atusisugoiのblog

2014年01月

 多摩川沿いの土手を上流の方向へ20分くらい歩くと、真っ直ぐに
伸びる土手伝いの歩道と右折する車道の2差路に出ます。

 右折しますと水道管の取り換え工事の看板表示があって、管を埋
設し終えた後にアスファルト舗装を施工しているところでした。

 この道を5分くらい歩きますと初めての交差点に出ますのでこれを
左折し少し上りこう配の道を行くと右手に青柳稲荷神社があります。

 神社の境内の地面に黒く墨をおとしたような円形の跡が残っていました。

 これは過日、「どんと焼き」の行事が執り行われ、できたものです。

 以前(1月19日)、見に行った府中市四谷文化センター脇の田圃で行わ
れた「どんと焼き」を思い出しています。
 点火が始まる前に主催者側責任者の挨拶の中で、どんと焼きの由来を
説明され、平安時代にさかのぼる・・・とか話されたように覚えています。

                      府中市の「どんと焼き」での主催者のあいさつ
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            府中市の「どんと焼き」風景

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 そこで、気になりましたので「どんと焼きの」項をウイキペディアより抜粋
しますと、「弁内待日記」建長3年1月16日(1251年2月8日)、「徒然草」に
みえるから、鎌倉時代には行われていたらしい。

 起源は諸説ありますが、有力なものは平安時代の宮中行事にさかのぼ
ります。
 当時の貴族の正月遊びに「毬杖(ぎっちょう)」という杖で毬をホッケーの
ように打ち合う遊びがあり、小正月(1月15日)に宮中で、清涼殿の東庭で
青竹を束ね立て毬杖(ぎっちょう)3本を結び、その上に扇子や短冊などを
添え、陰陽師が詠い囃しながらこれを焼いたという行事があり、その年の
吉凶などを占ったとされます。

 すなわち、山科家などから進献された葉竹を束ねたものを清涼殿東側に
立て、その上に扇子、短冊、天皇の吉書等を結び付け、陰陽師に謡い囃し
て焼かせ、天覧に供された。

 「故実拾要」によれば、先ず、烏帽子、素襖を着た陰陽師大黒が庭の中
央に立って囃し、ついで上下を着た大黒二人が笹の枝に白紙を切り下げた
のを持ち、立ち向かって囃しをし、ついで鬼の面をかぶった童子一人が金
銀で左巻きに画いた短い棒を持って舞い、ついで面をかぶり赤い頭をかぶ
った童子二人が太鼓を持って舞い、ついで金の立烏帽子に大口を着て小さ
い太鼓を前に懸け、打ち鳴らしながら舞い、また半上下を着たものが笛、小
鼓で打ち囃します。

 毬杖(ぎっちょう)3本を結ぶことから「三毬杖(さぎっちょう)」と呼ばれまし
た。

 前記知識を頭に入れて、国立市にある青柳稲荷神社の「どんと焼き」の風
景を写真をみながら思い出してみます。

 府中市の「どんと焼き」の大きさに比べると、国立市のそれはかなり小さく
感じます。
          
                        境内にどんと焼きの準備が完了しています。

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 今年馬年の子供たちが太いしめ縄をもらい、このしめ縄に火を付けても
らって,どんと焼きの点火に参加をしようとしているところです。

        子供たちによる「どんと焼き」の点火前風景

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                                「どんと焼き」に点火しました。

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            「どんと焼き」の風景

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              「どんと焼き」の風景

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               「どんと焼き」の風景

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 おでんとうどんの販売には長い行列ができていました。
 小生も並んで食してみようと思いましたが、あきらめてしまいました。
 ちなみにおでんに甘酒がついて百円でした。


       主婦たちはおでんを販売しています。

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         子供たちがうどんを提供しています。

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           だいぶん火の勢いがおさまってきました。

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     竹に刺した団子を残り火で大勢の人が焼いています。

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 年に一度の祭りですが、このよき日本の伝統がいつまでも続いて、地域
の絆が一層強くなり、若い人にも継承されることを希望します。


 先週の初めですが船橋市在住の娘の孫が熱を出し食欲もなく学校
を休んでいると聞き、家内は急遽看病に出かけました。

 小生は留守番をし、掃除、洗濯に炊事をと主夫をしていました。
 
 病院での診断は、「溶連菌」による感染症だそうでした。
 症状は元気がなくなり喉が痛み、熱が出て食欲がでないと言ってい
ました。


 抗生物質を飲むと翌日は熱が下がり、徐々に回復していったそうで
す。
 娘の話によりますと、医者から処方されたこの薬は10日間分を飲み
尽くさなければならないそうです。
 この溶連菌が腎臓にも悪さをする場合があるからだそうです。

 やれやれとひとまず安心をしていたところ、昨日(日曜日)の朝にな
って電話がかかってきて、今度は家内自身が昨夜からお腹を下し、嘔
吐をするやらで大変だとの情報です。

 車で迎えに来てくれとの要請を受け、中央高速と首都高速を利用して
片道70㎞の道のりを船橋へと出かけました。

 日曜日のせいかあるいは時間帯にもよるのでしょうか、意外と道は
空いていて、所要時間も1時間半弱くらいだったので助かりました。
 このように短時間で到着ができたのは初めてのケースです。

 通常は、首都高速が混み合いますので2時間半くらいかかります。

 家内のほうはたぶん「ノロウイルス」にかかったのではと推測していま
す。
 空気伝染もするそうですので、千葉から自宅に帰る車の中では小生
もマスクを着用していました。

 日曜日でしたので病院にも行かなかったのですが、今日はもうほとんど
回復に向かっているようですので一安心をしているところです。

 この病気は薬はないそうで、下ったお腹がおさまるのを待つしかないそ
うです。
 小生は食中毒の経験はありますが、話を聞いた限りではこの症状に
よく似ています。

 ただ体が衰弱しますから病院に行きますと、点滴を症状に応じておこな
っていただけるそうです。

 テレビでは学校の給食で、このウイルスが猛威をふるい、大勢の患者
が出たと報じています。

 体を清潔に保つというほかに、家の中の掃除、洗濯、布団干しなどを行
ってまず身辺を清潔にしなければならないという警告のような気がします。

 ノロウイルスも溶連菌も寒くて乾燥する時期に活躍するようですので小
生も気をつけなければと思います。

 ノロウイルスはアルコール消毒で死なない菌だと聞き、ただ驚いていま
す。
 いちばんいいのは煮沸でしょうけど、塩素系の消毒剤なら効果がある
そうです。
 ノロウイルスという名前はいかにも、のろくてのろまな感じがしますが、
空気感染もする最強の怖いウイルスです。

 以上の情報は娘が医療関係の仕事に携わっている関係上の情報です
ので詳しくは医者と相談するのが賢明です。

         最近、小生が描いた水彩画です(一部を修正しました)。

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 土方歳三資料館の資料を拝見しながら、以前行った日野市指定有形
文化財である日野宿本陣のことを思い浮かべました。

 日野宿本陣は、嘉永二年(1849)正月の大火によって古くからの母屋
は焼失してしまいました。
 現存する建物は、佐藤彦五郎俊正が十年に及ぶ歳月を費やして準備
を進め文久三年(1863)に上棟し、翌元年(1864)から住み始めたもの
です。

 日野宿本陣には近藤周助に師事して開いた「佐藤道場」がありました。
 ここでは、のちの新撰組局長となる近藤勇や副長の土方歳三、井上源
三郎たちが激しい稽古に励みました。
  剣の流儀は「天然理心流」です。

 土方歳三の姉(ノブ)がこの佐藤家に嫁いでいたこともあり、歳三はこの
道場に通い始めたといいます。

                日野宿本陣

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 本棚にある「司馬遼太郎全集(32)随筆評論集」という本(昭和42年発
行)¥880が眼にとまりましたので約40年ぶりに何気なくその本を取り出し
てページをめくると旅の中の歴史「新撰組の故郷」という随筆がありました。

 最初はこの随筆の一部を引用しようと考えていたのですが、読むうちに
引きずり込まれるようにして、すべてを書いてしまいました。

 新撰組の不思議は、あの時代、なぜあのような機能的な組織をもちえた
かというところにある。
 日本人の組織といえば、たとえばあのころ藩というものがあった。
 しかしこれは多分に養人組織で、ある目的に向かって研ぎ澄まされたよ
うな機能性をもつといったような組織ではない。
 むしろこの藩という組織が、日本人の組織感覚を鈍感にさせたところさ
えあった。

 戦国が終わって武士が軍人と云うより官僚になったわけだが、あれだけ
の人数が行政のために必要だったわけではなく、とにかくも戦国のころの
人数を養うことが目的で藩というものがあったといっていい。
 一人で十分やれる職務に数人が任命された。
 たとえば殿様の道具を出し入れするという、少年給仕一人で十分な仕事
に何百石取の立派なお武家さまが数人がかりでやっているというようなこ
ともあった。

 そういう時代の末期に、突如新撰組という鋭い機能性を持った組織が出
現するのである。
 しかも組織を常に鋭利にしておくために、常に内部粛清を繰り返した。

 日本史におけるこういう組織と感覚の出現という点からみれば、新撰組
は十分文化史学的な研究テーマになりうるように思える。

 一時期新撰組を調べていた頃、この点がどうもよくわからなかった。
 近藤勇が首領になってからの新撰組は、まず局長(近藤)という最高職
がある。
 これは最高の命令権は持っていても一面統率上、象徴的性格もあり、実
際の指揮は副長(土方歳三)がやる。
 その副長には副長助勤という数人の将校がついている。
 ヨーロッパの近代軍隊における中隊の組織に似ている。
 副長が中隊長であるとすれば、副長助勤中隊付き将校に相当する。
 中隊付き将校というのは中隊長を補佐する一面、それぞれ小隊長として
小隊の下士官兵をひきいているのだが、副長助勤もまたそれぞれ小隊を
もっているのである。

 いったい、こういう組織はどこから学んだのであろう。
 どうも新撰組の組織は土方歳三が作ったように思われる、彼には洋式
軍隊の素養はない。が、当時すでに幕府は洋式歩兵というものをもってい
たから、又聞きながらもそういうものから機能的組織というものをあるいは
学んだのかもしれない。

 そのような想像をしつつ、七、八年前、東京都下南多摩郡日野の石田と
いう村(現東京都日野市石田)にある土方歳三の生家を訪ねた。

 歳三の生家は農業だが、石田の代表的な素封家で、村では当時も今も
「お大尽」というあだ名がついている。
 農業のほかに、うち身の薬も製造販売していた。
 薬品の名前を「石田散薬」いう。
 
 石田散薬の原料は「そこの浅川という川の河原でとれる草です。」と土方
家の人が話してくれた。
 朝顔に似た草で、葉にトゲがある。

 ※(資料館の展示品では薬草の名前は牛革草と記してあったと思います)。

 この草を土曜の丑ノ日に刈り取って少し乾かし、あとは黒焼きにし、薬研
でおろして散薬にする。

 その作業を歳三の当時、一日でやったそうで、そのためには村中の男女
を動員せねばならない。
 刈る者、運ぶ者、干す者、黒焼きをするための作業をする者、薬研です
りおろす者、など作業別に人間を区分し、組織を作りあげ、効率よく動かし
てゆく。
 その総指揮を歳三は十三、四のころからやらされていたという。

 それを聞いたとき、これが新撰組という機能体の原型ではあるまいかと
思った。

 すくなくとも、こういう体験が、歳三の組織感覚を育てたであろうし、そうい
う点で他の武家育ちのものとは違った何かをもっていたに違いないと思
った。

       歳三が家伝の石田散薬を得意先におろすとき
     に背負った薬箱。

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 ところで、副長助勤の「助勤」という奇妙な言葉である。
 無論辞書にもない。

 これは新撰組のこういう連中の造語かと思ったりしたが、後に他のこと
を調べているとき、偶然幕府の官学である昌平黌の寄宿舎の組織のなか
にそういう役職名があることを知った。
 
 昌平黌の寄宿舎はいわば自治組織で、人望のある先輩格の者が宿舎
長になる。
 それを補佐していくつかの部屋の責任者になる者が、舎長助勤というの
である。

 なるほどそこからとったのかと思ったが、近藤も土方も多摩の百姓剣客
のあがりで、昌平黌などそういう最高学府とはなんの縁もない。
 ただ新撰組の草創期に山南敬助という仙台の人がいて、この人がどう
やら昌平黌と多少の縁があったらしいということにおもい至って、ひょっと
するとこれは山南の知恵ではあるまいかともおもった。

 新撰組というのは官設の非常警察隊だが、そのやったことどもや、そ
の功罪はともかくこれほどまでの機能的組織をつくりあげたということの
ほうが、日本人というものを考えてゆくうえでより重要なように思われる。

                 歳三の像

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                 函館戦争

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               函館戦争

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 土方歳三資料館へ行こうと思い立ち、自宅から多摩川沿いの土手に
出ました。

 多摩川を挟んで西の方角に富士山の冠雪した雄姿がくっきりと肉眼で
見ることができました。

 このように空気が澄みきってはっきりと見られるのは滅多になく、幸運
だと思います。
 富士山を見ると気分がすっきりとするのはこの山が不思議な力を持って
いる証拠です。

 ここからだと富士山の手前にある山が風景としては少々目障りですが
これは自然の造形ですから仕方がないと思います。

             鉄塔の左側に見える富士山

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 多摩川にかかる左手に見える高速道路は「中央高速」で富士山の方向
が八王子、甲府方面です。

 手前のグランドでは少年少女たちがいつもサッカーの練習にいそしんで
います。

              冠雪した富士山

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 石田橋から向こうに電車のような形をした駅が見えますが、これはモノレ
ールの「万願寺駅」です。

 このモノレールは立川と多摩センター方面を結んでいて、途中の高幡不
動駅からは「多摩動物公園」へ行きの支線もあります。


        駅の向こう側に富士山が写っています。

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 多摩川にかかるこの橋の名称は石田橋です。

 この橋を渡りきると日野市の石田に入りますから「石田橋」という名がつ
けられたと思います。

 渡りきって少し下りますと平坦な場所になり、大きな交差点があります。
 右手前が「いなげや」というスーパーがあり、右前方にはモノレール駅の
「万願寺駅」が目に入ります。

 万願寺駅から3分くらい歩いて土方歳三資料館に到着です。


 先だってお邪魔した時は閉館で門がしまっていましたが今回は開門され
開館中の看板も出ていました。
              
               歳三資料館全景

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 平成二年に歳三の生家である古民家を近代家屋に建て替えたとのこと
です。
 母屋と接する右の平屋建が資料館になっていました。
 この資料館には土方歳三が育った古民家の柱などを随所に流用してい
るそうです。

               門をは入ったところ

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              土方歳三の胸像

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 この近代的な建物には、土方歳三の子孫の方が住まわれ、資料館と併設
されておられるようです。

 館長のお嬢さんと思われる人が途中から資料館の入口で入場者の案内と
説明をされていました。

                土方家の庭園

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 この刀は、土方歳三が新撰組副長として京にあった慶応三年(1867)、
京都で兼定に鍛えさせたものだそうです。

 歳三が明治二年(1869)、戊辰戦争で函館において戦死した後、遺品と
して生家に届けられたものです。

 長さ約170センチメートル(二尺三寸一分六厘)、柾目鍛えに互の目乱
の文を焼き、当時の拵えがつけられています。

 資料館の中の壁に、お嬢さんが函館で講演をされたという新聞記事が
掲示されていました。

 内容ははっきりと覚えていませんが、刀を握る柄のところの布が複雑に
摩耗しているのは歳三が握り具合によっていろいろと剣術を工夫をして
いたのではないかと説明されていたようです。

 確かに実物の柄を見ると、使い古したという感じがしますが、剣である
刃はまるで一度も使用していないような落ち着いた光を発していました。
 刀剣にはまるで知識はありませんが、やはり「和泉守兼定」と云われ歴
史に登場するくらいですから、名刀だと思いました。

 一方、村正という刀は人の血を欲しがる刀であるといわれていますが真
偽は不明です。

 中里介山著の「大菩薩峠」で、たびたびこのような記述があります。


                                      歳三が愛用した和泉守兼定
                                              
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                                土方家伝来の十文字槍(穂先)

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 資料館を出ると矢竹の茂っている場所に接する建物に木刀がかけて
ありましたので写真を撮りました。

 資料館の中にありました木刀は太くぼくとつとした感じで小生の想像と
少し違っていました。

 建屋の外側に掛けてある木刀に触ってみようと思い、手を伸ばした時
少し音を立てたので、案内係りをされていた美人のお嬢さんがこちらを
凝視されました。 
 眼は女性らしい優しさの中にも鋭い光があったように感じました。

 小生がマスクをかけてバイザーなどをかぶっていたせいかもしれませ
んし、小生の棚にある土方歳三についての若干の知識がそんな具合に
感じさせたのかもしれません。

            複製の木刀が掛けてあります

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  歳三が武士になる決意を込めて植えた矢竹は今も繁茂しています。

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 今日は楽しみにしていた「どんど焼き」の行事があります。
どんど焼きは正月のめでたいしめ飾りとか門松などを「どんど焼き」で
燃やし、天に返すという意味あいがあるそうです。
又、五穀豊穣と一年の無病息災を願う行事(祭り)です。

 会場(田んぼの中)に仮設掲示板があって、この「どんど焼き」をどの
ような手順で組み立て、設置してゆくかの工程写真が張り付けてありま
した。

 小生もどうしてこのような立派な姿に出来上がるのか、構造が知りた
かったので勉強を兼ねて説明してみます。

 「どんど焼き」を組み立てる骨となる竹を会長自ら1本目は伐採したそ
うです。


                                        必要な竹を伐採します

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                                   十文字の刃型を設置する。

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                       取ってきた竹を十文字になった刃で竹を裂きます。                   

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              仮組の竹を起こします。

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                                     竹の骨組みが自立をしました。

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 四分の一等分に縦に裂いた竹を円錐状に組み立てられた竹筒柱にリン
グ状に巻き付け、縄で各所を結びます。

    リング状の竹と竹筒柱を縄で固定して強度を高めます(内側)

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 下部から上部へと、四分の一等分に縦に裂いた竹を円錐状に組み立て
られた竹筒柱にリング状に巻き付け、縄で各所をで結びます。


 将来が期待される中学生のお手伝い風景です。


                                    中学生の生徒も手伝っています。

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              リング状の竹と竹柱を縄で固定して強度を高めます(外側)

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 縄を決められた寸法にそろえて裁断る準備のように見えます。
 このように手伝いをしながら体で覚えていきますと、将来にとって技術
の継承にもなりますから重要なことだと思います。


        中学生の生徒たちが手伝いをしています。

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               だいぶ組み上がってきました。

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            藁の取り付けが始まりました。

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                                 藁の取り付けが始まりました。

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           藁の取り付けがだいぶ出来上がりました。

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                ほぼ完成です。

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 以上がどんと焼きを組み立てる手順です。

 火災予防の指導と非常時に備え、消防車も準備万端で待機しています。

                                           消防車準備完了

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            どんど焼きに人々が集まってきました。

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     火の勢いを抑えるために事前に藁に水をかけていました。

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 人々のざわめきで会長の挨拶がよく聞こえなかったのですが、「初めて
の方もいらっしゃるでしょうから、どんど焼きは平安時代にさかのぼって・
・・・・」と云っておられるのが少し耳に入りました。


             点火前の会長挨拶

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 会長のあいさつの後、藁への点火が始まりました。

           朝八時ちょうどに点火しました。

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          炎が下から上に登っています。

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 断続的に竹筒の爆裂する音が「バーン」、「バーン」と響くので観衆を驚か
せます。
  これは丸い竹の節(フシ)と節(フシ)の空間にある空気が炎の熱がかかる
ことによって膨張し、竹筒がこらえ切れなくなり爆裂する音です。


                             炎が目視できるようになってきました。

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 点火してから5分くらいの時間が経過したと思いますが燃え盛ってきま
した。

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            竹の骨組が焼け崩れてきました、

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           骨組みも見るも無残に焼けてしまいます。

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          見るも無残に焼けてしまいます。
              
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             火種が小さくなりました。

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         炎がおさまると竹の先に刺した餅を焼きます。

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         竹竿の先に銀紙でくるんだ餅を残り火で焼いています。

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              竹竿の先に銀紙でくるんだ餅を残り火で焼いています。

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                  竹竿の先に銀紙でくるんだ餅を残り火で焼いています。

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  この焼き餅を食べると無病息災が待っているといいます。

 これでどんと焼きが終了です。
 ちょうどこのころから北風が強く吹き出してきましたので、ラッキーなコン
デイションであったと思います。



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