二十九の春(はる)

 文治三年元旦の雪あがりの初日の出を、はしなくも、義経は童心のふる
さと、鞍馬(くらま)の上で拝(おが)んだ。
 除夜に、仁和寺(にんなじ)の宮へ別れを告げ、元朝へかけて、これへ
登って来たのである。その足で、かれはただちに鞍馬寺東光坊の内を訪い
、そのまま午(ひる)過ぎるまで、姿は見せなかった。
 ここの阿闍梨(あじゃり)や律師(りつし)、さては古くからの友など
へも、暇乞いを告げていたのではあるまいか。
 また、それら旧縁の人びとが、一致して、きょうまで六波羅に屈せず、
窮鳥(きゅうちょう)の自分を庇(かば)ってくれた恩情へも、心から礼
をのべたいと考えたに違いない。
 それに、元日でもある。惜別は惜別として、年初の杯なども酌み合った
ことだろう。年明けて、義経は二十九になる。
 十六歳で山を出てから、今二十九。
 鞍馬から、鞍馬まで。
 その間十二年を一巡、下界を遍歴して来たようなものである。いや運命
の神が、ある意図の下に、かれを世間に用いて、いま再び、かれを山へ返
してよこしたのかも知れない。義経は、そんな自分のようにも考えられた。
茫々(ぼうぼう)、長かった夢とも思われ、短い一瞬だったような気もす
る。
 「いずれも、さらばでおざる。このうえとも、おからだ御大切に」
 東光坊にも、かれは、長くいなかった。
 同日、陽(ひ)もまだ茜(あかね)色のころ、例の法師道を、大原へ下
り、叡山の飯室谷(いいむろだに)へ向かっていた。途中一、二の木戸も
、正月のせいか、兵は見えず、守りはないにひとしかった。
 そして当夜。飯室谷には、奇異な光景が展じられた。回状でもまわった
のか、例のかとう頭巾(ずきん)を眉深(まぶか)に、眼ばかり出した山
法師の大衆が、雪の谷道や峰道づたいに、群鴉(ぐんあ)のごとく集まっ
て来たのである。その数、何百なるを知らずといっても誇張はない。
 「なさけないことではある」
 「かかるお別れに会おうとは」
 「浮き沈みは、世の常、まだおん二十九といえば、御運の末などといえ
もせぬに」
 「なんで、みちのくへ、落ちのびねばならぬのか。非道な鎌倉に、非道
を誇らせて」
 道すがらも、かれらは、いってやまなかった。
 かれらは、義経が奥州へ落ちることを、にわかに知らされたものらしい。
すべて義経の荷担人(かとうど)、また援護者として、山門の輿論(よろ
ん)をうごかして来た者どもなのだ。悲涙(ひるい)したのもむりはない。
 その真っ黒な群れは、竹林房の床や中の坪までいっぱいになった。やが
て永実(刀禰弾正介)から、一同へたいして、長い話があった。大衆はそれ
に納得はしたものの、なおかれらは、義経のいる一房を遠くとりかこんで
、帰るけしきもなかった、
 かれらの座の中へ、酒の甕(かめ)が開かれ、どの房にも、ほどなく和
(なご)やかな正月の夜が醸(かも)され出した。かれら同士で談じあい
、なだめ合って、自然、義経の真意もよく酌み取れていたのである。
 翌二日、義経はもう、そこにはいなかった。
 叡山横川(よこかわ)から、堅田の方へ下る途中に、仰木(おうぎ)と
よぶ山里がある。
 堅田三家の山屋敷の一つか。数日前から、他の郎党たちは、ここで主君
を待ちあわせていた。
 いよいよ、みちのくの空へ立つのも、あすの未明。同行はみなにせ山伏
となって、百難突破の草鞋(わらじ)を踏みしめ、ここから旅立つ手はず
らしい。ここにいた伊勢、亀井、片岡などは、あらかじめ、道すじの動静
を探り、変装用の皆具(かいぐ)なども調(ととの)えて、
 「もはや、いつお立ちあらんとも」
 と、用意をすましていたのである。
 義経は、まだこの者たちとは、新春の祝も交わしていなかった。あらた
めて、いと小(ささ)やかな、家中(かちゅう)の式事が行われた。
 そのまま、あとの酒宴は、夜へつづいた。
 堀川の館では、数百の侍に、静や川越殿もいて、門前は客の車
馬で賑わった
ものだが、今は、静もいず、主従は、わずか七名に
すぎない。
 「たれぞ、一さし、舞わぬか」
 義経はいった。せめて、かれらに酔ってもらいたかったし、自分も酔い
たいと念じていた。
 すると、亀井六郎が、ことばの下に、
 「心得て候う」
 と立ち上がり、日の丸の扇をかざして船歌舞(ふなうたま)いを舞った。
 人びとは、屋島、壇ノ浦の過ぎた日を、瞼に思い泛べ、咄(とつ)とし
て、熱い感傷にくるまれた。つづいて、弁慶もまた、
 「山法師のなす六方舞いなるものをば、御覧に入れん」
 と、踊った。それは、山門の催馬楽(さいばら)といわれる滑稽な荒舞
いであったから、人びとは腹をかかえて、笑いこけた。
 思いがけない、春興(しゅんきょう)が沸いた。めずらしい。じつにひ
さびさな、主従の睦(むつ)みであったのである。
 ほかの面々も、浮かれぬはなく、
 「-一期(ご)の酒(さか)もりぞ」
 と、手拍子を合わせて、武者歌をうたい出した。そして、義経が鼓(つ
づみ)を取った。-静から手ほどきされたうろ覚えを思い出しつつ、初音
(はつね)の鼓を打った。

 やがて義経は、寝所へかくれ、鼓を持ったまま、衾(ふすま)の中へ酔
いたおれた。
 かれは静と寝た。
 静はかれに抱かれて寝た。
 けれど、まだ暁も暗いうち、かれはすでに起き出している。氷
柱(つらら)の垂れた掛樋(かけひ)の窓で、顔
を洗い、元結(
もとゆい)を切って、弁慶の手で、髪を、総髪に切りそろえさせた。
 そして、白衣の上に、柿色の小袖(こそで)を重ね、大口袴(おおぐち
)を穿(は)いた。髪には、兜巾(ときん)を結び当てる。-ほかの者も
、すべて一様な山伏姿に身を変えたのは、いうまでもない。
 「鷲ノ尾。鷲ノ尾これへ」
 と、縁に立った義経が、
 「軒ばの外に、焚火(たきび)せよ」
 と、いいつけたりしていた。
 一同で朝餉をとる。腰糧(こしかて)を着ける。いざとなって
も、旅の支度は、何くれとなく、こころ忙しい。
 ようやくのこと、
やおらとばかり、おのおの、笈(おいずる)を負い、
金剛杖(こんごうづえ)を片手に、山屋敷の廂(ひさし)を出た。
 その時まで、まだ義経の小わきには、あの鼓の紅い締緒(しめお)がの
ぞかれていたが、つかつかと、かれの姿が、燃え熾(さか)っている焚火
の前へ立ったと思うと、後ろの面々の口から、「・・・・・あっ?」
 と、いぶかる声が流れた。
 -すでに火中へ投げられていた初音の鼓は、たちまち、可憐(
かれん)な形を、変えていた。無数の小さい火を体じゅうにはわ
せて
、瞬間、身もだえしたが、すぐ、一花(いつか)の紅蓮(ぐれん)
になってしまった。
そして、赤から紫へ、さらに冷たい白炎(びゃくえん)と化しながら、
寂(しずか)な息づかいは、徐々に終わった。
 「・・・・・・・」
 その間、義経は炎へ向かって、合掌していた。
 なんで、鼓を火中にしたか。郎等たちには、お主の胸に問わないでも分
かっていた。かれらも、ひとしくひざまずいて、美しい火を拝(おが)ん
だ。弁慶の唇からは、誦経(ずきょう)がもれた。
 今からは、仁和寺末院の修験者(しゅげんじゃ)である。ことば、途次
の挨拶、起居の礼儀、すべて山伏の法則を人なかでは心して歩かねばなら
ぬ。まして、東大寺勧進の同行ともあろう者が、鼓を所持して、国々の関
を、難なく通りえよう道理はない。
 それも第一の理由。二つには、火中を通して、義経は静の形見を、永遠
で不変なものに、持ち直した。おそらく昨夜からけさの間に、それは心の
中で、決めていたことであったのだろう。
 「いざ、行こう」
 義経は、先に立った。
 まだ暁(あけ)の星の光がするどい。雪の野山は、風を跳ね返す氷原の
堅さ(かた)を思わせ、主従七人のつえには、音があった。
 「おう、あれは?」
 衣川(きぬがわ)のヘリまで来ると、一団のかとう頭巾(ずきん)が大
焚火(おおたきび)を囲んでいた。見ると、ゆうべの山法師や学生(がく
しょう)たちだ。なお名残を惜しんで、横川、飯室谷などから続々降りて
来たのである。堅田まで、一里足らず、その途中でも、後ろから「-おん
見送りに」と、追いついて来る者が少なくない。
 堅田には足もとめず、義経たちは、湖畔に添って、北の方へ、
風を切るごとく急ぎ出した。
 「もう、ここで」
 と、幾たび別れを告げても、山門の大衆たちは、後につ
いて歩
むほど、いいしれない感傷を顔に持った。「和爾(わに)まで」
「比良(ひら)の下まで」と、みな吐く息も白々と、おなじ足どりで、
慕って行く。
 比良の山肌が、曙(あけぼの)の色にすき透った。いつか湖心も紅いさ
ざ波を見せている。苫(とま)をかけた一そうの大きな荷船は、ゆうべか
ら、雄松ケ崎の蔭にかかって、義経をここに待っていたもののようであっ
た。

 談議(だんぎ)しびれ


 この朝、近江(おうみ)を離れるさいの義経主従は、同行幾名だったか
というに、かの佐藤忠信やら伊豆有綱など、幾多の股肱(ここう)は、六
波羅に捕らわれたり、ちりぢりになってしまったので、残る者は、
  武蔵坊弁慶
  伊勢三郎義盛
  亀井六郎重清
  片岡八郎為春
  鈴木三郎重家
  鷲ノ尾三郎経春
 に、義経を加え、わずか七名にすぎなかった。
 もっとも北陸潜行の途中に、後から藤井太郎や江田源蔵が追いかけて、
供に加わり、また多武(とう)ノ峰の僧、藤室(ふじむろ)の文妙(もん
みょう)、文実なども、おのおの、山伏の某々と変名して同行したともい
われている。
 さらに義経が奥州秀衡(ひでひら)のもとに行き着いて、やがて、同地
の衣川(ころもがわ)の館(たち)に落ち着いてからは、かつての草の実
党の生存者、-足立義数、深栖陵助(ふかすのりょうのすけ)、吾野(あ
がの)余次郎、鎌田正近などという者どもも、聞きつたえて、遠くからか
れを慕ってゆき、そこでは堀川の昔さながらの面々が、またいつか集まっ
ていたということであるが、とまれ、比良(ひら)の下を立つ朝は、義経
の左右は、寥々(りょうりょう)なものであった。
 ーが雄松ヶ崎の荷船の上では、さっきから、堅田党の人びとが、小手を
かざしていたが、
 「オオ、判官どのが、かなたに見えられたぞ」
 と、早くもみな、陸へ移って、立ち迎えた。刀禰左金吾(とねさきんご
)、居初(いその)権五郎(ごんごろう)、堅田帯刀、みなその中にいる。
 しかも、こう三人とも、山伏姿であった。
 そのことは、ほどなく、義経もこれへ来て、すぐ、いぶかった。
 すると、左金吾が答えた。
 「これは昨夜にわかに、父永実(壇正介)より申された計らいござり
まする。おつつがなく、奥州へお着きあるまで、お供して参れよ
と」
 義経はしばらく、思案の後、
 「いや、それでは、あとに残る永実が心もとない。お
汝(こと)
らは残れ」
 といった。
 けれどなお、左金吾は、
 「父は、このたびのお別れを機(しお)に、まったくの仏道にはいる心
をかため、もう飯室谷を下るまいと申しました。従って、その御懸念は、
御無用にござりまする」
 と、たって供を願った。
 「では、せっかくなれば」
 義経は、断(ことわ)りきれず、
 「千光坊七郎(居初権五郎)一人だけ召しつれよう。あとは堅田にあって、
永実の余生を見、また家の子らをよく守り育てよ」
 と、諭(さと)した、
 ぜひなく、左金吾は、
 「さらば、せめて海津(かいづ)まで、お見送りを」
 と、船には一つに乗った。
 うらうらと、陽はみるまに高くなる。繋綱(もやいづな)を解きかけた
時だった。ひとしく、汀(なぎさ)へ立ち並んで、別れを惜しむ人びとの
間から、とつぜん声をあげて、義経を呼ぶぬく者があった。
 「はて。女ではないか?」
 たれとも思い出せぬらしい義経の眼もとである。女はその間に、見送り
の法師の一人に扶(たす)けられて、恐々(こわごわ)と、渡り板を渡り
、船べりに来て、手をつかえた。
 「おう、そなたは、麻鳥の妻」
 そばでは、義経にも、蓬(よもぎ)であったかと、すぐ分かった。
 「はい、良人(おっと)は、どうあっても、まいちど、お別れを惜しま
ねばと、念じておりましたが、高雄でいただいた往来手形も、人にくれて
しもうて、自分は、往来検(あらた)めの木戸など、恐ろしゅうて、越え
もできませぬ。・・・・・・で、女は詮議(せんぎ)もゆるいと聞き、わ
たくしが、良人に代ってまいりました」
 「ほう、かさねて、わざわざ見送りに」
 「いえ、そればかりではございません。じつは、仁和寺でお目にかかっ
たおり、ただ一つ、忘れていたことがある、おまえから、ぜひ、それをお
つたえ申し上げてくれと、いいつかりまして」
 「あのおり、わしへ告げ忘れたと申すのは」
 「那須大八郎さまのことでござりまする」
 「なに、大八郎のこととや」
 「はい。つい先ごろ、その大八郎さまが、広沢の小屋へ、ふとお訪ねく
ださいました。そして・・・・」
 と、蓬は、そのとき、そばで聞いていたかれのことばを、細かに話した。
 「そうか」
 なつかしそうに、また不安そうに、義経は聞き終わった。
 心あって、わざと、古郷下野国(しもつけのくに)へ帰してやった大八
郎が、ふたたび、鎌倉の招集にあい、鎮西軍の一部隊に加えられて、京に
いたとは、初めて知った。
 そのうえ、京ではかれも、義経追捕(ついぶ)の一手となって働くこと
を余儀なくされ、日々、切ない思いであったと聞くのも、いま初めてだし
、その間、人知れぬ悩みであったろうことも「さも、あろう」と、察しら
れた。
 だが、麻鳥の小屋を訪ねた日をさいごに、追捕の役を解かれ、鎮西軍の
先発として、九州へ立ったといえば、大八郎も、ひとまず、ほっとしたこ
とであろうと、ひとりなぐさめてみる。
 「・・・・・しかし、あの心の直(すぐ)な大八郎のこと。やがて、九
州の陣務に就(つ)かば、そこにまた、新たな矛盾や、心の悩みを、持つ
のではなかろうか。およそ、手に弓矢を持ちつづけて行く道には」
 今の義経には、これからの自分の旅よりも、大八郎の行くての方が、は
るかに嶮(けわ)しく、そして、あわれな子の旅路のように、思いやられ
た。
 こう人のうえをも哀(かな)しむ胸には亡母(はは)のことばが、いつ
か、かれとともに生きていた証(しるし)ともいえるのであろう。ふと義
経は、
 「蓬・・・・」
 と、かの女へそそぐ眼をじっとあらためていた。そして、自分の年齢だ
けの歳月を、かの女のうえに、縮図として、見るように、
 「思えば、そなたは、女童(めのわらわ)の小さいころから、わしの母
常盤どのに、仕えていた者であったのだろう」
 と、沁々(しみじみ)いった。
 「はい、平治の戦(いくさ)のまえからでございました。まだ、あなた
様は、お生まれものうて」 
 「母が、乳(ち)のみのわしを抱いて、平治のちまたをさまようた日は
、そなたが、乳もらいして歩いてくれたそうな」
 「もう夢のようでございまする」
 「ふしぎな宿世(すくせ)の縁(えん)だった。はて、なんぞ、形見で
も、つかわしたいが」
 船は綱を解きかけている。心はせく。義経は、身を撫でたが、柿色の山
伏衣、施す一物も今の身にはない。
 ふとけさ、髻(もとどり)を切るとき、不用となった、笄(こう
がい)が思い出された。かれは、それを蓬に与えて、「はや帰れ、
仲よく暮らせよ」と、わざと追い立てるように、船べり
を立たせ
た。
 船はすぐ雄松ヶ崎を離れ、やがて汀(なぎさ)の人群れも小さくなった。
 風の中に、蓬の影が、いつまでも見える。また、山門の法師たちも、袂
をそろえて、数珠(じゅず)を押し揉(も)み、北天へ祈りをこめている
ようだった。
 湖北の海津へは、午(ひる)過ぎにつく。
 ここで義経は、刀禰左金吾、堅田帯刀へあらためて、これまでの礼をあ
つく述べ、
 「さらば」
 と、船を離れた。
 「さらば行く手の関々に、くれぐれお心つけられて」
 と、堅田人(かただびと)らも、あとの船上に、みな立っていた。
 海津からすぐ北方の峠を迎え、北陸路は敦賀(つるが)ノ津まで、山つ
づきである。この大雪ではあり正月のせいもあろう。笈姿(おいずすがた
)八人のつえが、雪に埋(う)まって行ったほか、人や馬の通いは全く見
かけなかった。

 都では、年暮(くれ)のうちから、
 「義経はもう都近くにはいない」
 という取沙汰が、しきりだった。
 それ以前にも、山陰の但馬(たじま)で自害したなどという
風聞が、流布(るふ)されたことがある。こんども、美濃山中
にはいったとか
、木曾残党を頼って東山道へかくれたとか、い
かにも、まことしやかにいう者はいう。
 もっとも、あれほどにひしめいていた洛中の軍隊も、行く年とともに、
目立って、急減していた。天野遠景以下の鎮西軍は、あらまし、九州へ下
ってしまい、六波羅の正月も閑(ひま)そうに見えたことなどが、よけい
にそれを裏づけたのかもしれない。
 しかし、これは堅田党がよく用いる紛れの流説(るせつ)だったのは、
その現象の起こった時間から見ても明らかである。もちろん、六波羅では
、しばしばそんな策(て)には懲(こ)りているので、信じもしない。
-追捕に加わっていた鎮西軍の一せい西下は、これとはかかわりないこと
だった。鎌倉の令にすぎないのである.
 鎌倉としては、
 「院や公卿輩(くぎょうばら)への、威圧の目的はもう果たした」
 と見、また、
 「これ以上、多くの軍馬を、駐(とど)めおくのは、庶民の怨嗟(えん
さ)になるばかり」
 と考えて、年を境に、都を引き払わせ、九州鎮定の任へ急がせたものに
相違なかった。
 そして、ここ鎌倉の府だけは、頼朝夫妻以下、日本全土のうち
で、最良な文治三年正月を迎えていた。 
 大小名の参賀は
、列をなしただろうし、柳営(りゅうえい)は天下の
春を集めた観があったであろう。その間の頼朝夫妻を、「吾妻鏡」に拾う
と、

  正月一日「大」二品(にほん)《頼朝》鶴ヶ岡御参拝。ソノ儀礼ノ如
 シ。御台所(ミダイドコロ)、若公、御同参。十二日、若公御幸(ゴコウ)初メ。
 八田知家(トモイヘ)の南御門ノ宅へ入御。千葉小太郎、御剣(ギョケン)ノ
 役。十八日。新田四郎忠常、病悩甚シ。二品、彼ノ宅ヲ訪ハセ給フ。
 二十日。合鹿大夫光望(アヒガノタイフミツモチ)ヲ御使トシ。伊勢太神宮へ、神
 馬八匹、沙金二十両、御剣二腰、寄進シ奉ル。コレ伊予守義経反逆、追
 捕御祈祷ノ為ナリ。

 などのことが散見される。
 ここにはないが、文覚は、正月早くに鎌倉へ来て、いつもの宿所、南御
堂わきの高雄支房にはいっていた。そして、柳営の門へ年賀には
出たが、下向の真意は、新春、初の拝謁(はいえつ)なので、ま
だ何も告げず
、そのまま宿でおりをうかがっているもののようだった。
 「高雄の上人が、在府しておるそうな」
 御家人の中でも、いつか皆、知っている。
  ー年来ノ御帰依(ゴキエ)ニヨリ、威光天下二充(ミ)チ、諸人追従(ツ㋼シ
ョウ)
ノ僧ナリ
 とは、歌人定家の日記にもある文覚の羽振りだった。直参(じきさん)
のたれかれにせよ、文覚には触らぬがいいとしていた。いやその風は、近
年、御家人輩ばかりでなく、頼朝夫妻にすら、やや見える。
 「荒上人(あらしょうにん)、何しに来たのか」
 頼朝にも、思い寄るところがない。なんとなく、それの分からぬうちに
鬱陶(うっとう)しかった。すると、文覚の方から「よろしき日を、お示
し給わりたい」と、再度、謁見(えっけん)の都合を問い合わせてきた。
しかも「-余人を交えず、御台所、御同座にて」という註文である。
 政子は、頼朝以上に、文覚をけむたがった。勝気なかの女が、文覚の前
では、手もなく頭を抑えられるからである。蛭(ひる)ヶ小島(こじま)
のむかしを持ち出されると、いまの自尊も、あとかたなくされてしまう。
それはたまらない厭(いま)わしさだった。さればといって、「みだい所
も御同座あって」などと請われると、否みえない何かを覚えてしまうのだ。
荒上人の背光(はいこう)が漂わす不思議な魅圧(みあつ)と思うほかな
かった。
 正月も二十日を過ぎた一夕。-文覚は、柳営の奥に招かれた。
 そして、夫妻の前で、思うざま、話しこんだ、いや談議していた。
それも夕から深更にいたる長時間であった。やっと、かれが辞して帰るさ
い、侍女が、みだい所のお疲れを思うて、そっと、政子の顔を偸(ぬす)
み見ると、政子の瞼がほの赤く腫(は)れていた。
 どんな談議があったのか、たしかに、政子は泣かされでもしたような容
子だった。頼朝の色もひどくすぐれない。老文覚の古怪ほど頑健な体が、
「・・・・・どれ、おん暇(いとま)を」と、そこから、出て行った後は
、夫妻とも、何か後の空間に、がっかりした自分たちの顔が、意識された
ほどである。 
 この夜、文覚が直言したことの内容がなんであったかは、頼朝と政子の
ほかは、知るよしもない。
 けれど、以後の頼朝に、少しずつある変化が見え出したことから推(お
)しても、それが、かなり夫妻の痛いところを衝(つ)いたものらしいこ
とは確かである。
 すべて、幕府確立の急に驀(ましぐ)らなため、あらゆる無慈悲や暴策
も敢(あ)えてしてきた方針に、一鎚(いっつい)を下(くだ)したろう
ことも、日ごろの文覚として、いい忘れるはずはない。また、かれと仁和
寺の宮との間には、黙契がある。義経にたいする頼朝の仕方を、暗に戒め
、そしてそれを黙視している。嫂(あによめ)の位置の政子を、責めたと
観(み)ても、おそらく間違いはないだろう。
 文覚は帰洛したが、このことがあってから、幾日もたたない二月一日。
 頼朝は、一つの善政を、示した。
 「-大原の里に、その後も、いと細々と、仏事三昧(ざんまい)に、つ
つしみおわすという建礼門院へ、扶持(ふち)奉(たてまつ)らん」
 という沙汰だった。
 わずかだが、前八条どのの旧領、摂津の真井、島屋の庄を、平家一門の
供養料として、施与したのであった。
 また、月の末ごろ。
 かねて、召捕人として、小山朝政の邸に預けておいた奈良の勧修房聖光
を、柳営の白洲にひかせ、頼朝自身、これを調べたことがある。
 一時、が、義経主従を、自己の寺内に匿(かく)まっていたことは
、もう明らかなのだ。頼朝は、憎々しげに、睨(ね)めすえて、
 「僧侶の身にありながら、謀反人に与(くみ)する極悪者」
 と、ののしった。
 は、すでに打ち首を覚悟の態だった。臆(おく)するなく、かれは、
 「あなたこそ恥じぬか」
 と、義経にたいする無慈悲を責めた。
 そして、「鎌倉のおん栄、今日あるも、半ばのお力は、かのよきおん弟
、源廷尉(げんていじょう)、の君があったればこそと申しても、過言で
はございますまいに」
 と、表に朱をそそいでいってのけた。-そして、自分は、いかにも義経
の君に、同情はよせたが、それも世の安穏(あんおん)を願うてである。
その衷情(ちゅうじょう)と、御祈願の旨をうけて、祈祷に従ったのが、
なぜ僧として悪いか、といい返した。
 これは頼朝の他に、御家人どもも居ならんでいた前でのことである。頼
朝は、面を蒼白(そうはく)にした。だから、どんな激語が発しられるか
と人びとが恐れていると、
 「退(さ)げろ」
 と、座を立ってしまった。
 そして次の日、「聖光を助けとらせ、勝長寿院(しょうちょう
じゅいん)の供僧職(ぐそうしょく)に任ぜよ」と
、下命した。
これはたれにも、思いのほかなことだった。
 こういうところへ、都六波羅表から、一報がはいって来た。その状によ
れば、
  前伊予守義顕(ぜんいよのかみよしあき)〔義経〕。日来(ひごろ)
、隠れ住む所を離れ、遂に、伊勢、美濃路を潜って、奥州へさして赴き了
(をは)んぬること、ほぼ実事に近し。
 是(こ)れ、陸奥守秀衡入道の権勢を恃(たの)むものか。妻室男女を
相具(あいぐ)し、みな山伏の姿を仮る由、沙汰申す所也、
 これが、二月十日のこと。義経の北走が、鎌倉に聞こえだした初めての
ものである。頼朝は、この状に接したとたんに、過日自分の前を去った、
文覚の暗示的なことばを、はっと思い出していた。

 おかしげな男(おとこ)

 ばく然とだが、世間は、義経がもう都附近にいないことだけは、知った
ようだ。
 けれど、鎌倉表に伝わった早耳は、そう当てになりそうもない。六波羅
が「-実亊に近し」と報じたのも、どんな確認を持ってのうえか。例のご
とく、それも観測の域を出ないものではなかったか。
 なぜなら「-陸奥守秀衡を恃(たの)んで」はあたっているが、妻室男
女を伴うて」とか、「伊勢、美濃路を潜って」などとあるのは変だ。
みずからのその根拠の怪しさを裏がきしている。
 変といえば、このさい頼朝が、なんら火急な処置にも出ず、義経北走の
兆しを、坐視しているのも、いぶかしく思われた。
 もっとも諸州の地頭、国々の関へはたびたびの院宣鎌倉令も行き
わたっていることなので、手当は充分と見、やがて罠(わな)に
かかろう獲物の献上を、待つばかりとしているのかもしれない。
 周囲には、そう見えた。が、頼朝自身は、ここの一思案を慎重
にしていたらしい。-さきに文覚がいった暗示的な言も思い合わ
せて、
  
「殺すがよいか。生かしておいて利用すべきか」を、玆(ここ)にお
いて、迷う風があった。
 あのおりの文覚の直言は、おそらく、こうであったろう。
 「万一御舎弟が遠くへ去らば、見のがし給え。もし討ち殺しなどしたら
、あなた自身の敗北だ。鎌倉の世も長くないに決まっている」と。
いやあの僧のことだ。あるいは、それ以上の極言も吐いたかしれない。
もちろん、仁和寺の宮のおん名などは噫(おくび)にも出さず、自己一存
の言として、義経の嫂(あによめ)政子をも、あの眼で睨(ね)めすえた
のではあるまいか。談議の内容がそれらしいのは、かれが座を立った後の
、政子の瞼や頼朝の容子にも、うかがわれたことだった。
 夫妻にはこたえたに違いない。
 その後の頼朝には、いささかだが、心境の変化らしいものもある。
 大原の建礼門院へ平家供養料の地を寄進したなども、きのうには見られ
ぬ寛度だし、義経の追捕も、「ここまで来れば」と、いう見越しを持った
かにみえる。都を出てさえしまえば、もう院や山門勢力と結びつく惧(お
そ)れは消えた。そして、元の一流浪児に返った義経の運命は、生かすも
殺すも、今は、自己の手中にありとしている余裕ぶりに見える。
 それに。
 大いにかれの意を安じさせた、もうひとつの、事情もあった。
 またの六波羅状によれば、後白河法皇には、雪解の三月を待って
、熊野へおん詣(もう)での御内沙汰(ごないさた)があったとい
う。
 これは歓迎すべき兆(きざ)しに、思われた。
 -朝廷の土地支配権が
あの守護地頭制で、まるごと幕府へ移ってから
の、法皇の御憂悶(ごゆうもん)が、いかに深いものかは、たれよりも
頼朝に最もよく分かっていた。
 そうでなくとも、自尊絶大な大天狗(だいてんぐ)の法皇(きみ)であ
る。事ごと、御不平のみなるは、明瞭だった。
 これまでの経過にみても、義経へは、暗に潜伏の便宜を与え、後日、そ
の武力をケシかけて、鎌倉へ当らせん、とするお企(たくら)みであった
のは、疑いの余地もない。
 が、ついに、その政略的抗争にも、敗(やぶ)るるに至った大天狗の御
無念さは、察するに余りがある。-義経の利用も御断念のほかなく、いわ
ば最後のおん足掻(あが)きも今は捨て給うて、さてこそ、熊野御幸を思
い立たれたものとすれば、これは法皇が、一切の謀を抛(なげう)った院
政の雪解と観ていいものであろう。
 慶すべき現象と、それを迎えて、頼朝は、ほくそ笑みのうちに、
 「さっそく、上洛使をやって、御幸のお扶(たす)けを奉らねばなるま
い」
 と、美濃権守親能(みのごんのかみちかよし)をよんだ。そして、
 「すぐ、おん貢(みつ)ぎを携えて、都へ上り、ごあいさつに院参せよ

 と、任命した。
 貢馬(こうば)十頭,沙金(さきん)、布などの献上物を荷駄(にだ)
にして、親能は、即日鎌倉を立った。-その親能は、立つ朝、頼朝から直
々に、
 「六波羅の能保、時貞とも談合して、熊野御幸の日には、心から御奉仕
申すべしと、皆へ申し達せよ。-なおまた、紀州田辺へもまわって、田辺
の別当湛増に会え。そして、このたびの三月御幸は、戦後、初のおん詣(
もう)でのこと。いちばい華やかにお迎えし奉れと申せ。途次の合力など
、いうまでもなく、万端、抜かりあるなと、よう打ち合わせを遂げおくよ
うに」
 という旨も、特にさずけられていた。
 都での使命は、数日のまにすんだ。美濃親能(みののちかよし)は、院
や六波羅へ暇をつげると、その足で、紀州田辺に向かっていた。
 田辺の湛増とは、面識もある。壇ノ浦では同陣でもあったしー公務なが
らこんどの旅は、何か、先行き愉しい気がされる。
 「戦後、鎌倉どのの覚えも目出度く、出頭随一の人、湛増(たんぞう)

 を、かれは胸にえがいた。
 厖大(ぼうだい)な水軍を擁して、一時は平家方かと見られていた湛増
が、源氏方について、壇ノ浦へ参陣したことは、量(はか)られぬほど、
大きな功績だった。
 頼朝はぬけめがない。
 その水軍力や、三山(さんざん)の強大が、将来とも、移り気を起こし
てはと、湛増の功へむくいるには、最高な賞をもってした。社領を与
え、社殿の造営を寄付し、代参の使節なども、いうまではなかっ
た。
「-湛増の母系をたどれば、頼朝とは、血においても、他人では
ない」と、親戚待遇の扱いさえ示した。
 湛増も、こたえるに、吝(やぶさか)でない。-清盛の平家擡頭(たいと
う)時代から、どんな有為転変(ういてんぺん)に会しても、上手に、危
機を好機に、かわして来たかれである。
 その機を見るに敏(びん)なこと、部下操縦のうまさなどは、平家を裏
切った出陣真際に演じた神前の紅白鶏合(とりあわ)せのことなどでも、
有名である。
 そして、壇ノ浦の大捷(たいしょう)のさいは、総大将義経へ、自家秘
蔵の「薄緑(うすみどり)」と銘ある名刀を贈ったりしたが、ひとたび、
義経が鎌倉の勘気をうけ、追捕に追われる身となるや、かれは当然のよう
に、追捕側に協力した。
 那智(なち)、新宮(しんぐう)などには、ゆらい義経の旧縁も少なく
ない。「三山の内へはいらしむな」と、きびしく令を出した。-そして、
そのことでも厚く鎌倉への忠誠を示しながら、今ぞ田辺を中心とする
信仰、武力、財力の三位一体な基礎を万代にすべき機運と、湛
増は考えている。
 そこへ、頼朝の使い、親能を迎えたので
ある。
 「御諚(ごじょう)。謹んで、承(うけたまわ)っておざる」
 と、公式な令を、すました後は、別当館の客殿へ移って、
 「さあ、おくつろぎを」
 と、下へもおかず、もてなした。
 杯もすすむほどに。
 「いちどは、田辺殿にも、東国へお下(くだ)りあって、新府の御見物
などあらば、興あらんにと、われら公辺でも、おりおりおうわさ申してお
るが」
 親能のことばに、湛増も、
 「ぜひいちどは必ず、参府の志を遂げましょう。じつはそのおり、献上
し奉るため、若公(わかぎみ)のおん兜(かぶと)を、さる名工に命じ、
一心不乱、作らせなどしております。・・・・・しかしまた、佳(よ)き
年をうかごうて、二品(にほん)〔頼朝〕御ふた方(頼朝夫妻)の、三山(
さんざん)御巡遊も、これまた、ぜひおすすめ申しあげたいと思うておる。
むずかしくば、せめて御台所お一方にても」
 「さこそ、それは、お歓びに相違ない。もし、そうした泰平の日がまい
れば」
 「泰平の代とは、すでに今日のこと。はや、火のごとき物騒なかの殿も
、いたたまれず、洛外を脱出し、北の空へ、落ち行かれたとあれば」
 「御存知か。こなたにおいても」
 「聞き及ぶは、うわさのみなれど、源九郎判官のあの御英姿も、はや時
の流れとともに、きのうへ去ったもの。それだけは確かといえる。-時も
時、院の熊野おん詣(もう)でがあるなどに照らしても」
 いつか春燈の夜になっている。
 坐は艶(つや)めいた。世に田辺の法皇は、好色家という聞こえがある。
-側室とも見えず、巫女(みこ)のような低い女子でもなく、みやびて、
肉感的で、どれもこれも、眉目(みめ)に特徴がある美女が、こもごも、
絃歌(げんか)の興を添えたりした。
 夕方からは、陪席(ばいせき)の顔も見えた。侍、僧形、有髪(うはつ
)の法眼などである。みな別当家の臣であろう。かれらも、賓客(ひんき
ゃく)の上座へすすみ出て、杯を乞い、一場の座興を談じるなどの、歓待
役を忘れてない。
 ところが、その中に一人、どうもさっきから、親能の気になってならな
い男がいた。五十すぎ―いや六十がらみかもしれぬ。ぶってりした肉塊
(ししむら)を、太い骨ぐみにまろまろと持って、さも「動くは面倒」と
いわぬばかりな構えである。主客もよそに、ひとり黙々と飲んでいる様ー
どうも気になる。
 「こう気になるのは、どこかで見たことがあるせいか。いや、その覚え
もないが」
 親能はべつに、かれのみが、あいさつにも出て来ず、杯も乞わないのを
、無礼なやつと、とがめ立てしていたわけではない。
 むしろ男の態度には、「何やら、変った風なやつ」と、愛すべき風貌す
ら見いだしていた。特にその、朱(あか)ぐろい大きな鼻など、著(いち
じる)しく、愛嬌がある。だが、気になることには変りもなかった。
 で、つい隣りの湛増へ、
 「田辺どの」
 と、肩を傾(かし)げ寄せて、
 「あれは、御家中かの」
 と、小声で訊いてみた。
 「や、お気にさわられたか。ゆるされい。あれにおる者は、これが遠い
ので」
 湛増は、自分の耳を、片手でフタして見せながら、
 「そのため、おん前に出て来るのも、わざと控えおるのでしょう。お目
ざわりなれば、遠ざけるが」 
 「いやいや、おかしげな男と見ただけのこと。さては、耳が遠いので」
 「法眼伴卜と申す、からつんぼでおざる。ははははは。これくらいな声
で申していても、あの通り、聞こえもいたしおらぬ」
 そう聞いて、親能も、手の酒を、こぼしこぼし笑った。