atusisugoiのblog

2017年10月

 首(くび) の な  る 木(き)


 きょうに限って、まだ陽(ひ)もやや高いうちに、宿舎が選ばれた。
 近江篠原の宿から少し山里へ寄った所の一寺だった。
 車から降ろされると、宗盛と子の右衛門督(えもんのかみ)とは、べつ
な房へ分けられた。やがて夕べの食膳が供される、めずらし膳部(ぜんぶ
)で正しい食事が与えられた。
 「・・・・・これは?」
 と、宗盛はすぐ察して、膳を見るなりに、土気色に顔を変えた。箸(は
し)は取ったが、ほとんど何も喉(のど)へは通らない様子だった。
 「湯浴(ゆあ)みを召され給うか」
 番の卒が、のぞいてたずねた。
 「さ?・・・・・・・」と、宗盛はすぐ答えもしなかった。みだれて、
それだけの思惟(しい)さえつかみえないのだろうか。さんざん考えた果
て、
 「いただこう」
 と、やっといった。
 卒は、廊の戸を開いて、
 「こなたへ」
 かれをみちびいた。
 ほどへてから、かれは暗い湯殿を、よろばうように、外に出て来た。麻
の浄衣(じょうえ)にかえられていた。その肌ざわりにも、もう死んだ皮
膚をしているかれだった。-そして元の、ほの暗い一室へ戻るやいな、ぎ
ょっと、身ぶるいに襲(おそ)われた。たれか、人がすわっていたからで
ある。
 「お身浄(みぎょ)めはすまされたか」
 そういわれて、やや落ち着いた。そこに待っていた人は、義経であった。
 「おう、判官どのか。・・・・・判官どの、儂(み)はこよい、斬られ
るのではないかのう。そう思われてならぬ。ほんとなことを聞かせてほし
い」
 「お察しの通りです。が、時刻は夜半。まだ、だいぶ間(ま)がありま
す。ゆるやかにお覚悟遊ばしますように」
 「げっ。・・・・・で、では、今夜」
 「相国(しょうこく)清盛公の御総領。はたから申すまでもありませぬ
が、父公のおん名を、辱(はずかし)めぬように」
 「そ、それだからとて、なぜ宗盛を、打ち首にせねば頼朝は気がすまぬ
のであろうか。・・・・武者所の手に置かれてあるうちにも、幾度とのう、
申し出てある。-髪を剃(お)ろせとなら、髪も剃る。配流(はいる)も
いとわぬ。山住居も辞さぬ。ただ命だに助け給わるなら、と、すがってい
たものを」
 「無益でした。鎌倉どののお嘲(わら)いをかったに過ぎますまい」
 「頼朝は、忘恩の徒よ。世にいう恩知らずよ。儂(み)は、くちおしい」
 「効(か)いなき、おん罵(ののし)りは、かえって世のわらい草にな
るばかり。とてもかくては、ただ、お心すずやかに、御往生を心がけ給う
しかありますまい。義経もそれをお願いいたしまする」
 「判官どの。儂の助命は、御辺からも頼朝へ、すがてくれるはずだった
ではないか」
 「その儀を、お詫(わ)びに出たのです。心には誓いつつ、ついに願い
はかないませんでした。義経の微力、何とぞ、おゆるし給わりたい」
 「ああ、あきらめきれぬ。子の右衛門督もか」
 「仰せまでもない」
 「・・・・・・気が狂いそうだ。なんとか、助かる道はないか。なんと
か」
 かれは、義経が情に厚いのを知っている。その情にしがみついて、ここ
から逃がしてでも欲しいような眼(まな)ざしをして見せた。
 義経は、勝者にして勝者ではない。-宗盛の未練を愍然(びんぜん)と
あわれむには、余りにかれ自身が、みじめ過ぎている。むしろうらやむべ
き人と、かれはかれを観(み)る。
 宗盛が、平家の惣領に生まれたなどは、何かの間違(まちが)いという
ほかない。かれは人間そのままなのだ。もし無名の一庶民に生まれていた
ら好人物と愛されていたろうに。
 またもし、宗盛のように卑屈になれてどんなにしても生きたいとする執
着が持てるなら、自分の煩悶(はんもん)のごときは、何ものでもなかろ
うにーと、義経はかれを観、自分を観、どっちが幸か不幸か、是か非かと、
疑った。
 と、そのとき、義経の郎党のひとりが、たれか人を伴って、次まで通っ
て来た様子だった。
 その微かな気配にすら、宗盛の眸の光は、すぐ噪(さわ)がしくなった。
やたらにうごく。
 義経は、座を立ちかけて、
 「なんぞ、お言(こと)づてなと、ありませぬか」
 と、最後をほのめかして訊(たず)ねた。
 「言づてとは、たれに?・・・・・」
 「お心のうちのお人へ。・・・・・たとえば平大納言どのや、建礼門院
の君へなんど」
 「時忠は、まだ斬られずにおるのか」
 「行く末はしれませねど」
 「・・・・・ない。時忠などへいいやることは、何もない」
 兵が開ける妻戸の音がして、そこへ静かに、ひとりの聖(ひじり)がは
いって来た。義経と目礼を交わし、義経はそれをしおに立った。そして囲
の外へ去った。
 
 その晩、宗盛の囲いを訪うて来たのは、大原の聖ともいわれる僧堪豪(
たんごう)であった。
 偶然ではない、
 数日前に、護送の道中から、大原へ、使いが先に立っていたのである。
 それはまた、もちろん、義経が心をくばっておいたことで、同行の鎌倉
直々の武者も、「ー処刑の前に、善知識(ぜんちしき)を招じて、会わせて
やるというだけならば」と、異存はなかった。
 大原の聖は、宗盛の変り果てた姿を前に、夜更(よふ)くるまで、しみ
じみ、話しこんでいた。
 最期(さいご)の人のたましいに、説法は、魅力のある威光であった。
この世は仮で、仏界が本土と信じられていた世代だからである。
 それにしても、宗盛のような人を、あきらめの法悦(ほうえつ)に泣き
濡(ぬ)らすには、大原の聖にも、ずいぶん骨が折れたことだったらしい。
 ときには叱(しつ)し、時にはともに嘆き、また、じゅんじゅんと、千
世現世(せんぜげんぜ)の宿業(しゅくごう)におよび、未来永劫(えい
ごう)への法果を説くなど、短檠(たんけい)の油も尽きるほどつづいた。
 ついに宗盛の妄念(もうねん)も、翻然(ほんねん)と何かを心につか
みえたのか、または聖の手によって、いやおうなく、されたのか、やがて
のこと、そこの囲のうちで、念仏する宗盛の声が聞かれた。
 「おう、御発心あらせられしか。その御音声(ごおんじょう)こそ頼も
し、ゆめゆめ、余念を思(おぼ)し召されな」
 聖もともに、念仏の声をあわせ、また、
 「-我心自空(がしんじくう)、罪福無主(ざいふくむしゅ)、観心無
心(かんじんむしん)、法不住法(ほうふじゅうほう)」
 と、観普賢経(かんふげんきょう)の一部を誦(ず)した。
 はや、どかどかと、あらい跫音(あしおと)が、廊を踏んで来た。
 「囚人(めしゅうど)の末国、おいであれ」
 黒い武者の影が、かたまって見えた。長柄の光を見たとたんに、宗盛は
さっと蒼白(そうはく)になり、起つ力を失ってしまった。
 「ここぞ。なぜ念仏を、お口から消し給うぞ」
 聖に叱咤(しつた)されて、ようやくかれは起った。武者たちは、かれ
の細々とつづける念仏のわななき声を囲んで、寺の裏へ出て行った。
 一枚の素筵(すむしろ)が、杉林の中にしかれてあった、それが、かつ
ては一門の総領、時のみかどの外戚(がいせき)、前(さきの)内大臣(
おおい)宗盛に与えられた、さいごの座であった。
 太刀取りは、鎌倉から付いてきた橘ノ右馬允公長(うまのじょうきんな
が)と見えた。すでに、用意の場へ来て、待っている。
 この公長(きんなが)は、根からの源氏ではなかった。
 平家相伝の者で、かつては、権中納言知盛の侍であった。-治承四年の
末、平家に見限りをつけ、東国へ奔(はし)って、鎌倉に仕えていたので
ある。
 その男が、すすんで太刀取りを買って出たのか、上命もだし難き巡り合
わせであったのか、無残な役割というほかはない。
 だからこの右馬允公長(うまのじょうきんなが)は、その理由をとわず、
後々では世人(せじん)から「無下(むげ)に情けなき者」と、さげすま
れた。「たとえ上命でも、恥じて辞すべきであろう」という世論だったの
であろう。
 宗盛の斬首(ざんしゅ)につづいて、同夜、近くの竹林のうちで、この
右衛門督清宗(えもんのかみきよむね)も首を打たれた。
 父は三十九。この清宗は十七だった。
 父には善知識の導きも必要としたが、十七歳の少年には、それは必要と
しなかったらしい。いとも神妙に見えたとある。ーただ、自分の上に刃が
かざされたとき「・・・・父は?」と訊(たず)ねたので、聖が「お心安
う思(おぼ)し召せ、御観念すずやかに」と告げると「思いおくことなし
」と、素直に首(こうべ)をのべて斬らせたという。
 斬り手は、堀弥太郎親経だった。

 宗盛父子が、近江篠原で処罰されたのは、六月に十一日の夜。
 それから、二日過ぎの、二十三日の夜には、かれの弟、故清盛の四男三
位中将重衡(さんみちゅうじょうしげひら)が、奈良坂の阿弥陀堂で、首
斬(き)られていた。
 ある理想を抱いて、一ノ谷で捕われ、鎌倉へひかれたが、鎌倉では、一
年の余も、白拍子(しらびょうし)の千手(せんじゅ)にかしずかれてい
た重衡だった。しかし、どうやっても節を変えない重衡の様子に、頼朝も
手をやいて、ついに南部の僧徒へ引き渡されて刑となった。その重衡の最
後はーちょうど宗盛死後の二日目に当っている。
 あわせて、都の内では、もうそれについての、種々(さまざま)な評判
だった。
 「おなじ清盛公のお子なのに」
 と、宗盛の死にざまと、重衡の死とを比較して、
 「月と泥亀(すっぽん)。なんたるちがいか」
 と、舌打ちする者が多かった。
 物知知り顔を、ひけらかす男は、
 「それもゆえなきことではない。中将重衡の卿(きみ)は、まぎれなき
西八条殿(清盛)のお子であったろうが、ところが、宗盛の卿は、取り換え子
ぞ。まことは五条坂なる唐傘売りの子であったげな」
 などといった。
 義経の帰洛は、そんな騒ぎに沸いている庶民にまず迎えられた。
 二十四日のことであった。-宗盛父子の首を持って都へはいる、と知れ
渡っていたからである。
 検非違使(けびいし)の面々が、三条河原に待ち、河原で首受け
取りの式が行われた。
 それを先頭に、旅装のままの列は、三条を西へ、東の洞院(とういん)
を北の辻へ渡して、やがて六条獄門の樗(おうち)の木に、首を梟(か)
け終わった。
 二十幾年か前には、源義朝の首が梟(か)けられた木。
 木曾滅亡のときには、木曾冠者と、一党の者の首が干し柿のように吊る
された木。
 かえりみれば、なお幾十、幾百の首が、このこずえの爪に、つかまれた
ことか。つぎつぎに、人の世の乱を呼んで、血の肥(こえ)をすすろうと
する魔の樗(おうち)は、春秋の辻に、不気味な幹を太らせ、昼も暗い青
葉をかかえて、宗盛の首を、待っていた。
 「さるにても、これは異例よ」
 と、公卿たちは、おぞ気(け)をふるった。
 これまで、三位以上の人の首は、大路を首渡しせず、獄門にも梟けられ
なかった。平家が敗れ、頼朝の世となって、初めての断行である。-殿上
の位階はすでに影を淡(うす)うし、武家幕府の力が、衣冠(いかん)の
輩(ともがら)を、そろそろ地へひき下ろしつつある前兆ぞと、かれらは
肌を寒うしたのであろう。虫の知らせは当っていないこともない。
 梟首(きょうしゅ)の儀を見とどけると、義経は、六条堀川へ、やっと
帰る身となった。
 すぐ、院庭に伺候(しこう)すべき用も多かったが、
 「身、不浄なれば」
 と、われから辞し、
 「吉き日に、あらためて、出仕いたしまする」
 と、家路についた。
 家にはいるのも、公卿ならば、数日浄(きよ)めの家(や)に籠(こも
)って、初めて館にはいるのだが、武門のこと、また特に義経は、そんな
禁忌(いみごと)は、気にもしない。
 「・・・・・一時も早く」
 そぞろ、静(しずか)の顔が、ただもう瞼(まぶた)に見えてくる。
 留守の郎党は、首を長くして、館の中門に待っていた。駒を飛び降りて
数歩、義経は辺りを見た。
 深い夏木立の懐(ふところ)は、憩(いこい)のひざに似、箒(ほうき
)のあと、打ち水の露もしっとり見えて「ああ、わが家ぞ」と、思わせる。
 -だが、なんとしたことぞ。
 義経は直感した。
 迎えに出た留守の家来たちの面上には、木々のような耀(かがや)きは
ない。主の姿を見るとともに、何かに瞼をつき上げられている容子だ。そ
れは、腰越の一夜、義経を取りかこんで、無念泣きをした、あの時の面々
と、ひとしいものに見えた。
 「静は、どうしたか」
 上へ通って、すわるとすぐ、かれは、左右へたずねた。
 すると、留守の者のうちから、つと、進み出た有綱と忠信の二人が、
 「その前に、ちと・・・・・」
 と、何かいいたげに、しかし、いいにくそうに、義経の眉をうかがいな
がら、手をつかえた。
 ー何か、あったな。
 と、義経はすぐ察しる。が、凶事であれ、それが。静の身にかかわるこ
とでないようにとのみ、ただ祈られた。

 捏(ねつ)   造(ぞう)    

 「なんだ。留守中、何事があったのか」
 義経の口吻(こうふん)は、やや焦(じ)れ気味であった。-早くいえ
と、いわぬばかりに。
 いや言外には「もうもう勘弁せい、身も心も疲れ切って帰洛したのだ、
今は何も聞きとうない、ただ、わが家の屋根の下に、この五体を横にして
憩いたい願いがあるばかり」と、その 顔色は、胸の快々(おうおう)を
露骨に語っているようにさえ見える。
 留守組の家臣たちも、それをすでに伝え聞いて、みな知っていた。
 だからこそ、かれらもまた、いい出すのが辛(つら)かったに違いない。
 けれど、告げずにはおけない大事でもあった。
 で、佐藤忠信は、留守一同に代って、
 「されば」
 と簡略に、また、しいて感情を押しころしながら、報告した。
「殿、ご帰洛の前々日、すなわち一昨日のこと、院の庁へ、鎌倉表より二
度までの御飛脚これあり、その由、われらお留守の者へたいし、院の泰経
卿(やすつねきょう)より、早々のお知らせがございました。未だ御下文
は拝しませぬが」
 「鎌倉から?」
 義経の眸は、きらと、すぐ安からぬ光に変わって、
 「わしの帰る前に、いかなる上奏が、鎌倉からなされていたのか」
 「もれ伺うに、お日付は、この月十二日と、十三日付の両度のお飛
脚の由。-要は、大江広元、築後守俊兼を奉行となされ、かねて殿へ賜っ
た平家の旧所領二十四箇所を、このたび、義経より取り上げ、これを没収
する―との上奏でございますそうな」
 「な、なに」思わず出た語気は、炎に似ていた。
 が、義経は、じっとそれを抑えるように、眉をふさいで、
 「そうか。・・・・十三日付の上書とあれば、義経が腰越を離れた四日
後。鎌倉どのの内では早くより定められていたことだろう。・・・・・そ
れまでの御処置をお持ちなれば、なぜ義経が腰越を去らぬうち、公(おお
やけ)の罪状を上げて、お糺(ただ)しないのか」
 暗然と、かれはそのまま、天井を仰いだ。
 「いや、聞くところによりますと・・・・・・・」と、忠信は、義経の
その面へ―「殿が、腰越を去るに当って、御憤怒にまかせ、いい散らされ
たことが、鎌倉どののお耳にはいり、そのための御処置とかいう由でござ
いまする」
「わしが・・・・。わしが腰越を立つとき、どう申したという取り沙汰か」
 「およそ、鎌倉に怨(うら)みある輩(やから)は、義経の手に属せよ。
義経こそは、軍功も認められず、空しく追っ返されて帰るなれ。御家人ど
ものうちにも、同じ不平を抱きながら、訴えようもなく、泣き寝入りせる
輩(ともがら)も多かるべし。義経の許へ参らば、ともに後日の策を立て
ん・・・・・と、道々公言して御立ち退(の)きありしとか」
 「ば、ばかな」
 余りにも悪質な誹謗(ひぼう)だ、根も葉もない捏造(ねつぞう)だ。
義経はついまた、くわっと、色をなしかけたが、
 「さても、先き手まわしな流言(るげん)をなす者があるとみゆる。こ
の義経が、かならず、鎌倉どのへ反噬(はんぜい)せんと見てか、あるい
は、故意に反噬させんとお仕向けなるか。・・・・・・いや、いや。義経
はその手には乗らぬ」
 極端な嘘の流布は、それへ腹が立つより、かえって、笑いたい心理をか
れに起こさせた。相手の危険な罠(わな)にも気づいたのである。
 「-忠信、有綱なんど、留守一同のほか、義経に供して、きょう、帰洛
した面々も打ちそろうて、後刻、奥の大床にあつまれ、ともあれ、久しぶ
りの帰館だ。なんら、土産(みやげ)はなけれど、酒盛りなとして語らお
うぞ」
 咄嗟の気もちで、多言を吐くのは、かれ自身が自身に危険でならなかっ
た。夜宴の支度をいいつけると、それを機(しお)に、かれは奥の小館(
こだち)へ移ってしまった。   

 かれには二人の夫人がある。
 いうまでもなく、河越殿とよばれている正室の百合野と、側室の静とで
あった。
 河越殿の百合野は、館の対(たい)ノ屋(や)に住んでいた。が、義経
はそこへ顔も見せず、小館の渡りをこえて来たのだった。
 「・・・・。お帰りなさいませ」
 静は、さっきから、懸(かか)りの口まで出迎えに出ていた。迎えるか
の女の姿は、かれの眸が、一瞬の慰撫(いぶ)と生きがいを汲みとるのに
充分であった。
 ここだけが、憩いの庭だ。拘束もない、人の猜疑(さいぎ)に呪(のろ
)われるおそれもない、二人だけの巣だと思う。
 「静、いま戻ったぞ。ともあれ無事にの」
 「何よりでございました。おからださえ、おつつがなければ」
 静にとっては、自分の魂が自分の身のうちへ帰って来たほどな心地もし
たであろう。その無事へ、かの女は今思い切り眸をこらした。そしてすぐ
濡れかかる睫毛(まつげ)に、恋情の露と安心感を一つに見せた。
 が、よろこびに盈(み)ちた黛(まゆ)にも、どこやら、心にすまない
ような、ためらいが見えなくもない。ー旅装の具足も解かずにこれへ見え
た義経は、まだ、正室の河越殿へは、お顔も見せていないのだと、すぐ察
しられていたからである。「・・・・百合のさまも、お待ちであろうに」
と、女心は女心がよく分かっていた。
 しかし、義経は局にはいると、よろい具足をまず解いて、一刻も早く、重
い枷(かせ)から解かれたい容子であり、静も直ぐ寄り添って、そぞろ楽し
い忙しさにくるまれた。
 やがて、義経は湯殿へはいった。女童(めのわらわ)に浴衣を持たせて、
静も後から廊を渡ってゆき、湯けむりの内をのぞいて、
 「お背をお流しいたしましょう」
 と、小袿衣(こうちぎ)を脱いだ。かいがいしく裳(も)をかかげ、小
桶(こおけ)に湯を汲(く)んで、義経の背中へ向かう。
 こういうことは、女童か垢洗(あかあら)い女(め)のすることと、い
やしまれている。だが静は、白拍子であった、以前の身は恥じても、みず
から厨(くりや)に立って働いたり、小袖を襷((たすき)して、良人(
おっと)の垢を流すことなどが、いやしい業(わざ)とは思えなかった。
 「どうだ、えらい垢だろうが」
 「夏のお旅路では無理もございませぬ」
 「いや、駅路(うまやじ)についても、宿で湯浴(ゆあ)みをしたこと
もめったにない。夜ごとが、物憂(ものう)うて」
 「少しは、お爽(さわ)やかになれましたか」
 「お。生き返ったような気がする」  
 「・・・・・・・けれど」と、静は、その人の肩から背へ、小桶の湯を
かけ終わりながら―「鎌倉へお立ちの前にくらべると、お背中まで薄くお
なり遊ばしたような」
 「痩(や)せたか」
 「前には見えぬお背の骨が露(あら)わにまで」
 「痩せもしよう。・・・・・・西国では、甲冑(かっちゅう)を解くひ
まもなく、 東国へ還(かえ)っては、あらぬお疑いに苛(さいな)まれ、
悶々(もんもん)と足引きずって、都へもどれば、家には、かねて賜った
所領も召し上げるという酷(むご)い報(むく)いが待っていたのだ。・
・・・・いや、やめよう。聞かせてもせんないことだ。静、もひとつ湯を
かけてくれい」
 「はい」
 「夜には、郎党どもとの酒盛りだが、まだ夕には早し、久しぶりよ。そ
の前にそなたとも一献酌(いつこんく)もう。支度をしておけ」
 「はい」
 静は、そこを出て、厨(くりや)へまわった。先に、下部(しもべ)の
女たちへ何かのことはいいつけてある。それを見まわって、池に面した一
室にかの女は待った。
 帰るやいな、こう酒杯を急ぐのも、日ごろのわが殿らしくない。静は「
・・・・・・ご無理もないお胸」と察しながら、何か侍(かしず)くのも
恐かった。
 義経は涼やかな直衣(のうし)に着かえ、柱の下へ円座を寄せてくつろ
いだ。身を倚(よ)せかけ、あくまで気ままに自由にありたいとする姿だ
った。
 そして、静がつぐ杯を、幾杯となく、口もきかずに飲みほした。まるで
水のようにである。その飲み方も常ではない―静は、渡された杯をうけな
がら、心配そうに、良人の眉をうかがった。
 「ああ、渇(かわ)いていたせいか、にわかに、酔がのぼってくる。そ
なたも過ごせ。長い留守、さだめし心細かったろうに」
 「いえ。愉しみでもありました。待つのは、つろうございますが」
 「静」
 「はい」
 「愛(いと)しいやつ。そなたは、義経は添うため、ひょっとしたら、
世にも不幸な女になろうもしれぬ」
 「なぜでございましょうか」
 「この義経が、不幸な生まれつきの男ゆえ」
 「静には、そうは思われませぬ」
 「どう思う、そなたは」
 「世に、わが身ほど倖せな者はないと」
 「かかる茨(いばら)の道でも」
 「ここが火水(ひみず)の中でありましょうとも、静は恋のかなった倖
せ者です。遠く離れている日とて、わが夫(つま)のおいとしみは、いつ
も身に抱いておりますから」
 「義経を疑わずに」
 「もったいない、なんでお心を・・・・・」
 「さまで、わしを信じてくれるのは、そなたと、わしの股肱(ここう)
の郎党だけだ。うれしい。わしには、まだ、わしを信じてくれる幾人かが
この世にいる」
 夕風は、酒の味を、快(こころよ)くする。
 杯の手も早い。かれの耳朶(じだ)は、海棠(かいどう)の花の一輪み
たいに見えた。そのくせ、どこか、どうやっても晴れない、沈鬱(ちんう
つ)な気が眉の辺りに酔い残されている。
 ふと、かれは大きな息をついて、夕廂(ゆうびさし)から空を仰いだ。
そしてひざを抱え、背を後ろの柱へもたせて、たれへともなく、つぶやい
た。
 「よくいうた、わしも静のように、身を、不幸な者とは、考えぬことに
しよう。・・・・・そもそも、壇ノ浦へ臨む前から、胸ではひとり思うて
いたのであった。-西征のお役目を果たした後は都の片隅でもよい、静と
ともに、生を愉しもう。修羅の血みどろは、もうたくさんだ、名聞(みょ
うもん)、権勢、われに何かあらん。-そう密かに思いきめていたものを」
 ふっと、かれは唇(くちびる)をゆがめた。
 自分へ恥じる痛さだった。-戦場の悟りも、世間へ帰って、すぐ一変し
たのでは、その場その場の、愚者のでき心もおなじではないか。
 そうだ、まちがいなく、戦場では、死か、ことばのもし生きて帰れたら、
そうしようと、純粋に思った。-が、世間の土を踏むやいな、妄執(もう
しゅう)の虜(とりこ)となり、日夜、影なき敵との闘いに、身を焦(や
)かれ通しである。
 「・・・・ああ、つまらぬ不平にわしは疲れ歩いた軍功、それはべつに、
郎党どもへ何かで報いてやろう。平家の旧所領二十余個所、そんな物さら
さら要(い)らぬ。-欲しいは、たれにも邪(さまた)げられぬ身ままな
身だけよ」
 蚊うなりが、かれを繞(めぐ)り、いつか何もかも、夕の色にくるまれ
かける。
 静は、簾(す)の蔭に火をともし、かれの側近くへ、蚊遣(かや)りを
置いた。
      








































 最近、家内の弟の家から、渋柿を送っていただきました。
 台風接近で柿が落ちる前にと、早めに捥(も)ぎ取って、送っていただ
きました。未だ実は固く渋い状態ですので、家内が早速、焼酎を購入し準
備をしています。近日中に、焼酎を使用して渋抜きを、してくれそうです。
 小生は、この渋柿の熟したのが、大好物です。なつかしき故郷の味がす
るからです。10日もすれば食べ頃になると思っています。

           渋    柿
CIMG0145



















 家内が焼酎しようして、早く熟すように、処理してくれたおかげで、1
週間後に、見事に熟し、1個/日おいしくいただいています。


















 腰 越 状(こしごえじょう)

 かれが満腔(まんこう)の良心と、真情をこめて、兄頼朝の胸へ訴えた
「腰越状(こしごえじょう)」の全文は、かなり長いものである。
 吾妻鏡(あづまかがみ)、古典平家、盛衰記など、およそ、それを載(
の)せないものはない。
 そして、悶々(もんもん)たる苦衷(くちゅう)とかれの立場は、その
一状に隈(くま)なくうかがい知られると、している。
 だが、伝えられる腰越状の文には、後人(こうじん)の加筆のあとも見
え、義経の原文そのままではあるまいという別説もある。あるいは、そう
かもしれない。
 だが、かれが生涯の心血を注いで、幕府の大江広元(おおえひろもと)
の手から、それを頼朝へさいごの訴えとして差し出したことは事実である。
疑いの余地は少しもない。
 ともあれ、腰越状(こしごえじょう)は、かれが、かれに迫り来つつあ
った運命へたいして、残されたただ一つの手段たる善意の抵抗をこころみ
た必死の文字であった。それが頼朝に容れらるか容れられないかを賭(か
)けた義経畢生(ひつせい)の叫びであり、真情の吐露であった。
 -隋書の省略を加えて、文のあらましを、次に掲げておく。

  左衛門尉源義経、恐れながら申しあげ候。
  意の趣(おもむき)は、身、御代官の一に選ばれ、勅宣の御使として、
 朝敵を傾け、抽賞(ちゅうしょう)せらるべきに、かへつて虎口の讒言
 により、勲功を黙止(もくし)せられ、御勘気の咎(とが)を蒙(かう
 む)る。
  案ずるに、忠言は耳に逆(さか)らふとか。身、鎌倉に入れられざれ
 ば、素意を述ぶることあたはず。いたづらに数日を送る。この時に当っ
 て、もし永く恩顧を拝し奉らずんば、骨肉同胞の義、すでに空しきに似
 たり、宿運、極まる所か。はた又、先世(せんぜ)の業因(ごふいん)
に依(よ)るか。
  事新しき申し条、述懐(じゅつくわい)に似たれど、義経、亡父義朝
 殿他界と共に、孤児となって母に抱かれ、以来、一日も安堵(あんど)
 に住(ぢゅう)せず、諸国を流浪(るろう)、辺土の土民百姓に服仕(
 ふくし)せらる。
  然(しか)りといえど、幸慶(かうけい)たちまち、平家追討の恩命
 に会い、義仲誅滅後(ちゅうめつご)、更(さら)に西海へ赴(おもむ
 )き、一命をかへりみず、甲冑(かっちゅう)を枕とするも、年来の宿
 望をとげんとするのほか他事(たじ)ある無し。あまつさへ義経、五位
 ノ尉(じょう)に補人せらるゝの条、面目何事か、これに加へん。
  然りといえど、今や憂ひ深く、嘆き切(せつ)なり、神仏の冥助(み
 やうじょ)なくして、いかで愁訴(しうそ)を達せん。因(よ)って義
 経、全(まったく)心をさしはさまざるの旨、さきに熊野牛王(くまの
 ごわう)宝印の裏を以って、起請文(きしょうもん)に書き進ずといえ
 ども、なほ以って、御宥免(ごいうめん)なし。
  今は憑(たの)む所、他にあらず、ひとへに貴殿が広大の御慈悲を仰
 ぐのみ、便宜(べんぎ)を伺ひ、高聞(かうもん)に達せしめ、誤りな
 き旨を恕(じょ)せられ、芳免(はうめん)にあづからば、義経年来の
 愁眉をひらき、余慶家門に及ぼし、一期(いちご)の安寧(あんねい)
 を得ん。愚詞(ぐし)、書きて尽さず、ただ賢察を垂れよ。恐惶謹言(
 きょうくわうきんげん)。

   元暦二年六月         左衛門尉源義経

    進上 因幡 前司殿

 因幡前司(いなばのぜんじ)とあるは、大江広元のことである。
 また、べつの一札(いつさつ)は、宗盛父子の命乞いを仰ぐ切々(せつ
せつ)たる願文であった。
 夜が白むと、義経は、併(あわ)せて二通の款状(かんじょう)を使い
にもたせて、大江広元の許へやり、広元から鎌倉どのの御前へ披露してほ
しいと願い出た。
 -そして、その後は、何か、たましいを人手に預けてしまった人のよう
に、室を囲む蝉(せみ)しぐれの中に茫(ぼう)としているかれであった。
大江広元は、相違なく、頼朝の前に、義経から、愁訴(しゅうそ)の状を、
畏(おそ)る畏る披露した。
 頼朝は、見た。
 -が、なんともいわなかった。
 広元もまた、よけいな口は何ひとついうまいとしている風に見える。
「けさ、腰越よりお使いがあって」と、いう以外は一言も触れていない。
 かれには、頼朝の方針がわかっていた、その胸を振幅する微妙な蔭には、
梶原という寵臣、北条という大舅(おおじゅうと)、そう二人の黒い投影
が、ぴたりと、主君の心の襞(ひだ)に密着して住んでいるのだ。めった
な呼び水は、その井戸へは注(さ)させない。
 それに、また。
 頼朝の現在では、骨肉へそそぐ涙など、とうに失われているかとも見え
る。黄瀬川の初対面で、泣いた涙は、嘘ではない。確かにあの時は、かれ
もうれしかったのだ。しかし当時は頼朝の旗あげも、初期で、手勢も薄く、
平家は隆々(りゅうりゅう)としていた。-が、今は、一介(いつかい)
の九郎冠者(くろうかじゃ)などを恃(たの)みに思うほどかれは微力な
存在ではない。かつまた、愛妻の政子といい、縁者といい、かれを繞(め
ぐ)る私生活も賑やかである。ここにも、母ちがいの弟を迎え待つような
間隙(かんげき)はない。
 いや、より重大な理由は、頼朝の素志たる武家政治への大望にあろう。
それを成しとげるためには、何ものをも犠牲にして顧みまいとする風は、
ここへ来ていよいよかれの眉を冷厳(れいげん)なものとしているのでは
ないか。
 「・・・・・因幡」
 「はっ」 
 広元は、ひと事ならず、胸が緊(し)まった。-頼朝の発する一言が、
ここで、舎弟義経の処置を、どうきめるか、その一言で、万事決する、と
思ったからだ。
 ところが、かれの予想は、見事空を打った。
 「-平家の虜(とりこ)、宗盛父子を、あすは一見しようぞ。その用意
を命じておけ。余り長う留めおくも、よくあるまいしの」
 それだけだった。それしかいわないが、頼朝の皮膚の下には、鉛のよう
な重いものが沈んでいるふうに見える。広元は、早々に退(さ)がった。
 翌、六月七日。
 久しく武者所の手で幽閉されていた前(さきの)内大臣宗盛は、その子
右衛門督(えもんのかみ)とともにみちびかれて、一屋(いちおく)の床
にひき据えられた。
 広やかな中庭をへだてて、かなたの真正面に、階(きざはし)が見え、
欄(らん)があり、簾(れん)が下がっていた。
 頼朝はもう簾(す)の内の上ゲ畳に大きく座っていたのである。-簾越
(すご)しに見ようというつもりらしい。

CIMG0114







































-これを、先に一ノ谷で捕われれた後ここへ送られて来た同じ清盛の子、
三位中将重衡(しげひら)に与えた優遇とくらべると、格段な差である。
重衡へはほとんど客の待遇をもって接し、宗盛には初めから、勝者と敗者、
将軍の虜囚(りょしゅう)の差別を、あきらかにおいていた。
 が、ことばのうえとしては。
 「-そもそも、頼朝も平家を私(わたくし)の仇(かたき)とは思うて
いない。そのゆえは、平治のおり、故入道相国の助命がなくば、今日の頼
朝もなかったからだ。しかし、平家が朝敵となって後は、院宣、そむき難
く、誅伐(ちゅうばつ)を加え申したり。が、とかくして、こう御見参を
得たるは、何かの宿縁でやあろう。返す返す、本意に存ずる」
 これは、直接話しかけたのではない。
 侍臣(じしん)比企義員(ひきよしかず)をさしまねき、少し皮肉げな
微笑をふくみながらいって、義員の口から、かなたの奥にいる宗盛へ口づ
たえにいわせたのだ。
で、義員が、そこへ近づいて、
 「-上意です」
 と、断って、頼朝のことばを伝えかけると、どう思ったか、宗盛はあわ
てて居ずまいをあらためた。われから名代の義員に、卑屈な頭を下げた。
その姿は、いかにも憐れみを人へ見せて、威力の前に尾を振る、みじめな
人間に見えた。
 その様をながめて、鎌倉の諸大名や武士たちすらも「あな、いとおし、
あんな御心なればこそ、人の誹(そし)りもうけ、かかる待遇(もう)け
にも会うのであろう。今さらの媚(こ)び諂(へつら)いが、御運命に、
どうなるものでもないのに」と、みな歯がゆがった。中には、口惜しげに、
涙を垂れたものもあるという。
 というのは、鎌倉直参の内にも、以前は平家に禄仕(ろくし)していた
武士も少なくないからだった。-また、さきには同じ敵国の虜(とりこ)
となって来ても、中将重衡のごとく、人間として、頼朝とも対等に会い、
むしろ頼朝の非をついて、かれを赤面させたような態度をも、その眼に見
ていたからであろう。
 「・・・・・・はて、興もなや」
 頼朝は、言いたげであった。また、こういう状を、以前は平家に誼(よ
し)みもある御家人どもへ長く見せるのも面白くないと感じたらしい。-
で、つぎの一語とともに、すぐ、座を立った。
 「・・・・退(さ)げ置け」
 一見(いつけん)の儀は、それだけで、あっけなく終わった。
 北条時政、大江広元などが、深殿(しんでん)へ召されたのは、後刻の
ことであった。かれらは、夜にはいって退がった。武者所にも、何かのう
ごきが見られた。
 -八日の夜、義経の宿所へ、突然、武者所から令書が届いた。

   明九日の朝、関の木戸にて、宗盛父子の身柄を、請取(うけと)り
  候へ。早々、虜の車に付きそうて、都へ帰り上(のぼ)られるべしと
  の御下知(げち)にて候ふ。
   上命、右の如し、違背あるまじき事。

 「・・・・・・・・・・」
 読み下しつつ義経は手がふるえた。全身の血が水のようになってゆくの
が自分にもわかった。-召見(しょうけん)の沙汰(対面)には何も触れてい
ない。ついに鎌倉の土も踏ませず、再び宗盛をひいて帰れというだけの令
だ。兄は正気かと、義経は疑った。


 
 業(ごう)の わ だ ち

 ひく牛は一こう長途も苦にしていない、車の輪が、道のクボに傾(かし
)いだり石を嚙(か)む一ときだけ、懶(ものう)げな首を少し上げ、飴
色(あめいろ)の体に、筋肉の稜角(りょうかく)を、もりっと現わすだ
けだった。
 そしてただ、六月半ばの強い日射の下を、牛は鈍々(どんどん)と前へ
行くことしか知らない、海道百里の道も、かれには艱難(かんなん)でも
退屈でもなく、長汀曲浦(ちょうていきょくほ)の風光も、かれの涎(よ
だれ)には、無縁であった。ぼくぼくと土の乾(かわ)いた野路(のじ)
も馬路(うまやじ)の埃(ほこり)も、聖者に似た細い眼には一切平等で
あった。
 -うらやましい、と車上の人間は牛の背をぼんやり見つつ揺られて行く。
前(さきの)内大臣(おおい)、平家一門の総領という誇りなどは、きの
うまでのこと。いまの宗盛は、人間であることさえみずから見失っている
ように見える。
 鎌倉でも、格別な優遇は何一つ与えられず、浄衣(じょうえ)は薄よご
れ、夏なので、たちまち虱(しらみ)に責められもした。
 頼朝のことばは、いんぎんだったが、あの後で、武者所から「-以後宗
盛の名を、末国(すえくに)と改め、前内大臣を貶(おと)して、讃岐権
守(さぬきのごんのかみ)となす」という冷たい宣告が事務的になされた。
そして同朝、ただちに義経の手へ引き渡され、ふたたび西へ、送り返され
ている身であった。
 自分の名が、勝手に他人の考えで変更されるなどは、ふざけた沙汰であ
る。ありえない不合理だ、と一時は怒ってみたが、しかし、そういう権力
の恣(ほしいまま)を、かつては平家人(びと)も振るって来たのである。
今、身に分ったというほかはない。
 そしてまた、支配者による前名前官の失格は、かならず処罰の前提とし
ていい渡されるのも例外なきところである。宗盛はいやおうなく、感づい
ていた。
 「頼朝のやつ、わしをどこで打ち首にせよと命じてあるのか。・・・・
都でか?途中でか?」
 きのうもまず生きた、きょうもまだ斬られそうもない。だが、車の輪の
一回転ごとに、死の座が近づきつつあることは否みえない。日ごとに憔悴
(しょうすい)の度も目立って半病人の態なのは、むりもなかった。
 首切り役の目付どもにちがいない。宗盛の車わきにも、子の右衛門督(
えもんのかみ)の車にも、武者所の橘ノ右馬允(うまのじょう)浅羽庄司
(あさばのしょうじ)宇佐美平次などという壮士が特にこんどは付き添っ
ていた。かれらのあしらいや眼つきを見ても、しょせん、行く先長いこと
ではあるまい。
「それにせよ、ここ異(い)な様子は判官どの。このごろまるで唖(おし
)のような。-眼を合わせても眼をそむけ、宿(やど)についても、この
宗盛へは、ひと言だにない。目付人(めつけびと)の手前か。頼朝とのあ
いだに、何事かあったのか」
 死期(しき)に恟々(きょうきょう)たる身でいながら、かれはそんな
観察もどこかでしている。
 だが、義経主従の様子が変だと感じうるだけのもので、頼朝とのわだか
まりや、義経の複雑なる立場が、虜囚(とらわれ)のかれに分かるはずも
なかった。
 「・・・・・・さては、身の命乞いをして給わるとの約束が、かなわぬ
結果になったので、それが間(ま)が悪う思うてか」
 そんな解釈も持ってみる。
 煩悩は、宗盛を翻弄(ほんろう)する。
 けれど、義経を怨(うら)む気は出なかった。ただ頼朝を考えると、か
れは黒い呪(のろ)いに焦(や)かれ。、とつぜん、途々(みちみち)の
見物人にむかって「-知っているか。頼朝が十四のとき、やはりこうして
虜(とりこ)となり、すんでに斬られるところを、一命を助けて、伊豆へ
放してやったのはたれだ」と、喚(わめ)いてやりたい衝動にかられた。
 亡父(ちち)清盛は、寛大だった。頼朝を助け、二十年も伊豆へ放して
おいたまま恬然(てんぜん)としていた。その恩からも、頼朝もまた、自
分へたいして、斟酌(しんしゃく)なきをえまい。衆臣や世評のてまえに
も、いささかな温情でも示すであろう。-と、宗盛は、計算へ入れていた。
-それだけにかれの落胆と、窶(やつ)れ方はがくりと来た。「・・・・
・・頼朝のやつ。頼朝のやつ」と、四六時中、その名は呪いの油に煮られ
ている。

 「やい、やい。囚人(めしゅうど)の車をそこらの木に繋(つな)ぎお
け。牛にも草をくれ、牛飼いどもも腹ごしらえいたすがよい」
 海道筋のわびしい部落の端(はず)れ。
 義経たち、護送の列は、ひと息入れた。-が、こんどの帰洛には、鎌倉
直参の武者も大勢加わったこと。宗盛父子の身辺は、一切、かれらに護ら
れていた。
 目付の一人、橘ノ右馬允は、車の宗盛へいった。
 「囚人末国(すえくに)へ、糧(かて)を下しおかれる。したためおく
がよかろうぞ」
 粳(うるち)を柏握(かしわにぎ)りにした物二、三個と、塩菜干魚か
知れぬ物少々を盛った木鉢が、卒の手から差し入れられる。
 ひざの前に置かれた器(うつわ)には、すぐ真っ黒に蠅(はえ)がたか
った。宗盛は蠅を追い追い、一つを取って食べた。
 後方の車でも、子の右衛門督(えもんのかみ)が、糧を供与されている。
かれは道中間がな隙(すき)がな後ろを振り向いた。すると右衛門督も、父
から眸(め)を離していない。呼び交(か)うことは許されないが、父子
の声なき声はそれだけで通い合う。それは親のかれには、道中唯一のなぐ
さめだし、また、断腸の責苦でもあった。
 「・・・・・水を賜りたいが」
 卒のひとりへ頼みながら、
 「ここはもう、どの辺であろうかの。野路の平らけさ、海辺のさま、尾
張国とおもわるるが」
 卒は、竹筒をの水を与えながら答えた。
 「されば、尾張の知多はかなた。内海(うつみ)も近いところでおざる」
 「・・・・・内海」
 どうしたのか、宗盛は、やっとひと口の水を飲んだだけで、あとの食べ
物は、残してしまった。
 内海は、頼朝義経の亡父(ちち)義朝が討たれた土地である。ひょっと
したら、わが首をそこの墳墓に供(そな)えよと、いいつけてあるのでは
ないか。
 と、かれは色を失ったのだが、その夕も、あくる日も、何事もなかった。
日をかさねるに従い、尾張も過ぎ美濃路であった。幾度も夏の雨に洗われ、
雨後のぬかるみに、牛も車の輪も、泥にまみれた。
 そういう日は、人馬とも、埴輪(はにわ)のようだった。六月九日、鎌
倉を立って、きょうで十日目だ。不破(ふわ)の関を越え、近江路をのぞ
んでいる。かなり強行といってよい。
 -とかくして、やっと、都の空も近い。
 義経は、この道中、泥海を泳ぎ帰るような危うさと疲労にくるまれ通し
ていた。-ともあれ、都という岩礁(がんしょう)へ泳ぎついて。ひと息
つきたい。まっ暗な方向を考えたい、という気持ちだけで、いっぱいだっ
た。
 ついに、兄のゆるすところとならず、鎌倉の土も踏むなく、帰洛を余儀
なくされて来たのだ。
 「-が。家来どもの憤激にまかせ、あのおり、しいて鎌倉へ推参してい
たら、どうなっていたことか」
 振り返れば、慄然とするばかりだ。ここまで来て、「まず、よかった」
と、思わずにいられない。
 先の誓紙も、腰越で呈した心血の款状(かんじょう)も、一切は兄に無
視された。ただ「-虜車(りょしゃ)をひいて帰洛すべし」というだけの
命令だった。いわば追い返しである。その酷命をうけた当夜、いかに義経
が、自分の心外さを抑える以上、血気な直臣どもをなだめるのに骨を折っ
たか、主従して、無念の涙にかき暮れたことか。
 激し立ったかれらは「もう理のほかの沙汰」と物具(ものぐ)をとって
総立ちとなり、「このうえは、われら御内府に推参(すいさん)し、鎌倉
どのへ、直々、強訴(ごうそ)し奉らん」と、猛(たけ)りたった。
 義経が、その穏当でないことを諭(さと)しても、弁慶までが「歯には
歯をもって報(むく)いるしかおざらぬ。もし道にて、武者所の面々が阻
(はば)めるならば、それも是非なし、斬り死にして果てんまでのこと」
と、同音にいい、中でも烈しい者は、「-鎌倉どののおんために、命を賭
(と)して戦に出ても、軍功はおろか、還ればこうぞと、世の見せ物とな
って、鎌倉どのに恥かかせん」とまで喚(わめ)き出す始末であった。
 果ては、義経も色をなして。「わしの命に従わぬなら、主でもなし、家
来でもない」と、しかった。   
 なお、また。「-まちがえば、そちたちの引く弓が、この義経を殺そう
も知れぬ。その理がわからぬこともあるまい。たとえいかほど、おつらく
当り給うとも、鎌倉どのは、あくまでこの義経には兄君なるを」と、いい
切ったのでもあった。
  家来たちは、言葉を失い、瞬間、息を閉じあった口から、やがて手放し
の泣き声を一せいにしてしまった。-それからの、悲痛な沈黙と慟哭(ど
うこく)には、主従のへだてもなくなっていた。ただ、不遇な人と人との
寄った一堂であった。お互いの無念をなだめあうほかなく、やっと事なく
朝を見た腰越の一夜こそ、義経には、生涯忘れ得ぬものであったろう。
 多感血気といえば、当夜の家来のたれよりも、実は烈(はげ)しい、感
じやすい性情を持っている義経なのだ。将なるがゆえに、鎌倉どのの一代
官と思うがために、分別と良識を、心の具足(ぐそく)として来たに過ぎ
ない。
 「・・・・・・・あぶないのは、家来どもではない、わし自身だ。この
先の義経を、わしはどう持って行ったらよいのか。わしすら恐い、わしす
ら信じえない者を」
 馬上、ゆらゆら、義経は疑った。
 -腰越このかた、自分はどこか違って来てはいないだろうか。この人間
がである、人間の観方(みかた)、骨肉への考え方、世間というもの、す
べてへ、自分は何か、以前のような純真ではなくなったような気がする。
 窯(かま)から生まれたままな白磁(はくじ)の肌が、縦横な氷裂(ひ
び)をうけた感じである。寒々しい絶望感が、心の割れ目へ忍び入ってく
る。
 「ああ、腰越の一と月が、こうも自分を小さくみじめに傷(いた)めつ
けたことか。自分の人間までをかえようとするか。義経ほどな者が、さり
とは口惜しい」
 鳰(にお)の湖(うみ)(琵琶湖)を渡ってくる風の中で、義経の心もた
えず小さい波騒(なみさい)を刻(きざ)んでいた。
 ようやく、鎌倉は遠し、都は近い。-弟を弟とも見給わぬ兄に、なんで
自分だけが、無情な侮辱に耐え、あくまで、悲涙のぬかずきを、守らなけ
ればいけないのか。
 「・・・・・・・・おお、見える」
 湖のかなたには、叡山の大きな肩、四明ヶ獄の孤(こ)。なつかしい鞍
馬(くらま)は、そのすぐ向う側に寝ていよう。
 山は、義経の眸(め)へ、いっているようだった。
(-かつての九郎御曹司(おんぞうし)、何をくよくよするのだ。おん身
のたましいのうちに吹きこんである山巒(さんらん)の精気をわすれたの
か。見ずや青山(せいざん)、天地はかくのごとく、悠大(ゆうだい)な
るに)と。
 義経の駒が、いなないた。何かに驚いたのかもしれぬ。近江路の一宿駅
の口だった。列の先頭もすこし行きよどんで見える。
 「判官どの、判官どの」
 後方の車わきから、橘ノ右馬允が呼びかけつつ、かれのそばへ寄って来
た。そして、
 「そこは早や篠原の宿。あらかじめ、定めておいた篠原でおざる。鎌倉
どのから、内々仰せつけありし一儀、お忘れでもあるまいが」
 と、小声で告げた。
 義経は、かなたの屋根の群れをながめた。「そうか」と、われに返って
見直した風である。だが、投げやるように、
 「心得ておる」
 と、いい放した。
 そのまま、少し駒を早め、かれは前を行く家臣たちへ、何事か、さしず
をしていた。しかし、どこか力なげな姿であった。





































































 あれは7年前だったでしょうか、姉には、一度わが家に来てもらったこ
とがありますが、弟は、まったく初めてのことです。仕事が忙しくなかな
か思うように予定がたてられなかったのが大きな理由です。今もまだ現役
で頑張っていますが、それでもこの度やっと実現ができ、うれしい限りで
す。
 姉と弟たちは10月27日に、横浜入りをし、鎌倉見物と、中華街に行
く予定だと聞いています。
翌28日には、横浜から、我が家に来てくれるのですが、その前に、高尾
山へ皆で行くことにしています。先だって電話で打ち合わせをしたのです
が、京王線の「高尾山口駅」で待ち合わせし、ここで小生と家内も合流後、
ケーブルカーを利用して、山頂を目指そうというものです。
とはいっても、頂上は無理で、たぶん途中までしか登れないかもしれませ
んが、世界遺産でもありますし、なんといっても高尾山に上ると、すがす
がしい気分になれることは間違いありませんので。大変楽しみにしている
ところです。

 そして29日は、浅草と、東京スカイツリーを愉しんで、もう帰阪すると
いう、あっけない日程となっています。見物後は、一行を東京駅まで見送
る予定にしています。
 弟が、仕事をリタイヤしたら、今度はゆっくり遊びに来てもらおうと思
います。
 いづれのしましても、家内と私は、今からわくわくしています。


     年くらい前の夏、広島に嫁いだ娘と孫が、遊びに来たとき、
 高尾山に行き、スケッチしたものです。絵を習い始めたころの
 作品です。

048 (3)





















 2017年10月25日(水曜日)
 
 台風がまた発生しましたので、もしかすると、東京の方へやってくるか
もしれません。
 弟夫婦と、姉たちが、上京し、28日(土曜日)は高尾山へ、それに2
9日(日曜日)は、東京スカイツリーを予定しているのですが、この台風
が日本列島から離れていくよう願っているところです。

 5年くらい前に、一度「東京スカイツリー」へ登ったことがあります。
 これは記念に水彩で小生が描いたものです。

                        東京スカイツリー
081 (4)



































 2017年10月27日(金曜日)

 昨日と、今日は秋晴れのよい天気になっています。本日、弟たちは、大
阪を発って、横浜に入り、そのあと鎌倉見物などを愉しみ、横浜のホテル
で1泊することになっています。
時間に余裕がないため、忙しい工程になろうかと思いますが、できるだけ
多く、名所などを見物してくれたらいいなと、思います。
 そして明日、高尾山口駅に、皆で集合し、ケーブルカーを利用し、その
終点からウオーキングを愉しもうということになっています。
 秋雨前線の影響で、雨の予報が出ていますが、天候がなんとかならない
ものかと願っているところです。

 2017年10月28日(土曜日)

 昨夜、横浜入りしている弟から電話があり、天気予報で雨との予報を聴
き、高尾山は中止にしたい旨の申し入れがありました。小生はあくまで、
大丈夫だと見込んでいました(天気情報を総合して)ので、一緒に行きたか
ったのですが、大変残念です。
したがって、横浜でゆっくりして13時ごろに向うを発って、我が家に来
ることになりました。それでも大変、うれしさでいっぱいです。
 一行がわが家に到着すると、まずお茶をしてから、家からすぐ近く(徒
歩15分)の温泉に行こうと思っています。この温泉は、露天風呂が「源
泉かけ流し」ですので、姉、弟夫婦もたぶん喜んでくれるものと思います。
 夕食は、家内手作りの『春巻き』と、にぎり寿司にアサリの吸い物など
を予定しているそうです。

 京王百貨店で、買い物を済ませ、家に戻ってから、弟たちからの電話を
待とうと思っていたところ、出先へ弟から早くも電話が入り、もうすでに、
最寄り駅に到着しているとのこと、さっそく、この足で、迎えに直行しま
した。
あいにくの雨でしたが、高尾山への山登りは昨夜中止と話は決まっていま
したので、わが家へ来てもらいました。
 話を聞いてみます弟夫婦と姉夫婦は、娘の結婚式のおりに、上京し、一
度わが家に泊ってくれたことがあるそうです。それをすっかり忘れていま
した。
 時間も正午を過ぎていましたので、昼食は、にぎり寿司とアサリの吸い
物などを皆と一緒でいただきました。おかげさまで、ゆっくりと話ができ、
かえって、このほうが良かったとも思ったりしました。食後のレザートは、
ケーキとコーヒーそれの果物で、また話に花が咲いたものです。
 あっという間に時間が過ぎましたので、そろそろ、「近くの温泉へ皆で、
行きますしょうか」ということになり、雨の中、車で5分くらいかかる所
の温泉「湯楽(ゆら)の里」まで出かけました。この温泉は、源泉の温度
が48℃で湧出量は、確か約3㎥/hだと記憶しています。とにかくイチ押
しの源泉かけ流しです。ただし露天風呂だけですが、内風呂は、普通の沸
かしの循環風呂です。
ゆっくり、温泉につかってから浴室を出ますと、もう皆さん方は、湯から
あがって、小生を待っていてくれました。
 車で帰宅後、夕食の支度ですが、弟の嫁さんと、姉が一緒に春巻きを作
る手伝いをしてくれましたから、スピーディーに料理は進みました。具(
ぐ)は午前中に作っておいたとのことです。そして、家内の弟からいただ
いた、28センチの鮎も塩焼きで食卓に並びました。
これは弟にと、家内が進めていました。
ビールも少し飲みながら、談笑しながらの、楽しいひと時を過ごすことが
できました。
 旅の疲れも出ていると思いましたから、早めにそれぞれ寝室に入ってい
ただきました。

 2017年10月29日(日曜日)
 
 今日は台風の影響で、雨が強く降りだしています。とうとう、「東京ス
カイツリー」見物も見送りになってしまいました。
 遅い朝食と、レザートで、雑談をしていました。これはこれでまた楽し
いひと時でした。こうしてゆっくり話す機会はそうめったにありませんの
で。
 弟に2階にある、小生の水彩画を診せると、この「マレーシヤ航空のア
テンダント」が気に入ったとのことですので、プレゼントをすることにし
ました。すると弟の嫁さんは、風景画「海をのぞみながら」がいいといわ
れるので、これを、姉には、「Venice」の風景画ということになりました。
この「Venice」は11月の展覧会で原画を使っての案内用ポスターに使用
しますから、展覧会が無事すみ次第、まとめて送ろうと考えています。

       マレーシヤ航空のアテンダント
CIMG0152






















          海をながめながら
CIMG0148




















             Venice
CIMG0154




















 東京駅に早めに出て、買い物などしたいといいますので、午後、京王線の
聖蹟桜ヶ丘駅のホームまで一緒に行き、見送りをしてきました。この駅は、
特急電車が停車しますので、新宿まで27分で行き、新宿からJR中央線快
速電車に乗れば、15分で東京駅に到着しますからと、パソコンで、ヤフ
ー路線情報を調べ、交通案内をコピーして渡しました。
 出発する車窓から手を振って、名残を惜しむようにお互い手を振りまし
た。
 今度は、大阪へも遊びに来てくれるよう姉が言ってくれましたので、そ
うしたい旨告げたところです。
 












 朝刊に目を通していますと、「古代アンデス文明展」について、編集員
の方が記事を掲載されていましたので、少し勉強させていただこうと思い
ます。
2018年2月末日まで開催されていますので、ぜひ鑑賞させていただこ
うと考えています。

 南米大陸の西岸に南北8千キロメートルにわたり連なるアンデス山脈。


CIMG0130







































そこに栄えた古代文明の変遷を、えりすぐりの遺物から概観する「古代ア
ンデス文明展」が東京・上野の国立科学博物館で10月21に開幕する。
現地取材に同行したライターでイラストレーターの芝崎みゆきさんと、展
覧会の見どころを探った。

 九つの文化が織りなす多彩な姿

 「アンデスという言葉には旅愁を誘う響きがある。7月初め、ペルーと
ボリビアへの取材旅行に発つ前、漠然とそんなふうに思った。4千メート
ルを越える山々、その空を舞うコンドル、流れるフォルクローレ(現地の民
謡)-。だが、そんな決まりきったイメージを抱いていた私に、かの地の遺
跡や遺物は、驚くほど多彩な姿を見せてくれた。本展は、カラル(紀元前3
千~同2千年ごろ)、チャビン(紀元前14~同6世紀)、ナスカ(紀元前3~
紀元7世紀)、モチェ(紀元3~9世紀)、ティワナク(6~12世紀)、ワリ(
7~11世紀)、インカ帝国(15~16世紀)の9文化を通じ、アンデス高
地の長い歩みをたどろうとするのが特色だ。
 「一度は行きたい世界遺産」といったランキングでしばしば1位になる
マチュピチュ遺跡で知られるインカ、地上絵で有名なナスカ、本展監修者
でもある米・イリノイ大学の島田泉教授が発見したシカン(いずれもペルー
)を除けば、多くの人はおそらく、大半の文化名すら聞いたことがないにち
がいない。
 
 マチュ・ピチュについて、ウイキペディアで調べてみました。

 マチュ・ピチュは、15世紀のインカ帝国の遺跡で、アンデス山麓に属
するペルーのウルバンバ谷に沿った山の屋根(標高2.430メートルに
ある。

当時インカ帝国の首都はクスコで、標高3,400メートルに位置する。
標高2,430メートルのマチュ・ピチュからさらに約千メートル高い場
所にその首都があった。現在のクスコはペルーの有数の都市でその市街地
は世界遺産(文化遺産)である(1983年に登録された)。

 なお、インカ帝国は1533年にスペイン人による征服より滅亡したが、
アンデス文明は文字を持たないため。マチュ・ピチュの遺跡がなんのため
に作られたか、首都クスコとの関係・役割分担など、その理由はまだ明確
にわっていません。

 概   要

 多くの言語で「「Machu picchu」と呼ばれるこの遺跡は、「おいた峰」
を意味するケチュア語「machu pikchu]を地名化したものの転写である。
山裾からは遺跡の存在はは確認できないことから、しばしば「空中都市」
「空中の楼閣」「インカの失われた都市」などと雅称(がしょう)される。
一方、遺跡の背後に見える尖(とが)った山はワイナ・ピチュ(若い峰)で、
標高2720メートル。山頂には神官の住居跡とみられる遺跡があり、山
腹にはマチュ・ピチュの太陽のの神殿に対する月の神殿が存在する。

 この遺跡には3mずつ上がる段々畑が40段あり、3,000段の階段
でつながっている。遺跡の面積は約13k㎡で、石の建物の総数は約20
0戸が数えられる。

 熱帯山岳林帯の中央にあり、植物は多様性に富んでいる。行政上クスコ
県に属しており、クスコの北西約70kmに位置する。2015年の第39
回世界遺産委員会終了時点でペルー国内に12件あるユネスコの世界遺産
の内では、クスコとともに最初(1983年)に登録された。南緯13度で、
10月から4月までの雨季と乾季に分かれる。

 未(いま)だに解明されていない多くの謎がある遺跡でもある。200
7年7月、新・世界七不思議の1つに選ばれた。

 ハイラム・ビンガムの遺跡発見

 
アメリカの探検家ハイラム・ビンカムは、1911年7月24日にこの
地域の古いインカ時代の道路を探検していた時、山の上に遺跡を発見した。

 ビンガムは1915年までに3回の発掘を行った。彼はマチュ・ピチュ
について一連の書籍や論文を発表し、最も有名な解説「失われたインカの
都市」がベストセラーになった。この本は『ナショナル・ジオグラフィッ
ク』1913年4月号ですべてをマチュ・ピチュ特集にしたことで有名に
なった。また1930年の著書『マチュピチュ:インカの要塞」は廃墟の写
真と地図が記載され説得力のある決定的な論文となった。以後、太陽を崇
(あが)める神官たちが統治したとか、あるいは太陽の処女たちが生け贄
(にえ)にされたといった定説が形成された。

 マチュピチュとは間違えてつけられたといわれている説がある。遺跡に
名前は決まっておらず、ビンガムが地元民に遺跡の名前を尋ねたところ、
地元民は今立っている山の名前を聞かれたと思ってマチュ・ピチュと答え
たことで遺跡の名前がマチュ・ピチュであると間違って伝わったという説
である。

 ビンガムはイエール大学の教職を辞してからコネチカット州の副知事、
知事を経て上院議員になったが、彼のインカ調査への影響力は死後40年
近くも残っていた。それは1つに彼の情熱的な文章のせいであった。

 ただし最近になり、マチュ・ピチュはすでにペルー人が発見したという
説が浮上した。それによると、クスコの農場主アグスティン・リサラガが、
ビンガムより9年早い1902年7月14日にマチュ・ピチュを発見して
いたという。真偽のほどは今後検証されるであろうが、ビンガムの息子が
その事実を述べられているということ、またこの人物について複数の証言
があることからも、事実である可能性は高い。


 かなり以前に描いた小生の作品です。

                      マチュピチュ遺跡
022 (5)



















 だが中南米を度々訪れて「古代マヤ・アステカ不可思議大全」などの著
書がある芝崎さんは「日本であまりメジャーでない文化にこそ、アンデス
の本当の魅力が詰まっているんです」と語る。
 たとえばモチェ文化。ペルー北海岸で栄えたこの文化は。トウモロコシ
の中に顔を表した土器、生と死を表現したセクシャルな土器など、独特の
モチーフで知られ、首都リマのあるラルコ博物館には大コレクションがあ
る。
本展にも一部が出品されるが、同館の性愛に関わる土器を集めた部屋には、
バラエティー豊かな100点近い作品が一堂に会する。
 また、ペルーの南・中央高地に栄えたワリ文化は、幾何学文様を思わせ
るキッチュな絵柄が特徴的だ。
「中米のマヤ文明などに比べ、造形がおおざっぱというか、ざっくりして
いる。でもそこに魅かれます」と柴崎さん。
 一方、ティティカ盆地周辺で栄えたティワナク文化は、巨大な石造物と
ピラミッドなどが特徴。今回も日本初公開の遺物が数多く出展されている。

 生け贄(にえ)の習慣

 このように独自色の強い古代アンデスの文化群だが、共通点もある。そ
の一つが生け贄(にえ)の習慣だ。大雨のたびに100人単位の生け贄を
捧げたことがわかっているシカン文化をはじめ、多くの文化にその痕跡が
認められる。

CIMG0125



















 モチェ文化では人を殺した後に体を切り分け、胴体の中に切った指を押
し込んだりした後、次の生け贄が捧げられるまで野ざらしにするといった
儀式を行っていたことが人骨からわかっている。本展にもそれらの人骨と
一緒に出土した人形の象形土器が出展される。

CIMG0128




































チャビン文化も、切り落とされた自分の首を持つ象形土器が認められる。

   自身の首を切る人物の象形鎧型土器(チャビン文化)
CIMG0132




























要は、現代のように、必ずしも人命を第一とはみなされない社会が存在し
たということだ。もう一つの共通点はリャマである。ラクダ科の動物で体
高1.2mほど。現在もアンデス各地で見かけるが、柴崎さんは「ワリ文
化でリャマの香炉が出土していることからわかるように、昔から家畜だっ
たようです。

     土製のリャマ像(ワリ文化)
CIMG0126




































肉は食用、ふんは燃料、内臓は占い、皮や毛は衣料に、神経や腱(けん)
はムチや紐(ひも)にと、捨てるところがないんですって」その魅力を、
この特集のためにイラストにしてくれました。

CIMG0129

































 文字・都市は持たず

 監修者の島田教授のよれば、このようなアンデスの各地の文化はいずれ
も文字を持っていない。さらに巨大な都市群も最後まで築かなかった。
「一口に文明といっても、新旧大陸のそれをひとくくりに考えるべきでは
ない」と指摘する。私たちと異なる価値観を持ち、リャマに支えられて暮
した古代アンデスの人たち。本展では、その美意識を様々な土器や金銀の
装飾品、織物などから、暮らしぶりや当時の医療水準、当時の人々そのも
のである出土ミイラに残る痕跡から学ぶことができる。
 展示品は、約200件。じっくり見て回れば帰る時には、それまで耳慣
れなかった古代アンデス文明の魅力にどっぷりつかっていることでしょう。

 もう少し古代文明アンデスについて、知りたくなってきましたので、勉
強したいと思います。


 シカン文化

 シカン文化はペルー北部沿岸で750年から1350年頃のプレ・イン
カ時代に栄えた文化。南イリノイ大楽人類学科教授島田泉により名づけら
れた。
「シカン」とは「月の神殿」を意味する。地名からランバイエケ文化とも
呼ばれるが、これから別々の文明なのかどうかは論争の的となっている。
文化的変動に基づき、前期・中期・後期の3つの時代に分かれる。

 前期シカン

 前期シカン時代はおよそ750年に始まり、900年に終わった。
シカンはおそらくモチェ文化(800年頃滅亡)の末裔であり、遺物の文様
に共通性を持つ。他の類似したグループにカハマルカ、ワリ、パチャカマ
ックがある。遺物からは、シカン文化の人びとがエクアドルからウミギク
ガイやイモガイなどの大型貝類、北のコロンビアからエメラルドと琥珀(
こはく)、南のチリから青石、東のマラニョン川流域の金の交易網を保持
していたことが分かる(ランバイエケ文化はこれらの人びとの一部であった
)このようにシカン文化の優れた品質の土器やナイペと呼ばれる通貨を貝や
鉱物等と交換し、周辺の異文化との交易が盛んであったと考えられている。
800年ころ、ラ・レチェ渓谷のバタン・グランデにポマという都市が作
られた。

 中期シカン

 中期シカン時代は900年~1100年の間続いた。バタン・グランデ
は政治・宗教的中心地としてこの時代栄えた。バタン・グランデには多く
の熟練した金工職人がいた。バタン・グランデの支配者の墓には金銀の大
杯、エメラルド、真珠、そして半貴石と貝殻と羽で飾られた黄金のマスク
を付けたミーラが納められた。その他に粘土、貝殻をちりばめた木、そし
て織物が海鳥、魚、水中のウミギクガイを描いた。これらの貝殻はエクア
ドルで集められた。

 また型を使った土器製作が盛んで、黒くて光沢のあるのが特徴。ある程
度の大量生産が可能で、金属製品とともに交易品として使われた。加えて、
発掘された墓にあった遺体の生物学的調査や、土器に表わせれた人物の造
形から、異なる文化的・民族的背景を持つ人びとが暮らしていたと考えら
れている。

 スペイン人がこの地にたどり着いた時の記録によると、最高位の役人は
支配者が歩く場所にウミギクガイの粉を撒いて丁寧に歓迎する役目だった。
ランバイエケ渓谷の織物は、特徴的な目と三日月の頭飾り、海のモチーフ、
スリットの入いったダペストリといったモチェワリと現地の要素が組み
合わさっている。

 後期シカン

 後期シカン時代1100年頃始まって1375年頃のチムー王国による
征服で終わった。1100年ころ、バタン・グランデの地は放棄され、焼
かれた。新たな中心地はトウクメに移った。これは30年以上続いた旱魃
のせいとされている。
シカン文化の人々は、黄金で装飾された儀礼用のナイフ、トウミを使用し
ていた。最初期のトウミが発見されたのは、この時代からだった。

 トウミと呼ばれる裕福な家庭の副葬品である儀礼用ナイフ。伝説の人物
ナイムランプの意匠。

CIMG0137
























 神聖な顔を模った水差し

CIMG0140












 ※モチェ文化

 ペルー北海岸にそそぐモチェ川から名称をとられた。紀元前後からA.D
.700頃まで繁栄した。インカに先行するプレ・インカと呼ばれる高度な
文化のひとつである。「モチーカ」と呼ばれることも多いが、研究者の間
では、スペイン人投着時に北海岸の住民が話していた言葉(ムチック語)の
名称ということで、避ける傾向が強い。

 ワリ文化

 西暦500年から900年ごろ、アンデス中央高地で繁栄したプレ・イ
ンカの文化。

 ワリ文化の起源は、はっきりとはわかっていない。ただし、この地域に
はワリ以前にワルパと呼ばれる地方文化があったことがわっている。

 ワリは、現在ペルー沿岸部と高地部分全体に版図が広がっていたといわ
れているが、太平洋沿岸部におけるワリの支配が実際にどのようであった
のかは、リマ近郊やナスカ地方の一部を除けば、確実なことはほとんどわ
かっていない。ペルー北海岸にあったモチェ文化圏との接触は様々議論さ
れている、かつてはワリの進入がモチェ政体の衰退を促したことが議論さ
れていたが、、現在ではこの説を否定する研究者が多い。また、ほぼ同じ
時期に、アンデス中央高地南部にある現在のボリビア北部ではティワナク
文化が栄えていた。この時期を、アンデス考古学の編年で、中期ホライズ
ンという。現在、その編年はD.メンゼルの編年に基づきながら修正されつ
つ用いられている。

 メンゼルの編年で1Bにあたるころからワリ文化が始まる。ペルー南海
岸に栄えたナスカ文化の9期が、アヤクーチョ盆地チャキパンパ期にあたり、
北海岸ではモチェV期に相当する時期である。
おおよそ西暦600年頃である。その後、メンゼル編年でいう2Aに当たる時
期が、アヤクーチョ盆地の編年のコンチョパタ期にあたり、おおよそ西暦
700年頃まで続く。この時期が最もワリ文化が栄えた時期である。

 ワリでは、各地を支配するためのすぐれた建築物を多数配しており、現
在のペルー共和国北部にあるワマチューコ市郊外のビラコチャパンパ遺跡
や、南部のクスコ県にあるピキリャクタ遺跡は有名である。壁を二重に巡
らした、長方形の部屋状構造物を特徴とするこのワリの建築群は、ワリの
支配の一つの指標として議論されているが、実際には、地域によって差が
見られ、地域によっては土着の政治組織を覆うような形で支配をしていた
ことを示すものもあるという。

 ワリ期には、壁の下に埋葬が伴われることがあった。これはアヤクーチ
ョのワリ遺跡でも見られるし、また、クスコ郊外のピキリャクタでも見つ
かっている。ピキリャクタの人骨の中には、頭蓋骨変形が施されたものも
ある。

 D字型をした広場を持つ建造物は、ワリ文化の建築群の特徴の一つで、
儀礼の場であろうと解釈されている。ワリ本拠地やいくつかのワリの地方
遺跡の中には、地下式建造物を持つものがあり、地下数メートルにまでお
よぶ複雑な構造をしている。

 ワリ文化に代表される考古学遺物のうち、大型のカメやケーロと呼ばれ
るコップ状の土器は有名である。ワリ文化では、トウモロコシ酒(チチャ)
を用いた儀礼活動が盛んに行われていたとされており、その儀礼が執(と
)り行われた後、土器を壊(こわ)して土中に埋める儀礼が行われていた
とされている。カメには人物像や作物などが描かれている。

 ワリ期の織物も海岸地域で複数見つかっており、そこにはティワナク文
化やプカラ文化と共通する「杖をもった神」の図像が描かれている。描か
れるモティーフは同じものが多い。描かれ方がこれらの文化とは若干異な
っている。ティワナク文化の同じ図像に比べ、ワリ文化の図像は、ティワ
ナクの図像とは異なった様式化がされている(表現に困るが、強いて言えば、
漫画っぽくなっているといったような感じであろうか)これは土器に描かれ
ている図像も同じである。ワリ期に利用されていた帽子も見つかっており、
おそらく権力者が利用していたものであろうとされているが、その特徴は
4つの角を持ち上部が平らな物である。これと似たような帽子はティワナ
ク文化で利用されていたといわれている。

 またワリ文化では、黒曜石の流通も一部行われていた。ただし、黒曜石
が珍重されたメソアメリカ文明と異なり、アンデス文明においては、黒曜
石は、その鋭利さやガラス質の質感は珍重されたものの、それでも、他の
石材と比較して特別に重要視されていた石材ではなかった。しかし、紀元
前の社会から流通があったことはわかっている。

 チーム王国

 チムー王国は、ペルー北部の沿岸部でチムー文化を担った王国で、85
0年頃から1470年頃まで存在した。後期、中間期(プレ・インカ)最大
の王国で1000㎞の海岸線とアンデスの人口の約2/3を含んだ。
現存する最大の遺跡はチャン・チャン。

 チムー王国はモチェ文化の遺民によって興された。最初の谷々が喜んで
武力を合わせていたようだったが、シカンを征服した。カハマルカ文化と
ワリ文化の影響を大きく受けていた。伝説によれば、首都チャン・チャン
は海からやってきたタカイナモという人物によって創られたという。

 チムーはインカ帝国を止めるチャンスがああった最後の王国だった。し
かしトゥバック・インカによるインカの侵攻が1470年代に始まり、タ
カイナモの子孫である国王ミンチャンカマンは敗れ、ワイナ・カパックの
即位した1493年には侵略はほぼ終了していた。

 チムーの陶器は漆黒だった。また、精巧複雑な金工でも知られ、先コロ
ンブス期で最先端技術の一つだった、

 チャビン文化

 チャビン・デ・ワンタルはペルー中部リマから北に約250㎞、ブラン
カ山脈東麓のアンデス山中にあるワラス近郊にある遺跡です。標高は32
00mほどで、インカ以前の紀元前1500年頃から200年にかけて栄
えた、チャビン文化の代表的な遺跡となっています。

 そのむかし、モンゴロイド(黄色人種)の祖先が、ベーリング海峡を渡り、
中央アンデスの高地に築いたといわれるアンデス文明の起源の場所ともい
われ、初期に作られた旧神殿と後期の神殿からなる石造の祭祀遺跡が見つ
かっています。

 ジャガーを擬人化した主神体ランソンの石像や地下の回廊、獣型の精巧
な彫刻など神殿内に点在する遺物も、とても興味深いものとなっています。
1985年にチャビン(考古遺跡)という名称で世界遺産に登録されました。

 カラル文化

 カラル遺跡リマの北200㎞に位置するスぺという町の近くにあります。
この地域を流れるスペ川流域には数多くの古代遺跡が眠っており、194
8年にカラルの一部である古代都市が発見されています。しかしここが世
界的に注目されるようになったのは1994年に本格的な発掘調査が行わ
れてからです。砂漠地帯からピラミッド型神殿や大規模な住居、円形劇場
まで含む大規模な都市遺構が発掘されたうえ、そこから見つかったシクラ
とばれるイグサの袋の年代測定をしたところ、紀元2600年以上も前の
ものだったのです。

 エジプトのピラミッドが作られたのと同じ古い時代に、アメリカ大陸に
大規模な都市が存在したというのは、それまでの常識からは考えられない
ことです。このためカラルは「アメリカ大陸最古の都市」といわれるよう
になりました。その評価はまだ完全に固まっているわけではないのですが、
多くの人たちが驚きをもって注目し、現在も続けられている発掘調査に期
待している状況です。

 インカ帝国

 南アメリカ北西部のアンデス高原に興(おこ)った帝国。メソアメリカ
のマヤ、アステカの両帝国とともに古代アメリカ文明を代表する。1200年
頃に興り、1532年スペイン人に征服された。文字をもたなかったため、
帝国の歴史と生活の実態はスペイン人年代記作者(クロニスタ)の記録およ
び考古学、民俗学の研究により再編成されている。インカ帝国は当初クス
コを中心とする―小部族社会にすぎず、帝国の始祖マンコ・カバックから
第7代までの皇帝は伝説的存在だった。インカ帝国の急速な拡大は第9代の
パチャクテイ皇帝(在位1438~71)および第10大とトウバク・インカ(在位7
1から93)時代の30年間に行われた。近隣のルパカ族、チャンカ族を討ち、
チムー王国を征服して最盛期を迎え、その版図は現在のエクアドルからチ
リの中央部に及ぶ100万k㎡(日本の約3倍)、人口約600万を擁する大帝国
となった。帝国の基礎は閉鎖的村落共同体(アイユー)を中心とする農耕社
会にあり、土地と家畜はほとんど国有とされ、その独特な農地政策は一種
の社会保障の役割を果たした。帝国は4つの県(スーユ)に分れ、4人の県
知事が皇帝の下で帝国の政治を担当した。帝国拡散政策は巧みで、被征服
民族を移住させる制度(ミティマ)が採用されて、未開拓地の開発と反乱抑
制がはかられた。皇帝を頂点に貴族、神官、平民というピラミッド型をな
す中央集権的な階層社会は流動性に乏しく、生産、消費から個人の生活に
いたるまですべてが国家の統制下にあった。皇帝(インカと呼ばれた)は、
太陽の化身で絶対的権力をもち、その血縁者は被征服民の主張(クラカ)と
ともに貴族階級を構成した。神官も諸階級に組織化され、その秩序を誇っ
た帝国も、1532年内紛を起こし、その内紛に乗じたF.ピサロとわず
か200人のスペイン人の手で翌年あえなく征服された。第13皇帝アタ
ワルパ(在位1532年~33)の処刑でインカ帝国はついえたが、帝国の
整った行政・社会組織はスペイン植民地体制内に温存されることになった。

 ナスカ文化

 アンデス文明の古典期文化(前200頃~後1000頃)。ペルー南海岸のイカ、
ナスカ河谷地帯に栄えた。6~11色の色彩を用いて、鳥、魚、人間、怪獣
神などを描いた多彩色土器に特色がある。遺跡としては、イカとナスカ両
都市の間に広がる砂漠に描かれた壮大な地上絵と「木杭の址(あと)」と
呼ばれる建築址などがある。1939年に発見された地上絵は酸化して黒くな
った表面の小石を取り除き、その下の白い表土を露呈することで描かれて
おり、その後の調査で、450k㎡にわたって約70個の絵柄、数百個の幾何
学的図形があることがわかった。人間や動植物を描いたものが多く、全長
50mのハチドリ、55mのサル、180mのイグアナ、更に285mものペリカ
ンまたはサギの絵のほか、直線や渦巻線だけのものもある。前500から50
0年に描かれたと推定されているが、何の目的で描かれたかは解明されて
いない。これらの地上絵は、1944年世界遺産の文化遺産に登録。
 ※ アンデス文明期に、数多くの、しかも大きな地上絵が描かれたのは、
  宇宙人が、描いたものです、と何かの本で読んだことがありますが、
  この当時、宇宙人との交流があったのではないかと、小生はつぶやい
  ています。


 ティワナ文化

 この文化の起源は、紀元前にまでさかのぼるとされるがまだはっきりと
わかっていない。ティワナク独自の文化が形成されてくるのは、紀元前1
-2世紀ころからである。その文化が広範囲に広がり始めるのは紀元後4
00年頃からである。その最盛期は、おおよそ750年―800年頃から1
000年前後―1100年頃で、その頃になると、北はペルー寮のチチカ
カ湖北岸や現在のモケグア県、南はチリのサン・ぺドロ・デ・アタカマや
アルゼンチン北部、東は現在のボリビアのコチャバンバ地方にまで影響が
及んだとされている。これらの地方のいくつかにはティワナク様式の土器
やテラス上構造の基壇からなり方形の半地下式広場を持つ建造物が存在す
る。

 



























 






















このページのトップヘ