atusisugoiのblog

 法身何(ほっしんいず)くにか在(あ)る。遠(とお)からずして即
(すなわ)ち身(み)なり。智体云何(ちたいいかん)ぞ。我(わ)が
心にしては甚(はなは)だ近(ちか)し。

  「平城(へいじょう)の東大寺(とうだいじ)に於(お)いて三宝
(さんぽう)を供(きょう)する願文(がんもん)」

 法の身体は何に存するのか。遠くにあるのではない。自らの体がそれで
ある。智恵の本体は何か。自らの心がそれであって、ごく身近にあるもの
なのだ。


 華厳と密教

 南都の平城京の東の外れ、若草山の山麓に巨刹(きょさつ)・東大寺の
大仏殿がそびえる光景は、今も昔も変わらない。周知のように、大乗戒壇
(だいじょうかいだん)独立という制度的な要求もあって、南都仏教と対
立を続けた最澄の場合とは異なり、空海は入唐(にっとう)前も、また帰
国してから真言密教を確立したのちも、南都仏教とは様々な面で共存の関
係を維持してきた。
 入唐前には、南都に勢力を維持していた豪族の大友氏と空海の父の家系
である佐伯氏とは非常に近しい関係にあり、また佐伯氏の氏寺(うじでら
)・佐伯院もあって、南都とは殊に争う要因もなかった。 
 また帰国後、真言密教の優秀性と総合性を強く打ち出したものの、従来
の仏教の段階的な価値をそのまま容認しており、最澄のケースでは並立不
可能であった戒律も、空海は南都で受ける従来の受戒を踏襲し、その上で
密教の三昧耶戒(さんまやかい)を付け加えれば良しとしたため、鋭角的
対立の必要はなかった。
 加えて、空海の真言密教の本尊である大日如来と、東大寺の大仏こと廬
舎那仏(るしゃなぶつ)は、悟りの当体(とうたい)を仏と見る法身(ほ
っしん)という考えで共通していた。否(いな)、もう少し時間論的にい
えば、東大寺の宗義である華厳法界の廬舎那仏から密教の大日如来に発展
したともいえるのである。
 文章は、空海が真言宗をほぼ築き上げ、しかも東大寺に密教の潅頂院(
かんじょういん)にあたる真言院を建立した弘仁十三年(822)から二年
後の天長元年(824)三月二日に供養の品を捧げた際の願文である。した
がって、空海五十一歳というやや晩年にさしかかり、密教の悟りの源が遠
くの外界ではなく、自らの身と心にあるという即身成仏の境地が述べられ
ているが、大仏殿の景色は、若き頃と変わらなかったのではないか。

 東大寺大仏殿雪景

 未明に大仏殿を見渡す丘の上にのぼり、一千二百有余年の歴史に彩られ
たの大仏殿を狙った。浄化された美しい光景であった。空海は延暦二十三
年(804)に東大寺戒壇院で受戒している。

        東大寺大仏殿雪景
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                             東大寺大仏殿
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           東大寺大仏
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 三昧耶戒(さんまやかい

 密教の行者が免許皆伝となる伝法灌頂(でんぽうかんちょう)を受ける
前に必ず受けなければならない戒。正しい教えを捨てない、などの四つの
誓いから成る。

 悟りの当体(とうたい)

 仏教の中心であり、目的でもある悟りをどのように理解するかについて、
存在そのもの(当体)その表れ(表現)、その働き(作用)の三種の捉え方が
ある。そのうち、悟りをある存在そのものとして仏と見る考えが法身(ほ
っしん)である。


















 牛(うし)の背(せ)の御方(おんかた)

 番(つがう)は声をかけた。敵でないことだけは確かだと見たからだっ
た。-が、先の者は、ひどくぎょっとしたらしい。振り向きざま、すぐ太
刀の柄(え)をつかんだ。そして、肩に扶(たす)け歩いていた半病人の
ような女房姿の者を、その身構えに、庇(かば)いながら、
 「何か用か」
 と、一呼吸を措(お)いて、鋭くいいかぶせて来た。
 「やっ。そのお声は?・・・・・・・・。亀井殿ではありませぬか」
 「おうっ。渡辺番(つがう)だったのか」-と、亀井六郎は、茫然とか
れを見まもった。
 「番(つがう)でおざる」と、側まで、馳け寄って行き「どうなされ
ました。あの荒海のなかを」  
 「いや、どうもこうも、あるものか。おそらく、たれもおなじだろう。
この六郎重清の乗っていた船も、木っ端みじん。物具(ものぐ)を脱ぎ捨
てて、われから泳ぐいとまもないほどだった   
 「・・・・・が、ようやく御無事で」
 「まったく、運というほかないものだなあ。何せい、あの荒波。日ごろ
の水練なども、役にはたたぬ。はや成仏(じょうぶつ)か、と、観念した。
・・・・ところが、帆柱か何か、難破した船の巨材を見たので、無我夢中、
それにすがって、漂い漂い、百舌野(もずの)の岸へ、流れ着いたという
わけだ」
 「では、その・・・・お連れの女性(にょしょう)も」
 「いや、御方の身は、伊勢三郎がお抱きして、必死に泳いでおるうち、
ちょうど、わしのすがっていた浮木(うきぎ)に会い、ともにそれへつか
まって陸(おか)へ漂い着いたのだ。-やがて、その伊勢も、後から追い
ついて来るはずだが」
 そういう間も、亀井は、しきりに身伸びして、遠いやみの道へ、眼をや
っていた。
 御方(おんかた)―と敬称しているし、亀井や伊勢が、それほど大事に
仕える女性(にょしょう)なら、それは主筋の河越殿(百合野)か、静か、
それ以外なお人ではなかろう。
 番(つがう)は、訊(き)きかけたが、当(とう)の人は、亀井の肩に、
支えられて、息も絶え絶えな容子に見える。それに追捕(ついぶ)の跫音
(あしおと)を思うと、片時の間も、不安であった。で、ともかく、亀井
の急ぐままに、ついて行った。
 しばらく行くと、万代(もず)八幡の丘が見え、宮前の土橋を中心に四、
五十戸の屋根群(やねむら)が深夜の底に眠っていた。亀井は、あらかじ
め、心当りをつけていたのか、里の長者らしい家の門をたたいた。そして
ほどなく、奥の離亭(はなれ)へ、庭づたいに導かれた。裏はすぐ、百済
川(くだらがわ)の流れか、おりおり、水鶏(くいな)の羽音に揺れる波
光がキラキラ籬(まがき)の間に透いて見えた。
 「・・・・・亀井殿、ここは一体、どういう家で」
 と、番(つがう)は、小声になって訊(たず)ねた。
 亀井六郎は、自分もよくは知らないがと、前おきして。
 「この近くには、御陵(ごりょう)の丘が多い。当主はその御陵守(み
ささぎもり)の長(おさ)だとか聞いておる。多分。わしたちを今。ここ
へ案内してくれた老人がそれだろう」
 「では、伊勢どのの、お知り合いで」
 「そうだ、以前、ここの当主とある公家との間に、地争いの訴訟事があ
ったさい判官どのが、依怙(えこ)のないお裁(さば)きを下したのを徳
として、以後おりおりに、季節の物などをよく堀川へ献上に来たりしてい
た者とか。・・・・伊勢三郎とは、そんな縁故で知っている者らしい。
 「なるほど、それで、伊勢どのが、一時の隠れ家を、ここを頼んで、や
がて御自分も後からこれへ来て、落ち合おうというお約束でございますな

 「オ・・・・・・・先の老人が、母屋(おもや)から戻って来る。下婢
(しもべ)に、夜具(よのもの)や火桶(ひおけ)などを運ばせて来たの
だろう。番(つがう)、手をかしてくれ」
 「は」
 「いいか。御方のお体を抱いて、ちょっと、お支えしていてくれよ。そ
の間に今、臥床(ふしど)を設けさせるから」
 亀井はまだ、立ったままでいたのである。
 背にかけていた女性の身を、番にあずけて、寝所の支度に、次の部屋へ
はいって行った。-番は、かれに代わって、瀕死(ひんし)な御方の腕
(かいな)を、自分の肩に巻いて、待っていた。
 そして、その間に、亀井が、御方と敬称していた女性は、静でなく、河
越殿(百合野)の方であったことをも、番は、わが顔のそばのお顔で、はっ
きり知った。

 つい今し方。
 高師ノ浜の附近で、物凄(ものすご)い人間たちの、おめき合いが、聞
こえていた。
 それは、ごく短い時間でしかなかったが、ひとつの漁師小屋から躍(お
ど)り出た五、六名の影が、一隊の人馬に囲まれつつ、戦い戦い、その剣
を、ほしいままに、馳け暴れていた様子、昼ならさだめし、そこらの浜砂
に、おびただしい血が撒かれたのではあるまいか。
 が、間もなく、高師ノ浜の波音は、元の平調な夜に返り、ここを急襲し
た義経狩りの一隊は、南へさして逃げた二、三名の影に引かれて「-逃が
すな」とばかり、追っかけて行った。
 身を、物蔭に伏せて、巧みに、それをやり過ごしていた伊勢三郎と、吾
野余次郎(あがのよじろう)は、
 「しめた」
 「してやったり」
 と躍り出して、かれらとは、逆に、北の方へ、一目散に馳けだしていた。
 この高師ノ浜には、その日の朝から昼へかけて、偶然、遭難者の幾人か
が漂着していた。
 伊勢も、その一人だった。-いやかれは、北ノ御方の百合野を、わが一
命以上、大事に抱いて、あの荒海を、漂った。
 百合野が、みずから身を投げて、姿を消したとき、かれはかれらしい仰
天の余り、それを自分の油断からと自責して、すぐ、赤裸(せきら)とな
って、かの女を救いにあの狂瀾(きょうらん)へ、とび込んでいた。
 むかしは、伊勢の漁夫だったかれである。怒濤(どとう)も物とはしな
かった。百合野を抱いて、岸へ泳いだ。けれど幾たびとなく、危うくなっ
た。
 幸い。亀井六郎が、船材につかまって、流されているのに会い、それへ
すがって、ともにからくも、高師へ漂い着いたのだった。
 そして、附近の漁夫の情けで、浜の船小屋に潜(ひそ)み、百合野の手
当もしたり、衣服を乾かしてなどしているうちに、吾野余次郎とほか四名
も来合わせた。-「お主(しゅ)の判官は、どうなされたか」。それは絶
えざる人びとの憂いだったが、ともあれ、ここを当座の隠れ家として、君
のお行方を探すとしよう、といいあっていた。
 ところが一夜の憩(いこ)いもまたず、その晩、更(ふ)けてから、浜
の漁夫が、大変だと告げて来た。追捕の一隊がもう隣の部落まで来ている
というのである。
 伊勢三郎が「おれたちは、踏みとどまる。亀井は、御方をお連れして、
万代(もず)八幡前の、御陵守(みささぎもり)の長(おさ)の家へ、落
ちて行け。-長は快く、匿(かく)まってくれるに相違ない。敵を追っ払
った後、それがしも、後からそこへ馳けつけよう」といったのは、その時
だった。
 咄嗟(とっさ)ではあり、御方は、まだ、仮死にひとしい容態だし、そ
れしか、急場の智恵もなかったのである。
 追捕の襲撃は、直後だった。一同で斬って出で、わざと、三人は南へ逃
げ走り、伊勢と吾野は、逃げるとみせて、物蔭へ隠れたのだった。そして
やり過ごした敵を後ろに、百舌野(もずの)の方へ、馳けに馳けた。高師
ノ浜から、およそ、一里半ほどである。
 「・・・・・この家だろう。裏の川に投影が見える」
 たたいてみると、果たして、白い山羊髯(やぎひげ)をもった長(おさ
)が、おずおずと、顔を出した。長は、旧情を忘れず、かれらを内へ迎え
ると、一しお親身な世話を示した。
 なぜか、御陵守の仲間は、ひとから卑賤視(ひせんし)されていた。た
またま、かれらと公家の田領との地争いに、義経が正しい裁判を下したこ
とを、日ごろ、徳としていただけでなく、かれらの結束は、権力に対して
つよく、義経には、みな同情していたところなので、長の家に、怪しき人
びとと一名の女房が、先ごろから匿まわれていると知っても、それを、口
にもらす者はなかった。
 伊勢、亀井、吾野、渡辺番と、そして、河越殿の百合野とは、そのため
不安もなく、幾日かを、そこに匿われて、身の養生もでき、かたがた、長
の配下をかりて、義経と静の行方や、あるいは、味方の消息などを、八方、
探し求めることもできた。しかし追捕(ついぶ)の詮議がきびしいせいか、
以来、一人の消息も、聞き出せなかった。
 ただ、わずかに、風聞として、
「・・・・・判官どのの叔父後、十郎行家とかが、泉州の山奥へ、逃げ込
んだといううわさが、里人(さとびと)のあいだにある」
 と、いうぐらいなものだった。
 長からそれを聞いたとき、伊勢や亀井は、
 「どこまで、皮肉な運命(さだめ)にもてあそばれる主従か。助からず
ともよい人は、どうやら助かり、知りたくもない人の消息は聞こえてくる

 と、かえって暗い顔になった。
 杳(よう)として、以後、義経の消息は、その生き死にすらも、知れな
いからであった。
 「いつまで、この家(や)にてこうしていても」
 伊勢、亀井たちは、ひそひそ談合の末、ある日、あるじの長に、いとま
を告げた。
 「そちらの情けある計らいで、北ノ方様にも、まずは、このように、お
快(こころよ)くなられた。したが、判官の君のお行方こそ心がかり、一
日も早くそれを確かめて、何かの後図(こうと)も立てねばならぬ。・・
・・・ここ数日の御親切は、別れても、長く忘れはいたすまい」
 「なんの、お礼など仰せられては」
 長は別れを惜しんで、
 「して、どこを、お心あてに?」
 と、訊ねた。「・・・・さあ」
 と、伊勢と亀井は、顔見合わせた。まったく心あてない。けれど、都は
風聞の集まる所だ。危険は多いが、手がかりをうる端緒も何かある気がす
る。
 そこで、一つの思案は。
 洛外、広沢の附近に、阿部麻鳥(あべのあさとり)夫婦が、今も、山小
屋を営んで、子どもらと一しょに住んでいるはずだ。-その麻鳥夫婦の許
へ、北ノ御方の身を、あずけておく。かれら夫婦なら、身に代えても、匿
ってくれるに違いないと、いうことだった。
 「ー東嵯峨(ひがしさが)までは、渡辺番(つがう)、吾野(あがの)
余次郎の両名に、御方の身を、守らせてやりまする。そして、伊勢と、そ
れがしとは、殿の御消息を、ひたすら探り歩く心底なので」
 と、亀井六郎は、打ち明けた。
 こうして、百合野を、鄙(ひな)びた田舎娘に装(よそ)わせて牛の背
にのせ、番と吾野余次郎が、これも田舎人(びと)に変装して、その家を
出たのは、次の日、朝もまだ暗いうちだった。
 その牛の背の人を、見え隠れに守って行った伊勢三郎、亀井六郎の二人
は、途中、どこへともなく、別れて行った。

 天王寺(てんのうじ)待(ま)ち

 四天王寺はその四大門の内だけでも、ひと目にできない広さである。四十
余宇の伽藍群(がらんぐん)を抜いている高い塔は、その美しい影を池水
に落としていた。架けられた珠(たま)の橋、舞楽する所、六時堂の鐘の
音、すべて浄土曼陀羅(じょうどまんだら)の絵、そのままだった。
 仁王門廻廊(かいろう)は、東西に流れ、大塔、金堂、講堂などの建物
を綴(つづ)って、長さ百五十間もあるという。日が暮れると、無数の釣
燈籠が点(とも)って、妖(あや)しいまでの、おぼろな明りが、護摩や
香の煙を染めて、夜空に映える。
 三郎よ。・・・・・三郎よ」
 市女笠(いちめがさ)の下に、肩まで埋めて、さっきから、じっと、冬
風に耐えつつ、屈(かが)まっていた女房姿の影がある。
 ほの暗い廻廊の、さらに、冷え冷えと暗い、一遇(いちぐう)だった。
 笠は、木蔭の菌(きのこ)のように、動きもせずにいたのだが、ふと、
それを斜めに、白い顔を少し見せて、
 「何してぞ、鷲ノ尾は」
 と、かなたの者を、また呼んでいた。
 ぴたぴたと、破れ草履か、わらじの跫音(あしおと)が、こっちへ向か
って、返って来る。
 布直垂(ぬのひたたれ)に腹巻の童雑色(わらべぞうしき)であっ
た。-笠の人の前へ来て、小ひざをつき、
 「静さま。・・・・・お案じなさいますな。変なやつは、あっちへ、行
ってしまいましたから」
、 としたり顔して、答えた。
 昼はおびただしい参詣人(さんけいにん)だが、暮れるとともに、ぱっ
たりと。途絶(とだ)えてしまう。残っているのは、西大門や南大門の下
に、これは年中、そこを巣としている物乞いや浮浪者だけであった。
 それなのに、この童(わっぱ)と、女房笠とは、ゆうべも、今夜もここ
にいる。-二枚の筵(むしろ)を、袖廻廊の片隅へ敷き、冬風にころがっ
て来る落葉とともに、吹きためられている姿だった。
 ふと、行きずりの人が、「おや、病人か?」と、足をとめたり、「宿を
とり損(そこ)ねた旅人か」と、振り返るのも、むりはなかった。今も、
万燈院の堂衆たちが、うさん臭(くさ)げに、何かささやきあって通った
のである。-それを、童(わっぱ)の三郎が、かれらの影が遠く去るまで、
忠実な番犬の如き態度で、睨(ね)めつけていたのであった。
 「三郎」
 「はい」
 「ここへ近づく者があっても、素知らぬ顔をしていやいの。いちいち、
行きずりのお人へ、今のような恐(こわ)い顔して、肩肱(かたひじ)
張ってはなりませぬぞ」
 「でも・・・・・・。静さま」
 と、鷲ノ尾三郎は、口を尖(とが)らして。
 「黙って、聞いていれば、今の堂衆だって、勝手なことを吐(ほ)ざく
んです。静さまの方をジロジロ見て、いい女だとか、遊女だろうか、いや
遊女ではあるまいとか」
 「いいえ人が何をいおうと、こなたは、聞き流しておればよい。-やが
て、殿から迎えのお使いがあるまでは、ここをうごくわけにはゆかないの
ですから」
 「それは分かってますけれど、時おり、変なやつが寄って来ては、物を
嗅(か)ぐように、静さまのお姿をジロジロ見るので、この三郎は、ちっ
とも心がゆるせません。-おとといの晩、ここで殿たちと、お別れすると
き、鷲ノ尾、頼むぞと、かたく仰せつけられていたわたくしですから」
 「まあよい、そなたも、菰(こも)を被(かず)いて、少しそこらで休
んでいやい」
 静はなだめた。
 そしてかの女も、菰を巻いて、肩をせばめた。少しでも眠ろうと努める
らしい静であった。
 義経、弁慶、静などもあわせて七、八人が乗っていたあの小舟は、六日
の朝。風浪のまに浮澪木(みおつくし)のやたらに多い、河尻(かわじり
)の洲(す)に吹きつけられていたのである。吾妻鏡(あづまのかがみ)、
その他、諸書の記録によると、

  -義経主従、大物(ダイモツ)ノ浦(ウラ)を出デ、忽(タチマ
  )チ逆風ニ会ヒ、船舶悉(コトゴト)く摧(クダ)ケ、臣従、ス
  ベテ離散シ了(ヲワ)ンヌ。-ソノ日、小舟ニ乗ジテ、和泉(イ
  ヅミ)ノ四天王寺ニノガレ、従フ者ヲ顧(カエリ)ミルニ、伊豆
  右衛門尉有綱、堀弥太郎、武蔵坊弁慶、妾(セフ)ノ静、ワヅカ
  四人ヲ存スルノミ

 とあって、佐藤忠信や片岡八郎、鈴木重家などの名は見えない。
 おそらくこれは、当時、早速の飛脚で、鎌倉へ聞こえた人名だけが記録
され、他は不明のため、記録に漏れたに過ぎないのではあるまいか。
 事実。それから先の、義経の吉野山潜入の前後を見ると、前記の四人だ
けでなく、少なくとも十人前後の家臣は、陰に陽に、かれのそばにいて、
終始、生死の行動を、ともにしていたことは疑いもない。 
 ともあれ、義経たちは、、泉州の一角へ上陸し、六日の昼は、どこかで、
身を休めていたことだろう。-史上では、直接四天王寺へとあるが、天王
寺界隈(かいわい)の昼間は、なんとも人目が多すぎる。-おそらく、人
影もない夜にはいって、百五十間の外廻廊の辺に集まり、「・・・・・さ
てこの先、どうするか」を、評議し合ったものと思われる。

 評議の結果は、こうである。
 -鎌倉どのから、追捕をうける身となった義経は、今や、この広い地上
のどこにも、五尺の身をおく所さえない。
 四天王寺の、あまたある大屋根も、附近の民家も、一夜を頼むことすら、
危うかろう。
 このうえは、ここにいる者だけで、どこか容易に追捕の兵も近づき難い
山奥へ分け入ろう。そして、時の推移を待とうではないか、となった。
 「それよ、しばらく、夜の移りを見給わんとのお心なれば、吉野山こそ、
よい峰と思われまする。かしこは、修験者(しゅげんじゃ)の大道場、世
を忍ぶには・・・・」
 と、弁慶もいう。
 那智(なち)、熊野などにおける修験者(しゅげんじゃ)の道と生活に、
かれはやや知識をもっている。かたがた、奥大和には、時潮に不遇な大和
源氏もいるし、吉野には、院の政令にも、鎌倉の権力にも屈しない反骨の
輩(ともがら)も多分にいるであろうと、察しられたからであった。
 「-吉野山か。おお」
 義経は何か、天来の声を聞く気がした。そこには、次の運命が、自分を
待っているように思われた。 
 しかし、途上の危険も、考えられる。女づれなど、不可能にちかい。「
-静を、どうするか」が、まず問題だった。それを人びとが悩むのを見て、
静自身が、いったのである。
 「・・・・まず、わが夫(つま)と、殿輩(とのばら)ばかりで、先へ
吉野へお急ぎくださいませ。静は三郎と二人で、お迎えの使いが来るのを
、ここでお待ちいたしまする」
 これはよい考えに違いなかった。
 静さえ、心細さを忍ぶなら、主従十騎ほどで、追捕の敵中を突破するの
は、なんでもない。
 また、後に残す静へも、生(なま)なか、武者を付けておくよりは、童
(わっぱ)の鷲の尾一人の方が、かえって、参詣人(さんけいじん)の群
れに紛れて、人目立たないであろう。という利も考えられる。
 「では、あとに残って、迎えを待て」
 義経としては、多少、危惧(きぐ)もあったが、
 「途々(みちみち)の様子を見、さしたる惧(おそ)れもなかったら、
吉野まで行かぬうちにも、たれかを、迎えに引っ返させる。わずか、一夜
か二夜の辛抱ぞ。-ただ、その間、人に見とがめられぬよう、この西大門
のほとりにいよ」
 と、いい残し、夜のうちに、四天王寺から阿倍野(あべの)を馳け、北
葛城(きたかつらぎ)の山路へまぎれて行ったのだった。
 -それが、六日の夜。
 静と、鷲ノ尾は、今夜で三晩、迎えを待った。身も凍(い)てつくばか
りな外回廊のすそにうずくまって、そこらの物乞い浮浪者の影とおなじよ
うに、ゆうべを明かした。そして今夜もむなしく、やがての明けを、待つ
姿だった。
 すると真夜半(まよなか)ごろ。
 たれか、大股に近づいて来た者がある。その敏捷(びんしょう)な動作
と、するどい眼に、鷲ノ尾は、すぐ反射的の跳び起きて、
 「-たれだっ」
 と、身構えた。
 「鷲ノ尾か」
 と、それは聞き覚えのある声だった。
 「やっ、佐藤殿か」と鷲ノ尾の惧(おそ)れは小躍(こおど)り
に変わって、
 「静さま、静さま。-お迎えが参りましたぞ。佐藤四朗兵衛忠
信が」
「叱(し)・・・・・」
 と、忠信は、かれを制しながら、その眼で、静へ、
 「すぐここを」
 と、うながした。
 西大門を走り出て、そこの門前町の辻を南へ曲がると、軒をならべてい
る駅宿(うまやど)の一軒に、三頭の馬がつないであった。おやじであろ
う、飼糧桶(かいばおけ)のそばに立って、人待ち顔していた。
 「いざ。・・・・・馬の背へ」
 忠信は、宿の前で立ちどまった。そして、まず静の介添えして、かの女
を乗せ、鷲ノ尾をせきたてた。それから、さいごに、自分の一頭の鞍にま
たがって。
 「おやじ。頼んでおいた、朝の旅糧(たびかて)は」
 「はい、はい、ととのえておきました」
 おやじは、三包みの弁当を、下から渡して、幾たびも、頭を下げた。よ
ほど過分な礼でもうけたのだろう。この時ならぬ旅人の、しかも、ただな
らぬ急ぎ方さえ、怪しみもせず、三騎の影が、阿倍野のやみへかくれ去る
まで、悠長(ゆうちょう)な顔で見送っていた。


































































 

 貧道黙念(ひんどうもくねん)せんが為(ため)に、去(い)んじ月
(つき)の十六日(じゅうろくにち)、此(こ)の峯(みね)に来住(ら
いじゅう)す。山高(やまたか)く雪深(ゆきふか)くして、人迹(じん
せき)通(つう)じ難(がた)し。

       「宛名人不名書翰」

 私は静かに瞑想するために、先月十六日から、この高野(こうや)の峯
に来ています山は高くそびえ、雪は深く積もって、人が足を踏み入れるこ
ともありません



 山中修禅(しゅぜん)の道場


 空海がいよいよ真言密教の公布に取りかかり、その拠点として南紀・高
野山を修禅の道場として願い出たのは、弘仁七年(816)六月のことで
あった。この希望はすぐに叶えられ、その年の七月八日に所管の紀伊国司
に、高野山を空海に下賜(かし)する太政官符(だじょうかんぷ)が下さ
れている。
 翌八年、空海は信頼できる弟子の実恵(じちえ)と泰範(たいはん)
たちを高野山に派遣し、自らの入山に備えて山上の土地を開き、必要な坊
舎の建設にあたらせた。すでに高雄山寺(たかおさんじ)において、空海
を中心に優秀な人材が集まりつつあったが、中でも実恵(じちえ)は空海
を補佐する立場にあり、また最澄と袂(たもと)を分かったことで知られ
泰範(たいはん)も、すでに旧師とのしがらみを乗り越え、空海のもと、
真言密教の確立に専念していたようである。
 宛名のない「貧道(私こと空海)」以下の文章は、弘仁九年(818)十一
月十六日、空海が初めて冬季の高野山に登った時の手紙である。
 冒頭の「黙然せんが為に」とは、山林において修禅するためという空海
の根本的な願いをストレートに表現している。
 続く後半の「山高く雪深くして」は、冬場の高野山の景色を簡潔に表現
しているが、「人迹(じんせき)通じ難し」という、過酷な大自然の中に
高野山の原風景があるのみならず、かえってその中にこそ人為を絶した厳
然たる大自然の生命が宿るのを実感したことであろう。
 そしてそれは若き頃、南紀や四国の豊かな自然の中で自ら存在を一体化
させたあの強烈な求聞持法の体験ともつながるものであった。

 高雄山寺(たかおさんじ)

 京都洛西の山深い高雄に建立された和気氏の寺。奈良時代の末、妖僧道
鏡の野望をくだいた和気清麻呂はその子供たちと桓武天皇の平安京遷都を
助けた。はじめ天台宗の最澄に貸し与えたが、次第に空海の影響力が強く
なり、のちに神護国祚真言寺(じんごこくそしんごんじ)(神護寺)と改名
して真言宗の寺となった。

 弘法大師と高雄山寺

 空海弘法大師は宝亀五年(774)、讃岐国多度郡に生まれた。
 母方の叔父阿刀大足は桓武天皇の皇子伊予親王の侍講として、儒教をも
って一家を成した学者である。
 十五歳のとき阿刀大足について論語、孝経、史伝等を学んだ空海は、十
八歳で大学に入り明経科を専攻し岡田牛養、味酒浄成から学問の指導を受
けた。
 後に優れた文筆活動の才能を発揮するのも、この時代に培われたものだ
ろう。
 この頃、ある沙門から虚空蔵求聞持法を授かって、それを転機として大
学を去り、霊山を遍歴して仏道に励んだ。虚空蔵求聞持法とは虚空蔵菩薩
の真言を百万遍唱えることによって、すべての経典の文句が暗記できると
いう秘法で、記憶力を飛躍的に増進させることができる。
空海は入唐までの空白の期間、山林修行に励む一方で、南都の寺々であら
ゆる経典を読破していたと思われ、唐から請来した経典は、新訳、新来の
ものばかりで、しかも体系的に収集されたものだった。
 また佐伯氏にゆかりの深い大安寺で唐語を習得し自在に繰ることもでき
た。
 東大寺で受戒した空海は、最澄とともに入唐するが、乗った船が違って
いたため、二人の初対面があったかどうかは分からない。
 ただ、三筆の一人橘逸勢は、空海と行動をともにし、在唐中も交流を続
けていた。
 洋上、暴風雨のため、船団は四散し、空海一行が長安に入ったのは半年
後のことであった。
 年が改まった延暦二十四年(805)五月、空海は青龍寺の恵果を訪れ
る。
 恵果は「われ先より汝の来たれるを知り、相待つことひさし、今日まみ
ゆるは、大いによし、大いによし」と喜び迎えたという。
 密教の第七祖である恵果から法流を伝授され、それとともに必要な経典、
曼荼羅、法具などのことごとくを授けられた。
 恵果は同年十二月十五日入滅されるので、誠に得がたい出会いとなり、
師の遺言に従って翌年鎮西に帰着、その後九州、四国、泉州などを経て、
三年後の大同四年(809)、高雄山寺に入山した。その消息は、最澄から
空海に宛てた八月二十四日付の経典借用状によって知られる。
 最澄は弟子に託して空海請来の経典十二部を借覧したいと依頼したもの
で、手紙を弟子に託しているところから、すでに面識があったと想像され
る。
 それ以降数年間にわたり、高雄山寺を中心に両者の親交が続けられ、天
台と真言の交流へと進展していった。
 都に入った空海は、その年、嵯峨天皇のために世説の屏風を書いて献上
した。
 以後天皇は空海のよき理解者となるとともに、詩文を通じてもその交友
を深められている。
 弘仁元年(810)、薬士の乱が起こり、世情騒然たるうちに薬士が服毒
によって自殺すると、皇太子高岳心親王は、東大寺に入って出家し、後に
空海の弟子となった。この年、空海は高雄山寺において鎮護国家の修法を
行った。この七日間の修法が空海によって行われた鎮護国家の修法の最初
である。

                                        高雄山寺 
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 槙尾山寺(まきのおさんじ)剃髪堂(ていはつどう)

 四国で修行を終えた空海は、奈良の僧・勤繰(ごんぞう)を師として、
和泉国尾山寺〔現・大阪府和泉(いずみ)市施福寺(せふくじ)〕で出
家・得度したと伝承する。
また、唐から帰朝後、入京前に、この寺に滞在したという。


   尾山寺(まきのおさんじ)剃髪堂(ていはつどう)
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 満願滝(まんがんのたき)
 
 和泉山脈の尾山には、空海が修行したと伝承する清らかな滝がある。
今もなお、滝に打たれる行者が跡を絶たない。


         満願滝(まんがんのたき)
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 セーヌ河畔

 ××君

 君に送る通信をファルギエールからすでに送る筈であったが、すっかり
書き終えない内に急にファルギエールの蜂の巣を一時逃れて、今セーヌ河
畔に閑居でもしている気持ちだ。で前の通信を後にして、この短信を送る。
 冬のセーヌ河の単調の色彩はまた僕の心を誘惑する。ホテルを尋ねつつ
上流に向かって、止めどなく歩かした。黒いマロニエが凍った心を抱いて、
両岸の石道に漸(ようや)く春に渡り行く命を保っている。凍った夕日が
北極の空の果てにでも沈んで行く如く、狂する少女の恋する心の如く、霧
は見失った太陽を覆いつつ広がって、エッフェル塔から目の先のノートル
ダムまで覆ってしまった。セーヌ河が急いで波を立てて流れている。冬の
呼吸が身に浸(し)みる。
 ホテルの窓からノートルダムがやや斜めに当たって聳(そび)えている。
十三世紀の建築と言うこの寺の大部分は黒くなっているが佳(よ)い古色
を帯びている。セーヌの支流が掘割の如くにホテルと、ノートルダムの間
を流れている。このホテルには画家がよく寺を描きに来るらしい。僕の居
る窓から眺めた光景をしばしば見ることがある。僕はすぐと三十号代大の
画布に始めた。少しくノートルダムの全部を描くには近すぎた。また形も
今少し正面か側面が好いと思う。晩飯に下のレストランの方に降りる、露
西亜〔ロシア〕の青年が三人と仏蘭西〔フランス〕人が一人、四人地下か
ら蒸発する火気を囲んでいた。僕に日本人か、何の仕事をしているかなど
尋ねる。
 「僕は画家だが、君は何かね?」
 「僕も同じく画家だ、アカデミー・ボザールの生徒だが、君はどこに通
っているのか?」
 「僕はどこにも入っていない、自分のアトリエで研究している。こんど
ノートルダムを描きにこのホテルに来た。」
 「君は久しく巴里にいるのか?」
 「僕は僅かしか巴里にいないが兵に招集されたから、仏軍の兵と混じっ
て戦いに行く、それも二三日日中の事だ」
 「君は幾歳か?」
 「二十歳だ、ここにいるムッシュも、一、二週間の中に兵に行く、十九
歳で文士だ」
 「君らはツーリストか?」
 「そんな事はない、元気だ。自分はモスクワで、日本語を学んだことが
ある。話は言えないが、聞くのは少し分かるから、日本語で何か話してく
れないか?」
 こんなことを語りながら一緒に飯を食って、シネマに誘われたので、疲
れているしあまり見たくもないが出かけた。
 シネマから帰ると、ノートルダムが淡く眠って、星が稀に見えて、霧が
立ち込めて夜の鐘は重く響く。
 翌日の夜も連れ出されて、モンマルトルに行った。中の一人はカフェー
でアミに会うのだといって、地下線の中から騒いでいた。バーベル通りの
カフェーに入ると間もなく毛皮に埋(うず)まった女がやって来た。
 この二人を置いて、我々は白葡萄を一杯でそこを出た、外は寒い、どこ
か見世物にでも入ろうと言ったが、活動写真しか開館していないので、つ
いに何も見ずに自動車に乗って帰ったのは遅かった。
 次の日、昼飯でまた落ち合った。そして昨夜の一人が微笑しているので、
 「昨夜はどうでした?」
 「満足しました、美人でしょう、僕のアミで巴里子ですよ」
 「君達は戦争に行くのだから、たくさん愛を貪って立ち給え」それで何
日出発する?」
 「明日。」
 また画家の一人は自分の絵を運んできた。
 「これはトルストイの肖像だ、君はトルストイを知っているかね?」
 「知っている、日本には崇拝家が沢山いる」
 と言ったが、この画はあまり感心しなかった。別に版画でトルストイが
キリストの胸に寄りかかっている絵がある。強情の爺さんでも寂しさがあ
るのだね、異性と離れ、郷土と離れ、父子愛人と離れ、人類の一員となっ
た生涯も悲壮である。
 
 僕は昨夜窓の幕を垂れる事を忘れていたら巡査がやって来て叱られたよ。
未だに巴里は恐々としているのだね。
 昨日はK君やS君やY君が僕の室に落ち合ってつい話は戦争のことにな
って面白かったよ。
 独逸の方から廻って来たK君は独軍の強大の事、一国を賭して戦ってい
る事この戦いの後、各国の興亡あるいはまた文化を進めると共に、眠るも
の衰えるものしかして大文芸が興る。美術界にも第二のルネサンスはこの
時だ、それから延(ひ)いてレンブラント、ルーベンス、とシェークスピ
アを挙げて新クラシズムの文芸が必ず興るなぞと談っていたが、僕は古い
芸術よりなるだけ新しい、後期印象派以後の芸術が栄えるなぞと談った。
 君がもしレンブラントを熱愛し、またアンジェロ、クールベ、ミレー、
コローを真に愛するならば、一度見に来る事を切望する。話に聞けば、露
西亜の青年、老人が身に襤褸(ぼろ)を纏(まと)い、或は独逸なぞから
徒歩でパンと水を飲んで、崇拝する作品作家を訪うと言う事は真に愛する
人の心として当然ではないかと思う。
  






























 

 ヴェトイユの春


 街路のマロニエもぽつぽつ芽を吹きだして、永い間雨と寒さに鎖(とざ
)されていた画室の窓硝子にも春の光が射す様になった。
 モデルを写生していてもつい春の郊外を語るようになる季節は巴里でも
一番佳(よ)いときだ。四季があっても日本ほどときの移り変わる情趣に
乏しいので、秋と言ってもほんの僅かの間にすぎて、すぐ鎖す冬の沈鬱(
ちんうつ)となる。毎日の様に振り続ける小雨はもうあきあきする。この
寂しい単調の冬を春の光は夏と混じて驚かす、鎖されていることも永いだ
けに歓喜する事も多い。
 冬のボンネットも脱いで、帽子にも花が咲き鳥が飾られる、黒い重い色
に彩られていた服装も軽やかに淡い青色や、白や紅色のコサージュに浮き
浮きした街路を小刻みに歩く女の足取りまで快活に見える。はじめて受け
るこの春の印象を巴里で味わうか、田舎で過ごそうかと迷った揚句、あま
り遠からぬヴェトイユの田舎に行く事にした。
 同じ画室続きの部屋には、堕胎したモデルがこの春の日に病み苦しんで
いるのも巴里らしく思った。血に穢れたパンタロンが寝台の下に投げ込ま
れたままある。牛乳瓶や洗滌機が取り乱されて、青い生気のない顔の中か
ら田舎にアミと行くことを楽しんでいるのも呑気である。
 巴里の春も気に掛かりつつある朝、高村君とサン・ラザールの停車場に
行って、マント行きの汽車に乗った。車中四時間郊外の展開する景色を眺
めながらマントについたのは未だ午前であった。そこから乗合自動車に乗
って、斜めになった丘の裾に沿ったり、河に出で野を横切り、幾つかの可
愛い小村を過ぎると、河に臨み花に包まれているヴェトイユの村が見えて
心が跳(おど)った。自動車の中にいた、肥ったムッシュは僕等の行く、
ホテル・シュバルブラン(白馬屋)の主人であった。僕等より先に行ってい
る森田君や、山本君がいるので、このムッシュは早くから面白可笑(おも
しろおか)しく話しかけた。僕等が着くと日に焼けた両君が出て来た。
 定まった僕の室の窓からちょうどモネの描いたお寺がよく見える。林檎
の花には早く梨花にやや遅れた若葉とともに彩り薫(くん)じている。
 これはまるで公園だ。花園だ。あの垣根に咲きかけている花は何だろう。
 あれか、あれはリラの花だよ、日本にない花だ、紫陽花か藤と言ったよ
うな花だ。カフェー・リラはこの花の名だねえ。
 そうだよ。佳い花だ優しくって。
 室を片付けている間に村を一廻り、散歩かたがた写生をする場所を見て
来よう。しかしてYの写生している梨畑に入った。
 どうも花が散ったり、咲くので描き憎いよ。ほらこの花は蕾だったが、
こんなに真盛りに咲いた。これで雨でも降ればまた散々だ。
 花の写生は余程迅速にやらねば駄目だね。 
 一つの絵を十日も二十日も突いていたら青葉になるよ。
 しかし実に美しいと、Yは色の附け様がないと言う風に見とれている。
僕はそこから果樹園を抜け、小川を飛んで後ろの丘に登った。お寺を中央
とした、ヴェトイユの村は前方の左右に広がり、密集したり散らばったり
している。赤い屋根、白い壁また淡青(うすあお)い家は、花と新緑との
中に埋っている。その向こうに平野の中を水量溢れるばかりのセーヌの下
流が二つに裂(さ)けて横たわっている。
 空に雲雀(ひばり)は心行くばかり高く低く囀(さえず)る。麦畑はこ
の小山の頂まで連なっているのも好い。やっぱり田舎に来ると気持ちが好
い。春の光を浴び呼吸するだけでも蘇生した様だ。声も音もない光は自然
に満ちた万物(ばんぶつ)に揺らぐ影を見ると永遠の静かさを想わす、限
りなく。

 翌日夜が明けかけると、何處となく小鳥が啼く、起きて窓を押すと、未
だ朝日は寺の屋根と丘の上部だけしか照らしていない。自然も眠りから覚
めかけたと言う風に、花も緑葉も露と陰に浸っている。そして空気は未だ
冷たい。食堂に行くと早いMはもう珈琲を啜(すす)っている。やがてY
が起きて来る、Tが見える。
 何という好い天気だろう、こんなにいい天気が続くと好いが、朝飯を済
ますと皆んな分かれ分かれに写生に出かける。自分は昨日見ておいた寺の
上に行ってお寺から平野を写しかけると、村の子供たちが来て暫く見てい
たが、それも飽いたと言う風に草の上に寝そべって歌を唄ったり、草笛を
ふく。微風が麦畑を撫で画枠を動かし、太陽は寺の真上真上と登る。写生
画を投げ出して自然に見惚れる事もある。麦畑と空の調子はどちらが明る
いかと考えたが実に判らない微妙の調子だ。
 昼の鐘が十二鳴ると、丘を下って下宿に帰ると、食堂では先に帰った連
中が雑談している。食後直ぐに作品を見廻ると、同じ田舎でもこんなにま
で感じが違うかと思われた。毎日雨が降らない限り写生に出かける。
 リラの花が食卓に飾られる頃はもうぽつぽつ暑くなる。白や紫の花房が
を垂れたリラが食後の果物と好い静物画をなしている。写生の疲労と満腹
とで昼眠を貪ることがある。傾きかけた太陽は林檎の花に燃えるように美
しい。しかし誰も不思議のくらい花を写生していない。
 -誰もなぜ花を写さないのだろう。
 -あんまり美しすぎて、絵になると穢(きたな)くなるよ、それにまた
変化がひどいからねえ。
 -絵には穢いと思ったところを描いて穢く感じないときがある。美化す
ると言う言葉は甘いが、ある時その穢い土水も美しく見えるのと、それに
従う画の性質から臭くないからね。
 -それでは写す全部の実感性は画に乏しいねえ。
 -絵は実自然とは違うよ。そして自然から受ける全部ではない。
 -それでは自然自然という、自然の解釈は困難だ。
  我々はなるだけ自然に近づこうとしてやっているのだ、しかしモーパ
ッサンのように絵なぞつまらない事だ、そうして自然の再現を計っても、
自然に似ている事はめったにないと言っているが、絵をあんな風に自然と
比(くらぶ)れば自然でも何でもない、絵の具の塊だ。
 -モーパッサンが死が近づくとともに文芸をつまらなく言っているが、
あれがまた彼の芸術だよ。人間らしい。
 -そんなに四人同じ田舎を写しながら、皆違っているのも、自然の意志
とともに各人の心にある想像や、習慣があるのだねえ。
 -なにしろ芸術は熱情と叡智が無くてはだめだ、さもなくば自然は反映
しないよ。
 ーゴッホなぞの様に狂すれば、狂するほど自然が開けて明晰に自然の生
命を掴むことが出来る様に。 
 芸術の話も最後は人間問題となる。しかして分からないことが多いが、
自分で心に明るく自然を見る事が出来る。
 森田君は日本に帰るのも近づいたので西班牙に旅立つと言って出発した。

 今夜は月が良いから外に出ようと我々は河畔に出た、昼間の物象は形を
変えて、月は滴るように照らしている。平野も、河も、村も、そして林檎
畑は甘い外国の恋物語でも連想さす程美しい。河を隔てて一列のラバクー
ルの村は燈火もないくらい淋しい。月に浮かれて出て来る人もないが夜は
静かで美しい。そして珍しく虫の音を聞いた。巴里の石畳は虫の声も聞け
ないが、リモージュに逃げた時島崎君と、一夜野に立って久しぶりに聞い
た事があるが、虫の音は音の中で静かさを破らず、サンチマンに誘うもの
だ。渡場の櫓の音や、稀に寂寞(せきばく)を破る月光を浮かべた水面を
見て吠える犬。河畔の暗い木間を抜けて、ちょうど乗り捨てた空船がある
ので、その中に乗って仰いで月を見ていると、月の光は泪の滴りのように
落ち、水の打つ微やかな音。

 マロニエの葉も緑深くなり赤い花が出始めるとなかなか暑くなってくる。
一ヶ月と思って出て来たのが遂に二ヶ月を過ごす事になった。高村君は巴
里に帰る後は僕と山本君と二人である。ここの宿には我々日本人ばかりの
お客であるが、それでも稀に夫婦連れや情人を連れて宿りに来る客もあっ
た。また日曜日には多くの人が昼飯を食いに来るのでなかなか賑やかだ、
その日は一人、二人の手伝い女も来る。その一人はYが二年前ここに来た
時から助けに来た女であるそうだ。その時は娘娘してYと手を組んで踊っ
た事もあるそうだが、今は誰かの妾でもしているのだろう。そう言えばよ
く跛(びっこ)の男を助けて散歩しているが、あれかもしれん、女の成熟
期程変化するものはない。
 日曜日には男も女も美装して野に出る。また珈琲店に集まってカルタン
を取る、玉を突く、籠を提(さ)げて熟したサクランボウを取りに行く群
れもある。大抵の花の散る頃は秋より淋しいものだ。そうして写生に出る
のも暑くなって疲れる頃だ。河辺の樹木も黒ずんで、その木の下に午睡に
来る老人もある。どうも二月近くもいたが仕事が思う程出来ないのは寂し
い、苦しいことだ。
 山本も巴里に用事が出来て出発したので今日は一人だ。
 朝起きて窓を開けると、見渡す野は風に吹かれている。写生するより思
うまま遠くに独り自由に考えつつ歩いてみたい日だ。
そしてモアッソンに行く事にした。宿の下女が河原に行って渡船を呼んで
くれた。船の中から振り返って見るとちょうどモネのリュクサンブール美
術館にある雪景を思い出す位置がある。それでも急流によく船を浮かべて
いられたものだ。モネーの別荘はここから三里くらい隔たった村にあるそ
うだが、モネは能(よ)くこのヴェトイユを描いている。
 ラバクールに着くとすぐ河に沿うて右に進みそれから桜の畝(うね)を
横切って行く。今少し早く来れば周囲が花に包まれたもモアッソンを見る
ことが出来たであろうに、村の入口には小さい懐かしい形の寺がある。ち
ょうど昼の御参りの人が寺から出かけているところだった。小さな娘子ま
で胸に十字架を掛けて聖書をもっているのも外国の田舎らしい。昼飯を食
うつもりで料理屋を尋ねたが、ただ一軒小さなコーヒーレストランがあっ
たが、何にも食う料理はないので、パンとフロマージュだけである。で特
に卵を煮て貰って簡単に昼飯を済ませた。日本人は珍しいといって窓から
のぞく人も多かった。戦いの話や、支那と日本は同一であろうと言う人が
あれば、それを否定する学者もいた。村は荒れた淋しいちょうどゴッホな
ぞの描いた村落を思わす、黄色い土塀の傍に水仙らしい花の咲いているの
も明るく淋しかった。僕は写生しつつ歩いていると村の子供連れがついて
廻るのでその中の女の子供を塀の前に立たせて描いてやった。
 この村で一泊しようかと思って、ホテルを尋ねたが、あるのはただ一軒
きちん宿の様な汚いのであるに比較的高いので止(や)めた。そしてまた
とぼとぼと風の荒れかけた畑中を抜けてヴェイトイユに帰った。夕暮れが
近づいていた。ヴェトイユの春も過ぎて全く夏となった。僕は帰ってきた
山本君を後にしてまた巴里の画室に新しい感情をもって帰った。

















































































































































 



















 空海少年(くうかいしょうねん)の日(ひ)、好(この)んで山水(さ
んすい)を渉覧(しょうらん)す。吉野(よしの)より南(みなみ)に行
(い)くこと一日(いちじつ)、更(さら)に西(にし)に向(む)かっ
て去(さ)ること両日程(りょうじつほど)して、平原の幽地(ゆうち)
有(あ)り、名づけて高野(こうや)と曰(い)う。 

「紀伊国伊都高野(きいのくにいとこおりこうや)の峯(みね)に入定(
にゅうじょう)の処(ところ)を請(う)け乞(こ)う表(ひょう)」


 私、空海は、若い頃に好んで大自然の中を歩き回っていた。吉野から
南へ一日、そこからさらに西に向かって二日ほどのところに、人に知られ
ない山中の平原があって、そこは高野と呼ばれている。



 山中の聖地。高野山

 空海にとって高野山は、若い燈日に山林修行に明け暮れていたころから
の聖地であった。そこに新しく密教という重要な思想背景が加わり、八葉
の峯に抱かれた高野山は、まさにこの世のマンダラの中心ととらえられて
も不思議ではない。
 憧れの国・中国で密教の師・恵果阿闍梨(けいかあじゃり)から金剛界
・胎蔵両部の密教を授かり、勇躍帰国した空海ではあったが、政治事情の
絡みをあって、数年間は雌福の時を過ごさざるを得なかった。
 そして、やっと天皇が嵯峨帝にかわった好機に入京を許されたものの、
しばらくは天台宗の祖・最澄途との密教授受という気の抜けない緊張の連
続であった。その後、歴史の必然か、両者が別の道を歩み始めたとき、密
教修習の最適の道場として空海の脳裏に浮かんだのは、若き頃、散策した
ことのあった平原の幽地・高野であった。
 文中の「空海少年の日」が、具体的にいつ頃を指すのかは定かでないが、
急な入唐(にっとう)のために正式な僧侶の手続きを受けたのが三十一歳
であったので、おそらくは大学入学以降、さほど年月をおかずして山林修
行の世界に身を投じていたのだろう。
 高野の地理上の位置取りは正確であり、その拠点を吉野としたのは、の
ちの修験道(しゅげんどう)の成立を待つまでもなく、平城京(へいじょ
うきょう)や藤原京の南に位置する吉野は古来、山林仏教の基地的存在で
あったからである。
 空海が長安の恵果(けいか)から授かった密教は、その威力を国家・国
土の守護にふり向ける一見都市型の密教であったが、その威力を自ら出現
させるために山中の聖地・高野山を求めたのは空海の卓見であった。

 密教を授かる

 空海は後述のように延暦二十三年(804)、好機を見つけて中国に渡り、
翌年幸いに長安・青龍寺の恵果阿闍梨から密教の潅頂(かんじょう)を授
かった。そして、その翌年、船の便を得て帰国している。


 
















 藻屑(もくず)狩(が)り


 さきに、頼朝自身が率(ひき)いて出た本軍のそれよりは、さらに数日
早く鎌倉を立って、義経討伐の上洛を急いでいた先発部隊の―結城(ゆう
き)朝光(ともみつ)、小山朝政(ともまさ)らは、ちょうど義経の主従
が大物(だいもつ)ノ浦で遭難した夜の同時刻ごろ、いずこも同じ墨のよ
うな暴風雨(あらし)を衝(つ)いて、大津から逢坂山(おうさかやま)
をこえ、明けて六日の朝、まだ町辻も暗い都のうちへ、一せいに、なだれ
込んでいた。
 小山朝政は、息もつかず、泥まみれな兵をかえりみて、
 「すぐ、六条堀川へ馳け向かえ。かねて聞く、判官の館とやらを、ただ
ちに奪(と)れ」
 と、令していた。
 と聞いて、後ろの結城朝光は、
 「はて。そこに義経のおらぬことは、途中でうけた摂津源氏どもの報(
し)らせでも分かっておるのに、なんで、空き巣の館を攻めに?」
 と、いぶかった。
 けれど、追いついて、朝政の胸をきいてみると、かれの答えは、こうだ
った。
 たれしも、都を落ちる時などには、日ごろの誇りもどこへやら、周章狼
狽(しゅうしょうろうばい)するものだ。義経主従とて、そうだったろう。
必ずや、踏み乱した住居の跡には、院や諸公卿と取り交わした重要な文書、
手紙の類なども、つい、忘れ去られてあるにちがいない。
 「もし、その一通でも、手にはいれば、後日の確証となる。また当然、
ゆゆしき獲物ぞと、鎌倉どののおよろこびも、間違いあるまい」「なるほ
ど、それも軍港の一つ」
 結城(ゆうき)と小山の二将は、そんなつもりで、まず一散に、目標を
堀川においたのだった。
 ところが、かれらの予想は、堀川の門を打ち破って、中へはいると同時
に、「-これは?」とばかり、くつがえされた。
 ちょうど、朝は白み始め、嵐も小やみになっていた。ただ見る、広やか
な庭園も、無人の妻戸妻戸も、閑寂な寺院に似て、しっとりと濡れ沈み、
取り散らされた跡はない。
 夜来の強風に、振り落された木の葉はいちめんだが、車寄せの敷砂や、
物蔭の土には、箒目(ほうきめ)のあとすら見え、優雅な人でもなお住ん
でいるかと思えるほど、きれいであった。
 「・・・・・これや、どうだ?」
 かれら東国育ちの荒武者には、義経が、古巣の跡もきれいに掃除させて
去った気もちなどは、おそらく理解しえない行為だったにちがいない。
  やがて、狐(きつね)につままれたような顔して、館の室内まで踏みは
入って行ったが、どこの部屋にもチリさえ見えず、文書(もんじょ)はお
ろか、反古一枚、残されてはいなかった。
 「なんと、用心のよい九郎冠者」
 かれらは、舌打ちしてそういった。義経の所行(しょぎょう)を、ただ
後顧(こうこ)の用心と、解(げ)したのである。
 その間に、兵は朝飯にとりかかった。すると、またたくまに、内も外も、
馬糞(ばふん)と土足と、焚火の煙で、埒(らち)もない泥ンこになって
しまった。
 洛中ではけさからもう、さまざまなうわさをたてて噪(さわ)いでいた。
それの代表的なのは、
 「頼朝公の代官として、北条時政どのが、はや、軍勢とともに、上洛さ
れたそうな」
 という声だった。
 当然北条時政もやがて来るだろうが、この朝着いたのは時政ではない。
だが、小山、結城などという鎌倉大名格の武将を、都ではたれも、名さえ
知る者はなかったのである。

 小山、結城の二将が、焚火(たきび)に袖を乾かしながら、兵糧(ひょ
うろう)を摂っていると、そこへ部下の兵が、
 「ただ今、摂津表(せっつおもて)から、継早馬(づぎはや)の急使が、
これへ着きましたが」
 と、表から知らせて来た。
 「おう、待ちかねていたところだ。すぐ通せ」
 会ってみると、使者と称する男は四名で、-おとといから前夜にかけ、
義経主従の西下を阻(はば)めて、大物(だいもつ)の浦まで追いつめた
が、ついに、その目標を海上に取り逃がしてしまったと悔(くや)む―摂
津源氏の侍たちであった。
 かれらは、口をそろえて、ここ二日間にわたる大物の戦況を述べ、また、
いかに自分たちが、鎌倉どのの命に忠実であったかを、知ってもらいたい
ように、
 「さいごとなって敵を海上に逸(いつ)したのは、なんとも、残念至極
ですが、しかしきのうから今暁までの大風浪、義経以下も、よもややすや
すと、あの荒海を凌(しの)げたとは思われませぬ。・・・・・で、以後
の模様は、追っつけこれへ、またの早馬があるはず。しばし、次の知らせ
をお待ちくだされい」
 との口上であった。
 もう巳(み)の刻(午前十時)は近い空。-さしもの暴風雨(あらし)も
やんで、棚引(たなび)きそめた雲の切れ目から、青い空の肌が見え出し
ていた。
 「やあ者どもっ、再び、すぐここを出立するぞ。用意用意」
 二将は、床几を突っ立って、辺りの兵へ呼ばわった。どんなに速い継早
馬にせよ、摂津からの報告を、ここで待つのはもどかしすぎる。
 また一刻もはやく、義経主従の行方をたしかめねばと、それにも心が急
(せ)かれたにちがいない。 
 かくて、この一隊が鳥羽(とば)、伏見(ふしみ)辺まで馳けてゆくと、
途上で、多田行綱の連絡兵と行き合った。
 その兵たちは、二将に出会うと、口々にわめき告げた。
 「今暁、判官以下の諸船(もろぶね)は、おりふしのやまぜに出遭(で
あ)い、明石の海峡には向かい得ず、東へ押し流されているうちに、どう
やら、難破(なんぱ)したらしいと、浦人(うらびと)どもの取沙汰にご
ざりまする」
 と聞いて、結城、小山の将士たちは、手をくだして得た勝利でもないが、
思わず、わっと声を合わせて、
 「さてこそ、やはり難破したか」
 と、どよめき合い、
 「判官以下すべて、海の藻屑(もくず)と化したなら、仔細はないが、
和泉、紀州の岸辺へ、漂い着いた船もあろう。即刻、浦々の詮議(せんぎ
)を密にせねば」
 「そうだ。急ごう」
 淀の東岸をとり、河内路を馳けるうちに、一刻一刻、義経遭難のうわさ
は、単なる憶測でないことが、いよいよ、確実視されて来た。
 豊島冠者(としまのかじゃ)、太田太郎らの手勢とも途中で合(がつ)
し、また、多田蔵人(ただのくらんど)も、高瀬ノ郷(守口附近)で、こ
の鎌倉勅命の派遣軍を、うやうやしく、待ち設けていた。
 すでにして、六日の日も、暮れかけて来た。
 きのうの夕、きょうの夕、なんという違いだろう。余りにも皮肉なほど、
今日の暮色は美しい。
 大淀の水だけは、まだ、満々と黄色く濁ってはいるが、群(む)ら鳥(
どり)の姿といい、遠くに夕映えている難波潟(なにわがた)の凪(な)
ぎといい、けさまでの暴(あ)れは、何か、嘘(うそ)のようであった。
 -もし、きのうがきょうであったら。
 と、どこかで、たれかは、この夕空をながめて、悲痛なうらみを、眸(
め)にこめていたことだろう。
 「船も、数ある船。そのすべてが、みな沈んだとも考えられぬ―必定、
どこかの岸に、漂い着いた生き残りもあろうというもの、万一にも、その
中に、九郎判官が生きていたら、御辺たちのこれまでの働きも、水の泡だ
ぞ。いや逆に、鎌倉どのの御叱責(ごしっせき)をうくるやもしれぬ。-
ただちに、手分けして、浦浦の漁村はいわずがもがな、塩焼きの小屋、藻
屑舟の板子の下まで、くまなく詮議に取りかかれ」
 小山朝政(ともまさ)は、鎌倉どのの命として、土地(ところ)の武者
たちへ、厳重にいい渡した。もちろん、それにはかれ自身の兵も加わった。
そして同夜から、沿岸地方のいたる所では、義経一類の漂着者もあらばと、
網の目のような捜査が始められていた。

 瞑 々 離 々(めいめいりり)

 義経や静や、また、そのほか股肱(ここう)の郎党たちは、どうしたろ
うか。
 -それを知るには、もいちど、夜明けて間もない朝のころに戻って、あ
の風浪瞑々(ふうろうめいめい)の海に、ぐるぐるもてあそばれていた十
数艘の破船の行方を捜(さが)さねばなるまい。
 いや、濛々(もうもう)たる狂瀾(きょうらん)の沖に、どれも傾いた
いた船影の点々が、微かにでも、見えていた時分は、まだよかったのだ。
 あれから、まもなく―
 すべての船影は、荒海のどこかへ、のまれ去っていた。全部が全部、砕
け散ったか、覆没(ふくぼつ)したか、であった。とまれ一艘も見えなか
った。
 例外として、わずか一、二隻が筏(いかだ)のような変り果てた船体と
なって、遠い紀州沖の方へ、流されて行ったのを見たという漁夫もあるが、
それとて、人がそれに残っていたかどうか、またその行方とて、おぼつか
ないものであった。
 なお、ほかにも。
 船の沈む直前、小舟へ飛び移って、漂い漂い分かれた幾艘かがあったの
は事実だが、それらの小舟や、また、われから身を荒波と浮木にまかせて、
泳ごうとした人びとなども、果たして幾人が、万死に一生を得たろうか。
 その果て、その運命は、ただ神のみが知る、というほかはない。
  ここに、泉州住吉ノ浜の、住吉神社の宮司に、津守国平(つのかみのく
にひら)という者がいた。
 六日のその朝。-かれはいつもの例をたがえず、早暁に、住吉四所(し
しょ)の、それぞれの御社(みやしろ)を巡って、拝殿のつとめを終え、
そして、連れている神官や神舎人(かんとねり)をかえりみて、
 「いや、えらい風雨であったの。松すら、根こそぎ、吹き倒されている
のが多い。おそらく、玉垣(たまがき)や楼門などの破損もあることじゃ
ろう。一応、見まわっておくように」
 といいつけた。
 それから間もない後だった。
 若い神舎人(かんとねり)の四、五人が、低く飛んだ白鷺(しらさ
ぎ)のように、裏の波打ち際から、境内の北隅にある社家の方へ走っ
て行き、そこで大声を上げていた。
 -と、すぐ何事か、あわただしげに、国平や子息の魚麻呂(うおまろ)
までが、白丁の者と一しょに、浜べへさして、馳け出して行った。
 「おう?・・・・・・・・。これは」
 国平も魚麻呂(うおまろも)も、辺りを見て、立ちすくんだ。
 一艘の小舟が打ち上げられていた。
 舟に人はなく、そこを離れた数歩の砂上に、五人の女房たちばかりが、
潮(うしお)びたしとなったまま死人のようにたおれている。
 「やれ、あわれ」
 国平は、舎人(とねり)たちを急(せ)きたてて、介抱させ、すぐ社家
の方へ運ばせた。そして、何思ったか、舟は波間へ突き出して、わざと沖
へ流してしまった。
 かれは難波(なにわ)の古い土豪であり、官職名も持ち、その社家は、
館といえるほど大きかった。-救われて来た女房たちは、われに返ると、
 「ここは?」と、辺りの壁代(かべしろ)や火桶(ひおけ)を見まわし
ながらも、恐ろしい海の怯(おび)えから、なお容易には、醒(さ)めも
しない容子であった。
 「もう、案じぬがよい。ここは住吉の浦、わしは宮司の国平。そして、
あなた方のお身の上も、伺わずとも、分かっておる」
 嘘ではない。ここ二日ほどの淀や難波の騒ぎは、国平も当然、耳にして
いたところだった。-で、かの女たちの砂上の姿は、それを見たとたんに、
「さては・・・・・・・」と、かれをして、義経の主従の遭難を、すぐ思
い当らせていたのである。
 そしてまた、かならず摂津源氏が、この附近へ、詮議に来るであろうこ
とも、想像された。-小舟を沖へ、突き流したのも、国平の後の用心であ
ったのだ。
 それにしても、女性(にょしょう)ばかりで、あの小舟があやつれるわ
けはない。櫓(ろ)を把(と)っていた男たちは、どうしたのか。
 国平が、そのことを訊(たず)ねても、かの女たちからは、なんの答え
も出なかった。すでに自分たちが、親船から小舟へ移された時に、半ば意
識を失っていたからである。
 ただようやく、人心地に立ち返ると、
「北の御方(百合野)は、どう遊ばしたやら」
 「静さまは?」
 とそればかりを思い出して、さめざめと泣きだした。

 予期していたことだった。
 六日の夜である。
 馬のいななきが聞こえ、楼門(ろうもん)の朱(あけ)が、松明(たい
まつ)のいぶりに、ゆらと浮いた。-と思うまに、どやどやと一小隊の将
士が、国平の館をたたき起こし、何事か、いかめしい押問答を交わしたう
え、手分けして、境内四所の拝殿から、社家の隅々まで、家探(やさが)
ししたあげく、
 「はて、漁師の言では、たしかに、この浜近くで、漂う小舟を見たとい
うのだが?」
 と、いまいましげなつぶやきを吐き捨てて、やがて、しぶしぶ立ち去っ
た。
 それから、幾刻(いくとき)たったろうか。もう、どこの棟(むね)も
寝しずまったころ、再び、社家の垣(かき)の戸を、ほとほとたたく者が
あった。
 「お近く住む、渡辺党の渡辺番(つがう)と申す者で」と、その男は、
忍びやかに名のり「-国平どのに、そっと、お顔をかして賜わりたい」と、
頼んでいた。
 渡辺党の者と聞いて、魚麻呂(うおまろ)が父に代わってかれに会った。
 番(つがう)は言う。-自分は兄の眤(むつる)やその他の者と、小舟
小舟に乗り分かれて、義経の船が沈む真際に、武者や小女房を助け乗せ、
必死に、岸へ漕(こ)いでいた。
 が、小舟も危うくなり、武者はみな、素裸になって、海中へとび入った。
 女房たちには、それもできない。-ただ風浪にまかせているうち、住吉
ノ浦へ、打ち上げられた。
 しかし岸には、べつな恐れが待っている。夜来の敵が、浦づたいに、捜
査の眼を光らして来ることは必然だ。-で、女房たちを海辺に打ち捨て、
知人の船持ちへ、当座の隠れ小屋を借りるために走って行った。
 「じつは、その間に、お救いの手を賜わって、女房たち皆、あたたかな
お匿(かく)まいに会うた次第でざりました。-つい先刻も、ここへ来た
詮議の者へ、実(じつ)をお知らせなきのみか、追っ返された御様子を見、
やれありがたし、われらをお庇(かば)いくださるお心よと、かくは、お
礼を申しあげに、名のり出たわけにござりまする」
 魚麻呂は、いちど、父の寝所へ、退がって行ったが、やがてまた、かれ
の前に姿をみせて、何かと、宥(いたわ)り励ましたうえ、こう告げた。
 「女房たちの身は、詮議のほとぼりがさめたころ、当家の手にて、それ
ぞれ都の身寄りへ、密かに、送り届けてつかわしましょう。それが、いち
ばんよい策と、父も申しまする、其許(そこ)には、其許の身一つを、い
ずこへなと、お匿(かく)しなさい」
 「かたじけない御意。仰せにて、安堵(あんど)いたしました。では、
人目にかからぬうちに」
 「これから、どちらへおいでですか」
 「兄の眤(むつる)とも、海上で迷(は)ぐれ、また何よりは、心がか
りな君のお行方をも」
 「源判官どのの?」
 「お察しの通りでおざる」
 「では判官どのは、まだどこかに」
 「されば、小舟の一つに、跳び移って、からくもおぼるる難は遁(のが
)れ給うたりーと見えましたものの」
 「ならば必ず生きておわそう。-父の国平が、密かな御同情を寄せてお
るも、じつは、御離京の日の 
 源廷尉(げんていじょう)のなされ方。あの、ゆかしさ、きれいさ、そ
れが、心にあったからです。神かけて、わたくしも、判官どのの、おつつ
がなきを、朝夕祈っておりまする。
 番(つがう)は、励まされて、外へ出た。
 そして深夜の道を、あてもなく歩き出した。あてはないが、注意ぶかく、
避けるものは方々にあった。入江の橋際だの、街道の辻などに、屯(たむ
ろ)している首猟人(くびかりゅうど)たちの火であった。
 冬田の畔(あぜ)、裏道、藪(やぶ)道、かれにとっては、なんのけじ
めもつけてはいられない。ただ、火と人の気を恐れる獣のようにさまよっ
た。-と、そこはどの辺か、とにかく、真っ暗な丘添いの藪かげだった。
 ふと先を見ると、自分と同じような、世を忍ぶらしい人影が、ひたひた
と歩いて行く。さらに、足音を忍ばせて、近づいてみると、一人かと思い
のほか、その男は、もう一名の嫋々(なよなよ)としたものを、背に負わ
ぬばかり肩に扶(たす)けて歩いていた。
「・・・・・おや?」
 と、番(つがう)が驚いたのは、男の肩へまわして扶(たす)けられて
いる手が、夜目にも、白いことだった。



















 


















 今日は気温が25℃まで上がり、夏日となりました。昼間冷房を使用し
ました。夕方、いつものように家を出ると間もなく、多摩川べりの公園に
出ますが、その手前に「新宿高野」府中工場の裏手まで来ると、ボイラー
の操業している音が聞こえ、工場の中では、けーき類などが製造されてい
る模様です。お菓子の甘い香りが外に漂っています。公園ではサッカーの
少年チームが、指導を受けている様子が伺えます。母親も数人我が子姿を
見物していました。
 多摩川の土手に上がると、小さな道路の脇に桜並木が見渡せますが、も
うすっかり花は散ってしまい、こんどは、「ハナミズキ」が若い花を芽吹
かせています。白と朱色系統の二種類が植えられてい、満開時にはこれも
見事です。上流へ向かっていますと、川べりで釣り人の棹が、獲物を捕ら
えたのか、かなりしなっていましたので、急いで土手の下へ降り、行って
見ますと、大きな鯉を釣りあげていました。「すごいですねえ」と声をか
けると、釣り人は「今日は2匹しか釣り上げなかったけど、手元近くまで
持って来れたのは3回くらい」と仰っていました。釣りあげられた鯉は6
0㎝くらいで、撮影の後、鯉は元の川へ放されていました。

        釣上げられた鯉
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  「国立温泉遊楽の里」に行く階段わきのハナミズキ
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   「国立温泉遊楽の里」に行く階段わきのハナミズキ
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       河原の公園で犬の散歩姿も
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 2018年4月9日(月曜日)

 午後、春の風が強く吹いていましたが、散歩をする頃にはおさまり、いつ
もの多摩川の堤防に出ました。土手の斜面では機械で草刈りをしていました。
 またこのところ、春霞で富士山もほとんど見えなかったのですが、本日は
良く見えました。ハナミズキも満開で眼を愉しませてくれました。遠くのグ
ランドでは、サッカーの練習前の柔軟体操する様子、犬を散歩させる人など
で、のどかな風景です。

       富士山はまだ冠雪しているようです。
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 竣工前の新築家屋の前にハナミズキの街路樹が満開です。
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      サッカー練習開始前の準備体操
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          多摩川の堤防
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           犬の散歩風景
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 知り合いの家ですから撮影は問題ないでしょう。

        隣の家の牡丹の花
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      自宅の庭の木瓜(十二一重)も満開
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 生(う)まれ生まれ生まれ生まれて生(せい)の始(はじ)めに暗(く
ら)く、死(し)に死に死に死んで死の終(お)わりに冥(くら)し。

       「秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)」

 無限の輪廻転生(りんねてんしょう)を繰り返す生きとし生けるものは、
悟りに気づかない間は、いくら新しい生を得ても希望が見えない。また、
何度死を繰り返しても、暗闇の中にいる。



 絶望から始まる


 空海の名句の一つとして、古くから人口に膾炙(かいしゃ)してきたこ
の句は、巧みな文章構造とその強烈な思想内容から、人びとの心を揺さぶ
ってきた。
 まず文章構造は、一見して明らかなように、生と死という人間の根源的
な存在変化の二極を単刀直入に対句として設定し、しかも動詞化した二語
(「生まれ」と「死に」)を四度もリフレイン(繰り返し)させる。まさに、
生(なま)の言葉が持つ迫力で私たちの心と身を震わせて止(や)まない。

 一方、その句の意味する内容については、各句の後半にある「生の始め
に暗く」「死の終わりに冥(くら)し」という文脈から、いくら輪廻転生
を繰り返しても、人間に代表される生きとし生けるものは永遠に迷える存
在であり、その背後に厳然と存在するであろう生命の光を見ることはない
という、深い絶望の表現と見做(みな)されてきた。
 空海の幼い頃の学問所とされる讃岐(さぬき)・弥谷寺(いやだにじ)
の陰鬱(いんうつ)とも感じる情景に同句を配したのは、この山が古来、
死霊(しりょう)が集(つど)う聖地とされてきたこととあわせて、若き
日の空海の生に対する絶望と人間の無智に対する厳しい否定を二重写しし
たものである。
 ただし、空海の全体的思想構造から見ると、晩年に自らの思想体系を再
構築した「秘蔵宝鑰」の冒頭に掲(かか)げられたこの句は、直前の「三
界(さんがい)の狂人は狂せることを知らず、四生(ししょう)の盲者は
盲なることを識(さと)らず」に連動する言葉であり、単に人間の生死の
繰り返しに絶望しただけの言葉ではない。
 つまり、仏教の真実、密教の真理に気づかないときにはそうであっても、
ひとたび雲の上にある青空を実見したとき、「我心、自ら証すのみ」すな
わち最終的には自らの自覚に尽きると語っていることを忘れてはならない。

 秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)

 言葉の意味は、秘密の蔵を開く鍵をさす。先に書き上げた「秘
密曼荼羅十住心論」十巻を、三巻に簡略化した。


 弥谷寺(いやだにじ)

 空海の幼い頃の学問所であった弥谷寺(香川県)は、深い霧に包まれてい
た。霧の岩山に建つ多宝塔への道に無縁仏が祀られ、異様な雰囲気を醸(
かも)し出していた。ここは昔から死霊に集う地といわれ、行き倒れにな
った遍路や行者は、この谷にすべて埋められたと伝える。

         弥谷寺(いやだにじ)
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 リモージュより

 
××君

 通信を早々送る筈であったが、種々の刺戟(しげき)を享(う)けると、
考えることも多くなってついつい延引して申し訳がない。日本を出発して
永い航路を終えて、僕の巴里に着いた時は、ちょうど郊外に桜の実が赤く
熟していた時であった。
 巴里につくとその日から食に餓えた者のような心を持って、ミューゼや
美術店に足を運び、感激したり失望したり興奮したりしていたが、少し落
ち着いて習作にでも向かおうとしたら、俄かにこの大騒乱だ。巴里では戦
いが始まると、避難に出る人や籠城の準備を始める人やで、八月五日六日
は実に巴里は意気地なく騒いだ。また途上発狂者や哀れな人々を度々見た。
しかし列国の間に挟まれて普仏戦争の如き苦い経験を嘗(な)めた国民の
ことなれば、寧(むし)ろ至当のことであろう。しかしその当時仏軍が勝
利を得るだろうか、僕には思い及ばれぬ。
 また巴里は、日本で描いていた幻影と異なっているものも多かった。△
君が羅馬(ろーま)から巴里に来ると生き返ったようだと言ったが、一体
羅馬はどれ程眠っているのだろう。殊に日本のように新開地の感じのする
所から出発して、上海、香港、シンガポールなどを航海してきた目には、
いかに巴里が静かな都市であるかを思わせる。俗に不夜城の巴里などと言
っているが、倫敦(ろんどん)から来た人は巴里に来て、その閑静なのに
ホッとしている。夜はカフェー以外の商店は、ことごとく七時過ぎには戸
を閉じて、案外暗い。市街は八月すでに並木の落葉を見る。どこか廃都の
様な感じである。
 巴里はむしろ鎮静していて、勉強するに好い所だと思う。ビール腹を突
き出して靴を引き摺(ず)る男、外套(がいとう)の先を褄(つま)のご
とく端折(はしょ)って俯向(うつむき)勝ちのソルダーに、どこに精悍
のところが見かけられよう。寧(むし)ろ何日も黒味勝ちの衣を纏(まと
)うて燕のごとく飛び廻る女の方が、生き生きとした感じを与える。
 仏国の文明は戦争なぞに驚かされたくないのであろう。巴里が恐怖の巷
となっているのは悲惨である。
 ダヴィンチの『モナリザ』もミロの『ビーナス』も、鋼鉄の函に鎖(と
ざ)されたそうだが今頃はセーヌ河の水底に沈めてあるかもしれぬ、Fut
uristes.が過去の芸術を弔(とむら)わんととしているが、若し弾丸で破
壊されたら、どんなだろう。
 我々外国人はあまりこの頼りにならぬソルダーの力によって、何時(い
つ)まで巴里が安全であるか、今に巴里が包囲されるのではあるまいかと、
杞憂(きゆう)しながら二十日あまりを過ごした。いよいよ巴里が危険に
瀕し、僕がリモージュに逃れて、巴里に独逸(どいつ)軍のボンブの落ち
たのは、それから二三日後の事である。
 この芸術なぞ、人間の生存力には何の力も持っていないではないか。こ
の圧迫してくる力は何物をも火焔(かえん)の中に包んだ。
 最後に巴里を立ち退いた山本君の通信は我々の状況をよく語っている。
 一、大使館にては三ヶ月以後金の供給(これは大使館が一時救助として月
   に百フランずつ貸していた)に全く自信なし。故に各自前後の処置を
   執(と)られたし。
 一、戦況一喜一憂なれど要するに巴里包囲の懸念なき能(あた)わず、
   避難の期を逸せざる様に各自熟慮して、今の内に避難せられたし。
 右二項の申し出あり、種々諮問す。3個月以後補助の能力なしと言うこ
とは断然たる確信に付き、三箇月以後(即ち三百フラン以上)のこと、今よ
り熟考せざるべからず。巴里に金を取り寄せるには日本にて英国銀行に払
い込み、巴里英国銀行に組むの方法(但し三百フランに対して百五十フラ
ン請け取ること)ありと言えど、巴里が戦乱の巷になれば叶うことに非(
あら)ず、戦況は一昨日、一度急を告げたれど、今日はまた小康、但し国
境の砲台一度破るれば、殆(ほと)んど三四日にして巴里に殺到すべし、
しかし巴里市民に立ち退きを布告すべきや実に量(はか)り難し。ブリュ
クセルにては市民に知らせずして、軍政府をアンベルスに移したりと伝う。
もししからば大使館の政府に伴(つ)れて動く時は、既に市外に脱出する
ことの不可能なるやもしれず。これによりて脱(のが)れ得ずとすれば、
市民と共に籠城せざるべからず。即ち籠城を怖るるものは今交通のやや寛
(ゆる)なる間に、安全境に移るべしと言うに有り、英国行きに決せるな
れば今の内巴里に戻り、更に出発せらるべき也。大使館より更に汽車賃は
借り得べしと信ず。また日本に帰る人には船に乗り込むまでは、大使館に
て世話するならん。
 この通信と一便遅れて、『もはやパリに帰ること能(あた)わず。昨夜
ボンブ二個落ち、敵の騎兵はやがてセーヌ河下流に出没せん。巴里市は夜、
燈火を消し愴惨たり』とあった。
 日本人も或いは倫敦に、里昴(りよん)に離散して、巴里陥落を今日か
今日かと杞憂していた。露軍が敵の背後を衝(つ)いたために、独逸(ど
いつ)軍はその一部を割(さ)いて退却したと言うので、ほっとした位だ。
 僕の巴里を発つとき、すでにリュクサンブール公園のマロニエなどは殆
んど凋落(ちょうらく)して、曇ったり照ったり、秋の様な寂しい陰が長
く立木ち縫い、噴水は力無く落ちていたが、リモージュは案外未だ青々と
して、夏の盛りは過ぎてなかった。
  リモージュを地図で見ると、仏国のやや中央に当る高原である。巴里
よりやや南に向かっている。人口は五万の小都会で、ボルドーに次ぐ位の
都会になっているが、一体に巴里、マルセーユ、リオン以下の市街は非常
に小さくって、また穢(きたな)いそうだ。
 そして市街と郊外の間を、低く濁ったオート、ヴェーヌ河が、緩く湖水
のごとく流れて、両岸には赤い屋根の人家と工場が樹木と交叉(こうさ)
して、この河の画趣を増している。そして雨が降っても日が照っても、洗
濯女の絶えないのもこの河に一層の風情を添えている。市にはノートルダ
ム、サン・ラザールの寺院が、目標のごとく聳(そび)えている。町はあ
まり栄えているとも見えない。ただ毛布や陶器の工場と、他に聯隊(れん
たい)と市の周囲を取り巻く広い牧場が、このリモージュの富を支えてい
る。市は穢いが、ノートルダムの内部と牧場は、僕の心を慰めてくれる一
つである。ステンドグラスから漏れてくる光が冷たく石柱に反射して、大
蝋燭(ろうそく)の奥に輝く十字架、錦繍(きんしゅう)の法衣を纏(ま
と)う僧、赤い衣に白い軽羅(けいら)を纏う少年の半僧、緋の服に金糸
を彩(いろど)り槍(やり)を持った老年の聖門の番人、香の匂いに咽び
ながら、祈りと賛美歌に首を垂るる尼。ここにはただ有難がる信仰がある。
 また牧場は日本に見ることの出来ぬ、柔らかな鮮明な草を敷いて、ムー
トンの子を連れて林檎の木蔭に眠っているなぞ、実に可愛らしいものだ。

 来た時は未だ、林檎が緑葉の陰に小娘の頬の様に、紅をしていたが、何
時の間にか黄色くなり、赤くなり、この数日前にもぎ取られた。
この頃は仏国でも稀(まれ)らしい好天気で空の隅々まで晴れて。驢馬(
ろば)の眠いような声を聞き、またノートルダムの鐘がカンカン秋の朗ら
かな空気を渡って響いてくる。
林檎、梨、桃、に次いで、ブドウの収穫がある、やがて葡萄(ぶどう)は
小屋の内で酒に醸(かも)される。
 巴里にいた時は、実に不規則に流れがちであったが。朝起きると十二時
近いことも稀らしくなかったが、リモージュに来てからは、朝のデジュネ
を八時に定めていたので、その時が来ると、マダムが戸を叩いて、カフェ
ーを持ってくる。眠いと思いながら起きる事もある。鎧戸を押すと一面の
霧だ、未だ太陽が朧(おぼろ)に眠そうに霧に隠れている。
パン屋の馬車が鈴を鳴らしながら、パンを配って来る。新聞屋が喇叭(ら
っぱ)を吹いて新聞を売りに来る。朝飯をすますと写生に出かける。遠く
の森がいつの間にか黄色い顔を出している。
 紅葉は日本で見るような滴る血のような紅味はないが、しかしマロニエ、
ポプラ、アカシアが黄色く柔らかに、空に溶け込むような調子をして居る。
間々深紅の蔦(つた)が垣根に燃えて居る事もある。
 リモージュに着いた時は、嫌なところだと思って居たが、馴れるに従っ
てよくなって来た。ジャポネ―ジャボネーも少なくなって、時々絵具函や
画架を運んでくれる。また子供や小娘はモデルにするには至極安価で都合
がよい。僕は牧場で牧童を写生していると、隣の人達が珍しそうに集まっ
て、写してもらいたそうに見える。また木靴を穿(うが)った百姓が、夕
陽を肩に浴びて牛を追って居るなぞは、ミレー、ゴッホの画にある永遠を
意味する自然の姿ではないか。
 せめてここにも半年も居られるとかなり画が出来るのだが。
 僕の室は七坪ばかりの大きさの室にただ一つの窓があるばかり
だ。暗い上に壁紙は禿げて、装飾としてはキリストにマリアの額
がある、それもごく安物の石販刷りの画だ。それと寝台の上に十
字架
があるばかりだ。
外国の室としてはガランとしていて気持ちがいいだけでなく神聖に思われ
る。この室で数ヶ月孤独になって働くと思うと、愉快でたまらない。夜は
疲れて早く眠ることもあるが、大抵十二時近い。今夜は寒いので、暖炉に
火を燃やしてもらい、薪木と木炭のぱちぱち赤く燃え上がる火に足を伸べ
たり、前の毛皮に寝転んでみたりして居る。しかして巴里で見た種々の画
などのことを思い出している。巴里を離れてこうして自分が製作に熱中し
ていると、種々の人の描いた意味がよく分かるようだ。
 君がそれでいずれが一番好いかと訊(き)くだろうがその価値の等級は
解らない、厳密に芸術そのものから考えて来ると、中々批評はなおの事だ。
仏蘭西人の中には今でも、ピサロでなくてはならぬと言っている人もある。
 流派とでもいった風のものは近代になってかなり沢山になった様だ。後
期印象派以後、CUBISTES FUTURISTESPASSEIT
ESその他僕の知らないイズムが沢山にある。しかしそれはどうでもよい
が、仏国の絵界が後期印象派以後も少し内部に(絵画にいわゆる物の内部
外部が絵画の価値になると思わないが)突進しようとしてるのは事実だ。
立体派が目に有る自然の外界を斥(しりぞ)けて自然力に一つの別の形を
与え、力の密集、力の交叉に自然のあるものを捕え、自然の内部性のリズ
ムと合わしようとしているのもその一つだ。それが極端になったものは今
画布に描くのではなくて、木で造った物のもある。マチスなどはまた他の
表現を得ようとしている。しかしマチスは現代の仏国画でとにかく群を抜
いた人であろう。
 しかし出来上がったものとして、セザンヌの静物画位、僕の心を押した
ものは少ない。セザンヌの殊に静物画なぞ写真に撮るなどは既に無謀であ
る。セザンヌは林檎などを写生していると、林檎が腐って来て、取り替え
て写生していたそうだ。画布全面絵具がレリーフの如く盛り上がっている
が、少しの倦怠はなくますます物の量を加えて、一つ一つ明確に捕えられ
る。これ程物体の力を持って進んでいる画は、絵画史あって以来初めてで
あろう。しかしセザンヌの静物画でもこれ程までに緊張したものは少ない。
僕の見た中ではデュランルエルの本宅にある二面の静物と、ペルランのコ
レクションで観た数点である。この度ルーヴルの、ヌーベル・コレクショ
ンに並んだ静物画はこれに比べると見劣りがする。
 セザンヌの静物画から最近のルノワールの静物画に転ずると全く味わっ
た質が違う。血の如きトマト、肉片の如き薔薇、春の叢(くさむら)に眠
ったと思わす雉(きじ)、この自然から発する気分とでも言った風のもの
と、それに誘うシャルムには、セザンヌの静物画と違った味がある。この
意味から見ればセザンヌの画は氷に包まれた石の様だ。モネーは人物でも、
静物でも、風景によって得たリズムを持つ如く、セザンヌの人間も風景も
全く静物である。セザンヌの人物に胸の鼓動を聞こうとしても無理だ。牛
の存在は確かだが、その牛は動くかどうか分からない。またルノワールの
画は、総てが少女の肉体である。ゴッホの画は思ったより明るい透徹した
明快の色調である。ゴッホはよく色彩についてベナール等に談(かた)っ
ているが、原色と原色と並べたところなぞからゴーギャンがゴッホの画を
新印象派の手法と思ったのであろうが、新印象派ともちろん全然意味が違
っている。
 そしてその色彩は質は違うがある一方の意味から言えば、ルノワールの
持っているようなシャルムを持っていて、実に美しい。一枚の河辺の画の
如き、女の狂乱した如き赤青が燦爛(さんらん)としている。そして河原
は夢の如き赤い緑の草の線が針を植えたように生えている。紺青(こんじ
ょう)の水に秋の空が浸っている。
また火の如く赤きバーミリオンとガランス、クロムイエローで搔(か)き
廻したような自画像があるが人間の親しみと強烈とを持って居る事は、こ
れ位強い感じを与える画も少ない。若し画に象徴と言うなれば、ゴッホは
最もそれに当たる人であろう。しかしゴッホの象徴は現実を迫った象徴で
ある。セザンヌの画には地から盛り上がったような充ちた力があるが、ゴ
ッホにはそれはない。中にはかなり力の欠けたものもあるが、セザンヌの
持たぬものを持っていて、そしてセザンヌの持つクラシックは根底にない。
彼こそ自ら生まれた画家である。
 モネのリュクサンブール美術館にある『本寺』は矗々(ちくちく)とし
て泰山の聳える如く、海は底から湧き返っている。モネの開拓した事業は
光波ばかりでなく、細部を弾(はじ)き出して大きな調子を
 極めた。モネ、ゴッホは、まったく訥弁(とつべん)の雄弁を持って進
んでいる。
 なんだか思った事を少しも語っていない様な気がするが、夜もだいぶん
更(ふ)けて焚火もとろとろとなったから失敬する。
  そして僕は今日突然この家の人々が一家を挙げて巴里に行く事を聞い
た。炉端で栗でも焼ながら、戦をよそに寂しい冬を迎えるのを楽しんで居
たら、それも駄目になった。また我々が巴里に帰ったって、いつまた逃げ
なくてはならんか知れん、それに美術館も観る事も不可能だし、まあ画室
の壁でも見て暮すのだね。

 今朝島崎君はボルド-に向かって出発した。僕は今夜十一時半の最終列
車で巴里に帰る事になっていた。島崎君を停車場に見送って宿に帰ると、
巴里から宿に電報が来ていた。今日は兵隊輸送のため汽車が遅れるしまた
混雑するから、明日の晩立ったがよかろうと言う意味である。で僕はまた
一日延ばす事になったので、一寸この通信を書いて送る。昨日は荷物拵(
こしら)えやら、ソグコンデュイを警察署に貰いに行ったり、マガザンで
買い物をしたり、またリモージュで知り合いになった郵便局やカフェー店
に行ってお別れを告げたりしたが、生憎(あいに)く昨日も雨天で道が悪
くて閉口した。それにこの頃こちらは四時半に暗くなるので、かなり忙し
い思いをした。
 オテル・ド・ビルに行くと、係官がどこかに出かけて居ない。何時帰る
か分からないと言う風な、驚くべきほど呑気なのだ。それに戦争のためい
ちいちこの通行券が無くては行動が出来ないので、至極不便、不自由であ
る。やっと用事を済まして、ビエンヌ河畔に暫(しばら)く立って居た。
これがリモージュの一生の見納めかと思うと、いい気持ちはしない。オー
トビエンヌの濁流も雨で一層の風情を添えている。両岸の木立はもはやす
っかり落葉して、冷たい石造の家が露出し、遠くの丘は淋しく蹲(うずく
ま)っている。プラタンの葉が銀杏葉(いちょうは)の如く散って、なん
という寂寥(せきりょう)の感じであろう。
 ビエンヌ河には驚く程大きな石橋が架かっている。地軸から生え上がっ
た様に築かれている。僕は通る時に杖で石を叩いて見る事がある。この橋
ならば世の終わりまで永遠にこのままの姿であるだろうと思う。
一体に橋だけでなく、こちらの建築は僕なぞの眼に馬鹿馬鹿しいと思われ
る位、頑固に出来ている。室の寝台でも椅子でも小さな兎小屋まで。これ
から思うと日本の物は吹けば飛びそうに思われてならぬ。
 これは建築ばかりでなく、文芸なぞにもこの欠点を多く天性持っている
のではなかろうか。また物の組織に立っていることは、そんなに極端に走
った画でもちゃんと出来て居る。この事は外国に来て一番に目につく事だ。
日本も明治以来幾多の預言者らしい人、救世主らしい人、また天才家が出
現しても、時の推移とともに消えるのは種々の理由もあろうが、一方こん
な根底に欠損し停滞して、どうどう廻りをしているではなかろうか。また
日本人の画はどんな作でも単調(モノトーン)だ。細くなればなるほど、
モノトーンが激しくなっている。セザンヌの芸術には、このことが実によ
く確かめられている。物の存在はやがて物の大きさを示している。卓上の
林檎、室内の椅子、その関係が自然のままだ。そして種々の物が集合すれ
ばする程、深められている。
 モノトーンは或る意味では悪いとは思わない。僕は巴里で鈴木春信の錦
絵を見ていいモノトーンを覚えた事がある。しかし大きな芸術を樹(た)
てて行くには、この地盤から盛り上がった、また組織ある中から発育して、
絶えず後戻りせずに歩いて行かなくてはならぬと思う。
 ピサロ位自ら謙遜の心を懐(なつ)いている、自己討究者の画家は少な
かろう。ピサロの画面にはあまりつつき過ぎた結果、モネーの画に見る如
き湧き上がる力に多少かけていると思う所もあるが、全面に満ちた敷きつ
めたものはちょうど小石を固めて堅牢な地盤を築き上げた感じである。
同じ自己討究者でもセザンヌは違う。セザンヌが自己を見出し、
肯定し、大胆な、充溢(じゅういつ)した表現をなすに至ったま
でには、かなり永い歴史を持っているが、他をあまり振り向いて
みていない

更に最後に近づいた折の仕事、『水浴』や『ボアの女』などになっては、
複雑な色を避け単純に向かっている。セザンヌは永い間現実を追求した揚
句、シンボルに入りかけている。この意味は自然は一つのシンボルである
と僕は思う。ピサロには皆世怯(ひる)まず撓(たおま)ず他の人達の感
化を享(う)けつつ、これを移植し、討究している。セザンヌがゴッホ、
ゴーギャンなぞよりピサロの画を愛している事は、セザンヌの画を観、ピ
サロの画を想えば、了解の出来ることだ。
 シスレーは日本人の持っているような所を持っている人だ。情緒的な淡
いところに人を誘えば誘うのだ。
 明日は出発が出来るであろう。巴里がどんな顔をしているかと思う興味
がある。
 (十一月十四日リモージュにて)

 リモージュを出発する夜は小暴風雨であった。停車場の入口には剣付き
銃を持っている番兵がいて、いちいちソフコンデュイ(通行券)を検査する。
巴里に帰る乗客と、兵士で停車場は大変の雑踏だった。そして停車場の各
事務室は赤十字社の救護所になっている。白い衣の看護婦、医者が負傷兵
の着くのを待っている。ぼろぼろの服を着た独逸(どいつ)の負傷兵が担
ぎ込まれた。守護兵、看護卒が彼方に忙しく走っている。カフェー店に入
ると、『牛乳は品切れになりましたが珈琲だけならあります』兵士の群が
幾組もある。ボルドーからの汽車が着いたと思うと、一度に兵士が押しか
けて入って来た。ボルドーからアルザスに向かうのだそうだ。汽車には菊
の花なぞ結び付け、兵士は様々の感慨を現した面を並べている。マルセー
エイズの国家を歌っている。酒をあおっている。もうこれが死出の旅とで
も言った風である。呼笛が鳴ると、どやどやと集まって来たが、中には自
分の客車を忘れてまごまごしているのを友に引きずり上げられる。喇叭(
らっぱ)が鳴るとともに汽車は戦場に向かうかの如く走り出した。
 僕なぞの列車の出たのは十一時半である。泣く子を連れたおかみさんは
夫がの戦場で負傷して入院しているのに会いに行くのだそうだ。また中に
は巴里から落延びて田舎に稼ぎに行っていた売女もいる。巴里についたの
は翌日の十一時だった。平時の二倍の時間を費やしている、オルレアン停
車場に下りたときは雨は粛々(しゅくしゅく)と降っていた、再び見た巴
里は故郷の如く懐かしかった。
 南の田舎から帰ると巴里市の並木は莫迦(ばか)に黒い、鉛色の空、雨
に銀色に潤(うるお)った敷石、冬の寒さが身を刺す様だ。馬蹄は敷石を
敲(たた)いて、緩く走っている。戦(いくさ)の巷(ちまた)から漸(
ようや)く脱したと言う風に商店なぞがまばらに開店している。
 翌日は朝から市街見物に出かけたが、セーヌ河は霧に覆われて、ノート
ルダムが蜃気楼(しんきろう)のように浮かんでいる。太陽は日食のよう
に寝ぼけている。それでも河には呑気に釣りを垂れている人もある。



















 未(いま)だ思(おも)う所(ところ)に就(つ)かざるに、忽(た
ちま)ち三八(さんぱつ)の春秋(しゅんじゅう)を経へ)たり。


       聾瞽指帰(ろうこしいき)」

 思う人(仏)の所へもまだ行けないうちに、早くも二十四年を過ぎてしま
った


 讃岐(さぬき)の善通寺は、空海こと幼名。真魚(まお)が誕生した地
とされ、現在、御影堂(みえどう)と呼ばれる大師堂のある場所が産湯(
うぶゆ)を使ったところといわれている。
 四国八十八ヶ所霊場でも最大の規模を誇り、真言宗善通寺派の総本山と
なっている善通寺のあたりで、今を去ること一千百七十年ほど前に空海が
生まれたとされるのは、おそらくこの地に出身氏族である佐伯氏の氏寺(
うじでら)《私寺》があったからであろう。近世の弘法大師伝には、父・
佐伯田公(さえきたきみ)の法名が善通であったという記述があるが、善
通寺の古文書によると、佐伯一族の善通が先に氏寺を建立していた可能性
が高い。
 四国でも数少ない五重塔も復興して、背後にそびえる我拝師山(がはい
しさん)さんとともに、空海のいのちを今に伝えている、善通寺の伽藍(
がらん)と呼ばれる東院には、樹齢数百年を超える楠の巨木が、今も明る
い四国の日ざしの中で癒(いや)しの木陰を作り出している。

 空海の出発点聾瞽指帰(ろうこしいき)』

 空海が、最初の著作聾瞽指帰(ろううこしいき)』の中で「
櫲樟(よしょう)(楠)日を蔽すの浦」は、やはり讃岐にふさわし
い景観である。
その生まれ故郷の自然描写に続くのが、この一文である。無倫理
・無宗教の段階からまず儒教の世間的常識的な道徳を修め、さら
にそれを超越した神仙の不老長生を目指す道教の段階も修得して、
若くもない二十四歳(「三八(さんぱつ)」)になって、やっと仏
教の教えまでたどり着いたことを回顧的に慨嘆している。
 空海は、大自然の中で聖なるものと一体化し、底から強靭な肉
体とすぐれた智を体得しようとしたらしいが、実は彼の思想行脚
(あんぎゃ)は、むしろこれから先の方が大変であった。仏教の
開祖の釈迦は二十九歳を過ぎてから、「永遠なるもの」に目覚め
て修行を始めたというように、「三八(さんぱつ)の春秋」はゴ
ールを示すよりも、新たなスタートを暗示するものであった。

 善通寺境内の千年杉

 この大木は空海生誕の頃から境内にあったと伝えられ、ご神木
として崇められている。篤(あつ)い信仰に培われた楠(くすの
き)に、永い時空と木の生命力を感じた。


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 聾瞽指帰(ろうこしいき)』

 大学を中退した空海が突然出家者の世界に入った事情を自伝的に
著した戯曲風の思想書。直筆とされるものが高野山金剛峯寺に伝わ
っている(国宝)


 仏

 仏はさとった如来のこと、「ほとけ」は明王なども含む個々の尊格をさし
て区別している。

 太龍寺(たいりゅうじ)の登山道

 太龍寺(徳島県)は標高六〇〇メートルの大滝嶽(たいりょうのたけ)にあ
る。険しい山道は千年杉の森と絶壁を越え、太龍寺の大きな石垣に辿り着く
。都から帰郷した空海がここで修行に励んだのが、寺の始まりと伝える。

      太龍寺(たいりゅうじ)の登山道
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 大滝嶽(たいりょうのたけ)舎心(しゃしん)修行場

 太龍寺の南西、そそり立つ絶壁の一角に平らな大きな岩盤があり、
十九歳の空海はここで百日間にわたって虚空蔵求聞持法(こくうぞ
うぐもんじほう)を修行したと伝える。修行中に悪龍が襲い掛かり、
空海は天から飛沫した宝剣で悪龍を封じ込めたといわれている。

 

  大滝嶽(たいりょうのたけ)舎心(しゃしん)修行場
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 虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)とは

 虚空菩薩の「虚空」とは無量の意で広大無辺の福徳・知恵の功
徳を蔵する菩薩。梵名アーカーシャガルバ、虚空菩薩の経典と信
仰 虚空蔵菩薩の信仰は虚空蔵求聞持法が8世紀初め頃伝えられ
てから盛んに信仰される。
虚空蔵求聞持法は虚空菩薩を念じて記憶力を得るもので、空海の
「三教指帰(さんきょうしいき))」に、この真言百万遍を誦すれ
ば大変は暗記力を得られるとあり、空海もこの修法をされました。
智慧や暗記力ばかりか、あらゆる財宝を得られる功徳、所願成就
の功徳があるとされ、日蓮は12歳の時(日本第一の智者となさ
しめ給へ」と21日間願掛けされて虚空菩薩様から宝珠を頂かれ
ました。
 「虚空菩薩経」は虚空蔵菩薩が神力によって衆生の罪を救うお
虚空菩薩像の形 五仏坐像を付けた五仏宝冠を頂き、左手に福徳の如意
宝珠か宝珠を乗せた蓮華をもつ。また、右手に知恵の宝剣を持つお姿もあ
る。虚空蔵求聞持法の本尊は左手に宝珠乗せた蓮華をもち、右手は与願印
を結ぶものが多い。密教では平安時代後期以降、増益、息災の修法に用い
られた五大虚空菩薩像が造られた。功徳は智慧明瞭、学徳増進、記憶力増
進の功徳があり、受験合格の菩薩として近年信仰を集めるばかりか転変怨
敵退散、安産、罪障消滅、除病息災、福徳授与、丑年生まれ、寅年生まれ
十二支守り本尊の功徳がある。

 「虚空」とは
 
 真言密教ではその「虚空」にこそすべてのものが収められており、虚空
蔵、虚空庫菩薩がいると述べています。

 「求聞持(ぐもんじ)法」とは

 密教では物質の構成要素として地・水・火・風の物質生を考え、そこに
無尽(融通無碍)に浸透している、虚空(空・エーテル・氣)を考えまし
た。(五大)

 弘法大師空海は、その虚空の空間に入ると「五大に響きがあり、十界に
言語を具す(物質と精神には響きがあって、それぞれに言葉を用意してい
る。声字相義)」と述べています。

 想像の波動として、宇宙に鳴り響いている宇宙原音に意識を合わせた行
者は、その音を直ちに自分の理解できる言葉として聞くことが出来る」と
述べています。

 善無畏役「虚空蔵菩薩能満所願景勝心陀羅尼求聞持法」の中に
 「一経耳目文義俱解。記之於心無遺忘」とある。お経を一度見
聞きすることがあればお経の意味を理解することができ、長く忘れる事が
無い。

 御大師様(弘法大師空海)の「三教指帰」に
 「爰有一沙門。呈余虚空蔵求聞持法。其経説。若人依法。誦此真言百万
遍。即得一切教法文義を暗記」
 (一沙門より虚空蔵求聞持法を授かる。法に依って此の真言百万遍を誦
すれば、一切の教法の文義を暗記することを得)。

 「若能常誦此陀羅尼者従無始来五無間等一切罪障悉皆消滅・・・・」
 (若し能く常にこの陀羅尼を誦する者は、無始より来たる五無間等の一
切罪障は悉く消滅す・・・・)等など。

 「三教指帰」に「阿国大滝嶽躋攀ち、土州室戸崎に勤念す。谷
響を惜しまず、明星来影す。」
 お大師様(弘法大師空海)が求聞持法を修されたことが書かれて
おります。

 御真言(マントラ)壱百万遍、お唱えします。どんな御真言かと
いいますと、虚空蔵菩薩の御真言です。御真言はウボウアカシ
ャ ギャラバヤ オンアリキャマリボ(ウ)リソワカ
と言います。

 壱百万遍を壱百日間で唱えるとすると一日、一座地一万唱えし
ます。または五十日、七十五日間などもあります。五十日間で修
行する方が多いようです五十日間ですと。一日、二坐(二回拝む)
一座一万遍
で二万遍になります。一座終わるには個人差が有りま
すが五〜六時間程かかります。いろいろ細かいきまりがあります。

 [行者用心(密教事相体系、高井観海)]

 行者は修行中他の請待を受けず、酒、鹽(しお)の入りたるも
のを食はず、惣じて悪い香りのするものは食はず、信心堅固にし
て、沐浴し、持齋生活し、妄語、疑惑、睡眠を少なくし、厳重に
には女人の調へたたものを食はず、海草等も食はず、寝るに帯解
かず茸等食ふべからず、但し昆布だけは差し支えなしと云う、要
するに婬と、無益な言語と、酒と疑心と睡眠と不浄食・韮(にら
)大蒜(にんにく)等臭きものを厳禁せねばならに。浄衣は黄色
を可とする。どんな場所が良いか経中には、(空閑寂静の処、或
いは山頂樹下・・・・・・其の像、西域は北へ向かう・・・・・
)見晴らしが良く東。南(西も開けていれば最上)は開けている。
修行者は東方または南方へ向かう。これは名声を虚空菩薩の化身
とし拝むためです。

 道場は御大師様が修行なされた徳島県阿南市、太龍寺。室戸岬
の御厨戸、神明窟や広島県宮島、大聖院(だいしょういん)、和
歌山県、高野山真別所。奈良県吉野、宝寿院。香川県長尾町、当
奥の院等々。

 室戸の窟(いわや)

 室戸岬(むろとざき)は、空海が一心に虚空蔵求聞持法(こく
うぞうぐもんじほう)を修した霊跡。海上に突き出したこの地は、
修行し、観想するにふさわしい。室戸の窟〔御蔵同(みくらどう
)〕には今も空海を偲んで多くの巡礼者が訪れ、祈りを捧げてい
る。

         室戸の窟(いわや)
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 虚空蔵求聞持法とは

 「時に一沙門有り、虚空蔵求聞持法を呈示す。其の経に説く。
若し法に依りて此真言此一百万遍を読めば、即ち一切教法の文義
の暗記を得ん。是に於いて大聖の誠言を信じ、飛焔を鑽燧(さん
すい)に、望み、阿波國大瀧之嶽にはんせいし、土佐國室戸之埼
に勤念す。幽谷は聲(こえ)に応じ、明星は影を来(きた)す。」

 山中に篭(こも)り、虚空蔵菩薩の真言(ウボウアカシャギ
ャラバヤ オンアリキャマリボ(ウ)リソワカ
を百万遍唱えれ
ば一切の経典の意味が心の中にはいり、その智恵を得ることがで
きる。という教えを聞き、大師は太龍の岳や室戸岬に篭(こも)
りました。

 「大聖仏陀の神聖な言を信じ,木鑽によって火をおこす時のよ
うに休まず努力し、阿波國の太龍寺(徳島県阿南市加茂町丹生谷)
の山にのぼり、土佐の室戸埼(高知県安芸郡室戸崎)に修禅した。
幽谷は私の声に応じ響き、
明星は空に出現した。」
太龍の岳は四国の深い山の中にあります。捨心岳からは淡路本州
を望める高台であり。室戸岬は太平洋の怒濤の激しい絶勝の地で
す。

 弘法大師は山岳で苦行練行する近士(ウバソク)として虚空蔵求聞
持法を行い、自然の中に宇宙の生命と交流し、大日如来と入我我入
し、仏教の神髄を極めようとしたのでした。遺告諸弟子等にいう。
近士(ウバソク)と成って名を無空とす。
名山絶之処、嵯峨弧岸の原、遠然として独り向かい、淹留苦行す。
或ひは阿波の大瀧嶽い上って修行し、或ひは土佐戸門崎に於て寂
暫す。心に観ずるときは明星口に入り、虚空蔵の光明照して来て
菩薩の威を現わし、仏法の無二を現ず。
厥の苦節は即ち厳冬の深雪には藤衣を被て精進の道をし、炎夏の
極熱には穀を断絶して朝暮に懴悔すること二十の年に及べり。」

 虚空蔵求聞持法

 虚空蔵菩薩は、無限にして無辺、同時に全宇宙にあまねく、福
徳と智慧とを蔵する菩薩といわれる。
まず、最初に自ら虚空蔵菩薩の画像を描かねばならない。次いで、
その画像を閑静な場所を選んで掛け、修行に入る。修行は、陀羅
尼、

 ナウ ボウ アキャシャ ギャラバヤ オン アリキャ マリ
ボリソワカ

     (華鬘蓮華冠をかぶれる虚空蔵に帰命す)

をなんと百万遍唱えつづけなければならないのである。
陀羅尼読誦の回数を絶対に守らなければならず、回数の変更はも
とより、一遍でも足らなければそれでおしまい。しかも、それを
百日間ないし五十日間で終わらなければならないから、行者に掛
かる負担は凄まじいものになる。
同一の陀羅尼をほぼ無限に近い回数にわたって唱え続けてゆくこ
とから生ずるであろう精神状態が、ともすれば常軌を逸してしま
う確率が非常に高いことは想像に難くない。事実、中世の密教寺
院の中には、虚空蔵求聞持法を破壊僧の清行、すなわち粛清にい
わば転用したような事例すら見出せる。
実際、その際の修行者の死亡率がなんと五割に達したという驚く
べき叙述の古文書もあるという。

 かくて、五十日ないし百日間で、陀羅尼の読誦が百万遍に満ち
たならば、牛蘇加持法という秘密の行法を遂行する段取りになる。
その日は日月食にあたることが条件で、牛乳を煮詰めて作った
、今日のチーズかバターのようなものを銅製の器に入れて、密
教寺院で護摩を焚くときに用いる乳木を以って、その牛蘇を攪拌
しつつ、陀羅尼を唱えてゆく。そして、牛蘇に気・煙・火のうち、
いずれかの相が生ずれば、その時求聞持法は成就されたとみなさ
れ、神薬となった牛蘇を服用すれば、たちどころに抜群の記憶力
を得て、限り無い智慧を獲得できるという。
以上が虚空蔵求聞持法の大略だが、空海の場合、最後の牛蘇加持
法を修めた形跡は見当たらない。その代わりに、空海には口中に
明星が飛び込む神秘体験が起こり、このことをもって虚空像求聞
持法は見事に完遂されたのである。










































 今年一番の高い気温が予想されています、13時頃で24.3℃で
したからもう少し上がるかもしれません。
 午前中府中市役所に行ったときに、市役所のわき道に、「野口仮屋
伝説」という案内板がありましたので、メモをしてきました。

 野口仮屋伝説

 住吉、武蔵国を開発された大国主命が初めてこの府中に御光
臨になった折、ある民家に一夜の宿を乞うたところ、すげなく
断られ、次に野口家(今
の御仮屋)にと参り宿を乞うたところ、その
晩はちょうど妻が出産中であり、お産のけがれを申し上げたところがお
産は決して忌(い)まないとのことであったので、丁寧に御待遇申し上
げたのが「野口仮屋の饗膳勧盃の古式」の縁起で、例年大國魂神社例大
祭当日5月五日の午後八時頃行われる。

 饗膳勧盃の古式

 毎年例大祭当日午後四時本殿を発御した八基の御輿が御旅所
に着御し、同所の神事がおわり、宮司以下神職、供奉神人一同
は、高張金棒に先導され、野口仮屋神道を西より入り、当仮屋
に着く、野口主人は一同を迎え宮司以下は同座敷の東側より南
面し、流れ方式に野口主人に相対し列座する。
野口主人の接待にて茶・粽(ちまき)・濁り酒・冷酒・赤飯・
芥等の饗応をする古式を野口仮屋饗膳勧盃の古式と称する。
      野口仮屋主人

            野口仮屋
CIMG0074



































          野口仮屋伝説書
CIMG0075

































 46 大義禅師(たいぎぜんじ)に問(と)う

 上堂。挙。昔日大義禅師問ニ鵝湖和尚-、欲界無ㇾ禅、何
修ニ禅定-。鵝湖云、汝只知ニ欲界無-ㇾ禅、不ㇾ知ニ禅界無
-ㇾ欲。大義無ㇾ欲。大義無ㇾ対。師拈云、七顚八倒用、
無ㇾ欲無ㇾ禅、両不ㇾ真、識ニ取妄真同二妄-、夜深方見ニ
把針-。




 上堂(じょうどう)。挙(こ)す。昔日大義禅師(そのか
みたいぎぜんじ)、鵝湖和尚(がこおしょう)に問う、「欲
界よくかい)に禅(ぜん)なし、何(なん)ぞ禅定(ぜんじ
ょう)を修(しゅ)するや」。鵝湖(がこ)云(いわ)く、
「汝(なんじ)、只欲界(ただよくかい)に禅なきことを知
って、禅界(ぜんかい)に欲(よく)なきことを知(し)ら
ず」。大義対(たいぎこたえ)ない。師拈(しねん)じて云
(いわ)く、七顚八倒七顚八倒拈(しちてんばっとうねん
)じ来(きた)って用(もち)う。欲無(よくな)く禅無(
ぜんな)き、両(ふた)つながら真(しん)ならず、妄真同
(もうしんおな)じく二(ふた)つながら妄(もう)なるこ
とを識取(しきしゅ)せば、夜深(よふ)けて方(はじ)め
て把針(はしん)の人(ひと)を見ん。

 訳文

 上堂。公案を挙して示された。昔、(ある僧が)鵝湖大義禅師
(がこたいぎぜんじ)に質問した。「欲界には禅がないのに、
どうして禅定の修行をなさるのですか」。鵝湖が云うには、「
お前はただ欲界に禅がないとだけ知って、禅界に欲がないのを
知らないな」。(僧は)何とも答えることができなかった。これ
に対し、師は次のように云われた。坐禅は、七顚八倒する欲界
の只中でこそ行ぜられるべきものである。欲界に禅がないとい
うも、禅界に欲がないというも、二つながら誤りである。真と
妄、禅と欲を対立させてみるのは、二つながら誤っていること
が分かって、はじめて仏法を行ずる人が見えてくるのである。

 語義

 大義禅師(たいぎぜんじ)鵝湖和尚(がこおしょう)に問(
と)う


 大義禅師と鵝湖和尚は同一人。馬祖道一(ばそどういつ)の
法嗣(ほっす)、鵝湖大義(745ー818)、「伝統録」(巻
七、鵝湖大義章)には、「一法師有りて問う」とある。それゆ
えに、訳文は一法師と鵝湖大義の問答に本文を改めて、その意
に解した。

 欲界(よくかい)に禅無(ぜんな)し

 欲界は、淫欲(いんよく)・物欲を中心とする世界。ここに
おいては、禅定修行は行なわれない。欲の除かれた色界におい
ては四禅定(しぜんじょう)が、さらに物質的なものがなくな
った無色界においては四無色定(しみしきじょう)が行なわれ
るというのが、仏教の三界説である。

 把針(はしん)の人(ひと)

 針をとる人。縫い合わす人。ここでは、欲界と坐禅を一つに
結ぶ人。

 付記

 仏教の三界説によれば、色界・無色界には禅定が修せられる
が、欲界には禅定の修行は行われないのである。僧は、この三
界説を踏まえて、欲界に坐禅する大義に疑問を呈したのである。
これに対し、大儀は座禅は欲界・色界・無色界を超えたもので
あるから、色界の四禅定、無色界における四無色定とは意味が
異なるものであって、従って坐禅は欲界において行ずることを
妨げない、と示したのである。しかし、道元はこの大義の立場
をさらに徹底して、欲界が坐禅を行ずることを妨げないどころ
か、七顚八倒(しちてんばっとう)するこの欲界こそ坐禅を行
ずる真の世界である、と示したのである。

 47 永平(えいへい)にこの単伝(たんでん)の句(く
    あり

 上堂。永平有ニ箇単伝句-。雪裡梅花綻ニ一枝-、中下
 不ㇾ信、上乗菩薩信無ㇾ疑




 上堂(じょうどう)。永平(えいへい)にこの単伝(たんでん)
の句(く)あり、雪裡(せつり)の梅花一枝綻(ばいかいつし
ほころ)ぶ、中下(ちゅうげ)は多(おお)く聞(き)いて
(おお)く
信(しん)ぜず、上乗(じょうじょう)の菩薩(ぼさつ)
は信(しん)じて疑(うたがい)なし。

 訳文

 上堂して言われた。永平(わたし)には如浄先師より単伝された一句が
ある。それは、釈尊の悟りは、雪の中に梅の花が一輪、綻(ほころ)
び咲くところにあるというものだ。ところが、中下の機根の人は、この
句を多く聞いても、仏法に信入できない。ただ、上根(じょうこん)の
菩薩はひとたび聞いただけで、これを信じて疑わないのである。 

 語義

 雪裡(せつり)の梅花一枝綻(ばいかいつしほころ)ぶ

 天童如浄に「曇眼睛(くどんがんせい)を打失する時、雪
裏の梅花ただ一枝」(『如浄語録』)という言葉があり、これ
を指す。この意味は、釈尊が悟りを開いた、その悟りは、ただ
いま、ここの雪の中に花開いた梅花一輪の上に現じている、と
いうのである。

 中下(ちゅうげ)は多く聞いて多く信ぜず

 「上士(じょうし)は一決(いつけつ)して一切了(いっさ
いりょう)ず。中下(ちゅうげ)は多く聞いて多く信ぜず」(『
証道歌』)による。

 


















 背  水(はいすい)

 後ろは浦の波際、一角は砂丘をつらねた神崎川の吐け口、しょせん、こ
こは守るに心丈夫な地形ではない。
 「ちっ。またも襲(よ)せて来たか、性懲(しょうこ)りもない下種(
げす)の兵めら」
 上の指揮は待つまでもないとして、そこらの磯小屋や幕(とばり)を総
立ちに蹴って出た郎党たちは、すぐ攻勢に移って馬を飛ばし合った。攻勢
に向かうしかない背水(はいすい)の地であったのだ。 
 義経も率先、馬上で叫んでいた。
 「敵は太田、豊島(としま)の党か、多田蔵人(ただのくらんど)の手
下か、いずれにせよ烏合(うごう)の群れ。いちいち組むな、首などかく
な。ただ蹴(け)ちらせ、蹴ちらせ」
 十騎、また十数騎、続々と浜砂を飛ばして広い海鳴りのやみへ、おめい
て行く。
 敵はもろい。
 近づく刃影(じんえい)にさえ、砂丘の蔭から、わっと、石を起こされ
た蟹(かに)の群れみたいに、逃げ散らかる。密生した磯松の地帯へ争そ
って潜(ひそ)んでしまう。
 昼、淀沿岸から諸所方々に陣して、義経の通過を執拗(しつよう)に阻
(はば)めた徒が、その嗅覚を吠え交(か)わしながら、ここ一箇所に集
まって来たものだろう。いわば雑軍の蝟集(いしゅう)にすぎない。
 それに反し一方は、こうまで零落し、また、疲労と困憊(こんぱい)の
中にある将士だったが、まだきのうの一ノ谷、屋島などで誇った堀川主従
本来の面目までは失っていない。
 伊勢、弁慶はいわずもがな、堀、亀井、佐藤などの一騎当千は、みな健
在である。この面々の飛馬閃刃(ひばせんじん)が行くところ、烏合の勢
(せい)が、ひと支えもしえないのは、当然だった。
 けれど、追えば逃げ、引けば寄る、かれらの廉恥(れんち)のない戦法
も始末がわるく、義経主従は、いらだちをかきたてられた。かくては、む
なしく半夜も過ぎる。おりからの、いやな空模様も、次第に風速を加え、
河口に待つ船と船との影も、刻々に悪化する海(うな)づらを望んで―船
出は今のうち、―と身を揉(も)み合うような揺れ方をみせている。
 「おういっ、もう追うな。-引っ返せ」
 どこかで、味方の追撃へ、こう命を下す声がした。義経ではない、叔父
十郎行家だろう。特徴のある例のシャがれ声である。
 「敵も、遠くへ退いたわ。この機を逸してはなるまい。河口へ行け、河
口の船へ」
 かれは、かれ自身の部下に擁(よう)されていた。
 しかし、その手飼いの郎党も、きのうから半数は失ってい、身は足跛(
あしなえ)だし、心細いこと、ひと通りでない。
 でこの浦へ着くや否、かれも甥の義経に、口の酢(す)くなるほど、船
出を急(せ)き立てていたが、全(まった)くきき容(い)れない甥なの
だ。ぜひなく、行動をともにしていたままである。だから、馬上の疾駆(
しっく)も、腹立たしさと、破れかぶれのー妙な悲痛さを、声にも顔にも、
こぐらかしていた。
 「判官(ほうがん)は、どうかしておる。まったく、壇ノ浦以後は、人
間が違った。・・・・よもや、よもやに惹(ひ)かれ、ついこれまで、同
行したのは、行家の大きな過(あやま)ち。-もう惹かれてはいられない。
 わしたちは、わしたちだけでも、船出しよう。さあ、河口へ急げ」
 一つに、かたまり合った行家主従だけは、一散に船場(ふなば)の方へ、
馳けだしていた。
 そこには、かねて、渡辺党の水夫(かこ)船頭が用意して待つ、大小十
数艘の廻船(かいせん)が、つながれてある。
 行家たちが、馬も陸に捨て放って、ただ自分自分の身ばかりを、その二
艘の内へ隠したときだ。
 「やっ、あの火は?」
 余戸(あまべ)の町屋の方に、炎が見えた。
 烈風に裂かれた旗のような炎が、人家の屋根を、舐(な)めまわってい
る。暗天を飛ぶ迅(はや)い黒雲も、あざやかに映し出され、その下の叫
喚(きょうかん)さえ、ちぎれ、ちぎれ、ここまで聞こえる。
 「ば、ばかな・・・・・あれ見ろ家来ども」
 船の上で、行家はいった。もう自分は安泰な位置についたので、その冷
笑には、人の愚をよく批評する持ち前のゆとりも息を吹っ返していた。
 「判官も判官だが、その家来たちも、まだ、やっておるわ。あんな方ま
で長追いして、どうするつもりだ。敵の思うツボに陥(お)ちるだけだろ
う。-や、雨か」
 ぽつっ・・・・と落ちてきた白い大粒なものを、痛いような顔で、空を
仰ぎ見、
 「来るな、ひと降り。-もう判官主従に、かかずろうてはおれぬ。判官
は九州へ、わしは四国へ、どうせ途中では、別れる船路の道づれ。・・・
・船頭っ、先に船を出せ。かまわぬ。ともづなを解いて、先へ出ろ」

 失火ではない。こんな風のおりなのに、何者かが余戸の人家に、火を放
った。
 大物(だいもつ)の浦を遠巻きにしていた多田行綱(ただのゆきつな)、
豊島冠者(としまのかじゃ)、太田太郎、範頼(のりより)の部下などの
連合兵が、にわかに、包囲をみだして、町屋道へ退いたのは、
 「すわ、後ろに敵?」
 「義経のこと、何か、奇略があるぞ」
 と、疑ったからであった。
 事実、町屋の火光を衝(つ)いて、かれらの眼には、ふしぎなと映った
一団の敵がある。
 多くはない。五十騎足らずのものである。しかし、狼狽(ろうばい)し
たかれらには、想像を超(こ)えていた。しかも、炎の中から出て来たか
と見えるそれらの鉄騎は、おそろしく勇敢だった。一騎一が、鬼神の働
きを描き、火の降る下に、逃げ惑う烏合(うごう)の雑多軍を馳け散らし
た。
 そして口々に、
 「殿っ、殿っ」
 と、遠くへ向かって呼び、
 「お館以下は、無事それへお着きあるや、有綱たちも、ようやく、これ
まで立ち帰って候う」
 と、煙のうちから、声を嗄(か)らして呼びかけて来る。
 それより少し前。-義経以下も、一たんは、長追い無用と、元の磯へ返
りかけていた。しかし不審な火の手と、敵の狼狽(ろうばい)を見、急に
また、方向を転じて、町屋のそばまで、逃げる群れを、尾撃していた。お
なじ煙を衝いて来たのである。
 「-や、やっ。あれは味方ぞ、たしかに味方の者」
 「伊豆だっ。有綱たちだ」
 「殿、殿っ。お迎えに参って迷(は)ぐれた有綱に一勢(ぜい)が、あ
れへ帰って見えましたぞ」
 ここでも、狂喜のもった感動の波が、義経を中心に、わいていた。
 こういう人びとの馬蹄(ばてい)の間に逃げそこねた敵こそみじめであ
った。凱歌(がいか)の中で、主従は再開を遂げた。だが何を語るゆとり
も持てない。-義経はすぐ駒を返した。そしてまだ、静や百合野もいる以
前の磯屋の方へ急いだ。-有綱たちも、黙々と、それにつづいた。
 義経が磯屋の前に床几(しょうぎ)をおくと、有綱はすぐはい寄る子み
たいに、その下にうずくまって、ただ詫(わ)び入った、加勢に馳け向か
った意味もむなしく、かえって逆に義経をここに待たせ、味方の困難を二
重にしてしまった―と悔い詫びるのであった。
 「なんの。・・・・礼こそいおう、有綱」
 義経は、かれのその手をとっていった。
 「死地におかれたわしを、援け出そうと加勢に赴いたお汝(こと)らが、
もし敵の中から帰らぬ者となったら、義経はいつまでも、寝醒(ねざ)め
がわるい。お汝(こと)たちの無事な姿を見られたことのうれしさよ」
 「・・・・・・・」
 有綱以下、皆、つい咽(むせ)び泣いてしまった。
 義経は、すぐまた、そこを立ち上って。
 「おう。このうえは、ただちに船出しよう。まず、女房たちを、船へ移
せ。常ならぬ海の模様。一船(いつせん)に多くは乗るな。馬はここに繋
(つな)ぎ捨てても、人びと別れ別れに、無理なく乗って出よ」
 すでに船頭たちは、碇(いかり)を上げるばかりと待っている。しばら
くは、岸と船とにかけて、混雑の一時(いつとき)だった。大粒な雨が、
そのころから、人びとの影を白く切った。
 「はて、あれに見ゆるは?」
 弁慶は、船上に立つと、眉をひそめて、そばにいた船手の者へ。
 「先に出て行った二艘は、たれの船か」
 とたずねた。
 「新宮殿(十郎行家)と、その御家来方が、強(た)っての仰せとか。遮
二無二(しゃにむに)、船頭どもを脅して先へ出て行きましたそうな」
「そうか、忘れていた、足跛(あしなえ)殿がおいでたことは」
 かれは苦笑した。そして、その人のことはつい念頭になかった如く、そ
の行為にも、べつに腹は立てなかった。

 くだける結晶(けっしょう)

 よしともづなを解け。-前の船から順に河口を出よ」
 義経は何番目かの船にいた。
 かれの合図の下に、すでに一、二艘は河口の洲(す)を離れ、そしてた
ちまち、比較にならない大波のしぶきを、その舳(へさき)に、見はじめ
た時である。
 まもなくまた、これへ襲(よ)せ返して来た以前の敵が、河の洲の向こ
うにも、こなたの磯角にも、むらがり噪(さわ)いで、矢石(しせき)を
浴びせて来た。矢のみでなく、石を投げるのもいたのである。
 「射させておけ」
 -相手にするな、と義経は前後へ命を伝えさせている。
 しかし、河幅は広くない。石つぶてすら届く距離だ。いかにヘロヘロ矢
でも、無数に来ては、危険である。到底、身を曝(さら)してはいられな
い。
 かれらはまた、火を持っていた。さかんに、投げ松明(たいまつ)や火
煙玉が水面で噴霧を揚げる。一方では、何本となく、大きな松の倒木が大
勢の力で、河口に押し流された。外の海浪が高いため、流木はなかなか河
口から出て行かない。
 「卑怯なやつめら」
 歯がみはしたが、船上では、手段がなかった。相手は、戦闘を思ってい
ないのだ。ただ、船出の妨害に、その狂奔(きょうほん)を集中している。
 -だが、僥倖(ぎょうこう)か不幸か、雨を持ってからの強風は、一倍
風速を増していた。敵も、地に足を立てていられなくなったのか、次第に
数を減じ、行動がやみ、いつかその雲霧の影も、見当らなくなっていた。
 ようやく、十数艘残らずが、河口を離れて、大物ノ浦を後ろにしたのは、
やや半時(1時間)もそこで費やした後だった。
 陸地にあるうち、とうに、夜半は過ぎていたのだから、おそらく今は、
寅(とら)の刻(午前四時)のころか。
 果てなき夜みたいな様相だが、五日は過ぎ、すでに、六日となっていた
のである。
 「海は、思いのほか大波だが、きのうからの空、この一と荒れで、あす
は陽(ひ)の目を見、波もおさまろう。・・・・したが、海馴(な)れぬ
・・・・、そなたたちに、こう申しても、顫(おのの)きはやむまいの」
 義経は、汐除(しおよ)けの囲まれた胴ノ間(ま)の一劃(かく)にい
た。
 小女房たちとか、弁慶らの七、八名は、おなじ船中の囲(かこ)いや、
船底に分かれて乗っていたが、義経のそばには、静と百合野だけだった。
「恐いか。-いや怖(おそ)ろしいに違いない。おお、揺れる。・・・・
・静も、百合野も、もそっと、儂(み)のそばにいよ。わしの、両の腕(
かいな)につかまって」
 かれは、両女(ふたり)を、右と左に抱いて、背を、天井から通(とお
)っている帆柱の根の太柱(ふとばしら)に凭(もた)せ、絶え間ない船
の揺れ逆らわぬひざを保っていた。
 「・・・・・こう。おれば、波まかせぞ。そなたたちは、義経にまかせ、
儂(み)のひざに、つかまっていよ。眠れたら眠れ。・・・・・・・怖ろ
しいことはない。明石の水門(みのと)を越えるまでだ」
 義経は、たえず慰めの手と、またたえず両女(ふたり)の紛(まぎ)れ
る言葉を探していた。その愛撫と宥(いたわ)りは、静へも、百合野へも、
このばあい、濃い浅いのけじめはなかった。意識のないものにせよ、平等
だった。
 「・・・・・・・それよ、思い出した。この春先の二月、屋島攻めのみ
ぎり、屋島の裏道越えを計って、渡辺ノ津から阿波へ押し渡った時は、こ
れにもまさる風浪であったぞや。・・・・・伊勢、弁慶のような荒肝(あ
らぎも)のものすら、みな、意気も色ものう船底に暈(よ)い突くぼうた
・・・・・。無理もない、そなたたちのおののくのは」
 「・・・・い、いいえ」
 と強く、そのとき、抱かれている一方の腕の下で、百合野の体がピクと
痙攣(けいれん)をつたえ、白磁のような顔を上げた。黛(まゆ)は、何
か思いつめたものにふるえている。
 「恐(こわ)くなどありませぬ。こうして、おひざに抱かれていられる
など、思うてもいなかったこと。うれしゅうございます・・・・・。夢の
ような、ああ東国にいる父母にも見せてやりたやと思いまする。・・・・
・夢ではない、百合野は今、倖せでございまする」
 義経は、ひざをとおして、じんと濡れてくる熱いかの女の涙を、眼をと
じて、感じていた。かの女への、日ごろのつれなさが、どっと、あふれと
も、すまないとも、その胸へこみあげてくる。
 「・・・・・静さま。おゆるしくださいませ。お詫びがしたいのです、
わが良人(つま)へ」
 かかるやみ、そして、天(そら)や海の咆哮(ほうこう)を、身のうち
の力にかりていうのでもなければ、いい出せないから―と必死になってい
るように、
 「殿、百合野をおゆるしくださいますか。鎌倉どののお心はどうでも、
百合野は、殿の妻、そのほかの、どんな女でもございません、・・・・そ、
それなのに、鎌倉どのの謀(はか)りにつかわれただけで・・・・、殿へ
は、妻らしいお仕えも、このような御悲運の来る前にも、みすみす、何も
することはできませんでした。・・・・それのみが、きょうまで、みずか
ら責められて、責められて」
 「泣くな。泣かずともよい。そなたにはなんの科(とが)もないこと、
義経には、分かっている。そなたまでを、鎌倉どののまわし者と憎んだこ
となど、一度だにない」
 「え。・・・・・では、お憎しみもございませぬか」
 「なんの。・・・・・・世にもあわれなやつよ。そなたという女は」
 義経は、身を曲げて、片ひざの上の、かの女の泣き濡れた横顔へ、自分
の頬を、ひたと落とした。 
 「・・・・・・・」
 静も一緒に泣いていた。静の背へも、義経の抱く手はかたくかけられて
いる。複雑な、あぶない、そして研(と)がれやすい三つの感情も、忍び
入ることもない畸形(きけい)な愛の結晶に支えられて美しくさえあった。
両女(ふたり)とも暴風雨(あらし)の漆黒(しつこく)と外を搏(う)
つ怒濤(どとう)の揺れが、果てなくこのままであっもよいと思ったかも
しれなかった。しかし、そこはまだ天国でも地獄でもない、人界の一部の
海だった。
 「殿っ。・・・・・お危(あぶ)のうございますぞ。汐除けの囲いが破
られました。潮(うしお)が流れこんでは一大事。こなたの小屋へ、お移
りください。舵(かじ)も波に奪われ、船は逆に、東へ東へと、最前から
流されておりまする。-お早くっ、一刻もご猶予なく」
 そこをのぞいて、たれかの影が、あわただしく、どなっていた。
 弁慶か、伊勢か。
 たれの声であるかすらも分からぬほど、舷(ふなべり)を搏(う)つ瞬
間の風速と、高い怒濤の白さは、強烈だった。
 「・・・・・・・」
 三つから成る美しい結晶は、はっと解(ほぐ)れた。

 顔を出すと、とたんに息もつまり、その顔も持って行かれてしまいそう
になる。
 義経は、舷側(げんそく)へ出、からくも、船屋形の横木につかまって、
身を支えた。ただ奇異に明るいだけの物凄(ものすご)い空と海の模糊(
もこ)だ。圧倒をうけずにいられない。
 「朝だな、すでに」
 視覚も、聴覚も用をなさない四辺であった。大波の背から、また次の大
波の谷へ、舳(みよし)を逆(さか)にし、上から降る飛沫(しぶき)の
滝に、船上は洗われていた。
 「伊勢っ。・・・・今どの辺か。船のいる位置(ところ)は?」
 聞き違えたのだろう、伊勢三郎は、
 「ここが、およろしゅうございます、万一のおりにも」
 と、艫(とも)の方で叫んでいる。
 義経にも、よく聞きとれない。
 かれの赤い大きな口が、雨の中で、何かわめいたとは見えた。しかしこ
の凄(すさ)まじい外へ、両女(ふたり)を移していいか否か、なお、惑
うらしい義経だった。
 すると、すでに、内へ援(たす)けにはいった弁慶が百合野の身を、鷲
ノ尾三郎が静の体を、ともにひっ抱えるようにして、義経の前を掠(かす
)めて行き、舵取(かじと)り小屋の方へ、両女(ふたり)を連れて走っ
た。
 「やあ、なんでにわかにあわてるのか、弁慶も伊勢も」
 「仰せこそ、御悠長(ゆうちょう)。-あれ御覧ぜられい。ほかの僚船
(ともぶね)たちも、皆、あのように傾(かし)いだり大破して、思わぬ
方角へ押し流されて行きまする。残念ながら、この船とても」
 「はや、危ういのか」
 「船頭どもは、こう釘(くぎ)がゆるんでは、大波の一打に、乱離(ら
んり)と、船が砕かれるのも、時を待つまでのこと、御用心、御用心と、
告げおりまする。さなくとも、汐除(しおよ)けは、一枚一枚剥ぎ奪(と
)られ、舵も波に攫(さら)われてしもうては」
 伊勢、弁慶だけではない、集まった顔みな、絶望的な色を、唇(くち)
もとに、眸(め)に、はっきり沈めていた。
 かつての、おなじような大風浪の夜、屋島攻めの壮図を抱いて、阿波の
一角へ、全軍無事に渡りえたのは、船その物も、はるかに堅牢(けんろう
)であり、怒濤に耐える充分な用意もあった。
 こんどは違う。
 船算段も、急に数をそろえたことだったし、こんな狂風の荒海にぶつか
ろうとは予期もせず、補強を欠いていたのである。で、すでに僚船のほと
んどが―また、先に大物(だいもつ)の浦を出た十郎行家の二艘までが、
例外なく―破船(はせん)の影をおぼつかなげに波間に傾(かし)げてい
たのも、まことに是非がなかった。
 ただ、侍(たの)むのは、陸影。
 左方の遠くにそれらしい影は望めるが、どこかは、見当も及ばない。
どこでもよし、そこへ近づけと、祈れば祈るほど、天魔はなぶり物にして
船を弄(もてあそ)ぶ。-空高く海水を抱え上げて振り撒(ま)くかと思
われるようなときどきの暴威は龍巻(たつまき)の狂いに似、
 「-あっ」
 と、たれもが、顔を掩(お)さえて、うつ向いた。そして、ザーッと瞬
間に浴びる水玉は、黒い泥の雨みたいに感じられた。
 その眼をあげて、海面を見探すたびに、僚船の数は減っていた。難破(
なんぱ)した船の破片らしき物が、ゴミのように漂いはじめる。なお、漂
蕩(ひょうとう)の間にある義経たちの足もとへも、運命は催促を吠(ほ
)えかけていた。
 船体は、肉を裂かれる生き物と変わりなく、幾たびか、ミリミリッと、
苦悶(くもん)のうめきを立て、右舷(うげん)へ傾(かし)ぎを、ぐう
っと、急に著(いちぢる)しくし出した。
 「すわ!」
 「-これまで」
 たれもが、鎧(よろい)を解き捨て、鎧下着の背へ、太刀だけを背負っ
て、その緒(お)を胸の前で結んだ。
 義経も、水着同様な身軽となって、
 「静っ」
 と、呼びたて、
 「百合野も」
 と、呼びつづけた。そして、両女を両側へ抱え寄せ、水夫(かこ)小屋
の外に、つかまって、突っ立った。眼は、いざという一瞬に、両女(ふた
り)へ与える浮木(うきぎ)を案じていた。
 -その時、
 「やあ、お船の上の人びと。そこを捨てて、はや飛び移られい」
 「もう保(も)たぬ。一刻もそこは危うい」
 「お館さまっ」
 「北の方様っ。女房衆っ・・・・・・・」
 漕ぎよせて来た四挺櫓(ちょうろ)の舳(へさき)の鋭い船がある。
 その小舟小舟から、呼ぶ声だった。
 一艘には渡辺眤(むつる)、また、一艘には弟の番(つがう)、もう一
つの舟には、伊豆有綱の姿が見えた。櫓手(ろしゅ)は屈強な者ぞろいだ
ろう。必死に櫓をしなわせている。とはいえ、自由に櫓のきく海ではない。
寄ろうとしては離され、近づいたと思うと波に分けへだてられた。

 どっちからか、綱が投げられ、からくも、船と舟とは、相寄った。だが、
あたりをふさぐ潮(しお)ぶすま、上下する高低(たかひく)のへだて、
身を躍らせる間断もない。
 舷(ふなべり)には、ひとかたまりの、泣き惑う小女房たちの群れもあ
った。-義経は、なお、しっかと両女の身を、両わきにつかんで、
 「まず、武者ども移れ。そこな小女房を、一人が一人ずつ抱いて跳び移
れ」
 と叫び、自分への遠慮を見て「猶予すな、猶予すな」と、早口にいった。
 武者は小女房一人ずつ抱えて、つぎつぎと、小舟へ躍った。弁慶と伊勢
は、なお、義経のそばを離れない。
 「いざ、いざ、殿もお続きあって」
 弁慶はいう。気が気でない顔つきだ。義経は
 「伊勢、そちは百合野を連れて跳べ」
 と、手渡し、かれ自身は静を抱いて、有綱のいる小舟へ躍った。-形影
(けいえい)、寸時も離れがたいものの様に、弁慶もすぐ同じ舟へ跳んだ。
 「伊勢っ、何しておる。何を猶予」
 義経は、小舟のうちに、静を置くと、すぐ後ろへ叫んだ。
 だが、義経の手を離れたとき、百合野の姿は、瞬間に、伊勢の眼にも見
当たらなくなっていた。「河越殿っ。北ノおん方」と、ばかリ前後を見ま
わしているのだった。伊勢三郎の顔が、これほどなあわてようを人に見せ
たことはない。
 すると、小舟のうちの静が、
 「あれっ、百合野さまが、かなたに。・・・・・・御方(おんかた)を、
誰(た)ぞ、助けて」
 と、われを忘れて、伸び上がろうとし、義経の足もとへ、どうとたおれ
た。
 「・・・・・あっ?」
 義経も見た。
 かの女の姿は、艫(とも)でなく、舳(みよし)の端に見えた。何かに
つかまって、義経と静の方を振り向いていた。その不審な姿は、その眸(
め)に、明白に表情されていた。「・・・・・お別れいたします」と、声
なき永別の情をこめている。
 が、惜別はあっても、かの女の眸は、恨みがましい何ものも燃えていな
かった。さらさら、女の嫉妬(しっと)などではないことを、分かっても
らいたいのではないか。静と義経の行く末を、仲むつまじくと、念じてい
るのではないか。
 さっき。狂瀾(きょうらん)の奈落(ならく)に似た暗やみで義経の両
ひざへ抱かれていた時。百合野は、稼(か)して始めての歓びにふるえた、
良人(おっと)の腕に指に真実な愛情の力が感じられた。-うれしい!と
口走った。静の耳もとであるのも忘れてそう満足な声を上わずらせた。良
人もまた、ゆるしてくれた。鎌倉殿夫妻がこしらえた詐謀(さくぼう)の
囮(おとり)につかわれた憎むべきこの妻を、憎いともしないで頬ずりを
与えてくれた。またしても狂喜の余り「・・・・・今のわたくしを、故郷
の父母にお見せしたい」と、いや増すうれし涙になってしまった。-さぞ、
案じているであろう父母に見てもらいたいほど、かの女はその一瞬(いっ
とき)、満足を感じ、幸福だと、思ったのである。
 -が、長い幸福を、かの女は思いえなかった。
 一夫多妻の風は、それになんの不自然さも、時の男女に考えさせてはい
ない。けれど、相互の愛が、高いほど、真実であるほど、夫婦のかたちは、
つきつめられる。一と一との、いやそんな相対でない一つものになろうと
すらする本能を持つ。老(お)ゆるまで、夫婦という契りの美化と極限愛
を慕って二人して創造してゆく生活そのものが真の夫婦というものであっ
たことを、思い知らされる時期が、いつかはある気がする。
 百合野は、いま死ぬのが、良人へも静へも、よい結果と信じたばかりで
なく、自分にもそれが最善の救いであり、今の満足を、永遠にするものと
思った。このうえ、生きているのは、どう考えても、恐ろしかった。
 「-あっ、何しに、そんな所へ」
 気がついた伊勢三郎が、愕然(がくぜん)と馳けよろめいて行き、かの
女の袖へ、手を伸ばしかけたとき。
 伊勢は、もいちど、あっと、絶叫した。
 百合野の姿は、ほろと、枝頭を離れた花かのように、なんの抵抗も血相
も見せず、すうっーと誘う大波のふところに消えてしまった。
 「や、やっ。河越殿には?」
 かれは自責といぶかりに、仰天しつつも、すぐ赤裸となて、怒濤のうち
へ、つづいて飛び込んだ。
  「百合野っ。百合野っ・・・・・」
 「御方(おんかた)さまっ・・・・・」
 高い波の上、また波の蔭にも、義経の呼ぶ声、静のかなしむ叫び、飛沫
の響音に交(ま)じっても、かき消えないほどだった。
 櫓手(ろしゅ)の一人、渡辺眤(むつる)は、
 「驚破(すわ)ぞ、あぶないっ」
 と、たれかへいったが、咄嗟(とっさ)も間にあわないほどだったので、
自身、片手に太刀を抜いて、なお繋(つな)がれていた大船とのもやい綱
を切り放った。
 それが早いか、向うの大船が、乱離と裂けたのが早かったろうか。すさ
まじい波の弔歌が馳けて通った。そして、そこらの小舟小舟も、砕(くだ
)けた船骸(せんがい)の片々も、木の葉と見せて、驚くべき広さと平(
たいら)さをもった大うねりの跡を作った。ほんの一瞬だったが、その波
座敷には、一面に細かいさざ波が敷かれ、さあっと、真っ白にかがやいた。


































 朝から春本番の太陽が降り注ぎ、木々の若い葉が顔を出してい
ます。

人の心もこの春の薫りに誘われて、野山に出かけたい気分になり
ます。

 昨日は、東京の桜が満開になったと報じていましたので、いて
も立って
もいられずに、歩いて50分歩き、久しぶりに立川市の
根川緑道を散策し
て来ました。桜は八分咲きでほぼ満開でした。
ところが、目当ての大きな
木に咲き分ける桃の花は、まだ少しし
か開花していなくてがっかりでした。

この咲きわけの桃の小枝を失敬して、挿し木にしようと、考えて
いましたが、小枝は生憎高いところにあって、手が届かないので
諦めました。

 さくら、モクレン、水仙、こぶしの木々が小川のそばに植わり、
緑道に癒
しを頂いてきました。

        咲き分けの桃の花
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         咲き分けの桃の花
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          桜と根川
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          桜と根川    
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      小川べりでバーベキュ-を楽しむ人
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         桜と根川
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          桜と根川
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        こぶしの木がある家
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          桜と橋の風景
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       小川の辺で心を癒やす人々
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        水辺で遊ぶ子供
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          木蓮の花
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          木蓮の花
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         桜(そめいよしの)
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 このカワセミが、小魚をとらえる瞬間と、とらえた後の、誇ら
しげな顔を撮影するため、煙突のような望遠を小さなカメラに取
り付けた、マニアたちが辛抱強く待ち構えていました。
 小生は、一般のデジカメを望遠に操作して撮影しました。

     カワセミが小魚を狙う
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       カワセミが小魚を狙う
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 こぶしの木の向うに一軒の家があり、ここを通る旅。なぜか気
になります。


       こぶしの木の向の一軒家
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  花見客の食べ物にありつこうと、お腹をすかす大きな烏
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2018年3月29日(木曜日)

 夕方16時頃自宅を出て、国立市との市境を越えて、根側貝殻
坂橋まで45分歩き到着しました。先だってここへ訪れたときは
赤とピンクの色を先分ける桃の花がまだ開花していなかったため、
物足りなさが残っていましたので、本日再度花見をしてきました。
 桜も桃も、今が花盛りで、見ごたえもありました。

         咲き分けの桃の花
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         咲き分けの桃の花
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         咲き分けの桃の花
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 本日東京で、桜の花が満開になったと報じています。平年より10日早
いそうです。日本橋に勤務していた頃は、上野公園へ夜桜を楽しみに行っ
たものです。現在は桜の木も大きくなって、桜の花は上の方にあり、花よ
りも夜桜を楽しむ人ばかりが目につきます。桜は、間近で見れる方が僕は
好きです。
 この身延枝垂れ桜(みのぶしだれざくら)は、17年くらい前に、ドラ
イブで立ち寄った身延山で、購入した苗木から育てた思い出の桜です。
 自宅の裏庭に毎年花を見せてくれます。

      身延枝垂れ桜 2018.03.26 撮影
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 わが家の庭では、シャクナゲの花が満開近くになっていて、庭を明るく
染めてくれ、癒しを与えてくれます。この石楠花(シャクナゲ)と、躑躅
(つつじ)それに昨日公園で手折った「椿」の枝をそれぞれ、挿し木にし
てみました。


      石楠花(シャクナゲ)2018.03.21 撮影
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      石楠花(シャクナゲ)2018.03.21 撮影 
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             石楠花(シャクナゲ)2018.03.28 撮影
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石楠花(シャクナゲ)、椿、躑躅(つつじ)、カルミヤの4種類を、
1鉢へ纏めて挿し木をしてみました。


       挿し木   2018.03.24 撮影
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 2018年3月26日(月曜日)

 春が急に訪れたことで、各種の花木の挿し木に今夢中になっています。
自分の気に入った花を、鉢植えで増やそうとしています。シャクナゲも、
ついに開花しました。

    シャクナゲ他の挿し木   2018.03.26 撮影
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 椿の花は、萎(しお)れかけましたので、取り除いてみました。
次の花の蕾がありますが、果たして開花するでしょうか。
 躑躅(つつじ)も、根付いたようです。この躑躅は、栃木県の小山に一
番上の娘家族が住んでいた頃に、ここで挿し木にして自宅へ持ち帰った思
い出の花です。青森の出張時にもこの躑躅の鉢植えを一緒に連れて行った
ものです。

                 シャクナゲ他の挿し木   2018.03.28 撮影
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 2018年4月8日(日曜日)

 日中の気温は、17℃くらいまで気温が上がりましたが、少し風が冷た
く感じました。
 黄色い花のシャクナゲの挿し木は花が萎(しぼ)んでしまいましたので,
その花のも除去しました。
 同じ鉢に挿し木をしている、つつじ、椿、カルミヤも元気そうです。特
に躑躅(つつじ)は新しい若い葉も出てきています。
 散歩の帰り道、大きな木のハナミズキが目にとまり、手を伸ばすとよう
やく手の届く高いところにあった小枝を手折って、園内のトイレで、紙に
水を滲(し)み込ませ、手折った部分にそれを巻くようにして、持ち帰り
ました。早速、土を拵(こしら)え、鉢へ挿し木をしてみました。
 楽しみがまた一つ増えました。もしこの挿し木が、順調に生育すれば、
植樹をしたことと同じですから、環境にやさしい行為だと思いますが・・
・・?。

   シャクナゲ他の挿し木   2018.04.09 撮影
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     ハナミズキの挿し木 2018.04.09 撮影
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司馬遼太郎著書の「空海の風景」という小説を読んだことがあります
が、空海は超能力者ではなかったろうかと思わせるふしが多々ありま
す。
 そんなわけで、法然の名言、道元の言葉に引き続いて、空海の足跡
と言葉についても勉強してみようと考えています。
 そこで、著者頼富本宏(よりとみもとひろ)氏の2003年
の作品「空海の歩いた道」を読んでみます。

 ーはじめにー

 二十一世紀初頭を迎えたが、平安時代の初めに弘法大師空海
が密教を求めて中国に渡って、約千二百年になる。その吉縁を
祝して、中国と日本の関係が相集まって、空海の上陸地の福州
(ふくしゅう)、通過地の上海(しゃんはい)、そして勉学の
地、西安(せいあん)(旧・長安)などで記念法要や国際学会が
開かれることになっている。
 また空海が開いた密教の聖地・高野山を中心とする「紀伊山
地の霊場と参詣道」が世界遺産暫定リストに登録されたことに
より、大規模な「空海と高野山展」が企画され、最初に開催さ
れた二〇〇三年春の京都国立博物館では、二十三万人を超える
観覧者で連日大きな賑わいを見せていた。
 真言密教を築き上げるとともに、当時の世界最先端の文明を
誇っていた唐代の文化をその身に吸収し、わが国に伝えた空海
は、その豊かな感性と優れた情報収集と発信の能力によって、
現在でも多くの人びとに少なからぬ影響を与えている。
 その空海の生涯の足取りをレンズを通して一枚の風景として
切り取り、迫力ある画面を集積して、彼の歩いた道、生きた足
跡を現代に復元し、人間空海のイメージを今によみがえらせた
のが本書である。
 さて、後に弘法大師と諡号(しごう)されて現在にもその信
仰を伝えて
いる空海は、奈良時代の中頃の宝亀五年(774)、四国の讃岐
(さぬき)に生を受けた。長じて都に上り、しばらく大学で勉
学を修めたものの、ある沙門(しゃもん)の誘いを受けて山林
仏教のグループに身を投じた。そこで、大自然と一体化する行
法(ぎょうほう)などを修し、神秘的な宗教体験を得ることが
できた。
 紹介する順序が前後したが、六十二年の生涯を送った空海は、
入定(にゅうじょう)後の時間を含めて、大別して四つの名前
を持っている。そして、その名前の違いが、空海の生涯の旅路
の段階と各段階の意義を如実に反映しているのである。
 すなわち、四国の讃岐で誕生して正式の出家・得度を受ける
までは、「真魚(まお)」という俗名を名乗っていた。この時
期は通常の世俗の生活と価値観に立っていた頃で、仮に真魚
時代と呼んでいる。
 仏教の世界に入り、正式の得度を受けてから以降は、いよい
よ「空海」という名を名乗ることになる。空と海という名前も、
彼が求めた壮大な世界を象徴している。その過程で密教の萌芽
(ほうが)にめぐり会い、その本源と情報を求めて、ついに中
国に渡ったのである。
 果たして憧れの恵果和尚(けいかわじょう)から両部の秘奥
を具備した密教を伝授された空海は、ここに密教の阿闍梨(あ
じゃり)
「遍照金剛(へんじょうこんごう)」の世界へと歩み
を進めた。そして、帰国後は先輩僧の最澄(さいちょう)と時
の政治権力者・嵯峨(さが)天皇の庇護を受け、高野山と東寺
という二大密教寺院を拠点に、即身成仏(そくしんじょうぶつ
)と密厳国土(みつごんこくど)という教えを旗印として真言
密教をわが国に広めたのである。この段階が、第三の遍照金
(へんじょうこんごう)
の時代であるが、仏との垂直の絆を糧
(かて)として、その縁があらゆる人々にも及ぶとした空海の
最も華々しい活躍時代であった。
 そして、承和二年(835)三月、高野山奥の院で永遠の定(
じょう)に入って以後、八十六ののちに「弘法大師」という諡
(し)号を下賜(かし)されてからは、人間空海という枠に限
定されず、むしろ時間・空間を超えた法身(ほっしん)弘法大
師として、今も私たちに語りかけている。
 こうした四段階の空海・弘法大師を総合止揚した広義の「空
海」の軌跡を、永坂氏は無限の時間と無極の空間をシャッター
チャンスの一瞬に込めた多くの写真によって立体的に再構築し
た。私はさらに、そこに人間空海の生の言葉を重ね合わせるこ
とを試みた。深く、且つ鋭い感性に恵まれた空海は、ほとけ・
自然・人間の融和した法界を体得した宗教家であっただけでな
く、多くの分野においても現象の裏にある事実を的確に把握し、
表現できる天性の詩才をも兼ね備えていた。空海の言葉は、比
喩や対句を多用した美文で始まることもあれば、一気に本質に
迫る力強さを見せることもある。特に聖なる言葉・真実の言葉
は、そのままものの深奥に至るとする固い信念が垣間見られる。
 空海の広さと深さについてはもはや多言を要しないが、写真
と言葉のマルチメディアによって、その広大にして深遠なる世
界に響き合い、少しでも共感して頂ければ幸いである。

 然(しか)れども頃日(このごろ)の間(あいだ)、刹那(しばらく
)、幻(まぼろし)のごとく南閻浮提(なんえんふだい)の陽谷(よう
こく)、輪王所化(りんおうしょけ)の下(もと)、玉藻帰(たまもか
え)る所(ところ)の島(しま)、櫲樟(よしょう)日を蔽(かく)す
の住(じゅう)す。

    聾瞽指帰(ろうこしいき)」

 しかしながら、近頃のことをいえば、しばらくの間、幻のような南閻
浮提(なんえんぶだい)
《この世界》の中の日出づる国の日本の天皇
の治下にある玉藻(たまも)よる讃岐(さぬき)の島、楠(くすのき)
が太陽をさえぎる多度(たど)の郡(こおり)、屏風ヶ浦(びょうぶが
うら)《弘法大師空海の故郷》に住んでいる。



 空海の故郷

 遍路(へんろ)の鈴音が響く国・四国。古く畿内(きない)の大和朝廷
から「魂(たま)のとどまる国」とも言われた讃岐国(現・香川県)で、空
海は誕生した。旧国名では阿波・土佐・伊予・讃岐と呼ばれる四つの国か
ら成る四国でも、瀬戸内海に面する讃岐と伊予(現・愛媛県)は、瀬戸内海
特有の温暖な気候と畿内と九州・大陸等を結ぶ海上交通の発達に恵まれて
おり、農業生産も盛んな地方であった。
 空海は、西讃(せいさん)《讃岐西武》を治めていた郡司・佐伯直(さ
えきのあたい)氏の家系に生を受けた。「玉藻(たまも)」、つまり玉の
ように美しい海草とは、豊かな海産資源を誇る讃岐の枕詞(まくらことば
)である。山地が大部分を占める四国にあって、比較的海に近い地域であ
り、四国霊場第七十五番の札所となっている五岳山誕生院善通寺のあたり
は、屏風ヶ浦(びょうぶがうら)と呼ばれていたという。

                       屏風ヶ浦(びょうぶがうら)
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 空海の父の名は、信頼できる歴史資料(「日本三代実録」)などによる
と、佐伯直氏の一族であった田公(たきみ)とする。空海は、この家の三
男として生まれたのである。三男と特定したのは、青年の頃に執筆した自
伝的要素の強い戯曲「聾瞽指帰(ろうこしいき)」(のちに「三教指帰(
さんごうしいき)」と改題)において、「二兄、重ねて逝(ゆ)きて」と
記していることによる。
 引用文は、空海をモデルとした遊行僧(ゆぎょうそう)の仮名乞児(か
めいこつじ)が自らを語るくだりである。文の直前では、この世の無常を
説いた後、自分は、仮の世界ではあるが、人間が住む南閻浮提(なんえ
んぶだい)
世界で、理想的な帝王といえる天皇の住む陽谷、すなわち日本
に生まれたと説明している。さらにこの文章では、場所を限定して、美し
い海草が渚に打ち寄せられる島国である四国の、大きな楠(くすのき)が
日陰をつくるのどかな海辺の村で生まれたと述べる。空海のあらゆるもの
を包み込む大きな人柄は、四国の豊かな自然が影響を与えていたのである。

 善通寺(ぜんつうじ)五重塔

 夜明け前、空海が生まれた地とされる善通寺(香川県)を拝する丘に立っ
た。我拝師山(がはいしさん)を背にたたずむ五重塔。うっすらと明けて
くる陽に塔の輪郭が見えはじめ、厳(おごそ)かな朝を迎えた。

                善通寺(ぜんつうじ)
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            千年楠
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          善通寺五重塔
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 空海誕生の年について

 「続日本後記」では宝亀四年(773)とするものの、現在では他の史料
により宝亀五年(774)が定説となっている。













 





 神様ゆかりの地結ぶルート

 伊弉諾尊(イザナギノミコト)伊弉冉尊(イザナミノミコト)が日本列島
をつくった話、イザナギから生まれた天照大神という神様が岩戸に隠れた
ため世界が真っ暗になった話―。絵本などで親しんできた日本の神話。こ
れらの舞台になったとされる場所の多くが宮崎県にある。2月下旬、そん
な神話の舞台を訪ねる旅に出た。
 たどったのは県が設けた観光ルート「ひむか神話街道」だ。北部の高千
穂町から南西部の高原町までの間に、100ヵ所を超える史跡や神話ゆか
りの地が点在する。「県内の観光地は神話と関係がある場所が多い」と県
観光推進課副主幹の日高清貴さん。神話が観光資源にもなっているという
ことか。
 最初に高千穂町にある天岩戸神社の西本宮を訪れた。
 神話では、弟のスサノオノミコトの乱暴におびえた天照(アマテラス)
は岩屋にこもって戸を閉じてしまう。彼女は太陽の神なので、世界は暗闇
に包まれ、困った神々は集まって対策を相談した。西本宮はその岩屋をご
神体としている。
 神職の案内を受ければ、遥拝所(ようはいじょ)から岩戸川の対岸にあ
る岩屋を拝むこともできるのだが―。実際は木が生い茂っていて、よくわ
からなかった。
 一方神秘的な雰囲気が漂うのは西本宮から歩いて10分ほどの所にある
天安河原(あまのやすかわら)だ。清流わきにぽっかりとひらいた洞窟に
社がたち、無数の河原石が積み上げられている。天照(アマテラス)をど
うやって岩屋から連れ出すかを、相談したとされる場所だ。

 このほか、天照の孫のニニギノミコトが降り立った「くしふる峰」があ
ったり。彼がまいた籾(もみ)の名残りとされる「みろく田」があったり
と、高千穂町は全域に神話ゆかりの旧跡が点在する。
 神々は本当に、この地で暮らしていただろうか。
 町コミュニティーセンター・歴史民俗資料館の学芸員、緒方俊輔さんに
よると、高千穂で様々な神話ゆかりの地を「見立てる」行為は、少なくと
も江戸時代に行われていたらしい。「国学の研究が進むなか、ニニギノミ
コトが降臨したという高千穂が、この高千穂か鹿児島との県境にある高千
穂峰かという、いまだ決着のつかない大論争が起き、ここ高千穂が注目を
集めた」。その過程で、神話の舞台として認識され、見立てが進んだので
はないかと推測する。
 高千穂町は、集落ごとに設けた「神楽宿」で、地元の人たちが一晩かけ
て全33番を奉納する「夜神楽」で有名だ。だが、現在のような形になっ
たのは江戸時代末期以降とみられ、「夜通し神楽を舞うようになったのも、
一番鶏が鳴くまで寝てはいけないという庚申(こうしん)信仰と神楽とが
合体した結果」と、緒方さんはみる。
 神話を題材にした神楽が多いのも、集落ごとに神楽に独自色を出そうと
して、「古事記」の記述や地元の伝説などを取り込んだためのようだ。

 土地に溶け込んだ旧跡

 高千穂神社でやっている、神楽を見せてもらった。天岩戸神話を題材に
した舞などを1時間かけて演じる。岩戸をこじ開けようとする手力雄命(
タヂカラオノミコト)の舞の迫力に圧倒された。
 5人1組で演じていた佐藤英記さんは会社員。地元の15地区が回り持
ちで神楽を毎晩奉納しているという。
 「結婚式に呼ばれて舞うことも多いんです」。それだけ神様や神楽が身
近な存在ということなのだろう。
 高千穂町を離れ、県中部の西都市へ。国の特別史跡・西都原古墳群には
様々な形の300基以上が集まる男狭穂(おさほ)塚・女狭穂(めさほ)
塚という九州最大級の古墳もある。
 神話ゆかりの旧跡の中心が都萬(つま)神社だ。ニニギノミコ
トの妻・コノハナサクヤヒメを祭る。言い伝えでは、二人の神様
はこの地で出会い、宮殿を構え、コノハナはホデリノミコト(海
幸彦)、ホスセリノミコト、ホオリノミコト(山幸彦)という三
人の男子を産む。同市内には二人が出会った川、宮殿跡、コノハ
ナの父オオヤマツミノカミの神を祭る石貫神社もある。いずれも
住宅地の一角などにあり、土地に溶け込んだ感じがした。
 続いて訪れた宮崎市でも同じような印象を受けた。
 ホオリ(山幸彦)の孫の一人に、カムヤマトイワレビコノミコ
トがいる。
記紀に伝えられる初代天皇(神武天皇)だ。
 彼が宮殿を構えたという地にたつのが皇宮神社。境内には「
発祥之地」という碑があり、第2次世界大戦中、神話が国威発
揚に利用された歴史が思い起こされたが、今はひっそりとしてい
る。
 一方、イザナギが黄泉(よみ)の国から戻った時にみそぎをし
た地と伝わる「みそぎ池」は、日向灘沿いの、市民の森公園の片
隅にぽつんとあった。
 みそぎ池近くにの江田神社と、約20㎞離れた青島神社では、
同市神話・観光ガイドボランティア協議会のメンバーが連日、訪
れる人に
土地の説明をしている。橋口栄子さんは、「神話を覚えるのは大
変だったが、色々な人に会えて楽しい」と話した。

 考古学の成果から、天皇家へつながる倭(わ)王権の原形らし
きものは3世紀の近畿地方で誕生したと考えられている。しかし、
8世紀のものとされる「古事記」は、ニニギノミコトの高千穂へ
の降臨、カムヤマトイワレビコの誕生と旅立ちなどのすべてが日
向国(宮崎県)での出来事だとする。
 このギャップをどう考えればいいのか。神話では、カムヤマト
イワレビコが日向から大和へ攻め上る「神武東征(遷)」がその
架け橋となるが、県文化財課専門主幹で考古学者の北郷泰道さん
は「『東遷』は稲作伝播(でんぱ)の経路を示す」と推測。その
うえで「古事記や日本書紀の編纂時、王権内に日向の関係者がい
たのではないか」と話す。
 北郷さんは、ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメの墓として
宮内庁が管理する男狭穂塚・女狭穂塚の真の主は、日向の大豪族
と伝わる諸県君牛諸井(もろかたのきみうしもろい)と、その娘
で仁徳天皇に嫁いだとされる髪長媛(かみながひめ)と考える。
「当時王権内での日向の勢力は極めて大きかった。それが記紀編
集の際に影響力を及ぼした」
 他方、歴史学者の工藤浩さんのように、「日向(ひむか)国」
の地名と、大和より西に位置することが重要だったと見る研究者
もいる。アマテラス直系の「日の御子」カムヤマトイワレビコが、
日の出ずる東へと向かうことで、物語が完成するとみる。
 ニニギノミコトが降臨したとして、高千穂町と論争があった高
原町に向かった。高千穂峰の麓(ふもと)に、カムヤマトイワレ
ビコ(神武天皇)が生まれたと伝えられる場所がある。今は公園と
なっているここには皇子原(おうじばる)神社があり、みると、
周囲を円墳が囲んでいた。
 小さな社だが、古代の古墳の存在と、「高千穂」の名を持つ山
が目の前にそびえることと関係があるのかもしれない。「見立て
」がなされた結果なのだろうか。
 最後に訪れたのは神武天皇を祭る狭野(さの)神社。1キロ以
上続く参道を歩いていると、オカリナを吹く男性に会った。ここ
が好きで、昼休みにわざわざ練習にくるのだという。
 日向が本当に神々の郷だったかという邪推はさておき、宮崎の
人の心に、今も神々が息づいているのを感じた。

 西都原古墳群。幾何学的ともいえる古墳の形がよくわかる
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 ※ この話は新聞記事より抜粋したものです。





 大物(だいもつ)ノ浦(うら)

 神崎川(かんざきがわ)は本流の淀とわかれて蟹島(かしま)、神崎ノ
里を過ぎ、やがて余戸(あまべ)ノ郷(現・尼崎市)から、同じ摂津の海へ
そそいでゆく。
 そのころはここの水路も上下する海運の荷船や旅人で賑(にぎ)わった。
途中幾つもの水駅には、遊女宿の家垣が岸に沿って見え、艶(なま)めい
た市女笠(いちめがさ)やら風の中の長い袂が船着きにながめられるなど
も、江口あたりと変わらない。
 が、朝はまだ白い靄(も)の中に眠っていた。-水に響く人声もまれに。
 「なんと、首尾はよいぞ。泊り船すら、まだ苫(とま)をかけて眠って
いた。-水に響く人声もまれに。
 「なんと、首尾はよいぞ。泊り船すら、まだ苫を掛けて眠っている。流
れ早し、大物(だいもつ)ノ浦までも、またたくうち」
 伊豆有綱は、万一を警戒していた水駅の一つも無事に通過すると、先頭
の船から、後ろへつづいて来る友船を振り返っていった。
 荷船や平船を交(ま)ぜた五、六艘(そう)であった。-江岸の人煙(
じんえん)をはばかりながら、流れにまかせ、水棹(みざお)や櫓力(ろ
ぢから)も協(あわ)せて、矢のごとく今こそ下って行く。
 平船の上には、あらわに馬群や武者の影が見える。しかし、静や河越殿
などの女房たちが、苫の下に隠されていたのは、いうまでもあるまい。
 義経の命で、江口を暗いうちに出たこの男女三十騎ほどは、吹田の岸で
船に移り、神崎川をここまで落ちて来たのである。ようやく明けてきた両
岸の霜景色を眼に、虎口(ここう)を脱した思いを抱いたにちがいない。
 「けれど、伊豆殿。まだまだ、油断はなりませんぜ、-支流(しも)に
は蟹島、杭瀬(くいせ)なんて、いやな所もありますからね」
 有綱へいったのは、まだどことなく小兵(こひょう)で子どもっぽさを
持っている、義経の侍童、鷲(わし)ノ尾三郎(おさぶろう)だった。
 かつて、ひよどり越えの山中で、義経に拾われたというこの童武者の朴
訥(ぼくとつ)さを、静は常々、可愛がっていたし、かれも静へは、忠実
(まめ)やかに仕えている。
 それを思って、義経は今暁特に、侍童(じどう)のかれを側から割いて、
有綱の人数にさし加え、少しでも、静が心強いようにと、静のそばへ、守
りによこしたのではあるまいか。
 「うん・・・・・。そこはがってんだ」
 有綱は、うなずいて見せ、
 「このまま難なく、大物の浦まで行けるとも思わぬが、杭瀬といえば、
余戸(あまべ)は眼のさき、余戸には、われらを待ってくれる味方もおる

 「渡辺党の者ですか」
 「そうだ。だが、その渡辺党も仲間割れを来たし、淀川尻(よどがわじ
り)からのご乗船は危ういという昨夜の報らせ。-そのため急に、用意の
船すべてを、大物の浦へ漕(こ)ぎまわさねばならぬ羽目となったらしい。
恐ろしいものだ、落ち目と見たら、人の離反は」
 「・・・・・・・あっ、伊豆殿。あれや何者でしょう。岸の道を何騎か
こっちへ素っ飛ばしてくるようですが」
 「えっ、どこに?」
 有綱の全身はすぐ戦気を持った肌になった。そして鷲ノ尾の眼ばやい指
先に眸をやったと思うと、ただちに、後ろの船へ、双手(もろて)を振っ
て叫んだ。
 「やあ、あれ遣(や)るな、あの敵を通すな。弓をそろえて、射浴びせ
ろ」
 ほかの船でも見つけていた。しかしかなたから馳けてきた三騎は、明ら
かに、水上の船を追い越そうとしていた。「それっー」とはいったものの、
矢づがえする間もない迅(はや)さだった。
 だが二騎は射止めた。一騎の者は、馬の背からころげ落ち、芦原(あし
はら)の方へ逃げこんでしまった。疑いもなく、先を越して下流の一味に
通報し、手ぐすねひいて待とうと計る敵の諜者(ちょうじゃ)にちがいは
なかった。
 川筋も、もう安くはない。水上を行く安全感があるだけになお危険だ。
万一、敵の大部隊が両岸に現われでもしたら自滅のほかはない。と有綱は、
考え直した。吾野与次郎(あがのよじろう)、片岡為春なども、また、
 「いっそ、陸を急ごう。陸ならば、なんの敵の五十騎や百騎」
 「余戸とやらも、はや、遠くではあるまいに」
 と、他の船からも口々の意見だった。
 「道理ぞ。このうえは一戦の覚悟でもー」
 有綱は、そう腹をすえた。
 が、しばらくはなお、船脚は流れにまかせ、ころ合いな岸を見て船を寄
せた。そして、まっ先に馬を揚げ、女房たちを皆、馬の背へ移した。
 わずか二十騎を「いつでも―」の戦闘態勢に組み、前後へ眼をくばりつ
つ、陸行し出した。
 童武者の鷲ノ尾は、ひたと静のそばへ馬を寄せ、
 「お側には、三郎がおります。静さま、三郎は、ここにおりますから、
お心づよく」
 と、何度も力こぶを入れて行った。
 静は、深い笠の裡(うち)から、三郎を見て、ニコと眸でうなずき返し
た。その黛(まゆ)といい、どこといい、三郎が気づかっているような顫
(おのの)きは、白い顔の翳(かげ)もない。
 河越殿(百合野〔ゆりの))とて、おなじであった。根が東国の武家娘、
こういう日には、それがものをいっている。りんとして、恐怖をを知らぬ
かのような姿である。むしろ前後の武者たちの方が、鳥肌にそそけ立ち、
硬ばった顔に、恐(こわ)い眼つきを並べていた。
 女とは一体、弱い者なのか、強いものなのか。鷲ノ尾は、きょとんと、
考えさせられていた。

 ふたたび陸路へ戻った策も、わざと、道を昆陽野(こやの)の南へとっ
て、中国街道へ、遠まわりして出たことも、下流に待つ敵をして、まんま
と、空(くう)を打たせてしまったものに相違ない。
 ために、時間は費やしたが、その日の未(ひつじ)刻(午後二時)のころ、
余戸(あまべ)の町屋根を、やっと間近なかなたに見て、有綱は、腹のそ
こから、
「やれ、よかった。ついに適ともぶつからず、女性(にょしょう)がたの
身にも、矢一つ掠(かす)めさせずにすんだ」
 と、重荷を下ろしたような大息を、ほっとついたことだった。
 義経からかれが受けた使命は、戦いなく、ただ、静と河越殿などの身を、
無事に大物の浦へ送って、義経の来会を待て―ということであったのを、
同時に、思い出していたのである。
 ほどなく、余戸の人里へはいる。
 ここは海人戸(あまのべ)、つまり漁業者の聚落(じゅらく)であった。
 「やあ、伊豆どのではございませぬか」
 どこからか、わらわらと、馳け現われて来た男たちがある。
 船頭風なものもあり、武者もいた。
 「おう、渡辺党の渡辺番(つがう)どのか」
 「お迎えに出ました。すぐ御宿所の方へ」
 「方角違いな道から来たゆえ、うまく行き会えるかと思うていたが」
 「いやいや、神崎川へ物見を出しておいたところ、どう知ったか、蟹島
(かしま)あたりに陣して、北の方を待ちうけるらしい敵の軍兵が、川を
はさんで両岸に伏せおるとのこと。これやまずい、もし敵に簗(やな)に
かかてってはと、一時は案じておりました。・・・・・・・が、午(ひる
)過ぎるも、蟹島になんの変もないと分かり、さすが伊豆どの、道を変え
たなと、お察し申していたわけで」
 「はははは、お褒(ほ)めにあずかったな。見らるる通り、女性がたも、
皆おつつがなく着かれたゆえ、安心してくれい。・・・・ところで、・・
・・眤(むつる)殿が見えぬが。眤殿は」
 「兄のは、今暁(こんぎょう)から、渡辺党の内でも、心をともにす
る輩(やから)だけを引きつれて、淀川じりの方へ、判官どののお迎えに
参りました」
 「殿を始め、お館の同勢は、途中、一戦も二戦もまぬがれまい。その方
面の御消息は、わからぬか」
 「どうしたか、まだ物見も立ち帰って参りませぬ。したが、遅くも夕刻
には、総勢これへ御安着なされましょう。・・・ま、それまでは、御宿所
にて」
 「む。われらはさて措(お)き、静さまや北ノ方さまには、あぞやお疲
れ。どこだな、御宿所の先は」
 「すぐ御乗船とのこと。また町中では、安心もなりませぬゆえ、いぶせ
き宿ではございますが、浦の磯屋(いそや)を幾つも清めさせておきまし
た。それへお越しのほどを」
 「では、大物ノ浦だな」
 「はっ。遠くではございません」
 番(つがう)と名のる渡辺党の者、そのほか十数名が案内に立って、
辻を西へ曲がって進む。
 するともう、すぐ、磯松のほか遮(さえぎ)りのない海の青だった。
 -ここが大物ノ浦だという。つまり余戸の屋つづきが切れてから、幾十
町かの間だ、風濤(ふうとう)の荒れにまかせられた大松小松の砂丘もふ
くめて。大物(だいもつ)ノ浦とよんでいるらしい。
 見ると、浦曲(うらわ)の白い線が、内へくびれている所に、帆柱の影
が、林をなしている。砂丘の蔭になって船体も船数も知れないが、そこは
また、神崎川(かんざきがわ)のはけ口でもあろうか。そこらを中心に、
漁家にしては大きな屋根、中くらいな屋根、藻塩を焼く小屋のようなのま
でが、栄螺(さざえ)を撒(ま)いたように、点々と望まれる。
 静たちの宿所は、その中の一軒であった。どんな荒磯風にも耐えられそ
うな太柱(ふとばしら)は
炉煤(ろずす)の黒光りを見せ、広い土間にも納屋にも、漁具がいっぱい
だった。
 「どうぞ、お心おきなく」
 渡辺党の人びとは、静の座へも、河越殿の部屋へも、満べんなく、ねぎ
らいに来て、
 「ほどなく、お館さまにも、御到着なされましょう。おのおのさまが、
お湯浴み、夕餉(ゆうげ)などもおすましのころには」
 と、何かの世話も到らざるはない。
 厨(くりや)にも、炉部屋にも、さかんに男どもの声が聞こえ、薪の炎
はどかどか音を立てている。奥までも煙たくて暖かい。夜にはいる前の、
一種いい知れない海辺の夕淋しさも肌寒さもいつか忘れさせられて来る。
 -だが、宵となっても、義経の人数は着かず、やがて、夜更けにも近づ
くのに、なお、到着の聞こえはない。
 「・・・・・・・?」
 静は、ようやく不安になった。
 自分の乳の下を搏(う)つもののように、海鳴りにおののく白い燈がそ
こにあった。
 とつぜん、燈が暗くなる。
 静は、燭(しょく)の芯を切って、また燈を見つめた。いつか男どもの
声もせず、家じゅうが、しいんと、不安の底に冷えきっていた。

 首 狩 人(くびかりゅうど)

 番(つがう)の兄、渡辺眤(むつる)からの連絡が、ここへあったのは、
もう夜半ごろであった。
 有綱、鷲ノ尾、吾野(あがのの)余次郎など、みな憂(うれ)いの中に、
眠りもえず、暗い空のみながめあっていたところである。
 -喘(あえ)ぎ、喘ぎ、眤の郎党は、人びとの影に囲まれて、告げてい
た。
 「御一同には、まだ敵の囲みのうちにおかれておいでです。夜にはいっ
て、一たん豊里(とよさと)の大日寺へ退かれましたものの―なお御苦戦
の状に変りもございませぬ。・・・・・なれど、大物ノ浦にても、さぞお
案じのことならんと、一応お報らせまでに、馳け参った次第にござります
る」
 「え。まだ豊里においでなのか」
 有綱たちは、唖然(あぜん)とした。いや心配そうな眼を急に遠くやっ
た。
 豊里といえば、江口のわずか下流である。
 今暁から、深夜までかかって、まだ江口から大淀の岸を一、二里しか下
りえないとは、どうしたわけか。
 まるで、立ち往生も同様な。
 いかに淀沿岸の輩(やから)が「-われこそ、義経の首を獲て、鎌倉ど
ののお覚えにあずからん」と、道に要しているにしろ。欲に目のない、節
操もない、浅ましい首猟人(くびかりゅうど)が、そんなにも数知れない
のか。
 わが殿判官(ほうがん)をしてさえ、立ち往生を余儀なくさせるほどな、
大軍の敵なのか。
 そう、問われて、使いの郎党は、
 「されば、何千とまとまった大軍でもございませぬが、烏合(うごう)
といっても、なかなか侮(あなど)り難く・・・・・・」
 と、今暁来の戦況やら、敵勢の素質を、こう話した。
 敵の主(おも)なる者は。
 摂津では古い郷党の、多田蔵人行綱(ただのくらんどゆきつな)。
 この一族は、由来、平家の世ごろから、変節常ない者と、世に指弾(し
だん)されていただけに、こんどこそ、義経を討って、鎌倉の御意(ぎょ
い)にかなわんものと、その活躍は、最も目ざましい。
 また、豊島冠者(としまのかじゃ)、太田太郎頼基などの手勢も、道や
河原に、柵を設けたり、埋兵の計を構えたり、同じ巧妙欲に抜かりがない。
 このほか。-鎌倉から足止め令をうけて、この付近にいた三河守範頼(
みかわのかみのりより)の部下、約四百があり、おなじように、藤原範資
(ふじわらののりすけ)の兵、百五十のも加わっている。
 さらに、所属不明な群小武士まであわせると、敵の総勢は、千以上と踏
んでいいか、二千を超(こ)すと見たらよいか、正確な数さえもつかみが
たい。
 ざっと、味方の八、九倍はあるものと思われる。
 しかしただ、かれらには、結束がない。
 こんどの場合、かれらはみな、鎌倉の賞が目あての首猟人に過ぎず、そ
の軍行動も個々の競争なので、連絡の縦横もなく、ばらばらに見える。
 当然、迫力に欠く。また、個々のもろさがおおいえない。
 今暁第一に、義経を襲った敵も、蹴(け)ちらされるや、すぐ影を消し
てしまった。-けれどそれから柴島(くにしま)まで進むと、そこでは、
多田行綱の組織ある強力な抵抗に出会い、奮戦また奮戦のすえ、破ること
はできたが、義経の側にも、二十数名の死傷を出した。
 一軍が逃げると、一軍が現われる。
 半里か一里ごとには、終日、敵をかえた血戦が挑(のぞ)まれて来た。
 河原の石も、街道の泥土も、血にせずには、通りえなかった。いつか、
後ろも敵、前も敵。
 しかも、敵は淀の水を利して、小うるさく上下し、退いても、進んでも、
つきまとう。
 広い葭(よし)や芦(あし)の地帯にも、畑にも森にも、敵の背がはい
かがんでいる始末。
 弁慶、伊勢、亀井などの勇者も、終日の奮戦に、疲れはてた姿となった。
-陽はいつか西へ落ちかけている。-ひとまず後へ退いて、人馬を休め、
突破の道を、べつに見つけ出すほか、策はない。
 で、空しく、豊里の大日寺まで引返したわけであった。渡辺眤(むつ
る)
の渡辺党四十幾人が、その日、途中から加勢にはいったが、義経の部
下においても、それと同数ぐらいなーいや負傷者までをいれれば、もっと
多くの犠牲者を出していた。

 「むなしく手を拱(こまぬ)いて、ただ、殿をここでお待ちしていてよ
いものか」
 当然の声が、人びとの間にわいた。
 渡辺の番(つがう)すら
 「ここは、渡辺党の者二十余名、船手の男をあわせれば、六、七十名は
おりまする。女性(にょしょう)がたの守備は、われらにお任せあって、
殿の苦戦へ、加勢にお急ぎあってはいかがで」
 と、顔に憂いを濃くしていう。
 もとより有綱たちは、そうしたい。
 しかし万一ということもある。-もしその間に、静や河越殿の身に、異
変でも起こったら、どうするか。
 それを思うと決しかねる。
 すると、家の奥から飛び出して来た鷲ノ尾が、裏へ馳けて、駒繋(こま
つな)ぎから二頭の馬を解いて、両手で口輪を取りながら勇み立って来る
のが見えた。
 「三郎、それはたれの駒ぞ」
 吾野余次郎がたずねると。
 「静さまのおいいつけです。一頭は河越殿のお馬です」
 と、したり顔に答えた。そして、いうには。
 「静さまも河越殿も、はやお見支度をしておりますよ。殿のおわす豊里
とやらへ、御加勢に馳けつけるお心なんです。それなのに、武者方は、何
をぐずぐずしているので」
 「なに。おふた方が?」
 事実であった。
 味方の苦境、そして、そこから脱しえない良人(おっと)の死地を知り
つつ、なんで晏如(あんじょ)としていられよう。すぐにそう心をきめた
ことであろう。静と百合野は、腹巻姿に行縢(むかばき)の紐(ひも)を
くくって、小薙刀(こなぎなた)を持ちかえ、
 「わらわたちも、急ぐであろう。伊豆も、次郎も、先を馳けよ。豊里の
道へ」
 と、かなたの廂(ひさし)の外に姿を見せた。
 「めっそうもない」
 有綱は飛んで行って、切にいさめた。
 そして同時に、自分たちの腹もきめた。
 「お健気(けなげ)なおことば、女性がたのお後(あと)を案じて、有
綱らも、ここを立ちかねていた次第ですが、お二方に励まされた思いです。
御加勢へは、武者われらが馳せ参りますゆえ、どうか、おん方たちには、
ここにいて、吉報をお待ちくださいませ。ほかの小女房どもも、おります
ことゆえ」 
 それでもなお、静たちは「良人(つま)なくしてなんのこの身」と、生
死もともにとあせって嘆く。しかし、番(つがう)までが口をそろえて止
めるので、ようやく思い直していった。
 「・・・・・では、心ならぬ気はするが、有綱たちのいうにまかせて、
ここに残っておりましょう。後に憂いを抱かいでもよい。ただ、一刻も
はやく殿の方へ」
 すでに、夜半は過ぎている。
 明ければ、十一月五日なのだ。いやがる鷲ノ尾を、しいて後に残し、有
綱たちは、渡辺の者も加えて約四十騎、豊里をさして急いだ。
 豊里まで、三里とはない。だが、土地に明るい番(つがう)の話による
と、途中はいちめんな沼地だとある。葭芦(よしあし)の密生は果てもな
く、また神崎川と大淀の中間でもあるため、支脈の水が縦横に流れ、旅人
の通路にもなっていないとのことだった。どうしても河尻(かわじり)か
ら河原道をとるか、さもなければ、昆陽(こや)野、伊丹(いたみ)の方
を、大きく迂回(うかい)して行かねばならない。
 さて、そうした難所を、騎馬でどうか馳けて行ったろうか。
 後には残ったものの、静も 百合野も、思いはともに、雁(かり)も飛
ばない暗い空を、馳けていた。
 有綱にいいつけられていたのだろう。-鷲ノ尾三郎の影が、砂丘の高い
所に、降り立った一羽の鷲のように、ぽつねんとひとり立っているのが見
える。
 かれの眼ばやい眼は、八方を哨戒(しょうかい)していた。特に、足も
との河口から神崎川の上流―余戸(あまべ)の人家が望まれる方などへ。
 もし、昼間の敵が上流の蟹島(かしま)、杭瀬(くいせ)あたりから、
船で下って来れば、この真下へ来ることになる。
 想像だけでも、この童武者の血が猛(たけ)ぶるには、充分だった。が、
神崎川の水は、何も乗せては来ず、ただ海との同化をここまで急いで来て、
同化を嬲(なぶ)られる一瞬のもだえを、ゆるく大きく、渦として、河口
に描いているだけであった。
 そのうちに、かれの頭の上でも下でも、チチチチと、鳥の音がしだした。
千鳥は多い。千鳥の羽音が、沖をよぎる。
 「・・・・夜が明けるな」
 鷲ノ尾は、ほっとしてきた。
 同時に、明けてもまだ、ここへ着かない味方の上を、案じ顔であった。
 気がつくと、すぐそこの、寄せ場の船影は、上下の揺れを、無数の帆柱
に、見せはじめていた。浦一帯の岸波も、いつか高い。千鳥の叫びは、何
か、天候の変りを告げているもののようだった。

 戦い戦い、義経主従が、敵の中を突破して、からくも、ここへ着いたの
は、その朝、巳(み)の刻(午前十時)ごろだった。
 加勢に向かった有綱とは、馳け交(ちが)ったか、会っていない。-義
経たちは、未明に、一角の敵へ奇襲をかけ、沼地の伏兵を蹴ちらし蹴ちら
し、
道もない地帯を、無二無三、踏破(とう)して来たのである。
 難波(なにわ)〔今の大阪〕へはいってからも、随所で、手強(てごわ
)い適とも遭遇したが、一致のない軍兵なので、個々に打ち破れる利があ
った。しかし、後にも先にもといった工合で、執拗(しつよう)なこと、
いいようもない。
 長柄(ながら)の渡辺橋付近は、渡辺党の郷土、かれらとの一戦は避け
えまいと覚悟したが、ー同族中の眤(むつる)や番(つがう)が味方の中
にいたせいか、-義経の通過にたいしては、立ち塞ふさ)がりもしなかっ
た。中立を守ったのである。
 で、あとは、長柄から浦づたい、一気に大物まで馳け通して来たわけだ
った。
 けれど義経始め、戦いつづれた鎧(よろい)の袖(そで)や、髪のみだ
れは、血にも染んで、たれもかれも、じつに惨たるものだった。
 かえりみ合えばー
 たれもいない、たれも見えぬ。
 都を出たときの総勢は、その半分ぢかい人びとを、失っていたのである。
まさに茨(いばら)の道、つるぎの林を越えて来た感であった。
 「さても、心もとない有綱たちよ。-義経すらも、こうなのに、聞くが
ごとき小勢では、よも、難なく帰り着くことはできまい。可惜(あたら)
のことを」
 義経は足ずりして、それを嘆じた。
 あらかじめ、義経がもっていた予定では、すでにきょうは五日、ゆうに
一日は、敵の邪(さまた)げに、費やされた。この浦に着いただけでも天
祐(てんゆう)だった。即刻、用意の船に乗り込もう。傷者の手当、体の
休め、兵糧をとることなど、すべては沖へ出てからもできること。-なお
また、敵の襲来を、ここに招いては、いよいよ難儀だとも考えていたので
ある。
 「・・・・が、有綱たちが、帰らぬうちは」
 しきりに、かれは、それを待った。何度も何度も、附近へ物見を出して
「・・・・まだ、見えぬか」を、繰り返した。
 しかし、その小半日も、むなしく過ぎたわけではない。将士は空腹をみ
たし、身も休めた。また、渡辺党の者の手で、船はいつでも、ともづなを
解くばかりに、準備もされた。
 「はて、いやな空模様になったものだ。のう兄者人(あにじゃびと)、
どうあろう?」
 番は、兄の渡辺眤(むつる)にささやいた。
 一つの磯小屋の中で、眤(むつる)さっきからひとり顔をしかめていた
ところである。
 「うむ・・・・・」と、重くうなずいて「最前から観ているが、どうも、
いやな海占(うみうら)が立っている。この風が、気ちがいの風の先駆(
はしり)でなければよいが」
 「強いやまぜにでもなっては」
 「見るがいい。群ら千鳥の、あの乱れを。・・・・番(つがう)、わし
と一しょに来い、わしだけのことばでは足りぬかもしれぬ」
 何か、かれは重要な意見をもち、番もそれに同意させ、ともに、献言す
る考えで出かけたらしい。
 連れだって、義経の仮の幕舎へ行った。
 ちょうど義経は、伊勢、佐藤、亀井、弁慶そのほかの腹心に取り囲まれ
て、何事か奥で、語調も穏やかでなく、いいあっているところだった。
 「いやいや、たとえ、こよいを過ぎようが、義経は待つ。-この義経を
探しに出た有綱たちを捨てて、船出はできぬ。もしまた明朝まで帰らずば、
ふたたび、義経が探しに出ん」
 こういいきっている義経の声がする。声には、本来のかれが、そのまま
出ていた。何かの周囲の言が、気に逆らったのであろうか。いつになく激
越である。
 「・・・・・・」
 番(つがう)と眤(むつる)は、顔見あわせた。
 そしてなおも耳をすましていると、そこの直臣たちも、風浪の兆(きざ
)しを案じて、即刻の船出と、また、有綱たちのことは、大事の前の小事、
御断念あるようにと、切に、義経へすすめていたものだった。
 伊勢三郎は、元、江ノ三郎といった伊勢の海の漁夫である。弁慶もまた、
熊野の鯨捕りの男どもにも伍(ご)して育った。いわば、海洋の子であっ
た。
 渡辺の兄弟たちが「・・・・・これは?」と感じた天候の凶相は、伊勢
や弁慶も、もう予感していたのだ。しかも、その凶(わる)さは、刻々に
つのるらしい様相に思われた。で、直言をこころみたが、義経はききいれ
ようともしないのである。
 「・・・・・・・」
 座は、気まずくさえなったらしく、人びとの声もとだえた。
 「困ったものだ」という周囲の顔が、渡辺の兄弟のも、眼に見えるよう
であった。
 とかく、將器に不必要な顧慮にひかれて、大事を思わず、小心恋々たる
のが、ついにこの殿の本質だったか。
 いや、その美しい愛情にこそ、部下もひかれ、死生も一つという気にな
る。この人ならで、なんで自分らも、こんな辛苦を、ともにする気になる
ものか。
 そう二つの見方に、周囲の沈黙は、今さらのような惑(まど)いを抱き
ながら、黙るほかない俯(ふ)し眼で、おりおりそっと、きげんを損じた
人の面(おもて)を、うかがい見る風であった。
 きょうも、砂丘の上でたち暮らしていた鷲ノ尾が、とつぜん、大声で、
 「見えましたっ。伊豆どのが、帰って来たらしゅうございますぞ」
 と、ここへ叫びに来たのが、その時だった。おりもおり、義経はじめ、
いちどに、憂いを去って、よろこび合った。
 しかしそれはぬか歓びどころか、全く逆な事態であった。もう四辺暮靄
(ぼあい)のせいでもあったろうが、余りに首を長くしていた鷲ノ尾の誤
認だった。思う有綱たちの帰りと見たのは、襲(よ)せてきた敵の一群だ
ったのである。
 余戸の方から迫った黒い雑多な装(よそお)いの敵は、舞うのあいだや、
砂丘の蔭をはい近づき、たちどころに、ここへ向かって矢の雨をそそいで
来た。
 しかし、風がつよく、矢の多くが、むだ矢にすぎないとみると、わあっ
と喊声(かんせい)をあげ、またどこかで、つぎつぎに喊声を揚げた。そ
うして、なかなか近づいては来ず、もっと多い仲間の援けと、夜を待とう
とするものらしく思われた。







































 今日は、日中の気温は20℃を超え、さすがに上着は不要でした。
 午後、家内が親しくしている、近所の奥様と3人で、いつもの日野市に
ある園芸センターへ行ってきました。最近の園芸センターは、プランタな
どに寄せ植えするような1年草の花が多く、盆栽は大変少なくなっていま
す。今の季節これから花を楽しむ、木瓜(ボケ)の盆栽を2鉢、知り合い
の奥様が購入され、そのうちの1鉢わが家にを頂戴いたしました。
 品種は「芳寿の誉」といいます。
 楽しみがまた一つ増えました。

    「木瓜(ボケ」芳寿の誉 2018.03.14 撮影
CIMG0056


































 一輪開花しました。

      木瓜(ボケ」芳寿の誉 2018.03.15 撮影
CIMG0003



























 2018年3月16日(金曜日)

 朝からどんよりとした雲に覆われた天候です。日中の気温は昨日より7
度低い15℃を予想しています。この芳寿という木瓜(ボケ)の花は非常
に上品な花のように観えましたので今日も撮影してみました。

    「木瓜(ボケ」芳寿の誉 2018.03.16 撮影
CIMG0007


















 この芳寿の誉は、午前中に撮影をしたのですが、午後観るとこの花は、
鉢の中に落ちていました。まだ咲き初めたばかりすので、たぶん「ひよど
り」か「めじろ」の仕業(しわざ)だと思います。
 寒い時期は、鳥たちも、食べ物が少ないので、しかたがないかもしれま
せん。

              木瓜(ボケ」芳寿の誉 2018.03.16 撮影
CIMG0008




























 2018年3月17日(土曜日)

 昨日より気温は低めですが、素晴らしい太陽の光が木々の葉を照らして
います。一輪落花しましたが、待っていたようにつづいてもう一輪が満開
を迎えようとしています。

    「木瓜(ボケ」芳寿の誉 2018.03.17 撮影
CIMG0010

























                  木瓜(ボケ」芳寿の誉 2018.03.17 撮影
CIMG0011
























 2018年03月15日(木)

 今日も昨日と同じくらい4月頃の陽気になっています。最寄りのコーナ
ン(ホームセンター)内にある園芸センターに行き、木瓜(ぼけ)の挿し木
に使う商品名「メネデール」を購入してきました。
 このメネデールは、植物の発育によい成分の入った液体ですが、挿し木
に使用するというものです。
 まず、赤玉土を粉状にすりつぶし、これにメネデールを適量入れ、混ぜ
たものを、木瓜(ぼけ)の親木から枝を10㎝くらい剪定して、その切り
口に串し団子みたいに巻き付けます。
 そして、赤玉土を入れて拵(こしら)えた鉢に挿し木するという工程で
す。
 上記写真の木瓜の木で試してみようと考えていますが、リスクを伴う可
能性がありますので、少々迷っているところです。

 午後、やはり木瓜(ボケ)の盆栽の親木から、枝を剪定し前述の要領に
て、挿し木を施しました。

 2018年03月19日(月曜日)

 日中は曇り空でした。気温も16℃くらいでしのぎやすい一日で
したが、夜19時ころから雨が降り出し、この雨は明日の午前中
まで続くといいます。明日は真冬並みに気温が下がり、日中でも
7℃までしか上がらないそうです。
 木瓜(ボケ)の盆栽の花があまりに美しいので、撮影しました。

    「木瓜(ボケ」芳寿の誉 2018.03.19 撮影
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               木瓜(ボケ」芳寿の誉 2018.03.19 撮影
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    「木瓜(ボケ」芳寿の誉 2018.03.23 撮影
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 2018年3月26日(月曜日)

 弱い日差しが朝からありますが、日中は21℃くらいまで気温がるとい
う予報が出ています。
木瓜(ボケ」芳寿の誉も元気に花を咲かせています。

   木瓜(ボケ」芳寿の誉 2018.03.26 撮影
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     「木瓜(ボケ」芳寿の誉 2018.03.27 撮影
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               木瓜(ボケ」芳寿の誉 2018.03.27 撮影 
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  2018年3月28日(水曜日)
 
 この処、春霞がかかり、空気がすっきりしませんが、これは気温が上が
ってきている証拠でしょう。日中の気温は23℃近くになりました。
木瓜(ボケ)の盆栽も日に日に花の数を増やし、花弁も大きくなっています。
 
    「木瓜(ボケ」芳寿の誉 2018.03.28 撮影
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           「木瓜(ボケ」芳寿の誉 2018.03.29 撮影
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    木瓜(ボケ」芳寿の誉 2018.03.29 撮影
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 2018年4月2日(水曜日)
 桜の花もすっかり散り、その代わりに緑の若い葉芽吹きはじめました。
 わが家の庭に置いている木瓜の盆栽は、満開となりました。このような大
きな花は記憶にありません、色合いも含めて素晴らしい長めです。この親木
から挿し木をしたのも今のところ順調に生育しています。
 
     「木瓜(ボケ」芳寿の誉 2018.04.02 撮影
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  2018年4月3日(火曜日)

 木瓜(ボケ」芳寿の誉は今が、挿し聖域です。予想より花弁が大きくし
かもゴージャスな感じにびっくりしています。

 
    木瓜(ボケ」芳寿の誉 2018.04.03 撮影
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          木瓜(ボケ」芳寿の誉 2018.04.03 撮影
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     ボケ(芳寿の誉)の挿し木 2018.03.15 撮影 
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 2018年3月22日(木曜日)
 挿木したボケ(芳寿の誉)は元気そうです。裏庭の梅の木の枝も
一昨日挿し木してみました。

 ボケ(芳寿の誉)2018.03.22 撮影 
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2018年3月23日(金曜日)

 今日は穏やかな春の陽ざしがいっぱいです。もうこのまま日に日に気温
も上がり本格的な春が訪れそうです。 ボケ(芳寿の誉)の挿し木も
1週間が経ちましたが、順調です。このままいきますと、開花も
まぢかと思われます。
 二、三日前、裏庭の梅の木の枝を剪(き)って、このボケ(芳寿
の誉)の鉢に
挿し木をしてみました。この裏庭の梅の木は、国立
の園芸センターで購入しましたが、もうわが家に来てから30年
は経過
していて、大きな木の割には、一部分にしか花が咲かなくなりまし
たので、次世代に残す必要性を感じ、このようにしたものです。
何しろ記念樹ですから。


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 2018年3月25日(日曜日)

 朝から春本番の太陽が降り注ぎ、木々の若い葉が顔を出しています。
人の心もこの春の薫りに誘われて、野山に出かけたい気分になります。
 昨日は、東京の桜が満開になったと報じていましたので、いても立って
もいられずに、歩いて50分歩き、久しぶりに立川市の根川緑道を散策し
て来ました。桜は八分咲きでほぼ満開でした。
ところが、目当ての大きな木に先分ける桃の花は、まだ少ししか開花して
いなくてがっかりでした。
この咲きわけの桃の小枝を失敬して、挿し木にしようと、考えて
いましたが、小枝は生憎高いところにあって、手が届かないので
諦めました。

さくら、モクレン、水仙、こぶしの木々が小川のそばに植わり、緑道に癒
しを頂いてきました。

 自宅の庭で挿し木をしている、ボケ(芳寿の誉)は、花が開いてきまし
た。
      ボケ(芳寿の誉)2018.03.25 撮影
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 2018年3月26日(月曜日)

 挿し木をしたボケ(芳寿の誉)は、満開寸前です。

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   挿し木をしたボケ(芳寿の誉)2018.03.27 撮影
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    挿し木をしたボケ(芳寿の誉)2018.03.28 撮影                
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 園芸センターに行ったついでに、違う種類の木瓜(ボケ)を一鉢購
入してしまいました。
 品種は、「十二一重」です。

            木瓜(ボケ)  「十二一重」      2018.03.15 撮影  
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 この十二一重の木瓜(ボケ)はなかなか花の蕾が膨らみませんが、
徐々に生長しています。

    木瓜(ボケ)  「十二一重」      2018.03.27 撮影
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 2018年4月9日(月曜日)

 今日は朝から紫外線の多そうな強い陽ざしがあります。庭のあたりも若
葉が増えてきている中、十二一重(ボケの花)が真っ赤な色彩で誇らしげに一
輪開花しました。


     木瓜(ボケ)  「十二一重」      2018.04.09 撮影
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 2018年4月10日(火曜日)

 日中の気温は17℃と少し肌寒い一日でした。ですが陽ざしはいっぱいで、
すがすがしい気持ちになりました。木瓜の赤い花が目に染みるように美しい
です。
 この花が終わると、少し大きめの鉢に植え替えをする予定です。

    木瓜(ボケ)  「十二一重」      2018.04.10撮影  
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    木瓜(ボケ)  「十二一重」      2018.04.11撮影   
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               木瓜(ボケ)  「十二一重」      2018.04.11撮影
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 今は昔―淀の夜がたり

 
静も、衾(ふすま)にはいろうとしたが、何か、すぐに眠られぬ心地も
する。
 ひとり、火桶(ひおけ)の白い灰をかき立てなどして、
 「ここですら、この寒さ、あの破れ寺の床に、物具(ものぐ)を解かぬ
仮寝の殿は・・・・・」
 と、心はいつか、義経のそばへ行っていた。
 すると、廊を戻って来た跫音(あしおと)が、壁の外から、遠慮がちに、
内をうかがいながらいっていた。
 「・・・・・まだ、お寝(やす)みではございませぬか。この家(や)
のあるじの妙(たえ)でございまするが」
 静のゆるしを待って、かの女は、唐塗(からぬり)の台盤を持ちながら、
そっとそれへ入って来た。 
 「さぞ、お冷えになりましょう。いかがでございます、お寝(やす)み
の前に、お一杯(ひとつ)おすごしなされては」
 「御酒のようですが」
 「ええ、猿酒(さるざけ)とも美酒(うまざけ)ともいい、きついこと
はございませぬ。川添いの家のせいか、酒(さけ)の気(け)でものうて
は、衾(ふすま)を被(かず)いてもふるえまする。・・・・・さ、どう
ぞ、わたくしも御相伴(しょうばん)いたしますから」
 「せっかくですから、では、ほんの一つ」
 以前は白拍子であった静である。杯を唇(くち)へ持ってゆく指のしな
にも、どこか違う趣(おもむき)がないではない。
 「ほんに、きょうはびっくりいたしました。君立ち川(都の花街)におい
でのころとは、少しお窶(やつ)れのようには見えますが、たいそうお立
派におなり遊ばして」
 二つ三つ、杯をすごし合ううち、妙(たえ)ノ御(ご)は、静の姿を見
入るような眸(め)をしていった。
 静は、すこし顔を染めて、
 「お覚えでしたか。この家(や)を見たとき、静も、なつかしゅう昔を
思い出していました。まだこの身が街(まち)にいたころ、柳桜(やなぎ
ざくら)の季節には、都の遊客(まろうど)たちと舟に乗っては、裏の桟
橋(かけはし)から、ここの楼へ登って、終日(ひねもす)、よう遊んだ
ものでございましたが」
 「忘れるものではございません。-大淀の水をうしろに、水干烏帽子(
すいかんえぼうし)で、あなたがお舞になったお姿など、・・・・今でも
眼にのこっておりまする」
 「お恥ずかしい・・・・・」
 「いえいえ、その後、堀川のお館へ輿入(こしい)れと伺ったとき、や
はり判官さまはお眼が高い。静の君と、あの殿なら、さぞお似合いなと、
嫉(ねた)そねみの陰口でなく、たれもみなそうお祝い申しておりました。
・・・・けれど、あれからまだ年月もわずかなのに、あわただしい、この
たびの都落ちとは。・・・・・・なんとまあ意地の悪い、花に嵐(あらし
)でございましょうな」
 傷々(いたいた)しいと、同情の眼で見られるのが、静には、かえって
辛い風情であった。
 と察してか、あるいは、初めから何か聞いてもらいたつもりで、しきり
に杯をすすめるのか、妙の御は、ほんのりと酔いの香を眼もとへたたえな
がら、
 「・・・・・けれどなあ静さま。女の一生は、何が倖せといって、相愛
の殿と、一つにさえいられたら、それでもう一切この世にほかの欲は要(
い)らないのではございませんか。この妙などにくらべると-くらべたり
しては御無礼かもしれませんが、-ほんに今の御苦労は、おうらやましゅ
うございます」
 「仰っしゃる通り、静も今を、幸せに思うております。殿のおん身に、
百難がかかれば恋にも、百難に当る力が燃えてまいりますから」
 「女と生まれて、なんとまあ、よい生き効(が)いにお会いでしょう。
この妙などは、それを思うと、もう、口惜(くちお)しくてなりません。
-再びはない女の春、つぼみから花の年ごろを、想う人とも、可惜(あた
ら)、一日も一しょに過ごさずに、行き迷(はぐ)れてしまったのですか
ら」
 「では、あなたの初恋のお人というのは」
 「ま、静さま。・・・・聞いてください。なぜか今夜は、あなた様に、
それを聞いていただきたくなって、もうもう無性に、話さずにいられなく
なったのです。こんなことは、初めてですし、これからも長く、人に語ろ
うとは思いませぬが」
 妙ノ御は、ほほ笑みながら、眼は露をもっていた。複雑な奏(かな)で
が心に鳴っている証拠に見える。ゆめ、酔いのうえのいたずらな繰(く)
り言(ごと)ではなさそうである。
 「遊里に住んでいる女ずれがと、たれも真顔で聞いてはくれますまい。
が、静さまならと、御迷惑でも、初めてお打ち明けいたしまする。・・・
・・じつは、わたくしの初恋のお人とは、今は亡(な)き、六波羅の平相
国清盛さまなのです。いえ、まだあのお方も、伊勢の小殿とか、平太清盛
と呼ばれておいでのころでしたが」

 思わぬ人から、思わぬ恋語りを聞かされるものよと、静は、ただ聞き入
るばかりであった。
 妙ノ御は語り飽かない。
 美酒(うまざけ)に酔わずとも、自分の回顧に酔うているのかもしれな
かった。
 「もともと、わたくしは遊里の生まれではありません。-幼名(おさな
)は、瑠璃子(るりこ)。父は伊賀守藤原為成といい、遠い任地の国で果
てたので、身寄りの中御門家(なかみかどけ)で育てられ、その間に、祇
園女御(ぎおんにょご)という小母(おば)さまに可愛がられるようにな
ったのです」
 祇園女御といえば、今も人の語り草には残っている。
 もとは祇園の遊君。時の白河上皇に愛され、やがて、清盛の父忠盛へ嫁
(とつ)いだ女性である。虚栄のつよい、そして貧乏世帯や、ただの母性
でいるには、たえられない人であった。
 子の清盛との間にも、とかくな感情のへだたりがあり、家庭も子も打ち
捨て、やがて、戦乱の都も捨てしまいには、江口の里で、澪(みお)の禅
尼(ぜんに)ー色禅尼などともいわれ、妓家の女あるじと、なりすまして
いた。
 瑠璃子は、かの女にまたなく可愛がられた。腹をいためた幾人もの実子
は皆、かえりみもしないかの女なのに、瑠璃子だけは手離さず―それが瑠
璃子の不幸であるか否かは問わず―江口の遊君に仕立ててしまった。そし
て、この家の跡目を継(つ)がせたものである。
 「・・・・・・まだ養母(はは)も生きていたころでした。あれは、そ
う平治の合戦が起こる半月ほど前のこと」
 ここまで話して来て、妙ノ御は、なおしみじみとした口調で、青春の惜
しみを、嘆いた。
 「そのころ、もう、安芸守清盛(あきのかみきよもり)となられていた
あのお方が、熊野詣(もう)での途中、江口の一夜を、ゆくりなく、この
家に泊まられたことがありました。・・・・その晩、たいそう養母も酔い、
あの殿もお酔いになり、あげくに、いやがるわたくしも、強(た)ってと
いわれて、むかしの恋人の前で、舞を舞わされました。泣き顔を化粧に隠
して、わたくしは夢中で舞ったのです。・・・・なぜといえば、もうわた
くしは、以前のきれいな瑠璃子ではなかったのですから」
 その晩―と、かの女は返らぬ惜しみを、その時の回顧と、嘆息にこめて
いう。
 自分は、舞い終わるとすぐ、人目につかない部屋へ隠れて、泣き明かし
てしまったが、後で思えば、その夜が、生涯に与えられた、たった一度の
機会であった。
 なぜ恋人の胸に身を投げて、それまでの、秘めていた想いを聞いてもら
わなかったのか。
 それだけが、悔やまれる。
 この年になってもまだ、思い出すと、きのうのことのように口惜しいし、
悲しいし、やる瀬がない。 
 女とは、なぜこうなのであろう。その時を逸してからは、まもなく平治
の乱となり、想う人は、たちまち、六波羅殿とあがめられ、平家一門の上
に君臨する人となって、月日のたつほど、手もとどかない遠い遠いお人に
なってしまったではないか。
 そして、それきり養母も六波羅殿とは、会わずじまいでこの世を果て、
自分もただよそながら、平相国入滅の御葬儀のせつ、人中のほこりに交じ
って、お柩(ひつぎ)を遠くから拝んだばかり・・・・・。とうとう、生
涯、想いの端も、想う人に知ってもらえずに、こんな媼(おうな)になり
果ててしまったわけでした。-と、妙(たえ)ノ御(ご)は語り終わると、
初めて、さんぜんと、人前もない涙を流して、面を袖につつむのであった。
 「-ま、そのようなお身の上でしたか」
 意外なと聞くよりは、静は、身にひきくらべて、心からあわれに思った。
うらやましいと、媼がさっきいったことばが分かる。
 「でも、それ以前、中御門家においでのころは、平太清盛さまにも、あ
なたの恋は、かたちに出さないまでも、分かっておいでだったのではござ
いませぬか」
 「そう取れば、なお辛さが増しまする。・・・・・加茂の競馬やら何か
のおりに、二人の眸では、若い想いが、燃えつきたがってはいたのですが、
いつも必ず養母がそばにいて、わたくしたち二人を焦(じ)らすような、
また平太さまを釣るような、意地の悪い興(きょう)がりをして、わきで
見ているといった風でしたから。・・・・・ホ、ホ、ホ。もうやめましょ
う」
 妙ノ御は、顔を直して、
 「何もかも、自分のせいです。わたくしが余りにまだ恋を眩(まぶ)し
がってばかりいた年ごろのせいでした。乙女心(おとめごころ)の嘘と悔
むしかありません。・・・・おう夜も更(ふ)けたそうな。つまらない繰
り言を長々おしゃべりして、さぞ、御迷惑だったことでしょう。・・・・
・さ、どうぞごゆるりと、お寝(やす)み遊ばして」
ことでしょう。さ、どうぞごゆるりと、お寝(やす)み遊ばして」
 と、詫(わ)びながら、退(さ)がっていった。

 -それから、幾時たったであろうか。
 寝る間もない心地であったが、深い眠りに落ちていたには違いない。
 静は、どこかでする武者の大声に、はっと、眼をさました。
 「静さま、静さま。-北の方様ににも、すぐお身支度なされませ。小女
房たちも、猶予あるな。すぐこの家を立てとの、殿よりのお使いですぞ」
 あわただしい、物音と燈影の乱れが、百合野の部屋の方にもあった。
 馳けてきた妙ノ御が、息をはずませて。
 「何やらにわかに、町端(はず)れの御陣の方でも、戦(いくさ)のご
用意が見えますそうな。ああこんなことなら、夜前(やぜん)のお寝みを、
お邪(さまた)げするではなかったのに」
 「なんの、それよりも、百合野さまは」
 「はや、表の木戸の方へ」
 「そうですか。お世話になりました。では妙ノ御、お倖せに」
 静も外に出た。まだ、まっ暗である。一方の空だけが、わずかに白い。
 往来には、ニ十騎ほどが、霜風(しもかぜ)にそよいでいた。中にいた
伊豆有綱が、静の影を見るや、すぐ寄ってきて、
 「今暁、大淀の柴島(くにしま)辺から、そろうてお船へ移るはずのと
ころ、渡辺党の者から、報(し)らせがあって、にわかに、御用意のお船
は、みな大物(だいもつ)の浦へ漕(こ)ぎまわしたとのこと。-それが
しどもは、女房がたをお守りして、ひと足先に、神崎川(かんざきがわ)
より大物ノ浦へ急ぎまする。すぐきのうのように、お馬へ召されませ」
 と告げた。
 「して、殿。そのほかの郎党は」
 駒へ寄りながら、静は、訊(たず)ねずにいられなかった。
 「されば、物見の言によれば、これより西の街道や河原には、先に紀(
き)ノ兼資(かねすけ)を襲うた太田太郎、豊島(としま)の冠者(かじ
ゃ)、多田行綱(ただのゆきつな)などが、お館のさしかかるを、ござん
なれと、武者ぶるいして、待ちもうけておりますよし。好まぬ戦でも、蹴
散らさないでは、通りえませぬ。・・・・・で、足手まといな女房たちは、
神崎川を下って、先へ行け。大物(だいもつ)の浦にて、行き会わんとの、
仰せつけにござりまする。いざ、いざ、お急ぎを」
 たちまち、かの女らを乗せた駒を前後につつんで、一列となった迅(は
や)い影が、町を出、野を横切って、神崎川の下の方へ馳け去った。
 針をふくむ朝風は、もう敵の鏃(やじり)のように、かの女らの肌には
感じた。いや、事実のどこかで、恐ろしい武者声も揚がっていた。江口を
西へ距(さ)るおよそ四、五町ほど先の道の辺(べ)であった。

 

















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