atusisugoiのblog

2018年04月

 静 の 巻

 つ ら ら 簾(すだれ)

 なにしろ、女の旅である・馬の背には乗せられているものの、その脚力
を活かすほどには、道の捗(はか)どれるはずはなかった。
 迎えに来た忠信にせよ、童(わっぱ)の鷲ノ尾にしろ、騎馬上手(じょ
うず)なので軽々と、始終、前後に付き添っていてくれるが、かの女にす
れば、吉野山とは、悲しいほど余りに遠く、山路の谷ぎしやら川の瀬やら、
落ちまいとするだけでも、精いっぱいな途々(みちみち)だった。
 そのうえ、冬十一月の灰色の空にはチラチラと雪を見初め、ようやく四
日目のころ、吉野川まで来て、渡船(わたし)の上に乗った時は、身も白
鷺(しらさぎ)と紛(まご)うほどな大雪なっていた。
 「もう、ここは吉野山のふもと、あと、わずかでございますゆえ、御辛
抱(ごしんぼう)なされませ」
 忠信に励まされ励まされ、静は雪に吹かれつつ、山坂の胸つきを、自分
が歩むかのような喘(あえ)ぎ方で、馬の背につかまっていた。
 でも、その雪風は、冷たくもなんともなかった。むしろ心は、ほほ笑ん
でいた。「きょうのうちには、わが夫(つま)に、お目にかかれる。-お
逢いできる」と。
 艱苦(かんく)というものは、こうも、人を純にするものか。艱苦を伴
(ともな)ってみない男女の仲は、恋などと名づけてみても、まだ、骨身
に恋を味わったことでもなければ、生命のうえに愛をおいて、自分を捧げ
切ったことでもないのではなかろうか。
「-おうういっ。おおおいっ」
 雪の声ではない、耳のせいでもない。たれか、後ろから呼んでいるよう
だった。
 佇(たたず)んでいると、やがて近づいて来たのは、蓑笠(みのかさ)
をまとった大法師と、その従僧らしき者とであった。
 さっき、ふもとの木賃(きちんん)で休んだとき、里人(さとびと)た
ちと土間炉(どまろ)の火を囲みながら、酒をのんでいた吉野法師があっ
た。「-ははあ、その法師だな」と、忠信はすぐ察した。「待て待て、こ
の山に、見かけぬ者たちだが、御辺がたは、そもどこへ行かれる?」
 大法師は、こなたへ、近づきながら、忠信は見ないで、静の方へばかり
眼をそそいだ。
 「されば、奈良の在所の者でおざるが、吉水院(きつすいいん)の知る
べを訪ねて参りますので」   
 「吉水院のたれを」
 「千丈房と仰せられますが」-いっては、まずいかとも思われたが、ぜ
ひなくそれだけを明かして、「-その吉水院までは、なお、だいぶ道程が
ございましょうか」
 と、忠信は、言葉を外(そ)らした。
 大法師は、充分不審を抱いているらしいが、これも、さり気ない風で。
 「-さよう。道はまだ幾曲がりの登りだが、あと二十町とはあるまい。
やがて山上へ出れば、金峰山(きんぷさん)の本坊やら蔵王権現(ざおう
ごんげん)の山門が右手に望まれよう。それに添うて門前町の民家も軒を
並べておる。ともあれ、その辺で、また問うてみるがいい」
 「ありがとう存じまする。してあなたは、いずれの御房でございますか

 「横川(よこかわ)の覚範と申す法師じゃよ。-オオ、えらい大雪にな
って来た。気を付けて行くがいいぞ」
 覚範と連れの者は、そういい捨てて、馴(な)れた山道を、先へ進み、
いつか、忠信たちの馬よりはるかになっていた。
 山深むほど、雪は厚く、馬も行き悩むほどだった。けれど、どうにか、
先に覚範が教えてくれた山中の門前町が、ようやく、近くに見えだしてい
た。
 そのあたりの一軒で、
 「吉水院は、どこか」
 と訊いてみると、
 「ご覧(ろう)じませ。あの、谷間へ臨んで見える」、御堂(みどう)
や門の一郭がそれでござります」
 と、女はわざわざ、そこへ降りる谷道の口まで来て、教えてくれた。「
・・・・・・・おお、あのお屋根がそれか」と、静の瞼(まぶた)は、す
ぐ、こみ上げる胸のものに、義経に会うまで待てないように熱くなった。
同時にここは天上の国かと、四方のながめに、眼を疑った。みるかぎりな
雪の峰、雪の谷、そして所々(ところどころ)にあるのは、塔や楼門の屋
根だけである。
 ああ、遠い遠い人の世間。
 美しい、この人界の外。
 ほっとした安心感に、疲れも忘れ、恍惚(こうこつ)としていた。-か
の玄宗皇帝が、天上にある貴妃(きひ)を恋うて、夢に、その西廂(せい
しょう)をたたき、貴妃の魂魄(こんぱく)を驚かせたという長恨歌(ち
ょうごんか)のあの一章もさながらであった。その間に、早くも忠信は吉
水院の門へ向かっておとずれていた。

 毎日毎夜、屋根は、降り積む雪だった。廂(ひさし)には氷柱(つらら
)のすだれが、溶けた日もない。
 そして昼も小さい灯を持つ帳の内には、静の裳(も)と、義経の袖とが、
重ね合う鴛鴦(おしどり)の彩羽(いろばね)にも似て、焚き香の逃げる
すきもないほど、深く垂(た)れこめられていた。-相逢うた日から、も
う、まる五日である。ふたりは、ここの渡殿(わたどの)から表へは、一
歩も出ていなかった。
 灯皿(ひざら)の油は、ふたりの愛の泉に似ていた。-注(つ)ぎさし
注ぎさし、夜も昼も燃えたであろう。しかも、このままな巣籠(すごも)
りが、いつまで、ゆるされるはずのないことを、静も義経も知っている。
 いわば二人は、今を限りな思いであった。そうした切ない抱擁や愛の焼
尽(しょうじん)を、型どおりな男女の秘戯に当てはめては不当であろう。
帳をめぐらした中の二人は、地上を離陸した性の小鳥であった。神秘な官
能の森のうちに、動物の性そのままに生命を歓び合い、動物の姿態の中に、
なおまた、限りなく哀(かな)しい人間の性(さが)も一つに住んでいた
のである。
 こうして、静が、ここへ来てから、はや五日目のきょうも、暮れようと
していたころ、廊のどこかで、
 -り、り、り、りんと、鈴が鳴っていた。
 従者の控えと、そことの間は、用心のため、ひき綱による鈴の知らせに
なっている。
 すぐ義経の影が、の端れに見えた。そして、渡りの橋越しに、
 「弁慶か、何事ぞ」
 と、こなたにぬかずいている武蔵坊の姿へいった。
 「は」
 と、弁慶は、巨眼を上げた。辺りを見ながら、声を低めて、
 「・・・・ただいま、正近が戻りまいたが、依然、吉野大衆のうごきは
きのうにも益して、なお険(けわ)しげに見ゆる由でございまする」
 「当院(ここ)の千丈房は、帰ったか」
 「いや実生房(じつしょうぼう)もともども、前夜からまだ戻って見え
ませぬ」
 「そうか、・・・・・ぜひもない」
 語尾を消した。そして、しばらく考えてから、またいった。
千丈房が帰ったら、も一度、鈴を鳴らせよ。すぐ参る」
 「こなたへ、お渡りなされますか」
 「うむ、報(し)らせは、表の間(ま)で聞こう。そのうえ、皆ともひ
ざ組みで評議をせねばなるまいし」
 義経は、うちへかくれた。
 その間に、静は、燭(しょく)の数(かず)を、二つ三つ足していた。
ーその姿を見つつ、義経は、 「会うは、別れのはじめとか、静とも、も
う別れる日は、近づいた」
 と、ひそかに思った。
 この吉水院に落ち着きをえて、静が来るのを待っていた数日間は、まだ、
きのうきょうのような、険しいうごきは一山に見えなかった。
 子守ノ宮の神職文彦(あやひこ)、ここの実生房、千丈房らの提議を容
れて、蔵王堂での大衆の評議は、すこぶる義経主従に好意的であったのだ。
 で、文彦も安心して、かれはここよりはるか奥の峰の、水分(みくまり)
神社へ帰ってゆき、実生と千丈のふたりも、
 「まずまず、年を越え給うて、来春の雪解(ゆきげ)を待ち、吉野が花
の雲となる日まで、ゆるりと、ここにおわしませ」
 と、自信をもって、義経主従へ、披露していたほどなのである。
ところが、それもつかの間(ま)。静がここへたどり着いた翌々日ごろか
らの変化だった。大衆の間に、また寄り寄りな異論がでたとか、執行(し
ゅぎょう)の次座たる律師覚範(りつしかくはん)の不在中に行われた談
合だから、さきの議定は、総意でないとか、山は、おだやかでなくなった。
 「ばかなこと。たれが、そんな異論を」
 千丈や実生は笑っていた。だが一日ごとに、異論は、けわしさを加え「
-捨ておけじ」と、かれらが、執行以下の役々の座へ、その腹をただしに
出向いた時は、すでに遅かったほどだった。義経にたいする山の態度は、
がらりと変わっていたのである。
 「-はて。なんで?」
 そのいぶかりもすぐ解けた。
 異論の張本人は、横川の律師覚範と分かった、かれが、都から帰山する
やいな、事態は、くつがえされていたのである。
 金峰山(きんぷせん)本坊や蔵王権現を中心にこんな山にも、従来から
の確執(かくしつ)があった。執行以下、役々の座が、おのおの自我を張
りあっている。そのうえ、南都興福寺系の僧と、半僧半俗を標榜(ひょう
ぼう)する修験者たちとの対立もあった。-だが、こんどの場合では、
は、そんな対立の結果と見られることは、極力避けている風だった。
 かれはただ、天下の権勢が、鎌倉の掌(て)に帰すしかない事実を、都
で、知って帰ったところなのだ。-あまつさえ、帰山の途中、かれは、落
武者らしい骨柄(こつがら)の優(すぐ)れた男と、眼もさめるばかりな
佳人(かじん)が、雪を冒(おか)して、この山の吉水院を尋ねて行くの
に、出会ってもいた。
 「-兄頼朝公から勘当をうけ、都を追われたはずの判官どのが、大物(
だいもつ)ノ浦では、多くの家来を死なせ、身一つ、この吉野にさまよい
来て、一山の庇護(ひご)を乞いながら、何事ぞ、その妾(しょう)にて
もあるか、艶(なま)めかしき女性(にょしょう)を蓑笠(みのかさ)に
着せ隠し、仏地の一院に引き入れて、痴話狂(ちわぐるう)うておるなど
とは」
 覚範は、静を見かけた次の日から、役々の座で、いいふらしていた。
 特に大衆の中では、
 「役(えん)の小角(しょうかく)以来、われらは、先覚の後を慕って、
身に十六道具をつけ、心に戒(かい)を結び、金峰、大峰の大岳(たいが
く)に、夏秋の修行はおろか、石に伏し、草を食らって、求菩提(ぐぼだ
い)の一念を研(と)ぐこと、夢寐(むび)の間も、怠(おこた)らぬも
のを、世に敗れし名利の落武者が、ここへ来てまで、女性を伴い、霊地を
けがすとは、何事か。そのような痴将を、鎌倉殿の命にそむいてまで、庇
(かば)い立(かば)(だ)てして、なんになるかよ。ばかな話だ、具の
骨頂だわ。なんと、同行たちは、そう思わぬか」
 と、焚きつけた。
 判官どのが、美しい女を連れている、吉水院の奥に隠れて、日夜痴夢に
おぼれている。
 そのことは、修験大衆の反感を煽(あお)るに充分だった。義経への同
情は、たちまち去った。そして、幾度かは、議論ともなったが、結局、十
六日の夕、さ、最後の評議では、「-如(し)かず、山より追い出さん」
 と、決定した。
 そして、千丈、実生の両名は、蔵王権現の執行から、一山の名をもって、
 「いちどは、助け取らせた窮鳥(きゅうちょう)なれど、世上へのはば
かり、今は、匿(かく)まいおくわけにゆかぬ。縄打(なわう)って、鎌
倉方の手へ、引き渡さぬだけでも、大きな慈悲ぞ、早々、この山を出て、
どこへなりと、落ち給えと、御坊ら吉水院の者より、判官どの主従へ、し
かと達せられよ」
 と、きびしい申し渡しを下(くだ)したのだった。

 下 天 上 天(げてんじょうてん)


 「-事態、なんとも、残念にござりますが、右のような、思わぬ仕儀と
なり果てまいて」
 その夜。
 吉水院へ引き揚げて来た千丈と実生は、さっそく、義経たちと、一室に
会して、ありのままを、しかし、いかにも、いいにくそうに伝えたのであ
った。「今さら、いかなる言葉をもて、お詫(わ)びしたものやらと、暗
い思いで、戻りまいた、とはいえ、事のいきさつ、おつつみ申す場合でも
ございませぬし・・・・」
 心から気のどくそうに告げる二人であった。そして、それが、自分たち
の裏切りでもあるかのように詫びぬくのである。
 「なんの・・・・・」
 と、義経は打ち消した。
 始終、黙然と聞くうちに、かれの姿にはもう「かねて、期(ご)
したること」という観念はできていた。
「うらぶれたるこの義経に、過ぐる日よりの厚い御庇護(ひご)、それさ
え、どれほど、うれしく思われたことかしれぬに、このうえ其許(そこ)
たちを、苦しい羽目に立たせてはすまぬ。・・・・のう、面々」
 左右の者の顔を見てー
 「山の議定(ぎじょう)とあっては、寸時も、ここにいることはなるま
い。かたがた、吉水院の迷惑。いで、支度せよ。夜のうちに、ここを立ち
出でよう」
 といった。
 弁慶も、有綱も、そのほか皆、うなずき合って、すぐにもと、起ちかけ
る。-が、千丈房は、あわてて、一同を引き止め、
 「さまで、鳥の立つように、お急ぎあらずとも、まずまず、落ち給う道
のおえらびも大事。また、山中のこの大雪、何かとここで、お支度もおす
ましあるように」
 と、みずから厨房(ちゅうぼう)へ出て、山僧たちに命じ、暖かい夜食
やら輿弁当(こしがて)の支度を、にわかに、いいつけた。そしてまた、
 「・・・・・何もございませぬが、お体を温(ぬく)めはぬことには」
 と、酒を運んで来、心ばかりな別宴を、そこに設けた。
 事実、室内でさえ、手足の知覚はないような寒さでなのだ。
 「-かたじけない」と、人びとはみな、杯へ手を出した。酒の香に、鼻
をつかれて、急に水洟(みずばな)をすすり上げる者もある。「ところで
」と、実生房は、満べんなく、酒の瓶子(へいし)を、人びとの杯へすす
めながら、訊(たず)ねていた。
 「これより、人里へお降りになるは、いかにも、危うい心地がいたしま
すが、御一同には、道をいずれに取って、吉野を出で給うお考えでござい
ますか」
 「さあて」
 と、弁慶はうめいて、忠信や有綱の顔を見た。たれにも、思案はないの
である。
 そこで、実生房がいうには。-子守の神職文彦(あやひこ)がいる水分
(みくまり)神社は、ここからさらに、登りばかりの峰道一里余の奥にあ
る。冬は、ほとんど、通う人も見られない。ひとまず、目前の御危難をそ
こへ避けられては、いかがなものか。
 山のうわさも、人里における追捕(ついぶ)の詮議(せんぎ)も、やが
ては、下火になるに違いない、
 よい日和(ひより)を見、水分(みくまり)ノ峰から大峰へ超え出れば、
どこへお志あろうと、その先は、もう、ご自由と申すもの。
 ただ、峰また峰、奥へ行くほど、積雪の量は、想像もつきかねる。-そ
れだけに、御辛抱あるならば、最も安全な逃げ道でしょう、と実生房はい
うのであった。
 義経はかたわらで、聞いていて、
 「それよ、その道こそ」
 と、心に決めたもののようである。が、それともいわず、かれは、静に
も、身の用意をさせるため、渡りの橋のかなたへ隠れた。
 静は知っていた。覚悟もしていた。
 義経から、今、
 「晨(あした)へかけて、雪の峰道を、歩かねばなるまいぞ。・・・・
・そのつもりで、身じたくを」
 と、いわれても、うろたえもしなかった。
 「はい」
 と、素直に従って、しばし帳の裡(うら)にかくれ、かすかな衣ずれや、
櫛匣(くしげ)の音を、もらしていた。
 化粧の具(もの)など、持つはずもなし、寺に備えのあるわけもない。
だが、かの女は、寝起きの素顔など一度も義経に見せていなかった。それ
は、それは、あわれなばかり、いじらしい女の細心に思われた。今も、ほ
のかな香を伴って、義経の心へ、沁みとおってくる。
 愛(いと)しいやつ。不愍(ふびん)なやつ。ああ、離したくない。
 義経は、その間、自分を失って、思いみだれた。
 -だが、身じたくを了(お)えて来た静を見ると、かれは逆に、励まさ
れていた。
 「よいのか、それで」
 「はい、何が迫ろうと、うろたえまいと、常に思うておりましたから」
 「いつかは、かかる日が来ると、そなたも、それは、覚っていたか」
 「日ごろの、おことばの端からも。・・・・、もう、どうぞ、静の身へ
は、おこころを煩(わずら)わし給わりますな」
 「よういうた。じつは一山の議定とあって、ここにおれぬこととなった。
あわれ、天(あま)が下(した)、五尺の身を容(い)るる所もない義経。
不愍(ふびん)やなあ、そなたという女(おみな)は。男は、あまたある
ものを選(よ)りに選って、追捕(ついぶ)に追わるるこのような男にそ
うとは」 「いいえ、それもこれも、わらわの科(とが)でございました。
静ゆえに、どれほど、お苦しいうえにも、お胸を苦しませているのでしょ
うか。静こそ、罪深い女とおもうておりまする」
 「そのような詫(わ)びは思いすごしぞ」
 「いえ。千丈どののおはなしを、静も物蔭でうかがっておりました。山
の大衆をそそのかす横川の覚範とやらは、先ごろ、吉野へ参る途中、山路
で物を問われた大法師でございましょう」
 「そのことは、忠信からも聞いていた。なぜそれが、そなたの科(とが
)か」
 「もし、静が、殿をお慕いして来なければ、、山僧の怒りにもふれず、
殿を、吉野より追わんなどという沙汰にもならなかったでしょうに」
 「なんの、それは、下心ある悪僧の口実。かれらの腹は、畿内の雑武者
(ぞうむしゃ)も同様、ただ義経の首を獲(え)て、鎌倉どのの覚えにあ
ずからんとするうごめきならん。この山も、世間のどことも違っていない
というだけのもの」
 おりふし、渡りの向こう廊下を、どすどすと、よろい具足した面々が通
って、中ノ坪へ、降りて行った。弁慶だけが、一人、渡りのたもとに残っ
て、ひざまずき、
 「お支度もよくば、いつでも」
 と、奥へ告げた。
 なおしばしば、静も、義経も、そこを出て来なかった。-無理もないと、
弁慶は察している。それにしても、一体この先の奥の奥まで、お連れにな
るお心か。あるいは、人を添えて、ここから下山させるおつもりなのか。
かれはひとりで、気をもんでいた。
 ほどなく、義経は、先に姿を見せて、
 「弁慶、雑色(ぞうしき)ども四名は、静に添えて、ここから都へ立ち
帰らすぞ。そのように、申しつけよ」
 「あ。では、静さまは」
 「武者も付けてやりたいが、人数はわずかだ。それにかえって、人目に
立とう、追捕の輩(やから)も、狙(ねら)うのは義経のみ。よも途中で
大事はあるまい」
 「よう、静さまにも、おきき容れでございましたなあ。先刻より、いか
があらんお心にやと、いずれも、胸をいためておりましたが」
 「足馴れた山伏どもすら、夏秋の峰入りは、嶮(けわ)しさに悩むとい
う吉野の奥、大峰の細道。しょせん、女性(にょしょう)の行けるこの先
ではない、あまつさえ、雪」
 「ならば、雑色どもには、さように申しつけおきましょう。静さまには、
しばしお待ちを」
 弁慶は外へ降りて、木戸を出て行った。
 主従、十一名のうち、七名は、股肱(ここう)の臣だが、名もない雑色
といえる程度の家来が、四人交(ま)じっていた。
 かれらは、静かについて、都へ帰れとの命を、むしろ、よろこんで受け
た。-一人淋しげなのは、鷲ノ尾三郎で、
 「静さま、静さま」
 やがて、外へ出て来たかの女の姿を見るや、その前に、立ちふさがって、
いつまでも、うごかなかった。率直に、別離を悲しんで、泣くのだった。
 「なぜこれが、悲しくないのか。殿も。静さまも」
 童(わっぱ)の鷲ノ尾には、不審であるより、不服であった。静は、氷
の花みたいに、ただ美しく、冷たく見える。殿も、泣いたお顔とは見うけ
られない。
 ほかの面々は、はや騒然と、馬をひき合って、おのおの馬上となった。
義経も乗る、静も、介添(かいぞ)えされて、鞍(くら)へすがる。
 すべて、十日ほど前に、ここへたどり着いたままな姿に返ったのだ。た
だ、違っていたのは、おりふし、十六日の夜の月が、銀世界の真(ま)っ
天(てん)にあって、昼より明るく、足もとの雪、四山の雪、すべて、凄
(すさ)まじい光と、藍(あお)い陰影をおびていたことだった。
 雪はやんでいるが、月の面を、風花がたえずちらちら掠(かす)めて舞
う。吉水院から山街道の上へ出る。
 門前町の屋根は、雪に埋もれ、灯のもれている軒端もない。 -静は、
そこで義経と別れた。振り返り、振り返り、半町、一町、いつかお互いは、
もう見えなかった。
 「・・・・ど、うなされました、静さま」
 雑色たちは、徒歩(かち)だった。
 口論をひいていた一人が、大声でそういったので、後ろから歩いていた
三名も、びっくりして、かの女の鞍の両側へ寄って来た。
 とつぜん、静は、駒(こま)のたてがみへ、うつ伏していたのである。
血でもお吐きになったのかと、かれらは、ぞっとした様子で、疑った。
 それほど、かの女の笠の裡(うら)の顔は、血の気がなかった。月の色
とも、雪明りのせいとも、いいようがない。かすかに、眉をふるわせてい
る。袖口を噛みしめて、必死に、何かに耐えようとするらしい容子はわか
る。-返辞がない。ただ、そうしたままなのである。
 どこか、にわかに、お体のさわりでもございますか。実生どのからいた
だいて来た薬が荷のうちにありますが」
 「いえ」
 静は、笠を上げた。その黛(まゆ)は、今来た道を、振り向いた。
まじろぎもせず、一すじの黒い山街道を見つめたままでいるのだった。
 「そ、それよ」
 急に、かの女は微かな身もだえを、馬の背に見せて、
 「-やよ、皆の者、元の道へ、すぐ駒を返し給もれ。せめて、女の身で
も、行かれる限りの山路まで、わが良人(つま)を、お送りしょうほどに
。・・・・それから下山しても、おそくはない。急いでたも、急いで」
 もし手に鞭(むち)があるなら、鞭を振って、みずから、急いだかもし
れない。とまれ、余りに、一途(いちず)なかの女の気色(けしき)ばみ
に、雑色たちも、あわてて口輪を後ろへまわした。そして中の一人が、棒
切れを馬に見せたので、馬はかれらを振り捨て、静の心だけを乗せて、粉
雪を立てつつ、一さんに馳け出していた。




















 







































 
















































 アントワープ港の眺め 019


 画面中央を横切る大きな川に、たくさんの帆船(はんせん)が行き交(
か)う賑やかな港。対岸の建物も細かく描かれている。まん丸に整えられ
た並木や、丸、三角、四角など単純な形を組み合わせてあえて朴訥(ぼく
とつ)に描いた建物は、まるで模型か、おもちゃの街並みのように愛らし
くさえ見える。淡く柔らかな色彩もその雰囲気によくあっている。
 白耳義(べるぎー)、アントワープの銀行家ポール・フィーランの注文
で、彼の自宅を飾る7点の装飾画として描かれた作品の一つである。藤田
は乳白色の下地のスタイルで人気が出始めた頃だったが、すでに隣国ベル
ギーでの評価も高かったため、こうした依頼につながったのだろう。ベル
ギーの美術界がフランス絵画を現地に先駆けて評価する姿勢は19世紀末
以来のもので、藤田の場合もその例に違わず、公的な買い上げはフランス
より4年も早い。
 さてこの作品に描かれているのは、アントワープの黄金時代であった1
6世紀から17世紀頃の港の様子である。つまり、中央の川は貿易港の繁
栄を支えたスフェルデ川、中央の高い建物はルーベンスの祭壇画でも名高
いノートル=ダム大聖堂の塔である。大型の帆船は大航海時代を象徴して
いるのだろう。藤田は取材のために現地も訪れたが、昔日の隆盛を表すた
めに、当時の景観図や文献、銅版の風景画などを参照したらしい。この仕
事のために「山のように資料を買い込んでいた」と後年、3番目の妻のユ
キが回想している。
 注文主の意向に沿うべく、藤田が当時の景色や雰囲気を再現することに
力を注いだことは確かだろう。しかし描き方に注目すると、リアルに描く
ことよりも、均質な線で形を繰り返し、様式化するような表現を目指して
いるように見える。装飾画にふさわしい表現を意識してのことに違いない。
初期のルソー風の風景画の素朴さを残しつつ、乳白色の下地と繊細な線描
で、より洗練された雰囲気に仕上げている。
 予定通り7枚すべて描かれたらしいが、現在知られているのはこの1点
のみである。注文主のフィーランが破産したため、画料もほとんど払われ
ないうちに7点がばらばらに人手に渡ってしまったようだ。後に著した随
筆集「地を泳ぐ」(書物展望社、1942年)には、注文制作の支払いにつ
いて、この件と思われる不満が語られている。

 アントワープ港の眺め
 1923
 170.0×224.0
 布/油彩
 島根県立石見美術館

        アントワープ港の眺め
CIMG0243




















  座る女性と猫 022

 薄青色のワンピースの女性が、左手を上げた髪を整えるような仕草をし
ている。上目遣いにこちらを見るキジトラ模様の猫のそろえた前足がかわ
いらしい。背景は灰色がまばらに薄く塗られ、漆喰(しっくい)の壁のよ
うな質感を描いている。
 女性の右手の位置や座る姿勢はやや異なるが、同年に制作された《タピ
スリーの裸婦》とよく似たポーズで、モデルも猫も同じである。この作品
の方が画面のサイズは一回り小さく、また画面に対してモチーフもやや小
さくとらえられているが、これらの二つはおそらく対作品のような意識で
描かれたものだろう。例えば、ゴヤの《裸のマハ》と《着衣のマハ》(とも
に1789年-1805年、プラド美術館)のような作品が念頭にあったの
ではなかろうか。薄手のワンピースの布が体にぴったりとはりつき体のラ
インを強調している点も《着衣のマハ》とよく似ている。
 2作品の対比も鮮明である、《タピスリ―の裸婦》では植物模様にプリ
ント布を背景に、華やかに仕上げられているが、本作ではワンピースの青
色以外はほぼモノトーンで色調を抑えている。女性の表情も《タピスリー
の裸婦》はコケティッシュな微笑みをたたえているのに対して、この作品
では寂しげで物憂げな表情が印象的である。
 ところで、藤田は絵具も独特の技法で用いたが、この作品の衣服の描写
にはその特徴がよく表れている。墨の線が乾いた後に、わずかな絵具をた
っぷりの乾性油で溶いた「おつゆ」と呼ばれるものを、上から薄く塗って
仕上げる方法で、ワンピースの薄青色を通して、下地の色がはっきりと感
じられるのはそのためである。
輪郭や布の襞(ひだ)の描き方に加えて、この絵具の使い方によって、体
にぴったりとまとわりつく薄い布がうまく表現されている。

 座る女性と猫
 1923
 114.0×77.0
 布/油彩
 鹿児島市立美術館

         座る女性と猫
CIMG0242








































 人形を抱く少女 023

 薄緑色の布の上でポーズを取る少女。彼女の後ろには首にリボンをつけ
た白猫。ちんまりと前足を折りたたんだ「香箱座り」で。すました姿が愛
らしい。大事そうに「お人形」を抱えた少女の、前髪を眉毛の上で切りそ
ろえたおかっぱ頭は子どもっぽいが、真っすぐに前を見つめる褐色の瞳は
大人びている。
指輪やブレスレットなどの装飾品と、玩具のような人形もアンバランスに
思える。子供から少女へと変わる時期の、繊細な姿を描き出そうとしたの
かもしれない。
 1920年代の始めから乳白色の下地を生かした作品を立て続けにサロンに
出品し、名声を得た藤田のもとには、次第に肖像画の注文が集まるように
なっていた。本作もそうしたものの一つと考えられるが、比較的早い例で
ある。
画家として名を上げる以前に、子ども、特に少女像を集中して描いた経験
のあった藤田にとっては、少女をモデルにしたこの注文は腕のふるい甲斐
(がい)のあるものだっただろう。人形や猫といったお得意のモチーフと
ともに描いている。
 見どころの一つは、細部にまで注がれた描写力だろう。藤田の十八番と
もいえるワンピースの細かな模様、襟元や人形の縫い目、鼈甲(べっこう
)の髪飾りまで、行き届いた表現である。1920年代後半になると、肖像画
でもこうした細かな描写は徐々に少なくなっていくため、貴重な作例とい
える。肖像画でも売り出し中だった藤田が腕の見せどころとばかりに張り
切って描いたといったところだろうか。

 人形を抱く少女
 1923
 73.4×54.3
 布/油彩
 群馬県立美術館

 
          人形を抱く少女
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 弟子空海(でしくうかい)、性薫我(しょうくんわれ)を勧(すす)め
て、源(みなもと)に還(かえ)るを思(おも)いと為(な)す。径路未
(けいろいま)だ知(し)らずして、岐(ちまた)に臨(のぞ)んで幾(
いく)たびか泣(な)く。

 「四恩(しおん)の奉為(おんため)に二部(にぶ)の大曼荼羅(だいま
んだら)を造(ぞう)する願文(がんもん)」


 仏弟子である私、空海は、生まれついての性格、生まれてから受けた薫
陶あいまって、「源(みなもと)に還(かえ)る」という事を考え続けて
きた。
その源に至るための道筋がわからないので、岐路に立ち竦(すく)んでは
泣くということを何度も繰り返してきた。


 久米寺でのめぐり会い

 大和国高市郡の久米寺は、現在も奈良・橿原神宮(かしはらじんぐう)
の北辺に広大な寺域を誇っている。ここ久米仙人の故地ともいわれ、古来、
神と仏が緊密な関係を築いてきた地方であった。
 空海の遺言をまとめた「御遺告(ごゆいごう)」によると、南紀や四国
の山林で虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)を修行した空海は、
求聞持法をさらに深めた体系的な密教を求めて南都諸寺を訪れ、やっとこ
の久米寺の塔の中で「大日経(だいにちきょう)」とめぐり会ったという。
 正倉院に収められている天平写経などから推測して、天平時代にはすで
「大日経(だいにちきょう)」などの本格的な密教経典の一部は中国か
ら伝来していたが、実践できる僧、いわゆる阿闍梨(あじゃり)はまだ来
日していなかったようである。
 さて帰朝後ようやく入京を許され、最澄や嵯峨天皇の知遇を得て、平安
宗教の第一線で華々しい活躍ができるようになった空海は、さらに密教の
発展を祈願して、密教の必需品である金剛界・胎蔵(たいぞう)の両部マ
ンダラの新写を行った。これには、時の実力者である藤原冬嗣(ふじわら
のふゆつぐ)などの助力があった。
 そのさい、感極まった空海が若い頃の求道の生涯を吐露したのが、冒頭
の句である。とりわけ「源に還るを思いと為す」は、空海思想の大前提で
あった。のちに高野山に修禅の道場を求めるのも、また人と仏をつなぐ即
身成仏(そうしんじょうぶつ)の思想に生涯を捧げたのも、この「源に還
る」ことから始まってのである。
 そして、径路(道筋)を求めて様々な苦労を重ね、時には絶望に打ちひし
がれて涙を流したが、幸い久米寺で求めていた「大日経」にめぐり会うこ
とができたのである。
 今境内に残る久米仙人像は、空海の時代からはかなり下るが、仙人ゆか
りの寺で空海がまさに「径路」を見出すことができたのは幸いであった。

 久米寺 久米仙人像

 吉野で戦術の修行をしていた久米仙人は、葛城山(かつらぎさん)への
飛行中、吉野川で洗濯をする若い女性の白い脛(はぎ)を見て墜落。俗界
に暮らすようになるが、東大寺造営にあたり、材木を吉野から空を飛ばせて
運んだ功によって田を賜り、久米寺(奈良県橿原市)を建立したと伝える。
空海はこの寺の東塔の下に、求める「大日経」があると夢告を受けた。

        久米寺 久米仙人像
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 吉 野 入 り


 きのうあたりから、諸所に見かけられ出した高札(こうさつ)である。
 -一ツ、馬売るべからず、一ツ、落人(おちゅうど)に宿貸すべからず
。一つ怪(あや)しき者立ちまわらば即刻届け出でざるべからず。
 三箇条の布令(ふれ)だった。そして、それを怠った者は、断罪に処す、
としてある。
 人の寄る市(いち)とか、駅路(うまやじ)の口とか、山深い部落にま
で、それは地頭の名で、行きわたっていた。
 地頭なるものの名が、恐ろしい鬼の代名詞みたいに聞こえ始めたのも、
ごく近ごろからのことである。それまでの郡家(ぐうけ)とか目代(もく
だい)とか、また国府ノ庁の古い役名なども影が薄れて、鎌倉殿の大名と
称する武辺の一家が、ぞくぞく、地方へ赴任して来た。
 かれらの支配者振りは、一にも二にも力だった。武家統一を目ざす幕府
作りの進行が今や山間僻地(へきち)にまで見られ始めて来たのである。
それが百姓たちのうえに、やがてどんな意味の世直しをもたらしてくるも
のなのか、百姓たちには分からなかったし、知らされもしなかった。
 ただ、ここのところ、新しい地頭による新令ばかり矢つぎ早に出て、次
第に生活がしばられ、厳罰主義の恐さが身に沁(し)みて分かっていただ
けだった。従来なら、ムチたたきぐらいですんだ罪科も、地頭の配下に縛
(しば)られると、すぐ打ち首に処された。
その代わり、博打(ばくち)は蔭でやるようになり、浮浪人は居どころを
失い、盗賊はみな山へはいってしまったという。
 時しもの高札布令であった。ひどく人心を衝(つ)いたらしい。猫も杓
子(しゃくし)も、落人のうわさをした。また自然、判官義経どのという
名を、三歳の童(わらべ)までが、聞き覚えた。
 ところが、四天王寺から東へ五、六里。ようやく河内から大和境にの峠
へかかろうとする古市の宿場で、けさから人が騒いでいた。-近くの石川
ノ牧へ、夕べ馬盗人が襲来したというのである。
 由来、牧を襲う馬盗人というやつは、かならず集団んで剽悍(ひょうか
ん)無比なものに決まっている。風の如く来て、風の如く去るのが、かれ
らの常套(じょうとう)だ。
 石川ノ牧へ現われたのも、おなじだった。瞬時にして、十頭ほどな馬が
牧舎から消えていた。あっと、気がついたときは、裸馬にムチをあげてゆ
く黒い一群を、暁闇(ぎょうあん)の野末(のずえ)に見ただけだという。
 「-では時刻はもう明け方に近かったのだな」
 市でそのことを小耳にはさむと、さっそく現場へ取り調べに来た地頭の
配下は、牧の者を集めて、きびしい口書を取っていた。
 「夜明けとあれば、わいらもすでに、地乗(じの)りに出るなり、草を
飼うなり、起き出でていたはず。たれも知らぬとは、いぶかしい。曲者の
風態など、眼で見たやつもおらぬのか」
 疑わしげに、いわゆる地頭面(づら)を、かさに来た数名の役人は、牧
夫たちの顔を一つ一つ睨(ね)めまわした。
 だが、その威猛高(いたけだか)も、かれらを畏怖(いふ)させるだけ
で、満足な答えも出なかった。ただ、総合しえたことは、まだ朝も暗いう
ちで、腹巻いでたち、僧形などの六、七名の賊が、馬小屋を襲って馬をひ
き出すやいな、おのおの敏捷(びんしょう)に飛び乗り、そのうえ、中に
は空馬の手綱まで引っ張って、たちまち、南へ馳け去ったというのである。
 「なに、南へ逃げたと。しからば、泉州路へ走ったのだな」
 「さようで。牧の追出しから、百舌野(もずの)の方へ、一散に出て行
きましたゆえ、たぶん・・・・・・・・」
 と、もう老いぼれている牧ノ長は、さいごになって、やっと少し落ち着
いたように、恐る恐る、申し立てた。
 「よし、後刻沙汰する」
 役人たちは、先を急ぐように、地頭の館へ、引き揚げた。まもなく、こ
の近郷へも来ていた追捕の兵と、地頭の追手とが一つになって、和泉(い
ずみ)街道を騎馬で南へ、白い埃(ほこり)を残して行くのが眺められた。
 -これが七日の午(ひる)前。古市辺の人里に起こっていた小事件だっ
た。

 七日昼の、同時刻ごろ。
 義経たちは、同勢みな裸馬に乗って、当麻寺(たいまでら)の跡(治承四
年に一山焼亡)を後ろに、竹ノ内越えから、葛城(かつらぎ)つづきの尾根
道や山かげを、黙々と、冬風に追われつつ、吉野の方へ落ちていた。
 六日の宵、四天王寺を去ってからは、ほとんど、歩きづめといってよい。
はや、人跡も絶えた山中へ来ていたので、急に疲れも出、いわゆる馬居眠
りというやつが襲って来て、ときどきたまらなくなって来る。
 「・・・・弁慶は、馬居眠りの上手よ」
 と、義経がいえば、みな笑うには笑ったものの、すぐ元の淋しい沈黙か、
半醒半睡(はんせいはんすい)の、現(うつつ)ない顔に返っていた。
 すると、片岡八郎為春が、
 「身どもも、馬居眠りなら、弁慶に劣らぬ方だが、この馬の背では、危
なくて、居眠りもできぬ。えらい馬を引き当てたぞ」
 と、そばの伊豆有綱や鎌田正近などにいった。人びとが「なぜ?」と、
ただすと、片岡は、
 「これ見ろ、身どもの馬は、片目であろうが、なにも撰(よ)りに
て、こんな馬を、購(あがの)うて来ないでも、牧なら、ほかに良い馬も
あったろうに」
 と、愚痴をこぼした。これには、たれも腹から笑った。悲惨な中だけに、
おかしさがまた、おかしさを誘い、その深刻な笑いは、泣くことの代りを
していたといえなくもない。
 「やれ、片岡。馬を手に入れた苦労も知らず、ぜいたくなこと、申すま
い。きのうのわれらではない身の上」
 振り向いたのは弁慶だった。
 途中の石川ノ牧で、馬を買い入れたのは、弁慶が交渉に当ってしたこと
であるから、そういわざるを得なかったものだろう。
 春秋の筆法で、馬盗人を働くぶんなら、むしろ簡単だったろうが、あと
で訴え出られるに決まっている。威嚇はしたが、弁慶は、過分な砂金(か
ね)を、牧へ渡して来たのである。そして、地頭の届出には、馬盗人に襲
われたと称し、賊は、和泉路へ逃げたといえ、と後の智恵までさずけて来
たのだ。と
 とはいえ、牧の者が、果たしてそれを守るか否かは、不安であった。-
で、馬を獲(え)てからも、
休むことなく山路を急ぎ、ようやく「・・・・・もう、大丈夫」と思われ
て来たのである。それとなお二、三の部落を通ったが、追捕の布令(ぐれ
)も、まだこの辺まではまわっている様子がなかった。主従十名の服装と
いえば半武装、市人(いちびと)姿、あるいは僧体など、雑多であったし、
みな鞍なし馬という異形(いぎょう)な一行だから、見る者が見れば、ひ
と目で不審をいだくはずだが、部落の顔は、ただ者めずらに、眼を皺者(
しわ)めて、見送っていただけである。
 「さて。こよいは、どこに宿を?」
 冬の日だし、山路のこと、暮色はことに早い。
 葛城、金剛などの峰々の中でも、最も高い辺に、残照がある。
 駄馬の足もとは、とぼとぼうす暗い。-一体これが、つい半年前には、
屋島、壇ノ浦に赫赫(かくかく)の名を謳(うた)われ、沸くが如き上下
の万歳につつまれて、都門へ凱旋した主従なのか。あの日の源廷尉(げん
ていじょう)義経と、その麾下の、姿なのか。
 人びは、ふと、世をも身をも、疑った。薄暮の山蔭をトボトボ急いだ。
すると、殿軍役(しんがりやく)のかたちで、いつも後についていた鈴木
重家が、
 「当麻寺(たいまでら)の辺から後ろに見えた修験者二名と、武士らし
き旅の者が、谷道へ下りて、間道より先へまわって出た様子。ほかに怪し
げな動きも見えぬが、万一ということもある。御油断なくお進みあれ」
 と注意してきた。
 果たして、御所(ごせ)の部落を過ぎると、修験者二名と、田舎武士か
と見える中年の男が、路傍に佇(たたず)んで、こっちを凝視している風
だった。「・・・・・・何かあらん」と面々はわざと見ぬ振りして、通り
かける。-すると、その田舎武士の一人だけが、つつと走り寄って来て、
義経の馬の前へ、小腰をかがめた。
 「もし、他人の空似でしたらおゆるしくださいましょう。お見かけし奉
るに、堀川の判官どのかと存じまするが、これよりいずこへお立ち越えで
ございまするか」
 前後の人びとは、ぎくとした。胡散(うさん)なやつと疑い、そして、
義経がどういい紛(まぎ)らすかと、かたずをのんだ。
 しかし、義経は、「いかにも。儂(み)は判官だが・・・・・・・」と、
明らかに告げ「して、そちは何者か」
 と、訊ねた。
 「やはりさようでございましたか。てまえは吉野の奥、水分(みくまり
)ノ峰の子守神社に仕える神職の文彦(あやひこ)と申すもの。-また、
あれなる連れの修験者は、おなじ吉野の、吉水院(きつすいいん)千丈房、
実生房(じつしょうぼう)の両名にござりまする」
 「してお汝(こと)らは、この義経に、何を問おうというのか」
 「もしや、吉野の奥へ、一時落ちのび給うお心にやと、恐れながら、お
察しいたしまいて」
 「ならば、人里の風聞を、はやお汝(こと)らも、知ってじゃな」
 「所要あって、昨夜は染野の染野寺へ一泊いたしまいたが、、その前日
より、地頭から云々(しかじか)の達しがあったと、住持(じゅうじ)の
話にも聞いておりました。ところが、きょうの山路にて、はしなくも、お
見かけ申して、あわれきのうの堀川の君がと、よそながら同行の千丈、実
生の二人とも、おうわさなどして歩いていたような次第で」
 「そうか。だが、追捕の令を知っているなら、なぜ訴えに走らぬか。地
頭(じとう)より褒美(ほうび)もあろうに」
 「滅相もない」と、文彦は、大真面目に、手を振っていった。
 「-そのような下心なら、お声はかけませぬ。たまたま、山中でお見か
け申しあげたのも、水分(みくまり)の子守ノ神がおひきあわせ、道しる
べを勧めよとの、神のお旨なるべしと思われて、かように、三名談合の末、
まかり出たわけでござりまする。
 素朴なうちに、誠意を見せる。みずからいうが如く、神職の文彦は、神
の機縁を、かたく信じている風であった。
 また千丈房と実生房の二人もそれへ出て、同じようにすすめた。-及ば
ずながら、自分たちが、ご案内してゆき、かつ、金峰山蔵王(きんぷせん
ざおう)堂を中心とする吉野大衆を説いて、きっと、お匿(かく)まい申
しあげん―というのであった。
 いうにまかせて、義経はかれらに、道の案内(しるべ)と、まだ見ぬ吉
野の、落ち着く先を、頼んだ。
 「御安堵(ごあんど)なされませ。役(えん)の小角このかた、かりそ
めにも、吉野大衆が濫(みだ)りに権勢に屈したことはございませぬ。な
んの、よその地頭や、追捕の兵などを寄せつけましょう」かれらの誇りは、
すこぶる高いものだった。紀伊の熊野、加賀の白山、出羽の羽黒山などと
並んで、わが金峰山(きんぷせん)吉野は、山伏たちの天下四大道場の一
つであり、従がって、絶対な法界(ほっかい)の地、治外法権の山だとも、
いうのである。
 「はや、日も暮れまいたほどに、こよいは、高取(たかとり)の里の、
庄司が家を宿に、御休息給わりませ」
 子守の文彦らが、案内した宿は、見るからに旧家らしい家の門だった。
 「ここは、壺阪(つぼさか)観世音(かんぜおん)の東のふもと。-
あの西谷が、壺阪でござりまする」
 そう聞いたことも、義経には、なつかしかった。
 身はうらぶれの落人とはなったが、なお、母の常盤(ときわ)からゆ
ずられた銀の小観音だけは、肌身に抱いていたからである。
 それと、また、この高取の里は。
 幼(おさな)ごろから、耳袋にはいっている、かの「竹取物語」の竹取
ノ翁がいた里であるとも、その夜の話に出たりして、義経はようやく、お
とといからの、悪霊に憑(つ)かれたような心身の異状さが、いくらかで
も、和(なご)んでくるかのように思われた。
 すると、かれの思いはすぐ、四天王寺において来た静の身へ馳(は)せ
ずにいられない。その危うさや、かの女の心根を考えると、一刻さえも、
何か不安でたまらなくなった。
 当座はー吉野山の吉水院(きつすいいん)にと、その夜、落ち着く先の
はなしも決まったので、義経は、佐藤忠信に、旨をふくめて、
 「ご苦労だが、基許(そこ)はここから引っ返して、静と鷲ノ尾を、吉
野山へ迎えてまいれ」
 と、いいつけた。
 忠信は、「-心得まいた」と、夜のうちに、馬で引っ返した。
 が、道は、文彦たちの注意もあって、少しまわりにはなるが八木、龍田
を経、生駒越(いこまご)えをして、四天王寺へ、戻って行った。
 「忠信がまいれば。・・・・・・・まず、つつがなく迎えて来ようか」
 義経の眉も、幾分か、その夜は初めて、雰囲気の明るさに似るものを、
見せていた。それは、郎党どもにも、ともにうれしい救いだった。今のお
主の胸中は、自分たちでは、慰めようもないことを知っているだけに「-
せめて、かかる朝夕、静御前(しずかごぜ)が、お側にいてくれたら」と
は、かれらも望んでいたことだった。

 次の日は、午(ひる)ちかくに、庄司の家を出た。
 おそらく、数日の疲れを、いちどに癒(い)やしたことだったろう。-
でも、まだ陽(ひ)のたかいうちに、面々は、吉野川のほとりへ出ていた。
 「かなたに見えるのが、六田(むだ)の渡し。あれ、あの通り、楊柳(
かわやなぎ)が多いので、柳の宿とも呼んでおりまする」
 先に立ってゆく子守の文彦は、義経の鬱(うつ)を慰めようという気か、
おりおり、馬のそばへ来ては、遠方此方(おちこち)を、指さしつつ、土
地(ところ)自慢や、郷土の故事など話しかけた。
 かれは、さすが神職だけに、そういう事蹟に明るく、万葉の歌などを、
引例(いんれい)して、
 「さくら咲く水分(みくまり)山に風ふけば、六田(むつだ)の淀に雪
つもりけり。と古歌にも見えるその六田で」
 と、いったり、また、

   宇治間(うぢま)やま
   朝かぜさむし
   旅にして
   衣(ころも)かるべき
   妹(いも)もあらなくに

 という万葉調を、やや節づけで口誦(くちずさ)みながら、北方の山を指
して、
 「その宇治間山とは、あの峰で・・・・・・」
 と、義経の興を誘ったりするのであった。
 けれど、平和な世代に、都から三芳野(みよしの)の花を探りに来た。
それらの歌人や旅人とは事ちがい、義経の胸には、楊柳(かわやなぎ)を
吹く風も、その枯れ枝のように、悲愁な声ばかり鳴っていた。
 「今の歌は、義経の今の身の上にも似る歌よの・・・・・・・・。衣(
ころも)かるべき、妹もあらなくに・・・妹もあらなくに」
 義経はまた、突然、文彦をかえりみて、
 「龍門(りゅうもん)と申す里は、この近くではなかったか」
 と訊ねた。
 「されば―」と、文彦は、やや上流の北方にそびえている山を仰いで、
 「龍門とは、あの山麓(さんろく)の人里でござりまする。-何かそこ
に?」
 「いや、べつに」
 義経はそれなり、何も問わなかった。いや無口にすらなった。
 ふと、かれが龍門の里を想い出したわけは、自分もいちど、その地に、
いたことがあるからだった。 
 といっても、記憶にはない。-なにしろ、自分はまだ、母の常磐に抱か
れていた平治ノ乱の年である。
 龍門の里には、母常磐の身寄りの者が住んでいた。で常磐は、平治の乱
後、平家方の眼をのがれるため、当時、まだ乳呑み子の義経やら、乙若、
今若などの手を引いて、龍門の身寄りを頼って逃げ、しばらくそこに隠れ
いたことがあった。
 -という話を、その後、義経は、たれからともなく聞いていた。
 「ああ、二十七年後のきょう、またここへ、逃(の)がれて来るとは」
 宿命か、偶然か、半生(はんせい)の流転(るてん)の奇に、かれは、
考えても解けないことを、考え込んでいたのである。-その間に、いつか
同勢は、六田の渡しを前にしていた。
 馬を降りて、渡しの船へ移る。
 なお、義経のあたまには、母に抱かれて、この山里にまで落ちて来たこ
ろの―母の乳の香や、自分のすがたが、川風の中でも、かき消えず、描か
れていた。
 それから、峰道、谷道、山上に近い吉水院(きつすいいん)まで、たど
り着くには、冬も汗する馬の息だった。 
 着いた夜は、すでに遅く、義経は、与えられた一殿に、旅装を解いて、
すぐ眠った。-いや、枕についても、容易に、眠れない思いではあった。
 ここは、蔵王堂から三町ほど東の低地で、谷の途中にかかっていた。ど
こから流れ落ちて来るのか、枕の下を、石が走るばかりの水音がする。
 「・・・・・忠信は、いかにせし?・・・・・静は、ここへいつ見える
か」
 夜もすがら、うつつには、静を幻にえがき、夢には、龍門の母を見た。
-と思えば、逆まく狂瀾の声と、しぶきの底にまかれ去った幾多の家来た
ちの末期(まつご)の姿が、ありありと、自分へ向かって、手をさし伸ば
しつつ沈んで行った。かれは、そのたび、うなされては、褥(しとね)の
上に跳(は)ね起きた。-あたりを見れば、灯も凍(こお)り消えている
冷寂なやみでしかない。怒濤かと夢を驚かされたのは、床下を走る谷水だ
った。
 たれもいない、義経は、声を出して泣いた。死なせた部下たちの鬼哭(
きこく)が、屋根や廂(ひさし)を、山風に乗って、さまよっている気が
する。
 すまない、と叫びたい。
 部下の霊へも、母の常盤へも。
 もいちど、母の乳ぶさに返って、人の世へ出直せるものなら、、再び、
自分の践(ふ)んだ半生のような非業(ひごう)を、人にもさせ、自分も
するような、愚はしまいにと、烈しい悔いに、さいなまれた。
 そしていつか、眠りに落ちた。
 「-と思うまもなく、襖(ふすま)をへだてて、弁慶の声がしていた。
 「お眼ざめでございましょうや。まだ、御寝(ぎょし)にござりましょ
うか」
 「おお・・・・起きている。昨夜は、よく眠ったそうな」
 「何よりでございまする。したが、子守の文彦(あやひこ)や、当院の
千丈房など打ち連れて、ただ今、蔵王堂(ざおうどう)へ出向かんと申し
ておりまする。-申すまでもなく、吉野大衆に、お匿(かく)まいの儀を、
諮(はか)らねばならぬためと思われますが」
 その朝。やがて義経は、きのうの三名、一室の内で、小時間、何か話し
あっていた。
 用談はすぐ済んだ。千丈房や文彦たちは、ほどなく、吉野蔵王権現の内
へ、大衆の評議を要請して、一山の同意をうるため、出向いて行った。


















 



















 壺を持つ聖女 

 水差しを手にした黒いベールの女性。長く引き延ばされたようなプロポ
ーションが、縦長の画面によって強調されている。修道女だろうか。頭を
少し傾けたポーズが古い宗教画から抜け出たようで、彼女の静かな日常も
想像させる。そして、アーチ型の開口部の続く古いレンガ造りの建物の壁
からは、真っ黒な液体が流れ出している。神秘的で不思議な雰囲気に満ち
た作品である。
 1910年代後半、藤田はキリスト教を主題とした作品をかなり手がけ
ているが、1918年夏に南仏のヴィルヌーヴ=レ=ザヴィニョンに滞在
したしたことがきっかけになったといわれる。カーニュへの疎開からパリ
へ戻る途中に立ち寄り、1か月ほど滞在したらしい。ヴィルヌーヴ=ㇾ=
ザヴィニョンは、かつて教皇庁があったアヴィニョンの対岸にあり、古く
からキリスト教文化が根付いた静かな街である。中世の要塞や修道院の跡
なども残るが、特に20世紀始めにルーヴル美術館に収蔵されて大きな話
題となった《ヴィルヌーヴ=レ=ザヴィニョンのピエタ》(1445年、ル
ーヴル美術館)は有名で、中世キリスト教美術の聖地のような場所になって
いた。
 この頃、藤田が宗教画に目を向けたのは、敬虔(けいけん)なカトリッ
ク教徒だった妻フェルナンドの影響ともいわれるが、制作の上では中世の
宗教画の古拙な造形に引かれたということが大きいだろう。造形だけ見れ
ば、以前から興味を持っていた「プリミティブな表現」の追求の延長線上
にあったものだと考えられる。しかしながら、西洋文化の根本を成すキリ
スト教の主題に取り組んだことは大きな挑戦で、西洋の伝統に真っ向から
臨もうとする意気込みも感じられる。結果、こうした宗教画は、個展でも
美術愛好家の注目を浴び、新たな顧客を獲得するチャンスとなった。
 この作品はヴィルヌーヴ=レ=ザヴィニョン滞在の2年後に、そこから
西へ向かったスペイン国境近くのコリウールで描かれたものである。ここ
も中世の面影を深く残す海辺の街で、夏に2,3か月滞在したようだ。ヴ
ィルヌーヴ=レ=ザヴィニョン同様、キリスト教を主題とする絵を描くに
はもってこいの場所で、この作品の他にも、海辺に立つ協会の絵や、大顧
客のために宗教画の力作などを描いている。
 ちなに、本作の女性の手にした取手のある特徴的な形の水差しはスペイ
ン風のもので、この土地の文化的な風土もよく示している。おそらくコリ
ウールの要塞跡や教会などの雰囲気から想像を広げながら、古い宗教画の
ような雰囲気に仕上げたのだろう。藤田は旅先の風物や思い出を作画に取
り入れるのが上手(うま)い画家である。
 また技法に目を向ければ、細かい輪郭線、絵具を薄く繊細に塗って仕上
げた絵肌など、それまでの追及を深めている様子がうかがえる。独自のス
タイルまであと一歩といったところだろうか。ただし、同じ時期の他の作
品をみると、いわゆる乳白色の下地の作品も並行して描いていたようであ
る。

 壺を持つ聖女
 1920
 80.0×32.8
 布/油彩
 個人雑

      壺を持つ聖女
CIMG0235
































































  バラ  

 水差しに無造作に生けられた赤と白のバラだが、花よりも茎にまず目が
いく。細かい茎はまとまりなく広がり、花の重みに耐えきれず大きくしな
っているものもある。華やかなイメージも強いバラだが、身近な器に何気
なく飾った素朴な姿を、魅力的にとらえた一作である。
 実は、ほぼ同じ形で生けたバラを数年前にも描いている。花の形や水差
しの向きは異なっているので、おそらく同じように生け直して描いたのだ
ろう。生け花の「花型(かけい)」のように藤田こだわりの生け方なので
あろうか。同じ頃、女性たちが生け花をする様子も描いており、「日本風
の花の生け方」という意識もあったのかもしれない。
 ところで藤田は初期から晩年まで花の静物画を手がけているが、集中し
て取り組んだ時期が2度ある。1910年代の後半から20年代初めの画
風を模索した時期と、第二次世界大戦後にパリへ移住した晩年の頃である。
初期の頃にはバラ以外にも様々な種類の花を取り上げており、花よりも茎
や枝が作り出す「線」を描くことに関心があったように感じられる。一方、
晩年は、茎をほとんど見せないように密に生けて、花そのものを中心に描
くようになる。つまり、「まばらに生けた花」というモチーフは、乳白色
の下地に流麗な線で描く技法を生み出しつつあった時期に、「線」の表現
を追求する中で興味を持ったモチーフだったとも考えられるのではないだ
ろうか。
 さらに、この作品には、他の花の絵ではほとんど見ないモチーフがある。
水差しの下に敷かれた花柄の布である。ジュイ布などの柄のある布は、「
タピスリーの裸婦、「五人の裸婦」のような裸婦とともに描いたものがよ
く知られるが、本作が描かれた1922年頃から見られるようになる。特
に、サロン出品作などの力作に多いが、人物画、以外に描かれる例は極め
て珍しい。人物画、特に裸婦などの場合、質感の対比を狙って、肌の艶や
かさを際立たさせるために、布を描いたと考えられるが、この作品では、
バラの生け花と、模様として描かれた花や茎の形が対置されているようで
興味深い。やがて布は人物の肌を引き立たせるという役割をはっきりと意
識して描かれるようになるが、それ以前の貴重な作例といえるだろう。  
 劇作家で、印象派のコレクターとしても知られるアンリ・ベルンスタン
の旧蔵作品である。

 バラ
 1922
 81.0×65.0
 布/油彩
 ユニマットグループ

             バラ
CIMG0236
































 タスピリーの裸婦

 両腕を上げ、足を伸ばして座る裸婦。真っ黒な瞳が印象的である。壁に
掛けられた植物模様の布は、折り皺(じわ)まで丁寧に描かれている。
そして、その布と白いシーツから裸婦の体を美しく浮かび上がらせるのは、
よどみなく引かれた輪郭線である。線の外側をわずかに塗り残して仕上げ
てあるために、裸婦の白い肌が柔らかな光を放っているようにも見える。
 藤田の代名詞ともいえる「裸婦」だが、実は1920年代に入るまでほ
とんど手がけていない。風景や静物から始め、いわば満を持して裸婦に挑
(いど)んだわけだが、そこには彼なりの理由があった。
 まず西洋絵画の歴史の中で裸婦は特別に重要なテーマであり、藤田も「
裸婦こそが西洋絵画の王道」という意識を強く持っていたからである。ま
た第一次世界大戦後の美術界には古典回帰のムードがあり、裸婦が改めて
流行の兆しをみせていた。その気を逃がさずに取り組んだのは、時代の空
気を敏感にとらえる彼の天才だろう。
 さらに重要な理由は、その少し前に藤田が、いわゆる「乳白色の下地」
に流麗な墨の線で描く独特の技法を開発していたことである。なかでも注
目すべきは、制作方法を秘して語らなかった下地である。油彩画はキャン
バス全体に下地を塗ってから描くが、当時の画家は普通、下地の加工まで
してある既製品のキャンバスを使っていた。ところが藤田は布を選ぶとこ
ろから始め、塗料や媒材、塗り方に試行錯誤を重ね、乳白色の滑らかな下
地を生み出したのである。その下地の効果を、最大限に生かす題材として
たどり着いたものが裸婦だった。具体的にいえば、裸婦を描くとき、輪郭
線だけを引けば、下地の美しい色、質感をそのまま裸婦の肌として表わす
ことができるわけである。実際には、肌の部分にも下地透けて見えるほど
に、ごく薄く溶いた絵具を重ねて仕上げているが、この肌こそが藤田の裸
婦の要なのである。
 この点について、藤田が後に語った言葉をまとめれば、「裸婦を描くに
際して、ルーベンスは脂肪を、ルノワールは血を、ピカソは人間の構造を
描いた。だから自分は、まだ誰も描いていない『肌』を描こうと思った」
のだという。そして、「柔らかい押せばへこむような皮膚」を目指し、裸
婦の肌の滑らかな感触を、絵の表面、つまり絵肌すなわち裸婦の肌を見る
絵。それまでにない視点で、極めて官能的な裸婦を生み出そうとしたとい
える。
 ところで、藤田の日本的な側面としてしばしば強調されるのは「面相筆
で描いた墨の線」だが、より重要なのは下地の扱い方であるように思う。
西洋絵画では下地を覆うように前面を絵具で塗り込めるのが定石である。
一方、藤田が下地を露出させ、その風合いを残したことは「紙地や絹地を
生かして描く」日本の伝統絵画の美意識に通じる。藤田は、先の言葉に続
けて、実は「肌」を描いた先例が日本にはあるとして、晴信と歌麿を挙げ
ているが、浮世絵の線よりむしろ、紙や絹の質感を生かす感覚の方に着目
しているのである。つまり藤田は、西洋絵画の王道である裸婦に、日本絵
画の技法と美意識を以って、挑もうとしたといえるであろう。
 本作は、1923年に新設されたサロン・デ・チュイルリーに招待作家
として出品した渾身の作である。

 タスピリーの裸婦
 1923
 130.0×96.0
 布/油彩
 京都国立近代美術館

        タスピリーの裸婦
CIMG0238



































 五人の裸婦
 
 花柄の天蓋のかかるベッドの前で、それぞれにポーズをとる裸婦たち。
しなやかに体の曲線を強調しながら堂々とした様子で、さながら伝統絵画
の女神のようである。構図も格調高くとの意識から、5人をW字を描くよ
うに対称に配置し、画面に安定感を生み出している。
 1920年代前半、藤田は「乳白色の裸婦」を各サロンで精力的に発表
し、知名度と評価を上げることに力を注いだが、1923年末にサロン・
ドートンヌで発表した本作は、初めて群像に挑んだ意欲作である。西洋絵
画の歴史の中で格別の位置を占めてきたものだからである。
高度な構成力をも必要とされ、古くから画家の腕を試す最大のテーマとさ
れてきた。
 さらに、西洋絵画の伝統に藤田がもう一歩踏み込んだといえるが、5人
の裸婦がそれぞれ五感を表しているという見方ができる点である。つまり、
左端の布を持つ裸婦が触覚、耳を押さえるポーズの女性が聴覚、口を指差
すポーズは味覚、犬を伴った裸婦が嗅覚。そして、中央の裸婦が視覚とな
る。
彼女を中央に置くことで、視覚の優位を示しているのだろう。これも視覚
の芸術である絵画の伝統的な手法の一つである。しかし、ここで重要なの
は、裸婦で何を表わしたかということよりも、モチーフに別の意味を託し
て、概念的なものを象徴させるという表現方法を用いたこと自体だろう。
それこそが西洋の絵画が長く築いてきた伝統の核心なのである。
 物珍しいだけの東洋の画家で終わらないために、西洋絵画の伝統に真正
面から挑もうとする藤田の姿が浮かび上がってくるように思う。
 そして、本作の大きな見どころであり、また「タスピリーの裸婦」で見
たような、裸婦の「肌」を表現するという上でも重要な役割を果たしてい
るが、ベッドの天蓋と裸婦の足元の布である。「ジュイ布」(ジュイ産の
布の意味)と呼ばれるアンティークの、フランス更沙で、藤田お気に入り
のモチーフである。
本作に描かれたものは実際にはルーアン産らしいが、細密な模様をだまし
絵のように描いた点がポイントである。
藤田はサロンで展示した際に、観客がこの布の細部をよく見ようと画面に
接近することを想定して描いたのだった。つまり、超絶技巧的な布で誘い
込み、一番見せたいもの、すなわち「乳白色の下地」を生かした裸婦の肌
を、絵肌を、すぐ近くで見せる作戦である。
 実は布を描いた作品で最初に発表したものは、裸婦ではなく犬の絵だっ
たらしい。その作品の周りに人だかりができた様子を見て、裸婦に応用す
ることを思いついたともいわれれる。
乳白色の下地もそうだが、布の場合も、描きたいものや技術的なものが先
にあり、それを生かす画題を探して裸婦にたどり着くというプロセスは、
藤田の職人的な気質を表しているように思う。
 さらにジュイ布を描くこと自体が、失われつつあった「手仕事」への賛
美だったともいわれる。西洋芸術の伝統の中では、職人的な手仕事は長ら
く軽(かろ)んじられていたが、19世紀末以来、画家たちが改めて注目
していたものだった。藤田が、裸婦や群像といった西洋絵画の正当な伝統
と、その対極にある手仕事の尊さを対置させたことも興味深い。
 藤田が西洋絵画の真髄に真っ向から挑んだこの作品は、彼のそれまでの
サロン出品作品の最高額となる25,000フランの値をつけたのだった。

 五人の裸婦
 1923
 169.0×200.0
 布/油彩
 東京国立近代美術館

          五人の裸婦
CIMG0239 






 

 






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