atusisugoiのblog

2015年03月

 三月二十六日に讃岐の国塩飽(しあく)の地頭、駿河権守高階保遠(する
がごんのかみやすとう)入道西忍が館に着いた。
西忍はその前の晩に満月の光輝いたのが袂に宿ると夢を見てあやしんで
いたのに法然が着いたと聞いて、このことだと思い合わせ、薬湯を設け、美
膳をととのえ、さまざまにもてなした。

ここで法然は念仏往生の道を細かに授け、中にも不軽大士(ふぎょうだいし
)の故事を引いて、如何なることをも忍びても、人を勧めて念仏をさせるよう
にしなさい。
敢(あえ)て人の為ではない。といって教えた。

 讃岐の国子松の庄に落ついて、そこの生福寺という寺に住し、そこで教化

を試みたが、近国の男女貴賤市の如く集まってくる。或は今までの悪業邪
慳(あくごうじゃけん)を悔い改め、或は自力難行を捨て念仏に帰するもの
甚だ多かった。

「辺鄙なところへ移されるのもまた朝恩だ」

と喜ばれたのも道理と思われる。

この寺の本尊阿弥陀如来の脇士として勢至の像を法然自ら作って文を書い
て残しておいたということである。

 法然が流された後というもの、月輪殿が朝夕の嘆き他所(よそ)の見る目
も傷わしく、食事も進まず、病気もあぶないことになった。
籐中納言光親卿を呼んで、
 「法然上人の流罪をお救い申すことが出来ないで、後日を期し、御気色を
窺って恩免をお願いして見ようとしたけれど、こうしているうちに、もうわしの
からだがいけなくなった。今生の怨みはこのことだ。せめて御身達わしの心
を汲んで上人の恩免のことをよくよくお取り計らいなさるように」といわれた
から、光親卿は涙ながらにそのことを承知して、御安心なさいというているう
ちに四月五日臨終正念にして、念仏数十遍禅定に入るが如く月輪殿で往生
を遂げられた。
行年五十八歳であった。
かくてこの師弟は遂に死期に会うことが出来ないで、離れ離れに生別死別
という悲しいうき目を見せられて了った。

 このことを配所にあって聞いた法然の心の中推し計るばかりであった。
 法然が、配流のことは遠近に聞こえたうちに、武蔵国の住人津戸三郎為
守は深くこれを嘆いて、武蔵野国から遥々(はるばる)讃岐の国まで手紙
を差出したが、

法然はそれに返事を書きて、

 「七月十四日の御消息。八月二十一日に見候ね。はるかのさかいに。
かように仰せられて候。御こころざし。申つくすべからず候。・・・・・」

 と書いて今生の思い知るべきことと、往生の頼むべきことを痛切に書いて
いる。

 直聖房という僧は矢張り法然のお弟子となって念仏の行をしていたが、
熊野の山へまいっている間に法然が流されるという話を聞いて急いでその
跡を追おうとしたが俄(にわか)に重病に罹(かか)ってうごけなくなった。
権現に祈ると、

 「死期はもう近づいているお前は安らかに往生するがよい。法然上人は
勢至菩薩の生れかわりだからお前はそう心配することはない」

というおつげがあったから安心して往生を遂げたということである。

 法然はこの国にあって道の傍ら国中の霊地を巡礼して歩いたが、そのう
ち善通寺にも詣でた。
この寺は弘法大師が父のために建てられた寺であるが、その寺の紀文の
中に「ひとたびももうでなん人はかならず一仏浄土のともたるべし」とあるの
を見て、この旅の思い出はこのことであるといって喜んだ。
              
                                   善通寺(東院伽藍)
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               善通寺金堂(本堂)     
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 藤中納言光親卿は、月輪殿の最後の頼みによって様々に、法然上人恩
免の運動をして見たけれども、叡慮お許しがなかった。
しかし上皇がある夢を御覧になったことがあり、中山相国(頼実)もさまざま
に嘆いて門弟のあやまちをもって咎を師範に及ぼすことの計り難いことを
おいさめ申すことなどもあって、遂に最勝四天王院供養の折大赦行われた
時、御沙汰があって、承元元年十二月八日勅免の宣旨が下った。

その条に

 太政官符       土佐国司

  流人藤井元彦

 茂木正三位、行権中納言、兼右衛門督(かみ)、藤原朝臣隆衡宣。奉勅。
 件(くだん)の人は二月二十八日事につみして。かの国に配流。しかるを
おもうところあるによりて。ことにめしかえさしむ。但し、よろしく畿の内に居
住して。洛中に往還することなかるべし。諸国よろしく承知して。宣によりて
これをおこなえ。

  承元元年十二月八日            符到奉行
                     左大臣史少槻宿禰
                      権右中弁藤原朝臣

 勅免があったとはいえ、まだ都のうちに出入りをすることは赦(ゆる)され
ないで、畿内のうちに住むことだけを赦されたに過ぎない。
配流された地方土民たちは別れを惜しみ京都の門弟たちは再会を喜ぶ。
かくて配所を出でて、、畿内に上り、摂津国押部に暫く逗留していたが、こ
こで念仏門に入った老若男女は夥しかった。

 左様にして都のうちへまだ出入りを許されない間摂国勝尾寺に暫く住ん
でいた。
この寺の西の谷に草庵を結んで住んでいると、僧達の法服が破れてみにく
かったから弟子の法蓮房に京都の壇那へ云い遣わして装束を十五具整え
て施された。
寺僧はよろこんで、臨時に七日の念仏を勤行した。

                             間摂国勝尾寺
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 またこの寺のは一切経がないということを聞いて法然は自分所持の一切
経一蔵を施入したところ、住僧達喜びの余り老若七十余人は華を散し、香
をたき、幟(はた)を捧げ、蓋(きぬがさ)を押してお迎えをした。
この経論開題供養の為に聖覚法印を呼び招くことになった。
法印はこの指名を受けて指定再会を喜びながら導師を勤めたが、その時の
表白文が残っている。

 かくて勝尾寺の隠居も最早四ヵ年になった。
京都への出入がまだ許されない。処が建暦元年夏の頃上皇が八幡宮に御
幸のあった時一人の倡妓があって、王者の徳失のことを口走りだした。

 このことが法然流罪に関連して評議された。
そのうち又上皇が夢を御覧になったり、蓮華王院へお詣りになった時、何
者とも知れず衲衣(のうえ)を着た高僧が近づいて法然の赦免について苦
諌奏上することなどがあって驚かれている処へ、例の光親卿の運動や、そ
の他があずかって、同じき十一月十七日にお許しの宣下が下り、そこで初
めて法然が再び都の土を踏むことが出来たのは同じき二十日の日のこと
であった。

 都へ入ってからの法然は、慈鎮和尚の計らいで大谷の禅房に住いをする
ことになった。
初めて都へ来た時に供養をのべんとして群参の者その夜のうちに一千人
あったとのことである。
それから引き続いて幽閉の地にいたけれども訪ね来る人は連綿として絶え
なかった。


 
 建暦二年正月二日から法然は食事が進まず疲労が増した。
総て三四年この方は耳もよく聞こえず、眼もかすんでいたが、この際になっ
て明瞭にかえったようで、人が皆不思議に思った。
二日以後は、さらに余の事を云わず、往生のことを話し、念仏の声絶えず
、眠っているときも口と舌とは動いていた。
三日の日に或る弟子が往生のことを、「御往生は如何(いかん)」と尋ねる。

 「わしはもと極楽にいた身だから又極楽へ帰っていくであろう」と。

 「また法蓮房が問うて曰く、「古来の先徳皆その後遺跡というものがあり
まする。しかるに上人にはまだお寺を一つお建てになったということがござ
いません。ご入滅の後は何処に御遺跡といたしましょうか」 

 「一つの廟所と決めては遺法が普(あまね)くわたらない。わしが遺跡と
いうころは国々至る処にある。念仏を修する処は貴賤道俗をいわず、あま
がとまやまでもみんなわしの遺跡じゃ」

 十一日の巳の刻に弟子が三尺の弥陀の像を迎えて病臥の側に立て、
「この御仏を御礼拝になりますか」といった処が、法然は指で空を指して、

「この仏の外にまだ仏がござる。拝むかどうか」

といった。それはこの十余年来念仏の功が積って極楽の荘厳仏菩薩(しょ
うごんぶつぼさつ)の真身
を常に見ていたが、誰れにも云わなかった。
今最期に臨んでそれを示すといったそうである

 また弟子達が仏像の手に五色の糸をつけて、
「これを劣お取りなさいませ」といった処が、法然が、

「斯様なことは常の人の儀式である。我身に於てはそうするには及ばぬ

 といって、取らなかった。

二十日の巳の時から紫雲が棚引いたり、円光が現われたり、さまざまの奇
瑞があったということである。

 二十三日から法然の念仏が或いは半時或いは一時、高声念仏不退二十
四日五日まで病悩のうちにも高声念仏は怠りなかったが二十五日の午(う
ま)の刻から念仏の声が漸(ようや)くかすかになって、高声が時々交じる。
まさしく臨終であると見えたとき、慈覚大師の九条の袈裟を架け、頭北面西
にして、

 「光明遍照(こうみょうへんじょう)。十方(じつぼう)世界。念仏衆生(ねん
ぶしゅじょう)。摂取不捨(せっしゅふしゃ)。」

 の文を唱えて眠るがごとく息が絶えた。

音声が止まって後、なお唇舌を動かすこと十余反ばかりであった。
面色殊に鮮かに笑める如き形であった。
これは当に建暦二年正月二十五日午の刻の正中のことであった。
春秋満八十歳、釈迦の入滅の時と年も同じ、干支もまた同じく壬申(みずの
えさる)であった。

 武蔵国の御家人桑原左衛門入道という者、吉水の房で法然の教えを受け
てから、国へ帰ること止め祇園の西の大門の北のつらに住いして念仏をし、
法然に参して教えを受けていたが、報恩の為にと上人の像をうつして法然
に差上げた。
法然がその志に感心して自らその像に開眼(かいげん)してくれた。
法然が往生の後はその像を生身の思いで朝夕帰依渇仰していたが、やが
て往生の素懐をとげた。
当時御影堂にある木造がそれである。


 法然の最期の前後にその門徒の人々が様々な夢を見たり、奇瑞を見たり
したことがある。参議兼隆卿は上人が光明遍照の文を誦して往生する処を
夢み、四条京極の簿師真清は往生の紫雲と光と異香とを夢に見、三条小
川の陪従信賢が後家の養女、並びに仁和寺(にんなじ)の比丘尼(びくに)
西妙はその前夜法然の終焉の時を夢み、その他花園の准后の侍女参河
局、花山院右大臣家の青侍江内、八幡の住人右馬允(うまのじょう)時広が
息子金剛丸、天王寺の松殿法印、一切経の袈裟王丸、門弟隆寛律師、皆
それぞれ法然の往生を夢みて一方ならぬ奇瑞を感得している。

 法然の住居の東の岸の上に、屏(おお)われた勝地がある。
或人がこれを相伝して自分の墓と決めておいたが、法然が京都へ帰った時、
その人がそれを法然に寄進した。

法然が往生の時ここへ廟堂を建てて石の空櫃を構えて収めて置いた。
この廟所についても多くの奇瑞が伝われている。
この地の北の庵室に寄宿している禅尼、地主、その隣家の清信女だとか、
清水寺の住僧別当入道惟方卿の娘粟田口禅尼というような人がふしぎの
奇瑞を感じたということがある。
今の知恩院の処である。

 四条堀川材木商の堀川の太郎入道という者があった。
深く法然に帰依していたが、法然往生の時は廟堂の柱を寄進した。
その後へ西山の樵夫(きこり)だというて結縁に来たという物語がある。

 法然が臨終のとき遺言をして孝養のためにに堂寺を建ててはならない。
志があらばあんまり群集しないで念仏をして報恩のこととでもするがよい。
群集をすれば闘諍(とうじょう)の縁となるからということをいましめておいた
が、でも法蓮房が世間の風儀に従って念仏の外の七日七日の仏事を修す
ることにして他の人もそれに同意した。
初七日には信連望が導師となり、壇那として大宮入道内大臣(実宗)楓誦
の文を読んだ。

 三井の僧正公胤(そうじょうこういん)も懇ろに導師を望んだ。
この人は法然に服しなかった人であったが上人誹謗の罪を懺悔し、先に認
(したた)めた浄土決疑抄(じょうどけつぎしょう)という書物を焼いて、法然
七十七日の仏事の導師となったものである。

 この三井の僧正公胤浜田大僧都であったときに、法然の議論を破るとい
って、「公胤が見た文章を法然房が見ないものはあるとしても、法然房が見
た程の文章を公胤が見ないのはあるまい」と自讃して浄土決疑抄三巻を著
わして撰択集(せんじゃくしゅう)を論難し、学仏房というのを使いとして法然
の室へ送った。
法然はその使いに向かってそれを開いて見ると、上巻の初めに「法華に即
住安楽の文がある。観経に読誦(どくじゅ)大乗の句がある。読誦の行をもっ
てしても極楽に往生するに何の妨げもない筈だ。然(しか)るに読誦(どくじゅ)
大乗の業を廃して、ただ念仏ばかりを附属するということは、これは大きな
誤りである」
 と書いてあった。

その文を法然が見て、終りを見ないで差置いて云うのに、

 「この僧都、これほどの人とは思わなかった。無下のことである、一宗を
樹つる時に彼は廃立(はいりゅう)のむねを知って居るだろうと思われる
がよい。然るに法華をもって観経往生の行に入れられることは、宗義の廃
立を忘るるに似ている。若しよき学生(がくしょう)ならば観経は爾前(にぜ
ん)の教えである。彼の中に法華を摂してはならないと非難をせらるべき
筈である。今浄土宗の心は、観経前後の諸大乗経をとって、皆、悉(ことご
と)く往生の行のうちに摂している。何ぞ独り法華だけが漏れる筈がない。
普(あまね)く摂する心は念仏に対しこれを廃せんが為である」

 といった。

 使いがかえってこのことを語ると僧都は口を閉じて言葉がなかったという
ことである。



























































 南都北嶺の宗徒による念仏阻止運動が次第におさまってきたが、まだ
念仏の流行を快しとせざる空気が至る処充満していた。

 建永元年十二月九日のこと後鳥羽院が熊野へ行幸のことがあった。
その時法然の弟子住連、安楽等が東山麓の谷で別時念仏を始め、六
時礼讃ということを勤めた。

                                            後鳥羽院
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              鴨川畔 後鳥羽院歌碑
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それは定まれる節や拍子もなく、各々哀歓悲喜の音曲をなし、珍しくもまた
人の心をうつものが多かったから、聴衆も多く集まり、それを聞いて発心す
る人も少なくなかったうちに、御所の留守の女房連が、それにききほれて、
遂に断りなく出家をしてしまった。

後鳥羽院遷幸のあと、そのことを聴かれて、大いに逆鱗あり、翌年二月九
日住連、安楽を庭上に召されて罪を定むる時、安楽房が、

  見有(けんう)修行起瞋(きしん)毒。 方便破(ほうべんは)壊競(え
  きょう)生怨(しょうえん)。如此生(にょししょう)盲闡提輩(もうせ
  んだいはい)。
  毀滅頓狂教(きめつとんきょう)永沉淪(えいちんりん)。超過大地微塵
  劫(みじんごう)。未可得離三途身(みかとくりさんずしん)

 の文を読み上げてので、逆鱗愈々さかんにして、ついに官人秀通に仰せ
て六条河原で安楽を死刑に行われてしまった。
 安楽を死刑に処せられた後も逆鱗おさまらず、それにこれを機会として多
年法然の念仏興行に多大の嫉妬と反感を持っていた勢力が喰い入ったも
のか、遂にその咎が師の法然にまで及んで来た。

 法然は「藤井元彦」という俗名を附けられ土佐の国へ流されることになっ
た。
その宣下状に云う。

  太政官符    土佐国司

   流人藤井元彦
   使左衛門府生(さえもんのふしょう)         従二人
   門部二人                  従各二人

  右流人元彦を領送のために。くだんの人をさして発遺くだんのごとし。
  国よろしく承知して。例によりてこれをおこなえ。路次の国。またよろしく
  食済具馬壱疋をたもうべし。

    建永二年二月二十八日             府到奉行
                           右大史中原朝臣
                           左小弁藤原朝臣

 追捕の検非違使は、宗府生久経、領送使は左衛門の府生武次であった。
法然帰依の輩がこの大事件を聞いて嘆き悲しむこと例うるにものなく、門
弟のうち皆々住蓮、安楽が既に死刑に処せられた上は、上人のお咎めとし
ては念仏興行の理由ばかりであるから、表面上一切の興行をお止めにな
って、内々で御教化をするようにして、上へ御宥免(ごゆうめん)を願うよう
に致したい。

御老体を波路遠くまでおいでなさるようなことになってはお命の程も思われ
る。
どうかさようにお計らいをお許し下さいましといって赦免の運動を試みよう
としたが法然はそれを聞かなかった。

 「流されることもさらに怨みとすることはない。わしももう年八十に近い。
たとい皆の者と同じ都に住んでいてもこの世の別れは遠くない。たとい
山海をへだつとも浄土では遠からず会えるのだ。嫌でも人間は生きる間
は生きている。惜しがっても死ぬ時には死ぬのが人の命じゃ。必ずしも
処によるということはない。ましてこの念仏の興行も都ではもはや年久し
いことだ。これから辺鄙に赴いて、田夫野人をすすめることが年頃の本
意であったが、まだいろいろ事繁くしてその本意を果すことが出来なかっ
た。それを丁度この度の事件で果すことが出来るようになったのは有難
い朝恩といわねばならぬ。人が止めようとしても法は更に止まるものでは
ない」


 といって進んで配所へ赴くことになり、その際にも丁度一人の弟子に対し
て一向専念の教えを述べはじめた。

               土佐へ配流
CIM土佐配流


















それを聞いてお弟子の西阿弥が驚いて上人の袖を控え、
 「念仏は御停止でございます。左様なことをおっしゃっては御身にとりて一
大事でございます。皆々御返事をしてはなりません」
 と師の身を思うて云い出すと、

法然は西阿に向かい、

「そちは経釈の文を見たか」

 西阿は答えて、

「経釈の文はどうありましょうとも、今の場の世間態が-・・・・」

 と口籠ると法然が、

「われはたとえ死刑に行わるるともこのことを云わなければならぬ」

 官人は小松谷の房へ行って、「急いで配所へ御移りになさるように」と責
めた。
そこで遂に法然は都を離れて配所の旅に赴くことになった。

 月輪殿は名残りを惜んで
法性寺の小御堂に一晩お泊め申した
月輪殿の嘆きは尋常でなかったけれども、今は主上の御憤りが強い時で
あるから却っておいさめ申しても悪い。そのうち御気色をうかがって御勅
免を申請うということを語られた。
月輪殿の傷心のほどはよその見る眼も痛ましいものであった。

              月輪殿 (九条兼実)
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                                          月輪寺
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                  月輪殿絵図
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 三月十六日に愈々都を出て配所への旅立ちになる。
 信濃の国の御家人角張成阿弥陀というものが力車の棟梁として最後の
御伴であるといって御輿をかついだ。
同じようにして従うところの僧が六十余人あった。

 法然は一代の間、車馬、輿などに乗らず常に金剛草履をはいて歩いて
いたが、今は年もとった上に何分長途のことであるから、輿に乗せられた
のである。

 何しても絶代の明師が不足の難に遭うて遠流の途に上るのだから、貴賤
同俗の前後左右に走り従うもの何千何万ということであった。
 それにしても土佐の国までは余りに遠い。
月輪禅定の骨折りによって、その知行国である讃岐国へ移されるように漸
(ようや)く嘆願がかなったのである。

 月輪殿は歌を詠んで名残りを惜しまれた。

    ふりすててゆくはわかれのはしなれど

       ふみえあたすべきことをぞもふ

 法然の返辞、

    露の身はここかしこにてきえぬとも

       こころはおなじ花のうてなぞ


 鳥羽の南の門から川船に乗って下ることになった。
 摂津の国経の島に着いた。
ここは平清盛が一千部の法華経を石の面に書写して海の底に沈めたとこ
ろである。
島の老若男女が多く集まって来た中に、年七十余りになる老翁が六十余
りの老女を連れて、
 「わしはこの浦の漁師で子供の時分からすなどりなどを業とし、朝夕魚介
の命を取って世を渡る家業をしていますが、ものの命を殺すものは地獄に
落ちて苦しめられるとのことでございますが、どうしたらそれを遁れられまし
ょう。お救い下さいまし」
と法然の前に手を合せた。

法然が、

 「それはお前さん達のような商売の者でも南無阿弥陀仏といって念仏
をしさえすれば仏様のお願いによって極楽浄土に生まれることが出来
ますよ」

 といって教えた。

二人とも涙にむせんでよろこび、その後は昼は浦に出て常の如く漁師をし、
夜は家に帰って二人とも声を合せて終夜念仏をし、辺りの人も驚く程であ
ったが非常に平和な生涯を終えたということである。

 また同じ国の室(むろ)の泊(とまり)に着いた時に小舟が一艘法然の船
に近づいて来た。
何者かと思えばこの泊の遊女の船であった。
その遊女が云うのに、

 上人のお船だということを承って推参いたしました。世を渡る道というもの
は様々ありまするうちにも、何の罪で私はこういう浅ましいなりわいをするよ
うな身となったのでございましょう。この罪業重き身がどうして後生を助かる
ことが出来ましょうか」と。

 法然がそれをあわれんで、

 「左様左様、お前さんのようにして世渡りをするということは罪証まこと
に軽いものではない。祟(たた)りや報いが計り難いことじゃ。若しそれをし
ないで、世を渡るべき方法があるならば、早速その商売をお捨てなさい。
若しその方法もなくまた身命(しんみょう)を顧みずしても道に進むという
程の勇猛心が起こらないならば、ただそのままで一心に念仏をするがよ
い。阿弥陀様は左様な罪人の為に弘(ひろ)く誓いをおたてになったのだ
。・・・・」
 

 ということを懇(ねんごろ)に教えたので、遊女は随喜の涙を流した。

法然はそれを見て、

 「この遊女は信心堅固である。定めてよき往生がとげられるに相違ない」

といった。
 
 その後上人が許されて都へ帰る時に訪ねてみると、この遊女は法然の教
えを受けて後はこのあたり近い処の山里に住んで、一心に念仏をし立派な
往生を遂げたということを聞いて、法然は、

 「そうであろうそうであろう」

と云われたとか。


































 中学生最後の管弦楽の演奏発表会が、3月21日、習志野文化センター
で行われ、千葉在住の家族、それに小生と家内で鑑賞してきました。
孫が、演奏途中でオーボエを一部分ですが、独奏する場面がありました。

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小生は全身を耳にして聞き入っていたところ、途中息切れのような音色が
出ましたので、心配しましたが、なんとか無事に切り抜け、最後まで奏でて
くれましたので、ほっとしました。
ドボルザーク作曲、新世界を、管弦楽で、総勢70余名による、迫力ある演
奏が、小生の心を揺さぶり、十分満足をさせてくれました。
聴衆も大きな拍手でこたえていました。

FM放送の、クラシクックアワーなどで、たびたび聴いている曲ですが、胸に
迫るような臨場感は、やはり生演奏でないと味わえないものがありました。
正直言って、たぶんに、ひいき目でしょうが、プロの演奏とそん色がないと思
うほど、感動をしました。

演奏終了後、卒業する三年生の先輩に、二年生の後輩が、感謝をこめてバト
ンタッチという意味も含めて、ステージで花束を贈呈する場面では、ほとんど
の生徒が、感極まって、涙を浮かべていました。
当方も目頭を熱くしてしまいました。

会場の外で、孫と演奏仲間友達の二人に会いましたので、小生が、親指と人
差し指で丸を作って「グウ!」と、とっさに言いますと、結構受けたらしく、笑顔
を作って、大変喜んでくれました。

 孫たちも、演奏を無事に成し遂げたという喜びと、感激に浸っているようでした。
私たちも、思いで深いものとなるであろう、楽しいひと時を過ごさせていただきま
した。
 指導して下った先生と、練習の成果を発表(演奏)してくれた生徒さんに、心か
ら感謝いたします。

 後で、孫にソロで演奏した場面での感想を聞きますと、演奏中に指が震えた
そうです。
あがってしまうのは、無理もないことでしょう。

                              習志野文化センター界隈 
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この白い建物(電化製品売り場になっています)の後ろが、習志野文化セン
ターです。

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               屋上からの夜景
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京成津田沼駅2回の歩道橋から、千葉工業大学を見る。

               千葉工業大学遠景
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千葉工業大学の、校門(正門)は、有形文化財に登録されています。
ここから、JR線津田沼駅方向に歩いて、10分で、習志野文化センターに
到着しました。

            千葉工業大学の正門      
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 比叡山西塔の南谷に鐘下房少輔(しょうげぼうしょうゆ)という頭脳のよい
僧侶があったが、弟子の稚児に死なれて眼前の無常に驚き、三十六の年
遁世して法然の弟子となり、成覚房幸西といったが浄土の法門をもと習っ
た天台宗に引き入れて、迹門(しゃくもん)の弥陀、本門の弥陀ということを
立てて、十劫正覚(じゅうこうしょうがく)というのは迹門の弥陀のこと、本門
の弥陀は無始本覚(むしほんがく)の如来であるが故に、われらが備うると
ころの仏性と全く違ったところはない。
この謂(いわ)れをきく一念だけでよろしい。
多念の数編の念仏は甚(はなは)だ無益のことだといって自立して「一念義」
というのを立てた。
法然これを聞いて、これは善導和尚の心にも背いている。
甚だよろしくないといって制しおさえたけれども聞かないで、尚この一念義を
主張したから法然は幸西を我が弟子に非(あら)ずとして擯出(ひんしゅつ)
した。

 兵部卿三位基親卿は深く法然勧進の旨を信じて、毎日五万遍の数遍、怠
りなかったが、「一念義」の幸西がそれを非難して来たものだから、幸西とい
ろいろ問答をしてその義と自分の考えとを記して法然の処へ問うて来た。

その中に、

 「念仏者は女犯(じょぼん)はばかるべからずと申す者もあるが、善導は眼
をあげて女人を見るべからずと迄云われて居るにーということ。それから自
分が五万遍を唱えていると、或人が本願を信じる人は一念である。そうすれ
ば五万遍は無益である。つまり本願を信ぜないことになる。わしはそれに答
えて、では念仏一声の外に百遍乃至万遍は本願を信じないのだという文が
あるか。その人が云う。自分では往生が叶わない。ただ本願を信じてからあ
とは念仏の数は無益であると。わしはまた云う。自力往生とというのは念仏
の他の雑業をもって願いをたてるというからそこで自力といわれるのである。
従って善導の疏(しょ)には上尽(じょうじん)百年。下至一日七日(げしいちじ
ちしちじつ)一心専念、弥陀名号。定得往生必無疑(じょうとくおうじょうひつ
むぎ)とあって、百年念仏すべしとある。
また法然上人も七万遍の念仏を唱えられている。わしも法然上人のお弟子
の一分である。依って数多く唱えようと思うのだ。仏の恩を報ずるのだ」と。

 法然はその手紙を見て返事を書いて基親の信仰をほめ、

 「深く本願を信ずる者は破戒も省るに足らないというようなことは又お尋ね
になるには及ばないこと。一念義のことは念仏の天魔、狂言だ」

といって深くとりあげられなかった。

 この成覚房の弟子たちが、越後の国へ行って、一念義を立てたのを法然
の弟子の光明房というのが心得ぬことに思って、それらの連中の訪問を記
して法然の処へ訴えて来たが、法然はそれにも返事を書いて、

 「一念往生の義は京中にも略(ほぼ)はやっているが、言語道断のことで、
誠に問答にも及ばないものだ


といいながらよく事理を細かに尽し

「凡(およ)そかくのごとき人は、附仏法の外道なり。師子のなかの虫なり。
又うたごうらくは、天魔波旬(てんまはじゅん)のために、正精気をうばわる
るの輩。もろもろの往生の人をさまたげんとする歟(か)、尤(もっと)もあや
しむべし。深くおそるべきものなり。毎事筆端につくしがたし」

 とまで云って、右の光明房の手紙について法然は、

「一念義停止(ちょうじ)の起請文」をまで定めて世に示した。

その文中には

「懈怠(けたい)無慚の業をすすめて、捨戒還俗の義をしめす」

と憤り、或は

「いずれの法か、行なくして証をうるや」

と嘆き、最後に承元三年六月十九日沙門源空と署名している。


 法然の師範であった高徳院の肥後阿闍梨皇円は、叡山椙生法橋皇覚
の弟子で、顕密の碩才であったが、或時つらつらおもうよう、

「自分の機分ではなかなか生死を離れて成仏することは覚束ない。いろ
いろ生まれ替わって見ても仏法を忘れてしまい人心を受けてもなお二仏
の中間にいて生死を離れることが出来ない。仕方がないから長命をして
慈尊の出世まで待つ外はない、命の長いものは蛇に過ぎたものはないと
いうことだから、わしは大蛇になろう。ただし蛇になっても大海に棲むと金
翅鳥(こんじちょう)という奴に捕えられる怖れがあるから池に棲むことにし
よう」

 といって願を立てて遠江の国笠原庄の、さくらの池という処へ身を沈め
てしまった。
静かなる夜は池に振鈴の音が聞こえるということである。

 法然ががそのことについて言うよう、

「智恵があって、生死の出で難いことを知り、道心があって慈尊に会わん
事を願うのは、殊勝のことであるが、よしなき畜生の趣を感ずることは浅
ましいことである。これは浄土の法門を知らないからのことである。わしが
もしその時分にこの法を発見していたならば、信不信を省みずお授け申し
たものを。極楽に往生した後は十方の国土を心に任せて経行し、一切の
諸仏思うに従って供養が出来る。なにもそう久しく穢土(えど)にいなけれ
ばならないという筈のものではないのに、彼の阿闍梨ははるか後の世に
仏のお出ましを待って現在に救わる道あるを知らずに池に棲み給うとは、
おいたわしいことじゃ」

 妙覚寺に妙心房といって評判の高い僧があった。道心が深いということで、
寺門を出でず、念仏を行ずる有様は非凡で、帰依する人も盛んにあったが、
五十歳ばかりで亡くなった。
その時の臨終の有様がさんざんであったから人々がそれを怪しんで、

 「妙覚寺の聖人でさえもあの通りの有様で往生が出来ない。まして外の人をや」

 といいはやした。

法然がそれを聞いて、

 「さあ、それは本物ではあるまい。虚仮の行者だろう」

といった。

 そのあと四十九日の仏事に、法然が請われて、唱導に行ったが、その時
妙心房の弟子が衣裳箱をとり出して、

「これは私のお師匠様が、年頃のお持物でございましたが」

といって法然の前へお布施として差出した。
その箱を開かせてみると、布の衣袴の尋常なると、布の七条の袈裟、ならび
に、十二門の戒儀をふかくおさめていた。

法然がそれを見て、

「それそれ、日頃源空が言ったことが違わない。この聖は由々しき虚仮の
人であった。この持ち物を見ると、徳たけて人に尊ばれて、戎師になろう
と思う心で行いをすましていたのだ」

といったから、人が成程と分かったそうである。


 治承四年の十二月二十八日、本三位中将重衡は、父清盛の命によって
南都を攻め、東大寺の大伽藍を焼いて了った。
その後元暦元年二月七日、一ノ谷の合戦に生け捕られて都へ上り、大路を
わたされたり様々の憂き目を見たが、法然上人に頼んで後生菩提のことを
お聴きしたいという願いが切であったから法然は対面して、戒などを授けら
れ、念仏のことを委しく導道した。
重衡が、

 「この度生きながら、捕われたのは今一度上人にお目にかかる為でありま
した」

 と限りなく喜んで受戒のお布施のつもりで、双紙箱を取り出して、法然の
前に差置いて、

 「御用になるような品ではありませんが、お眼近い処にお置き下さって、一
つは重衡が形見とも御思いだし給わり取りわけて回向をお願いいたします」

  ※ 重衡の歌

   せきかねて涙のかゝる からごろも のちのちかたみにぬぎぞかえぬる
  女房ききもあへず
   ねぎかふるころももいまは なにかせんけふか ぎりのかたみとおもえば


                                本三位中将重衡 
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  法然はその志に感じてそれを受けて立ち出でた。

 重衡によって焼かれた東大寺を造営の為め、大勧進の沙汰があったが、
学徳名望共に法然上人の右に出ずる者が無いというような理由で、後白河
法皇から、右大弁行隆朝臣(あそん)をお使いとして、この度の大勧進職た
るべき御内意があった時、法然は、

 「山門の交衆(きょうしゅ)をのがれて林泉のうちに幽かに栖(す)んでい
ることは静かに仏道を修し、偏に仏道に行せんがためでございます。もし
勧進の職を承るならば、劇務万端ために修行念仏の本意に背くことにな
りますから、どうぞこの儀は御免を願い度うございます」

 とその辞意堅固なるを見て、行隆朝臣も何ともしようがなく、このことを奏
上したところ、「では門徒のうちに然るべき器量の者あらば申出るように」
 そこで醍醐の俊乗房重源を推挙して、大勧進の職に補せられた。
重源はやがてその使命を果たした。
法然は重衡卿から送られた鏡を結縁のために贈り遣わしたということであ
る。

                東大寺造営による大勧進
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 寿永元暦の頃の源平の乱によって命を落としたものの供養をするといっ
て俊乗房が興福寺、東大寺をはじめ、貴賤道俗をすすめて七日の大念仏
を修した時、その頃までは人がまだ念仏のことを知らなかったから、俊乗房
がこのことを嘆いて、建久二年の頃法然を請じて大仏殿のまだ半作であっ
たが、軒の下で観経の曼荼羅、浄土五祖の姿を供養し、浄土の三部経を
講じて貰うことになったが、南都の三論法相の碩学が多く集まった中に大衆
二百余人各々肌に腹巻を着て高座の側に列(なら)んでいて、自宗の義を
問いかけて誤りがあれば恥辱を与えてやろうと支度をしていたが、法然は
まず三論法相の深義を述べて次ぎに浄土一宗のこと、末代の凡夫出離の
要法は、口称念仏にしくものはない、とうことを説いた処が二百余人の大衆
よりはじめて随喜渇仰極まりなく、中には東大寺の一和尚観明房の己講(い
こう)理真は殊に涙にむせんで、
「こうして八十まで長生きをしたのは偏にこのことを聴かんが為であった」と
いって悦んだ。
 そのついでに天台円頓の十戒を解説したが、叡山は大乗会、この寺は小乗
会と述べたので大衆が動揺したけれども、古老が申しなだめることがあって
無事に済んだ。

 法然は和歌を作ることを好んでやらなかったけれども、我が国の風俗に従
って、法門に事よせてときどき和歌を作られたこともる。
それを門弟が記し伝えたり、或は死んだ後に世間へ披露されたもののうちに、

  春

    さえられぬ光もあるをおしなべて

           へだてがほなあるさがすみかな

  夏


    われはただほとけにいつかあおひぐさ

           こころのつまにかけぬ日ぞなき

  秋


    阿弥陀にそむる心の色にいでば

           秋の梢のたぐひならまし

  冬


    雪のうちに仏の御名を唱れば

           つもれるつみぞやがてきえぬる

  逢 仏法 捨 身命 と云えへる事を


    かりそめのいろのゆかりの恋にだに

           あふには身をもみしみやはする

  勝尾寺にて


    柴の戸にあけくれかかる白雲を

       いつもむらさきのいろにみなさむ


  極楽往生の行業には余の行をさしおきてただ本願の念仏をつとむ
   べしと云うことを

    あみだ仏といふよより外は津の国の

       なにはのこともあしかりぬべし

    極楽へつとめてはやくいでえたたば

       身のをはりにはまゐりつきなん

    阿弥陀仏と心は西にうつせみの

       もぬけはてたる声ぞすずしき


  光明遍照十万世界念仏衆生摂取不捨の心を

    月影のいたらぬ里はなけれども

        ながむる人のこころぞにすむ


  三心の中の至誠心の心を

    往生はよにやすけれとみな人の

        まことのこころなくてこそせね


  睡眠の時十念を唱べしと云う事を

    阿弥陀仏と十声唱へてまどろまん

        ながきねぶりになりもこそすれ


  上人てづから書付給へける

    千とせふる小松のもとをすみかにて

        無量寿のむかへをぞまつ

    おぼつかなたれかひけんこまつとは

        雲をささふるたかまつの枝

    池の水人の心に似たりけり

        にごりすむことさだめなければ

    むまれてはまづ思ひいでんするさとに

        契し友のふかきまことを

    阿弥陀仏と申すばかりをつとめにて

        浄土の荘厳見るぞうれしき

           元久二年十二月八日  源空
























    






























       

































昨日(14日)、京王線多摩センター駅近くに所在する、パルテノン多摩にて、
「島津亜矢」コンサートがありましたので、友達と一緒に演歌を鑑賞してきま
した。
多摩センターにはかなり前(昔といったほうが妥当)に一度、車で家族を送
迎した記憶のみがあります。

 このパルテノン多摩へタクシーなど、車で来た場合は、駐車場の入り口は
この1階の構内を利用するようになります。
私たちはこの階の入り口から2階にある大ホールへ、エレベーターでアクセ
スしました。


         パルテノン多摩1階の入口
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 開演時間まで少し時間に余裕がありましたので、パルテノン多摩(下の写
真)の2階の玄関から、外に出てみました。

           パルテノン多摩の2階の玄関
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パルテノン多摩の玄関を背にして正面を眺めると、三越百貨店がありました。

               三越百貨店
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以前多摩センターを訪れた際、確か、ベネッセが一番の高層ビルだったの
で、記憶に残っていますが。
  
        この建物は「ベネッセ」かもしれません
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2階のフロア(広場)から階段を上って俯瞰しますと、正面の突当りが京王
線の「多摩センター駅」です。
小生が立っている、この高台がちょうど、バルテノン多摩の建物の最上階で
あることがわかりました。
                             
 俯瞰すると(青いガラスのようなものが見える所)多摩センター駅が見えま
 した。
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 この高台にある、かなり広い公園は、雑木林を切り開いた痕跡を残し、目
の前いっぱいに広がっている風景が、安堵の感を抱かせました。
名前はわかりませんが、自然豊かな立派な公園です。
一度散策に改めて訪れる価値がありそうです。
              
             公園のある風景
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              公園のある風景
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 芸術的な門をくぐって、垣間見た風景です。

               公園のある風景
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 この、芸術的な門をくぐると自然をいっぱいに残した、山林の散策路が展
開されているようです。

               公園のある風景     
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              公園のある風景       
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 開演時間も近づき、「バルテノン多摩」大ホールに戻り、カタログを頂いて
から、指定席に座り、そのカタログに目を通しますと、この演歌歌手「島津亜
矢」は芸能生活30年を今年5月に迎えるとのこと、「苦節30年」という言葉を
頭におもい浮かべました。
 隣席の友に、「芸名《島津亜矢》の島津という名がつけてあるのは、もしかす
ると島津藩との関係で、この歌手は鹿児島出身かもしれないですね」と話しか
けましたが、この後のトークショーで、本人が熊本県の出身だとか言っていまし
た。
九州は唄の上手な歌手が多く輩出する所です。

     島津亜矢の新曲「独楽」という題名の宣伝ポスター
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             唄:島津亜矢                 新曲「独楽」
  🎼
     嘘とまことが      絡み合い
     しゃれじゃ通らぬ    この世間
     独楽は心棒       こころも心棒
     七つ八つと       転んで起きて
     つまずき怖れぬ     それでいい

     手前勝手に       力(りき)んでも
     ひとりぼっちじゃ     廻れない
     独楽は心棒        こころも心棒
     損か得かで        動いてなるか
     情けと絆で         動きたい
 
     雨が降っても       乾いても
     いのちいっぱい      花は咲く
     独楽は心棒        こころも心棒
     軸をしっかり        本気に据えりゃ
     己に勝てると       独楽がいう  

    30周年を迎えるにあたって、本人のコメントがあります。
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            名古屋公演も予定しているそうです。
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 愈々開演です。素晴らしい演奏が耳をつんざくような迫力で鳴り響き、い
やがうえにも臨場感を醸し出していきます。
華やかなスポットライトを浴び、演歌歌手「島津亜矢」が登場し、ひと際声の
通る美声でオンステージが始まりました。
特等席の右側にファンの一部が席を占め、亜矢コールが激しく飛び交ってい
ます。
こうして熱心なファンがいることは歌手にとって、何よりの勇気づけになること
は、間違いありません。
双眼鏡で時々、覗いてみますと結構はっきりと和服姿、美しい顔も眺められ、
これは重宝な器械だと思いました。

 ステージから、観客席の方へ降りてきて、ファンの方々に握手をしながら、
愛想を絶やさず唄う「島津亜矢」のサービスぶりも、大変感じの良いものが
ありました。

 演歌は日本人の心と云われるぐらいですから、今後演歌が増々発展するに
違いありません。
大いに期待したいと思います。

 3月21日に、孫の中学生生活最後の定期演奏会≪管弦楽の≫があり、家
内と聴きに行くことに決めていますので、ぜひこのルーペを持って行こうと決めました。

 唄い続けて三十年、そろそろ「大ヒット曲に恵まれて欲しいなあ」と思いつつ耳
を傾けていました。
双眼鏡で、演奏する楽団の方々にも目を向けてみますと、少し年配の男性がサ
ックスを吹き、トランペット奏者が三人くらい、それから後ろには女性のバイオリ
ン奏者が、その隣はトロンボーン奏者となっていました。
向かって左の方へ目を移すと、男性のピアノ奏者があり、その人は長い指の持
ち主であり、軽やかに鍵盤をたたく感じが芸術的でもありました。

 以前、手相の本を少し勉強したことがありますが、指が長くて爪の形もやや細
長めの手相が芸能(絵画とか)に向いていると記述してあったように思います。
そういう意味でも、この人は天職なのかもしれません。

 ピアノの脇は、ギター奏者、その後ろが、ベースだったかもしれませんが、最後
はドラマーという布陣です。

 バンドマスターも懸命にサックスを演奏しながら、楽団をまとめ、指揮している
様子がうかがわれます。

パルテノン多摩の1階構内の向こう側に、「島津亜矢」の大きな宣伝看板をつけ
た、大きな車が停車していましたが、この車に、楽団の楽器やメンバー、スタッフ
を乗せて、全国を、巡業しているのかもしれません(想像の域を出ませんが)。
ピアノは、現地調達(リース)しているのかもしれません。
今日のコンサートを鑑賞してみて、一日も早く、この人の演歌がミリオンセラー
を生み出すことを、願いたい気持ちになりました。

 楽団の皆様方とスタッフ、それに「島津亜矢」さんも健康に留意して、今後も
公演を継続させ、その先には必ず輝かしい栄冠が待っていることを強く信じて、
頑張ってくださることを心より願っています。
小生も「島津亜矢」の一ファンになりそうです。
楽しいひと時をありがとうございました。

 トークショーで、今度3月29日(日曜日)には、NHKのど自慢の番組に出演する
と言っていましたので、ぜひ視聴してみようと思います。

 ※ ヒット曲というものは、時勢の良きエネルギーと、メロディーの妖精が融合した
ときに、生まれるのかもしれません。
また、心の純粋な作曲家とか、芸術家などは、集中力を高めると、宇宙からの見え
ない力で、音符が書けたり、線が描けたりと無意識に手が動くともいいますので、こ
のような作曲家の誕生が待たれます。
作詞にしても同様に思います。

 早く、演歌の大ヒット曲が、島津 亜矢さんに恵まれてほしいので、ついついこんな
つぶやきをしてしまいました。
この日が必ずやってきますので、健康に気を付けて、これからも、公演などを継続さ
れることを願っています。

「今を大切に生きる」とか言ってらっしゃたので安心しています。
私は、「今を強く生きる」という、前向きの言葉が好きです。

 昨日、多摩川の土手を散歩しながら、今晩の皆既月食は果たして見えるのだろうか
と、空を仰ぐと、厚い雲が覆ってるため、半分以上あきらめていました。
去年(2013年)の3月8日は、くっきりととした月と星も見ることができましたので、ふと、
こんな歌詞が頭に浮かびました。

♬  夜空の星になりたいなんて 言って僕を困らせたいのか・・・・

 2014年4月8日
 東京は季節外れの雪が降り、真冬のような寒さでした。

 BS放送で、「島津亜矢」が出演していましたので、聴き惚れていました。
頑張っていますね!これからも、ますます発展されることを期待しています。
テレビで拝見するより、やはり生のステージのほうが、色彩も鮮やかで、亜矢
さんが、より美しく見え、第一迫力が全然違いますね。
でもテレビは、全国ネットですから、そのぶん多くの眼が光っていますから、手
が抜けませんね。お疲れ様です!

 吉 幾三と、デュエット曲を唄ってくれました。

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🎼
 今頃、どこで唄ってるのかな 名もない街で
 懸命に 唄う亜矢の ネオンが祝う 心に響く
 演歌節・・・

 なぜか、ふとこんな言葉が頭に浮かびました。

 年末の恒例になっています、2015NHK紅白歌合戦に、14年ぶりに出場
を果たした、島津亜矢を視聴しながら、「やはり、地道にこつこつと努力して
きたかいがあって、良かったね」と心で言ってあげました。これからも、これを
ばねにして、ますますの発展を期待したいと思います。おめでとうございます。



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