atusisugoiのblog

2015年12月

 義経軍にとらわれ、都に護送された、平重衡は、義経の温かい、処遇に接し
て、過ごしていましたが、間もなく、鎌倉の頼朝のもとへ、送られることになり
ました。重衡は、大仏殿を、焼亡させた罪を、懺悔するため、ぜひ法然上人に
お会いして、法然上人の導きを頂きたいと、強く願いました。

 法 然 上 人(ほうねんしょうにん)

 
ちょうど法話のひとくぎりと見える。聴聞(ちょうもん)の男女のうにも、く
つろぎがながめられた。
 さっそく柴垣の外へ出て、嬰児に尿(いばり)をさせる母親やら、椀(わん)
に水を汲んで年寄りに与えている娘もある。それまで、「何か?」と疑って、佇
(たたず)み聴いていた旅人は、笠を脱いで、腰の下に敷き、「なお聞かばや」
と落ち着きこんで、あたりの者とその感銘を語っている。
 法然は、ひと息つきながらそれらの貧しい、しかし愛すべき素朴さを、一つ
一つ顔に見ていた。
 かれらが、それぞれの土の寝小屋に、どんな苦患(くげん)を持っているか、
訴えたいものは何か、法然には、わかる気がする。
 ここに見えるほどなものは、盗賊の類にはなれず、下(げ)法師の仲間入
りして、怠けて食う智恵もしらない良民なのだ。もっとも愛すべき多数な人間
が、もっとも、みじめな宿命にあった。飢饉、戦乱、悪政、風水害、流行(は
や)り病、およそ人災、天災をとわず、すべての災厄をうける露命に生まれ
ついている。まるで地獄の約束事だ。そして、どこにも救いの光明はない。
 法然は見かねて山を降り、このあわれな露命に観(み)つる世間へ出てき
た。-というよりも発足(はっそく)はかれ自身の懐疑のさまよいであったとい
えよう。叡山に籠(こも)って叡山の胎毒にたえかね、南都に遊学して南都の
矛盾と堕落ぶりに、なお行き暮れたのみであった。寺院すらもまことの道を求
める僧が身をおける住かではない。
 かれは何度か、暗やみの経蔵へはいって、月日も忘れた。黒谷の一切経
蔵とか、報恩蔵とかの万巻の聖典も、むさぼり読んだ。凡そ釈尊(しゃくそ
ん)がのこした智恵で汲みとった。天台顕密の祖も見つけなかったところに
気づいて、狂喜した。-仏教渡来の日からこの国では、貴族の手にそれが
招来され、貴族の中にし仏華(ぶつげ)は開かれていなかった。「ほんとは、
庶民のもの、貧しい人びとのもの、平易(へいい)なもの、自力に驕(おご)ら
ない、他力を本願として往生のできるものー」との信をうけた。そして、吉水
の路傍に、一庵をむすび、旧教の戒律など眼中におかない、浄土易業行(
じょうどいぎょう)の新しい教義を人に説き始めたのである。まず、道行く人
や、近隣の貧しい群れをあいてに説教し出した。けれど、初めのうちは、板
に物をいっているようであった。それらの対象は、まるでつんぼのようでしか
ない。かれの知識は空転していたのだ。庶民は学問を聞きたがってはいな
かった。そのくせ、ひからびた心は焦(や)けつく様な渇(かわ)きを見せて何
かを求めぬいている。法然のくるしみは、持ちながらそれをかれらに頒(わ)
けてやれないことだった。根本は仏の愛を説くことに尽きていながら、仏の
慈眼(じげん)にまでなりきれていないのだと思った。智恵のひとみで聴聞の
座を見、知識のことばでしか衆に接していない自分を覚(さと)った。
 それからかれの法話は、一そう平易になっていた。聞く者は、自分たちの
中にいつも法然がいる気がした。法然の心もまたそうであった。「上人のお
眸は、茶いろの光をもっている。琥珀(こはく)のようなお眸だ」と、人びとが
いい始めたのもかれらの心を現わしたものだろう。-確かに異相な法然で
はあったが、眸の色をそんなふうに言われだしたのは、かれ自身が心がけ
ていた≪仏の眼を自分の眼にもつ≫悲願がついにとどいたものかもしれな
かった。
 ようやくかれの教化は、庶民の胸へ浸(し)み透って行った。吉水禅房は、
かれらの心の泉となってきた観がある。柴垣のうちにはいつもそれらの人び
とによる繁昌を見ない日はない。けれど、さすが木曾軍が法住寺殿焼き打
ちの暴挙を起こしたあの日だけは、ここの垣をお訪う人影もなかった。そして、
法然自身も弟子たちから「-ひとまず、奥嵯峨へ御非難を」と、うながされぜ
ひなく日ごろの聖教だけを抱えて立ったが、立ちつつも、法然はなお、(-こ
の吉水に教化の縁を結んでからきょうまで、ただの一日も、法座を空しく捨て
た日はないのに)
 と、そればかりは、いかにも口惜しげにつぶやいたことだった。
 その吉水へ帰ってきたのは、ついこの春、源氏の入洛(じゅらく)があってか
らのことである。日はまだ浅いが、義経の治安ぶりや、軍隊の秩序にも、庶
民は安心感をもったらしく、法話の庭は、前にもます人びとで賑わった。-今
、ひと法話の中休みに、法然のしずかな眸が見ていたのも、庶民を通しての
大きな世情の推移と、個々の暮らし方が、どうであろうかなどということであっ
た。ひそかに、「・・・遠い先は知らず、しばらくは、源氏が平家に次ぐ部門の
権威になるであろう」と、想像された。そして、いとし子に囲まれている慈母の
ように、眼をほそめていた。
 「師の御房…」
 厨(くりや)の間からすきを見て、つと、寄ってきた信空は、師の畳台(じょ
うだい)のわきへ、身を折りかがめて、「御法話のおり、お耳に入れるのも、い
かがと存じましたが、事情をきけば、ほかならぬお方。また、あすも待てぬ
きょうならではというお願いの使い。ぜひなく、お取次ぎだけはしてみると申
して待たせておきましたが」
「信空か」
 と、法然は横を向いて、
 「いうてごらん、なんじゃ、いずれからのお使いぞ」
 「先ごろから堀川の御堂におわす平家の虜囚人(とらわれびと)、中将重
衡どのからのおり入ってのお縋(すが)りとか。-源氏のご警護土肥どのに
も、ご承知あってのお迎えと申しまする」「ほう中将どのが」
 法然はふたたび聴聞の筵(むしろ)へ向き直って、そのまましばらく黙思し
ていた。が、にわかに、
 「感西をこれへ呼んで参られよ」
 と、いいつけた。
 弟子の感西がすぐ後ろへきてかしこまった。法然はあとの法話の続きをか
れに託すらしく、細々と何かいいふくめていた。
そして念珠を腕くびに移すと、聴聞の筵へ向かって心もち黙礼しながら、すっ
と、厨の柱の陰へ立ってしまった。

 「お使いの者はどこじゃ。どこにおらるる」
 無造作に、水屋の土間へ降りてきた法然は、そういいながら、辺りの人た
ちを見まわした。
 軒下の雨落ちにかがまったまま。「お願いは、無理かもしれぬ。もし、かな
えば、それこそ、み仏の慈悲」と、奥の返辞を、祈るがごとく待っていた友時
は、いきなり、法話の座を中途にして出てきた法然の姿を、眼のまえに見た
ので、
 「あ。こ、これは」
 と、むしろ、うろたえ気味に、汚いわら草履(ぞり)へ乗せた法然の巨大な
足の前へ出て、ただ頭を下げた。
 かれの眼が見るとともなく近々と見た法然の足くびは、牛飼いの足みたい
に毛むくらじゃで大きかった。叡山山岳の苦行や、世路のさまよいや、教化
の年月が、その踵(かかと)の皮に物語られている。指の一本一本が、大地
にしかと吸着していて、全身の知識は、頭からでなく、その足から摂取した
ものという姿である。ただ曲彔(きょくろく)に安坐して、きんらんの袈裟(けさ
)にくるまれた知識の身なりとは、似ても似つかないものだった。「おう、あな
たか。中将どのお使いは」
 「はい、元お仕え申していた召次(めしつぎ)の小侍、と時と申すもの。おりふ
し、お忙しい中へ伺い出ましたが」
 「委細は今、信空から承った。御苦労よの」
 「ど、どう仕りまして、それどころではございません。けれど、旧主のお方が
、都にとどめおかるるのも、きょう一日限りで、あすは鎌倉表へ下られます
る。まこと、無態(むたい)なお願いでございましょうが」
 「なんの、ふたたびは知れぬ一期の御見、よう、法然を思い出して下された。
・・・・さ、参ろうか」
 「え。ではすぐに」
 「-信空。笠を」
 竹のつえは、自分で取って、、気がるに、軒先を外へ出た。
「わたくしかたれか、一両人お供いたして参りましょう」
 ひのき笠を渡しながら、信空がいうのを、
「それには及ばぬ」
 と、法然はもう垣の裏口を出て行くのだった。そして、いそいそ従(つ)いて
くる友時をかえりみては、
 「幽所の内では、何かと御不便でおわそうが、お食事などもよう召(あ)が
られるか。源氏方のお扱いは」
などと、重衡の健康やら身のまわりのことなどときどき訊(たず)ねて、
 「よい目にお会いなされた。須磨の浜戦(はまいくさ)とやらで御最後あっ
ては、ついに人と生まれて人間の生きの味わいも知らず姉妹じゃったろうに、
生け捕られて、いかにかえってお倖せであったことかよ。ぞんぶん人間を
知り、己を観じ、この世も御見物なされしらん」
 と、笠のうちでつぶやいた。
 道行く人も、吉水の上人とは、たれもきづかないふうである。友時にしても、
なんだか、嘘(うそ)みたいな気がするのだった。しかし、人のはなしにも、法
然に帰依の深い上西門院のお迎えでも、月輪兼実(つきわのかねざね)の
邸に月に一度づつの法筵(ほうえん)に行くのでも、牛車や輿(こし)は断って、
たいがいこんな風だときいている。べつにきょうだけのことではないらしい。
 そういえば、近年、後白河法皇が、東大寺大仏殿の再興を思いたたれたが、
公卿冨門の力だけでは及ばない大業のことであり、その合力には、どうして
も、地上大衆の協力がいるので、庶民の中に今、大きな声望をもつ法然にた
いして、造東大寺司(し)を使いとし、「-大仏殿勧進(かんじん)ノ聖(ひじり)
ノ役ヲ仰セ付ケ給ウ」と勅宣を降(くだ)されたことがある。
 そのときも、かれは、、「ー法然の本願は、衆生とともに、ただ念仏申して、
この世をいかに息づかんか、良き往生を遂げんかと思うのほか、日夜、林藪
(りんそう)のうちに願いもありません。千万人の汗と、巨財を徴して、聖武の
大金色像をながめんとの思し召しなれば、その勧進には、それにふさわしい
聖がほかにないでもありませぬ」と、醍醐の重源(ちょうげん)を推薦し、自分
はあっさり辞退したということも世間につたえられている。
 「ーその勅宣をすらお断りした上人が、大仏焼亡の仏敵、そのおりの大将と
ののしられているお人の幽所へ、思えばよくも、おこころよく、こう、お越しくだ
されたものではある」と友時は、そんなことまで考え出されて、この上人と重
衡との心のあいだに、どんな心のつながりがあるのかと疑った。
 -河原まで来ると、ふと、法然は立ちどまった。わら草履の緒が切れたので
ある。
 友時は、すぐ気づいて
 「ちと、お待ちください」
 と、かなたの板小屋の棚(店)を見て走っていった。そして、そこらにつるし
てある藁金剛(わらぐつ)の一足を求めようとすると、店の女は、「あちらにいら
っしゃるのは、吉水の上人さまでございましょう」
 と言って、どうしても、わらぐつの代価は取らないのである。で友時がその気
もちをありがたくもらって、頭を下げると、女は、上人のほうへ向いて、胸の前
でそっと掌(て)を合わせていた。
 また、法然も、友時のもたらした新しい藁沓を見て、もったいなげに、押しい
ただいて、足にはいた。五条大橋はもう近かったのである。上人の足の新しい
わらぐつが人混みの中でも光って見えた。
 堀川の御堂についたのは、もう昼近くであった。少し風めいて来た春の真昼
である。警固の土肥の部下たちは、あすはもう梶原景時の兵と交代して、播
磨路へすぐ立つので、荷梱(にごり)や鞍の手入れなど、軍旅のしたく忙しげ
だった。それらの兵の影や、廃園の朽ちた門屋根をかすめて、ひんぷんと、白
いものが降っていた。-幽所の中庭の糸桜ももう散るかと思い、友時は、すぐ
、待ち久しげに待っているであろうお人のすがたを胸に泛(うか)べていた。
 「友時、ただいま、戻りまいた。・・・・・あれへ吉水の上人を伴い申しあげて」
 仮屋の土居実平は、かれの弾んだ声を外で聞いて、手にめくっていた書状
やら覚書の反古(ほご)を、軍櫃(いくさびつ)の中へ投げ入れるようにほうって
、内門の外まで出てきた。そして、
 「どこに」というような眼で見まわした。
 すぐ前に佇んでいた人を、弟子かと思いちがいしていたらしい。法然と聞い
て、恐縮し、武辺らしく自分の粗忽(そこつ)を自分で笑いぬいた。そして、後
ろにいた兵に、中門の鎖を解かせ、「ふとしたら、きょうは院の御使いなども
あるやに考えられる。なるべく御見(ぎょけん)は短い間におすましを」
 と、念を押して、内へ入れた。
 法然はうなずいて、荒れ庭を通った。下屋の口でわらぐつを脱ぎ、みちびき
迎えた友時は、例の朽ちた渡りのこなたにとどまって畏(かしこ)まった。あと
は無言のまま、すぐ坪向うの破れ簾(す)をさして、「…そこに」と、目で告げる
ものらしい。
 蔀(しとみ)やそこの古簾にも。散り桜の片々が、粉雪のようにとまっていた。
-と、内からは、外の二人の影が、すぐ眼に映じていたにちがいない。かすか
に、座を立つ人の気配がうごいていた。

 仏 敵 同 士

 「御幽居はここか。・・・・吉水の法然じゃが」
 かれの声に、内の重衡は、
  「つつしみの身、お出迎え申す者もおりませぬ、そのままおいりを」
 と詫(わ)びながら、自分で破れ簾のすそを掲(かか)げ上げて、法然を室
へ通した。
 あいさつはそれからだった。初対面といってよい。以前、六波羅の邸で法
然を請(じょう)じたことはあるが、聴聞の中にいて、よそながらその教義を聞
いただけのことである。それだけの縁でしかかない。それなのに、法然は、上
座にすわったが、すこしもかれに他人を感じさせなかった。「お会いできて、よ
かった」と、ほほ笑んだ。重衡の方こそ、そういいたかったよろこびを、先にい
われたかたちであった。
 重衡はただ、ひたと、拝の礼をとって、「御宗旨の末縁でもなく、しかも垢衣
(くえ)の身をおそれず、かかる獄室へお越しを願うなど、沙汰の限りとも思わ
れましたが」
 「いやいや、よくぞ法然を思い出してくだされた。御栄花(ごえいが)ありし昔、
西八条や六波羅の美車をもってお迎えを賜(たま)わるよりは、うれしいお使
いであった」
 「栄花といわれ、むかしと聞くだに、今はただただ、恥ずかしい思いがいたし
まする。われながら、浅ましいかかる姿にー」
 「なんの御卑下(ごひげ)。そのような卑下こそ、つまらないお煩(わずら)い
じゃ。衣冠玉帯(いかんぎょくたい)を飾らせたもうていたころのあなたも、きょ
うのあなたも、法然の眼には、どこにも違うておらぬ。心までは落魄(おちぶ)
れた給わぬものと思うて」
 「されば、それも見得かもしれませぬが、心までは落魄れ果てたくないので
す。身、鎌倉に送らるるからには、敵国の府において、東国人の見世物にさ
れ、末期の座も待つことでしょう。きれいに今生をすませたいのです。もし、上
人のおひと言なりと賜ったら、あるいは重衡ごとき罪業(ざいごう)の深い者も、
世に物笑いを残すことなく、身を終わり得ようかと、いわば虫のよい、窮した時
の神だのみに、かくはお目にかからせていただいたわけでございまする。
 「虫のよい神だのみと申されたが、困った時の発心も、困らぬ時の発心も、
発心に変わりはない。そもそも、須磨の浜戦で、あなたが敵の縄目にかから
れたということが、もう仏縁ではなかったか」
 「そうかもしれぬ。いや、そうです。・・・・なぜかその時、すぐ死のう気持ちよ
りも、生捕られんと、ふと願う気になっていました。この体が、何か、縛(しば)
って欲しいと望むような疼(うず)きをもって」
 「ありがたい御縁と申すもの。そのときから、あなたは、仏に手をひかれて
おいでなのじゃ。そのまま、ありのまま、この後の日々もおまかせあって、鎌
倉へお下(くだ)りあるがよかろ」
 「が、煩悩は日夜、やみません。覚悟はしたと、身にいい聞かせながらも」
 「はははは。それは法然とて、おなじことでおざるよ。人間、灰になるまでは
の。・・・・何も。しょせん死ぬまでは離れぬ煩悩と、そうとっくんで闘うことはい
らぬ」
 「上人といわるる御房においてすら、なお、そうなのですか」
 「偽(いつわ)りは申さぬ、自分も、十悪の持主、愚痴煩悩のかたまりと知った
がゆえに、古い法燈の虚飾虚名、智恵学問など、すべての殻(から)をきらって
、凡愚衆生のなかへ仲間入りしてきた法然でおざる。かの仏陀(ぶつだ)が誓
言(せいごん)を地上に見んなどとする本願も、つまりは、法然の煩悩から生ま
れた一つの欲。法然の欲望のかたまりと申せる」
 「が、それは、さんらんたる慈悲の大欲。お恥ずかしいことですが、重衡は
重衡一身の惑いにとどまっております。ある夜は、屋島に残せし妻の夢み、あ
る夜は、右衛門佐ノ局(うえもんのすけのつぼね)を夢に抱いて、懊悩(おうの
う)の汗を肌着にうるおします。うつし身の昼の覚悟とはまったくべつに、一つ
心を二つにも三つにも自分へ見せて、どれがほんとの自分やらわかりませぬ」
 「自分といえる自分などが、どこにあろう。ないはずのものを。あなたは、つ
かもうとしておられる」
 「お言葉ですが、ないとは、思えませぬ、重衡は、ある」
 「では、お訊ねするが、先(さい)つごろ、洛中を引きまわしの目に遭(あ)わ
れた日、法然も人群れの中より見ておったが、大仏殿焼亡の総大将重衡よと
、衆人の唾、罵言(ばげん)、小石の雨が車に集まり、お身にすらあたったよ
ようだがが、あの時、小八葉(こはちよう)の車のうちにじっと座っておられた者
は、あなた一個か、あなた以外の者だったか」
 「……」
 「よも、自分などという小さい者ではおわすまい。平家一門の罪業を負い、
世の宿怨(しゅくえん)を身ひとつにうけて、罪障、消解(しょうげ)の償(つぐ
な)いを、今に果(は)たんこそ本望とお心に思い澄ましておられたように、法
然は、よそながらお察ししていた。すでに、その御誓願は、仏とひとつのもの
。一個の重衡どのではない。-さればあの日、小八葉の内には、あらありが
たき生き身の御仏(みほとけ)のおわすよと、思わず路傍から伏し拝んでいた
ことでおざったに」
 「では、仏敵と呼ばれるこの重衡へ、さまでにも、おん憐(あわ)れみを」
 「仏教とは、なんのことか。申さば、法然なども、今日の仏敵の一人であろ
う。現に、叡山や南都の輩は、法然をさしても、さように申しおるらしい。とは
いえ、まことの仏は、ののしる人のそばにもおらぬ、かえってたまたま、あの
日の小八葉のうちに、仏陀のおすがたをこの眼で見た。-されば、けさのお
使いうけ、法然がさっそくに、まかり出たもので、ご縁は浅からぬことなので
おざる。お互いはともに、仏敵にて候なれば……」
 この時、法然は、声を出して笑った。重衡も誘われたように微笑をうかべた
。二人はそれなりしばらく黙った。
 その間法然の唇からは低い念仏の声がもれ、茂重衡の胸には、しんしん
と、泉がわいてくるような気がしていた。といっても、悟りを得たというような
ものではない。ただ非常に心がらくになったと重衡は気づくのだった。法然
も自分も、おなじ凡夫と聞いたからでもあろう。また、自分もある日は、仏そ
のものになり、ある夜は、煩悩の痴人となるが、それが人間なので、人間で
あるかぎりは離れぬ煩悩と闘うことも無用といわれたせいもあろう。そしてか
れも、法然の唇にひき込まれるように、いつかしら一しょに念仏を低唱してい
た。そうしたきりで、ただなんとなく愉(たの)しかった。

 ふと法然が半眼をひらた。
 重衡も、眼を、みひらいた。
 二人のあいだに、ふたたび話が始まった。十年の知己かのように、今度は、
もっと打ち解けていた。
 ーだが、むずかしい経典や宗義などは一切持ちだすこともない法然だった。
愚痴鈍根(ぐちどんこん)といってよいか、五逆十罪のかたまりといおうか、こ
の厄介な生き物を、かれは自分の生命の中に見、また、億衆の生態の中にもそ
れを、見つめている。
 -浄土への工夫(くふう)、極楽への途(みち)。万巻の経は説くが、人間の
世は、少しも解決されているとはみえない。億衆の智慧は釈迦の知恵をも
及ばないものだった。人智は無際限に、この世を複雑にし、構造をかえ、釈
迦の予想をも、裏切ってゆく。
 僧団が、兵力を養う。政争の中にも割りこむ。法燈の山は、諸国の前科者
で占められ、皇居や貴族にも劣らないその殿堂と壇は、武力にかけて犯させ
ない。
 こういう落とし子を、釈迦は、予想したろうか。
 また、院政と武門との葛藤、一日一日、その地位を崩されつつある公卿社
会のあがきー。
保元以来に乱や、この恐怖的な世相は、いつやみそうな気色もない。消し手
のない曠野(こうや)の野火とおなじである。この悪い世を作り合っている人間
が、みな仏者であり、智者である。たれひとり、自己が悪いとは思っていない。
「-ただ、あわれなのは、貧しい土壌の人びとであろ。耕すものは貢税(みつ
ぎ)に奪(と)られ、久しい悪政と戦乱の下に、雑草か虫けらのようにおかれ
たままよ。法然の他力本願と申すことも、その人びとへは、救いの方便にす
ぎぬ。法然に戦いをやめさせる力もなく、法然に政(まつり)をただす能もない。
ただ念仏一身に、弥陀の御縁をつないで、喧嘩せず、陥(おと)し合わず、助
け合(お)うて、この末法濁乱(まっぽうじょくらん)の時代を、彼岸に渡らんと
するのでおざる。ー重衡殿は、武門におわすが、武門の衆生も、また、修羅
の餓鬼にすぎぬことを、目にも御覧ぜられたであろう。およそ、かかる世に、真
の安住をえている人は、朝家武門にも、一人としてあろうはずはない。されば
ーこのうえはただ、おのれ人間なるものの凡愚におん眼をひらかれ、法然とと
もに、朝夕、念仏をとなえ召されよ。それ以外の煩いは、混迷の因(もと)。ひ
たすら、仏のおん導きにまかせ給うて、鎌倉へお下(くだ)りあれ。人と生まれ
て、一日とて愉しまぬ日を持つこそ不幸の第一と存ずる。ごさいごの日までも、
愉しくお過ごしと聞かば、蔭ながら、どのようにうれしいかも知れませぬ」
 法然の話はつきない。
 かれはなお、ことばをつづけ、
 「すでにあなたは即身成仏のまことを、小八葉の車の内に顕(げん)じてお
いでなんじゃ。その重衡どのへ、法然が、今さら教える何ものもない」
 といい、また、
 「御出家のお望みもあるやに伺ったが、院のみゆるしなくば、お心にまかせ
まいし、形の法体(ほったい)など、われらの生涯ならぬお身には、無用なこと。
ただ、御機縁のしるしまでには」
 と、重衡の後ろに立って、その髪へ、三度、剃刀(かみそり)を当てるまねを
した。そして、
 「三帰戎(さんきかい)の授(じゅ)、すみ申した。では、これにておいとまを」
-と、そのまま簾の外へ去ろうとした。
「しばらく、お待ち給わりませ」
 と、重衡は、その袖をひきとめて、
「この品、お布施と思し召して、お持ち帰り給わりますまいか」
 と、机のそばにあった一合(いちごう)の双紙箱(そうしばこ)をとって、法然
の前に献じた。
 「よい、おかたみ」
 押しいただいて、法然は、それを法衣の袖にくるんで持ち帰った。ー送りも
ならず、重衡は、渡りの欄の角まで出て、見送っていた。-下屋(下谷)の端
(はし)から、と友時が走り出て、あわてて、あとについて行くのが見えた。

















 あきる野市にドライブがしたくなり、カーナビに、東京都あきる野市五日
市920-1と入力しました。およそ、1時間20分くらいで目的地の、あ
きる野市五日市郷土館の入り口に到着しました。
 カーナビの正確なガイドに導かれ、無事到着した時、7年くらい前に、車
を運転して、東京から、広島在住の娘夫婦の家に遊びに行ったときのことを
思い出しました。
途中、大阪の弟の家に立ち寄って一泊し、翌日、広島に向かいました。
高速道も順調に走行し、広島のインターを降りて、一般道に入り、目的地の
娘たちの家に近づいたころですが、突然、カーナビのアナウンスが、「目的
地周辺です、これで音声案内を終了します」といい、まだ到着してもいない
のに、こんなところで、案内を終了されても困るな、と少々焦りました。
 カーナビの画面を見ると、今まで案内していた道は青で表示されていまし
たが、その色も消え、ただ、三角形のマークだけは、相変わらず現在地で点
滅表示をしていました。
 目的地には、赤い文字でG(ゴール)と表示されていますので、このゴー
ルを目指し、ナビ画面に映し出されている、細い道を辿(たど)るように走
行し、車がすれ違うのも難しいような、さらに細い道に入ったところで、神
社の前に、娘と孫が出迎えてくれている姿を発見、一瞬、夢を見ているよう
な、驚きと、無事、到着したことで、二重のうれしさを感じたものです。
 このような遠距離でも、正確に道を案内してくれる、カーナビの技術に、
あらためて、感謝したい気持になります。
 衛星がとらえた道路情報をもとに、カーナビに表示し、ミニコンピュータ
ーで制御しながら、案内するようです。       

 下の写真は、五日市郷土館と同敷地内にあります、あきる野市指定有形文
化財となっていて〔旧市倉家住宅〕と呼ばれています、その古民家の庭先か
ら撮影したものです。 この古民家については、のちほど紹介させていただ
きます。

             五日市郷土館
CIMG0171



















 郷土博物館の入り口から館内に入ると、すぐに萩原タケの白黒の写真が、
目に飛び込んできましたので、さっそく、拝見させていただきました。
 五日市の山村から、このような優れた女性(女神のような)が、生まれた
ことに、驚くと同時に、勇気と献身に敬意を表したいと思います。

 説明文によりますと、

 萩原タケは、明治6年(1873)2月7日五日市に生まれました。
明治26年20歳の時に、日本赤十字社看護婦生徒として入学、後に日本赤
十字社病院看護婦監督となり、その生涯を日本赤十字社で送りました。大正
10年、48歳で彼女は看護婦として最も栄誉あるフローレンヌ・ナイチン
ゲール記章を日本で最初に授与されました。昭和11年、彼女は監督現役の
まま死去、63年の生涯を閉じました。日赤は病院葬を行い、彼女の業績を
たたえました。
現在タケは、あきる野市の広徳寺に静かに眠っています。

    洋装のタケ   明治42年10月  36才
CIMG0001































 萩原タケの63年の生涯

 明治 6年(1873) 2月7日神奈川県(当時)西多摩郡五日市市に
             生まれる。

 明治25年(1892) 入学嘆願書を日本赤十字社に送る(19歳)

 明治26年(1893) 4月、7回生として、日本赤十字社看護婦生徒
             として入学(20歳)

 明治29年(1896) 明治三陸地震による津波の被害の救護にあたる
             (23歳)

 三陸津波救護

  救護39日間、宮古村(現在の岩手県宮古市)の日赤救護所で救った傷病
者54人余、タケたちが任務を全うして、帰京したのは東京を立って、54
日後の8月15日でした。タケたちは、白衣を短く着て、水筒を外套に交差
してつけ、足は黒脚絆(きゃはん)に草履(ぞうり)履(ば)きという兵隊
のような勇ましい姿で赴きました。

         タケたち、救護メンバー
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 明治33年(1900) 北清事変に日本赤十字社病院船、弘済丸看護婦
             長として救護に当たる。

     弘済丸婦長 (北清事変) 明治33年27才
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 明治36年(1903) 日本赤十字社病院看護婦副取締りとなる(30
             歳)

 明治43年(1910) 日本赤十字社病院看護婦監督となる(37歳)

 大正10年(1921) フローレンヌ・ナイチンゲール記章授与される
             (48歳)

 大正12年(1923) 関東大震災の救護にあたる(50歳)

 昭和 4年(1929) 日本看護婦協会長となる(56歳)

 昭和11年(1936) 5月27日没、病院葬が行われる(63歳)

 萩原タケのことを、より深く知りたいと思いますので、あきる野市教育委
員会発行の「郷土あれこれ」に寄稿された郷土史家石井道郎氏の、新編、萩
原タケ略伝」を読んでみます。

 はじめに

 萩原タケは没落する旧家に生まれ、若くして志を立て、自分で自分の人生
を切りひらいた女性である。私がタケの伝記を書いてから24年を経たが、
今回この略伝を再編し、タケのけなげさに再び涙した。タケの生涯は人々に
勇気を与える。タケの伝記は芥川賞作家森禮子さんも書かれたが、今回その
『献身』も参考にさせていただいた。記して謝意を表する。

 1 ひたむきな自立心ータケの少女期

 萩原タケは明治6年2月7日五日市中下(なかしも)宿の萩原家《現在は
寿司店魚治(うおじ)・五日市68》に生まれた。
 父喜左衛門は入婿で、家つき娘りんが幼児を残して、若死したため、後妻
として隣村伊奈村より貰ったのが、母ちよである。萩原家は資産も多少はあ
る旧家で、明治初年の家業は、わら(主に馬の餌となる)を商い、藁屋と呼
ばれた。喜左衛門は、商売が不得手で、もともと利の薄い家業をやめ、表通
りの店を貸し、奥の土蔵わきに引き込んだ、母ちよは貧乏にめげない闊達な
女性で、実家の父が地域では著名な家熟を開く人物であっただけに、長女タ
ケの教育には熱心であったといわれるが、タケの下につぎつぎと男子5人(
三男死亡)が生まれるという状況では、タケの背中は空くことのない小守っ
子の日々であった。タケは小学校(勧能学校)には3年通っただけである。
(当時は4年生)。その頃の女子は早ければ15、6才で嫁入りした。事実
タケの姉に当たるひさ《喜左衛門の先妻の遺児》は、早々と嫁入りしている。
母ちよもタケの結婚に備え裁縫から芸事まで習わせ、器用なタケはそれぞれ
上達が早かったらしいが、彼女の内心の希望は1日も早い自立であった。日
赤看護婦同方界のタケ記念号『同方』によるとタケは少女時代「五日市在住
の小島医師より解剖整理の書物を借覧した」とある(小島医師について私は
拙著発行後、『儀三郎日記』でその存在を確認)。タケは明治25年9月の
日赤の看護婦生徒募集(6回生〉を見落とし、同年10月に日赤宛に嘆願書
を出している。さかのぼって入学させてくれという強引きわまるもので、勿
論聞入れられる筈もなく、

           タケ少女期 15才頃
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 タケが書いた入学嘆願書(要約)

 私は、かねて看護婦を希望していたが、田舎住まいのため、その便がなく
日赤の看護生徒募集も只今知ったところで、本当に残念です。ついては、中
途から採用してくださらないか。規則にかかわらず、どうかお願いします。


         タケが書いた入学嘆願書
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結局タケは翌26年4月7回生で(当時は年2回募集1回に7~9名採用)
として入学するのであるが、問題はその住所で五日市45番地とある。タケ
の住所は68番地。45というのは自宅より150メートル程西へ離れた大
通りの北側にあった。小島医師宅である。森禮子さんの書かれた『献身』に
は小島医師は明治17年(タケ11才)に五日市で開業したとある。(住所
も一致)タケは18才の時、当時評判だった巖(いわ)本善治の「女学雑誌
」の通信女学部全科を終了して卒業証書を受けている。この女学部全科の内
容を見ると和歌・和文・作文・漢学・算術・地理・歴史・動植物・理化学・
生理衛生・育児に及ぶ。後の旧制女学校卒業程度を目途に組まれたカリキュ
ラムである。これは1年や2年で終了できる内容ではない。「小島医師より
解剖・生理の本を借りる」というのはこの通信教育講義録を独習する際の参
考書としてであろう。タケは子供の頃子守をしながら、母方の祖父より借り
た本、八犬伝や西遊記などを好んで読んだというが、成長するにつれ組織的
に学ぼうと通信教育受講を始めたと思われる。『献身』にはその講義録は全
8巻で1巻32銭、女学雑誌は1部5銭で月3回発行とある。山人夫(やま
にんぷ)の日当が13銭の時代(『儀三郎日記』)である。18才で、卒業
免状を得たタケの心は早くも次の行動に向いていた。上京そして産婆学校入
学である。親の意向はどうだったのであろう。父親はタケの言うなりであっ
たらしいが、世間なみの結婚を願う母親は当然ながら、躊躇したようである。

 「親を養い弟たちの面倒をみる」という破天荒な望みを抱くタケの自立志
向は強く、ちよもタケの熱意に負けしぶしぶ認めたというのが実情らしい。
自立するといっても女子の職業が殆んどない明治前期、産婆を選んだタケは
若い娘に似ずサメた目をもっていたといえよう。通信教育といい、産婆学校
といいこれに要する経費をタケが調達したとすれば小島医師のもとで働いた
と想定するのが自然である。嘆願書は愛知県明治村に移築された日赤病院に
展示されており、拙著でも写真入りで紹介しているが、住所が小島医師宅と
気づいたのは今回である。産婆学校入学は惨たんたる失敗に終わった。タケ
は思い切りよく1年たらずで五日市に引上げている。資金が尽きたのである。
自費で無理ということを痛感したとき日赤看護婦生徒の募集を知った。その
条件の中に月15円支給とあるのを見つけた彼女は動顚したことであろう。
この嘆願書をもって、タケを厚かましい女とするのはかわいそうである。も
のおじしないのは生涯を通じての性格であるが、この時は本当にしまったと
感じたのであろう。私は秋川市史編纂に参加し、静原家文書の中で明治11
年8月より12月1日まで草加村の開明学校に勤務している千葉卓三郎(五
日市憲法起草者)の月給10円也の受領書を見ている。(千葉は正規の小学
校指導の資格をもち当時27歳)。嘆願書の住所はタケが親に知られたくな
いため、小島医師より借りたものか、住み込みで働いていたのか確かめよう
もないし、憶測は避けよう。いずれにしてもタケは半年待っただけで明治2
6年4月入学の7回生になれた。応募者15名採用9名。日赤看護婦には戦
時応召の義務があるがタケはもとより望むところであった。
 
 日本の国際赤十字条約への加盟は明治19年。赤十字病院は、佐野常民の
創設した博愛社病院(東京飯田町)の後身であるが、日本赤十字社は、陸軍
省と表裏一体の組織となり、病院長も陸軍医務局長の橋本綱常が就いた。
明治24年東京渋谷の広大な皇室御料地の下賜(かし)をうけ東洋一といわ
れた本社病院だった。看護婦養成は赤十字社第一の使命であるが、日赤は英
国のナイチンゲールの看護婦養成学校を範とした。ナイチンゲールは若い娘
をさけ、数も少数精鋭主義をとった。日赤が入学資格を20才以上とし、毎
回の採用者も10名以下に抑えたのはこのためで、タケたちは戦時救護者の
核として採用されたのだ(日赤が、生徒数を増やし応募者も急増したのは日
清戦争後)。親に負担をかけずに済むことが何よりうれしかった。日赤から
支給された臨時手当などせっせと親許に送金している。ちよは時に帰宅する
タケに結婚話をしかけたようであるが、タケから発する張りつめた意気込み
に口をつむぐ他はなかった。

 2天職としての日赤看護婦

 タケたち養成生徒は昔から日赤にいた従来看護婦と呼ばれている人たちに
嫉視されたが、特に気のつよいタケはいじめの標的になった。「身の上話を
しない」「気が知れない」「スマしている」というのである。タケはサッパ
リとした男っぽい人間関係を好み、親しんでも狎(な)れることはなかった。
「私事を話さない」といわれても学ぶことが山ほどあるタケにはそんなヒマ
はなかったのだ。
タケの卒業成績は中くらいであったが、病院に配属されると俄然頭角をあら
わした。手先が器用で患者の気持ちを察するカンがよかった。器量よしのタ
ケは患者(戦傷病者)に人気があったが、特定の者に片よることなく公平に
親切で立振る舞いが敏捷(びんしょう)であった。医官たちはタケの上に「
品があって媚びず、優しくてきちんとし、もの静かで敏捷」という日赤救護
看護婦のモデル(模範とする型)をみた。病院長橋本綱常は外科の大家で、
厳しいことで有名であったがタケは他の人の人ほどには院長を恐れなかった。
職務に対する献身度なら看護婦ながら院長に劣らないという気構えがあった。
橋本院長も、タケが気に入り、手術の介補にも使ったが、タケは院長の気持
ちを察することが素早く、院長に雷を落とされない唯一の看護婦と言われた。

 タケの昇進は、目覚ましかった。入学より10年後の明治36年タケは3
0才で福取締に任じられた。若い管理者である。副取締は微妙な役割でタケ
は医者や患者の評判は申し分なかったが、、若い看護婦からは時に反発をま
ねいた。彼女は看護技術の練達者だけに未熟な者を許せなかったらしい。や
さしく導くより自分で手を出してしまう。タケにはまだ全人的にみて、欠け
る所があったようである。

 3 タケの渡欧

 日赤には皇族華族富豪等赤十字社のパトロン層の家庭に看護者を派遣す
る制度があった。副取締になる前のタケはよく望まれて出張した。看護技術
のすぐれているものは多いがタケのように愛敬があってしかも謙虚な者は少
ない。日赤は宮家や侯爵家にはタケを切り札のようにして使った。田舎娘が
第一級の洗練された女性になるについてはこうした機会の積み重ねがあった。

 明治40年11月のタケのヨーロッパ行きは突然にきまった。かってタケ
が出張看護でつかえた伏見宮家の姫君(山内侯爵夫人)が御主人の滞在する
パリへ赴かれることになり、その随員に選ばれたのである。
 これはタケの見聞をひろめさせようとした日赤幹部の配慮がみえる。タケ
の役目は令夫人の健康管理であるが、修羅場を生き抜いてきたタケには、骨
休めの仕事でしかない。ところでタケは任務を終えるとそのまま日赤に休職
を願い出た。パリに滞在してフランス語を習うという。私はタケにしては珍
しい決断と受けとり、著書に「パリの休日」として扱った。この時タケを親
切に世話した森山駐在武官(後海軍中将)がタケの死後、タケを偲んだ文を
残しているが、その題は、「分に安じた忠実な人」という(「献身」)。分
に安ずるというより分という枠の中に自分をおし込めたのではないかと察す
る。タケはパリでロマンの華を咲かせたわけではないらしい。とにかくタケ
の休日は、半年ほどで終わり、日赤からの指示で明治42年梨本宮御夫妻の
欧州旅行の随行とロンドンで開かれる「看護婦国際会議」に出席することに
なった。この会議は、看護婦の知識・技能の向上と合わせて社会的地位の向
上をはかるもので、タケの資格は日赤看護婦団代表ということである。彼女
は極東よりの出席者としてその楚々とした容姿も合わせ注目の的となった。
タケも外国女性の活発な討議ぶりに深い感銘を受けた。写真によくみる洋装
はこの会議の夜会用に自ら望んで作ったものである。タケの第1回外遊は正
味2ヵ年ほどで終り、明治42年9月に帰国した。彼女の帰国を待つかのよ
うに、看護婦取締加藤まさは結婚して去り、タケの取締就任は衆人待望のう
ちに実現した。日赤幹部が期待した以上に彼女は成長し、人間として幅を広
げていた。タケの写真は「女学雑誌」にも掲載され、日本にもこんな素敵な
看護婦さんがいると、評判になった。

 おわりにー愛国と人道

 タケは監督(取締を改称)として通算28年を勤め、昭和11年5月現役
のまま死去、日赤は病院葬を以って報いた。享年63才。その間養成した看
護婦2700余名。タケは卒業生の顔・人柄をよく記憶し名監督の名をほし
いままにした。またナイチンゲール紀章をはじめ内外の勲章、褒章を受けそ
の数も夥(おびただ)しく、何をとっても空前絶後の記録であった。「親を
養い弟たちの面倒を見る」という少女期の夢はいつの間にか果たされていた。

       和装のタケ  大正4年 42才
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 かって、日赤社長徳川家達(いえさと)侯爵が「看護婦のことはタケに任
せよ」と言ったという。タケもこうした信頼には身をもって答えざるを得な
かった。彼女は、七夕飾りに「不感すぎて何の願いの糸かける」と書いた短
冊を結んだという。この句には、どうやら結婚話など卒業してしまった雰囲
気がある。

 「日本赤十字社百年史」に監督萩原タネの提案により、看護婦の語学力を
養う制度として、外国語学生制度が設けられたことが記されている。大正1
5年から津田英語塾と協定して、2~4年の外国語教育を行うという。この
制度は昭和12年廃止まで14人の卒業生を出し、少数だが人材を輩出して
いる。タケの経綸(けいりん)の才を物語る企画といえよう。タケは「国際
会議」で活躍する看護婦の姿を忘れられなかったのであろう。この制度の廃
止は提案者タケの死と、しのびよる戦争の気配が原因と推測される。

 監督タケは机にジャンヌ・ダルクの像を置いたという。タケは少女のころ
より勇ましい愛国者であったが、同時に赤十字社を背景に国際社交人として
活躍した。彼女の愛国は世界に通ずる愛国、赤十字社のモットーとする人道
(ヒューマニテイ)と両立する愛国であった。タケの死んだ翌年から日本は
中国との泥沼の戦争に入り、国際的にも孤立し、最後は世界を相手に戦うと
いう愚を演じた。明治の日本は、日露戦争で生じたロシア人捕虜を国際条約
にもとづき、きちんと処遇した。大正の第一次大戦では山東半島で日本に降
伏したドイツ兵は「マツヤマ、マツヤマ」と叫んで手を挙げたという。マツ
ヤマはロシア人捕虜収容所があった四国松山である。昭和の太平洋戦争では、
戦争企画者は『戦陣訓』を全軍に下した。そこには、精神主義の賛美と生命
の軽視、虜囚(捕虜となること)の否定が唱(とな)えられていた。戦争末
期(制海権も制空権も失った時)の特攻作戦は、こうした前提の下に生まれ
た。外国人捕虜に対する国際法的処遇などは、当然ながら配慮のほかだった。
戦後生じたB級C級戦犯の悲劇はこうして発生した。日本兵の戦死者の多く
は、餓死か海没か玉砕だった。玉砕する軍隊に殉じた日赤看護婦の話は、泉
下のタケを慟哭させるであろう。グローバルな社会の到来を以って瞑目(め
いもく)してもらうほかはない。

         広徳寺(静かに眠るタケの墓)
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 新・平家物語の編集責任者であり、また、吉川英治の御子息でもある吉
川英明氏が、父の思い出を綴っていらっしゃいますので、骨休みに、読ん
でみます。

 養生

 「新平家物語の連載は、七年間の長きに渡ったが、その間、父は、二度、
大病をしている。そして、そのうち一度は、四回にわたって休載し、一度
は、二回分を、取材旅行の紀行の口述筆記で切り抜けた。休載したのは、
三十一年の三月のことで、この時は、背中にヨウというおできが出来て腫れ
あがり、夜も眠れないほど痛んでとても執筆できる状態ではなかった。もう
一度は、この一年前の三十年の六月のことで、取材旅行先の明石で下痢
をし、急性大腸カタルと診断された。急ぎ、熱海の別荘まで帰って治療を受
けたが、なかなか回復しなかった。そのうち、旅行中の掲載分として書き溜
めておいた原稿にも余裕がなくなり、窮余の一策として、取材旅行紀を口
述して切り抜けようということになった。速記の方に熱海まで来ていただき、
口述したものを編集部で二回分の原稿にまとめるということだった。
しかし、口述が終わった父は、ゲラ刷りは、自分で直すといい出した。何し
ろ、「新・平家」は、連載をはじめる前に、わざわざ盲腸の手術を済ませた
ほどの意気込みでかかったものである。旅行記とはいえ、口述したままを他
人にまかせる気にはなれなかったのだろう。ゲラを、また、熱海まで取り寄
せ、初めから書き直した方が早いと思われるほど、真っ赤に手を入れてし
まった。そばで見ていた母は、身体にさわりはしないかと、はらはらしたと
いうが、どうしても、口を出せなかったという。この大腸カタルでは一か月
ほど寝たが、もともと父は胃腸が弱く、慢性的に下痢気味だった。七年の間
、ヨウという突発的な病気で休載した以外、この二回の口述筆記があったと
はいえ、休載することなく執筆を続けたということは、今考えても驚嘆にあ
たいする。気力だな、と思う。また、父自身も、胃腸の弱いことを知って、身
体には細かく気を使っていた、冷やさないために腹巻をしたり、夏でも、冷
たいものを極力我慢していた。そんな養生のうち、いかにも父らしい、ほほ
えましい癖が一つあった。食べ過ぎはいけないといって、ご飯でも、おかず
でも、ほんのちょっぴり、ほんの、茶さじ一杯分くらいずつ、残すのである。

 ここで、新・平家物語のストーリから少し離れて、作家利根川裕の、古典
「平家」と新「平家」についての、寄稿文を紹介しておきたいと思います。

 「新・平家物語」の連載がはじまって、まだ初期のころ(昭和二十六年春)
吉川英治氏は当時の長老的ジャーナストであった長谷川如是閑氏が中里介山
の話を持ちだすと、吉川英治氏は即座に、「中里さんとぼくと違っている所
が、自分でハッキリ二つあると思っております」と答えている。
 それによると、まず一つは、中里介山の作品は究極において、ニヒリズム
だが、「ぼくは自分の人生観として、どんな逆境におかれても希望の燈を持
ちたい、同時に読者にあらしめたい、これがぼくの歩く道なんですよ。
それが中里さんとは、西と東みたいに違っている所なんです」といっている。
 いかにも、介山の「大菩薩峠」の主人公机竜之介と、吉川氏のえがく宮本
武蔵とでは、「西と東」ほどに異なる人物像である。剣に妖(あや)かされる
者と妖かされまいとする者、無明(むみょう)の魔界にのめり込む者と悟
達の境地をおい求める者。破滅型と求道(ぐどう)型。人生否定派と人生肯
定派。
 剣士の世界にかぎらない。「新・平家物語」においても、事情は同じである。
 新「平家」の作者は、その大長編の冒頭に「はしがきに代えて」と題して、古
典「平家」の例の「祇園精舎の鐘の声・・・・」の序文を掲げている。だから、
「諸行無常」、「盛者必衰」は新「平家」を貫く基調音であるに違いないが、
吉川氏はこの無常観を虚無感ないし虚無感へと接近させようとは決してしな
い。
古典「平家」と違って、新「平家」の登場する清盛は、まだ二十歳の若者であ
る。古典は清盛の栄華に至る道程を、飛石(とびいし)伝いのエピソードで簡
潔に語っているが、新「平家」の作者は、ほとんど無名の若の、青春の可能
性から出発する。ひとり清盛にとどまらず、新「平家」の作者は、当時二十一
歳の遠藤盛遠(のちの文覚上人)、二十五歳の源ノ渡(袈裟御前の夫)を呼
び込み、また二十二歳の佐藤義清(のちの西行法師)を連れてくる。
 彼等はみな勧学院出身で、鳥羽院北面の武者である。王朝の末期的症状
に対する懐疑(かいぎ)、鬱屈(うっくつ)、脱皮など、青年たちはそれぞれ
自分の個性に応じて新時代を模索する。若々しい可能性への賭(か)けであ
る。
「ただ春の世の夢のごとし」ではない青春の爆発である。ここから筆を下ろし
たところに「新・平家物語」の作者の主張と野心がある。
 吉川英治氏は、「新・平家物語」は古典平家物語には拠(よ)っていないと
いい切っている(「新平家落穂集」)。
 ふだんは、自分を語るに抑制的なこの作者が、そうまでタンカを切るのは、
当然、それだけの用意があってである。
 一つは、清盛に関して、古典「平家」は、基本的には清盛を「猛(たけ)き
心」の「奢(おご)れる」ものと捉(とら)えている。かの有名な長子重盛の
諌言(かんげん)の件(くだ)りなど、適役清盛の恰好(かっこう)な見せ場で
ある。
 古典「平家」が成立するのは、ほぼ十三世紀、鎌倉時代である。その時代的
条件が清盛像を決定づける。新「平家」の作者は、清盛をその条件から解放する
。吉川氏は、この大長編の前半の主役を「新しい」清盛に据える。
 新「平家」の清盛は、古典「平家」の清盛に似ていない。しかし新「平家」
の作者は確信している、これが本当の清盛像です、と。
 新「平家」の作者が、いま一つ古典「平家」から解放されているのは、後白
河院はじめ、院や朝廷の動きを克明に迫っていることである。
 作者はいう、「大きな人間悲劇をかもした二院政治(朝廷と上皇との)も、保
元の乱も、素因は、じつに、天皇御自体のうちにある。また、まわりの妃嬪(き
ひん)や、貴族たちにあります。が、従来は、触れ得ない所でした。
今日では、ここもふつうに書けます。新しい平家が書かれてもよいと思ってや
り出した所以(ゆえん)です。(「新平家落穂集」)と。
 古典「平家」について記した前回の拙稿で私は、巻末の「灌頂巻」で寂光院
へ御幸する後白河院に触れて、大興亡劇の隠れた主役が後白河院であるこ
との、これが暗示か、とのべておいた。
 新「平家」の作者には、もはや「暗示」などという制約はいらない。「日本一
の大天狗」とも称された後白河院を、作者は手を替え品を替え、まるで作者
冥利に尽きるとでもいわんばかりに、描きだしている。新「平家」の「新」たる
所以(ゆえん)である。

 所で前期、如是閑氏との対談で、吉川英治氏が中里介山と「ハッキリ」違っ
ているところとしてあげた、もう一つは、「大衆に臨む態度」である。
 吉川氏によれば、「どうしても中里さんは一歩民衆の上にいるんですよ。・
・・ところが、ぼくはみんなの中へ入っちゃうんですよ。お互い凡愚で、自分
も凡愚になって、大衆の中に机を置く、みんなの中に入って、みんなの気持
ちで書く、ここのところが中里さんとぼくと、ちょうど正反対にちがう所だと
思うんです」と。
 この作者の態度を新「平家」にあてはめれば、まずつぎのような作者の言
葉となる、「古典平家には、一貫したストーリーはありません。各章の史的
挿話が、人間の無情、栄枯の泡沫、愛憎の果てなさなど、組かさね、組かさ
ね、十二世紀日本を構造して見せ、抒情(じょじょう)し去ってゆくのでありま
す。私の「新・平家」もそれには似るかもしれません。ただ古典の貴族中心を
、私は同時代の庶民の相(すがた)からも書きたい。殊(こと)に、宮枢の秘
に触れ、天皇、妃嬪たちをも、一列の登場人物とみなして、淡々と、えがいて
みたい希(ねが)いを伴っています」
 「淡々と」えがきたいと作者はいう。この「淡々と」が、なかなか吉川流であ
る。出来上がった作品の結果からいうと、どうして「淡々と」どころか、容赦
なく、といいたいくらいである。たしかに作者は、従来はタブーであった「宮
枢の秘」を、容赦なく(ということは庶民と一列の相で)えがいている。ただし、
作者は、この作品を書きはじめたころの戦後の一風潮であったような、かっ
てのタブーをことさら暴露的・断罪的に描く軽率さからは、みずからを用心深
く守っている。それが、「淡々と」である。
 「同時代の庶民の相から書きたい」という作者の望みは、ことに清盛の場
合に、あきらかになる。作者は、清盛という存在に、時代のシンボルをみて
いる。しかもそのシンボルは、栄華をほしいままにした成功者のそれではな
く、日毎のたつきにあくせくしている庶民のシンボルなのである。作者自身の
清盛註としては、つぎのようになる。「数百年の貴族政治には民心も飽(あ)
いていたし、平安貴族文化と、低い層の生活とは、明暗、余りに別世界のも
のであった。従来、地下人階級といやしまれていた武人の擡頭(たいとう)は
、その意味で清新に気を与えている。同時に、六波羅を中心とする戦後景気
やら、新しい時粧風俗も興(おこ)って、清盛という時代の人物に、ともかく今
の所、庶民は好感と興味をもって観(み)ている」(「新平家落穂集」)こういう
「庶民の好感と興味」のシンボルであるからこそ、清盛は断じて新「平家」の
主人公であるし、また、そうなくてはならないのである。
作者は「新・平家物語」を「藤原貴族文明の没落から、源平二氏が骨肉相喰
(あいは)む紅白の二世界、壇ノ浦ーやがて法然上人の新宗教の提唱など
にいたるまでの、地上の諸行を天井からドラマを見るように観ようというのが
、この小説の所願であります」と、その意図を語っている。となると、古典「平
家物語」より、もうひとまわり大きい時代の構造を目論(もくろ)んでいるので
ある。そして、法然の新宗教提唱にまで至るという観点に、虚無的無常の挽
歌ではない作者の人生観が主張されている。作者はまた、「勝者が敗者を
制裁した記録が歴史であり、それを書き正すのが文芸の一つの仕事である」
という。この言葉は、直接的には史書が描く清盛像への批判として述べてい
るのであるが、おそらくその胸底には、作者みずからも体験した昭和の大敗
戦と戦後の一時期に対する批評がこめられていたであろう。
 昭和二十五年に書き出した「新・平家物語」は、作者の昭和の「敗戦史」で
もあり、「戦後史」でもある。
だから、吉川氏はこう記している。「古典平家物語」は、いわばその頃の、日
本百年の弔鐘(ちょうしょう)でした。迂作、この一篇も、悔悟の古塔を巡礼し
ながら、古典に曳(ひ)く鐘の余韻に、今日は末世か創世か、もいちど、無常
の真理を聴こうと思うのであります」(「新平家落穂集」)と。そして作者として
は、これが「末世」ではなく「創世」だという祈りをこめているのである。

 新・平家物語を読み終えた後は、つぎに、どの吉川作品を選ぶかは、ま
だ、小生は決めてはいませんが、ここに、「国民作家と国民文学」というタイ
トルで、粕谷一希の評論がありますので、これを読んでから、吉川文学作品
群から選びたいと思います。

 私が「宮本武蔵」に接したのは、昭和十四、五年、小学校四年生か、五年
生であったように思う。読書好きの母と違って、ふだんは経済雑誌程度しか
読まなかった父が、あの紺色の八冊本の講談社刊の「宮本武蔵」に熱中し
出し、それから「新書太閤記」「三国志」と買い込んできて、父子共通の読書
体験を味わうことになった。母の書棚にあった石坂洋二郎の「若い人」の方
は、未公認で、こっそり引き出しては便所のなかで読んだ記憶があるが、「宮
本武蔵」の方は、公認されて熱中したのである。
 おそらく、支那事変から大東和戦争にかけて、日を追って息苦しく、統制経
済が強化されて物資が乏しくなってゆく過程で、日本人の多くの家庭でこれ
ほど話題と慰安をもたらした小説はなかったであろう。
 やがてラジオ放送で、徳川無声の朗読が始まり。「宮本武蔵」は、夢声独特
の、間(ま)をおいた渋い語り口によって反芻(はんすう)され、それは夜の夕
飯どきの茶の間の音楽であったともいえる。
 また、稲垣浩監督、片岡千恵蔵主演の映画化も始まり、壮年期に入った片岡
千恵蔵の、いささか肥(ふと)りじしの逞(たくま)しい体躯(たいく)と、歌
舞伎調の語り口を残した腹から絞り出すような独特の台詞(せりふ)と、豪快
な殺陣(たて)と、それを通して現れる男性的な色気に魅せられたものである。
繰り返しすれちがいに終わるお通さん(相馬千恵子)の可憐(かれん)な風姿(
ふうし)や、吉野太夫(市川春代)の廓(くるわ)を舞台としたあでやかで怪しげ
な色気に、子供の知らない世界の奥行(おくゆき)を感じさせられて、さまざまな
空想を掻(か)き立てられたのであった。
 吉川英治の作品のなかでは、在感が乏しいが、本位田又八や朱美、お婆(
ばば)といった人物像が、奇妙な迫真力をもっていて、そこには作者の人生遍
歴からくる、人生の情欲や敗残の悲しみへの洞察力がよく生かされていたよう
に思う。
 たしかに、早く正宗白鳥が指摘したように、この作品世界には、戦国期から
徳川時代への時代背景や風俗考証は、ほとんど書き込まれていない。
正宗白鳥のような醒(さ)めたリアリズムの眼からみると、飛躍や間隙(かん
げき)もあり、近代的合理性を備えていない。また戦後の知識人がさまざま
に論議をかさねたように、日本の民衆を、解放に向かわせるような方向性も
ない。けれども、それにも拘(かかわ)らず、当時の日本人が老若男女を問わ
ず魅せられていった秘密は何であったのだろう。

 剣を通して、彼は人間の凡愚と菩提ぼだい)を見、人間という煩悩のかた
まりが、その生きるための闘争本能が、どう処理してゆけるものか、死ぬま
で苦労してみた人だ。乱麻殺伐(らんまさつばつ)な時風に、人間を斬(き)
る具とのみされていた剣を、同時に、仏光ともなし、愛のつるぎともして、人
生の修羅(しゅら)なるものを、人間苦の一つの好争性を、しみじみ哲学して
みた人である。
                        (「随筆宮本武蔵」序から)
 吉川英治は、宮本武蔵を一箇の求道(ぐどう)者として捉えているのだ。
そして、明治以降、敗戦に至る近代日本において、日本人はその勤勉と禁
欲的態度を維持しつづけてきたし、その彼方に何らかの道を求めていたこと
も確かである。
五か条の御誓文は、近代日本の民主化を目指したが、教育勅語は、近代
国家建設に向かう日本人を国民として馴致するために、儒教倫理を巧みに
再生したものであった。
 日清・日露の戦役に、それは忠君愛国として生かされたが、帝国日本とし
て列強に伍(ご)し、大陸への膨張政策が、排日、抗日の気運のなかで緊
張を呼び、国際的緊張のなかで暗い戦雲が立ちこめたとき、日本人は、武
断的男性像を求めたのである。
 自ら伸ばそうともしない生命の芽を、また運命を、日陰へばかり這わせて、
不遇を時代のせいにばかりしたがる者は、彼の友ではあり得ない。大風にも
あらい波にも、時代がぶつけて来るものへは、大手を広げてぶつかり、それ
に屈しないのが、彼の歩みだった。
 道だった。
 困難な時代と社会の荒波のなかで、自己の責任をし自覚し、強く生きる男
が理想としてあった。そして、貧苦を耐え抜き、小成に安ぜず、この世の階呈
を昇りつめてゆく吉川英治には、それを主張し、そうした人間を描き出す資
格があった。子供好きで、やさしい文字や秀(すぐ)れた絵を書いた漂泊者、強
さとやさしさを備えた男、それは、吉川英治自身のことではなかったか。

 宮本武蔵という作品には、人物の造形と共に、忘れがたい名場面、舞台設
定がある。関ヶ原の敗残の風景から始まる書き出しも印象的だが、三たび
繰り返された吉岡一門との決闘、とくに三十三間堂での吉岡伝七郎との対
決、一乗寺下り松の決闘、またそうしたダイナミズムの間(あいだ)に挿入さ
れた、本阿弥光悦との出会いや、彼にいざなわれて遊ぶ廓での吉野太夫と
の出会い、そして、新しく造形された若武者佐々木小次郎との、最終的クラ
イマックス巌流島の決闘など、映画に、舞台に何度、見せられても飽きない
情景である。
 こうした造形力が、いかに卓越したものであったかは、多くの作家の想像
力を刺激して、その後、さまざまな作家によって書かれた武蔵像が、いまだ
に吉川武蔵を抜けないことでもわかる。そして面白いことに、村上元三によ
る「佐々木小次郎」、小山勝清による「それからの武蔵」といった。ヴァリエー
ション、変奏曲を生み出していることである。
 宮本武蔵への関心は、、敗戦後の社会心理から十年ほど遠ざかるが、文
学者や知識人の批判にもかかわらず、ふたたび復活し、社会が常態に戻り
高度成長への道を歩んだなかで、三度、映画化されている、片岡千恵蔵に
始まった武蔵は、三船敏郎、中村錦之助、高橋英樹と、それぞれの世代の四
人の武蔵をもったことになる。武蔵の役をこなせることが、時代劇スターの一
つの資格要件であるかのようである。アメリカ人にとって西部劇が心の古里
であるように、日本人にとって時代劇は永遠の古里なのである。
おそらく、それぞれの時代色を反映しながら、人物や事件への新解釈を加え、
また新しい人物像を造形しながら、小説に、映画に、舞台に、時代物は消え
ることはないであろう。
 昭和三十年代には、司馬遼太郎氏が登場し、「竜馬がゆく」で、新しい魅
力的ヒーローの造形に成功した。それは国民文学として考えるとき、近代日
本の強い男から、賢い男への転換であったと考えられる。そこには歴史的
リアリティに即しながら、軽快なテンポ、豊かな饒舌(じょうぜつ)、自由な発
想と、吉川英治に代表される、勤勉と禁欲、求道と武断(もしくは武骨)な男性
像を越える男性像が、対置され確立された。戦後の日本は、富国強兵の国
民的義務から解放されて、安土桃山以来と云われる、民衆の自由な欲望や
私的生活の充実が求められ、強さの美徳よりも、賢明さ、知性が、尊ばれる
社会が実現したのである。
 
 戦後日本は明治以降の軍事大国を反省し、平和憲法の下で軍備を放棄
し、経済復興に専念した。その近代化の反省のなかには、敗戦のショックも
あり、軍閥時代のいまわしい記憶からも、自虐的なまでに日本の歴史を否定
的に眺めようとする風潮が浸透した。しかし高度成長を成し遂げ、七〇年代
の石油ショックを乗り越えたころから、比較文化論的意識が高まると共に、近
代や近代以前の日本についても、内外から新しい眼で再評価が行われるよ
うになった。
 今日の日本の先進型社会の創出は、戦後の努力だけによるものでなく、明
治以降の近代化も、西欧化に成功しながら、優等生でありすぎることから西
欧を模倣した帝国主義として失敗したのであった。そしてその能力は、室町、桃
山、徳川と蓄積された伝統的技術、学問、文化の中で証明されていたである。
 そうした眼で振り返る時、封建時代の町人文化や武士道までが、新しい
光を当てられることになる。shogunが書かれ、musashiの英訳が出版された
ことも、そうした意識の流れの中で捉えられる。
 「宮本武蔵」に熱中しながら、その禁欲と精進、求道と武断の世界に共感し
た日本人は、かならずしも、前近代的意識、好戦的民族とだけ解釈されてよ
いものではない。それぞれの民族は、近代国家、近代国民として自己を形成
しながら、伝統的生活意識やスタイルを継承してきているのであり、その伝統
こそ近代化の動因だったのである。
 宮本武蔵は、「甘えの構造」と「父性の不在」を自覚した今日の社会で、強く
責任をもって生きる男として復活してよい、ひとつの典型なのである。



















 二、三日前から、時計草の、花の蕾(つぼみ)が膨らんでいましたが、12
月ですから、もう開花は無理だろうと思っていました。
 ところが、今朝(12月17日)一輪だけですが、開花していましたので、
驚きと、あらためて造形美に、嬉しくさせてもらいました。
冬は、花が少なくなっていますので、庭に、つかの間のあでやかさを添えて
くれました。
 やはり、今年は、暖冬が、予報されていますように、植物が正直に反応した
ようです。

                 時計草
CIMG0244





































                  時計草                   
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 ある日、JCOMから電話が入り、その要件は、既存ケーブルから、電話回線
を、ひき直したいので、一度現況を見て、打合せを、させていただきたいとのこ
とでした。
 その後、担当者は、予定していた日時に、拙宅を来訪してくれました。
 説明の中で、「現在のセット料金にわずか上乗せするだけで、JCOMが用意
するテレビチューナーを、セットしますと、室内3ケ所のテレビにも、BS放送
番組が、追加で観られるようになりますよ」とのことでした。
 居間に置いているテレビは、すでにBS放送と、CSチャンネルも視聴できる
のですが、テレビチューナーは、最新式(多機能仕様)のものに更新するといわ
れました。
 BS放送は、必要だと思い、JCOMさんの提案を採用することにしました。
なお、小生の部屋のテレビは、CSチャンネル(洋画鑑賞可)も視聴できるよう
にしました。
 そして、数日後、この工事が、約3時間かけて、行われ、無事終了いたしました。
早速、視聴しますと、以前より、数段も。高画質で映るようになりました。

 テレビチューナーの性能向上と、企業努力の結果、夢のような美しい映像を
届けてくれました。
 打ち合わせに来ていただいた、新婚だといわれた女性担当者と、工事を施工し
ていただいた方々に、感謝いたします。
 
 居間のテレビと、小生の部屋のテレビ音源は、オーディオの、プリメインアンプ
経由で、スピーカーからも、出せるようになっています。
 音楽番組と、洋画を鑑賞する場合は、このオーディオからの音で、臨場感を味
わうようにしています。

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