atusisugoiのblog

2017年01月

 観葉植物である、トックリランは、我が家に来てから、もう20年くらい
になると思います
一時期、このトックリランが衰弱した時期があり、植え替えを行い、再生し
ましたが、その後、また、葉の色に艶(つや)がなくなったため、昨年の秋
2回目の植え替えを行った結果、見事に復活しました。
 小枝が1本かなり伸びていましたので、昨日(27日)、これを切って、ア
ロエが植わっている鉢の中に、仮に、挿し木にしてみました。本来挿し木は、
春に行うものですが、陽射しが当たる部屋に置いていますので、思い切って、
実行してみました。
 小枝を選定することによって、親のトックリラン本体の違う箇所から、新し
い芽が出るかもしれないと、期待しています。

     トックリランの挿し木    2017.1.27  撮影
CIMG0005

































 小生にとっては、トックリランの挿し木は、初めての経験ですので、果たし
て、無事に根付き、親に似て、ふっくらとした形の根元に成長するのかが、楽
しみです。

        トックリランの挿し木   2017.1.27  撮影
CIMG0007







































 家内が手入れをしている、君子蘭(くんしらん)の花が咲きました。

              君子蘭(くんしらん)       2017.1.28  撮影  
CIMG0008






































 2018年4月14日(土曜日)

午後になって、風が強くなってきています、天候は曇り時々晴れといった
ぐあいで、あまりすっきりとしません。
夕方には雨になると予報しています。
 トックリランの挿し木は、根付かないまま枯れてしまいました。もう一
度、チャレンジしたいと思っていますが、挿し木に適した枝が見当たりま
せんので、しばらくはお預けとなっています。その代り、今年はこのほか
に、木瓜(ボケ)、ツツジ、梅、シャクナゲ、椿、ハナミズキなどを挿し木
しています、今のところ順調に生育しているものと思われます。一度にた
くさんの種類を挿し木にしたのは、初めての試みです。
 昨年友達に差し上げた、時計草が、開花したという知らせを頂き、写真
を拝見しましたら、なんと綺麗に咲いたものだと、感心しました。多分秋
からこの厳しい冬の間、家の中で管理されていたようです。

 この友だちが育てていらっしゃる「時計草」は取り木という手法で増や
したものです。

                      時計草
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            時計草
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 2018年05月11日(金曜日)

 日中の気温が昨日より7℃高い21.0℃としのぎやすい天候でした。
午後、京王百貨店に出かけ、水彩画用の画材を購入してきました。画用紙
は、フランス製の「アルシュ」、それとイタリア製の「エキストラホワイ
ト」、日本製の「ホワイトワトソン」をそれぞれF4とF2サイズを用意しま
した。
 そして、ドイツ製の絵の具です。
絵具は、顔料に鉱物を使用しているもので、2,500/1本と高価でしたが、3
本補充しました。
 この鉱物の名称は、「ラピスラズリ」という石でチリ産だそうです。
 好運を招く石といわれ、邪気を避け、正しい判断力を寄せてくれるとさ
れる最古のパワーストーンです。運が落ちていると感じた時、進むべき道
に迷いが生じたときなどに身につけるとよいでしょう。目先の結果にこだ
わらず、持ち主にとって正しい方向へ導いてくれるでしょうと、この宝石
のコマーシャルで、紹介していました。
 近いうちにこの絵具を使って描きたいと思っています。


 















 模索の時代(Ⅰ909-1918)

                        
パリの風景
CIMG0198








 
藤田がいつ頃から美術に興味を抱いていたかは定かではありません。
1936年に発表された『腕(ブラ)一本』には、「私は四つ時分から非
凡の画才に秀でて居た。丁度12,3の年齢に達した時は、終生画家とな
って身を立てたいと決したものの、その決意を親父に打ち明けにくいので
、自筆の手紙をだした」と記されていますが、高等師範学校の中学部に入
した14歳の頃には、画家志望を固めていたと思われます。しかし、藤田
家は、父の嗣章も母の政もともに武家の出身で、親戚にはずらりと軍医関
係者が並ぶ名門の家系でした。
二人の姉は共に軍医に嫁ぎ、一つ年上の兄・嗣雄も東京帝国大学の法
学部を卒業し、法制史学者となり、その妻は陸軍大将の三女という華や
かさです。
このような家系の中で画家志望を表明するのは、よほどの決意を要した
に違いありません。まして、打ち明ける相手は、後に陸軍の軍医総監に
まで上り詰める父親であり、親子といえども気軽に口を利くこともままな
らぬ畏怖すべき存在でした。手紙を介して自らの希望を伝えるという方法
も無理からぬところであったでしょう。だが、恐らく予想に反して父・嗣
章は息子の思いを受け入れ、さらに後押しをするような大金まで手渡した
といいます。
 画家志望を認められた藤田は、間もなくヨーロッパへの留学を見すえて、
フランス語を学び始めます。海外への強い憧れは、12歳で上京してから
しばらく寄宿した姉・喜久の夫、蘆原信之の影響といわれます。やはり軍
医であった信之は、1928年から3年間ヨーロッパを留学し、その帰途
ベルエポック華やかなりしパリに数か月滞在していますが、帰国したこの
叔父から盛んに聞かされたパリの様子に、藤田は大いに憧れを膨らませた
ようです。そして東京高等師範学校附属中学校を卒業後、すぐに留学を考え
ていましたが、父・嗣章の上官に当たる森鴎外のすすめを受け、東京美
術学校西洋画科で学ぶことになります。この時期の作品については本展に
出品されている2点を含むわずかな作品しか残されておらず、それを見る
限りではアカデミズムと印象派を折衷した、当時の西洋画科主任、黒田清
輝の指導を忠実に反映した作品となっています。
その後、美術学校を卒業するも、すぐには渡仏せず、白馬会や光風会など
に出品しますが、当時の画家の登竜門ともいうべき文展には3年連続して
落選し、失意の日々を送ります。そして1913年、26歳でようやく憧
れのパリの地を踏むことになります。
 パリに到着した藤田は、美術学校にも私設の画塾にも学んだ形跡があり
ません。また、通常の留学生が行う、紹介状を携えて先輩の日本人美術
家を訪ねた様子もありません。
まったくの徒手空拳で芸術の都と向き合うのですが、それがむしろ妙な
先入観や気おくれを持つことなく、独自の表現を模索する道へとかれを
進ませたのかもしれません。当時のパリには、多くの異邦人画家が活動
しており、藤田と前後してパリへやってきた若い画家たちがまずたどる
のは、セザンヌからフォーヴィスム、そしてキュビスムへと進む道です。
藤田も後者二つの運動には少なからぬ影響をうけたようです。今回の出
品作がそれを如実に物語っています。そして、この同じ道を歩んだ後で、
試行錯誤の末に、独自の作風にたどり着くという点でも藤田は他の画家
たちと共通しますが、そこにたどり着くまでの道のりは長く容易なものでは
ありませんでした。
 この藤田にとって模索の時代ともいえる初期の作品はほとんど残って
おらず、かれがキュビスムを模倣した後、どのような歩みを経て独自の様
式にたどり着いたのかはよく分かっていません。第一次世界大戦中、日
本からの送金も途絶え貧困に喘いでいたかれは、寒さをしのぐために、最
も自信のある作品15店を除いて500点ほどの絵をすべて燃やしたと語っ
ています。作風の変遷を追跡することができないのです。ただ、同時代の
流行を追いかけているだけでは本当の評価は得られない、という認識は
パリ到着早々に獲得していたようで、キュビスムの模倣はおそらく短期間
で終了しています。
そして藤田が取ったのは全く逆の方向。すなわち時代の最先端から背を
向けて、時代を逆行し過去のより素朴な表現に回帰していくこと。あるいは、
フランスという現在をいったん離れ、日本という過去に表現のルーツを見
出そうという戦略でした。そこには藤田自身が渦中に身を置いていたエコ
ール・ドパリの作家たちとの交流が大きく影響していると思われます。第一
次世界大戦前のパリおける前衛の真っただ中に、いったん身を置きなが
ら、その後それぞれの出自や気質に応じて独自の作風を模索するかれら
の姿の中に、藤田は自らの指針を見出したことでしょう。また、渡仏後1年
にして大戦が勃発し、パリから日本人がほとんどいなくなったことも藤田に
とってむしろ幸いしました、もともと藤田はパリ到着後も、川島理一郎を含
む数人を除いて、現地の日本人とあまり接触した形跡がありませんが、日本
人との交流を絶ち、フランス人を含む外国人との関係を密にすることにより、
フランスおよびヨーロッパの文化への理解を深め、ひいては自らの日本人と
しての出自に対する思いを強くしたに違いありません。こうして二つの文化
の狭間に誕生する藤田独自の様式の素地が準備されて行きます。

 花瓶や壺の置かれた部屋で、ゆったりとポーズを取る着物姿の若い女
性。ふっくらとした頬の美しい横顔です。夏の装いでしょうか。青色の柄
と細い縞の白い着物に、藍色の帯と帯締め、朱色の帯揚げの取り合わ
せが涼しげです。
 画面右上には「1909年5月」と記されていて、東京美術学校在学中の
作品と分かります。当時、藤田が在籍した西洋画科で行われていたのは、
いわゆる「外光派」風の教育でした。人体デッサンを基本とした伝統的な
描き方に、印象派風の明るい色彩を取り入れたもので、19世紀末のパ
リ画壇で主力のスタイルだったものです。日本では「紫派」と呼ばれたよ
うに、影を黒色ではなく、青みがかかった紫色で描くというのが大きな特
徴がります。
 色彩と特に影の色に注目して本作を改めてみますと、女性の顔や着物
の襞(ひだ)、背景の布の陰影には、青っぽい色が用いられており、指導
に忠実に仕上げようとする姿勢がうかがわれます。また、光学調査によ
って、木炭で丁寧な下描きをしていることも分かっています。
 モデルは不明といわれますが、最初の妻となる鴇田登美子に面立ち
がよく似ています。二人は1909年の夏頃に出会ったといわれるため、画
面中の書き込み通り「5月」の制作であれば、モデルは彼女以外の女性
となります。しかし、制作年とともに記されたサインは渡仏前使われた「F
ujita]ではなく、渡仏後に使われる「Foujita」と記されているため、おそ
らく1929年の一時帰国の際、あるいは1933年から日本滞在期に、藤田自
身が改めてサインと年紀を加えてのではないでしょうか。とすれば、20年
以上も前の制作月に記憶違いがあってもおかしくありません。もしくは、二
人が初めて会ったのが、従来いわれているよりもやや早く、実際には5月ご
ろだった可能性がもあるかもしれません。
 この作品を長く所蔵されていた方によれば、描かれている女性は「藤
田の初恋の人で、親の反対を受けて、駆け落ちした相手」と伝わってい
るとのことです。藤田と登美子の場合、実際には欠け落ちはしなかった
ものの両家の反対は強く、後に藤田自身は〔お互いの〕二人の父に手紙
を置いて駆け落ちをして中へ逃げた」と記しています。それほどの覚悟
の大恋愛ということでしょう。
 すなわち、おそらくモデルは登美子で、「妻」ではなく「初恋の人」
「駆け落ちの相手」と伝わってきたのは、二人が正式には入籍していな
かったためかもしれません。そう思って改めて眺めれば、出会って間も
ない微妙な距離感や、すぐに彼女に夢中になったという藤田の高揚感も
伝えているように思えます。さらに後年の活躍を考えれば、女性の瑞々
しい美しさを描き出した画家の原点ともいえる作品でしょう。
 第二次世界大戦の空襲で藤田の実家は全焼したため、徒仏前の作品
の多くが失われましたが、すでに藤田家を離れていた本作は難を逃れと
いいます。最初期の大変に貴重な作品の一つです。

 1909年
 布/油彩
 60.1×45.7㎝
          婦人像    東京芸術大学
CIMG0203














 本日(2017年1月26日)の新聞に、月面で、探査機を500m走
らせ、「探査機が撮影した映像を地球へいち早く送る」というレースだ
そうです。
このレースの参加国は、日本、イスラエル、米国、インド、国際チーム
で、今年12月に、月に向けてそれらの探査機を打ち上げるというもの
です。
スポンサーは、グーグルで、優勝国には、25億円の賞金が授かるそう
です。
 月もますます、地球に近くなったという感がいたします。
 UFOをとらえた映像とかを、送ってきてくれればと期待をしていると
ころです。

 月面には、他国の、資源探査機などがたくさん着陸しているそうですの
で、賑やかになりそうでが、月面で交通事故など起さないように・・・・。
と心配します。

 月には、太陽から降る、無公害のエネルギーが存在し、これが未来の燃
料になるのもそんなに遠い話ではないようです。現在のウラン原料よりも、
公害の出ない物質で、クリーンな核燃料だと聞いたことがあります。
 UFOは、この燃料を使用しているのかもしれません。あくまでもこの
説は、これまでの雑学上から、小生が想像するものです。

 UFOと宇宙人は存在するということを、ケネディー前大統領が、世界に
発信しようとし、そのため、抵抗勢力(自国政府内部の者)に暗殺されたと
いうことを、書物で読んで以来、小生の記憶から、離れません。

 その本では、UFOが着陸し、離陸した跡の地表に、放射性物質が、検出
されたといいますから、この燃料は、月に存在する、核燃料だと推理してい
ます。

                          探査機想像図(水彩画)
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            探査機想像図(水彩画)
141023_085231


















 栄華を誇った30年間を経て、こうして平家一門が、公達、女子供らを
連れ、都から、果ては瀬戸内の海原へと、追いやられれてゆく姿に、たま
らなく胸が痛んでいます。

 浮巣(うきす)の一門(いちもん)


 -その後、屋島を捨てた平家の水軍は、波の上に明け、波の上に暮れ、
そして今夜も、伊予(いよ)沖はるかなひうち灘(なだ)の星の下に、
その群影を朧(おぼろ)に見せ、たどたどしい船脚を、西へ西へ、向けて
いた。
 船の型も能力も一様ではない。落伍(らくご)を出さないためには、お互
いに扶(たす)け扶けして連れ落ちなければならなかった。自然、全体の
速度はぐんと、低くなる。
 それは、漂う水鳥の大種族が、あすの棲息(せいそく)の岸を、他へ求
めてゆく様にも似ていた。しかし、水鳥にはあるあすの安住の地も、平家
の人びとの行くてにはあるかないか。
 ただ、たのみといえば、総領の宗盛とか、教経(のりつね)とか、また一
連の侍大将らが、依然として吐いている強気なことばだけであった。
 そういうところに従えば。
 長門(ながと)の彦島(ひこじま)へ行きさえすれば、お味方の権中納言
知盛(ごんちゅうなごんとももり)がいる。九州平家の松浦党、山賀党、原
田党、菊池党などの精兵もひかえている。
 かつ、彦島の根拠地(ねじろ)は、九州中国の要衝たる関門海峡を扼
(やく)しているので、守るによく攻めるに難い。
 そこへ、われらが合(がつ)しれば、船数も千艘近くにのぼり、総兵力も
七、八千の大軍になろう。
 そうなれば、不壊(ふえ)の軍だ。金輪際(こんりんざい)、もう負けない
というのである。
 「-彦島までに候ぞ。彦島までのお怺(こら)えぞ」
 おりおり、用水や米塩の補給のため、名知らぬ島へ寄っている間も、教
経だけは、お座船の女房船を見まわって、
 「かならず、お心細く思し召すな。この能登守はべつの一艘におります
が、真夜半(まよなか)の潮路(うしおじ)にも、わが眼は、すべての船影
を、不断にお見守り申しておる。一艘といえ、迷(はぐ)らせはせぬ。生き
るも死ぬも諸共(もろとも)。一蓮托生(いちれんたくしょう)です」
 海上では、かれはつとめて、死を口にしないように気をつけていたが、つ
いそれが迸(ほとばし)って出ると、あわててまた、いい足した。
 「伊予沖だに越せば、途中、源氏の襲(おそ)う心配も、もはやあるまい。
彦島もやがて間近。戦いは、われらの手でしましょう。女院や女房方は、
陸(くが)にあってお安らぎあるがよい。・・・・・かつまた、権中納言ど
の(知盛)は、一門第一の名将。なんぼうにも、お心づよく思し召されよ」
 こうして、流離(りゅうり)の一大家族は、まだ幾夜の漂泊(ひょうはく)
をかさねたほどでもなかったが、内ではお互いを励ましあったり、外には、
瀬戸内の海賊や源氏の襲撃を警戒しながら、ようやく、ひうち灘(なだ)も
すぎて、安芸の海へはいりかけていた。

 「おお、思わず居眠っていたらしいな。にわかに、肌寒う覚える」
 能登守教経は、船尾の井楼(やぐら)の上で、ふとつぶやいた。
 昼夜、そこに床几(しょうぎ)をおいているの教経だった。で、疲れもし
ょう。今も床几のまま、井楼の横木に肱(ひじ)をかけたまま、つい居眠っ
ていたのである。
 井楼の上は三坪ほどで、四面は楯で囲ってある。戦闘のさいは司令塔
になり、また、武者が弓弦(ゆづる)をならべて、のぞき下ろしに、適船を
駆逐してまわるばあいも多い。
 楯の片隅にいた郎党たちも、じつは今、教経の嚔(くさめ)に、眼をぬぐ
われたものらしく、はっと顔を上げて、
 「夜明け前の海の一ときは、急に寒さを覚えまする。お嚔をなされた御
様子、鎧(よろい)下着でも、お着代えなされましては」
 とすすめた。
 「なんの・・・・…」と、教経は笑って、「風邪などひいていられるもの
か」と、聞き流した。そして井楼の横木から空や海づらをながめて、
 「そろそろ、朝だな。右手に見え出して来た島々は、備後(びんご)か安
芸国(あきのくに)か」
 「この辺、島ばかり無数に見えまするが、さあ何島でございましょうか」
 「真鍋(まなべ)はおらぬか」
 「ここにはおりませぬが」
 「船底で眠っているのだろう。真鍋五郎助光、塩飽太郎(しあくのたろう
)の二人を、呼び起こして参れ。-この辺の水先案内(みずさき)なら、か
れらに及ぶ者はあるまい」
 まもなく、その二人が呼ばれて来た。
 かれらは、塩飽諸島の島主(しまぬし)であり、助光の兄、真鍋助久は、
平家に加わって、一ノ谷で戦死していた。
 その後も、異心のない者どもと見、平家は、志度(しど)を出た後、ひと
まず、塩飽の佐柳島や真鍋島などで、水、燃料、食料などの調達をし、ま
た敵方の情勢もうかがっていたのであった。
 さもなくば、どこかで、河野勢の伊予水軍とぶつかるか、源氏の鵜殿(
うどの)党に追いかけられていたかもしれない。ここまで無事だったのは、
ひとえに塩飽諸島の島人らの好意であった。世は末なりといえ、平家と西
国地方との由縁(ゆかり)や主従関係は、まだどこかに生きている。絶え
てはないーと、落魄(らくはく)の人びとの意を強うさせたことでもあった。
 「真鍋たちか」
 と、教経は、その五郎助光と塩飽太郎を見て、
 「お汝(こと)らは定めし、この辺の潮癖(しおぐせ)や島々の事情には、
明るかろう。しばしここにいて、水路(みずさき)を見よ」
 「は。心得てござりまする」
 「遠くに横たわるは、安芸国の陸地か、あるいは、大きな島影かの?」
「倉橋島とおもわれまする」
 「倉橋島とな。では、その北方に、警固屋(けごや)と申す地があるな」
 「古代の海の関とか、聞いております」
 「音戸(おんど)の瀬戸(せと)と呼ぶ潮(うしお)の急なる水(み)の門
(と)もたしかその辺りぞ」
 「されば、昔、大相国(だいしょうこく)《清盛》どのが、巨財と数万の人力
を投じられて、舟航の便のため、切り開かれた舟路の近道にございまする」
 「ふと、わしもそれを思い出したのだ」
 と、教経は、回顧の情を、眉にたたえてー
 「あれは、治承四年の春、季節もちょうど今ごろであった。時の高倉の
上皇(きみ)が厳島御幸(いつくしまごこう)のみぎり、この教経も随身に
えらばれ、親しゅう朝夕の波路を供奉(ぐぶ)しまいらせたが・・・・。あ
あ、それも遠い昔のように思いが霞(かす)む。かぞうれば、六年前(むと
せまえ)のことでしかないのに」
 すると井楼のすぐ真下の波間から、声があって、
 「御使舟(みつかいぶね)です。使者のものです」
 「尼公(あまぎみ)の御意に、お答えを賜わりとうござる。小綱をお投げ
くだされい」
 と、口々にたれか呼ばわっている。
 のぞき下ろしてみると、みよしに黄旗(きばた)を立て、両舷(りょうげん
)に大勢の櫓手(ろしゅ)を載せた細長い俗に百足舟(むかでぶね)と呼ぶ
使晩舟が側へ来ていたのである。
 「それっ」
 と、すぐ井楼の上から、一すじの細綱が、うねりを描いて投げられる。
 それをつかむやいな、使晩舟はさらに、大船の艫(とも)スレスレまで漕
ぎよった。そして綱の端に、革の文包(ふづつ)みを結いつけて、上へ合
図をする。上でのぞいていた武者は、すばやくそれを手繰(たぐ)りあげて、
教経の手もとへ、文包みささげていた。

 平家の氏神

 その日の午(ひる)ごろ。
 流離(りゅうり)の平家は、倉橋島の南端ー本浦とよぶ一漁村の沖
へすべり入っていた。
 「はて、なんでまた、このような所へにわかな船がかりを」
 と、またこれが二位ノ尼のさしずと知らぬ人びとは、眉をひそめたことだ
った。が、ほどなく宗盛の総領船から、例の使晩舟で、
 「-兵糧(かて)、したためおわんぬれば、ちと、談義申すびょうことの候
う。時一つに、寄り合い候うえ」
 という布令状(ふれじょう)が、各大将へ渡っていた。
 で、多くの諸将は、評議へのぞんでから、初めて、わけを知ったのだっ
た。
 尼は、その席で、人びとへいった。
 「申すまでもなけれど、厳島は平家の氏神ぞや」
 平家の氏神。
 その一語は、人びとの胸にあった古い鏡を、突然、ぬぐって見せるよう
に、思い出させた。「なきわが良人(つま)《清盛》におかれても、福原の
都づくり、経ヶ島の波防(なみよけ)(築港)に次いで、そのご造営には一
代のお力をそそぎ給うた。あの不信心に似た御方も、厳島へは、月詣(つ
きもう)ですら遊ばしたほどに。・・・・・・そして今、はからずも」
 と、尼はやや声音(こわね)をうるませて、
 「-おいとけなき主上、おん国母をはじめ、この尼やら一門の男女、有
縁(うえん)の将士、平家につながる者すべて、浮くか沈むかの戦いを前
に、その厳島の御社(みやしろ)に近こう来ておりまするぞや。さるをこの
安芸の海をよぎりながら・氏神の御社をよそに見過ぎてよいであろうか。
いかに、うらぶれたればとて、また、いかに落ち行く心の急(せ)かれれば
とて・・・・・」
 ここまで聞けば、人びとにも、もう、尼の心がどこにあるか、わかってい
た。
 つまり尼は、今生(こんじょう)最後の思い出にーいや、そうは口にいわ
ないがー「この沖をよぎりながら、氏神へ詣(もう)でぬ法はない。
ぜひぜひ、厳島へ詣でばや」と、切に願いを起したものなのである。
 -聞くと、人びともみな、
 「平家にして、平家の氏神に、み燈(あか)しだに奉らず、一夜の参籠(
さんろう)さえ遂げず、あわてふためいて、安芸の沖を落ちのびたりとい
われては、世には笑い草、神にも見捨てられ候わん」
 と、口をそろえて、同調した。
 だが、分別者の門脇中納言(かどわきちゅうなごん)(教盛》は、宗盛へ
向かって、
 「尼公のお胸のほどは、よう分かるが、しかし内大臣(おおい)の殿のお
胸は?」
 「もとよりその儀は、儂(み)もひそかな宿願ではあれど、きょうの身
の空、かつは、先も急がる戦いの途(みち)すがら。・・・・・ただそれ
だけがのう」
 「その辺は、能登どの思案にあろう。いかが思われるか、能登殿には」
 と、次に教経の姿へ、眼を転じた。
 教経はさっきから「-困った」という容子で、軍扇をひざに、うつ向いて
いた。かれの姿は、爪の先まで「戦いに勝たでは」という一念にこり固ま
ってい、「かかる、みじめな一門の姿をならべて、なんで氏神の前に罷(
まか)れようか」と、しているような唇もとにそれは見える。
 けれど、尼公の言は、ここで千鈞(せんきん)の重さがある。それも、一
期の望みとまでいうのである。教経も無下(むげ)にも否みえずー
 「・・・・・さ。何よりは、敵のうごきいかんによることです。かかる間にも、
万一の変(へん)あらばと、ひたすら、彦島までの海路が案じられまする。
-教経としては、ただそれの懸念のみにござりまするが」
 と、口をにごした。
 しかし、経盛や、景経や、僧都専親(そうずせんしん)などの意見も、そ
れぞれ、ことばは違っても、尼の望むところと一つだった。
 長門国(ながとのくに)の彦島とて、ここまで来ていれば、もうほど近い。
伊予の河野水軍は、志度の源氏と合したという風聞だし、敵が、追撃して
来るなら、もうどこかに、その片影は見せているはず。
 ただ皆目、実状をつかみえないのは、周防灘(すおうなだ)や安芸近海
の島武士どもの表裏だけだ。
 むかしはいうまでもなく、平家一色の治下にあったかれらだが、屋島の
敗(やぶ)れを聞いた後は、内にどんな異心を起こしていないとは限らな
い。
 「不安と申せば、ただそれだけが」
 宗盛が、なお迷いを残していると、
 「いや、それの心配なら、サラサラ無用でおざろう。-厳島には、厳島
の神主、佐伯景弘(さえきかげひろ)、景信父子がおること。・・・・かれこ
そは、故入道どの(清盛)が、まだ安芸守(あきのかみ)たりしお若いころ
からの無二の平家方。いまもって、変わりのない人物と信ぜられる。-
戦捷(せんしょう)御祈願のため、みかど、女院、二位ノ尼公(きみ)以下一
門が、参籠を遂(と)げたしと申し送れば、どれほど歓(よろこ)ぶかしれ
ますまい」
 と、結局、門脇中納言の分別が、さいごの意見となって、議は決まった。

 尼の願いが容(い)れられ、厳島廻航のことがきまると、宗盛はすぐ、
 「料紙、硯(すずり)を」
 と、その場で、一書をしたためた。
 厳島の神主、安芸守景弘あてての書状であろう。
 心きいた武者数名をえらんで、
 「-速舟(はやぶね)に乗り、すぐ先へ立て。そして、景弘父子の地御
前(じごぜん)の館へこれを届けよ」
 と、いいつけた。
 そして、教経へも、
 「船出を」
 と、うながし、
 「抜かりもあるまいが、陸地(くがじ)へ近づくに従い、万一の恐れもあ
ること。心して、総勢をみちびき参られよ」
 と、くどくいった。いや、くどいように教経の耳へは聞こえたのである。
 もう、教経の意思でもなし、といって、戦意を損(そこ)なうほどなことで
もない。ただ、ぜひもなく、御意(ぎょい)まかせ、といった顔つきに見える
。そしてやがてかれも、諸将のあとから座を立って、わが船へ帰るため、船
舷(ふなべり)の梯子(はしご)へ小舟をさしまねいた。
 -と、後ろへ寄り添ってきた修理大夫経盛が、
 「能登どの」
 と、かれの耳もとへ、
 「きょうの座(ざ)にも、大理(だいり)どの(平大納言時忠)のお姿が見え
なんだの。屋島このかたのことだ。いかがなされたものであろ。・・・・御子
息、讃岐中将《時実》どのも同様に」
 と、あたりへ聞こえぬように訊(たず)ねた。
 教経は、ちょっと、眉色(まゆいろ)をためらわせた。-が、さりげない微
笑のもとに、
 「いや、お案じなされますな。ご無事でおられますゆえ」
 「それや、御無事ではおられようがの・・・・・」
 と、半ば口真似(くちまね)口調で、経盛りはいった。その白い眉が笑う
ように微風にそよいだ。
 「屋島以来、ご病気と聞こえ、一船のうちに引籠(ひきこも)ったまま、と
んとこのところお顔も見せられぬ。それゆえ、いちど見舞うて進ぜたいの
じゃが」
 「・・・・・・」
 「幸い、能登どのの小舟にて、大理どの船際(ふなぎわ)まで、わしを送
って給わらぬか」
 「おやすいことです」
 そうはいっても、教経は、気のすすまない容子であった。
 が、経盛は「-たのむ」と、ばかり先へ小舟へ乗っていた。現存してい
る清盛の実弟では、門脇殿殿より上の人であり、いわば、一門の長老で
ある。教経では、どうしようもない。
 「あの大理どののことだ、御病気召されても、気鬱(きうつ)などである
はずはない。腹でもおこわしめされたかな?」
 「さ。この船路、この戦いの中、親しく伺っても見ませんが、武者どもを
して、御不自由のないようには申しつけておきました」
 「すると、お手勢の船だの」
 「さればで」
 まもなく、一艘の大型な武者船の腹へ、その小舟は横着けにされた。
 「やれ、かたじけない」
 礼をいって、経盛は、それへ移った。
 かれの後ろ姿を、そこの船上へ見送ってから、教経は、自身の部下ら
しい、舷(ふなべり)の武者と、なお何事かささやいていたが、
 「くれぐれ、油断すな。わけてまた、厳島へ近づくことでもあれば」
 と、いい残して、漕(こ)ぎ去った。
 ほどなく、教経の井楼船(せいろうぶね)から、合図の鼓(こ)と鉦(かね
)が鳴りわたると、ひとしきりは、総船出の支度に、帆ぐるまの叫びだの櫓
手楫取(かじと)りの声が、潮騒(しおさい)とともに揺れあった。
 やがて鯨群のように、残らず船が、本浦を出はじめてゆく。
 教経は、井楼に上がっていた。
 後ろに広がる視野の一劃(いつかく)が、黒っぽい枯木と焼け野原にな
っていた。かれの眸は、無念そうに、そこの焼けただれた大地の顔を見
ていた。
 由来、本浦には、平家船工匠(ふなだくみ)や舟役人がたくさんいて、つ
い近年まで、さかんに造船していたのである。それが今は、ことごとく焼き
払われて、陸には、犬の子一匹の影も見えない。
 中国掃討(そうとう)に当たっていた東国勢の仕業か、伊予の河野水軍
の侵略か、いずれにせよ、これも西国の平家勢力が源氏に侵されつつあ
る残骸(ざんがい)にちがいなかった。-教経は、唇を嚙(か)んで、「この
恨みは、きっと・・・・・」と、誓っているような双(そう)の眼(まなこ)
をしていた。
 
 たれやら、そこの暗い船底梯子を、一足ずつ、足さぐりに、降りて来た
ようである。
 「・・・・・?」
 船底は広く幾部屋にも区切ってあり、平大納言時忠は、ちょうど、艫(と
も)の楫部屋から二つ目の部屋に、寂然と、ひとり何かにもたれてすわっ
ていた。
 「時実か」
 そう呼んでみた。
 -が、答えはなく、その人は、下に降り立ってからも、しばらく、時忠の
姿を凝視していた。
 時忠の側には、腐った帆綱やら船具が山になっている。かれは、それ
へ倚(よ)りかかり、気楽に脚を投げ出していた。ひざには何か、読みか
けの書物を開いたままのせているのである。そして、それを読む明かり
といえば、鉄製のつり灯皿(ひざら)の螢火(ほたるび)ほどな小さい明か
りがあるにすぎない。
 「・・・・・おう、ここおいであったか」
 「はて。参られたのは?」
 「修理(しゅり)でおざる。・・・・修理大夫経盛(しゅりのたいふつ
ねもり)でおざるよ」
 「や。 修理どのか」
 すわり直して、
 「おひとりかの」と、怪しんだ。
 「されば、そこまでは、能登どのの小舟が、送ってくれたが」
 「ほ。あの能登守が、よう、あなたをここへお連れ申したなあ。否(いな
)みもせずに」
 「内大臣どのに伺っても、能登どのに訊ねても、大理どのは、ここ病中
のお引き籠(こも)りと承ったが」
 「それだけは嘘ではない。かくの如く、病中です、時忠は、大いに病み
悩んでおり申す」
 そういって、かれは、からからと笑った。
 船底のせいか、空洞の音響みたいに、それは妙に籠って聞こえた。
 経盛は、黙って、かれの前にすわった。時忠が、わきへおいて伏せた書
物の題簽(だいせん)を見ると、唐の詩集であった。こうして、魚油の小さ
い灯を掲(かか)げて、唐詩を読みふけっている時忠の姿そのものも、何
か、異朝の流亡の詩人といった風に見えないでもない。
 「大理どの。・・・・これではまるで牢舎(ろうしゃ)の押し込めにおう
ているのと変わりはない。さだめし、心外でおわそうの」
 「いや。この無理扱いは、能登守のさしずなれど、若い能登どのを恨む
気にもなれぬ。まして、争うてみても味方同士、率直に病人になっている
ことにしましたわい」
 「さすが、御分別だの・・・・。主上、女院のおん輿(こし)を奉じて屋
島を離るるさい、大理どのと能登どのとの間に、けわしい喧嘩(けんか)
が起こりかけたとか、あの騒ぎの中で耳にいたしたが」
 「時忠として、あの日のことは、ちと逸(はや)まったと申すほかはない。
も少し、機の熟すを見て、事をなせばよかったのだが」
 「何もかも、運と申すもの。かくなっては、人の力では、どうにもならぬも
のがある」
 修理どのは、天命に服し、すべてを人意にあらぬ天意とあきらめてお
いでだが、この時忠なる者は、元来、運命を信じるよりは、自分を信じる
ことの強い男でおざれば、なんとも、晏如(あんじょ)としておられませぬ」
 「詩書は、お手になされていても」
 「これはこうしているまの閑(ひま)つぶしの書です。いつぞや屋島のお
陣屋の内にて、ざっと、お打ち明けした時忠の考えは、今も捨ててはお
りません。・・・・いかほど、味方の者どもから、裏切り者よ、ふたまた者
よと、蔑(さげす)まされようと覚悟のうえでおざる。主上、女院のおん二
方を始め、戦いにかかわりもなきあまたな人びとを、修羅(しゅら)の底
より救い出すためには」
 「うム。・・・それは、経盛も決してお止め申すまい」
 経盛は、そっと、面(おもて)をそむけた。
 すでに一ノ谷で、源氏のために三児を戦場で亡(な)くしているこの孤父
は、もう早くから死を決していた。-というよりも、死ぬ日を、愉(たの)し
んで待つという心にまでなっている。
 しかし、時忠があくまで生きて、源氏との間に和を策し、主上と女院の
ほか、平家のかたちだけでも、世に残そうとする考え方にも、深い同情を
もつのであった。それこそ、故清盛に報(むく)ゆることの第一かもしれぬ
と思うし、また、死以上の辛さとも察してはいる。
 けれど、かれ自身の、死一途な考えは、毫(ごう)も変わっていなかっ
た。-時忠は時忠の道を行くがよし、自分は自分の道をーと静かに決め
ている風に見える。
 「・・・・が、のう。大理どの止めもせぬし、御思慮は、感じ入るが、た
だいささか、経盛から見れば、不安もあるが」
 「と、仰せられるのは」
 「まだお味方が、一ノ谷、屋島なんどに、勢威を張っていたころなればと
もかく、事ここに及んでは、大理どのの和の策も、こちらだけの片思案に
なり終わるまいかと」
 「いや、そんな憂いはありませぬ」
 「ないと、お信じあるか」
 「最後の最後に立ち至っても、主上と女院、そして三種の神器だけは、つ
つがなくお迎えすべしと、源氏も、院より仰せ使っておりましょう。・・・そ
れゆえ、源氏も無下には平家を討ち砕けませぬ。和を申し入れれば和にも
応じて、院の御命にもとることのないように計らねばなりますまい」
 「というて、源氏のたれに、今さら、ひそかな和を通じえよう。・・・・
たれぞ、源氏のうちに、よいお心当たりの人でもあればだが」
 「ないことも有りませぬ。ただ一人はある」
 「それは?」
 「九郎どのです」
 「はて。あの戦上手(いくさじょうず)、あの戦好きの源九郎義経を、和
議の相手にとは、ちと、おめがね違いではないか」
 経盛はいった。-それは、時忠のために惜しむような嘆声にも聞こえた。
 「・・・・・・・・・・」
 時忠はしいて、答えようともしない。
 かれはただ、その胸のなかで、七年前のある一夜の義経を思い出して
いた。
 そのころ、義経もまだ無名の一放浪児にすぎず、検非違使(けびいし)
の牢につながれていたのを、時忠が、国払いに処して、放してやったこと
がある。
 そして、かれのために、別れの宴まで設けてやった。教経たちの、若い
荒公達(あらきんだち)が、それには大不平で、帰途を要して、九郎を殺
さんと、企んだりしたほどだった。
 その危ない途(みち)を。
 時忠のむすめの夕花が、ふと、機智をもって、助けて逃がした。
 -七年前のそうしたことどもを、時忠は今、胸にえがき出しながら、なん
とはなく、黙然としていた。眼のまえの経盛も忘れて、瞼(まぶた)をふさ
いでいた。船底の下を、ときどき、波の抵抗が、ごくん、ごくんと、奇異な
音階と振動を残しては通ってゆく。船は、倉橋島の南の岬をかわして、広い
安芸の海へ出ているらしい。



















 天気予報では、雪が降ることになっていますが、小さな乾いた雪が、と
きおり、申し訳程度に舞い散っただけで、今は、推移していますが、夜に
は、降る雪が本当に積もるかもしれません。
 政治のことは、詳しくはありませんが、本日の話題のニュースは、日本
時間の明日(21日)、午前二時に、アメリカでは、トランプ氏の、大統
領としての、誓いの儀式があり、この時点で、オバマ大統領から、実務が
初めて引き継がれるといいます。これからは、裏方とよく相談して、慎重
な政治を期待したいと思います。

 裏庭に行ってみますと、誰も教えもしないのに、寒中で、蝋梅の黄色の花
が、3分咲きに、良い香りを放っています。脇の花ゆずの実が、鳥に、つい
ばまれ、地面に落下しています。
 これからは、蝋梅が、満開のころ、鵯(ひよどり)が、寄ってき、この花
びらの分厚い、蝋(ろう)のような質感である、花の蜜を、飲みに来るかと
思われます。今の時期、咲く花が少ないため、この蝋梅の花につかの間、ホ
ッとした気分を味わわせていただきました。

                 蝋梅(ろうばい)  2017.01.21 撮影
CIMG0205


































 
 昨夜は、予想が外れ、幸いにも雪はこの府中市の方は、降りませんでし
た。今日は(21日)は、朝から冬晴れの気持ちの良い朝を迎えました。
 裏庭の蝋梅と同じく、花の名称の後ろに梅という字が付く、「ぎょりゅう
梅」は、南の庭の棚に鉢植えで置いていますが、なんとこの花は、昨年12
月4日に、日野市の園芸センターで購入したものですが、あれからまだ、花
が継続して咲き誇っています。これほど花が長持ちしてくれるのは、ありが
たい花です。このぎょりゅう梅はオーストラリアからのお客様です。

        ぎょりゅう梅   2017.01.21 撮影
CIMG0204


































 小生のこの作品は、去年の秋、田舎から送っていただいた薩摩芋と、手
前には、木彫りの像を置いて、スケッチしたものです。この木彫りは、アイヌ
の人をかたどったものです。昔、函館の、五稜郭を見物に行く途中の工房
で、手に入れた、思い出の一品です。この材料は、えんじゅの木で造られ、
少し重(比重が普通の木より少し大きい)く、しかも縁起がよい木だといわれ
ています。

               思い出の一品
CIMG0005

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