郷土が生んだ江戸時代の優れた民政家「田中丘隅(きゅうぐ)」

 はじめに

 秋留大地に生を受け
 この地と父母兄弟をこよなく愛し
 貧しい農民に深い同情の眼差しを向け
  『民間省要』を世に問い
 将軍吉宗の愛顧を被り
 治水に優れた手腕を発揮し
 武蔵国三万石の代官として生を全うした人

 江戸時代の中期の人で、名著「民間省要」の著者であり、またすぐれた
民政家でもあった田中丘隅は、あきる野市が生んだ第一級の人物といえる
でしょう。
 丘隅は寛文2年(1662)に平沢村((あきる野市平沢)に生まれ、享保
14年(1729)江戸の役宅で没しました。上の文は、秋川ファーマーズセ
ンターロビーの田中丘隅コーナーに掲げてあるもので、彼の一生を簡潔に
表しています。
 近年丘隅の治水などでの優れた業績や、著書『民間省要』への評価が一
段と高まり、本年3月には本市平沢の廣済寺(こうさいじ)にある田中丘
隅回向墓(えこうばか)が、東京都有形文化財に指定されました。
後述のように、丘隅が生地平沢村に居た時期は20歳ころまでで、その後、
没するまでのおよそ40年間は、川崎宿(神奈川県川崎市)を中心に生涯を
送ったため、川崎市では以前から丘隅を川崎宿再興の恩人として顕彰し、
市民にも広く知られた人物でありました。その点では、生まれ故郷であり、
人間形成の大事な時期を過ごした地元あきる野市での知名度は、残念なが
ら十分とはいえません。この拙稿が市民の方々の丘隅への関心を高める一
助となれば幸いです。

 1 平沢村時代の丘隅

 田中丘隅が生まれた寛文2年(1662)は、江戸開府から60年を経た時代で
す。およそ100年余り続いた戦国の動乱も、秀吉の小田原征伐で関東の雄
北条氏を滅亡させることにより、武蔵野の地にも平和が訪れました。
秀吉の指示に従って徳川家康が関東に入国し、秀吉死後、関ケ原の戦いを
経て、徳川氏の覇権が確定的となり、江戸幕府が開かれました。あきる野
市域をふくむ武蔵野一円は徳川将軍家の直轄地(天領)となり、また、将
軍家直属の家臣である旗本・御家人らにも分給(ぶんきゅう)されました。
農民側からすれば、領主が北条氏から将軍家、あるいはその旗本・御家人
にかわったことになります。そして、新しい時代の中で農村支配の体制も
整っていき、寛文年間には当地域一帯に検知が実施され、農民の土地所有
や年貢負担の基本台帳ともいうべき検地帳が、改めて作成されました。丘
隅が生まれたのは、そのような時代であったわけです。
 丘隅の父は八郎左衛門といい、平沢村の名主窪島(久保島)家の当主で
した。文政年間に著された「新編武蔵風土記稿」によれば、窪島家の先祖
は相模に済み、甲斐の武田氏の家臣でした。武田氏滅亡後は武蔵国平沢村
に移ってこの地を支配しましたが、その子孫はいつの頃からか農民となっ
て現在に至ったとあります。
 ところが丘隅のほぼ70年にわたる人生は多彩で、それを反映してか、後
世に伝わる名前も多く、例えば本稿で用いている丘隅は、平沢の廣済寺に、
兄の祖道(そどう)らが立てた回向墓にその名が刻まれています。もっと
も、生前は休隅という名が多く用いられていますから、こちらの方がいい
とする説もあります。
 さて、彼が58歳の時に書いた自伝的回想録「走庭記」などによれば、彼
は少年時代から頭がよく、体力的にも優れていました。「生まれて偉、長
ずるに及んで経綸天下(けいりんてんか)の志あり、概然(がいぜん)と
して管中(かんちゅう)の人となりを慕う(廣済寺回向墓碑銘)、「幼な
して奇才あり、兄祖道と書を近隣滝山の大膳精舎(だいぜんしょうじゃ)
に読む、早に神童の名あり」《「先哲叢談(せんてつそうだん)」》などが
それで、「走庭記」でも次のように述介しています。
 「さても古(いに)しえ、血気にまかせ若輩なることども思い出して、
独り赤面に及ぶ事こそおかしけれ。余十二、三歳になるころ、夏にもなれ
ば村の童集まりて相撲をとりはべりしに、十八、九、廿(歳)ばかりの者。
余に勝つこと更になくして、十五、六歳に至れば、尚近隣の腕をこく者共、
皆その場を譲り去るに似たり。予が従兄に中半といえる有力の者あり、よ
くよく碁盤して蝋を消す。また、村下に霧山長蔵といえる男有り、彼は世
上に名有(なあり)の相撲なりし、ある時、中半と長蔵、相撲をとりける
に、三番にして長蔵二番勝ちたり。今一番と所望して、また長蔵勝たりけ
るを、余出て彼長蔵をつづけて三番まで投げたりけり。是より人おそれて、
心面白くなり、かくれ出てこれをとる。既に顕(あら)れて父のしかりに
逢い、それよりして相止み、一生誓いて筋力を慎む」
 この他にも「(以下現代文に意訳)下男の六兵衛という水泳の達者な男
と、雨で満水となり大波逆巻く急流の多摩川を泳いで渡った」とか、「青
梅の裏宿にいた仁兵衛という狩人から鉄砲を習い、2,3か月で一日28発
撃って、27羽の鳥を撃ち落とせるようになり、人はさかんに鉄砲撃ちを私
に勧めるものだから、私もいい気になって鉄砲をかついで毎日のように峰
を走り鹿を撃ち、谷を行く猪を仕留めて喜んでいたところが、母がこれを
知り諌めたので、私も非を悟り、以来、鉄砲を持ったことも生き物を殺し
たこともない」など、また「血気盛んな若いころは、家業の農家にも精を
出す一方で、商売《関東の各地へ出かけ、絹の仲買のようなことをしてい
た)にも励み、これらに精通し失敗することはなかった。そのかたわら、
若いころから好んで書を読み学問への志があったので、農業や商売の間、
行く先々までも腰に書物を離すことなく、寸暇を惜しんで勉強した」とも
述べています。
 また「このように私はいつも学問に関心を寄せていたが、、田舎のこと
ゆえ、思うように学問に励むことができなかった。そのうえ、昼夜家業に
骨を砕(くだ)き、姉妹(兄祖道の他に姉二人、妹4人の姉妹がいた)の
生活の面倒をみ、父母を安心させることの方が急務で有ったので、このま
まだと一生愚眼(ぐがん)を開けぬとかと、ずいぶん悩みもし悔しいと思
ったものである」「人は生まれつき正しい心を持っているものである
が、学問がないと、得てして欲に迷って道を踏み外してしまう。私は子供
のころから学問を志し、それなりに努力も怠らなかったので、道を誤るこ
とがなかったのである」とも述べています。

 2 川崎宿の再興

 丘隅が絹仲買の商売で各地に出かけた先の一つに、東海道川崎宿があり
ました。恐らく商売熱心で才気煥発・誠実な人柄が見込まれたのでしょう、
丘隅は川崎宿本陣田中家の養子に迎えられました。丘隅22,3歳のころのこ
とです。その後、およそ20年を経た宝永元年(1704)に丘隅は本陣当主
の座を継ぎ、引き続いて同4年には川崎宿の問屋役と名主役に付き、実質
的に宿のリーダーとなりました。それまでの川崎宿は伝馬(てんま)の負
担と宿を差配する宿役人たちの勢力争いなどのために、相当に疲弊してい
ました。時の関東郡代伊奈半左衛門忠達は、これを是正するために丘隅に
宿の権限を集中させ、彼に宿の再興を委ねたのです。
 丘隅が早速取り組んだことは、六郷川の渡船の権限を川崎宿に持たせる
ことでした。六郷川は多摩川の河口近くでの別称で、東海道筋の川崎宿と
対岸八幡塚村との間には、慶長年代から貞享年代(Ⅰ596-1686)までのお
よそ90年間、長さ220mの大橋が架かっていました。しかし、時々出水の
ために流失・破損があり、その都度修復されてきましたが、貞享年間の流
失を最後に、幕府は多額の出費を嫌って架橋を止め、渡船に代えました。
造船および船頭の経費は幕府から支給され、船賃は渡船を扱う請負人の収
入になりました。
 丘隅はこの渡船を川崎宿の請負になるように願い出て許可され、渡船賃
収入と幕府から支給された宿救済金3,500両によって宿の再興に努力した
のです。この他、丘隅は宿の繁栄のために遊女屋の設置も行い、こうした
努力が実って川崎宿は再興されました。
 
 3 江戸遊学と「民間省要(みんかんせいよう)」の著述

 正徳元年(1711)、50歳になった丘隅問屋役を猶子(ゆうし)太郎右
衛門に譲り、長年の夢であった江戸遊学を実現させ、著名な儒学者荻生徂
徠(おぎゅうそらい)の門に入りました。又同門の成島道筑(なるしまど
うちく)の指導も受け、もっぱら経世済民(けいせいさいみん)の学の習
得に励みました。
 享保4年から5年(1720)にかけて丘隅は「走庭記」を書きました。内容
の幾つかは前述の通りですが、60年近い己の人生を反省し、それをもとに
14か条にわたる教訓として子孫に伝えようとしたわけです。父母への孝養
を尽くす丘隅の心情などが、文中の随所に見受けられます。
 「走庭記」をかいて間もなく(享保5年の秋)、丘隅は西国巡礼の旅に出ま
した。途中、紀伊の那智山の麓で就眠中に「奇異(きい)の霊夢(れいむ
)」を見てから著作への心がはやり、9月に帰郷してから夜を日に継いで
書き進めて、翌6年9月に脱稿しました。名著『民間省要』の誕生です。
 彼はその序文で著作の意図をおよそ次のように述べています。
 「自分がこれを書いたのは、利益や名誉のためではない。ただ国恩のた
め、社会同胞のために役立ちたいからである。近頃、博識の人があちこち
で、民間(農民)のための本を書き残しているが、権威や文才を振りかざし、
ひたすら理屈のみに走って、庶民のことなどは眼中にない説が多い。それ
はあたかも理屈ばかり先立ち、技が伴わない武芸のようなもので、実践で
は何の役にも立たないと同じことである。その点、私の本は誰の説でもな
く、あくまでも自分自身の日頃の実践や考察から生まれた事理を書いたも
のである」
 永年の豊富な実体験を土台にした著作だという丘隅の自負は、まさにそ
の通りで、とりわけ後述するように、貧しい生活を強いられる農民に深い
同情の眼差しを向けると同時に、代官所役人を中心とした農民を搾取し私
腹を肥やす悪役人たちを厳しく攻撃しています。

 4 「民間省要」の内容

 全17巻(乾之部7巻・坤之部8巻・目録1巻・口伝巻1巻)から成り、宿
駅の損益、飢饉・凶作に対する方策、課税、治水などの項目をあげながら、
前述のように悪政に対しては鋭い批判をすると共に、農民側に立ってその
日常生活を、克明に描き、為政者の非道を戒めるなど丘隅独自の経世済民
論を展開しています。
 見方を変えれば、、幕藩体制下にあって農民自身による農民問題論の最
初に体系化された著書という画期的な意義と同時に、民衆生活の実情をリ
アルに叙述しその苦悩を訴え、かれらを抑圧しかれらから収奪する者を厳
しく糾弾することに止まらず、そこから脱却や解決策をも具体的・積極的
に示している独自性が、不朽の名著と称せられる所以(ゆえん)でもある
でしょう。
 そのためでしょうか、本書の影響力は大きく乾之部が「国家要伝(こっ
かようでん)」と題して筆写されて別に伝わり、また乾之部の中の「百姓
四季産((ひゃくしょうしきのさん)」が抜き書きされて「農業四時艱難
記(のうぎょうしじかんなんき)」と題されて諸国に流布され、さらにこ
れを読んだ越後の「微禄の貧士」によって《粒粒辛苦録(りゅうりゅうし
んくろく)》と名付けた農政書として、世に流布されてもいました。

 5 吉宗の上覧に供される 

 「民間省要」脱稿の翌年の享保7年6月に、体をこわした丘隅は湯治に出
かけますが、その途中で成島道筑に本書を託します。当時、江戸城中で表
坊主(おもてぼうず)などの役職を務め、将軍吉宗に学問を講書すること
もあった成島は、これを吉宗に献上しました。このことで丘隅は吉宗の知
るところとなり、吉宗は時の江戸町奉行大岡越前守忠相に丘隅の登用を促
したものと思われます。大岡は関東地方御用掛(じかたごようがかり)も
兼務し、吉宗の享保の改革の実務を担当していました。
 丘隅が「民間省要」で熱心に訴えることの中に検見制(けみせい)を廃
止して、毎年の収穫度を調べ、その度合いに応じてその年の年貢高を決め
るの検見制です。丘隅は年々の収穫度に関係なく一定の率で決めるのが定
免制です。丘隅は検見制の弊害《検地役人の収賄など》を「九万八千の邪
神」という表現で厳しく糾弾し、定免制(ていめんせい)の採用こそが役
人収賄による幕府の収入減を防ぎ、農民の生活を安定させると主張してい
ます。享保の改革が実施されたので、定免制の採用なども丘隅の主張を入
れての結果とも考えられますが、幕府の意図は年貢の増徴にあったとされ
るので、一考を要するところでもあります。

 6 丘隅の登用

 享保の改革の眼目の一つである、新田開発の奨励などのために、大岡越
前守忠相は民間の有能な人材を登用しています。武蔵野新田世話役として
活躍した押立(おしだて)村(府中市)名主川崎平右衛門定孝などと並んで、
田中丘隅も登用されました。このことは、丘隅の生きた時代と吉宗の将軍
職就任、さらに享保の改革などが、歴史の上でタイミングよく重なり合っ
た結果といえるでしょう。
 「有徳院御実紀(ゆうとくいんごじつき)附録]巻九に「ここ川崎の駅長
休隅右衛門喜古(よしひさ)といへる者あり、地理はさらなり、駅馬脚夫
(えきばきゃくふ)の事にも熟し、みづから近世の得失を論じ、民間省要
十六巻をあらはしけるに、成島道筑遍たよりを得て、うちうちに御覧に備
えければ御心に応じ、まづ彼がなす所を試(こころみ)らるべしとて、武
蔵国埼玉郡の河渠(かきょ)を治むべしと仰下され」とあって、この頃か
ら丘隅が幕府役人として本格的に活動し始めたことがわかります。丘隅は
60歳を過ぎていました。
 丘隅の治水事業の中で、今日まで伝っているものの一つに、享保11年(1
726)に行った酒匂(さかわ)川改修工事でがあります。酒匂川は神奈川県
内を流れる川で、富士山麓や丹沢山塊からの流水を水源とし、小田原市を
流末として相模湾に注いでいます。昔から水害の絶えない川で、特に宝永
4年(1707)の富士大噴火では、降灰で河床が埋まり翌年の大雨では大泥流
となって下流21ヵ村に大きな被害をおよぼし、、さらに享保2年の洪水で
も沿岸村々に大打撃を与え、荒廃がますます進んでいました。幕府も手を
こまねいていたわけではなく、改修工事を繰り返して来たのですが、一夜
の大雨で破壊されてしまうという、その繰り返しでした。
 治水技術の腕を見込まれてこの改修事業に臨んだ丘隅は、彼が考案した
といわれる弁慶土俵の効率的な使用など、いろいろな工夫を凝らして、数
か月後にこれを完成させ、洪水に負けない堤防を作りに成功したのです。
丘隅は自らが撰文した記念碑をこの両岸に建てました。
それは文明東堤碑(ぶんめいひがしつつみひ)・文明西堤碑と呼ばれ、南
足柄市内などに現在も残っています。
 それから3年後の享保14年の春に、丘隅はそれまでの業績・手腕を認め
られて、武蔵国内の幕府領3万石を管轄する支配勘定格(しはいかんじょ
うかく)に任じられました。しかしながら、「九万八千の邪神〕に代わっ
て、これから農民のために働こうとする矢先その年の12月に、惜しくも江
戸浜町の役宅で病死しました。亡骸は田中家菩提寺の妙光寺(川崎市)に
葬られ、兄や縁者たちによって回向墓が生まれ、故郷平沢村
の廣済寺に建てられました。
 丘隅の優れた治水技術は、多摩川対岸羽村の出身である甥の森田通定(
みちさだ)に継承されました。通定は「治要弁」を著して、これを後世に
伝えています。