atusisugoiのblog

 爪(つめ)を噛(か)む

 妙に赤っぽい光と異臭とは、灯皿(ひざら)の魚油のせいであろう。その
一燈一燈から、烏賊墨(いかずみ)のような煤(すす)もさかんにいぶり立っ
ている。
 広くもない船房の内だ。たちこめる油煙が諸将の陰影をよけいに濃くし、た
れたれともさだかでない。ただ、正面の義経の顔、梶原の顔。左右へ詰め
あっている横顔やら物いう顔など、顔ばかりが赤々と浮いてみえ、満座の
鎧具足(よろいぐそく)がチカチカ微光を放ちあった。
 「-思えば、返す返す惜しい日を過ごしたものだ。きょうこそは、敵の彦
島へ迫るべき日であったものを」
 梶原が、口をあいて、こういいぬく。
 さっきから、かれが繰り返して、残念がっているところは、
 「今夕、陸(くが)の味方が、赤間ヶ関へ攻め入り、すでに彦島の喉口(
のどぐち)へ迫ろうとまでしたのに、なぜ陸勢(くがぜい)をひきあげ、わ
ざわざ、敵に備えの暇を与えたのか」
 と、いうことらしい。そして、
 「もし、あのさい、水軍も進み出て、陸の味方と力をあわせ、同時に、彦
島を衝(つ)いていたら、おそらく平家は一挙に覆滅し得たろうに、可惜(あ
たら)、きょうをむなしくせしむことよ」
 と、舌を鳴らしてやまないのである。
 いいかえれば、義経の指揮判断の誤りを衝き、軍監として、その責めを
問うのでもあるのだろうか。
 義経はとみれば、悔いる風もない。一応、耳に傾けていたが、反発もせ
ず、承服もせず、ただ「聞きおく」という態度に見える。
 しかし、副将の田代冠者以下、諸将たちは、おおむね、梶原と同意見ら
しく、
 「いつに似合わぬこの君の二の足かな?」
 といいたげな、いぶかりを、義経の面(おもて)へ、そそぎあっていた。
 一ノ谷、屋島、また宇治川、義経の戦の手ぐちは、いつも疾風迅雷(しっ
ぷうじんらい)である。敵を直前に、こう二た夜もためらっていた例(ため)
しはない。
 梶原に次いで、やがて諸将のあいだからも、同様な声が出た。
 義経からも、何か釈明がなければすむまい。で、かれもついに、一言
した。
 「それよ。院の御名(ぎょめい)として、三種の神器を無事に都へ還(か
え)せ、との仰せつけだになくば、合戦の仕方はいとやすいことだ。したが、
平家方もこのたびは、充分、肚(はら)をきめていよう。今はこれまでと見、
一門最期の淵’ふち)にのぞむさいには、必定、神器もろとも、身を沈めん
と、覚悟しおうておるに相違ない。-その平家から、神器をつつがなく奪
(と)り上げ、敵を完膚(かんぷ)なきまで討ち滅ぼすということは、思え
ば思うほど、むずかしい」
 義経は、また、梶原へ眸を向けて、
 「・・・・・・・さるがゆえに、陸勢にも、珠を目がけて、珠を踏み砕く
な、魚の網をしぼるが如(ごと)くせよと、命じたわけだが、もし基許(そこ
)に、べつに良策でもあるなら、この場で聞かせよ。いかにせば、神器を
無事に奪って、しかもかれを滅ぼすことができるか。基許の智略のほども
もらしてほしい」
 それには、梶原も黙ってしまった。
 もちろん諸将のあいだにも「-院の特別なるお旨」は、充分知れ渡って
いたはずである。が、とかく戦場の第一義は、生死と功名(こうみょう)だ
けに限られやすい。いわれてみれば―と今さらのように、あすの合戦の
むずかしさを皆、思い直した風だった。
 すでに、この夜、
 「ー平家方は、はや、田野浦(たのうら)まで、第一陣を進めてきた。そ
の敵へ接して、水軍と水軍との、矢交(やま)ぜが開かれるのは、明朝の
卯(う)の刻(こく)(午前六時)前後ぞ」
と帷幕(いばく)のしめし合わせもついていたのである。
 これは、その日、義経自身が、船諸五郎正利(ふなしょのごろうまさとし
)や、串崎の武者を水先案内(みずさき)として、水路や潮流の時刻など
を、つぶさに調べたうえでの決定であり、異論の出ようはずもない。
 しかし、海上戦を、陸の先陣争いと同一に考えている諸将には、たれが
、先鋒(せんぽう)をうけたまわるのか。それへの関心が強かった。当然、
功名手柄の晴れ場とみな競っているからである。
 梶原すらも、その下心があるらしく、こう強く主張し出した。
 「過ぎたるは、もういうまい。また、神器の奪還も敵へ当ってからのこと
よ。破りもせぬ敵からの神器をとるわけにはゆかぬ。そこはこの梶原にも、
思うところもあれば、あすの先鋒は、ぜひ梶原に仰せつけありたい。先陣
の役は、この景時に賜(た)び候え」

 たれもが、心では望んでいるのだ。口に出せないだけである。
 にもかからず、梶原がたって「-自分に」と申し出た人もなげな気もちは、
これまた、たれにも分からないことはない。
 屋島では、屋島も陥(お)ちてから二日も過ぎて、遅れて戦場へついた
かれだった。
 かれ自身は、そんなことを、間が悪そうに、いつまで煩(わずら)ってい
る男ではない。けれど嫡子の源太景季、次男の平次景高、三男の三郎
景家などは、以後、肩身のせまい思いをもっていたことだろう。「-先の汚
名を、長門の浦でそそがねば」と、父の背後で、躍起(やつき)となってい
たかもしれない。
 古記によると、この時、梶原の乞(こ)いを、義経は、一言のもとに、し
りぞけたとある。
 「義経がなくば知らぬこと、義経があるからには」
 といったのに対し、梶原が、
 「殿は、大将軍。大将軍たる人は、中軍にあるべきもの」
 と、きめつけた。
 「それ、思いもよらずー」と、義経はせき込んで「われはただの一御家人、
鎌倉どのこそ、大将軍とは申すなれ。義経も和殿輩(わどのばら)もおな
じ者よ」
 と、あくまで、先陣の役を譲(ゆず)ろうとしない。
 業(ごう)を煮(に)やした梶原は、
 「天性、この殿は、侍の主とはなり難し」
 と、放言した。聞きとがめて、義経もまた、
 「申せしな梶原。和殿こそ、日本一の烏滸(おこ)の者(ばか者)かな」
 と、ののしり返した。
 そして、義経が太刀へ手をかけると、梶原も一そう激して、
 「こは、なんとなさる。この梶原は、鎌倉どのの他に、主(しゅ)は持た
ぬぞ」と、同様に、陣刀の柄をにぎりしめる。
 一座騒然。-梶原の方には、かれの子息や家臣が楯となって寄り合い、
義経の身には、弁慶、忠信、伊勢三郎などがこぞり立って、あわや味方
割れを見ようとした。しかし三浦ノ介義澄や土肥実平が、極力、相互をな
だめたので、からくも事なきを得、やっとその場はおさまったというのであ
る。-古典平家もまたそういう風に書いている。
 両者の不和は隠れもないことだが、といって以上のような喧嘩沙汰ま
でがあったとは思われない。思うに、梶原の三人の息子や将士が屋島の
名折れを、明日こそは、取り返そうと、気負っていたので、自然、梶原自
身までが軍監の地位をわすれて、積極的に、先陣の役を望んで出た程
度かと考えられる。
 そして、おそらくそれは、義経に容(い)れられたのではあるまいか。な
ぜなら、味方割れまでしてかれの望みを拒(こば)む理由は何もないから
である。
 といって、
 平家方にも、さまざまな違和(いわ)が包蔵されていたように、源氏の内
部もまた、決して、義経の下に、整然と一本になっていたのではない。
 そう考えられる第一の不審は。義経と並び、ともに東国勢の一方の大
将軍といわれる三河守範頼(蒲(かばの)冠者)が、まったく、動きを見せ
ないことである。
 豊後に渡って、九州の一角にあることだけは、確実らしい。
 九州に一線をひいて、彦島の平家を、牽制(けんせい)しているものと
見れば見えないこともないが、それも余りに消極的だ。-なぜ、文字ヶ関、
柳ヶ浦など、豊前の海べまで、その旗幟(きし)を見せて来ないのか。
 義経は、三河どのの真意が、どこにあるのかを、疑っている。
 よし船はなくても、豊前の岸に、その白旗を見せ給うだけでも味方にと
っては大きな助力。敵にとっては、心を寒うさせるものを」
 と、遺憾でならない。
 しかし、梶原だけは、多少その消息を知っているはずだった。かれの許
へは一、二度、範頼から使いもあった。だが、義経には何も語らず、義経
もそれには触れないのであった。いったい、九州にいるのかいないのか、ま
ったく、奇妙な友軍というほかはない。
 疑えば安からぬ心地もして、
 「-この義経が平家に勝つのを、よろこばぬ者が、味方のうちにあるのか」
 と、思わされるおりさえある。
 が、義経は「浅ましい心のうごき」と、むしろ自分に恥じ「そのようなこと、
あり得ようはずはない」と、かたく思い直すのだった。
 かれは敵以上、味方の割れを恐れた。功名争いや意地ずくの、われが
ち態勢であすへのぞんだら、神器の奪取はおろか、勝利もどうかと、危ぶ
まれるからである。それには、梶原を立てておくことだと知っていた。-で、
その夜の最終会議も、梶原にとっては、充分、得心のできる結論のもとに
終わっていたろうことは、ほぼ疑う余地もあるまい。
 やがて、梶原父子をはじめ、諸将の影は、船房から外へ出て来た。そ
して口々に、
 「さらば、明朝」
 「晴れの海(うな)ばらにて」
 -さらば、さらば、といい交わしながら、おのおのの船へ帰って行った。

 卯の刻前の出陣なら、これから各自の船へ戻ってからも優に手枕の一睡
はできる。
 義経もまた、そのあとで、小狭い一房にはいって身を横たえた。ただの
ひとりに返って、四肢にノビを与えると、なんとはなく「・・・・・・ああ」
と筋骨の下から大きな息が思わぬ声になって出た。
 「ああ」という一呼吸の中には、つかの間、体の緊張から解(ほぐ)れ出
たかれの万感が流露(りゅうろ)していた。
 「功名何ものぞや」という自嘲(じちょう)のあふれか。「-静、恋し」と
つぶやいたものなのか。かれ以外には、知るよしもない。
 「・・・・・殿、殿、せっかく、おやすみの御様子ですが」
 そのとき、たれか、船房の戸を軽くたたいた。
 義経は、潮窓へ顔を寄せ。
 「弁慶ではないか。何用ぞ」
 「ただ今、艣尻(ともじり)の下へ漕(こ)ぎよせて来た一舟の上から、桜
間ノ介が、ぜひお目にかかりたいと申しおりますが」
 「桜間ノ介なれば、仔細(しさい)はない。これへ通せ」
 「ところが、もうひとり若い平家人(びと)を連れておりまする」
 「平家人とは、たれなるか」
 「平大納言どのの子息、時実どのなりと申されますが」
 「なに。時忠どのの子息讃岐どのが、自身お見えか。こは、ただ事にあ
るまじ。疾う、疾(と)うお連れ申せ」
 今し、壇ノ浦への出動を、寸前にしていた矢さきである。
 平大納言の子時実が、自身、危険をおかして、これへ来たと聞き「-こは、た
だ事にあるまじ」と、義経が顔色を変えたのもむりはない。
 好事魔多し、計(はか)りは寸前に破れやすいものという。
 「さては、破綻(はたん)か、事、露顕(ろけん)して、何ぞ凶事でも」
 と、かれの胸は早鐘をついている。
 かねがね、桜間ノ介を使いとし、平大納言との間には、微妙な計がしめし合
わせてある。もし、その発覚から、平家方が裏面の計を知ったなら、あすの戦
略も、急速に変更しなければならない、しかも、出動直前の今、ほとんど、そん
なことは不可能に近い。
 -が、かれの杞憂(きゆう)は、まもなく、思い過ごしであったと分かった。 
 やがて時実に会い、時実の口から、切々な願いを聞いた後にである。
 だが、一つの杞憂をぬぐわれた義経は、すぐ、次の杞憂に当面していた、
 時実は、父時忠の意をつたえて、
 「何とぞ、一筆(いつぴつ)の御誓書なりと、君と父とのお約束(つがえ)
のおことばを、神文(しんもん)に懸(か)けておしたため給わりとうぞんじ
まする。-父が申すには、それいただいて、疾くと立ち帰れ。やがては、国
もなく、国はあっても物いえぬ敗亡の遺臣となる身、誓書を持たでは、後
日、何を訴えようと、泣き言しか聞かれまい。-たって判官どのより一筆
の御誓書を乞うて参れと、かたく申しつかって参ったのです」
 と、眸(ひとみ)から全身にまで、懸命をこめた姿を、義経のまえに据(す
)えていった。いや頼みだった。
 無理はない。義経も思う。
 それも時忠父子の一身上などという小さいことではないのだ。
 相互のあいだに、黙約として懸けられている問題は、余りにも大きかった。
 神器のこと。
 みかど、女院、その他の人命のこと。
 ひいては、平家滅亡後の、未来へかけてのことまでが、ふくまれている
のである。
 あの思慮ふかい時忠が「決して、君を疑うにはあらねど、かほどなこと、
ぜひ一筆、熊野誓紙にお墨みをして賜(た)び給え」と、さきには桜間ノ介
を通して今また、子息の時実に危険をおかさせて、執拗にまで乞うてや
まないのも、道理なのである。
 -けれど、義経の立場もつらい。
 自分は兄頼朝の一代官にすぎぬ、鎌倉どのの意もまたず、後日に残る
誓書を、平家のたれへであろうと、書くわけにはゆかないと思う。
 また、軍監の梶原という者がある。梶原へは平大納言との密約のこと
は、一切話していなかった。諮(はか)れば、おそらくかれは口を極(きわ
)めて反対するだろう。すでに勝者の驕(おご)りをもって平家にのぞんで
いるかれだ。-亡(ほろ)ぶ者から条件をつけられたり、後日の約を与え
たり、そして亡ぶものの眷族(けんぞく)などへ憐愍(れんびん)をかけて
やるようなかれでないことは分かりすぎている。
 で、すべては、義経の胸三寸であった。
 それだけに、かれはひとりくるしい胸を抱いた。
 「さても、難儀。いかにせば?」
 義経は、はたと、眉を沈めた。
 何か非情な窮境(きゅうきょう)にたつと、爪を噛む癖が年少のころには
あった、その幼い癖が、ゆくりなくも、じっと考えこむかれの姿にふと出て
いた。
 「讃岐どの」
 やがて、熱を病む人の吐息のように。
 「もし、あくまで、誓書のこと、聞き届けできぬと義経が断ったら、いかが
なされるお考えか」
 「・・・・なんとしても、お聞き入れを得られぬなれば」
 時実は、おうむ返しにいいながら、その面をみるみる蒼白(そうはく)に、
眸は、相手の顔をとらえたまま、
 「ぜひもありません。武夫(もののふ)ならねば、腹切るすべは存じませ
ぬが、身を海に投じ、あすの戦いを前に、父母の魁(さきがけ)いたしまする」
 「「いや、いや」
 義経は、いそいで、かぶりを振った。そう察してはいたが、聞かされるの
は、辛かったからである。
 「あなたのお心を問うのではない。大納言時忠どのには、もしやのばあ
い、いかなる後図(こうと)やあるとお訊(き)きしたのだ」
 「父の存念はわかりませぬ。ただ、かねてより、父は出家入道(にゅうど
う)こそいたさねど、生涯は閉じたものと、思いきめておりまする。母の帥
(そつ)ノ局とて、おなじです。死なんは、いつでもと、覚悟に不足のない
両親とだけは、しかと申し上げられましょう」
 すると、時実のそばから桜間ノ介も、ことばを添えて、
 「実は、これへ参る直前、大理(だいり)どの(時忠)にも、船島を脱(ぬ)
け出て、赤間ヶ関の山手、臨海館の址(あと)へ、お身を隠されました。・・
・・すでに、平家の内にては、あすを前に、時忠卿御父子を、いっそ亡(な
)き者にせんという魔手のうごきが見えますので」
 「では早、薄々、あすの計を、知ったとみゆるな」
 「いやいや、それとはまだ覚ったわけであはありませぬ。-日ごろ、時
忠卿を憎しみ給う内大臣(おおい)の殿、能登殿あたりが、どさくさ紛れに、
自暴のお振舞いに出たものと思われまする。こよい十数名の刺客が船島に現
れ、すんでに危ういほどでおざった。そのための御居所変えにござります
る」
 こう聞いては、なおさら義経の胸は氷室(ひむろ)になった。思案に凍(こ
お)った。





















 先ほど、宅配便で、広島の娘から、父の日のプレゼントとして、サスペ
ンダーと、シャツが送られてきました。サスペンダーは、ズボンが下にず
れるのを防ぐには、ありがたいものです。早速、今、使用してみました。
なかなか快適です。シャツは、近いうちに着用しようと思っていましたが、
今すぐに着てみたくなりましたので着用し、庭に出て、昨日の、三友花の
挿し木と、時計草の取り木した鉢植えを、撮影してきました。気分は、上
々です。
 手紙が添えられてありました
 「いつもありがとうございます。サスペンダー使ってみてくださいね。ブロ
グ、絵、洋画、読書楽しんで頑張ってね。からだに気をつけて、こちらは皆
元気です」広島より。と、
 「ゆんちゃんいつも気を使ってくれ、ありがとうございます。哲哉先生に
もよろしく伝えてくださいね」
 家内の話では、11時ごろにゆんちゃんに電話をしたところ、広島球場へ、
野球観戦に行く途上だったそうです。
 さっそく、CSチャンネルを観ますと、今日のカードはソフトバンクとの
交流戦が、中継されていました。
現在、2対2と接戦の模様ですが、み贔屓(びいき)で広島に勝ってほしい
気がしています。

              サスペンダー
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             シャツ
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 2017年6月19日(月曜日)

 昨夜、風呂に入っていたころに。娘から電話があり、家内が話をしたよう
です。野球は、広島が負けたとのことです。しかし昨日午後のCS放送では、
広島が、きわどいプレイをしのぎ、勝利したというものでした。
 それで娘には、父の日のプレゼントの謝意と「広島が勝ってよかったね」と
メールをしていたのですが、
 小生が収録されたテレビ放送を、らいぶと勘違いして観戦していたことに気
がつきました。
 まったく、のんきなものです。
 今日の気温は、日中、30℃近くになるそうです。湿度が低いといいのですが
、どうでしょうか。

















 臨 海 館

 「や。さくらノ御(ご)か。・・・・この島にまだそんな女性(にょしょ
う)がいたとは、つい、忘れていた、忘れ物のように」
 時忠は苦笑した。かの女へちとむごい気がしたが、偽らぬ自分のつぶ
やきに自分でおかしくなったのだ。追いすがられて、その姿を見るまでは、
念頭になかったのである。
 「おなさけないおことばを。それでなくても心細さ恐ろしさ、人心地もな
く、四方(よも)の波ばかり見て泣き暮れておりましたのに」
 かの女は、時忠父子の足もとへ身を投げて、かき口説いた。
 こんな小島の洲に、ただひとりおき残されたら、生きてゆくすべもあるま
いと、狂おしげなうろたえを持って、追いすがって来たかの女であった。
 宗盛に疎(うと)まれて、猫の子でも捨てるようにこの小島へ移されて来
た日から、かの女は島に一つの漁小屋に身を寄せていた。
 それもつかのま、こよいの騒ぎを見たのだった。ふいに島へ上がって
きた一群の武者のため、小屋の老漁夫は斬(き)りすてられるし、娘の芦
屋は、時忠父子の家の厨(くりや)へ逃げ込んで、あのまま、そこの土間
に気を失ってしまったらしい。
 後からそこへ来たさくらノ局は、芦屋を介抱している間に、時忠の居間
に起こった騒ぎや後の密談まで、耳にしていた。当然、かの女は夜明け
とともに始まるらしい源平両陣の大船戦(おおふないくさ)の、今がただな
らぬ前夜であることを察した。それも一そうかの女の恐怖をつのらせたに
ちがいない。芦屋とともに時忠父子の後を追い「あわれ、わらわたちも、そ
のお舟にて、ともによそへ伴(ともの)うて給(た)べ」と泣きすがったわ
けだった。
 かの女とすれば、かほど必死であったのに、時忠からは「-わすれて
いた、忘れ物のように」といわれたので、悲しさに悲しさが加わり「・・お
情けない」と、慟哭(どうこく)したのもむりはない。
 前から知らない仲ではないのだ。かの女は幾度か、時忠父子を訪ねて
いる。そして、宗盛に疎まれた仔細(しさい)やら、身の上ばなしまでくど
くどと訴えたこともある。
 屋島へ来るまでは、紀州田辺の別当館(べっとうやかた)にいて、女王
のごとく侍(かしず)かれ、湛増法印(たんぞうほういん)の寵(ちょう)を
身ひとつにあつめ、また、その田辺水軍を、平家の味方へ引く裏工作のさ
いには―それはついに不成功には終わったが‐どんなに蔭で働いたかし
れないものを、という愚痴やらいきさつなども、時忠父子へは聞かせてあ
る。
 だのに、耳にもとめてくれなかったのか。宗盛からは捨て猫のようにさ
れ、時忠父子には芥(あくた)のように忘れ去られ、身も世もないといった
姿である。
 「はて。やっかいな」
 時忠は足もとへ、眼をくれて、舌打ちならした。「おりもおり、重荷に小づ
け」ともいいたげな当惑顔であった。
 「時実、なんとしよう。この、さくらノ御と、芦屋の身は」
 芦屋は不びんな娘でございまする」
 「そうだの。老舎の厨を朝夕に見舞うて、何かと、よう世話してくれた漁
小屋の親娘、情けには情けで報わねばすむまい。老爺(ろうや)の亡骸
(なきがら)と娘の身は、時忠の船にのせ、関の行く先へ連れて退(ひ)こ
う。あとは、さくらノ御一人」
 「さ?、・・・・われらが去れば、飛ぶ翼もないひとり雁(かり)のような
この女性、捨てて去るのも憐(あわ)れに思われますが」
 「しかし美しいゆえ、なお足手まといだ。今のばあい、慈悲のみいって
おられまい。時実、お汝(こと)は先を急げ、大事な使いぞ」
 「はいっ」
 小舟は、三艘ほど見える。
 すでに桜間ノ介は、その一そうの櫓柄(ろづか)を把って、時実が乗るのを
待っていた。
 -時実がそれへ向かって歩みかけた。
 すると、さくらノ局は、時実の袴のすそを抑えて、
 「時実さま。お願いです」
 と、ふたたび、必死となっていった。
 「湛増どのの船勢(ふなぜい)も、源氏の水軍に加わって、串崎に来ておりま
しょう。もう平家には愛想(あいそ)がつきました。元の田辺の別当どのの許
(もと)へ帰りたい・・・・・。時実さま。あなたも、どうせ源氏の陣へ
ひそかなお使いで向かわれるのではございませぬか。その舟へ、わらわも乗
せて、同じ捨てるものなら源氏の中で、この身をお捨てくださいませ」
 かの女のさけびは、本性から出た本音(ほんね)というものだろう今と
なっては、湛増の許へ、帰りたくて仕方がないにちがいない。
 自分一身のほかは、何ものも考えられない女なのである。こういう女の
取り乱しを見ると、時忠も思い直さずにいられなかった。
 自分たちが去った後、もし平家のたれかがここへ上がって来たら、この
女はまた、置き去りにされた恨みからも、こよい見聞きしたことすべてを
しゃべりちらすに相違ない。
 懸念は多分にある。
 といって、この驕慢(きょうまん)で無恥そのものでしかない女などを、斬
って去る気にもなれなかった。時忠は、ただ当惑顔な時実へ、ついにいって
しまった。
 「やれ、面倒な、そのさくらノ御。いっそのこと、舟底へ乗せてゆき、臨
みの場所へ捨ててやれい」
 「では」
 「おお。そして女の被衣(かずき)を、お汝(こと)が身に引っ被(かず)き、
早鞆の瀬戸のかためを、紛れて通るもよかろうぞ。万一物見舟に見とが
められても、ただ顫(わなな)き伏しておれば、そこは、介が巧みにいい遁
(のが)れよう」
 「それも一策」
 と、桜間ノ介も、小舟からいった。
 からくも、かの女はその中へ拾い込まれた。-被衣は時忠が取って頭
から深くかぶり、はやくも漕(こ)ぎ出る波上から、父の影へ、
 「くれぐれ、こなたの先は、お案じ給わりますな。いずれ、吉左右(きつそ
う)は、明朝までに」
 と、振り返っていった。
 -明朝までに。
 子は告げて、漕ぎ去ったが、時忠の親心は、見送らずにいられなかっ
た。あるいは、今の声が、父子永遠の別れかもしれないと思う。
 「・・・・おお。われとても、こうしてはいられぬ身」
 時忠もすぐ後ろからべつな舟に乗った。
 芦屋をいたわりながら、一つ舟へ抱え乗せて、櫓手(ろしゅ)の兵や、ほ
かの一そうへ乗った案内の兵へ向かって、
 「急いでくれい。介が申した所へ」
 と、うながした。
 さきの時実の影は、東の遠くへかき消えて行ったが、時忠の舟は、間
近な北の対岸へ舳(みよし)を向け、まもなく、赤間ヶ関の町屋を離れた
磯の一端へ、漕ぎよせていた。
 「・・・・どこぞ」
 「しばし、お歩(ひろ)いを願いまする」
 十数名の小勢だが、油断のない眼と身構えが一人一人の兵に見える。
時忠の身を他へ隠してそれの護衛に当たるという大任であるだけに、阿
波民部の部下の内でも選ばれた者たちに違いなかった。
 

やがて町中へかかった。平家勢は退き、源氏の兵馬も見えず、もちろん、
住民はみな避難している。屋根の一つ一つも墓標が並んでいるような絶
息した町でしかない。たまたま、うごめく物影があれば、死に瀕(ひん)し
ている病人か野良犬であった。
 -が、どこかでは、赤黒い煙がなお夜空をただらしてい、そしてどこに
も、雄叫びは聞こえないのだ。避難した住民が、拾うまもなくこぼして行っ
たらしい子どもの雑衣(ぼろ)やら食器の破片が路面に見られた。蹴(け)
ちらされた馬糞(ばふん)、弓の折れ、捨て兜(かぶと)など「ああ合戦な
のだ」と、今さらのように、無人の町の不気味さが肌にせまる。
 道は、町の後ろ山へはいって行く。いや道もないやみもあった。かなり
高くへ来たと思う。たった今、小舟を乗りすてた磯の白い水際が、雑木越
しの眼の下に見える。
 「かしこに見ゆる古館(ふるだち)が、ご案内せよと申しつかった所でご
ざいますが」
 兵の頭(かしら)が、指さして、時忠をかえりみた。
 「あれが、臨海館の址(あと)か」
 一変した山風のなかに佇(たたず)んで、時忠は、あたりの巒気(らんき
)と、胸の焦燥の不調和に、やや立ち惑う風だった。
 「-ここが、その址なれば、天智紀(てんじき)に、長門の城(き)、と
見ゆる古き由緒の址もこの辺か・・・・・」
 かれのつぶやきは、かれの古い記憶から呼び起こされていたらしい。
 かれがまだ若いころの知人に、少納言藤原信西(しょうなごんふじわら
しんざい)という者があった。
 故入道とは、無二の友であり、平家一門の発祥にとっては、忘れられな
い人でもある。
 信西は、乱の張本人に擬(ぎ)せられ、その終りは非業(ひごう)な最期
(さいご)、をとげたが、しかし博学多才なこと、当時の左府頼長といずれ
かといわれたものだった。
 かつて、その少納言信西が、大宰府に使いした途中、この赤間ヶ関に
泊って、
  遊、長州臨海館(ちょうしゅうりんかいくわんにあそぶ)
  という一詩を都の友へ寄せてきたことがある。
  時忠は今、それを憶(おも)い出したのだ。
  信西の詩は、たしか七言八絶(しちごんはちぜつ)で、詩句の初めは
  忘れたが、

    郷涙数行湖月下   (きやうるゐすうかうこげつのした)
    客遊千里楚雲西   (きゃくいうせんりそうんのにし)
  とか。

    洞中雨餐暮雲近   (どうちゅうのうさんぼうんちかく)
    海角浪平秋漢低   (かいかくろうへいしゅうかんひくし)
    遙 憶 洛陽詩酒友 (はるかにおもふらくやうししゅのとも)
    独吟独 酌 待村鶏 (どくぎんどくしゃくしてそんけいをまつ)

 など、きれぎれな詩句が、時忠の胸を往来した。
 その人も亡(な)く、世は三十年の有為転変(ういてんぺん)をつげてき
たが、信西がこの地方に来たころは、その詩題にもあるとおり、臨海館も、
繁栄していたにちがいない。海外の使節や蕃客(ばんきゃく)を迎える公
(おおやけ)な旅館として、夜ごと、美しい灯を海峡の波映(はえい)に見
せ、埠頭(ふとう)の酒家には鄙(ひな)びた管弦や脂粉(しふん)の香が
漂い、朝は後朝(きぬぎぬ)の別れを惜しむ男女やら駅路の鈴の音に賑
(にぎ)わっていたことであろう。
 それが。
 今は、ただ見る。死のやみと、不気味な海(うな)ばらだ。人の生の営み
はこの天地には息もしていないかのようである。
 生業(たつき)を失った無数の人びとは、どこへ戦火を避けて隠れたの
か。この暗黒はきのうきょうのことだろうが、赤間ヶ関の淋(さび)れは、
ここが戦場となり始めた去年以来の荒廃にちがいない。「-罪なことでは
ある」と、時忠は浩嘆(こうたん)せずにいられない。
 かれは元来、庶民なるものを、上流では隋一に知っていた。-貧しい
公卿の子に生まれ、ちまたの不良児となり、ひとしく貧乏平氏のせがれだ
った若き平太清盛とは、ともにわんわん市場を歩いたり、賭(か)け鶏に
血みちを上げた時代もある。
 運命ほど奇なものはない。そのかれがきょう、ひとりたれも行きえない
荊棘(いばら)の道を、平家の未来のために歩もうとしていた。道は死よ
り険(けわ)しく、辱にも飢えにも耐えきる意志がなくてはできない。屋島
このかた、かれは、その穏忍をし通して来た。しかし時忠は、くじけない。
 -こうして今夜もなお最後のねばりは失っていない。それはかれが元
来、堂上の長袖ではなく、平家の二世三世の公達ともちがうところであっ
たろう。弱冠にもった市井(しせい)の浮浪児的な背骨と、苦労人的な世間
観などが、かれ自身も気づかない性情の中に、いま黙々とそれが働き出
していたものといってよい。

 一葉(いちよう)の舟(ふね)

 「お。・・・・・ここだな、臨海館とは」
 時忠は、再び立ちどまった。
 異国の客をもてなす迎賓の公館は、北陸にもあり、都にもある。有名な
鴻臚館(こうろかん)など、それであった。
 ここの臨海館も、かつての日には、宋朝の使節や高麗(こうらい)の客
が、貢(みつ)ぎのことや、貿易上の商談などで来朝するごとには、さぞ賑
わったことだろうと思われる。
 が、いま立ってみれば、ほとんど荒廃しきっている。もちろん、たれ住む
人とてないらしい。
 「いざ、こなたへ」
 兵の頭(かしら)は先に立ってゆく。
 「人はおるのか」
 「おりませぬ。もしおれば、浮浪の徒か、戦いを避けている女子どもか。
いやそれも、こんな不気味な古館にはおりますまい」
 「広いのう。棟(むね)ごとの廂(ひさし)もみな朽ちてはおるが」
 「狐狸(こり)の住みかとは、かくの如き物をいうのかもしれませぬ」
 「はははは。仮のねぐらをここに求めてきたものも、人間の狐狸の類(た
ぐい)と見られるような。能登や内大臣(おおい)の殿にいわせれば・・・」
 返辞に困ったものとみえ、兵の頭は、それなり黙って、なお奥まった所
へ、踏みすすんで行った。
 見晴らしのよい―といっても視界は一望暗黒の壁だがー
 一室を見とどけて来て、兵の頭は、
 「当座、ここにおわせられませ。ここは崖の大樹の蔭ではあり、どこから
も、ちょっと、気づかれぬ一間でもございまする」
 「ここか」
 と、時忠はすわってみて、
 「いや島の牢舎にくらぶれば、荒れてはおれど金殿玉楼といってよい。
わけていながら小瀬戸、大瀬戸。東には早鞆(はやとも)ノ瀬戸まで、一
望にできる」
 「では、兵五名を外に残しおき、あとの輩(やから)は浜べに出て、何か
の変(へん)あるごとに、使いを走らせますゆえ、さようお心得おきを」
 「大儀だった。手枕でひと休み、寝ておきたい。海上に変が見えたら、た
だちに告げてくれよ」
 「心得ました」
 「それに、時実と、介の行った先だが」
 「は」
 「彼らの吉左右も、案じられる。首尾よく、早鞆の瀬戸を越え出たかどう
か」
 「その儀なれば、磯づたいに、壇ノ浦まで、物見を放てば、すぐ知れまし
ょう。追っつけ、そのことも、これへお伝え申しあげましょう」
 兵の頭は、部下五人ほどを、附近の林の中に残し、元の道を、馳け下
がって行った。
 時忠は、一亭の内にすわって、身の位置を取りえたと思うと、何かは知
らず、後ろめたい孤独感と寂寥(せきりょう)にくるまれた。こうして、一門
の決戦を戦いの外で、傍観しているということの辛さであった。同族ととも
に死所につくよりも、ここの位置は、苛烈(かれつ)な未来の煉獄(れんご
く)を約し、また、死に勝る意義をもつものだとは、自身へいってみるもの
の、世間の嘲罵(ちょうば)だの冷たい眼が、もう、そくそくと身のまわりに
感じられてくる。
 「ああ、まだ覚悟が足りない。そんなことで、どうしてこの先―」
 時忠は、自分を、人間同士の闘争のうえにおこうとした。同族とその敵
との戦争に、冷血であろうとした。帰結はかれに分かっていた。死ぬ者は
死ぬであろう。これ以上、術(すべ)なき心を煩(わずら)うまい。期する目
的に揺(ゆ)るぐまいと、思った。
 「お。そこにいたのか」
  ふとかれは、片隅に入る芦屋に気づいた。悄然(しょうぜん)と、かの女
はただすわっていた。そしておりおり、死んだ老父を思うのか、袂(たもと)
で涙の顔をふいていた。
 「さてもあわれ」
 と見たが、また、
 「・・・・・・・うらやましくもある身かな」
 とも、時忠には、ながめられる。
 「芦屋。・・・・・淋しいか。長い戦いではない。やがて、下の町屋根へも、
じきに平和な陽がさすであろう。それまでの辛抱ぞ」
 「・・・・はい」
 「合戦がすまば、そなたの老父の死もねんごろに弔ろうて進(しん)ぜよ
う。そなたが身の落ち着きも、考えてつかわそう。案じぬがよい。さは泣
くな。若い身そらを、泣き窶(やつ)れさすまい」
 いいつつ、時忠は、そこに繞(めぐ)らしてある小縁の低い欄干へ、身を
もたせかけた。
 すると、欄も朽ちていたにちがいない。体の重みで、もろくも、欄の一端
がぐらと動いた。
 「あっ、あぶない」
 時忠も思わずいい、慰められていた芦屋も、われを忘れて、小さい声を
たてた。
 腐った木片が、小縁の下へ、音をさせて落ちて行った。亭は、崖に臨ん
でい、崖の下にも、一亭の茅(かや)屋根が見えた。
 おそらく、そのことがなかったら、どっちも気づかずに終わっていたかも
しれない。-ふと、下の屋根の内でも、破れ戸を開けるような音がしていた。
 同時に、薄い灯影が、そこから外へ映(さ)した。あきらかに、たれか人
間がいた証拠といえよう。-時忠は、ぎょっとして、少し身を後ろへ退いた。
こちらには、灯影はない。
 「なんだ?、今の物音は」
 と下でいっている。
 のぶとい声柄だ。
 すると、それとはべつな声が、どこかで。
 「また、むささびの悪戯(いたずら)か、山猫かなんぞであろう。はやくそ
こは閉めたがいいぞ。こんな晩だ、微かな灯でも、遠目に知れる」
 「いや、遠目の心配よりも、どこか近くで、女の声がしたような気がする
のだが」
 「はははは、おぬし女に飢えているので、物(もの)の怪(け)の啼き声ま
で、それと耳に聞こえるのじゃないか」  
 「ばかな。・・・・・」と、いちど、のぶとい声はやんで、しんとしていたが、
 「蟹丸、蟹丸」と、召使いの童(わらべ)でも呼んでいるらしく、ほどなく
また、上の時忠の方へまで、こんな声が聞こえていた。
 「蟹丸、見て参れ。この上の亭の辺りで人の気配がするのだ。どうも気
になる。そっと、見とどけて来い」
 「はい」
 蟹丸というのは、たしか朱鼻(あけはな)の伴卜の侍童であった。「はい
」といったのが、その蟹丸とすれば、一方の声は、かれのあるじの伴卜と
するほかはない。
 平家が屋島を去って後、伴卜は小荷駄(こにだ)に持ち物を積ませ、陸
路を丸亀へくだり、丸亀から便船で周防から長門へ渡ったはずである。
 蟹丸を加え、その時の同行は三人だった。もう一人はいうまでもなく、奥
州の吉次。
 -今、崖下でした話し声の一人が、それかもわからない。まろみのない
奥州ことばには特徴があり、調子もどこか吉次に似ていた。
 いずれにせよ、蟹丸と呼ばれた侍童は、あるじの命に従って、こっそり
時忠の一亭をうかがい見、やがて見た通りを復命していたものだろう。
 けれど、時忠の方は、それなり無関心だった。そんな輩(やから)が自
分を気にしていたとは思いもしない風であった。
 時忠には、今や一切が些事(さじ)に見えた。
 ただ、今夜からあすへ循環してゆく宇宙の眼に見えぬ、時の歯車だけ
が、かれの、胸をも刻々にきざんでいた。 
-先に別れた一子時実の吉左右もいかにと、待ちわびられて、ただ祈る
がごとき面もちで星を見ていた。見えぬ海の遠くをひたすらに凝視してい
た。

 わけて、そこのみが、激潮だった。異様なまでの狂瀾(きょうらん)と、潮
(うしお)の吠えを、夜のわだつみの一部にたぎり出していた。
 名にしおう早鞆の瀬戸とは、ここ。
 -そこへかかるやいな、まるで木の葉の一片に似た小舟は、巨大な洞
(ほら)へ吸い込まれて行くように見えた。
 白い波光りが、めちゃくちゃに、舷(ふなべり)を打ち、櫓手の櫓などは
まるで用をなさない。ただ翻弄され、流されてゆくのみである。時には、渦
にはいって、渦を脱しきれないかのように、その影がもがいていた。
 「おおういっ。おおういっ」
 「どこへ行く舟ぞ」
 「その小舟。しばし待て」
 文字ヶ関の鼻に隠れていた平家方の哨戒船(しょうかいせん)にちがい
ない。数隻が追いかけた。
 しかし、かれらの兵船が、七挺(ちょう)立て十挺立ての櫓数(ろかず)を
備えているにかかわらず、それには耳もかさず通り抜けて行った小舟の
方が、はるかに迅(はや)かった。
 おりふし、潮時刻は、西から東の瀬戸へと、落潮を急にしていた。むく
むくと奔流(ほんりゅう)の相をけわしくしている水路だった。小舟の影は、
矢といってよい。その早潮に乗りつつ、小舟は壇ノ浦にそい、やがてのこ
と、満珠・千珠二島の沖まで、ついに来ていた。
 「讃岐どの。もう御心配はございませぬ。―ここまで来れば」
 桜間ノ介は、ほっと大息ついて、櫓の手をやすめた。
 時実は、潮に濡れた被衣を、跳(は)ねて。
 「ああ、天の助けよ。壇ノ浦も過ぎているか」
 「早、乗りこえました。いかに、平家船が追わんとしても、ここらはすで
に、源氏方の船手の陣。もう来もしませぬ」
 「あれは、満珠・干珠の島影と見ゆるが」
 「そうです。御覧(ごろう)じあれ、あの島蔭やら、串崎の蔭に」
 「むむ、船勢の篝(かが)り火よの。-判官どのの御舟はいずれともわ
からねど、ともあれ、急いで漕げ、介どの」
 「心得まいた。・・・・が、それより先に、さくらノ御を、どこか近くの磯
べにでも、捨ててやらねばなりますまい」
 「げにも」
 時実は、見まわした。そして、舟底にうつ伏しているかの女を抱え起こ
していった。
 「さくらノ御。ここは、そなたが望みの源氏の陣所に近いところぞ。さ、上
がるがよい。そこの磯へ」
 小舟は、磯へ近づいていた。
 串崎の鼻の西側らしい。
 ところが、磯を見ると、かの女はまた持ち前のわがままをいってぐずね
出した。湛増(たんぞう)の乗っている田辺水軍を尋ねて、そこまで送って
くれといのである。
 介は、腹を立てて、
 「ばかな」
 とばかり、うごかぬかの女をむりに起たせた。そして、舟から磯へ追い
上げよとしていると、たちまち付近の磯山からわらわら馳け下りてくる源
氏方の小隊が見えた。
 「何者だっ」
 兵は、小舟の前に、長柄の光をならべ、特に、さくらノ局の姿を、いぶか
しそうに睨(ね)めつけた。
 -と、それまでは、ただ哀訴の声をしぼって、舟から離れようともしなか
ったかの女が、やにわに、
 「そこへ来たは、源氏のつわものか」
 と、われから磯へ降り立った。そして、
 「源氏の武者なれば、よう知りつろう。わらわは田辺湛増どのが身近な
者。田辺水軍のおる磯かその船まで、わらわが身を、送りとどけて給(た
)も」
 と、横柄(おうへい)にいった。
 介ノ能遠(よしとお)は、これ幸いと。
 「女性のことばに相違おざらぬ。湛増どののおん許(もと)まで送り届け
ていただきたい。また、かく申すわれらは、仔細(しさい)あって、密書、判
官どののお舟までまかる者でおざる。・・・・・・・・と申すのみにては、御不
審であろうゆえ、名のみは名のり申す」
 と、あからさまに、かれも姓を明かし、、また、もう一人は平大納言どの
の子息、讃岐中将時実であることも告げた。
 兵たちは、事重大でと見たか「しばし待たれよ」と、どこかへ一人走って
行った。ほどなく、武将らしい者が見え、入念に、訊問(じんもん)をかさ
ねた末、
 「では、御両所の身は、判官どののお舟まで、われらの兵船でお送りし
よう。また女性の方は、湛増どのへ、お伺いの使いを立て、そのうえ、い
ずれとも、湛増どのの御意にまかせん」
 と、裁決した。
 附近の浦に、兵船が見える、介ノ能遠と時実は、それへ移された。さな
がら、兵の甲冑(かっちゅう)と矛(ほこ)の下に埋まって行くようなものだ
った。
 船は、浦の鼻を巡って、串崎の北側へまわった。すると、景観は一変し
ていた。なんといったらよいか。ただ見る船、船、船、何百隻ともしれない
大小の船影である。しかも磯いちめん、不知火(しらぬい)とも見える灯の
戦(そよ)ぎが海の眠りを醒(さ)ましてい、人もただならぬ動きをその中に
潜めている様子であった。
















 三友花の真っ白な花を見ると、埼玉県川越市、岩手県水沢市、それに青
森市への長期出張にも、小生と一緒に旅をし、小生の行動を見ていてくれ
た唯一の花であり、そのころの旅を思い出させてくれます。

            三友花の親木   2017.06.10撮影
CIMG0004











































 昨年も、三友花の親は、寒さに弱いため小生の部屋で冬季を、過ごしま
した。
 その時、親の小枝を切って、新たな鉢に挿し木をしました。
 挿し木は、順調に育ち、部屋の中で花を咲かせるまでに根付いたようで
す。

              三友花の挿し木が生育 2017.06.07撮影
CIMG0055


































そして、春になってから、親子ともども外の庭へ出しました。太陽が大好き
で、暑さには、めっぽう強い木です
 真っ白な花の薫りは、えもいわれぬものがあります。
 きょう、一つの鉢に挿し木をしていた三友花を、配合した土を六個の鉢
に入れ、それぞれに移植し終えました。
 配合した土は、黒土、赤玉土。鹿沼土、培養土、それに腐葉土です。
 葉の色にも艶があり、すでに花を咲かせている木も一鉢あります。

     三友花(第1子から6子) 2017.06.09撮影
CIMG0001

















 2017年6月12日(月曜日)

 鉢の小分けをした、三友花の子は、順調に生育をしています。


      三友花の挿し木が生育 2017.06.12撮影   
CIMG0005



















 2017年6月12日(月曜日)

 家内が、近所の奥さんと話しあって、三友花の親から、挿し木した子ども
である三友花を一鉢、プレゼントするといいますので、小生も、快諾をしま
した。
 今のところ、あと三鉢、知り合いの方へ、引き取っていただこうと考えて
います。
 
 2017年6月18日(日曜日)

 昨夕、家内が、木の選定や、鉢植え植物の植え替えなどを行っていました
ので、小生も便乗して、鹿沼土や、赤玉土、それと腐葉土、培養土などを配
合し、鉢に入れてから、時計草をもう一鉢に取り木をしました。、それに三友
花を、新たに挿し木してみました。

 親木の、一番高い場所に出ている枝を、挿し木したものです。

             三友花の挿し木  2017.06.18 撮影
CIMG0002


























 2017年6月20日(火曜日)

 
 三友花の子ども一鉢は、今日、家内のテニス仲間の一人にプレゼントされ
ました。
 真っ白の花で、香りもいいので、大事にされ、すくすく生長することでしょう。

 一昨日のこと、普段は、あまりテレビを見ないのですが、食後の時間帯に、
「人間の血中鉄分の濃度について・・・・」をテーマとした、家内が毎週見て
いる関連番組が放映されていました。
 それは、鉄分が、日本人は、不足している国だと報じてるのです。鉄分が
豊富で、人間の体に吸収されやすい食べ物は、肉とかレバーであって、日
本人にも欠かせない野菜、特にホウレンソウなどは意外でしたが、鉄分が体
に吸収されにくい食物だと、出演している医師が専門的に述べていました。

 それでは、鉄分を世界で一番多く摂取している国はどこかといいますと
、アメリカだそうです。それは、過去のアメリカ人の体は、鉄分不足で、健
康障害が多く、虚弱体質でしたが、国が体質改善を目指して、ある時期から、
小麦粉の中に、鉄の成分を一定の割合で配合させることを義務付け、今も
法律で定めているといいます。アメリカ人は、パンと、肉を多く食する人種です
ので、世界一の鉄分摂取国だということが納得できました。

 また、カンボジアでは、鉄分の摂取方法として、例えば、鍋に水を入れる
と同時に、鉄の魚を模した形の塊を一緒に鍋に入れ、沸騰させてから、川
魚のような切り身を、塩で味付けし、煮附ていました。これによって、その汁
の中にも、鉄分が溶け出していて、魚と一緒に汁も食すと、体に鉄分が、十
分補給できるというものでした。

 血中の鉄分は、ヘモグロビンと結びついて、酸素を体の隅々まで運ぶの
で、肩こりや頭痛などを改善するといいます。
昔から、ほうれん草は鉄分が豊富で、食すると増血作用もあると聞いてい
ますが、それ一つを取りあげても、多くの効能があることに気が付きます。
 ふと、昨日も、家内に、「鉄の塊は、どこに売っているのかなあ、我が家
でもカンボジア式で料理を作ってみようよ」といったばかりでした。

 午前中家内は、京王百貨店へ、買い物へ行ったついでに、食器売り場に
行き、「料理に使う、鉄はありますか」と、訊いてみたといいます。すると、
店員がいわれるには、「売り切れです」との答えでしたので、予約をしてき
たといいます。一昨日の情報が、流れた証拠でしょうか。

 また、料理に、鉄鍋(なべ)を使用するだけでも、効果があるといいます。
盛岡の南部鉄の、鉄瓶など、これを使用したお茶を飲むと、鉄分が出て体
に良いとは、以前盛岡の手前の、「水沢江刺駅前」の物産館で耳にはして
いましたが、具体的な鉄分の、働きを知らなかったため、また、知ろうとしな
かったものです。
 水沢江刺といいますと、つらく厳しい仕事であったことを、思い出していま
す。それでも、今はいい思い出に変化しつつあるようです。

 2017年6月10日(土曜日)

 今日も日中は、31℃まで気温が、上昇し、梅雨とは思えない気候です。
小生は、朝から、音楽を聴きながら、絵を描いて過ごしました。
 予約をしておいた、鉄の塊のことですが、「入荷しました」との連絡を受け
家内が引き取りに、京王百貨店まで、行ってくれました。
 広島の娘と、千葉在住の娘にもと、併せて3個購入してくれました。
 鉄の入ったは箱の中の、説明書を読みますと、南部鉄を使用し、前記の
ような、効能がしたためられています。この鉄の塊の重さを、実測した結果、
200g/個でした。
 さっそく、家内が、夕食の味噌汁を作る際、使用したとのことでした。
 ご飯を炊くときに、一緒にこの鉄の塊を入れても、効果が期待できるそう
です。

                      容器の中に納まった 南部鉄の塊
CIMG0002















 夕食の片づけで、家内が食器を洗っていたところ、流し用の排水管が、
徐々につまりだし、ついに流れが止まってしまったのです。いつもの工務
店へ、21時前でしたが、電話をしますと、配水管のユニオン継ぎ手を外
してみて、詰まりの状態を調べてくださいとのことでした。
 排水管の材質は、塩ビ管ですが、U字管が下向きと上向きにユニオン
継ぎ手で、接続された排水管です。そのユニオン継ぎ手を3か所外しまし
たが、口径30ミリくらいのフレキシブルチューブ(巻)の中が、泥状の異物
が堆積し、閉塞(じぇいそく)状態でした。
 その旨を工務店の方に話ますと、これは、高圧洗浄が必要といわれ、業
者を紹介していただきました。
 さっそく電話をした所、明日(6月6日)の朝9時に、業者の方が、処置に
来てくださることになりました。ひと安心です。
 家内の話では、ふろ場と、洗面所、それにトイレは、洗浄剤を使っている
らしく、台所については、その洗浄剤を使った事がなかったとのことです。
大きめの厨芥は、メッシュの細かい網があり、ここで除去しますから、大丈
夫だと考えていたそうです。もちろん自分も同感でした。
 普段、何気なく使用している、洗い場も、このようなアクシデントが起こる
と、即生活に支障が出てくるということを、改めて思いました。

          台所流し用排水管 
CIMG0045


































 2017年6月7日(水曜日)

 朝9時前に、業者の方が、訪れ、前夜、家内が排水管を掃除した様子などを
話しますと、下部U字管のブロー用キャップを外し、水抜きをした後、口径3
0ミリくらいのフレキシブル(自在)配管を外しました。その管の中には、泥状
の異物が、ぎっしり詰まっていましたので、それを業者の方は自分の車に持っ
て行き、掃除を施したようです。
 そして、台所から外部で埋設になっている排水桝(ます)までの道中を、先
端が回転する冶具で、掃除をした後、復旧して完了でした。前の日に、U字管
を外し、掃除をしておいてよかったと思いました。
 最近では、お湯と、水の切り替えが出来る。給水栓を交換し、今度は排水管
のメンテナンスが出来ましたで、これで、安心して、快適な生活が、そしてお
いしい料理が増々期待出来ると、思っています。










 昨年、4月4日の時点では、ぎょりゅう梅の花は満開で、しかも長期間に
わたって、寒い時期であっても、花を保ち、目の保養に寄与してくれました。
ところが、今年4月中旬頃から、土の表面を覆っていた苔も茶色くなり、徐
々に、木の葉に元気がなくなり、茶色が目立つようになってきました。
 このため思い切って、大きめの鉢に、鹿沼土と、赤玉土、腐葉土それに、
一般土を配合し、植え替えを行って、再生を図ろうと考えました。
 現在、北の庭に、直射日光を避け、置いていますが、今は、細い緑の葉
が、わずかに顔を出している状態です。

         ぎょりゅう梅  2017.5.30 撮影
CIMG0001
































  2017年6月5日(月曜日)

 今朝裏の庭へ、様子を見に行きますと、少し緑の葉が増えつつあるよう
です。もしかすると、復活するかもしれません。
 
 2017年6月12日(月曜日)

 裏庭の、ぎょりゅう梅は、緑の葉が少し増えてきました。下の小枝には、
まだ新しい葉がありません。
 2,3日前に、栄養剤をやってみました。

         ぎょりゅう梅  2017.06.12 撮影 
CIMG0003
 

 前 夜 変

 -時実は、父の冷静な制止など、耳にもはいらないふうだった。
 この親へ、ふたりとない父へ、危害を加えようとする敵への、それは本
能的な子の反撃と守りであった。また相手の卑劣(ひれつ)手段(しゅだん
)へのいきどおりでもあった。生命の明滅(めいめつ)にせまる時の生き
物に見られるあのなんともいえない全身をそそけ立てた形相が、日ごろ
やさしい時実にも見られた。
 「・・・・・すわれと申すに」
 父の時忠は、その子の姿へ、かさねて、こう叱咤(しった)をかぶせた。
 「下におれ、時実。おれが、こうしておるのに、なぜすわらぬ」
 「はっ。・・・・・・」
 「すわれ、すわれ」
 「は、はいっ」
 やむなく、腰を落としたものの、手は刀の柄(つか)から離れていない。
縁をへだてた外のやみを睨(にら)まえ、そこらの獣じみた眼光の持ち主
や刃(やいば)の影へ、なお油断はしなかった。
 -だが、時実はすわっても、その狂刃と鬼影を、あからさまにした刺客
どもは、相手のことばなどに、耳はかしていないだろう。それは時忠も覚
悟し、時実も予期していた。ひとたび、かれらの土足が縁を躍り上がって
来たらそれまでという観念を前提として、父子とも、無抵抗の意思を並べ
て見せたのである。
 いや時実の方は、終始、自若(じじゃく)たるままの父に倣(なら)っ
て、からくも、自分を抑えていたというべきであった。
 「・・・・・・・・」
 すると、張りつめた空間に、突然、些細(ささい)な気配がうごいた。
  縁の端れであった。そこから、内の灯をうかがいつつ、抜刀(ぬきみ)
を背へひそめて、そろーとはい進みかけていた刺客の一武者がある。
 -と、逸(いち)早く、時忠の眼が、はたと睨(ね)めすえた。すると武
者は、にわかに、ためらいを示し、大きな尻を、意気地なく、再び後ろの
仲間の蔭へ、もそもそ後退(あとずさ)りし始めていたのだった。
 「兼丸(かねまる)ではないか。いま、しゃっ面を見せたるは、伊丹権五
郎(いたみのごんごろう)兼丸に相違あるまい。兼丸、これへ出よ」
 それへ向かって、時忠が、咄嗟(とっさ)に浴びせたのをきっかけに、や
みの中で、具足と具足の影がザザと金属音を立てて揺(ゆ)れ合った。
 「-懸(かか)れっ。なにを猶予(ゆうよ)」
 たれかが、そこらで、こう怒鳴る。
だがなお、無下におどり上がって来る者もない。閃々(せんせん)と白い
凶刃が、依然、時忠の居室を包囲しているだけであった。
 時忠は、また、いった。
 「喚(わめ)いたる声の主(ぬし)は、吹田次郎吉勝(すいたのじろうよし
かつ)よな。吉勝、面(つら)見せよ。兼丸これへ出よ。-いかに紛(まぎ)
れおろうと、日ごろ、見覚え聞き覚えあるなんじらを、など、知らずにおる
べきや。これへぬかずき出て、物申せ両人」
 「・・・・・・・」
 「下臈(げろう)の分際(ぶんざい)にて、時忠父子を、やみ討ちせんな
どとは、身にすぎた業(わざ)よ。さすが気怯(お)じて、面もせせりだせ
ぬと申すか。-さりとて吉勝、兼丸もみな能登守が郎党ぞ。問わでも知れた
こと。なんじらをさし向けたるは能登守教経と申す主人であろうが」
 「・・・・・・・」
 「いかなれば、この時忠を、殺さんとするか。主命の旨は、なんじらも聞
き及んで来たことであろう。その旨を申せ」
 「・・・・・・・」
 「もし、能登の申すこと正しくば、何とて、命を惜しもう。この首を、くれ
てやる。だが、一の理由(ことわけ)も聞かず、やみ討ち同様な手にかかっ
て死ぬわけにはゆかぬ。まず、聞こう。申してみよ、その旨を」

ずかずかと、灯影のさきへ出て、時忠の視線の前に、突っ立った武者が
ある。
 権五郎兼丸でもなし、吹田次郎でもなかった。
 この手の者の頭(かしら)とみえて、
 「さらば、物申さん」
 と、内へ向かって、傲然(ごうぜん)と答えた。
 「-やみ討ちやみ討ちと仰せあるが、騙(だま)し討ってお首を挙げんと
は致さぬ。また、理由いかにとのお質(ただ)しなれど、それこそ、お胸に
問い給え。人に訊(き)かずとも、御自身のお胸のうちに」
 「だまれ。-なんじは、たれか」
 「お察しの如き者で候。すなわち、能登守どの船手にありて、一艘の櫓
座(ろざ)の頭をうけたまわる八坂鬼藤次(やさかのきとうじ)と申す者」
 「鬼藤次ずれの雑色(ぞうしき)をさし向け、時忠の首を申し請(う)け
んなど、すでに能登の企みには、理も非もない。日ごろの礼も忘れ、平家
の先を思うわきまえも、見失ったか。立ち帰って申すがよい。能登は能登
の死所に就(つ)け、時忠は時忠の生に就かんと」
 「しゃっ、そのお首も受けず、むざと帰られようか。以前は、なんであれ、
御一門の指弾をうけて、離れ小島の牢舎に捨てられた囚人(めしゅうど)
同様な御父子ではないか。いうならば、その御一門でありながら、源氏へ
心をを通わせ、ひそかに二心を抱く憎きお人。-このうえ、みれんを構え
給うなら、是非もおざらぬ。騙し討ちには仕らねど、ねじ伏せて、お首を
いただくまでのこと」
 「そうせいと、能登のさしずか」
 「おろかな訊(たず)ねを」
 「あわれや能登。最後の大戦(おおいくさ)に臨まん前に、はや逆上を
見せしよの。-平家に殉じて死なんとの信念なれば、それも立派ぞ。な
ぜ他を顧(かえり)みるか。われ一個では、潔(いさぎよ)く笑って死所へ
赴(ゆ)けぬのか。・・・・・女童(おみなわらべ)からこの無用人までも、
ことごとく死神の手に抱き込ませ、ともに死なせねば、わがが身も死にか
ねるような小さい量見でいるとみゆる」
 「な、なにを」
 「待て、鬼藤次。いまの一言を、しかと能登の耳へ告げよ。能登にとっ
ては、時忠は叔父、年もはるか上、かれが一途な雄心(おごころ)は憎み
も得ぬ。・・・・・・・いやいや、人は能登を、ただ猛(たけ)き荒公達(あら
きんだち)とのみいいはやせど、心根の直(すぐ)さ、武士(ますらお)
らしさ、叔父のわれもひそかには、よい甥(おい)かなと、心では愛(め)で
讃(たた)えておったるぞ。時には惚(ほ)れ惚(ぼ)れとも見えるほどに」
 「・・・・・・・」
 「だが、能登のそれと、わしの思慮とは、千里もちがう。いくたびか、腹
打ち割って、説いてみんとは思うたが、しょせん、千里のへだては、年齢
(とし)の差、世の見方の差、宇宙を観る眼のちがいでもある。かつまた、
内大臣の殿(宗盛)という後(うし)ろ盾(だて)もあれば、力及ばず、ついに
今日に至ったが、今日まで、能登の仕方を、恨みに思うたことはないぞ。
・・・・・たださほどなまでの平家思いを、なぜ、もっと雄々(おお)しゅう
美しゅうせぬか。他をかえりみず花々と散ってゆかぬか、それを惜しむと、申
してくれい」
 「おう。おつたえは、それだけか、世迷(よま)い言(ごと)は」
 「それだけぞ」
 時忠は、はっきり語を切って、眼を澄(す)ました。「立ち帰って、まずそ
う伝えよ。-そして、出直して参るがいい」
 「ば、ばかなことを」
 「いや、わが一命を、平家のため、生きねばならぬ。能登に申せ、せっ
かくなれど、首はやれぬと」
 「さては、今までの繰(く)り言(ごと)は、一とき遁(のが)れの雑言(ぞ
うごん)よな」
 「いや、雑言ならず、なんじらをして、わが意を伝えさせるためのものぞ」-
よう解って、帰る者はゆるそう。理不尽な刃(やいば)をかざし、そこの縁を
踏みのぼらば、ゆるしはおかぬ」
 「くみわっ、聞いたか、おのおの」
 と、鬼藤次は、まわりの仲間を振り返って、
 「いわしておけば、この腹ぎたない裏切りの醜(しこ)殿(どの)が、よく
もよくも吐(ほざ)いたぞ。いっそ殺すには殺しよいわ。-かかれっ、ねじ
伏せて、父子二つの首をかっ切ってとれや」
 と、猛(たけ)った。
 まっ先に、鬼藤次が、飛獣(ひじゅう)のように、縁へ跳び上がったが「あ
っ―」と顔を抑え、後ろへ、もんどり打っていた。時忠の手から、咄嗟(とっ
さ)に何か座辺の器物が投げられたものらしい。
 「それっ、起つぞ」
 ほかの刺客輩(しかくばら)も、どっと、同時に縁を踏みかけた。
 一瞬に、内の灯は消え、そこは真っ暗になったが、
 「父上っ」
 「時実」
 呼び交わしつつ、太刀(たち)の鞘(さや)を払って立った二人の影は、あ
きらかに見てとれた。
 ところが、第一撃の震動は、思わぬ所から不意に起こった。
 かれらの攻勢とは正反対の背後(うしろ)の方であった。地面を乱打す
る踵(かかと)の音とともに、すぐ、二、三の武者が絶叫をあげ、大地にう
めきたおれていたのである。
 「やや」
 解(げ)しようもないかれら自体の戸惑いだった。
 狼狽(ろうばい)が、逆渦(さかうず)を巻いた。
 -が、その一瞬にさえ、後ろでは、つぎつぎに幾人かの死者や傷負(て
お)いが血の下のなった。当然、鉾(ほこ)を転じたかれらは一つの焦点
へ白刃をあつめた。しかしどんな相手なのか、まだ分かっていない恐怖
と自警から、大きな空間をひらいて、
 「な、なに者だっ?」
 とただ、遠くからわめきあった。
 白刃の輪の中には、一個の男の影が、浮いていた。小具足だけの、た
だの雑兵姿にすぎない。が、すでに幾人かを足もとに屠(ほふ)った陣刀
を片手に、顔は、半首(はつぶり)を被(つ)けてい、たくましい肩幅が、
岩壁に似ていた。またその両足も、たびたびの戦場を馳け歩いた者でなけ
れば持ちえない不敵な不動身を作って大地をしっかと踏んでいた。

 不  戦 の 人

 かれは、桜間(さくらま)ノ介能遠(すけよしとお)であった。
 ここ船島の時忠も「-こよいあたり、必ず、介(すけ)が姿を見せよう。来
なければならないはず」と、ついさっきまで、時実へつぶやいていた。そ
の能遠だったのである。
 だから時忠は、こうしている間にも桜間ノ介の来ることを、ひそかに予
期していたことかもしれない。
 あるいは、かれがどこかに潜んでいたのを、時忠だけは、眸(め)に、知
っていたのかも分からない。
 いずれにせよ、介が、これへ来たのは、偶然ではなかったのだ。が、偶
然以上の鬼気に来合わせたとはいえる。かれの姿は、何か、運命の使者
といったように―四囲の凶刃をしずかに見まわし―やがてその半首の下
から不気味な錆声(さびごえ)を放った。
 「能登どのの御家来たち。犬死を求めてどうするのだ。-大理(だいり)
どの(時忠)の仰せだ、ありがたいと思うて帰れ。さ、疾(と)う帰れ。・・帰
らぬか、犬死にしたいのか。死にたくば出ろ、斬(き)って伏(ふ)せてくれ
よう」
 すると、黒い群れの中で、
 「な、なにやつだっ、おのれは」と、
 吠(ほ)える者があった。
 半首(はんぶり)の下で、かれの歯が、あざ嘲(わら)った。
 「名は申さぬ。かかる所で名のっても始まらぬ。が、内大臣の殿(宗盛)
には告げおくもよい。屋島を立つ朝、黒煙の下にて別れた男と似たる者
が、忽然(こつぜん)と、こよい船島に見えて候うーと」
 「た、たわ言(ごと)に耳かすな」
 吠えは続いて、
 「たかが一人ぞ。まず、その曲者(しれもの)から先に討って取れ」
 「待てっ」と、また、するどく「よう、眼をあいて、辺りを見ろ。おれに続
くものはまだいくらも後ろにいるぞ。それでもなお、強がるか」
 「な、なに」
 もいちどかれらは自身の中にうろたえと恐怖を起こした。
 咄嗟に、刺客の一角から、脱兎(だっと)の影を見せて逃げ出す者が出
た「ほかにもいるぞっ」とたれかが叫んだ。崩れた点影は意気地ない争い
を見せて、舟をおいてある浜の方へ、こけ転(まろ)んで行った。
 「追うな」
 と、半首は、どこかへ向かって、命じていた。
 虚言ではなく、人数を連れていたらしい。が、縁へ向かって、地にひざ
まずいたのは、かれ一人だった。
 「-桜間ノ介でおざる。ここ幾日か、お便りも欠きましたが、よいおりに
来あわせました。おつつがもございませぬか」
 「おう・・・・・」と、内の暗い中で時忠の声が「・・・・・介か。待ちわ
びていたぞ。時実、時実、灯をともせ」
 「はっ、ただ今」
 「介よ、内へ上がれ。そこでは、話もなるまい。近こう」
 「ごめん」
 桜間ノ介は縁へ上がってすわった。
 相見て、灯はともされても、しばらくはただ、黙(もだ)し合うているだけ
であった。
 ここ数日のことは、お互い、かんたんな言語では、現わしえないのであ
ろう。-なんたる刻々の変化、けわしい様相。そして、さしせまった今夜と
いう急迫感やら、さまざまな思いが、まず、相互の胸を、驟雨(しゅうう)ご
とく打ちたたいている。
 が、無言はまた、百言を語るものでもあった。時忠は、待つものだけを、
ただちに訊(たず)ねた。
 「介。判官(ほうがん)どのに、会うてくれたか」
 「は。室津(むろつ)のお宿にて」
 「そのおりのことは、先に聞いた。その後は」
 「昨夜、串崎の御陣へ忍んで、ようやく、お目にかかりました。-前大理
(さきのだいり)(時忠)どのが御意中、義経が胸に、委細たたみおいた。
-と重ねての仰せでした」
 「・・・・・とのみでは、心もとない。先にも申し送ったように、なんとか、
御誓書を請(こ)えぬものか」
 「その儀、切にお願い申しましたが、判官どのが仰せには―あわれ、察
せよ、義経は大将軍たれど、鎌倉どのの一代官に過ぎず、べつに一方の
大将軍三河どの(範頼)もおられ、同陣には軍艦の梶原もおること。他に
諮(はか)らず、義経一存にて、誓書を敵のひとりへ渡したりなどと沙汰
されなば、後日かえって、紛粉(ふんぷん)の誹謗(ひぼう)となり、時忠
どのが望むところと、逆なことになろうも知れず、と」
 「では、どうしても、誓書はだめか」
 「しいて、お迫(せま)り申すと、判官どのには、おくるしげな面(おも)
もちを見せられ、ただ、ままならずとのみ・・・・・」
 「あの君の、お立場は分かる。とは申せ、ひとたび、国もなく拠(よ)る陣
もなき敗亡の生存者となり終わらば、もう何を申し、何を願う資格もない。
残るは、生きながら嘲われ者にされる敗者の空骸があるだけだ。-どう
しても、神文のお誓いをいただいておかぬことには。・・・・・介よ、なんと
か、ならぬか」
 今は、意気地なく見えるほど、眼のふちの小皺(こじわ)から、時忠は涙
をこぼしそうにした。
 しかし、かれの妄執(もうしゅう)は、かれには荘厳な光燿(こうよう)で
あった。-伊勢平氏の発祥から今日の末路までを、生涯には見とおして
きて、今や六十路(むそじ)に近かろうとするかれが、その理性から到達
したただ一筋の信念なのだ。
 かれの願うところは、初めから和議にあった。
 けれど、和議をはかる機会は、むなしく逸してしまった。時すでに遅しで
ある。
 それにしても、最後の最小限の希望として、かれはなお、一縷(いちる)の
願望を捨てていない。
 幼帝と女院の、御救出。
 また、あまたな女たち、童(わらべ)たち、科(とが)なき人びとの助命
を―その救出を、なんとか、計ってやりたいということ。
 それであった。
 さらに、あわよくば、平家の血脈とその家を、どんな形の下にでも、細々
にでも残し伝えたいという望みもあった。もし、それもかなえば、故入道
どの(清盛)から、この世でさんざん世話になった恩顧にたいして、一片の
報恩になるのではあるまいか。
 望外とはしながらも、時忠の胸の底には、そこまでの遠い考えもあった
のである。
 -桜間ノ介を介し、かれは、率直にそれらの思いを、密書に托して、敵
の大将軍義経へ、通じたのだ。
 義経は、返書を、桜間ノ介に渡した。
 「諾」とあった。
 くわしくはないが、一諾。こころよく、幼帝女院のおん身の保証はもちろ
ん、平家のあとあとについても、力を添えようとはいってくれた。
 もとより無条件ではない。
 義経の側からも、時忠へたいし、協力の分担を課してきた。合戦の当日、
内から起って離反をあきらかにするとともに、賢所(三種の神器)が無事安
泰に源氏側へ移るように手を打つことを求めている。
 「諾」と「応」との両者のあいだは、介をとおして、異存なくむすばれた。
-が、ただ一つ今夜にまで持ち越された未解決の一事がる。-後日のた
め、公なる誓書が欲しい、とする望みに対し、先方の返答は「義経は鎌倉
どのの一御家人にすぎず、かつはこのこと、梶原そのほかに諮(はか)ら
ば、おそらくはその反対に会わん」という拒(こば)みであったのだ。
 「・・・・・さて、いかにせん」
 時忠は、暗い面を、燭にそむけて、考えこんだ。
 大事中の大事。しかも時は、あすを待てぬまでに迫っていた。

 時忠は愚を覚った。この期(ご)になって、なんの思案の余地があろう、と。
 「介」
 「はっ」
 「して、源氏方の水軍が進み出るは、いつと見たぞ。あすの夜明けか」
 「お察しの通りかと思われまする。潮の満干(みちひ)の時刻、潮向きの
順逆など、平家方の計るところは、また、源氏方も深く按(あん)じるとこ
ろ。それらの駆け引きいかんにもよりましょうが」
 「なおもって、猶予はならぬ。介、そちの船で、わしを源氏のおる串崎の
陣まで送れ。親しく、判官どのと会って、直々(じきじき)、男同士の誓言(
かため)をしたい」
 「や、もってのほかな」と、桜間ノ介は、時忠の思い立ちを、余りにも冒
険なと、いって「-早鞆の瀬戸をさかいに、平家方の小早舟(こばや)、物
見舟など、網の目の備えを固めておりまする。万が一にも、捕えられたら、
お望み事すべて、水泡に帰しましょう。この介ですら、すでに判官どのへ
近づくことは、容易ではありませぬのに」
 「それも成らぬか・・・・・」
 憮然(ぶぜん)として、時忠はつぶやいた。
 義経を疑うのではないが、言葉と言葉との、それも人を  介しての私
的な約束だけでは、どうしても一抹(いちまつ)の不安を禁じえない。
 「父上、わたくしが参りましょうず。串崎に参って、判官どのより、かたい
お誓いを取ること、この時実にお命じ給わりませ」
 「うム、時実か。・・・・・よう申した。そちなれば、あるいはよからん。
介、どうだの」
 「さあて。御子息なりとて、途中の難に、変りはござりませぬが」
 「いなとよ、介どの。もし見つかって捕らわれても、時実なれば、いい遁
(のが)れようすべもある。また、いよいよの切羽(せつぱ)とならば、海へ
身を投げ捨て、自害しても惜しゅうはない。父上、わたくしが参りましょう。
-介どの、わしを連れて行ってくれ」
 桜間ノ介は、思案顔だったが、やがて決然と。
 「心得ました。おん供いたしましょうず」
 そして彼は、縁先へ立って出て、どこかに待たせておいたらしいほかの
者をさし招いた。
 かれと同じく、みな半首を被けた小具足の兵だった。数は十人がらみ。
二領の大鎧(おおよろい)を、縁の上において、すぐ、下にひざまずいた。
 桜間ノ介は、ふたたび、時忠父子へ向かって、
 「-ひとまず、先の凶徒は逃げ去りましたが、夜半からあすへかけて、ふ
たたび魔手の襲い来ることは必定(ひつじょう)です。もはや、ここにお座
あっては、死を待つようなものと存ぜられる。-それゆえ、じつは、赤間ヶ
関のさる人知れぬ場所へ、御父子をお連れ申さばやと、お身仕度まで、持
参して参ったのでおざる。ともあれ、おん狩衣(かりぎぬ)のままでは不便、
兵どもの眼にも怪しまれましょう。お支度変えされませ」
 「鎧(よろい)を着よと申すか。・・・・・・・いや、戦わざる人間が、大
鎧など着込むは、一そう世の笑い草。腹巻のみを着よう」
 と、時忠もまた、この狭い一洲島(いちすじま)に、これ以上いることの危
険さは、充分に知っていた。
 「介。行先はどこぞ」
 「臨海館の址(あと)。今、荒れ朽ちておりますなれど」
 「お。むかし、異朝の臣や蕃客を迎えるに用いた駅路(うまやじ)の館(た
ち)の址か」
 「そこなれば、人の気づく怖(おそ)れもなし、町の小高い所にあります
ゆえ、あすの両軍のうごきも」
  「して、介は」
 「自身、そこへ御案内申さばやと、これへ来たのではございますが、源
氏の中軍へ御子息時実どのをお連れ申すには、この介が、お供いたして
参らねばむずかしかろうと思われますゆえ」
 「おう、この時忠には、誰(た)ぞ、道を知るものが先に立ってくれればよ
いぞ。-そこに控えた兵どもは、どこの手勢か」
 「それがしの兄、阿波民部重能(あわみんぶしげよし)の家来にござり
まする」
 「なに、阿波民部の兵とな。では、すでに阿波民部も」
 「ひそかに、あす、内応のこと、胸にたたんでおりまする。大理どのの深
き御意中のほどを、会うても告げ、文にも秘めて、とくと諜(しめ)し合わせ
てありますれば」
 「そうか。・・・・・・・そして今は」
 「筑紫島と舟を並べて、夕ごろより田野浦に先陣を承(うけたまわ)って
おりまする。両軍、海上にまみゆるまでは、秘事、色にも出さずに」
 「みかどの御事。神器の御事、乱軍となったるさいの、心得なども」
 「可惜(あたら)と、後に悔いなきよう、細々(こまごま)、申し合わせて
ありまする。-が、まだ兄民部が内応の儀は、源氏へ通じてありませぬゆえ、
時実どのと一しょに、これより串崎へ船を忍ばせ、それも直々、九郎義経
どののお耳に入れておかねば相なりませぬ」
 「そうか、源氏方より誓いの一札(いつさつ)を取りおくこと、それにつけ、
きっと、果たせよ。よいか時実」
 「はい」
 時実の眉には、死を賭(と)している色ががあった。
 初更(しょこう)はいつか過ぎようとしている。心なしか、こよいは星の移
行も早い、時忠は狩衣の上に腹巻だけを鎧(よろ)い、時実もそれに倣(なら
)った。そして、短いが久しい思いであった穏忍と牢愁(ろうしゅう)の小屋
を捨てて、父子、外へ出た。桜間ノ介と、かれのつれている十名ほどな兵も、
あとに従って、浜の方へ歩みだした。 すると、すぐ後ろから、時実を呼ぶ
声がした。「-讃岐さま」と、それは聞こえた。きれいな女性の声であった。  
 「・・・・・?」
 人びとは、立ちどまった。
 一人かと思いのほか、それは相擁(あいよう)しつつ小走りに喘(あえ)
いで来る女ふたりであった。そして、一つ被衣(かずき)を二つの身にか
ぶりあっていた。
 「あ。芦屋か」
 それは、時実にも、すぐ思い出された。
 けれど、もうひとりの女性の方は、近々かと寄って来るまで、たれとも思
いあたらなかった。
 「讃岐さま。ここをお立ち退(の)きなれば、どうぞ、わらわたちも、とも
にお連れ退(ひ)きくださいませ。はや合戦も迫るとのこと。どうしてこんな
小島におられましょう。・・・・・・・空恐ろしゅうございまする。おねがい
です。
お慈悲に、一つお舟へ」
 近づくやいな、一方の女がいった。いや叫ぶに近い声だった。
 見れば、芦屋を抱えて、喘いで来たのは、数日前、彦島から来た武者
船の上から、この小島の洲へおき捨てられた、あの、さくらノ局なのだった。











































































 広島マツダが建設した「おりづるタワー」は、原爆ドームそばに所在す
る複合ビル。13階建て。1階は商業ゾーン、2階〜11階はオフィスゾ-
ン、12〜13階は体感ゾーンになっていました。

 1階フロアは、一般に開放。原爆ドームを訪れた際の休憩場所として提
供し、物産館や、カフェなどがあります。屋上には、復興した広島の街並み
を眺めることが出来る展望台(ひろしまの丘)があります。
 電車通りには、幅9メートル、高さ50メートルのガラス壁面に「折り鶴壁」を
設け、12階の「おりづる広場」で、お客さんが、平和への願いを込めて作
られた折り鶴を、この壁面の内側に投入しますと、外部から、ガラス越しに
その折り鶴が眺められます。下部から、最長部まで、いっぱいになると、
この折り鶴は再生紙に戻し(リサイクル)ます。というガイド嬢の説明があり
ました。
 建物の、手前壁面のガラスに、折り鶴の絵が描かれていますが、12階
の工房で、折られた鶴は、内側からここの空間に投げ入れると、外から、ガ
ラス越しに、みなさんが作った折り鶴作品がが、眺められ、また堆積状況も
わかる仕組みになっていました。

        おりづるタワー 遠景
CIMG0016
















           展望展望台「ひろしまの丘」
CIMG0021

















           展望展望台「ひろしまの丘」 
CIMG0017



















 屋上展望台「ひろしまの丘」からは、ガラス張りなしの空間が広がります。
ただ、細いワイヤのような材料で網の目のように編(あ)まれたフェンスが
周囲に巡めぐせてありました。安全対策だろうと思われます。写真撮影に
は、少し気になりますが。

           展望展望台「ひろしまの丘」
CIMG0018
















     展望展望台「ひろしまの丘」からの広島の街 
CIMG0155




















       展望展望台「ひろしまの丘」からの広島の街 
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       展望展望台「ひろしまの丘」からの広島の街 
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      展望展望台「ひろしまの丘」 からの広島の街 
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        展望展望台「ひろしまの丘」からの広島の街  
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      展望展望台「ひろしまの丘」 からの広島の街  
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        展望展望台「ひろしまの丘」からの広島の街   
CIMG0164



















13階の展望展望台「ひろしまの丘」から、螺旋状になったスロープを降りて
いくと階下の12階のブースに出ました。
資料の展示品を観たり、外に広がる広島の見事に復興をとげた街の風景を
楽しみました。
こちらは、しっかりとしたガラス張りの部屋になっています。

 建築家ヤン・レツルについての資料が、展示されていました。

 建築家ヤン・レツル(1880〜1925)は、オット-ワグナーの弟子で、チェコ
近代建築の父といわれるヤン・コチェラ教授に師事し、当時の最先端の建
築技術を修めた後、ゲオルクデ・ラランデに招かれ、1907年7月、27歳で
来日しました。
 その後、同国人カレルヤン・ホラとともに建築事務所を開業。1909年東
京・白金台にクラシックな塔が印象的な「聖心女子学院」を、六番町に優美
なルネッサンス様式の「雙葉高等女学校」(1910)を建設、その後も「大日本
私立衛生会」(1912)、「宮城県営松島パークホテル」(1913)、「上智大学
」(1914)を設計。
実働10年で、40以上の建築計画に関わり、明治・大正の日本に本場のセ
セッション様式を紹介しました。

         ヤン・レツル(Ⅰ880-1925)
CIMG0169

























 宮島ホテルの建設。

 広島県物産陳列館の建設のため、広島に来ていたレツルは「宮島ホテル
」の設計を依頼されます。宮島ホテルは、1912年(明治45年)に創立、外
国人観光客が宿泊していたが、1915年に焼失、寺岡知事は、日本三景の
宮島に外国人向けの宿泊施設がない状態を放置できないとして、当時の財
界人を動かし、再建が決まりました。当初の建設候補地は「ホテル用水の
確保が難しい」とのレツルのアドバイスを受け、敷地を大元神社の側の海岸
に変更して建設されました。

          宮島ホテの設計図
CIMG0172










































 宮島ホテル玄関

 外国人観光客を喜ばすために、「宮島ホテル」は西欧風であると同時に
日本的なエキゾチックな趣向をこらしていました。明治政府は、観光地域
振興の一つと考え、1912(明治45)年、外国人観光客を誘致し、かれらに
諸般の便宜を図ることを目的として、半官半民のジャパンツーリスト・ビュロ
ーを設立しました。

          宮島ホテルの玄関
CIMG0173





























 当時の広島の陳列館

 広島の陳列館の敷地は、旧浅野藩の米倉の跡地と元安川河岸の埋め立て
地、その他を加えた974坪《3,214、2㎡)で、広島市がこれらを準備
しました。当時、広島随一の繁華街を対岸に見るこの地に、広島県の建設
費12万円で、建築面積310坪(1.023㎡)の陳列館を建設しました。楕円
ドームや、優美な曲面の壁の施工には、高度な技術が必要でした。

         当時の広島の陳列館    
CIMG0185













 実際、原爆が投下された位置が、紹介されていました。
 写真で、一番手前のビルの上空600mで原子爆弾が破裂したといいます。

        原子爆弾が、投下された地点
CIMG0188


















 12階から、眺めた、風景写真を掲載させていただきます。ここからは、視
界を遮るような、網目は入っていません。

CIMG0189




















CIMG0190




















CIMG0191




















CIMG0192





































CIMG0193





































CIMG0194



































 
 娘と、家内はおりするタワー1階の物産館で、買い物をするといいます
ので、小生は、哲哉先生に、これから熊本城を案内していただく予定です。











 この季節、いろいろな花が咲きますので、庭に華やかさを加えてくれて
います。気分も和(なご)み、なかなか、いいものですね。
 昨年、このミニ薔薇を育ててみようと、決めてから、1年が過ぎました。
少し背丈が、伸びた状態で、今開花しています。ほとんど家内が、手入れ
をしてくれたお陰ですが。

          ミニ薔薇  2017.5.29 撮影
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          ミニ薔薇  2017.5.29 撮影 
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               ミニ薔薇  2017.6.08 撮影
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 2017年5月28日(日曜日)

 「ぎょりゅう梅」が枯れかけていましたので、大きな鉢に植え替えをし、
直射日光を避けるため、北の庭に置いています。
2階から、その「ぎょりゅう梅」の様子を見るため、窓の網戸を明けて、北
側の庭を見下すと、大きな幹となって伸びて来ている泰山木の花の蕾を発見
しました。剪定が、厳しかったせいか、ここ2年くらい開花をしなかったの
ですが、本日(5月28日)ひっそりと蕾が生っていました。まるで、「自分
の花も見てくれ」といわんばかりに、見うけられました。
 予想外でしたので、驚きと、うれしさで、写真に撮ってみました。


       泰山木の花 2017.5..28 撮影  AM 10:00
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       泰山木の花 2017.5..28 撮影  10:00
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       泰山木の花 2017.5..28 撮影  10:00 
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        泰山木の花 2017.5..28 撮影  10:00 
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 2年ぶりの開花予定ですから、気になって、また観察してしまいました。

                    泰山木の花 2017.5..28 撮影 16:20
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                    泰山木の花 2017.5..28 撮影 21:15
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                泰山木の花 2017.5.29 撮影 AM 11:00
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                     泰山木の花 2017.5.29 撮影 14:15
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 まわりの硬い葉が、花を囲むようにしていますので、開花が難しいので
しょうか。
                      泰山木の花 2017.5.30 撮影 12:00
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 2017年5月31日(水曜日)

 昨日(30日)が、この泰山木の花の盛りだっと、気が付きました。今朝観る
と花弁は、すでに茶色味を帯びていました。周りの硬い葉に囲まれ、窮屈な
感じで開花していましたから。
 2年ぶりに咲いてくれた、たった1輪の花。

          泰山木の花 2017.5.31 撮影 08:00  
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 今年は、1輪しか、花が咲いてくれないのかなと、毎日、2階の窓から、観
ています。若い葉は、次々と生育していますが。

 昨年、ご近所の方に、プレゼントした、時計草は、花の蕾をたくさん付け
ていましたが、大きな鉢へ、土をすべて入れ替えて、植え替えをしたところ、
瀕死の状態になってしまいました。
 したがって、この枯れかけた時計草は、わが家に引き取って、南側の庭
に置いていましたが、あまり直射日光は、良くないと判断、裏の北側に移し
ました。替わりに、近所の方には、やはり昨年、親から、取り木をして育て
た時計草を1週間くらい前に持っていきました。
 今日、その近所の方にお会いしましたので、「時計草の花は咲きましたか」
と、声をかけてみましたところ「未だですが、間もなく咲きそうな感じ」だ
と、いうことでした。

 ところが、本日《5月27日》16時前に、引き取った時計草の上部先端を
観ますと、生き生きとした新しい(若い)蔓が1本出ているのを発見しました。
これは、明るい兆しだと思います。土中の茎の根から、養分を、汲み上げて
いる証拠ですから。期待しているところです。

      枯れかけた時計草(第1子)  2017.5.27 撮影
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       写真、右から左へ、若い蔓が伸びています
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 2017年6月3日(土曜日)

 今日の日中の気温は、26℃くらいで、少し風が強めに吹いていました。
 裏の庭を見に行きますと、
 最先端に伸びる若い蔓は、今日も枯れないで、根元の土の中の養分を、
少しづつ摂取し、現状を維持しています。時計草は、強い木ですから、たぶ
ん再生してくれると思います。

 2017年6月8日(木曜日)

 昨日(7日)は「関東地方も梅雨入り」と、気象庁から発表がありました。
ほぼ例年並みだそうです。
 今日は朝から、風が少し強めに吹く、曇り空となっています。
 時計草は、若い葉がだいぶん出てきました。しかも鉢の中の土中からも、
新芽が出てきています。
 この時計草は、親から取り木をした、第1子(1世)です。

     第1子の時計草再生中    2017.06.08 撮影
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鉢の中の土中からも、新芽が出てきています。

     第1子時計草の新芽  2017.06.08 撮影
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 2017年6月12日(月曜日)
 
 気になって、裏庭の時計草を見に行きました。葉に勢いが出てきていま
す。このままいきますと、花も十分期待できます。

     第1子の時計草再生中    2017.06.12 撮影  
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 昨年、日野市の園芸センターで購入したボタンは、今年もきれいに咲いて
くれましたが、もう花は終わってしまいました。
 今「都わすれ」と「カルミヤ」が咲いています。都わすれの花が、咲いて
くれたのは、感動です。家内が手入れし、植え替えもしてくれたおかげだと
思います。宿根草の植物ですが、今まで無事に育ったことがありませんでし
た。
 カルミヤも、こうして、昨年に引き続いて、開花するのは初めての経験で
す。
 以前、なんどか育ててみたのですが、全て枯らせてしまいましたから。

       「都わすれ」   2017.5.24 撮影
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        「カルミヤ」 2017.5.24 撮影
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 毎年、この時期に咲いてくれています。

       「匂いバンマツリ」の花   2017.5.24 撮影
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 今日は、「おりづるタワー」へ、連れていってもらいます。

 孫たちは、部活があるため、一緒に行けませんでしたが、哲哉先生と、
娘それに家内の4人で、車で出かけました。車は、「そごう」の駐車場
へ止めました。おりづるタワーは、原爆ドームのすぐそばに建てられてい
ます。
開業時間まで、少し時間がありましたので、ドーム周辺を散策をするこ
とになりました。
外国人の方もたくさん観光に来られていて、原爆ドームに関する説明書
の、英語版になっている冊子が、無造作に花壇の縁石上に置かれていま
した。
観光誘致に力を入れていらっしゃる関係者の心と、広島市民の思いが
よくあらわれていると思います。
 その人気の場所は、原爆ドームが、よく見えるあたりです。
 説明銘板が、埋め込まれている碑を、いくつか巡ってみました。

 被爆前の広島県物産陳列館について

 原爆ドームの、もとの建物は、チェコ人の建築家「ヤン・レツル」の設
計により1915(大正4年)4月に、広島県物産陳列館として完工しまし
た。
 特徴ある緑色のドームによって市民に親しまれていました。館は、県物
産の展示・即売・商工業に関する調査、相談などの業務としていましたが、
美術展や、博覧会など、文化事業にも利用されました。
 その後、広島県立商品陳列所広島産業奨励館と改称し、業務の拡大が図
られていきましたが、戦争の長期化の激化とともに業務が縮小され、内務
省中国、四国土木出張所、広島県地方木材(株)など、官公庁等の事務所と
して使用されました。

          捕縛前の広島県物産陳列館
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 原爆ドーム

 昭和20年8月6日、史上初めての原子爆弾によって、破壊された旧広
島産業奨励館の残骸である。爆弾は、この建物のほぼ直情600m空中
で爆発した。その一個の爆弾によって、20万人をこえる人々の生命が失
われ、半径約2キロメートルに及ぶ市街地を廃墟と化した。この悲痛な事
実を後世に伝え、人類の戒めとするため、国の内外の平和を願う多数の
人々の寄金によって、補強工事を施し、これを永久に保存する。

          原爆ドームとその碑
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 当時、被ばくされた方々の多くが、熱波によるやけどの熱さ、痛さのため、
この川に飛び込んだという話を思い出して、いたたまれない気分に襲われ
ました。

            原爆ドームの遠景
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 原爆の子の像

 この像は、2歳の時に被爆した佐々木禎子さんが10年後に白血病で亡
くなったことをきっかけに、同級生たちが「原爆でなくなった全ての子ど
もたちのために慰霊碑をつくろう」と呼びかけ、全国の3,200余りの
学校や世界9ヶ国からの寄付などにより、1958年5月5日に完成した
ものです。
像の高さは9メートルで、その頂上は折り鶴を捧げ持つ少女のブロンズ像
が立ち、平和な未来の夢を託しています。側面には、折り鶴を捧げ持つ
少女の二体の像が配されています。像の下に置かれた石碑には、「これ
はぼくらの叫びです。これは私たちの祈りです。世界に平和をきずくため
の」という碑文が刻まれています。内部につるされた鐘には、ノーベル平
和賞受賞者である、湯川秀樹博士の筆により、「千羽鶴」、「地に空に平
和」の文字が彫られています。この鐘と、金色の鶴は2003年に複製さ
れたものです。

         原爆の子の像
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          原爆の子の像
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 あらためて、核の脅威が、身にしみてきます。
 この後、「おりづるタワー」に向かいます。




















 

               
 御鞍替(みくらが)え

 その夜も月はなかった。星もまだ顔をそろえてばかりな宵(よい)のくち
といってよい。
 豊前側(ぶぜんがわ)の黒い山々の影と、長門岸(ながとぎし)の高い
陸影とは、相対して、ここの海峡を
大きくかかえあっている。海づらは、ふ
ところ広い谷あいに似、密々な軍行動を起こすには、「-おりもよし」とい
いたげな潮の香のやみであった。
 ついに彦島を出た平家は、雨雲がはうにも似るその全水軍を、注意ぶ
かく、豊前寄りの水路に見せた。徐々に、文字ヶ関の御崎(みさき)へ方
向をとって行くらしく思われる。
 お座船、大将船以下、全水軍の組織は、権中納言知盛(とももり)の乗
船が、親雁(おやがり)のようであった。すべての雁行(がんこう)はかれ
の一船に従って動いていた。
 そのことは、内大臣(おおい)の殿も、能登守教経(のとのかみのりつね
)も、どうにもならなかった結果であろう。「船戦(ふないくさ)に、おくれ
はとらじ」と常に気負う教経などは、特に、知盛の指揮下にただ働いている
ことは、その逸(はや)り気をもどかしくしたにちがいない。
 しかしこの海峡の特殊な潮(しお)ぐせや水路にくわしいことにおいて、
勝気なかれも、黄門(こうもん)の卿(きみ)知盛には、一歩ゆずらないわ
けにゆかなかった。
 知盛にとれば、この海峡も、去年以来、三河守範頼(みかわのかみの
りより)の軍をあいてに、幾たびとなく漕(こ)ぎ馴(な)れている歴戦の水
面だった。早朝、渦(うず)の難所、潮の漲落(ちょうらく)、その刻限まで、
そらんじていたのはいうまでもない。
 で、その宵の出動にしても、知盛は、潮の差し退きを度外視していなか
った。当日の満潮時は、申(さる)ノ下刻(午後五時)前後であり、やがて、
酉(とり)、戌(いぬ)ノ刻(午後六時から八時)の間に、潮は西の外洋玄海
から、東の瀬戸内の方へ、次第に落潮を早めていた。それを計算に入れ、
全水軍は帆も張らなかった。すべり入るように、文字ヶ関村の御崎(みさ
き)へ、近々と、その群影を塗りつぶした。
 知盛の船には、紅(くれない)の大旗のほか、伊都岐嶋大明神(いつき
しまだいみょうじん)、熊野大権現(くまのだいごんげん)などの神号仏名
の大のぼりがひるがえっていた。旗艦(きかん)の目印(めじるし)でもあ
ったろう。その船上からであった。やがて松明(たいまつ)か何かの火花
がしきりに火合図をやみに描いている。-と、船列すべてから水音があ
がった。一せいに碇(いかり)を下ろしたのである。
 すると、御崎の磯へ、幾組とない松明と人影が、乱れ上がって行くのが
見えた。そして、それから小半刻(こはんとき)の後には、内大臣の殿以
下、一門の諸大将の姿は、余さず、御崎の突端にある和布刈神社(めか
りじんじゃ)に集まっていた。
 「火を消せ。松明も」
 「敵は遠いが、夜眼(やめ)にも、ふと、気どられてはならぬ」
 たれかの声。
 同時に、ばたばたと、松明が踏み消され、白衣の神人たちが走りまわ
って、室内の微(かす)かな紙燭まで消そうとするのを、
 「待て待て、そこの灯は、消すな。敵の串崎(くしざき)から見えさえせね
ば大事はない。が、念のためぞ。廊の東側の簾(す)はすべて垂れたが
よいの」
 これは門脇中納言(教盛)の声らしかった。
 その辺りに、和布刈の神官 橘魚彦(たちばなのなひこ)がぬかずんで
いた。内大臣の殿から直々(じきじき)の質問にたいし、何か答えていた
のである。宗盛がただしたのは、
 「この御崎へ、源氏はまだ一兵も揚がって来なかったか」
 ということ。
 また夕刻までこの附近に布陣していた味方の筑紫党の船列は、早鞆(は
やとも)ノ瀬戸を出て、田ノ浦へ移動したはずだが、それらの士気はどう
であったか。
 この辺から逃亡したような将士はなかったか。神社へ狼藉(ろうぜき)を
働いた兵などはあるまいな。等々のことであった。
 神官の魚彦(なひこ)は、
 「筑紫党の諸船(もろぶね)も、田ノ浦へ進み出るのを見ておりましたが、
一糸(いっし)みだれず、士気は極めてお旺(さか)んでした。陣脱(じん
ぬ)け、狼藉の兵などは、見聞きもいたしませぬ」と、
 つつしんで答えた。
 「さらば安心よの」
 宗盛は、左右の座にある経盛、信国、教盛などの、ほの暗い中の顔を、
と見こう見、つぶやいた。
 そこへ、御崎ヘ上がるとすぐ後ろの高地へ上がっていた知盛、教経た
ちが戻って来た。そう二人も座に加わって、
 「今は、敵にとって潮刻(しおどき)も悪しく、月もないので、敵の義経が
にわかに襲(よ)する惧(おそ)れはない。沖遠くにも、そのような気配は、
まず見えませぬ」
 と、観望して来たままを告げた。そして、
 「また、対岸長門の火ノ山や町屋の兵火も、夜にはいってから、暗く燻
(いぶ)り沈んで見えまする。陸(くが)の源氏が、矢声もひそめ、ひたと、
うごきを休(や)めたのは、思うに、明日(あした)に期すことがあるせい
でございましょう。必ずや、あすこそは、源九郎義経みずから、その姿を
われらへ近々と見するに相違ありませぬ」
 と、知盛は一同の覚悟をうながし、なお語をつづけて、
 「いかなる約束事か、敵のうかがう戦いの機(しお)も、味方が望んで出
た機も、期せずして、日まで一つとなりました。左右(さう)なく、明朝こそ
は、平家か源氏か、天下の帰着も定まりましょうず。・・・・が、それまでの
半夜ほどは、なお寛(ゆる)やかにおわすがよい。ここにて戦捷(せんしょ
う)の祈誓(きせい)をささげ、神酒酌(みきく)みわけつつおたがい、あす
ともなれば別れ別れとなる露の身を、せめてしばし、愛(いと)しみ合うも
よいでしょう」   
 と、沁々(しみじみ)いった。

 やがて、和布刈明神(めかりみょうじん)の奥深くに、みあかしの小さい
光がゆらいだ。
 衣冠して神官の魚彦が、幣(へい)を捧(ささげ)げ、一門の願文を供え
て、祝詞(のりと)をあげる。
 神殿の下をゆるがすような波音が絶えずあった。松風の音もとどろに、
万葉人(まんようびと)がここを「隼人(はやと)の迫戸(せと)の岩穂(い
わほ)ー」といった遠い昔そのままな思いがする。
 ここの岬角(こうかく)と、向うの長門赤間ヶ関の岸とは、海面わずか
六町十二間しかへだてていない。その狭いあいだの急潮流が、万葉人の
いった隼人の迫戸ー今の早鞆ノ瀬戸なのだ。
 壇ノ浦は、その口のくびれを越えた所から、東岸一帯の、長門寄りの地
名である。そしてひと口に、古来壇ノ浦の海戦といっているが、しかし、そ
のころの兵備や水軍なるものの能力が、海上だけで戦いうるものでなか
ったことはいうまでもない。
 必然、陸地に足がかりを持っていた。それを、源氏側からいえば、豊浦
(とよら)、串崎がその足場であったし、平家方の布陣から見れば、田野
浦が第一線基地、和布刈が第二基地、彦島がその発足点と観ることが
できる。    
 ところで、彦島ではすでに充分、軍議もし尽して来、万端の戦備もとげ
て出たはずなのに、またすぐ何目的に、和布刈へ上陸したものか。
 ただの陣頭祈願であったろうか。
 いやいや、この期(ご)に及んで、祈願だけのために、初更(しょこう)の
一刻(いっとき)を、ここに全水軍が、碇を下ろしたとも思われない。
 何か他に、重大な戦略上の要務もあったことだろう、味方同士のあい
だでも、それは極(きわ)めて、機密裡(きみつり)に行われてゆき、その
宵、和布刈の神殿にあった一門諸大将のささやきや密かな行動は、まる
で夢幻劇の中の人物のようで、いかなる意図の下に、何事が果たされ
たのか、たれにも、うかがい知ることができなかった。
 けれどおよそ、こういうことは推(お)し量(はか)ってもいいかと思う。
 それは、幼帝のおん身を、ほかの船へ、遷(うつ)しまいらせておく用
意である。
 なぜならば、合戦となるやいなや、敵軍は必ず、お座船めがけて、鉾
先(ほこさき)を集中してくるにちがいないからだ。
 そのため、お座船の位置は、たえず味方の不安と惧れの中におかれ、
敵には、好目標となるであろう。そして、どんな羽目から、お座船を敵手
に拿捕(だほ)されぬという限りもない。
 -で当然、一案が立てられたものと思われる。
 日月(じつげつ)の幡旗(ばんき)、賢所(かしこどころ)の守護陣など、
「ここに帝(みかど)あり」と敵には見せ、みかどの玉体と三種の神器は、ほ
かへお潜(ひそ)め申し上げようという偽計。
 そしてそれを行うには、孫子(そんし)の「敵を欺(あざむ)くには、まず
味方よりせよ」で、彦島では、はなはだまずい。島の住民や市の雑人(ぞ
うにん)もはいりこんでい、すぐ敵方にもれてしまう。
 -そこで、和布刈の神殿に、魚彦の祝詞が聞こえていたころ、磯の方で
は、船と船とのあいだに、幼帝の御移乗と、神器の遷し渉(わた)しが、密
々、運ばれていたものではあるまいか。
 そう考えてくると、神殿に居並んだ影の中には、みかども女院もお見え
にならず、二位ノ尼もいなかった。そうして座の宗盛と磯とのあいだを、の
べつ腹心の者が往き来しては、その耳元へ、何事かささやいたり命をう
けて、また、磯の方へ馳け去った。
 同様に、能登守教経も、たえず郎党を走らせたり、何事か復命をうけな
どして、座にいても、どこか、落ち着かない風であった。
 けれど、さすがこの宵ばかりは、たれの面も澄んで悲壮な色をたたえ
ていた。座は水の底にあるかのような冷気を持ち、やがてのこと、神事も
すんで、人びとの前に神酒(みき)の土器(かわらけ)がおかれても、にわ
かに、手へ取ろうとする者もなかった。
 「いざ、おすごしを」
 魚彦の勧めに諸将はややくつろぎ顔を見せ、杯を唇へはこんだ。
 その酒の香、うつし身の味覚も、これ限りかと、たれしも思わずにいら
れなかったことであろう。酌(く)めば酌むほど、寂(せき)とするだけであ
った。
 「もう、なんの心残りもない」
 宗盛がつぶやいた。
 経盛や信国などの老将は、さっきから一語も吐かない。
 いわぬはいうにまさる思いを抱く姿―と見れば見えもする。
 「あすこそは」
 しきりに、気を吐くのは、能登守教経だった。
 らんとした眼のふちは、やや酔いの色を見せ、
 「九郎が首は、きっと、この能登が手に挙げてお見せする。鬼となっても」
と、ひとり杯をかさね、また、いった。
 「のう、黄門(こうもん)の卿(きみ)。-この中で、敵の中軍へ迫り、九
郎判官の首に見参せんほどな豪の者は、まずあなたか、この能登よりほか
にはあるまい。おぬかりあるな」
 「おう、和殿(わどの)とても」
 知盛は、微笑しつつ、おなじことばで、
 「抜かり給うな」
 「いうにやおよぶ」
 「敵もさる者ぞ。一ノ谷、屋島のかけひき、あれ見ても、油断はならぬ」
 「なんのあれは陸の戦(いくさ)。まだかつて、九郎義経が、船戦(ふな
いくさ)の手練とは、人も沙汰したことはない。負くるものかは」
 教経は、癇性(かんしょう)な子のように、土器のふちを嚙み砕きそうな
顔して、ぐいとまた一口飲んだ。
 そこへ神主の魚彦は、懐紙や硯などを持ち出して来て、ひとの生死も
よそ事のように、
 「かく御一門晴れの場にお臨みあって、さだめしご感懐も繁(しげ)かろ
うと推察されまする。なんぞ御興(ごきょう)のお歌なりと、ひと筆、お染お
き給わりましょうや」
 「・・・・・・・・・・・・」
 黙って、修理大夫経盛がまず、筆をとった。
 教盛も、資盛も、また行盛も、それぞれ、一首ずつの和歌を書き遺(の
こ)した。
 たれの和歌も、武人の歌のようではなかった。都を思い、過ぎし日を恋
い、また、以来いちども会っていない心の女性へ、夢にも通えと、歌いこ
めている辞世であった。
 「・・・・どれ、お見せあれ」
 主馬判官信国が、資盛の歌を、のぞきかけると、資盛は少し顔を紅(あ
か)らめて、
 「いや、つたない愚痴です」
 と、袖の下へ、隠してしまった。
 すると、つねに無口な経盛が、めずらしく、薄ら笑って、
 「いや、御老台。新三位殿(資盛)のお歌は、都にある右京大夫(うきょ
うだいふ)ノ局へこそ伝えて欲しいと願ごうたるお歌であろう。御老人の
あなたや、子もなきこの狐父(こふ)経盛には、縁もないし、解(わか)りか
ねる歌かもしれぬ。人の秘め事、年がいもなく、のぞき召さるな」
 と、かろい冗談をいった。

 刺  客(しかく)

 かれ自身から、孤父経盛といった一語には、たれもが、しゅんとした感
じに打たれた。悲痛な思いをその人へ寄せずにいられなかった。-だが
その経盛の戯(ざ)れ言(ごと)は、かりそめにせよ、珍しいことだと、みな
思った。
 また、それが、はしなくも、諦観ていかん)の刃となって、人びとの絆に
ある煩悩やら憂悶(ゆうもん)を、ふと、断ち切ったもののようでもあった。  
 たれの心の翳(かげ)からも何か、からっとしたような息づかいが生じ、
自然な笑いが座に浮かび出て来た。
 「あわれ、かかる夜はまたともあるまい。一曲弾(だん)じよう。神主、琵
琶(びわ)はあるか」
 教経がいう。資盛もいう。
 「さらば笛は、それがしが持とう」
 「おおよ」と、これまた、めずらしく、経盛までが、
 「笙(しょう)は、この老人が仕らん。鼓(つづみ)は門脇どの、勤め給え」
 「さて、琴は、たれが弾(ひ)く?」
 すると回廊の端で、
 「わらわでよろしければ、わらわに、お命じ給わりませ」
 という女人の声がした。
 見ると、知盛の妻の妹、治部卿(じぶきょう)ノ局であった。
 それと、もうひとり、若い女性が、一そうつつましげに、控えていた。
 座の内から、宗盛が、声のしたほうを見やって、
 「治部卿ノ局と尼公(あまぎみ)の侍女、玉虫ではないか」と、あやしんだ。
 「はい・・・・…」
 「なにしに?」
 「尼公のお筆を持ちまして」
 「文使(ふづか)いか」・・・・・・・・・・どれ?」
 宗盛はさっそく、尼からの結び文を一読した。そして、うなずきの下に、
 「事、つつがなく、すんだそうな」
 と、ひとりごとのように座へいった。
 けれど、そのひとりごとへ、辺りの顔がみな、同じようにうなずき返した。
-すんだ。それだけで、すべてが、たれにも分かっていたらしい。
 尼からの使いといえば、おそらく、幼帝のおん身と神器を他の船へお遷
(うつ)し申し終わったことの報告だったにちがいない。けれど、たれも口
には出しもしないのである。
 そして黙々と、管弦の座についた。
 琴には治部卿ノ局がすわるかと思いのほか、局は、しいてその役を、玉
虫にさせた。-屋島の浦以来、黛(まゆ)に、淋しげな影をぬぐったことの
ない玉虫だった。なぜあのおり、敵の余一宗高とやらの矢が、扇のかな
めを射くだいて、この身の胸にはあたらなかったのかと、恨みにしている
ような眸(め)の濡(ぬ)れを、いつも睫毛(まつげ)の蔭に伏せているかの
女であった。
 「・・・・ま。めっそうもない」
 と、玉虫はもとよりかたく辞した。
 一門の端でもなし、たかが二位どのの侍女などの身で、という畏(おそ
)れもあったし、心の浮かない色でもある。
 が、かの女の才はここの人びとも知っていたので、「玉虫せよ」と、みな
すすめた。否み難くもあったし、玉虫の胸にも、ひそかな今生(こんじょう
)への名残もあったことであろう。ついにはかの女も琴の前にすわった。
 厳島(いつくしま)でも、彦島でも、管弦はいくたびとなく行われたが、な
ぜかこの夜の管弦ほど、ひたと一致したことはない。いつかの夜のよう
な乱れもなかったし、鬼気もなかった。楽器それ自体ばかりでなく人びと
の面も澄みきった態(てい)であった。まことに、生死一つを誓ってあすを
待つのみとしている一門の心をさながらに奏(かな)で出していた。
 -と、和布刈の裏山から六、七名の物見の武者が、まろぶように馳け
降りて来、
 「遠くに、敵の船影らしき動きがみえまする」
 「御油断はなりませぬぞ」
 と、心ない大声で回廊の下からどなった。
 「なに。敵が見ゆると?」
 断絃(だんげん)の響きとはこれか。ばらっと、断(き)れ絃(いと)が跳
ね散ったように、人びとの影は、一せいに座から起ち、
 「どの方角に?」
 と、回廊へ出た。
 「山の上から見ておりますに、はるか満珠(まんじゅ)、干珠(かんじゅ)
の島に、漁(いさ)り火にもあらぬ灯が消えつ点(とも)りつしており、また、
串崎の蔭より東の長門岸に添うて、一群の串崎舟が、しきりと、やみを
漕ぎすすんでまいりまする」
 「さては、はや」
 宗盛、教経らは、まっ先に階を降りた。
 けれど知盛は、その背に向かって、
 「いや、いや、まだ満潮(みちしお)には間がある。東から西へ、早潮の
盛りとなるのは夜半ごろです。その間こそ、警戒(いましめ)を要しましょ
うが―陸ならぬ船戦(ふないくさ)に夜討ちは不利。もし仕掛ければ、仕
掛けたものの破れでしかありませぬ」
 と、落ち着いていった。
 しかし状勢は刻々と、緊迫してきた。串崎舟のうごきも、それが正しい
攻進でなく、単なる敵の瀬ぶみとしても、ようやく敵との接触の近い予告
の一つには間違いない。
 知盛も足をはやめた。
 諸将の影も、それぞれ、磯石のあいだを跳んで、あわただしげに、わが
船へと返って行く。
 宗盛は当然、さきのお座船へ戻った。
日月(じつげつ)の幡、白木の賢所造りなど、元のままだが、、もちろん帝
も女院も、すでに、それにはおいでなかったのである。

ここに、おき忘れられた物のように、星明りの波間に、ぼやっと貌(かお)
を浮かべている海の中の一土壌がある。
 平大納言父子が隔離されたまま獄裡(ごくり)にひとしい牢愁(ろうしゅ
う)を余儀なくされていたあの船島―という名すら知る人もない浮巣(うき
す)のような小さい島だ。
 その夕べから宵にかけて。
 時忠は、幽居の内で、黙然と端坐したままだった。波と風のほかは、声
もない天地から、何か、何ものをも聴き逃すまいとするように、体じゅうを、
耳にしていた。
 「・・・・・はて」
 かれは、さっき、その眼で見た。
 すぐそばの彦島から一門の全水軍が、文字ヶ関の方へ向かって行った
舟影を、またその中にあった紛れないお座船の影を。
 「時実・・・・・・ついに迫ってきたな、最悪な最後の日が」
 「にわかに、さし迫ってきたらしゅうございます」
 「見たか、一門の出勢を」
 「見ました。ふたたび地へ帰ることのないあのたくさんな船影かと」
 「わしも瞼(まぶた)が熱うなった。故入道どののおわした世盛りが思い
出された。何か、平家というものを乗せて天外へ急ぐ魔群の雲が眼の前
を通る心地がした。この時忠ごときでは、ひきとどめんとしても止まらぬ。
時の大車輪が波上を巡って行くようでもあった。・・・・・ああ、ぜひもない
果てではある」
 「・・・・けれど、父君」
 時実はずり寄って、
 「まだまだ、そうお見限りまでのことはございますまい。父君でのうては
できぬ大事な御使命も残されておりますものを」
 「うム。いかなる汚名を身に着ても、そこは仕果たす所存ではおるがの
・・・・・。坐して平家の末路を見る胸の辛さはいいようもない」
 「それにつけても、桜間ノ介能遠(よしとお)は、どうしたのでございまし
ょうな。ここを去って、いちど周防(すおう)へ赴(おもむ)き判官殿の御返
書をここへ齎(もたら)して来たきり、ふつりとまた、、姿も見せませぬが」
 「いやあの男のことだ」
 時忠は、揺るがぬ信を寄せているもののように、
 「こよいあたりは、相違なく姿を見せよう。かれがこれへ来るからには、
おれども父子も、ただちに、すぐここを立たねばならぬぞ。・・・・・時実、
粥(かゆ)でも腹いっぱい食べておこうよ。粥は煮えているか」
 「あ、うかと忘れておりました。たそがれ、漁小屋の芦屋が、裏の水屋
へ見えましたので、夕べの炊(かし)ぎを頼んでおきましたが」
 時実は、暗い厨(勝手元)の方へ、紙燭をかざして行った。
 粥は煮えていた。炉の湯もわいている。-が、芦屋は見えない。
 近ごろはやや馴(な)れて、よく水屋の手伝いなどもしてくれるが、奥の
父時忠の姿には、今もって、畏れをなし、用事がすめば、いつも音さえ立
てずに帰ってしまう。
 時実は自分で膳部(ぜんぶ)をととのえ、父とともに、夕餉(ゆうげ)を終
えた。そしてまた、椀(わん)や木皿(きざら)などを、侘びしげに、洗いな
どしていると、遠くから迅(はや)跫(あし)音が耳を打って来、
 「佐貫さま、佐貫さま。大変です、父(てて)が、私の父親が斬られまし
た」
 かの女の死人のような白い顔が、戸口に見えたと思うと、わっと、内へ
泣きまろんで来た。
 「やっ。芦屋ではないか。-斬られたとは、漁小屋のそなたの老父か。
た、たれに、何者に?」
 「すぐ、ここへも参りましょう。たった今、小舟から磯へ上がってきた十人
ほどの武者たちです」
 「それが、なんとして」
 「手に手に、長柄を引っさげ、群れ立って、時忠どの御父子を、必ず討
ちもらすな、仕損じては大事ぞ、こう忍んで、一方では、こう訪れてと、恐
ろしい諜(しめ)し合わせをしておりました」
 「なに、われら父子を殺害(あやめ)んと、この島へ上がってきた刺客(し
かく)どもがあるのか」
 「はい。・・・・・・そ、それを父が何気のう耳にしました、あな恐ろし、娘
よ、どうしようぞと、小屋の方へ、わめきわめき帰って来ました。それが悪か
ったのです。すぐ恐(こわ)らしい武者の一人が、この老いぼれ、生かして
おけぬとばかり、いきなり長柄を振りかぶってまいりました。気もたましい
も消され、夢中でわたくしは逃げましたが、後ろの方で、ぎゃっと父の叫
びが、聞こえました。こ、殺されたにちがいありません。佐貫さまお二方も、
はようどこぞへ、身をお隠しなされませ」
 「ううむ。・・・・そうか」
 時実は一瞬に覚った。その怒りを全身にたぎらせて。
 「さては、能登どのか、内大臣の殿が向けてきた刺客であろう。事、こう
迫るからには、戦いの前に必ずや、父君へたいして、何かの御処置に出
るぞとは、虫も知らせていたが・・・・。そ、そのような下臈(げろう)どもを
そそのかして、われらを亡き者になされようとは、余りといえば御卑怯な・・
・・・」
 「あ。どこかで物音が」
 「来たか。-芦屋、そなたたちは、なんら科(とが)もかかわりもある者
ではない。怪我するな。隠れていよ。どこぞへ、じっと、屈(かが)まって
おれ」
 時実は、外へ顔を出した。
 じっとりと、春の潮の香が、面(おもて)を撫(な)でる。それすら、不気味
なほど、ここの小島の夜は、まっ暗だった。
 星の下へ立ってみた。何事もない。はてと、一そう油断なく、左で太刀
の鍔(つば)下を握(にぎ)りしめながら、ふたたび内へ戻って、ふと父の
居間の方をさしのぞいた。
 背が見える。
 さきからの姿のまま、父時忠は、縁先のやみへ向かって、じっと、すわ
っている容子(ようす)なのだ。
 小さい灯影が、揺れもせず、その側にともっている。-それの明かりが、
外へ流れていなかったら、時忠がやみの中に、何を見ているのか、時実
にもさとれなかったことであろう。
 「あっ」
 時実は、馳け寄って行った。
 見ると、十人余の武者が、縁先をやや離れた所のやみに、抜刀(ぬき
み)をさげ、長柄を構え、今にも躍(おど)りかからんばかりに、ただ一人
の時忠を「-逃がさじ」と、取り囲んでいたのだった。
 -が、主人はたれにせよ、平家の郎党たちだ。時忠が、かつては平関
白(へいかんぱく)ともいわれた一門の長上であったことを知らぬはずは
ない。
 しかも時忠は、立ち騒ぐ様子もなく、ただじろと、そこの床上(しょうじょ
う)から睥睨(へいげい)をくれているだけなので、下臈たちは、なおさら、
鋭気をくじかれている風であった。
 「騒ぐまい。-騒ぐまい」
 時忠が静かにしかったのは、やみの中の凶暴な眼の群れへではなか
った。-庇(かば)うが如く、わが身のそばへ来て、父に代わり、斬り死に
もせんと、息あらあらと、突っ立ったわが子の姿へであった。
 「時実、まあすわれ、落ち着くがよい。・・・・・何か、物々しげな下臈ど
もが、それへ来ておるようだが、まだ何も話は聞いていないのだ。訊(き)い
てやろう。時実、お汝(こと)もそこにすわって静かに聞いてやるがいい」






























 2017年5月18日(木曜日)

 昨日の午後と本日の午前中2回に別けて、恒例の、ラッキョウの、皮剝
(む)きを、家内と一緒に、行いました。今回は、鹿児島産のラッキョウ
を漬けることにしていますが、もう少し経って、市場に出るころに鳥取産
のをと、考えています。今、家内が、最初の段階として、塩漬けをしてい
る最中です。したがって、昼食も、未だ済ませていませんが、今日は少し
遅れそうです。

 朝、時計草がかなり茂ってきましたので、長い棒で3か所、鉢の土中に
突き刺して、まだこれから出てくる新芽を上方に伸ばせるようにしてみま
した。そして、気がついたのですが、時計草の葉に隠れるように、裏側に
一輪だけ咲いていた、時計草を発見しました。この花は、今年第一号の
時計草の花です。
 鉢の向きを変えてから、撮影をしました。
 これは、時計草の親の鉢です。子の方も、花のつぼみを付けけています
が、まだ先のようです。

 これから、昼食の時間です。

        時計草の花(親)    2017.5.18 撮影
CIMG0002



































       時計草の花    2017.5.18 撮影
CIMG0001




































 2017年5月22日(月曜日)
 
 昨日(5月21日)は、31℃近くまで気温が上がり、7月の気候となりま
した。
家内と一緒に、銀座の画廊に出かけました。毎年、出展されている近所の
方の絵画を鑑賞するためです。
今年は、少しギャラリーのブースは昨年よりも、小さめでしたが、いつもの
人の作品が出展されていました。どれも、秀作だと思いました。
 氏の作品は国立駅前の夜景を描いたもので、雰囲気がよく出ていました。
 帰りは、いつも、新宿の京王百貨店のレストラン街で、とんかつを食する
のですが、人が多いため、落ち着かない気がしましたので、今日は自宅近く
の、京王線「聖蹟桜ヶ丘」駅にある、京王百貨店で、おなじみの「さぼてん」
という店で、昼食をすませました。心なしか、昨年の、新宿店よりも、こちら
の方が、肉が、新鮮で、おいしかったと感じました。また店の中の雰囲気も
活気がありました。

 時計草の兄弟ですが、親の方が、今年になって、2輪目を開花させました。
 先日、1輪目が咲いていた日でしたが、家内の友達が、国立で、ランチを楽
しんだ後、帰り道、拙宅に立ち寄ってくださいました。
 談笑しながら、お茶をされ、辞する時、庭の時計草を見て、綺麗だといわれ
ましたので、「それでは、枝(蔓)わけし、殖(ふ)やして、プレゼントしま
しょうか」ということになりました。
 埼玉の北の住人さんにもと、考えたりしています。11月には、会えると思
いますので、その時にでもお渡しできたらと。
 時計草は、冬にも強いので、育てやすい植物だと思います。

         時計草の花    2017.5.22 撮影 
CIMG0005



































                   時計草の花    2017.5.22 撮影 
CIMG0006
























 2017年5月23日(火曜日)

 昨年、家内と親しい、ご近所の方に、子供に当たる、時計草をプレゼント
しました。たくさんな花の蕾みをつけていたのですが、家内が、親切心で、
大きな鉢に植え替えをしてあげたところ、みるみる萎れてきて、いま、瀕死
の状態となっています。
 そのため、もう一つの時計草の子を、今日、御近所の方にお渡しし、枯れ
かけてけている方を拙宅に引き取ってきました。強い植物ですから、こんな
に急にダメになるとは、全く想像していなかったのですが。
 昨年親の時計草から、取り木をした直後の植え替えでしたので、無理があ
ったと思われます。
 しばらく見守ってみたいと思います。もしダメでしたら、親からまた、取
り木をしようと考えています。

 2017年5月24日(水曜日)

 昼前まで、陽が射していましたが、今は少し曇り空になって来ています。
 さっそく、時計草を、取り木してみました。
 写真のように、親の時計草から出た手前の蔓(つる)を土の中に潜(もぐ)
らせ、そのまま、向こうから蔓を出して完了です。今は、親から栄養をもらっ
ていますが約、1か月くらいで、土中の蔓から、新しい根が出てくれますと、
独立した子供の誕生です。
 生長を楽しみにしています。
 
        時計草の取り木   2017.5.24 撮影
CIMG0011



















 午後、図書館に行ってきました。本の返却日が昨日だったのですが、うっか
りして、電話をして延長するのを忘れてしまったのです。
 帰宅すると、親の時計草から、手ごろな蔓が出ているのを発見しましたの
で、もう一鉢、取り木をしてみました。これで、二つの時計草の子が誕生す
る予定です。

                   時計草の取り木   2017.5.24 撮影
CIMG0013


















 2017年5月25日(木曜日)

 朝から、久しぶりの雨が降っていますが、現在は小降りになってきて、空も
少し明るくなっています。
気温は、日中で24℃くらいになり、少し蒸す感じになるのかもしれません。
 昨日から時計草の花が下部の奥の位置に開花していましたので、本日(25
日)撮影しました。

         時計草の花    2017.5.25 撮影
CIMG0022





































 2017年5月27日(土曜日)

 きょうは、朝から陽射しが強く、気温も27℃と、しかも空気が乾いています
ので爽(さわ)やかです。こんな日が、長く続いてくれるとよいのですが。午
前中、国立市にある、菓子店「青木屋」へ、お菓子を求めに行ってきました。
 広島の娘たちと千葉の娘たちへは、お店から家内が、それぞれ贈っていま
した。
 その帰りに、スーパーで買い物をすませ、帰宅してみますと、出かける前
は、時計草の花は、3輪でしたが、一個増えて、4輪となっていました。
 
          時計草 2017.5.27  AM撮影
CIMG0053



































             時計草 2017.5.27  昼頃撮影
CIMG0055





































       時計草 2017.5.27  昼頃撮影
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 2017年5月30日(火曜日)

 日中気温が、30℃になと予報していました。真夏日です。時計草の子供の
鉢にリング状の支柱を立てました。場所が狭いため、この支柱に蔓を這(は)
わせようと考えています。そして、親の時計草の蔓を、自身の鉢に取り木をし
てみました。
         
    時計草の子(3・4子)に、支柱を立てました。2017.5.30 撮影
CIMG0011


















 新たな鉢に、取り木をしようとしましたが、蔓が、短いため、あきらめ、親
である時計草自身の鉢の中に蔓を取り木してみました。

   親の鉢の中へ蔓を取り木(5子)してみました。 2017.5.30 撮影
CIMG0013






































  親の鉢の中へ蔓を取り木してみました。 2017.5.30 撮影
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 2017年6月2日(金曜日)

 昨日は、湿度が高く蒸し暑かったのですが、今日はわりと爽やかで天気
がよいせいか、気分も最高ですので、もう1鉢時計草の子供を取り木して
みました。
 この時計草について振り返ってみますと、近所の方にさしあげた、時計草
の第1子が、先日枯れかけ、瀕死の状態になりましたから、拙宅に引き取り、
現在養生中です。その替わりに2子と交換しています。そして5月24日に、
第3・4子を取り木しました。さらに、5月30日に、親の鉢の中に第5子
として、生育中です。

 本日の取り木で、第6子の時計草が誕生しました。
 
       時計草の第6子 2017.06.02 撮影
CIMG0006



































       時計草の第6子 2017.06.02 撮影
CIMG0005


























       時計草の子(3・4子)生育状況 2017.06.08撮影
CIMG0049


















   親の鉢の中へ蔓を取り木(5子)生育状況 2017.06.08 撮影
CIMG0051




















                     時計草の第6子生育状況 2017.06.08 撮影      
CIMG0050


















 2017年06月18日(日曜日)
 
 今日は朝から曇り空で、このままの天候で推移するようです。
 父の日のプレゼントに、広島の娘から、シャツをいただきましたので、さっそ
くそれを着用し、庭に出て、昨日取り木をした、時計草の写真を撮影しました。
これで第7子ということになります。

      時計草第7子の挿し木 2017.06.08 撮影 
CIMG0003
























 2017年6月22日(木曜日)

 午後、生涯学習センターに行き、来年の絵画の展示場予約について、確
認をしてきました。聞くところによりますと、「予約日の半年前から受付をし
ます」とのことでした。今までも、何回も予約はしてきているのですが、ただ
4月1日から1回/年の受付だということだけをうのみにしていましたので、よ
く理解をしないまま、それでも4年間大過なくやって来られたのでした。
 今年は、11月に、グリーンプラザ分館ギャラリーにて、「水彩画サークル
虹の会展」を開催予定しますので、来年は、生涯学習センターで行う考えです。
 従がって、来年(2018年)の4月1日に、予約をしますと、その半年後の
10月に展示会場が確保できる予定です。

 学習センターを出て、帰宅途中、園芸センターで、リング状の支柱を購入し、
時計草の第6子と7子に取り付けてやりました。
 6子は、小さい支柱から大きなものへ交換し、第7子は、6子に使用したもの
より少し大きめのを採用しました。
 親の時計草には、固形の油粕3個を鉢の中の土に埋め込むようにして与えて
みました。
 一般に開花どきには、原則として、根が疲れているため施肥は、良くないと
いいますが、時計草の場合は、なんとはなく構わないような気がしましたので。


  時計草第6子に、リング状支柱を 2017.06.22 撮影
CIMG0004




















    時計草第7子に、リング状支柱を 2017.06.22 撮影 
CIMG0006













 



 悲風(ひふう)の将座(しょうざ)

 知盛の制止は、たれの耳へも、意外に聞こえた。
 中でも反撥を見せたのは、直々(じきじき)、渡御(とぎょ)の儀仗(ぎ
じょう)を仕度してきた宗盛であったのはいうまでもない。
 かれのその顔が、知盛の方をじろと見た。とおもうと、ずかずか歩み寄
って来て、
 「黄門どのか。なぜ渡御をお止めなさるのだ。なんのお心にて」
 いつもの鈍重(どんじゅう)にも似ず、棘(とげ)をもった声音でだった。
 「いや、令を冒(おか)し奉(たてまつ)るわけではありませぬ。・・・
・・ただ」
 と、知盛は、兄へも、みかどの玉座へも、恭順(きょうじゅん)そのままな
姿をひざまずかせて。「知盛が思うには、敵迫れりといえ、まだ戦いには
いったわけでなし、今から船上へ御遷幸(ごせんこう)あらせられても、女
院、尼公(あまぎみ)のおつかれはいうもおろか、海上別れ別れと相なる
ため、敵に接しるまでの一糸(いっし)みだれぬ陣を保って、それを待つの
も、容易ではありますまい」
 「しゃっ。そのようなことは、知れきっておるが、しかし敵は今暁すでに、
早鞆(はやとも)ノ瀬戸の東へ影を見せたという。いざとなってからでは」
 「いえいえ。決して、遅くはございませぬ。先鋒(せんぽう)には筑紫(つ
くし)の山賀、松浦などの一陣がすでに海上にあり、ニ陣に阿波民部、そ
のほか。さて次のわれらの中軍の内に、御座船は位置されることですから」
 「では、まだ御座船が沖へ出るには、早いといわれるか」
 「そうです。なお玉座は、ここにおかせ給い、いざ今ぞ、と見えたとき、渡
御を仰(あお)ぐも、よろしいかと思われますが」
 「そうか。なるほど・・・・・」宗盛はどう思ったか、案外、態度をすぐか
えて、「能登どの。能登どのにはその儀、どう思うな?」
 と、うしろへ、訊(たず)ねた。
 何かにつけて、かれの信頼は、教経に厚いらしい。教経は、答えた。
 黄門(こうもん)の卿(きみ)のお考えは至極(しごく)です。それがしに
も、異存はおざりませぬ」
 「ならば、能登どののお手勢は磯に出て、いつでも渡御をお待ちするよ
う備えておかれよ」
 そこで、おん輿(こし)は一時、階(きざはし)の下にすえ置かれ、教経以
下の将士は、磯へ立ち去った。
 このにわかな模様がえは、一時ながら、女房たちをほっとさせた。足許
(あしもと)から鳥のたつような支度を余儀なくされたため、尼や女院も、ゆ
うべは、一睡もしていなかったし、みかどの供御(くご)(食事)をはじめ、み
な、朝餉(あさげ)もすましていないのである。
 こうして二十三日の午前(ひるまえ)はまだ、からくも平穏(へいおん)だ
った。わずかな眠りや何かの心支度などもゆるされていた。-けれど午
(ひる)すこし過ぎからやや風立って来、白い波騒(なみさい)をおおって、
どこからともなくはい降りて来る黒煙が海面いっぱいに見え出したころ、様
相はまるで一変して来た。
 つい今し方まで、味方の堅い守備の中にあるものとのみ思われていた
赤間ヶ関の二、三箇所から火の手が揚がっていたのである。わけて火ノ
山方面はただ事とは思われない。そこから吹き降ろされる黒煙は真下の
壇ノ浦や早鞆の瀬戸や海峡の内一面にまではいひろがって來るのであっ
た。
 彦島の地上も、黄昏(たそがれ)のように陽(ひ)が翳(かげ)った。騒然
と、人馬の影が右往左往し、しきりに、  
 「敵は近い。はや、眼に見える近くまで」
 と、急を告げあい、
 「陸(くが)の源氏が、火ノ山へ攻め懸(かか)ったぞ。源氏の諜者(しの
び)が、関の町中へ紛(まぎ)れ入り、ここかしこ、火を放った」
 と、兵の中で喚(わめ)きぬく顔も見える。
 宗盛、知盛らのいる御所の中軍の柵へは、当然、小瀬戸ノ口から、櫛(く
し)の歯を引くような早馬だった。また、赤間ヶ関の岸からも小早舟(こばや
)の帆が斜めに風を孕(はら)んで、田ノ首や勅使待(てしまち)の岸へ向か
って来る。その舟から馳(か)け上がって、柵へまろび込んで行く影は、す
べて、おなじような急を告げる兵たちだった。
 「火ノ山の陣場(じんば)は、敵の放火に見舞われ、残念ながら、お味方
は西北の低地へ、退(ひ)いておりまする」
 「景弘どの御父子の手勢も、源氏の騎馬勢に馳けちらされ、さんざんな
御苦戦の態(てい)とか」
 「いやすでに、お討死の聞こえもあります。一刻もはやく、御加勢(ごか
せい)なくば、つぎつぎに、木戸を打ち破られ、町の要所は、すべて敵の
掌(て)に落ちましょうず」
 
 たれよりも、総大将の宗盛は、そのわめきを、その刻々に、甲(かん)だ
かくしていた。
 「加勢加勢と申すが、さきに安芸守景弘父子をやり、また後より、美濃
前司則清(みのぜんじのりきよ)が手勢を差し向けてある。美濃前司は、
何してぞ」
 かれがいっているところへ、
 「前司則清どのは、敵の手に生け捕られたりと、その配下の兵どもは、
ちりぢりに伊崎の岸へ、逃げなだれて参り申した」
 と、伝令の一騎がつたえて来た。
 「何、何。則清が生け捕られたと。-聞いたか、黄門どの」
 宗盛は、信じられない顔をして、
 「陸の備えは、一切を其許(そこ)の手にゆだね、われらが彦島へくる以
前より、確(しか)と、固めおかれたはずだ。そのため、われらは陸に不案
内。いや、大安心しておった。しかるに、いま聞くようなもろさとは、思い
もよらぬことではある。そも、なんとしたことぞ」
 と、知盛の騒ぎもしない落ち着きを見ていった。
 「いや、おことばですが」と、知盛はあくまで、静かな床几姿のまま「-
敵が豊浦(とよら)から火ノ山へ寄せ始めたのはおとといからのこと。堅
(かた)き備えと、味方の必死な防ぎがあったればこそ、よくその二昼夜を
守りえたものといえましょう。決して手抜かりはございませぬし、味方弱き
がためでもありませぬ」
 「では、源氏が強きゆえ、ぜひもなしと、あきらめておられるのか」
 「かなしいかな、陸合戦では、騎馬上手な東国勢には、しょせん、当た
りえません。まして、聞き及ぶところ、陸路の寄せ手は、坂東武者のうち
でも、金子十郎家忠、畠山庄司重忠、熊谷次郎直実など、名うてな武者
どもと申しますゆえ」
 「やあ。臆(おく)されたの、黄門どのには、いかに、坂東武者であろう
と、敵の百騎に味方の千騎をもって当たるほどならば、など、負(ひ)け
をとろうか。さるを、そう悠然(ゆうぜん)と見ておられるゆえ、われらま
でも、そこは不落の守りと、心をゆるしていたことぞ。もうもう、其許の計
(はか)らいに恃(たの)んではおれぬ」
 やにわに、かれの眼は、遠くの武者座に床几を並べている武将たちの
方へ向かい、
 「権(ごん)ノ藤内(とうない)貞綱兄弟」
 と呼びたてた。
 はっと、かなたで高い答(いら)えがする。
 宗盛はつづいて、
 「摂津判官守澄。右馬(うま)ノ允(じょう)家持。上総五郎兵衛忠光。
菊池二郎高直」と、
 いちいちそのものの顔を名ざし、そしてなお、一門の左中将清経をも加
えて、
 「面々は、すぐさま、手勢をひっさげ、かなたの陸地(くがじ)へ渡って、
源氏を追い払え。そうだ、戦馴(いくさな)れた越中次郎兵衛盛嗣も馳(は)
せ行くがよい」
 と、火のごとく命じた。
 たしかに、一刻の猶予もできない急務だし、至当な命にちがいなかった。
赤間ヶ関を敵の兵馬に占められれば、ここは母屋(おもや)の廂(ひさし)
に火がついたかたちである。かれとして、あわてたのもむりはない。
 命をうけた武将は、そろってみな床几を去った。そして各二百、三百ず
つ隊伍(たいご)をととのえ、小瀬戸を渡って陸戦へ馳(か)け向かった。
そのため彦島の兵数は、急に低下が目立ったほどだった。
 たちまち、赤間ヶ関の屋根の下や、うしろの山々、浜の松原などにも、兵
塵(へいじん)が立ち昇っていた。雄叫びは、海をこえて、彦島までも聞こ
えて來る。
 「さて、いかに?」
 宗盛は気が気でないものの如く、おりおり、不意に床几を離れて、柵(さ
く)つづきの小高い岡へ登って行き、海陸を一望して、また、元の床几へ
返って来た。
 そこへ、小瀬戸口の小松資盛(すけもり)が、自身、つぶさな戦況を知ら
せに来た。
 資盛のことばによると。
 源氏方は、初めから、騎馬隊で突入して来たわけでではない。義経麾
下(きか)の、草の実党の者が忍び組となって、前日ごろから、赤間ヶ関の
町中へ紛れこんでいたらしく、火ノ山方面に、源氏の騎兵が攻勢にかか
ると同時に、町屋の諸所へ火を放ち、一せいに蜂起(ほうき)したものだと
いう。
 しかし、彦島から即刻、加勢に渡ったため、草の実党は町中から一掃さ
れ、敵の騎馬隊も漸次(ぜんじ)、町の東北方へ、追いしりぞけてはいるが、
なお油断のできる状態ではない。今夕から夜半にかけてが、もっとも、危
険な時機に遭遇しよう。敵はかならず捲土重来(けんどじゅうらい)して、一
挙に、彦島の渡口(とこう)―小瀬戸へ迫って来るに相違ないと、資盛は自
分の観測もあわせて述べた。

 「な、なに。小瀬戸へ」
 宗盛のもった恐怖は、その顔に燃えて出た。かれの中には、敵への主
力観が転倒していた。主力は、義経の水軍にあるものを、側面の敵たる
陸岸へ向かって、心を奪われたように見える。
 「それや一大事ぞ。万が一にも、小瀬戸を突き破られたら、この小島、足
掻(あが)きはつかぬ、いや破られぬまでも、伊崎の岸を封じられては、ふ
くろの鼠(ねずみ)だ。なんとしても、敵を伊崎へ近づけてはならん。なお、
防ぎの兵力が足らずば・・・・・」
 と、宗盛はまた、武将の座を見まわして、さらに増援を送ろうとする容子
(ようす)であった。
 その時、知盛は初めて、口を開いた。
 「あいや、これ以上、ここの兵を割(さ)くのは下策かと存じまする。そ
れこそ、敵の謀(はか)りに陥(お)ちるものではありますまいか」
 「では、坐(ざ)して、敵が島口へ寄るのを待つのか」
 「と申されては、お答えに窮しますが、敵の陸兵は、海上の本軍を側面
より援けることが、その計(はか)りならんと察しられます。さるを、側面
の敵につりこまれて、わが水軍を手薄となせば、敵の九郎義経にとっては、
思うつぼではございますまいか。このたびの戦いこそは、敵もお味方も、あ
くまで主力は海上にあり、海上においてのみ、雌雄は決せられるものと
お覚悟あって、しかるびょう存じまする」
 「では、陸地の防ぎは」
 「おそらく、敵の騎馬勢とて、そう大軍ではありますまい。ままよ、かし
こはかれらの馬蹄(ばてい)にまかせ、むしろ先におつかわしの者どもも
残らず引き揚げて、お座船を真ん中に、平家の総勢一つとなって海上へ進
み出で、敵の大将軍義経と、乾坤一擲(けんこんいってき)の御一戦を賭
け給うこそ、せめて、お手際でございますまいか」 
 「・・・・・」
 「惑うて、いたずらに兵を分けなば、船手は脆(もろ)し、島は海陸より
攻め塞(ぐさ)がれ、みじめな敗れを招かぬとも限りませぬ。勝つ負くるは
、神のみが知る運命ながら、上に、みかどをいただき、下に、なお生死を
俱(とも)にと誓う六千の将士あるわが平家です。あわれ、さすが平家よと
、世へ恥ずかしくない一戦の下に、自身一個のよい死場所も得たいもの
と思いまする、お互い、ここは妄動(もうどう)を慎み、一門和して、華々(
はなばな)しい一戦を遂げようではございませぬか」
 知盛のことばは、ふだんの調子とどこも違わなかった、先ごろ、原田種
直の放逐に怒ったさいは、多少、激色も見せたが、その後のかれは、あ
る達観をもったもののように、宗盛へも教経へも、内輪の違和を避け、努
めて穏やかに接していた。
 だから今暁来、宗盛の指揮へも、幾たびか、非は非として諫言(かんげ
ん)したが、決して、宗盛を怒らすようにはいわなかった。宗盛も、そこは
分かって、
 「いかにも、いかにも」
 とばかり、よいことには、遅疑なく同意して来た。
 -で今の忠言にたいしても。
 「いわるる通り、醜(みにく)い戦いはしとうない。あのざま見よと、世の
笑い草になっては、故入道どのは申すに及ばず、平家の名に相すまぬ。
・・・・この上は其許(そこ)の指揮にまかせよう。長門の地の利、水師の
駆け引き、用兵のさしず、なべて宗盛よりは其許(そこ)の方が詳しくもあ
り馴れてもおらるる。総領役として、大将軍の将座にあれど、合戦に臨ん
での下知(げち)は其許より降(くだ)した方が手っとり早い。-黄門どの。
其許なれば、ここの防ぎは、どうするぞ」
 「別に名策もございませぬが、はや、時機は来たれりと思われまする。
早々、玉座を波間へ遷(かえ)し奉(つかまつ)りどこまでも、おん供申し
あげたい輩(やから)は、残らず供奉(ぐぶ)の船上へ移り、われらも船陣
(ふなじん)を組んで、ここを出陣すべきが順序と思われまする」
 「おう、それなら、けさからもう万端の用意は成っていることだ。すぐ渡御
を仰ごう。黄門どの。奏上を仰がれい」 
 「心得ました」
 知盛は、階の下へ行って、端然とひざまずき、やや改まったことばで、内
へ告げた。
 「御簾(ぎょれん)のあたりに、お人あらば、内へお聞こえ上げ候え。・・・
・・いま、酉ノ下刻(午後七時)と覚え候うが、戌(いぬ)の刻(午後八時)ま
でに、相違なく、主上女院以下、おそろいあって、福良の海際まで、渡御
あらせられよとー。また賢所(かしこどころ)もお座船へ奉持(ほうじ)し参
らせ、浦々のも諸船(もろふね)すべて、この彦島を一陣となって立ち出
で候うべし。・・・・・疾(と)う疾う、ほかの方々も、立ち出でられよ」

 みかどと蟹(かに)

 主上は、桔梗色(ききょういろ)のお袴に、薄色の練絹(ねりぎぬ)の小
袖(こそで)を召され、下に濃い山吹(やまぶき)の色を襲(かさ)ねておい
でになった。
 きっと尼か女院が、お髪(ぐし)を洗ってさしあげたにちがいない。ひと
際、つややかに、うない髪の切りそろえたのが、房々(ふさふさ)と、お耳
のあたりをつつんでいた。
 「-おん母―」
 みかどは、武者たちの舁(か)きよせる御輿(おこし)を見ると、女院の袖
へかたくすがって「どこへ行くのか?」と、幼心(おさなごころ)にも、何か、
お疑いを抱かれたようであった。
 もしここで、いつものだだをおこね遊ばすようなことになってはと、女院
も尼も、そして典侍たちまでが、さまざま、おもしろそうに、ごきげんを取っ
た。で、つつがなく、おん輿は、供奉の公卿、僧侶、大勢の女房たちに付
き添われて、低い岡一つを越え、海辺の方へ流れて行った。
 すぐ、賢所の遷座(せんざ)もつづいた。
 行宮(あんぐう)の内でも、それはべつな一殿を設(しつら)え、昼夜の警
固が付いていた。神鏡(かみかがみ)、宝剣、神璽(しんじ)の三種の神器
が秘封してある唐櫃(からびつ)であり、それの行く所、ある所をー賢所、
または内侍所(ないしどころ)とよぶのである。
 その賢所の守護陣は、その任務だけで一軍隊を成しており、修理大夫
経盛をかしらに、資盛の弟、少将小松有盛、丹後侍従忠房、内蔵頭信基
(くらのかみのぶもと)などが、武者大勢とともに唐櫃(からびつ)を守って
行った。
 夕せまる浜辺は、物のあいろも定かでないほど、女人の姿も甲冑(かっ
ちゅう)の影も、黒々と、混雑していた。まっ赤な夕陽の波影が、ぎらぎら
眼を射るせいであろう。そして、幾そうかの唐船造(からふねづく)りの楼
船、幾十そうの兵船、無数の小早舟(こばや)や小型の舟も、海面を埋め
ていた。
 「やあ、まだ泣き足らず、ここへ来てまで、なんの泣き惑いぞ。女房船は
あれよ。早う乗れ、女房どもは」
 能登守教経の声である。
 かれは、船ぞろいして、きょう半日、待ちしびれていたところだ。
 海戦ならば、やわか源氏に負けるべき、という自信にその顔は燃えて
いる。
 わずかな源氏の騎馬隊のため、赤間ヶ関の木戸も馳け散らされたと耳
にして、「ふがいない味方のやつばら」と、さっきから歯がみをしつつ「-
見よ、義経。やがて、晴れの海(うな)ばらにては、教経が手練にかけて、
眼にもの見せてくれるぞよ」と、腹にいっていた時でもあった。
 自然、気が研(と)げ立ち、眼底(まなぞこ)には、悲痛な闘志のいなず
まが光っていた。-憐(あわ)れと見れば、見もできないほどな女房の群
れが、今、どっと柵から浜へ流れ出て来て、うろたえ、悲しみおうている
姿へも、かれは、羅刹(らせつ)のごとく、
 「しゃっ、何をめそめそ。さまで浪間が恐ろしくば後に残れ。しいて船に
乗れぬとはいわぬぞ。ただ、お座船や味方とともに、離れじものと、後生
(ごしょう)までを願う者のみ乗ればよい。その女房船は、あれに見ゆる
十艘ほどの船ぞ。涙ながら懸板(かけいた)を渡り伝(つと)うて、懸板か
ら海へ落つるな」
 と、荒々と、どなっていた。
 教経とて、涙はあろう。その涙がまた、反対の表情や声になって、鞭(む
ち)の叫びになるのだった。
 そこへ、
 「おん輿(こし)が渉(わた)られます」
 と、先触れがあった。
 伊賀平内左衛門家長(いがのへいないさえもんいえなが)の率(ひき)
いる近衛兵がすぐ見えた。内大臣(おおい)の殿は、ゆさゆさと、歩いて
くる。門脇中納言教盛が、すぐ後ろだった。
 輿が三つ。
 一つには、みかどと女院が、同座しておられ、ほか二つには、二位ノ尼
と北ノ政所(まんどころ)が乗っていた。
 治部卿(じぶきょう)の局も、大納言佐(だいなごんのすけ)ノ局も、按
察(あぜち)ノ局も、﨟(ろう)ノ御方(おんかた)も、帥(そつ)の局も、
ほか多くの女性もすべて歩いた。これが清涼殿(せいりょうでん)の御庭
(みにわ)や仁和寺(にんなじ)の花の山ならどんなにか綺羅美(きらび)
やかであろうが、天地は春とはいえ、暗澹(あんたん)たる戦雲に汚れて
い、玄海の海風は、痛い潮気(しおけ)をふくんで、この人たちの白い皮
膚や黒髪を吹きみだした。
 とはいえ、おん輿を取り囲んで、風の中に、その人びとが立ち惑うと、磯
の香も覚えぬほど、伽羅(きゃら)や白檀(びゃくだん)の匂いが、甲冑の
影の間を吹き漂った。そればかりか、あすにも亡骸(なきがら)になって、ど
こへ流れ着いても、人目に嘲(わら)われないようにと、死後の姿を心して
いる人びとでもあるので、風にひるがえる袖の裏や裳(も)や黒髪の黒さ
まで、いずれも、眼がさめるほど、清げであった。こんな場合には不似合
いなほど、そのきれいさは、まるで妍(けん)を競う百花に似ていた。

 海も船も、おきらいではないのに、きょうにかぎって、みかどは、磯へ降
り立たれると、にわかに、おからだを振って「船へ乗るのはいや」といって、
おききにならない。どうあやしても、おすかししても、お座船の見える渡り
の方へ、足をお進めにならないのだった。
 「ごむりはない。人のよくいう、虫の知らせというものであろうぞよ」
 おん母の女院は、みかどが、海を前に、お顔を振って動かないお姿を
見ただけで、自分もそこへ、泣き伏してしまいたかった。
 けれど帥ノ局の眼を見ると、かの女は、心を励まされた。一縷(いちる)
の望みを、局の眼から、読み取るのだった。
 局の良人(おっと)、兵大納言時忠は、どこにも見えないが、しかし、こ
の危局を見つつ、どこかで、何かを考えていてくれるにちがいない。-そ
れは、帥ノ局にも、はっきり分かってはいないが、「かならずや、わが良人
が、みかどを、お見殺しにはいたしませぬ。ひそと、時をうかがっている
のでしょう」と、いう程度までは、察しられていたし、幾度となく、二人だけ
の間で、ささやかれたことでもあった。
 はかない侍(たの)みではあったが、女院はそれ一つを光としていた。
だから、気が萎(な)え入ると、帥ノ局を見た。局の眼はそのたびごとに「
-御辛抱が大事です、おんみずから、お心をくじいてはいけません、ど
んなあらしの夜にも、どこかに、星はあるのです。ただ、あらしの下では、
この眼に星が見えないだけのこと。このあらしに、耐え抜かないでは」と、
口にこそ出さないが、絶えずその眼は女院を励ましている。
 今も、女院は、はっと気をとり直したふうだった。そして、みなととも
に、みかどのお心が船へ向くようにおすすめしていると、例のみかどのお
気に入りの伊賀平内左衛門が呼ばれて来て、
 「陛下。・・・・・さ、さ。お好きなてんぐるまをいたしましょうず。家長
の肩にお乗り給われ、そして、あの蝸牛(ででむし)の鄙歌(ひなうた)をみ
なへ聞かせてお上げ遊ばしませ」
 と、その大きな背を、みかどへ向けて、かがみ込んだ。
 みかどは、それへも、横を向かれた。そして、ふいに、
 「あ、蟹(かに)が」
 と、走り出されて、
 「蟹、蟹」
 と、砂上の早い影を、追って行かれた。
 蟹は波の中へ、すんなり泳ぎこんでしまった。波の影と蟹の影とが、絽
刺(ろざし)模様みたいに透いて見えた。あのたくさんな脚やらハサミが水
中で器用な動作を見せたが、みかどには驚異であったにちがいない。う
しろを振り向いて、
 「おん母、おん母」
 と、手を振って招かれた。
 しかし、そのまに、蟹は見えなくなった。平内左衛門が側へ馳(か)けよ
り「蟹ならば、お座船に、いくらもおります。種々(さまざま)な蟹を捕って、
耳盥(みみだらい)に飼い、おもしろい遊びをいたしましょう。いざいざ、日
の暮れぬまに」と、みかどをお抱きして、漸々(ようよう)、お座船の内
へ、渡御し奉った。
 それだけでも、容易な苦労ではなかった。二位ノ尼以下、お側近くの女
房たちが、すべて乗り終わるまでには、いつか陽も没し、海は蒼(あお)
い宵やみになっていた。
 唐櫃(からびつ)は、船上の賢所(かしこどころ)に安置され、それに隣
りして、お座所構えの設(しつら)えがある。これは、かつて宋との交易に
用いられた大宰府船であり、軍中でも、一番巨(おおき)きな唐船であった。
 屋形は中央と船尾の二箇所にわかれ、間に、舫門(ほうもん)とよぶ門
まで見える。帆檣(ほばしら)にそって鉦鼓(しょうこ)を鳴らす楼台がり、
また、正座の望楼があった。
 望楼の下が、宗盛のはいる屋形だった。一門の主なる人びとは、そこ
でしばらく、軍議していた。
 といっても、細項は、今さら協議の必要もあるまい。おそらくは、いつな
んどき眼の前に現れるかもしれない敵の水軍にたいし、陣取りや戦法な
どの大綱(たいこう)の打ち合わせでもあったろうか。
ともあれ、それは、わずかなうちに終わり、諸将は各自の船へ乗り別れた。
その夜も、潮は暗かった。戦陣の組まれるあいだ、波騒(なみざい)の中
に、ひとしきり武者輩(ばら)のわめきが高く海の面(も)は、漆(うるし)
の光に似たひらめきを持った。
 やがてのこと。
 ここ福良から、三百余艘の影が、東方へうごき出していた。
 またたちまち、田ノ首でも数十艘加わるのが見え、ほかの浦々からも島
を離れて合流する船影が、百七、八十艘をくだらなかった。
 それ以前に、沖の遠くには、筑紫党の船群、伊予、阿波の船勢(ふなぜ
い)も、早くから水上の陣についていたのである。あわせて、五百数十隻、
およそこれは平家の全水軍といえるものだった。







































 可部線再延長区間の、河戸帆待川(かとほまちがわ)とあき亀野を、訊
ね終え、娘夫婦の家に、戻ってきました。娘に「あの折り畳み傘があった
ので、助かったよ、さすが地元の人は天候もよくわかるね」といいますと、
にっこりと。
 そのころ、「お母さんと私で、イオンへ買い物に行き、肉を買って、秤(
はかり)にかけている最中、お店の中が停電になったよ」というのです。
雷を伴った激しい雨が一時的に降った模様です。しかし、停電は、すぐに
復旧し、お肉の秤(はかり)も動きだし、無事精算もでき、帰宅するころは、
雨も止んでいたといいます。
 家内は娘と一緒に、イオンで購入したひき肉を、さっそく使用して、調理
の真っ最中でした。
孫たちも、哲哉先生も、私たちも皆、手作りの「はる巻き」を楽しみにしてい
ました。

 今年、高校生になった、孫は、学校から帰ってくると、すぐに、調理中のは
る巻きを食べたいと、申し込んできました。家内も、娘も仕方なくOKします
と、おいしそうに頬ばっていました。そして、さらにもう一つ、また一つと、好
物には目がありません。家内も、かわいい孫のこと、ふだんは、お行儀が悪
いなどと小言をいうのですが、食べっぷりがいいので、気圧(けお)された感
じです。

 本日の、伊藤動物病院の営業が無事すんで、哲哉先生が2階へ上がって
来たところで、夕食の始まりです。
 まずビールで乾杯をして、「お疲れ様です」といったあと、まず、皆の箸を
持つ手が一せいに、はる巻きに伸びたのは、いうまでもありません。


 明日、5月16日(日曜日)は、動物病院も休みですから、新しく、原爆ドーム
近くに出来た「おりづるタワー」へ、連れて行ってもらえるそうです。楽しみです。







 ロトとその娘たちの物語は、『旧約聖書』の「創世記」に綴られています。
ロトは神を厚く信仰する敬虔(けいけん)な人物であったために、かれらの
住む街ソドムが滅ぼされることを、特別にあらかじめ知らされることになり
ました。この警告を受けてロトは、災いを避けるために、、妻とふたりの娘た
ちを連れて罪深き街ソドムから逃げました。クラーナハの《ロトとその娘たち
》では燃え盛るソドムの街が背景に描かれており、その手前に小さく、いま
まさにそこから脱出するロトと夫妻と娘たちの姿がみられます。その中でロ
トの妻だけが取り残されるようにぽつりと描かれているのは、彼女街のほう
を振り返ることを堅く禁じられていたにもかかわらず、その約束を破ってしま
ったために、塩の柱に姿を変えられてしまったからです。そしてこれにつづ
く主要な場面として画面の前景に示されています。つまり、ソドムの街が焼
け落ちたのを見て、全人類が滅亡してしまったと思い込んだ娘たちが、年
老いた実父ロトにワインを飲ませて酔わせ、意識を朦朧(もうろう)させたあ
げく、近親相姦によって子づくりにおよぼうとしているのです。
 1528年制作のウィーン所蔵の本作は、クラーナハの工房作であること
がわかっているこの題材の作品のなかで―本作以外にそれぞれわずかな
違いしかない板絵が7点ばかり現存していますが―もっと早い年紀をもって
います。ただし文書史料からは、実際にはそれよりずっと多くの《ロトとその
娘たち》が制作されていたことがわかっています。そればかりか、クラーナ
ハの弟子や追隋者たちも、この主題をたびたび描きました。ウイーン美術
史美術館に所蔵されているヴォルフガング・クローデルの《ロトとその娘た
ち》も、そうした例の一つです。このクローデルの絵画は、クラーナハの作
品と同じ1528年に制作されたため、「ロトとその娘たち」という主題が、
その時期にはすでに広く衆目を集めていたとことをうかがわせます。
 「ロトとその娘たち」という人気の主題は、クラーナハが描いた「女のたく
らみ」というテーマ系に属するとともに、クラーナハが1530年代になって
から、関心を向け始めた「不釣り合いなカップル」の数多くの表現ときわめて
近い関係にあります。事実これらの「不釣り合いなカップル」を描いた作品で
は、性的な衝動に駆られたさまざまな年齢の登場人物たちが、まざまざと
描写されています。ただし、こうした作品群の中で、クラーナハの《ロトとそ
の娘たち》、それとはやや異なる性格をもっています。というのも「不釣り合
いなカップル」の作品は概して、歴史や物語などを下敷きとして描かれたも
のではありません。また、そのテーマにはたいてい、男性が女性から愛を買
う姿が描かれますが、これに対してクラーナハの《ロトとその娘たち》では、
女性である二人の娘たちのほうが、男性であるロトを愛の行為に道行く。「ロ
トとその娘たち」という主題は、道徳を説いたものであるとも、あるいは子孫を
残すことの重要性を訴えているとも、いかようにも解釈できます。ですが、こ
の聖書の物語をつうじて、クラーナハがことさらに強調しているのは、深酒
への警告でありましょう。ルターも同様に、過度な飲酒にに対してはくりかえ
し注意を促していたことを、この絵を見たひとびとは思い出したにちがいあ
りません。
とはいえ、当時の鑑賞者たちが最も興味を憶(おぼ)えたのは、おそらくは何
よりも、不器用で愚鈍ともいえる老人と、豪奢に着飾った狡猾な若い女とい
う「不釣り合いなカップル」の姿であり、またそれとともに、その背後で美し
く燃え盛る、見世物としての火事であったのでしょう。

 1528年
 油彩/板(菩提樹材)
 56×37cm
               《ロトとその娘たち》     ウイーン美術史美術館
CIMG0001









































 1528年 ヴォルフガング・クローデル作
 油彩/板(菩提樹材)
 54×39cm
     「ロトとその娘たち」  ウイーン美術史美術館
CIMG0003

















































 可部線の可部駅から、「河戸帆待川(かとほまちがわ)駅」と終点の「あ
き亀野(かめの)駅」が、再延長されましたので、ぜひ訪ねてみたいと思い
ました。
 終点のあき亀野駅を降りて、雨模様の中を、「ふたたびの宮(長井伊勢社)」
にお参りし、その後、神社と近接した広場には、この可部線再延長工事の
際、廃止駅となった、河戸(こうど)駅を再現した建物がありました。列車の
ホームの待合室と、駅名の看板(実物)も設置され、実際このような光景であっ
たのだと思わされました。忘れてはならないこととして、この地域の人たちが、
活動されたのだと感じました。
 また、再延長した可部線の開通を祝う、歓びの象徴だとも思いました。
 そして、また元の駅前に戻り、今度は、太田川沿いを上流に向け、県道
を歩いて進みますと、道路脇に建立されている、荒人神宮神社(あらひとじ
んぐうじんじゃ)が県道沿いに建立されていましたので、立ち寄りました。

 さらに、上流に向かって県道を歩きます。目的地の、「亀野発電所跡」に向
かって。
 はるか向うに、赤レンガ風の建物が、見えてきました。多分あの建物が、そ
うであろうと確信しました。
 見るからに古い建物で、しかも格調がどことなく感ぜられます。この県道と、
すぐ下を流れる太田川の落差は、おおよそ20mはあるかもしれません。道
路淵に立って、川面を覗くと目まいがするほどです。やがて、「亀野発電所
跡」近くにやってきますと、右手の山の崖に、地藏が安置されているのが目
に入りました、あの案内掲示板には、「岩抱き地蔵」と記されていましたので、
これだとすぐに分かりました。なぜこのような地面より4メートルくらい、高
い位置に、しかも岩が少し窪んだところになぜ地蔵があるのか、不思議で
した。

            岩抱き地蔵
CIMG0126


































 この地蔵様のある位置からすぐの所に、発電所跡がありました。
現在この発電所跡は、太田川漁業協同組合の事務所になっていました。
 太田川は、吉和村の冠山(1339メートル)を源流とし、瀬戸内海にそそぐ
全長103㎞、流域1690K㎡の一級河川だといいます。
 また、この太田川には、80種の魚が生息しており、その中でも、アユ、ア
マゴ、モクズガニ、フナ、コイ、ウナギなどの釣りができます。と、太田川漁
業協同組合のホームページに記されています。
 ウナギの放流と、アユの放流も7年前から、行われていて、釣り人の楽し
みと、食材の提供を、目的として、漁業組合の方々が、日々努力されている
姿が少しでもわかり、感動的でした。
 このことは、乱獲だけではなく、自然のサイクルを保つ意味で、重要なこと
だと思います。

         かなたに、「亀野発電所跡」が見えます
CIMG0128



















            「亀野発電所跡」
CIMG0129

























 旧発電所玄関脇には、次のような標識があります。これは、過去に大洪
水があった日付と、洪水の水位が、事実に基づいて、この位置であったと
を表示されていました。

       昭和18年9月洪水跡
       昭和20年9月  〃
       平成17年9月  〃
       昭和47年7月
       大正 8年7月  〃
       昭和18年7月  〃
       昭和26年10月 〃
       昭和25年9月  〃
       昭和51年9月  〃

 国土交通省太田川河川事務所から、次に様な説明書きがあります。
 
  この標識は、太田川によって、発生した主な洪水の推移を示して
  おり、この記録は、亀山発電所(明治45年6月完成)及び、太田川
  漁業組合の方々によって残されたものですと。

 時代とともに、洪水の水位が、下がってきている様子が、よくわかります。
昭和51年以降は、大洪水が皆無です。
 これは、太田川の祇園水門(放水路系)と、大芝水門(市内派川系)の建
設に伴い、水路調節が、可能になったからです。
 さらに、ダム建設による、水位コントロールもなされていますから、現在
は安心な生活が保障されたようなものです。

 先ほど見た、岩抱き地蔵が、あの岩に抱かれるように、安置されていた
のは、昔の洪水で、多くの犠牲者が出、その供養の意味があったのではと
推察しています。真実は、この地域の人に聞いてみないと定かではありま
せんが。

         「亀野発電所跡」
CIMG0130



















 亀山発電所跡を辞し、また元の、あき亀山駅の方へ、引き返しました。
駅に近づくにしたがって、雨も小降りになってきました。あき亀山駅を右手に
見過ごしながら、そのまま、河戸帆待川(かとほまちがわ)駅の方へと、歩き
ました。
 道路脇にあるお店の前に、小さなテーブルと椅子が2,3置かれてた、休
憩所がありましたので、喉の渇き癒やすため、ここの自動販売機で、サントリ
ーの、「オールフリー」と記載されている、ノンアルコールビールを購入し、
ひと息いれました。

 ひと休みの後、県道沿いを少し歩いたころは、雨もすっかり上がり太陽が
顔を出していました。辺りに、お寺が見えましたので、立ち寄ってみました。
 山門の前には、浄土真宗本願寺流  「誓立寺」という、石碑に彫った文字
が見えます。
 浄土真宗は、鎌倉時代の僧である親鸞が、その師である法然によって明
らかにされた浄土、往生を説く真実の教えを、継承し展開させた宗旨です。
親鸞没後、門弟たちが、教団として発展させたといわれています。

      浄土真宗本願寺流  誓立寺 山門
CIMG0133



































       浄土真宗本願寺流  誓立寺 本殿 
CIMG0134



















 さらに、河戸帆待川(かとほまちがわ)駅に向かいます。この辺りから、新
興のおしゃれな住宅やお店が、県道の両脇に、立ち並ぶようになりました。
このお寺にも、立ち寄りました。

        浄土真宗本願寺流  徳行寺 山門
CIMG0136



















        浄土真宗本願寺流  徳行寺 本殿
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 徳行寺を、後にして、間もなくすると、左手に大きな、ショッピングモール
が出来ていて、まだ新しい建物です。そして、河戸帆待川駅に到着後、ここの
トイレを拝借し、ホームに入る前に、駅のこの小さな広場に、帆船の像が建
立されていましたので、土に埋め込まれた、石の板碑にが刻まれた文字を、
読んでみました。

        河戸帆待川(かとほまちがわ)駅

 初代天皇、神武天皇が、日向の国から遠征のおり、安芸国に行宮(あん
ぐう)なされました。その場所を埃宮といい、その地から可部の庄の四日市
あたりと伝承されています。
 この地に流れる川に、帆待川があり、別称、帆巻川ともいわれます。伝
承によると、天皇は行宮に際し、当時の海岸そそぐ川、帆待川を遡(さかの
ぼ)り、舟山のふもとに舟を繋(つな)ぎ、この山に登ったと伝えられ、別名
を貴舟山を古称されていました。
また、帆待川は、可部川と落ち合い、太田川への通舟の重要な河川となっ
ておりました。
 河戸帆待川(かとほまちがわ)の駅名は、この帆待川からの由来です。

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 JR可部線の、可部駅を乗車し、二駅が再延長となった、終点「あき亀野」
へ向かいました。
 空は、鉛色で、雲行きが怪しくなってきました。
[あき亀野駅]に到着です。一ヵ所しかない無人の改札を出ると、雨がかな
り強く降っていました。
傘を持って、出迎えに来ている人がまばらに見えるだけで、閑散とした景
色です。
 娘が、「今日は、天候が崩れるから」と、アドバイスしてくれ、持参した、
日傘兼用の折りたたみ傘を使って、反対の道路側に出ると、大きな、案内
掲示板がありました。そこには、現在地から、上り坂になっている道を登り
きると学校があり、その途中に、神社があると記されていますので、そこへ
行くことにしました。
 神社に近づくと坂道の向うから、雨の中を小さな集団でランニングしてくる
小学生に出会いました。すると向こうから、「こんにちは」と声をかけてく
れました。
 たったの一言ですが、挨拶はいいものだなあと、つくづく感じました。贅
沢をいわせていただきますと、、さらに笑顔があればと。

 神社の少し手前の広場には、列車のホームに見立てた待合室があり、そこ
に河戸(こうど)という駅名の標識が建ててありました。
 これは、可部から「あき亀野駅」再延長工事に伴い、もともと存在してい
た駅がなくなったため、往時の面影を残すため再現され、記念広場になって
います。

 次に神社です。境内の脇に社の由来書きがありましたので、読んでみます。

 ふたたびの宮(長井伊勢社)について

 長井伊勢神社は、天神としての天照大神(アマテラスオオミカミ)と、
地神として、豊受大神(トヨウケオオカミ)を祭神とし、天照大神と伝えら
れる木像をご神体としてお祭りしています。
 現存する竹製の奉納額の年号(宝永2年西暦1705年)から、全国的に
お伊勢参りが大流行した西暦1700年前後の創設と考えられます。
 お伊勢参りの出立詣でと、帰省を報告するお宮として、また、お伊勢詣り
のかなわない人たちのお参りのお宮として創立された300年以上前から、
本地域の氏神様として、厚い信仰に守られてきたものです。
 現在の社は、昭和48年、亀山南小学校の造成事業に伴い、旧社の位置
より、東南へ数十メートル移転したもので、4月14日と10月29日、地
元自治会により、祭礼がおこなわれています。
平成23年春、可部線(可部駅以西)の復活を祈念して、地域活性化を願い
「ふたたびの宮」と、称し、木製額を掲げました。

   奉納額や鳥井等

 1・ 奉納額    竹製
    天照皇大神宮敬白宝永2年(1705年)
    正月21日 三朗左衛門

 2・ 板書き
    奉寄進    文政11年3月塗装再興
    木原三朗右衛門 西暦1828年

 3  旧鳥居 明治中期に破損記載:昭和9年(1772年)奉納

 4・ 大正15年4月建立

 5・ 拝殿正面
    旧社境内にあったけやきを、明治30年ころ売却したときに、
    幹の上部を使って制作したものと、古老の信博


         再現された、河戸(こうど)駅
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        ふたたびの宮(長井伊勢社) 
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 次は、もう一度元の、案内掲示板のある場所へ戻り、これより、太田川を
左手に見て、上流に向かって、県道を歩きます。

依然と、雨は降り続いています。家を出るときは、太陽の陽ざしが暑いくらい
でしたが、今は、少し足もとが冷える感じがします。
 少し歩いたところに、大きな石燈籠がありましたので、一こま撮ってみまし
た。

           大きな石燈籠
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 さらに歩いたところで、宅配便を取り扱っている、お店で、「亀野発電所跡
は、これよりだいぶ、ありますか」と訊ねました。すると「ええ、遠いですねえ
・・・と、でも2㎞ぐらいですよ」といわれ、そのくらいだと、日頃散歩で鍛えて
いるのでと思い、謝意を述べ、歩を進めました。

 まもなく、右手道路わきの新しい敷地にある神社が目に入りました。町お
輿しの一環なのかもしれないと思い、立ち寄ってみました。
写真入りで、由緒書きがあります。

          荒神神宮神社(あらひとじんぐうじんじゃ)

 安永年間(1777年)村の記録に-神社一社、梁桁壱間、社下畝、茅ぶ
き、大毛寺社人「末田埴後抱」とあり、両艦神社の神官が、祭事をつかさ
どっていることがわかります。
 二間四方の拝殿の奥、一段高い所に本殿が調和よく置かれています。
祭神は応神天皇と神倭伊波礼毘古命(カミヤマトイワレヒコノミコト)と、
記したものですが、ご神体は仏像です。神仏習合時代の影響を今に見る
ことができます。
 創立は、定かではありませんが、地元の長老の話では、「子どものころ、
聴いた話じゃが、昔、この前を流れる太田川の河底に沈んでおられたのを、
所の人たちが拾い上げて、川のほとりに祭ったのが始まりとか、元は川の
水際に祭られてあったのをこの地に移したもの」と、教えてくださいました。
 別説では、「昔、神武天皇が東征のみぎり、この地に船をつなぎ、上陸さ
れました。当時は、このあたりまで瀬戸内海が入り込んでいました。天皇は
この地に足を留め、地方豪族を従えられました。天皇が去られた後、その
高徳を慕って、宮を建て祭ったということです」-と。祭りは、毎年4月1
4日に行われていましたが、近年は、この日に近い前後の日曜日に改めら
れました。また、前述の長老によりますと、「境内には天を圧するような大
きな椋(むく)の木が立ち、宮の目印にもなり、神木とあがめられ、所自慢
の一つでもあった。惜しいことに、昭和17年の台風で倒壊し、わずかに当
時を知るものの記憶が残っているだけ」ということです。
 現在の神社は、県道拡幅のため、平成28年11月より、南北に建ってい
た神社を東西に移築するとという工事を開始し、平成29年2月末に移築
工事が完了したばかりです。

     荒神神宮神社(あらひとじんぐうじんじゃ)

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     荒神神宮神社(あらひとじんぐうじんじゃ)
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