atusisugoiのblog

2017年08月

生きさまようて

 たとえば、万宝の形象を焼き尽くした業火(ごうか)も、しずまる直前
には、白、紫などの美しい火の色をあらわし、その焔(ほのお)は何か冷
たいもののようにすら思われてくる一瞬(ひととき)がある。
 物質とともに、妄執(もうしゅう)や愛憎(あいぞう)の心の巣も焼か
れ、醒(さ)まされた迷夢のまえに、無常(むじょう)が降りて来るから
であろう。
 たしかにその瞬間だけは、どんな人間でも、虚脱の中に何かを悟(さと
)る。
 敵味方なく、はかない者同士な人間であるかなしみにも思い知らされず
にいない。-がまた、たちどころに、直前の自我に返る。そして、名利と
闘争のうちに喚(わめ)きあう宿業(しゅくごう)に取り憑(つ)かれて、
顧(かえり)みもない元の人間になてしまう。  
 ・・・・・・・。
 今、それに似た真空のような静寂(しじま)と、すぐ次の、武者狂いと
が、壇ノ浦にも見られた、西の日輪が、さいごの光燿(こうよう)を寂と
ひそめ、波々、すべてが暮色と変じた寸秒の境にであった。
 わけて、船御所の黄旗をそれと知った源氏の船影は真っ黒に寄っている。
捕鯨者の群れが巨鯨(きょげい)にむかって銛(もり)を打ち込もうとす
る競いにも似て凄(すさ)まじい。
 「あれぞ、平家方の秘船(かくしぶね)。主上、女院もあの内とみゆる
ぞ」
 「はやくも、判官どの御自身、小舟をよせ、船上へ踏み上がられて行っ
た様子」
 「またしても、功をかの君に成さしめたるか」
 勝ったと誇る寄手(よせて)が、敵の本丸へ、一せいに雪崩(なだれ)
込むあの勢いの様が、ちょうどそのまま、全源氏の船勢の、波間波間に見
せた動きだったといってよい。
 その中には、梶原父子と、その一族の船々。
 安田義定の船手。
 田代冠者(たしろのかじゃ)、佐々木盛綱、高綱。
 庄ノ三郎、大内惟義(おおうちこれよし)。
 さてはかの別当湛増(べっとうたんぞう)の田辺水軍やら、河野通信
(こうのみちのぶ)らの伊予水軍など、およそ遠くにいた船まで、ここ
に蝟集(いしゅう)する味方を見て、「さては」と皆、その舳(みよし
)を一点へ集めて来る様子であった。
 しかし、それらの動きは、義経がすでに、船の御所の内へ、踏みこんで
行った事後だったのは、いうまでもない。
 義経は、べつに何か、思うところもあったらしく、単身、躍(おど)り
は入っていた。-と見て二、三の郎党も、すぐかれのあとから舷側を攀(
よ)じ上っていたが、しかし、それは義経の命ではない。かれら自身が「
万一、殿のおん身に大事あらば」と制止もきかず、続いて行ったものであ
る。その郎党とは、弁慶や忠信や、桜間之ノ介などであった。
 が、ほかの小舟小舟は、「下にとどまれ」と、べつに大事な命を受けて
いた。
ーですぐ続いて来た伊勢三郎、後藤兵衛らの大船も、近くに漂っていたの
である。
 果たして、人影の乱れも定かでないでない船御所から、つづけさまに男
女の姿が海へ身を投げ、ざんぶ、ざんぶ、つぎつぎに白い飛沫を揚げたの
で、
 「すわ。一門の平家人(びと)が、今はと、覚悟の入水(じゅすい)を
遂(と)げるらしいぞ」
 「名だたる公達(きんだち)や女房たちもおわすらん。かき上げて、生
き捕りにせよ」
 と、かれらの熊手(くまで)や鈎棒(かぎぼう)などは、消えやらぬ苦
悶(くもん)の水泡(みずあわ)がそこら一面に白々(しらじら)と明滅
している夕潮の中を、まるで藻(も)か魚介(ぎょかい)でも探るように、
かきまわしていた。 
 すると、なおどこかで、
 「あっ、主上も。二位の尼公も」
 と聞こえ、まもなくまた、
 「あれっ、女院様が・・・・」
 悲泣とともに、その後を慕うて、波間にかき消えた女性(みょしょう)
の幾人かも、幻影ではなく、まざと人びとの眼に見えた。-驚破(すわ)
こそ、主上も二位ノ尼も、建礼門院もまた、ともにそこらの波の下ぞーと
呼び交わしながら、武者たちの熊手や縄の鉄爪(かなづめ)は、思い思い、
血まなこな掃海に騒ぎ合った。
 だが、熊手を入れてみると、潮の早さが、手にもわかる。
 戦いはやみ、矢叫びは消え、海づらは夕凪(ゆうなぎ)のようだったが、
底流は物凄(ものすご)い。
 ひとたびのまれたら、あーという間もないであろう。しかし、さきに伊
勢三郎らの船手に救い上げられた宗盛父子のように、ここでもあまたな入
水者がたちまち救い上げられていた。
 がただ、かれらも目標としている幼帝は、必死な捜査にもかかわらず、ま
だ見つからない。
 二位ノ尼も、はや流されたか、上がって来ない。
 そして僥倖(ぎょうこう)が、はた、最大な不幸か、みかどのおん母の
建礼門院だけが、青黒い早潮の三尋四尋(みひろよひろ)の下で、鉄爪の
付いた縄先に懸(かか)り、兵どもの手に手繰(たぐ)り上げられようと
していた。 
 「あっ、長い黒髪が」
 「女性(にょしょう)だ、女性らしいぞ」
 口々に騒いでいたのは、渡辺党の一艘であった。
 渡辺右馬允助源五眤(むつる)は、ほかの小舟にいたが、つと漕ぎ寄せ
ざま、渦斑(うずふ)に浮かび出た妖(あや)しいばかり美しい生ける空
骸(むくろ)の乱れへいきなり熊手をさし伸べた。
 熊手の歯は、五衣(いつつぎ)のどこかを、まきつけたが、黒髪までが、
藻草のように絡(から)まった。眤(むつる)は、この世と死との境をな
すスレスレな潮の中に、まるで真珠の肌のような容貌(かんばせ)や手足
を見た。何か「・・・・・ただ人ならじ?」という気がしたのであろうか。
徐々に、熊手を引き寄せながら、向こう側の兵どもへ、
 「縄を弛(ゆる)めろ。もしや鉄爪(かなづめ)が女性の腮(あざと)
へでも引っ懸(かか)っていたら、死なせぬまでも、怪我(けが)させよ
うぞ。
-大丈夫、女性のからだは、熊手にからめて、こなたの舟へ引き揚げるゆ
え、縄は捨てよ」
 と、怒鳴(どな)っていた。
 とはいえ、これが幼帝のおん母とは、もちろん、かれらもまだ知っては
いなかったのである。

 船外では源氏の兵が、救助の掃海に、潮騒(しおさい)をあげていたそ
の間、当の船御所の内では、さいごの大詰めへまで来た戦の息の音に、ま
だ、とどめは刺されていなかった。
 二十余年の栄花と権力とを、ともあれ地上に持った一門は、この破れ船
一つにまで、すがたをかえた。ここにいた男女の平家人(びと)も例外な
く、一刹那(いつせつな)に海の底に消え、みずからの刃に伏し、青々と
ほの暗い夕べの気配のほか、今は人気もないような船上であったが、なお、
どこかには、平家終焉(しゅうえん)の切なげな喘(あえ)ぎがしている
ようでもあった。
 「・・・・・・・?」
 義経が、ここに立ったのは、たった今のことである。
 意外な船内の静けさに、はっと立ち竦(すく)み、「しまった」と、思
わずの茫然(ぼうぜん)を、どうしようもなかった。
 かれとしては、予期しない光景であったとみえる。-戦に捷(か)ち、
都へ凱旋(がいせん)の名分さえ持つならば、こうまでに徹底的な処置を
敵にくだそうとは、初めから、思いもしていないかれなのだ。
 「おお、殿には、ここでございましたか」
 後から来た弁慶がすぐ馳け寄って来る。
 つづいて、忠信の声も、後ろに聞こえた。
 「殿っ、御油断なされますな。寂(せき)としてはおりますが、かなた
の舳(みよし)には、まだ、平家武者らしき一群れが、じっとうかがい澄
ましておるらしい様子。船屋形にも船底にも、なお、いかなる敵が隠れお
るやも計(はか)られませぬ」
 「なに、まだ生き残っていた敵がおると?」
 一途に、弁慶が躍って行こうとした時である。賢所の蔭でたれかが「あ
ー」と、
声を放ち、馳けだして来て「しばらく」と、弁慶を止めた。
 「や、時忠の卿(きみ)と、讃岐どのか」
 その時忠父子は、弁慶を措(お)いて、まず義経の影を見探していた。
そして、
 「そこにおわすは、判官どのよな」
 と、すぐ前へ来てひざまずいた。
 義経は二人を凝視した。-特に、時忠の顔を、しげしげながめて、
 「めずらしや、大納言どのか」
 といった。-所も所、境遇も境遇、七年前のかれとわれとは、まったく、
逆な立場になっている。
 義経は感慨に打たれたが、しかし今の時忠は、そんな回顧(かいこ)な
ど、面にも見せていなかった。
 「さても、残念なこと。この時忠なり、判官どののお越しが、もう一足
早かりせば、手の施(ほどこ)しようもあったものを。・・・・まこと、
わずかな手ちがいにて」
 かれも、義経とおなじ落胆に、茫然(ぼうぜん)としていたのか。すぐ
それをいった。
 「・・・・・・・では早、みかどの玉体とともに神器も海の底へ?」
 「いや、神鏡(かみかがみ)の唐櫃(からびつ)のみは、からくも、取
り抑(おさ)え置きましたが」
 「ほかの宝剣と神璽(しんじ)の二つは」
 「残念ながら行方(ゆくえ)も知れませぬ。自分がこれへ参ったときは、
すでに仮設(かりもう)けの賢所(かしこどころ)の御扉(みとびら)は
破られてい、残されていたは唐櫃のみ・・・・」
 「ああ。三種の神器のうち、ただ一品が無事か」
 「時実をもって、あのように、誓書をおせがみ申し、その誓書も賜わっ
たうえからはと、一念神器の隠滅(いんめつ)を阻(はば)め、つつがな
くお手渡し申さんと心をくだいたことではあったが」
 「ぜひもない。おたがい、善意と手段は尽したことだ。これが、神慮と
いうものであろう」
 「おわびのほかはおざらぬ。ただこのように」
 「なんの、神鏡だけでも、とどめ得たのは、御父子の手柄よ。義経ひと
りの計策(はかり)であったら、おそらく、それ一つだに奪(と)り回(
かえ)すことはむずかしかったに相違ない」
 「おことば、なお辛(つろ)う覚える。・・・・手違いの因(もと)は、
妻の帥(そつ)からの使いが、意外に遅かりしため、御船勢への飛牒(ひ
ちょう)も、われらの推参(すいさん)も、わずか一歩なれど、時を失う
ていたのであった。
・・・・・まことに不覚、その罪を、妻の帥も、あれにて、なきわびてい
たところなので」
 時忠の言に、人びとは、眼をほかへやった。
 見ると、仮の賢所の前に、泣きたおれている女房姿があった。帥ノ局に
ちがいない。そばには、いつのまにか、桜間ノ介が寄り添っていた。しき
りに、何事かを糺(ただ)したり、また、なだめている様子だった。
 「介」
 と、義経は、かれを近くへ呼んで、
 「帥の局こそは、みかど以下、一門の最期の様を、まざと眼に見た一人
と思わるる。局は、なんぞ急な大事を、告げてはいないか」
 「さ。気も顚倒(てんとう)のように見うけられ、何問うても、今は心
もみだれて詳しいことは物語れぬと、たださめざめと、悶(もだ)えてお
られまする」
 「むりもない。われらにせよ、手違いの仔細(しさい)など、今は聞い
てもおれぬ。が、なおこの船に生き残っておる平家人はたれたれか。舳(
みよし)の方には、まだ一群れの武者も潜みおると聞くが」
 それには、たった今、弁慶が行くのを止めた時忠が代わって答えた。
 「しかとは申せぬが、ふとしたら、それは権中納言(知盛)ではないかと
思われる。-ほかには、伊賀平内左衛門家長も、たしかにいるはず」
 「はて。知盛がこの船に?」
 「先刻、陸よりこれへといそぐ途中、権中納言は、はやみずからの手で、
自身の大船を焼き、黒煙(くろけむり)を後ろにして、将も兵も、多くの
小舟に乗りわかれ、波間へ四散して出た様子。・・・・・そのうえ、ここ
の船御所へ来て見れば、覚えのある船印(ふなじるし)の小舟も寄り合い、
権中納言の郎党も見かけられた」
 「では、戦もこれまでと、知盛はわが船を焼いて、これへ移って来たもの
か」
 「されば、みかどもここ、母の二位ノ尼もここ、また、妹君(いもうと
ぎみ)の女院もここゆえ、せめて死所は一つにと」
 「ああ、その願いでか。したが、その願いなら、かれもはや、すでに海
底の人ではないのかの」
 「いや、平家の最後の最後までを、眼に見とどけぬうちは、めったに、
死を急ぐかれではありますまい」
 「とは、なぜに」
 「およそ疾(と)くより、この時忠の計りと心の底を、看破(みやぶ)
っていた者は、一門のうちでも五人ほどはあったでしょう。惣領の内大臣
の殿、能登守教経(のとのかみのりつね)は、いわずもがなです。
 経盛(つねもり)どのや仁位どのへは、われから打ち明けたことすらあ
る。が、知っても知らざるお顔でおられた・・・・。
 「して、知盛は」
 「甥(おい)の権中納言こそは、たれよりも、時忠の心底を、よく知る
者であったのです。しかも、この時忠へは、いささかな悪意も抱かず、叔
父御は叔父御の思う策を取り給え、われはわれの信じる道につかんのみと、
ゆかしい大将ぶりでおざった。-が、その甥とも、牢舎にへだたれ、つい
本心を語りあう日も得ずにしまったが、しかし心と心とは、常に通いおう
ていた。・・・・・今も、甥の心が自分へ告げている。この船の舳に、な
お妄念(もうねん)深く、生きさまようている者あらば、それは権中納言
のほかはあらじと。
・・・・察するに知盛こそは、一言、何かを世に申し遺(のこ)したさに、
人を待っているのではなかろうか。-何やらそう思われてなりませぬ」

  幻  人  語(げんじんご)

 ちょうど、時忠のことばが、終わったときである。
 舷側の下から、渡辺源五眤(むつる)が、異様な昂奮(こうふん)を顔
に持って、上がって来た。
 そして、そこへひざまずいていうには、
 -たった今、熊手にからめて救い上げた一女性を、義経の大将船に移し
て、さっそく介抱して上げていたところ、同様に救い上げられていた辺り
の女房たちが、その女性の仮死状態な美しいお顔をひと目見るやいな「-
あらもったいなや、みかどのおん母、建礼門院にましますものを。むざた
る粗相(そそう)なせそ。手荒になし奉るな」と、声をあげて泣き伏した
ので、初めて、源氏の輩(ともがら)も、さてはと知ったようなわけであ
ったという。
 で、とりあえず、眤(むつる)は、それの報告と、さしあたっての指図
を仰ぎに来たものだった。
 悲愁をふくむ救いの色が、たれの眉にも、心の影となって、浮かんで見
える。
 義経もまた、やや明るい色と憂いとを、語気に交ぜて、
 「して、おん命には、別状もない御容子か」
 と、眤へたずねた。
 「されば、少々水をのませられて、おん眼も深く閉じ給い、一時は御蘇
生(ごそせい)もいかがと案じられましたが」
 「では、お気づきになられたのだな」
 「大事にはいたるまいかと拝されまする」
 「・・・・・む。このさいのこと、にわかな薬餌(やくじ)とてままな
らぬが、できるだけのお手当をしてさし上げよ」
 「かしこまりました」
 義経は、さらに、口忙しく問いつづけた。
 「なお、みかどは?」
 「はっ」
 「みかどのお行方は、まだ波間より探りえぬか」
 「仰せつけをこうむったわれらを始め、諸勢の船も、伝え伝えて、一同
躍起となって続けておりますが」
 「ゆめ、これまでと、あきらめまいぞ。世を徹しても、玉体をお捜し申
しあげよ。かたがた、神器の二品も、二位どのが身に帯びて沈みたりとの
こと。夜にはいるも、船陣は解くな。潮の底の底までをかき捜せと触れ渡
せよ」
 「心得まいた」
 渡辺眤は、すぐ去って、下の小舟へ降りて行った。
 暮れ迷う春の遅い日も、ようやく、じっとり夜気を降らせていた。とい
っても、およそこれらのいきさつは、ほんのつかの間といえる人語と人影
の交叉であったまでにすぎない。
 眤の影が、外へすべり降りてゆくとすぐ、義経たちと、そして桜間ノ介
や時忠父子も一かたまりとなって、そこから舳(みよし)の方へ進んで行
った。
もちろん早足ではない。窮鼠(きゅうそ)の敵へ、徐々に迫っていく身が
まえであった。
 暗さは暗し、必死の敵が、そこらの物蔭に、どんな刃を伏せていまいも
のでもない。-知盛の心のうちとて、確かには分からないし、また果たし
て、それが知盛であるか余人であるかも分からないことだった。
 しかし、それがたれであるにかかわらず、さっきから、舳の一端に、黒
々と影をかさねて、じっと、立ち群れている先の方こそ、近かづいて行く
者以上に、全身の毛孔(けあな)をよだて、双(そう)の眼(まなこ)を
おのおのギラギラ研いでいたろうことは間違いない。
 そして、その一群の影は、はやくも「すわっ、これへ近づく者なあるぞ
」と知った気配であったが、あくまで声もあげず、揺れも見せず、ただ墨
のような鬼気をそこにみなぎらせていた。
 
 「それへ来たのは敵の源氏か」
 とつぜん、舳(みよし)の一隅(いちぐう)で、こう烈しい声がする。
 白い春の星影に、相互の輪郭が、おぼろながら、見てとれた途端(とた
ん)であった。
 「おおさ」
 声の下に、弁慶はやや前に躍り出て、
 「これは、このたびの追討の大将軍源判官義経の殿にておわす。われは
郎党の武蔵坊弁慶とは申すなれ。-すでに平家もきょうの戦に亡びつくし、
一門泡沫(うたかた)と化(け)し果てたるに、なお何者なれば、わずか
な数を恃(たの)んで醜(みぐる)しゅうは潜みおるか。死に迷うている
ものなれば、いで、弁慶が死なしてくりょうず」 
 「・・・・・・・・・・・・」
 「それとも、力は尽き、海へも死ねず、ただ、命一つを助からんとする
者か。降伏せんとの願いならば、太刀長柄なんどの打ち物を積んでそれへ
差し出し、同勢首をそろえて、躄(いざ)リ出よ。そしてまず判官どのを
拝したてまつれ」
 と、誘った。
 すると、しずかかな笑いをうかべた顔がある。その一群れの一番前にい
た大将らしき風貌の平家人であった。もし衣冠せしめたら、いかに優雅で
大どかな殿上人であろうかを思わせずにおかなかった。
 「名ばかりは聞いておる。基許(そこ)が九郎の殿の股肱(ここう)武
蔵坊弁慶か」
 声までが、まろみのある穏やかな響きを快く人に与える。
 弁慶も、自然、あららかな語気も出ず、
 「さなり。-して、そう申さるる和殿は」
 「かかる姿となっては、いうも恥ずかしけれど、儂(み)は浄海入道(
じょうかいにゅうどう)清盛どのの三男、権中納言知盛(とももり)ぞ」
 「あっ、ではやはり」
 「そこに、源判官どのが見え給えるこそ倖せなれ。判官どのへ物申さん

 義経が、つと進んで、相手の眸(め)へ、その全姿を与えたとき、知盛
もわれから少し歩み出ていた。星明りの下、およそ十歩ほどをおいて二人
は相見た。どっちの顔もその夜の夜空のようにぬぐわれていた。なんらの
敵愾心(てきがいしん)や怨(うら)みを残している風でなかった。
 「権中納言殿とは、其許(そこ)にてあるか。さてもきょうはよく戦わ
れしも、
お志(こころざし)空しゅう、さだめし残念なことでおわそう。-名をい
うも恥と仰せあったが、さすが入道どののおん名はけがし給わぬ軍(いく
さ)をなされしよ。義経こそ、ただ潮幸(しおさち)に乗って勝ったるま
でのこと」
 「その仰せ、勝者のお口より伺うこととて、一しお欣(うれ)しく存じ
侍(はべ)る。おなじ敗(やぶ)るる軍(いくさ)、亡(ほろ)ぶ平家の
運命(さだめ)ならば、基許(そこ)のごとき大将の手にかかりしは、せ
めて一門の者にとっても菩提(ぼだい)の扶(たす)けとなり申さん。こ
の知盛までも、今は思い残す何事もない」
 「いや、すがすがと仰せあれど、お心の底は察し入る。義経にさえ、恨
み多き戦(いくさ)の始末であったものを。・・・・・かばかり、罪なき
人びとまでを、死なせんとは、本意でもなかったに」
 「大きな時の巡りには、いつも伴う犠牲(いけにえ)と申そうか。人の
子なれば悲しまれもする。が、春の末を去りゆく花々、秋の暮を吹かるる
木の葉。平家の末も、あれと似たもの。今を境に、世は変わった。まった
く、べつな人びとへ移っていった」
 「とは申せ、みかどやら、尼ノ公やら、科(とが)ともいえぬお人まで
を、無残な犠牲(にえ)となし奉り、義経すらも胸傷(いた)まずにいら
れませぬ。
まして、其許(そこ)には」
 「そう仰せられては、つい涙に誘われる。・・・・・が母の二位どのに
は、いかばかり、死なばや、死のみが恋しと、早くより仰せだったことか
知れぬ。
さだめし今ごろは、千尋(ちひろ)の波底に、安けきお顔を洗われておい
でかと、この身までも、往生を得た心地がする・・・・・・・・・・ただ、
なんとも、傷ましゅう存じ上げるは、幼い主上にましませど」
 「ああ可惜(あたら)なことを。其許(そこ)までが、このお船に来て
おられながら、なんでむざたることを見過ごされしぞ。解(げ)せぬお胸
かなと、義経ですら腹立たしい」

 「さまで思し召し給わるか」
 遠くの波光か、知盛の胸に起こった波か、かれの顔に、揺れが見えた。
そのあと、白さを超(こ)えた頬や、唇のあたりを、涙とわかる光が、さ
んぜんと、たばしっていた。が、あわてて面をそむけ、そして、初めて声
を出し笑った。
 「惜しみ給わるお心はいとうれしいが、たとえここのおん命を、優しき
敵の大将にあずけ参らせたとて、おそらくは、あの御幼少の先々、いかが
であろうか。-都には、べつに後白河の上皇(きみ)の立てたる天子のあ
ること、かつは、九族までも、院の憎しみ給う清盛公のおん孫にもあたら
せらるるを思えば、よも、都の中に安けくおん母と一つにおくを許し給う
はずはない」
 「・・・・・・・・」
 「さらにはまた、判官どのとて、身に覚えもありつろう、院の殿裡(で
んり)、廷臣(ちょうしん)の弄策(ろうさく)、武権と政事(まつりご
と)の常なる嚙みあい。およそ今の都は、ここ壇ノ浦にもまさる修羅(し
ゅら)の明け暮れと申せよう。
・・・・・・そのような中に、宿命のみかどが、なんで人の子らしい、お
すこやかな御成人をとげられようか。物心を知り給うお年ごろとなればな
るほどお身は危うい」
 「・・・・・では。わだつみの底へ抱き参らせたは、わざとなる、慈悲
との御思慮であったのか」
 「いや、慈悲などとなんで思えよう。申したは、あきらめの言葉。まこ
とは、この知盛が、おのれの船を焼き捨ててこれへ馳せ参ったとき、すで
に、尼公も見えず、みかどもおわさず、事終わっていたものを」
 するとそれまで、ただ、知盛の言に耳を澄まして佇んでいた時忠が、は
っと、何か突然、ある想像を打(ぶ)つけられたように、声を発した。
 「あ、いや。・・・・・・・・帥(そつ)が申すには、そのおり、すで
に知盛どのは、このお船にあったと聞くが」
 知盛もまた、はっと眸を時忠父子へ向けた。が、なぜか沈黙をつづけた。
感情の乱れや、前後の思慮を、ととのえていたに違いない。
 「叔父君だよな・・・・・」やがて、依然しずかに「おことばなれど、
帥(そつ)ノお局(つぼね)には、何事も御存じはない。知盛を見たとい
わるるは、まぼろしか、知盛に似た人か、いずれかであったのでしょう。
御気丈なる叔母君にてはあれど、やはり女性、まして恐ろしき一瞬の飛沫
や悲泣のつむじの中でのこと。-この後とも、帥ノ叔母君が見たといわれ
る儀は、なべて、幻影にほかならじと、お聞き流しあって、ゆめ、御他言
などはつつしまれたい」 
 「・・・・・そうか」
 時忠は、うめくようにいった。ただ一言、そういったのみで、知盛の顔
から、何か、読み取ろうとするものの如く、穴のあくほど凝視していた。
-が、知盛は、同時に、つつと、後ろの人影のうちへ身を後退(ず)らせ
ていた。そして早口に「-伊賀っ、伊賀っ」と、まわりへ呼び、
 「はやここを去れ平内左衛門。あとは知盛がひきうける。はや行け」
 と、叱咤(しった)して追い立てた。
 舳(みよし)の下に、一艘の空船がつながれていた。伊賀平内左衛門は
じめ、十数名の影は、知盛の叱咤と同時に、わらわらとそれへ飛び降り、そ
してたちまち、やみの内へ漕(こ)ぎ去った。
 「・・・・・・・・・・・」
 その間、知盛は、両手の薙刀を大構えに持って、何人(なんびと)たり
とも、邪(さまた)げる者とは戦わんという意思をしめしていた。
 義経もまた、弁慶以下、たれの手出しもゆるさない。かれらの足搔(あ
が)きを、後ろに支え、あえて見過ごしていたのである。
 「やよ叔父君」
 やがて、いった。そういう知盛の面に、日ごろのもののような微笑がの
ぼっているのを、時忠は、はっとしてみた。「平家のあとのこと。くれぐ
れ、頼みまいらせる。おゆるしあれ、知盛のわがまま者。ただ今より、母
の二位どのを追うて、安けきと所へ急ぎますゆえ」
 「-あ、待たれよ」
 時忠はわれを忘れて、まろぶが如く、かれのそばへ馳(か)けた。
 がじつに、とっさにその人の影はかき消えていた。今まで物をいってい
た権中納言知盛は、知盛の亡霊か、幻でもあったように、それは一颯(い
つさつ)の風に似、人びとの眼を疑わせた。
 -けれど、たちどころに、ざんぶと高い水音がした。その飛沫は、すぐ
波間をのぞいた人びとの肩や顔にも冷たくかかった。いちめんな蛍光(け
いこう)を持った泡つぶはいつまでも消えなかった。その拡がりや飛沫の
高さから見て、知盛は、身ばかりでなく、とっさに、碇(いかり)を抱い
て沈んだもののようであった。































 














 NHKのFMでオンエアされていた、「真夏の夜の偉人たち」というテ
ーマで、五木寛之氏が『藤圭子』について、ヒット曲を交え、思い出を語
っていました。
 藤圭子は岩手県一関市で生まれ、間もなく北海道旭川で生活、浪曲師の
父と三味線弾きの母とで、地方回りをし、生計を立て、藤圭子も見よう見
まねで、喉を鍛えたといいます。
 そして、地方の祭りで、唄っているところを、レコード会社関係者に見
出され、17歳で、北海道から、上京し、1969年に、大ヒット曲とな
った、演歌(別称:怨(エン)歌ともいわれる)『新宿の女』でデビュー、これ
が大ヒットし、脚光を浴びました。
 ハスキーボイスで絞り出すような高音が、大衆の心を射とめたと、五木
寛之は語っています。
 また氏は、藤圭子がカバーした、ペギー葉山の「南国土佐を後にして」を
オンエア後、どうもこの歌はいま一つだといい、北海道から、東京に出て来
て、都会での暮らしに寄り添った歌を唄う彼女は、流れ者というイメージに
ぴったりであり、この歌は地理的にも西であって、そういう意味でも、藤圭子
にはあわないのでは、と述べています。
 その言葉が心に残っていましたので、あらためて、録音したCDを、全曲
聴いてみました。
「南国土佐を後にして」を注意して聞きますと、メロディーと楽団自体が、
だらりとした響きで、音楽性が乏しくこれでは、歌い手も力(心)が入らない
のではと思わせます。
もう一つのカバー曲も同じ傾向です。非常に残念に思いました。編曲と録音
に最大の投資をしていれば、次の歌につながって、もう少し私たちに、いい
曲を提供してくれたのではと、つぶやいています。
 石坂まさお作詞作曲の時期が、音楽性が豊かで、臨場感もあります。
 
 男性歌手との結婚、離婚という事情も、作曲者の意欲をなくした大きな一
因ではないかと考えています。

 「新宿の女」は1969年の作品ですが、この演歌が流行したこの年、日本
の世相はどんなであったろうかと気になってきましたので、調べてみました。

 世相
 ジーンズ定着、パンタロン流行/2ドア冷蔵庫登場、冷凍食品時代/企業
 の猛烈特訓流行/1年間の紛争大学数159高校数102

 出来事

  01/05 千葉県の野島崎沖で大型鉱石運搬船「ぼりばあ丸」沈没。
        31人行方不明。

  01/10 東大7学部集会開催〔全共闘は阻止行動〕。大学側と紛争
        解決の確認書に調印。

  01/16 ソ連の有人宇宙船「ソユーズ」4号と5号が史上初の有人
        宇宙ドッキングに成功。

  01/18 東大に機動隊8500人導入、安田講堂など占拠の学生と
        攻防戦。神田駿河台付近で東大紛争支援学生が解放区闘争。
         19日安田講堂封鎖解除。

  02/05 福島県郡山市の磐梯国際ホテル全焼、31人死亡。

  03/06 八幡製鉄・富士製鉄、合併に調印

  03/13 都立武蔵丘高校卒業式で生徒20人が式場占拠、機動隊導
         入(各地で混乱)。

  04/28 沖縄デ―。全国各地で集会・デモ。都内各所でゲリラ活動。

  05/23 初の、「公害白書」発表」

  05/26 東名高速道路全面開通。

  06/00 コンドーム自販機の登場。大阪市、高槻市、豊中市に設置。

  06/10 43年度の国民総生産(GNP)、世界第2位に。

  06/12 初の原子力船「むつ」進水。 

  07/07 東大、全学部が授業再開決定。

  07/20 アメリカの宇宙船「アポロ11号」人類初の月面着陸に成
        功。

  08/03 参院本会議で大学運営臨時措置法を抜き打ち採決、成立。

  08/09 日本漁船が歯舞(はぼまい)諸島沖でソ連警備艇と衝突、
        沈没。11人死亡。

  09/01 アサヒ玩具が「ママレンジ」発売。

  09/18 芝浦工大で内ゲバ事件初の死者。

  09/21 京大に機動隊導入、22日時計台封鎖解除。

  10/06 千葉県松戸市役所、市民の苦情処理のため「すぐやる課」設
         置。初日は14件の苦情のうち7件即日解決。

  10/18 日産自動車が「日産・フェアレディ―」を発表。

  10/29 厚生省、発がん性の疑いでチクロの食品・医薬品への使用禁
        止。

  11/13 沖縄祖国復帰、佐藤首相訪米反対の県民大会、10万人参加。

  11/16 反安保全国実行委・沖縄連共催首相訪米抗議集会、全国12
        0か所で72万人参加。
  
  11/17 佐藤首相訪米。佐藤・ニクソン共同声明で47年沖縄返還を
        発表。

  11/28 九回の黒い霧事件、永易将之投手(西鉄)永久追放。翌年にか
        けて数人永久追放。

  12/01 住友銀行が新宿支店・梅田支店にキャッシュカードでいつでも
        現金を引き出せる自動支払機設置。

  12/27 第32回総選挙。

 そのほか、「東京流れ者」、「命枯れても」「京都から博多まで」「私は京
都に帰ります」最果ての女」「夢は夜ひらく」「命かれても」「女のブルース」
などは、小生の好きな曲です。
 すい星ごとく現れた藤圭子は、2016年、天国へ召されました。御冥福をお
祈りしたいと思います。















 死 の 清 掃
  
 平大納言時忠は、その日、臨海館址(あと)を出て、赤間の東端(はず
)れの一漁村に、早くから身をひそめていた。
 前夜来、阿波民部の郎党、十数名が、かれの身辺を守ってい、子息の
讃岐中将時実も、串崎から戻った後、父のそばにい。
 連れの弁慶は、先に早や沖へ去った。
 「はて、どうしたのでございましょう?」
 時実は、たえず父の面(おもて)をうかがった。-その父も、刻々に傾く
陽脚(ひあし)に、憂(うれ)いを濃くして、むなしい沖を、あんたんとた
だ、凝視していた。
 「阿波の者、船は何艘あるか」
 「小舟三ぞうしかございませぬ」
 「こう、待ち暮らせど、沖の便りはついにないか。むなしく、夕となり、
夜とならば、悔ゆるも及ぶまい。・・・・・・・時実、これやなんとか、思
案をかえずばなるまいて」
 いっている時だった。-待ちかねていた帥(そつ)ノ局(つぼね)からの
秘史が、一そうの小舟の底に身を伏せてここに着いた。
 櫓(ろ)を漕(こ)いで来た一兵は、局が日ごろ目をかけていた郎党だろ
う。が、大事な文は、一女性の肌に持たせてよこしたのである。
 かの女は、船底に身を伏せ、上から苫(とま)をかぶっていた。見れば、
治部卿(じぶきょう)の局の姪(めい)で龍田(たつた)の典侍(てんじ)
という気丈な女性であった。
 時忠はぎょっとした。
 なぜならば、治部卿の局は、権中納言知盛の妹である、つながる縁の
女子であれば、早や知盛の知るところとなったかと、事の破れに、と胸を
突かれたからだった。-けれど、龍田ノ典侍の話を聞いて、ほっとまた、胸
なで下ろしたことでもあった。
 「みかどのお側に残っている女房がたは、帥ノお局のお打ち明けをうけ、
みかどのおん命だにや安からぬものならばと、ひたすら、心を一つにし
ておりまする。神仏のおん手を待つように、奇瑞(きずい)の顕(あら)わ
れがあろうことを、暗い船底にて、ただただ、祈りおうておりまする」
 龍田の典侍は、そういった。
 それすら、上わの空に聞きつつ、時忠の手は、妻の密書を披(ひら)い
ていた。さしも剛愎(ごうふく)な時忠すらも、指に、かすかなふるえを見
せた。時実も気が気でない。
 「ち、父上・・・・。吉左右、なんと見えまするか。母君のその御書状に
は」
 「おなじ御船には二位どのが乗っておられる。伊賀平内左衛門、越中次
郎兵衛盛嗣(もりつぐ)など、内大臣(おおい)の殿から旨をうけた目付人
(びと)も守っている。その中でのこと、密使を出すもむずかしゅうて、ず
いぶん帥も心を砕(くだ)いたらしいぞ。・・・・が、詳しいことは、いま
話しているいとまはない。すぐ、それへ参ろう」
 「では、それのおん在所(ありか)も」
 「分かった。-帆桁(ほげた)に掲げた細き黄旗が目印(めじるし)とあ
る」
 「やれ、それならば」
 「仔細(しさい)、ただちに、阿波民部どのへ知らせ、また阿波どのより
判官どのへ、即刻の報を頼みたいぞ。-三艘のうち、一艘はその由を持って
、先に急げ」
 かれの言下に。
 すぐ、阿波の郎党三名が、先へ沖へ出て行った。
 時忠父子は、自分たちの隠れていた漁夫の家へ、龍田の身を託し、二艘
の小舟に乗りわかれて、すぐ沖なる乱軍のうちへ、紛れ入った。
-で当然、時刻からすれば、義経が自舟をすてて小舟に移ったころよりも、
時忠父子の方が、だいぶ早くに沖へ出て、空の黄旗を、さまよい探してい
たわけである。
 -が、それよりも,なお少し前のこと。
 檣頭(しょうとう)に黄旗の見える船御所の横へは、幾艘もの小舟が黒々
と寄っていた、同時に、ゆゆしげな人影の幾つがその船上へ登って行った。

 かれは、権中納言知盛であった。
 知盛は、自ら自船を焼き捨て、同船の一族と郎党を、小舟小舟に乗せ分か
ち、自身はみかどの船御所へ、漕ぎ急いで来たのである。
 ともに漂い出でた無数の小舟は、散り散りに、思い思いに、途中では減っ
ていた。どこまでもと、続いてくる舟は少ない。
 知盛は、知っても、怒りはしなかった。わざと、逃げよといわぬばかりに
見える。「いずこへとなと、漂い着きて、生きよ」と、願っているのかもし
れない。
 かつまた、かれの面には、なんら怨念(おんねん)らしい隈取(くまど)
りも悔いもなかった。-矢傷の血、さんばらな髪、草刷(くさず)りの破れ
など、鬼神の扮装(ふんそう)を除いてただ人間の真骨髄だけを見るならば、
その静かな眸(め)は、日ごろのとおりであったといっても過言でない。
 「-勝敗は見えた。戦いはよく尽した。悔いはない」と、すずやかな菩堤
(ぼだい)の波上に、身はまかせているらしいかれなのであった。
「や、や。黄門(こうもん)の卿(きみ)にてはおわさぬか」
 かれの姿を迎えると、衛士の大将伊賀平内左衛門は、馳(か)けよって来、
 「四方(よも)のお味方、さんざんには見えまするが、なお、みかどや女
院にも、おつつがはござりませぬ。お安堵(あんど)なされませ」
 と、問われぬうちに、息せいていった。
 「・・・・・」ただ、うなずいてー「さっそくこれへ、お側の典侍たちを、
呼び集められよ。知盛より申すことのあれば」  
 「心得まいた」
 平内左衛門は、船底の口へむかって、知盛が来たよしを告げ、典侍の幾人
かを、上へ呼んだ。
 さなきだに暗い船底の御所は、もう黒白(あやめ)もわからぬほどだった。
-知盛が来たと聞くと、やみは、人間の官能だけを詰めている真空に見えた。
すすり泣きすら今はしていない。
 上では、典侍らにいい渡している知盛の声が、静かにしていた。
 「-残る味方は、なおあのように、諸所において、さいごのさいごまで、
戦うておることゆえ、敵が、ここ目がけて、襲(よ)せて来るまでには、ま
だしばらくの間はあろう」
 覚悟はしていても、知盛からいわれると、かれの前にある女房たちは、声
をあげて悲泣した。
 いや、かの女たちばかりでなく、すぐ側には、御簾(みす)一重の屋形が
あった、その屋形のうちには、二位ノ尼や修理大夫経盛や、一門の僧たちが
、ひそと、影をつらねて居並んでい、おなじ声を、じっと、聞いていたので
ある。
 知盛は、語をつづけて、
 「-畏(おそ)れ多くあれど、みかどや女院へも、今さらお覚悟などのこ
とは、申しあぐるまでもあるまじ。・・・・・ただ、やがてここも、源氏の
荒武者どもの踏み入るところとなれば、東国の輩(やから)に、御最期(ご
さいご)の有様なんども、ぜひなく見とどけられましょう。されば、世のは
したなき口の語り草にかからぬよう、清げに、おん身づくろい持たせ給うは
いうまでもなし、おん住居の跡にも、塵(ちり)だに見ぐるしき物はとどめ
給うな。-兵どもに申し渡せば、今より船上を掃きぬぐうて浄(きよ)め申
さん。-そのよし、女院へも、おつたえ申し上げられよ」
 と、諭(さと)した。兵はただちに、船上の「死の清掃」にかかった。
 知盛はまた、尼の前に来て別れを告げた。母と甘え、子として慈(いつく
し)まれてきた三十余年の絆(きずな)は今、知盛の胸をずたずたにしてい
るにちがいない。
 だが、知盛は尼へ、静かに、死の支度をすすめていた。尼も、みだれはし
なかった。いや、この子がいて、こうしてくれるので、今は死にやすいかの
ように、うなずいて見せた、-世に疲れたこの母が、いちばん望んでいるの
は、少しも早く、亡き良人(清盛)のそばへ行きたいという願いのほかでな
いことをー知盛は疾風(と)く察していた。いや尼自身から聞いてもいた。
 「おん供には、一門のたれかれもまいりましょうが、知盛もまた、お後か
らすぐ、死出の道を御一しょにいたしまする」
 知盛がいうと、それまで、黙然(もくねん)としていた叔父の経盛が、
 「否々、おん供は、賑わし過ぎるほど、大勢おる。「-なお行くての冥府
(よみのふ)には、故清盛公、重盛の卿(きみ)を始め、孫の維盛卿(これ
もりきょう)やら、門脇どのがお子の通盛(みちもり)、業盛(なりもり)。
さてはまた、この孤父が子の経正、経俊、敦盛なんどが、みな待っているこ
とでもあろうよ。・・・・されば、知盛どのは、あとの始末して、ゆるりと
、参られたがよいぞ」
 と、いつにない、明るい声音でいった。
 そして、その経盛は、そばにいた義弟の阿闍梨祐円(あじゃりゆうえん)に
、「得度(とくど)してくれよ。お剃刀(かみそり)は、真似ばかりでよい」
と頼み、また僧衣を乞うて、よろいの上に着、いつでもと、支度をすま
した。
 それらは、一瞬に思われたが、いつか陽は真紅の一環の端を、ちかと見せ
つつ夕雲に沈みかけてい、海づらも船上のあいろも、紫ばんだ暮気にくるま
れようとしていた。
 「みかどは、尼がだきまいらせて」
 やおら、尼は、屋形の外へ出てきた。経盛も、信国も。そして侍座の僧侶
までことごとく、入水の覚悟を見せて、舷(ふなべり)へ立ち並んだ。
 -人びとは無言になり、今し荘厳の美を極めた落日の燃えくるめきを西
方の浄土と見て、たれいい合わせることもなく、掌(て)を合わせた。
 そして女院とみかどを、お待ちしていた。

 波の底にも都の候う

 死らないはずはない。
 舷側(げんそく)の下の波間には、知盛の家臣紀ノ光季(みつすえ)やら、
ほかの舟も、よそながら、ここの船御所を守っていたはずである。
 だのに、いつの間にか、船上の賢所(かしこどころ)の前には、外部から
人影が忍び入って、御扉(みとびら)の前に佇(たたず)んでいた。
 侍大将の越中次郎兵衛が気づいて、はっと、怪しみながら、
 「たれぞっ。何者か」
 近づいてゆくと、二つの人影が、きっとこっちを振り向いて、次郎兵衛盛
嗣(もりつぐ)を、恐ろしい眼で睨(ね)めつけた。
 「あっ?」
 驚きにしびれ、あとの声も出なかった。
 平大納言時忠と、その子時実だったのだ。
 尼公(あまぎみ)の弟、おん国母の叔父君、かれが竦(すく)んだのもむ
りはない。
 だだだと、踵(かかと)ずさりに戻って来、平内左衛門のいる所へ来て、
 「伊賀。すぐ来い。怪しきお人が賢所へ近づいておる。ただの異変ではな
いぞ」
 と、その腕を引っ張った。
 平内左衛門は、かれとともに、賢所のある艣(ろ)の方へ馳け出したが、
とつぜん、くまれていた腕を逆用して、ずでんとばかり、盛嗣を投げつけた。
 不意をくった盛嗣は、
 「な、何するかっ。伊賀っ」
 跳ね返そうとし、また、喚(わめ)こうとしたが、平内左衛門の手が、そ
の口を塞(ふさ)いでいた。
 そのまに、平内左衛門の郎党が馳けてくる。盛嗣は、死力を振るって、や
っと立った。だが、よろめき立ったとたんに、平内左衛門らの諸手(もろて
)押しに追われて、仰向けざまに海中へ突き落されてしまった。
 「・・・・・・・あれやたれぞ。いまの水音は」
 二位ノ尼が、そばの者へ、訊(き)いていた。
 さりげない顔してすぐそこへ取って返していた平内左衛門が、後ろの方か
ら答えた。
 「越中次郎兵衛が、はや、死出のおん先がけを仕ったものと思われまする」
 尼は無言であった。けれど、騒(ざわ)めきが辺りに立った。次郎兵衛盛
嗣は、賢所の守りについていた大将である。神器に異変があったのではない
か。次郎兵衛が持って海へ沈んだのではないか。そうした危惧や疑いの口
走りだった。
 「いえ、案じぬがよい」
 尼はいった。
 「-神鏡(かみかがみ)の御唐櫃(みからびつ)は、余りに大きゅうて身
に持てねど、神璽(しんじ)と宝剣の二品は、尼が手に、しっかりと、携え
ておりまする。なお余す、片方の手に、主上を抱きまいらせれば、敵が望む
何物も、この世に残してはいますまい。・・・・・・・主上はいかが遊ばし
てぞ。女院はまだか」
 尼はそぞろに、死を急いだ。

 この時どこかで、凄(すさ)まじい武者声がし、続いて、ずずんと、烈(
はげ)しく船が震(ゆ)れた。船じゅうの絶叫は「敵ぞ」「東国武者が襲
(よ)せたるぞ」という以外の声ではなかった。
 船底の暗がりにも、女性の叫びが起こっていた。女童(めのわらわ)も交
(まじ)え、そこの穴口から外へ、いちどに、黒髪と裳(も)の女房たちの
群れがあふれ出て来た。まろび合い、すがりあい、泣き伏す人の上に、折り
重なって泣いた。
 悲泣といっても、号泣といっても、いい足りるものではない。かの女らは、
こうなるとは思わなかった。なお何か一縷(いちる)のものに、望みをかけ
ていたらしい。-みかど、女院、帥(そつ)ノ局―などを力として。
 だが、一瞬の様相は、破滅以外のものではなかった、「疾(と)う疾う
、みかどを、尼公のお手に」と、むごい、冷たい叱咤(しった)が、事もあ
ろうに、衛士の大将から叫ばれたりしている。
 動顚(どうてん)せずにいられなかった。悲しさの限りを咽びあげずにい
られなかった。わが身の死は、ともかくである、かの女らとて、それまでに
は未練はもたない。むしろ、女性特有な心定めは、武者よりは迷いのないも
のがあったかもしれないのだ。かの女たちの慟哭(どうこく)するわけは、お
いとけなき白珠(しらたま)のような無邪気なみかども、世の薄命を身に一
つにあつめておいでのような建礼門院も、ついに、、ご最期のほかはないの
かということだった。同時に、自分たちの身につながる幼い者、死なせたく
ない者への、絶望もともなった。
 「-西の空、かなたの美しさを、御覧ぜられい。西方の浄土とは、かしこ。
極楽の浄土とも申しまする。そこの久遠(くおん)の命のたのしみは、人の
世の都どころではありませぬ。なんぼう、苦患(くげん)も悪業(あくっご
う)も知らぬめでたき都やら知れませぬ。・・・・・いで、尼が、お道しる
べしてまいらせん。御子(みこ)さま、こう、尼にお倣(なら)い遊ばせや
、おん掌を合わせ、おねんぶつを仰せられませ」
 尼のそばには、もう、そこへ誘(いざな)われて、抱えるように立たせら
れたみかどのお姿が、おぼろに見えた。  
 山鳩色(やまばといろ)の御衣(ぎょい)に、お髪(ぐし)はみずらに結
わせ給い、つねの御癇症(ごかんしょう)や、だだっ子の、み気色もなく、ふ
しぎとお素直に、うなずいていらっしゃる。そして尼のするとおりに、小さ
い掌を合わせられたようだった。とたんに、あっ―と小さい叫びがし、お姿
は、尼の体と一しょに、この世と、海づらの間を、さっと翻(ひるがえ)り
つつ、沈んで行った。
 「さらばおさきへ」
 つづいて、経盛が、いとも淡々たる容子で、よろい姿に、僧衣の袖を、羽
のように夕風に吹かせ、ざんぶと、永別の波音を下から告げた。
 「さらば」
 「-さらば」
 ひきもきらず、人びとの入水する白い飛沫(ひまつ)と水音だった。その
間、二位ノ僧都(そうず)、法勝寺の能円、律師(りつし)仲快、祐円など、
数珠(じゅず)を揉(も)んで、声高らかに、読経をつづけていた。-ひと
群れの花束とも見える女房たちに取り囲まれて、建礼門院も、さっきから、涙
に濡れもだえておいでのようであったが、とつぜん、かの女らの手を振りも
ぎって、裳やお袖の色を、夕虹(ゆうにじ)のように逆しまにひき、あなと
見るまに、波騒(なみさい)の底へ、姿を消しておしまいになった。
 「あれっ・・・・・。女院さま」
 帥(そつ)ノ局は、叫んだ。われを忘れて、
 「女院さまが、たれぞ、早く」
 と、賢所の方へ、走った。
 すでに源氏武者が、船内を馳けまわってい、中には、義経の姿もあった。
 義経は、さっきから、舷側の下までは来ていたのだが、つぎつぎの抵抗に
出会い、たった今、躍り上がって来たのであった。
 すでに、人影少ない船内の状を見、また、帥ノ局の叫びに、耳をつんざか
れて、
 「しまった。ひと足、遅かったような?」
 と、残念そうに、そのまま、立ち竦(すく)んでいたのであった。

































                                                             

 月下美人の開花の瞬間を捉えたのが、今日(8月20日)になってしまい
ました。
 きのうは散歩中に大雨と雷に見舞われ、傘はさしていましたが、びしょ濡
れとなり、帰宅すると、月下美人の花が一輪開花しそうな気配を見せていま
したので、夜になれば、鑑賞しようと考えていました。
ところが、シャワーをして、食事をすませくつろいでしまったせいか、すっ
かり忘れてしまいました。
 これ以前にも2、3回見逃していますので、本日は、ようやく撮影出来,安
堵したところです。
 こんなことでは、来年はこの美人の花が、拗(す)ねてしまい、綺麗に咲
いてくれないかもしれません。
 1輪だけの開花ですが、3枚の写真を、掲載させていただきます。

         月下美人  2017.08.20  撮影
CIMG0204



































         月下美人  2017.08.20  撮影
CIMG0203
























         月下美人  2017.08.20  撮影
CIMG0201




































 2017年8月26日(土曜日)

 日中、きょうも夏日で気温は、33℃と厳しい一日でした。とはいっても終
日冷房漬けで過ごしたのですが。
 夕方散歩に出かけるとき、玄関の月下美人の花のつぼみが、膨らんでいて
、この感じだと明日の開花になると予測していました。
 夕食もシャワーも済ませ、大曲市の花火大会を鑑賞をした後、2階に上が
り、本でも読もうかと思った時、ふと、月下美人のことを思い出し、念のた
めカメラを持って、玄関へ出てみますと、なんと、すでに開花が始まってい
ました。
さっそく写真に収めました。よい香りを放ち、今夜も一輪だけ凛とし咲かせ
ていました。
         月下美人  2017.08.26  撮影
CIMG0003



































                   月下美人  2017.08.26  撮影
CIMG0002



































                     月下美人  2017.08.26  撮影
CIMG0001



































 月下美人は、メキシコの熱帯雨林に咲く、サボテン科の植物で、自分の
木どうしの受粉が不可だそうです。
 日本には存在しない種類の蝙蝠(こうもり)がその役目を果たすそうです。
この蝙蝠は、月下美人の花の蜜を食する動物で、花弁の中に入って蜜を吸
った時に付着した花粉を運び、一方、月下美人の方は、蝙蝠が花の中に入
っていける大きさの花弁と、花を支えるため、葉から出ている太い茎を持
ち、蝙蝠の重量にも耐えるように進化したといわれています。

 2017年8月29日(火曜日)

 アメリカでは、ハリケーンに襲われ、多大な被害が出、本日は、北朝鮮
のミサイルが、北海道の上空を通過し太平洋に落下したというに事件があ
り、落ち着かない一日でした。
 庭の月下美人ですが、今、3個ほど、まだ小さいながらも蕾みがあります
ので、これが開花すると、今年の咲き納めになるのではと思っています。

 2017年9月29日(金曜日)

 朝は今年一番低い15℃くらいでしたが、徐々に気温も上がり、空気も
乾き、絶好の秋晴れでした。今年は、寒さが例年より早くやって来そうな
気配を感じます。
 予定通り、明日(9月30日)明後日(10月1日)の二日間府中市地域文化
祭が始まります。展示部門で、私たち水彩画サークル「虹の会」も本日展
示を終え、明日を待つばかりとなりました。そして明日小生は、お客様の
対応等で、13時から当番を予定しています。
作品の展示を終え、帰宅すると、山梨の方へブドウ狩りに行っていた家内
とその友達が、帰って来ていて、ちょうど庭先の花などを観ながら、何や
ら3人で会話をしているところでした。家内が、「この月下美人は今晩咲
きますよ」などと友達に説明をしていましたので、ぜひ今夜観ようと決め
ていました。
 22時半ごろふと思い出し、庭に出てみますと、いつになくきれいに咲
き、よい香りを放っている一輪の月下美人の花を見、撮影しました。
余りにいい香りですから、健康にいい成分が含まれているのではとも思い、
胸いっぱいに吸ってみました。

      月下美人開花  2017.09.29  撮影
CIMG0038




































    月下美人開花  2017.09.29  撮影 
CIMG0032



































     月下美人開花  2017.09.29  撮影 
CIMG0033




































    月下美人開花  2017.09.29  撮影
CIMG0035




































       月下美人開花  2017.09.29  撮影
CIMG0041



































 2017年10月1日(日曜日)

 朝は、13.2℃と今年一番の寒さでしたが、日中は秋を感じさせる晴天
でした。
 昨夜も、月下美人が一輪開花しましたが、今夜も、今年咲き納めになると
思われる、2輪が開花しそうです。
 ふと月下美人のことを思いだし、外に出てみますと、やはり2輪開花してい
ました。
 月下美人に今年も、楽しませてくれて、ありがとうといいたい気分です。

    月下美人開花  2017.10.01  撮影
CIMG0092



































     月下美人開花  2017.10.01  撮影
CIMG0087



































      月下美人開花  2017.10.01  撮影
CIMG0089



































      月下美人開花  2017.10.01  撮影
CIMG0091



























 家内と、娘たちは、折鶴タワー内の物産館で買い物をしているということ
でしたので、小生は、哲哉先生に、熊本城址を案内してもらうことになりま
した。おりづるタワーから、しばらく歩きますと、お堀に近づいてきました。
 
                              広島城
CIMG0199

















 史跡、広島城跡

 昭和28年3月国指定

 史跡指定地  本丸跡、二の丸跡、堀及びその周辺

 別名      鯉城(りじょう)

 形状     太田川河口の低湿なデルタ上に気づかれた大規模な、
        輪郭式の平城

 沿革  1589年 (天正17年) 毛利 輝元   築城工事に
      着手
  
     1591年 (天正19年) 毛利 輝元       入城

     1600年 (慶長5年) 福島 正則(まさのり) 入城

     1619年 (元和5年)  浅野 長晟(ながあきら)入城

     1871年 (明治4年) 廃藩置県により本丸内に広島県
     の役所が置かれる

     1894年 (明治27年) 日清戦争本丸内に大本営が置
     かれる。

     1945年 (昭和20年) 原爆により、天守閣太鼓﨟、表
     御門など、全て崩壊

     1958年 (昭和33年) 現在の天守閣再建

  史跡、広島城跡=二の丸御門(復元)

 規模:桁行7.64m、梁間4.85m、軒の出1.27m、棟高10.61m
 
 構造:木造脇戸付櫓門、入母屋、本瓦葺き、軸部真壁、両側面一間庇
 付

 表御門は、天正期末(16世紀末)頃の構造と推定され、昭和20年の
原爆破裂による焼失までの約350年間存続していました。現在の表御
門は、平成元年の広島築城四百年を記念して、復元に着手しに、平成3
年に完成したものです。
 この平成の復元では、昭和9年に当時の陸軍第5師団経理部が作成し
た実測図をもとに、発掘調査の成果や、明治期から昭和期にかけての写
真を総合的に検討して、焼失後も残存した表御門の礎石(柱下の石)土は、
昔通りに再現しました。

         焼失前の表御門
CIMG0201



















         復元された表御門
CIMG0203



















 史跡、広島城跡=二の丸〔昭和初期の多門郎と太鼓櫓〕

 
平櫓(ひらやぐら)・多門櫓(たもんやぐら)・太鼓櫓(たいこやぐら)

 
構造    平櫓: 木造一重隅櫓、入母屋造、本瓦葺き

       多門櫓: 木造一重渡櫓、切妻造り、本瓦葺き

       太鼓櫓: 木造二階隅櫓、入母屋造、本瓦葺き

 規模    平櫓: 桁行12.43m、梁干8.64m、棟高7.76m

       多門櫓: 桁行67.86m梁干4.93m、棟高5.13m

       太鼓櫓: 桁行8.49m、梁干7.76m、棟高10.60m

 平櫓、多門櫓及び太鼓櫓の創建時期は、天正期末(16世紀)頃と推定
されています。このうち太鼓櫓は、17世紀初期に改修されたものの、3棟
とも江戸時代を通して、この丸の馬出機能を確保する建物として存在して
いました。その後、平櫓及び多聞櫓西半分(平櫓側)は、明治初期に取り
壊され、残った太鼓櫓や、多聞櫓東についても、昭和20年8月6日の原
爆被爆によって倒壊炎上しました。
 この建物は、平成元年の広島城築城四百年を記念して、発掘調査や、昭
和の写真等をもとに、復元着手し、平成6年に完成したものです。

                   
再現前の太鼓櫓、多門櫓
CIMG0205















         現在の太鼓櫓、多門櫓
CIMG0195













 





 城内にある、広島大本営跡

 明治27年(1894)8月に日清両国に先端が開かれたのち、それまでに山
陽鉄道が開通していたことや、宇品港を擁するといった、諸条件により、同
年9月広島市に大本営が移されることになり、広島城内にあった第5師団司
令部の建物が、、明治天皇の行在所(あんざいしょ)とされ、ここに大本営が
設けられた。明治天皇の広島滞在は、同年9月15日から翌年の4月27日ま
での7か月余りに及んだ。その後、建物は広島大本営として保存されたが、原
爆により倒壊し、今は基礎石のみ残されています。
        
         城内にある、広島大本営跡 
CIMG0215



















 
 史跡、広島城跡=二の丸跡

 
この石垣と建物に囲まれた二の丸は、馬出しの機能を持つ廓(くるわ)
で、全国の近世城郭(じょうかく)の中では、特異な配置であり、広島城
の特徴とされています。
 この廓は、毛利時代(16世紀末)に築造されたもので、外側からの内部
が見えにくく、本丸からは、内部が見える構造としており、防禦機能も考
慮したことがうかがえます。
 郭内には、表御門、太鼓櫓など、近世初期の建物が残っていましたが、
原爆により倒壊、焼失しました。現在の建物は、築城四百年を契機に、江
戸時代の姿に、復元整備したものです。

  二の丸跡の配置を銅板に刻まれた銘板を埋め込んだ碑
CIMG0216




































 広島城の中は、現在、資料館になっていましたが、時間の関係で、少し
閲覧させていただき、天守閣にも上らないで、娘たちが待つ、レストランへ
と、向かいました。











このページのトップヘ