atusisugoiのblog

 死 の 清 掃
  
 平大納言時忠は、その日、臨海館址(あと)を出て、赤間の東端(はず
)れの一漁村に、早くから身をひそめていた。
 前夜来、阿波民部の郎党、十数名が、かれの身辺を守ってい、子息の
讃岐中将時実も、串崎から戻った後、父のそばにい。
 連れの弁慶は、先に早や沖へ去った。
 「はて、どうしたのでございましょう?」
 時実は、たえず父の面(おもて)をうかがった。-その父も、刻々に傾く
陽脚(ひあし)に、憂(うれ)いを濃くして、むなしい沖を、あんたんとた
だ、凝視していた。
 「阿波の者、船は何艘あるか」
 「小舟三ぞうしかございませぬ」
 「こう、待ち暮らせど、沖の便りはついにないか。むなしく、夕となり、
夜とならば、悔ゆるも及ぶまい。・・・・・・・時実、これやなんとか、思
案をかえずばなるまいて」
 いっている時だった。-待ちかねていた帥(そつ)ノ局(つぼね)からの
秘史が、一そうの小舟の底に身を伏せてここに着いた。
 櫓(ろ)を漕(こ)いで来た一兵は、局が日ごろ目をかけていた郎党だろ
う。が、大事な文は、一女性の肌に持たせてよこしたのである。
 かの女は、船底に身を伏せ、上から苫(とま)をかぶっていた。見れば、
治部卿(じぶきょう)の局の姪(めい)で龍田(たつた)の典侍(てんじ)
という気丈な女性であった。
 時忠はぎょっとした。
 なぜならば、治部卿の局は、権中納言知盛の妹である、つながる縁の
女子であれば、早や知盛の知るところとなったかと、事の破れに、と胸を
突かれたからだった。-けれど、龍田ノ典侍の話を聞いて、ほっとまた、胸
なで下ろしたことでもあった。
 「みかどのお側に残っている女房がたは、帥ノお局のお打ち明けをうけ、
みかどのおん命だにや安からぬものならばと、ひたすら、心を一つにし
ておりまする。神仏のおん手を待つように、奇瑞(きずい)の顕(あら)わ
れがあろうことを、暗い船底にて、ただただ、祈りおうておりまする」
 龍田の典侍は、そういった。
 それすら、上わの空に聞きつつ、時忠の手は、妻の密書を披(ひら)い
ていた。さしも剛愎(ごうふく)な時忠すらも、指に、かすかなふるえを見
せた。時実も気が気でない。
 「ち、父上・・・・。吉左右、なんと見えまするか。母君のその御書状に
は」
 「おなじ御船には二位どのが乗っておられる。伊賀平内左衛門、越中次
郎兵衛盛嗣(もりつぐ)など、内大臣(おおい)の殿から旨をうけた目付人
(びと)も守っている。その中でのこと、密使を出すもむずかしゅうて、ず
いぶん帥も心を砕(くだ)いたらしいぞ。・・・・が、詳しいことは、いま
話しているいとまはない。すぐ、それへ参ろう」
 「では、それのおん在所(ありか)も」
 「分かった。-帆桁(ほげた)に掲げた細き黄旗が目印(めじるし)とあ
る」
 「やれ、それならば」
 「仔細(しさい)、ただちに、阿波民部どのへ知らせ、また阿波どのより
判官どのへ、即刻の報を頼みたいぞ。-三艘のうち、一艘はその由を持って
、先に急げ」
 かれの言下に。
 すぐ、阿波の郎党三名が、先へ沖へ出て行った。
 時忠父子は、自分たちの隠れていた漁夫の家へ、龍田の身を託し、二艘
の小舟に乗りわかれて、すぐ沖なる乱軍のうちへ、紛れ入った。
-で当然、時刻からすれば、義経が自舟をすてて小舟に移ったころよりも、
時忠父子の方が、だいぶ早くに沖へ出て、空の黄旗を、さまよい探してい
たわけである。
 -が、それよりも,なお少し前のこと。
 檣頭(しょうとう)に黄旗の見える船御所の横へは、幾艘もの小舟が黒々
と寄っていた、同時に、ゆゆしげな人影の幾つがその船上へ登って行った。

 かれは、権中納言知盛であった。
 知盛は、自ら自船を焼き捨て、同船の一族と郎党を、小舟小舟に乗せ分か
ち、自身はみかどの船御所へ、漕ぎ急いで来たのである。
 ともに漂い出でた無数の小舟は、散り散りに、思い思いに、途中では減っ
ていた。どこまでもと、続いてくる舟は少ない。
 知盛は、知っても、怒りはしなかった。わざと、逃げよといわぬばかりに
見える。「いずこへとなと、漂い着きて、生きよ」と、願っているのかもし
れない。
 かつまた、かれの面には、なんら怨念(おんねん)らしい隈取(くまど)
りも悔いもなかった。-矢傷の血、さんばらな髪、草刷(くさず)りの破れ
など、鬼神の扮装(ふんそう)を除いてただ人間の真骨髄だけを見るならば、
その静かな眸(め)は、日ごろのとおりであったといっても過言でない。
 「-勝敗は見えた。戦いはよく尽した。悔いはない」と、すずやかな菩堤
(ぼだい)の波上に、身はまかせているらしいかれなのであった。
「や、や。黄門(こうもん)の卿(きみ)にてはおわさぬか」
 かれの姿を迎えると、衛士の大将伊賀平内左衛門は、馳(か)けよって来、
 「四方(よも)のお味方、さんざんには見えまするが、なお、みかどや女
院にも、おつつがはござりませぬ。お安堵(あんど)なされませ」
 と、問われぬうちに、息せいていった。
 「・・・・・」ただ、うなずいてー「さっそくこれへ、お側の典侍たちを、
呼び集められよ。知盛より申すことのあれば」  
 「心得まいた」
 平内左衛門は、船底の口へむかって、知盛が来たよしを告げ、典侍の幾人
かを、上へ呼んだ。
 さなきだに暗い船底の御所は、もう黒白(あやめ)もわからぬほどだった。
-知盛が来たと聞くと、やみは、人間の官能だけを詰めている真空に見えた。
すすり泣きすら今はしていない。
 上では、典侍らにいい渡している知盛の声が、静かにしていた。
 「-残る味方は、なおあのように、諸所において、さいごのさいごまで、
戦うておることゆえ、敵が、ここ目がけて、襲(よ)せて来るまでには、ま
だしばらくの間はあろう」
 覚悟はしていても、知盛からいわれると、かれの前にある女房たちは、声
をあげて悲泣した。
 いや、かの女たちばかりでなく、すぐ側には、御簾(みす)一重の屋形が
あった、その屋形のうちには、二位ノ尼や修理大夫経盛や、一門の僧たちが
、ひそと、影をつらねて居並んでい、おなじ声を、じっと、聞いていたので
ある。
 知盛は、語をつづけて、
 「-畏(おそ)れ多くあれど、みかどや女院へも、今さらお覚悟などのこ
とは、申しあぐるまでもあるまじ。・・・・・ただ、やがてここも、源氏の
荒武者どもの踏み入るところとなれば、東国の輩(やから)に、御最期(ご
さいご)の有様なんども、ぜひなく見とどけられましょう。されば、世のは
したなき口の語り草にかからぬよう、清げに、おん身づくろい持たせ給うは
いうまでもなし、おん住居の跡にも、塵(ちり)だに見ぐるしき物はとどめ
給うな。-兵どもに申し渡せば、今より船上を掃きぬぐうて浄(きよ)め申
さん。-そのよし、女院へも、おつたえ申し上げられよ」
 と、諭(さと)した。兵はただちに、船上の「死の清掃」にかかった。
 知盛はまた、尼の前に来て別れを告げた。母と甘え、子として慈(いつく
し)まれてきた三十余年の絆(きずな)は今、知盛の胸をずたずたにしてい
るにちがいない。
 だが、知盛は尼へ、静かに、死の支度をすすめていた。尼も、みだれはし
なかった。いや、この子がいて、こうしてくれるので、今は死にやすいかの
ように、うなずいて見せた、-世に疲れたこの母が、いちばん望んでいるの
は、少しも早く、亡き良人(清盛)のそばへ行きたいという願いのほかでな
いことをー知盛は疾風(と)く察していた。いや尼自身から聞いてもいた。
 「おん供には、一門のたれかれもまいりましょうが、知盛もまた、お後か
らすぐ、死出の道を御一しょにいたしまする」
 知盛がいうと、それまで、黙然(もくねん)としていた叔父の経盛が、
 「否々、おん供は、賑わし過ぎるほど、大勢おる。「-なお行くての冥府
(よみのふ)には、故清盛公、重盛の卿(きみ)を始め、孫の維盛卿(これ
もりきょう)やら、門脇どのがお子の通盛(みちもり)、業盛(なりもり)。
さてはまた、この孤父が子の経正、経俊、敦盛なんどが、みな待っているこ
とでもあろうよ。・・・・されば、知盛どのは、あとの始末して、ゆるりと
、参られたがよいぞ」
 と、いつにない、明るい声音でいった。
 そして、その経盛は、そばにいた義弟の阿闍梨祐円(あじゃりゆうえん)に
、「得度(とくど)してくれよ。お剃刀(かみそり)は、真似ばかりでよい」
と頼み、また僧衣を乞うて、よろいの上に着、いつでもと、支度をすま
した。
 それらは、一瞬に思われたが、いつか陽は真紅の一環の端を、ちかと見せ
つつ夕雲に沈みかけてい、海づらも船上のあいろも、紫ばんだ暮気にくるま
れようとしていた。
 「みかどは、尼がだきまいらせて」
 やおら、尼は、屋形の外へ出てきた。経盛も、信国も。そして侍座の僧侶
までことごとく、入水の覚悟を見せて、舷(ふなべり)へ立ち並んだ。
 -人びとは無言になり、今し荘厳の美を極めた落日の燃えくるめきを西
方の浄土と見て、たれいい合わせることもなく、掌(て)を合わせた。
 そして女院とみかどを、お待ちしていた。

 波の底にも都の候う

 死らないはずはない。
 舷側(げんそく)の下の波間には、知盛の家臣紀ノ光季(みつすえ)やら、
ほかの舟も、よそながら、ここの船御所を守っていたはずである。
 だのに、いつの間にか、船上の賢所(かしこどころ)の前には、外部から
人影が忍び入って、御扉(みとびら)の前に佇(たたず)んでいた。
 侍大将の越中次郎兵衛が気づいて、はっと、怪しみながら、
 「たれぞっ。何者か」
 近づいてゆくと、二つの人影が、きっとこっちを振り向いて、次郎兵衛盛
嗣(もりつぐ)を、恐ろしい眼で睨(ね)めつけた。
 「あっ?」
 驚きにしびれ、あとの声も出なかった。
 平大納言時忠と、その子時実だったのだ。
 尼公(あまぎみ)の弟、おん国母の叔父君、かれが竦(すく)んだのもむ
りはない。
 だだだと、踵(かかと)ずさりに戻って来、平内左衛門のいる所へ来て、
 「伊賀。すぐ来い。怪しきお人が賢所へ近づいておる。ただの異変ではな
いぞ」
 と、その腕を引っ張った。
 平内左衛門は、かれとともに、賢所のある艣(ろ)の方へ馳け出したが、
とつぜん、くまれていた腕を逆用して、ずでんとばかり、盛嗣を投げつけた。
 不意をくった盛嗣は、
 「な、何するかっ。伊賀っ」
 跳ね返そうとし、また、喚(わめ)こうとしたが、平内左衛門の手が、そ
の口を塞(ふさ)いでいた。
 そのまに、平内左衛門の郎党が馳けてくる。盛嗣は、死力を振るって、や
っと立った。だが、よろめき立ったとたんに、平内左衛門らの諸手(もろて
)押しに追われて、仰向けざまに海中へ突き落されてしまった。
 「・・・・・・・あれやたれぞ。いまの水音は」
 二位ノ尼が、そばの者へ、訊(き)いていた。
 さりげない顔してすぐそこへ取って返していた平内左衛門が、後ろの方か
ら答えた。
 「越中次郎兵衛が、はや、死出のおん先がけを仕ったものと思われまする」
 尼は無言であった。けれど、騒(ざわ)めきが辺りに立った。次郎兵衛盛
嗣は、賢所の守りについていた大将である。神器に異変があったのではない
か。次郎兵衛が持って海へ沈んだのではないか。そうした危惧や疑いの口
走りだった。
 「いえ、案じぬがよい」
 尼はいった。
 「-神鏡(かみかがみ)の御唐櫃(みからびつ)は、余りに大きゅうて身
に持てねど、神璽(しんじ)と宝剣の二品は、尼が手に、しっかりと、携え
ておりまする。なお余す、片方の手に、主上を抱きまいらせれば、敵が望む
何物も、この世に残してはいますまい。・・・・・・・主上はいかが遊ばし
てぞ。女院はまだか」
 尼はそぞろに、死を急いだ。

 この時どこかで、凄(すさ)まじい武者声がし、続いて、ずずんと、烈(
はげ)しく船が震(ゆ)れた。船じゅうの絶叫は「敵ぞ」「東国武者が襲
(よ)せたるぞ」という以外の声ではなかった。
 船底の暗がりにも、女性の叫びが起こっていた。女童(めのわらわ)も交
(まじ)え、そこの穴口から外へ、いちどに、黒髪と裳(も)の女房たちの
群れがあふれ出て来た。まろび合い、すがりあい、泣き伏す人の上に、折り
重なって泣いた。
 悲泣といっても、号泣といっても、いい足りるものではない。かの女らは、
こうなるとは思わなかった。なお何か一縷(いちる)のものに、望みをかけ
ていたらしい。-みかど、女院、帥(そつ)ノ局―などを力として。
 だが、一瞬の様相は、破滅以外のものではなかった、「疾(と)う疾う
、みかどを、尼公のお手に」と、むごい、冷たい叱咤(しった)が、事もあ
ろうに、衛士の大将から叫ばれたりしている。
 動顚(どうてん)せずにいられなかった。悲しさの限りを咽びあげずにい
られなかった。わが身の死は、ともかくである、かの女らとて、それまでに
は未練はもたない。むしろ、女性特有な心定めは、武者よりは迷いのないも
のがあったかもしれないのだ。かの女たちの慟哭(どうこく)するわけは、お
いとけなき白珠(しらたま)のような無邪気なみかども、世の薄命を身に一
つにあつめておいでのような建礼門院も、ついに、、ご最期のほかはないの
かということだった。同時に、自分たちの身につながる幼い者、死なせたく
ない者への、絶望もともなった。
 「-西の空、かなたの美しさを、御覧ぜられい。西方の浄土とは、かしこ。
極楽の浄土とも申しまする。そこの久遠(くおん)の命のたのしみは、人の
世の都どころではありませぬ。なんぼう、苦患(くげん)も悪業(あくっご
う)も知らぬめでたき都やら知れませぬ。・・・・・いで、尼が、お道しる
べしてまいらせん。御子(みこ)さま、こう、尼にお倣(なら)い遊ばせや
、おん掌を合わせ、おねんぶつを仰せられませ」
 尼のそばには、もう、そこへ誘(いざな)われて、抱えるように立たせら
れたみかどのお姿が、おぼろに見えた。  
 山鳩色(やまばといろ)の御衣(ぎょい)に、お髪(ぐし)はみずらに結
わせ給い、つねの御癇症(ごかんしょう)や、だだっ子の、み気色もなく、ふ
しぎとお素直に、うなずいていらっしゃる。そして尼のするとおりに、小さ
い掌を合わせられたようだった。とたんに、あっ―と小さい叫びがし、お姿
は、尼の体と一しょに、この世と、海づらの間を、さっと翻(ひるがえ)り
つつ、沈んで行った。
 「さらばおさきへ」
 つづいて、経盛が、いとも淡々たる容子で、よろい姿に、僧衣の袖を、羽
のように夕風に吹かせ、ざんぶと、永別の波音を下から告げた。
 「さらば」
 「-さらば」
 ひきもきらず、人びとの入水する白い飛沫(ひまつ)と水音だった。その
間、二位ノ僧都(そうず)、法勝寺の能円、律師(りつし)仲快、祐円など、
数珠(じゅず)を揉(も)んで、声高らかに、読経をつづけていた。-ひと
群れの花束とも見える女房たちに取り囲まれて、建礼門院も、さっきから、涙
に濡れもだえておいでのようであったが、とつぜん、かの女らの手を振りも
ぎって、裳やお袖の色を、夕虹(ゆうにじ)のように逆しまにひき、あなと
見るまに、波騒(なみさい)の底へ、姿を消しておしまいになった。
 「あれっ・・・・・。女院さま」
 帥(そつ)ノ局は、叫んだ。われを忘れて、
 「女院さまが、たれぞ、早く」
 と、賢所の方へ、走った。
 すでに源氏武者が、船内を馳けまわってい、中には、義経の姿もあった。
 義経は、さっきから、舷側の下までは来ていたのだが、つぎつぎの抵抗に
出会い、たった今、躍り上がって来たのであった。
 すでに、人影少ない船内の状を見、また、帥ノ局の叫びに、耳をつんざか
れて、
 「しまった。ひと足、遅かったような?」
 と、残念そうに、そのまま、立ち竦(すく)んでいたのであった。

































                                                             

 月下美人の開花の瞬間を捉えたのが、今日(8月20日)になってしまい
ました。
 きのうは散歩中に大雨と雷に見舞われ、傘はさしていましたが、びしょ濡
れとなり、帰宅すると、月下美人の花が一輪開花しそうな気配を見せていま
したので、夜になれば、鑑賞しようと考えていました。
ところが、シャワーをして、食事をすませくつろいでしまったせいか、すっか
り忘れてしまいました。
 これ以前にも2、3回見逃していますので、本日は、ようやく撮影出来,安
堵したところです。
 こんなことでは、来年はこの美人の花が、拗(す)ねてしまい、綺麗に咲い
てくれないかもしれません。
 1輪だけの開花ですが、3枚の写真を、掲載させていただきます。

         月下美人  2017.08.20  撮影
CIMG0204



































         月下美人  2017.08.20  撮影
CIMG0203
























         月下美人  2017.08.20  撮影
CIMG0201

 家内と、娘たちは、折鶴タワー内の物産館で買い物をしているということ
でしたので、小生は、哲哉先生に、熊本城址を案内してもらうことになりま
した。おりづるタワーから、しばらく歩きますと、お堀に近づいてきました。
 
                              広島城
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 史跡、広島城跡

 昭和28年3月国指定

 史跡指定地  本丸跡、二の丸跡、堀及びその周辺

 別名      鯉城(りじょう)

 形状     太田川河口の低湿なデルタ上に気づかれた大規模な、
        輪郭式の平城

 沿革  1589年 (天正17年) 毛利 輝元   築城工事に
      着手
  
     1591年 (天正19年) 毛利 輝元       入城

     1600年 (慶長5年) 福島 正則(まさのり) 入城

     1619年 (元和5年)  浅野 長晟(ながあきら)入城

     1871年 (明治4年) 廃藩置県により本丸内に広島県
     の役所が置かれる

     1894年 (明治27年) 日清戦争本丸内に大本営が置
     かれる。

     1945年 (昭和20年) 原爆により、天守閣太鼓﨟、表
     御門など、全て崩壊

     1958年 (昭和33年) 現在の天守閣再建

  史跡、広島城跡=二の丸御門(復元)

 規模:桁行7.64m、梁間4.85m、軒の出1.27m、棟高10.61m
 
 構造:木造脇戸付櫓門、入母屋、本瓦葺き、軸部真壁、両側面一間庇
 付

 表御門は、天正期末(16世紀末)頃の構造と推定され、昭和20年の
原爆破裂による焼失までの約350年間存続していました。現在の表御
門は、平成元年の広島築城四百年を記念して、復元に着手しに、平成3
年に完成したものです。
 この平成の復元では、昭和9年に当時の陸軍第5師団経理部が作成し
た実測図をもとに、発掘調査の成果や、明治期から昭和期にかけての写
真を総合的に検討して、焼失後も残存した表御門の礎石(柱下の石)土は、
昔通りに再現しました。

         焼失前の表御門
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         復元された表御門
CIMG0203



















 史跡、広島城跡=二の丸〔昭和初期の多門郎と太鼓櫓〕

 
平櫓(ひらやぐら)・多門櫓(たもんやぐら)・太鼓櫓(たいこやぐら)

 
構造    平櫓: 木造一重隅櫓、入母屋造、本瓦葺き

       多門櫓: 木造一重渡櫓、切妻造り、本瓦葺き

       太鼓櫓: 木造二階隅櫓、入母屋造、本瓦葺き

 規模    平櫓: 桁行12.43m、梁干8.64m、棟高7.76m

       多門櫓: 桁行67.86m梁干4.93m、棟高5.13m

       太鼓櫓: 桁行8.49m、梁干7.76m、棟高10.60m

 平櫓、多門櫓及び太鼓櫓の創建時期は、天正期末(16世紀)頃と推定
されています。このうち太鼓櫓は、17世紀初期に改修されたものの、3棟
とも江戸時代を通して、この丸の馬出機能を確保する建物として存在して
いました。その後、平櫓及び多聞櫓西半分(平櫓側)は、明治初期に取り
壊され、残った太鼓櫓や、多聞櫓東についても、昭和20年8月6日の原
爆被爆によって倒壊炎上しました。
 この建物は、平成元年の広島城築城四百年を記念して、発掘調査や、昭
和の写真等をもとに、復元着手し、平成6年に完成したものです。

                   
再現前の太鼓櫓、多門櫓
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         現在の太鼓櫓、多門櫓
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 城内にある、広島大本営跡

 明治27年(1894)8月に日清両国に先端が開かれたのち、それまでに山
陽鉄道が開通していたことや、宇品港を擁するといった、諸条件により、同
年9月広島市に大本営が移されることになり、広島城内にあった第5師団司
令部の建物が、、明治天皇の行在所(あんざいしょ)とされ、ここに大本営が
設けられた。明治天皇の広島滞在は、同年9月15日から翌年の4月27日ま
での7か月余りに及んだ。その後、建物は広島大本営として保存されたが、原
爆により倒壊し、今は基礎石のみ残されています。
        
         城内にある、広島大本営跡 
CIMG0215



















 
 史跡、広島城跡=二の丸跡

 
この石垣と建物に囲まれた二の丸は、馬出しの機能を持つ廓(くるわ)
で、全国の近世城郭(じょうかく)の中では、特異な配置であり、広島城
の特徴とされています。
 この廓は、毛利時代(16世紀末)に築造されたもので、外側からの内部
が見えにくく、本丸からは、内部が見える構造としており、防禦機能も考
慮したことがうかがえます。
 郭内には、表御門、太鼓櫓など、近世初期の建物が残っていましたが、
原爆により倒壊、焼失しました。現在の建物は、築城四百年を契機に、江
戸時代の姿に、復元整備したものです。

  二の丸跡の配置を銅板に刻まれた銘板を埋め込んだ碑
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 広島城の中は、現在、資料館になっていましたが、時間の関係で、少し
閲覧させていただき、天守閣にも上らないで、娘たちが待つ、レストランへ
と、向かいました。











 海 豚(いるか)

 
ほどなく、海の形相(ぎょうそう)は一変していた。
 無数の生き物の貌(かお)のように、海づらは、波紋の沸(たぎ)りをふ
つふつ渦巻き始めている。潮鳴(しおな)りであろうか。ごううっという音
にもあらぬ音が、千尋(せんじん)の底から海峡いちめんを震(ゆ)りうご
かしているかと疑われる。
 両軍千余の船影は、そのころから、算(さん)をみだして、散らばりだし
た。
 海峡は狭い。だがなお、源平すべての船影と水面との比例は、いやそ
の人間業(ごう)の小ささは、一と抱えに足る落葉籠(かご)を逆しまにし
て、空からぶり撒(ま)いたほどな片々の物でしかない。
 しかし、その一片一片の中に、人間の業苦やら妄執(もうしゅう)やら、
名利を生死に賭けた顔が無数に積まれてい。たけび合い、殺し合い、呪詛(
じゅそ)の風雲を呼び降ろしていた。
 東から西へ、つまり瀬戸内から玄海の外へ。
 潮流は、午(ひる)まえとは、逆な方向へ、動意をしめし、刻一刻、水面
の傾斜を急にし始めて来たのである。
 まず、平軍が行動の自由を欠き、その集合を突き崩されたのはいうまでも
ない。
 同時に、待ち潮に乗った源氏が、俄然(がぜん)、攻勢に転じたことは、
もちろんである。かねて義経から、「-勝機は、その時」と、夙(つと)に、
諸大将への心得にははいっている。源氏か平家か。淡々と焔(ほのお)をあ
げて傾きかけている兵船も望まれる。
 具足、腹巻まで脱ぎ捨ててただ身一つを、豊前の岸や、長門の磯へ向かっ
て、からくも逃げ泳いでくる兵の影も、波間波間に、よく見れば見えもする。
 -それかと思っていると、これは明らかに人間ではない。
 怪異なものの群れが、潮に乗って、泳いできた。その一群一群が小さ
な波騒(なみさい)の斑(むら)を描き、水の色までが変って見えた。
 何かとおもえば、海豚(いるか)の大群であった。
 はやくも人間の血の香を嗅(か)いで、集まって来たのだろうか。屍肉(
しにく)を好む魚族でもないだろうに、気味の悪いことである。かれらは人
間の戦争を面白がっているように見える。焼け船の爛(ただ)れも、刃影
や矢唸(やうな)りも、よそ事みたいに、遊び巡り、いつまでも影を消さな
かった。
 「四郎兵衛(しろうびょうえ)。あれやなんぞ?」
 宗盛は、眼をまろくして、つかの間、海づらに、怪訝(けげん)な顔を奪
(と)られた。
 「海豚(いるか)でございましょう。千、二千と群れ泳いでいるものとみ
えまする」
 「ああ、海豚か。ならば珍しゅうもないが、おりもおり、かくもたくさん
寄ったのは見たこともない。これは平家にとって、吉か凶か」
 「小博士(こはかせ)はどう申しますやら」
 「そうだ。船には陰陽師晴信もおったの。晴信に卜(うらな)わせん。
景経、問うてまいれ」
 かかる中とは思ったが、飛騨景経は、命のまま起ってゆき、やがて、戻
って来ると、いいにくそうに、床几へ向かって答えた。
 「小博士は卦(け)を勘(かんが)え、これなん平家の凶兆、お味方の軍
(いくさ)を危うからんと申しおりました」
 「な、なに。凶兆といったか」
 「いまは早や、お覚悟あってしかるびょう存じまする。景経は、お側にあ
り、いずこまでもおん供仕りますれば」
 「・・・・・・・・」
 返辞をせず、宗盛は、急に船上を見まわしている。
 蕭々(しょうしょう)と、風が渡る。
 かなたの一囲いには、門脇中納言教盛の床几もあった。
 そこの人影は、寂として、声もない。
 おそらくは、教盛も、今は味方の敗相をみとめ、観念したのではあるま
いか。
 そして、算を乱した味方の群影の中に、能登守教経の乗船をその眼が
探して「-教経やいかにせし?」と、断末にせまる親心を、さまよわせて
いるのではなかったか。
 舳(みよし)には、左馬頭行盛が立ち、艫(とも)には、内蔵頭信基がひ
かえていた。-見わたすところ、内大臣の殿の乗船たるこの大船はまだ
健在だった。
 けれど、悲風はひょうひょうと悲報ををつたえてくる。人びとの死も伝え
られ、たれかれの船もみすみす眼の前で一炬(いつきょ)となって沈んで
いた。討死したり、入水したり、斬っつ斬られつのまま、舟もろとも、流れ
て行ったり、現世のこととも思われぬような水火の修羅(しゅら)が、かれ
の船を取り巻いていた。「・・・・・やがて自分の番がくる」宗盛は、戦慄
せずにいられない。
 かれは急に、そばにいた一小年、右衛門督清宗(うえもんのかみきよむね)
の小さい体を抱きよせて、「右衛門督、恐いか」
 といった。
 「いいえ」
 少年の白い顔は、無知覚のようであった。ただ張りつめてい、唇は、むら
さき色をしていた。
 「かねて父も申しおいたことぞ。うろたえるな。父はここにいる」
 「はい」
 「醜(みぐる)しゅう果てまいぞ」父のそばを迷(はぐ)れな。今ごろはそ
なたの母や弟らも、どれかの船で」
 右衛門督 は、やはり子どもであった。何を見たか、とつぜん父の手を
離れて、舷側(げんそく)へ馳けてゆき、   
 「あれっ、あのような物が流れてゆく」
 と指して叫んだ。
 宗盛も起って、体をそこへ運んで行った。見れば、一聯(いちれん)の絵
屏風(えびょうぶ)が波に漂ってゆく。裳(も)か紐(ひも)か纏(まつわ)
りついていく布らしき彩(いろ)も透(す)いて見えた。ほかの浪間へ眼をうつ
すと、遠方此方(おちこち)、琴やら経机なども、浮きつ沈みつ、流れていた。
 「さては、どこかで、女房船の一艘までが?・・・・。ああ、これははや」
 宗盛は、足が浮き、床几にも落ち着けなくなった。
 「みかどの御船は?」
 黄旗(きばた)のありかを、その眼はにわかに、探し求める。
 陽は横縞(よこじま)を描いた夕雲のうちに春(うすずぎ)かけてい、春特
有な靄気(あいき)と光をたたえて、なんとなく海上一面は模糊としていた。
 「黄旗は。・・・・・・右衛門督よ、黄旗の御船はどこにみゆるぞ」
 「父君。あれに」
 「おお、まだ見ゆるか。なお、みかども、母の尼公も、おつつがないの。
いっそ死ぬならば、御船へまいり、もろとも死のう。-四郎兵衛(しろうび
ょうえ)、四郎兵衛」
 「はっ」
 「この船、あれなる黄旗の御船のそばへやれ」
 「にわかには、ちとむずかしゅう思われまする。いかんせん、間をへだて
て、たくさんな源氏の船勢が、影をつらねて見えますゆえ」
 「なんの、遠くをまわっても、行けぬはずはあるまい。かかるまには、東
からも、あれ見よ、敵の一陣が近づきまいるわ。あれに襲(おそ)わるる
な、あの船勢に」
 叫んでる間に、宗盛は足の裏から、ずずずと震(ゆ)りあげられ、とたん
に、よろめきかけた。何か、異変だったにちがいない。地震の家鳴(やな
)りに似た響きが船体を揺すった、わあーっと、船じゅうの叫喚も一つに起
こった。
 遠くにのみ気をとられていたすきに、源氏方の串崎船か熊野船のような
軽艇が、いきなりこの大船の舵(かじ)へ舳先(へさき)を体当たりしてき
たのである。
 吃水下(きっすいか)の舵は砕(くだ)かれたにちがいない。屠(ほふ)ら
れた巨鯨のように、船体の進行がにぶり、ぐるりとまわったことでも察し
えられる。
 たちまち下からは、東国武者の顔が幾つも、舷側をよじ、楯を躍りこえ
て、名のり名のり、斬りこんで来た。
 船中の左馬頭行盛、内蔵頭信基(くらのかみのぶもと)、兵部少輔尹明
(ひょうぶのしょうゆうまさあきら)など、手の者と一つに、どっと、それへ
馳け向かって、
 「しゃっ、命知らずな獣(けもの)ども」
 「一人一人、生きては帰さじ」
 「思い知れ、積年のうらみを。平家にも人あることを」
 血は響きをたて、金属は火を散らした。甲冑(かっちゅう)と甲冑との組
み合は怪獣の格闘に似、その咆哮(ほうこう)は、日ごろの人間の耳には
覚えのないものであった。
 「・・・・・・」
 宗盛は、うろたえの果て、右衛門督をかかえて、物陰に竦(すく)んでし
まった。そして「かかる中に、門脇殿はどうしているか」と、かなたの囲い
の方をちらと振り向いた。そこには、凝然(ぎょうぜん)と、海(うな)づら
に向かって佇(たたず)んでいる教盛(のりもり)の影が四、五の郎党ととも
に見られた。かれの眸も黄旗をさがし、そこの安否を見まもっているので
あろうか。そしてこれ最後の永別と心に念じているように見える。

 潮幸(しおさち)に乗った源氏の追撃は、ますます、急調を加えていた。
 豊前岸へ追いつめられた平家の一船群は、完全に動きを失っている。
 そこ一箇所でも手負い討死の数はどれほどか。数十名の捕虜も出たら
しく思われる。
 点々と、陸上へ追い上げられて、虚脱したように、まだ熄(や)まぬ海戦
の余燼(よじん)をながめている蟻(あり)のような人影のかたまりは、そ
の生け捕り人の群れらしい。
 虚空(こくう)の矢響きがうすれ、また、まれにしか聞こえなくなったのは
戦局が徐々に圧縮されてきた証拠である。平軍にとっては、和布刈(め
かり)の御崎が後ろをさえぎる土塀(どべい)のようで退却の邪(さまた)げ
となった。-といって、早鞆の瀬戸の口は、すでに源氏が優勢な船数を
配してい、そこは今、死力をつくす平家との決戦場になっている。
 勢い、壇ノ浦一帯の沖だけに、戦いの場は、制限された。ある水辺のふ
ところへ追い込まれた魚群の盲目的な跳躍が、平軍数百隻の死力であ
ったし、同様な運命だった。
 とはいえ、その死力は、あなどり難い抵抗をしめし、苦悶(くもん)をあら
わしてからも、生ける者の息の根強さを痛感させられるものがあた。
かえって、気負いかかる東国武者が気負い疲れ、しばしば、かれらの中に
も莫大(ばくだい)な犠牲が出た。平家の一船を狩り奪(と)るため、無数の
兵船が、迫りつ開きつつ、時にはわっと、怯(ひる)み声のわき揚がるなど
が、それであった。
 -もう、敵味方のけじめさえ定かではない。今も義経の旗艦へ、鈎縄(
かぎなわ)をほうり投げ、いきなり飛びこんで来た一雑兵などもある。「-
すわ!」とばかり、乱刃の光がかれをかき消すかと見えた。雑兵は、半首
(はつぶり)の内から、
 「桜間ノ介だ。桜間ノ介だっ。御免」」
 叫びざま、義経の床几の方へ馳け、息もあらあら、ぶっ倒れていった。
 「つい今し方、平大納言御父子、赤間ヶ関の陸を離れ、海上へ漕ぎ出
られました。-神器、ならびに、みかどのお在所(ありか)、はやお目あて
がついたものと存ぜられまする」
 「おうっ、大納言どの父子が、それへ、漕ぎ向かわれしとな」
 義経も、下へひざをつき、
 「桜間ノ介。矢傷でも受けたるか。いかがせしぞ」
 と、かれの肩を抱いて、あとの語をうながした。
 幾すじかの矢が、かれの体には刺さっていた。-が、介は顔を横に振
った。どれほど、櫓(ろ)を漕(こ)ぎ急いできたことだろうか。矢傷そのも
よりは、息がともなわない気色なのである。
 「お案じ給わりますな、傷は何ほどのことでもありません。-かねて、兄
阿波民部の手の者十数名を、船島以来、大納言どののお身の護りに付
けておきました。そこの郎党より、右の由(よし)を告げよこしましたゆえに、
小舟を飛ばして、お知らせに参ったわけでございまする」
 「あらうれし・・・・。して、みかどと神器とは」
 「御明察のとおり日月(じつげつ)の幡(ばん)の下にはなく、別の亀甲
船(きつこうぶね)に隠しまいらせ、あまたな船影につつまれて、御崎近く
に漂うておりますよし」
 「と申しても、おなじ船型も多かろうに」
 「いや。それの目印(めじるし)には、帆桁(ほげた)の一端に、細き黄旗
を掲げられありますそうな。それは、かねてお諜(しめ)し合いのあった大
納言どのの御内室帥(そつ)ノお局(つぼね)からの蜜牒(みつちょう)との
ことにございますれば、間違いないことと思われまする」
 「おお、それぞれ疑いもなき、まことのお座船であろうよ。陽も暮れなん
かの今、なんの天助ぞ。-介、まいれ」
 義経は、舷側へ走り出、
 「伊勢やある、後藤やある」
 と、伊勢三郎、後藤兵衛実基などを呼びたてた。
 そして早口に、
 「この船、二人へ預けおく、よく戦え」
 と、命じ、また水尾谷十郎、伊豆有綱をよび、
 「近くに、串崎舟か熊野舟あらば、小旗でさし招け」
 と、いいつけた。何事か、ただならぬ急ぎ方のようである。
 三艘の熊野舟が、船脚早くざっと寄ってきた。一舟の上には、鵜殿(う
どの)隼人助のすがたが見える。
 義経は、飛び移った。介も、つづいて乗った。
 「さては、平家にとどめを刺さんと、殿後自身、敵のまっただ中へ斬り入
るお心よな。陸にては、馬前に遅れぬを慣(なら)いとする。なんで指をく
わえて見てあるべき」
 命じられたのではないが、弁慶をはじめ、那須大八郎、熊井太郎、伊豆
有綱など、われもわれもと、下の三艘の内へ、跳び乗ってしまった。

 大 悲 譜(だいひふ)

 「黄旗はどこに?」
 「どれが、みかどの紛(まぎ)れおわす、秘船(かくしぶね)か」
 自船を捨てて、三艘の小型な熊野舟へ乗り別れた義経以下の面々は、
血まなこで、敵中にただそれだけを捜し求めた。
 -今は、その黄色なる旗一つのあり所に、全海域の船合戦も、収縮さ
れた形であった。
 すでに断末魔の相を見せた平家方の船々(ふねぶね)は、義経の行動
にも気づかず、わが身わが身のさいごにあわてているのか、右往左往な
船影の乱れのうちに、ただ、叫喚をむなしくしているだけだった。
 しかしその間を縫い、たちまち、一群の軽艇が、義経の舟へ迫って来、
 「そこなるは、敵の大将判官と見たが、ひが目か。われは平家の能登
守ぞ、教経なるぞ」
 潮けむりのうちから、叫びかける者があり、
 「探していたぞっ。-判官逃ぐるなかれ、能登の前に名のり出でよ」
 と、つづいて喚(わめ)くのが近づいた。
 敵も十数艘、こなたも幾艘、どの上で、どの顔が、声を発したのやらも
分からない。
 だが、義経を守り合う面々は、能登と名を聞いただけでも「すわ―」と、
あらたまった戦気を持った。
 その中では、岩国次郎兼秀がひとり教経の顔を知っていたので、
 「油断あるな。能登どのは、あれよ」
 と、指さして、味方の者へ教えてた。
 そのとき、びゅんと、敵の近矢が、兼秀の胴へあたった。
 矢は跳ねかえったが、兼秀は舟べりを踏み外(はず)し、味方の足もと
へ、ひっくり返った。
 熊井太郎、水尾谷十郎のふたりは「よい敵」と武者だましいに膨(ふく)
れたが、かれへ近づけぬまに、江田源三が先んじて、熊野舟の尖(と)が
った舳(へ)から、教経の舟へ跳びこんでゆき、
 「見参っ」
 とばかり、長柄の一颯(いつさつ)を、横に描いた。が、空を打ったようで
ある。
 ざっと、高い飛沫(ひまつ)が、とたんに揚がった、源三の姿はなく、次
の千葉ノ冠者胤春(かじゃたねはる)が、教経へ組まんとしていた。しかし
これも海中へ振り飛ばされた。
 教経の小舟は、血で染められ、そしてまた、潮の水玉で洗われた。挑(
いど)んで行った東国武者は、例外なく、かれの大薙刀にかかり、命を落
とすか、蹴(け)落とされた。まったく近づきえない概(がい)があった。
 義経に出会い、かれと一期の勝負をして果てん、というのが、教経の願
望だったのではあるまいか。
 いわばかれ自身の悲壮な心理の奏(かな)でを、極致にまで高める死
に花として「-敵将義経をも道づれに」と、死神のごとく、附け狙(ねら)っ
ていたらしく察しられる。
 で、義経が小舟に移り、艇身(ていしん)、平家の中へつき進んできたの
をみとめ、教経も「すわ、判官が姿を見せし」とばかり、小舟を飛ばして来
たものだろう。
 もちろん、この時、源氏方でも、義経の意を知って、副将の田代信綱や、
安田義定、梶原一族まで、ほとんどが、大船から小型の兵船へ、乗り変わ
っていた。巨船と巨船との海戦から、波間の白兵戦へと、様相はいよいよ
終局へ来ていたのである。
 だから教経と義経の衝突だけでなく、源平の小艇戦は、随所の海面を
赤くしていたのである。小松新三位資盛(すけもり)やその弟の少将有盛
などの公達も、この一瞬(ひととき)に、浪間の華と消えて散り、佐中将清
経も最後と聞こえた。-そして教経の郎従、権道内貞綱も討死を遂(と)
げたのだが、ひとり教経のみは、不死身の夜叉(やしゃ)のように見えた。
古典によれば、このさい、権中納言知盛から、人をもって教経へ。「-い
とう罪な作り給いそ」と、その殺戮(さつりく)ぶりの余りなのを止めて、「た
だ好(よ)き敵へ組み給え」と、いいよこしたと伝えられるが、すでに破局
の乱麻(らんま)の中、どうであろうか。
 それにしても、大豪(だいごう)という風貌(ふうぼう)ではなし、むしろ、
病弱とすら都ではいわれていた教経の、勇猛ぶりには、敵味方なくそれを
偉として、人びとは胆(きも)をつぶした。-しかし常に主戦を唱えて、平
家をこれまで引きずってきたかれとすれば、当然な責めと死の道を示した
までのことであろう。
 ともあれ、教経は、義経をここに見出した。
 一念かれはその大童(おおわらわ)な姿を、命の火花そのものに見せて、
義経の小舟へ、自己の舳先(へさき)を当ててゆくやいな、
 「卑怯っ。-判官っ、卑怯ぞ」
 と、絶叫していた。
 たしかに、義経らしき小兵(こひょう)な大将が、鵯(ひよどり)の如くひら
と、ほかの舟へ逃げたのを見たからだった。
 おりから源氏の小艇も無数に寄っていた。
 義経は、その幾艘かを跳んで、教経の切っ先を避けた。
 「待てっ。あからさま、こう名のられながら、逃げ給う法やある。判官汚(き
たな)し、返せ、返せ。末代笑いぐさぞ」
 髪振りみだして、相手を辱じしめながら、教経も一、二艘は跳んだが、つ
いに義経を見失った。そして身は東国勢の重囲のうちにあるのを知って、
「むっ、無念」と、引っつかんでいた一人の武者を、どうと、潮の内へ蹴(け
)放した。
 安芸大領実康(あきのたいりょうさねやす)の子、太郎実光とっその弟の
次郎とが、同時に、かれの両脇から組みついた。
 いまは大薙刀(おおなぎなた)も失っていた教経は、右手で安芸太郎の
首の根をつかみ、片手に次郎の帯際を抱き込んで、
 「死出の道づれは、判官とこそ期したれ。なんじらの供は、不足なれど、
いで連れ行かん、やあやあ、敵も聞け、味方も見よ。故太政入道どのの
甥、能登守教経、成年二十六、いま世を辞す。さらばぞ」
 いい終わるまで、二人の体を引っつるしたまま、金剛力(こんごうりき)
で踏みこらえていた。そして、だだだと、二歩三歩、揉み歩いたかと思うと、
舟べりを蹴って、それなり海中へ、どうっつと躍(おど)りこんでしまった。
 滝のような飛沫が立ち、それは一瞬の水疱と化(け)し去った。それなり
教経も安芸兄弟も、浮いて来ない。

         みつどもえで海中に没す教経
CIMG0190




























-ちょうどまた、潮時刻も、西流の急を最盛にしてい、夕せまる海峡のう
ちは、人の作る阿鼻叫喚(あびきょうかん)のあらしのほか、べつに海水
の異様な底鳴りをも抱えて、世の春もよそに、業(ごう)の大悲譜を奏(か
な)でていた。

 「わき見すな、敵にかまうな。ただ行け、ただ捜せ。黄旗のお船を」
 義経は、しきりに呼ぶ。
 あせるまいとしても、あせらずにいられない。
 陽は傾きかけている。「・・・・・・もし暮れなば」と、間のない夜が怖(こ
わ)かった。このまま夜にはいったら手の施しようもないとおもう。
 能登守の声も、かれは、背にして恥じなかった。-それからも、上総五
郎兵衛忠光と名のる敵の兵船、また、悪七兵衛景清ぞ、叫びつつ追っか
けてくる兵船にも悩まされた。
 けれど、義経は、
 「弁慶、防げ。-大八郎、当れ」
 と、ほかの舟勢に、殿軍(しんがり)させ、およそ振り向きもしなかった。
そして、幾たびか、舟も乗り換え乗り換え、桜間ノ介、渡辺眤(むつる)、鵜
殿隼人助(うどのはやとのすけ)、佐藤忠信など六、七人にかこまれて、夕
潮の急と、いよいよ濃い修羅の影を分けて、ひたすらその一目標を尋ね
ていた。
 ・・・・・・・・・。
 一方、義経の去った後、その乗船をあずけらた伊勢三郎義盛、後藤兵
衛実基らも、むなしくはいなかった。
 義経の身を案じ、義経たちの小舟の影に、後から続いていたのである。
 と、その途中。
 舵(かじ)の自由を失っているらしい平家方の一巨船が漂っているのを
見かけた。なんで見過ごそう、舷(ふなべり)を寄せ並べ、ただちにそれへ
斬りこんで行った。
 思いがけぬ獲物であった。平家の総領、内大臣の殿の船だったのであ
る。それだけに、精兵もいた。-とも用意せず、向こうみずに躍りこんだ初
手(しょて)の東国武者は、かれの反撃に会って、たちまち屍(かばね)を
そこらに乱してしまった。「ゆゆしき敵ぞ」と見、伊勢三郎は、自舟を空に
して、二陣の先頭に立ち、後藤兵衛もまた、身を挺(てい)して、血風の中
へ、馳けこんだ。
 「前(さきの)内大臣、宗盛の乳母子(めのとご)、飛騨四郎兵衛景経は
ここぞ。景経が手並を見よや」阿修羅(あしゅら)となって、前後に、屍を捨
てている大武者がある。
 「-彼(あれ)討たば」と目がけて、
 「伊勢三郎義盛っ」
 名のるやいな、その大長柄が、風をまいて、挑(のぞ)みかかった。
 ところへ、また源氏方の一艘が、舷側へぶつかって来た。堀弥太郎親
経の手勢だった。あふれ込む兵を見ながら、弥太郎は自舟の艫(とも)に
立っていたが、急に弓をしぼって一矢を放った。
 矢は、飛田景経の内甲(うちかぶと)に立った。
 どうと、四郎兵景経が倒れたところへ、堀の郎党が、まっ黒馳けよって
行き、からめ上げているのが見えた。伊勢三郎は次の敵へ、馳け向かっ
てゆく。
 平家の内蔵頭上信基(くらのかみのぶもと)、兵部少輔尹明(ひょうぶの
しょうゆうまさあきら)なども、生け捕られ、縄目(なわめ)となって、乱離
な矢屑(やくず)や楯(たて)と一しょに、転(ころ)ばされていた。
 まだ二十歳にすぎない公達、左馬頭行盛は、斬り死にした。
 その様を、眼(ま)のあたりにして、おなじ船にいた門脇中納言教盛(か
どわきちゅうなごんのりもり)は、思わず眼をおおっていた。
 「-わが子教経も、今は、こう果てたにちがいない」と思う。
 かれは、時に五十七歳。余りに兄清盛の偉にあまえ、うかと人生の大
半を公卿なみにすごして来、勇猛も才略もない自分をよく知っている。
-そう知りながら、つい子の教経の勇と、その主戦説に引かれ、ついこ
こまで来てしまった身の凡庸(ぼんよう)さをひとりひそかに慚愧(ざんき)
している姿であった。
 その自分の身へ、かれはすでに、手ずから碇(いかり)のついた大綱を
巻きからめ、舷(ふなべり)から海をのぞいていた。
 まっ青な波の底に、瞬間、たれかの顔が見えた気がした。
 -兄清盛か、父忠盛の面影か、たれかが、そこまで来て、自分を波の
底からさし招いていると思った。
 教盛は、この世のたれへともない衆生へ向かって「おさらば」と、胸で告
げ、仏の名号をとなえ、ざんぶと、海底へ身を消した。
 ただここに、不覚な戸惑いを見せたのは、宗盛であった。
 気も公卿なみだし、身も肥(こ)え太っているかれなので、もとより武勇
の覚えはない。一子右衛門督(うえもんのかみ)とともに、乱戦のひびき
を耳に、船屋形の蔭にわなないていた。しかし、左右の郎党も、出て行っ
ては斃(たお)れ、出ては帰って来ず、飛騨景経や行盛も討たれたと聞い
て「今は」と、かれも覚悟したとみえる。
 舷(ふなべり)へ走り出、わが子と一つに、海へ身を投げようとした。
 けれどなお、かれは、そこでも、ためらいを見せ、うろうろしていた。する
と、何か喚(わめ)きざま、走りよって来た一武者が、いきなり宗盛を海へ
向かって突き落とした。「-あっ」と父の影が、真っ逆さまに海に向かって
のまれてゆくのを見、
 「父君っ」
 と、この右衛門督も、われから後を追って飛びこんだ。
 つづいて、後からもまた、幾つも水煙(みずけむり)が立った。宗盛を突
き落としたのは、宗盛の部下だったのである。「未練なお主かな」と、歯が
ゆく思い、主を誘って、自身も入水したものらしい。
 ところが、下にいた源氏の小舟が、「今のこそ、大将らしいぞ」
 「それかき探せ」
 と、熊手(くまで)や鈎棒(かぎぼう)を伸ばしあって、漕(こ)ぎ騒いだ。
やがて、その一艘へ、宗盛の大きな体が引き揚げられていた。つづいて、
また、はるかまで流されかけていた右衛門督も、源氏の舟に、助けあげら
れ、幸か不幸か、父子ともに、生捕りの身となってしまった。









 


















 




















 

 孫たちは、上が大学二年生、その下が、高校一年生、それに一番下が、
中学一年生になり、部活やアルバイトもしていて、それぞれ忙しい日々を
送っているようです。
 小生は、正月以来初めての千葉行きです。家内は、相変わらず時々出か
けていました。
 久しぶりに娘と孫に会えますので、楽しみにしているところです。
大学生の孫には、予備のスピーカーがありますので、1セット持って行っ
てやろうと思います。どういう具合に使用するのかはわかりませんが。以
前欲しいといっていましたから。

 からふね暴(あば)れ

 「見よ、殿輩(とのばら)」
 義経は、そこの高いところから、船上の武者へ、大声で、
 「時刻も早や待ちに待ったる未(ひつじ)ノ下刻(げこく)潮の落勢は休
(や)み、湖(みずうみ)にも似る漲(みなぎ)りとはなったるぞ。・・・
・・・いざ、敵へ向かって、思うさま戦仕(いくさし)かけよ」
 と、きびきび命じた。
 檣頭(しょうとう)の小旗命令が、全軍へも示された。
 同時に、とうとうと、攻め鼓(つづみ)が鳴り、攻め鉦(がね)の響きが、
波を逆巻いた。
 およそ源氏勢の一艘一艘からそれは起こった。まったく、意気を新たに
した武者声でもあった。「かかれ、かかれ。思うさま戦(いくさ)せよ」と
いう総懸(そうがか)りの令である。海を行く悍馬(かんば)が一せいに手
綱(たづな)を放たれた勢いそのままであった。
 先陣を競わば、先陣を切れ。奇功を思うて、敵の中へ深く潜まんとする
者は、ただ深く突き進め。
 乱打する旗艦(きかん)の急鉦(きゅうがね)は、各船の将にたいして、
意のままな戦闘と、功名漁りの自由を解放し、それを励まし、鞭(むち)打
つごとく、鳴っていた。
 いや、義経自身も、ただ、将座に倚(よ)って、戦いをながめてなどいな
い。
 かれもまた一戦士となって、敵中へ獲物を求めて突き進んで行くらしい。
 かれの大船は串崎の南から、急旋回(きゅうせんかい)を起こして、豊前
岸を左に、退陣のさいとは逆に、大きく、北へ向かって半円形を、えがき
出した。
 途中。-その旋回行動中に。
 内応した阿波民部の四国船団が、かれの驥尾、(きび)についた。
 そのうちの、主戦のやぐらに、阿波民部と、弟の桜間ノ介とが、姿を並
べて立っている。
 「・・・・・・・・」
 声は届きようもないが、こなたの義経と、遠く相見て、ほほ笑み合ったか
のようであった。
 このとき、海峡の潮(しお)は、西へも東へも,揺るぎすら忘れた。不気
味なほど、海面はひそまり満ち、豊前の沿岸も、壇ノ浦一帯の岸の根も、水
位はずんと高くなり、山々は低く見えた。

 さては疾(と)くより阿波民部は、平家を見切って、心を源氏に寄せてい
たか」
 権中納言知盛は、じんと眼の底に熱さを覚えた。
 「さしも、亡き入道殿(清盛)のお目にかけられし人なれど、われら入道
殿の子らには、かれらをつなぎおく器量もなく情も持たず、なべて、不徳
者なれば、ぜひもあらじ・・・・・。わけて、民部の弟、桜間ノ介なる者、内
大臣(おおい)の殿(宗盛)より、辱(はずかし)められ、屋島以来、姿をま
ぎらし、敵味方のあいだを、密かに、往来していたとか聞く。-おそらくは、
弟の誘いに、動かされてのことでやあらん。ああ、是非なし、是非なし」
 沸き返る味方の動揺をよそに、かれのみは、ふと、父清盛の大きな力
を思い返していた。
 が、すぐその眸も心も、
 「黄旗(きばた)の御船は?」
 と、たえず気がかりとしている船影の方へ転じていた。そしてひとり、こ
うつぶやいた。
 「おお。・・・・・・・・・まだ、おつつがない。おつつがない」
 黄旗を見るたび、かれの眼は、人知れぬものに、すぐうるんだ。じっと、祈
るがごとき眸(ひとみ)になる。
 とはいえ、全軍の指揮に、意気を失っているような知盛(とももり)では
もちろんない。
 つねに大処(たいしょ)から兵機は見ていた。
 鬼神のような半身を櫓(やぐら)から乗り出して、しばしば、叱咤(しった
)に声も嗄(か)らすのだった。そしてその寸隙(すんげき)、嵐の小やみの
ような息づきの間に―ふと見られる知盛の人間のそのままな心のたゆた
いなのであった。
 みかどや女院。
 また、母なる二位ノ尼どのやら。
 さらには、妻や、幼い子らや。
 さまざまな絆(きずな)の者が、心のなかで、かれらの後ろ髪を引いてい
るのであろう。
 それを、心で振り切り振り切り、知盛は自身を戦いへ向けていた。
 阿波民部の一角の豹変(ひょうへん)は、全軍の狂濤(きょうとう)を起こ
した。知盛の中軍すらも、収拾のつかぬ混乱に落ちている。船戦(ふない
くさ)の慣(なら)い、こうなっては、処置もなかった。一令よく百船を御(
ぎょ)すというわけにゆかない。-敵の源氏も、その結集を解き、自由な突進
へ移って来たらしいが、-かれもまた、そうするしかないのを知った。
 「なお、まだ、ここ半刻(はんとき)は、五分五分の戦い」
 ここしばし、漲(みなぎ)りきっている満々たる海づらをながめながら、か
れは思う。
 西へ東へも動きのない満潮時は、およそ半刻ほどこのまま持続しよう。
源平いずれの、利でもなし、不利でもない。
 戦場の条件は五分だ。四国勢の寝返りも、源平の船数を、ほぼ同数な
ものとしただけのことである。-何を恐れてと、味方のみだれが、ふがい
なく見える。
 -が、かれにも危惧(きぐ)はある。
 あと小半刻(こはんとき)もたつと、この潮は、静(せい)から動(どう)
へ、逆な流れを起こし、たちまち、平家にとっては致命的な逆潮(さかし)と
なることだった。
 「今のうちこそ」  
 と、それへのあせりと、
 「ここ半刻の戦いに、九郎義経に出会い、義経の首を挙げ得ずば・・・」
 と、しきりに、一挙(いっきょ)の決戦を果たそうとする気構えとの、も
だえであった。
 紅旗白旗入りみだれて、すでに全海域は、乱軍の相をえがいている。
しかし、知盛には註文がある。敵の小舟やただの兵船などには目もくれ
なかった。味方の十数隻をひきつれて、かれも、われから源軍の中へ白
波を立てて漕(こ)ぎ進んだ。
 「-九郎判官とやらに見参申さん。これは平家の大将、故入道どのの
三男、権中納言知盛ぞ」
 かれは、大櫓(おおやぐら)からわざと名のった。かくすれば義経も、姿
を現して来るかと思い、
 「波間なれば、馳け合わすもままならねど、近くの船群(ふなむ)れにい
るなれば、出会い給え。-かくいうは、知盛なれ。権中納言のここにある
を、もし見過ごさば、名折れであろうにー」
 漕(こ)ぎまわし、漕ぎまわし、かれの叫びは、矢風のあいだにも高かっ
た。しかし、義経はどこで戦っているのか、求める敵は、姿も見せない。
 かえって、その声を知るや、義経ならぬ船々の東国武者が、
 「ござんなれ、よい公達(きんだち)」
 と見て、舳(へ)や艫(とも)の前後に、櫓音(ろおと)や弦鳴(つるな)
りを、むらがり寄せ、
 「これは、鎌倉どのの家人、大内太郎惟義(おおうちたろうこれよし)」
 「庄ノ三郎忠家とはわれぞ」
 「相手にとって、御不足はあるまじ。佐々木盛綱、見参」
 などと呼ばわりつつ、あらゆる手段を尽して、挑(のぞ)み戦って来た。
 鉄爪(かなづめ)の付いた縄(なわ)が飛ぶ。火のついた油玉が投げこ
まれる。また、小舟の群れは船尾を狙う、これは敵の大船の舵(かじ)を
壊(こわ)しにかかるものだった。そのまに、命知らずな武者は、鈎(かぎ
)縄にすがって、猿(ましら)のごとく舷側(げんそく)をよじ登り、知盛
の船内へ、打ち物かざして斬(き)りこんで来た。

 義経以下、副将の田代信綱、安田義定、また梶原までが、すべて注目
を怠らずにいたのは、いうまでもなく、みかどのお座船であった。
 日月(じつげつ)の幡、(ばん)賢所(かしこどころ)のこしらえ、屋形
重ねの楼(ろう)などの見える唐船こそ、それと、眼ざしていたことは、た
れの腹もちがわない。
 で、義経の命令一下に、「人びと、思うざまに、戦(いくさ)せよ」とな
ってからは、その日月の幡へむかって、源軍の兵船が、真っ黒に懸(かか)っ
て来たのは、当然であった。
 しかし、能登守教経は、容易に将座をうごかず、
 「待っていた」
 といわぬばかりな落ち着きでながめていた。
 午(ひる)ごろ。いちどかれは死地に落ちて、その鎧(よろい)から肌着
までを海水に濡れびたせてしまったので、装いは、かえていた。
 よろい下着は、あざらかな山吹色に木の葉模様の銀摺(ぎんずり)。
縅(おどし)は錆(さ)びたる朱(しゅ)。かぶとは邪魔な物のように、背
へ投げ掛けている。そして長やかに佩(は)いた太刀の曲線が、そのまま教
経の姿だといっていい。ぼっと、眉から頬にかけて、ほの紅いのは、大きな
土器(かわらけ)の一杯の酒を、
 「末期(まつご)の水」
 と、笑いながら飲んだのが、なお微醺(びくん)をのこしているものらし
い。
 「-なんと下手(まず)い戦いを」
 何度か、かれは唾(つば)するようにいった。
 暗に、知盛のけさからの指揮を、不満としている風もある。
 が、たえず口の辺には、陽炎(かげろう)のような微笑を失っていない。
 その微笑は、冷たくて、刃のようで、何か、皮肉めいては見えるが、しか
し、
 「愚痴はよせ。この期(ご)において、女々(めめ)しい愚痴は」
 と、たれへいうのでもなく、自分で自分をしかる反省を、ふとつぶやいて
いたりもしているのだ。
 いよいよ間ぢかに寄って来た敵の群れをその眼が、見まわしたと思うと、
 「貞綱。これを預けおくぞ」
 と、白柄の薙刀(なぎなた)を、権藤内貞綱の手に渡し、また、真鍋次郎
能光へ、
 「弓を」
 と、求めた。
 握り太(ぶと)な強弓(ごうきゅう)である。平家の公達のうちで、これ
ほどな強弓を引きうる者は、教経のほかにはない。
 塩飽太郎(しあくのたろう)と、真鍋次郎が、そばにいて、こもごもに差
し出す矢を、取って射、取っては番(つが)え、その射ることも、早かった。
 もとより、かれだけの矢唸(やうな)りではない。船上の部下は、ここを
先途と、敵へ弦鳴(つるな)りをあげていた。
 しかし、敵から来る矢は、数倍していた。日月の幡にも、賢所の白木の
御扉(みとびら)にも、無数に突きささった。鴻(こう)や鷹の羽根が、羽
根だけの生き物みたいに生々しく光を放って刺さっている。
 「-あっ」
 と、塩飽太郎が、顔を抑えた。
 ちょうど、教経の手へ、矢を渡しかけていた瞬間だった。敵の一矢(いっ
し)が、教経の肘(ひじ)に立ち、ぴっと、細かな返り血が、かれの顔を染
めたのであった。
 「や、や。これは深い矢傷」
 「はや、ここは危ない」
 「殿っ、楯(たて)の蔭へ、身をお沈めなされい。おうっ。凄(すご)い矢
かぜ」
 部下はどっと寄って、人楯を作り、矢を引き抜いて、かれの傷口を布でぎ
りぎり巻いた。
 そして敵の目から、余りにも烈しい目標となったらしいので、床几を、下
へ移すようにすすめたが、
 「なんの」
 と、のみで教経はきかなかった。
 「ここに、みかどはおわさねど、みかど在(い)ますと、敵の目を、あ
ざむいての日月の幡なるに、さは軽々しゅう、怯(ひる)みを見せてよいも
のか」
 虚勢ではない。もともと、大敵の集中をうけるであろうとことも承
知のうえで、かれはこの唐船へ、われからすすんで乗ったのだ。
 だが、じっと、味方の友船(ともぶね)に護られたまま、いつまで、受け
身に立っているのはもう我慢がならぬぞ」 
 いいながら、傷口の布の結びを、もいちど、歯と片手で、締め直した。
そして、
 「暴れよう。いで、暴れ出そうぞ、者ども」
 と、やぐらから下をのぞき、
 「おういっ盛澄。船脚(ふなあし)を速(すみ)やかにせい。思うざま走
らせ、むらがる敵の雑魚船(ざこぶね)めがけて、突っこんでゆけ。-これ
は宋国(そうこく)にも通い、玄海の荒波にも耐えた太宰府船(だざいふぶ
ね)ぞ。いかなる大船へ打(ぶ)ち当てようと、敵は砕(くだ)けても、こ
なたは砕けぬ」
 と、帆綱座にある津ノ判官盛澄へどなった。
 怒り出した海の巨獣のように、帆が鳴りはためき、両舷数十艇(りょうげ
んすうじつちょう)の櫓(ろ)が、勇壮な音階をい一せいに起こした。
 教経の言は、誇大ではない唐船の威力は、巨鯨(きょげい)のようであ
った。単なる武者立ち船や、十艇櫓前後の小艇は、そばへも寄りつけな
いし、もしその鉄装の舳先(へさき)へ当ったら、船は折れるか、覆(くつが
え)ってしまうであろう。
 波間も見えないほど無数な源氏の船影も、巨鯨の行くてには、さっと海
を開いた。唐船を中心とするほかの緒船も、それにつづいて、しばしば源
氏の船々を、さんざんに蹂躙(じゅうりん)していた。

 義経の船は、田野浦沖を巡って、早鞆(はやとも)の瀬戸の口へと、指
針を向けて行くらしかったが、もし、その口を塞(ふさ)がれたら、、平家に
とっては、致命である。当然、平家の一船隊が、その前に、横列を布(し)
いた。
 平家方の主船の将は、小松新三位資盛と、弟の有盛だった。
 資盛は、ここで衝突した敵の中に、義経がいるとは知らず、ただ、早鞆
の口を守るべく戦ったのである。-さきに、都の恋人へは、すでに歌がた
みなども送って「生きての恋はこれまでです。けれどわたくしの恋は、ここ
長門のなぎさに、死後も長く歌いつづけているでしょう」と、書き送っていた
ほどな資盛なのだ。その覚悟は、戦振(いくさぶ)りにも見え、どこか、い
さぎよく、散り急ぐ花のような、きれいさがあった。
 矢交(やま)ぜはしたが、義経は、
 「ここの攻めは、急ぐにあたらぬ、船を回(かえ)せ」
 にわかに方向をかえ、斜めに、壇ノ浦沖の乱軍の中へ、紛れこんだ。
 暴れまわる唐船が眼にとまった。
 さんらんたる日月の幡が、血風(けっぷう)の中に尾を翻(ひるがえ)し、
銀龍(ぎんりゅう)が金蛇(きんだ)のような光を空に描いている。
 みかどの御座(ぎょざ)、三種の神器もその上ぞとと、源氏の船は、なお
蝟集(いしゅう)と追跡をつづけていた。    
 が、義経は、
 「はて。不審?」
 と、今にして、はっと気づいた。
 ほんとに、みかどのいますお座船なら、なんであのような猛進をして来
よう。好んで乱軍の陣頭に立ち、われから戦いを求めて来るはずはない。
 「・・・・・さてこそ」
 義経はほくそ笑みを顔に持った。ある謎が、かれには、解けかけていた。
 といって、黄旗の秘事までを、かれが知るはずもない。
 義経はただ、お座船と見えるその唐船は、じつは空船(からふね)にす
ぎないことを、すぐ覚ったまでのことだった。
 
 黄 旗(き ば た) ま ぎ れ

 
白旗を立てた一そうの軽艇が、そのとき巨船の横へ漕ぎ寄っていた。
 艇の武者は、上を仰いで、
 「渡辺党の渡辺眤(わたなべむつる)にて候う。乱軍のさいなれど、火急
の儀にて、直々、判官どのへお目通り仕りたき大事あり。御床几へお取
次ぎ給わりたい」
 と、波間から怒鳴っていた。
 「ゆるしが出、短い縄梯子(なわばしご)が降ろされる。すぐそれにすが
って、眤とほか二人の武者が登って来た。
 矢叫びの下である。船上は戦いのとどろきに間断がない。義経は床几
にかれらを待ち、見るとすぐ、忙しげに、われからいった。
 「眤か。連れたる二名は何者ぞ」
 「はっ」と、眤はうしろの者を目で招いてー「これは、敵方の松浦太郎高
俊の一族、呼子兵部清友(よぶこのひょうぶきよとも)と、平戸の峰五郎披
(ひらく)にござりまする」
 「うむ、松浦党の人びととな」
 義経は、意外ともせぬ容子であった。
 「ここへ伴うて来たは、いかなるわけか」
 「されば、先(さい)つころ、ひそかに相手へ通ぜよと、特にそれがしへ
仰せつけありし内応の儀、さすが、同族中の異議も粉々(ふんぷん)にご
ざりましたが、今は早お旨にそい、誓約におこたえ申しあぐるに如(し)か
じと、一党の談議もきまり、両名を使者として、これへお答えによこしたも
のにござりまする」
 「では、松浦党の大将太郎高俊には、一族をあげて、義経の誘いに応
ぜんと、申さるるか」
 「高俊どの自身、拝参(はいざん)申したきところなれど、なお乱軍の中、
かつは筑紫諸党も、そのため、揺れ騒いでおりますなれば、戦終わって
後、親しゅう拝姿のうえ、万感、そのおりにとの、御伝言にござりました」
 「よくぞ」
 と、義経はまず眤の労をねぎらい、二人の使者にも、床几をすすめた。
降参人ではなく、対等の味方として、遇したのであろう。
 もともと、松浦党と渡辺党とは、その発祥において、同根(どうこん)の
枝葉であった。摂津ノ渡辺からわかれて、筑紫の松浦や平戸に栄えた一
部族が松浦党なのである。それも遠い年月を経たことでもないから、はし
なくも今日、源平両陣に割(さ)かれたとはいえ、なお同族の誼(よし)み
は濃いものがある。傷(いた)ましい同根の血戦を見るには耐えぬ思いが、
どっちにもあったのは否みがたい。
 義経は疾(と)くから、渡辺ノ津以来の渡辺眤をして、松浦党を誘ってい
たもののようである。-が、水軍の行動には複雑なものがあり、一党中の
異議もあってか、この真際まで、答えがなかったものだった。
 が、それも急に呼応となった。
 さきには、彦島からは原田種直が国へ去り、今また、松浦党が降った。
筑紫諸党の全面的な崩れも、もう時をまつまでもない。
 そのうえ、四国の阿波民部も、既に源軍の一翼に加わって、鉾をさかし
まに、平家へ弓を引いている。
 しかも今の満潮時がすぎて、すぐ次に来る潮向きは、いよいよ源軍を
有利にしよう。その一転機から、平家は、逆潮の不利にも陥(お)ち、二重
三重の苦戦をしなければならなくなる。
 かくも源氏側には今、時と人と地の利と、三拍子の好条件がそろってき
た。けれどまだ微かな安心感も義経は持っていないようだった。たえず戦
況へ気を配り、また雨雲のみだれにも似る敵の戦列へ眼を転じていた。
 「時に、松浦党の使いに訊ねるが」
 「はっ」
 「そも、みかどの御座(ござ)ある御船は、どれぞ?、知るなれば、正し
く教えてほしい。いかなる功よりは重き功として、義経よりも鎌倉どのへ申
し薦(すす)めん。お汝(こと)らは知らざるか」
 「申すまでもなく、日月の幡のみゆる。あの唐船と心得おりますが」
 「ちがう」
 義経は、びしっといいきり、そのことには、口をとじた。
 根ほり葉ほりは無用と覚ったものだろう。平家たりとて、それほどな秘計
を、不用意に行うはずはない。平家内でも極く少数な首脳だけの知る計ら
いと、すぐ合点されたからである。
 松浦党の二将は、ただちに自陣へ引っ返した、眤はとどまった。そして、
乱箭(らんせん)の下を漕ぎ帰って行く小艇の影を見送っていると、また、一
そうの、小舟が舷側の下に漂いつき、
 「おういっ、縄を投げろ。縄なと投げてよこせ」
 と、喚(わめ)きかけた。
 櫓柄(ろづか)を把(と)っているのは大きな法師武者であり、ほかには
たれも乗っていない。
 「や。武蔵坊どの」眤が投げかけた縄の端は、とっさに、弁慶の片手に
つかまれた。

 「弁慶、ただ今、立ち帰りましてござりまする」
 義経の前に、かれはさっそく、今暁からの復命を、述べていた。
 「仰せつけにまかせ、あれより陸路を赤間ヶ関へ急ぎ、讃岐どの(時実
)をば父時忠の卿(きみ)のおん許まで、送り届けまいらせました。そして
すぐにも、立ち帰らんと存じましたところ、時忠の卿が仰せには、沖なる船
より、やがて秘事の使いあれば、判官どのへ良き土産にせよとのことに、そ
れ待ち待ち、御合戦をながめながら、つい、かくのごとく馳せ遅れました。
なんとも面目次第がございませぬ」
 弁慶の容子から察しると、かれのいっている主意は、みすみす眼の前
で行われつつある船戦に帰り遅れたという自責やら残念さにあるらしい」
 だが、義経が、一弁慶の戦力などを恃(たの)みに待っているはずはな
かった。「-もしや、弁慶が戻りなば?」と、待ったとすれば、それは、平大
納言時忠からの、なんらかの機密の連絡以外のものではあるまい。
 みかどの玉体と、賢所の神器とを、この乱軍のうちから、どう救出するか。
平大納言の胸にはあるはずの、その秘策を一刻も早く知りたかったのに
ちがいないのだ。
 「して、いかがいたしたか。それから先は」
 「されば、いざ帰らんと、急ぎましたものの、赤間ヶ関の岸辺には、船影
だに見当らず、やっとのことで、形ばかりの小舟一そうを拾い、無二無三、
平家の中をも漕ぎ縫うて戻りましたような仕儀で」
 「待て。そちの帰陣の遅し早しなどを問うてはいない。大納言どのが申
されし、沖より秘事の使いがあるはず―という、その使いはあったのか、な
かったのか」
 「待てど暮らせど、海上よりの使いとやらは、ついに、見えもいたしませ
なんだ」
 「来なかったのか」
 「はい」
 「いや、さはなくして、来るを待ちきれず、ただ合戦に心をせかれ、身勝
手に、帰りを急いだような仔細ではないのか」
 「決して、さる所存ではおざらねど、かかる間に、戦終わらば、同陣の友
輩(ともばら)にも、どの面(つら)下げて逢われましょうや、ここ千載(せ
んざい)の一期、むなしくいてはと、しきりに申しましたゆえ」
 「それみよ、弁慶。なぜ帰った」
 「はっ。でも、それがしの心根を不愍(ふびん)がられ、さまで申すなれば
立ち帰れ。沖の使いあらば、べつに思案して、判官どのへ通じまいらせ
ん。
弁慶行け―と時忠の卿より、み許しもございましたので」
 「さても、武勇のみにて、思慮には浅き男かな」
 義経は、舌打ちして、
 「戦いはすでに、勝ったるも同然なれ。また、勝ったればとて、もし神器
の行方むなしからば、事すべて水泡たらん。なんじは、薄々ながらも、大
納言どの父子が、密かに敵の裏より、それの無事を計って、義経に一臂
(いっぴ)の力を添えんとする密約も存じおりながら、なんで秘事の使いを
待って吉左右をこれへ持ち帰らざりしぞ。そちもまた、ただ戦場の勇のみ
を思い、武功の争いに逸(はや)るだけの男か。ああ、匹夫(ひつふ)よな」
 いまいましげに義経はしかった。
 戦いは、たけなわである。全面の激戦がながめられる。この様相では、
勝敗いずれかすら、たれにも判断はついていない。-が、義経の関心の
焦点は、それから先のものだった。年来、股肱(ここう)の臣としている弁
慶ではあり、それだけに、一そう腹が立ったらしい。
 「・・・・・・・・・・」
 弁慶は、ひたと両手をついて、悄(しお)れてしまった。
 ・・・・・そうだったと、しんから思う。いわれた通り、匹夫で、武骨一辺
で、ただ勇を振るってみたい量見からの智恵のなさであったと、自分でも痛
感する。
「おしかりの儀、この愚鈍にもきっと、こたえ申してござる」
 ややおろおろ声の弁慶だった。自分を情けない者と思ったことかもしれ
ない。
 「すぐさま、赤間ヶ関へ引返してゆき、殿の惜しみ給う秘事の便りを待
って、再度、時忠の卿(きみ)より、何かの諜(しめ)し合わせを伺うて戻り
まする」
 かれはすぐ起ちかけた。そして、その機(しお)に、腹巻のわきから一書
を取り出して、義経にささげた。
 時忠の筆である。
 わずか数行の走り書きだが、時忠の焦燥(しょうそう)が、おおいようも
なく筆に出ていた。
 時忠も待つ「海上よりの秘事の使い」というのは、かれの妻帥(そつ)ノ
局(つぼね)から、なんらかの便りがある手はずになっていることらしい。
 朝から待ったが、妻の便りはいまだにない。何かの障(さわ)りで、手は
ずが破れたものと分かれば、べつの策に出る所存はある。しかし百難を
排してでも、沖なる妻からの首尾は、きっとあるものと信じられる。
 ひとまず、武蔵坊は返すが、なお陽は高いし、かつ海上の軍(いくさ)も
乱れ立てば、連絡も一ばい、たやすくなろう。それにまた、薄暮のころこ
そ、すべてに都合がよいかもしれぬ。
 ただ、八方の船々に、眼を怠らせ給うな。後刻かならず、何かの変を見
給うべし。時忠もこよいまでにはやがて拝参(はいざん)、諸事ここ数刻の
うち。-というような意味のものであった。充分な含みも辞句短なうちに読み
とれた。
 「待て弁慶。再び、行くには及ぶまい」
 「はっ。とは申せ、不覚ないたしまいて」
 「いや、しばし様子を見よう。そちが赤間ヶ関へ漕ぐまでには、いかなる
変を見るやもしれぬ、それにまた、大納言どの父子には、行きちごうて、は
や陸にはおいでない場合も考えられる」
 「では、御憂慮のことには、弁慶、いかに努めたらよろしゅうございまし
ょうか。お指図を下し給わりませ」
 「おう、そこにいて、ひたすら平家の船勢を四方に見まもり、いささかで
も、いぶかしき変を見たらすぐ告げよ」
 「あれなる巨きな唐船は、そのお座船とは違いまするか」
 「笑止よ。あれはわが眼をくらまさんための偽計の船。みかども神器(じ
んぎ)も載(の)せてはいぬ。と義経は観た。・・・・・・おそらく他の雑
船(ぞうせん)の群れに紛れておわすものと思わるる。大納言どのが内室
よりの知らせを待つのもそのことに相違ない。義経が求めるのもそれ一つぞ。
わかったか。
 「心得まいた」
 弁慶は緊張に膨(ふく)れ、五体の精気を視力にあつめて、やぐらの一角に
、手の大薙刀と並んで立った。
 こうして、義経の床几を繞(めぐ)るここでのことも、時間にすれば、それ
は極くわずかな経過でしかない。
 その間といえ、間断なく、船自体は戦い戦い、縦横な航跡を両軍の間に描い
ていたのである。





















 先日、府中市役所へ家内と一緒に行き、ある書類の手続きをして来ました。
 そこで市の広報を入手してきましたが、せっかちにも2年前のものでした。

 その情報によりますと、府中市新庁舎建設設計者選定で、新庁舎の基本
・実施設計を行う設計者として「千葉建築計画事務所・久米設計 設計共同
体」を選定したという記事が、記載されていました。
 建設工事完成は、平成34年(2022年)4月を予定しているといいま
す。

 書類の手続きを終え、役所の、渡り廊下の外を見ますと。フェンスんで囲
んだ空き地が見えましたので、これが事前の遺跡発掘調査の準備かもしれな
いと想像しました。
 これがもし、事実だとすれば、予定とおり計画は実施されているのだと思い
ました。
 新庁舎が、無事完成することを、市民として、心から願っています。

 今後のスケジュールとして

 設計作業     : 平成27年9月から平成29年3月
 埋蔵文化財調査 : 平成28年度から平成32年度
 建設工事     : 平成30年度から平成33年度


    新庁舎イメージ図 府中街道から通りを見る
CIMG0024


















       新庁舎イメージ図 大國魂神社から見る
CIMG0023











 庁舎の裏玄関にある銅像を、思いでとして、小生が描きました。
表玄関の銅像もそのうちに描こうと考えています。

      現在の市庁舎、裏玄関に設置されているモニュメント
CIMG0003






 髪(かみ)と仮名文(かなぶみ)

 平家七百余艘、源氏六百艘ぢかくは、いま完全にひとつの海面(うなづ
ら)をうずめ、敵味方のけじめもわかず、乱れあった。
 ただ、紅(くれない)の旗、白き旗が、それと知られるだけである。
 絡(から)みあう小型な兵船と兵船との、打ち物を振りかざしての斬り結
び。
 熊手や鈎棒(かぎぼう)などで、引っ懸(か)けあい、撲(なぐ)り合い、
また、組んではそのまま、諸(もろ)だおれに、飛沫(ひまつ)の下となる
のもある。
 巨船の動きは、鈍重(どんじゅう)であった。
 自然、矢戦(やいくさ)の応酬が多い。舷々(げんげん)双方の上から湧
きあがる武者声は、弦(つる)鳴りや波音をもくるんで、ふしぎな大音響を
雲に谺(こだま)させている。
 光と色を持つ疾風(はやて)とも見える矢かぜの中には、おりおり、鏑矢
(かぶらや)のうなりが魔の笛を吹いて走り、火ダネを抱いた火箭(ひや)
も薄い煙を矢道にひき、射つ射られつ、飛び交(か)う。
 「さても無謀な敵。-そも、義経は何を思うて、潮向きの不利も厭(いと
)わず、かかる総攻めを無二無三に仕懸けて来たか?」
 知盛は疑った。思わず、そうつぶやいたことだった。
 平家の旗艦は、かれの坐乗するこの一隻であり、屋形重(やかたがさ)ね
の大櫓(おおやぐら)は、すなわち司令の塔であった。
 一時は、かれも狼狽(ろうばい)した。色をなし、声をからしつつ、自陣
の立て直しに、死に物狂いの指揮を見せていた。
 けれど「さても無謀な義経―」と、いうつぶやきが、かれの口から出たと
きは、もう、急場をこえて、ある機微な見通しと同時に、落ち着きも得てい
たらしい容子(ようす)に見えた。-そして今は、
 「・・・・よしっ」
 と、みずからゆるしているような眉根であった。ようやく、盛り返してき
た味方の旗色を見たのである。
 とともに、胸は、人知れず傷(いた)んでいた。「ああ、この狂瀾(きょ
うらん)の中に、幼いみかどが在(あ)る。耳を掩(おお)い、黒髪を伏せ、
ただわなないているしかない女房の群れは」と、思いやらずにいられない
知盛だった。
 -ふと、その眼をさまよわせる。
 まるで幾千羽の雁(がん)が、一沢(いつたく)の水に浮いているような
敵味方の船影である。かれの眼は、何かを、その中に探しているふうだった。
 「オ。あれに」
 眸(め)に映った物は、細い黄旗の流れだった。「ああ、幼帝はおつつが
ない」と、一安心したかのように、ふと、そのまま凝視を凝(こ)らしてい
る。
 すると櫓(やぐら)の真下で、
 「や、や。異な臭(にお)いがするぞ」
 「屋形に内から煙がもれる。屋形の内をあらためろ」
 「出火だ。火箭(ひや)が刺さったのだ。屋形の内に」
 「なに火箭が?」
 煙は、櫓へ吹きあげ、横へも、はい拡がる。
 兵の消火は迅速(じんそく)だった。幸い、見つけたのが早かったので、
大事にもいたらなかった。しかし、余燼(よじん)のいぶりはなお立ち昇っ
て来、知盛は、何度も咽(む)せた。
 ところへ、かれが無二の臣(しん)としている紀(き)ノ光季(みつすえ
)が帰って来た。-光季をどこかへ使いに派したのは源氏の総襲(そうよ)
せ前であった。ために果たして、無事に帰船できるかどうか、生死すらも、
案じられていたところである。
 「おお、光季(みつすえ)か。よくぞ戻りし。・・・・・・・途中、源氏
の船に追われたであろうに」「いえ、幸いにも、阿波民部どのの助けに会い、
民部どのの兵船に守られて、からくも無事をえて、立ち返りました」
 「して、申しつけた儀は」
 「一そうの女房船の内にて、北ノ方様を訪い参らせ、親しゅうお目通り
申しあげ、おさずけの御文(おんふみ)、おかたみ、相違なくお届けいた
しまいてござりまする」
 「・・・・・・・泣いたか」
 「そ、それやもう、仰せまでもございますまい。泣いたかとのお訊(たず
)ねはあまりに、むごいおことば」
 光季は、とたんに、よろいの袖で顔を隠した。だが、肩のふるえは、悲
泣の底波を隠しきれていない。
 知盛の瞼(まぶた)も、あやうく誘われかけたが、
 「いや」と語気をきつくかえ―「かねがね、彦島を離れる前から、よう申
しふくめておいたが、なんというても、女のこと、いざとなっては取り乱れ
、あらぬ愚痴など口走って、泣き狂いなどしなかったか・・・・・・と、そ
れを訊ねたまでのことぞ。光季、大儀であった。-もうよい、戦の中だ、早
や弓を取って、一方の楯に立て」
 「はっ・・・・はい」
 顔を押しぬぐって、
 「これは、北ノ方様のお返し文(ぶみ)と、おかたみ交(が)わしの品に
ござりまする」
 と、何やら小袖布(こそでぎ)れに包んだ物を、知盛に手渡すやいな、す
ぐ櫓梯子(やぐらばしご)を降りて行った。
 妻の返し文はいと短かった。二、三行の美しい仮名(かな)が、ひらと、
かれの手から風に翻(かえ)された。また、紙元結(かみもとい)で巻いた
短い毛と、やや長めな髪とが出て来た。
 かれの妻子は、二位ノ尼とも女院とも別れ別れに、べつな女房船の一
艘に乗って出た。北ノ方はまだうら若く、十二と九ツの子を抱えている。
上の名は六代(ろくだい)。九ツになる下の子は、知忠といった。
 おそらく、かたみ交(が)わしの黒髪は、妻と子のものであったろう。
知盛は文の中に巻き入れて、肌の深くへそれを秘めた。やや安堵(あん
ど)の色がその顔に漂う。
 彦島を離れるさいも、かれのみは、女房の柵(さく)を訪わなかった。
思いやりの深い女院が、そっと、かれの妻子を御所の一間へ呼んでおいて
、最後の別れを惜しませようと計らってくれたが、渡御陣(とぎょじん)の
混雑やら、事態の急に追われて、つい、そのおりもそこに来ている妻子と
一目の別れすらできずに船出してしまったのだ。
 とはいえ、この戦場に立っての後まで、なお恋々とそのことに拘泥(こう
でい)している知盛であるはずもない。
 この戦いの中に、ではなんで、紀ノ光季を、妻子の許(もと)へやったの
だろうか。疑えば、不審である。しかし、この謎は、使いした光季のほか、
知盛の部下すらついに知る者はなかったらしい。いや平家のうちでも、幾人
が知っていたろうか。おそらくは指を折って数えられる極くわずかな人びと
に限られていたのではないか。

 ー義経はふたたび敗れた。
 敵の意表に出た急襲なので、初めは平軍をかき乱し、かなりの犠牲を敵に
出させたが、もともと、逆潮に向かい、無謀を知っての攻勢である。
長くはそのその利も続くはずがない。
 加(くわ)うるに船戦(ふないくさ)は、田野浦(たのうら)前面のむず
かしい瀬潮(せしお)を繞(めぐ)って行われた。梶原が苦闘した朝の一戦
とおなじ轍(てつ)を繰り返したのもふしぎはない。
 やがて旗色は振るわず、源軍は、瀬潮(せしお)の自然力に大きくうごか
され、四分五裂(しぶごれつ)になってしまった。船力の集中など思いも
よらない。いわば烏合(うごう)の兵となった。
 水利に明るい平軍は「時こそ」とばかり攻勢に転じ、追っかけ追っかけ、
個々撃滅のかたちに移った。
 -が、すでにその微が現れたころ、義経は疾(と)く、「総勢退(ひ)け」
を命じていた。螺(ら)や鉦(かね)が、船から船へ、騒然と退却をつたえ
合い、白旗を伏せ、逃げ帆を揚げて、乱れ退いた。
 「さても、なんたるぶさま」
 「戦(いくさ)上手の判官どのも、船戦では、陸(くが)における面影も
ない」
 「なんと無念な」
 「二度まで敗れを重ねるとは」
 どの船上でも、東国武者の荒っぽい声と、口惜しさに燃えてる顔がいっ
ぱいに見える。
 陸戦では「たとえ、味方は退くとも」と、踏みとどまって、頑張る勇者も
見られるが、海上では、しょせん、無意味な沙汰である。地だんだふんで、
敗走をともにするしか途(みち)はない。
 「そもそも、判官どのは、午(うま)の刻まで待て、午の一点こそ総懸り
の時ぞ、などといわれていたが、なんのための潮待ちであったの」
 「わざと敵へ当たって、いよいよ、敵の鋭気を誇らせたようなものでしか
ない」
 「心得ぬ御指揮ではあるぞ」
 「梶原どのの口真似(くちまね)ではないが、かくては、天性、将器のお
人でないのだろう。その奇略とやらも心もとない」
 「何せい、お若いお若い。船戦は陸とはちがう」
 「とかく一昨夜から、二の足ばかり踏まれておる。御自身、しかとした戦
略もなく、ここへ来て、平家の威容に気をのまれたのではあるまいか」
 船と船とに分かれているので、非難もごうごうたる高声である。わけて、
鎌倉直参の家人たちは、そう義経を恐れていない。むしろ梶原に迎合的な
声すら聞こえる。
 ただ、さすが義経の旗艦だけは、静かだった。かれの耳を恐れるのではな
く、ここには、かれの股肱(ここう)の郎党が多かった。たとえ、鎌倉家
人の武者にしても、みな心から義経に服していた。
 「三郎、三郎。ちと船脚(ふなあし)を落とせ。ちと逃げ脚が早過ぎだぞ」
 義経は、やぐらの上から、下に見えた伊勢三郎の頭を、のぞき下ろして
いった。
 仰向いた伊勢が、放胆に顔をくずして笑った。逃げ脚といった義経の語が
、何か、おかしかったものらしい。
 「いや、帆も下ろしまいた。櫓(ろ)もゆるやかにと、今、申し渡しており
まする」
 「そうか。この速(はや)さは、まだ潮の落ちてゆく力とみゆるな」
 「されば西から東への、落潮の勢いは、なお休(や)んでおりませぬ」
 「忠信」
 と、こんどは、やぐらの角に立っていた佐藤忠信を振り向いて、
 「時刻は?」
 と、訊ねた。
 「未(ひつじ)(午後二時)には、少々間がありましょう」
 「かなり長くに思われたが、まだ一刻(いつとき)≪二時間≫ほどしか経(た
)っていないか」
 その時、後陣の方で、何か騒然たる雑音と声が起こった。
 陽ざしを按(あん)じていた義経は、きっと、視線を向け変えた。味方の
船列と、また逆光線のために、さだかに見えなかった平軍の船影が、こっち
へ向かって、黒々と近づいているのであった。
 「しゃっ、敵の追い討ち」
 忠信が大声でいう。
 櫓下へも、伊勢三郎、千葉胤春、水尾谷十郎など、だだだと、馳け集まって
来、
 「わが殿、わが殿。敵は船勢残らずそろえて、追い討ちかけて参りまし
たぞ」
 「平家のこれまでとは打って変り、田野浦を後ろに捨て、大挙、攻めに転
じてくる様子」
 「なんとも物々しく見えまする。勝ち誇って、お味方の退き脚を、さらに
撃って撃ちのめさんと、追い追ってきたに相違ありませぬ」
 やぐらへ向かって、口々にかれらは叫んだ。いや。義経の結ばれている唇
から出される次の命令を、早くとせがむが如き声だった。

 まぶしげに、義経は、凝視の顔を、西方へ向けていた。
 海面は、ぎらぎら揺れ、しかと、眸(め)にとらえ難い。
 朝には、平家方が視覚に悩んだ。陽が傾くにつれ、それは逆になってくる。
 「・・・・来たか」
 義経はつぶやいたきりである。
 下で待つ郎党どもの顔へ、一語の令もまだ発しない。
 いや、令を待つものは、この一船上だけでない。
 舵(かじ)を転じて、迎え討つ態勢へ移るのか、あるいは、他に何か策を
取るのか、総勢の船もいま、令の合図を、待ちぬいていよう。
 が、義経は容易に断を下しかねている風だった。のみならず、なんの逡巡
(しゅんじゅん)か、舷側(げんそく)を洗ってゆく直下に波間をのぞきこ
んだ。いつまでもそうしていた。
 「忠信、大八郎」
 「はっ」
 「そのほかの者も、これへ来て、おのおのの軍扇を波間へ投げよ、投げて
みよ」
 なんのためか、かれらは怪しんだ。
 -が、いわるるまま、各自その一扇(いつせん)一扇を開いては、波へ向
かって投げた。義経は、潮に乗って流れ去る一扇を波の果てに見送っては
、また次の一扇のいくえを見ていた。そして、
 「おう、潮あしは、いつか刻々と緩(ゆる)やかになっておる。さてこそ、
敵の権中納言も、機を外’はず)してはと、焦心(あせ)ってきたはず」
 果然、かれの声の裏には、何か確信がこもっていた。かれは即座に、令
を下した。
 「-総勢はなお退陣をつづけよ。敵を誘(いざな)い誘い、串崎と満珠(
まんじゅ)の沖あたりまでも遠く退(さ)がれ」
 号令の意味が全部の船上にゆきわたったころ、平軍は早やその全能力を挙
げて、追い潮の利に乗じつつ近々と迫っていた。
 偉容堂々たる唐船数隻がその中心であった。敵も源氏方よりやや多く、堅牢
な舟艇と、船型の大きな点なども、概して、平家の方が優位であった。
 それになお平家の立場は、追い潮のうえに、順風の利を占めている。
ただし追い潮は、あと半時(一時間)までの間しかない。未(ひつじ)の下刻
(げこく)(午後三時)ともなれば、この落潮はぴったり休(や)み、満潮時の
平静を見せてから、やがて今度は、逆流に変(かわ)る。
 義経が待つものは、それが逆流に転じる時だった。
 それなのに、無謀な攻勢を、午(うま)の刻から開始したのは、なぜなの
か。
 思うに、時や潮合いを計っていれば、平家方も「さは、させじ」と、それ
以前に、猛攻撃を起してくるからであったろう。
 そのばあいは、絶対的な不利におかれる。どう逃げかわしても、味方の壊
滅か大損傷はまぬがれ難い、未ノ下刻といえば、長い春の日とて間もなく暮
れよう。薄暮のころが、源氏にとって最良な時刻なのだ。それまでの維
持もおぼつかない。如(し)かず、われからかれへぶつかってゆき、能(あた
)うかぎり、時を稼(かせ)ぎ、敵を誇(ほこ)らせ、いわゆる、紛(まぎ)
れの戦法をとって、時来(ときく)らば、反転せん―というのがかれの真意
であったとみえる。
 では、知盛の腹はどうか。
 いうまでもなく、知盛は義経が望んでいることの反対を望んでいる。
 しかしさすがのかれも。義経の悪条件を無視した逆先鋒には意表を突かれ
た。そのため、われから攻撃に出るべき大切な時機を失ったかたちでも
ある。勝利には見えても、決定打とはならない戦に、むなしく幾時かを空費
した憾(うら)みは多い。
 -で、猛然と、追撃をかけたのだった。
 今、この潮のまに、完膚(かんぷ)なきまで適をたたき潰(つぶ)さなく
て、いつ天与の時があろうか。「一一ノ谷、屋島の汚名をそそぐは今なるぞ。
者ども、奮(ふる)えよ。積年の恨事、今こそ東国武者に思い知らせよ」と
知盛のいる大櫓(おおやぐら)でも、能登守教経の立つ唐船の上でも、声を
からしているであろう形相と叱咤が、眼に見えるようであった。
 追撃陣は、三段に分かれ、右翼は豊前寄りを、左翼は長門側から南下し、中
央の主力は、やや凹(くぼ)み形に遅れて、六百余艘、鶴翼(かくよく)をな
していた。-つまり三面包囲の形である。
 源氏の長い船影の先は、すでに串崎の突端あたりまで、漂う芥(あくた
)のように押し流されていた。これを見れば、たれしも「あなや源氏危うし」
の感なきを得なかったろう。おそらくは、梶原一族など、どれかその一船上
で、歯がみをしつつ、「能(のう)なき九郎どのが、ついに大将の器(うつ
わ)にあらぬ凡性をみずから発(あば)き見せたるわ」と、口汚くののしっ
ていたことだろうと思われる。
 いずれにせよ、源軍の尾端と、平軍の左翼とは、長門壇ノ浦端(はずれ)
の海上で、もう、矢交(やま)ぜの喚(おめ)き、揚げていた。
 また右翼も、その船列を、豊前岸の方からから大きく迂回(うかい)しは
じめている。源軍の真っただ中を両断して、さらに主力の一陣から猛攻を加
え、ここ串崎の細長い陸岸の壁に、源氏の全水師を追いつめて、一艘残らず
葬(ほうむ)り去ろうとする勢いをあきらかにしていた。

 矢  見  参(やげんざん)

 主戦場は海上だが、一部の陸地も、当然、戦場の範囲にははいってい
る。陸では陸の、微妙な動きやら陰の闘いもあったのはいうまでもない。
 赤間の臨海館の址(あと)へ、前夜から身を潜(ひそ)めている平大納言
時忠、また夜半すぎ、串崎の北磯から武蔵坊弁慶に送られて、義経の誓
書を携(たずさ)え、父時忠の許(もと)へ、急ぎに急いで行った讃岐中将
時実なども、どうしたか。
 おなじ臨海館址の古建物の一つには、朱鼻(あけはな)の伴卜(ばんぼ
く)なる怪物、奥州の吉次という妖商(ようしょう)、その二人が潜(もぐ)
っているらしい気配もあった。
 そのほか、町屋の諸所、山野のいたる所に、姿こそ見せないが、戦わ
ぬ庶民も、その日の海上を、かたずをのむ思いで、ながめあっていたこ
とだろう。とにかく、平家の紅旗は、昨夕以来、赤間ヶ関一帯の陸上から
影を消していた。ことごとく、きょうの海戦に出たものと思われる。
 きょうの埠頭(ふとう)から壇ノ浦や串崎の磯松原だの漁村の屋根越し
に、ひらめき見える旗幟(はたのぼり)は、全て源氏の印(しるし)だった。
火ノ山の上に望まれるのも、白旗だった。
 いまも壇ノ浦の辺を、一群の騎馬が、東へ馳けてゆくのが見える。
 「すわ、船手の味方危うし」
 と、源氏の騎馬勢は陸上で気を揉(も)み、口々に、
 「敵の船勢(ふなぜい)が、わが水軍を串崎に追いつめ、三方より殲滅
(みなごろし)を計る気色ぞ」
 と、叫んでいた。で、、当然な加勢(かせい)を思い、おのおの、掩護(
えんご)馳け集まったものらしい。
 だが、川などとちがい、海ではあるし、烈しい潮(うしお)。馬を乗り
入れての加勢など、思いもよらない。
 ただ、波際に馬を立て、弓を左手(ゆんで)にして「-近くこそ寄れ、ひ
と泡吹かせん」と、海上の敵を、睨(にら)まえているだけであった。
 その中には、金子十郎、和田義盛、鎌田正近、畠山重忠、熊谷直実、片
岡為春など、兜の眉廂(まびさし)深く、双(そう)の眼(まなこ)を研
(と)ぎすまして、うつつもなき顔も見える。
 そのうちに、かれらはまた、どどどどっと、外浦(とうら)の方へ二町
ほど、先を争そって馳けなだれた。平家の左翼が、中軍の総勢か、どっち
かであろう。平家方の三段の陣も、ここへ来ては、見分けもつかぬほど、
包囲の翼をせばめ、岸へも、源氏の船へも近接していた。
 「それっ」
 とばかり陸の源氏が馳け出したのも、敵の船隊が、近々と外浦(とうら)
の岸へ接してきたのを見たからだった。おのおの、弦(つる)を争い張って
、「-得たり!矢ごろぞ」と、渚(なぎさ)から敵の船目がけて、びゅんび
ゅん、射出した。
 海面での視覚は陸の目測とはだいぶ違う。思いのほか距離があった。
矢の多くはむなしく落ち、浪間の塵(ちり)と浮いて流れてゆく、平家はこ
れを見て、
 「あな、笑止」
 と、どよめき笑い、
 「小ざかしき陸(くが)の東国武者どもに、潮かぜの中の強矢(つよや)は
こう射るものと、眼に見せてくれんず」  
 船々の艫舳(ともへ)に、平家は強弓の士をそろえて、一せいな矢響き
を応酬し出した。

 「やや、東国武者の中にも、さすが腕ぶしの弓取りもいるにはいるわ。
船屋形の角柱(すみばしら)へ、箆深(のぶか)に立ったるこの矢を見よ。
この敵の矢を」
 今、眼を丸くせんばかりに、兵どもが下で騒ぎ合っている様子を見、知
盛は、櫓越(やぐらご)しに、下へのぞいていった。
 「光季(みつすえ)。その矢を抜いて、これへ見せよ」
 「はっ、御覧(ごろう)じなされますか」
 紀ノ光季は、すぐ矢を引き抜いて、知盛の前へ持って来た。
 知盛が手にとってみると、
 鴻(こう)の羽根を作(は)いだ白箆(しらの)《色付けせぬ生地(きじ)
の矢柄(やがら)》の矢に、漆書(うるしが)きの細字で、和田小太郎義盛とし
てあった。
 当時の風習としても、持ち矢すべてに署名したわけではないが、強弓の
士は、おのおの、幾筋かの記名矢を背の箙(えびら)に持っていた。
 そして序戦の矢合わせに「-わが腕のほどを見よ」と誇って射たのであ
る。
 このことを、当時の武者は、矢見参(やげんざん)とも称(とな)えて、自
己の記名矢は、自己の分身のように大切にした。だから、目標を射外(い
はず)しなどして、その矢で、敵が射返して来、自分の矢で自陣の損害を
うけたりすると、物笑いのたねにされた。
 「さても、めずらしき人の矢見参かな。鎌倉の和田小太郎ともいわるる
武者の矢に応(こた)えもせぬは怯(ひる)みといわれん。たれかこの矢を
、和田の陣へ、返報してやる者はないか」 
 知盛のことばに、光季が、
 「ならば、伊予国の住人、仁井紀四郎(にいのきしろう)へその矢を賜わ
りませ。紀四郎なれば、致しましょう」
 選ばれた射手の紀四郎親清(ちかきよ)は、和田の矢を賜わって、海面
(うなづら)三町余を射渡し、和田の騎馬陣に、わっという応えをわかせた。
 矢は和田の後ろにいた石田左近太郎の肘(ひじ)に見事立ったのだ。
左近太郎は馬から落ちた。近くにいた東国勢は「あな笑止。あな憎(にく
)や、和田が粗忽(そこつ)な矢見参して、つまらぬ恥をかきぬるわ」と、口
々にいったので、小太郎義盛は、いたたまれなくなったものか、一陣、ほ
かの渚へかけ去って、舟を求め出した。海上へ戦い出て、恥をそそごうの
所存らしい。
このさい、同様な矢見参は、諸所でも見られた。
 義経の身辺へも、平家方から、白箆(しらの)の大矢が飛んで来た。
漆書(うるしが)きを見ると、仁井紀四郎親清とある。 義経はその矢を、た
れに与えたものかと、後藤兵衛実基(ごとうひょうえさねもと)にたずねた。
やがて船中の一士、甲斐(かい)源氏の浅利与市(あさりのよいち)が選
ばれた。この浅利与市は、走る鹿を射損じたとことがないといわれ一名
を走鹿与市(はしかのよいち)ともよばれていた。
 かれは賜わった矢をつがえ、狙(ねら)い外(はず)さず、敵の一船上に
見える仁井紀四郎を一矢で射止めた。    
 わあっと味方の喝采(かつさい)がわく。敵の色なきどよめきも、ながめ
られる。
 興亡いずれかの土壇場(どたんば)へ来て、矢見参の応酬など、ちと悠
長(ゆうちょう)な感もあるあるが、戦争の遂行(すいこう)にも、時代の型
と、約束があった。
 個々の武者気質(むしゃかたぎ)は、軍の共同的な精神よりは、個人の
名を重しとしていた風がある。敵と闘う以上にも味方同士の名誉争いが
ひどかった。陣(じん)名のりはいうに及ばず、所持の矢柄にまでわが名
を書くような風習も、自然、そこから生じたのである。
 しかし、遠矢通しの、矢見参などは、まだ距離がある間のことで、やが
て、敵味方相互の顔も見えだし、わめきの意味も聞きとれるほど、舷々(げ
んげん)接し合って来ると、もう乱箭(らんせん)乱射、めちゃめちゃな矢交
(ま)ぜと化してしまうのだった。

 源氏は、苦戦だった。
 すでに串崎の長汀(ちょうてい)に沿い、その船列も細長く乱れてゆき、あ
る部分では、早くも寸断されかけている。
 背水の陣ならぬ、背陸の陣に、源氏の船はみなおかれた。
 待ったなしの決戦を、今は余儀なくされた形である。凄愴(せいそう)の
気、何にたとえようもない。受けに立つこともできず、退くこともゆるされな
かった。なぜなら、串崎の南の沖には、平家軍の右翼と見える約七、八
十艘が早くも先へまわっている。それが徐々に、源氏の退き口を断ちか
けていた。
-こう見まわせば、完全に、源氏は敵の大きな包囲環の中にあった。
そして、その内の一船上に、義経の姿もあった。依然、司令塔上のかれ
の影だけは、変りがない。その双眸(そうぼう)は、何かを思うか、この事
態に追いこまれても、なおらんとして、澄みきっていた。
 「忠信」
 「はっ」
 「桜間ノ介を、呼べ、これへと申せ」
 「心得まいた」
 忠信が馳け降りて行く。と、すぐかれに伴われて、半首(はつぶり)をつ
けた桜間ノ介が、櫓(やぐら)ばしごを、登って来、
 「-おん前に」
 と、ひざなずいた。
 今暁、讃岐中将時実とともに、義経を訪い、時実は帰ったが、かれのみ
は、船中にとどまっていたのである。 「介(すけ)か、あれ見よ。串崎の
南の沖を。-わが行く手に現れて、先を断つが如(ごと)き構えを取った平
家方の七、八十艘」
 「それがしも今、あれはいかにと、疑ごうていたおりでございました」
 「そこのすすめを容(い)れ、内応(ないおう)の約を誓うた阿波民部の
船手とは違うか」
 「兄民部のそれか否か、なおしばし、見ておらねば?」
 「いやいや、味方の後方は、敵に追いつかれて、苦戦に見ゆるぞ。
-待つは、もどかしい、一刻も速く、あれ確かめたいが」
 「では、串崎一そうを、それがしにお貸し給わりませ。追い潮に乗って、
あれへ漕(こ)ぎ寄せ、もし兄民部の同勢なれば、すぐに合図仕ります」
 「よし早く参れ」
 それからすぐであった。
 串崎舟は、義経の旗艦を離れて、南へ向かった。まだ落潮の余勢はか
なり急とみえ、その迅(はや)い影は、一葉の行方(ゆくえ)に似ていた。
 そしてまたたくまに、それはかなたの船群に近づいた様子である。しかし、
なんの変もあらわれない。
 「・・・・?」
 義経は凝視した。多少の不安を眉に。
 するとやがて。-かなたの七、八十隻の上に見えた紅の旗は、源氏の
白旗に変えられた。
 「おお、さてはやはり、阿波一党の船手であったか。四国の阿波勢こそ
は、平家の列を脱し、今よりは、源氏の味方となったるぞ」
 義経が、告げ渡すまでもなく、源氏の総勢は、わあっと、諸声(もろごえ
)をあげた。-瞬間は眼を疑ったが、疑いもなき四国勢の応反と知って、踊
らんばかりに歓(よろこ)んだ。
 だが。
 一瞬の平軍の上には、声もない悲風が吹いて通った。
 おそらくは、そこの人びとこそ、眼を疑って、仰天したことだろう。
 みな、愕然(がくぜん)と、色を失い、怒りを、眸(め)にこめて、「今
の今まで、阿波民部めを、さる人非人(ひとでなし)とも思わず、山賀、松
浦党などとともに、一方の大将を任したるこそ口惜しけれ」と、足摺(あし
ず)してののしり合ったに相違ない。
 が、なんといおうと、様相はもう逆転していた。
 四国勢の寝がえりばかりでなく、筑紫党の船群の中でも、同時に何事か
が起こっているらしい。
 また源軍の尾端にからんで、追撃に追撃を加えていた平家の左翼や中
軍も例外ではなかった。無廬六百余隻の船影が、棒でかきまわされた池
水の落花にも似た渦をえがき始めている。
 思い思いなうろたえと、統御を欠いた行動には、早くも混乱の兆(きざ)
しが見え、帰するところもない有様だった。
 「こはそも何事?、人為(じんい)の変(へん)か、天変か?」
 一つ一つの、平家方の船上こそまた、思いやられる。
 平家人(びと)自体にさえ、何が何なのか、わけが分からない狂噪(きょ
うそう)を周囲に見たことだったろう。そして疑う身も、つい狼狽(ろうば
い)の波に巻かれて、いよいよその無統御を大きくしていたにちがいない。
 




































 7月21日、平尾 昌晃氏がお亡くなりになり、テレビで、追悼番組があ
りました。
その模様を、オーディオのCDレコーダで録音していましたので、CDを聴
きながら、「新・平家物語」を読んだりして今日はゆっくりと過ごしました。
 氏は、当初ロカビリー歌手《1958年頃》を本業としていらっしゃいま
したが、当時、小生は、もっぱら演歌調の歌謡曲を好んで聴いていました。
 この番組を視聴して、初めて平尾昌晃氏が素晴らしい作品を作曲されていた
ことに気づいたのです。
 ヒット曲は、耳にタコがができるくらい当時聴いていたのですが、平尾 昌
晃氏の作品とは知らないで聴いていたのです。
このようなすばらしい作品を、作曲された氏に、あらため偉大さを痛感しまし
た。御冥福をお祈りいたします。
 1960年頃から作曲家に転身され活躍されていましたが、残念ながら20
17年7月21日に急逝されました。
 ヒット曲を列記してみますが、いづれも、小生のプレイリストに追加したい
曲です。演歌でもなく、ロックでもない、むしろ叙情歌謡曲ともいえる、作品
群です。これらの曲が、人々に大きな夢を提供してくれたと思います。

 すべていい曲ですが、何年経っても、新鮮なメロディと歌詞という意味で、
不朽の名作の一つといっても過言ではないと思われます西崎 みどりの「旅
愁」がイチ押しです。

  歌手名              曲名

 平尾 昌晃           「おもいで」

 アグネス・チャン        「草原の輝(かがや)き」

 西崎 みどり          「旅愁」

 小柳 ルミ子          「私の城下町」・「瀬戸の花嫁」
                                             「お祭りの夜」 

 布施 明              「霧の摩周湖」・「恋」・「おもいで」

 五木 ひろし          「たそがれ横浜」・「夜空」
                                             「長崎から船に乗って」

 平尾昌晃・畑中葉子       「カナダからの手紙」

 中条 きよし          「うそ」

 梓 みちよ           「渚のセニョリーナ」

 じゅん・ネネ          「愛するってこわい」

 テレビドラマ主題曲       「必殺仕掛人」

 ロカビリーの時代が終わり、地元に返り、友達のレストランで皿洗いな
どをし、生活をしていたところ、北海道の女性ファンから、平尾宛に、手
紙が来、読んでみますと「北海道では、今、《おもいで》がヒットしていま
す。
マーちゃん頑張って唄ってください!」という内容だったのです。この手
紙に勇気をもらい、もう一度やってみようと決意をした矢先、レコード会
社から、話があり、訪ねてみますと、先方は「おもいで」という曲を、布施
明に唄わせたいとの相談だったのです。
 当時布施明は、カンツオーネを唄っていて、ジャンルのちがう歌に対して
抵抗を感じてていましたが、それでも平尾昌晃にデモテープを依頼し、やっ
とレコーディングしたといいます。
 布施明は、あの声の伸びからして、愛の歌を唄わせたら、絶品だと平尾
は直感し、「霧の摩周湖」を作曲提供したのだと本人が述べていました。
 その後、平尾氏は、結核を患い、都内に入院しながらも、尚作曲をつづけ
、これでは、回復も見込めないということで、長野県の諏訪の方へ、転院し、
そこで大手術をし、闘病生活を余儀なくされました。
 1年で退院した後、再び作曲活動を再開し、「たそがれ横浜」という作品
を五木 ひろしに提供しました。。
 五木 ひろしは6年くらい下積みをしていましたが、平尾は、五木を見て
まだ若いのに、地味に完成したようで、これではヒットしないと感じ、この
若さだったら、ポケットにでも手を入れ、もっとリズミカルな曲を歌わせた
いとの思いで、生まれた作品だと本人が述べていました。
 また、小柳ルミ子と出会ってからは、この娘(こ)には、故郷の匂う歌を
唄わせたいと考え「私の城下町」を、作曲したといいます。

 ウイくペディアによりますと、クラシックの作曲家であり、国立音楽大学
教授の、平尾貴四男氏は、平尾昌晃氏の、伯父だといいます。

 今年に入って、演歌作品の第一人者である作曲家「船村徹」氏も他界され
ています。この後、どんな作曲家と、歌手が大ヒット曲を生み出してくれる
かを、期待をし、楽しみにしているところです。

 最近、小柳ルミ子の「お祭りの夜」を、FMでオンエアしていましたが、な
かなか郷愁を誘ういい曲だと感じました。これも、平尾昌晃の作曲です。

 


 お絵の遊び

 船やぐらはなく、それに代わる合掌造(がっしょうづく)りの大きな屋
形と、幾つにも区切った船部屋だけがあっと。
 つまり亀甲船(きっこうぶね)とよぶ横幅の広いあの型の巨船である。
船底へ降りると、下にも大部屋小部屋が見まわされた。微かな採光だが、
明かり窓も切ってある。ゆうに、ある一族の大家族が住めるほどな様式
だった。
 「あっ、いけません。・・・・・・・上へおいで遊ばしては」
 「どなたも、ここへ来て、みかどをおなだめくださいませ」
 「みかどが、どうしても、おきき入れ遊ばしません。階(きざはし)へ
おすがりあって、上へ出るのじゃ船底にいるのはいやじゃと、仰せられま
する」
 今、そこの薄暗い中では、女房たちのけたたましい、困りきった声がし
ていた。
 ゆうべの御潜幸(ごせんこう)とともに、みかどは、暗い船座敷のひと
つを、仮(かり)の玉座にあてがわれ、上へお顔を出すことすら、皆から
きびしく止められていた。
 みかどと女院の御寝(ぎょし)の場所は、大きな田舎作りの一間に似て
いた。頑丈な木肌がまわりをムキ出しに囲んでい、ふさわぬ几帳(きちょ
う)や壁代(かべしろ)があるに過ぎない。波明かりの青い揺れが窓から
射しこみ明かりの中にはいまわる船虫がたくさん見られた。
 そんな息ぐるしい所に、自然を好む童心のみかどが、耐えられようはず
もない。-今も、おん母のすきを見て、上へ登りかけたところを、女房た
ちにさえぎられ、むりに壁代のうちへ連れ戻されたらしく、さかんにだだ
を叫ばれたが、やがて、わんわん泣きぬくるお声が、そこの階段口から、
上にまで聞こえて来た。
  桶(おけ)の中みたいに楯(たて)の並んでいる舷側(げんそく)の
内を、艫(とも)から舳(みよし)へ、舳からまた艫へと、絶えまなく警
戒の眼で歩いていた伊賀平内左衛門家長(いがのへいないざえもんいえな
が)は、ふと、足を止めて、
 「はて、困ったもの。・・・・また、お虫気(むしけ)か」
 と、そこの口から下をのぞいて、ふと、きき耳をそばだてた。
 女院のお声もする。また、、大勢の典侍や小女房も下にはいるので、え
ならぬ御袖の香や、女体の温(ぬる)い匂いが、平内左衛門の顔を撫(な
)でた。
 「あ、畏(おそ)れ多い」
 かれは、自分の土足が、玉座の上や、女院のおわす所の上を踏んでい
るのだと気づくと、多年の習慣で、脚も竦(すく)んでしまい、あわてて
のぞくことをやめ、再び舷側へ戻って、無表情な構えで歩き出した。
 すると、艫寄りの屋形の内から、
 「それへ参ったのは、伊賀殿か」
 と、呼ぶ声がした。
 「はっ、家長にござりまするが」
 とかれは、屋形の簾越(すご)しに、内へ向かって、ひざまずいた。
 内には、二位ノ尼の白い姿が見えた。侍女もいる。脇座(わきざ)の人
は、修理大夫経盛(しゅりたいふつねもり)、その側の僧衣の人は、かれ
の義弟、阿闍梨祐円(あじゃりゆうえん)。
 声をかけたのは、その祐円らしく、平内左衛門の方へ向かって、
 「さいぜんから、みかどのおん泣き声がやみ給わぬが、いかがなされし
か。もしや、お悪戯(いた)などの末、おけがでもなされたのではないか
と、尼公にも、これにて、お案じ遊ばしておらるるが」
 「いや何、さような儀ではおざりませぬ。ひたすら御窮屈をお厭(いと)
い遊ばし、例の御癇性(ごかんしょう)をお発し遊ばされたもののように
伺われまする」
 「ならば、ごむりもないし、またなんとも、ぜひないことではあるの。
したがなんぞ、み心の紛(まぎ)れるようなお遊び事でもして上げられぬ
ものか。女房たちも大勢おりながら」
 「さまざま、お相手申しあげましても、やがてすぐお飽きになり、ただ、
上へ出たい、外へ行きたいとのみ、おむずかり遊ばすやに拝されまする」
 そう聞くと、それまで、白木の彫像を思わすような冷たさだった尼の顔
に、ふと、人間の線がうごいた。でも尼はなお、涙を垂れなかった。じっと
睫毛(まつげ)に耐えて、そばにいる経盛へ、何か、小声ではなしかけて
いる。
 経盛は、顔を横に振った。何か、尼がいい出したのを、諌(いさ)めてい
る風である。
 尼は、みかどを上の屋形へ呼びたがった。「つかのまではあろうが、矢
交(やま)ぜも休(や)み、源氏も退(ひ)いた様子ゆえ、この間だけで
も」というのらしい。しかし経盛は「ここを玉座とせば、やはりここだけ
にじっとしておいでにはなりますまい。おつらい怺(こら)えも、きょう
一日のこと、かつは重大な味方の計(はか)り事でもありますから」と、
切になだめるのであった。
 ところへ、右舷(うげん)の武者大将、淡路守清房が、あわただしく告げ
て来た。
 「能登殿がいらせられました。能登どのがお見えです」   
 -と聞くと、尼も経盛も、口をとじ、船上一帯まで、粛(しゅく)とした
気(け)ぶりであった。
 すぐそこへ姿を見せて来た教経は、平内左衛門家長に向かい、何か、
ふた言三言、問い質(ただ)している様子だったが、やがて屋形の内へ進
んで、二位ノ尼と、長老の経盛に、陣見舞いのことばを述べ、
 「まず序の合戦は、上々の利でした。とはいえ、敵に足腰立たぬ痛手を
与えたというほどな勝ちでもございません。第二第三と、なお夜にはいる
まで戦いは繰り返されましょう。これからです。まことの決戦も、能登が働
きますのも」
 努めて、かれは、ここの人びとを明るくしようとするらしく、快活に、そ
して微笑をふくみつついった。
 けれど、かれの持つ微笑には、かれの意図とは逆な、凄気(せいき)が
流れた。どう皮膚の表を明るく見せても、死の色の澱(よど)みは消しきれ
なかった。きょうを自分自分の命日と心にきめている尼や経盛に、それが
見えないはずはない。
 「どうぞ華々と悔いなきお働きをしてください。勝ち負けは天意にあるこ
と」
 尼は、あっさりいった。
 教経は、すぐ座を辞して、その立ちがけに。
 「みかども、ごきげんよういらせられましょうか。天機をお伺いして、その
まま、わが船へ戻りまする。では、再びお目にかかれずば、いつかあの世
で」
 「・・・・・・・おう。あの世でのう」
 尼は、うるんだ眼で、うなずいた。憖(なま)じ微笑よりも、じかに心を打
ったのであろう。
 外へ出ると、教経は、そこにいた平内左衛門を先に立たせて、船艙(せ
んそう)の段を下へ降りて行った。妖(あや)しいまでの黒髪や裳(も)や白
い顔が薄暗がりに大勢見えた。そのたれもが、わけもなく畏怖(いふ)を
抱いて教経の姿を見上げた。
 みかども、もう、泣きやんでおいでらしい。壁代(かべしろ)をへだてた奥
の方は、ひっそりしていた。教経は「・・・・能登にござりまするが」と、ま
ず典侍から女院のみゆるしを得、壁城(かべしろ)の端まで進み出て、内を
拝した。-ぷんと、墨の匂いが、教経の鼻をついた。

 小さい船窓から射す光線が、玉座の筵(むしろ)のあたりへ、ちょうど水
に映った月影ほどな明かりを落としている。
 布を敷き、その上に懐紙を展(の)べて、女院は、絵筆を把(と)ってお
られるのだった。「オ・・・・・・。能登どのか」
 女院は、羞恥(はじら)うように、あわてて筆も、画きかけの絵も、御袖
の下へ、お隠しになろうとした。
 -だが、興に入って、おん母の絵筆の技に見とれておいでだったみか
どは、またたちまち、泣き出しそうなお顔になった。-せっかく、ごきげん
になったものをと、女院は、ぜひもなげに、そのお眸(め)だけで、教経の
方へちらと会釈を示された。
 「・・・・や、何かと思えば、お絵を遊ばしていらっしゃいますか。ははあ、
お絵をのう?」
 戸惑いに似た驚き方で、教経はそういった。-水のない水底へでもは
いって来たような別の世界にここが見えた。それ以上、ことばの継ぎ穂も
なく、かれもただ女院の筆のお手もとをながめていた。
 「何が、み心に染まぬというて、御子(みこ)は、人の嘘がいちばんおき
らいでいらっしゃいます。・・・・のう御子、そうでございましょう」
 皆に、見まもられているせいだろう。絵筆に水を持たせ、穂に墨をふく
ませても、女院はなかなか、筆の穂を、紙へ落そうとはなさらない。
 そしてただただ、みかどのおむずかりを、怖れるように、こうお顔をのぞ
き、また、教経の方へ、はなしかけた。 「そこにいる、平内左衛門が、い
けないのです。・・・・きのう彦島を出るおりでした。みかどが、蟹(かに)
の戯(たわむ)れを御覧(ごろう)じあって、それにお気をとられ、容易に、
お船への渡御(とぎょ)が行われぬため、つい、平内左衛門が、みかどに嘘
を申しあげたのです。・・・・御船にまいれば、美しい耳盥(みみだらい)に、
たくさん、蟹が飼(こ)うてありまする、と。・・・・けさ、お目を醒(さ)
まし給うやいな、蟹は、耳盥の蟹は、としきりおせがみではありませぬか」
 「や。これや、なんとも」
 平左衛門は、教経の後ろで、頭を抱えた。恐懼(きょうく)にたえない恰
好(かっこう)である。
 「・・・・・・・で、では。さいぜんの、甲(かん)だかいおん泣き声も」
 「いえ、そのお怒りは、女房たちが、御子の御意(ぎょい)のまま外へお
出し申し上げなかったからですが、そもそものごきげん損じは、みなが、ま
ろを騙(だま)した、まろを欺(あざむ)いたという朝のおことばからでした。
よほど、くちおしゅう、御意に逆ろうたとみえまする」
 「・・・・はて、困りましたの。こう沖遠くでは、蟹もいず、船にいるのは
船虫のみで」
 教経が、苦笑の下に、つぶやくと、帥(そつ)の局、治部卿(じぶきょう)
ノ局などと並んで、端にいた﨟(ろう)ノ御方が、
 「そのため、耳盥に飼う蟹に代えて、おん母の君が、蟹のお絵を描いて
お見せ申しましょうと、わらわたちがおなだめしたので、ようやく、み気色
がようおなり遊ばしたところなのです。女院には、もともと、、お絵はお上
手でいらせられますから」
 女院が絵に巧みなことは、たれも知らぬものはない。そういれて思い出
すまでもなく、教経もさっきから、過去のある日を、瞼(まぶた)に重ねて、
かの女を見ていたことだった。
 -かつて故清盛が、厳島神社へ奉る納経(のうきょう)の製作を思いた
った当時のこと。幾十巻という納経の扉絵には、一族の女性のうちでも特
に絵を画くに巧みな姫を選んで筆をとらせたものである。
 その姫君たちの中に、まだ、いとうら若い十代のころの徳子(建礼門院
)の姿も交じっていた。絵筆、切箔(きりはく)、金砂銀泥、絵具皿(えのぐ
ざら)などを、唐毛氈(からもうせん)のうえに取り散らし、青白い頸
(うなじ)をやや傾(かし)げ気味に、絢爛(けんらん)な納経の扉へ線をえ
がき、彩色の思いに暮れなどしていた人の、丈長い黒髪や、つぶらな眸は、春
の長日(ちょうじつ)も忘れ顔であった。
 -過ぎ去った一昔も前の、そうしたある日の西八条の美しい一室の光
景などが、ゆくりなく今―教経の脳裡(のうり)に思い出されていたとき、
目の前にある白紙の上に、いつとはなく、女院の筆になる墨絵の小蟹と親
蟹が二ツ三ツ、点々と、はいうごくばかりあざやかに画かれていた。
 「おお、おできになりました」
 「まあ、なんと、可愛らしいこの子蟹」
 「御子さま。これで、平内左衛門の嘘は、ごかんべん遊ばしておやりな
されませ」
 帥(そつ)や、治部卿(じぶきょう)や、﨟(ろう)ノ局たちが、みかどと、
おん母を繞(めぐ)って、しきりに、お気を紛(まぎ)らしている様子をじっ
と見、教経はもう、ここへ伺候した自身の用は、心のなかですましていた。
 かれの気がかりは、みかどの御身辺に異状はないか、女院もおわすか、
それだけであった。ただそれだけを見届けるため、小早舟(こばや)を漕
ぎよせて来たにすぎない。
 教経の胸は、しきりに急(せ)かれていた。「・・・帰ろう。帰らねば」と
、何度も辞去のことばを、いや、今生のお別れの辞を、口へ出しかけていた
のであるが、みかどには教経もなく合戦もない。ふたたび、おん母にまと
いついて、花を画いて見せよ、鳥を画いて給(た)もれと、紙を展べ、絵筆
を押しつけてやまないのである。
 -で、つい女院はまた、墨を筆の穂へ、そして、紙へ向かって、何やら
絵を想う姿だった。おそらく、心は絵にも溶け入るどころではあるまいに、
御子にせがまれるまま、そうしておられた。
 「・・・・・・・・・・・・・・・」
 教経はまた、お別れを告げる機会を失った。
ぽたと、一筆の薄墨が白紙へ滲(にじ)んだ。と、一点また一点、筆の腰
が、薄い墨斑(すみむら)を重ねていった。見るまに、それは大輪の牡丹
(ぼたん)の花になりかけた。-が、香ばかりで、色がない。黒牡丹と見れ
ば見える。みかどは、おん眼を凝(こ)らし、小さい驚嘆の声を何度もおも
らしになった。女房たちも、かたずをのみ合い、教経も思わず首をさしの
ばした。
 -女院の真っ白なお手が、硯(すずり)の面へ移ってゆく。
 筆は濃墨(のうぼく)を舐(な)めた。そして、紙の上へもどって来ると、
ぴっと一葉の濃い葉が、花のわきに付いた。筆が寝る、旋(まわ)る、おもし
ろいほどだった。何か、生き生きと生命を持ちかけた線が伸び、それは幹
を成し枝を生じ、たちまち園生(そのう)一樹となりかけた。人びとの眼は、
恍惚(こうこつ)としていた。するととつぜん、
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 「やっ。あれや、なんぞ?あのどよめきは」
 教経の後ろで、平内左衛門が突っ立った、つづけさま、こう怒鳴った。
 「ただ事ではない。武者声えだ。攻め鼓だオオ、貝の音も、みだれて聞
こゆる」
 「なに、敵か」
 教経も起(た)った。
 とたんに、眼(まな)じりは裂(さ)け、蒼白な面に、血の色が、ぱっと出
た。
 「伊賀っ、見てまいれ」
 「はっ」
 と、平内左衛門の影が、段の口を、躍(おど)り上がってゆく。
 空井戸(からいど)の底にも似た無音と冷たい空気だけが、ひしとここ
の人びとの白い顔を取り巻いていた顫(おのの)きをすら忘却したかのよ
うな女性たちの群れだった。
 教経の眼は、紙の上に画かれた牡丹も、そこらの白い顔も、同じに見て
いた。いわばうつろな眼であった。かれの血が集中されていたのは、耳
神経と決戦への、猛気であった。
 「どうやら、敵の襲(よ)せ返しとみゆる。いよいよ、二度の合戦は、近づ
いたそうな」
 たれにいうともなく、つぶやいた時、階段口の上から平内左衛門の度外
(どはず)れな声が、
 「能登どの、能登どの」と、ふたたび呼びー「間近こう見えて候は、敵義
経自身の一陣と見えまするぞ。けさの輪陣とは、かたちをかえ、雁行(が
んこう)をなして三筋、真(ま)っ向(こう)に、お味方へ向かって、船脚早
く近づいてまいりまする。・・・・・疾(と)う御帰船あらねば、あなやとい
うまに、矢かぜも襲(おそ)うて参りましょうず」
 「おうっ」
 と、上に答えておいて、教経は、もいちどひざまづいた。そして、女院へ
一礼した。
 「ではこれにて、能登は戦場へ馳(は)せもどりまする。みかどにも、ま
た、女院におかせられても、何とぞ、お心静かに」
 「・・・・・・・はい」
 女院は絵筆をおいた。
 そして、みかどをお膝のそばへ抱きよせて。
 「お案じなされますな。戦いの末、どうであろうと、御子(みこ)と母との
仲は、破れは致しませぬ」
 「安堵つかまつりました。笑って死んで行けます。・・・・・・・・・・さ、
さ。なおたくさん、お絵を画いてお上げなされませ。おさらばです」
 教経は、踵(きびす)をめぐらして、さっと、段を上って行った。そしてす
ぐ舷側(げんそく)へ走り出し、
 「小早舟(こばや)の者、小早舟の者っ」
 と呼びたてた。
 たちまちかれの姿は、それに移っていた。そして見るまに、風浪の間を。
漕ぎ揺られて行った。平内左衛門のことば通り、源軍の雁行陣は、海面
を圧しながらこなたへ近づきつつあった。
 「ー急げ、櫓力こめて、急いで漕げ」小早舟(こばや)の上で、叱咤する
らしいかれの姿へ、早くも。源氏の先鋒(せんぽう)から、射浴びせてくる
乱箭(らんせん)が、まばら雨のような太い光を描いて、吹きつけていた。

 両雄読心(りょうゆうどくしん)

 日は中天であった。それから見ても、時刻はちょうど正午ごろだ。さきに、
義経自身が「われから攻勢に出る潮時」といっていたその午(うま)の刻(
正十二時)を、いくらもずれていない。
 はじめ。
 源氏方のうごきをみとめても、平家方ではたかをくくっていたらしい。
またまた、敵が輪陣旋回(せんかい)の示威を繰り返して来るものぐらい
に思っていた、権中納言知盛すらも、落ち着き過ぎていたきらいがないで
はない。
 が、あながちそれも知盛の油断とばかりはいえないだろう。むしろ知盛
の智が、敵の智を読みすぎた結果と見られる。
 とはいえ、その序盤において、義経がまず、知盛のウラの裏をかいて出、
ために知盛が一時、読み違いのうろたえを見せたことは確かである。
 知盛と義経と、この両者は、とまれお互いの器量をよく知りあっていた。
敵ながらその人物には、相互が尊敬に似た怖れをもってい、いささかも
軽んじるなく、がっしり、四つに組んだかたちだった。
 一面。その日ー寿永四年三月二十四日―当日の潮相(ちょうそう)から
両軍のふくみを観ると、また一そう、両者の駆け引きはよくわかる。
 ここの縊(くび)られた海峡を、西の玄海から、東の瀬戸内へと落ちてゆ
く潮流のもっとも烈(はげ)しい最盛時刻は、巳ノ下刻(午前十一時)でそ
れを絶頂に、あとは午後三時ごろまで、徐々に、緩流になってゆく。
 そしてしばらくは、満々たる静かな漲潮(ちょうちょう)を保ってい、や
がて、こんどは東から西へと、逆に、潮向(しおむ)きを変え出すのである。
そのまま、夜にはいるまで、逆流は加わるばかりで変化はない。
 これは極めて平凡な暦(こよみ)の日課だ。しかし、うごかしえない大自
然の法則でもある。
 当然。-敵の義経たりといえ、その法則は無視できまい。
 自己に有利な追潮(おいしお)を待つことだろう。とすれば、午(うま)
の刻(こく)ごろは、まだまだ落潮のさかりである、少数の船ならとにかく
、無理に逆潮大船列をうごかせば、統御はつかず、櫓舵(ろかじ)の困難は
いうまでもなし、みずから墓穴を掘るものだ。ゆえにおそらく、義経が攻
勢に出るのは、未(ひつじ)ノ下刻(午後三時)前後とみて狂いはあるまい。
-それまでの行動は、ただの示威か瀬ぶみの程度にすぎないだろう。
-というのが、知盛の見とおしだったのだ。
 ところが、まだ陽も中天と見えるのに、果然、敵は直進して来た。
 それも朝がたの一戦とちがい、全水軍の敵の舳(みよし)が、田野浦の
一点をさして向かってくる。早くも、かれの軽船の先鋒(せんぽう)は、平
軍の船と船とのあいだを縫い、
 「あれぞ、お座船」
 「あの唐船(からぶね)こそ」
 と、日月(じつげつ)の幡(ばん)めがけて、むらがって来たのである。
 平家の応戦が遅かったのは、知盛の誤算にも因があるが、あいにく午
(ひる)の兵糧時(へいりょうどき)とて、兵がみな休息していたためでも
あった。
 わけて、今しがた、黄旗の秘船から、あわてて小早舟(こばや)を漕ぎ返
して来た能登守教経は、われから敵の矢ごろへかかって来、
 「しまった」と、眼に余る敵勢に、髪逆立てた。しかし櫓座の者へは、そ
のまま、必死に櫓を急がせた。
 しかし、かれの帰ろうとする船は、源氏の目標になっている唐船である。
まず敵の重囲を先に破らなければ、わが巣へ帰ることはできない。もち
ろん、教経は覚悟だ。それを無視して、敵船の中を通りかけた。
 その不敵さに、源氏の船手も、
 「や、や。あれや味方か敵か」
 「敵にしては?」
 と、疑い惑った。
 もとより能登守教経とは知るはずもない。-が、やがて近く寄った串崎
舟の一隻は、教経の舟と接しるやいな、たちまち真っ白な飛沫(ひまつ)を
立て、血のひらめきの下にばたばたたおれ、見るまに人影もなくなった。
そして、その空舟は、吸い込まれるように、渦潮の眼の中にぐるぐる、弄
(もてあそ)ばれた。
 「おうっ。敵よ、あの装(よそおい)は、平家のうちでも、名ある者にち
がいないぞ。あれ遁(のが))すな」     
 源氏の先鋒に、大船は見えなかった。大型の船はまだここまで着いて
いない。串崎舟、熊野舟など、脚の軽い兵船だけが、まず、平軍のふとこ
ろを攪乱(かくらん)するため、中軍ふかく、潜航していたのだった。

 「見ろ、貞綱。われらに向かって、敵は一せいに、舳(へさき)を向けは
じめたぞ」
 「しゃっ、恐(おそ)れるものではありません」
 権藤内貞綱と弟貞重は、返り血に染まっていた。
 串崎舟と、絡(から)みあったせつな、櫓座(ろざ)の者は、鈎(かぎ)
棒や熊手(くまで)を持って、すぐ敵の舟べりを引っかけた。貞綱兄弟は、踊
りこんで薙刀(なぎなた)をふるい。敵を蹴込(けこ)み、教経が手を下す
いとまもなく七、八名を海の藻屑(もくず)として、踊り返って来たのである。
 「いや兄弟の者。今のは、ただ一そうの敵であったれ、次のは、十そう
二十そう、限りもなく続いて来よう」
 「なんの、串崎や熊野の雑魚漁(ざこと)り舟が、いくら来ようと、何ほど
のことがありましょう」
 「さはいえ、かこまれて、矢的におかれてはたまるまいぞ。いっそ、われ
から、ぶつかって行き、敵の舟から舟へと、跳(と)んで行こう。おのれの
舟に、執着していては不覚を取ろう」
 「殿には自在にお働きなされませ。兄弟、お姿を眼から離さず、どこま
でも続いてまいりますれば」
 「おうっ、あれへぶつけろ」
 教経は、一そうの敵を見て、指さした。
 その兵船は、武者足場に、粗板(あらいた)を敷きつめてあり、上には二
十人も乗っていた。みな弓を張りそろえ、一そうが一小隊の射手陣を成し
ていた。
 教経主従は、射向けの袖をかざして、身をうつ伏せた。そのまま、凄(す
ご)い弦音(つるおと)の下に耐えつつ、どんと舳(へさき)が震動したと
たん、躍り上がって、飛びちる水玉とともに、敵中へ切りこんでいた。
 こう手許にはいられると、射手陣は、その弱点を、みじめに曝露(ばくろ
)してしまう。
 とあわてても。左手(ゆんで)の弓は、五本の指に、膠付(にかわづ)け
になっているように、すぐ捨て難(がた)いものだったし、投げすてて、太
刀に持ちかえるにも、秒間の遅れがある。それに、せまい一船の上ではあ
り、味方同士の混乱はどうしようもない。
 教経の行動は無謀極まるものと見えたが、かえって、それが敵の意表
を突いていたことにもなる。源氏の兵は、われから海へこぼれ落ち、踏み
とどまった者たちも、教経主従の薙刀の下に、舟ぐるみ朱の屍となってゆ
く。  
 「なぜ、見ているか」
 「なぜなぜ、射ぬかっ」
 むらがり寄る射手船の上には、甲(かん)だかい武将の声がしきりだっ
た。けれど、的(まと)の人間は、一瞬も一人で立っていることはない。
下手に射れば、同士討ちも惧(おそ)れがある。弓は引きしぼってみるも
のの、味方を射まいとすれば、容易に弦が切れないのである。
 「ええ、面倒」
 敵はわずかな主従」
 「しかもゆゆしい装いは、たしかに、平家の公達(きんだち)の一人ぞ」
 「寄せに寄せて、からめ捕(と)れや」
 おめき合いつつ七、八艘が、盲目的に舷(ふなべり)を接して来た。
 そのとき続けさまに「わああーっ」という咆哮(ほうこう)が、何度も海
鳴りと一しょに、繰り返された。
 平家方の声だった。平家方でも見てはいない。
 「あれよ能登どのなるぞ」
 「能登どのを討たすな」
 「あの小早舟を、お助けせよ」
 と、附近の大船小船が漕(こ)ぎまわり、その櫓(ろ)や舳(みよし)な
どに、弦を並べたが、しかし彼らの狙いも、万一の同士討ちが懸念されて、矢
での加勢はためらわれた。といって、教経のそばへ寄るには、敵船の邪
(さまた)げもあり、近づくのさえ容易ではない。
 そのまに、教経の一舟は、もう敵の真っ黒な囲みの中に没していた。
-けれど事実はもう教経はその中にもいなかった。
かれは敵の兵船がいっせいに押して来たのを見ると、それがなお水面六
、七尺も距離を余しているまに、われから舷(ふなべり)を蹴(け)って、
敵の舷へ跳び移っていた。
 どっと、敵は将棋だおれになり、かれ自身も、まろびたおれた。けれど不
意をつかれた動顚(どうてん)と、捨て身の勇の違いがある。
 教経は、大薙刀(なぎなた)を縦横に振るい血に飽かせては、また他の
敵船へ躍りこんだ。かれの行く所、血の船になった。そして敵が怒号とう
ろたえに暮れているまに、かれ自身は、ざんぶと海中へとびこんでしまっ
た。もちろん、具足腹巻は解き捨て、銀摺りの鎧下着だけとなった影が、真
っ青な潮を切って泳いでいたのである。
 教経が坐乗の船たるかの唐船からも、津ノ判官盛澄らが、軽艇を出し
て、必死な救出にかかっていた。さもなければ、いかに教経とて、よろい
を解くまも、また、海へ逃げ入るすきも、なかったかも分からない。
-すぐかれが海中から伸ばし手は、津ノ判官盛澄の手に結ばれ、味方の
舷へ引き上げられた。権藤内貞綱も、ほかの味方の船に救われていた。
けれど、かれの弟貞重は、ついに姿が見つからなかった。





















 昨夜、広島に嫁いでいる娘から電話があり、家内が先日、もも狩りに行き、
現地から桃を贈っていたのが届いたとの、お礼の電話がありました。

                   山梨の桃
CIMG0130 (2)




















あとで家内が、小生にも電話を回してくれましたので、娘に「こんばんは、久
しぶりだね。皆元気にしているかい」といいますと、皆元気ですとのことでし
たので、安心をしたところです。また「誕生日おめでとうございます」とのメ
ッセージをいただき、「よく覚えてたねえ」といって感謝をした次第です。
 「ところで、桃はもう食べたかい」、と聞くと、今冷蔵庫の中だといいます。
 そして、優哉君がまた、夏休みに東京へ、弟と一緒に行きたいといってい
るとの事です。小生は、[それは大歓迎ですよ、二人でもう来ることが出来る
でしょう」といいますと、「それは、だいじょうぶだと思うけど、それだった
ら、私たち夫婦も行きたいと」の由。
 3月に家内と一緒に広島へ遊びに行っているし、もう今年の夏休みは広島
家は来ないよと、家内から聞いていましたので、寂しいなと思っていましたか
ら、その旨を娘に伝え、「ぜひ哲哉先生と共に、みなで遊びに来るように」と
伝えました。
 結果、動物病院のこともあるので、相談してみるということになりました。
 一つの明るい話題であり、これが何よりも小生に対する誕生日のお祝いと
なりました。

 朝から、友達の運転する車で、家内と友達二人は、山梨方面へ、モモ狩り
に出かけました。
毎年、恒例になっている、行事といってもさしつかえありません。
 午後になって、急に外が暗くなり、まもなく、府中市は、雷雨となり、まる
でスコールのような猛烈な雨が、廂の上や、木々の葉をたたきつけ、まる
で東南アジアのジャングルで経験した気象と似ているように感じました。
 15時半ころ、無事モモ狩りから、友達とともにわが家に帰ってきました。
いつものように楽しそうにお茶をしながら、雑談をされていたようですが、家
内の呼ぶ声がしましたので、階下へ降りて、「お疲れ様でした」と挨拶をす
ませ、小生もそばで一緒にコーヒーとお菓子をいただきながら、話に耳を傾
けていました。
 途中で、家内が、「こちらAさんの息子さんがこのたび、アメリカへ転勤さ
れるんですって」といいますと、その奥様が、「そうなんですよ、寂しくなり
ます」と、寂しそうにいわれ、まことに気の毒にとお思いましたが、「海外へ
の転勤ということは、息子さんが優秀だからですよ、本人は、環境が変わっ
て、ある種の夢をもって新しい土地で活躍しようと、決意をされているでしょ
うね」と。
 「まあ本人はねえ」と、いいながら、「ツイートで、いつでも連絡はとれま
すから」とかいいながら、気をまぎらわせていらっしゃるようでした。
 昔、福島県へ出張のおり、猪苗代湖に、行ったことがあり、野口英世の生
家を訪れたことがあります、昔ながらの住居がまだ、保存されていた頃でし
たが、家の中に入ると囲炉裏の煙です煤(すす)けてた柱に、ナイフで、「成
功するまで、二度と帰って来ない」という風な意味合いの文字が刻まれていた
のを思い出しました。そして、母は、「英世(息子)よアフリカから、早く帰っ
て来ておくれ」と、くりかえし、くりかえし切実に訴えている内容の、手紙が
保存されていてました。母の子どもに対する愛情が、これほどまでに強いもの
かと、あらためて思い出していました。子供にとっても、父親よりも、母親を
最終的には、愛しているように思います。
 特攻隊の遺書を拝見しても、戦争での最期の一言も・・・・・母への感謝と、
愛を感じさせていますから。

 わが家を辞される前に、ひとりの方が、小生の水彩画を、見つけられ、今まで
と筆遣いが、変わり、明るくなったといわれましたので、二階から後3点くらい
持って降りて来て、観ていただきました。
そして、玄関から庭に出たところで、家内が、「時計草」と、「三友花」の鉢を
二人の方それぞれにお渡ししていました。
 「今日いただいた花は、日蔭か、それとも陽当たりがよい場所がいのです
か」と聞かれましたので、小生は「どちらも陽ざしを好みますが、三友花は12
月になると家の中に入れたほうがいいですよ」といっておきました。

              挿し木の三友花と取り木した時計草
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 食後のレザートに、さっそくモモをいただきましたが、大変おいしく、季節も
いっしょに味わいました。
 
           山梨からの桃
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 好敵手(こうてきしゅ)

 「射よ、射よ。弦(つる)を並べて、まず射浴びせよ」
 梶原景時は、吠えていた。
 かれの一船には、三男の三郎景家、一族の漢陽五郎(かんやのごろう)
、鎌倉西党の海老名源八(えびなげんぱち)などが乗りこんでい、早くも
「賢所(かしこどころ)の神器(じんぎ)はわが手に」と、奇功をつかむ
思いに燃え、どの兜顔(かぶとがお)も、それのみに、硬(こわ)ばって
いた。
 嫡子の源太景季(げんたかげすえ)、次男平次景高などもまた、べつな
軍船にあったが、父景時の令に、
 「おくるるな者ども、屋島の辱(はじ)は、きょうそそげ」
 「九郎の殿に、鼻あかせよ」
 と、部下を励まし抜く声が、舷々(げんげん)相互に搏(う)ち合う波し
ぶきのうちにも聞こえた。
 梶原一党の持ち船は、軽艇を交(ま)ぜて、百余隻であった。それが輪
陣をくずして平家の前衛へ近づくと、たちまち海面は弓鳴(ゆな)りの強風
をよび、敵味方の咆哮(ほうこう)に、波は波を打って白く狂った。
 東国武者の慣(なら)いである。早くも、平野を騎馬で飛ぶように、八艇
櫓(はつちょうろ)、十二艇櫓の小型の兵船が、先を争って、奔濤(ほんと
う)のあいだを縫い、平家の船陣へと、あわや接してゆく。
 -が、なんとそれは野戦とちがう無謀であったかがすぐわかった。
 盲進といおうか。無成算といおうか、いわば大将梶原のあせりであったと
いうしかあるまい。矢風や白波をくぐって先へ漕(こ)ぎ出た小舟の兵や
種々(さまざま)な兵船は、たちどころに、自由を失い、乱離となって、あ
らぬ方向へ、木の葉のように押し流された。と見るや、平家方では、「下
へまわって、あの船、からめ捕(と)れ。かなたの小舟の群れへ、こなたの
大船の舳先(へさき)を打(ぶ)つけて行け」
 と、陣を開いて、拿捕(だほ)にかかった。
 梶原は狼狽(ろうばい)した。
 それがなんの理由によるかも、とっさには、判断もつかないのだ。ただ
声をあらげて、
 「やあ、未熟な船頭ども、敵へ迫りつつ、なんのざまぞ。あたら先手の
舟勢を、みすみす敵の餌食(えじき)にさすな。懸(かか)れ、懸れ、わが
大船も、敵の大船へ、真(ま)っ向(こう)懸れっ」
 と、怒号した。
 部下の陥った罠(わな)を見ながら、まだ足(た)らずに、かれ、その他
の子息らの将船までも、進んで危険極まる湍潮(せしお)へはいってしま
ったのである。
 湍潮とは、なんであろうか。
 ここの海峡がもつ特異な秘密性といっていい。ただ見る海(うな)づらだ
けでは分からないが、早鞆(はやとも)ノ瀬戸から沖へ出てゆく激烈な落
潮の勢いが、沖の圧力に押し返され、大きくふたたび孤(こ)を描いて、元
の方へもどって来る。その回流(かいりゅう)をいうのである。
 湍潮のもどり脚(あし)は、急ではない。早鞆の口を落ちるときよりは、
緩(ゆる)やかになっている。それだけに、表面はおとなしい海に見えるの
で危険なのだ。-なぜなら、その回流は、御崎(みさき)の横にさえぎら
れて、また反転運動を起こし、田野浦の前面あたりでは、いわゆる南水
道とよばれる激流の主勢と縒(よ)れ合って、無軌道な底渦(そこうず)や
無数の渦流(かりゅう)を作っているからである。
 知盛は、それを熟知していた。
 かれのえがいている作戦も、もとよりそれを利用するにあった。
 敵をおびきよせて、その湍潮へ追い落す。-それへ主眼をおき、苦境
の敵勢へ、平家の中堅をもって当らせ、余隊の味方は、鶴翼(かくよく)の
形を作って、敵全陣を大きくかかえ、三方からこれを攻めて、さらに北水
道の激流まで追いつめれば、もうほぼ望むところの殲滅(せんめつ)は、わ
が手のもの。
 こう知盛は考えている。
 なぜかれが、豊前田野浦を拠地として長門に拠(よ)らなかったかとい
うことも、背面から陸(くが)の源氏に襲われる憂いを避けたのでもあろう
が、ひとつには、田野浦前面の複雑な回流の潮相(ちょうそう)を利用し
ようとした作戦であったのは、いうまでもない。読める者には読めていな
ければならないはずのものだった。
 -思うに。好敵手、好敵手を知る。
 義経のみは、あらまし、知盛の画策を、看破(かんぱ)していたのでは
あるまいか。
 きのうの未明ごろには、まだ平家の一隻影も、田野浦には、出ていなか
った。
 そのころ義経は、串崎船頭を水さきとして、名長門岸から豊前岸まで、
磯めぐりとなく見てまわった。おそらく、いかに意地の悪い潮ぐせや底渦
をもっているかを覚ったにちがいない。
 海馴(な)れぬ東国武者をひきいて、不馴れな土地の船合戦に、かれは
慎重を極めないわけにはゆかなかったであろう。そして、敵が田野浦へ
拠(よ)ったことに見ても、敵将知盛の非凡さは、あざらかに分かる。卑
怯とはちがう恐れを、義経は、知盛へいだいた。
 さもあらばあれ、義経は卒然と、五体をたぎらせた。闘志というか、武
者ぶるいというものか、敗れれば身は滅ぶ切羽(せっぱ)の厳頭(がんと
う)に立って、必然な生命のおののきに吹かれた。
 濃い海の香を満面に。また満目に平家一門の出そろった陣容を迎える
と、かぶとの緒(お)固いかれの唇(くち)の辺りに、
 「よい敵かな、権中納言(知盛)は・・・・・」
 と、静かなつぶやきが流れていた。
 よい知己はえがたい。良い敵手にも会い難い。義経は血をわかせられ
たのだろう。前夜のかれとは、人間がちがったように見える。男性とは元
来こうしたものか。造物主が男女を造る始めにこうけじめづけたものか。
男が、仕事にむかっては、創造の権化となりきるのと同じように、あるい
は、女が、恋や母性愛には盲目になりきれるのとおなじように、死生の線
では、かれは男性そのものだった。-都にある静(しずか)への想いなど
は、今、かすかにも抱いていない。頭のすみにもおいていなかった。二人
で住まう花の庭。そんな物はケシ飛んでいる。鎌倉どのもない、院もない。
あるのは「好敵手、どう出るか。勝たねばならぬ」それだけであった。双
眸(そうぼう)、その精気にみちていた。かぶとの鍬形(くわがた)は背
を高く見せるが、それにしても、なお、他の武者輩(ばら)にくらべれば、
いと小柄(こがら)なかれであった。けれどきょうのかれこそ、たれでも
ない平家追討の総大将、源九郎義経その人に見えた。

 敵の恐(こわ)さを知るがゆえ、いちばい、深く思うところがあった義
経にとって、梶原の出しぬけな応戦は、まさに不慮のでき事だった。
 だが、かれは、
 「しまった」
 とはいわなかった。
 自身でさえ、愕然(がくぜん)としたのである。そのうえ、周囲の味方を
狼狽(ろうばい)させてはならないと思ったのであろう。
 好ましくない接触、機会として最悪なと知りつつも、ただちに螺(ら)を
吹かせて攻勢に転じたのは、いわゆる、角(つの)を矯(た)めて牛を殺す
な、という諺(ことわざ)どおり、士気を矯めころすのも愚策と、一応とっ
た処置だったに相違ない。
 しかし、一令一令しか知っていない麾下(きか)の全軍は、「梶原勢につ
づけ」と叫びあい「梶原どのにおくるるな」と、けさから倦(う)みかけて
いた士気をいちどに奮(ふる)った。
 義経は、将座の高き所から、
 「それもよし」
 と、心のうちで味方をながめ、
 「あれ見よ、梶原勢が苦境に落ちらしぞ。かしこは、湍潮(せしお)の難
所、梶原を、むざと討たすな」
 そこから叫び、また、近づくほどに、
 「うかと、湍潮の流れにはいるな。海づらをただ見てのみでは分かるま
いぞ。矢屑の浮き沈みを、船道の標識(しるべ)とせよ」
 と、教えた。
 敵味方相互の矢は、ほとんど、所きらわずである。不気味なうなりを空
間に切り交(ちが)えていた。北東の風がある。これも岬を後ろにした平軍
に有利であった。源氏方の矢は、風に逆らわねばならない。おおむね、波
間に落ちてしまう。
 さらに、みじめだったのは、心ならずも、湍潮に乗せられ、躍起(やっき)
の櫓声(ろごえ)をそえても、意志に従わない兵船の幾十艘かだった。も
ちろん、余りに進み出た梶原麾下の者どもである。あれよと、戦以外の騒
ぎに気を奪われているうちに、かれらの船影は、御崎(みさき)の方へ持っ
て行かれてしまい、われから平家の内側へはいってしまった。
 それも、集結してならばだが、潮に弄(もてあそ)ばれたことなので、支
離滅裂の漂いにすぎない。平家にとっては、拿捕(だほ)も、みな殺しも、
意のままであった。一船の上、まるで芒野(すすきの)のように矢を浴び、
朱(あけ)の屍(かばね)の山を積んでいるのほか、櫓手(ろしゅ)ひとり
生き残っていない源氏の船が、ゆらゆら、波に送られてゆくのが見える。
 一隻の兵船が、平家の幾艘にもからみつかれ、また、船上に乗り込ま
れて、ほしいまま薙(な)で斬(ぎ)りをうけたり、海へ蹴(け)込まれた
りしているのもあった。
 到底、これは、五分と五分の合戦ではない。圧倒的に、平軍の勝目であ
る。
 梶原自身、眼前のこの事実に「こはそも、何事?」と、疑った。戸惑った
といっても過言でない。湍潮(せしお)の暴威を見ながら、その中の味方を
扶(たす)けんと、かれの大船も、湍潮に巻かれていたのである。
 だが、小型船ほどにそれに眩(めくるめ)かないまでも、たちまち、自由
を失った。つきまとう平家の兵船は執拗(しつよう)だった。かれらは、こ
この海面に馴れてい、櫓(ろ)使いにも舵(かじ)の取りようにも熟練して
いた。敏捷(びんしょう)な軽艇は、自己の舳(へさき)の破損を犠牲にし
てまで、梶原の乗っている大船の舵へむかって、その尖端を、ぶつけて来る。
 ある武者は、そのついでに、艫綱(ともづな)へぶら下がり、敵の船内へ、
斬り入った。また一方の胴(どう)の間(ま)から躍り込んだ。碇形(いか
り)の鉄の爪を、細綱のさきから投げこみ、船体にへばりついて離れない小
舟もある。危険なのは、そこから、火のついた松明(たいまつ)や、油玉と
称する物を、大船の竹楯の内へほうり込まれることだった。
 火といえば、知盛は、この海戦に、火矢も使った、鏑矢(かぶらや)の尖
(さき)を火屋(ほや)となし、、火ダネをもったそれが、大船の屋形や櫓
(やぐら)に降りそそいで来るのである。「-平家弱し」とのみ呑んでかか
った東国武者も、肝を冷やした。そこまでは、思い及ばなかったことである。
 源太影季(げんたかげすえ)、平次景高などの船も、苦戦はまぬがれな
かった。かれらは、父思いなよい息子であり、よい武者だった。けれど、父
を案じても、父親の船へ、助けに寄ることもできなかった。はるか距(へだ
)てられ、かれらも、平家の重囲に落ちかけていた。
 義経の船、そのほか、源氏の諸声(もろごえ)と攻め鼓(つづみ)は、ど
うにか、そのさいの間に合った。全滅に瀕(ひん)しかけた梶原一族の人
と船とが、まだほぼ半数は海面にあるうちに反撃を加え、ようやくその旗
色を持ち直していた。
 -とはいえ、底を見せた破船の空骸(むくろ)や、楯や旗や人の屍(かば
ね)は、洪水あとの流木(りゅうぼく)みたいに、海一面を芥(あくた)にし
た。
その流れざまをみれば、今さらのように、ここの怪異な潮の底意地悪さが歴
としてわかる。
 「-退け貝を吹け。はや退け貝を」
 義経は、声を嗄(か)らして、かつ命じた。
 「風は、西北風(いなせ)ぞ、帆を上げよ。疾(と)う疾う、長門の方へ寄
れ。-敵の嘲(あざけ)りに、射返しすな。嘲(わら)わせておけ、ただ遁(
のが)れ出よ。義経の船に続かぬ者は、源氏ものあらざる者ぞ」
 からくも救出された梶原の船勢は、惨(さん)として、味方の船陣の中に
もう抱えられていた。舵を折られ、舵もきかない船には、艫綱(ともづな)
が投げられ、味方の船にひかれて退(ひ)いた。
 突然、雲へとどくばかりな凱歌(がいか)が揚がった。振り返ると、田野
浦一面の紅旗が揺れ沸(わ)いている。   
 平軍は、その勝機に乗(じょう)じて、なお追うかと思われたが、追って
くる気色はない。三度目の凱歌が、つなみのように、また、海(うな)づら
を馳けた。
 その勝鬨(かちどき)のなかにある敵将知盛の顔が、義経には、眼に見
えるようであった。かれは敗れたが、しかし、平静を欠いてはいない。ただ
おりおりに、面を俯(ふ)せた。舷側を洗う潮の速さと 方向を、じっと見て
いるのだった。

 酒化粧(さけげしょう)

 四郎兵衛(びょうえ)。おうい四郎兵衛。降りてまいれ、寸時のあいだ」
 船やぐらの上を仰いで、宗盛みずから呼んでいた。
 平家方では、たった今、もろ声合わせて、三度(みたび)の勝鬨(かちど
き)を揚げた。総大将宗盛もまた、その肥大な体と大鎧(おおよろい)とを、
始終自分でも持ちあつかいかねていたが、やっと二本の腕を高く上げて、凱歌
をともにしたところだった。
 「おうっ、ただ今それへ」
 飛騨四郎兵衛景経(ひだしろうびょうえかげつね)は、すぐやぐら梯子(ば
しご)を馳け降りて来、かれの床几(しょうぎ)の前へぬかずいた。
 ほんとなら、総大将の床几は高やぐらに据えるべきだが、何せい、身う
ごきの重たい内大臣(おおい)の殿なの で、乳人子(めのとご)の景経が
やぐらに立ち、下の屋形の前を、将座としていた。  
 「なんと、脆(もろ)い敵よ。逃げ脚の早さは見事なもの・・・・・・・」
 宗盛は、あたりの公達や侍たちと、笑い合っていたが、景経を前に見ると、
 「おお四郎兵衛。お汝(こと)も身には一矢(ひとや)もうけておらぬな」
 「一時はこの船へも、矢の雨でしたが、船馴れぬ東国武者のヘロヘロ矢
、知れたものと覚えました」
 「敵は再び引っ返すようでもないか」
 「逃げ退いた船影は、壇ノ浦から串崎の鼻まで、みだれ霞んでおります
る。やわか、再びすぐには」
 「そうか、ならばつかの間(ま)、屋形の内で休息いたそう。四郎兵衛、お
汝も来い」
 内へ入ると、かれは毛沓(けぐつ)を脱(ぬ)いで、しとねにすわった。
そしてさっそく、景経の耳へ小声でたずねた。
 「昨夜、そちと能登殿の腹で、示し合うて行うたこと、その首尾(しゅび)
は、どうだったのか。明け方の軍備(いくさぞな)えに追われ、まだ吉左右
は、つい聞いておらぬが」
 「船島の始末でござりますか」
 「そうじゃ。きょうの戦いにかかる前に、平大納言(時忠)の一命を絶ちお
くことが、第一の要心なりと、能登守(のとのかみ)もそちも切に申すゆえ、
ままよいように計(はか)れと、昨夜申しておいたが」
 「ところが、船島へ忍ばせた刺客どもは、むなしゅう逃げ帰って来た由に
ございまする」
 「それや、どうして?」
 「思いもうけぬ武者どもに邪(さまた)げられ、人数を増やして、再び襲
(よ)せて参ったところ、島にはすでに御父子とも姿を見せず、いずこへ逃
げ落ち給いしか、皆目(かいもく)行方も知れぬとやら」
 「はて、異(い)なことよ。大納言父子のほか、かしこに武者はおらぬは
ず。しかし、さくらノ御(ご)はいたであろうが」 
 「いや、そのさくらノ御も、ともにどこかへ消え失せた由。察するに何者
かが外より扶(たす)けて、かの卿(きみ)の身を、他へ移し去ったに相違
ございませぬ」
 抜かったりな。さては、源氏の手引きではないか」
 「あるいは、お味方の内にも、ひそかに、同腹の者がいて、合戦の裏に
て、何事かを、諜(たくら)みおるやも知れませぬ」
 「油断のならぬことではある。・・・・それにつけ、矢かぜの中でも、すぐ
案じられてくるのは、みかどと賢所(かしこどころ)の安否ぞ。昨夜のうち、
べつの一艘へ、主上と女院は、深くお匿(かく)まい申しあげてはあれど」
 「されば、乱軍と相なっても、他の船と紛(まぎ)れ合わぬよう、その一艘
の帆桁(ほげた)には、黄なる細旗を目印(めじるし)に垂れおかせました。
お味方たりとも、それと知る者だけが、一目で分かりますように」
 「ともあれ、そこに異変あらば一大事ぞ。そちも絶えず、やぐらの上より
眸(め)を怠るまいぞ」
 「仰せまでもございませぬ」
 「けさの一戦に見るも、東国勢は、船戦(ふないくさ)には口ほどもない
ようだ。ただ、気がかりは、大納言父子の行方よの。・・・・・・・思えば、
能登のすすめを容(い)れ、もそっと早くに、始末しておくべきだった。憖
(なま)じ情にひかれたり、尼公(あまぎみ)へのはばかりに、惑(まど)う
て来たのが悪かった」
 「いや、なに企もうと、あの御父子に兵力はなし、黄旗の秘事を知るは
ずもございませぬ。おそらくはただ、源氏へすがって、みぐるしいお命乞
いに出たまでのことに過ぎまい」
 遠くへ退いた源氏の水軍は、そのまま、うごく様子もないと確かめられ
たので、平軍の将士は、どの船上でも、しばし、ひと息入れていた。
 休息中、大船と大船との間には、小早舟(こばや)の往来が頻繁(ひん
ぱん)だった。わけて、宗盛の船には、一時、諸将の姿が集まった。
 しかし、みな忙しげにすぐ自船へ漕(こ)ぎ戻って行く。権中納言知盛も、
ちらと見えたが、すぐ帰った。ひとり能登守教経(のとのかみのりつね)だ
けは、船屋形に残って、かなり長い間、何か宗盛とひそやかに話しこん
でい、やがてかれもまた、悠々(ゆうゆう)と帰って行った。

 教経のきょうの面(おもて)は、何にたとえようもないほど、青白く冴(さ
)えて見える。
 荒公達(あらきんだち)といわれているが、都にいたころから体は病弱
な方だった。そのくせ無類の大酒なのである。「姿は柳の如(ごと)く、気
は松籟(しょうらい)の嘯(うそぶ)くに似たり」とは、公卿のたれかがかれを
評したことばであった。
 きょうのかれも、幾らか、酒気をふくんでいたかもしれない。
 -今、宗盛の船を辞して、小早舟の中に腰かけ、青地に銀摺(ぎんず
り)の狩衣(かりぎぬ)に、卯(う)の花おどしの鎧を着、手に大薙刀(おお
なぎなた)をかい持っているその姿に、微醺(びくん)があった。
 一門の公達は、皆、きょうを前に、歯に鉄漿(かね)を染め、薄化粧して、
かぶとの緒(お)や肌に、香(こう)を焚(た)きこめなどしたという。-そ
れをかれは、香を酒の薫りに代え、化粧を微酔の朱唇(しゅしん)に代えて
いる心意気かもわからない。
 「生は、一宵(いつしょう)の酔い。死は一杯の水」
 と観(み)て、きめているのだ。
 雪の流れも、波の綾(あや)も、かれには、すべてが自己の生涯を終わ
る日の装(よそお)いに見えた。飾られている自分の柩(ひつぎ)を見てい
るような心地だった。
 十年や二十年生き長らえたとて、何するものぞ。しょせんは白骨をまぬ
がれ得ぬ身ではないか。平家一門は、咲くべくして地上に咲き出た花。
当然、散るべき日が来たまでのことだ・・・・・・・・散りざまを見汚(みぎ
たの)うしては、可惜(あたら)というもの。過去の星霜までみずから穢(け
が)し、ただ顕栄と我欲の亡者の浅ましい末路とのみ見られよう」
 かれは少しの迷いも持たない。
 その双眸(そうぼう)が、よく、その一途さを研(と)ぎだしていた。運命
を直視していた。
 「たった今、内大臣の殿にも、くれぐれ申したことだが、朝の一戦に、味
方が勝ったるは、敵の梶原が不覚に招いた破れ、義経の本心に出た戦ではな
い。されば、源氏弱しなどと思うは大きな間違い。-やがて潮向きの変わ
りを見なば、必定。義経自身陣頭に立ち、ふたたび襲(よ)せて来るであろ
う。その時こそは」
 かれには、もう乱軍の結果が、眼に見えていたらしい。
 多年、瀬戸内のここかしこに、船戦(ふないくさ)の経験をつんで来たか
れには、両軍の布陣隻数などからも、到底、味方に勝目のないことは、分
かっていた。
 それにつけ、心の底では、
 「・・・・・・・憐れなのは、女、子ども」
 と、かれも思わないわけではない。
 けれど、世に残してゆくのは、死へ連れてゆくよりも、もっとみじめな、そ
して、むごい結果になるだろう、というのが教経の考えだった。「-こずえ
の花は、もろともがいい。無情のようだがそれは情けだ。女房たちとて、た
れひとり、あとに生き残っていたいとは願っていない」
 そう、かれは思いこんでいた。
 ただ、そのかれにも、返すがえす、いまいましい一恨事(いちこんじ)が
ある。
 平大納言時忠のありかただ。
 今にして、なおかれは「なぜ、屋島を出るさい、あのおりに、時忠どのを
斬ってしまわなかったか。一期(いちご)の不覚ではあった」と、口惜しく思
う。
 -で昨夜宗盛の内許を得て、部下を船島へ放ち、きょうの開戦前に、禍(
わざわ)いの根を絶ってしまおうとしたのであったが、その策は、失敗に帰
した。
 そればかりか、立ち帰ってきた刺客がかれに告げた時忠の言というのを聞け
ば「-能登は、よい甥、よい男とは思うが、かれの考えと、自分の思慮とは、
千里もちがう」といったとか。
 そのうえに「さほど、平家に殉(じゅん)じて、美しゅう死にたいならば、
なぜ人の生き方や他を気にせず、自己の信念どおり、ただ一人でも返り見
なく死ねないのか、そう時忠が申したと、能登へつたえよ」という伝言であ
ったという。
 と、聞いたとき教経は、「人を小ばかにしたいいぐさ」と、怒ったが、しか
し、けさのかれは、叔父の言にも一理はあると、思い直していた。
 とはいえまた、時忠がひそかに企(たくら)むであろう行動とその裏切り
目的に、毛頭、気をゆるすことはできなかった。
 かれの乗船は、主上のいない偽装の唐船であった。日月(じつげつ)の
幡(ばん)を見、敵の精鋭は、その一船へ集中してくるにちがいない。
教経は、予想されるその大敵を引きうけて戦わんと、われから望んで乗っ
たのである。-かれの小早舟(こばや)の舳(みよし)は今、その唐船へ近
づきかけていた。
 と、なに思いついたか、教経は、
 「や。-待て、権藤内(ごんのとうない)」
 急に手を打ち振って、櫓(ろ)へ命じた。
 「この船、あとへ戻せ。ちと思い出したことなあるわ。舳をまわせ」
 櫓を把(と)っていた権藤内貞綱と、弟の貞重の二人は、いわるるまま、
すぐ大きく方向を変えながら、
 「もいちど、内大臣(おおい)の殿のお船へ、お戻りなされますか」
 「いやいや。阿闍梨(あじゃり)の御船(みふね)へ立ち寄り、阿闍梨祐
円どのに、お目にかかっておきたいのだ。今生(こんじょう)のお別れも告
げたし、かたがた、お願い事もちとあらば」
 と、べつな船を指さした。
 その船の帆桁(ほげた)には、細い黄旗が風に吹かれていた。
 権藤内兄弟には、教経のことばの裏と、ほんとの目的とが、すぐ読めた。
けれども小早舟の櫓手(ろしゅ)には、左右六人も並んでいた。かれらは
ただの水夫(かこ)にすぎない。黄旗の船に幼帝(みかど)がおいでとは知
らないし、また、知らせてはならないのだった。




































 パリ画壇の寵児

 藤田の独自の画風がいつ確立したかを明確に述べるのは難しい。
藤田自身は1917年から18年にかけて多数描かれた、パリおよびそ
の周辺の風景画を最初に描いた時、「そこには現に世界中に存するどの
絵とも一点の類似を見出すことができなかった。それこそ完全な自分の
絵が露出していた。僕は僕の絵を創造した」と昂奮気味に語っています。
しかし、これらの風景画は、すでに多くの研究者が指摘しているように
ルソ-の絵画やアジェの写真の影響が多分にうかがわれるし、最初のこ
ろに開催したいくつかの個展に対し、人種的な偏見も交えて狡猾な物真
似であるとするフランス人の批評があったことを、藤田自身が記してい
ます。
とすれば、藤田が真に独自の様式を確立したといえるのは、やはりサロ
ンで大きな成功を収めた1921年頃からということになるでしょう。
その様式は大きく三つの要素から成立しています。藤田の代名詞ともい
える、滑らかで鈍い光沢を放つ独特の質感を備えた白い下地。その下地
の上にひかれる繊細にして流麗、かつ均一な輪郭線。そしてこの両者を
存分に生かして生まれる入念な細部描写と質感表現です。藤田自身が誇
らしげに語っているように、従来単なる余白でしかなかった白い下地そ
のものに意味を持たせ、一見簡素に見えながら極めて充実した絵画空間
を生み出しています。
1920年代の藤田の作品では色彩はごく僅かしか用いられていません
が、周囲の白字が色彩に負けないほどの存在感を持っているために、わ
ずかであっても実に効果的です。さらに画面に近づいていくと主役の周
囲にちりばめられた小物の表現が、超絶的といいたくなるほど細密さと
再現性を有していて、鑑賞者を驚かせます。画家の技巧を誇示するかの
ような表現は、やりすぎるとうるさく感じられたり、全体の調和を乱す
のですが、これも白い下地がうまく受け止めて逆に完成度の高さに貢献
しています。
 このような独自の表現の背後に、日本画の伝統があることはいうまで
もなく、藤田自身もはっきりとそれを認めています。そしてそれゆえに、
一部の日本人からは単なる日本画の技法の油絵への焼き直しにすぎない
とか、フランス人の異国趣味のおもねった態度、といった批判を浴びる
結果を招きましたが、作品をよく見れば、それが見当外れな批判である
ことはすぐに分かります。すでに述べたように、白い下地は単なる余白
ではない。それははっきりとした存在感と質感を備え、それ以外の部分と
密接にかかわりながら画面を構成しています。印刷された図版では、こ
の白地の質感を再現することがむずかしく、ややもすれば平板な印象を
与えかねませんが、実作品の前に立つとその意味の重さが十分に理解でき
ます。さらには異国趣味に訴える云々についていいますと、この時期
の藤田の画題に日本的な要素が登場することは全くありません。むしろ
彼は裸婦をはじめとして、フランス、あるいはヨーロッパ絵画の伝統的な
主題に正面から取り組んでいます。むしろ藤田にとってはその方が自ら
の独自性を訴えるのに好都合だからです。彼の作品を見るフランス人た
ちは、いつも見慣れた主題が、それまで見たこともないような表現で目の
前に提示されることによって、驚きが倍増したことでしょう。日本文化の
表面的な移植であれば、批判もやむを得ませんが、藤田は東西の文化を
十分に研究し尽くした上で、その効果を最大限に発揮するポイントを見
極めて両者を融合させ、作品として成立させたのです。新鮮な魅力に溢
れ、高い造形的完成度を持つ藤田の作品が評価を得るのは当然でした。
 1920年代の藤田は、まさにパリ画壇の寵児という言葉がふさわしい
活躍ぶりでしたが、人気の高さは当然作品価格の高騰という形で現われ
ます。本展に出品されている《五人の裸婦》(1923年東京国立近代美
術館蔵)は1923年のサロンド・ドートンヌに出品されていますが、出
品目録に「25000フラン」という売却価格が設定されています。この
25000フランが当時どの程度の金額か比較してみますと、ピカソは1
920年代の前半1点あたり数千フランから1万数千フラン程度、マティ
スは5000フランから数万フラン。キスリングは1000フラン前後か
ら数千フラン。
最晩年のモネが数万フランから10万フラン前後といった具合で、藤田の
25000フランはマティスに及ばぬものの、ピカソに匹敵あるいは上回
り、キスリングを置き去りにし、現存の若手作家としてはほぼ最高に近い
位置を占めていることが分かります。もちろんこれは公開されている情報
のみで、絵画作品は出来栄えによって大きく価格が左右されることもあり、
一概にはいえませんが、藤田に対する市場評価の一つの目安にはなるで
しょう。
この経済状況を反映するように、1924年には渡仏以来住み慣れたモン
パルナスを離れ、高級住宅街の16区に移り、糟糠の妻ともいうべきフェ
ルナンドと別れて21歳のリュシー・バドウ-(ユキ)と暮らし始めます。
運転手付きの高級車を乗り回し、社交界の花形として夜ごとパーティー
に繰り出すのもこの頃からです。
 画家として著名になったわけではありません。おかっぱ頭にロイド眼鏡、
ちょび髭にイヤリングといった強烈な自己演出によってさまざまな場所に
出没し、画家の枠を超えたパリのアイドルとして認識されるのもこの頃で
す。
単なるスナップショットではありません。プロのカメラマンによる藤田の
肖像画写真も多数撮影され、その人気の幅広さがうかがえます。有名人に
なれば、そのイメージを欲する人が増えるのは当然で、藤田が自画像を
多数描いたのは、その需要に応えるという意味もあり、またイメージの拡
散によってさらに人気が高まるという利点もありました。こうして藤田の
名声はとどまるところを知らなかったが、画家の枠を越えた活躍は、逆に
彼の画家として評価に疑問を投げかける結果を一部にもたらしました。
派手な私生活をとらえて、宣伝や、ハッタリ屋のレッテルを貼り、作品の
評価もろともに引きずり下ろそうとする少なからぬ人々が日本人の中に
登場します。藤田と日本との間の亀裂が次第に顕著になっていくのです。

 砂の上で
 
 気持ちよさそうに砂浜に寝そべる二人の裸婦と赤ん坊。女性たちは目
を閉じてまどろんでいますし、赤ん坊はぐっすり寝入っている様子です。
 その周りには、様々な種類の貝殻がきれいに散らばっています。中には
カニもいます。砂遊びの後でしょうか。砂のお城、バケツやスコップも見
えます。女神のような裸婦には不釣り合いな砂浜、さらに日常的なバケツ
などのモチーフが加えられたことで、かえって幻想的な雰囲気に仕上が
っています。
 1925年のサロン・ドートンヌの出品作ですが、砂浜、つまり舞台が
屋外である点が異色です。ユキとバカンスに出かけたフランス北西部ブ
ルターニュ地方の「白い砂」で有名な浜辺だといいます。
 いわゆる「乳白色の裸婦」を描いた絵の中で、体の下に敷かれた布や
背景など、画面の上で裸婦と接する部分は、「肌」を美しく見せるという役
割を持っていました。いわば、主役の裸婦を引き立てる重要な脇役です。
白いシーツや綿密な柄の布、あるいは真っ黒に塗りこめた背景など、い
くつかのパターンがありましたが、重視されたのは、質感と色でした。
例えば、柔らかく温かな肌触りの布、白い肌と対照的な黒色といった具
合です。
 この作品で新たな脇役として藤田が目をつけたのが「砂」です。タイトル
を「浜辺」や「海辺」ではなく、あえて「砂の上」としたのも、この点を強
調するためだでしょう。つぶつぶ、さらさらの小さな砂から成る砂浜は、特
に質感の点で格好のモチーフです。また、シーツや布等の場合、襞(ひだ
)やしわも造形的に重要な要素となりましたが、砂浜の起伏も同じような効
果を上げています。
恐らく砂の上に散りばめられた貝殻には、布の模様のような役割を期待
したのでしょう。
 裸婦の肌をひきたてるモチーフの模様は、例えば、この前年い雪を使っ
た例もあります。この時のモデルはユキですが、そもそも彼女の名は「雪
のように白い肌」ゆえの愛称です。雪のような肌と実物の雪を対比させる

向でしょう。ともかく、この頃の藤田は肌と合わせる新たな脇役の探求に
熱中していたのでした。しかし、その後の制作を見ますと、結局、布より
も魅力的なモチーフは見つからなかったようです。
 また本作は、目を閉じる裸婦の表情や非現実的な雰囲気から、シュル
レアリスムとの関連が指摘されることもあります。確かに、当時その思潮
は大きな波となる気配を見せ始めていました。ただし、藤田がシュルレア
リスムに本格的に興味を示し始めるのは、詩人ロベール・デスノスと出
会った1920年代末以降です。しかし最新の動向に敏感に反応してきた
藤田が、こうした時代の空気を自作に取り込んでいたとしても不思議でな
いかもしれません。

 1925年
 布/油彩
 70.3×160.8

        砂の上で  姫路市立美術館蔵
CIMG0156

















 家内と付き合いのある、奥様の弟さんが、日野市に在住のため、約1年ぶ
りに、家内も一緒に3人で訪ねることになりました。カーナビに住所を入力
し、向かう途中に新しいバイパス道路が出来ていて、カーナビがうまく認識
できなくなり、少し手間取りましたが、無事到着しました。
キュウイフルーツの棚囲が、駐車場になっていて、たくさんの実がぶら下が
っていました。氏の出迎えを受け、宅にお邪魔しました。

 居間にてお茶と、プラムを御馳走になり、雑談をした後、庭の果樹とか野
菜他を案内していただきました。外は蒸し暑く、風が少し吹いていましたの
で、何とかしのげました。
 果樹野菜などの名前はいちおうお訊きしましたが、全ては覚えていません。
 それでもかまわずに撮影させていただきました。

 この果樹名は、うかがっていませんが、「まだたくさんは実をつけていない
のですよ。昨年2個ほど食したところ、おいしかった」といわれていました。
CIMG0001

















 このハーブは、香りに沈静効果があるといいます。
CIMG0003



















 この植物は、葉が甘く、現地で実際に嚙んでみましたが、確かにかなりの
甘さがありました。紅茶などに入れるとよいとのことです。めずらしいため、
これを帰りに一株いただく話になっていたのですが、忘れてしまいました。
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 「ムカゴ」という名の植物で、スライスしたものをてんぷらにすると、ビー
ルのつまみにもなるそうです。
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 「ズッキーニ」は、ずいぶん葉が大きく、目立ちます。ズッキーニと豚肉そ
れにニンニクを入れ、みそ味で仕立てた料理は、なかなかおいしいものです。
 少しいただいて帰りました。
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 「茄子の花と、親の言うことは、千に一つの無駄がない」山形へ長期出
張のおりに、現地の方が、いわれていたことを今も思い出します。
それだけ茄子(なす)の花は、咲いたぶんはすべて実をつけるそうでが、
ここでは、ずいぶん手間をかけて床が作られています。
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 「ラ・フランス」だといわれました。山形県の方が産地だと思いましたの
で、当地での生育はどうかなと、思いましたが、結果をお聞ききできるのを
楽しみにしています。
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 リンゴが生っています。一部果、果実に袋がかぶせてありました。
子のリンゴの木に虫が付着すると、全滅の危機になるので、要注意だとい
われていました。
 一度虫が規制したので、これを、ガスバーナーで、焼き殺したと、仰って
いました。
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プラムです。帰りのお土産としてたくさんいただきました。
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 ピーマンが生っていました。
 
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 ブルーベリーだといいます。想像より実が大きいのに予想外です。眼にい
いといわれています。
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 オレンジ色の百合(ゆり)のような花が咲き、すでに生長したものが、植わ
っていましたが、別の個所にこれを増やす考えだそうです。氏はこの花のつ
ぼみが、気に入っておられ、てんぷらにするとおいしいそうです。また生薬に
もなるといいます。
 
 多摩川の土手べりを散歩しますと、このオレンジ色の百合のような花が、所
々に咲いていました。
日野在住の知人は、この植物の名前を「カンゾウ」とかいってらしたのを思い
出しました。
 氏は、腎臓を一つ摘出されていらっしゃることをこのあいだ初めて知り、食
事は、良質のたんぱく質を摂るようにしているらしく、カロリーなどの制限も
厳しそうでした。
 そこで家内が、主人は、食べ過ぎで朝は、リンゴ、キュウイ、バナナそれに
牛乳には「黄な粉」やゴマや、ウコンを入れ、そしてパンに蜂蜜をつけて食す
るんですよ」口をはさみましたので、小生は、「このくらいは食べないと、生
きている値打ちがないよ」などと、発言をしてしまいました。
 食事をコントロールされている氏を前にして、大きな失言をしたと、今は後
悔しきりです。ご容赦願いたいと思います。
 この広い菜園の維持は大変でしょうけど、近所の方などに、収穫した野菜や
果物をあげたりして、コミュニケーションをはかっておられる様子でした。
 昨年お聞きしたときは、「腎臓」のことを心臓と聞き違えていましたので、大
きな間違いでした。
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 名前は、お聞きしなかったのですが、氷点下15℃耐えられる植物だそう
です。
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 収穫していただいた「プラム」をいただきました。早速、家内がこれをジャ
ムに調理していました。
CIMG0017





















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 プラムのジャムが出来上がったようです。生食用は、冷蔵庫にまだ残って
いますので、少しづづいただこうと思います。
                        プラムのジャム
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 楯(たて)の表裏(ひょうり)

 義経の旗艦(きかん)から第一の貝は鳴ったが、それは、準備の布令で
ある。出動には、まだ少し間があった。依然として、波間は暗い。
 使者の那須大八郎は、その大将軍船へさして、漕ぎもどっていた。-が、
こんな非情なばあいだけに、たった今、田辺水軍の主船の上でふと触れ
た奇異な思いがいつまでもぬぐい去れずにいた。
 かれは、そこで、ただならぬ女の叫びを耳にしたし、湛増法印が黒髪を
乱した女を横抱きに、あわてて船房へ走りこんだ影も見たような心地が
する。「-いったい、あれは何事であったのか?」と、いぶからずにいら
れないのだ。
 しかしかれはなにも、そんな使命以外の目撃などを、主君義経の前に、
復命しようという気では毛頭ない。
 ただ、かれとして、懐疑にたえないだけだった。
 が、考えてみると。
 戦陣もまた、人間同士の集合であるにすぎない。人間の集まるところ、
表裏をつつみ、必ず、何か、葛藤(かっとう)をもっている。
 当然、合戦のうえでは、敵味方、大きく二分されざるをえないが、味方
内にも、平常から、さまざまな内輪の闘争はつつまれていた。
 たとえば、主君義経の周囲にも。
 また、大八郎自身の身ぢかにさえ、なくはない。
 その生々(なまなま)しい実例を、かれはかれの兄、那須余一宗高に見
た。梶原の麾下をきらって、屋島では義経の手に属して先陣していた余
一は、例の扇の的を射たりしたことから、「目ざましき弓取りよ」と、一
躍その名をとどろかせた。
 けれどその後ーその誉(ほま)れに報(むく)われたものは、なんであ
ったか。
 梶原の激怒と、軍罰の適用だった。またあれほど、余一の弓を、やん
やと喝采(かっさい)したそのおりの諸将も以後は、余一の名誉への妬
(ねた)みも手伝ってか、余一の、よの字も口にする者はない。ほとんど
きのうの人のごとく、みな忘れ顔ではないか。
 ひとりその後も余一を庇(かば)うかに見える人は、義経であった。梶
原が「-鎌倉表へ申して、公(おおやけ)にせん」というのをなだめて、な
お自分の配下におき、梶原のてまえ、謹慎を命じ、表面に出さないだけ
の処置ですましてあるのだった。
 もっとも、そんなことがなくても、余一は、きょうの晴れの戦いには、し
ょせん、陰の役にまわされて、矢前の働きに立つのは、免(ゆる)されな
かったかもしれない。
 なぜなら、大勢の那須兄弟のうち、六郎実高、四郎久高、三郎幹高(み
きたか)の三人までが、平家方にいることは、梶原にもたれにも分かって
いたからである。
 もちろん、義経も知っていよう。考えようによっては、余一の謹慎は、そ
ういう複雑な立場だけに、なおこれ以上の誤解をうけさせまいとする義経
の温かな庇護(ひご)かもしれないのだ。
 少なくとも大八郎は、そう解釈くしている。
 そして、戦陣の裏にも、人間当然なもつれが潜み、男と男との嫉妬には、
女以上の嫉妬が戦っていることなども、ここ幾月かの戦陣生活で如実に
教えられて来たとおもう。
「・・・・・とすれば、何も湛増法印ひとりを怪しむに足らぬ」
 かれの考えが、そんなところへゆきついた時、その使者舟も、ちょうど
旗艦の横へついていた。
 すぐ、義経の床几の場に行って、「大八郎、お使いとして、それぞれの
船勢(ふなぜい)の大将へ、令書をさずけ、おことばを伝えて、ただ今、立
ち帰りましてございまする」
 と、復命をすませた。
 義経のそばには、佐藤忠信、江田源三、伊勢三郎、岡部六弥田、三浦
義澄、鷲ノ尾経春、渡辺眤(むつる)、亀井六郎、鈴木重家、深栖陵助(ふ
かすのりょうのすけ)などの輩(ともがら)がその床几をとりかこんでい、
明けやらぬ雲を仰ぎながら、おのおの、眸を吹き研(と)がせていた。
 「大八か。大義」
 義経は、そこから一顧(いつこ)を与えて。
 「そちも、すぐ腰糧(こしかて)(兵糧)をとれ。はや出勢(しゅつぜい)
の時刻に、まもないぞ」
 「はっ」
 すでに船上は、その準備で、兵も武将も大童(おおわらわ)の様子である。
 大八郎は、あわてて穴倉のような口から、船底へ下りて行った。そして
腰の兵糧(ひょうろう)を解いた。ゆうべのうちに、きょうの朝昼の二食分
が各将士に渡されていた。-暗い中で、もそもそとひとり食べはじめる。
-次の一回分を食うときは、もう戦場の血しおの中であろうと思う。
 船倉には、矢束(やたば)の山や、雑多な武器、糧米などが、積みこん
である。大八郎は、糧を食い終わるやいな、船尾のいとど狭い一室をの
ぞきこんだ。そして、
 「兄者人(あんじゃびと)」
 と、小声で呼んだ。
 兄の余一は、そこに謹慎していた。
 戦を前に、潮風の前にも立てず、こんな船隅(ふなすみ)に慎(つつし)
んでいなければならない兄の胸はーと、大八郎の眼は、すぐ涙になりか
けていた。

 「お、弟か」
 余一は、碇綱(いかりづな)の代え綱に、腰かけてい、あたりは暗いが、
案外、明るい調子でいった。
 「いよいよ、御出陣らしいなあ。さっき、貝の布令もあったようだ。そん
なさいに、これへ降りて来てはなるまい。大八、わしに心を引かれてくれる
な」
 「はい」
 「思えば、東国を立つみぎり、鎌倉殿の命で、梶原の麾下に配されたの
が、そもそも、武運つたないことであったよ。・・・・・・・が、屋島では、
とまれ扇の的(まと)を射あて、弓矢に恥は取らなんだゆえ、遠い故郷へ
聞こえても、いささか面目は立ったというもの」
 「そうですとも、兄上、卑怯(ひきょう)な振舞いがあって謹慎を命じら
れたわけでなく、むしろ、御名誉があだになったともいえまする。決して、
お気を腐らせずに」
 「案じるな、わしは横着ものぞ。もう身の処置は腹はきめておる」
 「えっ。御処置とは」
 「もし、きょうの御合戦に、味方が不利に落ち入りなば、謹慎も破って、
働きに出る。そして、あるいは、判官どののためには討死もしよう。・・・・
・・したが、味方が勝ち軍(いくさ)ならすきを見て陸へのがれ、そのまま、
ふるさとの那須へ帰ろうと思う。一生浪人して送ろうと思う」
 「でも後日、鎌倉どののおとがめでもあったらば」
 「弓矢を捨てればよいまでのことではないか。弟よ。そちもきょうの合戦
には、この兄の分までもと、ひそかに死も覚悟していようが、めでたく、き
ょうを過ぎなば、ただの一浪人に返り、平家の内にあると聞く兄たちの生死
をただし、もし生き残っていたら、ともに手をたずさえて故郷へ帰って来い
よ、家は一人が継げばよい。そして源氏平家と、生木を裂(さ)かれるこ
ともなく、ひとつ土を、せめて余生には、仲よく耕(たがや)そうではない
か」
 「はい」
 そのとき、すぐ頭の上で、螺手(らしゅ)の吹く第二の貝の音が高くひび
いた。
 「あっ、いよいよ、出勢です。では兄上」
 「早く行け。-さりとて弟。きょうが最後の戦ぞ。人におくれは取るな」
 「仰せまでもござりませぬ。おさらば」 
 大八郎の影は、船底から躍り上がるように出て行った。
 帆綱頭(ほづながしら))の水尾谷十郎(みずおのやじゅうろう)と、水
夫頭(かこがしら)の千葉ノ冠者胤春(かじゃたねはる)とが、船上の兵を
叱咤(しった)の下(もと)に指揮してい、
また螺手(らしゅ)は、望楼の上から息のかぎり、なお法螺貝(ほらがい)
を長々と吹きつづけている。
 大八郎は、やぐら組の一人なので、ただちに、そこの櫓(やぐら)へ上が
って行った。すでに、義経も、眉を澄まして立っていた。
 ながめやれば-
 ここ串崎の北磯にある船影は今、一せいに、檣上(しょうじょう)へ帆を
張りあげ、そして徐々に、ゆるぎ出る方向へ、その帆綱を操縦しあってい
た。
 巨大な帆影と帆影は、幾段にも重なりあい、その序列が成(な)ると、先
頭の船から船脚(ふなあし)に白波を見せはじめ、舳(みよし)を迂回(う
かい)して、串崎の突端から西へ大きく曲がってゆく。
 先陣は、梶原景時父子とその一族の船列が、およそ百余艘。
 ニ陣は、副将の田代冠者信綱だった。それに佐々木盛綱、高綱、安田
三郎義定などの八十余隻。
 次に、中軍の大将軍船。
 いうまでもなく、それには義経が乗っていた。庄ノ三郎忠家、大内太郎
惟義(これよし)、勅使河原(てしがわら)権三郎などの緒船であり、また
伊予の河野水軍も、颯々(さつさつ)とつづいてゆく。
 特徴のある田辺水軍は、それよりもなお、幾段か後の方だった。
 さらにまた。
 時をおなじくして、満珠・千珠の二島の蔭から鵡殿隼人助(うどのはや
とのすけ)の熊野水軍と、串崎舟の一隊が、漕(こ)ぎ出しているのが見
える。それはいずれも、船あしの早い軽艇、であった。
 「-風は追い風」
 義経は、頭上の帆鳴りを仰いで、
 「田野浦の敵勢も、はや、われらの動きを知った様子。-もうよいぞ、船
脚はちと早過ぎる、帆を下ろして、すべて、櫓(ろ)ばかりにせよ」
 と、楼上から、命令した。
 旗艦が、帆を下ろすと、先陣後陣の船影もみな、それに倣(なら)った。
あわただしい壮観である。
 おりから東方の水平線には、朝が燿(かがや)き初めてきた。その辺に、
厚い雲が多いせいか、太陽は相(すがた)を見せず、春も三月なのに、寒
々と戦(そよ)ぎ立った海(うな)づらだった。いつとはなく、一波一波が
朝の光をひらめかしてくる。-ただ、長門側の壇ノ浦一帯の山蔭だけが
濃く暗く、そして、不気味なほど、ひそとして見えた。
 「おう、平家もあれに」
 一瞬、静止していた源氏の船陣は、おのおのの舷側(げんそく)や櫓上
から、ひとしく眼を西岸の一角、田野浦へ放ちあったにちがいない。
 かなたは豊前の岸である。ちょうど、文字ヶ関の和布刈(めかり)りの御
崎(みさき)からやや南へ寄った所。そこに、平家は全水軍の戦列を布(し
)き、夜来、万全の備えを終わって、待ちうけていたらしい。
 「-ござんなれ、いつなりとも」という気勢が、おびただしい船影と、ひ
るがえる無数の紅旗にもながめられた。      
 田野浦の地勢は、東へ向かっているので、陽(ひ)が昇るにつれ、御座
船の日月(じつげつ)の幡(ばん)や旌旗(せいき)まで、あざらかに、燿
いて見えたが、源軍の船影は、朝陽(あさひ)を負っているので、平家方か
ら見れば、おそらく、ただ団々として、海をはう黒雲のようにしか見えなか
ったことであろう。

 笑(え)つぼの渦(うず)

 -陽は高くなった。辰(たつ)の刻(午前八時)も、少し過ぎたろうか。
 朝の間(ま)一時、雨と見えたのも、雲まだらに、空は深い肌をのぞか
せ、おりおりの日射しが海峡いちめんにまばゆい波光をたてた。水は巨
大な器(うつわ)の中のもののように絶えず大きく揺れている。
 風が変わって来たのだ。陸の磯松は揺れもしていないが、海上には、か
なりの風があった。
 「や、や。あれ見よ。田野浦の沖を」
 「おう、たれの組やら、味方の船勢が敵へ寄ってゆくわ」
 「しきりに誘いくる敵の挑(いど)みに応(こた)え、ついにこなたから
も、一陣、真っ向へ、迫ったるぞ」
 すわや、人に先陣をゆずりしか」
 突如、源氏の内のどよめきだった。-義経の乗船を始め諸船(もろぶ
ね)の上から武者声のあらしがわき揚がっていた。わあっと、何度にも、間
をおいて、海づらが唸(うな)った。
 「やあ、怪(け)しからぬ抜け馳けかな。あれや梶原どのの率(ひき)い
る船勢ではないのか」
 水夫頭の千葉ノ冠者、帆綱頭の水尾谷十郎、櫓座頭の熊井太郎など、
左舷(さげん)の一つ所に馳け集まって、かぶとの眉廂(まびさし)しに手
をかざしあい、
 「そうだ、梶原勢と見ゆる」
 「やはりそうか。しゃっ、軍監みずから諜(しめ)しあわせの時刻も待た
ずに」
 「だしぬけの先陣振りは、片腹いたい。いや違法だ。陣法破りだ。おん
大将判官殿にも、苦々(にがにが)しげに見ておわさん。なんと指揮を下
し給うことか。-あれよ、ほかの味方も、梶原が懸るならばと、にわかに、
船脚(ふなあし)変えて、列をみだし始めたではないか」
 と、気を揉(も)んだり、地だんだふんで、そして頭上の、やぐらの上を
振り仰いだ。
  やぐらは静かだった。
 四面をかこんだ楯(たて)の内に、一旒(いちりゅう)の白旗と、義経の
半身が、浅黄色の空へ嵌(は)め込んだもののように、くっきりと在(あ)
る。
 「・・・・・・・」
 かれの眸も、今、人びとと同じ方を見ていた。かくべつ、それにたいして
色をなした容子(ようす)もない。
 で、そこの将座を繞(めぐ)る人びと―伊勢三郎、佐藤忠信、那須大八
郎、そのほかも、じっと、かたずをのみつつ、義経の唇(くち)もとから、
うごかぬ眉、燦(きら)めくかぶとを、ただ見まもってい、そしてまた、気
づかわしげに、田野浦の沖へ、眼を馳(は)せたりするだけだった。
 「三郎布令(ふれい)をくだせ」
 やがての声に、伊勢三郎が「はっ」と、前へ出て、
 「螺を吹かせまするか」
 「そうだ、螺手と、旗番をして、全軍へ合図せよ」
 「みだりに騒ぐな、陣をみだすなかれとの」
 「いやいや退き貝ではない。-すでに、あのように、逸(はや)り乱れた
舳(みよし)を、ただ抑えても、鎮まるまい。徐々に進みでん。進めの貝を
高く吹け」
 意外であった。
 たれの眉も、一瞬、予想の外(そ)れた色めきに吹き抜かれ、同時に「
-すわ、開戦」と、自分の力でもないあるものに体を弾(はじ)き上げられ
た。
 たちまち檣頭(しょうとう)に流れて見える三筋の細長い色布の旗が何
か語った。いわゆる旗合図か。
 また、螺手は、舳に立って、貝を吹いた。
 貝の音色は、ひとつの息が、ひとつの単語をなしてい、水軍法では、そ
れを螺譜(らふ)と称している。螺譜は、秘密な約束と創意による独自な
調べをもって吹かれるので、あながち、敵味方一様ではない。
 このほか、一船の船上だけの合図には、鉦(かね)を使う。士気の鼓舞
(こまい)には、陸戦とおなじ攻めつづみも打ち鳴らす。武器、軍楽、水軍
の組織、あらましは宋朝の風も真似びたものといってよい。ちがうのは、柳
桜(やなぎざくら)の都を持つ国の生んだ装(よそおい)の優雅なことであ
り、またそれらの物具(ものぐ)に身をまとう東国武者の雄心や、平家の公
達ばらの、かなしくも強(し)いて自分を猛(たけ)くし、一門ことごとく
死してもと、きょうを退(ひ)かずにいた姿であった。
 この朝。
 豊前(ぶぜん)田野浦(たのうら)の山や磯の青色をうしろに、全水軍を
三段に組み、紅(くれない)の霞(かすみ)を海上に引いていた平家は、源
軍の影を東方にみとめるやいな、ただちに攻め貝、攻め鼓の気勢をあげ
て、一陣、二陣と、先方の先鋒(せんぽう)の舳艪(じくろ)をすすめ、戦
いを挑(いど)むこと、しきりであった。
 -が、こなたの義経は、かたく、
 「寄すと見せては、舵(かじ)をまわして、退き返せよ。敵にムダ矢は射
さすとも、味方は矢交(やま)ぜに応えるな。矢ごろ(射程距離)までには
進まぬうち、潮の流れを見て、疾(と)く退けや」
 と、不断に命令を下していた。
 この指令は、けさになってからの、声ではない。
 すでに夕べの帷幕(いばく)の密議で、各大将には、しめし合わせてあ
ることだった。
 ここの特殊な潮(しお)ぐせや水路は、すでに、義経は、先につぶさな踏
査を遂げていた。-で当然、作戦基本は、間断なき海峡の相貌(そうぼ
う)に照らして考えられないわけにゆかない。
 その結果、前夜の帷幕では―味方の総懸りは、午(うま)ノ一点(正午
十二時)をもって開始する。平家方も自己に有利な潮合いを計るであろ
う。その刻限は、われとは逆な、辰(たつ)ノ下刻(げこく)(午前九時)か
ら午(ひる)前後までに、勝敗を決せんとして来るものと思われる。だが、
敵の仕懸(しか)けに乗ってはならぬ。陸地(くがじ)や河川の先陣とは異
(こと)なれば、ゆめ、先馳けは慎み合おう。
 と、なっていたものである。
 だが、その席でも梶原父子は「こたびこそ総勢の先鋒は、ぜひわれらの
手勢で」とは公言していた。
 かれらが、先の雪辱を思う気もちや義経への対意識は、たれにも読め
ているので、串崎発向のさい、かれの船列が第一陣を取って進んだのは、
べつになんとも見ていなかった。
 -けれど、ここへ来てから、やがてかれらが、すべてを無視して、単陣、
平軍へ接していこうなどとは、たれにも、思いもよらなかった。いかに功
を急げばとて、余りな横紙破りではあるまいか。
 わあっと揚がったどよめきの中には、そういう憤激もあったのである。
 だが、すべてではない。
 鎌倉直参の御家人、系統雑多な東国武者のあいだには、ひそかに義
経の指令をあげつらい「-九郎の殿も、さすが海は怯(お)じられたか、敵
を見ながら悠長(ゆうちょう)な潮待ちとは、さても、手ぬるさよ」と、今
朝来、いらいらしていた一徹者も少なくなかったのだ。
 とはいえ、梶原ほどな独断に出る勇もなく、義経の旗艦に従い、むなし
い遊弋(ゆうよく)と、敵のあざけりに耐えていた。-ところが今し、梶原
勢の一船隊が、とつぜん前陣の一角を脱して、平軍の挑(いど)みへ応じて
行ったので、爆発的な声となったのはむりもない、かれらにしてみれば、も
う、むなしい遊弋は飽(あ)ている。潮時刻は、これから、いよいよ落潮(
らくちょう)を急にし、源氏方には逆潮の不利にはなるが、それも、知れたも
のと、早くも狎(な)れて、ここの海峡路のけわしさも、いつか甘く観(み)
ていたのである。そうした麾下(きか)の心理を、とっさに、見て取った義
経の胸には、おそらく、
 「こうなっては、ぜひもない」
 とする嘆声と同時に、その騎虎(きこ)の勇を、一応、敵へ放ったうえの
手段を、さらに按(あん)じていたにちがいない。
 -ともあれ、、進撃の螺、攻め鼓は、鳴りひびき、全軍の舳(へさき)は、
平軍へ向けられた。舷々(げんげん)触れ合うばかりな逆潮(ぎゃくちょう
)と闘いつつ、義経自身の乗船はいうまでもなく、艨艟(もうどう)すべて、
豊前岸(ぶぜんぎし)へ近づいていた。

 平家の権中納言知盛(ごんちゅうなごんとももり)は、夜来、田野浦へ移
っていた。
 前の夜の宵。
 和布刈(めかり)の宮の拝殿で、神酒(みき)酌(く)み交(か)わし、
名残の管弦に、さいごの輿を惜しみ合ううち、東方のやみに敵のうごきが
観(み)られたので、おのおのあわてて船へもどり、深夜の底を、早鞆(は
やとも)ノ瀬戸の東へあふれ出た。そして、今暁(こんぎょう)までの間に、
長門壇ノ浦の岸から真向(まむか)いの、豊前田野浦の磯に添って、一門
ことごとくここに在(あ)るぞとばかり、布陣をおえていたのであった。
 それ以前に、筑紫(つくし)の山賀党、松浦党、阿波民部の四国勢など
は、早くからここに船陣をおき、遠くは串崎を監視し、近くは早鞆の瀬戸の
口を守っていた。
 あわせて、何百艘か。
 吾妻鑑、盛衰記、そのほか、諸書の記載は、どれも一致しない。古典
平家は「-平家は千余艘を三手(みて)に作る」といい、また「源氏方、三
千余艘」としているが、もちろん、誇張である。
 史家の推算によれば、兵軍七、八百艘、源軍五、六百艘と勘案されて
いる。平家の長年にわたる西海地方の経営から推しても、源氏方より隻
数が少なかったとは考えられない。
 いずれにせよ、きょうを晴れと、あるいは、最期(さいご)とも、一門の悲
壮な心を一つに、その持つ全兵力を展開したことにはちがいなかろう。
-わけて遠くからでも、燦(さん)として、一きわ目立つ唐船は、日月(じつ
げつ)の幡(ばん)にも知れるお座船(ざふね)であり、知盛の乗り込んで
いる大船は、その前衛をなす船列の真ん中に見えた。
 いかにも、きびしい護(まも)りである、十重二十重(とえはたえ)の護り
の中に、日月の幡(ばん)はあった。一目して「-帝は、あれに」と、どうし
ても思われる。
 しかし、前夜すでに、みかどと女院は、べつの船にお遷(うつ)しされて
い、お座船の玉座も、そこの賢所(かしこどころ)の神器も、じつは真空な
のであった。秘計はもとより昨夜、和布刈の宮によりあった一門の極く少
数の人びとしか知ってはいない。
 が、知盛はあくまで、秘を飾った。物々しく見せかけた。そして、最前衛
の船列に身をおいて、「いかで、東国武者の下種(げす)輩(ばら)を近づ
けん。寄らば眼にもの見するぞ」と、強弓の射手をそろえて、待ちかまえ
た。
 いや、待つなどは、むしろかれの本意でなかった。
 知盛の胸には、方寸があり、
 「-戦(いくさ)は、午(うま)の刻(こく)までぞ。おそくも、未(ひつ
じ)刻(午後二時)までに決せん」
 と、これは、味方内にも布令’ふれ)ていたことだった。
 敵の義経が、潮流の刻限に、細心であったとひとしく、知盛もまた、そ
の計算と潮の利用を、度外視してはいなかった。
 ここの海峡はかれとして、数度に及ぶ実戦の経験もある。いわば手馴
(な)れの戦場なのだ。逆潮順潮の変り時はもちろんのこと、その緩急(か
んきゅう)、渦潮を巻く所、北水道、南水道と称する潮流中でも烈(はげ)
しい主流の位置なども、ほとんど、そらんじていたことは、いうまでもある
まい。
 それから見て、
 ようやく、陽の高くなったころから、午(うま)、未(ひつじ)の刻限まで
が、平家にとっては、潮向きがよく、源氏はその間じゅう、逆潮に邪(さまた)
げられつつ戦う位置を余儀なくされる。
 で、知盛は、源軍をできるかぎり、豊前岸へ引きつけんものと、けさから、
さまざま仕懸けていた。
 「さすが九郎の判官(ほうがん)。-敵もさるものよ」
 知盛は、一刻半(いっときはん)(三時間)にも及ぶむなしいひとり相撲に、
いささか挑み疲れのていでさえあった。適は大きな輪陣を海面にえがき、
長門壇ノ浦からこなたへかけて、幾度となく、悠々(ゆうゆう)たる旋回を
くり返しているのだが、どう仕懸(しか)けても、矢ごろの内へ進んで来ず、
近づいたおり、舳(ふなべり)たたいて、あらゆる嘲罵(ちょうば)を送って
も、風に任せて、その輪陣は、遠くへまわってしまうのだった。
 陽は刻々と、中天へ懸(かか)ってゆく。
 「かくては」
 と、かれもあせった。
 「やあ、お座船を、もそっと前へ進めまいらせよ。知盛の船につづき候
え、諸卿の諸船(もろふね)も、二段三段、沖あいへ進み出て、敵へ近々
と当られよ」
 と、にわかに令した。
 おりふし、敵の輪陣は、梶原一族の船列を、その附近へ旋(めぐ)らして
いた。
 おそらくは、梶原父子の眼に、意外であったほど、日月の幡をひるがえ
した唐船が、忽然(こつぜん)と、まぢかに見えたことに相違なかろう。
 「や、や。あれはお座船(ざふね)ぞ」
 「おお、まぎれなき、みかどの御船」
 「九郎の殿の一令を待てとはあれど、みすみす、眼前にこれを見、なん
でむなしく見遁(のが)さりょうぞ。これこそ、天の与え」
 「天の授くるを、われから避けなば、冥加(みょうが)に尽きん。後日ま
た、鎌倉どのへも、申し開きはない。九郎の殿の令を待たば、これを見遁
がすことになろう。かまわぬ。-懸れや者ども、他に目くれずお座船へ襲
(よ)せて、まず賢所(かしこどころ)を乗っり奉れ」
 梶原景時自身、またその子源太影季(かげすえ)、平次景高、景茂など、
各船上から喚(おめ)きあって、ついに輪陣の一角をわれから崩し、颯然
(さつぜん)と、知盛の方へ向かって来たのであった。知盛は、ひざの草
摺(くさずり)を打ちたたいて、
 「してやったり、敵はからみに懸って来たぞ。あれ討て人びと、ただの一
艘も、網の目から遁(の)がすな」
 と、よろこんだ。
 かれが笑つぼにはいったことから見ても、梶原勢は、偽装のお座船とも
気づかず、どうやら、日月の幡の燦然(さんぜん)たる餌につられて、わ
れから猛然と、罠へ襲いかかったようなものだった。
 



















































 鶴 1918年頃

 古色をつけた金箔の地に鳥たちが描かれています。丹頂鶴と、孔雀の
ような鳥が2羽、その足元には鴨と、水面を行くアヒルも見えます。地
面の起伏や水の流れの緩やかな線は、やまと絵を思わせる描き方で、金
地の仕上げも明らかに「日本美術」を意識したものでしょう。このころ、
同じスタイルで猫など他の動物も描いています。
 藤田が本格的に日本美術の研究を始めたのは1917年前後と考えられ
ます。後にに自身が語るところによれば、、ドイツで出版された本など
で独学したようです。もちろん学生時代の日本画の課題に取り組んだ
ことはありましたが、パリで活動する中で、日本的なものを制作に取り入
れる必要を強く感じて、日本美術と真剣に向き合うようになったのです。
それは藤田だけでなく、例えばモディリアーニやシャガールら、後に「エ
コール・ド・パリの画家」と呼ばれる他の外国人画家にも共通する傾向で
した。
彼らは皆、その出自を個性として発揮しようとしていたのでした。
 藤田に関していえば、画家デビューとなった1917年の個展が大きなき
っかけとなったでしょう。この時、詩人アンドレ・サルモンがカタログの
序文を書いてくれましたが、藤田の独自性、斬新さをアピールするため
に、すでに過去のものとなっていた「ジャポニズム」という言葉をあえて
使ったのです。このことは藤田に「自分の作品がフランス人からどのよう
に受け止められるか」を強く意識させたにちがいありません。個展のすぐ
後に描いた自画像も、背景を金箔で仕上げ、日本画の面相筆を持つ姿
で描いています。
 しかし、日本美術を「本格的に」研究したといっても、いわゆる模写な
どは残ってはなく、伝統的な日本絵画をそのまま作品としようとしたわけ
でもありません。例えば、本作の「やまと絵風」も日本人の目にはどこか
奇妙に、さらにいえば「わざとらしく」映ります。本物志向というよりは、
フランス、ヨーロッパの人から見て「それらしく」「日本風に」描くこと
に重点を置いているように思えるのです。それは当時の藤田が、日本美術
に精通していなかったからというわけではなく、外国人向けにあえて誇張
したためです。その後の画業を見ても、藤田は人びとの求めるものを敏感
に察知して、それに応えるのが巧みです。同じことが、日本美術の研究
の成果の取り入れ方にもいえるでしょう。
 また、モチーフ自体に関しても、この作品では鶴を中心に描き、日本的
なものを選んでいることが分かります。しかし、こうした傾向はほんの2,
3年で、独自のスタイルを確立して以降は、西洋絵画の伝統的な主題に取
り組み、技法面にのみ日本的なものを取り入れる傾向となっていきます。
それどころか、日本を連想させるもモチーフはあえて避けるほどの徹底ぶ
りを見せるようになりました。

 1918年
 20.0×17.0
 布/油彩

            鶴  目黒区美術館
CIMG0018
































 巴里風景 1918年

 市場が立ち並ぶ大通りに、買い物をする人や道を行く人がまばらに見え
ます。秋から冬の景色でしょうか。青空の高さと空気の冷たさが伝わって
きます。市場の後ろに見える建物の向うには、エッフェル塔の先端が少し
だけのぞいています。右奥には、鉄のアーチで飾られた地下鉄の入り口
が見えますが、パリ14区のエドガー・キネの駅です。この頃、藤田はこの
すぐ近くにアトリエを構えていました。
 藤田は、パリ風景やモンルージュのような、パリ周縁部の寂れた景色を
特に好んで描きましたが、セーヌ川岸やノートル=ダム大聖堂など、パリ
らしい街中の風景も描いています。しかし彼が目を止めたのは、名所より
も人々の生活の場、市場で買い物をする人の様子など、日常的な景色で
した。しかもその多くは自宅やアトリエのごく近所です。こうした生活感
のある街の姿は、彼がパリに着いてまず興味を示したものの一つだったよ
うです。到着して1か月も立たない頃に、すでに本作と同じ場所で、行商
の屋台に人々が集まる様子を描いています。その頃の藤田にとっては、も
の珍しい風景だったに違いありません。
 この作品が描かれたのが1918年の秋から冬だとすれば、第一次世界
大戦の休戦条約の締結の前後でしょう。同年の春から夏にかけて南仏へ
疎開していた藤田にとって、久しぶりに目にしたパリの日常風景だったの
かもしれません。落ち着きを取り戻しつつある街を温かな眼差しでとらえ
ています。数年前には異国情緒の感じられたこの市場も、第一次世界大
戦の混乱を乗り越え、パリで生きていく覚悟を本格的に固めた藤田にと
っては、愛着のある生活の一部となっていたことでしょう。

 1918年
 46.0×55.0
 布/油彩

       巴里風景 石橋財団ブリジストン美術館
CIMG0017





















 風景 1918年
 カーニュ=シュル=メール 1918年

 1918年の4月から夏にかけて、藤田は疎開もかねて南フランスの
カーニュで過ごしました。同行したのは、妻フェルナンド、モディリア
ー二、妻のジャンヌと彼女の母、スーチン、画商のズボロフスキー夫妻
でした。
結核を患ったモディリアーニの転地療養と、現地での顧客の開拓をかね
て、ズボロフスキーが発案した旅行だったといいます。
 このとき、藤田は風景画をいくつか描いています《カーニュ=シュル=
メール》は、山側から海の方を臨んだ景色です。所々小さな石がのぞく
斜面の上に、白い家が立っています。草木の緑色、青空、遠くに見える
海の深い青色が美しく、南仏の初夏らしい爽やかな景色です。そして家
の奥に見えるくねくねと曲がる枝ぶりの木々が目を引きます。
これまでも藤田は、枝の目立つ冬枯れの木を画面のアクセントとして描
いていましたが、より躍動感のある線が印象的です。手前に生える植物
の葉の動きにも生命感が感じれれます。以前の寒々しく寂しい雰囲気の
景色が、南仏の明るい光と空気によって変化したのでしょうか。穏やかな
表現でやさしく描き出しています。
 一方、《風景》は色彩の明るさはあるものの、どこか不穏な雰囲気にも
感じられます。地面や空、さらに草木にまでうねるような筆がくわえられ、
風景が歪(ひず)んでいるようにさえ見えます。それまでも地面の起伏な
どを強調して描くことはありましたが、さらにその傾向が強まり、表現主
義的ともいえる描写が生まれています。
もしかすると一緒に旅したスーチンの影響なのかもしれません。この時、
スーチンは激しくうねる筆致でカーニュの家並みを制作していました。旅
行中、3人はたいてい別〃の場所で制作していたらしいのですが、時に
は一緒に制作することもあったのでしょよう。この作品の右手の建物をち
ょうど反対側から描いたような、モディリアー二の作品も残されています。
 藤田は、評価され始めていたルソー風の繊細で素朴な風景画表現を
深めるため、新しい描き方も模索していたのでしょう。そうした中で、ま
ったくタイプの異なる友人たちとの制作旅行、さらに南仏の光や気候が
創作意欲を刺激したにちがいありません。
 ちなみに、カーニュは晩年のルノワールがアトリエを構えた場所として
も有名です。滞在中に、モディリアーニと藤田はルノワールと面会してい
ます。モディリアーニは、自分の描いた裸婦をルノワールに見せると「絵
は楽しんで描かなくてはいけないよ」というアドバイスを受けたといいま
す。
その言葉を素直に受け入れられなかったモディリアーニとは対照的に、藤
田とルノワールはジャポニズムなどの話題を介して、打ち解けて話すこ
とができたらしい。特に藤田は病を押して制作に打ち込む老画家の姿に
感銘を受けたといいます。
 藤田が、裸婦を描き始めるのは、裸婦の画家として名を成した親友モ
ディリアー二の死後のことです。

 1918年
 46.2×38.0
 布/油彩

            風景  名古屋市美術館
CIMG0016

































 1918年
 38.0×46.2
 布/油彩
       カーニュ=シュル=メール ランス美術館
CIMG0014


 

 墨磨れ(すみす)れ、弁慶(べんけい)

 
義経は、じっと思う。平家内部の違和は、合戦の前夜を境に、いよいよ
表面化したと見るしかない。
 とすれば、あすの成りゆきいかんにかかわらず、時忠の運命には微光
もない。源平両軍が身一つの敵となったわけだ。その一命は呪(のろ)い
の風に、刻々、吹きまたたかれている。(-やわか、かれを見殺しにでき
ようか)
 どこかで叫ぶものがある。義経は責められた。声は、自身の胸からのも
のだった。
 かつて、若年ごろの浮浪中、その時忠には、助けられた恩もある。
 平家人(びと)にはめずらしいかれの大剛な(だいごう)な気風と、信じ
るに足る人物ということも、そのときに知ったのだ。-心に残されていた
それが今日「平家方でも、あの人ならば」と、桜間ノ介を用いて、われか
ら款(かん)を通じることにもなったのである。
 早くから、時忠の方でも、和議の緒(いとぐち)を見いだそうと苦慮して
いたものに違いないが、それにせよ、時忠父子をここまで深間(ふか
ま)へ誘いこんだものは、たれでもない自分であった。この義経であったも
のをと、かれは、自分に責められていた。
 「・・・・・・・・・・」
 つと、かれは船房に二人を残して、何もいわず出ていった。
 みぐるしい自分の惑いを二人に見せ、また二人の切なげな姿を見ている
に耐えられなくなって来たのだろう。-そこを出れば、潮音は暗く、檣上
(しょうじょう)を仰ぐと、まだ星の青さ、北斗の位置、、丑(うし)の
刻(午前二時)はすぎていない。
 兵はみな眠っていた。
 檣(ほばしら)の下、艫綱(ともづな)の蔭、よろい具足の寝姿が、寂と
してながめられる。-出動にはまだ一刻半(三時間)のゆとりがあった。ほ
か数百の船影にも声一つしない。
 義経は、植え並べてある楯(たて)の蔭に添って、船床の通路を、右舷
左舷(うげんさげん)と、ひとり巡り歩いた。幸い、眼をさまして怪しむ兵
もなかった。もし、かれのその顔を近々と足もとから仰いだ兵がいたら、常
ならぬ苦悶(くもん)の眉色(びしょく)に驚いたことであろう。-が、や
がて、ただ一人、その現(うつつ)ない姿をいぶかって、かれの影について
、後ろからのそのそ歩いて来た者がある。
 「・・・・・・・いかがなされました、殿。・・・・・殿」
 「弁慶よな」-われに返ったように「それよ、弁慶」
 「はっ」
 「そちならば持っていようが」
 「何をでございましょうや」
 「熊野の牛王(ごおう)の誓紙」
 「誓紙を」
 「ひそといたせ。すぐ筆と硯(すずり)を用意して、あの櫓(やぐら)の上
へ来い」
 いうやいな、義経はもう櫓梯子(やぐらばしご)へ片足をかけていた。と
かくの答えや、弁慶の不審顔など、かえりみていられなかった。惑いのすき
間へ、べつな理性が心を占めてくるからだった。

 誓紙へ筆をとれば、いかに後日の禍(わざわ)を約すようなものなのか。
また、これまでの輝かしい戦功やあすの武勲も、自ら泥土へ抛(なげう)つよ
うな結果になるかを、かれの理性は、知っていた。
 -が、義経は、望楼へのぼって、そこの将座へ、ゆらと、腰を落とすと、も
う迷っていなかった。「何を怯(ひる)む・・・・それは善だ。大きな善根(
ぜんこん)となるものを」
 一颯(いつさつ)の風が、かれの面を洗った。
 かれは、屋島の八栗(やぐり)の山上で、またべつの日、白峰(しらみね)
のいただきで、自分にかえりみ、世の流転を観じ、深胸にきざんだはずのこと
を、今また、思い出していたのである。
 兄頼朝は知らず、弟義経は、すでに屋島以後においては、平家を追っても、
二十余年も前の、父義朝(よしとも)の復讐(ふくしゅう)などという一
念で、俱(とも)に天を戴(いただ)かざる仇敵であるなどとまでは、かれに
は憎しみきれないのである。
 -ただこのさいの一戦は、その犠牲をもって、世もしずまり、諸民泰平
になるならば、それも弓矢の功力(くりき)、武門の当然と信じるからであ
った。また、兄頼朝には一業の扶(たす)けをささげ、院後白河の御信任にも
こたえ奉ずるものと思われるからであった。
 -だが。
 それは、白峰の山風の中でも考えさせられたことであるが、人の生涯に尊
いものはいったい何か。無数の人びとが当然な白骨となるまでたどりに
たどった流転(るてん)の生涯を見るならば、「栄爵(えいじゃく)、何か
せん。軍功、何かあらん」と、思わずにはいられない。
 それの欲しい者は、かすかな腐肉をもった牛骨を争う野良犬のように、世の
四つ辻で争うがよい。-はかない、浅ましい、そんな生涯はとげたくは
あるまいにと、白峰の松風は、自分へ語った。
 おなじ声が、今、潮のうちから聞こえてくる。
 「・・・・・・・・」
 潮のひらめきか、義経の面に、ふっと、明るい笑みに似た影が通りぬけた。
 気がらくになったーとするように、その姿も、ゆるやかに、望楼の横木へ
片肘(かたひじ)を乗せて、どこか、遠くを見まもった。
 -静。
 かの女を思い出す時の眸であった。
 都の空で自分を待ちわびているであろう静よ、待つがよい。
 ここ、最後の大任だに果たしえたら。
 そして、世が泰平になったならば。
 静よ。
 おまえと二人で、、花作りでもして暮らそうよ。
 位階勲寂(いかいくんじゃく)、そんなものは、おまえも望んでいないだ
ろう。
 家に、鼓(つづみ)があり、庭に花が作れるくらいな坪さえあれば。
 こう、かれの気もちが、解(ほぐ)れてきたらしい。何を悩み、何を惑(と
まど)ったか、ついさっきまで迂愚(うぐ)がおかしくなっていた。
 泰平。それだに地上へ返ってくれば、院も兄も御満足してくださるに違い
ない。ひいては、その寛大な恩沢(おんたく)を、平家の女人や残党へも恵
んでくださることに吝(やぶさか)なはずはない。
 「・・・・・・・・かつはまた」
 と、それに附随して、義経は理由づけた。
 神器をつつがなく平家の手から取り返すために、自分が独断で誓書を与える
ぐらいなことも、よも、おとがめはないであろう。同時に、罪もない平家の
女人(にょにん)や老幼を能(あた)うかぎり助けてとらすことは、自分の慈
悲というよりは、院、鎌倉どのの善根(ぜんこん)として、後日の泰平を、い
とど和(なご)ませるものでもあるまいか。
 「-殿。持参いたしました」
 いつか、床几(しょうぎ)の前に、弁慶が来て、ひざまづいていた。
 「お。神文に用いる熊野の誓紙、あったのか」
 「殿より、なんじは、祐筆(ゆうひつ)の役目をせよと申しつかりましてよ
り、何かとそれらの調(ととの)えは、つねに心しておりまする」
 「墨磨れ、弁慶」
 義経は、すぐ筆をとった。
 そして熊野へ、こう書いた。

      一約の事、戦後日を経たりといえ、違背あらじ。八幡照覧。
    違約あらば、九天の神仏、われを罰せよ。

                            判官義経
      寿永四年三月二十三日

 あて名は神文の面には書かず、その封紙に書いた。
 「見たであろう、弁慶」と、それをかれにさずけて「-下に待たれておる
讃岐どのへ渡して進ぜよ。一刻も早く、それを携(たずさ)えて、時忠どの
の許へ帰れよと」
 そしてまた、何か思案の末、
 「舟路は危うい、万一、平家方の手に捕われなば悔ゆるも及ばぬ。馬
にて陸路(くがじ)を急ぎ給えと申せ、-が、陸にも味方の兵が要所を固
めおれば、弁慶、そちが御供して、赤間ヶ関までお送りしてあげい」
 「心得ました」
 弁慶は、下へ去ったが、まもなくまた、登って来た。そして、時実が誓書
を見て、泣かぬばかりなよろこびだったことやら、桜間ノ介が、兄の阿波
民部も内応して、あすは、源氏方へ寝返りする手はずとなっていることを
お伝えして欲しいといったことなど、弁慶までが、狂喜をともにして告げた。
 「そうか。そのように、よろこばれたか・・・・・」
 義経も、そぞろ、うれしげに。
 「桜間ノ介には、あすの役目もある、この船に残してゆけ。・・・・が讃
岐どのは、一刻も早いがよいぞ。そちが付き添い、疾(と)う、疾う山路を
越えて、赤間ヶ関へ急げ」
 「はっ。では」
 弁慶は立ちかけたが、
 「おいいつけに、不服を鳴らすのではございませぬが、かかるまに、夜
も白み、殿の御船、すべての船勢、ことごとくここを去らば、弁慶は一人陸
に置き残されねばなりませぬ。またしても、あすの船戦(ふないくさ)にも、
この弁慶は、会わず仕舞(じま)いでござりましょうか」
 「おろかな、ことばを」
 と、義経はしかった。
 「さほど、合戦に会いたくば、長門の岸より、拾い舟にても、漕(こ)ぎ
帰るに、なんの造作。-幼時には、潮(うしお)ふく鯨の背にも乗って仕止
めたりと、常日ごろ、よう自慢する熊野生まれの男が、なんのたわ言ぞ。
-はや行け、弁慶。ゆめ、讃岐どののお身に、つつがあらすな」

 捨て猫の果て

 -今、串崎の北磯から西の方へ、駒の背へ身をうっ伏(ぶ)せに鞭を上
げて馳け去った二騎があった。
 弁慶と、時実とであったろう。
 それとは逆に、磯道づたい、おなじ北磯の一端へ来て佇(たたずん)ん
だ一群の兵の中に、さくらノ局の姿が見られた。-かの女が帰りたいと望
んでやまない田辺(たなべ)の湛増(たんぞう)のいる主船と、それを繞(
めぐ)る田辺水軍とは、みなここの磯まぢかな水面に泊まっていた。
 「オオ、見やれ、湛増どのの御船から、わらわを迎えの小舟が、こなた
の磯へ近づいてくる。やれやれ、ひさびさで別当殿にもお会いできよう。
・・・・・みなの者、ご苦労であったの」
 かの女はもう、すっかり明るくなっている。気位の高い艶(あで)な日ご
ろのかの女に返っていた。-ここまで、送り届けてくれた源氏の哨兵(しょ
うへい)たちをかえりみ、どこか誇らしげでさえあった。
 哨兵の武将は、先に、田辺水軍の内へ、使いをやって、「-平家方より
逃れしという、さくらノ御なる女性。別当湛増どのの御側室なりと自身申
され、湛増どのの御船へ罷(まか)らんと、串崎の鼻まで来ておわせど、お
連れ申してしかるべきか。あるいは、とりとめなき虚言をいいふれて歩く一
狂女やも知れず、なにぶんのお指を・・・・・」と、問い合わせてみたの
である。
 すると、田辺方では「少々、存じ寄りもある女性なれば、北磯までひかれ
よ。当方の小舟にて、身柄を受け取り候わん」と、いう答えだった。
 こうきまってから、かの女の安心は、かの女らしい持ち前の心理をすぐ
組みたてて、
 「やはり湛増どのは、わらわをお忘れではなかった。いやいや、忘れ得
ないでおわしたのであろ」
 と、気もそぞろらしく、痴話愛憎の仲だった日の男心を、ひとりぎめに、さ
まざま描き出してみるのだった。
 まもなく、迎えの小舟が寄ってくる。-かの女はそれへ移り、哨兵たちは、
かの女の身柄を渡して、元の道へ引っ返して行った。
 波間を行くかの女は、小舟の艫(とも)に腰かけている田辺の僧兵に、
 「別当殿のお船はどれぞ?」
 と、やがて訊(たず)ねている。
 櫓(ろ)を把(と)っている兵も、迎えの僧兵も、聞こえないのか、返辞も
しなかった。「途中、物いうなかれ」と、厳命されて来たのかも分からない。
 けれどかの女も、それなり、つんと取りすましていた。
 生まれつきかの女は幸福にできている。宗盛から捨て猫みたいに捨てられ
たこと、宵の船島であんなにまで泣き狂ったことなども、まるで、別人の身
の上だったように忘れ顔であった。すべて、後ろに去ったものは、かの女に
は、つい先刻(さつき)のことですら、みな遠く消えてゆく無価値にひとし
い影でしかない。
 ただ眼の前と、これから先の望みだけが、かの女の生きてゆく境涯であっ
た。そして今は、
 「やっと、あの人のもとへ帰れる」
 と、ただそれだけに心を弾(はず)ませてい、
 「わずか二た月ほどでしかないのに、何年も何年も会わなんだ心地がする。
会うたら、なんといおう、なんと縋(すが)ろう?」
 と、湛増との再会のみが、愉(たの)しまれた。飽(あ)きも飽かれもせ
ぬ仲の別れ妻が、かりそめの爭(いさか)いを思い直して、ふたたびわが宿
へ戻って行くにも似たーそんな気持ちでいるらしいかの女であった。
 おう、あれこそ、湛増どののいる田辺御船よ」
 まもなく、小舟は、一きわ巨(おおき)な楼船(ろうせん)の影を近々と見
ていた。
 おびただしい源氏の水軍の中でも、田辺船はすぐわかる。船にも人にも異
彩があった。わけて別当職の主船は、船上の楼をそっくり熊野三山の祭
壇にしつらえ、大榊(おおさかき)を立て、神号仏名を書いた旗や幟(のぼ
り)を無数にひるがえし、僧衣に鎧した僧兵、白衣に腹巻した神人など
が、薙刀(なぎなた)の光をつらねて、楯越(たてご)しに、かの女の小舟
をのぞきおろしていた。
 「・・・・・・・」
 かの女は急に衣紋(えもん)をつくろいながら、ふと、櫛(くし)が欲しか
った。鏡や紅白粉(べにおしろい)があらばと思った。が、身にあるのは姿
態(しな)だけであった。そしてその姿態がすぐ舷側(げんそく)の通い梯
子(ばしご)へ取りすがった。上には、一列の僧兵が、薙刀の穂先をそろえ
て待っていた。
 兵列の前に立つと、かの女は自然に、かつての田辺の女王に立ち返った
気になった。列の右端にいた僧形の将には見覚えもある。別当館(べっと
うやかた)に仕えていた者だ。ーかの女はその顔を見ていった。
 「そちは、田辺の館の一人よの。別当殿には、どこにおいでか。わらわは
、さくらノ局ぞ。案内して給もれ、わが夫(つま)のお船部屋へ」
 まるで唖(おし)のへ兵列だ。かの女の姿にも礼をしないし、答えもしな
い。ただ軍の威圧(いあつ)と、どこか、底冷たい蔑(さげす)みだけを持っ
ているふうである。
 すると、べつな武士が来て、
 「さくらノ御。こうおいでなさい」
 と、先に立ってみちびいた。
 かの女はその男も見知っている。以前、かの女が湛増と輿(こし)をつら
ねて外出のおりには、いつも輿側(こしわき)に屈(かが)まって、行列の
警固に立った家臣の一人だ。だが今は、あかの他人より素気(そつけ)ない
顔を反(そ)らし、やがて案内して来た所は、船房の内ではない。胴の間と
舳(みよし)との境にあたる広床(ひろゆか)だった。
 「・・・・・ここは?」
 立ち惑うかの女へ、武士は、あごの先で、
 「それへ、おすわりあれ」
 と、床に見える一枚の素筵(すむしろ)を示したまま、かの女をおいて、さ
っさと、元の方へ立ち去った。
 囚人(めしゅうど)ではあるまいし、なんでこんな所へ、とかの女は武士
の背へ呼びかけたが、その眼が、何かに行きあたると、そのまま居竦(い
すく)んでしまった。
 仰(あお)がれる天蓋(てんがい)から下は、巨大な祭壇だった。三山(さ
んざん)の霊をこれへ勧請(かんじょう)したものとする象(かたち)だろう
か。神仏の祭器、供物(くもつ)、幣(へい)などを荘厳(しょうごん)《か
ざり》した下に、さらに一対の大榊が両わきに立ててある。前に見える一枚の
上げ畳は別当職の祭祀(さいし)の座であろうし、それを後ろにすえてある
一脚の床几(しょうぎ)は、陣中の将座であるにちがいない。
 見ると。
 その床几にはもう、湛増法印が、さっきから、腰かけていたのである。
 白頭巾(しろずきん)に天冠(星金具)の鉢巻き、鎧下(よろいした)も白
絹の小袖(こそで)だった。大太刀を横たえている。五十こえても、ふっく
らと肉づきのよい顔に、薄笑いをうかべながら、かの女の立ち惑う様を、冷
ややかにながめていたのだ。
 「・・・・・・あっ、そこに」
 かの女はいきなり湛増のふところへ向かって走った。こういう時の男の
構えと心の裏を見すかし得る女性のみがよくできるしぐさだった。だから、
湛増が、くわっと睨(ね)めつけて、
 「おんな!」
 と、近づく前に、一喝(いつかつ)くれても、かの女はそれに怯(ひる)み
などしなかった。
 「お、おゆるしなさいませ。わらわです。嫌、嫌。そんな恐い顔をなさら
ないで」
 と、無我無性に、床几のひざへ、しがみついて、
 「お恨みを申しに帰ってまいりました。いいえ、なんの因果か。あなたを
忘れることができませぬ。平家を里家(さといえ)のように思うて、里家贔
屓(びいき)をし過ぎたのは、わらわの過ち。世にあなたほどこの身を可愛
(いと)しんで給うたお方はないと、それを、身に知って、帰って来ました。
・・・・もう、以前のことは、お互いに忘れましょう。わらわが申し上げたい
恨みも、水に流しますゆえ、わらわがあなたを困らせた罪もおゆるしください
ませ。そしてふたりの仲も以前のように」
 と、濡れた顔を伸び上げて、だんだんに甘えかけた。
 湛増は、その弱肩を、どんと突いて、
 「しゃ、この垢臭(あかくさ)い女、どこの下賤(げせん)ぞ」
 と、ののしった。
 それはかの女の誇りを微塵(みじん)にした。体じゅうの血を顔に染めた。
それが冷めると、仮面(めん)より白い冷たさを瞼にも、唇にもわなわな
乾(かわ)かしていた。
 「しらじらと、ようそんなことが仰(お)っしゃられたもの。わらわは、さ
くらノ局です。別当殿の側室です、知らぬ者はありませぬ」
 「おう、田辺の室には、そのような女も以前いるにはいたが、わが大難に当
って、平家のまわし者を国に入れ、田辺の機密をいちいち屋島へ通じるなど、
毒の小蛇(こへび)のような厄介者であった。だが、牛売り損(そこの)う
た女などが、のめのめ帰ってくるはずもない」
 「な、なんですって。わらわを、下賤の、毒蛇のと」
 「平常の我意わがままは、ゆるしてもおいた。しかし田辺一党の浮沈となれ
ば免(ゆる)してはおけぬ、ただ憐(あわ)れさは、さすが女の浅智恵、自身
企(たくらん)だ企みに乗って、われから屋島へ去ったゆえ、まずは怨敵(お
んてき)退散と、めでたく打ち忘れていたものを、またぞろ、かかる陣中
へ何しに来たぞ。-覆水盆に返らず―ということばを知らぬか。用はない、
どこへでも立ち去りおろう」
 「いいえ、帰りませぬ。なんでここを退の)ましょう。恨み言なら、わらわ
にも、たんといい分がありまする。・・・・・うかと、屋島へ行ったのも、あ
なたのその上手なお口に、おろかなわらわが、うまうまと騙(たばか)られた
のでございました。女をだますお口まえで、平家の世盛りには平家に取り入
り」
 「うるさい」
 「いいえ、いわいでおきましょうか。源氏の御運が開けて来たとみれば、ま
た源氏へ取り入ろうとなさったのでございましょうが」
 「だまれ」
 「だまりません」
 「では、訊(き)くが」
 「垢臭い下賤の女に、何をお訊きなのですか」
 「へらず口はたたくまい」
 「つい申したくなりまする。まだ平家も世盛りのころ。わらわは小松殿の
身ぢかゆえ、維盛卿(これもりきょう)の家に養われ、世の憂さなど、何知
らず暮していたものを、たって、妻にほしい、室に入れたいと、ぬかずくば
かり、維盛卿へお願いしては、あきれるほどな根気(こんき)で、よう通う
て来たお人は、いったい、どこの下賤の男でしたか」
 「女、雑言(ぞうごん)つつしめ、ここは陣中ぞ」
 「存じませぬ。女は、合戦など知るものですか」
 「そうでもあるまい、そもそもは、そち自身、平家にそそのかされて田辺
の水軍を、平家方へ引き入れんなどという大それた謀を抱いたのが、禍(わざ
わい)の元であろうが」
 「あたりまえです。あなたも、平家の御恩顧をうけたお方、わらわとて小
松殿の一族」
 「では、なぜ平家へ奔(はし)ったら、そのまま平家の中にいないか。本
望であろうものを」
 「おなじ死ぬなら、なんで一人で死にましょう。一人では死にとうありま
せぬ」
 「なんの、あすを待てば、道づれは、花の山ほどたんとあるぞ。一門とと
もに死ねばよいに」
 「いいえ、あなたと、死にまする。わらわを騙したあなた。わらわをこん
な女にしたあなたと」
 「ばかな」
 「お見くびりなされますか」
 「訊きたいと申したのは、何思うて、ここへ来たかということだが、あは
ははは、そのような怨念(おんねん)とは」     
 「おお、笑うておいで遊ばせ。死のうと思えば、恐いものはありませぬ。
・・・・けれど、ああ、口に出すのも口惜(くちお)しい。・・・・・ほん
とは、なんで死にたかろう。あなたという、憎い憎い、けれど会いたくて
ならないお人が、ここにいると知ったので、無性に、つい来てしまったのでし
た。
・・・・・・ね、あなたも、お憎しみは忘れてください。そして、もいち
どその大きなお胸にわらわを抱いて給わりませ」
 すきは見せずにいたのに、湛増がはっと思うまに、かの女の姿態は、男のす
きへ飛び入って、その両ひざの深くへ黒髪を埋め、よよと泣き顔をす
りつけてくるのだった。
 「ええ。なおまだ、わしを」
 湛増は、自分へ腹が立った、どう構えてもかの女からは甘く見えるらしい
自分にである。
 その自分からの、脱皮の憤怒を、眼にもの見せてやる必要に迫られたよう
に、
 「不吉な魔女め」
 いきなりかれは突っ立って、片足を高く上げ、ひざからこぼれ転(まろ)ぶ
かの女を、さらに遠くまで蹴(け)は放した。
 そして、大またに、舷側へ歩み出し、部下の将士を呼びたてて、
 「やい、者ども、この女、斬(き)って捨つべきやつなれど、神前の穢(け
が)れ、ただ引っつかんで、海中へ投げ捨てよ」
 と、烈(はげ)しくいった。
 だがかの女は、一瞬に逃げ走って、帆柱の下にしがみついていた。武士、
僧兵の影が、どっとそこへ迫ってゆく。かの女の影は、盲目的に、さら
に、檣梯(しょうてい)≪帆梯子≫を昇って、その途中から帛(きぬ)を裂
くような声で何かさけんだ。
 空の潮風に吹きみだれ黒髪が、星の妖光(ようこう)を簪(かざ)してい
た。呪(のろ)いをもった二つの眼は、その黒髪の中にあって、獣じみた鋭
さで下を見すました。
 「・・・・あっ?」
 と、湛増は、あきれた。さくらノ局に、かかる野生があろうとは、かれにす
ら想像もなしえないことだった。元来がこうした女性であったのか。以後の
土壌や荒磯の生活が、かの女の性(さが)までを変えて来たのか。ただた
だ、気を奪われた姿だった。
 -と、おりもおり、近くの船上から、いんいんと、貝の音(ね)が聞こえ
てきた。
 それには、湛増法印はじめ、いや、ここばかりでなく櫓座(ろざ)、舳(
みよし)や望楼(ぼうろう)の哨兵までが、はっと、面を澄ましあった。
 「やっ、もう卯ノ刻(うのこく)に近いのか」
 にわかに、暁闇(ぎょうあん)の海を四顧(しこ)して、
 「まさしゅう、あれは、判官殿の御船よりする貝の令」
 「用意の合図ぞ。出動の触れぞ」
 「すわ。二十四日よ」
 眠りから跳ね起きて、持ち場持ち場へ馳ける兵の跫(あし)音で、船中に
急に鳴りとどろいた。
 湛増は、狼狽(ろうばい)した。あわてて檣梯の上へ向かい、「降りよ、
降りよ、今のは戯れ、そなたの望みは容(い)れてやる」と、しきりに、そ
んなたわ言(ごと)を叫んだ。われながらたわ言と知りつつ宥(なだ)めた。
 疑い深いかの女は、なお、降りそうもなかったが、ついには兵に引きずり
下ろされ、それを騙しすかし、湛増はむりにひっ抱えて、どこへともなく連
れ去った。おそらく網倉か船房の一つへでも、一時閉じこめたのではある
まいか。湛増は大またにすぐこっちへ、引っ返していた。そして舷側の口へ
あわてて立った。-おりふし総大将義経の使いが、外の小舟から梯(てい)を
登って来ていたのである。それを迎えるためであった。
 使いの武者は、那須大八郎であった。
 出動にさいして、義経からの指令書を、湛増へ直々、手渡しに来たの
である。またことばのうえでも、田辺水軍の目ざましい働きを祈るという義経
の言づてをつたえて、使者舟は、忙(せわ)しげに、すぐ漕(こ)ぎ去った。




















 水彩画サークル「虹の会」の会員も定員の20名まで、あと一人となりま
した。
今年は、11月に、府中市グリーンプラザ分館ギャラリーでの「虹の会展」
開催まで、補充は無理だと思っていましたが、先だって(6月20日)問い
合わせの電話がありました。
話を聞いてみますと、「5年前に、生涯学習センターで、開催された、水彩
画教室で、柳先生に習ったことがあります」ということでした。
 「おなじくわたしも、6年前に、教わった者です」と先方に伝えたところ
です。
 市の広報の、募集欄記事を見て、電話をされたそうです。
 また、実際に水彩画サークルの活動を見学したいという希望がありました
ので、次回6月27日(火曜日)に、お誘いしました。

 今年は、今まで、3名の新会員の方が、既に入会されていて、まったくの
未経験者が二人と経験者が一人です。そのうちのひとりは、小生の描いた絵
を挿絵にした会員募集のチラシを見て、電話を下さり、もう一人は広報の記
事を見て連絡をいただきました。あと一人は、知り合いですが、小生の描い
た水彩画を観て、6年でこれだけ描けるようになるのでしたら、自分も習って
みようと決心をされた方です。

                            湯の町
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 2017年6月28日(水曜日)

 昨夜、月下美人の花が二輪目を咲かせましたが、うかとし、見逃してしまい
ました。こんどは見逃さないようにと思っています。

 6月27日に水彩画サークル「虹の会」の見学を予定されていた方は、「孫
が熱を出して看病をすることになりましたので、今度また」という電話があり、
次回白糸台文化センターでのサークルに見学されることになりました。
 想像すると、お孫さんの両親は仕事を持っておられ、お孫さんの元気な日は、
保育園などへ預けられているのだと思います。

 サークルでは、この絵を、先生に観ていただき、若干の加筆もありました
が、「よく描けている」との評価をひと言いただきました。

                         いのり「平和」
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 2017年7月11日(火曜日)
 
 朝から、気温はぐんぐん上がり、真夏日が今日で1週間となっています。
 今日の白糸台文化センターでの水彩画サークルに、前記入会予定者が、
見学に来ていただけました。当事者はどうしたものか迷っていらしたので、
そのわけをお訊きしますと、果たして皆様のように描けるのかが気がかりだ
ったようです。
そこで、小生はこういいました「私も、水彩画を描き始めて6年になりなすが、
今も一作ごとに、うまく描けるのだろうかという懸念がつきまとっていますよ」
といいますと、少し安心された様子でした。
サークルが終了するまで、熱心に先生が教えている様子を眺めていらっしゃ
いました。
 結果、入会されることに決まりましたので住所をお訊きしたところ、「会員
に同じ町名の方が一人いますよ」と、話しましたところ、まもなくして、その
方たちとさっそくランチを楽しみむことになったようです。
 これで、会員数が20名の定員となりましたので、しばらくこの状態で、活
動をしていこうと考えています。
 次回(7月25日)の、サークル終了後に、役員会を予定しています。
議題は、役員交代の件が主となりますが、その他としては、会員数が20名
となりましたので、先生は6分/人を休む間もなく、教えていただくことになりま
すので、1回/年の贈り物をして慰労をと思っています。
先生の好きなワインにしようと考えていますが、役員の三名が、なかなか同
意してくれそうにありません(ほかの会員の方々にも抵抗する人が存在して
いますので)が、あえて、再提案をしたいと思っています。

 本日の水彩画サークル活動には、この絵を描いて持参しました。

            異国の潮風
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2017年7月17日(月曜日)

 東京は、今年初めての猛暑日となりました。
 家の中でも、エアコンをかけっぱなしで、冷房漬けとなっています。
 新人会員の方で、「混色の方法がわからない」と、前回の、水彩画サーク
ル活動でつぶやいていた人がいましたので、小生が、5年くらい前に、本を
参考に、メモしたノートを、カラーコピーしてみました。
拙宅の、カラープリンターを使用し、途中インク交換や、インクジェット・ヘッド
クリーニングなどをしながら、3時間半くらい費やしました。
 この資料は両面コピーで60枚あり、果たして相手に理解できるかどうかも
わかりませんが、お渡ししてみようかと思っています。
 役員会でも、このメモが、役に立つかいなかも、協議してみようと思います。

           透明水彩混色メモ
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  まだ修正箇所があるのですが、とりあえず、額装してみました。この水彩
画が、小生の最新作品です。


CIMG0009





















 2017年7月25日(火曜日)

 本日の「水彩画サークル虹の会」は、いつもの教室より、ちょっときれいな
部屋の、ルミエール(市民会館)で活動をいたしました。
 前期、混色メモを新人会員に見せましたが、内容が分からいということで、
このメモは、保留となりましたが、まだ絵具の名前すら把握していないので
すから、無理だということが分りました。

 今日は、小生が描いたこの絵を先生に指導していただきました。

          いにしえの学僧
CIMG0132




















 無事、サークルを終え、帰る支度をしていますと、会員の一人の方が小生
に8月いっぱいで、退会したいという申し出がありました。諸事情があるのだ
と思い、了解をしました。味わいのある絵を描かれる人でしたから、残念で
したが、しかたがありません。
 午後、ルミエールのレストランにて、昼食を兼ね、役員会を開催しました。
 次期会長の推薦と役員の人事について、話し合いました。次期会長はこの
場で本人の了解を得ましたが、役員については今後根回しをし、決めてゆくこ
とにしました。
 4年間務めた会長職を離れることに、小生は開放感が少しづづ湧いてきて
います。9月12日の総会で、決定の運びになります。
 






















 爪(つめ)を噛(か)む

 妙に赤っぽい光と異臭とは、灯皿(ひざら)の魚油のせいであろう。その
一燈一燈から、烏賊墨(いかずみ)のような煤(すす)もさかんにいぶり立っ
ている。
 広くもない船房の内だ。たちこめる油煙が諸将の陰影をよけいに濃くし、た
れたれともさだかでない。ただ、正面の義経の顔、梶原の顔。左右へ詰め
あっている横顔やら物いう顔など、顔ばかりが赤々と浮いてみえ、満座の
鎧具足(よろいぐそく)がチカチカ微光を放ちあった。
 「-思えば、返す返す惜しい日を過ごしたものだ。きょうこそは、敵の彦
島へ迫るべき日であったものを」
 梶原が、口をあいて、こういいぬく。
 さっきから、かれが繰り返して、残念がっているところは、
 「今夕、陸(くが)の味方が、赤間ヶ関へ攻め入り、すでに彦島の喉口(
のどぐち)へ迫ろうとまでしたのに、なぜ陸勢(くがぜい)をひきあげ、わ
ざわざ、敵に備えの暇を与えたのか」
 と、いうことらしい。そして、
 「もし、あのさい、水軍も進み出て、陸の味方と力をあわせ、同時に、彦
島を衝(つ)いていたら、おそらく平家は一挙に覆滅し得たろうに、可惜(あ
たら)、きょうをむなしくせしむことよ」
 と、舌を鳴らしてやまないのである。
 いいかえれば、義経の指揮判断の誤りを衝き、軍監として、その責めを
問うのでもあるのだろうか。
 義経はとみれば、悔いる風もない。一応、耳に傾けていたが、反発もせ
ず、承服もせず、ただ「聞きおく」という態度に見える。
 しかし、副将の田代冠者以下、諸将たちは、おおむね、梶原と同意見ら
しく、
 「いつに似合わぬこの君の二の足かな?」
 といいたげな、いぶかりを、義経の面(おもて)へ、そそぎあっていた。
 一ノ谷、屋島、また宇治川、義経の戦の手ぐちは、いつも疾風迅雷(しっ
ぷうじんらい)である。敵を直前に、こう二た夜もためらっていた例(ため)
しはない。
 梶原に次いで、やがて諸将のあいだからも、同様な声が出た。
 義経からも、何か釈明がなければすむまい。で、かれもついに、一言
した。
 「それよ。院の御名(ぎょめい)として、三種の神器を無事に都へ還(か
え)せ、との仰せつけだになくば、合戦の仕方はいとやすいことだ。したが、
平家方もこのたびは、充分、肚(はら)をきめていよう。今はこれまでと見、
一門最期の淵’ふち)にのぞむさいには、必定、神器もろとも、身を沈めん
と、覚悟しおうておるに相違ない。-その平家から、神器をつつがなく奪
(と)り上げ、敵を完膚(かんぷ)なきまで討ち滅ぼすということは、思え
ば思うほど、むずかしい」
 義経は、また、梶原へ眸を向けて、
 「・・・・・・・さるがゆえに、陸勢にも、珠を目がけて、珠を踏み砕く
な、魚の網をしぼるが如(ごと)くせよと、命じたわけだが、もし基許(そこ
)に、べつに良策でもあるなら、この場で聞かせよ。いかにせば、神器を
無事に奪って、しかもかれを滅ぼすことができるか。基許の智略のほども
もらしてほしい」
 それには、梶原も黙ってしまった。
 もちろん諸将のあいだにも「-院の特別なるお旨」は、充分知れ渡って
いたはずである。が、とかく戦場の第一義は、生死と功名(こうみょう)だ
けに限られやすい。いわれてみれば―と今さらのように、あすの合戦の
むずかしさを皆、思い直した風だった。
 すでに、この夜、
 「ー平家方は、はや、田野浦(たのうら)まで、第一陣を進めてきた。そ
の敵へ接して、水軍と水軍との、矢交(やま)ぜが開かれるのは、明朝の
卯(う)の刻(こく)(午前六時)前後ぞ」
と帷幕(いばく)のしめし合わせもついていたのである。
 これは、その日、義経自身が、船諸五郎正利(ふなしょのごろうまさとし
)や、串崎の武者を水先案内(みずさき)として、水路や潮流の時刻など
を、つぶさに調べたうえでの決定であり、異論の出ようはずもない。
 しかし、海上戦を、陸の先陣争いと同一に考えている諸将には、たれが
、先鋒(せんぽう)をうけたまわるのか。それへの関心が強かった。当然、
功名手柄の晴れ場とみな競っているからである。
 梶原すらも、その下心があるらしく、こう強く主張し出した。
 「過ぎたるは、もういうまい。また、神器の奪還も敵へ当ってからのこと
よ。破りもせぬ敵からの神器をとるわけにはゆかぬ。そこはこの梶原にも、
思うところもあれば、あすの先鋒は、ぜひ梶原に仰せつけありたい。先陣
の役は、この景時に賜(た)び候え」

 たれもが、心では望んでいるのだ。口に出せないだけである。
 にもかからず、梶原がたって「-自分に」と申し出た人もなげな気もちは、
これまた、たれにも分からないことはない。
 屋島では、屋島も陥(お)ちてから二日も過ぎて、遅れて戦場へついた
かれだった。
 かれ自身は、そんなことを、間が悪そうに、いつまで煩(わずら)ってい
る男ではない。けれど嫡子の源太景季、次男の平次景高、三男の三郎
景家などは、以後、肩身のせまい思いをもっていたことだろう。「-先の汚
名を、長門の浦でそそがねば」と、父の背後で、躍起(やつき)となってい
たかもしれない。
 古記によると、この時、梶原の乞(こ)いを、義経は、一言のもとに、し
りぞけたとある。
 「義経がなくば知らぬこと、義経があるからには」
 といったのに対し、梶原が、
 「殿は、大将軍。大将軍たる人は、中軍にあるべきもの」
 と、きめつけた。
 「それ、思いもよらずー」と、義経はせき込んで「われはただの一御家人、
鎌倉どのこそ、大将軍とは申すなれ。義経も和殿輩(わどのばら)もおな
じ者よ」
 と、あくまで、先陣の役を譲(ゆず)ろうとしない。
 業(ごう)を煮(に)やした梶原は、
 「天性、この殿は、侍の主とはなり難し」
 と、放言した。聞きとがめて、義経もまた、
 「申せしな梶原。和殿こそ、日本一の烏滸(おこ)の者(ばか者)かな」
 と、ののしり返した。
 そして、義経が太刀へ手をかけると、梶原も一そう激して、
 「こは、なんとなさる。この梶原は、鎌倉どのの他に、主(しゅ)は持た
ぬぞ」と、同様に、陣刀の柄をにぎりしめる。
 一座騒然。-梶原の方には、かれの子息や家臣が楯となって寄り合い、
義経の身には、弁慶、忠信、伊勢三郎などがこぞり立って、あわや味方
割れを見ようとした。しかし三浦ノ介義澄や土肥実平が、極力、相互をな
だめたので、からくも事なきを得、やっとその場はおさまったというのであ
る。-古典平家もまたそういう風に書いている。
 両者の不和は隠れもないことだが、といって以上のような喧嘩沙汰ま
でがあったとは思われない。思うに、梶原の三人の息子や将士が屋島の
名折れを、明日こそは、取り返そうと、気負っていたので、自然、梶原自
身までが軍監の地位をわすれて、積極的に、先陣の役を望んで出た程
度かと考えられる。
 そして、おそらくそれは、義経に容(い)れられたのではあるまいか。な
ぜなら、味方割れまでしてかれの望みを拒(こば)む理由は何もないから
である。
 といって、
 平家方にも、さまざまな違和(いわ)が包蔵されていたように、源氏の内
部もまた、決して、義経の下に、整然と一本になっていたのではない。
 そう考えられる第一の不審は。義経と並び、ともに東国勢の一方の大
将軍といわれる三河守範頼(蒲(かばの)冠者)が、まったく、動きを見せ
ないことである。
 豊後に渡って、九州の一角にあることだけは、確実らしい。
 九州に一線をひいて、彦島の平家を、牽制(けんせい)しているものと
見れば見えないこともないが、それも余りに消極的だ。-なぜ、文字ヶ関、
柳ヶ浦など、豊前の海べまで、その旗幟(きし)を見せて来ないのか。
 義経は、三河どのの真意が、どこにあるのかを、疑っている。
 よし船はなくても、豊前の岸に、その白旗を見せ給うだけでも味方にと
っては大きな助力。敵にとっては、心を寒うさせるものを」
 と、遺憾でならない。
 しかし、梶原だけは、多少その消息を知っているはずだった。かれの許
へは一、二度、範頼から使いもあった。だが、義経には何も語らず、義経
もそれには触れないのであった。いったい、九州にいるのかいないのか、ま
ったく、奇妙な友軍というほかはない。
 疑えば安からぬ心地もして、
 「-この義経が平家に勝つのを、よろこばぬ者が、味方のうちにあるのか」
 と、思わされるおりさえある。
 が、義経は「浅ましい心のうごき」と、むしろ自分に恥じ「そのようなこと、
あり得ようはずはない」と、かたく思い直すのだった。
 かれは敵以上、味方の割れを恐れた。功名争いや意地ずくの、われが
ち態勢であすへのぞんだら、神器の奪取はおろか、勝利もどうかと、危ぶ
まれるからである。それには、梶原を立てておくことだと知っていた。-で、
その夜の最終会議も、梶原にとっては、充分、得心のできる結論のもとに
終わっていたろうことは、ほぼ疑う余地もあるまい。
 やがて、梶原父子をはじめ、諸将の影は、船房から外へ出て来た。そ
して口々に、
 「さらば、明朝」
 「晴れの海(うな)ばらにて」
 -さらば、さらば、といい交わしながら、おのおのの船へ帰って行った。

 卯の刻前の出陣なら、これから各自の船へ戻ってからも優に手枕の一睡
はできる。
 義経もまた、そのあとで、小狭い一房にはいって身を横たえた。ただの
ひとりに返って、四肢にノビを与えると、なんとはなく「・・・・・・ああ」
と筋骨の下から大きな息が思わぬ声になって出た。
 「ああ」という一呼吸の中には、つかの間、体の緊張から解(ほぐ)れ出
たかれの万感が流露(りゅうろ)していた。
 「功名何ものぞや」という自嘲(じちょう)のあふれか。「-静、恋し」と
つぶやいたものなのか。かれ以外には、知るよしもない。
 「・・・・・殿、殿、せっかく、おやすみの御様子ですが」
 そのとき、たれか、船房の戸を軽くたたいた。
 義経は、潮窓へ顔を寄せ。
 「弁慶ではないか。何用ぞ」
 「ただ今、艣尻(ともじり)の下へ漕(こ)ぎよせて来た一舟の上から、桜
間ノ介が、ぜひお目にかかりたいと申しおりますが」
 「桜間ノ介なれば、仔細(しさい)はない。これへ通せ」
 「ところが、もうひとり若い平家人(びと)を連れておりまする」
 「平家人とは、たれなるか」
 「平大納言どのの子息、時実どのなりと申されますが」
 「なに。時忠どのの子息讃岐どのが、自身お見えか。こは、ただ事にあ
るまじ。疾う、疾(と)うお連れ申せ」
 今し、壇ノ浦への出動を、寸前にしていた矢さきである。
 平大納言の子時実が、自身、危険をおかして、これへ来たと聞き「-こは、た
だ事にあるまじ」と、義経が顔色を変えたのもむりはない。
 好事魔多し、計(はか)りは寸前に破れやすいものという。
 「さては、破綻(はたん)か、事、露顕(ろけん)して、何ぞ凶事でも」
 と、かれの胸は早鐘をついている。
 かねがね、桜間ノ介を使いとし、平大納言との間には、微妙な計がしめし合
わせてある。もし、その発覚から、平家方が裏面の計を知ったなら、あすの戦
略も、急速に変更しなければならない、しかも、出動直前の今、ほとんど、そん
なことは不可能に近い。
 -が、かれの杞憂(きゆう)は、まもなく、思い過ごしであったと分かった。 
 やがて時実に会い、時実の口から、切々な願いを聞いた後にである。
 だが、一つの杞憂をぬぐわれた義経は、すぐ、次の杞憂に当面していた、
 時実は、父時忠の意をつたえて、
 「何とぞ、一筆(いつぴつ)の御誓書なりと、君と父とのお約束(つがえ)
のおことばを、神文(しんもん)に懸(か)けておしたため給わりとうぞんじ
まする。-父が申すには、それいただいて、疾くと立ち帰れ。やがては、国
もなく、国はあっても物いえぬ敗亡の遺臣となる身、誓書を持たでは、後
日、何を訴えようと、泣き言しか聞かれまい。-たって判官どのより一筆
の御誓書を乞うて参れと、かたく申しつかって参ったのです」
 と、眸(ひとみ)から全身にまで、懸命をこめた姿を、義経のまえに据(す
)えていった。いや頼みだった。
 無理はない。義経も思う。
 それも時忠父子の一身上などという小さいことではないのだ。
 相互のあいだに、黙約として懸けられている問題は、余りにも大きかった。
 神器のこと。
 みかど、女院、その他の人命のこと。
 ひいては、平家滅亡後の、未来へかけてのことまでが、ふくまれている
のである。
 あの思慮ふかい時忠が「決して、君を疑うにはあらねど、かほどなこと、
ぜひ一筆、熊野誓紙にお墨みをして賜(た)び給え」と、さきには桜間ノ介
を通して今また、子息の時実に危険をおかさせて、執拗にまで乞うてや
まないのも、道理なのである。
 -けれど、義経の立場もつらい。
 自分は兄頼朝の一代官にすぎぬ、鎌倉どのの意もまたず、後日に残る
誓書を、平家のたれへであろうと、書くわけにはゆかないと思う。
 また、軍監の梶原という者がある。梶原へは平大納言との密約のこと
は、一切話していなかった。諮(はか)れば、おそらくかれは口を極(きわ
)めて反対するだろう。すでに勝者の驕(おご)りをもって平家にのぞんで
いるかれだ。-亡(ほろ)ぶ者から条件をつけられたり、後日の約を与え
たり、そして亡ぶものの眷族(けんぞく)などへ憐愍(れんびん)をかけて
やるようなかれでないことは分かりすぎている。
 で、すべては、義経の胸三寸であった。
 それだけに、かれはひとりくるしい胸を抱いた。
 「さても、難儀。いかにせば?」
 義経は、はたと、眉を沈めた。
 何か非情な窮境(きゅうきょう)にたつと、爪を噛む癖が年少のころには
あった、その幼い癖が、ゆくりなくも、じっと考えこむかれの姿にふと出て
いた。
 「讃岐どの」
 やがて、熱を病む人の吐息のように。
 「もし、あくまで、誓書のこと、聞き届けできぬと義経が断ったら、いかが
なされるお考えか」
 「・・・・なんとしても、お聞き入れを得られぬなれば」
 時実は、おうむ返しにいいながら、その面をみるみる蒼白(そうはく)に、
眸は、相手の顔をとらえたまま、
 「ぜひもありません。武夫(もののふ)ならねば、腹切るすべは存じませ
ぬが、身を海に投じ、あすの戦いを前に、父母の魁(さきがけ)いたしまする」
 「「いや、いや」
 義経は、いそいで、かぶりを振った。そう察してはいたが、聞かされるの
は、辛かったからである。
 「あなたのお心を問うのではない。大納言時忠どのには、もしやのばあ
い、いかなる後図(こうと)やあるとお訊(き)きしたのだ」
 「父の存念はわかりませぬ。ただ、かねてより、父は出家入道(にゅうど
う)こそいたさねど、生涯は閉じたものと、思いきめておりまする。母の帥
(そつ)ノ局とて、おなじです。死なんは、いつでもと、覚悟に不足のない
両親とだけは、しかと申し上げられましょう」
 すると、時実のそばから桜間ノ介も、ことばを添えて、
 「実は、これへ参る直前、大理(だいり)どの(時忠)にも、船島を脱(ぬ)
け出て、赤間ヶ関の山手、臨海館の址(あと)へ、お身を隠されました。・・
・・すでに、平家の内にては、あすを前に、時忠卿御父子を、いっそ亡(な
)き者にせんという魔手のうごきが見えますので」
 「では早、薄々、あすの計を、知ったとみゆるな」
 「いやいや、それとはまだ覚ったわけであはありませぬ。-日ごろ、時
忠卿を憎しみ給う内大臣(おおい)の殿、能登殿あたりが、どさくさ紛れに、
自暴のお振舞いに出たものと思われまする。こよい十数名の刺客が船島に現
れ、すんでに危ういほどでおざった。そのための御居所変えにござります
る」
 こう聞いては、なおさら義経の胸は氷室(ひむろ)になった。思案に凍(こ
お)った。





















 先ほど、宅配便で、広島の娘から、父の日のプレゼントとして、サスペ
ンダーと、シャツが送られてきました。サスペンダーは、ズボンが下にず
れるのを防ぐには、ありがたいものです。早速、今、使用してみました。
なかなか快適です。シャツは、近いうちに着用しようと思っていましたが、
今すぐに着てみたくなりましたので着用し、庭に出て、昨日の、三友花の
挿し木と、時計草の取り木した鉢植えを、撮影してきました。気分は、上
々です。
 手紙が添えられてありました
 「いつもありがとうございます。サスペンダー使ってみてくださいね。ブロ
グ、絵、洋画、読書楽しんで頑張ってね。からだに気をつけて、こちらは皆
元気です」広島より。と、
 「ゆんちゃんいつも気を使ってくれ、ありがとうございます。哲哉先生に
もよろしく伝えてくださいね」
 家内の話では、11時ごろにゆんちゃんに電話をしたところ、広島球場へ、
野球観戦に行く途上だったそうです。
 さっそく、CSチャンネルを観ますと、今日のカードはソフトバンクとの
交流戦が、中継されていました。
現在、2対2と接戦の模様ですが、み贔屓(びいき)で広島に勝ってほしい
気がしています。

              サスペンダー
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             シャツ
CIMG0054




























 2017年6月19日(月曜日)

 昨夜、風呂に入っていたころに。娘から電話があり、家内が話をしたよう
です。野球は、広島が負けたとのことです。しかし昨日午後のCS放送では、
広島が、きわどいプレイをしのぎ、勝利したというものでした。
 それで娘には、父の日のプレゼントの謝意と「広島が勝ってよかったね」と
メールをしていたのですが、
 小生が収録されたテレビ放送を、らいぶと勘違いして観戦していたことに気
がつきました。
 まったく、のんきなものです。
 今日の気温は、日中、30℃近くになるそうです。湿度が低いといいのですが
、どうでしょうか。

















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