atusisugoiのblog

2015年07月

 「新・平家物語」第4巻を読み始めたところですが、巻末が気になり、目
をとおしてみますと、吉川英治の御子息であり、責任編集者でもある、吉
川英明氏が、『今昔の感』というタイトルで書かれた寄稿文がありました
ので、転載しておきたいと思います。
  
 今昔の感

 広島の音戸の瀬戸に、父の文学碑がある。
 瀬戸を見下ろす丘の中腹にあって、設計は、杉本健吉画伯である。
碑は、二つの石から出来ている。自然石なのだが、きれいな三角形をし
た石と、その右側に、これは、見事なまでに丸い石とが、あたかも、対峙
しているかのように置かれている。三角の石の表面には
「君よ、今昔の感如何」
という父の言葉が刻まれている。丸石の方には何もない。
 この言葉は、父が「新・平家」取材のため、呉から厳島、音戸と、この
地方を訪れたときの言葉である。
 杉本画伯は、この碑の設計にあたって、三角石を父に見立て、音戸の
瀬戸を開いたといわれる清盛(平清盛)を丸石になぞらえて、人の世の
移り変わりをどう観るかと、問いかけさせている。

 私も、二度、ここを訪れたが、じっと見ていると、二つの石が、悠久と変
わらぬ瀬戸の潮流を見下ろしながら、静かに一壺の酒を酌み交わして
いる二人の人間に見えてくる。そしてなおも見ているうちに、「今昔の感
如何」と、談笑のうちにも、やや、肩をはって問いかけている三角石の父
に対して、清盛の丸石の方は、「ふーむ」と、茫洋とした捉えどころのない
表情で、表を伏せて考えこんでいる古代人の様相を呈してくるから不思
議である。私は碑を見るたびに、自然の石を使って、見事な空間を創り
出した画伯の造形の妙に感じ入るのである。
 先日、毎年のことなのだが、父の命日に吉野村の記念館へ行った、死
んで丁度二十年、この家で、「新・平家」を書き始めたのは三十年前のこ
とである。終戦後、間もないころで、子供だった私が、石けりをしたり、凧
を上げて遊んだ家の前の道は、すっかり舗装されてトラックの通行が絶
え間なく、信号がなければ危ないほどになっている。
 記念館を入ると正面に、これも杉本画伯が描いてくださった父の肖像
画がかけてあって、白い花がうず高くその前に積まれていた。
 私は手を合わせながら、そっと胸のうちで呟いた。
「父よ、今昔の感如何」と-。

                               音戸の瀬戸
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 読書を進める前に、作家、利根川裕氏の隋筆がありますので、予備
知識を、ここで仕入れておくことにします。

 古典「平家」と「新・平家」(一) 私の古典『平家』観

 
なんと、おびただしい死が、ここでは語られていることか。
 巻第一冒頭の「祇園精舎」から、巻第十二掉尾(とうび)の「六代被斬」
に至るまで、「平家物語」の重畳(ちょうじょう)たる語りは、すべて死
をめぐって展開し、最期に至ることを目指している。
「物語」は、死屍累々である。合戦の生死はもとより、入水、被斬(きられ
)、流刑死等々、息つく間もなく異状死が語りつがれる。ここでは自然死
はない。自然死とみえるものにも、怨嗟(えんさ)や悔恨(かいこん)や
執着や復讐がからみついて、死は自然な表情を見せない。仏教観は「物
語」全体に色濃くふりかかっているが、宗教的浄福が招来されるという
よりは、無常の野分けが吹き抜けてゆくようである。『平家物語』は、む
ろん平氏一門のあわただしい滅亡の抒情詩である。その滅亡の前には、
当然、頂上をきわめる栄華ぶりが語られなくてはならない。平清盛の昇
竜のように素早い栄達のさまを、「物語」もじつに快調に手際よく進めて
ゆく。しかし開港間もなく、平氏一門が栄華の出発点に勢揃いした「吾身
栄花」では、清盛の気まぐれな寵愛に絶望して出家する女人たちの、出
家というかたちの人工死を挿入しないでいられない。これが「平家物語」
である。いったん清盛の寵を蒐(あつ)めた白拍子祇王も、やがて寵が
仏御前に移ると、母や妹とともに出家隠棲する。が、話はここで終わるの
ではなく、いま寵を得ているはずの仏御前も隠れ家を訪ねてきて、「四人
一所にこもりゐて、朝夕仏前に花香をそなへ、余念なくねがひければ、
遅速こそありけれ、四人の尼ども、皆往生の素懐をとげけるとぞ聞えし」
となるところが、「平家物語」の「あはれなりし事どもなり」の「あはれ」
である。この四人の女性は、異状死として死を迎えたわけではない。
しかし、こういう「往生」は共有しあう最期が平常死と同じものでない
ことは、いうまでもない。

 ところで、あの有名な「鹿谷(しかがたに)」の陰謀のかどで鬼界島に
流された俊寛僧都は、ともに流刑となった丹波少将成経、平判官康頼
の二人が赦免されて帰ったあとも、ただ一人島に残しおかれることにな
る。入道相国(清盛)のゆるし文は、何度読み返してみても、「二人とば
かり書かれて、三人とは書かれざりけり。夢にこそかかる事はあれ、夢
かと思なさんとすればうつつなり。うつつかと思えば又夢のごとし」であ
る。いよいよ俊寛ひとり置き去りにして出発する船に、「僧都乗ってはお
りつ、降りては乗つつ、あらまし事をぞし給ひける」というふうにしがみ
つく。「さていかにおのおの、俊寛をば遂に捨てはて給ふか」と叫んでも、
ついに詮(せん)ない。船は白浪を残して出てゆく。見捨てられた俊寛
は、「船も漕ぎかくれ、日も暮るれども、あやしのふしどへも帰らず、波
に足うちあらはせて、露にしをれて其夜はそこにぞあかされける」という
次第である。

 やがて俊寛は、自ら食事も断ち、弥陀の名号を唱えつつ死んでゆく。
年齢三十七。この死もまた自然死とはいえない。「物語」はこの話しの
結びに、「平家の末こそおそろしけれ」との感懷を添えている。異状な
死におののいているのである。

 ところでまた、「物語」が、いよいよ第十二に及んで全巻を閉じるに
あたって、維盛(これもり)の子六代の最期を語る。平家一門の滅びで
ある。
平家の残党狩りのため、「平家の子孫といはんという人、尋ね出(いで)
したらむ輩(ともがら)においては、所望こふによるべし」の触(ふ)れ
が出される。と京中の人達が褒美をもらおうとばかり、名もなく身分の低
い子を平家すじの××の子などといわつり申し出て、それらの子を、ある
いは土に埋め、あるいは水に入れ、という地獄相が現出する。
 人間を殺戮してゆくのは、権力者とは限らない。武門の者とも限らない。
現世的利得のために民衆が民衆を血祭りにあげてゆくのでもある。「物
語」は最後に至って、そういう異状死をも語っている。語り手はこの残酷
な場面を「いみじとは思はねど」とたじろぎながら、しかしつぎのように
語りつなぐ、「世にしたがふならひなれば、力およばず」と。

 とどめようがないのである。人力ではいかんとも制御できないのである。
人間とは、なんと恐ろしいものだろうという「あはれ」の響きが、この世
全体にこだまするようである。

 「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹(さらそうじゅ)の
花の色、盛者必衰の理(ことわ)りをあらはす。おごれる人も久しからず、
唯春の夜の夢のごとし、たけき者もついには滅びぬ、偏の前の塵に同じ
。遠く異朝をとむらへば秦の趙高(しょうこう)・、漢の王莽(おうもう)
・梁の周伊、唐の禄山、是等(これら)は、皆旧主先皇の政にも従はず、
楽みをきはめ、諫をも思いいれず、天下の乱れむ事をさとらずして、民
間の愁(うれ)る所を知らざツしかば、久しからずして、亡心にし者ども也。
近く本朝をうがふに、承平の将門。天慶(てんけい)の純友(すみとも)。
康和(こうわ)の義親(よしちか)平治(へいじ)の信頼、此等(これら)
は奢(おご)れる心もたけき事も皆とりどりこそありしかども、まちかくは
、六波羅の入道前太政大臣平朝臣清盛公と申し人のありさま、伝えうけ
給(たま)はるこそ、心も詞(ことば)も及ばれぬ。」

                         沙羅双樹の花      椿科の植物
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 誰も彼も、なんどかこの文章を読んでいる。いや、ただ文字面(づら)
を目で読むだけでなく、音読している。場合によっては、音吐朗々と歌
いあげて読んでいる、文字面も絢爛(けんらん)だが、目で追っている
うちに、いつしか声になってゆくようにできている。『語りもの』として
誕生したのだから、これは当然の道すじであるが、黙読に馴致されきっ
ている現代の読者までそそのかすのだから、たいへんである。
「源氏物語」は読みつなぐことによって生きつづけたが、『平家物語』
は語りつがれて広まり、そして生き続けた。「源氏」は文字の読みうる
人たちによって流布されたが、「平家」は盲目の法師によって語られ、
文盲(もんもう)の人たちにも伝播(でんぱ)されていった。当然、『平
家物語』の流布伝播の範囲は、はるかに大きい。成り立ち具合からし
て、『平家物語』は初めから国民文学の条件をもち、また国民文学た
ろうとしてきた。

 繊細な知識人の感受性から生まれたのではなく、何はともあれ生き
続けなければならない民衆の生活力とともに成長してきた。だから、こ
の『物語』は、いかに《諸行無常》を嘆じ、おびただしく死の姿を語って
も、腺(せん)病質な感傷に傾斜しない。野太い活力に支えられている。
《諸行無常》のさなかで、権力争奪をめぐる奸計(かんけい)や陰謀が
渦まき、武者たちは大音声(だいおんじょう)をあげて合戦に臨む。血と
汗のにおいが横溢(おういつ)し、馬のいななきや武具のぶつかり合う
音が聞こえてくる。白旗や赤旗が風をはらみ、土や埃(ほこり)が舞いあ
がる。生死を分(わか)つ合戦場裡で、武者たちは怖(おそ)れを知らぬ
勇気に鼓舞(こまい)され、底抜けに明るく哄笑(こうしょう)する。生死
をかけて肉体と肉体のぶつかり合いがはずみのついた語りに乗って躍
動する。

 敗走のつづく平家が、いよいよ壇浦(だんのうら)に追いつめられ、ある
いは入水し、あるいは囚(とら)われる。一門の最期を見とどけた知盛は、
「見るべき程(ほど)のことは見、いまは自害せん」と決心する。が、「見た」
のは、たんに一門のあえない滅びかただけではなく、おそらく生き死にす
る人間というものの真相そのものであったろう。

 ひとり知盛の感慨にとどまらない。『平家物語』そのものが、「見るべき
程のことを見」た物語である。
 古代社会から中世社会へと転換してゆく大変動期の人間生死を活写し
た『平家物語』は、国民的規模で伝播することによって、日本人のものの
見かた、感じかたに深くくいこんでいった。「諸行無常」、「盛者必衰」
は日本人の歴史観、生死感の幅広い基底を形成してゆく、擡頭(たいとう)
期の武士たちの生きかたは、その後の日本人の誠実や勇気や恩愛や風
雅の徳目の基本型ともなっていった。

                            平家の氏神・厳島神社
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 全十二巻からなる「平家物語」は、そのあとに「灌頂(かんちょう)巻」
を付加したものとして今日流布され、これが巻第一の「祇園精舎」と照
応するエピローグともなっている。
 ここでは、その後の建礼門院が語られている。清盛の娘徳子として生
まれ、高倉天皇の后(きさき)にして安徳天王の母である建礼門院であ
る。壇浦で幼帝とともに入水した建礼門院は救いあげられて生きけり、
今は出家して大原の寂光院にひっそりと庵を結んでいる。そこへ一日、
後白河法皇の御幸があって、ともども往時を語り合う。建久二年、建礼
門院も「南無西方極楽世界教主弥陀如来、かならず引摂し給え」と念
仏を唱えながら死去する。「かならず引摂し給え」の唱名は、一人の女
院の祈りだけでなく、「物語」の中で生死したすべての人にとっての鎮
魂の祈りであろう。

それにしても、鎮魂の巻ともいえるこの巻で、後白河法皇を登場させて

のは、なかなか意味深長である。

 ほぼ三十年間にわたる大激動期をえがいた『平家物語』の人間興亡
劇の一歩奥にあって、常に甚大な影響力をふるっていたのが後白河院
である。この興亡劇に、もし隠れたかたちの真の主役があるとしたら、そ
れは後白河院だ、とでもいう暗示が、そこに込められているのかもしれ
ない。

  それでは、「新・平家物語」の中に入っていこうと思います。

 平家軍と、源氏の大将頼朝との、富士川での決戦は、あえなく平家の
総崩れとなり、将兵ともに京への総退却を余儀なくされました。

 大将軍維盛(これもり)の相談役をおおせつかっていた、実盛はいち
はやく戦場を脱し、福原の都に入り、平宗盛(むねもり)に拝謁し、切実
な状況を説明します。
 頼朝追討軍の失敗は、都を立たぬ前にあった。それは出陣の出遅れ
にある。また、平家の上総守忠清の狭量による帷幕(いばく)の違和も、
それを決定づけていたともいい、
 敗因の第一として、ことしのも空梅雨(からつゆ)のための飢饉である。
西国同様、海道一円も大不作で、現地の食料は極度に涸渇しており、
後方の補給も望みがたいこと。
 第二には、沿道の労役不足。飢民(きみん)の不穏
 第三には、味方の作戦齟齬(そご)があげられる。伊藤祐親や大庭景
親などの有力な東国の味方が、都の大軍の着かぬ以前に敵に先を打
たれてことごとく滅亡してしまったこと。
 第四には、後方の不安だった。もし尾張の知多あたりへ源氏方が上
陸して、街道を遮断するなら、平家軍二万は、ふくろの鼠でしかないこ
と。
 
 このばあい、飢民の襲来も予想されよう。としたら、何分の一が、無
事に都へ帰ることができようか。 実盛は、宗盛にむかい、噛んでふく
めるように、説くのだった。
 やがて、宗盛もいちいち、うなづいた。
 六波羅の朝令でさえも、糧米の公収がまったく成績が悪い。
興福寺大衆や園城寺(おんじょうじ)などの妨害にもよるが、事実、近
畿の不作もひどいのである。
 遠い戦地への輸送などは、思いもよらないし、現地の調達も困難だと
すると、それだけでも、実盛の憂えはむりもないと考えられた。まして、
実情が、すべて実盛のいうようなものだとすれば、頼朝追討の計は、中
央としても、大失敗であったと認めるしかあるまい。
 「そうか、よく分かった。そちの忠言と、上総守忠清の意見とが、相容
れぬとみえる。そのため、急を都へ訴えに来たか。・・・・いやいや、そち
は申さずとも、察しはつく。・・・・はて、困ったものよのう」
 宗盛はまったく滅入り込んで、「ともあれ、儂(み)の一存では、何も計
れぬ。相国(しょこく)禅門へお伺いしてみたうえで」
 と、実盛を館に待たせておき、にわかに、雪の御所へ車をやった。

 雪の御所では、ただちに、一門の評議となった。しかし多くの者は、疑
いを抱いた。
「実盛と申すは、もともと、武蔵永井の庄の源氏武者ではおざらぬか」
 

 と、こだわる懸念もあり、また、
「つい先ごろの上総守忠清が書状にも、さような敗け色は露ほども訴え
ておらぬが」 
 と、いぶかる者も多かった。
 二、三日はすぐ過ぎた。するともう、尾張、美濃路からのしきりな早打
ちである。「・・・・富士川陣のお味方総引き揚げとなって海道を雪崩れ
立って候う」ーとある。
 すべて、実盛の予言を証拠だててきた。かれが憂えていたとり、源氏
方の一手(いって)は山越えをとり、一手は海上から上陸して、平家軍
の退路を断ちにかかったのである。
 たまたま、海道の味方がそれを富士川へ急報したのが原因だった。
かねて、実盛の諫(いさ)めも耳にあったことだし「-すわ」と騒ぎ出した
のである。そこへまた、甲斐源氏の武田信義らの奇襲を見、上を下へ
の混乱となり、われがちに潰走(かいそう)を起こしてしまったものだっ
た。
 逃げ足の早いのは、すでに旧都にたどりつき、途中、源氏の海兵や、
飢民に襲われた者は、なお山野をうろついているらしい。
 何しろ、支離滅裂となって、続々、引っ返し中であることだけは確かだ
った。
 清盛の不満はひと通りでない。
 それはかれが、頼朝の旗挙げを聞いた時以上の、憤り方であった。
 頼朝の摘対は、他人の行為である。しかし、このみぐるしい、頼りない、
そして世間態の悪い負け軍(いくさ)をやってのけた将どもは、かれ自身
の孫であり弟であるのだ。単なる怒りや憎しみではすましきれない。
「宣旨を奉じ、大将軍の綬(じゅ)を拝しながら、どの面(つら)さげて、都
へ入る気ぞ。維盛(これもり)、忠度(ただのり)、忠清なんど、大津口よ
りこなたへ入れるな」
 と、いいつけ、そして再び「諸氏への見せしめ、忠清は打首に処し、維
盛、忠度(ただのり)は遠国へ流してしまえ」
 と厳命を下した。
 しかし、この処分には、宗盛達一門が、入道小国の座下にぬかずい
て、自分たちの落度のように詫(わ)びぬいた。初めは、容易にゆるす
気色もみえなかったが、根負けしたかたちで、ついに清盛も、「それほ
どまで、おことらが取りなすならば、このたびだけは」
 と、やっといった。

 一方、暁の富士川に凱歌をあげた頼朝は、もとの黄瀬川まで引き揚
げ、黄瀬川での宿は先に泊った松田ノ亭が、本陣にあてられた。
 勝者の陣では、騒音もにぎわいだった。
 中に、静かなのは、頼朝のいる亭の幾棟(むね)だけである。
そして、そこの御湯殿らしい窓からは、白い湯煙が、ほのぼのと流れ
ていた。
 おりふし、勝者頼朝も、
「まずは、よし」
 と、この宵、ひと浴(あ)みしていたものだろう。

 遠く、東北の平泉から、駆けつけてきた、義経等(ら)は、あまりにも早
く富士川の戦いが、終わってしまったので、合戦に間にあいませんでし
た。

 「や、火が見ゆる。あまたな篝火(かがりび)が」
 「オオ、黄瀬川のあたりに」
 足柄越えを、西のくだりへ、くだりにまかせて、いま、急ぎに急いできた
一群の人馬がある。
 ひとつの山陰を出て、富士の裾いっぱいな陸影と駿河の海とを、一眸
(いちぼう)にしたとたんに、
「あれは?」
 と、馬も人も、喘(あえ)ぎを休めて、佇(たたず)みあった。
「あれなんましゅう、鎌倉殿の御陣所と思わるる。惜しや、道々のうわさ
にたがわず、はや御合戦はすんだらしい。・・・・・ええ、間に合わなんだ
か」九郎義経は唇をかんで、しばらくはただ、連れの人びとおなじように、
馬上の眸(ひとみ)を、果てなくしているだけだった。
 武者えぼしに、腹巻だけの身がるい具足姿。
 かれ以下、騎馬の面々は十人余り、徒歩(かち)武者十人ほどの同勢
だった。けれどいずれも、華やかともいえるいでたちではない。
 むしろ、汗くさく、土くさい、山沢(さんたく)の若者ぞろいというほうが適
切だろう。とっておきの鎧一領(よろいいちりょう)に、長柄(ながえ)一筋
をかい込み、初めは、みな騎馬で出たのだろうが、途中、幾頭も乗りつ
ぶし、馬を捨てたものは脛(すね)にまかせて、急ぎつづけて来たものら
しい。
 「いやいや、ここでご落胆には及びますまい。なお、世は平家の下、源
氏のゆくてには、はかり知れぬ戦いの野や海が待っておりましょうに」
 やがて、いう者がある。佐藤継信(つぎのぶ)であった。
 九郎は、その顔を、多くの連れの中にも特に見て、
「よういうた継信、わしもそう思う。遂に、まにあわぬものなら、ゆるやか
に参ろうぞ」
「おう、参りましょう」
 ほどなく、ふもとの部落、土狩(とがり)を通る。黄瀬川の水は、もうこの
部落のわきを流れていた。
やがて、次の宿場口へかかると、ここの通路を守備していた夜営の将士
が、
「待てっ。どこを通る」
「どこの将士ぞ」
 と、一行の前に立ちはだかった。
 まっ先の者が、明瞭(めいりょう)に答えた。
「さん候う。これは鎌倉殿のお旗揚げと聞き、みちのくの遠くより、夜を
日についで急ぎ参った者どもにて、あれなる馬上の君は、鎌倉殿のお
ん弟にあたらせ給(たま)う九郎殿のにておわせられる」
 「なに、鎌倉殿のおん弟とな。して、そのほかの者は」
「それがしは、藤原秀衡(ひでひら)殿の家人(けにん)にて、佐藤庄司
継信と申し、これなるは弟の忠信」
「ではみな、秀平殿の家人でおざるか」
「いや、平泉より参ったのは、われら兄弟だけで、他の面々は、九郎君
をお慕い申し、途中から加わった者どもです」
「では、一人一人、名のって欲しい」
「心得申した」
 継信は、同勢(どうぜい)を、振り向いて、
「名のれというわ。おのおの、順に名のり候え」
 と、告げ渡した。
 おうと、大勢(おおぜい)の影がうなずく。そして、九郎義経を除く以外、
前の者から順々に名のった。
 「下総、深栖(ふかすの)三郎光重の子、陵助(りょうのすけ)重頼(しげ
より)」
 「次なるは、伊勢三郎義盛」
 「下野国烏山(しもつけのくにからすやま)の住人、那須余一(なすのよ
いち)宗高の舎弟、大八郎宗重です」
 「武蔵の比企(ひき)藤四郎義員(よしかず)」
 「おなじく、越生(おごせ)の亀丸」
 「吾野(あがの)余次郎」
 「仙波七郎」
 「猪俣(いのまた)小平六」
 「箱田次郎丸」
 そのほとんどは、武蔵野を中心とする草の実党の人びとであり、やが
て、さいごに、九郎の駒(こま)わきに立って、馬の口輪をとっていたや
や年長(とした)けた武者は、
「それがしは、鎌田正家が一子正近。-すべて三十二名、怪しげな群れ
ではおざらぬ。なにとぞ、御陣所までお通しねがいたい」
 と、かしらを下げた。
 守備の武将も礼を返して、
「自分は鎌倉殿のみうち、仁田四郎忠常でおざる。お疑いは申さねど、
警固の任、大勢をばお通しするわけにはゆかぬ。九郎殿御一名のみな
らば通り給え。あとの御人数は、並木口にて、お沙汰あるまで、お待ち
あれ」
 と、いった。

          頼朝の陣所を訪ねる九郎義経
CIMG0254






























 浮巣の都

 自己の老齢と健康、一門の柔弱(にゅうじゃく)、今年の飢饉など、幾
多の理由を持つのであろう。また、東国北陸へ向かって、積極的な戦い
に出るには、なんとしても福原の地は有利でない。といって、建設途上
の福原を、ふたたび旧都に還(かえ)すことはできなかった。
「父君のお立場として、ひとたび、行われた遷都を、半年もたたぬまに、
ふたび、元へ還すなどということは、世情(せじょう)へ御面目としても、
お心にそまぬことは」
「面目」
 と、清盛はつよくさえぎって、
「そこだ、御辺どもは、清盛が、小我(しょうが)にこだわって、我を張って
いると、思うているのじゃろ。そうではない」
 「いえ、その大きな御立腹中は、宗盛にも、よく分かってはおりまする」
 「ならば、もう、日ごとのように、意見がましい訴えを申しにここへ来る
のはやめい」
 「・・・・・とも存じながら、なお、御意に逆らって参りました仔細(しさい)
は、じつは昨夜、山門の明雲座主(めいうんざす)から、特に、お使いが
ございまして」
 「明雲座主なら、清盛の心もよく知るお人、いつの御書状も、ここへよ
こしておるのに、なんで、御辺の門へ、使いが行ったのか」
 「さきの遷都に、ごうごうと、不平を鳴らしおった一山の大衆を、今は、
座主のお力をもってしても、防ぎ難しとのお嘆きなので」
「そんなことは、今日の沙汰ではない。衆徒も公卿(くぎょう)も、福原遷
都には、初めから大不平だ。何を、今ごろあらためて」
 「今ごろとは仰せられますが、昨今のそれは、ただ口先だけの不平で
はなく、山門詮議の末、もし入道相国が、あくまで、福原の新都を固守
するならば」
 「固守したらどうすると?」
 「仲の悪い南都の大衆とも手を握り、近江、山城、河内の三国を、自
己の力で治め、平安の地を復旧して、後白河法皇をお迎えせんーと議
を決したそうでございます」
 「では、法王を、奪い参らせんと謀(はか)りおるのか」
 「平安の都を復し、法皇を中心に、都づくりを催(うなが)すとあれば、
信徒に安からぬ人々は、風(ふう)を望んで、帰るにちがいなく、また、
近江源氏も、木曽源氏も、頼朝の鎌倉勢も、いちどに、上洛するであろ
うとの目企(もくろ)みにござりましょう」
 「ちっ、やっかいな宗徒めらが」
 清盛は、舌を鳴らした。怖(おそ)るべきかれらの智謀に、舌を巻いた
のかもしれない。一瞬、蒼白(そうはく)なふるえが、面(おもて)をかす
めた。
「そればかりではございません」
「まだあるのか」
「堅田湖族やら、近江源氏の山下義経と称する一党が、おいおいに、
勢(せい)を加え、これと山門、これと興福寺なども、隠密に結びあい、
山門の詮議がなくも、必然、それらの暴徒が、旧都を占め、木曾や鎌
倉勢を、呼び入れんことは、遠い日でもあるまいと、座主の書状が、先
を憂えておられました」 

 ※ この物語の数ページには、何か堅いもので故意に紙を傷をつけ
たヵ所があり、貸し本を粗末に扱う人の、モラルを疑と同時に、読者
が、物語の内容に魂を揺さぶらて、つい・・❔気になりましたが、先に
進みます。

「・・・・・・・・・・・・・・・」
 清盛は、いよいよ、ひたいの青筋を太らせて、黙然とあらぬと所をね
めつけていた。
 同夜のことである。
 雪の御所から、伴卜の夢野の亭へ、使いが走った。伴卜は、すぐ伺候
(しこう)した。
 燭(しょく)のせいかと、伴卜は疑がった。窶(やつ)れてもどこか豊かな
入道の相好(そうごう)が、この夜ほど、けわしく見えたことはない。
皺(しわ)の翳(かげ)には、青い鬼気すら感じられた。
「夜中何事のお召で・・・・・・・」
「朱鼻(あけはな)」
 と、息ぐるしげに、間をおいて、
「やはりきめたよ。たびたび、そちからも、すすめを聞き、その都度、うる
さいと、しきりにしりぞけていたが」
「えっ、では遷都の御決意を」
「都帰りだ」
「ああようこそ」
「ばかを申せ、何が、ようこそだ。-平治の前夜、熊野路の途中から都
返りした、あれとは違う。思えば、おれも老いたわい」
「なんの、もう一と戦(いくさ)と、御壮気を奮(ふる)い遊ばせ」
「そうだ。もうひと苦しみせぬことには、これまで、積み上げて来た清盛が
一代の業も、一日に潰(つい)え去ろう。………そこでだが」
「は」
「二度の遷都には、、またも、莫大(ばくだい)な費用がいる。三道に蜂
起の源氏を一掃するにも、おびただしい軍需粮米(ろうまい)をととのえ
ねばならぬが」 
「さきにも、申しあげておきました。もし、御勇断があるばあいには、鼻
めが、生涯の奉公にも、それらの財務には、毛頭、お心を煩(わずら)わ
すようなことはいたしませぬと」
「成算があるか」
「何条(なんじょう)、無謀なおすすめを申しましょうや」
「才略あるそちの口から、そう聞いて、まず一方は安心した。すぐにも、
計ろうてくれい」
「お案じなされまするな。後図(こうと)の儀は」

 1180年11月23日、福原皇居の門からも、天皇の出御があった。
 行幸(みゆき)の供奉(ぐぶ)と、御幸(ごこう)の列とは、まもなく、途上
で一つになった。
 幼い天皇(安徳)は、御母の建礼門院のおひざだった。神輿(みこし)は、
葱花輦(そうかれん)である。屋根のとがりに、葱(ねぎ)の花に似た金色
の装飾がかがやき、美しい手欄(てすり)が繞(めぐ)らされ、八人の舎人
(とねり)が舁(か)きまいらせて行くのであった。

 

 一昨日、散歩道で、今年初めて、蝉(せみ)の鳴き声を聞き、例年
もこのくらいの時期から鳴き出していたのだろうかと、そんなことをつ
ぶやいていました。
今年は暑さが早く始まったせいでしょうか、小生は季節感に少し戸惑
っています。

 今日(7月23日)、散歩から帰ってきたのが、19時10分頃でした
が、日射し除(よ)けの、ヨシズのかわりに、植えているゴーヤに、バケ
ツにたまっていた水を遣(や)ったあと、ふと足元をみると、なんと脱皮
前の蝉を見つけました。

               日除けにと「ゴーヤ」の葉で、フェンスにしました。
CIMG0004

















































土中から出てきたばかりでしょうか。
あたりは、うす暗くなりかけていましたので、はっきりとは見えませんで
したが、茶色い蝉(せみ)の形をした蛹(さなぎ)のような物体でした。
それを親指と人差し指でつかんで、触ってみたところ、全体に少し硬い
感じで、おなかの後ろあたりには、固い襞(ひだ)があり、前足を動かせ
ていましたので、これは蝉に間違いないと確信しました。

 このままでは、かわいそうにと思い、近くのモチの木にしがみつかま
せるように、とりつかせてやると、足でその木につかまっていました。
それから玄関のほうへ行くと、もう一匹、踏み石の上にいましたので、こ
の蝉は、別の木に取りつかせてやりました。
 夕食後、写真を撮ろうと思って、その樹木を見に、庭に出てみました
が、周りは街灯があるだけで、家の雨戸も閉めていましたから、暗くて、
蝉の姿は見つかりませんでした。
 それにしても脱皮済みの、抜け殻はよく見るのですが、これから脱皮
する前の状態においては、生まれて初めての出来事です。
 貴重な経験をしましたので、少し得をした感じです。

 7年間も土の中で過ごし、今日、こうして地上に出てきたのですが、明
朝までには多分脱皮を済ませ、それから蝉として、わずか1週間の命を
精一杯生き抜くことでしょう。

 蝉を詠った万葉の歌

 ひぐらしは 時にと鳴けども 片恋に

  たわや女(め)我は 時わかず泣く


 ひぐらしの 鳴きぬ時は をみなえし

  咲きたる野辺(のへ)を 行きつつ見べし

                              
 蜩(ひぐらし)
CIMG0231


























 夕暮れに、庭の地面を見回しても、脱皮前の蝉は見当たりません。
地面には無数の穴はあるのですが、前回はミスマッチで、早く地表に出
てしまったようですが、その後は、なかなか容易には、姿を見せないよう
です。

 平成27年8月1日(日曜日)

 絵具を購入するため、出かけようと思い、庭に出ると、昨日から一輪、
咲きだしている、鉢植えの時計草が、今朝もまだ満開になっているのを
眺めた後に、ふと足元をみると、羽化しきれずにいる蝉が一匹、横たわ
っていました。
 手の掌(ひら)に載せてみると、弱々しい状態で、まだ薄い透明感のあ
る羽根をまとい、、足をわずかに動くだけで、それこそ虫の息でした。
 そっと、日陰においてやり、買い物に出かけました。
戻ってきて、みると、無残にも、もうその羽化しきれない蝉には蟻が、無
数にたかっていました。
 天候異変による、影響をこうむってしまったのでしょうか・・・。

 今朝6時ころ、FM放送を聴いていますと、「あと50秒でソユーズ
が、宇宙ステーションに向け、打ち上げられます」と、いいましたので、
急いでテレビのスイッチをいれてみました。
 まさに打ちあげ寸前のタイミングでした。
ついこの間は、民間団体による打ち上げが失敗していますので、これ
はぜひ、成功してほしいと願ったのは、小生だけではないと思います。
  
        国際宇宙ステーションへ向かう宇宙船ソユーズ
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            宇宙船ソユーズ宇宙の旅へ
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           宇宙船ソユーズ宇宙の旅へ
CIMG0020





























            宇宙船ソユーズ宇宙の旅へ  
CIMG0004




























 14時45分頃、ドッキングに成功、宇宙ステーションから見て向うに見
えるハッチが、今回打ち上げられたソユーズ(宇宙船)です。このハッチ
を開けて、向こうから三人(日、露、米)の宇宙飛行士が、加わり、入って
きます。

             宇宙船の出入口となるハッチ
CIMG0017




















今回のミッションは、火星への有人飛行計画の、基礎データを集めること
も、視野にいれているといわれています。
 8月には、JAXAが、同様に、物資を運ぶため、国際有宇宙ステーション
に向け、「こうのとり」を打ち上げる予定ですので、期待がかかります。

 宇宙から見れば、このような打ち上げは、蚤(ノミ)がぴょんと跳(は)
ねた程度の技術だと、昔、誰かが言ったのを覚えていますが、私にとって
は、4000㎞の距離を、しかも、猛スピードで軌道上を、彼我ともに、回転
している状況の中、このような高度な宇宙技術を正確に実行できるだけ
でも、ただ驚くばかりです。

 火星は、気温が低いため、人間の住める状態にするのには、人工的に、
二酸化炭素を発生させて、今の地球のような、温暖化にするそうです。
 火星への、人類の移住が夢ではない気がしています。

 

 昨日は、「梅雨が明けたとみられる」との気象庁の発表があり、それ
を証明するかのように猛暑日となりました。35℃近くまで気温が上が
り、暑さのため、家内を美容室まで送迎のほかは、部屋にこもり、冷房
漬けの一日でした。

 夕方18時ころなって、ようやく散歩に行こうと思い、外に出ると、ま
だ熱気が、真綿のように体にまつわりつき、風もほとんどなく、不快指数
もかなり上がってきました。
いつも横切る、公園の奥のほうでは園内に車を幾台も駐車させ、キャン
プ用のテントが設営されてあります。
 昔、仲間と、近くに湖のあった森の中で、、キャンプをし、飯盒炊爨を
した懐かしい、思い出が目に浮かんできました。飯盒を、腰の周りにあ
てると、ぴったりと体にフィットするような形になっているのは、戦争中の
兵隊さんの必需携帯品だったからでは、と思ったりしながら・・・・・・。

 公園から、多摩川の土手に出ると、河口まで37㎞という標識がありま
す。
その土手を上流に向かうと、多摩川にかかる石田橋があり、このあたり
から、道端に紙コップの中に、蝋燭の火をともしたキャンドルが、はるか
向こうの、中央高速道を超えてグランドにまで伸びているようです。
 今まで見たこともない景色に、何の行事だろうと思いながらなおも歩き
続けると、グランドでは、子供たちが、囃子(はやし)に用いるような太
鼓に合わせて、踊っている姿が遠くに見えました。
 土手には、国立市長も来られていたようです(今年のどんと焼きでご挨
拶をされていましたので・・お顔のほうは拝見していますので)
 この行事でも、コメントを予定されているのだと思いました。

 気になりましたので、近くで、案内をされている方に、この行事の内容
を簡単にお聞きしますと、国立の小学校と、北秋田の小学校との交流が
あり、国立小学校の生徒たちが、北秋田を訪れた際、向こうの行事を見
て、私たちもこのような、催(もよ)しをしてみたいとの希望で、「クリーン
多摩川」の会主催で、新しく、試みられたとのことです。

 グランドの多摩川べりには、無数の灯りがともるように、三段になった
仮設の桟に、丸い提灯のようなものが、無数に等間隔で取り付けられ、
それがグランドの端にまでセットされていました。
 19時45分には、その一つ一つに、人の手で点火され、約一時間くら
いの灯りのショー(先祖の霊を迎える行事)が展開されるということでし
た。小生は、時間的にも少々早かったものですから、そのまま帰路につ
きましたが、ただ、素通りをしただけでは、後味が悪いと思いましたので、
北秋田の行事について、調べてみることにしました。

 〔祖先の霊を迎え、供養する「万灯火(まとび)」〕
 
 「万灯火」は古くから小阿仁川流域の合川、下阿仁地区や上小阿仁
まで行われている春彼岸の伝統行事。
同様の行事は奈良時代から行われていた記録があり、仏前で香をたい
たり、花を献じたりすることと同様に、宗教的な意味があるといわれて
います。同地域では、墓地に灯りをともすとともに、山の尾根づたいや
沢づたい、あるいは川原にたいまつを灯(とも)し、先祖の霊を我が家に
迎えてもてなし、供養とともに、豊年、豊作、家内安全を祈ってきました。

 現在では、帰省でふるさとがにぎわうお盆の14日、観光「万灯火(ま
とび)」として「合川まと火」が行われています。合わせて華やかな夏祭
りを演出しようと、「通り踊り」や「タント節」など地区内の郷土芸能を集
めた「合川ふるさと祭り」がお盆を盛りあげています。

 灯りのもとは、「ダンポ」と呼ばれる布きれを丸めたものに、灯油をし
みこませたもの。
 合川地区の全世帯で1個づつ作られ、中学生の協力を得て、阿仁川
堤防約2㎞に設置されます。
ともされたダンポは、川面を幻想的に照らし出します。

 お陰様で、この記事を拝読し、年に一度、先祖の霊を迎え入れるとい
う意味合いを、あらためて理解させていただきました。
 供養などで、使用される、線香は、よい香りを放ち、蝋燭は、道中を明
るく照らし、花は、華やかさを演出し、霊を慰めるため、だといいますか
ら・・・・。

 来年は、ぜひこの行事を、見物させていただこうと思っています。
また来年も若い人たちが参加、協力し、国立市の良き伝統行事になり
ますよう、期待をしたいと思います。
それにしましても、このような、行事に携わった人たちに、敬意を表した
いと思います。
若い人たちが今後も、この伝統を守ってゆくような気がします。

 遠く四国の南の海上200㎞に、台風11号の中心があっても、関東地
方にも大きな影響を及ぼしています。
激しく降る雨も、夕方には少し小康状態になりました。
水彩画サークル「虹の会」夏季展は、本日(7月16日)予定通り、無事
閉展となり、絵画を引き取るのため、15時ころ、府中グリーンプラザ分
館ギャラリーに向かいました。

 会員の方々が、それぞれ展示作品を取り外し、額を吊るすワイヤーと
フックの撤去も行った後、控室で、ごく々簡単に乾杯をおこない、解散い
たしました。

 7月12日~16日までの5日間開催いたしました、水彩画サークル「虹
の会」夏季展に来場くださった方々に、心より深く感謝をいたします。
このような、繁華な場所での展示会は、初めてでしたので、少し緊張しま
したが、鑑賞に来てくださった方々が、私たちの精神的な励みとなって、
頑張れました。来年もなにとぞよろしくお願いいたします。

 早速、グリーンプラザ本館事務所に行って、来年の展示会の予約をし
てきました。

 平成28年度、水彩画サークル「虹の会」夏季展は

 平成28年6月24日(金)から平成28年6月28日(火)までの5日
間となりました。

 このグリーンプラザ分館ギャラリーは、この時期以外は、すでに他の
方々の予約で埋まり、確保ができませんでした。


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