出す細身の
イヴの姿勢といったものは、実際にクラーナハの他の絵画にも登場します。
 クラーナハは、平面化され、単純化された造形言語を絵おもちいることで、
作品の統一感を保つことを可能にしました。そのことによって、工房におけ
る絵画の生産はいっそう円滑なものとなったのでした。
ただし、まさにこうした制作手段が採用されたために、はたしてどの作品が
クラーナハ自身の作で、どの作品が工房のある職人の作にすぎないのか、そ
の識別はおのずと困難なものとなります。本作については、すでに指摘され
ているとおり、右下に記されたクラーナハの小さな紋章から、これがどんな
に早くとも、1537年前に制作されたものではないということがわかります。
というのも、翼を下げたこの蛇の紋章が使用されるようになったのは、1537
年以後のことだからです。

 1537年以降
 油彩/板(ブナザイ)
 53.4×37.1㎝
       アダムとイヴ   ウイーン美術史美術館
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     アダムとイヴ   ウイーン美術史美術館 
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  死出(しで)での伽羅(きゃら)焚(だ)き
  
 肉親が、生きたまま、永遠の別れを迎えることは、まさに生き地獄と言
わざるを得ません。胸をしめつける思いになります。また、多くの人々が、
この「新・平家物語」を読んでみることが、源平合戦で命を落とした方々
へ、せめてもの供養になるかもしれないと思います。なお読み続けます・
・・・・・・・。

 「やあ、どこか遠くの兵火らしいぞ、あの黒けむりは?」
 「さては、源氏の陸兵だろう。火ノ山の東あたりか」
 「いやいや、火ノ山よりは、ずんとはるかな方に見られる。だが、敵の懸
(かか)りはいよいよ眼に見えて来たのだ。抜かるな、人びと」
 これと同様な声は、彦島じゅうの諸所の柵(さく)に、同時にわき揚がっ
ていたのである。二十二日、未(ひつじ)の刻((こく)午後二時)を少し過
ぎた陽脚(ひあし)の空だった。
 前夜、原田種直が、帰国したので、それの動揺が、ほかの筑紫(つくし
)の諸党にまで及んではと、首脳部のあいだには、今暁来、べつな警戒
心が味方にそそがれていたのである。
 ところが、案外、なんのことなく憂いは去った。赤間ヶ関のかなたに揚
がった煙が、ここ六千余人の眸を、
 「すわ、原氏の襲来?」
 と、一方へひきよせてしまったためでもあろうか。
 源氏が近づく。駸々(しんしん)と陸からも迫って來る。という飛牒(ひ
ちょう)はもう毎日聞こえていたのだが、現実の兵火を眼に見た刹那(せつ
な)からの緊迫はまた、べつだった。どの顔もつい先刻までの顔ではない。
 浦々の船隠しにいた兵船は、紅旗をひるがえして、広い水面へ、その戦列
をゆるぎ出している。
 諸所の柵には、鼓(こ)が聞こえ、陣鉦(じんがね)が鳴りひびいた。小
瀬戸を渡って、赤間ヶ関の方へ、一陣二陣と、後詰(うしろまき)めのため、
上陸してゆく軍勢も見える。
 「敵は、豊浦(とよら)、府中を馳け崩し、社寺や民家まで、焼きたてて
來るというぞ」
 「踏みとどまったお味方の勢(せい)と、秋根の山野で、血みどろな合戦
中とか」
 「もし、そこの防ぎが潰(つい)えたら、火ノ山もまた、危うかろうに」
 「火ノ山には、安芸守景弘(あきのかみかげひろ)どのも加勢(かせい)
 に向かっておる。やわか、そこまでは」
 いつか、夕陽(ゆうひ)が落ちてゆく。宵深まるままに、遠くの煙は、ひ
どく赤く、近々と見えた。そして、無月(むげつ)の海峡は、いやがうえに
も、暗黒のわだつみの貌(かお)を濃くしていた。
 が、彦島からながめると、赤間ヶ関方面には、いつにない軍勢のかが
り火や松明(たいまつ)がちりばめられ、以前の繫昌の灯が、忽然(こつ
ぜん)と、山添いの町々や埠頭(ふとう)を飾っているのではないかと、ふ
と疑われるほどだった。
 それを指さしながら、権中納言知盛は、
 「お心づよく思(おぼ)し召(め)せ。陸手(くがて)には、景弘の加勢
のほか、今また、美濃前司則清(みのぜんじのりきよ)の三百機を馳せ向か
わせました。海には山賀党、松浦党、伊予の仁井党、阿波の阿波民部が
船手など、いついかなる変にも処して戦う備えを欠いておりません。・・か
つまた、ここを守護し奉る船陣数百艘とともに、内大臣(おおい)の殿もお
られ、かくいう知盛もおりますからには」
 と、御所の坪に床几をおき、内なる女院や尼ノ君を力づけた。
 かれは、戦局迫るや、勅使待(てしまち)の自陣を引き払って、御所の
守りにすぐついた。そこで夜を明かそうの腹らしい。かれのみでなく、か
れより先に、総大将宗盛も近くの館(たち)を出て、その将座を御所の御
庭に移していた。しかし、女院も二位ノ尼も、知盛が来るまでは、姿も見
せずにいたのである。
 知盛の顔を見て、尼は、安心したらしく、
 「いざとなれば、あなた方はみな、敵の矢前に立って、働かねばなりま
すまい。もう、わらわたち足手まといの者に、後ろ髪を引かれてくださる
な」
 と、かえって、知盛らを励まして、そして、
 「ただ、みかど以下は、ここを動かず、御座(ござ)あらせ給うのか、矢
風を避けて、よそへ御動座を仰ぐのか、合戦に臨む前に、そこを明らか
に、お指揮しておいて給(た)も。-そのことさえ一定ならば、尼みずから
女房たちをさしずして、一切の始末、いちいち、諸卿のお心は煩(わず
ら)わせぬ」
 と、気丈にいった。
 尼には、もうはっきりと、ある心のすがたができている。この知盛にひび
かないわけはない。
 「・・・・・はい」
 ふとかれは、鎧(よろい)の身も、副将の任も忘れて、ただ一個の、人
の子の涙に、(ゆ)揺すぶられそうになった。
なぜここで、母を母と呼べないのであろう。もうじき死ぬ運命にあること
を、知り合っていながら、どうして、相抱いてはいけないのか。この世に
おける短いが濃い強い血縁(えにし)の名残を悲しんではならないのか。
 心の中で、かれ自身立ち惑っていた。答えは得られなかった。後ろに
は、郎党たちがひざまずいている。御垣(みかき)の外には、軍兵どもの影
が厚かった。みな血縁を世に持たぬ者はない。泣きたいのは自分だけで
はないのだった。知盛は自分の中に、すさまじい鬼霊(きれい)が生きて
いるのを感じた。冷たい鬼の血になり切って入る五体を鎧の下に覚えた。
尼の姿も、おなじであった。甘えて子が近づけるような、あのあたたかな
母のひざをもつ姿ではなかったのである。

 と、二人のそばへ、宗盛がずかずかと歩み寄って来た。
かなたの床几で、さっきから、尼と知盛のはなしを横耳にしていた総領
の宗盛だった。
 「おはなしの中なれど」
 と、宗盛は、尼と知盛とを等分に見て、
 「おたずねの儀は、一に合戦の成り行き次第と申すほかない。陸地へ
御動座あれば、安泰には似たれど、敵は海戦に出るまえに、陸兵を襲(
よ)せ、途々(みちみち)あの通り、兵火をほしいままに攻め下って参りま
する。・・・・・・・さすれば、赤間ヶ関も安泰ならず、彦島とて、古瀬戸
の守りは一つ。しょせん、主上を始め奉り、以下女房方まで、船上におわす
のが、もっとも、よろしいかと考えられる。のう、これは先夜も、黄門どの
へ、計ったことだが、其許(そこ)の御所存は、いかがあるの」
 かれとして、すでに腹にはきめているものを、わざと意見をただす風だ
った。
 当初、玉座の場所については、さまざま議せられたものだった。
 しかし豊後(ぶんご)には、源氏の三河守範頼(みかわのかみのりより
)がい、長門(ながと)も義経の麾下(きか)が先馳けして来る今となって
は、この彦島のほか、みかどの御座の地はどこにもない。が、宗盛とし
ては、ここさえ、不安らしいのである。
 万一、自身が海上に出て戦う日、あとの彦島で、みかどの御身を繞(めぐ
)って、どんな善意であろうと、自分の意思に反(そむ)く―たとえば
帝の御身隠しといったような策が―味方内で企まれないとも限らぬ、と
いう危惧があるのだ。かれのそうした猜疑は、櫛田の神主の密書と、原
田種直の帰国にからんで、一そう強くなっていた。
 「玉座のさだめは、大事中の大事、そこは総帥(そうすい)てる兄君のお
胸において、われらへ、おさしず賜わりませ。-こうせいと仰せあらば、知
盛に、なに異存がございましょうや」
 知盛は、そう答えた。
 原田の帰国にも、知盛は沈黙を守ってみていた。もう兄とは争うまいと
きめていたのだ。兄の猜疑する点もよく分かっている。まず兄の疑いに
ふれぬことが、全軍一致の前提とかれはしていた。
 「そうか、そういわれると総領の任は重いの」
 宗盛は、果たして、幾ぶんか、眼をやわらげた。そして尼の方へ
 「あるいは、お気に染まぬやもしれませぬが、玉座を陣頭に仰いで戦う
のと、後ろに残して、後ろ髪を引かれつつ戦うのとでは、士気の強弱に雲
泥の差がありまする。ほかならぬこの度(たび)の決戦、ぜひぜひお座
船は一門の船列と並んで海上へ進み出られ、すべての者と、興亡をと
もに遊ばすの御心を示し給わんことを、宗盛よりも、お願い申し奉(まつ
)る。-いやこれは、宗盛一存の望みなどではありませぬ、それが即、戦
いに勝つの軍略でもござりますれば」
 と、かさねていった。
 「わかりました」
 尼は、しずかに。
 「では、主上はお座船に。・・・・・・・そして、ほかの、あまたな女房
たちも」
 「たれかれとわず、みな女房船へ移させ、お座船の供奉申しあぐるがよ
いと思う」
 「乳のみ子を持つ女性もあるが」
 「それはそれの、心まかせとといたしましょう。要は、合戦の日、玉座は
中軍におき奉るということです。そのお心ぐみにて、はや何かの用意を」
 総帥の言は、すなわち、軍命といってよい。尼はもう何もいわなかった。
 起って、ほの暗い簾(す)の奥にその姿を隠した。
 尼は、典侍たちを女房の柵へやって、その旨を触れさせた。
覚悟は、女人もみなもっていたにせよ、いざ船戦(ふないくさ)のただ中
へ行くのかと思うと、土との生別、人との生き別れ、仮屋の灯や衾(ふす
ま)も、こよい限りかと、胸喘(せ)かれたちがいない。
 やがて、柵の内の、あちこちの簾や廂(ひさし)に、小さい灯影が、幾十
となく、揺れていた。
 雨夜のような濃いやみは、春の夜に見られがちな海気をふくんでい
るのであろう。灯の一つ一つが暈(かさ)を持って、ぽっと滲みあっている。
気配はあわただしげだったが、あくまで密かな物音が、仮屋仮屋の廂か
ら、外へもれてくるのである。
 おそらく、二百人近い個々の女性のしょう)たちが、にわかな身支度を
戸ごとの奥でし始めているのであろう。かそけき騒音の裡(うち)に、低い
私語(ささめごと)やらなんともいえない歔欷(きょき)の声もながれた。女
人特有なあの人の腸(はらわた)をかきむしらずにはおかないような忍び
泣きが一人や二人ならずどこかでするのであった。-が、またどことも
なく、湯けむりの影がはい、ほのかな脂粉(しふん)の香もただよった。
 暗いそよ風は、伽羅(きゃら)の匂いをもち、髪の薫りも伝えていた。思
うに、、そんな悲しみとあわただしさの中でも、かの女らはすぐ「-死出
の身浄(みぎよ)めを」と、にわかに髪を梳く(す)やら肌に香を忍ばせた
りしているのではあるまいか。船上へ移っては、化粧などのままならない
ことはいうまでもないし、「・・・・・・・これ最期ぞ(さいご)ぞ」と思え
ば、ありあう衣裳も惜しみなく身にまとい、肌着の下まで、死後の人目を考え
て、人に嘲(わら)われまいとつとめたことはいうまでもあるまい。
 -そうした気配は、柵一重の御所のみ庭からも、手にとるように分か
った。たれか断腸の思いを抱かずにいられよう。宗盛も知盛も、またそ
こにいた武者輩(ばら)の人影すべて、愁然(しゅうぜん)と、声もなくみな、
うな垂(だ)れていた。
 そのうちに、
 「や内大臣の殿は」
 と、かたわらの紀光季(きのみつすえ)の顔へたずねた。
 「-内大尽の殿には、にわかに床几を起って、どこへ何しに、走り行か
れたのか」
 光季は、黙って、女房の柵の方へ歩いてゆき、柵の境から、伸び上が
っていた。ややしばらくして戻って来、知盛の耳もとへ、そっと答えた。
 「-最前から御床几にあって、御落涙のていに見えましたが、ついに耐
え難くおなりになったのでしょう。女房の柵の内におわす北の方のお住居
へ、馳け入るごとく、姿をお消しになりました」
 「おう、それでは名残を惜しみにまいられたのだな」
 「そこには、まだおいとけない乙子(おとご)の君もおいでですから」
 「・・・・・御無理はない。・・・・・したが、今生の名残を惜しみたい
ものは、内大臣の殿だけではないはず。かかるうえは、女房の柵の内に、
妻子をおいてある者は、みな、つかの間なりと、最後の顔を見せに、参る
がよいぞ。-光季、諸陣の将士へ、そう触れまわしてやれ。母あるもの、妻
ある者、子ある者は、夜明けまでつかの間のうち、女房の柵へ来て、それ
ぞれ、別れを告げるがよいぞと」
 「あっ、ありがとう存じまする」
 光季は、自分のことのように、うれしげであった。すぐ四、五の郎党と
手分けして、島じゅうの柵へ、知盛の令をつたえた。また船上の人びと
は、小早舟(こばや)を漕(こ)がせて、暗い波間から、告げてまわった。

 の ろ し

 赤間ヶ関の辻の一箇所を固めていた美濃前司則清(みのぜんじのり
きよ)の部下は、怪しげな一人の男を捕まえて、則清の前へひいて来た。
 「こやつ、源氏のまわし者に相違ありませぬ。ここの市人(いちびと)で
もなし、旅人とも見えず、うさんな眼をして、伊崎の木戸をうかごうており
ましたれば」と殺気だっている兵たちは、その男を、踏んだり蹴(け)たり、
口も開かせないのだった。
 「まあ、待て。-いい分も聞いてやれ」
 則清は、部下の狼藉(ろうぜき)を解いて、
 「どこから来た。そちは?」
 と、まず訊ねた。
 「串崎のものでおざる」
 男は答えた。
 昂然(こうぜん)として、また。
 「串崎にほど近い小月(おづき)の住人、小月鮪太(おづきしびた)と申
すもの。今でこそ、名もない磯人(いそびと)でおざれど、以前は、老父と
ともに都へ出て、久しいこと、権中納言(ごんちゅうなごん)どのの、車宿
(くるまやどり)に、車雑色(ぞうしき)として仕えていたこともありまする」
 「なに、知盛卿の車雑色じゃと」
 「されば、六波羅、西八条を焼き払うて、御一門、都を落ち給うその日
までは」
 「それは嘘でないか」
 「偽りならぬ証拠は、こよい命がけで、串崎の仲間を脱(ぬ)け、ここへ
大事をお知らせに来たのをもって、お信じ給わるしかございませぬ」
 「と申す、大事とは」
 「敵の義経どのが率(ひき)いる水軍数百艘を、この眼で見申したゆえ、
驚破(すわ)、一刻も早く彦島へと存じまいて」
 「えっ。源氏の水軍を、眼で見たと」
 則清は、仰天した。
 なおまだ、敵は陸上から来る火の手だけと考えられていたのである。
 則清はすぐ、鮪太をつれて、伊崎の浦から彦島へ渡った。
 そこの海幅狭い渡し口が小瀬戸であった。
 島と伊崎の岸との間に、数条の太綱が懸け渡してある。武者船、馬船
、荷舟などの交通は、それを手繰(たぐ)りつつ絶え間もない。
 小瀬戸を守る新三位中将資盛(しんざんみちゅうじょうすけもり)に、わ
けを告げて、則清は、島内へ入った。そして福良(ふくら)の御所に、知盛
を訪うて来たのが、もう夜半も過ぎたころ。
 知盛の前では、鮪太の訴えも一そう詳細であった。
 -つい、宵のこととかれは語る。
 鮪太は、串崎の地侍(じざむらい)や神主(かんぬし)に狩り出されて、
ほかの屈強な若者とともに、櫓拍子(ろびょうし)をそろえて、串崎の北磯
へ、漕(こ)いで行った。
 見ると北磯の蔭には、大小六百の船群が、碇(いかり)を下ろしていて
い、磯にも、たくさんな武者がながめられ、何とも物々しい景色であった。
 ここへ来るまで、鮪太は何も知らなかったが、磯へ着くと、忌宮(いみの
みや)の神官だの主船司久忠(すせんじひさただ)などという土地(とこ
ろ)の有力者が「-ここへ漕ぎまわして来た串崎舟十三隻は、すなわち、
源氏の大将軍へ献上する物である」といい「おまえたちも、磯へ上がって、
判官義経どのに、お目通りを賜わるのだ。そして、あすの船戦(ふないく
さ)に、串崎男の腕を見せて、忠勤をぬきん出れば、立身出世は疑いな
い。出世したくば、命をなげうって、源氏のために戦いせよ」といい渡され
た。
 串崎の若者は、一人残らず、勇躍(ゆうやく)して磯へ上がり、義経の
床几のある所へ、拝謁(はいえつ)に向かったが、鮪太は、どさくさ紛れ
に、櫓座(ろざ)を立つやいな、山の方へ向かって、馳け出していた。
 どういうつもりもなかったが、幼少から親も自分も平家に仕え、わけて
自分の生れた小月の郷(さと)も、知盛卿の領地であった。領下の民は、
平家がこうなった今でも知盛卿のことを悪くいう者は一人もいない。
 鮪太が夢中で逃げた気持ちの中には、そういう日ごろのものが入り交
じっていた。そして走りつつ「いっそ、このことを、一刻も早く、知盛卿の
お耳に入れてあげよう。御恩報じに立つかもしれない」という気になった
ものだという。
 「-鮪太と申すか、よくぞ知らせてくれた」
 知盛は、礼をいった。
 自身の旧領土に、このような民が、今もいてくれたかと、うれしかったの
である。
 いや、より以上、鮪太の報は、かれの手順と戦略上でも貴重だった。-
義経のいる敵水軍の中心が、すでに目と鼻の先に来ていようとは、知盛
にさえ、意外であったのだ。
 鮪太の口から聞きえたところで想像するに、その水上陣容といい、義
経らしい周密な用意といい、こんど迎える敵は、かつての比でない強力
なものであることも、はっきりしてきた。あらためて、覚悟もすえ、それに
当るだけのの思慮と備えをもたないではと、かれの五体は固い皮革(ひ
かく)の下でもう脈々と血を搏(う)つのだった。
 「鮪太(しびた)早くこの島を去れ」
 知盛は、かれに褒美(ほうび)としてやる物がないので、身につけてい
た香袋を形見に与え、
 「そちには、老父があるという。漁夫(ぎょふ)、百姓(ひゃくしょう)は
しても、ふたたび武家奉公はすなよ。早く行け、関の辻の通れるうちに」
 と、追い返した。
 知盛は、柵を出て行く鮪太の影を見送った。そしてその後ろ姿にふと制
止できない羨望(せんぼう)を覚えた。かれは自由であるということだった。
かれの帰ってゆく先には、軒傾いた小屋と腰の曲がった老父がいるだけ
であろうが、そこには生々としてなんの拘束もない土壌の青い物や水車
やまた海の色や太陽が待つであろう。-ああ、かつて栄花といわれたも
の、高き位階と仰がれたもの。あれは何か、なんの幻だったのか。
自嘲(じちょう)せずにいられない。
 「・・・・・・・・」
 自信嘲笑(あざわら)う知盛の顔は、いつか、夜明けの薄明りの下にあ
った。ーこの朝、二十三日。義経の水軍は、串崎の鼻を迂回し、満珠千
珠の二島をかわして、壇ノ浦の水路をうかがい、潮の早さや、豊前、長門
の岸の気配を、ひそかに瀬ぶみしていたのである。

 夜は白みかけても、女房の柵は、まだ墨のようだった。暗い涙の海の
ままだった。
 -つかの間の別れを惜しめよ。
 -今生の名残をかたらい合えかし。
 と、許しの触れがすべての者へ出たので、やみの道を、思い思い足を
早めて来る人影がひとしきり絶えなかったが、その跫音(あしおと)も途
絶えると、あとは、果てない哀別としじまの底に、おりおりの小さい物音や、
咽(むせ)び泣きが聞こえるだけであった。
 およそ、内大臣(おおい)の殿の妻子をはじめ、一門公達(きんだち)の
肉親やら、侍大将らの妻女も、みなこの柵にいたが、極く.身分の低い、た
だの士卒の妹やら妻女なども、下級の局仕(つぼねづか)えをしていた
のである。当然、その者たちも、別れに来ていた。
 また、北ノ方とか、側室とかいわれていないまでも、ひそかに、契りあ
ってきた恋人同士は、ゆるされたこの一刻(ひととき)を、命かぎり抱擁
に燃やしあって、暁が迫るのも覚えぬ姿を打ち重ねていた。
 が、知盛だけは、そこにいる妻子へ、顔を見せ行くひまもなかった。
 -なかなか宗盛が戻って来ない。それにつぎつぎと、勅旨待(てしまち
)ノ浦から海上の物見が、報をもたらして来ていた。さらに、小月鮪太の
訴えを聞きなどしているうち、空は明るんでいたのである。
 「光季、光季」
 「はっ」
 「もうお名残もおすみであろう、内大臣の殿に御催促申して来い。みか
ども、お眼ざめの気はい、女院にも、はや玉座にお姿を見せておられる。
-かつは、敵の九郎義経が水軍は、ゆうべから串崎にあり、けさのうご
きこそ、油断ならじと」
 「心得てござりまする」
 紀光季(きのみつすえ)は、女房の柵へ馳けて行った。そしてわざと大
声で、知盛のことばのままを、そこから怒鳴った。
 われに返って、暁を知ったのは、ひとり宗盛だけではない。局々(つぼ
ねつぼね)、軒ば軒ばに、男女の影が、にわかにうごいた。二度と会うこ
とのない後朝(きぬぎぬ)を惜しみ合う影ばかりだった。その袖を振り切
って、たちまち、柵の内から外へ馳け去ってゆく武者もあったし、名も見
栄もなく、なお未練を断ちえないでいる男女もあった。どこかでは、嬰児
(あかご)も声がし、どこかでは、わが良人(つま)よ、我が妹背(いもせ)
よ、と呼び交う悲鳴に近い声もする。-すべてまだ暗い朝靄(あさもや)の
中だった。陽は昇りかけながら、明け悩むかのようなけさであった。
 すると。ー豊前がわの陸影の岸。
 ちょうど、文字ヶ関の後ろにあたる峰の一つから、まっすぐ狐色(きつ
ねいろ)の煙が立ち昇った。
 「のろしだ」
 と、島じゅうの眸(め)が、すぐ見つけていた。
 海峡の口に、何か、異変がみとめられたら、すぐ合図をせよと、かねて、
のろし番の哨兵(しょうへい)をその峰においてあったのである。
 「すわ」
  と、ここの福良(ふくら)でも、どよめき立ち、
 「敵ぞ。敵の水軍が襲(よ)せてきたにちがいないぞ」
 と、天颷(てんぴょう)のような戦気にすべてが吹かれた。
 その文字ヶ関の沖に、一陣の戦列を敷いて、早鞆ノ瀬戸の口を、不断
に見張っていた松浦党の一将、呼子兵部少輔清友(よぶこのひょうぶし
ょうゆきとも)は、櫓立(とだ)て十二挺(ちょう)の小早舟(こばや)やを
飛ばして来て、
 「敵、九郎義経どのの水軍、およそ六、七百隻、いよいよ見参に入りま
しょうず」
 と、知盛の前に告げた。
 「来たか」
 知盛も、さすが大きな呼吸をした。
 「-して、まっすぐに、この暁の満潮(みちしお)を見つつ、早鞆ノ瀬戸
へ、向かって来るようか」
  「いや、さわにはにわかにも進んで来る様子ではありませぬ、万珠、干
珠の二島と壇ノ浦の東のあたりまでを、おびただしいその船影が、遊弋
(ゆうよく)しておりますが」
 「進みもやらず、退きもせず、あの辺りの海上を?」
 「あるいは、そこから、船上の武者を岸へ上げ、まず陸の寄手(よせて
)と一つになって、火ノ山の高所を攻め潰(つぶ)さんとするものかとも思
われますが」
 「それもあろう」
 知盛は、突っ立って、いちど、何か衝動のまま動こうとしたが、また床
几へ腰をもどして、
 「惜しいことだ。今から出勢では、ちと遅い」
 と、つぶやいた。
 そして、呼子兵部へいうには、
 きょうこのごろの暁は、満々として漲(みなぎ)りみゆる満潮だが、およ
そ、今より一刻(いっとき)(二時間)を過ぎなば、潮は急流のごとく、東の
内海に向かって、落潮(らくよう)を現わし始める。-敵が、その潮時(し
おどき)もわきまえず、潮に逆ろうて来るならば、百艘千艘の陣も、手に
唾(つばき)して、一挙に海底へ葬(ほうむ)り去ることもが難くはない。
・・・・だが相手は、九郎判官どのよ、そこはおそらく抜かるまい。さは、う
かつに、盲進してくるわけはない」
 と、自問自答して、何か、べつな手段を思いめぐらす容子だった。
 「それよ、敵の義経どのが、今暁、影を見せたのは、あらかじめ、潮の
速さや、満(み)ち干(ひ)の時刻、渦潮(うずしお)の場所など、戦いの前
に、見ておこうの腹であろう。おそらく、きょうは合戦の腹ではあるまい。
-まず、お汝(こと)ら筑紫勢の船をもって、備えのみを示して置け。敵
は間もなく、元の串崎へ退き下がるに相違ない」
 下知を与えて、呼子兵部を沖へ帰すと、知盛はすぐ床几を離れて、行
宮(あんぐう)の御廂(みひさし)の方へ歩いてゆき、階(きざはし)の下に
ひざまずいた。
 「お召しでございますか」
 そこの広縁から、二位ノ尼が、かれを呼んでいたのである。
 かの女のうしろは、玉座であった。御簾(みす)を透して、みかどと、女
院のお姿も、内に見えた。
 「黄門どの」と、尼は、もいちど、あらためてかれを見た。おそらく、一睡
(いっすい)もしていなかったのであろう、その皮膚は、朝の艶もなかった。
薄化粧はしていたが、瞼(まぶた)は腫(は)れ、その眼のふちは、うす黒
かった。
 「みかどの渡御(とぎょ)は、いつなりと、はやお身まわりの儀も、すみ
ました。-が賢所(かしこどころ)のお遷(うつ)りには、守護陣の奉行は
たれぞ。また、お座船の方も、ご用意はととのうておりますか」
 「悉皆(しつかい)、手落ちはないと存じますが」
 「・・・・存じますがというて、あなたは、供奉(ぐぶ)しておいでになら
ぬつもりか」
 「知盛は、先陣を承(うけたまわ)りますゆえ、合戦ともならば、ただちに、
乱軍の中へ、つき進まねばなりませぬ。-やまやま、お側(そば)にあっ
て、御守護申しあげていたいとは存じますが」
 「では、お座船へは、たれが」
 「申すまでもなく、内大臣の殿が」
 「宗盛土どのがか?」
 「総大将軍、また御総領の君として、それは当然でございましょう」
 「ではおん身とも、けさ、これきりで、もうお目にかかれませぬか」
 「・・・・いや。・・・・・・まだ、しばしは」
 知盛は、片手を地へ落し、つい片方は、両の瞼をおさえてしまった。
 尼も、御簾の蔭の女院も、しばらく、袖に顔を埋(うず)めていたが、
 「ゆうべからおん身のみは、ついに女房の柵へ別れを告げに行かれた
御様子もない。・・・・典侍の一人にいうて、あなたの和子と北ノ方を、あ
れへお連れ申しておきましたぞよ。よそながら、一目でもお顔を見せて
あげたがよい。渡御までには、まだ間もあろうに」
 とわきの小部屋を指さした。
 知盛は、はっと、眼をそこへやった。いとしい者の姿があった。妻の黒
髪と七ツばかりの童女が簾の蔭に見えた。いっそ、見ずに死のうとして
いた胸が、いちどに、なだれを打って、かれの鎧姿(よろいすがた)を、た
だの父、ただの良人(おつと)その者にした。
 けれど、そこの階を上がってゆく暇もなかった。なぜなら、おりもおり、宗
盛以下、大勢の侍大将が、賢所の守護陣と、みかどのおん輿(こし)を
舁(か)く者たちを従えて、御庭(みにわ)も狭しとばかり、ここへ入って来
たからである。
 宗盛のさしずの下に、守護陣は「いざ、いざ。おん輿へ」と、殿上へ御
催促のかたちを示した。すると、知盛が起って、かれらの粗暴をしかるよ
うに止めた。


































女房(にょうぼう)の柵(さく)

 尼御所の建物に隣して、かなり広い地域にわたる女房の柵(さく)とよ
ばれる一劃(いつかく)もあった。
 みかどと女院の側近くに仕える典侍から雑仕女(ぞうしのめ)までの、女
人ばかりが一かたまりにおかれていた。また、一門の幼い姫君や上臈(じ
ょうろう)や各大将の北ノ方なども、漁夫の家にもひとしい仮小屋ながら
おのおの棟をべつに住んでおり、それぞれの局(つぼね)長屋や目童(め
のわらわ)をかかえている。-いわば敵に一矢(いっし)を射る戦力すら
ない者ばかりがいる待避の柵といってよい。
 夜々の暗い潮鳴りは、ここの柵を仮借(かしゃく)なく吹きめぐった。そ
して「戦近し」と潮(うしお)は告げ、「恐(こわ)らしい坂東(ばんどう
)男の水軍が、はや周防灘まで来ているぞ」と、気が気でないものの如く
女房小屋の廂(ひさし)を打って教えているようであった。
 けれど、ここの一劃だけは、浦々の武者が揺れ騒ぐ夜も、しいんとして
いた。-おりに乳のみ児の泣き声がどこかでするほか、灯影のもれもつつ
しんで、ひっそリしたままだった。おそらく、ここが悲鳴と狂乱に落ちる日
は、彦島最後のときであろう。それほど、かの女たちは、眼のまえの運命
に無力であった。霹靂(へきれき)の下にただうつ伏しているときの観念に
も似て、何もかもただ天命視していた。
 八歳のみかど、二十九でしかないお若い国母も、ここにおいでなのだ。
かの女らはそう思ってじっと生命(いのち)の怯(おび)えに耐えあってい
る。けれど夜更けて泣く嬰児(あかご)の声を聞くとたまらなくなって、どこ
の灯影も人影もすすり泣いた。そして、「なんと罪ふかいことであろう。い
っそ産まぬものならば・・・・」と、みな思った。
 こういうことになり果てようとはたれも考えていなかったので、都落ちの
おり、平家の大将たちは、あらかた妻子をつれて出たし、二位ノ尼にして
も、姪(めい)やら孫姫などの、可愛い者たちほど、もれなく連れていたの
である。自然、以後三年間には、一門の妻室に嬰児も産まれ、もうはって
立つ年ごろの子もいたし、まだ乳を離れぬ生後わずかな子もいたのだった。
 国母建礼門院と、二位ノ尼とはべつにしていったい、平家の女房群と
は、どういう人びとであったろうか。-一ノ谷の合戦直後、良人(おっと)
の通盛(みちもり)の戦死を追って、妊娠(みおも)でもあったのに、船か
ら入水して果てた小宰相(こざいしょう)の局(つぼね)などは、そのことで、
語り草に残っているが、多くはほとんど知れていない。
 今、ここの女房の柵にある人びとでも、ほぼ分かっているのは、

  臈(ろう)の御方(清盛の娘。花山院殿の室)
  治部卿ノ局(知盛の妻の妹)
  大納言佐(だいなごんのすけ)ノ局(中将重衡の妻)
  按察(あぜち)ノ局(不明)
  帥(そつ)ノ局(兵大納言時忠の妻)
  北(きた)ノ政所(まんどころ)(摂政基実に嫁したことのある女性)

 ぐらいなものである。
 しかし名は知れずとも、知盛にも幼い姫があったし、門脇(かどわき)ど
の(教盛)にも二人の妙れいな息女がある。北ノ政所や花山院殿の奥方
のように、いちど嫁(とつ)いだ先を去って、一門と運命をともにして来た
女性も少なくない。また典侍、命婦(みょうぶ)以下の女官には、侍大将
の娘や姻戚(いんせき)の女子も多く、縁は遠いが一門のつながりではあ
るさくらノ局とか、また、かの玉虫のような、一門の端でもない、たれの娘
とも知れない、孤独な淋しい女性もふくまれていたことであろう。
 ところで、その晩は、三月二十日の宵ごろであったが、さくらノ局は、
 「-内大臣(おおい)の殿のお召しです。ちょっと、そこまでお歩(ひろ)
いください」
 という迎えをうけて、女房の柵から連れ出されていた。
 かの女は、迎えの者を見たせつな、さっと顔いろを失った。内大臣の殿
と聞いたからである。
 わななきながら、かの女は「・・・・・・こんな夜陰に」と、渋って見せ
「尼ノ公(きみ)に、お伺い申さいでは?」と、いい逃げようとしたが、使いに
来た飛騨四郎兵衛(ひだのしろうびょうえ)は、
 「それには及びませぬ。急いでとの、おいいつけじゃ。お気短なあの殿
のこと。おん身化粧などはそのままでよろしい。被衣(かずき)でも召され
て、すぐおいであれ」
 と、待ったなしの催促だった。
 ぜひなく、被衣をかずいて、かの女は四郎兵衛景経とその郎党たちに
ついて行った。生きたそらもない影であった。
 かつて、紀州にいたころは、湛増法印(たんぞうほういん)の寵愛(ちょ
うあい)と、周囲の力をかさにきて、その才気と勝気を誇っていたかの女
も、今は窈窕(ようちょう)の美も意気も、みじめなまでに、やつれていた。
-古い諺(ことわざ)にある、女賢(さか)シウシテ売リ損フというあの言
葉どおりなかの女であった。
 余りに、自分の美貌(びぼう)と才に恃(たの)むところの多かったかの
女だけに、見事、湛増から逆な打っちゃりをくっていたと分かったときの気
崩れは、はたの見る眼も気の毒なほどだった。一夜に色香も褪(あ)せ、女
らしさの地肌もそれから荒(すさ)びていた。
 -無理はない。平家へ味方しようとかの女へ堅く(かた)く誓った湛増は、
その田辺水軍をあげて、源氏方の一翼として屋島沖へあらわれた。しか
も、その屋島では、一門大勢の中で、かの女はさんざん、内大臣の殿か
らののしり辱(はずかし)められた。-もしあのおり、二位ノ尼が、見るに
見かねて、庇(かば)ってくれなかったら、宗盛のため、成敗されたか、海
中へ突き落とされて、きょうのいのちは、なかったかもわからない。
 で、それからというもの、かの女は、宗盛のあの顔が、瞼(まぶた)につ
いて離れなかった。御総領とか、内大臣の殿とか、人の口端に聞くだけ
でも、膚(はだ)に恐怖がはった。-ましてこよいはその人の乳人子(めの
とご)たる四郎兵衛が、直々迎えに来たのである。陣館(じんやかた)ま
での暗い小道を行く被衣が、人知れずわなないたのも、無理はなかった。

 おそらくかの女は、途々(みちみち)も「なんの召しか?」を恐れつづけ、
そして、屋島でうけなかった成敗を、こよいこそ、果たされるのかも知れ
ないと、死の淵(ふち)へ歩む思いだったにちがいない。
 が、仮屋の幕(とばり)には、そんな死の匂いもなかった。やがて出て来
たのは、宗盛一人で、郎党も遠ざけ、 
 「宵のころ、三名の者が、尼御所へ伺い、しめやかに密談していたこと
を知っていよう。知らぬとはいわさぬ。そなたは二位どののお側におかれ、
わけて屋島以来は、一きわ、お目をかけられている者」
 という案外な訊(たす)ね事(ごと)であった。
 胸撫で下ろしたよろこびの余りに、さくらノ局は、いわでもがなことまで
しゃべった。
 知盛、資盛、原田種直の三名に、女院まで加わって密談のあったこと
は、かの女も知っていたが、どんな話が行われたかは、もとよりそこにい
た者以外、知るよしもない。
 けれど、三名が帰ったあとの様や、尼と女院とは、重ねてその後で、何
か話したか否かなど、宗盛の訊くにまかせて、かの女はためらいなくなん
でも答えた。
 女特有な饒舌(じょうぜつ)のなかに、宗盛は、求めていた何かを、確か
めえたものとみえる。
 「よし・・・・・」
 と、とつぜん質問を打ち切って、にゅっと、にぶい笑いを見せた。
 そして、ぶよぶょした顔の肉や瞼の皮に、微かな痙攣(けいれん)さえも
って、
 「さくらノ御(ご)」と、息をつめ、
 「そなたの一命は助けてやろう。かつての罪も忘れてやる。そん代わり
にだ・・・・。二位どのお眠りを見とどけて、わしの命じることをし遂げて
来い。もし、して戻らねれば、再び四郎兵衛を向けて、刺し殺すぞ。よいか、
早くして参れ」
 と、かの女を、外へ放してやった。
 それからかの女は、半ば自分を失なっていた。尼御所へ帰り、尼ノ公
の眠りをうかがって、昼の居間へ忍んではいった。そして尼の手筥(てば
こ)から、一書を持ち出し、ふたたび、宗盛の許へ、走り戻って来たので
ある。
 宗盛は、待っていた。
 猟人が猟犬のくわえて来た物を見た時のようなかれだった。さくらノ局
の手から、一書を受け取るやいな、かがり火の下へ寄って、
 「・・・・・これだ。・・・・・案にたがわず」
 自分の猜疑(さいぎ)があたっていた満足さを眼にたぎらせ、仔細(しさ
い)にそれを読み出した。
 それは、櫛田(くしだ)の神官、祝部(はふりべの)宮内大夫(くないた
いふ)が、博多、大宰府などの与党と計って、同郷の大将原田種直へ寄せ
てきた例の書状であった。
 書中には、お身隠しの秘宝とか秘授とかいう隠語をもっていってあるが、
その意味は、孤立の陣から幼帝を救出して、九州の山か海の極みへ、蒙
塵(もうじん)を仰ごうという献策にあることは、宗盛にも、すぐ読みとれ
た。  
 「よういたした、さくらの御、褒美には、約束どおり一命を助けてとらす。
・・・・四郎兵衛、四郎兵衛」
 手早くかれはその一書を鎧(よろい)下着の奥深くへ収めながら、幕の
蔭へ向かって呼んだ。
 そして、四郎兵衛景経の顔へ、
 「この女を、小舟に乗せ、東の小さい名なし島へ、捨てて来い」
 といいつけた。
 四郎兵衛は、怪しんで。
 「名なし島とは、あの漁夫の小屋の一つしかない、船島のことでござい
まするか」
 「そうだ。かしこには先に、二股者(ふたまたもの)の時忠どの父子も
送り込んである。無用な人間の捨て場には恰好(かっこう)な離れ小島で
あろうが。-この女も、まことは、斬って諸人のみせしめに示したいところ
だが、こよいのことにめんじて、まずは、人捨て場に捨ててやるのだ。もう
尼御所へ帰してはならぬ、夜のうちに、捨ててまいれ」
 「心得まいた。・・・・・では、さくら御」
 四郎兵衛は、かの女の側へ寄って、むずと、腕を取って引っ立てた。何
か口走って、もがきをやめぬかの女であったが、宗盛の姿は、いつのまに
か、もうかの女の前にはいなかった。

 筑紫(つくし)の紅白(こうはく)

 小松資盛(こまつすけもり)は、夜半を過ぎたころ、火の山から駒を引
っ返していた。
 自身、彦島を出て、赤間ヶ関の守りを見、また、火の山から豊浦(とよ
ら)方面の情勢をたしかめて、ひとまず引っ返してきたのである。
 いずれ、源氏方も、その水軍と併行的に、陸上隊を先駆させて、まず沿
岸の要地を奪(と)ろうとして来るであろう。
 という作戦は、極めて定石的ではある。しかし、いかに奇略な大将がい
ても、陸地に足場をもたない船隊だけの海戦などは成り立たない、行い
うるはずがない。
 大小すべて木造船なのだ。動力といっては風力と櫓楫(ろかじ)だけで
ある。船かずが多ければ多いほど、陸地への依存もその必要度を大きく
する。
 で、当然、平家方にしても、陸上の備えを欠いてはいない。
 けれど、義経軍だけが、防禦(ぼうぎょ)の対象ではなかった。九州の一
端には、三河守範頼(のりより)の大軍もいることだった。かなりな兵力は
それの抑えにも割(さ)かれている。
 が、船上兵力と彦島の守りは、これを手薄にするわけにゆかなかった。
当然、そのうえでの陸上の計であった。-彦島口の小門、伊崎、また赤
間ヶ関の辻々から、火の山、秋根、豊浦へかけてまで、百騎、二百騎ず
つの小部隊を各所に派して、その固めとしていたのである。しかし、余り
に地域は広く、分散のかたちにもなり、勢い防御線の薄さとなったのは、な
んともやむをえなかった。
 「-資盛、火の山より、ただ今馳けもどりました。黄門どのには、お眼ざ
めでございましょうや」
 もう夜明け近かったが、宵の約束もあったので、資盛は彦島へもどると
すぐ、知盛の陣地へ来て、内の兵へ告げた。
 知盛は、眠っていた。もちろん、具足も解かずにである。すぐ起きて、み
ずから迎え、「-お待ちしていた」と、床几を対して、かれの報告に耳をか
たむけた。
 周防境の物見が屯(たむろ)している火の山で資盛が聞き集めて来た
ことはこうであった。
 源氏の陸上隊は、さして大部隊ではない。
 けれど、その中には、金子十郎、畠山重忠、鎌田正近、熊谷直実など
の名も聞こえる。
 かれらは、柳井津(やないづ)で義経とわかれ、途々、平家の郡家(ぐう
け)や、平家色の郷人を仮借なく掃討しつつ、降る者は麾下(きか)に加
えて来るという風なので、初めの小勢も、海峡の関へ近づくにしたがい、意
外な兵力と化して来るかもしれない。
 そして、それの襲来と、味方の備えとを比較して、
 「ぜひもう一倍、陸(くが)の兵を増しおかねば、安しとはいえません。
それも、急を要しまする」
 と、資盛は、つけ加えた。
 「おう、陸こそ大事だ。そこも破れなきように防ぎおかねば。・・・・だ
が、たれを加勢に差し向けたものか」
  「厳島より馳せ下った安芸守景弘どのはいかがでしょう。父子ともに、
それがしの手の小瀬戸の柵におりますれば」
 「む。あの組は、六百騎よな」
 「そうです。御総領や能登どのの下には、屋島から移った将士がその
まま、あまた控えておりますが、内大臣の殿と御談合のうえならでは、そ
れの移動はかないますまい。とこうする間に、半日過ぎ、一日過ぎと相な
っては」  
 「いかにも、機は外(はず)せぬ」
 知盛は、意を決した。
 「では、景弘父子へ、赤間ヶ関の固めに移れと、和殿から令を伝えてくれ
まいか」
 「うけたまわりました」
 資盛は、すぐ立ち帰った。
 すると途中、何を感じたか、まもなくまた、かれの姿は、元の柵門の外
へ帰って来て、
 「黄門どの。今暁の島の内、ただごととも思われませぬ。-筑紫の党か
ら、離反が出たとか、いや喧嘩(けんか)にすぎぬとか、諸陣にていい噪
(さわ)いでおる様子。いかなる間違いか、人をやって、お糺(ただ)しあ
ってはいかが」
 と、大声で内へ知らせた。そしてかれ自身は、小瀬戸の方へ、そのまま
馬を飛ばして去った。
 
 大宰少弐(だざいのしょうに)原田種直の仮屋は、島の南端、田の首の
浦にある。
 筑紫(つくし)ノ組(くみ)と呼ばれていた。
 山賀党、松浦塔などの筑紫組の多くは、船上にあったが、原田党だけ
は田の首に営をおいて、本軍と海上との連絡や補給の継ぎ目になってい
たのである。
 夜明け方であった。
 そこの営所へ一隊の将士がどやどやと混み入って来て、「少弐どのに
は、まだ寝所か。寝屋(ねや)はどこか」と、たずねまわり「原田どの、出
られよ。内大臣の殿の召さるるぞ」と、大声で呼ばわったりした。
 その様子が、いかにも無礼であり、荒々しい。種直の家臣らは、不審に
思って、
 「お迎えならば、異議のう罷(まか)るものを、何ゆえのお騒ぎ立てぞ」
 と、問いただすと、一人の将は、
 「御諚(ごじょう)なれば、御諚のままに振る舞うのみ。委細は、福良
(ふくら)の御所へまかれば知れよう疾(と)う疾う、われらとともに参ら
れい」
 と、一そう威猛高である。
 はしなくも、味方喧嘩となりかけた。双方とも気は立っている。あわや血
も辞さないものが見えた。
 騒ぎを知って、種直もここへ姿を見せ、部下をなだめるのに骨を折った。
柵の附近から浦へかけて、廃船の残骸(ざんがい)やら食糧の俵や苞(つ
と)やら、軍需の物が、山をなして散らかっていた。その中でのできごとで
ある。ひとたび、同士打ちでも始めたら、収拾はつかない。
 「おそらく、何かのお間違いであろうよ。お目にかかれば分かること。構
えて、雑言をつつしみ、種直が帰るを待て」
 いい残して、かれは、迎えの将士に囲まれて行った。周囲三里の島だ
が、田の首から福良へは北の小高い岡を越えて行き、道もさして遠くはな
い。
 福良の陣館の柵をはいると、種直の身辺には、一そう武者たちの厳戒
的な眼がつきまとった。しかも、通されたところは、幕の床几ではなく、ふ
だん武者だまりとなっている大床(おおゆか)であった。
 正面には、宗盛が着座してい、めずらしく修理殿どの(経盛)や門脇ど
の(教盛)まで居ながれている。-また横の列座には、侍大将たちの首座
に、能登守教経が、きびしい気色を眉に沈めて、すわっていた。
 「・・・・・・?」
 これはなんたる景色か。
 種直は、大床のまん中に、円座(えんざ)も与えられず、じかに引きす
えられた。すでに科人(とがびと)の扱いなのだ。そして、これは吟味の座
のかたちではないかと疑う。
 身に吟味をうける後ろめたさは何もない。乱れまいと、かれは自分をな
だめていた。
 「小卿(しょうきょう)」
 宗盛が、呼びかけた。冷やっこい声である。-忌(いま)わしげに、そう
いう人を見る種直の眼と、宗盛の眼(まな)ざしが、無言のうちに闘った。
 種直には、何か、そのとき、心に読めたものがあった。腹をすえねばな
らないと感じた。
 「御辺と平家とは、久しいものだが、つい御辺も、この期になって、われ
ら一門を裏切りおったな」
 ことばは穏やかである。宗盛は、激していない。
 おそらく、宗盛から一門の諸卿へ、内輪の話はすんでいたにちがいな
い、種直には、そう思われた。
 「心外な御意(ぎょい)を伺いまする」種直も、静かに頭を下げてー
 「裏切りなどとは、ゆめ、覚えのないこと。かつは、原田党として口惜し
き儀にぞんじまする。身の恥(はじ)は忍ぶもよし、末代子孫までの汚名
は堪忍(かんにん)なりませぬ。仔細(しさい)を仰せ給わりましょう」
 「お。いわいでか」
 宗盛は、眼の隅から、横の座へ、
 「能登どの。見せてやれ」
 と、いった。
 教経が、取り出したのは、櫛田の神官宮内大夫の密書であった。「おそ
らくは、そのこと」と、種直も察していたので、べつに驚く色もなかった。
 「小卿。それに、覚えなあろうが」
 「まさしくそれがしへあてたる書状。が、これになんの御不審を」
 「文中に、お身隠しのに秘授とあるは、そもなんの意味ぞ」
 「お判じにまかせまする」
 「筑紫の郎党どもとしめし合わせ、主上のおん身を、奪い奉らんとする
謀(はかり)であろうが」
 「おことばじりを取るには似たれど、主上を奪い奉るとは、余りに下種(げ
す)な御推量かと存ぜられる。筑紫人(つくしびと)たちのひそかな願いは、
栄花にあらず、天下の権にも候わず、あわれ、おん八ツの帝(みかど)と、
おいたわしき寡婦(かふ)の女院を、ここの修羅(しゅら)より救いまいら
せ、いずこなりと修羅なき世界に、せめて安けき御余生をお過ごしあらば
という憂いのほかのものではおざらぬ」
 「それ見たか」-と宗盛は、いきなり指つき出して、種直の顔を指さしな
がら「-いわじとしつつ、小卿が、みずから泥を吐きつるは。まだ、源氏の
船影も見ぬうちに、この小卿めは、平家の敗け戦をきめておるのじゃ。さ
すれば、いかなる企(たくら)みを腹の底に持ちおるや知れたものではな
い」
 ようやく、かれは持ち前の、体揺るぎをして、その声も、甲高(かんだか
)になった。
 「かかる者を、獅子(しし)身中の虫というぞ。内より平家を崩そうと企む
憎いやつ。一門浮沈の合戦を前にひかえているおりもおりよ。きっと、極
罪に処して、軍兵どもの見せしめにせねばならぬ」
 すでにその処分は決められていたのであろう。かれの怒喝(どかつ)を
あいずに、教経の部下が、一せいにみだれ起って、種直の身を囲み、う
むをいわさず縄目(なわめ)をかけようとした。が、騒然たる床ひびきを破
って、同時に、まったく違う峻厳(しゅんげん)な気のこもった別人の一喝
(いつかつ)もどこかでしていた。-その声の主は、列座のうちでなく、か
なたの廊の口に突っ立って、二つの巨大な眼でこの場を睨(にら)むがご
とく見ていたのであった。

 「や。-黄門(こうもん)ノ卿(きみ)か」
 一瞬、ひそとなった。
 そういった宗盛は、教経へは眼をやらずに、ずかずかと、種直のそばへ
よってきた権中納言知盛は、たじろぎ惑うそこらの武者を、
 「慮外すな〉
 と、睨(ね)め退(すさ)らせて、
 「少弐どの、ゆるされよ。櫛田の宮内大夫が書状を、尼ノ公へ見せよと、
尼御所へ御辺を誘うたのは、この知盛であった。そのことが、罪状なれば、
知盛こそ、罰せられねばならぬ」
 といった。
 さらにきっと、正面へ向かい直って、
 「お憎しみあるな、原田小卿(はらだのしょうきょう)は、またなき正直者
でおざる。もし深き謀りのあるものならば、なんでさような密書を、わざわ
ざこの知盛へ示しましょうや。知盛こそは、たとえ一門ここに亡び果つる
とも、故入道どのの怨敵(おんてき)頼朝の代官を迎え、一戦を遂げでや
あると、かたく誓うておる者なること、およそ同陣の人なれば、知らぬは
あるまい。-その知盛へ、私事(わたくしごと)の書面まで見せに参った
小卿は、およそ正直な仁ではおざるまいか」
 「・・・・・・・・・・・・・」
 「なお、尼御所の内へ、その書状を、持参したのも、知盛が分別、知盛
がさしずでした。なぜなれば、太宰府、博多ノ津などの平家を思う人びと
が、憂いの余り申し越せし献言も、まちがえば、彦島の守りに、揺るぎを
呼び、異端やある、異心の者やあると、味方同士の疑いとなりましょう。
-されば、尼ノ公のお手に収めて、人にももれずあるならばと、たれにも
秘して、お預け願うたわけでおざる」
 「・・・・・・・・・・・・」
 「さるを、物好きな。たれが、尼ノ公のお手許より、さような物を持ち出
して、わざわざ、衆座に披露し、かつは三軍の士気を、いたずらに惑わし
給うか。・・・・・が、それもまだよし。見すごしならぬは、平家の功臣原田
少弐種直に、縄打たんとする狂気沙汰です。種直ほどな功臣すら、あら
ぬ汚名の下に、縄目をうけたるよといい合えば、平家のためには死なん
としているほどな者も、みな志(こころざし)を失うであろう。種直に、罪は
ない。
種直に向かい、改めて、内大臣の殿より、ゆるすと、仰せ出しあってしか
るべしと存ぜられる」
 「ば、ばかな」
 宗盛は、少し声をふるわせた。弟のくせに、という感情もある。
 「やよ、黄門どの。しきりに、其許(そこ)は小卿をさして、平家の功臣な
どと申すが、原田がなんの功臣ぞ。大宰府少弐とまでなったのも、ひと
えに、故入道どののお引立てではないか。さるを」
 「あいや」と、知盛は、静かに抑えて、「修理どの、門脇殿、一門の長上
も見えらるる中、功臣などと申す語を、いたずらには吐きませぬ。-そも
そも、九州の天地に、今日まで、なお平家を思う加担人(かとうど)を、諸
所に残しておるのは、原田小卿が、苦節の賜物のです。その種直が、変
らぬ心は、かつて寿永二年の秋、一門筑紫にさすらい、みかどは種直一
族の岩戸ノ館を仮御所として雨露をしのがせ給うたおりのーあの真心な
奉仕に見てもわかりまする」
 「・・・・・」
 知盛のそばで、突然、咽(むせ)び泣く者があった。たれでもない、知盛
に弁護されていた種直であった。
 おそらくかれは、こう感じたのであろう。「ただ一人の知己がここにあった。
生涯を平家に仕え、無数の平家人と相知ってきたが、自分を知ってくれた
人は、一人であった。それでいいのだ。ただ一人でも知己のあったことを望
外としよう、もうこれで、生涯の満足は得たのだ」と。
 知盛や、また、同座の門脇どのの扱いなどで、かれはその日の危うい
縄目からは救われた、しかし、ゆるしたとはいっても、内大臣の殿が、腹
から解けない顔つきは分かっていた。
 表向き追放という命が出たわけではないが、種直はその日のうちに、み
ずから少数の一族だけを連れて、彦島を去った。筑紫の岩戸へ帰国した
いと願って、自身の船で、田の首から玄海へ去ったのだった。
 船上から見える筑紫の陸影は、この老将の胸に、自己の歴史をふりか
えらせた。
 平家を慕う者が、なお諸所に隠れているといっても、今や九州の野は、
ほとんど、源氏の天地になったものといってよい。
 その胚子(たね)は、遠いむかし、都で、保元の乱があったときに、発祥
(はつしょう)していた。
 暴れン坊のため、この地へ流されてきた源為義の八男、鎮西八郎為朝
が、召されて、都の乱に馳せ上るさい、筑紫の鶴賀原八幡を中心に、屈
強な部下五人を、残して立った。
 それが、九州源氏の、後の緒方維義(おがたこれよし)などだった。-
おととし、種直の岩戸ノ館を襲撃して、流亡(りゅうぼう)の平家を、筑紫
の山地から海上へ追い出した緒方党こそ、その源氏なのだ。-保元のむ
かし、為朝が、九州の地にこぼした胚子が、はからずもまた、きょうは鎌
倉どのと呼応して、範頼や義経の水軍に力を協(あわ)せ、平家のたてこ
もる一孤島を、西方の長い陸線で断ち切っている。そして豊前、豊後の野
にみつる白旗は、無言のうちに、平家をして、平家の最期を覚悟させて
いるのだった。
 「わからぬるものだ。・・・・ああ、この世はどう旋(めぐ)る輪(わ)
やら思いも及ばぬ輪廻(りんね)不思議な相(すがた)のものだ。まして
小さい一粒の人の身などは」
 原田種直は、ふるさとの岩戸の山を想いながら、重い鎧に代えて、しき
りに、かろい墨染めの袖(そで)が恋しくなっていた。



















 今日は昨日と同じくらい、日中は気温も上がりましたが、強い風で少し
散りかけている桜の樹があり、まだ8分咲きのもあるようでした。
 京王百貨店の駐車場から本館へ連絡していますブリッジから手の届く
距離にある桜の花が、今年は一段と誇らしげに咲いていて、足を止め、
少しの間、見入っていますと、心も浮き浮きして来るように感じました。
  このブリッジを渡り、そのまま百貨店の中を素通りして、1階に降り、
徒歩3分のところに所在する、「桜ヶ丘皮膚科」に行って、診察をしていた
だきました。右頭部の傷がまだ完治ではなく、一部皮膚を剥がし、軟膏
を塗る処置がありました。
 医師から、「今日で来院は一応終了です、何かあれば、また来てくださ
い」と、いわれ、40日間に及ぶ、帯状疱疹との闘いも、お蔭様で、よう
やく快方に向かいました。これで一安心です。
 気になります眉間への黒く傷ついたところは、もう自然治癒しかないとい
う診断でした。

 明日、4月8日(土曜日)から、大阪、姫路、鳥取、島根の方へ、旅をしま
すので、この足で、府中市美術館に行き、「日本水彩画展」の作品を鑑賞
させていただきました。迫力あるそれぞれの水彩画に、ただ見惚れていま
した。

   府中市美術館前の枝垂れ桜が、目を引きます。
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  美術館と同じ構内の延長が、都立府中公園になっています。
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 それでは、作品を紹介させていただきます。といいましても、作品名とか、
氏名は省略させていただきました。

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 かたみ送り

 とにかく、一門もれなくここに拠(よ)って、一つ島に運命を託しあっ
た人びとは、一日刻みに迫る恐怖の日を予知しながら、おのおの、最期
の心仕度をいそぐほか、何も思いわずらっても、今は、むだなことが分
かっていた。-一蓮托生(いちれんたくしょう)―それ以外な希求(きき
ゅう)の対象はこの彦島にないものと雑兵から女童(めのわらわ)にまで
観念されてきた。
 口に出さないまでも、それが一門男女のなかに濃厚な覚悟のすがたに
なって見えて来たのは、なんといっても、月蝕十五夜の、大集議の直後
からであった。
 議事一々、平家にとっては、悲観的なものでしかなく、逆に源氏の優勢
は、ほぼ確実と見られたその場の上将たちの口吻(こうふん)が、すぐ全
軍へももれていたのである。
 しかし、今さら動揺をきたすような兆(きざ)しは、どこにも見えない。
平家を見限って脱落するほどな者は、これまでの間に脱落していたし、四
面環海の島のかたちは、必然な背水(はいすい)の陣となってい、人びと
のあきらめと結束を、自然の制約下に、いやおうなく固めさせていた。
 だがなお、宗盛はそれに安心しきれなかった。「もし、時忠父子の如き
二心の者を、他にも生じては」と、味方をもって味方を監視するの風であ
った。たえず諸陣の間を、腹心の将に、見まわらせた。
 いまも、兵部小輔尹明(ひょうぶのしょうゆうまさあきら)は、かれのま
えに、島内一巡の報告をもって、ひざまずいていた。尹明の眼で見たところ
によると―「陸といわず、船といわず、士気は、いやがうえにもあがってお
ります、わけてここいよいよ、大合戦の日近しと相なって」と、すこぶるた
のもしげにいうのであった。
 宗盛は疑い深いたちなので、陣見まわりも一将にのみ委(まか)してい
ない。昼の巡視、夜の巡視、人を代えて、幾人もの将から聞きとっている
のである。
 が、この数日のまに、全陣の士気は、富に粛然(しゅくぜん)とし、一心
同体のすがたを如実にしているとは、たれの言にも、一致していた。
 「・・・・・いや、そうか。さすが、ここまで、移り気も持たず、生死一
つの誓いを立て通してきた譜代(ふだい)の将士よ。さもあろうず、さもあ
りなん」
 宗盛も、全幅的に、それの不安は、もう抱いていない。
 むしろまだ、かれに見届けきれていないのは、かれ自身の、死仕度で
あった。-容易に、自分の中では整理のつかない気もちが、ほかの者へ
の疑惑にも、つながっていたのである。
 「のう、兵部」
 「は」
 「おそらく、過ぐる夜の大集議の末、この長門にて、源氏と勝敗を決す
べしと、一定(いちじょう)、事極(きわ)まった議を知って、兵どもも、
覚悟のていとは察しらるるが、それにせよ、一門の下数千の大軍が、か
ばかり見事に、結びおうて、揺るぎもない様を示そうとは、思われなんだ
ぞ。
・・・・屋島でも見られぬことであった。-こはそも、何によるものか」
 「ひとえに、御威徳でございましょう」
 「この宗盛が、屋島より転じてこれへ加わったことは、それほど兵どもへ
大きな力を与えておるというのか」
 「もとより、第一にそれです。がまた、御舎弟黄門(こうもん)の卿(きみ)
(知盛)のおさしずや、下々へのおいたわりも、恩顧の将士らより深く慕わ
れておるやに思われまする」
 「戦いは手馴れだが、むっそりと、常には人ずきの悪い黄門どのが、さ
まで人に慕われおるとは、これも、この期(ご)になって知った意外なこ
との一つではあったよ」
 「されば、お優しき半面を、いつか人も知るのでしょう。昨夜は一人お引
籠(ひきこも)りあって、北ノ方や、幼い和子(わこ)たち、都に残された有
縁(うえん)の方々にまで、永別のお文(ふみ)をしたためられ、それを老
いたる郎党に持たせて、けさ密かに、京へ遣(や)られたとか、もれ伺いま
した」
 「何、何?・・・・ひそかに都の空へ、永別の文や、かたみを、持たせてや
ったと申すか。・・・・・では、それまでに」  
 宗盛もにわかに思い立ったものと見える。
 その日の小半日、かれも、陣館(じんやかた)からの一簾(いちれん)に
閉じ籠って、あれこれ、思い出される都の知己へ、今生最後の別れの便りを
認めた。
 ある文へは、小袖の端布(はぎれ)や、笄(こうがい)を巻き込み、ある文
へは、髪の毛を切って、かたみに封じた。
 かれは、都落ちの日、妻子眷属(けんぞく)をみな伴(とも)った。みかど
とおない年の、今年八歳の末子まで連れている。近親すべて都には残し
ていない。でも密かに通っていた女性やら法縁の人びともあったであろう。
これぎりの便りと思えば、やはりあの顔この君、名残の惜しまれる人は数
限りもなくあった。

 ここの死地から、秘かに、都へ使いを落としてやるには、よほど心きい
た者をして、巧みに変装させてやらねばならない。
 それもなかなか難事である。宗盛は、乳人子(めのとご)≪乳兄弟≫の
飛田四郎兵衛景経(ひだしろうひょうえかげつね⁾と相談して、弦巻(つる
まきの)一八という老爺(ろうや)を、その使いに選んだ。
 一八はもともと、弓師であって、本来の武者ではない。ただ、親の代か
ら六波羅の御用を承(うけたまわ)ってきた恩顧から弓繕(つくろ)いの一
人として陣中にいたのである。頓智(とんち)に長(た)け、片目の容貌(よ
うぼう)など、至極(しごく)な密使と、これを都へ遣ることになった。 
 「待て待て四郎兵衛、せっかく、さほど恰好な男を見つけたなら、、われ
一人の文苞(ふみづと)のみでなく、余人のかたみ送りをも、ともに託して
やっても、労はおなじことぞ。-たとえば、女院におかれても、さだめし、さ
いごのお便りをしたい御方も都にはあるであろ。何か、おことづてはない
か、伺うて進(しん)ぜよう。
 -一八の出発は、明朝まで、まず待たせておけ」
 宗盛は、景経にいいおいて、その夜、ほど遠くない行宮(あんぐう)まで、
歩いて行った。
 途々(みちみち)、かれは幾つもの、兵の野営や、仮屋を見かけた。
 各所の兵たちはかがりの下や小さい焚火(たきび)をかこんで、ある群
れは兵糧(ひょうろう)をとり、ある群れは、針などを持って、袴や肌着の
ほころびを縫い、またある者は、たどたどしい手つきで、ふみなど書いてい
た。 「まことに、兵の屯(たむろ)も、これまでのようではないのう。な
んと睦(むつ)まじげな・・・・・」
 かねて、陣見まわりから、聞いてもいたが、かほどまでとは、眼で見ぬ
うちは思えなかった。兵糧時の、あの餓鬼騒ぎも今は聞こえない。宥(い
た)わりあい、慰めあって、まるで一家の団欒(だんらん)を見るかのよう
な情景もある。
 思うに、かれらの端までが、「長くもないこの世」と、今は観念の底にい
るのではあるまいか。と同時に、甲乙お互いに見合う顔は、敵以外、憎悪し
あう顔はもうどこにもいない。みな憐(あわ)れな死地の仲間だった。
あと幾日でも、生きている間だけは、せめて仲よく、真情と真情とをそそ
ぎあって生きなければ―と努(つと)めあっている様子が、はからずも、平
和な日ごろでさえもまれな仲睦(なかむつ)まじい共同の暮らしを描き出
していたのだった。
 また、こんな態(てい)も見かけた。宗盛の歩んでゆく小暗(こくら)い道
ばたで、五、六人の雑兵が、青竹を伐(き)っていた。そしてそれをまた、節
短(ふしみじか)に鋸で引いているので、
 「何にするのか?」
 と、宗盛が、郎党に訊(たず)ねさせると、かれらは、口をそろえて、
 「されば、いよいよ大合戦の日も近づき申しまいたゆえ、われら雑兵も、
いずれは、海の藻(も)くずか、矢さきの犠牲(にえ)ぞと、覚悟を申し合わ
せまいてござりまする。で、じつは」
 と、尺ほどに引いた青竹を示しながら、なお、こう答えた。
 「-日ごろ、信心のある者は、名号(みょうごう)、経文などを認めて、後
生(ごしょう)の願いとし、また、家の妻子や老(お)いたる親どもへ、末期
(まつご)の便りを届けたやと、夢にまで念じるものは、夢恃(たの)みより
はましならんと、おのおの、文を書いて、青竹の筒に封じこめ、それをば海中
に投じるのでございまする。-浪よ風よ、心あらば千に一ツでも、この青
竹の筒を、都に近き磯へ漂い寄せよーときのうきょう、みなして、波間へ
投げ入れては、祈っているのでございました」
 これを聞いて、宗盛もさすが胸が痛んだ。途々ひそかに総大将たる身をか
えりみて、自分に恥じた。
 行宮の柵門は暗かった。-衛士(えじ)の大将伊賀平内左衛門(いがへ
いないざえもん)に、
 「みかどは」
 と、宗盛が、直々(じきじき)問うと、
 「はや、御寝(ぎょし)かと存じ上げられます」
 と、かれはいう。
 「女院にも、御寝の間(ま)にか」
 「いえ、つい今しがたまで、帥(そつ)ノ局を召されて、しめやかに、何か
おん物語らしゅう拝されましたが」
 「ならば訪(おとの)うてくれい。宗盛が参りしと」
 行宮の柵は勿論、女院の館も、めったな者の立ち入りはゆるされない。
まして夜陰、まして男性。
 けれど、宗盛は、べつである。建礼門院にとっては兄君なのだ。
 こよいのかれの訪れも、妹へたいする兄の気持が半ばであった。やが
て、局のうちでは、兄と妹が-いや座は、国母として、女院の方が上座で
―静かにむかいあっていた。
 
 宗盛は、弱々とまたたく灯のそばに、かの女の余りにも清げな黒髪やら
肌の白さを見て、ここが恐ろしい死の戦場を支度しつつある所かと、ふっ
と、疑われた。そして、それにはなんのかかわりもなく、この妹の年齢が
かぞえられた。肩の痩(や)せこそ目につくが、久しい流亡にも、年にも、少
しも削りとられない玲瓏(れいろう)の美に、かえって不愍(ふびん)さが増
すのであった。
 「いや何、ほかでもありませぬが」
 宗盛は、明朝、かたみ送りの使いを、密かに都へ出す旨を告げて、
 「もし、都のたれかれへ、名残の御文をおつかわし遊ばすなれば、とも
にその使いへ、秘め持たせてつかわしましょう。先帝高倉の君の御陵(ご
りょう)のみ寺清閑寺へ、永代供養の料に添えて、もし、おん黒髪の端な
と納められたい御心なれば、それも、取り計らわせまするが」
 「・・・・はい」
 女院は、素直に、うなずかれたかのようであったが、じつは微かに、お
顔を振っていたのである。
 「わざわざのお心づかい、うれしゅうございますが、もうそれらのことも
仕すませて、都の空へは、なんの心残りもありませぬ」
 「ほう。では、すでに都へたれぞを、おつかわしになりましたか」
 「小松の新三位(しんざんみ)どの(資盛)が、かねていい交わしてある都
の女房へ、今生(こんじょう)の別れぞと、家の子に、かたみを持たせ、密
かに都へ放ちやると聞きましたゆえ」
 「小松殿がいい交わした女房といえば、以前、女院の許に仕えていた
右京大夫(うきょうのたいふ)ノ局ではありませぬか」「そうです。右京大夫
と資盛の卿(きょう)とは、人もうらやむほどな仲でした。それに、この身の
側に仕えていた小女房ですゆえ、よう気心も知れておる」
 「ではお心じたくも、今は早おすましよの」
 「ええ、ひたすら、御仏のみこころにまかせて、その日を待つばかりでご
ざいまする」
 「よいお覚悟」
 宗盛は、そういったが、どこか手持ぶさたであった。
 せっかくの好意が、むだであったばかりでなく、かの女のどこかに、その
覚悟と似つかわしくない、よそよそしさが、見えたからである。こうして、ひ
とつ夜を、ひとつ陣にいても、いつ敵が来るか分からない。そしていつこ
のまま会えない修羅(しゅら)の終りを告げるかもしれないのだ。もっと、つ
きつめた黛(まゆ)と哀別の眸が、妹の容顔(かんばせ)を濡らしていそう
なものだとおもう。
 かれは疑った。かれ特有な嗅覚(きゅうかく)が、やがて、見つけたとい
ってもよい。
 簾の外の、長い板橋をへだてた坪向うに、もう一棟(ひとむね)の仮殿
(かりどの)がある。二位ノ尼の宿所だった。そこの灯に、何か密やかな
人影が見えたのであった。
 「・・・・・・・?」
 いま、女院との話に出た資盛らしい影があるし、知盛もいるらしい。「・・
・・ははあ」と、かれはうなずいた。
 女院も今まで、その席にいたのであろうが、自分の訪れに、座を抜けて
これへ出て来られたにちがいない。
 「それにしても、この宗盛をのぞいて、たれとたれが、尼ノ公を囲んで、何
を語ろうていることぞ」
 宗盛は、むっと、不満をいだいた。-そう見直せば、どこかよそよそしげ
な女院の容子も、謎は解ける。尼御所の人影を、女院は自分へ憚(はばか)っ
ておられるのだ。と宗盛は、解釈した。

 御身隠(おみかく)しの事(こと)

 その宵、尼御所をそっと訪うていたのは、権中納言知盛と、尼の孫資盛
(故・重盛の次男)とであり、ほかにもう一人、白髯(はくぜん)の老将を伴
って来たのである。
 老将は、筑紫(つくし)岩戸の豪族、原田少卿(はらだのしょうきょう)種
直だった。
 種直は九州平氏の重鎮であった。
 小卿とは、太宰少弐(だざいしょうに)の別名である。故清盛が、博多ノ
津を中心に宋船との交易をさかんにしていた当初から、種直は、六波羅
の代務をそこで執(と)っていた。
 だからかれと平家との間は一朝一夕のものではない。
 かつて、清盛が病んだとき、はるばる博多ノ津から、宋医(そうい)をつ
れて、都へ見舞いに上がったのも、かれであった。
 また、寿永二年の秋ごろ。
 流亡の平家が、みかどを奉じて、筑紫のみちのくを転々としたときも、一
時、種直の岩戸ノ館を、安徳帝の行宮としていたことがある。
 -それもつかのま。緒方党そのほかの九州源氏の襲来で、平家はふ
たたび、海上へ漂い出(い)で、豊前(ぶぜん)からやがて屋島へ、逃れ
たのだった。
 「・・・・・思えば」
 と、種直は、尼の姿を見ると、すぐ、瞼に老涙をもって、
 「故入道どのにも、さだめし、頼みがいなき原田かなと、地下でお腹立
ちでございましょう。諸方、戸次(べつき)、菊池など、筑紫の諸党の多く
が、源氏方へ傾いたのも、みなこの種直の力不足がいたすところ」
 と、九州の現状の非を、自分の責めかのように詫(わ)びた。
 「なんの、お許の落度ではない。お許の変わらぬお心は、人も知ること。
亡きわが良人(つま)とて、なんぼう、うれしゅう思し召しておられるかもし
れませぬ」
 尼は、なぐさめ顔にいう。
 とはいえ、その九州一円も、ほとんど敵地と変り、ここの寸土に、死守の
一戦を賭(か)けるしかないことを思うと、尼のみならず、みな冴(さ)えぬ
沈黙に落ちた。
 「少弐どの。さっそく、其許(そこ)の御所存を、尼ノ公(きみ)へ申しあ
げてみてはどうか。・・・・そのうえにて、われらの愚存も申そうほどに」
 知盛に、そう促されて、
 「はっ」と、種直は、あらたまった。そして、ふところから、一書を取り出し
て、うやうやしく、尼のまえにさしおいた。
 その書状と、種直の言を総合すると、内々、尼へそっと計りに来た問題は、次
のようなことであった。
 先ごろ、原田種直は、郎党の井出庄司を、博多ノ津へやって、櫛田神社の
神官、祝部(はふりべ)宮内大夫へ、一書を送った。
 -平家の御運も命旦夕(めいたんせき)となった。せまる大合戦の御利
運もおぼつかないように思う。
 そう言外に別れを告げて、今はひとえに、神助をまつほかはない。櫛田の神、
祇園(ぎおん)の御社へ、どうか御祈願をこめ給わりたいと、依頼してやっ
たのである。
 すると、折り返して、
 祝部宮内大夫からの返書をたずさえ、きょう、使いの井出庄司が、帰って来た。
 その宮内大夫の返辞には―
 戦捷(せんしょう)祈願の儀は、お頼みまでもなく、櫛田、祇園の僧侶(そ
うりょ)神人をあげて、昼夜なくつとめている。
 けれど、人為の万全も尽くしてこそ、神助(しんじょ)の道は開かれよう。
畏れ多い思慮(おもんばか)りながら、万一のときは、幼帝にお身隠しの
秘法を授け奉(たてまつ)って、筑紫のみちのく、といわれる山深い奥地
に、龍駕(りゅうが)をかくし奉るか、壱岐(いき)、対馬(つしま)、ある
いは遠い南方の島へ、永劫(とこしえ)に、神去りませし如く、お行方(ゆく
え)を消し奉るなどのことも、考えられぬことではない。
 とまれ、われら櫛田の神人はいうをまたず、平家との由緒(ゆいしょ)ふ
かき大宰府(だざいふ)の住人どもや同所の天満天神の氏僧、別当たちも、
万一、蒙塵(もうじん)のことあらば、身命にかけて、みかどを匿(かく
)まいまいらせ、お身隠しの秘法を尽くしあわんと寄り寄り秘策を語らい
おうている。
 -されば、ひとたび、御合戦利あらずと見給わば、その御遠謀あって、ゆ
め、御非業(ごひごう)など急がれ給わぬよう、祈り申す。またくれぐれ、お
身隠しの秘授あるを信じ、あらかじめ、万策の備えを抜かりのなきように、
云々(しかじか)。
 と、いう長文なもので、かつ書状の末に、極秘とも、断ってあった。
 で、種直は「-これは、わが一存でも」と、知盛の許へ、計りに行った。
 万一、敗戦のときは、幼帝のおん身、また、賢所(かしこどころ)の神器
(じんぎ)など、いかになすべきかは、すでに議定(ぎじょう)ずみのことで
あった。
 過ぐる月蝕の夜の、一門大集議の場で、きまっているのだ。
 事が事なので、それについてだけは「いかがなる者へも。余人には決
して口外あるべからず」という神文の誓いも、その場で交わしあったこと
である。
 だから、その一項だけは、たれも知らない。-当夜、議定の席にいた者
以外、知るものはなかった。
 しかし当夜の議定と、種直の献策とは、食い合わないものであったので
はあるまいか。知盛は「・・・・いかにせん」と迷うらしい容子であった。
 総領宗盛が、能登守教経を、無二の者としているように、知盛にも、何
かと、心をうちあけて計(はか)りあう年下の公達があった。
 島口の小瀬戸の柵を守っている新三位中将資盛だった。
 迎えにやると、資盛はすぐ、知盛の陣屋に見えた。
 かれとも計り、自身の熟慮も尽くしたうえ、知盛は「総領の君に、密か事
を企(たくら)むはよくないが、兄君に申せば、一蹴(いっしゅう)して、怒
り給うにちがいない」と、考えられたが、しかし「原田種直もまた、二心を
抱く者と疑われ、大理どの(時忠)同様獄屋の難をうくるであろう。いずれに
せよ、みかどのおん大事。一に女院のおん胸と、尼ノ公のお胸に問いま
いらすほかはあるまい」と思い極めて、種直、資盛を同道して、そっと、尼
御所へ伺ったものだった。
 -が、二位ノ尼は、種直の献策を聞いても、それには、なんの表情も動
かさなかった。かの女は、人知れず、胸をきめている。いうならば、かの
女はもう一門の子や孫の流亡の果てを見るのに疲れた。はやく死んで、亡
夫清盛のそばへ行きたいのが、いまはかの女に残されたただ一つの愉しみ
ですらあった。
 けれど尼も「それは、自分一つのこと。見ままな願い」と知っている。
 で、多くはいわず「みかど御自身は、まだ何事もわきまえてはおわさぬ。
おん母の御心定めが、第一であろ。まず女院のお胸に問うて給われ」との
みいった。
 やがて、宮﨟(ろう)の局が、女院をお迎えして来た。そして全く水入ら
ずの密談が進められていたのである。
 -すると、おりわるく、行宮の方へ、宗盛が訪ねてきたとの知らせであ
った。やむなく、女院は中座して、そこを立った。宗盛にあったのである。
-まさに邪推でなく、宗盛の推察は、あたっていたわけだった。
 
 宗盛に会うため、女院が立って行かれたあと、めったに色を動かさない
知盛も、さすが、静かな胸ではないようだった。資盛も、気づかって、
 「内大臣(おおい)の殿には、ふと、このことを御存じあって見えられしか、
ゆくりなく、参られ合わせたものでしょうか」
 と、ささやいた。
 「御存じのはずはない・・・・・」と、知盛は小さい声で、原田種直の顔を
見て「-決して、お知りあるわけはないが、しかし、勘のよい御方ではあるし、
万が一にも、事もれては一大事、こよいのところは、さり気のう退(さ)がっ
て、お打ち合わせは、またのおりとしようではないか」
 にわかに、尼ノ公へ、いとまを告げて、三名は尼御所から外へ出た。
 それはすぐ宗盛も気配で知ったにちがいない。前後してかれも行宮の柵門
を辞していた。そして後ろから、
 「待たれよ。黄門どのと見るが」
 と、知盛の影をよびとめた。
 ただちに、近づいて行って、宗盛はまた、
 「ほう、新三位どのも、御一しょか。それに原田小卿まで」
 と、見まわして、
 「めずらしい筑紫の老将など加えて、両所には、何しに尼ノ公を訪(と)われ
しぞ」
 と、なに遠慮なく、ずけずけ糺(ただ)した。
 知盛には、いいつくろいもすぐに出ない。資盛も上手な嘘のいえる公達では
なかった。が、そこは老将の種直だけに、
 「はい。かねて二位どのから、博多(はかた)の櫛田の社へ、御立願(ご
りゅうがん)の儀がござりまいたゆえ、きょう、神主は祝部(ふりべ)どのか
ら届いた神符(しんぷ)を、お届けに参上いたしまいたところで」
 と、ていよく答えた。
 宗盛の耳は、受け取っていない。
 かれは、知盛へ話しかけていた。何かを探ろうとするようにである。
 ぜひなく、知盛は、女房船のことや、また合戦当日には、陸上に避難さ
せて置くはずの小女房や女童(めのわらわ)の人員など、調べおくため、打
ちあわせにーといって逃げた。
 「ほう、この夜陰に」
 と、宗盛は、もちろん、それへも信をおかない容子であったが、
 「では、原田小卿とは、偶然の内にて落ち合われしか」
 と、明るくない笑いをふくんだ。そしてそのことは、まず打ち切った顔を
したが、歩み歩み、
 「今の一言で、思い出された。足手まといな女房女童など、ことごとく、赤
間ヶ関の陸へ移して戦わんとの計であったが、あれもどうかの。主上の玉体と
賢所とは、寸間も離れてはならぬもの。合戦の日たりとも、御座船の内に、
お一つであらねばならぬ。従がって、典侍、局の女房たちは、死すと
も、女院のおそばを離れまじと願うであろう。・・・・としたら、いったい、
誰を陸へ残し、たれを御座船の供奉(ぐぶ)にゆるすか、色分けも、むずかし
かろ」 
 連れは、黙っているので、宗盛だけの、夜道のひとりごとに似ていた。
 「-いっそ、たれかれなく、女房たちも女房船にあって、合戦の果てを見
とどけさせておいてはどうかの。もし、平家敗れなば、女房たりとも、生き
残ろうとする者は一人もあるまい。平家の女性(にょしょう)たるほこりを守
って、東国源氏の雑人(ぞうにん)ばらに、おめおめ操をけがすような女
性は、ここにおらぬはずだ。とすれば、陸に置くも、海にいるも、おなじではな
いか」
 「・・・・いずれ、そのこともまた、御陣屋に伺って」
 知盛は、立ちどまって、それを、別れのあいさつにした。ちょうど、道の辻
に、来ていたからである。
 「そうだの。女房たちの、始末については、なおよく、話おうておきたい。
あすにでも、見えてくれるか」
 「伺いまする」
 やっと、宗盛は、自身に陣門の方へ。そして、三人も、道を別れかけた時で
ある。
 迅(はや)い馬蹄(ばてい)の音が、かなたから近づいて来た。
 -騎馬は、やみを割って、その影を、大きく近づけて来るやいな、
 「それに新三位の卿が、おられましょうや」
 といった。
 資盛が、「おう、ここに」と、大声で答(いら)えると、飛び降りた武者は、か
れの前にひざまずいて、「-たった今、小瀬戸の柵へ、火ノ山の物見の組から、
急を報じて参りましたが」と、源氏の陸上隊が、はや近くにあることを告げた。
 いずれ、つぎつぎに、早馬がはいるであろうが、その第一報によれば、豊
浦(とよら)(長門・府中)には、きょうの昼間からもう、兵火の煙が立ち昇って
いるという。
 むろん平家方にも、陸兵の備えはある。
 豊浦にも、幾十騎か、派してあった。
 それとの、小合戦にちがいない。
 「して、源氏の水軍は」
 「水軍のうごきは、まだ定かにつかめませぬ」
 「よし」と、資盛は、知盛をかえりみて「-自身、赤間ヶ関の東まで、駒(こ
ま)をとばして、見てまいりまする。夜明けまでには戻って、もいちど、御陣
屋にて、お目にかかりましょうず」
 かれは、部下の乗ってきた駒へ乗り代って、小瀬戸の方へ急いで行った。
 一旦別れかけた足を返して、宗盛もまだ、そこに佇(たたず)んでいたの
である。知盛と、顔を見あわせ、そして、何もいわずに、別れ直した。
 来るものが来ただけである。
 一ノ谷や屋島のごとき、急襲ではない。敵も、正々堂々、紛(まぎ)れを
とらず、西下してくるのである。平家もこんどは、不意打ちなどとは叫べま
い。備えと覚悟を持つ日は、ありすぎるほどあったのだ。
 だから、宗盛と知盛も、今さら何を驚きあうこともなかった。眼と眼だけ
で、おのおのの陣屋へ足を急がせたまでだった。
 「四郎兵衛。ちょっと、参れ」
 宗盛は、わが陣館(じんやかた)へはいると、すぐ乳母子の飛騨四郎兵衛を
よび、何事か、小声でいいつけていた。
 四郎兵衛は、思いがけない内大臣の殿のいいつけに目をまろくし、
 「や。桜ノ御を、召し連れよとの仰せですか。かかる夜中、しかもこの期
(ご)に、あのような女に、なんの御用が」
 と、いぶかし気に、宗盛の顔ばかり見て、すぐそれに、出て行こうともし
なかった。
 宗盛は、いら立って、
 「なんでもよい。はや行って、引き連れて来い。ただし、二位どのにも、ほ
かの女房にも、きっと、密かにだぞ」と、きびしい口調で追い立てた。
 四郎兵衛が急ぎ足で、そこの柵を出て行くのと、ほとんどすれちがいに、ここ
へも、火ノ山の物見知らせや、周防街道の味方などから、源氏の陸上隊が、
駸々(しんしん)と、長門の境にはいって来たことを、ちりぢりながら、報
じてきた。
 -日数(ひかず)で思いあわせると。
 まさにその夜は、義経以下の水軍が、船所五郎(ふなしょのごろう)を水先
案内(みずさき)として、周防灘の中ノ関を過ぎ。長門の府中(長府)沖へ近づ
きつつあるころだった。






































































 版を彫るという行為への異常なまでの没頭、強烈な自意識をほのめか
す入念に整えられたラテン語の署名。そうしたことからだけでも、アル
ブレヒト・デューラーが、この銅版画にいかに特権的な意義を認めてい
たかは、容易に見てとれます。そのように高度に計算され尽くした表現
が、アダムとイヴという神が創出した原初の人間のテーマへと導入され、
かれらを繊細に輪郭づけられた形象のなかに浮かび上がらせるのです。
 この「アダムとイヴ(堕罪)」は、デューラーが多年にわたっておこなっ
てきた人体比例研究の結晶です。1504年に制作された本作は、150
5年に始まるデューラーの第2次イタリア旅行(1507年まで)の直前に
生み出されました。ということは、身体を古典的に形式化して描くこと、
またそれを適切な均衡(きんこう)のもとに構成するという技術は、何も
イタリア来訪を通じてのみデューラーが獲得したのではなく、むしろそれ
以前から披露されていたのです。
 画中のアダムとイヴは、互いに切り離せない存在であるにもかかわら
ず、ここでは結局のところ、ふたつの別個の自立した人物形態となって
います。それらは実際、それぞれに異なる素描習作から生まれてきたの
であり、それらの習作から形態の生成過程をたどることもできます。デュ
ーラーはアダムとイヴという原初の人間の身体を、隅々までくまなく見せ
るために、鑑賞者に対して真正面に向けて立たせた。そしてかれは、浅
浮彫のようなその人体の背面に、さまざまな動物たちが気ままに棲みつ
く書き割りのごとき森林を配したのであります。エルヴイン・パノフスキ
ーによれば、大鹿、猫、ネズミ、兎、鷲はいずれも、いわゆる「四気質」
を象徴しています。それらは人類が原罪をつうじて初めて背負わされる
ことになった、ネガティヴな性格を意味します。「動物譚」によれば、オ
ウムは「賢明」の象徴ですが、これが本作ではマンナノキの枝にとまっ
ています。マンナノキは中世の伝承をつうじて、「生命の樹」とみなされ
ました。さらに蛇は忌避されていました。とはいえ、「堕罪」を主題とし
たデューラーのこの野心作は、クラーナハが同一主題を取りあげた最初の
作品として知られる木版画(ルカス・クラーナハ500年後の誘惑(Ⅲ-D
に掲載予定)には、副次的な影響しか及ばさなかった。そこには知的な裸
体表現や理想的な人体比例を研究した痕跡など、みられないのです。

 アルブレヒト・デューラー作
 1504年
 エングレーヴィング
 248×190㎜
 
      アダムトイヴ(堕罪)    国立西洋美術館
CIMG0004

























 4月25日から、私たち水彩画サークル「虹の会」へ、入会される方に、以
前、氏の絵の具を小生がパレットに流し込んで、預かっていたのですが、帯
状疱疹もだいぶ良くなった気がしますので、本日、手渡しに行くことにしまし
た。  
 待ち合わせ場所は、《府中芸術の森劇場》の玄関にしました。予定通り氏
とお会いし、少し離れたところに所在する生涯学習センターの駐車場に車を
止め、隣接する公園まで行きました。風景画をと思っていましたが、来る途中
で購入した、パプリカをまず描く練習をと考えました。
 この方は、ちょうど小生の6年前と同じレベルで、まったくの初めてですので
ので、簡単な静物画からスタートをする方がわかりやすいと判断し、まず鉛
筆での素描から始め、着彩は、明るい色から塗り始めることにしました。光が
どの角度からあたっているかによって、光る部分と影の部分を説明しながら、着
彩してゆきました。
 公園の桜の花はまだ2分咲きといった所です。約1時間半くらい、氏につた
ない説明をしながら、公園内にある「東屋」のイスとテーブルを使用て、勉強を
しました。手がかじかむほど寒さも加わって来、16時前に本日のレッスンは終
えることにしました。
 氏に「どうですか、水彩画の感触は」と、尋ねますと、「筆を使って、絵具を
溶かすこと自体がわかりましたので・・・・・。」とのことでした。もっともな
ことだとあらためて感じ入りました。
 「パブリカは持って帰って、また、新しい画用紙を使って描いてみたらどうで
すか、この間貸してあげた本なども参考にしてください」とアドバイスをしまし
た。
 生涯学習センターに戻り、ここで散会する間際に、「自分で何か描いてみます
ので20日ごろ、観ていただけますか」とのことでしたので、快諾をし、帰路に
つきました。

 小生も、氏と一しょに、この「パプリカ」を水彩で描いてみました。
 
           
CIMG0136






































 6年前、初めて水彩で描いたパプリカです。

022 (4)

 3月30日(木曜日)は、千葉在住の孫が、広島から上京して来ている、孫
と娘たち6人と、東京スカイツリーで待ち合わせをし、見物の案内役をして
くれました。浅草寺にも連れて行ってくれたとのことでした。そして帰りは
東京駅まで供をして、一行を見送ってくれたといいます。
 そのあと、拙宅へと向かい、新宿駅17時50分発の京王線の特急電車に
乗りますという、メールが家内の携帯に入ってきました。それを受けて、小
生が車で迎えに行ってきました。

 一度、家に着いてから早速、例の温泉「湯楽の里」へ連れて行ってやりま
した。1時間20分くらいかけてゆっくりと温泉に浸ったようです。戻って
くると早速、夕食です。
未だ小生は、帯状疱疹を治療中ですので酒が飲めませんから、ノンアルコ
ールビールで乾杯し、食事が始まりました。好物の「春巻き」の手作り料理
がお気に入りの孫は、おいしそうに食していました。デザートも済ませ、落
ち着いたところで、勉強の段になりますと、眠いとかいい出したので、せめ
て23時ごろまで、机に向かうよう促しました。
 この試験は、自己啓発の一環とした国家試験だといいます。

 昨日は、孫が朝寝坊していましたので、布団と毛布を跳ねのけ、起床さ
せました。規則正しい生活の中で、勉強に親しむことが大切だと思い、気
の毒でしたが、やむをえませんでした。
 朝食後ジョギングをしてくるといい、でかけましたが戻ってくると、朝風
呂を使用、これで午前中も過ぎ、昼食の時間です。午後に入ると、今度は
孫が本を購入したいといいますので、聖蹟桜ヶ丘の京王アートマンにある
「くまざわ書店」に連れて行ってきました。
 3時のおやつの後、少し勉強をしたようです。
 夕食後は、できるだけ早く、机に向かうように、声をかけてやりました。
 「誰でも、勉強とか、課題など、好きでないことには、なかなか着手できな
いものですが、一歩前に踏み出す勇気が大切なんだよ」と、いってやりました。
このことは、自分自身にもいい聞かせている言葉です。

 今朝は、昨日からの冷たい雨がまだ降りつづいています。桜の花も、足踏
み状態となってい、満開は来週の後半になりそうです。
 朝8時ごろに、孫は起床、まず朝風呂に入り、朝食をすませました。手土産
はすでに、持たせましたが、国立駅前あたりに所在する「青木屋」のどら焼き
を購入し、さらに土産物にしてやりました。
 国立市のこの界隈は、桜の花が、有名で、今日現在は、まだ3分咲きといっ
てよいでしょう。一部、割と近い距離で眺めましたが、1本の木から最初に開
花した凛(りん)とした花弁は、特別に勢いを感じ、美しいと感じます。

 先ほど、千葉在住の孫から、「今夕に当家へお邪魔します」とのメール
が、家内のところへ届きました。
 幼いころには家族でしょっちゅう遊びに来てくれてはいましたが、現在
は大学2年生、大きくなってからしかも一人で拙宅に来るのは、初めての
出来事です。数日前にも、小耳には挟んでいましたが、このことが現実
となりました。
 広島からの6人の客が、帰った後に今度は千葉の孫です。嬉しいことが
続きます。
 4月初めに試験があるため、こちらで、「気分を変えて勉強したい」とい
うのが、大きな理由(大義名分)のようです。
 その俊哉(孫)は、今日、広島からの一行と、東京スカイツリーで待ち
合わせをし、一緒に見物をすることになっているのです。そして浅草寺も
案内してくれるそうです。
 東京駅まで見送ったその足で拙宅に来るものと思われます。
 家内が、何が食べたいかを、メールで尋ねていたようでしたが、春巻き
と、コハダに、人参と大根などを千切りをし合わせた酢の物だといいます。
家内の作る春巻きは、食べ物の中では一番の人気になっています。
 午後、さっそくこの食材をそろえに、買い物に出かける予定にしていま
す。

















 黒(くろ)い月(つき)

 彦島のすぐ東北側の海に、もひとつ、小さい点が見える。
 島ともいえない小島であった。
 海面すれすれに、一座の岩礁(がんしょう)と洲(す)が見えるほか、た
だ木や草ばかりが密生している浮島に似ていた。
 そこの緑と白砂(はくしゃ)の朝夕は、山鳥海鳥のけじめもない海峡の
鳥類どもの領有のようであった。が、人もいないわけではない。以前から
一間の小屋があり、老いたる漁夫と小娘が住んでいた。
 小娘は海女(あま)であった。この海峡を東西へ通う舟行の旅人のなぐ
さめに、海底に潜(もぐ)って、旅人のいうがままに、魚や貝を採って見せ、
わずかな物代(ものしろ)を得るのである。文字ヶ関にも、赤間ヶ関の渡
口(とこう)にも、そうした生業(なりわい)の男女は多いが、こんな名も
ない島のかけらに住んでいるのは、かれら父娘(おやこ)だけだった。
 だから、漁仲間の者は、変わり者のねぐらとそれを遠くからながめて「―
なに愉しみに?」と、嘲(わら)っていた。しかし、当の父娘には、けっこ
う愉しい別天地であるらしく、おりおり、のどかな炊煙も見せ「世間のやつ
らが何知って」と、あべこべに、町の人間を嘲っているかのようであった。
 ところへ、去年の冬からの戦争である。海峡両岸の繁昌の灯も、ば
ったったり消え、旅人の往来は、途絶えてしまった。陸では、荷物を担(に
な)いで、野山へ逃げたり、源平両軍が、入れ代わるたびに、人や荷物も
徴発され、生きた空もない日がたびたびあるという「-それみたか」と、老
漁夫は、娘にいった。「流れ矢さえ避けていれば、どんな戦になろうと、こ
こは安泰なものだ。世間のみじめなことを見ろ」と。
 けれど、やがて、ここも世間の外ではないことが分かってきた。-ある
日、彦島の田ノ首方面から、大型な兵船が漕(こ)ぎ寄せて来、平家の兵
が上がって来た。そして、たった二、三日の間に、壁もない丸木造りだが、
とにかく家らしい物を建ててしまった。「お陣屋か?」と父娘は眼をそばだ
てたが、そうでもなく、やがて二人の貴人がそこに住み始めたのを見た。
「・・・・・・・さては、流されてきた罪人(つみびと)かもしれぬ」とか
れらは思った。貴人にしては、侍女や家来もいず、毎日、見まわりの兵
が来ては、糧やら日常の物などを置いて行くといった風に見える。
 貴人の呼び名は「大理(だいり)どの」。御子息は「讃岐どの」というこ
ともすぐ分かった。-讃岐どのは、かれらの小屋を見つけてから何かと不自
由なものを求めたり訊ねに来たりした。で自然、小屋の父娘とも、すぐ親し
くなった。
 きょうも老漁夫は、娘が獲(と)った鮑(あわび)や小鯛(こだい)など
を竹籠(たけかご)に入れて、「おなぐさみに」と、時忠の姿が見える縁先
まで畏(おそ)る畏る持参した。時忠は例の牢船からここへ移されてからも
毎日、書見ばかりしていたが、徒然(つれづれ)のまま「おやじ、まあ話し
てゆけ」と、老漁夫をひきとめて、
 「この小島には、元から名はないのか。名がなくては、歌一つ詠むにも
不便。-名と申せばまた、そちの娘も、なんという名ぞ」
 と、訊(たず)ねたりした。
 「芦屋(あしや)の里で生まれましたので、そのまま、芦屋と呼んでおり
まする」
 「幾つか」
 「まだ根っから子どもで。はい。年ばかりは、もう十六でござりますが」
 「愉しかろうな、親娘(おやこ)ふたりで、かかる小島に、何苦労なく暮
らしていたら」
 時忠はふと、都にあるわが娘の夕花を思い出していた。親の流浪(るろう)
よりは、残された子の、親恋しさはと、思い遣(や)られていたのである。
 おやじは訥々(とつとつ)と、ことばをつづけた。問われたことには、み
な答えなければ悪いように思うのか、島の名について、
 「ここの小島を、土地(ここ)の者は、船島とやら申しまする。いやほん
とは、船虫島じゃ、浮寝島(ふねじま)じゃと、人まちまちで、きまった名
もあるわけじゃございませぬ」
 と、ひとりごとのように語っていた。
 すると、娘の芦屋が走って来た。そして何か早口に父親へ告げ、急(せ
)き立てるように父を連れて帰ってしまった。かれら父娘が、時忠の軒へ
近づくことは、前もって、禁じられていたことにちがいない。
 「はて?」
 その時、讃岐中将時実(さぬきちゅうじょうときざね)も、外から父のいる
縁先へ近づいてきて、
 「父上、ただ今、西の磯へ二艘の船が着きましたが、いつもの見まわり
舟とは見えませぬ。どなたか、常ならぬ人が、これへた訪うてくるようで
ございますが」
 と、知らせた。
 時忠にも、ひそかな人恋しさはあるにちがいないが、
 「およそ、待たるほどな客が、ここに見えようとは思われぬ。内大臣の殿
か、能登どのの使いでもあろうず」
 と、興もなげに、つぶやいた。
 いずれは、やくたいもない使いかと、ものうげにしていた時忠も、やがて、
その訪客に接しると、客との間に、時も忘れて、談笑をかもしていた。
 思いがけなく、客は、安芸の佐伯景弘(さえぎのかげひろ)だったのだ。
かれと時忠とは、故清盛同様、一門中でも、もっとも古い、そして深かっ
た仲でもある。
 「お引籠(ひきこも)りの見舞いに、きょうは家伝の薬餌(やくじ)を持参い
たしてござれば」
  と景弘は、初めから、もう打ちくだけて、彦島より携えて来た酒さかなを
広げ、
 「せめて、景弘に向かっては、なんなと、鬱気(うつき)をおはらしくださ
れい」
 と、かれの境遇もその胸の中も、充分、察しているらしい、なぐさめ顔で
あった。
 「友遠くより来るーまして心を知る友と、杯をふくむなどは、なんと、久し
ぶりなことか。これで、日ごろの鬱気(うつき)も、いちどに散じた心地がす
る。
  「いや、めったに真(まこと)の御鬱気は解けますまい。-で、さきに
も一言触れたように、こよい彦島でする御一門の集議には、ぜひとも、お
渡りありますように」
 「それや遠慮したい。・・・・せっかく、其許(そこ)がわざわざ、迎えに
来てくれたこころざしは、ありがたいが」
 「なんの、景弘の労などは、どうでも良い。ただ、惜しまれるのは、過ぐ
る日の厳島参籠にせよ、大理殿のお姿が、いつも座にあらぬ淋しさでお
ざる。また、こよいの彦島集議も、おそらく、御一門おそろいの最後の夜
かとも思われますので」
 「いかにも」
 と、時忠は、垢(あか)に埋もれた皮膚の下から、艶(つや)やかな酒の
色をほのかに見せて、
 「-きょうは三月十五日よの」
 と、ひとりつぶやき、
 「其許のいう通り、まさに一門最後の集(つど)いになろうもしれぬ。さ
ればなおさら、時忠は、罷(まか)らぬ方がよろしかろ。・・・・・ただ、知
盛卿へは、なんと、おわび申そうか、ことばもない」
 と、ややその酔眼を、俯(ふし)目にした。
 さっきから時忠の気色をうかがっては、何度も一つ事を、景弘はすすめ
ていた。そのため、一門の使いとして、迎えに来たこともあきらかにし、
 「余人は知らねど、権中納言どの(知盛)だけは、あなたの人間を、よく
知っておいでです。お引籠りの事情も、御総領(宗盛)と能登どののお計
らいによることと、見抜いておられ、奇っ怪な押籠(おしこ)め沙汰と、内々、
お憤(いきどお)りなのでおざる」
 と、きのうのいきさつなども話して、さまざまに時忠の心を、やわらげよ
うと試みていたのであった。
 が、時忠は、
 「もう遅い。-今は、時忠がそこへ臨んでも何を申すこともない」
 と、腹の底から残念そうに、
 「このまま、病者扱いをうけて、時忠こそは、平家一の卑怯者(ひきょう
もの)と、いわれておるほか身の処置もあるまい。生(なま)なか、一門の
集議へなどは出ぬ方が平家最後のためである。-もし時忠が、その場へ臨
まば、たちまち、平家の内は二つに割れ、醜い内輪争いの果て、そ
れこそ世の笑い草だけを、末路に残そう。-世に笑わるる者は、時忠一
名でよい」
 といった。
 何か動かしがたいものをその容子に見、景弘もそれ以上はもういうを
慎むほかなかった。総領の宗盛や能登守教経などの決戦一途としてい
る烈しい人びとの間には、おりにふれ、かえって血迷いじみた動揺もうか
がわれるが、この時忠には、それがない。胸中なんの秘策があるのか、と
にかく、なんら迷いの風がない。
 「・・・・・では、どうしても」
 未練とは思いながら、座の立ちぎわに景弘がついもう一度、こう念を押
すと、時忠は、いかにも、かれへたいしては気のどくそうに、
 「せっかくながら」
 と、好意を謝し、
 「よそながら、知盛卿へは、よしなに伝えておいて欲しい。・・・・・彼
人(かのひと)の腹と、時忠が量見とは、真(ま)っ向(こう)、両極のご
とく相違しておるやに見ゆるが、平家を思うことと、人らしき道を求めて
いることは、違うておらぬ。・・・・景弘、其許(そこ)と時忠の立場にして
も、そうではないか」
 と、沁々(しみじみ)いった。そしてまた、
 「其許は、厳島の神職。死ないでもよい身なのだ。さるを、領土も捨て、一
族をつれ、この彦島へ参(さん)じて、平家と運命を共にせんとする意気
は、なんとも健気(けなげ)よ。美しくも崇高(すうこう)ですらあるぞ。・・・
されば、其許は其許の思う道を行け。時忠は時忠の道を歩むばかり」
 「いや、分かりまいた。お打ち明けは給わらねど、お心の底は、どうや
ら、ほのかに」
 軒ばの夕空を見、景弘は、何か思い出したものの如く、急に辞して、船
に移り、茜(あかね)の海を、むなしげに彦島へ帰って行った。
 -その景弘が去ってから、小屋の灯が、寂(せき)とした夜を持ちはじめ
たころである。
 海女の芦屋が、軒先に佇(たたず)み「-讃岐さま、讃岐さま」と内をの
ぞいていた。そして時実が出てゆくと、何か小声で言伝(ことづ)てを告げ、
逃げるように走り帰ってしまった。
 人馴れないかの女は、ここへ来ても、いつもこんな風なのである。時実
は小首を傾(かし)げながら戻って来て、
 「父上。あのー芦屋が、たそがれの浜辺で、このような物を、景弘の家
来から頼まれたとか申して持ってまいりましたが、なんでございましょうか」
 と、父の前へ、さし置いた。
 見れば、ただの笛袋である。
 「景弘の家来から?」
 「はい。「何分、芦屋の申すことなので、よく分かりませぬが。半首(は
つぶり)をつけた家来の一人が、きっと、届けてくれよと、芦屋へ頼んで去
ったそうでございますが」
 「さては、その家来とは、桜間ノ介であろう。・・・・時実、中の笛を検(あ
らた)めてみよ」
 父にいわれて、時実は、袋の緒(お)を解き、小刀で笛を割ってみると、案
のじょう、細く巻いた書面が笛の中にかくしてあった。
 まぎれなく、桜間ノ介からの連絡だった。以後の両軍のうごきやら自身
の消息のあとに、-近日、周防(すおう)境にて、密々、判官殿へ拝顔をと
げ奉る所存、とあり、そして、これからの連絡は、海女の小娘の手に託す
か、島の北岸にある楊柳(かわやなぎ)を目印(めじるし)とするか、どっち
かの手段によりますから、おりにふれ、お意(こころ)を注(そそ)がれるよ
うに―という意味もいってあった。
 「・・・・・時実」
 「はい」
 「知っているか、こよいは月蝕だが」
 「まことに、三月十五日でしたな」と、時実は、軒ごしに、空をながめて、
 「まだ月は明るうございますが」
 「やがて、夜半近くともなれば、月はありながら、黒い月になろう。
-ちょうど平家の今に似ている。なんの兆(しるし)か、こよい彦島では、平
家最後の評議があるという」
 「桜間ノ介の密書にも、源氏は、大挙して、周防灘からこれへ下ってくるよ
うですが」
 「ここの浦風は、もう、そくそくと、その近いことを告げている。時実、か
ねがね申しておいてある心がまえ、その日となって、惑(まど)うなよ、血
迷うまいぞ」
 小瀬戸か大瀬戸か、まんまるな月の下に、潮鳴(しおな)りが遠く聞こえ
る。
 出船千艘、入船千艘といわれる海峡の繫昌も、戦近しとわかっているのか、
町の灯もなく、通う小舟の影一つ見えない。ただ、海女の芦屋の小屋
から、晩の煙が、細くゆれのぼっているだけだった。
 
 鬼曲(ききょく)

 彦島の砦(とりで)の中心は、福良(ふくら)にあった。
 知盛は、そこの陣館から附近を、みかどの御所と、兄宗盛の守りに譲って、
自身は、勅旨待(てしまち)の柵(さく)へ移っていた。
 また、小瀬戸と対岸伊崎の口は、新三位中将資盛(しんざんみのちゅう
じょうすけもり)が、柵(さく)を構えて、守っている。
 そのほか、田ノ首、泊(とまり)、江ノ浦などの要所要所にも、それぞれ
な守備と兵船が配されて、彦島全体を、ひとつの城塞(じょうさい)として
いたのはいうまでもない。
 いや、対岸の豊前柳ノ里にも、長門の赤間ヶ関の陸地にも、支隊は派
してあって、ここの海峡を大きく抱いているのである。
 この内ぶところへ、もし、盲目的に突入してくる無謀な敵があるならば、網
にかかる魚群でしかあるまい。「手捕りにもできようぞー」と、平家の陣容
は、いまやその完備jを誇っていた。
 当夜。-つまり宗盛の希望によって催された十五日夜の一門の会議では、それ
らの布陣と、そして、船数や兵力などの、くわしい事情がまず知盛の口
から一同へ、ねんごろに説明された。
 聞くごとに、総領の宗盛は、
 「ほう。・・・・・そうか」
 と、感動を、あらわに出して、
 「さすがは、黄門(知盛》どの。行きとどいた配備ではあるよ」
 と、ほめ称(たた)えたり、
 「かかるうえは、この彦島も、孤島ではない。十重二十重(とえはたえ
)に守られた不落のとりでと申せよう。よも、源氏の水軍とて、やすやす
と近づきえまい」などと先走った安心感をもらして、この重要な一門衆議
の意義を欠き、
 とかく陥いりやすい浮薄な広言と雷同に終わってしまいそうな色めきだ
った。
 -というのも、この夜は、一門のほか、各地の与党の大将までが、みな
列座していたし、わきの簾中(れんちゅう)には女院も二位ノ尼も、蔭なが
ら、成行きを見ていたのである。
 で、総領宗盛は、何かにつけて、一言さしはさんだ。-尼ノ公(きみ)に
対し、諸大将にたいし、事ごとに、自分を示さなければ、気がすまないら
しいのだった。
 知盛は、かれとは、対蹠(たいしょ)的であった。
 どんな話を勧めていても、兄宗盛が何かいいだすと、知盛は黙った。
そして兄の言が終わるのをいつまでも待っている。
 -やっと宗盛が黙ると、また、低声に前のはなしをつづけるといった風
である。
 「ところで、源氏の船かずは、ほぼどれくらいかの。黄門どの、其許の見
とおしは、まず、どうじゃな」
 宗盛は、片時も黙っていない。
 沈黙がつづくと、満座の中に、何か、不吉な考えを忍びこませるような
重くるしいものが、降りてくる気がするのである。それが不安に見え、自
分も不安にかられて来るからであった。
 わけて、能登守の眸(め)など、ぎらぎらと始終、座の面々を見渡してい、
その視線が自分へくると、宗盛は、かれの眼に、鞭(むち)を感じた。
 「さ。・・・・・」と、知盛は、口重く、問者の宗盛が最も忌(い)み嫌
う沈黙をじっとつづけていたが、ようやくそれに答えた。
 「-源氏は、およそ八百艘近いでしょう。きのうのわれとかれの力とは、き
ょう明らかに逆になっておる」
 「えっ。そ、そんなに多いであろうか。いずこの海を狩りたてようと、そ
うほかに船はないはずだが」
 「いや、どこの津々でも、隠し船は持っております。源氏弱しと見れば、
加勢もせぬが、源氏強しと見、平家は落ち目と考えれば、それらの隠し
船も、争って源氏に加わり、おそらく、想像以上、勢いを増しておりましょ
うず」
 座は、暗澹(あんたん)となりかけた。
 宗盛は、ふと、自分も暗い気もちの中へすべりこみかけたが、分厚い体
を一つ大きくみゆるぎして、
 「能登どの―」と、眸を向け変え「お許(もと)は、もともと、水軍の総将、
其許の考えでは、どう思うの?」
 待っていたように、教経は答えた。
 「戦いは、数ではございませぬ。いわんや、水上の合戦では」
 「む。さもあろう」
 「いかに、船数のみ抱えても、海に不馴(な)れな東国勢が、その一そう
一そうを自由自在に使えようとは思われませぬ。ましてここの海門(うなと
)の潮ぐせや満(み)ち干(ひ)の烈しさもわきまえなく、ただ数を誇って来
るようならば、むしろわれらの望むところ、たちどころに渦潮(うずしお)の
魔所へ追い落とし、魚腹(ぎょふく)に葬(ほうむ)り去るは、むずかしいこ
とではありますまい」
 教経が口をひらくと、つねに、虹のような気概(きがい)がある。
 それも、付け焼刃の強がりではない。かれのは、それが真情であった。
心から源氏を憎み、心から平家を死守せんとするほとばしりなのだった。
だから、その白皙(はくせき)な面(おもて)を、ひときわ青白くし、濃い
眉をあげていう悲憤の語りには、りんりたる響きがあって、ひとり宗盛と
いわず、多くの侍大将や公達のたましいをもつかまずにはおかない魅力が
ある。
 「げにも、能登どのがいうこと、もっとも。数ではあるまい。ましてその数
とて、われにも、五、六百艘の船はあること。いくらの違いでもなかろうに
」と、宗盛は、片づけてー「海の平家ぞ。海で敗れてよいものか。したが、こ
れへ源氏が迫って来たときは、どう撃(う)つ計(はか)りか」
 「もとより、われら船陣を押し進め、そのおりの潮(しお)あいを利して、敵
を逆(さか)潮の危地へ追いこむことを、第一の戦略とします。そのうえの、
矢攻め火攻め切こみなどは、臨機応変と申すもの。・・・・・のう、黄門(こ
うもん)の卿(きみ)」
 と、知盛の方を見て、同意を求めた。
 知盛は、わずかに、うなずいた。全幅の同意といった表情ではない。
 かれはむしろ、守ることを主としていた。それは、彦島とりでの構築の
半永久的であるのを見てもおのずからわかる。
 だが、ここで攻守を論じても、始まらない。まだ、敵を見ていないのだ。
敵を見てのうえでいい。-そう思案をきめているらしかった。
 それよりも、かれが、盤石(ばんじゃく)の安心感をもっていたかったの
は、みかどの御位置であった。-合戦にはいったさい、玉座を、どこに安
じておくかである。
 また二位ノ尼や、女院や、ほか多くの女房女童(めのわらわ)などは、
なるべく、矢かぜの外におきたい。万一といえ、それらの傷々(いたいた)
しい者たちへ、後ろ髪を引かれたくない。それが、肝腎ではないかと思っ
た。
 -で、それらの打ち合わせやら、また、女院や尼公の意を伺ったりして
いるうちに、宵もやや過ぎて、そこへその日、船島へ使いに赴(おもむ)い
た佐伯景弘が、どこか、淋し気げな影を姿にもって帰って来た。

 景弘の復命は、まず宗盛を、ほっとさせた。
 「-大理どのの仰せには、せっかく、お迎えを賜(たまわ)ったれど、い
かにせん、この病体。御一同へ悪しからぬよう、わけて、知盛卿へは、くれ
ぐれ、詫(わ)びおいてくれるようにとの、御意(ぎょい)にござりました」
 場所がら、かれのことばは、公式的な口上であった。
 それも事実を告げたものではない。景弘の考えで、ここの集議を刺戟し
ない程度の報告をしておいたに過ぎないのである。
 「・・・・・・・そうか」
 知盛は、らんとした眼で、景弘の方を見た。そしてあとは口のうちで、
 「ぜひもない、ぜひもない」と、二度ばかりつぶやいた。
 こうして、その瞬間の、微妙な空気のうちに、ふと、露呈されていたもの
は、およそ、平大納言時忠の逼塞(ひっそく)を見ている人びとの間に、ふ
たつの見解があるらしいことだった。
 正しく、時忠の心事を察して、ひそかな同感をよせているものと、全然、
時忠をただ二心のある曲人(くせびと)と見、宗盛や教経の処置にさえ、む
しろ「手ぬるい」と思っている者たちとの、二派であった。
 しかし、そのどっちにせよ、時忠の問題を、ここで、おくびにも出しては
悪いことを、たれもが知っていた。-もしこよい、時忠が、迎えにまかせて、
この席へ現れたら、どうなるかとさえ―じつは恟々(ようきょう)と怖(おそ)
れあやぶんでいたのである。
 まずはと、あらかたの顔は、ほっとした色を見せて、
 「やはり、まだよほど、おわるいらしいのう」
 「お病なれば、お横になったまま、集議の場におわすもよろしからんと
まで、黄門どのにも、切なるおすすめのようであったが」
 「なおかつ、ここへお渡りあらぬようでは」
 などと、たれともないささやきににまぎれて、それはそのまま、聞き流さ
れ、次の議題にはいっていた。
 寡黙な知盛は、それからは、一そう口重たげであった。
 といって、姿にも心にも、寸毫(すんごう)の崩(くず)れは見えない。天
命を甘受し、この世の血縁たちとも和して、生涯の結びを、能(あと)う限
り遺漏(いろう)なく美しくすがすがとやってのけたいという願いだけにい
っぱいな姿なのである。自然、それはたれの眼にも、頼もしげに見え、と
りわけ尼ノ公は「・・・・やはり、総領どのとは、おのずと、どこか違う。まさ
しく入道どのが血をひかれ給える御三男よ」と、簾(す)の内から見るのであ
った。
 やがて、評議は閉じられた。ひとまず大綱(たいこう)の決定だけにとど
め、あとは、敵の出方を待とう。そうなったものである。諸大将もぞろぞろ
立ち、べつの座で、賜酒(ししゅ)となった。
 たれやらが、淋しいといい出した。「-淋しい」ふと、それを一人が口
にもらすと、大勢の肉体すべてが一つもののように悴然(すいぜん)とお
なじ心の傷口へ悲風を覚えた。たまらない郷愁と、死の恐れに襲われてく
る。
 平家は勝つ、と信じても、個々の性はたのめない。
 「淋しくば、歌おうよ。笛を吹け、わしは琵琶(びわ)を持とう。誰(た)
ぞ、琴に向かう女性(にょしょう)はないか」    
 管弦となった。
 愉(たの)しむも管弦、泣くも管弦、ここの人びとにとって、管弦はもう
宗教であった。時には甘く、時には傷(いた)み、時には昇華して達観の
境に仙遊(せんゆう)する。
 都にいたころのそれは、月の光も惜しむばかり、命の愉しみを噛みしめ
ることだったが、流浪に流浪をかさねて、あすの大敵におののく身は、忘
れることが、ただ願いであった。つかのまでも、妄執(もうしゅう)の外にの
がれたい管弦と酒であった。
 -自然、楽(がく)の音階は、極端にまで、非調をおび、また嫋嫋(じょう
じょう)とみだれ、べつに人間を操(あやつ)る鬼が人間の蔭にいて、人を
して吹いたり奏でさせたりしているような光景に見えてくる。
 「はて。・・・・・なんたる悽気(せいき)?」
 佐伯景弘は、思わず耳を掩(おお)った。
 かれは神職の耳をもっている。厳島での長い生涯にも、こんな凶韻(き
ょういん)を楽器から聞いたことがない。 
 「生々と、生きの命を愉しむものが管弦だ。それが、あだかも、鬼の哭
(な)くような。・・・・ああ、争われない亡兆の音律よ」
 座に耐えず、かれはこっそり外へ出た。
 そして気づいたことであった。いつのまにか、島にも海づらにも、一こ
ぼれの月光もない。真のやみではなく、何か曖昧(あいまい)な薄暗さが、
天地にかぶさっているのである。
 「・・・・ああ、こよいは、月蝕」
 寿永四年三月十五日―と、かれは暦(こよみ)のうえを思い出した。
 「はて、奇異なめぐり合わせもあるものかな。これ最後の一門集議が、月蝕
の夜に当ろうとは。・・・・楽器(がっき)の音が、流麗(りゅうれい)で
ないのも道理(ことわり)よ」
 ふと、かれは歩みをとめた。
 薄墨を刷(は)いたようなやみの奥に。ぼやっと、二ツ三ツの灯が、見
えた。中門とはいえない粗末な柵門(さくもん)があり、そこから先は、み
かどの皇居となっていた。
 灯の下に、何か、他念なく睦み合っていらっしゃるおん母子(ぼし)の
影が簾越(すご)しにながめられた。ふと、お眼ざめになったのか、みかど
は、おん母の肩にからんで何かはしゃいでおいでのようである。-黒い月が
おめずらしくて、それを見に、負うて、坪の外へ出よと、女院にせがんで
おられるのかもわからない。
 「・・・・・・・・」景弘は、思わずポロポロと涙をこぼした。われにも
あらず、ひざを折って、そこから、おん母子の白く、さやげな影を伏し拝ん
でいた。
 -と、見つけたように、そこへ、かれの子息景信が、そばへ走って来、
 「父上。こんなところにおいででしたか」と、やや息を弾ませていた。
 「景信かー」と、立ち上がって、「わしは、もう酒は充分。わしに心をおか
ず、さり気のう、そちだけは、元の座にいたがよい」
 「いえ。・・・・・ちと、困ったことができましたので」
 「何か、あったか」
 「雑兵のうちにいた桜間ノ介どのが、彦島を抜け出し、それが、資盛どの
の郎党に知れ、佐伯組(さえぎぐみ)から、裏切り者が出た、佐伯どのは、
源氏のまわし者を、彦島へ連れこんだ
のではないかなどと、しきりに、いい噪(さわ)いでおりまする」
 「そうか。いずれは、そんなことであろうとは察していた。おそらくその
とおりな桜間ノ介であったかもしれぬ」
 「どういたしましょう」
 「放っておけ、放っておけ、かれも、ひとかどの男。やみやみと、平家を
敵へ売る者ではない。おそらく、大理どのと、腹は一つのものであろう」
 「でも、内大臣の殿のお聞こえもありましょう」
 「そのため、この景弘が、罰せられるなら、それもまた仕方がない。
-そうだ、大理どのも、仰せられた。わしはわしの道を歩む。其許(そこ)は
其許の道を歩めと。人さまざまよ。平家という大樹の花がみじんに散るのだ。
いちいちこずえを去る花の行方(ゆくえ)を問うてはおられぬ」











































 「広島発、午前7時の新幹線で、東京に向かいました」と、哲也先生から、
電話が入りました。
 孫の友達4人と引率で同行することになった、母親(娘)を含め全員6名
です。新横浜で下車し、まず本日の目的地である横浜の中華街で、食事を楽
しむということです。
 その後、15時ころですが、お台場へ向かうという連絡が家内の方へ入っ
たようです。フジテレビの中を見学し、楽しんだことでしょう。
 新宿駅から、京王線の準特急に乗る際、連絡がありますので、最寄り駅ま
で車で迎えに行こうと思っているところです。
 家内は、春巻き(孫の大好物)をこれから、揚げるところです。若い子ども
たちですので、さぞお腹を空かしていることでしょう。アサリの酒蒸しも用
意をしているようです。
 
 今、連絡が入り18時50分発に乗るとのことです。あと15分経ったら、
迎えに出ようと思います。
 楽しい気分で、わくわくしています。

  2017年3月29日(水曜日)

 昨夜、19時25分ごろに、広島から6人の客人が、最寄り駅に降りてき
ました。皆元気よく挨拶をしてくれ、疲れも見せずに、さすが若い衆という
感じでした。
 さっそく拙宅に入り、まず、家内が、まさに春巻きを揚げ終えた所でした
ので、さっそく皆でいただきました。アサリの酒蒸しもなかなか好評の様
子です。
 食事の後、歩くと15分要する温泉「湯楽の里」へ車で送り、孫を含めた
5人が入湯している間、小生は、自宅に戻り、入浴が済んで上がったら、連
絡をくれるよう頼み、待機をしていました。1時間半が経過したころに連絡
があり、再度迎えに行きました。結構温泉施設の、内湯よりもの露天風呂
の方が気に入って、楽しんできたと感想を二べていました。
 なんといっても、ここの温泉は、泉温が67.5℃くらいあって、湧出量
が毎分70ℓという「源泉かけ流し」が、露天風呂となっていて、国立市と府
中市の市境いに所在し、この近郊では、ナンバーワンの温泉だといえます。
 小生は、帯状疱疹がまだ直り切っていませんので、遠慮をしておきました。
 温泉から帰ってきた後、遅くまで、孫は友達同士で、雑談をしたりしてく
つろいでいました。

 今朝は、4時半ごろに起床、客人は眠い眼をこすりながら、辛(つら)そ
うで、気の毒でしたが、5時半に、家を出発し、JR[府中本町駅」へ、車
で送ってやりました。
 1時間に1本しか走っていない午前6時発「東京』行きの電車に乗り込み、
ディズニーランドの最寄り駅、」舞浜」へと向かいました。電車の中で、家
内が持たせたおにぎり、おちゃ、昨日、京王百貨店の「コージコーナー」で
用意した、お菓子などをほおばりながら、あとは居眠り状態での車中だった
と想像しています。
 帰りは、遅くなるようですので、路線のルートが、都会まわりになりそう
です。この方が、所要時間も少なくてすみますが、今朝のルートは、1時間
40分を乗り換え無しで行きますから、ゆったりと、舟をこぐこともできま
すし、飲食が、割りとし易い雰囲気があるところがよいと思います。

 留守番となった、哲哉先生と、孫の信ちゃんには、申しわけないのです
が、明日にはもう帰る日ですから今少しの辛抱ですね。火の元だけは気
をつけて、院長先生の職務をマイペースで頑張ってください。
 
 さて、一行は無事ディズニーランドに到着したのでしょうか、現地ではこ
の日すでに千葉在住の姉娘とその子ども二人が早朝に入園し、アトラク
ションの予約などに奔走してくれると聞いていますので、できるだけ多くを
楽しんでくれているものと思われます。夕方には、レストランで食事を共に
するそうですから、さぞ思い出に残る、中身の濃いひとときを過ごしてくれ
ることでしょう。

 2017年3月30日(木曜日)

 昨夜、広島からの客人たちは、ディズニーランドを愉しんで22時40分に
「府中本町駅」に戻ってきましたので、車で迎えに行き、無事わが家へと。
 乾草を聞いてみますと、アトラクションにも満足気でした。また18時から
のバイキング料理もお腹いっぱいに満たしたようです。
 それもそうですが、かなりの疲労と眠気がきているようでしたが、さっそく
例の温泉「湯楽の里」へ案内し、疲れを癒やしてもらいました。

 今朝は7時に起床してもらい、朝食、宅配便にのせる荷物の準備などを
済ませて、最寄りのバス停まで、小生もいっしょに行き、6人の旅人を見送
ってきました。
 今日は、東京スカイツリーと浅草寺を見物して、帰路に就くことになってい
ます。さぞ良い思い出作りになると思います。








クラナーハが「ルクレティアの自害」という主題を採りあげた例は数多
くありますが、その中でも本作は、際立って良質な作品のひとつです。
ここでは、様々に異なる素材を描き分け。情感を喚起するクラーナハの
能力が存分に発揮されています。主役であるルクレティアの身体を、膝
のあたりまで表わすことによって、クラーナハは彼女が身にまとっている
衣裳の魅力的な襞やテクスチャーを、あますことなく視覚化しました。ル
クレティアは、黄金のチェーンや宝石のちりばめられたネックレスで首も
とを飾る。裏地に毛皮のあしらわれたビロードのマントは、今にも肩から
滑り落ちそうだが、彼女はそれを左手でつまみあげる。そして優雅にに
たっぷりと広がったその袖は、何段にもわたって絞られている。こうした
ルクレティアがまとう驚くほど手の込んだ衣裳は、当時の宮廷で流行して
いたモードを採り入れたものです。と同時にまた、これはクラーナハが本
作の受容者として想定したひとびとの、その社会的地位の高さを反映した
表現ともいえます。
ですが、本作に固有の技巧的表現も見られるとはいえ、ここでルクレティア
がまとっている衣裳は、クラーナハが描いたほとんどすべての女性像に共通
する、いわば、「クラーナハ的なもの」を特徴づける一種のユニフォームの
ごときものである。クラーナハの工房では、同一の画題や構図がくりかえし
描かれた。もちろん、それだけが理由だったのではないにせよ、かれの工房
では制作の効率化をはかるために、女性像の衣裳がある程度まで規格化さ
れ、顔の表現なども類型化されたのです。この傾向は、特定の高貴な女性
を描く場合であっても、何ら変わりなかった。彼女らは概して、似たような
肖像として描きだされたのである。こうしたことはしかし、男性の肖像画に
はみられない特徴です。ヒューストン美術館に所蔵されている本作の《ル
クレティア》も、そのようなクラーナハの女性像に類型的な容貌を備えてい
る。ただし、かなり画一化された外観をもつにもかかわらず、本作のルク
レティアは、たとえば首を傾ける仕草などをつうじて、自身の悲しみや絶望
などの心情を観者に訴えかけます。こうしたところに、クラーナハの力能が
示されています。
 この絵画はまた、ルクレティアの背後に窓を配し、その向こうに山々を中
心とする情景を描きだしています。そこには切り立った崖やモミの木、小さ
な街並みなどがみえる。こういった風景描写が挿入されたのは、構図に一
定のバランスを与えるという目的もあってのことだと思われますが、その画
中画たる風景画は、クラーナハのもう一つの側面、すなわち風景画家とし
ての力能を見せつけるための仕掛けでもあったのでしょう。その画中画た
る風景画は、クラーナハのもう一つの側面、すなわち風景画家としての力
能を見せるための仕掛けでもあったのでしよう。かくして本作は、その画面
全体が、クラーナハが画家としての卓越した技倆を誇るための展示空間とも
なっているのです。
   1529年
  油彩/板
  74.9×54㎝
  ルクレティア サラキャンベル・ブラッツファー財団、ヒューストン
CIMG0004


















 寂しげな埠頭の景色です。暗い色の中で、白っぽく光る海や、地面のく
すんだピンク色と緑色が際立って見える。この頃、藤田は坂道や地面の
起伏などを
生かした画面づくりを研究していたようですが、この作品でも
海と浜辺、防波堤の高低差で変化をつけています。また、人工的なモチ
ーフの直線で作るきっぱりとした構図は、この場所ならではのものでしょ
う。そこに雲の柔らかな形が絶妙なアクセントをつけます。シンプルなが
らよく考えられた造形が魅力的な一作です。
 一方、風景全体に漂う空気は重く暗いもので、影のように黒く小さく描
かれた三人の人物が謎めいた雰囲気を加えています。じっと見ていると、
描かれた場所も時間も分からない、架空の景色なのではないかとさえ思
えてくる。
 けれども、ここはフランス北西部ノルマンディー地方の港街ルアーヴル
だという。しかしその街のイメージとはあまりにかけ離れた風景です。ル・
アーヴルはその歴史を16世紀にまで遡るセーヌ河口の古い商業港ですが、
このころ、多くの画家にとっては「印象の発祥地」として憧れの場所に
なっていた。モネの育った街であり、《印象、日の出》(1872年、マ
ルモッタン・モネ美術館)を生んだ土地としても知られていたからです。
さらに一般の人には避暑地として親しまれていました。ところが、藤田の
作品は印象派的な明るい色彩とも避暑地の穏やかなイメージとも無縁の、
暗く寂しい様子です。もちろん第一次世界対戦下の空気も反映されてい
るはずですが、より大きな理由は、この頃の藤田が哀愁を込めて風景を
描き出すことに大きな関心を寄せていたからだと思われます。同時期に
彼が集中して描いたパリの街はずれの寂しく寒々しい空気と深く通じる
景色です。どんな場所を描こうとも、自分らしい景色にしてしまうのは、
すでにこうした風景表現を自身のスタイルに定めていた証といえるのか
もしれません。

 1917年
 45.8×60.9cm
 布/油彩

         ルアーヴルの港 横須賀美術館 
CIMG0001



















 1910年代後半、古拙な造形の人物画などと並行して取り組んでいた
のが風景画です。パリに到着してすぐの頃に描いたという「最初の快心
の作」も風景画でしたが、本格的に取り組み始めたのは1917年以降と
考えられます。

 題材にしたのは、主にパリの風景で、街中ではなく街外れの景色を好
みました。華やかな名所でも、自然豊かな郊外の写生地でもなく、うら寂
しい場所をわざわざ選んで描いたのです。その多くはパリ市内と市外を
隔てる城壁の近くで、中でも自身が暮らした14区と隣接する地域が中心
です。当時城門は、税関として機能はしていましたが、城壁の周辺には
工場などが立ち並び、周囲に貧困地域も点在していました。いわば、パリ
の近代化によって生み出された影の部分の一つでしょう。

 《パリの風景》は、城門の一つヴァンヴ門の周辺を描いています。大き
くカーブを描く道を中心に、右には人工的に土を盛った斜堤と石造りの城
門。左に低い塀で囲まれた家々を描いています。ほとんど灰色一色の画
面だが、地面の起伏を生かして上手く構成をしています。画面の奥には
雲に覆われた低い空と、工場の煙突や電柱、左手へと走り抜けていく汽
車も見えます。1月の景色だといいますが、なんとも寒々しい。冬枯れの
木々や手押し車を押す人、とぼとぼと歩道を行く人が、もの悲しい雰囲気
をさらに増しています。
     
           パリ風景  
CIMG0003




















 一方、《モンルージュ、パリ》は、ヴァンヴ門より1.5キロほど西のオル
レアン門を出たあたりで、青空も高く心地のよい景色です。木々の緑、道
を行く女性の赤い上着など、色彩も画面に温かさを加えています。
描いた季節の違いのためか、《パリの風景》の暗い空気とは大きく異なり
ますが、遠くに見える煙突や、柵、低い塀など、共通するモチーフは多い。
穏やかな情景の中にも、城壁近くのうらぶれた寂しさを漂わせているので
す。

 1918年
 84.0×103.5cm
 布/油彩

      モンルージュ、パリ  東京国立近代美術館
CIMG0004

































 他の画家が目を向けなかった風景を描いたことについて、後に本人は
「自分も貧乏していたから、貧乏人の家ばかりを描いた」「寂しい風景が自
分の境遇そのものだった」などと語っています。
とはいえ、このような場所を取り上げた前例がなかったわけではありませ
ん。例えば、写真家ウジェーヌ・アジェ(Ⅰ857-1927)は、第一次世
界大戦直前の城壁を題材にしたシリーズを撮っていて、おそらく藤田もア
ジェの写真を知っていただろうといわれます。そしてさらに大きな影響を
与えたと考えられているのがアンリ・ルソー(Ⅰ844-1910)です。正当
な美術教育を受けず日曜画家として、描き始めたルソーは、朴訥な表現
の絵を大真面目に描いた人物です。大方の人々に笑い者にされていた
彼の作品にいち早く着目したのが、ピカソや詩人アポリネールらだった。
藤田はピカソのアアトリエを訪れた時、そこで目にしたルソーの人物画に
衝撃を受けたといいますが、より直接的な影響がみられるのは風景画で
しょう。パリ市の税関に努めていたルソーが、退職後に多く描いたのが、か
つての勤務地である城門や城壁の周辺だったのです。

 描いた場所だけでなく、描き方に与えた影響も大きい。稚拙とも思える
ほどアカデミックな規範から外れたルソーの作品に、強い感銘を受けた
藤田が目指したのが、素朴な味わいの表現でした。例えば、《パリの風
景》の遠景の積み木を重ねたような家々や、雲や煙のくっきりと丸い形な
ど、あえて拙(つたな)い線で描き出しています。
《モンルージュ、パリ》でも、まん丸の植木や、ぼこぼことした畑の野菜、
少し歪んだ塀など、素朴な形の捉え方が際立っています。そして、このル
ソー風の素朴な描き方によって、風景が柔らかく、どこか懐かしいような
雰囲気でとらえられているのです。城壁周辺の寂しさをただ痛々しく伝え
るだけに終わらないのは、描き方の力が大きいからでしょう。

 藤田の風景画に漂う、ある種の「懐かしさ」はパリの人々の共感も呼び
ました。城壁はこの前後に取り壊しが始まり、多くの人びとによって郷愁
を誘う風物でもあったのです。後に本人も「パリの城壁には、自分が少年
時代に親しんだ東京の『見附』〔つまり江戸城の城門跡〕にも通じるもの
があった」と述べていますが、パリの人々にとっては「異邦人の目で捉え
たノスタルジックなパリの風景」として新鮮に映ったのです。さらにこのこ
ろルソーの評価が高まったことも後押しになり、「ルソーの後継者」という
好評にもつながったのでした。

 1918年末のドウヴァンべス画廊での個展の際には、多くのパリ風景が
並び高い評価を得ました。ドウヴァンべス画廊は前年に初個展を行ったシ
ェロン画廊の親戚筋にあたる画廊ですが、より有力でいわば格上の画廊で
す。こうして風景画は、一部の美術愛好家の間で、藤田の名が知られるよ
うになるきっかけを作ったのです。



















 友達には、1ヵ月くらい前から、4月9日(日曜)に、大阪で法事を済ませ
た後で、広島へ、遊びに行く予定ですから、姫路で途中下車をし、貴殿と
会って、お堀の観光舟で花見をしたい旨伝えていました。
 そうしましたら2、3日前に友達から連絡が入り、花見だけで終わらすの
ではなくこの際、その足で小さな旅をしようという案が浮上してきました。
話し合い調整の結果、初日の4月9日(日曜)は、姫路城周辺の夜桜見物
をし、この日は友達の家に近い、ホテルにチェックインすることになりまし
た。
 中学時代の友ですが
、東京と姫路では、なかなか会う機会も難しいため、
それに人生一期一会という言葉もありますので、ドライブと、観光を楽しみ
ながら、温泉では、「積もる話でもしようではないか」という計画を友にし
ていただきました。ある意味では、小さな小さな同窓会みたいなものです。
 4月10日(月曜)には、ホテルまで友が迎えに来てくださり、一路、鳥取
県を目指します。鳥取観光をした後は、三朝温泉
で1泊することになりまし
た。
 そして、4月11日(火曜)
は、石見銀山とか、友のおすすめの文化財を
ねたりして、この日は温泉津(ゆのつ)温泉で2泊
目を予定しています。

        温泉津(ゆのつ)温泉での宿泊先  輝CIMG0121雲荘



















    温泉津(ゆのつ)温泉での宿泊先   輝雲荘
CIMG0123

















    温泉津(ゆのつ)温泉での宿泊先   輝雲荘
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   温泉津(ゆのつ)温泉での宿泊先  輝雲荘
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 最終日の4月12日(水曜)は、少し名所などを訪ねながら、可部線の可部
まで小生は送っいただき、ここで、友達と別れ、小生は、広島の娘夫婦の
家へ電車を利用し、お邪魔しようと思っています。
 
友には、娘夫婦が、開業している「伊藤愛犬病院」をぜひ見てほしいと願
っていま
したが、可部から車で4時間もかかるといいますので、無理はいえ
ないと諦(あきら)めました。

 母の故郷は、この温泉津(ゆのつ)温泉からそう遠くないところにあります。
今は母も亡くなり、代も変わり残念ながら私たちとの交流はありませんが、幼
いころ、浦の浜から小舟で、遊覧を愉しんだことを思い出し、以前、こんな絵を
描いてみました。この浜から、銀を船で搬出したという歴史があります。このた
び、この温泉へ、旅することになり、感無量です。

               浦の浜港
141007_100949




















              浦の浜港  
012 (5)



 朝からの雨は久しぶりにまだ降りつづいています。木々、植物にとって
は、恵みの雨といってよいと思います。今年は、異常に雨量が少ないよう
ですから心配をしています。
 今日は、午前中、皮膚科と、眼科に診察を受けに行きました。
 最初に眼科へ診察券を提出してから、まず皮膚科で診察を受けました。
治療が始まりました。医師は、ようしゃなく帯状疱疹によって、黒くなっ
て出来ていた3か所のかさブタを、剥(は)がしてしまいました。少々痛
みを伴いましたが、剥がした箇所に看護師さんが軟膏を塗って、処置がす
みした。
「かさぶたは、除去しないと、その下の肌の再生が遅れる」からだとのこ
とでした。
 つづいて眼科では、医師の診察は「右目の瞼の腫れもだいぶ引いてきて
いるし、両目の眼球にも異常はありません」との診断でしたので、安心を
いたしました。
 その後、画材屋さんにより、この間、新会員になられる方の絵の具を選
定し、パレットのコンパートメントにそれぞれ絵具を注入てあげた関係で、
自分も新たに、欲しくなりましたので、ドイツ製をさらに2本追加して、一
式《26色》揃えてしまいました。

 帰宅してみますと、広島の、「ヤマダデンキ」から、宅配便が届いていて、
さっそく家内が広島の娘に電話をしましたところ、やはり、娘からで、「前
々から、プレゼントしようと思っていた布団用の掃除機です」ということで
した。
 午後、家内が、さっそく敷布団とかけ布団をこの掃除機を使って、きれい
に掃除していました。吸い取った埃(ほこり)は、外部からも識別できる方
式で、埃など肉眼では見えないのですが、意外と細かなものが集塵されて
いたことに驚いています。
 たぶん、ダニも捕集できたかもしれません。ダニは、ヒトの皮膚のはがれ
た小さなもを餌にしているといいます。喘息’ぜんそく)の原因ともいわれま
すので、今後威力を発揮してくれるものと期待をしているところです。
 なんといっても、従来の掃除機に比べて、フィルターの交換が不要ですか
ら、手入れが簡単です。

 身内でこういうのも、おかしいかもしれませんが、娘はよく私たちのこと
にも気づかってくれるので、感心もし、ありがたくも嬉しく思います。これ
も哲哉先生の思いやりがあるからこそででしょう。
 「28日から、6人で、お邪魔しますので、よろしくお願いします」との
手紙も添えられていました。手紙は、ひと手間かけただけに、味わいがあり
ます。
今年から、高校生と中学生になる兄弟の写真も、添えられていました。孫の
成長が楽しみです。
 近い将来、東京の大学へと、希望しているそうですから・・・・。
 記念に夕方、小生はこのプレゼントしていただいた掃除機を,素描し、そし
て着彩にかかりました。
 明日、もういちど、作品を見直ししてから、仕上げにかかろうと思います。

 3月23日(木)

 午前中、京王百貨店で買い物を済ませ、午後は、JTBに行き、4月9日
に大坂で法事を予定していますので、新幹線の切符を購入してきました。
法事を済ませた後、夕方の新幹線で、家内は広島の娘夫婦の所へ、小生
は、姫路駅で下車、この日はホテルへチェックインする予定にしています。
翌日に中学時代からの古い友達と会って、姫路城周辺の桜見物をと考え
ています。出来れば、お堀の遊覧船で、花見ができると、もっと嬉しいので
すが・・・・・・。
 その後、友達の家を案内していただき、そのまま、今度は車を利用して三
朝温泉に向かい、そこでゆっくりと積もる話でもしようと、友が企画してく
れているようです。
そして、奥出雲まで足をのばし、奥出雲辺りで、もう一泊してから、広島の、
娘たちの家まで、送っていただけるそうです。娘の家でお茶でも飲んで、食
事もしていただいてから、友には姫路へ帰っていただこうと、考えています。
 この前の友の話では、可部まで送るとのことでしたが・・・・。

 その前に、3月28日は、広島から娘と、息子(孫)、それに息子の友達
4人(計6人)が、大勢わが家に遊びに来てくれ、春らしい、うれしい出来
事が始まります。優くん元気な姿を、見せてくださいね。

 布団掃除機の絵ですが、見直し時間がありませんでしたから、ありのまま
掲載させていただきます。
 この絵は、前面を現し、集塵状況も外部からから目視できます。
この裏側に、捕集機能を持っています。一見よろい蟹(かに)を連想させる
デザインに見えます。
 軽いため、片手でかるく掃除ができる優れものです。

 下部の青い部分は、台座です。

       布団クリーナー     F6  アルシュ
CIMG0118



































 2017年3月25日(土曜日)

 家内が太陽の陽ざしに布団を当て、干してくれましたので、部屋に取り込ん
だ後、興味がありましたので、自分で。布団クリーナを使って、敷布団から毛
布、それに掛け布団、シーツまで、右手で、クリーナーをもちながら掃除をし
また。
眼には見えない細かな埃が、綿状になって捕集されました。
 今夜は気分的にも、快適な睡眠になると思います。
 「ダニ」さんに、さようならをした気分です。

 2017年3月27日(月曜日)

 冷たい雨が降る中、皮膚科と眼科へ行ってきました。
今日は、こんな天候でしたから、患者さんの数が少なく、余り待つこともなく
診察を受けることが出来ました。
 皮膚科では、二か所の、患部の古い皮膚を剥がし、いつもの軟膏を塗って
いただきました。そして眼科に行きますと、眼の方は、すっかり治りましたの
で、今日で、卒業でした。
 「おかげさまで、助かりました。ありがとうございました」と、眼科医に謝
意を述べてきました。

 布団クリーナーの絵を修正してみました。

       布団クリーナー     F6  アルシュ
CIMG0131





































 2017年3月30日(木曜日)

 今日は、日中の気温が17度まで上がるそうですから、桜の花も一気に開
花が進むと思われます。
 3月28日から、広島の娘と息子(まご)それに息子の学友4人が、わが家
を訪れ、東京見物もすませて、本日、東京スカイツリーと浅草寺を観たあと、帰
路につきます。客が6人にも来てくれるのは、初めての経験でしたので、食事
から、布団の用意など、大変なことだということが、よく分かりました。家内
が大奮闘をしてくれました。
 今日は、さっそく6人分の布団を家内が干していました。午後取り込む時に、
この布団クリーナーが活躍してくれることになるとおもいます。

 帯状疱疹の方ですが、右頭部とこめかみ、それに眉間(みけん)と眉のあた
りが、完治していません。医師からいただいた軟膏をぬるだけしか処置のしよ
うがありません。この病は、決して侮ってはいけないと、つくづく思っています。


















 お彼岸を過ぎると、やはり春らしい陽射しが、穏やかに部屋へ差し込ん
でいます。帯状疱疹のほうは、右頭部のかさぶたあたりから右後頭部にか
けて、痛みが時々走り、なかなかまだ、完治しないようです。右目の腫れ
も少しまだあります。
21日にはまた、皮膚科と眼科に行き、診察を受ける予定にしています。
 2月28日ごろに、この帯状疱疹が発症してから、水彩画を描いていま
せんでしたが、久しぶりに素描していたものを、昨日仕上げてみました。
      
            秘 湯       F6アルシュ
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 4月25日から、入会を希望されている方に、以前、絵具ほか一式をそろえ
てあげました。
 そんなこともあり、小生もほしくなりましたので、その人が揃えたものにあ
と2色ドイツ製の絵の具をプラスして購入しました。
 この絵具を使って風景を描いてみました。

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