2015年07月

 お陰様で、暑い中、大勢のお客様が、ギャラリーに詰めかけてくださり、
感謝の気持ちでいっぱいです。
このことは、私たちの、今後の励みにもなっております。

 このあたりで、ギャラリーに展示されている、会員の作品を紹介してお
きたいと思います。

              鮎
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              大浦天主堂
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              しーさー
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              ろう梅の路
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              残    雪 
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               桜桃の季節
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               府中公園
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              わたすげ
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              春らんまん
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               秋の軽井沢
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              山あいの散歩道
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               緑の街を歩く
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               鐘つき堂
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               くらやみ祭り
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               過ぎたる秋
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              静 け さ
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              草原の輝き
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              おだやかな一日
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               春の午後
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               小石川植物園
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               椿
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               春の午後
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 朝から気温がぐんぐん上昇するなか、本日(7月12日)予定通り、
府中グリープラザ分館ギャラリーへ、会員の方々が絵画を搬入し、展示
を行いました。
そして午前10時から、無事開展いたしました。
小生も、夕方17時まで展示会場で、お客様のご案内等を行ってきまし
たが、お陰様で、御多忙中、たくさんのご来場をいただきましたことを、
心より感謝いたしております。
引き続き、16日まで、朝9時から17時まで開催していますので、私
たちの水彩画を鑑賞していただきますよう、よろしくお願いいたします。

          府中グリーンプラザ分館
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          玄関前のギャラりー案内掲示板
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 (16日)再撮影をし、差し替えをいたしました。
  
                          展示会場入口
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 小生は、4作品を展示いたしました。

 知り合いのピアノ教師をされている方は、この絵がいいと、仰ってくだ
さいました。
大変ありがとうございました。
褒められると、やる気が出てくるタイプですので、これからも試行錯誤
の繰り返しになると思いますが、自分が納得できるまで、描こうと思って
います。

              書  斎
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  埼玉の北の住人様に、この絵をほめていただきました。ありがとうござ
います。
 今後も、描き続けてゆきたいと思います。

              欅並木とおり
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 平成27年7月19日(日曜日)

 広島の孫が以前、希望していた絵を、画材屋さんにお願いして、送って
いただくことにしました。
明日(20日)届く予定です。
昨日、その旨を電話で広島へ伝えておきました。


              フィヨルド
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 この絵画は、少しぶれて写っていますので、明日、再度撮影を行う予定
です。
 本日(13日)再撮影後、差し替えました

              懐かしき故郷
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              展示状況
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              展示状況
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 後方の控室の扉が、開けっ放しで、締まらない雰囲気になっています
ので、再撮影をしようと思っています。
(16日)再撮影をし、差し替えをいたしました。

              展示状況
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              展示状況
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 平成27年7月12日(月曜日)

 河野さんが、お嫁さんとお孫さんを連れ、鑑賞に来てくださいました。
心より感謝いたしております。
展覧会という気分を、盛り上げていただきありがとうございます。
 Yちゃんが、小生の作品「フィヨルド」を気に入ってくれていましたが、
「あいにく、この絵は広島の孫がほしいということで、プレゼントをする予
定になっているのですよ」、と話しましたところ、今度は、ちょうど当番に
あたっていた人の作品の前に立ち止まり、照れながら指をさしたりしてい
ました(この子は絵を観る目があるなと感心)ので、その作品を小生か
ら、描いた人に所望しましたが、本人が「恥ずかしくて・・・・・」とか言
われ、交渉は成立しませんでした。

 その代わり、小生が以前描いたこの絵を、Y君にプレゼントをしようと
思っています「河野さん、この作品でいいでしょうか」。

 国産第一号の、小型旅客機です。

              小型旅客機
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 プレゼントをするのに、古い額縁では失礼になると思いましたので、昨日
(18日)、画材屋さんで、あらたな額装にしていただきました。


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 平成27年7月14日 (火曜日)

 予告通りに、埼玉北の住人様、猛暑の中、虹の会展の鑑賞におこしいた
だき、誠にありがとうございました。
相変わらずの、闊達なご主人と、美人の奥様にお会いでき、大変幸せな気
分でした。
わたくしの家内も、午後から会場に来てくれ、控室で、くつろぎながら、談笑
させていただきました。
心ろから、うれしく思いました。
たのしい時間を作ってくださったおかげで、この蒸し暑さも、多少のストレス
も吹っ飛んでしまいました。
 お気を付けてお帰り下さいませ。
 

 この先のストーリーを、わかってはいるのですが、平家一門の繁栄と
おだやかな政治が、長く続いてほしいと心に抱きながら、新平家物語
の第三巻後半を読んでいます。
 
 清盛の政権になってから、院側の方で、権力を掌握したいという動き
が舞台裏で活発化し、それに呼応する人物が抬頭する中、一度目の
謀反(鹿ヶ谷の謀議)は、いち早く情報を入手した清盛が、福原の雪ノ
御所から、急きょ、京の都にもどり、謀反に関係した者の処分などを行
い、一件落着をしました。
ただその裏には策謀家の後白河法皇の影が・・・・・・・・・・・。
 
 清盛が念願としていた、福原の遷都を行ったが、民の疲弊に拍車をか
ける形になった。一方、源氏方の不穏な動きも活発化し、配流となって
いる、源頼朝が、決起する気配となってきました。

 鹿ヶ谷の謀議に連座した謀反人の処分のうちで、最も過酷であったの
 は、俊寛・平康頼・丹波少将に対するそれだった。鬼が住み、永却に
 火の燃ゆる岩ばかりの島、人々が怖れる鬼界ヶ島への遠流。

                鬼界ヶ島
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 清盛に恭順を示すため、後徳大寺の君が、平家の氏神である、厳島
神社へ詣でるという場面を、新・平家物語から、抜粋してみます。

 後徳大寺の君が、何か、立願のことがあって、厳島詣でに立つというこ
とになった。
「加茂もあれば、男山もある。
 いかなる御願(ぎょがん)かは知らぬが、藤原氏の氏神たる春日の社(
やしろ)を措いて、浪路はるばる、厳島明神まで、御参詣とは?ー」
 人びとは、いぶかり合った。
 事実、そのころの海路の旅は、大変な日数と、苦労だったし、何よりは
路用の費(つい)えも生やさしくはない。
 が、後徳大寺実定は、そうした犠牲もいとわず、都を立った。
 供人(ともびと)の中に、蔵人の重兼は、見えなかったが、この厳島行
が、かれのすすめであったことは、もちろんである。

 福原(現・神戸市)の町も、大輪田(おおわだ)の築港も、今なお、工事
は続けられていた。
 しかし、清盛が、開港に手をつけてから、早十年余の歳月はたっている
ので、その変化は、昔日の比ではない。
 宋大陸の文明のにおいや、南方の異国色が、海辺町の男女の風俗に
までながめられる。

 清盛の別荘「雪ノ御所」は竣工していた。
 それに一族の門戸やら、公家顕紳(けんしん)の第館(ていかん)が、
山すそや、川ぞいの勝地に建ち並び、おりふし、碇泊中の宋船との対比
が、まだ、かって日本の地上になかった文化聚楽の出現を、目に見せて
いた。「二、三年前とは、また一そう、開けてきたのう」実定は、ここで船
に乗った。そして船上から、会下山下(えげさんか)一帯の聚楽をなが
め、「これほどな仕事を、やり抜いた清盛。やはり清盛は、偉いのかもし
れぬ」と、実定は眼に見て、思った。
 別に思うところがあるので、わざと、雪ノ御所へは立ち寄らず、かれは、
厳島への船路を急いだ。
 音戸(おんど)の瀬戸は、切り開かれ、内海の通路も、厳島通いにも、
前よりは、労は少なく、時間もずっと、短縮されていた。
 ここも、清盛が、工事を督(うなが)して、開鑿(かいさく)したものと聞き、
実定は、「しょせん、都人のあたまには、思いもつかぬことばかりするお
人である」 と、驚嘆した。

 いや、やがて海中の大鳥居を見、白砂青松の渚(なぎさ)に並ぶ厳島
の殿廊や堂塔に接したとき、実定は、その規模の大と、美しさに、批判
の眼も失なって、「こりゃあ夢の国か」と、そぞろになった。
 さて、十七日を、ここに参籠し、その間に、三度まで、神楽や舞楽を奏
(あ)げ、また催馬楽(さいばら)を催した。
 人も知るここは平家の氏神である。-平家の公達(きんだち)や、相国
(清盛)の社参はめずらしくない。「けれど、後徳大寺の君が、なんの御
祈誓(ごきせい)ぞ」と、内侍(ないし)《巫女を兼ねた舞姫》とよぶ乙女た
ちがたくさんいる。

 実定の参籠が終わると、ある夜の宴に、かの女たちは、実定を取り巻
いて、その訳を訊(たず)ねた。
 実定は、気を持たせて、なかなか語らなかったが、かの女たちが、問い
せがむままに、「では、申すが、人には告げな」
 と、打ち明あけた。
「自分の家柄は、代々、太政大臣やら、左右の大将を出し、女子には、
鳥羽の皇后、璋子(しょうこ)の君を始め、妃(きさき)や女後に上げられ
たお方も多い。近くは、二条天皇に恋せられ多子(ただこ)は、かくいう
実定の妹でもあった。
 瞼をふさいで、沁(し)んみりいう。
 憂わしげな貴人の眉を内侍たちは、唾をのんで、見まもり合った。
「それほどな家、清華の嫡男に生まれながら、実は、この年でまだ、大納
言でいるにすぎぬ。先ごろ、左右大臣の更迭があったゆえ、このたびは
と、待っていたところ、大相国の御嫡子と御次男が、なられてしもうた。
・・・・・つらつら思うに、なお平家御一門には、三男の知盛(とももり)卿が
おられるし、摘孫の維盛(これもり)卿もおいでになる。しょせん、生涯、
時を待つも、愚と覚った。・・・・・で、出家しようと考えたが、我が家にも、
家司から雑色まで、たくさんな召使がおるし、それらの者が嘆くので、
身一つ気ままに出家もならぬ。あれやこれやと、悩みに悩んだあげく、
かくは、遠くもいとわず参籠に来たわけじゃ。

 内侍たちは、すっかり、かれに同情してしまった。
 余りに、地位の高い先祖や妹を持ったため、自分も、先祖なみに、
一度は近衛の大将にならないと、同族や奉公人からもわらわれる。
・・・・という実定の苦衷(くちゅう)を聞いて、わけもなく、ともに涙を流し
たのであった。
「いや、つい、しめっぽい話しに落ちたわえ。神に祈り、すれど、なんに
なろう。さ、杯をまわせよ。催馬楽でも歌おうほどに」
 こうして実定は、やがて、島を辞した。
 なお、かれは帰るおりに、厳島の内侍のうちでも、みめ美(よ)い者七
人を選んで、同じ船に乗せて行った。
「都を見とうないか。参籠中のお礼に、都見物をさせてつかわそうよ。
まず、こたびは七人。次に七人、実定が厳島へ詣(も)うするたびに、
七名づつ連れては、洛中洛外を見せてやろうぞ」
 と、誘ったのである。
 名にしおう名門の君に誘われて、二の足をふむはずはない。わけても
島の舞姫たちには、あこがれの都でもあった。
 かの女たちは、雀躍(こおど)りして、実定についていった。実定は、
約束以上にも、親切をつくし、数日にわたって、洛中洛外の名所を見物
させ、なお、多くの土産物を持たせ、やがてまた、、家人(けにん)をして、
大輪田の港まで見送らせた。

       厳島神社での内侍と後徳大寺実定
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以下、文芸評論家、尾崎秀樹の「吉川英治文学紀行」を読んでみます。

 三熊野詣で  

 和歌山県の本宮町にある熊野本宮大社と、熊野川の河口に近い新
宮の熊野速玉大社、それに那智山にある熊野那智大社をあわせて熊
野三山とよぶ。古来、こここへ参詣する道は、「蟻の熊野詣」とよばれ
るほどに盛んだったらしい。 熊野へのコースは、伊勢から尾鷲(おわ
せ)を抜け矢ノ川(やのこ)峠を越えて南下する道のほかに、田辺から
本宮へ入る中辺路(なかへじ)と、串本を迂回する大辺路があった。
一般にはこの中辺路とだ大辺路をさして熊野街道と称した。往復およそ
百十里、三週間余を費やすのが普通だった。 この地を訪れた法皇や
上皇、女院たちの記録も多く、少ない時で三、四十人、時には八百人を
超える人数で熊野詣でが行われた。皇族や貴族の中での記録保持者
は生涯に三十四回詣っている後白河法皇であろう。平清盛も西行も、
この道を歩んでいる。

 熊野三山の中心。熊野本宮大社。

 古来、皇族の熊野詣は盛んで、参詣記録保持者は後白河法皇だという。

              熊野本宮大社
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 もともと那智滝にまつわる山岳信仰にもとづく修験道の聖地だったし、
補陀落(ふだらく)浄土に通じる補陀落信仰ともあわせて、高貴の人々の
参詣が少なくなかったのである。

 雲よりおつる那智の大滝である。恍惚としてただ見惚れている、ひたす
 らに美しい。母の常盤(ときわ)に見えもした。平家に代って立つ望にか
 けて、滝本堂で精進を重ねている若人は、九郎義経であった。
 
              那智の大滝
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 九郎義経は、平時忠の前に出頭、捕縛されている堅田の仲間と頼政を
開放すれば、叡山の門徒の騒ぎも鎮め、自分は、この都から奥州へ逃れ
るという条件をだす。
 一応、時忠が了承したため、義経と公達をもまじえ酒宴を開き、宴の後、
帰り道で弁慶が義経を討つという計画であった(平家の手で討つことでは
なく、下手人はあくまでも平家以外の者の仕業にしたいという腹であった)。
 義経が、時忠の館を辞すると、物陰から、時忠の娘、夕顔が、女装衣裳
と履物を差し出し、義経を助ける。

             夕顔と義経
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 「新・平家物語」の旅でも、三熊野は欠かせないポイントの一つにあげ
られる。清盛の運命が開けてゆくのも熊野詣りの途次、阿濃津の海を渡
る間に、船に大きなスズキが、跳り込み、それが吉兆となったとされている
し、新宮は源義経の叔父に当たる新宮十郎行家《義経の父義朝
の異母弟》の根拠地でもあった。さらに鞍馬を逃れた義経は、一時身を隠
していたこともある。

 「ほげんの巻」にスズキのエピソードが紹介されているが、何か良いこと
があると清盛は「そら鱸(すずき)が跳び込んだ」と冗談まじりにいったとい
う。若年の頃、熊野への道を伊勢から船で阿濃津を渡って行ったとしてい
るのは、伊勢が平家発祥の地だからであろう。津市にはその記念碑も建
っている。

 吉川英治の「新・平家今昔紀行」も、伊勢から熊野路のコースをとって
おり、私もかって、「伝記吉川英治」取材の際には、同じ道をたどって見
た。実際に熊野へ入るには、寝台特急《紀伊》を利用するのが便利で、
東京を夜立つと、朝早く新宮へ着く。尾鷲あたりで日の出を迎えるのも、
すばらしい。

 吉川英治が取材旅行で熊野に足跡を印するのは、昭和二十五年の暮
のことだ。十二月九日に東京を発ち、名古屋で杉本健吉画伯と合流、近
鉄で松阪へ、さらに伊勢の外宮、内宮をまわっている。ここで、ここで奏告
神楽を奉祀し、賢島経由、佐奈駅から紀勢線に乗り、尾鷲で五丈館へ泊
った。当時、紀勢本線は完成していなかったので、矢ノ川峠を越えている
が、私が取材で廻った時は、すでに峠の茶屋もなくなり、わずかに礎石の
セメントが残っているだけであった。

 矢ノ川峠の情景をよんだ吉川英治の句、

  茶屋女の乳も涸れがてよ冬の山
 
が、記憶によみがえる。

 新宮では熊野速玉神社、徐福の墓、浮島などを回り、瀞八丁の勝景を賞
し、本宮では、熊野本宮に詣で、車を利用して湯の峰に向い、宿で猪鍋を
つつき、翌日新宮へ引き返し、さらに那智へ入るという強行軍だった模様
で、私もこの順に廻って見た。

 吉川英治は書いている。
 「信仰もそうだが、信仰に伴う行楽の意味も十分にあったのだろう。女院
たちも、また源平の武将なども、単独でみな来ている。熊野詣は、或一時
代、貴族や武家の流行でさえあったようだ。そして平忠盛は、熊野別当の
息女に通って忠度を生ませ、源為義にも、同じような艶話がある。・・・・
煙村の少女(おとめ)、温泉(いでゆ)の湯女(ゆな)物売りの女など、かえ
って、都人のすきごころを疼かせたことであろう」
 (新平家今昔紀行)
 
 清盛は、五十余名の一行を伴って熊野に詣でる途中、江口の里で澪の禅
尼とよばれているかっての祇園女御と対面するし、九郎義経は十八歳の暮
れから丸二年、熊野ですごし、長く行家の丹鶴原の屋敷にかくまわれていた
こしらえだ。そして新宮別当行範から、水軍の秘巻をさずけられる。

 熊野から佐藤春夫も出ている。「空青し山青し海青し」と詠った南国の自然
を眺めながら、「新・平家」にちなむ土地を歩き、そこでさまざまなイメージを
かきたてられるのはたのしいものだ。

 弁慶のふるさと

 
清盛は熊野詣の帰りに、巨鯨の群れが潮を吹く光景を眺めるが、太地あた
りは捕鯨で知られている。心から不老長寿の薬を求めて渡来したという徐福
によって、捕鯨の術も伝わったとされているが、どうだろうか。

 紀勢線をさらに西へ行くと紀州田辺に至る。その駅前に薙刀を構えた弁慶
の銅像が建っているのも御愛嬌だ。これは弁慶が熊野別当湛増(蔵)の子だ
という伝承にもとづいている。そのためか田辺には弁慶産湯の井戸とか、腰
掛石、弁慶松、湛増屋敷跡などがあり、十月十日には弁慶まつりも催される。

 生地といわれる紀伊田辺駅前の弁慶像。

                弁 慶 像
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              弁慶の腰掛石
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 九郎義経が、紀州にすごし、都に向かうとき、一緒に連れてきた雑仕事
女(さめ)に、義経を追いかけ、この隠れ家にまでたどり着いた武蔵坊弁
慶を、引き合わすという、こシーンを「 新・平家物語」の中から一部を抜粋
してみます。

 「さめよ、おまえが年久しゅう会いたがっていた息子が、あしなくも、そこ
へ訪ねてきた。はよう顔を見せてやれ」
「・・・・・・な、なんの、迎せ事やら」
「まだ、わからぬか。七ツのころとかに、別れたままと聞く鬼若という息子、
それが、そこにいる武蔵坊弁慶ぞ。幼名、鬼若といい、後、西塔(さいとう)
の阿闍梨祐慶(あじゃりゆうけい)が弟子の弁慶というなれと、熊野にいた
おり、わしに語り聞かせたのは、おまえではないか」
「げっ。で、では」
 さめは暗がりから、弁慶の顔を、穴のあくほど見ていたが、突然、弾
(はじ)かかれたように、身をまろばせ、
「わ、われや、鬼若か」
 とその大胸に、しがみついた。
 大薙刀が、からりと、下の濡石に落ちた。弁慶は、空いた両手を、やり
場なく、さまよわせた。十本の指先から体じゅうの慄(ふる)えが走り脱
(ぬ)けている。
「・・・・・・・・・・・」
 かれは意力のすべてを失った。ものもいえない。
 言葉に変わるものが、湯のように眼窩(がんか)の中に沸(たぎ)った。
その中に、さめの顔がー老いたる母の顔が、幼少の思い出すべてが、
ぼやっと、大きく映っている。
 おっ、おふくろか。・・・・・・・おらは。おらは」
 やにわに、弁慶は、かぶっていた袈裟頭巾(けさずきん)を片手で、
むしり取った。
「鬼若だ。おふくろ、覚えてござるか」
「なんでよう、なんでよう、忘れて、なろうかい」
 さめは声をあげて泣き、その、わめき涙の下へ、弁慶は、抱きついて
行った。
 なつかしい、会いたかった、そういって、母も抱くかと思いのほか、
突き出した弁慶の顔を、さめは、いきなりピシャッと、平手で撲(なぐ)り
つけた。
「この餓鬼づらよ」
 声は泣いていながら、さめの手は、弁慶の襟(えり)がみをつかんで引
きずり上げた。そして弁慶の尻を、丁々(ちょうちょう)と、いくつもはたい
た。
「われや、まだ悪い根性が、抜けおらぬの。ええ、もう、この子は、この
餓鬼は」
「アア、おふくろ、おらよりも、その手が痛かろ。ゆるせ、ゆるせ」
「ええ、何をいう、この罰あたりよ。やれうれしや、子に会えてと思えば、
今のような、外道の姿を、母の眼に見するとは」
「あやまる、あやまる。この通りだ」
「阿呆よ」
 また、しりを打って、
「あやまるとは、たれにいうのじゃ。九郎君(ぎみ)へ、あくたいをたたき、
お首などとは、よういえたものぞ。おのれの口から、大悪僧ぞと、自慢そ
うにいうこの大ばか者よ。ばか、ばか、ばか。幾歳(いくつ)になっても、
われや、そのばかが、直らぬかやい」
 甘んじて、犬ばいになったまま、弁慶は尻打たれつづけていた。
 なつかしい、母の手のひらよと。
 さめは打ち疲れて、子の体へ折り重なり、やがては声もなく、泣き沈
んでしまった。
 

            弁慶とその母さめ
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 また流鏑馬(やぶさめ)や神輿の渡御で有名な闘鶏神社は、別当湛増
が、源氏につくか平家に味方するか去就を決するために、紅白の軍鶏七
つがいを蹴合わせて占ったところでもある。

 弁慶の父と云われる熊野別当湛増が去就をめぐって軍鶏を闘かわせた
闘鶏神社。

                 闘鶏神社
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 水軍を持たなかった源氏が、八島か壇ノ浦と平家を追いつめてゆく裏
には、この別当湛増のひきいる熊野水軍二万余の動向が秘められてい
たのである。
 弁慶の素姓はまちまちで、湛増の子だというほかに、別当弁暁の子、
熊野岩田入道寂昌の子などの説もあり、母の胎内に三年いて生まれたと
きは奥
歯まではえそろっていたなど、異常な出産を伝えるものが少なくないが、
これはおそらく、熊野修験者が、好んで語った唱導の一つのパターンが変
形して、弁慶誕生説話にまとまり、やがて諸国へ伝播していったものと考
えられている。
 しかし、東北地方から熊野へ詣でる人たちは田辺まで来ると、山祝いの餅
をつき。弁慶松の葉をとって持ち帰る風習が、長く伝わったというから、弁慶
と田辺の地縁は切っても切れないものがあるといえよう。
 ただし、「新・平家物語」では、弁慶は新宮の貧しい鯨取りの子というこしら
えだ。幼名は鬼若といい、のちに叡山の怒め坊となり、義経と出会う経緯は
「火乃国の巻」にくわしい。

 打倒平家の尖兵(せんぺい)

  
以仁王の令旨によって打倒平家の動きは本格的に火をふくが、それをプ
ロモートしたのは七十六歳の高齢になっても、なお鬱勃(うつぼつ)たる野心
を抱いていた源三位頼政だ。

 ふだんは、清盛に忠誠を尽くし、質素な馬にまたがり、政務に励んでい
たのですが、人の心うちというものは、なかなか読めないものです。

       わらわれながらも、質素に暮らす頼政の姿。
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十郎行家も加わっている。何れも平家に怨を抱き、それぞれに屈折した
人生コースを歩んできた人物だ。
 この謀反計画は、綿密に仕組まれたためか、いよいという段階まで気づ
かれず、さすがの清盛も見逃してしまう。それというのも、その裏には後白
河という策謀家がひそんでいたからであろう。やがて十郎行家は鳥羽天
皇の皇女にあたる八条女院の蔵人の資格を得て、諸国遊説の旅に出、頼
政は機の熟すのをまって、自ら起爆剤の役割を務める。治承四年のことだ。
 だが頼政一派の陰謀は未然に通報され、以仁王の御所高倉宮が急襲さ
れたため、以仁王は女装して三井寺へ逃れ、頼政も一族郎党を従えて合
流する。
しかし三井寺での討議が長びいて、いざ進発というときには機を逸してしま
い、延暦寺の心変わりもあって、南都を指して落ち延びることになる。

 近江三井寺を紛れ出た頼政の同勢(どうぜい)百余騎は、高倉宮一騎を
くろぐろと守備しつつ、琵琶湖畔から瀬田川沿いの難路を宇治へ向かた。
 宮の駒さばきが難儀であった。

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 私たちも三条通り高倉の西にある旧高倉宮のあたりからはじまり、三井
寺を経て、宇治へと車を走らせ、その落ちゆく道をたどってみた。高倉宮
の旧址は現在の中京郵便局と平安博物館のあるあたりだという。

 平家の追撃も激しく、平野知盛、重衡の軍は、木幡の山道を抜けて頼政
の一行に迫る。頼政らは宇治橋を挟んで対峙する。しかしこの合戦は半
日絶たないで終わってしまう。

 宮方と六波羅は宇治川をはさんで対峙、宮方は宇治橋を断って、十倍
の敵を迎え撃つ

                宇 治 橋
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 「新・平家」に、「合戦はわずか半日のまに、終わっていた。宇治川の
橋上橋下、平等院附近、そして綺田(かばた)あたまでも、午後過ぎに
はもう嘘みたいな平穏さであった」と書かれているとおりだ。
 平等院の一角『扇の芝』は、その頼政が自害したと伝えられる場所で、
傍らの石碑には『埋木の花咲くこともなかりしに身のなるはてぞかなしか
るける』の辞世が刻まれている。ただし、「新・平家」は、この伝承をとら
ず、以仁王とともに、木津川堤から光明山へ入ってそこで自害して果て
たとなっていた。

 諸門から駆け入った六波羅の軍馬に喊声(かんせい)を占められた、
平等院は、たちどころに陥ちた。鳳凰堂の前や、双楼造りの廊の上下で、
すさまじい死闘が行われたが、質量ともに宮方は敵すべきはずがない。

               平 等 院
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 平等院の塔頭景勝院には、頼政の供養塔もあり、等身大の宝篋印塔(
ほうきょういんとう)の苔むした表に、星霜が影を落としている。なお以仁
王は南都に向かう途中、光明山寺の鳥居前のあたりで飛騨守景家の手
の者につかまり、首をはねられたともいわれ、山城町に以仁王の墓が現
存しているので、吉川英治は、これらの伝承をも勘案しながら、光明山で
の自害説を打ち出したのであろう。

 宇治川は、治承四年の合戦だけでなく、四年後の寿永三年に佐々木高
綱と梶原景季が先陣争いをしたところでもあり、中州の橘島には在郷軍
人会の建立した先人の碑も眺められる。なお塔ノ島にある十三重石塔は
弘安九年に宇治橋を架け替えた僧叡尊にちなむものだ。

 現在の宇治橋は昭和十一年の建造、橋の途中の三の間は、もとは橋
姫を祀ったところだが、後には茶の湯の水を汲む場所とされた。秀吉は、
橋守の通円にここで汲んだ水を伏見城までとどけけさせたそうだが、その
通円茶屋は今でも橋のたもとに店を張っており、吉川英治の「宮本武蔵」
の中にも描かれている。

 吉川栄治の「宮本武蔵にも描かれた宇治橋たもとの通円茶屋の一角。
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 梅雨に入ってから、はじめてと、いっていいほど、まとまった雨が未明
から降り続いています。
 庭先の月下美人の花のつぼみが膨らんできているのを見て、今年は
暑い日が1カ月くらい、早くやってきたので、そのせいで開花も早いのか
と思い、以前書いた記事を探して読んでみると、2013年6月29日は、
月下美人の花は、開花寸前でした。

 今年2015年7月3日時点では、下の写真のようにかなり花のつぼみ
は膨らんでいます。
今日は、まだ開花しないと思われますが、明日の晩には、と思われます。
 植物は、だれも教えなくてもちゃんと、人間より季節がよくわかるよう
です。

 月下美人の花を支える、茎が非常に太く頑丈なのは、花の中に入って
蝙蝠(こうもり)が蜜を食べるため、その重さに耐えられるようにと、考え
られているそうです。
そして受粉をします。
 なぜ、どいう具合に蝙蝠との関係があり、進化してきたかが、不思議で
す。

                        「月下美人」花のつぼみ
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           「月下美人」花のつぼみ     
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 平成27年7月6日(月曜日)
 だいぶ蕾が大きくなってきました。今晩あたり開花すると思います。
 今、降っている雨が、上がると可能性大です。

   「月下美人」花のつぼみ     2015.7.6  撮影 
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   「月下美人」花のつぼみ     2015.7.6  撮影 
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 やはり、月下美人が開花しました。例年より、花が一回り大きく咲いてく
れています。
19時半ころには、外は小雨模様でしたが、すでに半分くらいは開花してい
ました。
 写真は23時前に撮影しましたが、外の雨は止み、満開です。
健康に良いかもしれないと思い、月下美人が放つ香りを、胸いっぱいに吸い
込んでみました。

    満開の「月下美人」   2015.7.6    22時45分撮影
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    満開の「月下美人」   2015.7.6    22時45分撮影
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   満開の「月下美人」   2015.7.6    22時45分撮影
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      満開の「月下美人」   2015.7.6    22時45分撮影
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    満開の「月下美人」   2015.7.6    22時45分撮影       
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      満開の「月下美人」   2015.7.6    22時45分撮影
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 平成27年7月7日(火曜日)
 今晩、もう一輪開花しましたので、撮影しました。
 1シーズンに3回くらい開花しますが、今度、次の花が咲くのは、しばらく
後になると思います。


     満開の「月下美人」   2015.7.7   20時50分撮影
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          満開の「月下美人」   2015.7.7   20時50分撮影
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        満開の「月下美人」   2015.7.7   20時50分撮影
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         満開の「月下美人」   2015.7.7   20時50分撮影
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         満開の「月下美人」   2015.7.7   22時50分撮影   
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          満開の「月下美人」   2015.7.7   22時50分撮影
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         満開の「月下美人」   2015.7.7   22時50分撮影CIMG0144




































         満開の「月下美人」   2015.7.7   22時50分撮影
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 平成27年9月19日(土曜日)

 関東、東北地方を襲った豪雨は、大きな水害の爪痕を残しましたが、
避難生活を余儀なくされている方々には、何とも気の毒な事態ですが、
これから復興に伴う苦難にも、気丈に乗り越えていただきたいものです。

 今日は、久しぶりの好天気に恵まれ、気温も日中28℃くらいまで上が
るそうです。
昨日まで、長袖(そで)の上着が欲しいくらいでしたが、この気温の変化に
は、服装で調節をしなくてはなりません。

 庭の、月下美人が、2鉢に、それぞれ今年4回目の蕾(つぼみ)を付け
ました。
 家内が挿し木をして、育てた若いほうの月下美人です。
 

     蕾の「月下美人」   2015.9.19   撮影
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 これは、以前から育てている、先輩格の月下美人です。

     蕾の「月下美人」   2015.9.19   撮影
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