女房(にょうぼう)の柵(さく)

 尼御所の建物に隣して、かなり広い地域にわたる女房の柵(さく)とよ
ばれる一劃(いつかく)もあった。
 みかどと女院の側近くに仕える典侍から雑仕女(ぞうしのめ)までの、女
人ばかりが一かたまりにおかれていた。また、一門の幼い姫君や上臈(じ
ょうろう)や各大将の北ノ方なども、漁夫の家にもひとしい仮小屋ながら
おのおの棟をべつに住んでおり、それぞれの局(つぼね)長屋や目童(め
のわらわ)をかかえている。-いわば敵に一矢(いっし)を射る戦力すら
ない者ばかりがいる待避の柵といってよい。
 夜々の暗い潮鳴りは、ここの柵を仮借(かしゃく)なく吹きめぐった。そ
して「戦近し」と潮(うしお)は告げ、「恐(こわ)らしい坂東(ばんどう
)男の水軍が、はや周防灘まで来ているぞ」と、気が気でないものの如く
女房小屋の廂(ひさし)を打って教えているようであった。
 けれど、ここの一劃だけは、浦々の武者が揺れ騒ぐ夜も、しいんとして
いた。-おりに乳のみ児の泣き声がどこかでするほか、灯影のもれもつつ
しんで、ひっそリしたままだった。おそらく、ここが悲鳴と狂乱に落ちる日
は、彦島最後のときであろう。それほど、かの女たちは、眼のまえの運命
に無力であった。霹靂(へきれき)の下にただうつ伏しているときの観念に
も似て、何もかもただ天命視していた。
 八歳のみかど、二十九でしかないお若い国母も、ここにおいでなのだ。
かの女らはそう思ってじっと生命(いのち)の怯(おび)えに耐えあってい
る。けれど夜更けて泣く嬰児(あかご)の声を聞くとたまらなくなって、どこ
の灯影も人影もすすり泣いた。そして、「なんと罪ふかいことであろう。い
っそ産まぬものならば・・・・」と、みな思った。
 こういうことになり果てようとはたれも考えていなかったので、都落ちの
おり、平家の大将たちは、あらかた妻子をつれて出たし、二位ノ尼にして
も、姪(めい)やら孫姫などの、可愛い者たちほど、もれなく連れていたの
である。自然、以後三年間には、一門の妻室に嬰児も産まれ、もうはって
立つ年ごろの子もいたし、まだ乳を離れぬ生後わずかな子もいたのだった。
 国母建礼門院と、二位ノ尼とはべつにしていったい、平家の女房群と
は、どういう人びとであったろうか。-一ノ谷の合戦直後、良人(おっと)
の通盛(みちもり)の戦死を追って、妊娠(みおも)でもあったのに、船か
ら入水して果てた小宰相(こざいしょう)の局(つぼね)などは、そのことで、
語り草に残っているが、多くはほとんど知れていない。
 今、ここの女房の柵にある人びとでも、ほぼ分かっているのは、

  臈(ろう)の御方(清盛の娘。花山院殿の室)
  治部卿ノ局(知盛の妻の妹)
  大納言佐(だいなごんのすけ)ノ局(中将重衡の妻)
  按察(あぜち)ノ局(不明)
  帥(そつ)ノ局(兵大納言時忠の妻)
  北(きた)ノ政所(まんどころ)(摂政基実に嫁したことのある女性)

 ぐらいなものである。
 しかし名は知れずとも、知盛にも幼い姫があったし、門脇(かどわき)ど
の(教盛)にも二人の妙れいな息女がある。北ノ政所や花山院殿の奥方
のように、いちど嫁(とつ)いだ先を去って、一門と運命をともにして来た
女性も少なくない。また典侍、命婦(みょうぶ)以下の女官には、侍大将
の娘や姻戚(いんせき)の女子も多く、縁は遠いが一門のつながりではあ
るさくらノ局とか、また、かの玉虫のような、一門の端でもない、たれの娘
とも知れない、孤独な淋しい女性もふくまれていたことであろう。
 ところで、その晩は、三月二十日の宵ごろであったが、さくらノ局は、
 「-内大臣(おおい)の殿のお召しです。ちょっと、そこまでお歩(ひろ)
いください」
 という迎えをうけて、女房の柵から連れ出されていた。
 かの女は、迎えの者を見たせつな、さっと顔いろを失った。内大臣の殿
と聞いたからである。
 わななきながら、かの女は「・・・・・・こんな夜陰に」と、渋って見せ
「尼ノ公(きみ)に、お伺い申さいでは?」と、いい逃げようとしたが、使いに
来た飛騨四郎兵衛(ひだのしろうびょうえ)は、
 「それには及びませぬ。急いでとの、おいいつけじゃ。お気短なあの殿
のこと。おん身化粧などはそのままでよろしい。被衣(かずき)でも召され
て、すぐおいであれ」
 と、待ったなしの催促だった。
 ぜひなく、被衣をかずいて、かの女は四郎兵衛景経とその郎党たちに
ついて行った。生きたそらもない影であった。
 かつて、紀州にいたころは、湛増法印(たんぞうほういん)の寵愛(ちょ
うあい)と、周囲の力をかさにきて、その才気と勝気を誇っていたかの女
も、今は窈窕(ようちょう)の美も意気も、みじめなまでに、やつれていた。
-古い諺(ことわざ)にある、女賢(さか)シウシテ売リ損フというあの言
葉どおりなかの女であった。
 余りに、自分の美貌(びぼう)と才に恃(たの)むところの多かったかの
女だけに、見事、湛増から逆な打っちゃりをくっていたと分かったときの気
崩れは、はたの見る眼も気の毒なほどだった。一夜に色香も褪(あ)せ、女
らしさの地肌もそれから荒(すさ)びていた。
 -無理はない。平家へ味方しようとかの女へ堅く(かた)く誓った湛増は、
その田辺水軍をあげて、源氏方の一翼として屋島沖へあらわれた。しか
も、その屋島では、一門大勢の中で、かの女はさんざん、内大臣の殿か
らののしり辱(はずかし)められた。-もしあのおり、二位ノ尼が、見るに
見かねて、庇(かば)ってくれなかったら、宗盛のため、成敗されたか、海
中へ突き落とされて、きょうのいのちは、なかったかもわからない。
 で、それからというもの、かの女は、宗盛のあの顔が、瞼(まぶた)につ
いて離れなかった。御総領とか、内大臣の殿とか、人の口端に聞くだけ
でも、膚(はだ)に恐怖がはった。-ましてこよいはその人の乳人子(めの
とご)たる四郎兵衛が、直々迎えに来たのである。陣館(じんやかた)ま
での暗い小道を行く被衣が、人知れずわなないたのも、無理はなかった。

 おそらくかの女は、途々(みちみち)も「なんの召しか?」を恐れつづけ、
そして、屋島でうけなかった成敗を、こよいこそ、果たされるのかも知れ
ないと、死の淵(ふち)へ歩む思いだったにちがいない。
 が、仮屋の幕(とばり)には、そんな死の匂いもなかった。やがて出て来
たのは、宗盛一人で、郎党も遠ざけ、 
 「宵のころ、三名の者が、尼御所へ伺い、しめやかに密談していたこと
を知っていよう。知らぬとはいわさぬ。そなたは二位どののお側におかれ、
わけて屋島以来は、一きわ、お目をかけられている者」
 という案外な訊(たす)ね事(ごと)であった。
 胸撫で下ろしたよろこびの余りに、さくらノ局は、いわでもがなことまで
しゃべった。
 知盛、資盛、原田種直の三名に、女院まで加わって密談のあったこと
は、かの女も知っていたが、どんな話が行われたかは、もとよりそこにい
た者以外、知るよしもない。
 けれど、三名が帰ったあとの様や、尼と女院とは、重ねてその後で、何
か話したか否かなど、宗盛の訊くにまかせて、かの女はためらいなくなん
でも答えた。
 女特有な饒舌(じょうぜつ)のなかに、宗盛は、求めていた何かを、確か
めえたものとみえる。
 「よし・・・・・」
 と、とつぜん質問を打ち切って、にゅっと、にぶい笑いを見せた。
 そして、ぶよぶょした顔の肉や瞼の皮に、微かな痙攣(けいれん)さえも
って、
 「さくらノ御(ご)」と、息をつめ、
 「そなたの一命は助けてやろう。かつての罪も忘れてやる。そん代わり
にだ・・・・。二位どのお眠りを見とどけて、わしの命じることをし遂げて
来い。もし、して戻らねれば、再び四郎兵衛を向けて、刺し殺すぞ。よいか、
早くして参れ」
 と、かの女を、外へ放してやった。
 それからかの女は、半ば自分を失なっていた。尼御所へ帰り、尼ノ公
の眠りをうかがって、昼の居間へ忍んではいった。そして尼の手筥(てば
こ)から、一書を持ち出し、ふたたび、宗盛の許へ、走り戻って来たので
ある。
 宗盛は、待っていた。
 猟人が猟犬のくわえて来た物を見た時のようなかれだった。さくらノ局
の手から、一書を受け取るやいな、かがり火の下へ寄って、
 「・・・・・これだ。・・・・・案にたがわず」
 自分の猜疑(さいぎ)があたっていた満足さを眼にたぎらせ、仔細(しさ
い)にそれを読み出した。
 それは、櫛田(くしだ)の神官、祝部(はふりべの)宮内大夫(くないた
いふ)が、博多、大宰府などの与党と計って、同郷の大将原田種直へ寄せ
てきた例の書状であった。
 書中には、お身隠しの秘宝とか秘授とかいう隠語をもっていってあるが、
その意味は、孤立の陣から幼帝を救出して、九州の山か海の極みへ、蒙
塵(もうじん)を仰ごうという献策にあることは、宗盛にも、すぐ読みとれ
た。  
 「よういたした、さくらの御、褒美には、約束どおり一命を助けてとらす。
・・・・四郎兵衛、四郎兵衛」
 手早くかれはその一書を鎧(よろい)下着の奥深くへ収めながら、幕の
蔭へ向かって呼んだ。
 そして、四郎兵衛景経の顔へ、
 「この女を、小舟に乗せ、東の小さい名なし島へ、捨てて来い」
 といいつけた。
 四郎兵衛は、怪しんで。
 「名なし島とは、あの漁夫の小屋の一つしかない、船島のことでござい
まするか」
 「そうだ。かしこには先に、二股者(ふたまたもの)の時忠どの父子も
送り込んである。無用な人間の捨て場には恰好(かっこう)な離れ小島で
あろうが。-この女も、まことは、斬って諸人のみせしめに示したいところ
だが、こよいのことにめんじて、まずは、人捨て場に捨ててやるのだ。もう
尼御所へ帰してはならぬ、夜のうちに、捨ててまいれ」
 「心得まいた。・・・・・では、さくら御」
 四郎兵衛は、かの女の側へ寄って、むずと、腕を取って引っ立てた。何
か口走って、もがきをやめぬかの女であったが、宗盛の姿は、いつのまに
か、もうかの女の前にはいなかった。

 筑紫(つくし)の紅白(こうはく)

 小松資盛(こまつすけもり)は、夜半を過ぎたころ、火の山から駒を引
っ返していた。
 自身、彦島を出て、赤間ヶ関の守りを見、また、火の山から豊浦(とよ
ら)方面の情勢をたしかめて、ひとまず引っ返してきたのである。
 いずれ、源氏方も、その水軍と併行的に、陸上隊を先駆させて、まず沿
岸の要地を奪(と)ろうとして来るであろう。
 という作戦は、極めて定石的ではある。しかし、いかに奇略な大将がい
ても、陸地に足場をもたない船隊だけの海戦などは成り立たない、行い
うるはずがない。
 大小すべて木造船なのだ。動力といっては風力と櫓楫(ろかじ)だけで
ある。船かずが多ければ多いほど、陸地への依存もその必要度を大きく
する。
 で、当然、平家方にしても、陸上の備えを欠いてはいない。
 けれど、義経軍だけが、防禦(ぼうぎょ)の対象ではなかった。九州の一
端には、三河守範頼(のりより)の大軍もいることだった。かなりな兵力は
それの抑えにも割(さ)かれている。
 が、船上兵力と彦島の守りは、これを手薄にするわけにゆかなかった。
当然、そのうえでの陸上の計であった。-彦島口の小門、伊崎、また赤
間ヶ関の辻々から、火の山、秋根、豊浦へかけてまで、百騎、二百騎ず
つの小部隊を各所に派して、その固めとしていたのである。しかし、余り
に地域は広く、分散のかたちにもなり、勢い防御線の薄さとなったのは、な
んともやむをえなかった。
 「-資盛、火の山より、ただ今馳けもどりました。黄門どのには、お眼ざ
めでございましょうや」
 もう夜明け近かったが、宵の約束もあったので、資盛は彦島へもどると
すぐ、知盛の陣地へ来て、内の兵へ告げた。
 知盛は、眠っていた。もちろん、具足も解かずにである。すぐ起きて、み
ずから迎え、「-お待ちしていた」と、床几を対して、かれの報告に耳をか
たむけた。
 周防境の物見が屯(たむろ)している火の山で資盛が聞き集めて来た
ことはこうであった。
 源氏の陸上隊は、さして大部隊ではない。
 けれど、その中には、金子十郎、畠山重忠、鎌田正近、熊谷直実など
の名も聞こえる。
 かれらは、柳井津(やないづ)で義経とわかれ、途々、平家の郡家(ぐう
け)や、平家色の郷人を仮借なく掃討しつつ、降る者は麾下(きか)に加
えて来るという風なので、初めの小勢も、海峡の関へ近づくにしたがい、意
外な兵力と化して来るかもしれない。
 そして、それの襲来と、味方の備えとを比較して、
 「ぜひもう一倍、陸(くが)の兵を増しおかねば、安しとはいえません。
それも、急を要しまする」
 と、資盛は、つけ加えた。
 「おう、陸こそ大事だ。そこも破れなきように防ぎおかねば。・・・・だ
が、たれを加勢に差し向けたものか」
  「厳島より馳せ下った安芸守景弘どのはいかがでしょう。父子ともに、
それがしの手の小瀬戸の柵におりますれば」
 「む。あの組は、六百騎よな」
 「そうです。御総領や能登どのの下には、屋島から移った将士がその
まま、あまた控えておりますが、内大臣の殿と御談合のうえならでは、そ
れの移動はかないますまい。とこうする間に、半日過ぎ、一日過ぎと相な
っては」  
 「いかにも、機は外(はず)せぬ」
 知盛は、意を決した。
 「では、景弘父子へ、赤間ヶ関の固めに移れと、和殿から令を伝えてくれ
まいか」
 「うけたまわりました」
 資盛は、すぐ立ち帰った。
 すると途中、何を感じたか、まもなくまた、かれの姿は、元の柵門の外
へ帰って来て、
 「黄門どの。今暁の島の内、ただごととも思われませぬ。-筑紫の党か
ら、離反が出たとか、いや喧嘩(けんか)にすぎぬとか、諸陣にていい噪
(さわ)いでおる様子。いかなる間違いか、人をやって、お糺(ただ)しあ
ってはいかが」
 と、大声で内へ知らせた。そしてかれ自身は、小瀬戸の方へ、そのまま
馬を飛ばして去った。
 
 大宰少弐(だざいのしょうに)原田種直の仮屋は、島の南端、田の首の
浦にある。
 筑紫(つくし)ノ組(くみ)と呼ばれていた。
 山賀党、松浦塔などの筑紫組の多くは、船上にあったが、原田党だけ
は田の首に営をおいて、本軍と海上との連絡や補給の継ぎ目になってい
たのである。
 夜明け方であった。
 そこの営所へ一隊の将士がどやどやと混み入って来て、「少弐どのに
は、まだ寝所か。寝屋(ねや)はどこか」と、たずねまわり「原田どの、出
られよ。内大臣の殿の召さるるぞ」と、大声で呼ばわったりした。
 その様子が、いかにも無礼であり、荒々しい。種直の家臣らは、不審に
思って、
 「お迎えならば、異議のう罷(まか)るものを、何ゆえのお騒ぎ立てぞ」
 と、問いただすと、一人の将は、
 「御諚(ごじょう)なれば、御諚のままに振る舞うのみ。委細は、福良
(ふくら)の御所へまかれば知れよう疾(と)う疾う、われらとともに参ら
れい」
 と、一そう威猛高である。
 はしなくも、味方喧嘩となりかけた。双方とも気は立っている。あわや血
も辞さないものが見えた。
 騒ぎを知って、種直もここへ姿を見せ、部下をなだめるのに骨を折った。
柵の附近から浦へかけて、廃船の残骸(ざんがい)やら食糧の俵や苞(つ
と)やら、軍需の物が、山をなして散らかっていた。その中でのできごとで
ある。ひとたび、同士打ちでも始めたら、収拾はつかない。
 「おそらく、何かのお間違いであろうよ。お目にかかれば分かること。構
えて、雑言をつつしみ、種直が帰るを待て」
 いい残して、かれは、迎えの将士に囲まれて行った。周囲三里の島だ
が、田の首から福良へは北の小高い岡を越えて行き、道もさして遠くはな
い。
 福良の陣館の柵をはいると、種直の身辺には、一そう武者たちの厳戒
的な眼がつきまとった。しかも、通されたところは、幕の床几ではなく、ふ
だん武者だまりとなっている大床(おおゆか)であった。
 正面には、宗盛が着座してい、めずらしく修理殿どの(経盛)や門脇ど
の(教盛)まで居ながれている。-また横の列座には、侍大将たちの首座
に、能登守教経が、きびしい気色を眉に沈めて、すわっていた。
 「・・・・・・?」
 これはなんたる景色か。
 種直は、大床のまん中に、円座(えんざ)も与えられず、じかに引きす
えられた。すでに科人(とがびと)の扱いなのだ。そして、これは吟味の座
のかたちではないかと疑う。
 身に吟味をうける後ろめたさは何もない。乱れまいと、かれは自分をな
だめていた。
 「小卿(しょうきょう)」
 宗盛が、呼びかけた。冷やっこい声である。-忌(いま)わしげに、そう
いう人を見る種直の眼と、宗盛の眼(まな)ざしが、無言のうちに闘った。
 種直には、何か、そのとき、心に読めたものがあった。腹をすえねばな
らないと感じた。
 「御辺と平家とは、久しいものだが、つい御辺も、この期になって、われ
ら一門を裏切りおったな」
 ことばは穏やかである。宗盛は、激していない。
 おそらく、宗盛から一門の諸卿へ、内輪の話はすんでいたにちがいな
い、種直には、そう思われた。
 「心外な御意(ぎょい)を伺いまする」種直も、静かに頭を下げてー
 「裏切りなどとは、ゆめ、覚えのないこと。かつは、原田党として口惜し
き儀にぞんじまする。身の恥(はじ)は忍ぶもよし、末代子孫までの汚名
は堪忍(かんにん)なりませぬ。仔細(しさい)を仰せ給わりましょう」
 「お。いわいでか」
 宗盛は、眼の隅から、横の座へ、
 「能登どの。見せてやれ」
 と、いった。
 教経が、取り出したのは、櫛田の神官宮内大夫の密書であった。「おそ
らくは、そのこと」と、種直も察していたので、べつに驚く色もなかった。
 「小卿。それに、覚えなあろうが」
 「まさしくそれがしへあてたる書状。が、これになんの御不審を」
 「文中に、お身隠しのに秘授とあるは、そもなんの意味ぞ」
 「お判じにまかせまする」
 「筑紫の郎党どもとしめし合わせ、主上のおん身を、奪い奉らんとする
謀(はかり)であろうが」
 「おことばじりを取るには似たれど、主上を奪い奉るとは、余りに下種(げ
す)な御推量かと存ぜられる。筑紫人(つくしびと)たちのひそかな願いは、
栄花にあらず、天下の権にも候わず、あわれ、おん八ツの帝(みかど)と、
おいたわしき寡婦(かふ)の女院を、ここの修羅(しゅら)より救いまいら
せ、いずこなりと修羅なき世界に、せめて安けき御余生をお過ごしあらば
という憂いのほかのものではおざらぬ」
 「それ見たか」-と宗盛は、いきなり指つき出して、種直の顔を指さしな
がら「-いわじとしつつ、小卿が、みずから泥を吐きつるは。まだ、源氏の
船影も見ぬうちに、この小卿めは、平家の敗け戦をきめておるのじゃ。さ
すれば、いかなる企(たくら)みを腹の底に持ちおるや知れたものではな
い」
 ようやく、かれは持ち前の、体揺るぎをして、その声も、甲高(かんだか
)になった。
 「かかる者を、獅子(しし)身中の虫というぞ。内より平家を崩そうと企む
憎いやつ。一門浮沈の合戦を前にひかえているおりもおりよ。きっと、極
罪に処して、軍兵どもの見せしめにせねばならぬ」
 すでにその処分は決められていたのであろう。かれの怒喝(どかつ)を
あいずに、教経の部下が、一せいにみだれ起って、種直の身を囲み、う
むをいわさず縄目(なわめ)をかけようとした。が、騒然たる床ひびきを破
って、同時に、まったく違う峻厳(しゅんげん)な気のこもった別人の一喝
(いつかつ)もどこかでしていた。-その声の主は、列座のうちでなく、か
なたの廊の口に突っ立って、二つの巨大な眼でこの場を睨(にら)むがご
とく見ていたのであった。

 「や。-黄門(こうもん)ノ卿(きみ)か」
 一瞬、ひそとなった。
 そういった宗盛は、教経へは眼をやらずに、ずかずかと、種直のそばへ
よってきた権中納言知盛は、たじろぎ惑うそこらの武者を、
 「慮外すな〉
 と、睨(ね)め退(すさ)らせて、
 「少弐どの、ゆるされよ。櫛田の宮内大夫が書状を、尼ノ公へ見せよと、
尼御所へ御辺を誘うたのは、この知盛であった。そのことが、罪状なれば、
知盛こそ、罰せられねばならぬ」
 といった。
 さらにきっと、正面へ向かい直って、
 「お憎しみあるな、原田小卿(はらだのしょうきょう)は、またなき正直者
でおざる。もし深き謀りのあるものならば、なんでさような密書を、わざわ
ざこの知盛へ示しましょうや。知盛こそは、たとえ一門ここに亡び果つる
とも、故入道どのの怨敵(おんてき)頼朝の代官を迎え、一戦を遂げでや
あると、かたく誓うておる者なること、およそ同陣の人なれば、知らぬは
あるまい。-その知盛へ、私事(わたくしごと)の書面まで見せに参った
小卿は、およそ正直な仁ではおざるまいか」
 「・・・・・・・・・・・・・」
 「なお、尼御所の内へ、その書状を、持参したのも、知盛が分別、知盛
がさしずでした。なぜなれば、太宰府、博多ノ津などの平家を思う人びと
が、憂いの余り申し越せし献言も、まちがえば、彦島の守りに、揺るぎを
呼び、異端やある、異心の者やあると、味方同士の疑いとなりましょう。
-されば、尼ノ公のお手に収めて、人にももれずあるならばと、たれにも
秘して、お預け願うたわけでおざる」
 「・・・・・・・・・・・・」
 「さるを、物好きな。たれが、尼ノ公のお手許より、さような物を持ち出
して、わざわざ、衆座に披露し、かつは三軍の士気を、いたずらに惑わし
給うか。・・・・・が、それもまだよし。見すごしならぬは、平家の功臣原田
少弐種直に、縄打たんとする狂気沙汰です。種直ほどな功臣すら、あら
ぬ汚名の下に、縄目をうけたるよといい合えば、平家のためには死なん
としているほどな者も、みな志(こころざし)を失うであろう。種直に、罪は
ない。
種直に向かい、改めて、内大臣の殿より、ゆるすと、仰せ出しあってしか
るべしと存ぜられる」
 「ば、ばかな」
 宗盛は、少し声をふるわせた。弟のくせに、という感情もある。
 「やよ、黄門どの。しきりに、其許(そこ)は小卿をさして、平家の功臣な
どと申すが、原田がなんの功臣ぞ。大宰府少弐とまでなったのも、ひと
えに、故入道どののお引立てではないか。さるを」
 「あいや」と、知盛は、静かに抑えて、「修理どの、門脇殿、一門の長上
も見えらるる中、功臣などと申す語を、いたずらには吐きませぬ。-そも
そも、九州の天地に、今日まで、なお平家を思う加担人(かとうど)を、諸
所に残しておるのは、原田小卿が、苦節の賜物のです。その種直が、変
らぬ心は、かつて寿永二年の秋、一門筑紫にさすらい、みかどは種直一
族の岩戸ノ館を仮御所として雨露をしのがせ給うたおりのーあの真心な
奉仕に見てもわかりまする」
 「・・・・・」
 知盛のそばで、突然、咽(むせ)び泣く者があった。たれでもない、知盛
に弁護されていた種直であった。
 おそらくかれは、こう感じたのであろう。「ただ一人の知己がここにあった。
生涯を平家に仕え、無数の平家人と相知ってきたが、自分を知ってくれた
人は、一人であった。それでいいのだ。ただ一人でも知己のあったことを望
外としよう、もうこれで、生涯の満足は得たのだ」と。
 知盛や、また、同座の門脇どのの扱いなどで、かれはその日の危うい
縄目からは救われた、しかし、ゆるしたとはいっても、内大臣の殿が、腹
から解けない顔つきは分かっていた。
 表向き追放という命が出たわけではないが、種直はその日のうちに、み
ずから少数の一族だけを連れて、彦島を去った。筑紫の岩戸へ帰国した
いと願って、自身の船で、田の首から玄海へ去ったのだった。
 船上から見える筑紫の陸影は、この老将の胸に、自己の歴史をふりか
えらせた。
 平家を慕う者が、なお諸所に隠れているといっても、今や九州の野は、
ほとんど、源氏の天地になったものといってよい。
 その胚子(たね)は、遠いむかし、都で、保元の乱があったときに、発祥
(はつしょう)していた。
 暴れン坊のため、この地へ流されてきた源為義の八男、鎮西八郎為朝
が、召されて、都の乱に馳せ上るさい、筑紫の鶴賀原八幡を中心に、屈
強な部下五人を、残して立った。
 それが、九州源氏の、後の緒方維義(おがたこれよし)などだった。-
おととし、種直の岩戸ノ館を襲撃して、流亡(りゅうぼう)の平家を、筑紫
の山地から海上へ追い出した緒方党こそ、その源氏なのだ。-保元のむ
かし、為朝が、九州の地にこぼした胚子が、はからずもまた、きょうは鎌
倉どのと呼応して、範頼や義経の水軍に力を協(あわ)せ、平家のたてこ
もる一孤島を、西方の長い陸線で断ち切っている。そして豊前、豊後の野
にみつる白旗は、無言のうちに、平家をして、平家の最期を覚悟させて
いるのだった。
 「わからぬるものだ。・・・・ああ、この世はどう旋(めぐ)る輪(わ)
やら思いも及ばぬ輪廻(りんね)不思議な相(すがた)のものだ。まして
小さい一粒の人の身などは」
 原田種直は、ふるさとの岩戸の山を想いながら、重い鎧に代えて、しき
りに、かろい墨染めの袖(そで)が恋しくなっていた。