atusisugoiのblog

 歴史の詩と真実

 古典「平家物語」は、全体としては平家没落の大抒情詩であるが、
 「傲(おご)る平家」に対する新しい歴史の担い手として、義経に多く
の筆を費やしている。
 古典平家は、都へ入ってくる以前の義経の前半生については、ほとんど
触れていない、叙述ぶりは、まるで彗星の出現のようである。おそらくそ
れが世人一般の、わけても都の人たちの印象だったのだ。この青年を、人
はほとんど知らなかったのである。
 この若武者の過去について、古典「平家」が触れているのは、ただ一ヵ
所。
 「一年(ひととせ)平治の合戦に、父討たれて孤(みなしご)にて有し
が、鞍馬の児(ちご)にて、後には金商人の所従となり、粮料背負て奥州
へ落惑(おちまど)ひし小冠者が事か」
 というくだりだけである。しかもこれは地の文ではなく、壇ノ浦で対峙
している平家方が義経軍といい合いになった折の言葉である。この表現は、
義経の数奇な運命を語っているとともに、定かならざる生いたちへの蔑み
をも表わしている。
 そういう「小冠者」が。いまをときめく常勝若武者だからこそ、義経の
輪郭は、驚異と畏怖の念をともなって、くっきりと印象づけられる。古典
「平家」の語り手は、そういう効果をはっきりと承知して話を進めている
ようである。
 ところで、平家を西海に追いつめて討伐が成功したと同時に、義経の運
命は急転回する。頼朝の勘気と猜疑である。頼朝は大功あるこの弟を、凱
旋将軍として鎌倉へ迎え入れることを禁じる。義経は、釈明文を大江広元
に送ってとりなしかたを頼む。有名な腰越状である。しかし頼朝はききい
れない。鎌倉口まで来ていながら、頼朝に会うこともできない。頼朝の返
事は、「いそぎのぼらるべし」と過酷である。また都へ行け、という。従
がわざるをえない。
 このあと、義経の運命は、ひたすら没落の一途である。後白河法皇から
頼朝追討の院宣を受けたものの、兵を集めるのに遷延しているうち、こん
どは逆に、法皇は義経追討の院宣を頼朝にくだす。義経は政争政略のなか
で翻弄される。都を落ちて西国へと逃げてゆかざるを得ない。
かつて彼が平家を追いつめた行路が、いまは彼自身の没落の道となる。
古典「平家」は「朝(あした)にかはり夕に変ずる世間(よのなか)の不
定こそ哀なれ」」と、感慨深く語っている。
 義経はなおも敗亡の道を歩まねばならない。大物浦の遭難のあと、彼の
姿は吉野山中に見え隠れする。そして「平家物語」は、そこで筆をおさめ
て、それ以降の義経を追ってはいない。前半生の筆を省いたと同様、その
末期にまでは筆は及んでいない。
 しかしやがて、まさに「平家物語」の語らなかった部分が、さまざまな口
承や伝説としてよみがえる。義経は滅び去らない。語り伝えは、各地に発
生し、つぎつぎと伝えられて数百年も生きつづけた結果、「平家物語」か
ら二百年ものちに、義経誕生から死までの一貫した物語が出来あがる。
「義経記」の成立である。
 「義経記」は、むろん正式な史書ではない。ここでの義経は、大勢の人
びとの思い出の中に生きつづける義経像である。
 だから、話は派手に理想化される。全篇これ「判官贔屓」で盛大に語ら
れる。
 それならば、「新・平家物語」の作者は、義経をどう描きだしたか。
 「私も判官贔屓になりそうである」と、ある日作者は、随想に書きしる
している。しかし、結果としては、そうはならなかった。というより、作
者は意志的に、そうはなるまい、とつとめたようである。
 「義経記」の語り口がその代表例であるように、義経は国民的英雄とし
て広く人の口にのぼる。歌舞伎をはじめとする民間芸能はあげて、美男の
義経を主人公に設定し、その悲運や悲恋を倦かず語りつぎ、たとえば、弁
慶との間にみられるような主従関係のうるわしさを繰返し描きつづけた。
 が、じつは、物語や芸能の義経の豊富華麗に反して、義経の実像を決定
づける材料は、きわめて乏しい。実情は多くの謎に包まれている。
 そして「新・平家物語」の作者は、義経の生涯を派手に物語ることをつ
とめてさけて、その謎に挑戦する。
 おそらくこれは、多くの人から国民的文学を期待されていた作者が、国
民的英雄を描出するにあたってみずからに課した、一つの責任のとりかた
だったのであろう。

 前回にも紹介したが、吉川英治氏は、
 「新・平家物語」は、古典平家物語に拠っていない」
 と、発言している。この言葉に託していたであろう作者の抱負について
は、すでに記したが、そのこととはべつに、新「平家」は、古典「平家」
のみを典拠といしているのでないことの自注の意図も含まれていたろう。
 作者は、「平家物語」、「源平盛衰記」、「義経記」はいうに及ばず、
「吾妻鏡」にはじまる史書一般、あるいは「玉葉」を代表する公卿日記、
そのほか民間伝承等々、じつにおびただしい文献を駆使している。
 したがって、新「平家」は、事実関係においても、古典「平家」への批
評ないし批判の役割を担うことになる。
 たとえば作者は、「随筆」でつぎのように記している。
 「義経の屋島急襲には、古典そのまま、うのみに出来ないことが多いの
で考えさせられている。たとえば、大風浪の中を、今の大阪から阿波の小
松島附近まで、わずか四時間で着いたことになっているが、いくら追い風
でも潮流に乗ったとしても、いささか誇張ではないかと疑われる。
また、船五艘に百五十騎が乗込み、上陸直後、戦闘に移って、そのまま徹
宵で今の高松市の近傍まで駆けつけ、またすぐ戦闘に移ったという点など
も、肉体的、時間的に、どうかとおもう。たとえば、当時の船の積載量か
ら見ても、馬匹の輸送などは、そう簡単たなわけにはゆかない。そんな詮
索などはしないで、原話のままの方が、勇ましいにちがいないが、この小
説は、平語のように、琵琶へのせて語るものではないから、現代の読者に
は、何とも古典のままではお目にかけられない」と。
 このように吉川氏は、事実主義に立って資料を読みとる。こういう氏の
実証主義は、壇ノ浦ではいよいよ精密に発揮され、「吾妻鏡」や「玉葉」
などの文献からみて、前月十五日の夜が月蝕であった事実をつきとめると、
その暦数から、合戦当日の潮流の干満時刻を化学的に算出し、それを基標
として、義経、知盛両将の海戦のかけひきを描いているのである。
 こうして新「平家」の作者は、科学的証明主義をできるだけ推進してい
ったあげく、証拠のそろわないことに対しては、断定的仮説を立てること
を用心深く控えている。その一つの例証が、安徳帝の入水のくだりである。
安徳帝はまさしく壇ノ浦で藻くずと化してしまったのか。あるいは難を逃
れて生きつづけたのではなかったか。
安徳帝終焉地とかいう遺蹟伝説の類は数十も存在する。作者は、いくつか
の可能性のあることを記して、にわかな決定を避けている。
 歴史小説は、作者の恣意的な想像力の産物であることはできない。吉川
文学が広汎な読者の信頼を得ている一つの理由は、絵空事でないという信
用である。大部分の読者は、吉川氏の作品によって、「本当の歴史」を読
みとろうとしているのである。
 しかし、絵空事でない、ということは、単に史実を列挙配列していくこ
とと同じではない。
 その一つの例証-
 「吾妻鏡」によると、静の生んだ義経の子は、「台命二依ッテ由比ヶ浜
二棄テシム」となっている。が吉川氏はここを書くにあたって、静の身柄
一切を預けられた安達清経が、これを沖の間から世間の闇へと、ひそかに
助け落としたとしている。なぜ、そうしたか。氏はその事情をつぎのよう
にのべる。
 「私には、いくら頼朝がしたことでも、どうにもこのことがいやなので
ある。
「君命で棄てさせた」とはあるが「殺した」とは記録にもない。そこに作
家の空想を容(い)れうる余地は充分ある。ぼくの空想が否定される確証
は何もない。ここからあの辺の小説は編まれているものである」
 ここに史眼がある。あるいは作者のやさしさがある。
 絵空事でない実証性が、こういうヒューマニズムによって支えられてい
るところに、吉川文学が成立する。絵空事でない「新・平家物語」が、読
者に励ましや慰めを与えるのも、一にかかって、作者のやさしい史眼によ
っているのである。



















イギリス製の「タンノイ」から日本製の「ケンウッド」のスピーカに交換
したそのころから、スピーカ音が自分の理想とするピュアさがないので、
常々不満に思っていました。そしてさらに、このごろは、右のスピーカか
ら出る音が小さくなり、アンプの左右音のバランスを調整するつまみをか
なり強く(時計方向)に回して聴いていました。
それでも、スピーカーから出る音は、濁って、籠るような音質でした。
 そこで、現在使用していない2階にあるFMチューナーを階下に持って
きて、セッティングをしました。それにアンプの裏面を凝視すると、スピ
ーカーのケーブルがアンプに確実に接続されているかどうかということが
ひらめき、点検してみますと、アンプ側のセットねじが左右ともゆるんい
ることを発見、さっそく増(ま)し締(じ)めを行い、音を出してみます
と、なんとクリアな音質が左右から飛び出してきました。
 このケンウッドのFMチューナーは、購入してから35年は経っている
と思いますが、FM局七つをはっきりと受信できることを確認しました。
このチューナーの超耐久性能に、驚きました。期せずして、スピーカーも
ケンウッド製のスリーウエイスピーカですので、なんだかうれしくなりま
した。これで、また楽しい音楽がオンエアでき、今日は大変すばらしい日
に思えました。
 なお、デンオンの、今まで使用していたチューナーは、ラックの中にそ
のまま置き、予備としてセットしました。ちなみにプリメインアンプは「
デンオン」です。

 今朝は、最低気温が―2.4℃と今シーズン初めて零下となりました。
日中は陽射しはたっぷりとあり、穏やかな気候です。
 従来の紙フィルター用電気掃除器は、千葉の娘たちの家に持って行くこ
とになりましたので、自宅から歩いて5分の所にあります家電量販店(ノ
ジマ)へ行き、サイクロン式電気掃除器を購入してきました。排気フィルタ
ーがなく、二段遠心方式というキャッチフレーズに魅かれ、選定しました。
メーカーはシャープです。サイクロン方式の掃除機が、今後も主流となる
ようです。
 早速、組み立てて、テスト運転で使って見ましたが、外部から遠心分離
機が回転している様子がわかり、マシンというイメージですらあります。
運転音も気になるほどでもなく、自動運転にすると、負荷に応じて回転数
が変化するようです。手動で、強弱運転も可能です。
 集塵したダストを処理してみましたが、いたって簡単ですので、助かり
ます。ただ蓋と相手のあたり面へに施してあるリング状のゴム製シールパ
ッキングは、汚れを丁寧に除去するよう心掛けたほうがよいと思いました。
 このパッキンに傷がつくと、気密性が悪くなりダストが外部へ出てしま
うようになるからです。

                         サイクロン式電気掃除器
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 昨日は、家内と一緒で、友達の水墨画を鑑賞させていただきました。幸い
気温は低いものの、好天に恵まれ、お蔭様で快適な時間を過ごさせていただ
きました。鑑賞後、友達夫婦と一緒にランチを愉しんだ後、これからどうさ
れますかと氏にお訊ねしたところ、近所の方が、これから作品を観に来てく
ださるのとのことでしたので、これを機に御馳走になったことを謝して帰路
につきました。
 来年の春(3月)に、府中市コミュニティー文化祭がありますので、その時、
ご夫婦で私たちの展示作品を見に来て下されば、うれしいのですが、また時
期が来ましたら、先方にお知らせしようと思っています。
 帰宅し、おやつを食した後、いつもの多摩川を土手沿いに散歩に出かけま
した。往きの15時15半ごろは、西陽(にしび)が逆光になっていて、富
士山も見えなかったのですが、帰りの16時1615分頃でしたでしょうか、
富士山の後ろの方向に太陽が沈みをかけているのを感動しながら見ていまし
たが、あっという間に隠れてしまいました。山の向こうでは、まだ夕焼けが
強く光って絶景でした。帰宅後、さっそくスケッチ帳に、あの光景を描いて
みました。

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 2017年12月9日(土曜日)

 今朝の府中市の最低気温は、0.2℃と今年の記録を更新しました。
朝から陽射しがあり、風もなく穏やかな冬らしい天候でした。あすの朝は
今年初の零下になりそうです。
 今日は、隣の市である国立市へ、家内の友達が、パートをされている「
パン屋」さんへ出かけました。この店でしかないオリジナルのものが揃え
てあり、小生が好きなパンも一つあります。フランスパン風の中に加工し
た甘い小豆(あずき)を入れたものです。
 夕方前に、いつもの多摩川べりを散歩し、16時15分頃の日没時の富
士山を描いてみました。

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 昨年の正月は、今年高校1年生になった、優哉君が、受験前でしたので、
帰京はできませんでしたが、その代わりに今年の4月には、娘と、優哉君
と彼の友達4人が大挙して、拙宅へやって来てくれました。この時は、信
哉君と、哲哉先生は来れませんでしたので、今年の正月こそはと楽しみに
していました。
 本日夜に広島の娘から電話があり、12月30日に、千葉県船橋市の、
「二和向台駅」に、夜遅く到着する旨の話がありました。
哲哉先生だけ、正月元旦に、遅れてくる予定になっています。

そして、2日には、皆でディズニーランドを予定しているのに対して、「
行く気満々になっているね」と小生を冷やかすので、「一期一会という言
葉もあるくらいだから、今大いに楽しんでおかなければいけないよ」とい
う風な会話もしてみました。そして「今年は、冬が早くやって来るので、
風邪などひかないようにね、哲哉先生にもよろしく伝えてください」とい
っておきました。



















 昭和二十五年、五十八歳の吉川英治はそれから七年間、いわば精進潔斎
(しょうじんけっさい)した姿で「新・平家物語」の世界と取り組んだ。
完成したのは昭和三十二年、六十五歳のときである。
 今回改めてこの文庫本にして十六冊の大作に接してみて、それがいか
に困難な事業であったか、そしてその困難を吉川英治があくまで真摯(し
んし)な態度で完成に漕ぎつけたかを実感しないわけにはゆかない。
 まずこの作品は、丹念な作品である。厖大(ぼうだい)な登場人物への
目配(くば)り、歴史的事件の展開過程のひとつひとつをゆるがせにして
いない。源平二氏の主要人物への理解と解釈、その興隆(こうりゅう)と
衰亡、生と死の姿について、古典の描写や解釈を越えて、吉川英治自身の
解釈と判断を誠実に展開していることである。
 第二は、全体の構想力が豊かで、この時代への鳥瞰図(ちょうかんず)
がはっきりと作者の脳裏にあり、人物の登場のさせ方、事件の展開、その
ための伏線など、よく均衡がとれており、その均衡は最後まで崩(くず)
れていない。
 そして、第三に作者の気力が充実しており、とくに、ひよどり越え、屋
島の合戦、壇ノ浦といった史上有名な合戦の描写などは、還暦を超えた作
者とは思えない、見事な迫力である。
 おそらく、吉川英治の美質である。謙譲(けんじょう)と集中と持続と
がこの作品を完成させたのであり、この作品は古典平家とは別に永い生命
力をもつことであろう。こうした事業を完成出来る資質と環境が滅多(め
った)に再現できるとも思えないからである。
 吉川英治は、執筆中に舞台となった土地によく足を運んでおり、文献資
料の渉猟(しょうりょう)と同時に、その歴史的風土について、自らの眼
と足で現場を確かめ、この時代と人物群像と事件の進行を自己の宇宙の中
に再現していったのである。吉野村に保存されていた、吉川さんの書斎に、
古地図を何枚も収めた木箱がきちんと備えられていたことが思い出される。

 ここに展開された美しい物語絵巻のひとつひとつを論じてゆくには紙数
があまりに足(た)りない、波の底にも都の候うと壇ノ浦の藻屑と消えた
平家一門、その一門を追って天才的軍略を駆使しながら、頼朝の猜疑心(
さいぎしん)によって自らも悲運の最期を遂げる義経の後姿に、われわれ
は、幾十世代と繰り返された涙を新たにすればよいのかもしれない。
 ここでは、吉川英治によって、新たに造型された「新・平家」の舞台と
なった地誌について若干の感想を記(しる)してみたい。
 源平時代が、戦国時代、幕末・維新の時代と共に、日本歴史の華であり、
動乱と変革を代表する三つの時代のひとつであることは論をまたない。
 そして、会田雄次氏を始めとして多くの論者が指摘する。日本歴史にお
ける東と西の問題を考えさせる典型的主題を内包している物語であること
も周知の事柄である。けれど、単に東と西の比較に止まらず、この三つの
動乱期は、権力の所在をめぐって、西から東へ、東から西へと、権力が移
動する歴史である。
 幕末・維新の歴史は、薩長土肥(さつちょうどひ)の西南雄藩が、京都
に上って幕府と争い、やがて討幕の旗をかかげて東の江戸を制覇する物語
である。そこでは、関ケ原によって防長二州や薩摩に閉じ込められたエネ
ルギーが、二百七十年を経て、爆発したという見方まである。
 また、戦国時代は、室町期までの守護大名に代わって諸国を支配した戦
国大名が、それぞれ天下統一をめざして覇(は)を競い、京都に上り、天
下統一の名分を得んとして争い、やがて信長・秀吉・家康と統一者の交替
を経た上で、家康が東の江戸に幕府を開くことで幕を閉じる。
 しかし、この図式は、考えてみると源平時代の姿を踏襲していることに
なる。というよりも、源平時代に現れた古典的図式のヴァリエーションの
ようにも見える。
 平安末期、地下(じげ)人階級から勃興した源氏と平氏という武士階級
は、おそらく何百年という平安時代の平和の持続のなかで、頽廃(たいは
い)し形骸化(けいがいか)してゆく平安貴族に代わって、広大な荘園を
基礎として新しい活力と富を蓄積した土豪連合のシムボルであったろう。
 やがて、旧勢力たる僧兵勢力を押(おさ)え、平氏は京都を武力的に支
配することになり、覇権争いに破れた源氏は、東国に逃れて鎌倉に本拠を
構える。木曽山中に興(おこ)った義仲の都攻め、平家の西国落ち、やが
て瀬戸内一円を舞台とした平家滅亡の抒事詩が展開される。
 この三つの動乱絵巻を比較するとき、幕末の動乱は、やはり近代への序
幕として、全体は軍略というよりも政略の世界であり、じつは大きな合戦
もない。舞台は京都、江戸、西南雄藩と拡がっており、登場人物は多様だ
が、全体を象徴するような人物はいない。ひとつの物語に収められるよう
な継続性や晴やかな舞台も乏しい。
 戦国時代は、信長・秀吉・家康という巨像は存在するが、考えてみると、
尾張・三河という発生地から考えても、その舞台の中心は中部日本である。
比叡山の焼打ちをはじめ、殲滅(せんめつ)の悲運にあう大名は多いし、
豊臣家の滅亡という大ドラマはあるが、源平の争いと平氏の滅亡のような
典型性・継続性はない。
 中世の序幕である源平盛衰記には、紅白の旗に象徴されるようなそれぞ
れの人物と事件に鮮やかな典型性がある。平清盛の栄華。常盤御前(とき
わごぜん)の悲劇、頼朝・義経という対蹠(たいしょ)的人物、平時忠、
宗盛、重衡(しげひら)、資盛(すけもり)、敦盛(あつもり)、あるい
は二位ノ尼や建礼門院など、華麗にして耽美(たんび)的な平家一門の群
像。
 そして、「新・平家」に丹念に描かれているように、その舞台は、京都、
鎌倉、一ノ谷、屋島、壇ノ浦、あるいは黄瀬川(きせがわ)、富士川、倶
利伽羅峠(くりからとうげ)、吉野山、伊勢、伊賀、安宅、平泉とひとつ
の物語を追って、京都・西国・東国そして東北と、じつに雄大な展開を見
せている。
 このことは、きわめて大切な事柄である。われわれは、日本の風土、国
土のなかに生きている。そこではぐくまれて生きている。それは単に現代
に生きている人々だけのものではない。われわれの先祖がそこで生き、耕
し、そして死んだ風土である。われわれの生と死を考えることは、そうし
た先祖の生と死の上に考えられなければならない、われわれは死者を抱い
て生きているのであり、その死者たちが生者の生き方を決めているのであ
る。
 その死者たちを尋ねる途は、かつて生きた舞台を尋ね、そこに遺(のこ
)された形から対話する他はない。幕末・維新も、戦国も、そして源平の
時代も、そして更にはより神話に包まれた古代も、われわれは幾重にも重
なった歴史的景観を所有しているのである。
 吉川英治によって描かれた「新・平家」とは、こうしたわれわれの巡歴
への想いを新たに搔き立てる旅への誘(いざな)いであろうか。中世人の
大らかな愛と闘いと、栄枯盛衰を鮮やかに演じた耽美的な世界は、今日の
騒音に満ちた都会の風景よりも、はるかに多くのものを語りかけてくるは
ずである。

 私は京都にに出向くとき、時間が許すと大原の三千院・寂光院を尋ねる。
とくに寂光院はその佇(たたずま)いが好きで、何度尋ねても倦(あ)き
ない。「新・平家」でも、愛惜(あいせき)をこめて描かれた建礼門院は、
一族の滅亡の後、自分の母も子も、そして一族もすべて失って、二十八歳
でこの寂光院に籠(こも)り、二十余年の歳月をここで過ごした。大原一
帯が都心に比べて鄙(ひな)びており、のどかな気分だが、寂光院の石段
は、狭くて急であり、のぼりつめた境内もまた、ひっそりと静かで、心な
しか建礼門院の残り香をただよわせて艶(あで)やかに小ぢんまりとして
いる。
 平家一門の栄華を目前に眺め、自ら高倉天皇の中宮として、安徳天皇を
産んだ女性、清盛(父)の死後、四年という短い歳月の中で、その栄華の
一切を失い、自ら壇ノ浦で身を投げ、独りだけ助かってしまった女性、そ
れから二十余年の歳月を、この寂光院で過ごしたとき、彼女の胸にどのよ
うな想念と絵柄がよぎっていたことか。謡曲「大原御幸」を始め、多くの
文芸作品に語られつづけているとはいえ、寂光院を尋ねると改めて訪問者
を同じ想いに駆り立てずにはおかない。
 永井路子氏の随筆から学んだことであるが、この建礼門院と北条政子は
同年生まれであるという。なんという偶然の戯れであろう。建礼門院の美
しく哀しい生涯と、どちらも中世の女性の典型であろう。その軌跡はあま
りにも鮮明なコントラストを描いているではないか。
 「新・平家」では、この人口に膾炙(かいしゃ)した挿話を避けて、意
識的に麻鳥夫婦という従軍医の後日譚(ごじつたん)で、一大長編叙事詩
のエピローグとしたのかもしれない。それは七年という歳月の中で、源平
の世界を戦い愛し描き切った吉川英治、また戦前・戦中・戦後という修羅
を生きた吉川英治自身の安息に満ちた姿であったかもしれない。

 四百字詰めで約一万二千枚の「新・平家」の原稿は、寄稿と同時に呱々
の声を上げた二女・香屋子の背丈を超えていた。左は文子夫人

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 灸(やいと)対(たい)面(めん)

 容易ならぬ問題が、もちあがったに相違ない。院議院議のあわただしさ
がにわかにみられ、後白河の簾前(れんぜん)、何事か、憂暗をたたえた
公卿の声が低い。
 これは、景季(かげすえ)と成尋(じょうじん)の施主(せしゅ)歩き
が、頼朝の意のあるところを、非公式に院に映した結果だった。
 二人が歴訪の先々で、いい触れたことは、頼朝の内意を、裏から示唆(
しさ)したものだった。
 「-畏(おそ)れながら、鎌倉どのは、院へたいし、奉(たてまつ)り
ここ申し難(がた)いほど、不快なお疑いを濃くしておられまする」
 という柔らかな脅迫を前提に―
 「なんとなればです。鎌倉表を追っ払らわたこともあり、鎌倉どのがお
きらいな人物と知れきっている新宮行家(しんぐういくいえ)を、木曾滅
亡後もお用いあって、なんの故か、院裡(いんり)深くに飼いおかれ、き
ゃつにまたなき隠れ家をお与えになっておられましょうが。・・・・・ま
ず、それが一つ」
 と、箇条をかぞえ。
 「-次に、平大納言以下、虜(とりこ)たちにたいする院の解(げ)せ
ぬお扱いを挙げねばなりませぬ。壇ノ浦直後、一たんは、平大納言たりと
も、鎌倉へ召し下すべきのところ、かの時忠卿一人は、合戦にも加わらず、
かつは、なき皇后(きさい)ノ宮の兄君なれば、院の法皇(きみ)とも浅
からぬおん仲の人。きょうは斟酌(しんしゃく)あって、鎌倉どのにも、
ひかえ目に、先の五月ごろ、平大納言は能登の国へ遠流(おんる)あるべ
しーと院ノ庁へお達し申しておいたはず」
 と、これの処分が、いまだに、実行されていないことを指摘し、
 「それさえ、、過怠(かたい)至極なのに、聞けば、時忠卿の幽所へは、
側近の方々やら、行家ごとき人物が、足しげく往来しておられるとか・・
・・・それらの奇怪事も、ことごとく御存知の鎌倉どのが、安からぬは、
当然でしょう。-かつては、鹿(しし)ケ谷(たに)という例もあり、平
家の世ごろから、院裡に巣食う陰謀好きな悪鼠(わるねずみ)は、まだ、
あとを絶たぬやと、事実、おん罵(ののし)りもあったのです。-もし、
このままに打ち過ぎなば、どんな大事が出来(しゅったい)せぬともかぎ
りませぬ。せっかく、世も平穏になろうとしているのに、院御自体が、さ
ような態(てい)では、行く末もいかがなるものか。さてさて都の今は、
火を噴(ふ)くのも知らず、火の山の上に遊んでいるようなもの・・・・
・・」
 布施門例(ふせもんれい)にことよせては、こう静かな威嚇(いかく)
をして歩いたのである。即日、院議にのぼり、院の根底をゆすぶったのも、
むりではない。
 もとより後白河や、院臣すべてが、義経びいきであり、平大納言以下の
同情者だったわけではなかった。
 むしろ数からみれば、頼朝を恐れて、鎌倉の将来に胴調してゆこうとす
る公卿の方が多かった。-自然、院議は、
 「以後、行家の院出入りは、差し止められたがよい」
 となり、また、
 「平大納言時忠の遠流も、さっそくに、取り運ばねば相なるまい」
 という方へ向いていた。
 けれど、この無礼な鎌倉示唆に、例の御気性から、いたく、自尊心を傷
つけられ、お怒りにたえなかったのは、後白河法皇である。
 いつの御出座にも、それを露骨な御気色にして、皆の意見を、黙って聞
いておいでになった。
 が、対頼朝へのその御不満と、幕府的な武家統一への御警戒を、そばか
ら支えている一連の公卿もあった。ーとりわけ義経や行家と親密な―大蔵
卿泰経(おおくらきょうやすつね)をはじめ刑部卿(ぎょうぶきょう)頼
経、兵庫頭(ひょうごのかみ)章綱(あきつな)、一条侍従良成、右馬権
頭(うまのごんおかみ)業忠(なりただ)、検非違使ノ判官知康(ほうが
んともやす)、大膳大夫信盛、右衛門尉(じょう)信実、おなじく時成、
右大弁時宗、そのほかなお、前平家と有縁(うえん)のつながりというに
過ぎない者は、どっちつかずの、あいまい模糊(もこ)な顔をしていた。
 で、問題は重視されたが、処理は容易に、決定しない。
 行家の院外放逐(ほうちく)の議は、これはまとまりを見そうだが、平
大納言以下、多くの平家人(びと)の処断は、むずかしく見えた。
 -なお鎌倉と折衝(せっしょう)の余地もあろう。院の御意も、明示す
べきだ。頼朝が「こうせい、ああせい」というままに委(まか)せている
のは、まるで院を鎌倉の事務代行の庁とするに甘んじているようなもので
はないか。
 等々の意見も出、後白河もすこぶる、おむずかしい御気色のまま、これ
また、遷延(せんえん)に遷延を重ねる風であった。

 「手ごたえはありました。院でもだいぶ、揉(も)め始めておりますそ
うな」
 南御堂の成尋(じょうじん)がいった。
 院中には、鎌倉方の息が充分かかっている公卿もある。そこへ行けば、
きょうの院議がどうだったか、たれがどういう発言をしたか、つつ抜けに
もれ聞くことができるのだった。
 今も成尋(じょうじん)は、どこからか立ち帰って来て、六条油小路の
旅宿に待っていた景季に、情勢をつたえた末― 
 「が、この程度の脅(おびや)かしでは、なかなか、にわかに鎌倉どの
のお旨が行われるとも思われませぬ」
 と、つけ加えた。
 景季は、笑って、
 「いや、それはそれでいいのだ。拙者の役目は果たされている」
 「さようでございますかな。這般(しゃはん)のことは、僧侶のてまえ
には、深くは分かりませぬが」
 「が、かねて貴僧を通じて頼(たの)うでおいたこと、つまり院中の不
平組―行家、義経などを立てて、おのれらの野望をとげんとする公卿輩―
それはたれとたれかは、分かったろうな」
 「すれや、このたびの院議で、歴然と、面にあらわれまいたそうな」
 「たれだ?」
 「たれよりは、後白河の法皇(きみ)でございましょう」
 「それや知れきっておる。知りたいは、院を擁して、おりあらば、鎌倉
をも、平家の如くにしようと諜(たくら)んでおる公卿どもの顔ぶれだ。
父景時どのからも、そこは突きとめて来いと何度もいわれておる」 
 「きょうお訪ねしたお館の卿(きみ)から、これは極密ぞ。景季殿へ、
直々に手渡しせよと申されて、お預かりして来た一札(いつさつ)がござ
りますが、お口吻(くちぶ)りの裡(うら)からも、ひょっとしたら、そ
の内に、さようなことをもお認(したた)めあるやもしれませぬが」
 「や、そうか。それは見せられい」
 景季は、手を出した。
 ー一読して、「おう。これに見えた」
 さも満足そうに、かれはいった。
 「成尋(じょうじん)御坊(ごぼう)、もう布施歩きは、打ち止めにし
てよい、あとは世間態の用達しをなされ、南御堂供養の荘厳具(しょうご
んぐ)は、悉皆(しつかい)、お調(ととの)いなされたか」
 「まだまだ。何かと購入(あがな)わねばならぬ物も残っておりまする

 「ならば、それから買い調(ととの)えて、そろい次第、御坊はひとま
ず先に鎌倉へ帰られい」
 「承知いたしまいた。では、数日のうちに」
 こうして、成尋(じょうじん)房は、諸方で買い入れた仏具祭器などを、
荷駄に積ませ、一足先に、東国へ帰った。
 また一方の景季は、供の郎党を、油小路の旅舎に残して、その間、二度
ほど堀川の義経を訪ねていた。
 あらかじめ、覚悟していたことではあった。「-おそらく、すぐには会
うまい」と。
 かれの予感は、あたっていた。
 「せっかくのお越しながら、おりふし先ごろより、主人判官どのには、
ちと所労(病気)の気味にて、お籠(こも)りにござりますれば」
 二度ともおなじあいさつである。
 それにまた、取次に出て、こういった家臣が、そこらにありあわせな、
ただの青侍とは思われない。 
 いかにも、ひとくせありげな、そして、式台に立った訪客の爪の先から
頭までを、いんぎんな額ごしに、一瞥(いちべつ)で見とおしているとい
ったような眼光の家臣だった。
 「-では、また参る」
 景季は、あっさり戻った。
 二度目も、おなじ門前払いに、むっとしたが、
 「・・・・・・・お大事になされたい」
 と、わざと苦笑をおいて、立ち帰った。
 当然、推察できることは、院へ、間接に迫っている二箇条の鎌倉要請を、
義経も知悉(ちしつ)しているという点だった。景季の苦笑は「-逃げた
な」という感じと、「あわれ、仮病とは苦しい手」という二つから擽(く
すぐ)られたものにみえる。
 次の訪問まで、かれはわざと十日ほど日をおいた。また前もって、郎党
を向かわせ、そこはかとなく予告をしておき、さて三度目には郎等数名を
連れ、重々しげに、門をたたいた。
 その日、
 「-御対面あるよし、どうぞ、お通りを」
 と、式台(あいさつ)された。
 郎等は控えにとどめ、景季一人、家臣について奥深く通った。都の家居
は、大きな館ほど、東国人(びと)には、穴へでもはいるような冷え冷え
したものが身をつつむ。
 おそらくは、武者隠しには武者を伏せ、左右には、弁慶とやらの、伊勢
とやらの、屈強な直臣を侍(はべ)らせて対面することであろうと、景季
は予想していたが、
 「お座の間(ま)は、そこでおざる」
 と告げて、案内の侍は、すぐ退(さ)がってゆき、べつだん物々しげな
気配も感じられず、中の坪かどこかで、昼を啼きすだく虫の音も聞こえる
ほどな静けさだった。
 ―「のみならず、ぷんと、線香のにおいがする。艾(もぐさ)が燃える
匂いでもある。景季は、ふと、立ちよどんで、
 「判官どの。おさしつかえないか」
 と、垂れ籠(こ)めた八聯(れん)の簾(す)へ向かっていった。
「わるいといえば、おりの悪いところだが」
内で義経は笑っていう。
 「-初めて見る仲ではなし、梶原が総領息子。源太景季と聞いたゆえ通
した。はいるがよい」
 「では、御免」
 簾を割って、内へすすみ、大座敷の一端にすわった。
 -見ると。
 義経は、脇息(きょうそく)によりかかり、背を脱ぎはだけて、ひとり
の童女に、灸(きゅう)をすえさせていたのである。
 「・・・・・む、む」
 背の灸のつぼに、火がついている。
 義経も、後ろの童女も、客の方など 見もしなかった。
 うつむいて、じんと、怺(こら)えていたが、やがて、
 「すんだか」
 と、義経は自分の背へいう。
 景末は、眼をみはった。-骨もあらわな義経の淋しい肋骨(あばらぼね
)を見てである。これはなんたる憔悴(しょうすい)ぶりか。青春二十七
という肉体の人ではない。傷々(いたいた)しいほどである。どう見ても
自己の若さや地位を誇る得意な者の肉体ではない。
 はっとして、景季は、眼をそむけた。「-仮病ではなかったのか」と、
気を構え直すのに、良心があわてたのである。
 だが、その心の下から、父景時の声がしていた。鎌倉どのの上意がかれ
をひきしめた。-景季は、何かに押し出されるように、前へ坐を取り直し
て。
 「御病中、たびたびの推参、さだめし、おうるさく思われたやも知れま
せぬが」
 「なんの」
 半裸の肌を小袖(こそで)に仕舞いこみながら、義経は、立ちかける童
女へ、
 「鬱陶(うつとう)しいのう。そこの簾を、揚げさせよ」
 といいつけた。
 すぐ、二人の女房が見えて、中の坪に面している八聯の簾を端からみな
まきあげた。その間、主客は黙っていた。秋の午後の陽(ひ)がまばゆい
ほど、流れこんで、義経の頬そげた、すこし青みさえおびている横顔をあ
ざらかにした。
 「さても久しいの景季」
 「まこと西国の戦場では、めったに御同座も得ず」
 「再々の訪れ、会いとうは思ったが、この態だ。漸々(ようよう)う、
昨日から起き出たところよ」 
 「何か、御持病にても?」
 「鞍馬(くらま)育ちだ。すこやかは人後に落ちぬつもりだが、都には
五月ごろから、流行(はや)り病が流行っておる」
 「ほ、どんな悪疫が」
 「入海病と、凡下(ぼんげ)どもは申しておる。壇ノ浦の怨霊(おんり
ょう)がなせる祟(たた)りだというのだろう。義経のも、それかも知れ
ぬ。はははは」
 「お戯(たわむ)れを」
 「ときに、用向きは」
 「いや、このたびの上洛は、ほかならぬ南御堂の御供養に当って御布施
賜わりし諸家方へのごあいさつやら、また・・・・・・・」
 「それいうな、景季」
 「・・・・・・・は」
 「人もある。鎌倉表に人もないではあるまい。生田の合戦に、箙(えび
ら)の梅を薫(かお)らせ、敵の権中納言どの(知盛)の大軍を馳け散らし
た若武者を、仏事のあいさつまわりや、仏具の買い入れに上洛させるなど、
人は肯(うべな)わんも、義経にはおかしゅう聞こゆる。まっ向(こう)、
まことを申せ、梅箙(うめえびら)の若武者らしく」
 「は・・・・・・」
 と、景季は、思わずうつ向いてしまった。
 親に似ぬ子といわれている源太景季なのである。勇ばかりでなく、東国
人に似ぬ風雅もその人柄を深くしていた。
 それを、義経も知っている。だからこそ、病(やまい)を押して会った
のだとも、義経はいいたいだろう。
 -が、源田景季の背後には、父命君命、二つのものが、たえずかれを叱
咤(しつた)していた。
 「まこと、御明察のとおりです」
 一言でも、こう正直な思いを吐かなければ、自分に立ち返れないように、
かれは、率直にまず切り出して、
 「では、歯に衣(きぬ)着せず、鎌倉どのの御内意をば、いやまず、拙
者の思うところから、つつみなく申し上げましょうず」
 と、胸を正した。義経は、横の脇息(きょうそく)を前へ置き直して、そ
れへ右に肱(ひじ)と薄い胸とを、もたせかけるようにし、
 「おお、聞こう」と、
 乗り出した。
 それは、止まり木に据えられた小鷹(こたか)のような双眼(そうがん
)の光であった。

 病  判  官(びょうほうがん)

 「-では、忌憚(きたん)なく申し上げましょう。しかし、自分一存の
愚見も交(ま)じえてのこと。お腹を立てないでいただきたい」
 景季は、こう前提したが、思わず口が硬(こわ)ばった。義経の射るが
如き眼を、かれも、眼をもってかっきと受け止めるようような眸(め)を
した。
 「じつは、都へ来てみて、この景季、事の事実にも、あきれたのですが、
平大納言どのの息女を娶(めと)られたのは、単なる人のうわさではなか
ったのですな。・・・・・鎌倉表では、それについて、衆評まちまち、い
や、悪声紛々といった方が、正直なところですが」
 「そのことか」
 義経は、かろく相手の気を外(はず)して、
 「いかにも、時忠どのの娘、二十歳(はたち)を幾つも過ぎた遅桜(お
そざくら)を、義経閨房(ねや)に移し植たは確かだが、何も人目怯(お
)じの密(ひそ)かな娶(むか)えをしたわけではない。なぜ世間は、ひ
との恋まで、さは、うるさく探りたがるのか」
 「恋と仰せられますか」
 「木曾を討って入洛以来、恋する暇(ひま)など持たぬ身だったが、先
には白拍子の静、ついこのごろは、時忠どのの姫、そう二人は、なんぼう
今、うつろな義経を、生きて効(か)いあるものにしてくれたかしれぬ。
なぜそれが、人の悪声にのぼるのであろ」
 「さ、そこがお考え違い。-敵方のしかも、配流(はいる)と定まった
慮将(とりこ)の姫を、鎌倉どのの御舎弟ともある御方が」
 「なに、御舎弟」
 はしなく、その一語は、反発の火華を発しかけたが、義経自身、そこへ
触れる危険さに、はっと、気づいたものだろう。すぐ語気をかえて、
 「-なんの、時忠どのが、敵方なものか。早くより、和を願うていたお
人。かつまた、源氏にとっては、大功もあるに。-すでに源平の戦いも終
わった今日、いつまで、敵の味方のと、狭い心で、せめぎ合うのか」
 「仰せなれど、朝敵の平家、大乱の元凶ども、それの処罰は、まだすん
だとはいえませぬ。特に平大納言は能登国へ遠流と、とうに厳命は下され
ているのに、今もって、都にとどまりおるは、奇怪至極と、不審がられて
おりまする」
 「それは、院の御都合にあろう。義経は知らぬ」
 「が、当お館のお庇(かば)いのためと、人は疑うてやみません。先に
は、御当家から鎌倉どのへ、平大納言に、み赦(ゆる)しあれと、嘆願の
御書もあったことなので」
 「あたりまえだ」-と、ここで義経も、その感情をむき出しに「罪は罪
として罰するもよい。したが、功ある者の功をみとめずば、世はくらやみ
ぞ。たれがなんと申そうと、平大納言どのの功は、無視できぬ」
 「いや、平家一の策略家、保身の術の抜け目なさよ、判官どのまで、た
ぶらかして、という者もありまする」
 「たれが申した。-御辺の父梶原の言だな」
 「いや、あながち、父ばかりが」
 景季は、話を不利にしたと、後悔した。「堀川の館へ臨んだら、噫(お
くび)にも、わが名は出すな」とは、父景時の硬い口止めだったのだ。
 -まずいと思い、かれは、時忠の問題を、その辺で打ち切った。夕花を
娶(むか)えたことには、毛頭、無反省な義経に見える。大宮人(おおみ
やびと)との口吻(こうふん)そのまま、恋だといってはばからないのだ。
これ以上多言の必要はない。-鎌倉どのへの報告は、それだけで足りる。
 さて、あとはもう一箇条、最後の件を義経の胸に糺(ただ)せば、用は
すむ。
 景季は、ひそかに、その舌頭を匕首(あいくち)のようにふくんだ。し
かし、わざと河越殿(正妻)の近状(こんじょう)を、ふた言三言、訊(た
ず)ねなどしてから、
 「時に」
 と、白刃を擬(ぎ)すような迫りを見せて、唐突(とうとつ)に、口を
切った。
 「-院中の一部の公卿と、足跛(あしなえ)の行家どのが、密々、謀反
(むほん)をすすめおられるが、判官どのも、当然、御承知でございまし
ょうな。都守護もお役目柄、その辺は御偵知のことと思われますが」
 「なに。・・・・行家どのが謀反を」
 義経の眉が、さっと、色を研(と)いだ。
 匕首(あいくち)はその人の肺腑(はいふ)を突き刺したもののようで
ある。景季は、冷然とあろうと努めた。そして、義経の影に潜む心のうご
きや、眸の奥までを、見のがすまいとした。

「義経は、そのようなことを、聞きも及んでおらぬ。何かの、誤聞であろ
うぞ。景季」
「ならば(しあわ)倖せです。しかし、動かぬ実証も挙がっておるとか」
「いかなる実証が」
 「たとえば、院中ではたれとたれとが、謀反に加担(かたん)か、など
の名も」
 「申してみい、いちいちの名を」
 「名はあげられません、事はまだ秘中に附されておりますゆえ」
 「では、御辺の上洛は、そのためだったな」
 「御意(ぎょい)―」と、景季は心もち頭を下げて「すなわち、御内意
を賜わって、十郎行家どのや、また一味の公卿の動きを、しかと洗うため
に」
 「あわれ、諜者(いぬ)として派せられて来たのかよ。遠くもない過ぎ
し日には、梅箙(うめえびら)の勇名かくれもない花武者の源太景季が」
 病中のせいだろうか、義経のやや落ちくぼんだ眼から発するもの、唇(
くちびる)をついて出る嘲語、すべて、じつに鋭い。
 景季は、顔をあからめる代りに、薄く笑った。そして、きょうの病判官
こそ、自分の知るかつての義経らしくもないと、その人の削(そ)げたる
頬や、まばら髯(ひげ)を、逆に憐(あわ)れと見ることによって、自然
落ち着きが保たれた。
 「諜者(いぬ)とお嘲(わら)いなれど、景季は、さような隠れ蓑(み
の)を着た者ではおざらぬ。まさしく、鎌倉どのの御意向を、これへ携(
たずさ)えて来てのこと」
 「何を、この義経へ」
 「されば、おつたえ申す。-今は捨ておけぬ十郎行家なれば、不意に、四
条坊門の居所を囲んで、討って取るべし、という御諚(ごじょう)です。
御厳命です」
 「叔父上を、この義経の手で、討って取れと?」
 「おひきうけあるか、否か、それを承(うけたまわ)って帰れとの上意
にござりまする。-景季が思うに、もしその一事を、お仕遂(しと)げあ
らば、鎌倉どのの御勘気もゆるみ、自然、判官どのへの、種々(くさぐさ
)なお疑いなども、消ゆるに相違ありませぬが」
 「・・・・・・・うむ。いかにも」
 義経は、そっと顔いろを直している、眼をとじたたまま、やがてゆっく
り、うなずいてみせた」
 「およそ強窃盗のたぐいまで、悪をつ追捕するは、守護職の任、叔父に
せよ、もし行家どのに悪行あらば、などそのままにさしおくべき。・・・
・・・が、景季よ、ここを聞け」
 「はっ」
 「行家どのは、義経にも、また、鎌倉どのにとっても、同様な叔父御ぞ
や」
 「そこは鎌倉どのにも、お悩みでありましょう。-が、天下のためには
代えられぬことと」
 「天下のためには・・・か。むむ、さまでの御決意ならば、ぜひもある
まい。したが、新宮十郎行家とて、六孫王(ろくそんおう)の苗裔(びょ
うえい)、そこらの雑武者ごとき者ではない。家臣のみをやって、万一仕
損じでもしたら、虎を怒らして野へ放つ仕儀にもなろう。義経が病の癒(
い)え次第、きっと計をめぐらして、おこたえ申さんと・・・・・。おつ
たえ申しおいてくれい」
 「さっそくの御承引(ごしょういん)、かたじけのう存じまする」さだ
めし、鎌倉どのにも、御満足に思し召されましょう。ーくれぐれ、御養生
のほどを」
 「帰るか」
 「つい滞在も長引きましたゆえ」
 「病中とて、興もない体面を過ごしたの。鎌倉表への披露、よしなに、
たのむ」
 事なく、堀川の門を辞して外へ出ると、景季は急に体じゅうの緊張をほ
ぐされた」-そして、いま去って来たほの暗い病間における青春の人と、
そこの灸(きゅう)の匂いなどが、なんとも憐れに―私情としてはー気の
どくな思いにたえなかった。
 「-いまたおれては」
 と思いつつ、ふと病臥(びょうが)についてからの半月ほどを、服薬、
灸治(きゅうじ)などしてみても。一こう元の健康になれそうもなく、と
いって、どっと容態が変るもでもない、義経の昨今だった。
 が、きょうのみは、むりに床を払って、景季と会ったのである。
 「ああ。・・・・疲れた」
 かれが帰ると、義経はこう思わず肩で息をした。そして、体を横へ崩し
かける。
 「あ。ここでは」
 静の手が、それを支えた。
 客が去ると、かの女は薬湯(やくとう)を持って、義経のそばへ来、そ
の案じ顔をすり寄せていたのである。
 「まだ地震(ない)の日の壊(つい)えのまま、ここは夜の妻戸も閉(
た)てられませぬ。さ、小館のへの御病間の方へ・・・・・」
 「いや、きょう限り、病床を出ようかと思う」
 「めっそうもない。せっかく、きのうきょうは、少しお食事もお摂(と
)とりになれて来たところを」
 かの女は、しいて良人(おっと)の腕(かいな)を扶(たす)け上げ小
館への橋廊下へ歩いて行った。
 そこだけはなお。いくらか無事な部屋もある。しかし、角縁(すみえん
)から本館(ほんやかた)の方を見ると、大屋根の一部は倒壊したままだ
し、下屋も内部廊もまだ地震当時の被害が、手もつけられていなかった。
-あの日以来、ここの主従は、群盗の取り締まりやら、院や市中の復旧に
追われ、自分たちの住居は、かえりみる暇もなかったのである。
 義経には、荒涼(こうりょう)たるわが家のながめが、そっくり、自分
の五体に見えた。-心身ともに疲れて、修理もつかない惨心」を内に観、
外には、瓦礫(がれき)に似た事情が山になっている気がする。
 「殿っ。-御病間へおはいりの前に、お耳に達したい儀がござりますが、

 どこかで、伊勢三郎の声がした。
 ふと、蘭の外をのぞくと、庭を馳けてきたらしい伊勢が、手に一筋の矢
文を持って、下に、跪(ひざまず)いていた。
「伊勢か。どこからそのような矢文が?」
 「まず、ご覧くださいませ」
 下から差し出す矢を、静がうけて、結ばれてある文だけを、義経に解いて
渡した。
 叔父行家の手蹟である。
 -文意は。

   今暁、にわかに、院のお諭告(さとし)がり、かたがた、鎌倉から
  行家討伐の令が出たとの飛報もあって、心ならずも、一時、屋敷を引
  き払い、河内石川の所領へ、しばらく身を退くほかなきに至った。
   ついては、退京の前に、万策を打ち合わせるつもりでいたが、おり
  悪くお館には梶原景季が来談中とのこと、ぜひなく、貴門の前を素通
  りして、矢文に急を託した次第。
   院議は二、三日来、とみに悪化し、われらの望みも、早急の実現は、
  むずかしく思われる。-が、事破れたわけではなし、失望にはあたら
  ない。
   しかし平大納言父子の遠流も、即日、履行を見るであろうし、四囲
  の形は、いよいよ不利を加えてくるかもしれぬ。
   お互い、ここは重大な秋(とき)、其許(そこ)には、一そうの治
  療に心せられ、とかくの事態にわずらうなく、一日も早く、きのうの
  九郎義経らしきお元気に立ち返ってもらいたい。
   再会近き日にあるも、くれぐれそれのみを祈っている。
 
 あらまし、そんな文意で、怱忙(そうぼう)のまに書いたとみえ、おそ
ろしく読みにくい走筆だった。
 「伊勢」
 「はっ」
 「矢文によれば、はや叔父上は、家人を引きつれ、京外へ立ち退(ひ)
かれたらしいが、その同勢は、いつごろ、ここの門前を通ったのか」
 「されば、景季がまだ奥にいるうちのことでした。十郎行家どの以下七、
八十騎が、あわただしげに、往来を馳けてゆき、矢文は、中の一名が射て
去ったのでござりまする」
 「さても、安からぬ雲行き」
 義経は、何か、耐え切れぬ焦燥(しょうそう)に駆られ出したものの如
く、
 「静。衣冠を出せ。院へ出仕せねばならぬ」
 「えっ。そのおからだで」
 「病魔に負けてはいられなくなった。髯(ひげ)を剃(そ)りたい、髪
も直してくれい。そなたの部屋に、鏡を立てて」




































 深沢物語・清水茂平の生涯
 
  五日市憲法の謎を探る

 はじめに

 昭和43年、東京経済大学の色川大吉教授が、五日市町深沢の深沢家土
蔵より、五日市憲法草案を発見、命名されてから、丁度20年が経過した。
この憲法草案は五日市の知名度を高め、当地の文化水準の高さを立証した。
また起草者千葉卓三朗やパトロン深沢直生(なおまる)、助手権八父子の
人物像も、明治初年の民権ブーム期の世相にあわせて、多くの研究者の手
で究明され、著書、講演、テレビ等を通じて紹介された。
 ところで写真にならぶ三基の墓は深沢家三代のもので、中央が有名な「
権八深沢氏の墓」であるが、左側の父直生(なおまる)はとにかく、右側
の祖父清水茂平(もへい)は研究の届かない「未知の人」であった。深沢
資料は、東経大図書館に保管され、地元の人々の眼に触れにくくなってい
たが、今回当館で、マイクロフィルム撮りを行ったので、ようやく茂平像
の一端を窺(うかが)いみることができた。どうやら茂平は近代深沢家の
基礎をきずいた経済人であるとともに、教養識見とも並々でない人物と見
うけた。

 深沢家三代の墓

    左・父 名生、中央・権八 右・祖父茂平
CIMG0323

















      左衛門尉 清水茂平墓
CIMG0324

































 1 清水氏と深沢村

 江戸時代(後期)の深沢村は戸数略23戸、人口130名前後、村高は
45石強の小村である。
 支配は天領(幕府の直轄地、代官支配〕と私領(大名・旗本領〉を交互
にくりかえしているが、天保15年(1844)以降明治維新まで、旗本本
多対馬守の領地であった。
 茂平は主にこの時代に深沢村名主として、村政を担当した。深沢家は、
明治元年御一新の風潮の中で、深沢村の地名を名乗ったもので、それまで
は清水姓であった、前年(慶応3年)死没した茂平にとって深沢への改姓
は預かりi知らないことである。実は深沢村の住民の多くは清水姓であった。
現在深沢地区の有力者、南沢氏、榮原氏はともに清水姓で明治の改姓の折、
夫々(それぞれ)深沢村内の小字名《家の所在地》をとって姓とした。
小字(こあざ)でなく村名を姓とする家は、その村の№1であることを自
他ともに認めた場合で、深沢家は家系上も清水一族の草分け[本家]であっ
たらしい。というのは屋敷内に集落神である白髭明神(しらひげみょうじ
ん)を祀(まつ)っていることで、集落神を斎(いつ)く家が村長(むら
おさ)の家と見るのが自然である。なお東国の白髭さまは、渡来系の人々
の祀る神といわれる。清水氏は五日市地方に多いキシ姓(貴志、岸、岸野、
来住野、水住野)とともに渡来集団の系譜をひく可能性が多い。(渡来人に
ついて誤解のないように注釈を加えると、日本人の先祖の中核は大陸より
の渡来人であり、古代関東地区に入った渡来人は在地の人の上に臨むエリ
ート集団とみなすことができる。)
 清水一族『ごく小さい同族集団だったろう》が、いつ深沢の地に入り込
んだか、文書資料がないので不明だが、中世のある時期、沢を逆のぼって
この山奥に安住の地を見つけたものではあるまいか。関東の中世はとくに
動乱の時代で人々は開拓の適地を求めて争いあった。清水氏が可耕地の乏
しい深沢に入り込んだのは自衛その他やむを得ない事情があってのことで
あろうが、推測の限りではない。
 中世期の清水氏が地侍であったかどうかも不明であるが、ごく一般的に
いって、秋川谷の各地域の草分け(開拓)の有力者は14、五世紀は「南
一揆」と称する地侍集団に加盟することによって、自衛策を講じていた。
中世は武力によって所有権が犯される暴力時代であるから人々(特に地域
リーダー)は好むと好まざるとに拘わらず、一旦緩急あれば武装せざるを
得ない。特に集団安全保障に頼る以上義務としての出陣が促(うなが)さ
れたことであろう。
 暴力時代は同時に深刻な宗教時代で、人々は安心立命を神仏に求めた。
一族のリーダーは必然的に神仏と深い関係に立たざるを得ない。清水家は
白髭明神のほか深沢村の鎮守穴沢天神社の神官でもあった。これは後述す
る経済的文化的因縁を清水家(深沢家)にもたらしている。文書資料がなく
推測で模索する中世期の話はこの程度にして、江戸期に話をすすめよう。
 江戸前期の深沢村は文字通りの貧村であった。文書資料〔貞享2年(1
865)・伊奈石川家文書〕に深沢村が二宮村他6か村と争った秣場所(
まぐさば)出入り一件がある。現在の秋川市域の村々まで肥料燃料を求め
て深沢地区に入り込んでおり、この入会権をめぐって、地元深沢村と入会
村が争った事件である。幕府は地元村を抑え、入会村の共同利用権を保証
している。これでは山村深沢村にとって唯一の財産である山も思うにまか
せない。村人は、稔(みのり)の乏しい山畑に桑を植えて蚕を飼い、雑木
を伐(き)って炭を焼いたが、ともにささやかな副業の域を出なかったよ
うである。天保期、五日市市場に搬出した炭の量が2か年計4210俵と
いう記録を見たが、これは檜原(ひのはら)養沢村の5%にも及ばない。
 一般に秋川谷で、山に対し燃料。肥料の自給以上の活用を図りはじめた
のは江戸中期の育成林業が始まってからである。多摩川材(秋川も含む)
が安い地廻り材として江戸の市場に食い込み、多摩川、秋川を頻繁に筏が
流れ下ったのは18世紀半ばからである。山裾の百姓達は切畑(下級畑)に
杉や檜(ひのき)を植えその育成を図った。また村や集落単位で共有林を
仕立てた。
 深沢家はこの育成林業にきわめて敏感に反応している。深沢家文書の中
に植林した山を年季で質にとったり、購入したりした証文が数10通ある。
この他2百通近い金融文書があり、土地集積が跡付けられる。これらの内
山すその下級畑には茂平の父茂八あたりから積極的に植林を進めた形跡が
ある。これが成木した時、家産は大きく増殖した。深沢家が他村にまで名
を知られる有力者になったのは新興の育成林業を巧みに家業化したからに
他ならない。林業は多くの人手を要する。また入会権との関係が微妙であ
る。この点地元の世襲名主家で、村内きっての威勢を保つ深沢家にうって
つけの家業であった。入会慣習は複雑な形態をとるが大別すれば、他村の
入り込む村々入会と、自村だけの一村入会がある。一村入会に対しては名
主家の威勢が届くはずである。村では橋木山(はしきやま)という名の共
有林を作り、宮林と呼ばれる神社の財産林を作った。(穴沢天神には4町
歩程の宮林があった。)名主兼神主兼材木商の深沢家はこれらに対し主導
権を握れる立場にある。

 2 茂平の生涯

 茂平は弱冠に21歳で名主となり、死亡時まで30余年在職している。
その家高(いえだか)《検地帳記載高》は増倍しているが、この数字には、
他村分や質地の山・畑は含まれていないので、家産の実態を見ることはで
きない。なお家高は名生(なおまる)時代(明治5年)高10石余(居村)、5
石余[他村]に増えている。
 ちなみに文久3年ころと推定される深沢村の検地帳で茂平名を集計する
とB表のようになる。これは深沢村の総面積の20%を超える。ところで
主力を占める。切畑についていえば、値打はひとえに内容(利用状況)であ
る。伐期近い杉檜が育ち、搬出に便な場所であれば、その価値は計り知れ
ない。
 深沢家資料を読み注意を惹(ひ)かれたのは、茂平も、その父茂八も高
尾村の名主高尾家より嫁をもらっていることで、高尾家は享保頃より秋川
谷の筏師惣代を務めている。筏師(いかだし)とは筏乗りではなく、元締
と呼ばれる材木商をさす。茂八・茂平父子が高尾家と結ばれたことは故な
しとしない。彼等は秋川林業の先達(せんだつ)高尾家と組んで、筏商売
《材木取引》に精を込めた模様である。

          A 清水茂平年表
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        B 茂平の村内所有地(文久3年頃) 
CIMG0330



















 領主の貧窮

 次に注目される点は、領主本多氏との関係である。茂平は新領主に早速
60両を用立てているが、これは本多氏が江戸商人より借りていた借金の
肩替りを頼まれたもので、さらに5年後に35両を用立てている。年貢文
書を点検してみると深沢村45石の年貢1年分は約15両になる、茂平の
用立て金は村の年貢6か年分以上に当る。
名主茂平と本多家の用人とのやりとりをみると面白い。茂平が賃金額を列
挙し、「お下げ金未だなし」とイヤミに結んでいるのに対し、領主側では
もとより返済の意志はなく、「村内の分限者が他にあれば申し出よ」と、
次のたかり相手を求めている。なお本多氏は嘉永6年高9千石の旗本より、
1万5百石の大名に累進しているが、これは功績があって加増されたので
はなく、改出(あらためだ)し(特高の評価換え)にすぎない。大名になっ
たものの、軍役は増し「万石以上160人」財政の綻(ほころ)びは広が
った。
 多摩地区の本多領は綱代、三内、横沢、上・下・北大久野。深沢、入野、
戸倉の9か村であるが、嘉永2年村高100石につき50両の拠出金を割
当てられている、これは年貢の先取りである。また文久3年領主の上洛支
度金25両の借金が9か村に申込まれている。これは10か年賦返済の約
定付きであったが、第1年目に「2両2分の返済を半金の1両1部に負け
てもらいたい」という用人の手紙『他家文書』が残っている。
 「もういい加減にしてくれないか」というのが村方の心情ではあるまい
か。この時点で、幕府も武士階級の命運も尽きていたのである。
 茂平ら在地の有力者が嘉永6年の黒船来航の際うけた衝撃の中には、頼
りにならない支配層に対する不安感が織り込まれていたと思われる。それ
を裏返せば、地域を超えた日本に対する責任意識の芽生えである。茂平の
孫権八らが奔走した明治の民権運動はこの意識の延長線上に開花したもの
である。

 千人同心株の購入

 茂平は嘉永2年千人同心株を購入している。あっ旋(せん)は親戚の高
尾家で、高19表一人扶持の株を110両で買っているが、これは相場よ
り大ぶ高値である。この頃秋川沿い村々では、同心株購入が流行(はや)
っていた。五日市(萩原)横沢(野口)の両名主家でも買っている。茂平の
場合、同心株を経済的な投資対象と割り切っていたように思える。という
のは、70歳の父茂八を名儀人とし、安政5年その父が亡くなると19歳
の倅(せがれ)雅樂之助(名生)の名儀に替えている。おそらく同心勤務
の日光警護、御進発(長州征伐)の上洛など、すべて代人で済ませていた
のではあるまいか。
 道心株を家産の1つに考え、まるでNTT株のように売買する風潮は、
封建期の末期現象であるが、あと10数年で幕府が倒壊するとは明敏な茂
平も考え及んでいない。この投資の帳尻は必ずしも合っていないように思
える。

 神官・茂平

 茂平は穴沢天神社神官として装束を着用する資格を吉田家より裁許され
た正規の神官である。この許状をうけるためには、はるばる京都に上洛し、
多額の費用と暇を費やす。それに値するメリットがあったものとみえる。
穴沢天神社は深沢村の入口にある。この境内には享保期の見事な庚申塔(
こうしんとう)があるが、これは講中の建碑である。
それに対し安政4年の碑が2基ある。A表に期したように、ともに茂平個
人の建立したもので、道祖神は疫病や諸々の禍を村内に入れない塞(さえ
)の神である。この碑の中で神官茂平は「左衛門介源茂平」と名乗ってい
る。疫病神を追い払うため、武威を張ったものであろうが、同時に村人も
睥睨している。もへいでなく、しげひらと読ませるのであろう。道祖神の
字は、「近江守従三位下藤原朝臣(あそん)盛章謹書」とある。これも神
官茂平に関わる人脈と推測される。なお彼は茂平という世襲名の他に弘化
2年より、左衛門という百姓離れした名を使いはじめた。名主文書に残る
のはみな左衛門である。今1つの碑は丸い川石に「山路来て何やら床し薫
草・はせを」と刻み、裏面に「天則堂社孝健」とある。天則堂は彼が少し
前に新築した自宅を指すものか。社孝は彼の屋号であろう。茂平の戒名は
「深沢院社孝居士」という。穴沢天神付近の道は現在は自動車を楽に通す
平坦な町道であるが、かつてはこの句の情景がピタリとはまる山道であっ
たらしい。茂平は「夜明け前」の主人公のような国学に通じた名主とも思
えないが、長男に百実太郎とか雅樂之助とか名付けるところをみると百姓
離れしたセンスの持主であることがわかる。自宅に人を集め句会を催す。
体のことはやったであろう。倅名生も俳句をよくし、孫権八は漢詩に長じ
ている。この文化人三代のうち、筆跡は祖父茂平が最も達筆である。

 ある奇禍と茂平の死

 左衛門茂平は慶応3年7月21日に病没するが、実はその年の正月の不
慮の災難に遭遇している。その1件は五日市村の御用帳(森田家文書)に
記載されていた。
 正月6日の暮6ツ時、茂平と高尾村の代助(茂平の甥か義弟に当る)の
両名が、材木売上代金を懐中に駕篭(かご)で甲州道中府中宿八幡原にさ
しかかった所、歩兵体の5人組に襲われ所持金425両を奪われた事件で
ある。
 これは大金である。インフレの幕末とはいえ10から20両あれば、中
くらいの家が建ち、山畑の1反歩も買えた時節である、茂平は粒々辛苦の
生涯が一瞬にして瓦解する絶望感を味わったことであろう。半年後の彼の
死にこの盗難事件が無縁であったとは思えない。しかしまた観点を変えて
みると、領主が2両2分の借財を返済できないとき、領民の中には4百余
両の大金を懐に江戸と村を往き来している者がいる、新しい時代の曙光は
ここにもはっきり認められた。

           左衛門盗難届 
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 再 来 魔(さいらいま)


 京、近畿にまたがるこの年の大地震は、地震国のわが国でも、災害の大、
死者怪我人(けがにん)の数、記録的なものであった。
 まず第一に、人びとが胆(きも)をつぶしたのは、朝夕都のどこからで
も見えた法勝寺の九重ノ塔が、上六重を揺(ゆ)り倒され、一瞬に空から
かき消えてしまったこと。また、三十三間堂(けんどう)は、十七間まで
を揺り倒され、白河の六勝寺も、南大門、北門、西門、すべて大破か屏風
(びょうぶ)だおれとなり、尊勝寺の大鐘楼(だいしょうろう)、円勝寺
の常行堂、阿弥陀(あみだ)堂、そのほかの仏舎聚楽(ぶっしゃじゅらく
)にも、満足な大屋根は一つもない。
 ここでさえ、こうなのだから洛中の社寺院、公卿館など、およそいわず
もがなである。門、築土(ついじ)の無事なのは、ほとんど見当たらない
ほどだった。
 主上(後鳥羽天皇)は、おととしの践祚(せんそ)このかた、町なかの閑
院の内裏におられたが、そこも中殿、西廊、釜殿(かまどの)まで倒壊し、
直後の火災も惧(おそ)れられたので、玉座を庭の中ノ島へお遷(うつ)
し申し、地に帳(とばり)を立て、大床子(だいしょうじ)をすえなどし
て、ひとまず、女房百官、恟々(きょうきょう)とかたまりあって、夜を
待った。すぐ東隣りは、松殿(前摂政基通)の住居だった。震動とともに、ひ
どい塵煙が舞い上がり、とたんに、対ノ屋の屋根も、車宿(くるまやどり
)の屋根も見えない。
 ひどかったのは、五条近衛亭である。あの大きな寝殿まで、ぺしゃんこ
になってしまったという。
 主要な建造物さえ、これである。市中の庶民聚楽(じゅらく)は、どう
いってもいい足りない。まるで天魔の翔(か)けた足あとみたいな惨状だ
った。-後日の聞こえではあるが、-宇治の宇治橋はヘシ折れてしまった
とか、刹那に、橋上の往来人が十幾人も、川の中へ消えてしまったとか、
また、近江の琵琶湖は、湖水の底が抜けたかと思われるばかり、岸から幾
尋(いくひろ)も減水を見せたとか、時経(へ)つほど、その範囲や異変
の大も、伝わって来たのであった。
 ところで、後白河法皇はいかにというに、法皇はその日、東山七条の新
熊野(しんくまの)に御幸されていた。
 -御花(おんはな)参らせ給う折フシ、大地震アッテ、と古典に見える
から、御参詣最中のことであったと見える。おそらく、神職も随臣(ずい
しん)たちも、現(うつつ)はなかったであろう。
 「すわっ、還御(かんぎょ)なくば」
 「いや、この大地震(おおない)、途中が危ない」
 「しばし、この辺りに、御車を立ておかれてはいかが」
 「いやいや触穢(しょくえ)(死者のけがれを忌むこと)のおそれもある。
急ぎおん輿を遣(や)り給え」
 かれらの随臣は、うろたえの余り、埒(らち)もない噪(さわ)ぎを揉
(も)んでいるに過ぎなかったが、後白河は、御自身、さっさと輿(こし
)へ移って、
 「はやく行け」
 と、列序もない扈従(こじゅう)の者を、励まされた。
 六畳の院御所までは、遠くもないが,、五条大橋はすでに通れそうもな
い。公卿殿上人の、こういう時の衣裳の身重さはなんとも不便なものであ
る。加茂川の浅瀬浅瀬を拾い、やっとの思いで、対岸へたどりつく。
 堤(つつみ)には、避難民の群れが、まっ黒だった。大路小路(おうじ
こうじ)は、つぶれた家と瓦礫(がれき)で、足の運びようもない、梁(
はり)の下になっている女、ほうり出されたまま泣いている子、どこかで
は、火災の黒煙が立ちはじめている。
 それも一箇所やニ箇所ではない。
 「驚破(すわ)、次には、火の海ぞ」
 「火に追われるな、道を急げ」
 「いや、道をかえろ。遠くをまわっても、安き方へ」
 輿は行き暮れた。絶えまない余震だった。人びとはそのたび眩(めくる
め)きに立ち惑う。
 すると辻の裡(うち)から、一陣の馬蹄(ばてい)の音が近づいて来た。
院のお出先を案じて迎えに来た義経以下の者だった。
 「おお、廷尉(義経)の迎が見えしぞ」
 人びとは、力をえ、間もなく、院の御所へたどり着いた。
 さっそく、法皇の仮の御座(ぎょざ)を南庭に設けた。竹の柱に、幕を
めぐらし、帳(とばり)を建て、神殿の上ゲ畳をそこに移しただけの幄屋
(あくや)であった。
 さすが、後白河には、うろたえた御容子はない。さっそく、非情の令を
出して、市中の戒厳(かいげん)に当らせたり、また、人を閑院へやって、
後鳥羽帝の御安否を問わせ給うなど、そこで政務をとっておられた。

 しかし、おおむねの重臣は、自分自分の難に暮れ、まだ一人の出仕も見
えなかった。自然、義経へ直々(じきじき)の御命ともなり、そのうえ、
後白河は、
 「市中の警固は、廷尉(ていじょう)の任なれど、ここも手薄、義経は、
まろの側を離れるな」
 とも仰(おっしゃ)った。」
 ぜひなく、かれは伊勢、弁慶などの部下を手分けして、火災の防止や庶
民の救護に向かわせ、自身は終夜、幄屋(あくや)の外に宿直(とのい)
していた。
 その夜も、数十度、次の日も、余震は頻々(ひんぴん)と、揺れやまな
い。
 -がようやく、顔を見せてくる重臣も多かった。
 だが、それからも十七、八日ぐらいまでは、余震がつづき。人は屋内に
寝なかった。
 しかも、こうした間に、恐怖的な流言が、あちこちで聞こえ出した。
 「治承の年、源氏に令旨を下(くだ)し、事あらわれて、源三位頼政と
ともに宇治で戦死されたという以仁王(もちひとおう)は、まことはお薨
(かく)れになったのではない。なお、長らえておいでになる」
 と、もっぱらな、取沙汰なのだ。
 こんな時、えて人心は、不気味な臆測に、とり憑(つ)かれやすい。-
でなくても、その年の梅雨(つゆ)ごろから流行(はや)っていた悪疫(
あくえき)を、入海病だの、平家の呪(のろ)いよ、などともいい恐れて
いたのである。そこへの大震災は、いよいよ絶好な流説の温床だったにち
がいない。
 果たせるかな、その後では、群盗の横行だった。木曾の恐怖時代さなが
ら天変地妖(ちよう)の夜々がつづいた。
 八月十四日。
 文治元年、と年号が改められた。
 平家滅亡の年、未曾有(みぞう)な大震災の年。「かかる時は、よろし
く吉年(きつねん)の称呼を撰(えら)んで、なべてを一新せらるべきで
ある」という例の廟堂(びょうどう)心理から、急に改元されたものであ
ろう。
 だが、年号が変っても、庶民のみじめさは、変らない。諸寺院への祈祷
(きとう)の勅旨は、しきりであったが、家を失った浮浪の民や、飢えへ
の群れへは、なんの施策(しさく)もみえなかった。
  ただわずかに、洛内数箇所で、施粥(せがゆ)が行われた。欠け椀(わ
ん)を持った男女の餓鬼(がき)が黒山になって、そこではまた、餓鬼同
士の喧嘩がたえなかった。
 夜は群盗の取り締まりに疲れ、昼は、難民のあいだを見歩いて、救護に
奔命していた義経は、ふと、通りかけた駒を止めて、
 「たれぞ、あの争いを、なだめてやれ。そして、義経の旨を、よく分か
るように触れてつかわせ」  
 と、部下へいいつけた。
 郎党の一人が、大勢の中へはいって、怒鳴った。
 「しずまれ、しずまれ。あすからは、施(ほどこ)し小屋の数も、諸所
の辻に、もっと殖(ふ)えよう。判官どのの御献言が容れられて、院の廩
倉(りんそう)や諸卿の貯備(ちょび)からも、たくさんな米(よね)や
粟(あわ)が下(くだ)されることに相なったぞ。-争うな。憐(あわ)
れな者同士、つかみ合いして、何になるか」
 そう聞くと、ピカピカした無数の飢えの眼が、
 「ほんとか?」
 と、疑い半分に振り向いた。そして、判官義経を、遠くにみとめて、静
かになった。
 義経が、群集へ触れさせた言は嘘(うそ)ではない。-市中守護の任は、
慈愛以外のものではないと、かれは痛感していたのだ。
 夜々の群盗が襲う先は、たいがい吝嗇(りんしょく))な公卿館だった。
飢民の代表みたいに、かれらは、目ぼしい倉を襲い、一切合財を風のごと
く持ち去った。
 その指導者には、屈強な武士が交じっているといううわさもある。
 おなじ被害は一夜に数件も起こった。義経の部下は今、堀川の自邸を空
にしても三百騎ほどしかない。洛内の要所要所へ配するには、まったくの
手不足だった。で、追補の実績は容易にあがらず、かれらは奔命に疲れき
って、こういい合った。
 「まったく、亡霊を追っているようなものだ。こう正体がつかめぬと、
よく凡下(ぼんげ)どものいう、平家の亡霊とか、以仁王が生きておられ
るなどと申す取沙汰も、だんだん嘲(わら)っていられなくなる」
 -だが、遂にある払暁(ふつぎょう)のこと。
 鈴木重家の一手が、九条辺りで、群盗の首魁(しゅかい)らしき者二名
を捕まえて来た。
 さっそく義経の前にひいて来たので、義経自身、調べて見ると、二人は、
「それがしは河内の石川十介、これは和泉(いずみ)の魚住義行と申すも
の。ともに、新宮行家殿の所領の内に住む家臣同様な輩(やから)でござ
る。-群盗などの汚名を着せられて追補さるるは心外至極」
と、食ってかからんばかりないい分だ
 義経は、去月以来、院の南門外に、仮屋を設け、堀川のわが家へも、ま
だ一度か二度しか戻っていない。
 「それは、真(まこと)か」
 「なんで、嘘を」
 「ならば、十郎行家どのに、なんじらの面(つら)、検(あらた)めさ
すが、合点か」
 「願うてもないこと」
 傲然(ごうぜん)たるものである。
 直ぐ院の内へ、部下をやって、行家をここへ招いた。行家は四条坊門の
わが家と、院の一殿とを、ほとんど半々に寝泊まりしていた。
 「叔父御か。わざわざ恐れ入る」
 「何事かよ、夜も明けぬのに」
 「そこな二人の男、よう見ていただきたい」
 「ふム・・・・・・・。やあ、これやどうしたことぞ」
 「お見覚えある者ですか」
 「あるどころではない、領家の地侍(じざむらい)じゃ。判官どの、な
んで行家の領家(りょうけ)の者を召し捕られしぞ。解き放してやれい」
 「こは、腑(ふ)に落ちぬ仰せ」
 「ま、ま、そう申されるな。仔細(しさい)はあとで話す。話せばわか
る。滅相もないことだ、群盗の頭だなどとは」
 おそろしくむきな弁護だった。否(いな)めば、争いにもなりかねない
強硬さである。ぜひなく、二人の身は、縄をといて、行家の手にあずけた。
 行家は、二人を連れて、その朝、わが家へ帰って行った。-が義経には
何か解(げ)せない。
 それからの幾晩かは、さっぱり、群盗の訴えもなかった。洛中はやや落
ち着いてみえる。義経は、くつろぎに飢えていた。その夕べ、久しぶりで、
堀川へ帰りたいものと、願っていた。
 と、行家から使いが来、
 「ぜひわが家まで、お越し給わるまいか」
 とのこと。
 いつぞやの不審もある。義経は四条坊門のかれの武家屋敷を訪(たずね
)た。堀川さえ、このごろは、無人がちだったが、行家の手許(てもと)
には、かなり多くの武者が飼われているふうだった。

 自身出迎えに出て、行家は、「やあ、よう来て給わった」
 と、すこぶるきげんがいい。
 一室に、酒の設けができている。その夜、行家は大胆なことを打ち明け
た。「-日ごろでは目につくゆえ、この時なれと、和泉、河内などの所領
から、手飼いの武者どもを、都の内へ呼びいれたのじゃよ。ここの屋敷に
も籠(こ)めおいてあるが、洛外のここかしこにもなお、幾十人ずつ、伏
せてある」と語った。またそればかりでなく、
 「いま詫(わ)びるが、じつは先夜捕われた両名も、その仲間じゃ。い
やなお申すと、どうもあれらが、夜ごと群盗を働いていたものらしい。こ
の行家は、つい知らなんだが」
 と、とうに知っていたような顔つきで嘯(うそぶ)いた。
 そうでしょう。妙な流言といい、乱波(らつぱ)めいた曲者の出没とい
い、叔父御のお手口と、このごろになって、薄々、読めておりました」「
 もう止めさせる。度がすぎては、鎌倉にも、感づかれるでの」
 「鎌倉からは、このたびの災害に、何の御救恤(きゅうじゅつ)もあり
ませぬな。関東は地震(ない)の厄(やく)もなかったろうに」
 「はははは。それどころか、頼朝はむしろ慶しているだろう。院の御衰
微も、都の荒廃(こうはい)もー」じろと、義経の面(おもて)を上眼(
うわめ)づかいに見つつ「・・・・・判官どの、もう迷うところはないだ
ろうがの」
 「迷いとは」
 「はて、いうまでもなかろうに、頼朝の申す義絶に甘んじ、答えは弓矢
で、臍(ほぞ)を嚙(か)ましてやらんという大事を」
 「あ、あのことですか」
 「おりもおり、こう二人の叔父甥が、鎌倉の専断をただそうぞと、約し
た日が、あの大地震の朝じゃった。わしは思うのだ。これや世がくつがえ
る前触れにちがいないと」
 「とは申せ、なかなか心は浮かぬことに思われてなりませぬ。辛うござ
ります。義経は」
 「ばかだ!御辺(ごへん)は」
 行家はだしぬけに一喝(いつかつ)した。-意識しての血相らしい。手
の杯を下へおき、そして、骨肉の年長が、一個の甥を見すえる口吻(こう
ふん)で。
 「まだ、そのお眼がさめぬとは、あきれるほかはない。聞けよ判官どの。
わしはお許(もと)の父頭(こうの)殿(義朝)の実弟として、はっきりい
う。父義朝どのから見れば、頼朝もお許もおなじ子であろうがよ。が、そ
の頼朝の仕方はどうじゃ。兄らしゅうもない。世を興し、徳を布(の)べ、
長く源家を栄えしめる器(うつわ)ではない。第一、院の御心にもかなわ
ぬ者だ」
 「・・・・・・・・・・・」

 「わかるじゃろ。清盛、義仲とどこがちがう。事ごとに、院の手をもぎ
足をもぐような遠謀ばかり巡(めぐ)らしておる。近くは、総追捕使(そ
うついぶし)の制を廃(や)め、代りに、頼朝直々(じきじき)の地頭を
国々に置かんという策なども考えおる由。いわば天下を幕府の下に一括(
いつかつ)横領する手だてにほかならぬ。-院の御立腹は申すまでもない。
が、表立っては争えぬほど、鎌倉の府は、すでに第二の六波羅になりおる
のだ。いや、六波羅以上だといってよい」
 「いや、叔父御、義経とて」
 「まあ待て。お許(もと)を憶病未練(おくびょうみれん)と見ていっ
ておるわけではない。いや頼もしきは、廷尉(ていじょう)あるのみとは、
畏(おそ)れ多くも法皇(きみ)のお口から何度聞いたことか。泰経卿以
下、院中の心ある方々も、みな心を寄せ、お許の弓矢に、唯一の頼みをか
けておらるる。・・・・・・・院の御信寵(ごしんちょう)、なんで、こ
たえ奉らずにおられよう。のう、そうではないか判官どの」
 「されば、この義経も、過ぐる日、おちかい申した如く、覚悟はすえて
おりまする」
 「このうえともだ。すでに堀川の家来どもがやってしまったことは、取
り返しはつくまいがの。それに、悪運のつよい梶原、ついあの大地震(お
おない)の前に関東へ帰りおった。次の地震は、関東からゆり返して来る
だろう。こちらも、油断をしてはおられまいて」
 行家が見る眼ではこの甥は、頼朝よりも、義仲よりも、神妙である、比
較にならないほど扱いよい。話に親身(しんんみ)の情を持たせ、杯に適
度な血をわかさせれば、ほとんど掌中の物と、かれは思った。
 行家が義経を籠絡(ろうらく)したか、義経がついに最後に追いつめら
れた結果、この叔父を道づれとゆるしたのか、とにかく、いつかこの叔甥
(しゅくせい)は、こうなっていた。
 -ところが、ここに無表情だった鎌倉の府は、八月も末近くに、義経へ
たいし、意表外な寛大さを、事実でしめした。
 それは、義経への伊予守任命だった。
 検非違使(けびいし)の判官(ほうがん)たるうえ、伊予守への任命は、
破格なことで、九条兼実(くじょうかねざね)などもその日記に「未曾有
(みぞう)、未曾有」と、蔭で評した。いや、褒賞(ほうしょう)の軽重
はともかく、鎌倉のこの出方には、人もみなびっくりした。

 仏 面 密 使(ぶつめんみつし)

 おかしなことだ。どう考えても変である。
 -人びとは公布されたこんどの除目(じもく)を知って、目をまろくし
た。当(とう)の義経ならぬ周囲ですら、腑(ふ)に落ちない顔をして、
みないい合ったものである。
 「そも、鎌倉どのの真意はどこにあるのか」と。
 さきに関東御家人すべてへ「爾今(じこん)、義経の命をきくに及ばず
」と沙汰し、勘当の詫(わ)びにと馳(は)せ下った義経は、あえなく腰
越から追い返され、むなしく、都へもどって来れば、所領二十四箇所の没
収という苛烈な処置が、かれを待っていたのではなかったか。
だのに、咄(とつ)として。
 じつに咄として―その頼朝から朝廷へ、にわかに除目の奏請がなされ、
義絶同様な義経へ、今さら「平家追討ノ功ニ依リ」という辞さえおかしい
のに「-伊予守ニ任ズ」と、栄職の途まで開かれたのは、いったい、どう
いう風の吹きまわしか、頼朝の腹なのか。
 もっとも、鎌倉側では、いつかいちどは、形だけでも、恩賞の挙(きょ
)を示さなければならないだろう。だから今度の奏請(そうせい)も、ひ
とり義経の推挙だけに限ってはいない。
 -たとえば、大内惟義(おおうちこれよし)を相模守に、小笠原遠光を
信濃守に。義定の子安田義資を越後守に。足利義兼は上総介に。山名義範
は伊豆守に。といったような源家一族の叙任褒賞と一しょに、義経のそれ
も、推薦(すいせん)されていた。
 ところが、これには、べつな事情もある。頼朝の推挙の表(ひょう)は、
じつは、もっと前の四月上旬ごろ―思い合わせれば壇ノ浦の捷報(しょう
ほう)が鎌倉へとどいたあのころー院へ手続きされていたことで、今なさ
れた思考ではない。
 頼朝も、壇ノ浦の大捷(たいしょう)を知ったときは、夢かとよろこび、
正直、感涙をながして西方の空に謝したものである。そのうれしさのまま、
当時ただちに恩賞奏請の手続きを取ったものにちがいなかった。
 しかるに、その感涙は、すぐ乾いた。義経にたいする将来への過度な恐
れやら、猜疑(さいぎ)に変ってきた。武家本元の次代を確立するために
はどんな手段も辞してはならぬ、というかれらしい政治信念が、梶原の讒
(ざん)をも容(い)れた。そして義経譴責(けんせき)への、いや自滅
への追い落としに、さまざまな形をとって、以後あらわれたものだった。
 とはいえ。-今となって、先に朝廷へ執(と)った手続きを引っ込める
わけにもゆかない。
 そこで頼朝は、こう考えたのではなかろうか。
 「もし義経が、心から勘気に服しているなら、ここは謹慎(きんしん)
を表して辞退するにちがいない。また、院にせよ、勘気中の義経が任官な
どは、鎌倉へたいしても御遠慮あることであろう。-いずれにせよ、世間
が殊勲者と見る義経の功を、兄のわが手で削るよりは、ただ勅諚(ちょく
じょう)にまかせ奉ると、申しておく方が、わが名分は、よいというもの

 もし頼朝の意図が、この辺にあったとすれば、かれのねらいは、見事、
外(はず)れた。
 なぜならば、院は、義経への賞を、むしろ遅きに失するものとして、す
ぐそれに裁可を与え、義経もまた、無感激に見えるほど、あっさりと、拝
受してしまったからである。

 「人びとはわしを祝(ことほ)ぎ、めでたいと皆いってくれる、-が、
わしがもろうたのは、綽名(あだな)に過ぎぬ」
 伊予守任命に拝して帰った日。義経は、すでに用意されていた祝杯を、
家臣たちとともに酌(く)んで、大いに笑った。
 「たれぞ。あててみぬか。その綽名を」
 「さ・・・・・・?」
 「分からぬか」
 「わかりませぬ」
 「名ばかりノ守という綽名よ」いっそ、国なしの国司(こくし)と申す
もよいな。はははは」
 義経はこのごろどこか変わってきている。本心の変化を、あきらかにい
ってはいないが、鎌倉への態度は、言外(げんがい)にも、もう以前のか
れのようではない。
 で、恩賞の件は、その空名も頼朝の腹も、充分知ってのうえでかれはそ
れを受けたのだろう。-現に、伊予国には鎌倉直参の地頭職がい、租税の
稲一把(いちわ)、そこから義経へは上がらない仕組みになっている。ま
た、義経もそんな物をあてにはしていない。
 こう明瞭なのに、あえて、義経が頼朝の授賞をうけたのは、もうそれ自
体が、反抗的行為ともいえなくもない。-同時に、かれはまた、この直後
において、平大納言のむすめ夕花を、公然と、側室へ入れることもした。
 平大納言の家族のいるあの大きな館の内においたまま、そこで内輪の式
も挙げたのである。
 客には、時忠一族の身寄りやら、院の側近とみられる顔ぶれまで招かれ
てい、内輪とはいえ、賑(にぎ)わしく、また艶(あで)やかな華燭(か
しょく)だった。
 十郎行家も客としてみえ、また、食客(しょっかく)の桜間ノ介能遠(
よしとう)も、席の端にいた。
 見わたすところ、この内輪祝言(うちわしゅうげん)は、ある目的の同
志的な集会のようでもあった。事実、桜間ノ介まで加わっていたのをみれ
ば、名を祝言にかりて、じつは他日(たじつ)への顔ぞろいであったかも
しれない。しかし、夕花だけは、身の幸福に羞恥(はじら)っていた。
 嫁(ゆ)きおくれた晩婚の女性の熟(う)れ余るよろこびが、こよい咲
く灯に、その耳の根や頬を美しく火照(ほて)らせていた。
 ともかく。-かかることは、当然、鎌倉表へ知れずにはいない。
 頼朝は、嚇怒(かくど)したというが、これは、もっともなことだった。
 「ひともあろうに平家の―しかも虜囚(とらわれ)の平大納言がむすめ
と、婚儀をむすぶことは何事かよ。言語道断」
 夫人政子の心証を害したことも、もちろんである。
 義経の正妻、河越殿(百合野)の輿入れに、もっとも世話をやいたのはか
の女であった。
 先ごろ、都から帰った梶原の言によれば、河越殿の付人、江戸十郎太や
男衾(おぶすまの)源次などの横死(おうし)も、堀川の家来が手を下し
たものだというしー政子とすれば、挑戦をうけた感じもしたであろう。
 「こは、あきらかに、わしたち夫婦への、つらあてぞ」
 夫妻の間では、この程度の語気であったが、梶原、北条などを前におい
ての頼朝の言は、そんな生やさしいものではなかった。
 「今さらならねど、九郎の叛心(ほんしん)は、歴然として来た。改悛
(かいしゅん)の状など、いささかも見えぬ。昨今、わけて人もなげなる
振舞い、はや捨ておかれまい」
 「かれの胸には「もう時期はよし」という考えが醸(かも)されている。
名分はそろったのだ。さきの処断も、義経の昨今の行状に照らせば、世人
(せじん)も是認するであろう。
 「-弟ながら、今は堪忍もなり難(がた)い。軍勢をやって、九郎めを
討ち取らせん。かたがた、院のあやしげなお兆(きざ)しも、今のうちに、
抑えておかねば」
 ついに頼朝は、本心の底を、口に出した。自分以外へ、それを明かした。
 「えっ。それまでの御決意を」
 梶原は、喉(のど)くびの老(お)い皺(じわ)に、痙攣(けいれん)
を走らせた。ごくと、生唾(なまつば)が通って落ちた。
 さすが北条である、時政の方は、黙りこんでしまった。やがて重々しげ
に、口をひらくと、こういったものである。
 「さあて。御創府の大業も、せっかく成就をみた今日。御英断もさるこ
とながら、万が一のおつまづきでもあっては、営々積み重ねた御功業がだ
いなしになりまする。御短慮なく、ここは一応、京へ探りを派して、後、
お下知を賜わるも、遅くないかと思われますが」
 諌(いさ)めたのではない。
 むしろ言外には、すすめている。
 が、院という超存在。都という特殊な地的性格。むずかしさは、ひと通
りでない。下手(へた)をすれば、木曾や平家の轍(てつ)を踏む。-か
たがた、後白河の義経にたいする信寵(しんちょう)はほとんど院の直臣
なみだ。-そこを大舅(おおじゅうと)の時政は、注意したのだ。
 策は練(ね)られた。
 その結果、梶原の長男源太景季(げんたかげすえ)と南御堂(みなみみ
どう)の僧、義勝坊成尋(じょうしん)のふたりが、ある秘命を受けて、
急に京へ上ることになった。

  「しかと、その目で、見て来いよ」
 出立のみぎり源太景季は、父の景時から念を押された。
 「心得まいた。-が、判官どのが、やすやすと、会うてくれましょうか

 「会わねば粘(ねば)れ。いや会わぬはずはない先も疑心暗鬼、かなら
ず会う」
 「仰せつけの二箇条、そのせつ申し渡しますか」
 「そうだ、すでに義絶のおん仲、鎌倉どのの御書を持たぬはそのためだ
御内意、かくの如しといえ。また、関東御家人の面々もみなしかりといっ
てもかまわぬ」
 「そう二箇条の御返辞次第で、判官どのの底意(そこい)も知れると申
すもので」
 「が、そこにのみこだわるな。かの殿の叛意(ほんい)は明白なのだ。
-わしの眼から観るところだな。-しかし、備えはどうか。院中の肩持ち
公卿はたれとたれか。堀川の内外を、探ってまいることが、眼目(がんも
く)だぞよ。抜かるな、御使いの任は重いぞ」
 親の目には、幾つになっても、子が乳臭(ちぐさ)く見える。わけて子
煩悩(こぼんのう)な梶原。
 一ノ谷合戦では、背の箙(えびら)に梅花をかざし、生田(いくた)破
りの勇名をはせた源太景季なのだが、きょうは使命がちがうし、相手は義
経、やり損なってはと気遣(きづか)うのか、細々いい含めて、息子を送
った。
 それが、九月二日だった。
 もう秋風の朝夕である。
 景季(かげすえ)と僧成尋(じょうじん)が、都へついたのは、十一日
ごろか。
 かれらは、六条油小路に、旅宿をとった。
 そして、こんど上洛の用向きはと、問われぬ先に、
 「-南御堂の供養のおん布施を賜うた方々へのごあいさつを兼ね、新堂
の荘厳具(仏器)など、ぜひ京物ならねばならぬものを購入のために」
 と表面、標榜(ひょうぼう)していた。
 もちろん、堀川を刺激しないための口実たるはいうまでもない。二人は、
布施門礼(ふせもんれい)と称して、施主の公卿館を、つぎつぎ訪問して
いた。
 ーと、数日のまに、その反応が、戸々(ここ)の門ではない、院中深き
ところに起こった。









































 この辺りで、息抜きに、吉川英治文学紀行を、読んでみたいと思います。


 火の山の眺望

 義経が待っていたのは、潮が逆流に転じる時だった。いったんは、串崎
と満珠の沖あたりまで退陣をつづけた源氏の水軍も、未(ひつじ)の下刻
を境に、反撃に移った。-串崎城跡から眺める満珠・干珠の二島。

          満珠・干珠の二島
CIMG0010































 壇ノ浦の海戦は、寿永四年三月二十四日に行われた。決戦は午の刻つま
り十二時に始まり、申の刻、午後四時ごろには運命が決していた。
 「平家物語」によると、源氏の船は三千余艘、平家側は千四艘に唐船少
々といったところだが、はたして当時それだけの船を集められたものかど
うか。「新・平家」で九郎義経どのの水軍はおよそ六、七百隻、平家の全
水軍五百数十隻としているのが妥当な数であろう。
 壇ノ浦の戦域を一望の下におさめるには、まず火の山の展望台まで登っ
てみることだ。ケーブルを利用してもいいし、車でも展望台の真下まで行
くことができる。
 瀬戸の海が急にすぼまったあたりに、彦島があり、その手前に船島が位
置する。その光景をを右手に眺め、関門の間をつなぐ大橋に目をとめ、さ
らに左手に視線をうつすと、満珠、干珠のニ小島が望まれる、そのあたり
はもう長府だ。
 火の山を降りたあたりに赤間宮があり、、阿弥陀寺陵や七盛塚など平家
落日の悲歌を物語る遺跡も多い。火の山と早鞆(はやとも)の瀬をこえて
向いあう古城山の麓には、和布刈(めかり)神事で有名な和布刈(めかり
)神社がある。ここは平家の一党が最後の決戦を明日にひかえて、武運を
祈願したゆかりの神社でもある。そこから安徳幼帝の行在所(あんざいし
ょ)跡と伝えられる柳の御所址も近い。
 もともと火の山の名称のおこりは、外敵の来襲にそなえてのろしをあげ
たところから来たという。吉川英治は屋島のダンノ浦と、赤間ヶ関のダン
ノ浦とダンの字の相違如何とみずから問い、屋島のダンは木ヘンの屋島の
檀、赤間が関の檀は土辺の檀だとする使い分けがあるとはいえ、そのどち
らも宛字にすぎず、正しくは団ノ浦でなければなるまいと述べていた。
 つまり軍団のおかれていた土地なのだ。関門海峡は早くから軍事的な
要塞地帯であり、叛乱のたびに防人(さきもり)の団がおかれ、火の山に
狼火(のろし)があげられたのであろうか。
 展望台に立って七百メートルほどにくびられた海峡の流れを眺め、古戦
場のあとを確かめるうちに、思いは自然に平家の悲歌にもどってゆく。
 水軍を誇った平家がなぜ敗れたのか。汐先の利を平家も知らなかったわ
けではない。外洋から内海へ、つまり西から東へと流れ込む潮流に乗って、
いったんは源氏勢を満珠、干珠近くまで追いつめた平家なのだ。しかし戦
機を得ないうちに潮流の向きがかわり、源氏にしてやられたことになって
いる。
 阿波の民部重能の裏切りも平家側に痛かったであろうし、、梶(かじ)
取りや水夫たちを狙い撃ちした義経流の戦法も、平家側の盲点を突いたか
もしれない。しかし潮流の変化については、源氏以上に深い知識と経験を
もっていたはずの平家が、なぜ潮流の変わるときまでに源氏を追いつめる
ことができなかったのだろう。
 土地の郷土史家たちの説では、早鞆の瀬戸の潮の流れは、同時刻、同一
場所でも、まったく逆な動きを見せるらしく、西から東へと本流が押し寄
せるときでも、田ノ浦あたりの枝潮は、逆方向の渦をまくものらしい。
 平家はその微妙な潮の流れを知っていただけに、源氏を深追いすること
をためらい、みすみす戦機を逸すことになったのであろうか。

 火の山の展望台から一望する早鞆の瀬戸。平家水軍壊滅の地にも、今や、
東洋一の吊橋・関門大橋が偉容を誇っている。

         早鞆の瀬戸
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 御裳裾(すそ)川周辺

 満珠、干珠の小島は、長府宮崎の串崎城跡の高台からの眺望が一番良い。
串崎城は毛利氏が防長二州に減封され、長府に入った毛利秀元によって再
建されたものだが、一国一城令によってこわされた。その城の石垣がいま
でも残っている。城山と関見台にはかつて砲台があたというが、忘れられ
たようになっているその跡は、かえって歴史の旅情をさそう。
 赤間神宮は戦災を受けて、神殿以下ほとんど焼失したが、戦後復興され
た。竜宮城を思わせる白壁に朱塗の水天門は昭和三十三年の造営だ。四月
二十四日の先帝祭には上臈(じょうろう)たちの参拝にちなむ外八文字の
道中がくりひろげられるという。
 八歳の幼帝は、二位ノ尼に抱かれて千尋(ちひろ)の底に沈みたもうた。
二位ノ尼は「波の底にも都の候ふぞと慰め参らせ」たというが、赤間神宮
の竜宮造りは、その水底の都にちなむものであろう。

                       赤間神宮の社殿
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 赤間神宮境内の山かげの一遇には、七盛塚と呼ばれる平家一門の墓が、
安徳幼帝の御陵をしのぶように立っている。
          七 盛 塚
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神宮の隣の阿弥陀寺陵は安徳帝の御陵だ。もともとここには阿弥陀寺とい
う古刹があったが、幼帝の遺体を境内に奉葬して以来、勅願時となり、明
治維新の廃仏毀釈以後、神社に改まったという。

       しっとりとした雰囲気の阿弥陀寺陵
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 水天門をくぐって石段を登り、大安殿の前に立つ。左手の宝物殿には有
名な「平家物語長門本」などを展覧してあるが、その裏手が七盛塚と呼ば
れる平家一門の墓だ。前列に平有盛、清経、資盛(すけもり)、教経(の
りつね)、経盛(つねもり)、知盛(とももり)、教盛ら七盛の塚が並び、
後列に平時子らの墓がつらなっている。

 七盛の墓包み椎の露   虚子

 その塚の前に年老いた一人の女性がぬかずき、数珠を手にしながら何や
ら口誦(こうしょう)しているのを見かけた。旅の人とも思えない。平家
にゆかりの人なのか。投身しそこない、助けられ、生き残って遊女となっ
た女官も少なくないという。なにやらふしぎな感興をさそわれる光景であ
った。七盛塚の墓域の手前、右手の一角に小さな芳一堂がある。耳なし芳
一の話は、ラフカディオ・ハーンの「怪談」で有名だ。阿弥陀時にすむ盲
目の琵琶法師のあまりにも入神の妙技に平家の亡霊たちも、ぜひ聞きたい
と思い、壇ノ浦合戦のくだりを所望する。
 芳一は最後に耳をもぎとられてしまうが、これは目も見えず耳も聞こえ
ない芳一の姿に、心眼に徹し、心耳(しんじ)に通じる小童に思いを仮托
したのだろうか。そこには妖しいまでのロマンの影が揺曳する。
 安徳帝入水の場所は御裳裾川の沖合三百メートルのあたりだといわれる。
二位のノ尼の辞世「今ぞ知る みもすそ川も 流れには、浪の下にも都あ
りとは」にちなんだものだが、現在では国道の下をくぐり、暗渠を通って
磯に流れる小川にすぎない。

      安徳帝入水の地に立つ二位ノ尼辞世の碑
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 そのあたりにはわずかの漁家があったようだが、文久・元治の攘夷戦で、
砲台を築くために立ち退きとなった。源平合戦の古戦場であるとともに幕
末の攘夷戦の戦蹟でもあるのだ。そういえば阿弥陀寺には騎兵隊が一時駐
屯したこともある。尊攘志士たちのパトロンだった白石正一郎が、赤間宮
の初代神官だったというのも、興味ぶかい。

 和布刈(めかり)神社にて

 関門大橋を渡って門司側に到ると、古城山のすそに和布刈神社がある。
大晦日(おおみそか)の夜、この社の神官が衣冠を付け、釜と松明をもっ
てわかめを刈り、それを神前に捧げる、いわゆる和布刈神事は、古く和銅
年間からのものだという。この神事は謡曲の「和布刈」にも取り入れられ
ている。
 鳥居をくぐって岬の方に回ると、社殿は海峡に向かって建っている。石
段を降りると早鞆の瀬戸の急潮が岸を洗う海面に出る。そこから真正面に
赤間ヶ関を望むことができるし、火の山の山容も一望の内にとらえられる。 

       和布刈神社から望む火の山      
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 私は「宮本武蔵」の取材で、門司側から舟を仕立て、船島(巌流島)へ渡
ったことがあった、ちょうど昼近い時刻で、潮流が西から東へ流れるのが
わかった。数時間、船島をあるきまわり、巌流の碑や、大刀洗い井戸を確
かめ、舟を繫留していたもとの場所にもどっておどろいた。船がはるか下
の方にあるのだ。つまり水位が大きくかわってしまったためだが、その干
満の差のはげしさに、壇ノ浦合戦時の潮の流れの、思いの外のきびしさを
改めて教えられたものである。
 帰路のコースは、比較的短かったが、そろそろ潮の流れが東から西へ変
わる時刻だと思うと、二重、三重の興味をさそわれた。その時の印象は今
でも忘れられない。
 このはげしい潮の流れの中に、身を投じた平家の公達や女官たちの、浮
きつ沈みつする光景は、思うだに悲惨である。高倉帝の后だった女院は長
い黒髪に熊手をかけられて水中から引き上げられたというし、重衡(しげ
ひら)の妻は唐櫃(からびつ)とともに身を投げようとして抑えられ、教
盛・経盛兄弟は碇(いかり)を背負って海中に没し、能登守教経は安芸の
太郎・次郎を両腕にかいこんで身を投じている。
 十二単衣や緋の袴が、丈なす黒髪とともに海中に流れただよい、波騒の
底へと消えていく光景は、想像を絶するものがある。水軍を誇った平家は、
海戦に敗れ、一党は海の藻屑と消え去ってしまった。これほどの運命の皮
肉はないが、それだけにまた平家の亡霊たちが、水底の都に住み、亡霊と
なって、怨みをとどめるという伝承も、庶民の共感を得たのであろう。
 むかしほど平家蟹はとれなくなったようだが、赤間ヶ関当たりの海岸で
とれる蟹には、戦没した平家一党の亡魂が、苦悶の形相を甲羅に刻みつけ
たといわれる。たしかにそう思ってみると、人面に似ているが、これも鎮
魂の思いをしめす庶民の伝承であるにちがいない。
        
 関門大橋の真下にある和布刈神社境内に立つと、早鞆の瀬戸の狭さに驚
く。

      和布刈神社境内からの関門大橋 
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 なお蛇足だが、吉川英治は「新・平家物語」の取材で、下関から門司あ
たりをまわったおり、「西郷札」でデビューしたばかりの松本清張と逢っ
ている。「実直で作風どおりな人であると話しながら思う。ずいぶん忙し
い中で書いたらしい、羨むべき境遇と健康と年齢である」と書いているが、
松本清張は当時、朝日新聞西部本社に努めていた。生後まもなく壇ノ浦に
移り、家の裏手に渦潮の巻くのを見ながらすごした松本清張には和布刈神
事に托した長編推理もあり、吉川英治との出会いに特別の興味をさそわれ
る。





















 40 比丘尼壊義(びくにえぎ)、先妣(せんぴ)の為(ため)に常堂
   (じょうどう)請(しょう)す。

 比丘尼懐義、為ニ先妣ー請ニ上堂-。云、生也無ㇾ所ニ従来-、猶如ㇾ著ㇾ
 衫。死也無ㇾ所ニ去処ー、猶如ㇾ脱れ袴。万法元空、一帰ニ何処-。到頭
 生死相干不ニ相干-、罪福皆空ㇾ所ㇾ住。

 
比丘尼懐義(びくにえぎ)、先妣(せんぴ)の為(ため)に上堂(じょ
うどう)請(しょう)す。云わく、生(しょう)や従(よ)り来(きた)
るところなし、なお衫(さん)を著(き)るが如(ごと)し。死(し)や
去(さ)りて処(お)る所無(ところな)し。なお袴(こ)を脱(ぬ)ぐ
が如(ごと)し。万法(ばんぽう)元空(もとくうなり)一何(いついず
)れの処(ところ)にか帰(き)す。到頭(とうとう)生死(しょうじ)
相干(あいかかわ)らず、罪福皆空(ざいふくみなくう)にして住(とど
)まる所無し。

 訳文

 懐義尼(えぎに)が亡くなったお母さんの供養のために上堂を請うた。
そこで師が云われるには、生はどこから生まれてきたか、その由(よ)っ
て来(きた)るところはない、ちょうど、寒くなれば上衣を着るように、
時節因縁(じせついんねん)によって生まれてきただけだ。死はどこへ去
るか、去って留(とど)まる処はない、あたかも、暑くなれば、ももひき
をぬぐように、時節因縁によって死ぬだけだ。すべてのものは、本来空(
くう)で一(いつ)に帰(き)するが、その一も帰するところはない。結
局、生は徹底生、死は徹底死であって、生と死がかかわることはない。罪
も福もみな空(くう)であってとどまるところはないのである。

 語義

 懐義

 もと日本達磨宗仏地覚晏(だるましゅうぶつちかくあん)の弟子であっ
たが、法兄(ほうけい)の懐鑑(えかん)・懐奘(えじょう)らが道元(
どうげん)門下に帰したので、同じくその会下(えか)となった。生没不
詳。

 先妣(せんぴ)

 亡くなった母。これに対し、亡くなった父は先考(せんこう)という。

 袴(こ)

 中国古代の人が着用した股引の一種。国訓(こくくん)のはかまではな
い。
  

 付記

 本上堂語は、如浄(にょじょう)が一上座(いつじょうざ)の下火(あ
こ)(火葬)に際して上堂した語を踏まえた上堂である。如浄の上堂語は、
「万法一(ばんぽういつ)に帰す。生やなお衫(さん)を着るがごとし、
一何(いついず)れの処(ところ)にか帰す。死や還(ま)た袴(こ)を
脱ぐがごとし、生死脱着相干(しょうじだつちゃくあいかかわ)らず」(如
浄「語録」)である。この如浄の上堂語も、「生やなお衫(さん)を着るが
ごとし、死や還(ま)た袴(こ)を脱ぐに同じ」という蘇渓和尚の「牧牛
歌(ぼくぎゅうか)」「「伝灯録」三〇)によっている。

 41 恰恰(こうこう)として陵縫(りょうぼう)なく

 上堂。恰恰無ニ陵縫-、明明不ニ覆蔵-。鷲嶺謾伝ニ迦葉-、少林豈授ニ
 神  光   -。現ニ現成処処合頭語-、具ニ足人人知見香-。虚空演説森羅聴、
 不ㇾ掛ニ唇皮‐解挙揚。汝等諸人十二時中、満ㇾ眼満ㇾ耳、超ㇾ古超ㇾ
 今、誰自誰他、何迷何悟。還体悉得麼。良久云、挙ニ起鎮州蘿匐-、何
 ニ以盧陵米価-。


 上堂。恰恰(こうこう)として陵縫(りょうぼう)なく、明明(めいめ
い)として覆蔵(ふぞう)せず。鷲嶺(じゆれい)、謾(いつわ)りて迦
葉(かしょう)に伝(つた)う、小林(しょうりん)、豈神光(あにじん
んこう)に授(さず)けんや。処処(しょしょ)に合頭(がつとう)の語
(ご)を現成(げんじょう)し、人人(にんにん)に知見香(ちけんこう
)を具足(ぐそく)す。虚空演説(こくうえんぜつ)して森羅聴(しんら
き)き、唇皮(しんぴ)に掛(か)けずして解(よ)く挙揚(こよう)す
。汝等諸人十二時中(なんじらしょにんじゅうにじちゅう)、眼(まなこ
)に満(み)耳(みみ)に満ち、古(いにしえ)を越(こ)え今(いま)
を超(こ)え、誰(たれ)か自誰(じたれ)か他(た)、何(いず)れか
迷何(めいいず)れか悟(ご)。還(ま)た体悉得(たいしつとく)する
麼(や)。良久(りょうきゅう)して云(いわ)く、鎮州(ちんしゅう)
の蘿匐(らふ)を挙起(こき)す、盧陵(ろりょう)の米価(べいか)と
何似(いずれ)ぞ。

 訳文

 上堂して云われた。仏法は、すべてのものとピタッと一つであって、そ
の間に裂け目はなく、すべてのものに明白な事実であって、蔽(おお)い
隠されているものではない。それゆえに、この仏法を釈尊が摩訶(まか)
迦葉(かしょう)に伝えたというも嘘であり、達磨(だるま)がどうして
慧可(えか)にこれを授けよう。いたるところに仏法を示す言葉が現われ
ており、人びとすべてに般若(はんにゃ)の知見(ちけん)が具(そな)
わっているのである。だからして、虚空(こくう)が仏法を説くと、あら
ゆるものはこれを聞くのであって、人間の口を借りずによく仏法を挙揚(
こよう)しているのである。それゆえに、諸君は一日中、眼に見るところ
耳に聞くところすべて仏法の中にあり、古を超え今を超えていついかなる
時も仏法の中にあり、自分といわず他といわず誰もが仏法の中にあり、迷
っていようが悟っていようがすべて仏法の中にある。このことがわかるか。
しばらくして言われた。趙州(じょうしゅう)が師の南泉にお目にかかっ
たかと聞かれて鎮州(ちんしゅう)では大根ができると答えたのと、青原
(せいげん)が仏とは何かと聞かれて廬陵(ろりょう)の米はいくらかと
答えたのと、どっちがすぐれていよう。いずれも同じ趣旨である。

 語義

 鷲嶺(じゆれい)

 霊鷲山(りょうじゅせん)の略。前出。ここでは釈尊を指す。

 少林

 少林山の略。ここでは達磨を指す。

 神光(じんこう)

 二祖慧可。姓は姫(き)氏。神光はその幼名

 知見香(ちけんこう)

 解脱知見香。仏が自らの中に具(そな)えている五種の功徳(くどく)
の一つ。解脱の知見をいう。

 鎮州(ちんしゅう)の蘿匐(らふ)

 鎮州は中国河北省正定(せいてい)付近の地名。蘿匐(らふ)は大根の
類。この語は、趙州従諗(じょうしゅうしんねんん)と一僧との問答に基
づく(「趙州録」上)。

 盧陵(ろりょう)の米価(べいか)

 盧陵は中国江西省吉安府付近の地名。米の名産地。この語は、青原行思
(せいげんぎょうし)と一僧との問答に基づく。(「伝灯録」五、青原行
思章)。

 何似(いずれ)ぞ

 二つの物を比較して、どうだと問う言葉。

 付記

 本上堂は「宏智録(わんしろく)」(巻一)の「恰恰(こうこう)として
陵縫(りょうぼう)なく・・・・眼に満ち耳に満つ」というほとんど同文
の上堂語によっており、それを踏まえた上堂である。あらゆるものが仏法
を説き、あらゆるものがこれを聞いている。人間もその中の一員として、
仏法の中にあり、仏法を聞いているが、はたして諸人はいかん、と覚醒を
促したものである。


















 あぶない食客(しょつかく)

 「・・・・・時実、寝所へはいろうか。夜も更(ふ)けてきたらしい」
 「お寢(やす)みになられますか。おお、夕花」
 と、もいちど妹を振り向いて、
 「さ、さ。お父上に涙など見せてくれるな。どうなろうと、そなたまで
を、不幸にしたくないと、たださえお心を悩めていらっしゃるものを」
 「おゆるしくださいませ、兄君」
 「なんの、しかったわけではない。そなたの胸は、むりもないとは察し
ている。さ、お父上を御寝所へおつれ申せ」
 「・・・・・はい」
 涙をふいて、父とともに、夕花もそこを起ちかけた時だった。
 このごろしきりに多い地震が、ずずずん、と地鳴りを伴い、ややしばら
く、屋の棟(むね)を揺(ゆ)り軋(きし)ませた。
 「あ、また地震(ない)が」
 「大きい」
 兄妹は、両側から、父の体を支えあった。時忠は、ふたりを抱えて立ち
ながら、
 「たいしたことはない。何、たいしたことはない」
 と、二度ほどつぶやいた。
 そのまに、屋鳴りもやんだ。
 が、それをきっかけに、大庭の樹間から近づいてくる人影があった。時
忠父子の眼は「たれか?」と、それにそそがれていた。
 「だいぶ、今のは、大きな地震(ない)でございましたな。どこかで、
けたたましい雉子(きじ)の声もしたようです」
 庭の砌(みぎり)の下まで来て佇(たたず)んだ男は、こう上の人へ話
しかけた。
 そして、さかんに犬の遠吠(とおほ)えがする世間の夜空を、ながめて
いた。
桜間(さくらま)ノ介(すけ)能遠(よしとお)だった。
 数日前の夜、ふいにここの幽所を訪ねて来、今し方、院の御門で義経に
会って来たと告げ、その晩から下屋(しもや)の一隅(いちぐう)に、食
客となっていたかれなのであった。
 堀川の館は近くなので、過日、義経がかれに「-館へ訪ねて来い。待っ
ている」といった言を持って、あれから再三、堀川を訪ねている。
 けれど、忙しいのか、まだ一度も親しく会うことができなかった。
 「こよいもまたー」と、桜間ノ介は、時忠父子へ、その不平を訴えて、
 「ー検非違使(けびいし)の友康(ともやす)と連れ立たれ、どこかへ
御外出と家来が申すので、ご帰館を待っていたが、いまだにお戻りはない

 と、腹立たしげにつぶやいた。
 それへ向かって、時忠父子が、無言でいたのも、かれには、おもしろく
なかったようだ。
 自分ら一族のためだけに、足を運んでいるのではない。壇ノ浦で取り交
わした約束をどう果たしてくれるのか、それの履行(りこう)を、義経に
会って迫ることは、取りも直さず、時忠に代わって、時忠がいいたいとこ
ろを、自分が代弁するわけでもないか。
 なぜ時忠はそれに冷淡なのか。-とかれは不満をむっと顔に描いて、
 「いや大理殿(時忠)。かくては、しょせん、いつ会えるやら分かりませ
ぬ。ひとつ、なんぞの用を構えて、ここの御幽所へ、判官どのをお招きし
てくださるまいか」
 といった。
 初めて、時忠は口を開いた。
 「そして?・・・・・・・。どうしたいと申すのか」
 「お訊(たず)ねまでもありますまい」
 「判官どのに、誓書の約を履(ふ)めと、責める気か」
 「もとよりです、熊野牛王(ごおう)の誓紙にかけ、武者と武者とが、
誓うたこと」
 「・・・・・・・」
 「壇ノ浦にて、兄の阿波民部を解き、判官どのへ寝返りさせたのも、こ
の桜間ノ介です。また、大理どの御父子と、判官どのとの間を結び、内応
のおしめし合いに、しばしばお使いしたのも、それがしでおざる。-しか
るに、判官どのは今もって、兄阿波民部への約束も果たさず、御当家への
誓紙の履行も、忘れているかのように見られまする」
 「いや違う、お汝(こと)は、鎌倉の頼朝が、判官どのに下(くだ)し
た処置を、聞いておらぬか」  
 「聞いております」
 「では、なぜ、あしざまに、さはいうぞ。判官どのの、立つ瀬を思いや
れば、むりもないのだ。今の苦境では、いかに戦場の約を、思われても、
それを行うことはできまい」
 いや、できまする。やろうとなさらぬゆえ、できぬのだ。-聞けば、先
(さい)つごろ、腰越まで下られ、身の潔白を起請文(きしょうもん)と
して鎌倉どのへ差し出したおり、捕われ人(びと)の助命やら、また、壇
ノ浦にて内応の功ある平家人(びと)への寛大な処置なども、ともに願い
出られた由。ところが、鎌倉どのは、一顧(いつこ)もくれず、皮肉にも、
その答えとして、判官どのの手で、宗盛公を、近江路で処刑させたではお
ざりませぬか」
 「・・・・・・」
 「そうまで、鎌倉の態度が、今は無力な平家人へ氷のごときものならば、
なぜ、判官どのもその無慈悲と、また御自身、武門が立たぬ理由(わけ)
をかかげ、弓矢に懸(か)けても、強腰をお見せしてくださらぬか。一戦
も辞せずと、是非を天下に問われなば、鎌倉も思い直しましょう。もしま
た、それも空(むな)しいならば、われら平家の生き残りも、こぞって、
判官どのを扶(たす)け、やわかやすやす、天下を頼朝の手へは渡します
まい」
 桜間ノ介は、こういって、歯がみを見せた。
 元来が、素朴な一徹者だ。これまでの苦節もあるし、自分がすすめて裏
切りさせた兄の民部や一族へ、たまらない負債と虚偽の罪を感じてもいる
のであろう。義経の態度を、煮えきらぬものとし、また、自分らの犠牲に
おいて義経がただ保身に汲汲(きゅうきゅう)たるものと見て、どうにも
我慢がならないらしい。
 「姫。・・・・・・そなたは、さきに寝(やす)め」
 時忠は、ふと、気をそらして、夕花へむかっていった。
 そして、かの女の憂わしげな影が、細殿の奥へかくれたのを見てから、
 「介。ちと、慎(つつし)め」
 と、睨(にら)むような眼(まな)ざしと、重い語気で、かれの粗暴な
武者気質(かたぎ)をたしなめた。

 「ここは都。屋島や壇ノ浦とは、場所がちがう。どこに、鎌倉の眼や耳が
ないとも限らぬぞ。-もしまた、万一の兵変でも起こったら、どんなこと
になるか。それらのこともわきまえぬか。おろかなやつ」 
 時忠は、しかった。
 そして、義経のために、弁護して、かれの一途(いちず)な誤解を、じ
ゅんじゅんと諭(さと)した。
 しかし、介は、決して肯(がえん)じない。-義経の苦境、兄への心情、
よく分かっているのだが、我慢ならないのは、鎌倉の仕方だというのだ。
 いいかえれば、かれは、義経を仮りて、頼朝に満身の憎しみと怒りを抱
いているのだった。-そのため、情にもろく、母ちがいの弟という兄弟の
卑下(ひげ)を余りにも持ちすぎている義経を、歯がゆく、もどかしく、見
ていられない義憤にジリジリしているものらしい。
 「・・・・・・・?」
 介と、おなじ口吻(こうふん)を、時忠は、どこかで聞いたことがある
気がする」
 「そうだ。あの跛行(びっこ)殿も」
 と思い当ったのは、一、二度、ここの幽所を見舞に来た新宮行家であっ
た。
 行家もいつか、介とおなじ意味のことをいって帰った。
 ひょっとしたら、桜間ノ介は、ここへ身を寄せる前、一時、行家の屋敷
にいたのかもしれない。時忠は、かれの口うらをひいてみた。すると、素
朴な介は、隠すなく、
 「されば、都に着いた日、行家どのに途で出会い、そのまま、あの殿の
お屋敷に数日逗留(とうりゅう)していました。そして、判官どのに、院
の御車寄(みくるまよせ)でお会いしたのも、その行家殿のお手引きで罷
(まか)りましたので」
 と、すらすら話した。
 なおまた、行家(いくいえ)のことに、話が及ぶと、桜間ノ介は、ある
重大なことまで、つい口にもらした。-行家を中心に、もう院中には、一
部の者の公卿盟約が密々に結ばれてい、頼朝討伐の機をうかがっていると
いうのである。
 「まことか。介」
 「偽(いつわ)りはございませぬ。行家どののお口から聞き、その盟書
へそれがしにも、花押(かきはん)せよと、名を求められたのでございま
すから」
 「では、そちも仲間の端か」
 「ゆめ、御他言は」
 「いうまい。いうには余り恐ろしすぎる」
 「が、その儀は、後白河の法皇(きみ)にも、内実、おふくみのものと
承りまする」事ごとに、平家以上の越権と、武威を張って、院の御政治を
も曲げてくる鎌倉の府にたいして、御堪忍なりかねるような御気色(みけ
しき)も、幾たび拝されたことかと、院中のささやきでございますそうな

 「ああ、あぶない。げに、それはあぶない御気色というものだ。平家に
も覚えがある。亡き太政入道(だじょうにゅうどう)殿(清盛)すらも、あ
の法皇には、弄(もてあそ)ばれた。-十郎行家ごときが、なんで、なん
で・・・・・・・」
 つぶやいたが、ふと素朴なる介の顔を見直すと、
 「いや、そのような述解は、地方侍(くにざむらい)の介などには分か
るまい。ただ、申しておくが、平家ですらも、事急なる日は、家々を焼い
て、西国へ落ちた。都を兵乱のちまたにしたくないからだった」
 「いや、そのような暴は、行家どのも思うてはおられませぬ」
 「その行家も、頼みがいある男かどうか」
 「が、甥(おい)なる判官どのを、蔭にあって、心から案じているお人
ではありまでしょう。ともあれ、いちどこの御幽所(ゆうしょ)へ、判官
どのを、お招き給わりませ」
 「行家の企(たくら)みへ、判官どのを、引き入れんとするのか」
 「めったなことを」
 介は、どぎまぎ、顔いろを動かした。その下心もあったには違いない」
 「ゆめ、そのような密事を、お勧(すす)めに出る心ではございませぬ。
ただ、今なお、西国の一島に閉じ籠(こ)められ、ひたすら恩赦(おんし
ゃ)の日を待っている兄民部や一族どもの訴えをば」
 「それだけならば」
 と、時忠はうなずいた。
 義経を招けば、よそながら、夕花に逢(あ)わせてやれることにもなろ
う。そうした親心もうごいてか。
 「さて、いつがよいか」
 と、その日を案じた。
 介は、約束をえて、下屋へ退(さ)がった。そして、時忠が義経と打ち
合わせてくれる日を待った。ところが、はからずも、近畿一円にわたる未
曾有(みぞう)の大地震は、その日の一日前に起こった。

 消   魂   記(しょうこんき)

 大地震は突然やって来たわけではない。
 もう先月ごろから、前触れの小さな震(ゆ)れは、頻々(ひんぴん)だ
ったのである。また大地震当日も、朝からいやな蒸し暑さだった。晴天な
のに迅(はや)い薄雲や巻雲が、のべつ空の様相を変えていた。コノ日、
陰晴サダマラズと、どの公卿日記も、未然に変だったことはしるしている。
 だが、自然の警告を、素直に感じとっていたのは、鳥獣や昆虫だけであ
った。人間はおおむね、たかをくくるか、無関心でいたらしい。地震でな
い個人や社会環境の災害、混乱、戦争などにも、その兆(きざ)しや予告
はいつもあるのだが、いつも起こってから仰天するのが人間だった。-そ
して後では、さも分かり切っていたようにいいはやすのである。「もう三
日も前から井戸水がいつになく赤くなっていた」「わが家の鼠(ねずみ)
は、いつのまにか一匹もいなくなりおった」「あの朝、ごうっと、地うな
りがした。前の夜には乾(いぬい)の空に、異(い)な光り雲が見えた」
などと。
 ともあれ、その年の大地震は、たれの記憶にも覚えがないほどなものだ
った。-正確にいうと、寿永四年七月九日(八月文治元年と改元)の午(う
ま)の刻―つまり正午(ひる)少し前。
 ちょうど義経は、その時刻、書院で客と会っていた。
 その客がまた、近ごろ足しげくみえる新宮十郎行家だった。叔父甥の仲、
ふしぎはないが、家臣は遠ざけられて、堀川御所の内は、妙にしいんと、
ひそまっていた。まったく、そよ風もない日だった。
 一瞬、地底かどこか、人間の知覚外な世界を、不気味極まる地唸(じう
な)りがゴウウッと馳(か)けた。
 主客はふと話を途切られ、なにげなく、義経の眸(め)も、廂(ひさし
)ごしの空へひかれた。
 「・・・・・・?」
 狂風は黄塵(こうじん)をまき、空は汚れた鈍色(にびいろ)をしてい
た。遠い厩(うまや)の方で、何十頭もの馬が一せいに嘶(いなな)き狂
った。とたんに大震(おおゆ)れが来たのである。不意に地殻(ちかく)
が生き物のような背を揺すり上げたと思うと、いきなり人間どもの尾骶骨
(びていこつ)へ直(じか)に、ズ、ズ、ズンと、地軸の怒気が、気短な
上下動をくり返して来、たれもが、一瞬に自由と意志を欠き、一切を見失
い、ただ、危急だけにうろたえる尻尾(しっぽ)のない動物になっていた。
「や、や、矢?」
 「地震(ない)ぞっ」
 どこの叫びやらも分からない。
 ど、ど、どっ、と外の筑土(ついじ)や屋内の壁が崩れ落ち、黄色な土
けむりが一番先に揚がった。梁が避け、近くの大屋根の一部が、ゆらっー
と傾(かし)いだ。と見るまもない。置かれた笠のような屋根だけが、ふ
んわり庭へかけて寝ていた。
 長い廊下はヘシ折れ、樹木という樹木は揺(ゆ)れに揺れ、摩擦して火
でも呼び起こしそうだった。ややゆるい振幅(しんぷく)に移ってからも、
地体の狂癲(きょうてん)は、突然、不気味な上下運動を思い出し、地表
のあらゆる物を振り飛ばさなければ止まらぬもののような天地を見せた。
 「・・・・・これや、容易でない」
 義経は、座を立たなかった。
 ひとつにいた行家は、咄嗟(とっさ)のまにもう見えなかった。
 その行家の後ろ姿を、廊の曲がりに見て、義経は思わず、
 「叔父後、そこは、かえって危ない」
 と注意しながら自分も起った。
 しかし、その途端の一震に、かれも足をとられて、妻戸の柱につかまっ
た。-脚(あし)の悪い行家は、蛙飛(かえると)びに、廊のかなたへぴ
ょんぴょん、ひょろけて行ったが、その辺の廊も屋根も裂け、同時に、滝
のような壁土の煙が、かれの影をも圧(お)し潰(つぶ)したもののよう
に見せた。
 いや義経とて、なんのゆとりもあろうはずはない。-あっと、床を蹴(
け)っていた。同時にかれの体は、勾欄(こうらん)数尺の上をこえ、庭
へ跳び移っていたのである。
 間一髪(かんいつぱつ)といってよい。かれのいた書院をもくるめた西
の対ノ屋は大きく傾(かし)ぎ、ねじ曲げられたような半倒壊の姿となっ
た。-もう叫喚(きょうかん)も聞こえず、人影も見えず、塵煙だけが辺
りを晦(くら)くしていた。そして、ここのみでなく、京中幾万のつぶれ
た屋根の上に、ひとり嘲(わら)っている太陽があるだけだった。
 堀川屋敷は、もと後白河のお住居の一つであった。で、堀川御所とも人
は呼んだ。それほどな普請(ふしん)でさえ、一瞬にしてこの有様だった。
ほかは推(お)して知ることができる。
 「小館(こやかた)は?・・・・・。静の身は?」
 すぐ義経がそこへ向かって盲目的な迅(はや)さを見せたとき、武者長
屋や下屋や至る所の惨状の蔭から、家臣の面々が、わらわら馳け集まって
来、かれを取り囲むなり、譫言(うわごと)のようにいいあった。
 「ああ、よかった」
 「殿は、おられた」
 「御無事ぞ。おつつがないぞ」
 一体これはどうしたことか。かれらは、欣(うれ)しに泣きに泣き
出した。
 眼の前に災厄をおいて、この受難を、まるで恩恵とでもしているような
歓(よろこ)びなのだ。実際には多くを失っていながら、僥倖(ぎょうこ
う)の一つを拾って、それを正しい好運と間違えて、欣(うれ)し泣きに
泣けてしまうような妙な幸福感は、こんな場合、人間たれもの抱く錯覚ら
しい。
 が、かれらが何より先に、主の安否をまず胸に持ったのは、日ごろの真
情が出たものといっていい。義経は、かれらの心根に対しても、静だけを、
気に懸けてはいられなかった。
 「みなも怪我はなかったか。下部(しもべ)どもも、遁(のが)れ出た
か」
 「見えぬは、あちこちを、尋ねておりまする」
 「釜屋(かまや)の火の気なども?」
 「お案じなされますな。火は特に、心しておりますゆえ」
 「弁慶、また、有綱や大八郎なども、手分けして、辻々の町屋の有様、
すぐ見て参れ」
 「はっ」
 「伊勢は、院の御所へ行け。亀井は内裏の諸門を見とどけて来い。-義
経もすぐ罷(まか)らんも、まず先に見てまわれ。そして一応知らせに帰
れ」
 命じ終わると、かれは、小館へ架かっている橋廊下へ躍り上がった。以
前には、泉殿とか釣殿とよばれた離れの別殿(べつでん)である。
 幸い、小館の方も、全壊はまぬがれていた。しかし、被害はひどい。一
角の屋根びさしは、池へ臨んで雪崩(なだ)れこみ、池の州浜(すはま)
は、地割れから濁水を噴き流してい、またあらぬ所に、鯉(こい)や小鮒
(こぶな)が跳(は)ねあ上がってピクピク白い腹を見せていた。
 「-静っ。静っ」
 召使の女房も見えず、静の姿も見あたらない。義経はやや上ずった声で、
細殿から、半壊の屋根の下へ、
 「・・・・・・・静っ」
 と、なおも呼びたてた」
 すると、壁も柱も傾いて、部屋というあとかたもない乱離(らんり)た
るもの蔭で、
「はいっ」
 と、かの女の張りのある答えがした。
 「静か。・・・・・・・どこにおるのだ」
 「ここにおりまする」
 「-あぶない、早く出よ。なお。しきりな震(ゆ)れ。もっと大きな震
れ返しもあろう」
 「はい。ただいま」
 「何してぞ、いつまで」
 「殿の御大切な品々を、取り出しておりまする」
 「おろかなやつ。物などに眼をくるるな。命こそよ、早く庭へ逃げろ」
 「いいえ、殿のお要(い)り用な物だけは」
 かの女は、やがて、幾度にも、それらの品を、必死に抱え出して来た。
 見ると、鎧具足(よろいぐそく)やら、つい先ごろ、院から拝領したば
かりの、太刀などであった。
 静はいった。
 「殿は検非違使(けびいし)の尉(じょう)、非情のおりは、院御所へ
馳(は)せつけ、庶民の御救護には、家をすててもお出向かい遊ばすはず。
すぐお支度に事欠いてはと存じまして」
 義経は、静の姿に、眼を凝(こ)らした。
 武門の生まれでもない白拍子(しらびょうし)上がりのかの女の、どこ
に、こんな健気(けなげ)さが、かくされていたのか。
 当然、かれも廷尉(ていじょう)の任務や事態の急に、眼をふさいでい
たのではない。けれど、静が気も魂も萎(な)え消して、怪我でもせぬか、
うろたえてはいないか、案じられたため、咄嗟(とっさ)にここへ、つい
て来てみたのだった。
 「-そうか」
 恥ずかしい気がした。うれしくもあった。
 「よく気がついたぞ。静。それを持って、庭へ出よう、身支度は外で」
 余震は、何十遍もあった。
 小さく、大きく、ひっきりなしといってよい。
 庭上へ出て、鎧具足を身に纏(まと)いながら、
 「静、わしはこのまま、夜も昼も、検非違使の庁や院の御庭に詰め切っ
て、幾日も戻れまい。そなた、どうしているか」
 「彼方(あなた)の竹ばやしに、仮の屋を葺(ふ)き、どのようにも過
ごしておりまする」
 「では、よいな、堀弥太郎と鈴木重家とを残しておくが」
 「お案じなされますな。・・・・・河越殿のお身のまわりも]
 はっと、義経は、自分に糺(ただ)された。百合野を思い出したのだ。
思い出したのは、忘れていたことにほかならない。
 「む。たのむ」
 と、静へいいすてて、かれはあたりの者へ「-馬をひけ」と、いいつけ
た。そして郎党たちが厩(うまや)へ馳(か)け、猛(たけ)り狂(くる
)駒(こま)の口輪を二人がかりでひいて来ると、すぐそれへ跳び乗った。
 馬の悍気(かんき)も常ではない。義経は地乗りしてまわりながら、も
いちど、静へ何かいった。-静は、木蔭にわななき合っていた召使の女房
や女童(めのわらわ)の中にいた。
 表門が倒れたため、かれはべつな一門から外へ馳け出ようとした。する
と、前の方をぴょんぴょん跳んで行く者がある。義経は呼びとめた。振り
向いた顔は、土をかぶってい、どこかに血のにじみまで見せて、人心地も
ない眼だった。
 「-お待ちなさい叔父御。お住居まで、馬で送らせよう。その脚もとで
は、心もとない」
 「おっ・・・・・判官どのか。命びろいしたわ。一体、これはどうなる
のだ」
 「これ異常な大地震(おおない)はもうあるまい。とすれば、始末だけ
のこと。驚きあわてても、仕方がありません」
 「そりゃそうだ。相手は天災」
 「叔父後は、御運が強い。あわや、梁(はり)の下敷きかと思われたが
」「由来、わしはなかなか死なぬ人間じゃよ。そこは自身もあるが、いや
もう驚いたわい。一度は、壁や梁の下になったのだ」
 「急ぎます。御用心を」
 かれのために郎党二名を残して、義経は、堀川の通りへ出た。
 眼をやる所、いずこも、地震の猛威にかきむしられた跡でない所はない。
都のすがたは、一変していた。
 「このぶんでは、院の御被害も」
 -急ぐ途中、さきにやった伊勢、弁慶、有綱などとも道で行き合い、か
れらの報告を聞くごとに、いよいよ事の重大さに驚きを大きくしていた。

















 第44回青藍展(水墨画)開催の案内状が、友人から届きました。今年も
家内と一緒に、タワーホール船堀のギャラリーへ出かけ、皆様の水墨画を鑑
賞させていただこうと思っています。もちろん友人の水墨画「木古内の海」
と「支笏湖の冬」も楽しみにしています。それと、鑑賞後、友人とその奥様
と昼食を共にして、話を少しうかがうことも楽しみです。
 私たちは、12月9日(土曜日)午前10時過ぎに会場入りをしようと考え
ています。

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 2017年12月8日(金曜日)
 今朝の最低気温は、-3℃と冷え込みました。朝から曇り空、日中も10
℃くらいしかあがらず、寒い一日になりそうです。
 昨日、最寄りのバス停を、9時39分に乗車し、京王線の聖蹟桜ヶ丘ま
で出ました。42年前この地の桜ヶ丘団地という小高い山の上に住んでいた
ことがあり、作家の山田風太郎が豪邸を構えていました。この時代は、駅の
改札といっても、木造づくりの簡単なもので、駅員さんが厚紙の切符にハサ
ミを入れるといったあんばいでいで、ローカル色いっぱいの駅でした。改札
を出ると、舗装のないむきだしの地面には雑草も生えているといった、超自
然豊かな時代でした。それが現在、京王百貨店もでき、街らしいビル群や高
層マンションがひしめき合っているといった状況にまで栄ました。
ふと、こんな懐かしい思い出がよみがえってしまいました。
 
 そして、京王電鉄の「聖蹟桜ヶ丘駅」から特急電車で新宿に出て、これよ
り都営新宿線に乗り換え、急行「本八幡」行きに乗車、目的地の「船堀駅」
に無事到着いたしました。
そして午前10時半ころ『青藍展』が開催されている会場に入りました。
 すでに、友達夫婦は、来ておられ、にこやかに挨拶の交換をさせていただ
いてから、氏の作品と他の皆様方の水墨画作品を鑑賞させていただきました。
撮影した作品をこの紙面に掲載させていただきましたが、作品名と氏名は割
愛させていただきます。また額縁のガラス面に、蛍光灯その他の影などの映
っている作品についても割愛させていただきました。

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 水墨画の力作を鑑賞させていただいた後、和食の店でランチをいただき
ながら、談笑させていただきました。
なんといっても氏の作品が、「優秀佳作」に選ばれたことが話題の中心で、
また家内は、自分の家で栽培した。「フェージョア」という名の果物を持
参し、ジャムの作り方の話などで盛り上がりました。そして来年の秋には
秋桜の名所がある、東京の水源にもなっているという「小久保ダム」のふ
もとあたりへ、私たちを花見に案内していただけるという話が出たところ
で、午後も、氏はここで引き続き近所の方の接待が待っているとのことで
したので、御馳走になったことを謝し、この場を辞し帰路につきました。

 帰りに新宿の京王百貨店で、チョコレートを買いたいと家内が言います
ので、一緒に店に入ると、ガラス張りになった今川焼のブース内で、実演
を兼ね、焼いている光景を見て、大好物の白あん入りを購入しようとしま
したが、列を作って並んだお客さんで、人気が集中していました。
それでも並んで、白あんと小倉アン入りの今川焼を6個づつ計12個入手
しました。
 
        今川焼の作業ブース
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        今川焼の作業ブース
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     その他、チョコレート、お菓子売り場
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階下に降りると、京王線改札付近に、野菜や果物魚肉などを売るお店があり
ます、少々高級感のある品物揃いですが,入り口は、お正月のお節料理の予
約客で忙しそうです。懐かしいお菓子なども置いています。この人の出入り
の多い雑踏の一角にどんな客が買い物をするのかと思う、不思議なお店です。

         京王線新宿西口改札付近
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       あふれんばかりの果物です。
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 昔、敷島紡績の社宅にいたころ、大坂から義理の叔父さんが、敷島紡
績に出張でお越しになった時は、その帰りには必ず家に立ち寄っていた
だき、森永キャラメルや、ボンタンアメを手土産に持参して下さった、
他にも大恩ある方でした。
 またサクマのドロップスは、缶入りでしたが、小生が、赤痢保菌者で、
日赤に入院したおり、母親がこれを持って見舞いに来てくれたのが、大
変嬉しく思ったものでした。

        懐かしい飴(あめ)
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最近、小生の水彩画をご覧になった、友達から、「私の絵を描いていただ
けませんか」という依頼が来ました。驚くと同時に、このようなお話をい
ただいたのは初めての経験でしたので、悦んでうけることにしました。
 さっそく、描きあげた作品をご覧になった友だちは、「お宝ができた」
などと、これまた大変感激をされました。この様子を見て、「この作品は、
友達の家にあるべきもの」と考え、プレゼントすることにしました。

11月じゅうに、贈る旨を連絡をしたところ、12月は自分の誕生日なの
で、お祝いを兼ねることにもなるため、よけいに嬉しいとの返事をいただ
きました。また、家の中に飾りますとも・・・・・。


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 少し手直しをしてみましたが、どうでしょうか。

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 2017年11月22日(水曜日)

 今季一番の冷え込み(0.6℃)となりましたが、朝方は、太陽の光が射
していました。
午後から曇り空となり、夕方から雨になっています。夜中には本格的に降
ってくるといいます。
 昨夜、広島の娘から、電話があり、「絵画の制作依頼があったんだって
ね」といわれ、少し照れ気味になりましたが、「そうだよ」とはっきりと
伝えました。娘は、「すごいね」といってくれました。
電話では哲哉先生も優哉君もそれに信哉くんも頗(すこぶ)る元気にそれ
ぞれ勉学と、獣医院の経営に励んでいる様子でしたので、安堵をしていま
す。
 いつも、気を使ってくれるゆんちゃんに「ありがとう」って、言いたい
のです。これも、哲哉先生の優しさがそうさせてくれているものと、あわ
せて感謝をしている今日このごろです。

 2017年11月26日(日曜日)

 今朝の最低気温は、-0.6℃と、真冬並みに冷え込みましたが、外は
秋晴れです。北側の庭に植わっている花ゆずの実が、大分熟れてきて、オ
レンジ色近くに染まっています。ツワブキの黄色い花も咲いています。ま
た南側の庭には、山茶花(サザンカ)の花が、何種類か咲き誇っています。
先ほど、これらの庭木に散水をしてやりました。木いちごが黄色から真っ
赤に着色、目に滲(し)みるようでした。

         花柚子(はなゆず)
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          花柚子(はなゆず) 
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           つわぶき
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          つわぶき
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                              椿
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          山茶花(さざんか)
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          山茶花(さざんか)      
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          山茶花(さざんか)    
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        山茶花(さざんか)・ ナンテン
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          山茶花(さざんか)
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          木いちご
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 昨日、先に、絵を描いていただきたいという依頼のあった女性から、FB
で、絵が届いたという記事が、掲載されていましたので、読んでみますと
「絵を観て感涙してしまいました」という喜びの声でした。こんなにも喜ん
でいただけたのは、7年絵を描いていて、初めての出来事でした。小生もう
れしくなってしまいました。また励みにもなります。


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 というわけで、励みになり、もう一枚描きました。絵の勉強にもなると
思い、またよい機会と捉え、挑戦したものです。
 おかげさまで、新しいモチーフが見つかりましたので、できるだけ多く描
いて、自分が納得できるように頑張りたいと思っています。


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 2017年12月6日(水曜日)晴れ

 今朝の最低気温は、府中市で、-0.6℃でした。明日はもう少し下が
ると思います。多分-0.2℃くらいにはなりそうです。日中は10℃を予報
しています。あす、水墨画の展覧会「青藍展」を、家内と一緒に鑑賞しに
行く、予定をしています。
 先方の奥様もいっしょですので、ランチタイムにどんな話が聞けるかを
楽しみにしているところです。
 この前は、心臓の弁膜手術でを、牛の弁膜と好感された人の話が印象に
残っています。
 今日は、水彩画をもう1枚作成してみました。


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 紫陽花(あじさい)の寝間(ねま)

 ゆうべ義経は、小館の寝所へはいった。
 たしかな足つきで、廊(わたどの)の橋もこえ、室へも通った。が、じ
つは大酔していたに違いない。静は、遅くまで起きていた。幾たびとなく、
水屋の簾(す)に紙燭(ししょく)がゆらぎ、また枕もとにすわっては、
かれを介抱している黒髪の人の影が映(さ)していた。
 あらそえないことには、けさ、すでに池の汀(みぎわ)に六月の陽が燃
えゆらぎ、紫陽花(あじさい)の露が乾(かわ)くころになっても、まだ
小館の妻戸(つまど)は、夜のままだった。
 こんな朝寝は稀有(けう)なことだ。多忙な義経の私生活にはかつて見
られない閑日かのようである。これ一つだけでも、義経の心に今、大きな
傾斜が来しつつあることは否みがたい。
 ようやく、かれは眼ざめて、掛樋(かけひ)の間(ま)に、姿を見せた。
 寄り添うて、何かと仕える静とさえ、口かずもけさは少ない。
 夏木立におおわれた四辺(あたり)のせいか、顔いろも、やや青白く見
える。
 「-お眼ざめでございましょうか」
 後ろの声に、
 「鷲ノ尾か。なんだ」
 「きょうは、院へ御出仕と承っておりますが」
 「昨夕、車の用意など、いいつけてあるに、事あらためて何をいう」
 「いえ、御出門の前に、伊勢、弁慶などが、昨夜の儀について」
 「なお話したいと申すのか」
 「は。もう一応」
 -考えていたが、
 「通れといえ」
 「よろしゅうございましょうか」
 「これから朝餉(あさげ)よ。朝餉ぐらいは、何事も忘れて食べたい。
それからだぞ」
 「わかりました」
 鷲ノ尾は退(さ)がって行った。
 今暁のできごとを、義経はまだ何も知らなかった。しかし、かれのいう
朝餉(あっさげ)すら、かれの望むような一時ではありえなかった。
 「静。そなた、そなたの局に退がっていよ」まもなく、わしは院へ罷(
まか)る。久しく、衣冠もつけぬが、装束の具をそろえておけ」
 入れ代りに、伊勢三郎と弁慶の二人が、かれの前に、手をつかえていた。
 「・・・・・・・・・・」
 はたと、主従の眼が出会う。-義経は、かれの姿のうちに、容易ならぬ
決意と、何かさし迫った事態が起こっているらしいのを直感して、どきっ
と、胸をつかれた。
 「なんだ、出仕の前に、申したい儀とは」
 「御翻意(ごほんい)の一条、いかがにござりましょうやと、じつは」
 「このさい、武門の外に生きたいと申した昨夜のことばは、けさも変ら
ぬ」
 「で、では」
 思わず、二人とも、にじり寄って。
 「お考え直し得られませぬか」
 「-義経が切なる願いよ。よくよく思いつめてのことぞや。・・・・
・・ただお汝(おこと)には、詫(わ)びようもない。もし、お汝らがわ
しの身勝手を怒って、義経を唾(つば)しても、腹が癒(い)えぬとあらば、
わしはよろこんでこの身をお汝らの足蹴(あしげ)にもまかせよう。何も
かも、義経の不徳、身の悲運が招いたこと、あきらめてくれい。皆をなだ
め、かくの通りと、詫びてくれよ」
 義経は、二人へ向かって、頭を下げた。
 あわてて、弁慶も伊勢も、左右から、主君のその手をつかんで、
 「な、なりませぬ。そうはなりませぬ」
 「なぜ、ならぬ。お汝たちは、わしを主と、仕え敬(うや)もうてくれ
ながら、わしの生涯の願いを、かなえてくれようとしないのか」
 「いいや、お怨(うら)みに存じまする。なぜ、わが殿には、身も心も
一つなるわれら股肱にまで、さまで御心底お隠しあるのでございましょう
か」
 「隠しはせぬ。部門を去りたいは、義経が、真実の願い」
 「なんの、さようなはずはありませぬ。天性、大将軍の大器そなえ給う
殿の御本心と、たれが、そんな仰せを信じましょうや。-平家なき後は、
その後武略も、はや用ずみ、かえって、後日の恐れあるのみと考えた、鎌
倉どのの無表情なる追い落としの策に陥(お)ち給うて、ぜひなきおあき
らめにあるとしか、受け取れません。・・・・・・いやいや、それらは昨
夜、家臣一同も申し尽しました。
 「たれが、どう申そうと、鎌倉どのは、源家の正嫡(せいちゃく)、儂
(み)にとっては、兄君」 
 「が、われらには、さまでのお人ではない。主(あるじ)ではありませ
ぬ。いや主の怨敵(おんてき)」
 「ゆるすまいぞ、さような雑言(ぞうごん)は。-ひかえろ弁慶」
 「いや、ひかえませぬ」
 と、かたわらから、伊勢三郎もいいつのった。
 「-殿をさし措(お)くには似たれど、われら郎党は、はや腹を一つに
思い極めました。・・・・これ御覧くださいましょう」
 と、血に染んだ一通を、義経の前においた。
 男衾源次(おぶすまのげんじ)が持って、鎌倉へ奔(はし)ろうとした
あの密書である。
 一読、義経は、眉にふるえを走らせた。
 -が、もっとかれを慄然(りつぜん)とさせたのは、それから二人が事
後に告げた、今暁(こんぎょう)の顛末(てんまつ)だった。男衾も江戸
十郎太も、途上で討ち殺し、その後で、河越殿(百合野)の身を、館の対ノ
屋から移して、べつな一棟(ひとむね)へ押し籠(こ)めたという告白な
のだ。
 そして、かかる非情な手段に出たのは、もとよりお怒りも覚悟の前でし
たこと、もし御翻意をえられぬなれば、一同、梶原の宿所へ襲(よ)せて、
斬(き)り死(じ)にか、腹切って、相果てる所存ーというのである。
 「・・・・・・・・・・・」
 義経はもう驚かなかった。しかし、いうことばも知らないらしい。
 熱っぽい語気をこめていう二人の告白を聞いているうちに、自然、かれ
は睫毛(まつげ)を瞑(ふさ)ふさいでいた。世の光が恐いものに見え、
すでに抜きさしならない自己の運命が正しく心の眸に映っていた。じいん
と、蝉の声が、その胸を焦(こ)がすように耳につく、それ以外、なんの
思案も出なかった。
 かれらはついに行動に出た。やりそうなことではあった。悔いても取り
返しのつくことではない。すべては事後だ。また、家来のした行為といえ、
自分にも疼(うず)いていない心ではなかったのだ。責任は自分にある。
また、結果も当然、自分に帰す。今さらどういっても仕方がない。
 -義経は、とっさに、ある最悪なばあいにも、あわてふためかないだけ
の、臍(ほぞ)をきめた。ふたたび、睫毛を開くまでの瞬間に、まずそれ
だけの腹はすえた。
 「・・・・・静」
 と、奥へ向かって呼ぶ。
 かの女の返辞は、意外に近い所で聞こえた。
 縁の曲がりの端だった。簾の外に、黒髪を沈めて、かの女も、すべてを
もれ聞いていたものだろう。 
 「・・・・・出仕する。装束は」
 義経は、二人をおいて、奥へかくれた。弁慶と伊勢は、なお動かずに、
手をつかえたままでいる。
 五位ノ尉(じょう)の衣冠を着けて、義経はふたたびそこを通りかけた。
-なおいる二人を見て、 
 「二人とも、車の供して来い。院へ罷(まか)れば」
 とだけいった。
 ほかには、なんのことばもない。二人は義経がいかに激怒するかを、恟
々(きょうきょう)としていたらしい。しかし、義経の眉色は、むしろ落
ち着いて見えた。主君の胸が、かれらにはよけいに、分からなくなった。
思わず腰を浮かせて、
 「はや、御出仕に?」
 「きのうは、御門へも罷らなかった。きょうは罷らねばならぬ。何かの
おこたえも」
 義経は、また、静を見た。
 「静。百合野を見舞うてやれよ。百合野に罪はないのだ。可哀そうに」
 「はい」
 前栽(せんざい)の車寄せに、供人の郎党どもは、車を立てて待ってい
た。義経はそれへ移る前に、一同の面を端から見渡して、「留守の者は門
を閉じて、よう留守せよ。わしの退出は、夜になるだろう。火の用心を大
事に守れ、わが家から火を出すな」と、
 きっといった。
 伊勢、弁慶の二人を供に加えてゆけば、大それた行動などはまず起こす
まいかと、わざと連れて行ったのかもしれない。このところ雨の少ない都
の路は、牛も車の輪も、門を離れると、すぐ白い埃(ほこり)になった。

 後白河は、かれの出仕を、けさからお待ちかねであった。-と、かれを
見るや、いそいでささやいたのは、大蔵卿泰経(おおくらきょうやすつね
)だった。屋島攻めに渡る前、風雨を冒(おか)して、義経の陣していた
渡辺ノ津まで、院のお旨をおびて、陣見舞いに来てくれたのも、この人で
ある。
 それのみでなく、かれは、院中第一の義経の肩持ちだった。義経のため
に諸事斡旋(あっせん)するところが多かった。法皇の御信任もまた、第
一の公卿である。
 「さ、さ。こなたへ」
 一殿(いちでん)には、後白河を繞(めぐ)って、月輪殿(つきのわど
の)(九条兼実)以下、多くの公卿が、居ながれている。
 義経が、鎌倉にも入れられず、腰越から追い返されたという風聞は、こ
この人びとをも、極度に緊張させていたらしい。いかに義経が、憤怒して
帰ったか、そしてたちまち、何か新たな事態をひき起こすのではないか。
そうした危惧(きぐ)を抱いている人びとであることが、義経を迎え見る
眼から義経にもすぐ感じとれた。それだけに、義経は、その日、ことばの
端(は)にも、感情的な語はつつしんだ。
 淡々と、始末を報告しただけで、腰越でのことには、軽くしか触れなか
った。
 ただ、この日、かれがもっとも多くの言を費やしたのは、平家の虜将た
ちの助命の嘆願についてであった。鎌倉どのへも、その件は、充分にまだ
聴き届けられていない憾(うら)みを補足していった。
 「かねて、平大納言どのとも、誓いをなし、そのため、神器(じんぎ)
の二品も、無事、宮廷に奉還された事でもありまする。-その功、また微
臣の軍功に代えても、何とぞ、平大納言どの以下の平家人(びと)には、
格別、御寛大な処置をくだし給わるように」
 それのみを、かれは、後白河を始め、居並ぶ上卿たちにも、懇願した。
 人びとは、かれの苦衷(くちゅう)を、よく察していた。
 上卿たちの間には、ひそかに、平大納言時忠と会い、時忠から、もっと
詳しい事情を聞き取っていた者もある。
 壇ノ浦の一戦が、あのような短時日に、最小な犠牲者ですみ、しかも神
器まで無事を得たのは、義経が、平家中の平和論者と結んでいた結果であ
る。さもなくて、あれだけの戦果を一日で挙げることはむずかしい。
 -が、そのため、義経の心には、大きな負債がある。苦しい立場にある
今だった。
 平大納言以下、阿波民部やら、その他、多くの平家人に、当日、裏切り
をさせておいて、戦果だけを奪い、後の約束を報わないでは、かれの良心
が、すまないのである。-鎌倉の帰途、宗盛父子を、近江で処刑したおり
も、それゆえに、かれの心は人知れず責められていたことだったろう。
 「・・・・・院にも、其許(そこ)のお心は、ようお汲(く)み遊ばし
ておわせられる」
 上卿の一人がいった。
 救いの網にすがるように、
 「そのこと、叡慮(えいりょ)の御仁慈に、まげて、おとどめおき給わ
りたく、もし、相かなわば、義経、一生の御鴻恩(こうおん)に存じ、そ
のほかはなんの望みももちませぬ」
 と、かさねて、伏奏を仰いだ。
 この日の拝謁(はいえつ)も、義経の首尾は上々だった。法皇後白河の
御愛顧もさることだが、院中の公卿も、ひとしく、かれの戦功と、その人
柄をほめ称(たた)え、鎌倉の荊棘(いばら)の垣(かき)とは、地獄と
天上ほどな相違だった。
 のみならず、かれは院の御厩(おうまや)第一の黒鹿毛(くろかげ)と
小鍛冶(こかじ)の御太刀を拝領して、耀(かがや)くばかりな面目をほ
どこした。そして初更(しょこう)の御饗(みけ)を賜わり、酔歩まんさ
んと、御庭(みにわ)の車寄せまで退(さ)がって来た。
 -と、車わきにうずくまっていた家臣の中から、ひとりの下臈(げろう
)が、つと立って、
 「おあぶのうございまする」
 と、義経の裳(も)を捧(ささ)げ、その手を扶(たす)けた。
 「・・・・や。お汝(こと)は」
 義経は、思わずいった。あたりの松明(たいまつ)に赤々と見えた男の
顔は、義経には忘れることのできない印象のある顔なのである。半首(は
つぶり)こそかぶっていないが、阿波民部の弟、桜間ノ介にちがいなかっ
た。
 「たれぞとおもえば、桜間ノ介ではないか。どうして、ここへは」
 「みゆるしも待たず、推参のとがは、何とぞおゆるしくださいまし。じ
つは、たった今、西国より都へのぼりつきましたので」
 「壇ノ浦の直後より、ふっとまた、陣より見えなくなったゆえ、いかに
せしやと、案じていたが」 
 「その後のことども、かずかず、お耳に入れとう存じますが、ここは院
の御庭、日をあらためて、伺いまする」
 「して、都では、どこを宿として?」
 「旧(ふる)き友も、今はみなおりません。しばらくは、平大納言殿の
御幽所にいたい考えでございまするが」
 「・・・・・・・時忠どのの仮の館にか。そうか。では、義経が堀川に
いる日を見て、いつなと参れ。待っているぞ」

 夕咲(ゆうざき)きの花(はな

 先に戦犯として鎌倉へ召喚された宗盛、重衡(しげひら)などは前後し
て首斬(くびき)られたが、都の内には、なお未処刑のまま措(お)かれ
ている平家人(びと)が少なくない。
 しかし、鎌倉の方針が、それら残余の戦犯に寛大なのでは決してなかっ
た。やがてつぎつぎに召喚して平家系の血の根絶(こんぜつ)を期してい
たのはいうまでもない。
 当然、平大納言時忠の身へも次の鎌倉召喚の番がまわって来る順であっ
た。が、それには、かれの内応の功もあるし、院の下文のうちにもしばし
ば。「-神器の無事は、ひとえに、平大納言と義経とが相謀(あいはか)
っての功による」と見え、後白河のそれとなきお庇(かば)いが分かって
いたので、さすが頼朝も、叡慮(えいりょ)に抗してまでは「平大納言を
召し下(くだ)せ」ともいえず、そのための、遷延(せんえん)にほかな
らなかった。
 -ところで、当の平大納言時忠は、しごく寛々たる毎日をその幽所(ゆ
うしょ)に送ってい、こよいも嫡子の讃岐中将時実(ときざね)と、蚊遣
(かや)りをくべつつ夏の夜を端居(はしい)していた。  
 「のう時実、ついきのうの壇ノ浦も、こうしていると、遠い遠い昔のよ
うな気はせぬか」
 「さっきから私も、飛ぶ蛍の一つ一つに、気をとられておりました。壇
ノ浦の波間に果てた亡き数(かず)やら、海の極みへ消えて行った人びと
のお行方(ゆくえ)などまで、ふと、考え出されたりして」
 「・・・・・・・はかないなあ、人の世は」
 「それにせよ、もう何か、風の便りでもありそうなものですが」
 「いやいや、その夜、幾十かの平家船が、壇ノ浦から落ちて行ったとも
落ちぬとも、世間には定かでないように、以後の便りも、跡を絶っている
方が、吉兆であろう。まずは、無事に第二の地上へ落ち着き給うたものと
思われる」
 「なるほど、もし南海のどこかで、御先途(せんど)を阻(はば)まれ
たものなら、たちまちこの都へも風聞が聞こえて来るはず。それのないの
は、かえって、よいお便りなのかもしれません」
 幽所というには、ここは余りに宏大(こうだい)な館であった。後白河
の亡き皇后(きさい)ノ宮、建春門院のおられた跡なのである。
 時忠は、その皇后(きさい)ノ宮(みや)の、兄だった。
 だから、かれにすれば、亡き妹の家へ押し籠(こ)められた形に過ぎな
い。だが、この一事でも、後白河の庇護(ひご)は、かなり積極的だった
ことがわかる。
 もちろん、鎌倉のてまえ、門は厳戒の中におかれていた。しかし、番の
武者は、義経の部下である。密かには、出入りも自由だった。いや、その
秘密を庇(かば)うための警固といった方が正しいかもわからない。
 いずれにせよ、ここの生活は、いわゆる幽所の囚人(めしゅうど)とは
およそ違う。時忠には、悠々自適の閑居であった。妻の帥(そつ)ノ局(
つぼね)も、嫡子の時実も一つにいた。-また、時実の弟右大弁時宗だの、
叔父の宰相時光だの近親者も、つねに訪(たず)ねてきた。
 わけて、娘の夕花は、長いあいだ、叔父親宗の家にあずけられていたが、
もう父母のそばを朝夕離れもしなかった。
 -今も。
 父時忠と時実が、釣殿(つりどの)の角縁(すみえん)に端居している
様子を見、かの女は、塩笥(しおげ)につけた桜の花を、白湯(さゆ)の
椀(わん)に浮かせて楚々(そそ)と運んで来、そのまま父と兄のはなし
を、じっと、灯影の横で聞いていた。

 「ときに、きょうお訪ねくだすった刑部卿頼経どのは、何か、お父上に
お内沙汰(ないざた)のことでも、おつたえに見えたのでございますか」
 「いや、それほどのことではない。相変わらずなお見舞。それと、世上
(せじょう)紛々(ふんぷん)なうわさばなしなど」
 「判官どのの近ごろの御苦境については」
 「それは聞いた。また、内大臣(おおい)の殿(宗盛)の死に振りも聞か
されたよ。よい話は一つもない」
 「案じられますなあ。どうなりましょう」
 「何がよ?。時実」
 「たのみとする判官どのがご勘気をうけ、所領二十余個所を召し上げら
れるような不首尾さでは」  
 「むむ、判官どのと戦前に取り交わした誓紙も、このぶんでは、空文に
帰すしかあるまい。鎌倉との約束ではないのだから」
 「では、御父上の苦衷もついに水の泡でしょうか。平家の後々のため、
辱を忍んでの御苦心も」
 「おぼつかない望みとなったの。・・・・・さても是非ない成りゆき」
 「聞けば、判官どのの家来が、不穏なことに出たとか、否とか、そんな
取沙汰もあるおりもおり、今夕、梶原景時がにわかに宿所を引き払って、
鎌倉へ下(くだ)りましたゆえ、なお、うわさに輪をかけておりますが」
 「急に、梶原が鎌倉へ帰ったと」
 「はい」
 「それは、よくない前触れだな」
 「また、鎌倉へかれの告げ口を齎(もたら)されると、院や堀川へ、関
東の圧力がおおい懸(かか)って参りましょう。ひいては、わが家のうえ
へも」
 「われらは敗者、覚悟はしておる。が、気のどくなのは、判官どのだ。
勝者の側にありながら」
 「しかも、殊勲(しゅくん)の大将軍が」
 「悪くすると、勝者の府からは締め出され、手足の部下は肯(がえん)
ぜず、いやおうなき反逆の弓を兄へ引くなきに至るかもしれぬ。
  いや、そうなるように、頼朝は故意に、仕向けているらしい」
 「梶原の讒言(ざんげん)と聞き及びますが」
 「いや、ちがう」
 時忠は、はっきり、首を振った。
 「会うてはいぬが、頼朝は天性の政略の器(うつわ)だ。鎌倉の今日あ
るは、偶然ではない。なんで、一梶原の讒訴などを本心からとり上げよう。
・・・・・・・だが、梶原の讒と世上にいわせておく方が、頼朝自身には
都合がよい」
 「あ。そう伺えば」
 「頼朝ほどな男、何もかも知ってのうえじゃよ。でなお、兄思いな判官
どのが、あわれに見ゆる。というて、討たれぬ前に先手を打て、そして兄
頼朝へ弓を引けとは、すすめもならぬし」
 そ、そこまで,険(けわ)しい事態になり行くでしょうか」
 「ああ、果てしのないものだ、人間の愚は」
 時忠は、嘲(わら)いたいような顔をした。
 平家の発祥(はっしょう)からその終わりまでを、生涯に見て来たかれ
の年輪と、長い間の政治的経歴が、そうつぶやかせたものだろう。すでに
勝者の府から起こりつつある勝者同士の相克(そうこく)がかれの眼には
観(み)えていた。-いうならば、平家を亡(ほろ)ぼしたかれらがまさ
に平家の轍(てつ)をふんでいるのだ。「ざまを見ろと」と、いってやり
たいようなものである。
 だが、これが自分もくるめた人間の相(すがた)だったと考え及ぶと、
時忠ほどな男も、業(ごう)の宿命に、うら悲しくなった。そしてほとほ
と人間がいやになった。
 「あ、お父上。・・・・・妹が」
 「夕花が?」
 時実に注意されて、時忠はふと、うしろを見た。簾の蔭の燭台(しょく
だい)と並んで、姫の夕花が、小袿(こうち)衣(ぎ)の袖で顔をかくし
ていた。
 かの女がなぜ泣くのか。父と兄の話をなぜそんなに悲しむのか。訊(き
)かないでも、二人には、わかり過ぎるほどわかっていた。

 夕花は、近く吉日を選んで、義経の室へはいることになっていた。
 その内約は、四月末、義経が神器を奉(ほう)じて凱旋(がいせん)し
た直後に、もう内々取り結ばれていたのである。
 -凱旋早々の当座は、義経も武勲赫々(かつかく)たる身を、朝野の万
歳と祝杯にかこまれてい、まさか、鎌倉の態度が、一瞬のまに硬化し、兄
頼朝の勘気が降って湧こうなどとは、かれも他人も、夢想さえしていなか
った。
 そのころのある一夕、
 「・・・・・ぜひ、夕花を、側室へ娶(もら)っていただきたい。深い
仔細(しさい)は何もないのです。が、姫はあなたのお側へ侍(かしず)
くことを生涯の望みとしているらしいので」
 との内輪ばなしが、義経にあった。
 庭には、時忠夫妻から嫡男の時実、親戚の時光、親宗などもいたのであ
る。
 その晩は、時忠の幽所がここときまって、流亡の別離以来、親子兄妹、
親戚などが、平家都落ちの日から足かけ三年ぶりで、ともあれ一つ家に会
したことなので、内々の小宴(しょうえん)を張り、院の近臣三、四名も
忍んで見え、義経も招かれていたのだった。
 客の大蔵卿泰経を始め、院中の事情に通じている人びとも、
 「それは、ふさわしい御縁、おそらく、院のお旨にかなう良縁かと存ぜ
られる。-もし時が時なら、女御(にょご)更衣(こうい)にも上(のぼ
)らるべき大納言家の姫君、判官どのとて、御不足ではあるまい」
 と、みなすすめた。
 前途華(はな)やかな凱旋将軍とみられていた義経へ諂(おもね)る気
もあったろう。が事実、後白河を始め院中の人気は、当時その人たちのい
うようなものだった。
 時忠一家の考えにしてもそうである。義経を待つあすの暗い運命などは、
まだこのときは、夢にも思いようがなかった。-この人の助言によって、
寛大な処分が取られ、酷罪(こくざい)の厳命などは万々あるまい。とど
こか安んじていたのである。
 従がって、夕花を義経に娶(めあわ)しておくことは、将来の策だし、
院中への反映もいいのではないか。また、何よりは姫自身がそれを望んで
いるし―という考えであったのだ。
 「深窓の姫が、武人の室へ侍(かしず)くなど、いかがであろうか、案
じられるが、もし姫さえおいやでなくば、義経に依存はありませぬ。いや
ね願うてもないこと」
 と、義経は少し顔をあかめて承諾した。
 席に、夕花はいなかった。
 けれど、その意味もあってか、何かと、おりおり美しい姿を見せては、
また奥へ消えた。
 そのつど、人知れず、かの女の眩(まぶ)しげな瞳は、義経の方を見、
義経はかの女の眸を捉(とら)えて、その後ろ姿を、なお眼で追った。
 夕花姫の﨟(ろう)やかな姿に惹(ひ)かれたばかりではない。
 かれには、忘れえぬ思い出があった。
 おそらく、姫も、おなじなのではないか。とかれは思った。
 -あれはもう五、六年ほど前。
 平家は世盛りの絶頂だった。
 叔父新宮十郎行家が黒幕となり、堅田(かただ)の湖賊を乱波(らっぱ
)に用い、夜ごと、洛中攪乱(かくらん)に跳躍させて、平家治下(ちか
)の人心を不安の極に陥(おとしい)れたことがある。
 当時、平関白と綽名(あだな)のあった時忠は、検非違使(けびいし)
の別当であり、辣腕(らつわん)の聞こえがあった。
 やがて、叔父行家の一子も、堅田家の大事な嫡子も、辛辣(しんらつ)
な検非違使の検挙にあい、ことごとく投獄された。
 弱冠の義経は、叔父や堅田家の悲しみを見かねて、
 「わしに一策がある。かならず、獄中の人びとを、助け出してとらせる」
 と、単身、検非違使の別当時忠の邸へ、訪れて行ったのだった。
 義経は、時忠と出会い、一通の起請文(きしょうもん)を、かれに示し
て「獄中の者を解き放してくれるなら、洛中の攪乱をやめ、近江境の山塞
(さんさい)も、みずからの手で焼き払おう」と申し出た。
 時忠は、その交換条件をのんだ。
 なぜのんだのか。-当時、叡山にも、源氏に与(くみ)して、密々、洛
中攪乱を助けている一部大衆のうごきがあり、それを看破していたからで
ある。
 それと、単身虎口にはいって来た弱冠(じゃっかん)義経の意気を愛し
てのことでもあった。
 が、伝え聞いた一門の公達(きんだち)―わけて能登守教経(のとのか
みのりつね)などの荒(あら)公達の不平は高い。不穏なうごきさえ見え
た。
 それらをも慰撫(いぶ)して、時忠は、「-以後、遠国へ去る」という
義経のため、一夕の別宴さえ設けてくれた。
 教経らの荒公達は、その晩、義経の帰路を待って、討ち殺そうと計(は
か)った。
 危なかった。
 が、門をを辞すさい、そっと知らせてくれた人がある。それが夕花だっ
た。-かの女は自分の女房衣を義経に被(かず)かせて、べつな木戸から
義経を落してやった。
 親の時忠の剛腹(ごうふく)な処置と好意。それと、夕花のやさしい機
智と情を以後、義経はおりおりに思い出す。恩として、忘れずにいる。
 屋島でも壇之浦でも、「-敵の中には、時忠どのがいる」という意識は
つねに離れなかった。
 やがて、桜間ノ介(さくらまのすけ)を通じ、時忠の内応の約を容(い
)れ、交換として、重大な約定を与えたのも、まったく、そうした旧縁も
あっての結びつきだった。いや、旧恩に報(むく)う心もふくまれていた
のである。
 従って、凱旋後に、
 「姫を側室に」
 という時忠一家の申し出は、義経に唐突(とうとつ)とも聞こえなかっ
たし、また、拒(こば)む気にもなれなかった。
 「吉(よ)い日を見て」
 と、むしろ、うれしく承諾をしたほどだった。
 ところが、逆運は、数日後に来た。
 凱旋の祝福は、鎌倉の牙(きば)に変わった。万歳を謳(うた)われて
いた義経の光耀(こうよう)は、一夜に、転落のやみへ葬(ほうむ)られ
た。
 同時に、時忠一家の運命も、変らざるを得ないだろう。刻々ここへも不
安は忍び寄っている。
 さすがの時忠でさえ、ふと厭世的(えんせいてき)な嘆(なげき)を漏
らした。ただ、わずかに「人はどうあれ、自分は、なすべきことをなした。
いつこの世に暇(いとま)しようと悔いはない」としてひとりなぐさめ、か
つ、覚悟の態(てい)だった。
 けれど、今もー。
 夕花の忍び泣く姿など知ると、かれの親心は暗澹(あんたん)となった
 流亡(りゅうぼう)の数年、親とも別れていたため、姫は人なみ以上な
容姿でいながら婚期にも遅れている。佳縁が結ばれたと思えば、その人の
うえに、降って湧(わ)いたような大難(だいなん)である。その義経の
立場は今、新たな麗人(れいじん)を、室に迎えるどころではない。
 けれど夕花は、思いつめている。まだほんとには婚儀も遂(と)げてい
ず、閨入(ねやい)りの祝いも遂げていなかったが、ひそかにはもう義経
を夫(つま)と見て、その日を待ちこがれている容子(ようす)だった。
 それが親心には、いじらしくてならなかった。兄の時実の眼にも「かわ
いそうな妹」と見えて、つらかった。しかも、現状では、日ましに痩(や
)せてゆくばかりな夕花の想いを、親も兄も、どうしてやることもできな
いのであった。

















  《11月2日》は、アメリカの大統領補佐官であるトランプ大統領の御
令嬢(イバンカ氏)が、今夕17時ころ成田空港に到着後、高速道路を使用
して、都内のホテルに向かわれました。という明るい話題がありました。
ちょうど気候も最高に良く、日本滞在を有意義に過ごされることを願って
います。日本の警固も厳重になされているようですから、安心して過ごさ
れますように。

 話は変わって、一昨日(11月1日)の夕方16時から、開演予定の『
河内秀夫とその仲間たち』の音楽会を鑑賞するため、友達と永福町へでか
けました。
 永福町という町の名はあさみ ちゆきが唄った、「井の頭線」という題
名の曲の歌詞に出てきますので、以前から興味はもっていましたが、こう
して京王線の明大前駅から井の頭線に乗り替え、その永福町へやって来れ
るとは夢にも思っていませんでした。

   ♬
    永福町で電車が停(と)まる
    急行の待ち合わせ
    ドアが開いて 吹き抜ける風
    想い出が降りてゆく
    いつもあなたはこの手を引いて
    急行に乗り換えた
    走るように生きるあなたと
    歩くように生きてた私
    いつの間にいつの間に
    離れてしまったの
    ひとり帰る井の頭線で 
    今でもふと好きだと思う

    下北沢の古道具屋で
    風鈴を見つけたね
    窓を開けても厚かった部屋
    軒先で揺れている
    ふたりこれからどうしたらいい?
    聞かれても黙ってた
    打ち上げ花火はしゃぐあなたと
    線香花火見つめる私
    燃え尽きる燃え尽きる
    速さで違ったの?
    ひとり帰る井の頭線で
    あなたをふとさがしてしまう
    ひとり帰る井の頭線で
    今でもそう好きだと思う

 永福町駅から徒歩で10分くらいの所に、妙心寺という大きな寺が見えて
きて、その山門近くに「ソノリウム」という目的の会場がありました。

 コンサート会場内は天井が高く、木の板で敷き詰めた床構造の建物でし
た。
 16時から、予定通り演奏が始まりました。やはり生演奏ならではの臨場
感ある音色の響き、,酔わせていただきました。

  演奏で使用された、ピアノとコントラバス、チェロ
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 河内秀夫氏愛用のコントラバス《300年という年期もの》
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 河内秀夫(コントラバス)

 桐朋学園女子高校音楽科をフルートで受験しコントラバス専攻学生とし
て入学。同校卒業後、日本フィルハーモニー交響楽団に入団。1971年
渡独、西ベルリン音楽大学入学。1973年シュツットガルト州立歌劇場
管弦楽団首席コントラバス奏者として入団。1974年バンベルク交響楽
団入団。1987年~2000年サイトウ・キネン・オーケストラに参加。
2005年バンベルク交響楽団定年退職。ドイツバンベルク在住。

 渡辺美穂(ピアノ)

 武蔵野音楽大学、同大学院を経てハンガリー国立リスト音楽院へ留学。
帰国後正徳大学講師。2010年より草津音楽祭にてオルガニストのクラ
ウディオ・ブリイ氏の通訳、アシスタントを務める。3年前に河内秀夫氏
の勧めでヴァイオリンを習い始め、音楽を楽しんでいる。

   河内 秀夫と渡辺 美穂
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 河内 喜久子(ヴァイオリン)

 1949年第3回全日本学生音楽コンクールヴァイオリン部門中学生の
部第1位入賞。東京芸術大学卒業。同大学卒業後、日本フィルハーモニー
交響楽団に入団。1971年渡独ベルリン。シンフォニー・オーケストラ
入団。1974年よりバンブルク交響楽団エキストラ奏者を務め、同楽団
メンバーによるアルコ・アンサンブルを主宰。ドイツバンベルク在住。

      河内 喜久子(ヴァイオリン)
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 齋藤 雅子(フルート)

 武蔵野音楽大学音楽学部器楽学科フルート専攻卒業。1998年渡独。
2005年よりフォルヒハイム室内オーケストラでの演奏に参加。またエ
アランゲンの日独のメンバーによる合唱団「Hibiki」を結成し専属伴走者
としても活躍。現在演奏活動を行う傍ら。ニュールンベルク近郊の音楽学
校で、フルートの指導を行う。

       齋藤 雅子(フルート)
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  上原 千穂(ヴァイオリン・ヴィオラ)

 武蔵野音楽大学音楽科卒。ヴァイオリンほか各種弦楽器の奏者として、
オーケストラでの演奏や指導、音楽鑑賞会やコンサートの企画。楽曲アレ
ンジ・演奏、音楽教室の講師として、その活動領域は広い。2007年よ
り、指揮者小林研一郎氏率いる「コバケンとその仲間たちオーケストラ」
メンバーとして活動に参加している。

 宮崎 友花(ヴァイオリン)

 会社員。現在、河内喜久子・秀夫氏に師事。

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 黒柳 紀明(ヴァイオリン・ヴィオラ)

 1940年東京生まれ。9歳より父にヴァイオリンの手ほどきを受ける、
桐朋学園音楽科中退。読売交響楽団、ケルン室内楽団、ロッテルダムフィ
ルハーモニーを経て、1970年NHK交響楽団に入団。2000年定年
退職。
 氏は、テレビにたびたび出演なさっている、皆さんよく御存じの黒柳徹
子さんの弟さんだそうです。

 関 春子(ピアノ)

 1956年桐朋学園高校音楽科および短大を経て、1963年ジュリア
ード音楽院卒業。在学中、ピアノをロジーナ。ㇾヴィーン氏に、国内では
井口基成氏に師事。
1958年第27回日本音楽コンクール第1位入賞。帰国後、大坂相愛学
園および桐朋学園大学にて、延30年後進の指導に当たる一方、関西在任
中、室内楽、ソロ、オーケストラとの共演(朝比奈隆指揮、大阪フィル定期
演奏会ほか)も数多い。1974年大阪文化祭賞受賞。1995年以降、阪
神淡路大震災復興支援のため、3年に亘り10回のリサイタルを開催。その
後も自主企画によるリサイタルシリーズと併行して、東日本大震災復興支
援プロジェクトで活動、チャリティーを主にリサイタルを続けて現在に至
る。
 
 クライスラー作曲「中国の太鼓」を演奏された、黒柳 紀明氏。ピアノ
は関 春子さん。


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 菅原 ふみ(アルパ)

 国立音楽大学教育音楽科卒業。1089年から南米パラグアイ共和国に
青年海外協力隊音楽教師隊員として派遣されて、現地でアルパと出会う。
横浜市青葉区のアルパスタジオソンリーサで、エンリケ・カレーラ氏に師
事。全日本アルパコンクール本線大会出場。地域のイベントや施設・レス
トランなどで演奏活動中。

 演奏会終了後、河内秀夫氏が、ドイツから持って来たワインのサービス
があり、冷えたワインを飲みながら和やかな雰囲気の中で、菅原 ふみさ
んが、パラグアイの曲を演奏している場面です。

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 黒上 春夫

 関西大学総合情報学部教授
 現在、河内秀夫に師事。

 渡辺 美穂さんのピアノで、野上 春夫氏が、アルパを演奏し、齋藤雅
子さんが、歌を唄っている場面です。服装も普段着に着替え済みです。

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    仲間たちと歓談されています。
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 この日に、演奏された楽曲をここで紹介しておきたいと思います

 1. 愛のあいさつ      河内 喜久子      
                 &       エルガー作曲
                河内 秀音

 2. ノクターンヘ短調    渡辺 美穂    ショパン作曲

 3. 魔王          上原 千穂    シューベルト作曲

 4. ハンガリー田園幻想曲  齋藤 雅子    トップラー作曲

 5. 鳥の歌         渡辺 美穂    カサレス作曲
                 &
    動物の謝肉祭より 象  河内 秀夫    サンサーンス作曲

 6. 中国の太鼓       黒柳 紀明    クライスラー作曲

 7. オペラ「カヴァレリ        
    ア・ルシティーカーナ」 全員       マスカーニ作曲
    より間奏曲

 8. アンへリータの夢    菅原 ふみ    カルドッソ作曲
    テテウ  

 9. フルート&コントラバス          ドヴィエンヌ作曲    
    6曲ソナタより№3

10. 月の光         関  春子    ドビュッシー作曲

11. タイスの瞑想曲     河内 喜久子   マスネ作曲
 
 演奏が終わり、ワインを御馳走になった後は、永福町のお店で、今日出
演されたミュージシャンの方々と、御一緒させていただき、お酒をいただ
きながら、みなさんのお話を拝聴し、楽しい時間を過ごさせてもらいまし
た。
ミュージシャンの方々とこのように親しく接するのは初めての経験でした
ので、飲食店を解散した後も、清々しい心地になってしまいました。
 来年もこのメンバーで、お元気でまた東京で演奏していただければと、
切に願っているところです。
 この後下関で公演が待っていると聞きました。
コンサートマスターの河内 秀夫氏が、小生のそばまで来てくださいまし
たので、「日本とドイツに二つの故郷がありますね」と質問をしたところ、
「ドイツの現実は、皆さんが想像するようなものではありません」と、そ
して「やはり日本が一番いいですよ。帰りたい」との、重い言葉を聞き、
フランスに渡って、望郷の念に駆られるも、結局フランスで骨をうずめた
画家『藤田嗣治(つぐはる)』のことと思いあわせ、胸が痛くなりました。
 それでも、お子さんがドイツで立派な職業について生活していらっしゃ
るとかお聞きしていますので、前向きにゆっったりと、自然に任せて演奏
活動をなさるのがよいかと思います。




















 青 春 扼 殺(せいしゅんやくさつ)

 -いつまでも、義経は、柱に背をもたせ、ひとり思い、ひとりなだめて
いる風だった。
 夜の酒もりには、一同へ、自分の腹を、しかといっておかねばならず、
それには、かれ自身まず、心の処理をとっておかねばなるまい。
 が、酔うても浮かない義経の容子に、静は、はれ物へさわるように。
 「もう、お杯は?」
 「晩もある。やめておこう」
 「・・・・では、その間に、北の御方へも、ちょっと、御無事をお見せ
して上げては、いかがでございましょうか」
 「百合野から、催促か」
 「御催促でもございませぬが。二度ほど、乳人(めのと)の狭山という
老女が、御容子を伺いに」
 「行くまい。今は行く気になれぬ」
 「・・・・・でも」
 「静、義理立てすな。わしの気がすすまぬだけだ」
 「が、お可哀そうでなりませぬ」                                                                           
 「百合野がか」
 「はい。・・・・・何も御存知じなく、鎌倉どのの御厳命で、関東から
お輿入れ遊ばした年端もゆかぬ御台所(みだいどころ)さま。申さば、お
気のどくな生贄(いけにえ)でございます。せめて殿のお情けだけが、お
力でございましょうに」
 「いやだ、今は、顔見る気にもなれぬ。・・・・・彼女(あれ)もあわ
れとは思うが、百合野を見れば、その後ろに、いやおうなき押しつけ妻を、
この義経へ押しつけた鎌倉殿夫妻の顔が泛(うか)んでくる」
 「・・・・・・・・・」
 「しかも、あの河越殿殿の娘は、義経の私生活(わたくしごと)まで、
いちいち鎌倉へ報じる役をいいつけられておる、いわば間諜(かんちょう
)も同じ者なのだ。百合野はただの人形に過ぎない。だが、あれの乳人や
ら、付人(つけびと)の江戸十郎太やら男衾(おぶすまの)源次など、み
な油断のならぬ曲者(くせもの)ぞ。・・・・・・もうよせ、百合野のは
なしは」
 「申しわけございませぬ。せっかくのおりを」
 「・・・・・ちっ、酒がない。静、酒がないぞ」
 晩もあることゆえ酒は要(い)らぬ、と今いったばかりである。義経は
それを忘れてしまっている。  
 かれはまた、手ばやく、杯を取り、いく杯となく、酔いを追った。
 勃然(ぼつぜん)と、本来の激血が、かれのどこかで、疼(うず)き出
しているらしい。
 腰越以来あらゆる忍従に耐え、帰来早々の憂(うれ)き目や侮辱にも、
かれは我慢の歯の根を嚙(か)んだ。-全ての名利(みょうり)を捨てき
ればよい。ただ静と二人で暮らしうれば―と、つつましい願いに、暴れる
心を、抑えたのである。
 だが。
 公的な不平は、なお忍びえても、頼朝夫妻の政略による、押しつけ妻の
百合野やら付人どもの存在を考え出すと、もう、どうにもならなかった。
悲憤の火焔(かえん)が、かれの心像を、にわかに狂(くる)おしく、つ
つんでしまう。
 自分の青春すらも、すでに自分のものではない。-盗まれていた、とか
れは気づく。
 兄の頼朝夫婦は、一個の弟の、生涯の妻や私生活までを、政略の具に供
して、かえりみもしない。外には、鎌倉の錠(じょう)をかけ、内には、
鎌倉の寝刃(ねたば)、を忍ばせ、義経の喉を扼(やく)しているのだ。
-かれのつつましやかな願いすら「・・・・・おぼつかない。-と絶望せ
ずにいられなかった。
 一切の名利を捨て、都の片隅にかくれても、それも義経の不平と見られ、
義経がいつ謀反(むほん)をたくむかと、鎌倉の猜疑(さいぎ)は、眼を
離すまい。百合野やその付人らも、離れまい。どうして、静と二人だけの、
わずらいなき閑居(かんきょ)などがゆるされよう。-当然、鎌倉に怨(
えん)を含む家来どもも大人(おとな)しくはしていまい。
 「ああ。ざんねん」
 杯も嚙み砕(くだ)きたい衝動が、かれの唇を、雷光(いなずま)のよ
うにふるわせた。
 都の屋根の果ての空に、比叡や四明ヶ嶽が見える、暮れ残っている。
 義経はふと、遠い山波へ、想いをはせた。「-もいちど、鞍馬(くらま
)へはいろうか?」そして、導師の訓(おし)えにすがろうか。いやいや
。静は捨てられぬ」と、ずたずたな苦悶(くもん)は、その迷いを、惨(
みじめ)として、かれの面(おもて)へ滲(にじ)ませた。
 すると、突然。
 ずずずんと、大地の揺れ上がるような衝動が体をつき抜けた。はっとす
るまに、静は、かれにすがりつき、かれのひざへ、その黒髪を投げかけて
いた。
 「・・・・地震(ない)だ。・・・・驚くことはない」
 「またしても・・・・・・・・」と、静は白く褪(あ)せた顔をそっと
上げて、「このごろは、日に何度の地震かわかりませぬ」
 そのように、都では、たびたびか」
 「小さい地震でも、生まれつきでしょうか、すぐ、気も消え入るほど怖
(おそ)ろしゅうてなりませぬ」
 「何せ、ただならぬ世だ、地神天神が、怒りを震(ふる)うも理(こと
わり)ないではない。おたがい人間どものこの醜(みにく)さを見ては」
 いいかけて、義経は、急に、静の体を自分のひざからつき放した。そし
て、
 「たれだっ、そこにおるのは」
 と、廊の角へ向かって、そこに佇(たたず)んでいた人影をしかった。

 「はははは、ゆるされい、ゆるされい。新宮十郎行家じゃよ」
 「や。叔父御(おじご)ですか」
 「内輪も同じ叔父にせよ、かかるおひそやかな所へ、案内(あない)も
待たず通って、悪かったの・・・・・・」
 「いやいや。さいぜん三条口にて、お出迎えを賜(たま)わったおり、
館にてお待ちすると約して、お別れ申したことでもあれば」
 「で、さっそく訪(と)うて来たわけじゃよ。ところが、御家臣一同と
の、慰労の酒もりがあるとのこと。ならば、行家もその席へ交(ま)じっ
て、久しぶりお物語なと伺おうかと、一室に控えおるうち、院のお使いじ
ゃ、すぐ罷(まか)れとの、にわかなお召しでのう」
 「それは、生憎(あいにく)な」
 「じゃが、せっかく来たものゆえ、人目お会いせねばと存じて、取次を
求めたが、大侍も小侍も、夜宴(やえん)の支度で忙しげに見ゆる。まま
よ叔父甥(おじおい)の仲、堅苦しい儀も要(い)るまいかと、こなたへ
の渡りをついひとり歩いてきたというわけじゃ・・・・・・。したが、お
りふし、ちとおりが悪かったな、静どのと、愉しげに私語(ささめ)かれ
ていたらしいのに」
 「なんの、静は、今の地震(ない)に驚いて、わしへすがっていたまで
のこと」
 「また、地震があったか。それや、気づかなんだ。・・・・・いやいや、
地震どころではない。判官どの、このたびは、よくぞ怺(こら)えて関東
から戻られたの」
 「すでに、叔父御のお耳にも」
 「知らいでか。院中、いや世上(せじょう)一般、隠れもない取り沙汰
じゃ。-院には、其許(そこ)の心をお察しあって、判官(ほうがん)こ
そ、気のどくなと、深く御同情あらせられておるが、・・・・・だが、の
う判官どの」
 十郎行家は、左の脚(あし)を横へ投げやるような恰好(かっこう)し
て、行儀悪く、ぺたとすわった。
 左の脚が、自由に折れないからである。少し身を崩し気味に、片手を下
に仕え、その世馴(な)れた風貌(ふうぼう)を、ぐっと寄せて。
 「正直なはなし、世上では、其許(そこ)の謙譲(けんじょう)なお心
などをうかがい知る者など、ほとんどあるまい。表面だけを見、結果だけ
で、うなずくのが、まあ、おおむね世間というものじゃ。すでに、ある者
は申しておる。-やはり判官どのも。鎌倉どのの大工(だいく)の駒ひき、
西国での働きも、鎌倉の威光と、梶原なんどの、戦馴(いくさな)れた駆
け引きがあったればこそ。-判官どのは名ばかりの飾りであったものとみ
ゆる。と」
 「・・・・・・・・・・・」
 「そこらは、まだいいほうでのう。中には、宇治川一ノ谷以来、あれほ
どな戦功をあげながら、御勘当をうけ、所領まで召し上げられたのは、何
か判官どのにも、容易ならぬ落度(おちど)か悪行があったに違いない。
さもなくば、判官どのはばか者かなどと・・・・・。そ、そ、そうにわか
に、み気色(けしき)を変えられな。他人(ひと)はいいたいことをいう。
ありのままを告げるまでじゃ。ただ、わしにしても口惜しいぞ、鎌倉どの
の酷薄(こくはく)は、身に覚えのあることながら」
 行家は、鬢(びん)をふるわせて、さん然と、泣かんばかり首を垂れた。
声に悲調があった。叔父の義憤に、義経の胸もふるえた。
 「いや、やめよう。年がいもなく、つまらぬことをいい出したものよ。
はははは、判官どの、悪しゅう思うな」
 相手が悲痛な色に沈むのを見ると、行家は、わざと反対な表情を作って、
 「つい、話もあとさきになったが」
 と、べつな方へ、気をそらせた。
 そして、この春、屋島攻めの前に、紀州の田辺湛増をめぐって、義経の
家臣と、秘策の同士打ちをやって失敗したことなどを、笑いばなしに持ち
出して、
 「-田辺以来、どうもこの行家は、其許(そこ)の御家来たちには、き
らわれ者らしいが」
 などともいった。
 -しかし、常に、院の御諮問(しもん)にあずかる身ゆえ、義経が西征
中は、ずいぶん、蔭の助力はして来たつもりだが・・・・・・・・という
ような意味も、義経に分かってもらいたいらしかった。
 だが、ちょうどその時、橋廊下の懸(かか)り口まで、弁慶と伊勢三郎
が迎えに見えて、
 「はや、一同打ちそろうて、お待ち申しおりまする」
 とあったので、義経は、
 「では、叔父後。いずれまた」
 と、そこを起(た)った。
 行家も、あわてて、不自由は脚を立てながら、
 「そうだの、ぜひおりを見て、またしみじみと、話したいものじゃ。
あいにく、にわかな院のお召し、どれ、わしもお暇を」
 と義経ともに渡りを越え、かれはそこから西の廊を外まわりして、前栽
(せんざい)(玄関口)の方へ出て行った。
 弁慶はじろと、振り向いていた。
 後姿だったが、歩くたびに、左の肩をひょこひょこ落してゆく行家の影
は、行家とすぐわかる。「・・・・・はて。あの跛行(びっこ)殿が、い
つのまに?」とかれも伊勢三郎も、眼を見あわせたことだった。眼のうち
で、もう警戒をいいあわせていた。
 武家屋敷にはある武者溜(だま)りを幾つも抜いて、一つの大床とした
所に、その夜、直臣の面々ばかり四、五十人は集まった。
 ことごとく、義経と遠征苦をともにしたものばかりである。
 いや、鞍馬や武蔵野の放浪以来、他日を誓って来た、文字どおりな股肱
(ここう)の臣も少なくない」
 いったい、それらの輩(ともがら)に、今日何をもって、報いたらいい
のか。なぐさめてやる何があるのか。義経は、空漠(くうばく)とした気
もちのままで、恥ずかしい上座にすわった。
  「・・・・・・・・・・」
 しかし、義経を見るかれらの眼も、義経の苦境は分かっていた。何を求
める眸(め)でもない。むしろ傷(いた)ましげに主(あるじ)の姿を見
迎え、同時に無数の背が、手をついて、かがまった。
 「・・・・西征のことも終わった。院宣を辱(はずかし)めるなく、幸
いにも、平家を亡ぼしえたは、ひとえに、御辺たちの働きによること」
 義経は、声がつまった。
 辛さが先にたち、声が涸(か)すれ、とぎれとぎれに、語がふるえた。
 「・・・・・が今、何をもって、御辺らに報(むく)うべきか。義経は、
途方に暮れる。わしがいたらぬため、身不つつかなため、鎌倉どのの御勘
気も解けず。おぬしらの功に頒(わ)け与える何ものもない」
 しばし、唇を噛んだままだった。縫われたように唇を解くのに、努力が
要った。
 「・・・・・ゆるしてくれ。・・・・・わしは、人の主となる器量でな
い者だったのを今知った。それが、人をして死なしめる指揮をとったかと
思えば、どう詫(わ)びても詫び足らぬ」
 「・・・・・・・・」
 大勢の背は、かすかな嗚咽(おえつ)を、忍ばせていた。義経は、次の
ことばが見つからない。一つ一つの家臣の背へ、いいきれない万感がわく
のみであった。
 「ゆるしてくれ、拙(つたな)き主を持ったものとあきらめて」
 もいちど、そう詫びて、あとは多言を省(はぶ)き、さいごの一語を一
気にいってのけた。
 「義経、出家はせねど、今日以後、武門から身を退(ひ)く所存ぞ。あ
すにもあれ、院の御庭(みにわ)へ罷(まか)り、愚存を陳(ちん)じて、
解官(げかん)のみゆるしを仰(あお)ごうと思う」
 瞬間家臣たちは茫然とした。愕然(がくぜん)といった方がよい。
 しかし、一人の者の激語をきっかけに、それは騒然たる様相に変った。
すると、もう収拾つかない感情が座を波打っていた。鎌倉への憤激や、義
経へたいして、思いとどまってくれという子どものような訴えであった。
 燃えたがっていたものへ、火を与えたようなものである。われからいい
出したことながら、野火の狂うに似た者どもの切歯(せつし)や痛涙の訴
えを、義経も熱い瞼(まぶた)でしばしはただ見ているしかなかった。
 -が、この有様を、至極冷ややかな眼でながめていた者もないではない。
それは北ノ方の河越殿に付いて関東から来ている乳人(めのと)だの、ほ
か、二、三の特殊な家臣たちだった。

 一期(いちご)の主従(しゅじゅう)

 その晩、幾斗の瓶(かめ)の酒は、心理的にも義経主従を妙な泥酔いに
酔わせた。みな悪酔いに似た青白いものをたたえるか、怒面(どめん)に
朱を燃やさぬはなかった、といってもいいすぎではない。 
 いわば、火が油をそそがれた形だった。義経の意思とはまったく逆にで
ある。-が、皮肉なことには、義経のなした声明が口火ではあったのだ。
 当然、慰労の宴は、慰労でなくなった。鎌倉への呪(のろ)いと、通涙
の会に終わってしまった。でなくてさえ、日ごろ危険な鬱積(うつせき)
だったかたまりへ、あえて数斗の酒瓶をひらき、そのうえ「-一切の名利
を捨て、武門や官途から身を退きたい」と義経がうかつにももらしたので
ある。かれら股肱(ここう)の者どもが激発したのも、取り乱したのも、
むりではない。
 かれらは、口をそろえて、義経へいった。
 いや、食ってかかるような悲調をこめて、おのおのが訴えの声をしぼっ
た。
 「わかりませぬ、わかりませぬ。われらには、殿のお心も、鎌倉どのの
なされ方も、一切合点(いっさいがてん)がまいらぬ」
 「なんで、武勲第一のわが殿が、弓矢を捨てねばならぬのか。いや、鎌
倉どのが、そうまで、わが殿を、窮地へ追いつめ給うのか」
 「そのような非道は、きのうの平家にすら聞かぬところだった。さんざ
ん平家の悪行をかぞえ立て、正義の軍(いくさ)を称(とな)えたはずの
鎌倉どのが」
 「いや、初めから鎌倉どのを、われらはお主とも仰いでおらぬ。われら
は殿が牛若御曹司(おんぞうし)たりし昔から、縁あって主従をちぎり、
一命までもおあずけ申して来た者ぞ。-いまその君が、幾度の戦功もみと
められず、あまつさえ、いいようなき辱めに会い給うを見、なんで黙って
おられようぞ」
 「殿とともに、武門を捨てて、野へ退くか。殿を擁して、鎌倉の佞奸(
ねいかん)どもを撃(う)ちしりぞけ、鎌倉どのの御眼を醒(さ)まし奉
るか。二つに一つ」
 「いかに殿がおん身を退(ひ)かんと遊ばしても、院のお許しはなかろ
う。後白河の法皇(きみ)の御信頼は前にも超(こ)えてお厚い。院中、
殿を悪くいう者はない」
 「さるを、殿が弓矢を捨て給うば、殿みずからが、罪をお認めあるも同
様だ。世人(せじん)は、さては判官どのにも、深い罪科のあったものか
と、申すであろう」
 「あら、口惜し。なんでそのような非理に屈(くつ)しられよう、讒者
(ざんしゃ)を誇らすだけのもの」
 「-何とぞ、御意(ぎょい)をひるがえして、御引退の儀は、思いとま
って給わりますように」
 「われら年来の子飼(こがい)どもは、親に捨てられた子も同然となり
まする。殿なくて、いずこへ今さら身を寄せましょうや」
 「いや、路傍に迷うのを嘆くのではございませぬが、十年の苦節も、屋
島、壇ノ浦の戦いも、およそ、殿あっての生き効(が)い、殿あっての死
に栄と存じて参りましたのに」
 「一朝(いつちょう)の讒(ざん)に、敗れ去るなど」
 「余りといえば、残念です、無念です。殿っ、おつよくなってください。
何とぞ、お弱いあきらめなどはお捨てください。われら郎党どもは、あく
まで、殿の股肱をもって任じております。殿とは、一つの者、鎌倉どのを
敵としても、恐れるものではございませぬ」
 -かれらは一徹であった。単純なのだ。が、その言に嘘(うそ)はない。
 義経の心腸は、かれらが素朴であればあるほど、かきむしられずにいら
れなかった。
 まだ、牛若の小冠者(こかじゃ)であった昔から自分を主と仰いで、そ
れぞれ、一生を託して来たこの者どもであった。今となって、どうして、
無下(むげ)に振り捨てられよう。かれはまた、たちまち迷った。
 宵の宣言を、後悔していた。
 後に、思うと。
 義経の当夜の宣言は、やや軽忽(けいこつ)であった。酒もりの席でそ
れをなしたのも、火に油だった。戦場の麒麟児(きりんじ)も、平常の闘
魚や、言行にまで名君であったとは、いえないものが確かにあった。
 だが、年齢(とし)を思えば、義経は白面(はくめん)まだ二十七でし
かない。
 若かったのだ。そのかれも、多分に感傷の持主だし、自制はしても、す
でにかれ自身が、熱すぎる悲涙におぼれていた傾きがないでもない。
 ために後日、これも鎌倉表の知るところとなると、「義経は、わざと家
中の郎党に酒を与え、自己の不平を家臣にいわしめ、鎌倉どのへの逆意を
煽(あお)った」と、逆に利用されてしまった。
 なにしろ、こうして、悶(もだ)え悶え、かれのすることなすことは、
内輪へも外部へも、事ごとに、鶍(いずか)の嘴(はし)とくいちがって
いった。
 しかし、たれが酷(むご)いといって、人を得意の絶頂に立たせ、また
一朝のまに、その者の足もとへ、逆境の風雪を運んでくる運命の貌(かお
)ほど、なさけ容赦(ようしゃ)のなきものはない。

 どう、その晩、主従の間に、一致が見られたろうか。いやおそらくは、
義経がさいごに「・・・・・・・・もいちど、考え直してみよう」と慰撫
(いぶ)した程度で、やがて、それぞれの寝屋に分かれてしまったのでは
ないか。
 -ともあれ、事はなお、その晩のうちであった。夏六月の短夜(みじか
よ)もまだ明けないまに、もう次の大二波は、起こっていた。
 義経が小館の寝所へはいった後、邸内の武者長屋までもみな寝しずまっ
たかと思われたが、下屋の一郭には、密々(ひそひそ)声がつづき、小さ
い灯影を繞(めぐ)って、それからもまだ寝もやらぬ人びとが額(ひたい
)を集めあっていた。武蔵坊弁慶、伊豆有綱、伊勢三郎、佐藤忠信、鈴木
重家、亀井六郎、那須大八郎。堀弥太郎、鎌田正近など、どの顔も、日ご
ろのものではない。
 「お家の大事」
 「わが殿の、一期(いちご)の浮沈」
 同時に、かれら自体の、死活の問題でもある。
 主君の余りな忍従主義には、もちろん黙止できないが、自分らはまた自
分らの、最後の腹を一つにしておかねばなるまい、ということらしい。「
 「あくまで、殿の御翻意(ごほんい)を見られぬ場合は、われら一同、
殿のおん前に出で、腹かっ切って相果てん」
 と、いう沈痛なたれかの声。
 また、
 「いや、むなしく果てるは残念」
 と、べつな者の声もする。
 「-おりふし、梶原景時は、西国より鎌倉へ帰るべく、ちょうど滞京の
おりゆえ、梶原の宿所を襲う、きゃつの首を挙げ、斬奸(ざんかん)の書
を、首とともに鎌倉どのの許へ送り、そのうえ、果てるも遅くはあるまい」
 そんな意見も、熱(あつ)っぽく、ささやかれていた。
 すると館の奥深い方から、長い廊を、鼠(ねずみ)走りに飛んで来た童
(わらべ)武者(むしゃ)の鷲ノ尾三郎が、
 「すわっ、異なる様子が見えましたぞ。-河越殿の対(たい)ノ屋(や
)に」と、注進して来た。「鷲ノ尾か。何を見た?」人びともまた、息を
つめた。
 宵の酒もりには、河越殿(義経の正室)の付人(つけびと)らの白眼も、
席にあった。
 かれらはもとより、鎌倉の間諜(いぬ)と分かっているが、関東から輿
入(こしいれ)に従(つ)いて来た正室付きの家来である以上、どうにも、
除外する口実はない。
 とはいえ、その危険さに、直臣たちは、いつも警戒を怠ってはいなかっ
た。-で、酒宴の終わった後も、敏捷(びんしょう)な鷲ノ尾を、対ノ屋
の床下へ忍びこませ、異状が見えたらすぐ知らせよと、いいふくめておい
たのだった。
 「-あれからのことですが」
 と、鷲ノ尾はいった。
 「河越殿の対ノ屋では、乳人(めのと)の狭山(さやま)と、江戸十郎
太、男衾(おぶすまの)源次などが、首を寄せ合うて何やら話しこんでお
りました。そして、こよいの有様を、密書として、男衾がすぐ鎌倉へ立っ
た様子でございます」
 「なに、鎌倉へ密告しに?」
 「忙しげに旅装(たびよそお)いして、北の裏口を抜け出して行きまし
たが、まだ遠くは」
 「やや。それを遣(や)っては」
 ぎょっと人びとが眼を見合わせると、鷲ノ尾は、
 「まだ、それだけではありません」
 と、ことばをつづけ、
 「男衾が出た後、江戸十郎太も、またすぐどこかへ出てゆきました。厩
(うまや)の前で、梶原どのの宿所へと、小声でいったようでしたが、そ
れは聞き違えかも分かりませぬ。けれど、駒の足音は、裏御門を東へ消え
去りましたから、あるいは?」
 「そうだ、てっきり!」
 幾人もの口から、おなじ語気と、おなじ意味が、叫ばれた。
 「一人は鎌倉へ、十郎太は梶原屋敷へと手分けして、密訴に急いだと覚
ゆるぞ。-驚破(すわ)、後手(ごて)を取るな、面々」
 「おうっ、たれが行く、追手討ちには」
 「多勢はいらぬ。男衾(おぶすまの)ごときは」
 亀井六郎が起ち、吾野(あがの)余次郎や横山相模介なども、つづいて
起った。
 「討ち損じては大事、念のために」
 と、伊勢三郎は、追手の組を、大津口と、白河越との、二つの道へ、ふ
た手に分けて、
 「抜かるな」
 と、急がせた。
 また、梶原屋敷の方へは、かれ自身と、片岡八郎、那須大八郎などが、
追い慕ったが、時すでに遅かった。途上には影も見えない。
 -だが、物蔭に身を潜めていると、夜も白みかけて来たころ、梶原屋敷
の内から、密(ひそ)やかに、大路を帰って来る者がある。
 まだ、朝霧は深く暗く、辻の往来もないうちだった。
「十郎太、待て」
 那須、片岡などが、わらわらっと、かれの前に立ちふさがり、
 「時ならぬ時刻、梶原屋敷へ、何しに行った。何を、梶原に会って、告
げたのか」
 と、なじり寄った。
 十郎太は、愕然(がくぜん)としたらしく、答えもせず、駒をまわして、
逃げかけた。-が、びゅんっ、と近くの弦音(つるおと)とともに、十郎
太ののどくびに矢が立って、駒から見事射落されていた。十郎太の首を袖
にくるみ、面々が堀川へ戻ってきたころ、ちょうど、都の朝は明けていた。
 一方、男衾源次(おぶすまのげんじ)を追って行った亀井六郎以下の組
も、まもなく帰って来た。そして、「-蹴上(けあげ)の辺で、男衾に追
いつき、首尾よく、密書を奪い返して来たぞ」と、血に汚れたそれを、一
同に見せた。
 -披(ひら)いてみると、恐るべき文字がある。
 こんな些事(さじ)まで、探っていたかと、日頃の偵知ぶりに、驚かれ
た。
 もちろん、誤りや誇張はある、また、捏造的(ねつぞうてき)な誣告(
ぶこく)も、ないではない。  
 だが、かれらを戸惑わせたのは、昨夕、主従の宴の前に、ここの館へち
らと姿を見せた新宮十郎行家のことが、重大な意味ありげに、細々(こま
ごま)と、鎌倉への報告に、書かれてあったことだった。「あの跛行(び
っこ)殿と、昨夕の件と、いったい、なんのかかわりがあるのか?」
 いぶからずにいられない。
 かれらには、文字に見えない深い意味が、読み切れなかった。-後には、
思い当たったものの、この朝ごろにはまだ、それは解けない謎だった。






















































































 ハロウインで、日本各地でもイベントが盛んにおこなわれましたが、こ
の際ハロウインの意味を少し、ウイキペディアで勉強をさせていただこう
と思いま

 概要

 ケルト人の1年の終りは10月31日で、この夜は夏の終わりを意味し、
冬の始まりでもあり、死者の霊が家族を訪ねてくると信じられていた。次
期を同じくして出てくる有害な精霊や魔女から身を守るために仮面をかぶ
り、魔除けの焚火を焚いた。これにちなみ、31日の夜、かぼちゃ(アメリ
カ大陸の発見以前はカブがもちいられた。スコットランドではカブの一種
ルタガマを用いる)をくりぬいた中にロウソクを立てて「ジャック・オー・
ラタン」を作り、

   カブ ジャックオー・ラタン
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  ハロウイン  (ジャック・オー・ランタン)
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魔女やお化けに仮装した子供たちが近くの家を1件づつ訪ねては「トリッ
ク・オア・トリート(「お菓子をくれないといたずらするよ」または「い
たずらか、お菓子か」)と唱える。家庭では、カボチャのお菓子を作り、
子供たちはもらったお菓子を持ち寄り、ハロウイン・パーティーを開いた
りする。お菓子がもらえなかった場合は報復のいたずらをしてもよい、と
されているが、これはあくまでもお菓子をもらうための口実、実行力を伴
わない形式的なセリフであり、お菓子をもらえない場合でもガッカリして
立ち去るのがほとんどである。

 ハロウインを記念するカード《1904年、アメリカ》
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 歴史

 古代ケルトのドルイドの信仰では、新年の始まりは冬の季節の始まりで
ある11月1日のサウイン祭であった。ちょうど短い日が新しい年の始ま
りを示していたように、日没は新しい日の始まりを意味していた。したが
って、この収穫祭は毎年現在の暦で言えば、10月31日の夜に始まった
。アイルランドと英国のドルイド祭司たちは、かがり火を焚き、作物と動
物の犠牲を捧げた。また、ドルイド祭司たちが火のまわりで踊るとともに、
太陽の季節が過ぎ去り、暗闇の季節が始まった。11月1日の朝が来ると、
ドルイド祭司は、各家庭にこの火から燃えさしを与えた。各家族は、この
火を家に持ち帰り、かまどの火を新しくつけて家を温め、悪いシー(ケルト
神話の妖精。ちなみに「バンシー」とは「女の妖精」の意。)などが入らな
いようにする。1年のこの時期には、この世と霊界との間に目に見えない
「門」が開き、この両方の世界の間で自由に行き来が可能となると信じら
れていたからである。祭典ではかがり火が大きな役割を演じた。村民たち
は、屠殺’とさつ)した牛の骨を炎の上に投げ込んだ。かがり火が燃え上が
ると、村人たちは他のすべての灯を消した。その後、各家族は厳粛にこの
共通の炎から炉床に火をつけた。

 従来ローマ人は11月1日頃に果実・果樹・果樹園の女神でリンゴををシ
ンボルとしていた女神ボーモーナを讃える祭りを祝っていたと考えられて
おり、紀元1世紀にブリテン島に侵入した以降は、ケルト地域にボーモ-
ナの祭りをもたらしたと言われている。ハロウインの行事としてダック・
アップルが行われるのはその由縁(ゆえん)からと考えられ、またハロウ
インのシンボルカラーである黒とオレンジのうち、オレンジはボーナモー
ナに由来するとの説がある。しかしながらこうしたボーナモーナの祭りと
の関連性について、新しい研究は否定的な見解をとっており、そもそもボ
ーナモーナの祭りが古代ローマにおいて盛大に祝われていたかについてす
ら疑惑が差し挟まれている。また古代ローマの祖霊祭パレタリアからの影
響も指摘されている。

 ハロウインの習慣は、、イングランド南部では17世紀以降、11月5
日の火薬陰謀事件の記念日(ガイ・フォークス・ナイト)に置き換わり、廃
された。しかしながら、スコットランド・アイルランド・マン島・ウエー
ルズでは引き続き広く普及していた。

 ハロウインがアメリカの年鑑に祝祭日として記録されたのは19世紀の
初頭以降のことである。ニューイングランドのピューリタンなどは、ハロ
ウインに強く反対する立場であり、19世紀になりアイルランドおよびス
コットランドから大量に移民が到着するまでは、ハロウインが本格的に定
着することはなかった。ハロウインは19世紀半ばまで特定の移民共同体
の内だけの行事として行われていたが、徐々にアメリカの「主流社会」に
受け容れられるように、20世紀初頭には、社会的、人種的・宗教的背景
に関係なくアメリカのほとんどの人びとに受け入れられ、東海岸から西海
岸へ広まった。
1950年代には「トリック・オア・トリート」の合言葉が製薬会社や映
画会社、テレビ局などのなどの仕掛けもあり普及した。そして、世界各国
で軍事的・経済的に活動するアメリカ人が増えるにともない、そうした場
所で、アメリカ風のハロウインの風習も広がることになった。

 カナダでは、製薬会社がハロウイン用の宣伝を1860年から始め、1
980年以降には現在のハロウインと際はなく、クリスマスの次に大きな
イベントになっていった。

 カトリック教会の諸聖人の日がハロウインに重なる形で設定されており、
これを「カトリック教会が(キリスト教から見て)異教の祭りを取り込んだ」
とする見方と、「カトリック教会が(キリスト教から見て)異教の祭りをつ
ぶすために設定した」とする見方がある。いずれにしてもハロウインはも
ともとキリスト教の祭りではなかったことが両見解の前提となっています。

 各国の状況

 文化圏によってかなり扱いが異なっている。興味を示している地域と、
興味が無く無視している地域がある。現代でハロウインが大々的に行われ
ているのは主に英語圏であり、例えば、アイルランド・イギリス、および
イギリスが進出・侵略して植民地化するなどして「イギリス帝国」の一部
に組み込みイギリス流の文化を広めた場所(アメリカ・カナダ・ニュージラ
ンド、そしてオーストラリアなど)に広まっている。


 特に、もともとケルト人の国であるアイルランドに色濃く残っている。
アイルランドでは10月最後の月曜日が祝日となっており。ハロウインを
祝う習慣がもっとも純粋な形で残っている。この祝日に続く週は、学期の
半ばであるがすべての学校が休みとなり、一般に。「ハロウイン休み」と
呼ばれる。

 上述の旧イギリス帝国系の国々でではハロウインが盛大に祝われるが、
アメリカの一部キリスト系学校では、ハロウインがキリスト教由来の行事
ではないことから、「ハロウインを行わないように」という通達が出され
ることがある。

 上述の国々でアイルランド以外はプロテスタント信者が多いせいもあっ
て、その翌日にあたる諸聖人の日には、通常これといった行事は催されな
い。宗教改革以降、プロテスタント諸国ではカトリック教会の祝日である
諸聖人の日が徐々に廃(すた)れたため、ハロウインのみが残された格好
になっているのである。

 カトリック信者の多いラテン民族諸国(すなわちローマ帝国時代にラテン
語が広まり、その後、口語ラテン語の地域方言が歴史的に変化した言語が
話されることになった地域)、主にイタリアスペイン・ポルトガル・フラン
ス、および植民地となった南アメリカ諸国のブラジル・ベルギー・アルゼ
ンチン・ラテンアメリカのコスタリカ。ニカラグア等々では、人々はハロ
ウインに興味を持っておらず。無視している状況にある。これらの国家に
おいては「諸聖人の日」の方が重要視されており、諸聖人の日を祝日に制
定して休日にしている国家もある。

 東方教会(正教会・東方諸教会)が広まる地域(東欧・中東など)においても
ハロウインをほぼ無視している。ロシアにおいてはロシア教育相が「ハロ
ウインは子供たちの壊れやすい心には有害である」との見解を出した。

 (同じゲルマン語系言語を話すという点で、何かと英語圏の接点の多い
)ドイツ、また、(19世紀に英語圏の諸国に植民地)化されたり、敗戦によ
って占領されるなどして、イギリス・アメリカ風の文化が流入されたり交
流が深くなった)東南アジア諸国、日本などにおいては「アメリカの大衆
文化」として一部受容されている。

 

 ケルト人

 ケルト人は、中央アジアの草原から馬と車輪付きの乗り物(戦車、馬車)
をもってヨーロッパに渡来したインド・ヨーロッパ語族ケルト語派の言語
を用いていた民族である。

  
   紀元前1500年から紀元前1000

  
   紀元前400年
         ケルト人の分布
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 古代ローマ人からはガリア人とも呼ばれていたが、「ケルト人」と「ガ
リア人」は必ずしも同義ではなく、ガリア地域に居住してガリア語または
ゴール語を話した人々のみが「ガリア人」なのだとも考えられる。

 ブリテン諸島のアイルランド、スコットランド、ウエールズ、コーンウ
オール、コンウオールから移住したブルタニーニュのブルトン人などにそ
の民族と言語が現存している。

 現在のケルトという言葉は、言語・文化の区分を示すための近現代人に
なってから作られた用語であり、古代から中世においてか下図で表されて
いる地域の住民が「ケルト人」として一体的な民族意識を持っていたとは
考えられていない。そのため歴史学などでは、「ケルト人という言葉は使
わず、「ケルト系」という言葉を便宜的に使っている。

 大陸のケルト

 ケルト人はおそらく青銅器時代に中部ヨーロッパに広がり、その後期か
ら鉄器時代初期にかけて、ハルシュタット文化(紀元前1200年-紀元前
500年)を発展させた。当時欧州の文明の中心地であったギリシャやエト
ルリアからの圧倒的な影響の下、ハルシュタット文化はラ・テーヌ文化(紀
元前500年-紀元前200年)に発展する。

 ケルトの社会は鋭利な鉄製武器を身に付け、馬に引かれた戦車に乗った
戦士階級に支配され、欧州各地に分立した。彼らは南欧の文明社会としき
りに交易を行い、その武力によって傭兵として雇われることもあり、ギリ
シャ・ローマの文献に記録が残されている。紀元400年頃にはマケドニ
アの金貨に影響されて、各地でケルト金貨を製造するようになった。また、
ケルト人の一部はバルカン半島へ進出し、マケドニア、テッサリアなどを
征服。ギリシャ人は彼らをガラティア人と呼んだ。紀元前3世紀に入ると、
さらにダーダネルス海峡を経由して小アジアへ侵入し、現在のアンカラ付
近を中心に小アジア各地を席巻した。

 やがて紀元前1世紀頃に入ると、各地のケルト人は他民族の支配下に入
るようになる。ゲルマン人の圧迫を受けたケルト人は、西のフランスやス
ペインに移動し、紀元前1世紀にはローマのガイウス・ユリウス・カエサ
ルらによって征服される。カエサルの『ガリア戦記』はガリア(ゴール)の
ケルト社会に関する貴重な文献である。やがて500年にわたってローマ
帝国の支配をうけたガリアのケルト人(フランス語ではゴール人)は、被支
配層として俗ラテン語を話すようになり、ローマ文化に従い、中世にはゲ
ルマン系のフランク人に吸収されフランス人に変質していく。

 島のケルト

 ケルト人がいつブリテン諸島に渡来したかはハッキリせず、通説では鉄
製武器をもつケルト戦士集団によって征服されたとされるが、遺伝子の研
究から新石器時代の先住民が大陸ケルトの文化的影響によって変質したと
とする説もある。いずれにしてもローマ帝国に征服される以前のブリテン
島には戦車に乗り、鉄製武器をもつケルト部族社会が展開していた。

 西暦1世紀にイングランドとウエールズはローマの支配を受け、この地
方のケルト人はローマ化するが、5世紀にゲルマン人がガリアに侵入する
と、ローマ帝国はブリタンニアの支配を放棄し、ローマ軍団を大陸に引き
上げた。この間隙をついてアングロ・サクソン人が海を渡ってイングラン
ドに侵入し、アングロサクソンの支配の下でローマ文明は忘れ去られた。

 しかし、同じブリテン島でも西部のウエールズはアングロサクソンの征
服が及ばす、ケルトの言語が残存した。スコットランドやアイルランドは
もともとローマの支配すら受けなかった地域である。またイングランド西
端、コーンウオールのケルト人はアングロサクソンの圧迫を受け、海を渡
って大陸のブルターニュ半島(現・フランス北西部。当時、ローマ領アルモ
リカ)に移住、ブルトン人となった。

 「島のケルト」は存在するか

 上記の通り、ローマ征服までのブリテン島の先住民は初めからケルト系
に属すか、「大陸のケルト」から文化的な影響を受けたケルト系住民であ
るという従来の定説に対し、考古学の研究成果などから妥当性が問われつ
つある。

 第一に行われる批判は大陸のケルトの血縁関係が存在しないという点で
ある。遺伝子研究によって飛躍的な進歩を遂げた現代の考古学は「島のケ
ルト」と称されていた人々が、ガリア北部や沿岸部のどの部族からも遠い
遺伝子を持つこと、そして、むしろイベリア人からの影響が存在している
ことをつきとめた。これは少なくとも彼ら「島のケルト」に「大陸のケル
ト」との混血は見られない(大規模な移民は行われていない)という事実を
示している。根拠の一つであった貨幣鋳造の普及に関しても、ケルト人が
もたらしたとされる他の文化の渡来時期と明らかに食い違うことが判明し
ている、「大陸のケルト」の移民がなかったということが真実だとするな
ら、なぜケルトの鉄器文化の継承があったのかについては、次の批判と密
接に関連している。

 第二の批判は、ブリテン党の鉄器文明と大陸のケルト鉄器文明(ラ・テ
ーヌ文明)は異なるとするものである。一例を挙げれば、ケルト美術と称
される装飾品文化はブリテン島ではさほど見られず、ラ・テーヌ文明の埋
葬法とも全く違う手法で遺体を葬っていたことが分かっている。これ以外
にも家屋の形状など建築に関する部分など至る所に相違点があり、とても
「大陸ケルト」とブリテン文明を同一視することはできないとされる。こ
うした論に立つ学者は、これまでの学者たちは文明の発達を単一の源のみ
に求め、ブリテン島で独自に発達したという可能性を恣意的に排除してい
たと批判している。ちなみに、アイルランドについてもわずかな関連性の
みで・テーヌ文化の流入を決定づけていたことが分かり、アイルランド南
部に至ってはラ・テーヌ文化の渡来は痕跡すら見られない。

 近年ではこれらの批判に加え、ラ・テーヌ文明と「ケルト」がさほど関
連していなかったという学説や、そもそもケルトという区分け自体を疑問
視する声も挙がりつつある、こうした批判は古代ブリテン史をいわば自国
の歴史に書き替えようとする動くとしてフランスなどの学者から古代ケル
トを統合欧州の象徴に据える作為だとする反駁(はんばく)がなされるな
ど、国家間の政治問題と化している感がある。

 ケルトと宗教

 当初の宗教は自然崇拝の多神教であり、ドルイドと呼ばれる神官がそれ
を司(つかさど)っていた。
初期のドルイドは、祭祀(さいし)のみでなく、政治や司法などにも関わ
っていた。ドルイドの予言の儀式では人身供犠が行われていることを、多
くの古典古代の著述家たちが記述している。ドルイドの教義では現世と来
世は連続的であるとされ、ケルト人の戦いにおける勇敢さや人命への軽視
とケルト人の死生観を結びつけて考えた。
またケルト人には人頭崇拝の風習があった。ケルト人は人の頭部は魂の住
居となる神性を帯びた部位であり、独自に存在し得るものと考えた。敵の
首級を所有することでその人物の人格や魂を支配できると信じ、戦争で得
られた首級は門などの晴れたがましい場所に飾られたり、神殿への供物や
家宝として扱われた。ケルト芸術には人頭のモチーフが多くみられ、アイ
ルランドではキリスト教改宗後も教会や聖所(せいじょ)の装飾に多くの
人頭があしらわれている。

 ブリテン島のケルト人の間では、4世紀にはキリスト教が根づいた(ケル
ト系キリスト教)。5世紀になると、アングロ・サクソンなどのゲルマン人
が侵入したせいで、ケルト人キリスト教徒はウエールズやコーンウオルに
移った。その後、ヴァイキングの侵入やノルマン・コンクエストの影響で、
ケルト人キリスト教はしだいに衰退していった。

 アイルランドでは、6世紀末~8世紀初めに、ゲルマン人をキリスト教
化する方針がとられた。アイルランドでのケルト・キリスト教は、9~1
0世紀のヴァイキングの侵入によって衰退した。

 ケルト・キリスト教独自の制度は、12世紀までにヨーロッパからほと
んど姿を消した。しかし近年、現代風に調和されたケルト系キリスト教は
息を吹き返しつつある。

 ケルトの文化

 神官であったドルイドたちは、教えを文字にすることは正しくないと考
えた。そのため全てが口承で伝えられ、全てを暗記するために二十年かか
った者もいた、といわれている。それ以外の記録のためには、ギリシア文
字を借用していた。

 碑文などの言記表記をする際に後にギリシア語やラテン語を参考にして、
ケルト人独自のオガズム文字が生まれた。これは4世紀から7世紀頃まで
碑文等に表記する際に使用されたが、基本的には文字を持たない文化であ
った。後世にケルト人がキリスト教化すると、オガズム文字はラテン文字
に取って代わられた。

 キリスト教化した後も、ケルト人独特の文化は全く消滅したわけではな
い、「現代でもウエールズやスコットランドやアイルランドには、イング
ランドとは異なる独自の文化がいくらか残っている。

 鉄器時代のケルトの銀器(グンデストルブの大鍋)
CIMG0161



















 現代のケルト人とケルト系緒言語

 現代におけるいわゆる「ケルト人」とは、残存するケルト語派の言語が
話される国であるアイルランド、スコットランド、マン島、ウエールズ、
およびブルターニュの人々である(これにコーンウオールを加えることもあ
る)。しかし、その5ヵ国の人びとの中で、まだケルト系言語を使って日常
的生活を送る人の数は30%程度を超えない。またアイルランド以外のケ
ルト人の国は、より大きい異民族の国家に併合された上、本来の母語の話
者が次第に減少していった。

 しかし近年、様々なケルト語再生運動が、それらの言語の衰退を止める
ことを目的として行われている。この再生運動の有効例として、ウエール
ズにおいてウエールズ語を教える学校が政府から公金を受け、その学校数
が増えて来たということが挙げられる。

また文化面では、エンヤの楽曲やリバータなどは世界的に高い評価を受け
ている。

























 首(くび) の な  る 木(き)


 きょうに限って、まだ陽(ひ)もやや高いうちに、宿舎が選ばれた。
 近江篠原の宿から少し山里へ寄った所の一寺だった。
 車から降ろされると、宗盛と子の右衛門督(えもんのかみ)とは、べつ
な房へ分けられた。やがて夕べの食膳が供される、めずらし膳部(ぜんぶ
)で正しい食事が与えられた。
 「・・・・・これは?」
 と、宗盛はすぐ察して、膳を見るなりに、土気色に顔を変えた。箸(は
し)は取ったが、ほとんど何も喉(のど)へは通らない様子だった。
 「湯浴(ゆあ)みを召され給うか」
 番の卒が、のぞいてたずねた。
 「さ?・・・・・・・」と、宗盛はすぐ答えもしなかった。みだれて、
それだけの思惟(しい)さえつかみえないのだろうか。さんざん考えた果
て、
 「いただこう」
 と、やっといった。
 卒は、廊の戸を開いて、
 「こなたへ」
 かれをみちびいた。
 ほどへてから、かれは暗い湯殿を、よろばうように、外に出て来た。麻
の浄衣(じょうえ)にかえられていた。その肌ざわりにも、もう死んだ皮
膚をしているかれだった。-そして元の、ほの暗い一室へ戻るやいな、ぎ
ょっと、身ぶるいに襲(おそ)われた。たれか、人がすわっていたからで
ある。
 「お身浄(みぎょ)めはすまされたか」
 そういわれて、やや落ち着いた。そこに待っていた人は、義経であった。
 「おう、判官どのか。・・・・・判官どの、儂(み)はこよい、斬られ
るのではないかのう。そう思われてならぬ。ほんとなことを聞かせてほし
い」
 「お察しの通りです。が、時刻は夜半。まだ、だいぶ間(ま)がありま
す。ゆるやかにお覚悟遊ばしますように」
 「げっ。・・・・・で、では、今夜」
 「相国(しょうこく)清盛公の御総領。はたから申すまでもありませぬ
が、父公のおん名を、辱(はずかし)めぬように」
 「そ、それだからとて、なぜ宗盛を、打ち首にせねば頼朝は気がすまぬ
のであろうか。・・・・武者所の手に置かれてあるうちにも、幾度とのう、
申し出てある。-髪を剃(お)ろせとなら、髪も剃る。配流(はいる)も
いとわぬ。山住居も辞さぬ。ただ命だに助け給わるなら、と、すがってい
たものを」
 「無益でした。鎌倉どののお嘲(わら)いをかったに過ぎますまい」
 「頼朝は、忘恩の徒よ。世にいう恩知らずよ。儂(み)は、くちおしい」
 「効(か)いなき、おん罵(ののし)りは、かえって世のわらい草にな
るばかり。とてもかくては、ただ、お心すずやかに、御往生を心がけ給う
しかありますまい。義経もそれをお願いいたしまする」
 「判官どの。儂の助命は、御辺からも頼朝へ、すがてくれるはずだった
ではないか」
 「その儀を、お詫(わ)びに出たのです。心には誓いつつ、ついに願い
はかないませんでした。義経の微力、何とぞ、おゆるし給わりたい」
 「ああ、あきらめきれぬ。子の右衛門督もか」
 「仰せまでもない」
 「・・・・・・気が狂いそうだ。なんとか、助かる道はないか。なんと
か」
 かれは、義経が情に厚いのを知っている。その情にしがみついて、ここ
から逃がしてでも欲しいような眼(まな)ざしをして見せた。
 義経は、勝者にして勝者ではない。-宗盛の未練を愍然(びんぜん)と
あわれむには、余りにかれ自身が、みじめ過ぎている。むしろうらやむべ
き人と、かれはかれを観(み)る。
 宗盛が、平家の惣領に生まれたなどは、何かの間違(まちが)いという
ほかない。かれは人間そのままなのだ。もし無名の一庶民に生まれていた
ら好人物と愛されていたろうに。
 またもし、宗盛のように卑屈になれてどんなにしても生きたいとする執
着が持てるなら、自分の煩悶(はんもん)のごときは、何ものでもなかろ
うにーと、義経はかれを観、自分を観、どっちが幸か不幸か、是か非かと、
疑った。
 と、そのとき、義経の郎党のひとりが、たれか人を伴って、次まで通っ
て来た様子だった。
 その微かな気配にすら、宗盛の眸の光は、すぐ噪(さわ)がしくなった。
やたらにうごく。
 義経は、座を立ちかけて、
 「なんぞ、お言(こと)づてなと、ありませぬか」
 と、最後をほのめかして訊(たず)ねた。
 「言づてとは、たれに?・・・・・」
 「お心のうちのお人へ。・・・・・たとえば平大納言どのや、建礼門院
の君へなんど」
 「時忠は、まだ斬られずにおるのか」
 「行く末はしれませねど」
 「・・・・・ない。時忠などへいいやることは、何もない」
 兵が開ける妻戸の音がして、そこへ静かに、ひとりの聖(ひじり)がは
いって来た。義経と目礼を交わし、義経はそれをしおに立った。そして囲
の外へ去った。
 
 その晩、宗盛の囲いを訪うて来たのは、大原の聖ともいわれる僧堪豪(
たんごう)であった。
 偶然ではない、
 数日前に、護送の道中から、大原へ、使いが先に立っていたのである。
 それはまた、もちろん、義経が心をくばっておいたことで、同行の鎌倉
直々の武者も、「ー処刑の前に、善知識(ぜんちしき)を招じて、会わせて
やるというだけならば」と、異存はなかった。
 大原の聖は、宗盛の変り果てた姿を前に、夜更(よふ)くるまで、しみ
じみ、話しこんでいた。
 最期(さいご)の人のたましいに、説法は、魅力のある威光であった。
この世は仮で、仏界が本土と信じられていた世代だからである。
 それにしても、宗盛のような人を、あきらめの法悦(ほうえつ)に泣き
濡(ぬ)らすには、大原の聖にも、ずいぶん骨が折れたことだったらしい。
 ときには叱(しつ)し、時にはともに嘆き、また、じゅんじゅんと、千
世現世(せんぜげんぜ)の宿業(しゅくごう)におよび、未来永劫(えい
ごう)への法果を説くなど、短檠(たんけい)の油も尽きるほどつづいた。
 ついに宗盛の妄念(もうねん)も、翻然(ほんねん)と何かを心につか
みえたのか、または聖の手によって、いやおうなく、されたのか、やがて
のこと、そこの囲のうちで、念仏する宗盛の声が聞かれた。
 「おう、御発心あらせられしか。その御音声(ごおんじょう)こそ頼も
し、ゆめゆめ、余念を思(おぼ)し召されな」
 聖もともに、念仏の声をあわせ、また、
 「-我心自空(がしんじくう)、罪福無主(ざいふくむしゅ)、観心無
心(かんじんむしん)、法不住法(ほうふじゅうほう)」
 と、観普賢経(かんふげんきょう)の一部を誦(ず)した。
 はや、どかどかと、あらい跫音(あしおと)が、廊を踏んで来た。
 「囚人(めしゅうど)の末国、おいであれ」
 黒い武者の影が、かたまって見えた。長柄の光を見たとたんに、宗盛は
さっと蒼白(そうはく)になり、起つ力を失ってしまった。
 「ここぞ。なぜ念仏を、お口から消し給うぞ」
 聖に叱咤(しつた)されて、ようやくかれは起った。武者たちは、かれ
の細々とつづける念仏のわななき声を囲んで、寺の裏へ出て行った。
 一枚の素筵(すむしろ)が、杉林の中にしかれてあった、それが、かつ
ては一門の総領、時のみかどの外戚(がいせき)、前(さきの)内大臣(
おおい)宗盛に与えられた、さいごの座であった。
 太刀取りは、鎌倉から付いてきた橘ノ右馬允公長(うまのじょうきんな
が)と見えた。すでに、用意の場へ来て、待っている。
 この公長(きんなが)は、根からの源氏ではなかった。
 平家相伝の者で、かつては、権中納言知盛の侍であった。-治承四年の
末、平家に見限りをつけ、東国へ奔(はし)って、鎌倉に仕えていたので
ある。
 その男が、すすんで太刀取りを買って出たのか、上命もだし難き巡り合
わせであったのか、無残な役割というほかはない。
 だからこの右馬允公長(うまのじょうきんなが)は、その理由をとわず、
後々では世人(せじん)から「無下(むげ)に情けなき者」と、さげすま
れた。「たとえ上命でも、恥じて辞すべきであろう」という世論だったの
であろう。
 宗盛の斬首(ざんしゅ)につづいて、同夜、近くの竹林のうちで、この
右衛門督清宗(えもんのかみきよむね)も首を打たれた。
 父は三十九。この清宗は十七だった。
 父には善知識の導きも必要としたが、十七歳の少年には、それは必要と
しなかったらしい。いとも神妙に見えたとある。ーただ、自分の上に刃が
かざされたとき「・・・・父は?」と訊(たず)ねたので、聖が「お心安
う思(おぼ)し召せ、御観念すずやかに」と告げると「思いおくことなし
」と、素直に首(こうべ)をのべて斬らせたという。
 斬り手は、堀弥太郎親経だった。

 宗盛父子が、近江篠原で処罰されたのは、六月に十一日の夜。
 それから、二日過ぎの、二十三日の夜には、かれの弟、故清盛の四男三
位中将重衡(さんみちゅうじょうしげひら)が、奈良坂の阿弥陀堂で、首
斬(き)られていた。
 ある理想を抱いて、一ノ谷で捕われ、鎌倉へひかれたが、鎌倉では、一
年の余も、白拍子(しらびょうし)の千手(せんじゅ)にかしずかれてい
た重衡だった。しかし、どうやっても節を変えない重衡の様子に、頼朝も
手をやいて、ついに南部の僧徒へ引き渡されて刑となった。その重衡の最
後はーちょうど宗盛死後の二日目に当っている。
 あわせて、都の内では、もうそれについての、種々(さまざま)な評判
だった。
 「おなじ清盛公のお子なのに」
 と、宗盛の死にざまと、重衡の死とを比較して、
 「月と泥亀(すっぽん)。なんたるちがいか」
 と、舌打ちする者が多かった。
 物知知り顔を、ひけらかす男は、
 「それもゆえなきことではない。中将重衡の卿(きみ)は、まぎれなき
西八条殿(清盛)のお子であったろうが、ところが、宗盛の卿は、取り換え子
ぞ。まことは五条坂なる唐傘売りの子であったげな」
 などといった。
 義経の帰洛は、そんな騒ぎに沸いている庶民にまず迎えられた。
 二十四日のことであった。-宗盛父子の首を持って都へはいる、と知れ
渡っていたからである。
 検非違使(けびいし)の面々が、三条河原に待ち、河原で首受け
取りの式が行われた。
 それを先頭に、旅装のままの列は、三条を西へ、東の洞院(とういん)
を北の辻へ渡して、やがて六条獄門の樗(おうち)の木に、首を梟(か)
け終わった。
 二十幾年か前には、源義朝の首が梟(か)けられた木。
 木曾滅亡のときには、木曾冠者と、一党の者の首が干し柿のように吊る
された木。
 かえりみれば、なお幾十、幾百の首が、このこずえの爪に、つかまれた
ことか。つぎつぎに、人の世の乱を呼んで、血の肥(こえ)をすすろうと
する魔の樗(おうち)は、春秋の辻に、不気味な幹を太らせ、昼も暗い青
葉をかかえて、宗盛の首を、待っていた。
 「さるにても、これは異例よ」
 と、公卿たちは、おぞ気(け)をふるった。
 これまで、三位以上の人の首は、大路を首渡しせず、獄門にも梟けられ
なかった。平家が敗れ、頼朝の世となって、初めての断行である。-殿上
の位階はすでに影を淡(うす)うし、武家幕府の力が、衣冠(いかん)の
輩(ともがら)を、そろそろ地へひき下ろしつつある前兆ぞと、かれらは
肌を寒うしたのであろう。虫の知らせは当っていないこともない。
 梟首(きょうしゅ)の儀を見とどけると、義経は、六条堀川へ、やっと
帰る身となった。
 すぐ、院庭に伺候(しこう)すべき用も多かったが、
 「身、不浄なれば」
 と、われから辞し、
 「吉き日に、あらためて、出仕いたしまする」
 と、家路についた。
 家にはいるのも、公卿ならば、数日浄(きよ)めの家(や)に籠(こも
)って、初めて館にはいるのだが、武門のこと、また特に義経は、そんな
禁忌(いみごと)は、気にもしない。
 「・・・・・一時も早く」
 そぞろ、静(しずか)の顔が、ただもう瞼(まぶた)に見えてくる。
 留守の郎党は、首を長くして、館の中門に待っていた。駒を飛び降りて
数歩、義経は辺りを見た。
 深い夏木立の懐(ふところ)は、憩(いこい)のひざに似、箒(ほうき
)のあと、打ち水の露もしっとり見えて「ああ、わが家ぞ」と、思わせる。
 -だが、なんとしたことぞ。
 義経は直感した。
 迎えに出た留守の家来たちの面上には、木々のような耀(かがや)きは
ない。主の姿を見るとともに、何かに瞼をつき上げられている容子だ。そ
れは、腰越の一夜、義経を取りかこんで、無念泣きをした、あの時の面々
と、ひとしいものに見えた。
 「静は、どうしたか」
 上へ通って、すわるとすぐ、かれは、左右へたずねた。
 すると、留守の者のうちから、つと、進み出た有綱と忠信の二人が、
 「その前に、ちと・・・・・」
 と、何かいいたげに、しかし、いいにくそうに、義経の眉をうかがいな
がら、手をつかえた。
 ー何か、あったな。
 と、義経はすぐ察しる。が、凶事であれ、それが。静の身にかかわるこ
とでないようにとのみ、ただ祈られた。

 捏(ねつ)   造(ぞう)    

 「なんだ。留守中、何事があったのか」
 義経の口吻(こうふん)は、やや焦(じ)れ気味であった。-早くいえ
と、いわぬばかりに。
 いや言外には「もうもう勘弁せい、身も心も疲れ切って帰洛したのだ、
今は何も聞きとうない、ただ、わが家の屋根の下に、この五体を横にして
憩いたい願いがあるばかり」と、その 顔色は、胸の快々(おうおう)を
露骨に語っているようにさえ見える。
 留守組の家臣たちも、それをすでに伝え聞いて、みな知っていた。
 だからこそ、かれらもまた、いい出すのが辛(つら)かったに違いない。
 けれど、告げずにはおけない大事でもあった。
 で、佐藤忠信は、留守一同に代って、
 「されば」
 と簡略に、また、しいて感情を押しころしながら、報告した。
「殿、ご帰洛の前々日、すなわち一昨日のこと、院の庁へ、鎌倉表より二
度までの御飛脚これあり、その由、われらお留守の者へたいし、院の泰経
卿(やすつねきょう)より、早々のお知らせがございました。未だ御下文
は拝しませぬが」
 「鎌倉から?」
 義経の眸は、きらと、すぐ安からぬ光に変わって、
 「わしの帰る前に、いかなる上奏が、鎌倉からなされていたのか」
 「もれ伺うに、お日付は、この月十二日と、十三日付の両度のお飛
脚の由。-要は、大江広元、築後守俊兼を奉行となされ、かねて殿へ賜っ
た平家の旧所領二十四箇所を、このたび、義経より取り上げ、これを没収
する―との上奏でございますそうな」
 「な、なに」思わず出た語気は、炎に似ていた。
 が、義経は、じっとそれを抑えるように、眉をふさいで、
 「そうか。・・・・十三日付の上書とあれば、義経が腰越を離れた四日
後。鎌倉どのの内では早くより定められていたことだろう。・・・・・そ
れまでの御処置をお持ちなれば、なぜ義経が腰越を去らぬうち、公(おお
やけ)の罪状を上げて、お糺(ただ)しないのか」
 暗然と、かれはそのまま、天井を仰いだ。
 「いや、聞くところによりますと・・・・・・・」と、忠信は、義経の
その面へ―「殿が、腰越を去るに当って、御憤怒にまかせ、いい散らされ
たことが、鎌倉どののお耳にはいり、そのための御処置とかいう由でござ
いまする」
「わしが・・・・。わしが腰越を立つとき、どう申したという取り沙汰か」
 「およそ、鎌倉に怨(うら)みある輩(やから)は、義経の手に属せよ。
義経こそは、軍功も認められず、空しく追っ返されて帰るなれ。御家人ど
ものうちにも、同じ不平を抱きながら、訴えようもなく、泣き寝入りせる
輩(ともがら)も多かるべし。義経の許へ参らば、ともに後日の策を立て
ん・・・・・と、道々公言して御立ち退(の)きありしとか」
 「ば、ばかな」
 余りにも悪質な誹謗(ひぼう)だ、根も葉もない捏造(ねつぞう)だ。
義経はついまた、くわっと、色をなしかけたが、
 「さても、先き手まわしな流言(るげん)をなす者があるとみゆる。こ
の義経が、かならず、鎌倉どのへ反噬(はんぜい)せんと見てか、あるい
は、故意に反噬させんとお仕向けなるか。・・・・・・いや、いや。義経
はその手には乗らぬ」
 極端な嘘の流布は、それへ腹が立つより、かえって、笑いたい心理をか
れに起こさせた。相手の危険な罠(わな)にも気づいたのである。
 「-忠信、有綱なんど、留守一同のほか、義経に供して、きょう、帰洛
した面々も打ちそろうて、後刻、奥の大床にあつまれ、ともあれ、久しぶ
りの帰館だ。なんら、土産(みやげ)はなけれど、酒盛りなとして語らお
うぞ」
 咄嗟の気もちで、多言を吐くのは、かれ自身が自身に危険でならなかっ
た。夜宴の支度をいいつけると、それを機(しお)に、かれは奥の小館(
こだち)へ移ってしまった。   

 かれには二人の夫人がある。
 いうまでもなく、河越殿とよばれている正室の百合野と、側室の静とで
あった。
 河越殿の百合野は、館の対(たい)ノ屋(や)に住んでいた。が、義経
はそこへ顔も見せず、小館の渡りをこえて来たのだった。
 「・・・・。お帰りなさいませ」
 静は、さっきから、懸(かか)りの口まで出迎えに出ていた。迎えるか
の女の姿は、かれの眸が、一瞬の慰撫(いぶ)と生きがいを汲みとるのに
充分であった。
 ここだけが、憩いの庭だ。拘束もない、人の猜疑(さいぎ)に呪(のろ
)われるおそれもない、二人だけの巣だと思う。
 「静、いま戻ったぞ。ともあれ無事にの」
 「何よりでございました。おからださえ、おつつがなければ」
 静にとっては、自分の魂が自分の身のうちへ帰って来たほどな心地もし
たであろう。その無事へ、かの女は今思い切り眸をこらした。そしてすぐ
濡れかかる睫毛(まつげ)に、恋情の露と安心感を一つに見せた。
 が、よろこびに盈(み)ちた黛(まゆ)にも、どこやら、心にすまない
ような、ためらいが見えなくもない。ー旅装の具足も解かずにこれへ見え
た義経は、まだ、正室の河越殿へは、お顔も見せていないのだと、すぐ察
しられていたからである。「・・・・百合のさまも、お待ちであろうに」
と、女心は女心がよく分かっていた。
 しかし、義経は局にはいると、よろい具足をまず解いて、一刻も早く、重
い枷(かせ)から解かれたい容子であり、静も直ぐ寄り添って、そぞろ楽し
い忙しさにくるまれた。
 やがて、義経は湯殿へはいった。女童(めのわらわ)に浴衣を持たせて、
静も後から廊を渡ってゆき、湯けむりの内をのぞいて、
 「お背をお流しいたしましょう」
 と、小袿衣(こうちぎ)を脱いだ。かいがいしく裳(も)をかかげ、小
桶(こおけ)に湯を汲(く)んで、義経の背中へ向かう。
 こういうことは、女童か垢洗(あかあら)い女(め)のすることと、い
やしまれている。だが静は、白拍子であった、以前の身は恥じても、みず
から厨(くりや)に立って働いたり、小袖を襷((たすき)して、良人(
おっと)の垢を流すことなどが、いやしい業(わざ)とは思えなかった。
 「どうだ、えらい垢だろうが」
 「夏のお旅路では無理もございませぬ」
 「いや、駅路(うまやじ)についても、宿で湯浴(ゆあ)みをしたこと
もめったにない。夜ごとが、物憂(ものう)うて」
 「少しは、お爽(さわ)やかになれましたか」
 「お。生き返ったような気がする」  
 「・・・・・・・けれど」と、静は、その人の肩から背へ、小桶の湯を
かけ終わりながら―「鎌倉へお立ちの前にくらべると、お背中まで薄くお
なり遊ばしたような」
 「痩(や)せたか」
 「前には見えぬお背の骨が露(あら)わにまで」
 「痩せもしよう。・・・・・・西国では、甲冑(かっちゅう)を解くひ
まもなく、 東国へ還(かえ)っては、あらぬお疑いに苛(さいな)まれ、
悶々(もんもん)と足引きずって、都へもどれば、家には、かねて賜った
所領も召し上げるという酷(むご)い報(むく)いが待っていたのだ。・
・・・・いや、やめよう。聞かせてもせんないことだ。静、もひとつ湯を
かけてくれい」
 「はい」
 「夜には、郎党どもとの酒盛りだが、まだ夕には早し、久しぶりよ。そ
の前にそなたとも一献酌(いつこんく)もう。支度をしておけ」
 「はい」
 静は、そこを出て、厨(くりや)へまわった。先に、下部(しもべ)の
女たちへ何かのことはいいつけてある。それを見まわって、池に面した一
室にかの女は待った。
 帰るやいな、こう酒杯を急ぐのも、日ごろのわが殿らしくない。静は「
・・・・・・ご無理もないお胸」と察しながら、何か侍(かしず)くのも
恐かった。
 義経は涼やかな直衣(のうし)に着かえ、柱の下へ円座を寄せてくつろ
いだ。身を倚(よ)せかけ、あくまで気ままに自由にありたいとする姿だ
った。
 そして、静がつぐ杯を、幾杯となく、口もきかずに飲みほした。まるで
水のようにである。その飲み方も常ではない―静は、渡された杯をうけな
がら、心配そうに、良人の眉をうかがった。
 「ああ、渇(かわ)いていたせいか、にわかに、酔がのぼってくる。そ
なたも過ごせ。長い留守、さだめし心細かったろうに」
 「いえ。愉しみでもありました。待つのは、つろうございますが」
 「静」
 「はい」
 「愛(いと)しいやつ。そなたは、義経は添うため、ひょっとしたら、
世にも不幸な女になろうもしれぬ」
 「なぜでございましょうか」
 「この義経が、不幸な生まれつきの男ゆえ」
 「静には、そうは思われませぬ」
 「どう思う、そなたは」
 「世に、わが身ほど倖せな者はないと」
 「かかる茨(いばら)の道でも」
 「ここが火水(ひみず)の中でありましょうとも、静は恋のかなった倖
せ者です。遠く離れている日とて、わが夫(つま)のおいとしみは、いつ
も身に抱いておりますから」
 「義経を疑わずに」
 「もったいない、なんでお心を・・・・・」
 「さまで、わしを信じてくれるのは、そなたと、わしの股肱(ここう)
の郎党だけだ。うれしい。わしには、まだ、わしを信じてくれる幾人かが
この世にいる」
 夕風は、酒の味を、快(こころよ)くする。
 杯の手も早い。かれの耳朶(じだ)は、海棠(かいどう)の花の一輪み
たいに見えた。そのくせ、どこか、どうやっても晴れない、沈鬱(ちんう
つ)な気が眉の辺りに酔い残されている。
 ふと、かれは大きな息をついて、夕廂(ゆうびさし)から空を仰いだ。
そしてひざを抱え、背を後ろの柱へもたせて、たれへともなく、つぶやい
た。
 「よくいうた、わしも静のように、身を、不幸な者とは、考えぬことに
しよう。・・・・・そもそも、壇ノ浦へ臨む前から、胸ではひとり思うて
いたのであった。-西征のお役目を果たした後は都の片隅でもよい、静と
ともに、生を愉しもう。修羅の血みどろは、もうたくさんだ、名聞(みょ
うもん)、権勢、われに何かあらん。-そう密かに思いきめていたものを」
 ふっと、かれは唇(くちびる)をゆがめた。
 自分へ恥じる痛さだった。-戦場の悟りも、世間へ帰って、すぐ一変し
たのでは、その場その場の、愚者のでき心もおなじではないか。
 そうだ、まちがいなく、戦場では、死か、ことばのもし生きて帰れたら、
そうしようと、純粋に思った。-が、世間の土を踏むやいな、妄執(もう
しゅう)の虜(とりこ)となり、日夜、影なき敵との闘いに、身を焦(や
)かれ通しである。
 「・・・・ああ、つまらぬ不平にわしは疲れ歩いた軍功、それはべつに、
郎党どもへ何かで報いてやろう。平家の旧所領二十余個所、そんな物さら
さら要(い)らぬ。-欲しいは、たれにも邪(さまた)げられぬ身ままな
身だけよ」
 蚊うなりが、かれを繞(めぐ)り、いつか何もかも、夕の色にくるまれ
かける。
 静は、簾(す)の蔭に火をともし、かれの側近くへ、蚊遣(かや)りを
置いた。
      








































 最近、家内の弟の家から、渋柿を送っていただきました。
 台風接近で柿が落ちる前にと、早めに捥(も)ぎ取って、送っていただ
きました。未だ実は固く渋い状態ですので、家内が早速、焼酎を購入し準
備をしています。近日中に、焼酎を使用して渋抜きを、してくれそうです。
 小生は、この渋柿の熟したのが、大好物です。なつかしき故郷の味がす
るからです。10日もすれば食べ頃になると思っています。

           渋    柿
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 家内が焼酎しようして、早く熟すように、処理してくれたおかげで、1
週間後に、見事に熟し、1個/日おいしくいただいています。


















 腰 越 状(こしごえじょう)

 かれが満腔(まんこう)の良心と、真情をこめて、兄頼朝の胸へ訴えた
「腰越状(こしごえじょう)」の全文は、かなり長いものである。
 吾妻鏡(あづまかがみ)、古典平家、盛衰記など、およそ、それを載(
の)せないものはない。
 そして、悶々(もんもん)たる苦衷(くちゅう)とかれの立場は、その
一状に隈(くま)なくうかがい知られると、している。
 だが、伝えられる腰越状の文には、後人(こうじん)の加筆のあとも見
え、義経の原文そのままではあるまいという別説もある。あるいは、そう
かもしれない。
 だが、かれが生涯の心血を注いで、幕府の大江広元(おおえひろもと)
の手から、それを頼朝へさいごの訴えとして差し出したことは事実である。
疑いの余地は少しもない。
 ともあれ、腰越状(こしごえじょう)は、かれが、かれに迫り来つつあ
った運命へたいして、残されたただ一つの手段たる善意の抵抗をこころみ
た必死の文字であった。それが頼朝に容れらるか容れられないかを賭(か
)けた義経畢生(ひつせい)の叫びであり、真情の吐露であった。
 -隋書の省略を加えて、文のあらましを、次に掲げておく。

  左衛門尉源義経、恐れながら申しあげ候。
  意の趣(おもむき)は、身、御代官の一に選ばれ、勅宣の御使として、
 朝敵を傾け、抽賞(ちゅうしょう)せらるべきに、かへつて虎口の讒言
 により、勲功を黙止(もくし)せられ、御勘気の咎(とが)を蒙(かう
 む)る。
  案ずるに、忠言は耳に逆(さか)らふとか。身、鎌倉に入れられざれ
 ば、素意を述ぶることあたはず。いたづらに数日を送る。この時に当っ
 て、もし永く恩顧を拝し奉らずんば、骨肉同胞の義、すでに空しきに似
 たり、宿運、極まる所か。はた又、先世(せんぜ)の業因(ごふいん)
に依(よ)るか。
  事新しき申し条、述懐(じゅつくわい)に似たれど、義経、亡父義朝
 殿他界と共に、孤児となって母に抱かれ、以来、一日も安堵(あんど)
 に住(ぢゅう)せず、諸国を流浪(るろう)、辺土の土民百姓に服仕(
 ふくし)せらる。
  然(しか)りといえど、幸慶(かうけい)たちまち、平家追討の恩命
 に会い、義仲誅滅後(ちゅうめつご)、更(さら)に西海へ赴(おもむ
 )き、一命をかへりみず、甲冑(かっちゅう)を枕とするも、年来の宿
 望をとげんとするのほか他事(たじ)ある無し。あまつさへ義経、五位
 ノ尉(じょう)に補人せらるゝの条、面目何事か、これに加へん。
  然りといえど、今や憂ひ深く、嘆き切(せつ)なり、神仏の冥助(み
 やうじょ)なくして、いかで愁訴(しうそ)を達せん。因(よ)って義
 経、全(まったく)心をさしはさまざるの旨、さきに熊野牛王(くまの
 ごわう)宝印の裏を以って、起請文(きしょうもん)に書き進ずといえ
 ども、なほ以って、御宥免(ごいうめん)なし。
  今は憑(たの)む所、他にあらず、ひとへに貴殿が広大の御慈悲を仰
 ぐのみ、便宜(べんぎ)を伺ひ、高聞(かうもん)に達せしめ、誤りな
 き旨を恕(じょ)せられ、芳免(はうめん)にあづからば、義経年来の
 愁眉をひらき、余慶家門に及ぼし、一期(いちご)の安寧(あんねい)
 を得ん。愚詞(ぐし)、書きて尽さず、ただ賢察を垂れよ。恐惶謹言(
 きょうくわうきんげん)。

   元暦二年六月         左衛門尉源義経

    進上 因幡 前司殿

 因幡前司(いなばのぜんじ)とあるは、大江広元のことである。
 また、べつの一札(いつさつ)は、宗盛父子の命乞いを仰ぐ切々(せつ
せつ)たる願文であった。
 夜が白むと、義経は、併(あわ)せて二通の款状(かんじょう)を使い
にもたせて、大江広元の許へやり、広元から鎌倉どのの御前へ披露してほ
しいと願い出た。
 -そして、その後は、何か、たましいを人手に預けてしまった人のよう
に、室を囲む蝉(せみ)しぐれの中に茫(ぼう)としているかれであった。
大江広元は、相違なく、頼朝の前に、義経から、愁訴(しゅうそ)の状を、
畏(おそ)る畏る披露した。
 頼朝は、見た。
 -が、なんともいわなかった。
 広元もまた、よけいな口は何ひとついうまいとしている風に見える。
「けさ、腰越よりお使いがあって」と、いう以外は一言も触れていない。
 かれには、頼朝の方針がわかっていた、その胸を振幅する微妙な蔭には、
梶原という寵臣、北条という大舅(おおじゅうと)、そう二人の黒い投影
が、ぴたりと、主君の心の襞(ひだ)に密着して住んでいるのだ。めった
な呼び水は、その井戸へは注(さ)させない。
 それに、また。
 頼朝の現在では、骨肉へそそぐ涙など、とうに失われているかとも見え
る。黄瀬川の初対面で、泣いた涙は、嘘ではない。確かにあの時は、かれ
もうれしかったのだ。しかし当時は頼朝の旗あげも、初期で、手勢も薄く、
平家は隆々(りゅうりゅう)としていた。-が、今は、一介(いつかい)
の九郎冠者(くろうかじゃ)などを恃(たの)みに思うほどかれは微力な
存在ではない。かつまた、愛妻の政子といい、縁者といい、かれを繞(め
ぐ)る私生活も賑やかである。ここにも、母ちがいの弟を迎え待つような
間隙(かんげき)はない。
 いや、より重大な理由は、頼朝の素志たる武家政治への大望にあろう。
それを成しとげるためには、何ものをも犠牲にして顧みまいとする風は、
ここへ来ていよいよかれの眉を冷厳(れいげん)なものとしているのでは
ないか。
 「・・・・・因幡」
 「はっ」 
 広元は、ひと事ならず、胸が緊(し)まった。-頼朝の発する一言が、
ここで、舎弟義経の処置を、どうきめるか、その一言で、万事決する、と
思ったからだ。
 ところが、かれの予想は、見事空を打った。
 「-平家の虜(とりこ)、宗盛父子を、あすは一見しようぞ。その用意
を命じておけ。余り長う留めおくも、よくあるまいしの」
 それだけだった。それしかいわないが、頼朝の皮膚の下には、鉛のよう
な重いものが沈んでいるふうに見える。広元は、早々に退(さ)がった。
 翌、六月七日。
 久しく武者所の手で幽閉されていた前(さきの)内大臣宗盛は、その子
右衛門督(えもんのかみ)とともにみちびかれて、一屋(いちおく)の床
にひき据えられた。
 広やかな中庭をへだてて、かなたの真正面に、階(きざはし)が見え、
欄(らん)があり、簾(れん)が下がっていた。
 頼朝はもう簾(す)の内の上ゲ畳に大きく座っていたのである。-簾越
(すご)しに見ようというつもりらしい。

CIMG0114







































-これを、先に一ノ谷で捕われれた後ここへ送られて来た同じ清盛の子、
三位中将重衡(しげひら)に与えた優遇とくらべると、格段な差である。
重衡へはほとんど客の待遇をもって接し、宗盛には初めから、勝者と敗者、
将軍の虜囚(りょしゅう)の差別を、あきらかにおいていた。
 が、ことばのうえとしては。
 「-そもそも、頼朝も平家を私(わたくし)の仇(かたき)とは思うて
いない。そのゆえは、平治のおり、故入道相国の助命がなくば、今日の頼
朝もなかったからだ。しかし、平家が朝敵となって後は、院宣、そむき難
く、誅伐(ちゅうばつ)を加え申したり。が、とかくして、こう御見参を
得たるは、何かの宿縁でやあろう。返す返す、本意に存ずる」
 これは、直接話しかけたのではない。
 侍臣(じしん)比企義員(ひきよしかず)をさしまねき、少し皮肉げな
微笑をふくみながらいって、義員の口から、かなたの奥にいる宗盛へ口づ
たえにいわせたのだ。
で、義員が、そこへ近づいて、
 「-上意です」
 と、断って、頼朝のことばを伝えかけると、どう思ったか、宗盛はあわ
てて居ずまいをあらためた。われから名代の義員に、卑屈な頭を下げた。
その姿は、いかにも憐れみを人へ見せて、威力の前に尾を振る、みじめな
人間に見えた。
 その様をながめて、鎌倉の諸大名や武士たちすらも「あな、いとおし、
あんな御心なればこそ、人の誹(そし)りもうけ、かかる待遇(もう)け
にも会うのであろう。今さらの媚(こ)び諂(へつら)いが、御運命に、
どうなるものでもないのに」と、みな歯がゆがった。中には、口惜しげに、
涙を垂れたものもあるという。
 というのは、鎌倉直参の内にも、以前は平家に禄仕(ろくし)していた
武士も少なくないからだった。-また、さきには同じ敵国の虜(とりこ)
となって来ても、中将重衡のごとく、人間として、頼朝とも対等に会い、
むしろ頼朝の非をついて、かれを赤面させたような態度をも、その眼に見
ていたからであろう。
 「・・・・・・はて、興もなや」
 頼朝は、言いたげであった。また、こういう状を、以前は平家に誼(よ
し)みもある御家人どもへ長く見せるのも面白くないと感じたらしい。-
で、つぎの一語とともに、すぐ、座を立った。
 「・・・・退(さ)げ置け」
 一見(いつけん)の儀は、それだけで、あっけなく終わった。
 北条時政、大江広元などが、深殿(しんでん)へ召されたのは、後刻の
ことであった。かれらは、夜にはいって退がった。武者所にも、何かのう
ごきが見られた。
 -八日の夜、義経の宿所へ、突然、武者所から令書が届いた。

   明九日の朝、関の木戸にて、宗盛父子の身柄を、請取(うけと)り
  候へ。早々、虜の車に付きそうて、都へ帰り上(のぼ)られるべしと
  の御下知(げち)にて候ふ。
   上命、右の如し、違背あるまじき事。

 「・・・・・・・・・・」
 読み下しつつ義経は手がふるえた。全身の血が水のようになってゆくの
が自分にもわかった。-召見(しょうけん)の沙汰(対面)には何も触れてい
ない。ついに鎌倉の土も踏ませず、再び宗盛をひいて帰れというだけの令
だ。兄は正気かと、義経は疑った。


 
 業(ごう)の わ だ ち

 ひく牛は一こう長途も苦にしていない、車の輪が、道のクボに傾(かし
)いだり石を嚙(か)む一ときだけ、懶(ものう)げな首を少し上げ、飴
色(あめいろ)の体に、筋肉の稜角(りょうかく)を、もりっと現わすだ
けだった。
 そしてただ、六月半ばの強い日射の下を、牛は鈍々(どんどん)と前へ
行くことしか知らない、海道百里の道も、かれには艱難(かんなん)でも
退屈でもなく、長汀曲浦(ちょうていきょくほ)の風光も、かれの涎(よ
だれ)には、無縁であった。ぼくぼくと土の乾(かわ)いた野路(のじ)
も馬路(うまやじ)の埃(ほこり)も、聖者に似た細い眼には一切平等で
あった。
 -うらやましい、と車上の人間は牛の背をぼんやり見つつ揺られて行く。
前(さきの)内大臣(おおい)、平家一門の総領という誇りなどは、きの
うまでのこと。いまの宗盛は、人間であることさえみずから見失っている
ように見える。
 鎌倉でも、格別な優遇は何一つ与えられず、浄衣(じょうえ)は薄よご
れ、夏なので、たちまち虱(しらみ)に責められもした。
 頼朝のことばは、いんぎんだったが、あの後で、武者所から「-以後宗
盛の名を、末国(すえくに)と改め、前内大臣を貶(おと)して、讃岐権
守(さぬきのごんのかみ)となす」という冷たい宣告が事務的になされた。
そして同朝、ただちに義経の手へ引き渡され、ふたたび西へ、送り返され
ている身であった。
 自分の名が、勝手に他人の考えで変更されるなどは、ふざけた沙汰であ
る。ありえない不合理だ、と一時は怒ってみたが、しかし、そういう権力
の恣(ほしいまま)を、かつては平家人(びと)も振るって来たのである。
今、身に分ったというほかはない。
 そしてまた、支配者による前名前官の失格は、かならず処罰の前提とし
ていい渡されるのも例外なきところである。宗盛はいやおうなく、感づい
ていた。
 「頼朝のやつ、わしをどこで打ち首にせよと命じてあるのか。・・・・
都でか?途中でか?」
 きのうもまず生きた、きょうもまだ斬られそうもない。だが、車の輪の
一回転ごとに、死の座が近づきつつあることは否みえない。日ごとに憔悴
(しょうすい)の度も目立って半病人の態なのは、むりもなかった。
 首切り役の目付どもにちがいない。宗盛の車わきにも、子の右衛門督(
えもんのかみ)の車にも、武者所の橘ノ右馬允(うまのじょう)浅羽庄司
(あさばのしょうじ)宇佐美平次などという壮士が特にこんどは付き添っ
ていた。かれらのあしらいや眼つきを見ても、しょせん、行く先長いこと
ではあるまい。
「それにせよ、ここ異(い)な様子は判官どの。このごろまるで唖(おし
)のような。-眼を合わせても眼をそむけ、宿(やど)についても、この
宗盛へは、ひと言だにない。目付人(めつけびと)の手前か。頼朝とのあ
いだに、何事かあったのか」
 死期(しき)に恟々(きょうきょう)たる身でいながら、かれはそんな
観察もどこかでしている。
 だが、義経主従の様子が変だと感じうるだけのもので、頼朝とのわだか
まりや、義経の複雑なる立場が、虜囚(とらわれ)のかれに分かるはずも
なかった。
 「・・・・・・さては、身の命乞いをして給わるとの約束が、かなわぬ
結果になったので、それが間(ま)が悪う思うてか」
 そんな解釈も持ってみる。
 煩悩は、宗盛を翻弄(ほんろう)する。
 けれど、義経を怨(うら)む気は出なかった。ただ頼朝を考えると、か
れは黒い呪(のろ)いに焦(や)かれ。、とつぜん、途々(みちみち)の
見物人にむかって「-知っているか。頼朝が十四のとき、やはりこうして
虜(とりこ)となり、すんでに斬られるところを、一命を助けて、伊豆へ
放してやったのはたれだ」と、喚(わめ)いてやりたい衝動にかられた。
 亡父(ちち)清盛は、寛大だった。頼朝を助け、二十年も伊豆へ放して
おいたまま恬然(てんぜん)としていた。その恩からも、頼朝もまた、自
分へたいして、斟酌(しんしゃく)なきをえまい。衆臣や世評のてまえに
も、いささかな温情でも示すであろう。-と、宗盛は、計算へ入れていた。
-それだけにかれの落胆と、窶(やつ)れ方はがくりと来た。「・・・・
・・頼朝のやつ。頼朝のやつ」と、四六時中、その名は呪いの油に煮られ
ている。

 「やい、やい。囚人(めしゅうど)の車をそこらの木に繋(つな)ぎお
け。牛にも草をくれ、牛飼いどもも腹ごしらえいたすがよい」
 海道筋のわびしい部落の端(はず)れ。
 義経たち、護送の列は、ひと息入れた。-が、こんどの帰洛には、鎌倉
直参の武者も大勢加わったこと。宗盛父子の身辺は、一切、かれらに護ら
れていた。
 目付の一人、橘ノ右馬允は、車の宗盛へいった。
 「囚人末国(すえくに)へ、糧(かて)を下しおかれる。したためおく
がよかろうぞ」
 粳(うるち)を柏握(かしわにぎ)りにした物二、三個と、塩菜干魚か
知れぬ物少々を盛った木鉢が、卒の手から差し入れられる。
 ひざの前に置かれた器(うつわ)には、すぐ真っ黒に蠅(はえ)がたか
った。宗盛は蠅を追い追い、一つを取って食べた。
 後方の車でも、子の右衛門督(えもんのかみ)が、糧を供与されている。
かれは道中間がな隙(すき)がな後ろを振り向いた。すると右衛門督も、父
から眸(め)を離していない。呼び交(か)うことは許されないが、父子
の声なき声はそれだけで通い合う。それは親のかれには、道中唯一のなぐ
さめだし、また、断腸の責苦でもあった。
 「・・・・・水を賜りたいが」
 卒のひとりへ頼みながら、
 「ここはもう、どの辺であろうかの。野路の平らけさ、海辺のさま、尾
張国とおもわるるが」
 卒は、竹筒をの水を与えながら答えた。
 「されば、尾張の知多はかなた。内海(うつみ)も近いところでおざる」
 「・・・・・内海」
 どうしたのか、宗盛は、やっとひと口の水を飲んだだけで、あとの食べ
物は、残してしまった。
 内海は、頼朝義経の亡父(ちち)義朝が討たれた土地である。ひょっと
したら、わが首をそこの墳墓に供(そな)えよと、いいつけてあるのでは
ないか。
 と、かれは色を失ったのだが、その夕も、あくる日も、何事もなかった。
日をかさねるに従い、尾張も過ぎ美濃路であった。幾度も夏の雨に洗われ、
雨後のぬかるみに、牛も車の輪も、泥にまみれた。
 そういう日は、人馬とも、埴輪(はにわ)のようだった。六月九日、鎌
倉を立って、きょうで十日目だ。不破(ふわ)の関を越え、近江路をのぞ
んでいる。かなり強行といってよい。
 -とかくして、やっと、都の空も近い。
 義経は、この道中、泥海を泳ぎ帰るような危うさと疲労にくるまれ通し
ていた。-ともあれ、都という岩礁(がんしょう)へ泳ぎついて。ひと息
つきたい。まっ暗な方向を考えたい、という気持ちだけで、いっぱいだっ
た。
 ついに、兄のゆるすところとならず、鎌倉の土も踏むなく、帰洛を余儀
なくされて来たのだ。
 「-が。家来どもの憤激にまかせ、あのおり、しいて鎌倉へ推参してい
たら、どうなっていたことか」
 振り返れば、慄然とするばかりだ。ここまで来て、「まず、よかった」
と、思わずにいられない。
 先の誓紙も、腰越で呈した心血の款状(かんじょう)も、一切は兄に無
視された。ただ「-虜車(りょしゃ)をひいて帰洛すべし」というだけの
命令だった。いわば追い返しである。その酷命をうけた当夜、いかに義経
が、自分の心外さを抑える以上、血気な直臣どもをなだめるのに骨を折っ
たか、主従して、無念の涙にかき暮れたことか。
 激し立ったかれらは「もう理のほかの沙汰」と物具(ものぐ)をとって
総立ちとなり、「このうえは、われら御内府に推参(すいさん)し、鎌倉
どのへ、直々、強訴(ごうそ)し奉らん」と、猛(たけ)りたった。
 義経が、その穏当でないことを諭(さと)しても、弁慶までが「歯には
歯をもって報(むく)いるしかおざらぬ。もし道にて、武者所の面々が阻
(はば)めるならば、それも是非なし、斬り死にして果てんまでのこと」
と、同音にいい、中でも烈しい者は、「-鎌倉どののおんために、命を賭
(と)して戦に出ても、軍功はおろか、還ればこうぞと、世の見せ物とな
って、鎌倉どのに恥かかせん」とまで喚(わめ)き出す始末であった。
 果ては、義経も色をなして。「わしの命に従わぬなら、主でもなし、家
来でもない」と、しかった。   
 なお、また。「-まちがえば、そちたちの引く弓が、この義経を殺そう
も知れぬ。その理がわからぬこともあるまい。たとえいかほど、おつらく
当り給うとも、鎌倉どのは、あくまでこの義経には兄君なるを」と、いい
切ったのでもあった。
  家来たちは、言葉を失い、瞬間、息を閉じあった口から、やがて手放し
の泣き声を一せいにしてしまった。-それからの、悲痛な沈黙と慟哭(ど
うこく)には、主従のへだてもなくなっていた。ただ、不遇な人と人との
寄った一堂であった。お互いの無念をなだめあうほかなく、やっと事なく
朝を見た腰越の一夜こそ、義経には、生涯忘れ得ぬものであったろう。
 多感血気といえば、当夜の家来のたれよりも、実は烈(はげ)しい、感
じやすい性情を持っている義経なのだ。将なるがゆえに、鎌倉どのの一代
官と思うがために、分別と良識を、心の具足(ぐそく)として来たに過ぎ
ない。
 「・・・・・・・あぶないのは、家来どもではない、わし自身だ。この
先の義経を、わしはどう持って行ったらよいのか。わしすら恐い、わしす
ら信じえない者を」
 馬上、ゆらゆら、義経は疑った。
 -腰越このかた、自分はどこか違って来てはいないだろうか。この人間
がである、人間の観方(みかた)、骨肉への考え方、世間というもの、す
べてへ、自分は何か、以前のような純真ではなくなったような気がする。
 窯(かま)から生まれたままな白磁(はくじ)の肌が、縦横な氷裂(ひ
び)をうけた感じである。寒々しい絶望感が、心の割れ目へ忍び入ってく
る。
 「ああ、腰越の一と月が、こうも自分を小さくみじめに傷(いた)めつ
けたことか。自分の人間までをかえようとするか。義経ほどな者が、さり
とは口惜しい」
 鳰(にお)の湖(うみ)(琵琶湖)を渡ってくる風の中で、義経の心もた
えず小さい波騒(なみさい)を刻(きざ)んでいた。
 ようやく、鎌倉は遠し、都は近い。-弟を弟とも見給わぬ兄に、なんで
自分だけが、無情な侮辱に耐え、あくまで、悲涙のぬかずきを、守らなけ
ればいけないのか。
 「・・・・・・・・おお、見える」
 湖のかなたには、叡山の大きな肩、四明ヶ獄の孤(こ)。なつかしい鞍
馬(くらま)は、そのすぐ向う側に寝ていよう。
 山は、義経の眸(め)へ、いっているようだった。
(-かつての九郎御曹司(おんぞうし)、何をくよくよするのだ。おん身
のたましいのうちに吹きこんである山巒(さんらん)の精気をわすれたの
か。見ずや青山(せいざん)、天地はかくのごとく、悠大(ゆうだい)な
るに)と。
 義経の駒が、いなないた。何かに驚いたのかもしれぬ。近江路の一宿駅
の口だった。列の先頭もすこし行きよどんで見える。
 「判官どの、判官どの」
 後方の車わきから、橘ノ右馬允が呼びかけつつ、かれのそばへ寄って来
た。そして、
 「そこは早や篠原の宿。あらかじめ、定めておいた篠原でおざる。鎌倉
どのから、内々仰せつけありし一儀、お忘れでもあるまいが」
 と、小声で告げた。
 義経は、かなたの屋根の群れをながめた。「そうか」と、われに返って
見直した風である。だが、投げやるように、
 「心得ておる」
 と、いい放した。
 そのまま、少し駒を早め、かれは前を行く家臣たちへ、何事か、さしず
をしていた。しかし、どこか力なげな姿であった。





































































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