atusisugoiのblog

2014年05月

 家内が「裏庭の竜舌蘭(リュウゼツラン)が傾いているので矯正したい」
、と小生を呼んでいますから外に出てみますと、たくさんの花をつけた重み
で、幹と花茎も大きく曲がっていました。
さっそく、モミジの樹に竜舌蘭(リュウゼツラン)の幹を抱かせ、さらに桜
の木から紐で引っ張って起こしてやりました。

 竜舌蘭(リュウゼツラン)の葉は硬い革質で線形、先端は針状で長さ60
㎝、花茎は1m位、大型で鐘形の白色花弁を多数垂下しています。
樹高は、根元から花茎の先端まで入れると、4mくらいはあると思います。
樹齢は25年以上になります。
最初に庭に植えたときは、膝くらいの高さの葉だけの小さな植物だったので
すが、だんだんと生長し、先の尖った葉は生まれ変わりながら次第に上部に
上ってしまいました。

 リュウゼツランはギリシヤ語でアガベ(高貴な)といいます。

           竜舌蘭(リュウゼツラン)            

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               竜舌蘭(リュウゼツラン)   
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             竜舌蘭(リュウゼツラン)の花    
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           竜舌蘭(リュウゼツラン)の花
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竜舌蘭(リュウゼツラン)の花
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 2015年5月23日
 今年もリュウゼツランの花が咲きました。
   竜舌蘭(リュウゼツラン)の花  2015.5.23撮影  
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 2015年5月25日
 昨年より、だいぶん花数が少なくなってます。

   竜舌蘭(リュウゼツラン)の花    2015.5.25撮影
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 2017年7月29日(土曜日)

 昨夜、23時20分頃、北朝鮮が、ミサイルを打ち上げました。官邸の対応
に追われている様子が、テレビで報道されました。
 やんちゃな子供が、いたずらを繰り返すような北朝鮮の行動には、困った
ものです。

 昨年と、今年は、この竜舌蘭(リュウゼツラン)の花は咲きませんでした。
来年に期待したいと思います。


 今年初めて泰山木(タイザンボク)の花が咲き始めました。
樹の高いところに咲いていますので2階から撮影をしました。
花弁は肉厚で純白で、言葉では表現できないほど香りがなんとも良いで
す。


          泰山木(タイザンボク)の花
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 この花は咲いている時間が短いため、一日置いてから、見るともう花弁は
散っていました。

          泰山木(タイザンボク)の花
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 2015年5月25日(月曜日)
 今年の泰山木はまだ花芽が見当たりませんが、そのうちにはと思ってい
ます。

 中里介山著「大菩薩峠」の第六巻のなかの、幕末動乱期の歴史に触れた
著述を読み、ある人物に光を当てなくてはいけないという思いで、自身の
勉強も兼ね、一部分を引用してみます。

                               「大菩薩峠第六巻」表紙の挿絵
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 小栗上野介の名は、徳川幕府の終わりに於いては、何人の名よりも忘れ
られてはならない名の一つであるのに、維新以後においては、忘れられ過
ぎるほど、忘れられた名前であります。
 事実に於いて、この人ほど維新前後の日本の歴史に重大な関係を持って
いる人はありません。
 それが忘れられすぎるほど忘れられているのは、西郷と、勝との名が、
急に光りだした勢のみではありません。
 江戸城譲渡しという大詰めが、薩摩の西郷隆盛という千両役者と、江戸
の勝安房という松助以上の脇師≪歌舞伎俳優・尾上松助のこと。四世は明
治十四(1881)年に松助を襲名。渋い味の脇役として名声をあげ、名
脇役といわれた≫と二人の手によって、猫の児を譲り渡すように、鮮やか
な手際で幕を切ってしまったものですから、舞台は二人が背負って立って、
その一幕には、他の役者が一切無用になりました。
 歴史というものはその当座は皆、勝利者側の歴史であります。
 勝利者の宣伝によって、歴史と、人物とが、一時幻惑されてしまいます。
 そこで、あのひと幕だけ覗いた大向うは、いよ御両人!というよりほか
のかけ声が出ないのであります。
しかし、その背後に、江戸の方には、勝よりも以上の役者が一枚控えて、
あたら千両の看板を一枚、台無しにした悲壮なる黒幕があります。
 舞台の廻し方が、正当(或は逆転)に行くならば、あの時、西郷を向こ
うに廻して当面に立つ役者は、勝でなくて小栗でありました。
単に西郷とはいわず、いわゆる、維新の勢力の全部を向こうに廻して立つ
役者が、小栗上野介でありました。
 小栗上野介は当時の幕府の主戦論の中心であって、この点は、豊臣家に
おける石田三成と同一の地位であります。
 ただ三成は、痩せても枯れても、豊太閤の智嚢であり、佐和山二十五万
石の大名であったのに、小栗は僅か二千八百石の旗本に過ぎないことと、
三成は野心満々の投機者であって、あわよくば太閤の故智を襲わんとして
いるのに、小栗は、輪廓において、忠実なる徳川家の譜代であり、譜代で
あるがゆえに、徳川家のために謀って、且つ、日本の将来をもその手によ
って打開しようとした実際家に過ぎません。
 ですから、石田三成に謀反人の名を着せようとも、小栗上野介をその名
で呼ぶに躊躇しないわけにはゆかないはずです。
 徳川の天下になってから、石田は、一にも二にも悪人にされてしまって
いるが、明治の世になって、小栗の名の謳われなくなったとしてからが、
今日、彼を、石田扱いの謀反人として見るものは無いようです。
 小栗上野介が、自身、天下を望むような野心家でなかったことは確かと
して、そうして彼はまた、幕府の保守側を代表する、頑冥なる守旧家でな
かったことも確実であります。
 小栗は、一面に於いて最もすぐれたる進歩主義者であり、且つ、少しの
間ではあったが、これを実行するの手腕と、地位とを、十分に与えられて
おりました。

 彼が最初―新見、村垣らの幕府の使節《万延元(1860)年、日米修
好通商条約批准交換のためアメリカに派遣された幕府初の遣外使節の一行
のこと。正使は当時、外国奉行であった新見正興、副使が村垣範正、目付
が小栗上野介忠順であった。一行は米艦で、ハワイ、サンフランシスコ、
パナマをへてワシントンに赴き、大西洋、インド洋を回って帰国した。》
と共に米国に渡ったのは僅か二十余歳の時でありました。
或は三十余歳。
しかも、この二十余歳の青年赤毛布(あかげっと)≪田舎から都会へ出て
きた田舎者の旅行者。明治の頃、上京してきた田舎者が「赤いケット」を
羽織っていたから。≫は、他の同僚が、西洋の異様な風物に幻惑されてい
る間に、金銀の量目比較のことに注意し、日本に帰ってから、小判の位を
三倍に昇らせたほどの緻密な頭を持っおりました。

 ほどなく勘定奉行の地位を得、またほどなく財政の鍵を握って、陸海軍
の事を統ぶるの地位に上ったのも、当然の人物経済であります。
 勝でも、大久保でも、その手足に過ぎないし、講武所も、兵學所も、開
成所も、海軍所も、軍艦の事も、火薬の事も、造船の事も、徴兵も、郵便
も、今日まで功績を残している基礎に於いて、彼の創案になり、意匠に出
でぬというもののないこと再論するまでもない。
 その人となりを聞いてみると、酒を嗜まず、声色を近づけず、職務に勉
励して、人の堪えざるところを為し、しかも、和気と、諧謔とを以て、部
下を服し、上に対しては剛直にして、信ずるところを言い、貶黜(へんち
ゅつ)せらるること七十余回ということを真なりとせば、得やすからざる
人傑であります。

 小栗上野介が、単に人物として日本の歴史上に、どれだけの大きさを有
するか、それは成功せしめてみた上でないと、ちょっと論断を立てかねる
が―少なくとも、明治維新前後に於いては、運時と、外交と、財政とに於
いて、彼と並び立ち得るものは、一人も無かったということは事実であり
ます。
 この人が、徳川幕府の中心に立って、朝廷に反くのではない、薩長その
他と闘わねばならぬ、と主張することは、絶大なる力でありました。
 長州の大村益次郎が、維新の後になって、小栗の立てた策戦計画を見て
舌を捲いて、これが実行されたら薩長その他の新勢力は鏖殺し(みなごろ
し)だ!と戦慄したというのも嘘ではあるまい。
 かくありてこそ、大村の大村たる価値がわかる。
西郷などは、この点においては、甚だノホホンです。

 小栗の立てた策戦は、第一、聯合軍をして、箱根を越えしめてこれを討
つということ、第二、幕府の優秀なる海軍を以て、駿河湾より薩長軍を砲
撃して、その連絡を絶ち、前進部隊を自滅せしめるということ、更に海軍
を以て、兵庫方面より二重に聯合軍の連絡を絶つこと、等々であって、よ
しその実力には、旗本八万騎が既に気死し
、心萎えたりとはいえ、新たに仏式に訓練せる五千の精鋭は、ぜひとも腕
だめしをしてみたがっている。
会津を中心とする東北の二十二藩は無論こっちのものである。
 聯合軍には海軍らしい海軍はないのに、幕府の海軍は新鋭無比なるもの
である―そうして、その財政と、軍費に至っては、小栗に成案があったは
ずである。

     幕末頃の軍艦(イメージ図を描いてみました)
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 かくて小栗は十分の自信を以て、これを将軍に進言、というより迫って
みたけれど、胆死し、気落ちたる時はぜひがない、徳川三百年来、初めて
行われたという将軍直々の免職で、万事は休す!そこで、西郷と勝とが大
芝居を見せる段取りとなり、この不遇なる人傑は、上州の片田舎に、無名
の虐殺を受けて、英魂未だ葬われないという次第である。
 形成を逆に観察してみると、最も興味のありそうな場面が、幕末と、明
治初頭に於いて、二つはあります。
その一つは、右の時、小栗をして志を得せしめてみたら、日本はどうなる
ということ。
 もう一つは、丁丑西南の乱に、西郷隆盛をして成功せしめたら、現時の
日本はどうなっているかということ。
 この答案は、通俗の予想とは、ほとんど反対な現象として現われて来た
かも知れない。
 右の時、小栗を成功せしめても、世は再び徳川幕府の全盛となりはしな
い。
 もうあの時は徳川の大政奉還は出来ていたし、小栗の頭は、とうに郡県
制施行に決まっていたし、よしまた、どれほど小栗が成功したからとて、
彼は勢いに乗じて、袁世凱≪中国の軍閥政治家(1859~1916)。
辛亥革後、宣統帝を退位させ、中華民国最初の大総統に就任した。孫文ら
を敗訴、権力を独占しようとした。≫を気取るような無茶な野心家ではな
い、郡県の制や、秦西文物の輸入や、世界大勢順応は、むしろ素直に進ん
でいたかもしれない。
 これに反して、明治十年の時に西郷をして成功せしむれば、必ず西郷幕
府ができる。
 西郷自身にその意思がないとしても、その時の形勢は、明治維新を、僅
かに建武中興の程度に止めてしまい、西郷隆盛を、足利尊氏の役にまで祭
り上げずにはおかなかったであろう。
 西郷は自身、尊氏にはならないまでも、尊氏に祭り上げられるだけの器
度はあった。
 小栗にはそれがない。

 すべて歴史に登場する人物というものは、運命という黒幕の作者がいて、
みなふりわられた役だけを済まして引込むのに過ぎないが、西郷は、逆賊
となって赫々の光を失わず
、勝は、一代の悧巧者として、その晩年は独特の自家宣伝で人気を博して
いたが、小栗は謳われない。

 時勢が、小栗の英才を犠牲とし、維新前後の多少の混乱を予期しても、
ここは新勢力にやらしたほうが、更始一新のためによろしいと贔屓したか
ら、そうなったのかも知れないが、それはそれとして人物の真価を、権勢
の都合と大向うの山の神だけに任しておくのはあぶないこと。


 司馬遼太郎は大村益次郎を主人公にした短編「鬼謀の人」などを刊行し
たおり、あとがきの中で次のように述べています。
 「その人生が完結した時点で、その人間をとらえる仕事を、私はやって
いる。
こういう分野を、歴史小説とか時代小説とか呼ばれるのであろう。
この仕事は、私にとってたまらなくおもしろい。
少し語弊のある言い方が許されるとすれば、女性は、その人生の進行中に
とらえるほうがおもしろく、男性はその人生が終了してから彼を眺めるほ
うがおもしろい。
男というものは、棺を蔽うてしまうと、生前に気づかなかった毛穴の大き
さまでわかるものである。
むろんそれは心象の上でわかるという意味で、物理的にわかるという意味
ではない。
 つい、興趣に憑かれて、完結した人生の群れのなかを歩いてきた。
この人間どもの林の中にあっては、彼らこそ生臭い息をは吐いている正真
正銘の生体であって、さまよっている私など人間のにおいもしない。
ただひたすらに空々漠々とした原稿書きのにせ人間で、鼻を皮膚にこすり
つけても脂のにおいもしない。
それほど稀薄な生命にすぎないようにおもえる。
そういう心境になってくるからふしぎである」

















































































 近所の方が展示される「Sの会展」が今年も始まりましたので、家内と銀座の
画廊へ出かけました。
絶好の快晴のなか、銀座2丁目あたりの風景を撮影しました。
地下鉄の出入り口に、海抜3.6mと表示がされていましたので、神戸一郎が唄っ
た「銀座九丁目は水の上」の歌を思い出しました。
実際は中央区銀座には八丁目は存在しなく、以前(昔は)八丁目の先の築地に
荷を下ろす船だとか、大小の船が浮かんでいたようです。
そんな景色が見える街に集う人々の気持ちをロマンチィックにしあげた作品で、
景気上昇の到来を予感させるような夢のある歌謡曲です。
 🎼』 銀座九丁目は水の上
 夢の光よ シャンデリア
 粋なカクテル マンハッタン
 欧州通りの 夢のせて
 銀座九丁目は水の上
 今宵は船で過ごしましょう

 浮世ともづな さようなら
 ここは青空 海の上
 恋の潮風 しっぽりと
 銀座九丁目は水の上
 今宵は船で過ごしましょう

 遊び疲れの ふたりづれ
 月のデッキで 唄おうか
 それともキャビンで ハイボ-ル
 銀座九丁目は水の上
 今宵は船で過ごしましょう 
 今はこの辺りは埋め立てられ、高層ビルがそびえる一大商業地になっています。

              銀座2丁目あたりの風景
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              銀座2丁目あたりの風景CIMG0003



































            通りに面したショウウインドウで
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         通りに面したショウウインドウで
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 画廊に到着し、ゆっくりと鑑賞してきました。
 近所のTさんの作品です。

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 今年の各作品は色彩が鮮やかに発色して、明るい色調だと感じました。
去年よりも今年という具合に人の心の成長にともない、それが作品に投影されて
いくのでしょう。

 ついでに小生が描いたペン画を紹介させていただきます。

             茅葺屋根の古民家
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 絵画鑑賞の後は、新宿の小田急百貨店で、家内がバッグを見たいと言い出しま
したので立ち寄りました。
 かなり吟味をした後で、お気に入りのバッグを購入していました。
娘に母の日のプレゼントで商品券をもらいましたので、不足分の金額を足して手
にしたものです。
家内は大変喜んでいました。
小生も引き込まれてなんだか嬉しくなってきました。
 家に帰ってから家内はさっそく娘に電話をし、改めて謝意などを述べていました。

 夜になってTさんから電話がかかってきまして、午前中は仕事の都合で会場に出
席できなかったが、午後には出ましたとのこと、私たちが鑑賞に行ったことへの感謝
の言葉をいただきました。
 小生は先方に「なかなか幻想的でよかったですよ、眼の保養になりました」と伝え
ました。
 試行錯誤のうえ、前記の作品が出来上がったとのことです。









 およそ二年前、広島の娘たちの家へ遊びに行ったことを思い出しています。
季節は2月頃、山口県岩国市にある有名な「錦帯橋」に連れて行ってもらいま
した。
錦帯橋を渡り、噴水のある公園で孫たちと遊んだり、白蛇を見学したりしてから
ロープウエーで横山の山頂へ出ました。
山頂からの錦川と錦帯橋、対岸(錦見)の街並み、背後の山々は絶景でした。
ここからかなり傾斜のある雑木林を切り開いたような道を上ると、お城がありま
す。

 「錦帯橋」は世界文化遺産登録を目指し準備中です。
 錦川に架かる「錦帯橋」は五連のアーチを描いた木橋で、長さ193.3m幅
5m、木と木の組み合わせによって支えられ、巻金とかすがいが使われている
橋です。
岩国市公式ホームページによりますと、
「錦帯橋」は史跡名勝天然記念物法によって、名勝に指定されています。
創建当時は「錦帯橋」という名は付いていなかった。
「大橋と呼ばれたことが多く、吉川広嘉が幕府から名前の記載を求められた
際にも「岩国大橋」と書いたといわれます。
他にも「凌雲橋」、「五竜橋」、「算盤橋」など、複数の呼び名がありました。
錦帯橋という呼び名が広まったのは安永年(1772~1780)頃で公式名称に
認定されたのは明治維新後のことです。
錦帯橋の名前が初めて登場した史料は、宝永3年(1706)岩国の儒学者、宇
都宮トンアンによる極楽寺亭子記の中に「またいわく、錦帯橋、錦見(にしみ)の
里に近き以ってなり」と書かれてあり、錦見(にしみ)という地名から名付けられた
のではないかといわれています。

 こんな説もあります。
 吉川広嘉が錦帯橋創建のヒントにしたとも言われている、中国の反り橋「蘇
公堤」。
この風景が錦の帯のように美しく「錦帯」と呼ばれていたので、そこから名付け
たとか。
また漢詩から引用したのではないかと考える人もおり、どの説が正しいのかは
まだわかっていません。

 さらに続けます、また錦帯橋創建にはある絵との出会いがあったそうです。
 吉川広嘉の努力により、アーチ橋の研究は進みました。
しかし、どうしても解決できない問題がありました。
それが200mという川幅で、この川幅を一つのアーチでまたぐのは、当時の技術
では困難だったのです。
実際、当時の橋脚のないはね橋は川幅の短いところに架かるものばかりでした。

 そんな広嘉には27歳ころから患う持病がありました。
一時は回復したものの、40歳ころから再発し、その療養に専念する時期を過ご
します。
そんな時期、明の帰化僧・独立(どくりゅう)の名医としての評判を聞きました。
広嘉は早速、侍医佐伯玄東を長崎にに遣わすなどしてついに、寛文四年(1664)
4月13日、独立は岩国を訪れ、広嘉の治療をすることになったのです。

 ある時、独立の故郷、杭州に話が及びました。
杭州には名勝西湖があり、西湖について書かれた本「西湖志」を独立は所有し
ているといいます。
広嘉はそれを見たいと望み、独立はわざわざ飛脚を長崎へ遣わし、本を取り寄
せています。

 2か月ほど過ぎた6月10日、飛脚が持ち帰った「西湖志」を開いた広嘉は、机
をたたいて大いに喜んだといいます。
そこには、五つの小島に架かる小さなアーチ橋が描かれていました。
広嘉は閃きました。
錦川にいくつかの島を石で築いて、これにアーチをかければよいのだと。
             「西湖志」の挿絵
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 錦帯橋は五連のアーチを描いた木橋で、現在使用されている木材は欅(ケヤキ)、
松、桧(ヒバ)、檜(ヒノキ)、栗(クリ)、樫(カシ)の六種類です。
木材の種類、用途、一般的特徴としては、

 欅(ケヤキ):  敷梁、桁、大棟木、後詰、大梁他。
     特徴・  木目も美しいことから日本で最良の広葉樹とされています。
          重硬で非常に堅い木材です。

 松      : 梁、桁、重桁、肘木他。
     特徴・  堅くて丈夫で艶がよいので、階段材、床材など強さを求めるな
          ら真っ先にもちいるのが松です。

 桧(ヒバ)  : 橋脚(柱杭)、通貫筋違いなど。
     特徴・  圧縮に強い桧(ヒバ)材は、橋の重量(圧縮荷重)を支えるのに
          適しています。
          耐腐朽性が非常に強く、白アリにも強い。

 檜(ヒノキ) : 橋板、高欄土台、高欄笠木、高欄親柱他。
     特徴・  耐腐朽性あり、保存性に優れている。
          仏閣、神社などを建てるための木材として古くからもちいられてき
          ました。
          檜は伐採してから200年間は強度が増し(強くなっていく)その後
          1000年にかけて徐々に弱くなる性質があります。
          実際、檜(ヒノキ)で作られた法隆寺や、薬師寺は1300年たった
          今も健在です。

        ※檜から出る物質により、がん細胞が40%抑制されたといいます(県
         立静岡がんセンター研究所でのマウス実験) 

           また、木の香りの成分はストレスの解消、疲労回復、消臭、防ダ
           ニなどの働きがあるようです。
  
 栗      :  雨覆など。
     特徴・  堅くて腐りにくく、材に粘りもあります。
          土木用の杭、橋梁に使われます。
          加工が難しい。
          縄文時代の建物に使われていました。

 樫(カシ)  : ダボ(釘を使わないで木材をつなぎ合わせる際に使用する木製の
          棒)高欄の込栓(柱と土台または柱と桁などの仕口を固定するため
          に、2材を貫いて横から打ち込む角材です。

     特徴・  材質は非常に堅く、国産の材では一番重い、弾性があって、水湿
           にも強く、ウイスキー樽、和太鼓のバチにもちいます。
           
             錦帯橋の構造図
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               錦帯橋の構造図
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背景の横山頂上(手前から二つ目の橋向こう側辺り)にお城が小さく望めます。
    二年くらい前に小生が描いた錦帯橋のある風景です。
CIMG0001



















 錦帯橋を渡り切ってすぐ左下に、「槍倒し(やりこかし)の松」がありました。
 関西弁では倒すことを「こかす」ともいいます。
 松の傍に古風な屋根付きの説明掲示板がありました、それによりますと、
 
 この松は、岩国武士の負けず嫌いをまけず表徴する有名な槍倒しの松です。 
昔諸国の大名が他藩の城下を通るときは行列の槍を倒すのが礼儀となってい
たのですが、大藩が小藩の城下を通るときは、儀礼を守らず槍を立てたまま
威風堂々と通ったものです。
岩国藩が六万石の小藩であるため岩国の武士たちはこれを見て憤慨し、そこ
でかなり成長した横枝の張った松の木をわざと橋の頭に植え、大藩といえども
どうしても槍を倒さなければ通ることができないようにしたものです。

 今では昭和十年(1935)の河川改修工事により道路や人家が堤防の上に移
りましたが、もとは川べりにあって、ここの石段が坂道になっていましたから大名
が槍を倒して坂を上るのを見て岩国武士たちは溜飲を下げていたということです。

昭和十九年(1944)頃、この地方に発生した松くい虫によって、この松も昭和
二十七年(1952)八月残念ながら枯れてしまいました。
この松は、初代の松の実から自生した直系の松を昭和四十三年(1968)二月
十五日三代目「槍倒し松」として吉香公園から移したものです。
 樹齢:300年  樹高:14.5m 幹の周囲:3.7m 樹冠の面積:323㎡

   ペンで、「槍倒し(やりこかし)の松」を描き、淡く着彩しました。 
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錦帯橋を渡った正面の銅像は、錦帯橋を創建した岩国藩三代藩主吉川広嘉公
で、世界に誇る錦帯橋創建の偉業をたたえて建てられたものです。
しかし岩国藩では、どうしたことか、二代藩主から十一代までの肖像画が残され
ていない、そこで致し方なく初代藩主と子孫の方の肖像画を合成して作られたの
がこの銅像だそうです。

 この銅像のわきには飲食店、土産物屋さん、陶器を販売する店などが並んでい
ますが、城下町の雰囲気を保つため、建物にも工夫がなされていました。
 皆で楽しく食した懐石料理は忘れられない味でした。
 

 二年前に小生が描いた水彩画です。
 絵の右向こうには昔ながらの武家屋敷をおもわせる建物があり、その中には
おしゃれな茶房がありました。
           
              吉川広嘉071 (4)公の銅像




















この後、ケーブルカーで横山の山頂へ行き、お城を見てきました。
 ここで自身戦国時代の歴史をおさらいしたいと思いますので、再び岩国市公式
ホームページを拝借させていただきます。
 出雲富田(12万石)から岩国(3万石)へ
 慶長五年(1600)、関ケ原の戦いに際して、西軍の豊臣方だった毛利輝元に仕
える吉川広家は考えていました。
この戦いの勝者は東軍の徳川方になるだろうと…。
そこで、関ヶ原の戦いの前夜、吉川広家は、毛利輝元の重臣とともに、徳川方と
密約を結んだのです。
「戦いにおいて毛利軍は中立を守り、動かない。だから毛利氏の領国112万石は
そのままにするように」。

 合戦は広家が予測した通り、東軍の勝利に終わりました。
密約を守り、動くことのなかった毛利家は安泰と思われました。
しかし、輝元は西軍の総大将として連判状に名を連ねていた身。
家康は密約を反故とし、毛利家のお家断絶を決めました。
そして、吉川広家については、密約を守り、誠に律儀だったとして、周防国・長門
国の二国を与えることとしたのです。

 その決定は広家にとって、本意ではないものでした。
すぐに広家は、毛利家存続のために全力を尽くしました。
そのかいもあり、家康は毛利家の断絶を改め、輝元へ周防国・長門国を与える
こととしたのです。

 広家もまた、輝元より周防の東の要所となる岩国(3万石)を与えられ、出雲の
富田(12万石)から移ることになりました。

             吉川広家肖像画
CIMG0001




















 城下町岩国の成立
 慶長九年(1601)、岩国に入った広家はすぐさま領内を検分し、城下町の造営
に着手しました。
合戦直後という不安な情勢にあって、城下町は防御に重きを置く形となりました。

 横山の山頂を要害(防御するための砦・城塞)として城を、山の麓には御土居(お
どい:藩主の居館・屋敷)を築くことにしました。
そして、錦川を天然の堀とし、内側の横山地区に諸役所や上級武士の居住区を、対
岸の錦見地区に中下級武士や町民を置くことにしました。

 慶長七年(1602)、上の御土居(広家の母の居館)と下の御土居(広家の居館)
を築きました。
また、慶長八年からは山上の要害を起工し、慶長十三年に竣工、森脇飛騨守、森
脇新右衛門、兼重杏之允らに城番を命じています。
しかしこの件は、元和元年(1615)に出された一国一城の制により破却されました。

 岩国藩は城下町形成の過程で、防御におもきを置いていたため、一つの不便な点
がありました。
それは、錦見地区に住む中下級武士は、藩政の中心である横山地区へ行くために、
幅200mの錦川を渡る必要があったことです。
橋は、城下町が造営された当初から架けられたと思いますが、出水により度々流失し、
藩政に与える影響は深刻でした。

 
 
















 この水彩画は、アンデルセン公園の中にある水遊び場を小生が描いたもの
です。
 子供が鉄棒につかまり水車の天端(上部)に乗って、足で漕ぎ、水が汲みあ
がるのと自力で水車を回す喜びを楽しんでいました。
通常は、水の流れを利用し、水車のコンパートメント状になった羽根(仕切り
板)に水を送り込み、水車をまわす仕組みですが、その逆の発想で遊具にし
たのはなかなか面白いと思いました。

 2年前、広島の家族と千葉の家族でこの公園で遊んだ時は季節は夏で、孫
たちは噴水のある浅瀬で泳いだり、森林の中に備えられたジャングルジムな
どでおおいに楽しみ、遊んでいたのを思いだしています。

 森林を切り開き、自然の樹木をたくさん残して作られたアンデルセン公園は
子供ずれでも、大人同志でも楽しめると思います。

            子供たちが水車で遊ぶ風景

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