atusisugoiのblog

2013年09月

 聖蹟桜ヶ丘駅にある京王百貨店に行って画材を購入しました。
 帰りに多摩市関戸5-35-5に存在する都指定史跡(霞ノ関南木戸棚跡)
を訪ねてみようと思い、車を走らせました。
 聖蹟桜ヶ丘駅を背にして、桜が丘団地を目指して坂道を登り一番高い
場所から今度は下り坂に入りました。
 下に見えるロータリーを時計方向に曲がり右折をしますと、間もなくバス停
です。

 桜ケ丘に住んでいたころは、このバス停から5分くらい歩いて少し奥まった
ところに入って行くと栗畑と雑木林がありました。
 このあたりに家があり、通勤はかなり時間がかかりましたが住むには環境が
かなり優れていました。
 このころは、小説は司馬遼太郎作品を夢中で読み、オーデイオにも凝ってい
ました。
 そのころ使っていたスピーカー(商品名:ダイヤトーン)を今も使用しています。
 懐かしく思い出しています。

 話がそれましたが、このバス停を左折して、さらに下りこう配の道に出て、最
初にある一般道を左折し、2㎞くらい走ると左側の小高い雑木林の中に熊野
神社がありました。
 鳥居の中に入った左手に少し茶色い丸太の列が見えますが、これが柵です

                熊野神社の鳥居
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           都指定史跡(霞ノ関木戸柵跡)の石碑

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 鎌倉時代の建暦3年(建保元年・1213)に鎌倉街道に設けられた関の
棚跡とされます。
 和田合戦に関連した豪族横山党の滅亡を受け、横山党の残党に備えて
設置された軍事的な関所と見られます。

 現在の関戸の地名は、関の戸から付けられたもので、関は(霞の関)と称
されていました。
 
 南北朝の終わりころには軍事柵としての役割を終え、鶴岡八幡宮や後北
条氏の関署(関銭徴収)を経て天正18年の豊臣秀吉による北条氏滅亡に
より廃止されたと考えられます。
 
 霞ノ関の確かな位置は古絵図などが無いため不明ですが、昭和30年代
に熊野神社参道の土井を発掘したところ、丸柱の痕跡が45cm間隔で16
か所が確認され、現道を挟んだ乞田川方向の延長上からも発見されました。

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 この柱列は、この熊野神社が字(霞ノ関)のはずれに当たることや地形
的位置から霞ノ関の南側の木戸棚と考えられます。
 北側の棚列は、現在は暗渠となっている関戸川に沿った現観音寺の南
側に設けられていたと考えられています。

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 以上、ID№45-462資料による。

 夕方いつもの多摩川沿いの散歩に出かけました。
 自宅の近い公園で、人間様が腰をかけるベンチに招き猫が、くつろいで
いましたので何枚か撮影をしました。

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 003

















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 001                                             

















 散歩に出かける時はまだ少し明るくても、日没はつるべ落としのように早
く太陽が沈みます。
 片道で暗くなってしまうので小さなLEDの懐中電灯を点灯して歩いていま
す。
 

 10月19日(土)・20日(日)の二日間は府中市中央文化センターが
会場となって「地域文化祭」が始まります。

 芸術、芸能、音楽、舞踊等、日ごろの活動成果を発表し、地域の方々
とのふれあいを深めて、コミュニテイ活動を活発にすることを目的とした
文化祭です。

 今日はその責任者会議にT氏と一緒に出席してきました。
 
 文化祭主催実行委員会の皆様方と圏域コミュニテイ協議会の方々の
ご尽力が実りあるものになることは間違いないと思われます。
 
 会議での委員の皆様の熱意と、文化祭のプログラムを拝見してそう感
じられました。
 本当にごくろうさまです頑張ってください心で応援をさせていただきます。

 私たちも、この文化祭に絵画を出展します。
 日ごろの成果を皆様に見ていただけるのが大変光栄です。

 会議の後、T氏と喫茶店に入り、絵画についての話しなどで有意義な
時間を過ごさせてもらいました。
 

            以前描いた絵です(出展作品ではありません)

 
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 帰路、大國魂神社近辺で史跡巡りをと考えてみましたが、30日の午後
に変更します。

 

 暑くもなく寒くもない快適な気候にりましたが、朝晩はやはり寒いくら
いに冷え込ます。

 多摩川沿いの散歩に出かけました。
 府中用水路まで来ますと水門のゲートが下ろされたのでしょうか、この
前は満々と水をたたえ、流れていたのが今日はほとんど流れていませ
んでした。
 ゲートの隙間からの洩れ程度の水が流れています。
 稲刈りが始まるころには水の流れがストップしますということが、説明
表示板に書いてあったことを思い出しました。
 その通りで、このような少し物足りない景色になっていました。

               (府中用水路)
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 この橋を渡り少し歩いたところの交差点を左折をしますと登り坂の道が
あって、それを登りきったところに前にも記述しましたが青柳稲荷神社が
あります。
 神社の周りの工事用足場とかフェンスがとり払われて完成した社殿が
整然と佇むんでいました。

 写真に案内表示板が見えますが、次のような文面です。

 青柳と石田は、明治二十二年の谷保村との合村までは、それぞれ村とし
て独立していました。
 
 青柳はその昔、今日の府中市本宿の多摩川南岸の青柳島にありました。
 寛文十一(1671)年多摩川大洪水により青柳島は流失、現在地に移住し、
青柳村を開拓しました。
 
 石田も青柳と時を同じくして、今日の日野市石田から移住したものです。
 
 青柳稲荷神社は、青柳、石田の鎮守であり、一間半×二間半の覆屋で二月
の初午、九月大祭等の例祭が行われています。

                 (青柳稲荷神社)
 006





















 
 この神社の脇を通ってさらに向こう(府中用水路の上流)に歩を進めます
と、「根川貝殻坂橋」に出ます。
 この橋を渡り切りると、国立市から立川市になります。
 渡りきって右折すると根川緑道に入ります。
 この辺りに猫がいましたので、撮影をしました。

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 また同様にこの地点から体育祭が行われているグランドが見えました。
 ちょうどよい気候に恵まれ、威勢の良い掛け声、歓声などでわいていま
した。               
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 根川緑道の脇には高度処理水が放流されていて、澄んだ水が流れてい
て、魚なども棲息をしています。

 ここから5分くらい歩くと、「曼珠沙花」の丘という碑のある場所に出ました。

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  この、「曼珠沙花」の丘を左に見ながらさらに進みますと、脇の小川に鯉
が水の流れに逆らうように泳いでいました。
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 道端には、「紫式式部」という実もなっていました。

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 「芙蓉」の花も見事に咲いていました。

 自宅には(酔芙蓉)という花があります。
比較的大きな白い花が咲くのですが、夕方には真ん中部分が酔ったよ
うにピンク色に染まるところからこのような花の名がついたようです。
 ところが最近は花が咲かず仕舞のようです。
 植え替えをしてみようと思います。

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 春に咲く「やまぶき」の花が、まだ残っていました。
 
 「やまぶき」の花を見ると、太田道灌の句を思い浮かべます。

  「七重八重 花は咲けども やまぶきの 実の(蓑)一つだに 無きぞ
  悲しき」

 太田道灌が雨の中濡れながら宿を探し当て、そこに泊まったときに、
やまぶきの花を布団の上に置いたとのことです。

 蓑がないので雨で体が濡れてしまい大変だったという意味と、「やまぶ
き」の花は咲いても実が付かない(子宝に恵まれない)木なので可哀そ
うだという意味です。
 蓑(みの)と実のをかけた句です。

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 帰りの根川緑道では樹木の枯れた葉が風に吹かれカラカラと乾いた音
を立てるのが時折かすかに聞こえました。




 久しぶりに友達から連絡があり、日本橋の三越に工芸品展を見に行く
ので行かないかとの誘いがありました。

 特に木工芸品が小生は好きなので、是非行ってみようと思ったのですが
今回は遠慮をしておきました。

 函館に友達と三人で観光に行ったときに、木工芸品を作っている店に入
って、アイヌ人の男女が眼と眼を合わせている愛の形を彫刻にした作品が
気にいり、購入したのを思い出しました。
 今も壁にかけて飾っていますが臨場感があります。
 
 会社がお江戸日本橋のすぐ近くでしたのであの界隈を思い出しています。

 日本橋の麒麟・獅子像の彫刻が重厚な落ち着きを醸し出しています。
 この像を制作した人は、「渡辺長男」で多摩聖跡記念館の中央にある明治
天皇騎馬像も彫刻したといいます。
 以前、多摩聖跡記念館を見学した時の資料にそのように記述がありました。

 日本橋の道路面の中央には、東海道の起点を表すために真鍮の金属を
埋め込んでいるのが分かります。

 ちょうどこのお江戸日本橋の上を、首都高速道路が通っていて景観を損
ねているのが残念です。
 

 今日は一日中雨が降り、夕方の散歩も中止にしました。
 外では虫のさえずりが聞こえてきます。
 明日の午後からは晴れて一段と朝晩の冷え込みが進むと報じています。

 
            一年くらい前に描いた作品です

 004 (2)
 

武蔵国府跡の出土品についてもう少し触れます。

                 (石     銙)

 石銙(せっか)とは、役人たちが正装する際の腰帯に着けられた
石製の飾りです。
 写真のように石銙は、1棟の竪穴建物跡からまとまって発見され
た38点があります。
 これほど多くの石銙が一度に発見された例は全国的にもまれで
あり、この竪穴建物跡は腰帯の修理工房であった可能性が考えら
れています。

     当時の男性は腰帯の飾りがファッションのポイントだった
     ようです。                                   
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    女性が身に着けた石製首飾り、当時もおしゃれ心は変わらないもの
    があります。  

              (石製首飾り)
 
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 国衙の近接地には多磨の郡名を冠した寺院・多磨寺がありました。
 ここからは多磨寺の名を記した瓦が出土し、仏道基壇の基礎工事の跡や
儀式に使う幟旗を支えるための穴と考えられる遺構などが確認されていま
す。
 多磨寺は国衙成立に先行する7世紀末葉から8世紀初頭の創建と考えら
れています。
                                              
              ( 多磨寺銘瓦 )                                      

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                   ( 国衙の瓦と塼 )                          

  
 8世紀前葉、現在の大國魂神社境内から東側一帯に国府の中枢施設と
なる国衙が成立しました。
 成立期の国衙には屋根瓦を持たない掘立柱建物が立ち並んでいました
が、8世紀中頃に武蔵国分寺の造営と連動して、一部の建物が瓦葺きの
礎石建物や、塼敷き基壇に建て替えられたと考えられています。
 国衙の瓦と塼には武蔵国の郡名を記したものが数多くあり、国衙の整備
事業が各郡の協力体制に支えられていたことを示しています。
  
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  以上、府中市立「ふるさと府中歴史館に行ってきましたので、自分の勉強の
ためと光を当てることがいろんな意味で重要だと考え、少ししつこくまとめてみ
たつもりです。

 時折、この出土品を眺めながらいにしえの人々の暮らしとか、この時代の
人々の夢は何であったかなどを想像してみようと思います。











                       

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