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カテゴリ: 歴史を訪ねて

五日市鉄道からJR五日市線へ
 --2路線が廃線に-


 はじめに

 現在のJR五日市線は、浅野セメント(昭和22年5月から日本セメント
株式会社のばく大な資本によって建設されたといっても、過言ではありま
せん。浅野セメントは旧大久野村地内の勝峰山から採掘した石灰石あるい
は西多摩工場で生産されたセメント、これらを輸送するのに鉄道を必要と
しました。そのために、五日市鉄道が建設されたといってもよいのです。
 初め、五日市鉄道は石灰石・セメントなどの貨物輸送を「主」とし、旅
(乗)客輸送「従」としていました。しかし、戦後になると西多摩地域の青
梅・五日市周辺の開発が進んで宅地が広がっていき、人口流入となります。
遠方への通勤。通学者が増加して、五日市線を利用する乗客が増えていく
のです。すなわち、五日市線は乗(旅)客輸送を「主」としていくという過
程を述べていきたいと思います。

 (1)五日市鉄道の建設

 明治22年(1889)、新宿―立川―八王子間に甲武鉄道が開通します。
同28年(1895)になると、立川―青梅―日向和田間に青梅鉄道が全
通します。
青梅鉄道建設の主目的は、宮ノ平(日向和田)における石灰石の採掘とその
輸送にありました。大正11年(1922)5月になり、五日市鉄道株式会
社が設立されますが、その前年の10年(1921)7月に鉄道敷(建)設
の免許は、すでに下りていました。
 そのルートは北多摩郡拝島村から西多摩郡五日市町までと、および西多
摩郡増戸村から大久野くの村まででありました。
 認可された拝島―五日市間のルートには、初め南線と北線の二つの案が
ありました。そのうちの、人家集合の地を通る南線は曲線が多くなって距
離が長くなる、建設費が北線よりも多額を要するということから、ルート
は台地上を通る北線と決定しました。このルートは五日市へ向かって増戸
村まで東西がほぼ一直線であります。それというのも、当時の鉄道建設の
主な目的は貨物輸送にあり、曲折して集落を通るよりも、物産の主産地と
消費地(中継地)とを、できるだけ直線で結ぶことが優先されていました。
そのため、五日市鉄道も直線が考えられ、北線になったといってもよいで
しょう。
 大久野村地内勝峰石灰山に至る支線についても、最初は二つの案があり
ました。一つは増戸村坂下で分岐して勝峰石灰山に至るものであり、もう
一つは増戸村伊奈で分岐して平井川沿いに進むものでありました。伊奈か
ら分岐するルートについては、人家の間を通るため曲線が多くなって距離
が長くなり、建設費が多額となる。このような理由によって、伊奈からの
分岐は却下され、増戸村坂下で分岐することとなりました。
 鉄道の敷設にあたり、五日市鉄道株式会社は浅野セメントから多額の出
資を受けていますが、五日市鉄道の株式関係を昭和2年(1927)11月
にみていくことにします。

      大久野線分岐点跡(平成5年3月)
CIMG0347
















 それによりますと、五日市鉄道全体の4万株のうち、浅野セメントの浅
野家2名による1万6860株、これに浅野セメント取締役金子喜代太の
2000株、浅野セメント関係者と思われる舟塚芳次郎の2000株を加
えると合計で2万086株となり、浅野セメント側の者だけで52.2%
もの株を所有しています。いかに、浅野セメントの資本が投入されて、勝
峰山からの石灰石輸送と西多摩工場で生産されるであろうセメンんとの輸
送に、力を入れていたことがわかります。
 一法、西多摩郡の五日市鉄道役職者の株所有は取締役社長内山安兵衛の
1000株を筆頭に、取締役小机武550株、ほかのの取締役・監査役3
50株以下100株以上と零細でありました。
 株主は総勢266名で、うち西多摩郡在住者は213名で80.1%と
なり、ほとんどが西多摩住民でした。さらに、このうち150株未満の者
が197名で92.5%となり、五日市鉄道の株主は西多摩在住で小規模
な所有者たちばかりでありました。

 表1 五日市鉄道の車両  昭和2年11月

 機関車 6両連結タンク式6輪車                2両
  〃  6両連結タンク式12輪車            1両
 客車  3等4輪客車         定員40人         2両
  〃  手動制動機付3等4輪客車   定員40人          2両
  〃  3等客車・手荷物車合造4輪車 定員24人・積載高1トン2両
 貨車  有蓋貨車                       2両
  〃  有蓋貨物緩急車                    1両
  〃  無蓋貨車                       6両
  〃  無蓋貨物緩急車                   3両
  〃  無蓋貨物緩急車                2両 
  〃  材木車                        2両
  〃  材木車                       2両
  〃  材木車                        1両

 大正14年(1925)4月、五日市鉄道は拝島―武蔵五日市間
が開通し
ます。そして、増戸村坂下から勝峰石灰山に至る支線は、
5か月遅れの同
14年9月に武蔵五日市―武蔵岩井間が開通しま
す。


 表2
 五日市鉄道輸出貨物調査

 大久野            石灰石        432,000トン
         貨物計               461,400トン
 五日市            木材薪炭       114,600トン
         貨物計               130,122トン
 増戸             伊奈石材       218,000トン
         貨物計               291,700トン
 西秋留            砂利砕石         36,500トン  
         貨物計                 42,700トン
 東秋留            砂利          73,000トン
         貨物計                  74,800トン


 貨物合計                       1,000.755トン

 鉄道が開通して、昭和2年(1927)11月の時点で、五日市鉄道が所有する
車両についてみていくと表1のようになります。機関車が3両、客車は6両
でその全定員は合わせて208人、貨車は有蓋貨車3両・無蓋貨車11両・材
木車5両合わせて19両、総計で28両でありました。このように客車よりも
貨車が多く、貨物主体の鉄道であったことがわかります。
 五日市鉄道が開通する前の大正11年(1922)と思われる時期に、鉄道によ
って輸出入される貨物の調査が行われています。この調査によって、五日
市方面から輸送される予定の貨物を見ると表2のようになります。ここで
は各駅(停車場という表記もある)のトップとなる貨物と各駅の貨物計を掲
げました。
 大久野・五日市。増戸の貨物量が多いのですが、東秋留・西秋留の砂利
玉石、増戸の伊奈石、五日市の木材薪炭。しかし、なんといっても大久野
の石灰石が群を抜いています。やはり、石灰石中心とした貨物主体の鉄道
であったことがわかります。

     大久野線を走る蒸気機関車(昭和30年頃)
CIMG0344






























 (2)五日市鉄道の延伸

 武蔵岩井―拝島が開通する以前の大正11年(1922)11月、拝島―立川間の
敷設延長願いが出されており、そのときの延長理由をみることにします。
青梅鉄道は、すでにその輸送力が、ぼう満状態にあり、五日市鉄道によっ
て輸出入される貨物・乗客のほとんど全部が青梅鉄道を通過することにな
ると、その輸送は不可能になるといっています。そのため、拝島―立川間
に独自の延長線が必要であると主張するのです。
 この延長願いは、大正13年(1924) 2月に免許が下り、昭和5年(1930)7
月、五日市鉄道は拝島―立川間の延長を完了させ南部鉄道の立川停車場(
駅)に接続して営業を開始します。この路線は拝島から分岐し、青梅鉄道
の南側を走る独立線でありました。武蔵岩井―川崎間が直接に結ばれ、石
灰石が南部鉄道を通して浅野セメントの川崎工場へ運ばれるようになった
のです。青梅鉄道もまた、南部鉄道と接続したのです。
 五日市鉄道は石灰石を主体とした貨物を立川方面そして川崎方面へと輸
送しましたが、沿線住民への便宜をもはかっており、乗客輸送のために青
梅鉄道の南側に並行して迂回しながら走る鉄道を敷設したのであります。
そこで、貨物と乗(旅)客輸送の関係をみていくことにします。
 昭和7年(1932)の場合、貨物は金額にして16万3288円余り、旅客
は43万3746人で金額にして6万2616円余りとなり、貨物が旅客の2,
61倍の収入を得ています。12年(1937)の場合をみると、貨物・旅客ともに
数量を増し、貨物は21万2464円余り、旅客は51万2258人で金額にして
8万1033円余りの収入となります。
これを貨物と旅客の燈でみると貨物が旅客の2,62倍と収入を増加させて
おります。
 これをみても、五日市鉄道は乗客輸送のことを考慮してきているとはい
え、やはり貨物主体の鉄道であったことは明白であります。
 こうして、いつかいつ鉄道は展開して行くのでありますが、昭和12年
(1937)7月、日本は中国との間で、日中戦争となり、同16年(164
1)12月には太平洋戦争へと突入します。
 このようななか、五日市鉄道は昭和15年(1940)9月、輸送の円滑化をは
かるため、同じ資本系列である浅野セメント系の南部鉄道に買収・合併さ
れて、南部鉄道になります。そして、太平洋戦争の激化とともに、同系列
の青梅鉄道(昭和4年青梅電気鉄道)・南部鉄道は、石灰石・セメント輸送
の重要性から、同19年(1944)4月、国鉄に編入され南部鉄道の五日市鉄
道分は五日市線となります。
 このとき、五日市線の拝島―立川間は青梅線と閉口して走り青
梅線が複線化進行中のため不要な路線ということになり、19年
10月に廃線となりました。

 (3)JR五日市線へ


 国鉄五日市線は昭和46年(1971)2月、大久野線(支線)の武蔵岩井
駅が廃止となり大久野駅は旅(乗)客営業が廃止となり、大久野駅は旅(乗)
客営業が廃止され
貨物営業のみとなりました。大久野線には乗客輸送
の役割がなくなり、その輸送はバス輸送に委ねられていくといえます。
これには自家用車の普及も考えてよいでしょう。
 さらに昭和57年(1982)11月、大久野駅の貨物営業も廃止されて
廃線となります。これは日本セメント(昭和22年4月まで浅野セメント)
西多摩工場の製品輸送がトラック輸送に転換していくからであります。

    西多摩工場と勝峰山 解体が始まった平成5年
CIMG0341

















 それでは、大久野駅の貨物発着量をみていきますと、発送数量は昭和3
1年(1956)が24万トン余りでありましたが、55年(1980)は1
万トン余りと激減しています。貨物の到着数も、31年が23万5000ト
ン余りで、55年は1万6000トン余りに減少していきます。こうして
、大久野線および五日市線は貨物輸送の役割を失っていったといえます。
 さて、昭和40年代も後半になると、北多摩地域の開発はほぼ一段落し
、50年代にかけて、南多摩地域の町田・八王子と西多摩地域の青梅・五
日市周辺の開発が急速に進み、宅地が広がっていきます。
 青梅・五日市方面は人口流入となり、都心へ向けての通勤、通学者が増
加していきます。そこで、五日市線周辺住民が利用すると考えられる各駅
の乗車人員をみていきたいと思います。これが表3であります。
乗車人員は確実に増加してきているといえます。昭和30年(195
5)を55年(1980)と比べた場合、武蔵五日市駅が約
2.5倍、武蔵
増戸駅が約3.8倍、武蔵引田(旧病院前)駅が約2.3倍、西秋留(現秋川)駅
が5.9倍、東秋留が約5.7倍と増えてくるのでありました。乗客輸送に変
わったといってよいのです。

 表3五日市線乗車人員(旅客)数 〔単位:千人〕

 年代〔昭和) 武蔵五日市 武蔵五日市 武蔵引田 西秋留 東秋留
 30年(1955)  685    218    244   187   297
 35年(1960) 1.051    321    314   252   383
 45年(1970) 1.630    544    387   686   969
 55年(1980) 1.707    837    556   1.107  1.696 

 さらに、昭和60年(1985)から63年(1988)の武蔵五日市駅と武蔵増
戸駅の乗車人員をみていくと、表4のようになります。人員は、やはり増
加しています。これを表3の55年(1980)と俵4の63年(1988)とで比
べてみると、武蔵五日市駅が1.1倍、武蔵増戸駅が約1.4倍と増加はおさま
っていません。

 表4 五日市駅・増戸駅乗車人員数

             武蔵五日市      武蔵増戸
 昭和60年(1985)               1.761千人      1.041千人
 昭和61年(1986)             1.817千人      1.077千人
 昭和62年(1987)            1.821千人        1.077千人
 昭和63年(1988)           1.868千人           1.156千人

 このように、五日市線は乗車人員を増加させてはいましたが、国鉄は全
体をとおしてみた場合、経営合理化を迫られておりました。昭和62年(19
87)4月、日本国有鉄道の分割・民営化があって、五日市線はJR東日本
五日市線となって現在に至っています。

 おわりに

 以上のように五日市鉄道がJR五日市線(拝島―武蔵五日市間)になって
いくという経過を述べてきましたが、今後の西多摩はどのように変貌し、
それに伴いJR五日市線はどのような変容を示していくものでありましょ
うか。



















 今日は午前中陽ざしがいっぱいあり、快適な天候でしたが、午後から急
に雲ゆきが不安定となり、時々太陽の陽ざしがかげり、急に暗くなったり
していました。そのため予想より気温があがらず、比較的しのぎよい一日
でしたが、蒸し暑いのがかないません。
 午後、府中市役所に行き用事を済ませますと、ついでに最近の府中新庁
舎建設工事の状況について知りたく、資料を入手して見ました。
 それによりますと、基本設計が、完了しましたと、大きく見出しにあり
ますので、これから実施設計をし、それから建設工事計画書を作成後、い
よいよ着工の運びになりそうです。この期間だけでも1年間はかかると予
想できます(個人の見解)ので、着工から6.7年はかかるのではと、思っ
ています。
 出来るだけ早く着工しなければ、あらゆる面でコストアップとなります
から、もう少し速やかに推し進めていただきたいものです。

      府中街道側より見たパース
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その後、市庁舎の玄関の方へ出ますとブロンズの像がありますので、撮影を
しました(府中街道側)。

     府中市役所前に設置されている二人の女性像
CIMG0177




































    府中市役所前に設置されている二人の女性像  
CIMG0178



















 なぜかといいますと、新庁舎の建設工事が、着手しますと、この場所は
大幅に変わってしまうと思ったからです。
 そのうちに絵も描いておこうとも考えています。

 ここ市庁舎前から歩いて5分くらいの所(府中本町の脇)へ、行って
みることにしました。この場所は6,7年前から、遺跡の発掘調査を行っ
ていたところです。本日、車でそばを通ってみますと、どうやら発掘調査
跡に柱が無数に立っていましたので、気になってここへきてみますと、「
国史跡武蔵国府跡(国司舘地区)史跡広場」でした。

 ここは、今から1,300年ほど前に武蔵国府の国館があったとこ
ろです。
さらに、今から430年ほど前に、徳川家康の府中御殿も置かれ
た府中市の歴史を象徴する国の史跡です。保存・整備に当たって
は、発掘調査の成果をもとに、国史跡の指定を受けている国
跡を中心に整備を行いました。
 園内は、国衙(こくが)地区連携ゾーンと古代の空間再現ゾー
ンに分かれています。古代の空間再現ゾーンには、古代の武蔵国
府に都から赴任してきた国司の宿泊兼執務室である国司舘の建物
を2,4mの柱によって復元しています。また、古代万葉集に登場
する草木を植えた「国司の庭」もあります。

 国衙(こくが)地区連携ゾーンから空芝生広場は、多目的に使
用できる広場で、現代から古代の空間を望むスペースとなってい
ます。
 なお、国司舘の復元模型と、徳川家康府中御殿を含めたCG復
元は、平成30年11月竣工予定となっておりますので、先行的
に史跡広場を開園しました。現在はまだ模型とCG復元はありま
せんが、園内は自由に散策できます。御自由にご覧ください。
 と、案内されていました。


         国史跡 国府跡
CIMG0179




















         国史跡 国府跡
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         国史跡 国府跡
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         国史跡 国府跡
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 芝の上で、くつろぐ風景

        国史跡 国府跡
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      国史跡 国府跡の案内掲示板
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 古代武蔵国府の国司館(こくしのたち)

 ここには、都から武蔵国の国府に赴任してきた国司の執務室兼居宅が置
かれました。現代でいえば、東京都知事の公館にあたります。発掘調査の
成果により、国司舘は、7世紀後半から8世紀前半に造営されたと考えら
れています。
 下の地図で国庁と国衙の文字を青色で囲っている所は、大國魂神社の北
側(交番のある側)に史跡として既に所在し、公開されています。このブロ
グへも過去に記事として掲載いたしました。
 一方、国史跡武蔵国府跡国司舘(こくしのたち)地区と記入された位置
が、今回新しく発掘調査が終了した跡地に、史跡広場を造り、ここで、皆
さまに昔の歴史をしのんでいただき、また憩いの場所としても楽しめる広
場に生まれ変わりました。

       国府域の発掘調査成果
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 発掘された国司館

 国司館跡は、造営当初、東西棟の建物が2棟建てられました。その後の
奈良時代前半には、東西棟の四面廂(しめんひさし)建物の主屋(しゅお
く)《正殿(せいでん)、桁行(けたゆき)5間×梁行(はるゆき)4間》
と南北等棟の副屋(ふくおく)《脇殿(わきでん)、桁行8間×梁行3間》
が真南北、真東西で建てられていることから、秩序ある配置をもって造営
されていることがわかりました。
 ここは、国史跡武蔵国府跡(国衙地区)の南西側に位置し、酷が中枢地区
との密接な関連がうかがえます。ここから初期の国司館と考えられる建物
群が発掘されたことは、武蔵国府成立期の状況や日本の古代地方行政組織
の成り立ちを解明する上で、とても重要な意味があります。

         発掘された国司館 
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 発掘された徳川家康府中御殿跡

 古代国司館跡の西側からは、発掘調査によって、掘立柱建物跡、柵跡、
厩(うまや)と推定される建物跡、大型石組井戸跡などが発見されました。
さらに井戸跡から、江戸時代前期(17世紀前半)のものと考えられる三葉
葵紋鬼瓦(みつばあおいもんおにがわら)が出土したことなどから、この
場所に徳川家康が滞在した府中御殿があったことを特定できました。

       発掘された徳川家康府中御殿跡  
CIMG0185














 3,4年前に新しく西側の位置にも出来た大國魂神社の鳥居

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 塀越しの向こうに大國魂神社本殿の屋根の一部分が見えます。
     
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 NHKの番組で、歴史上の人物を捉え、知識人が議論を展開する番組で
対馬府中藩初代藩主「宗 義智」について一部分だけですが、視聴した結
果、「生きるための知恵」というものに感銘しましたので、もう少し詳し
く対馬藩につて知りたく思い、資料(ウィキペディア)を読んでみました。

  宗 義智(そう よしとし)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけ
ての大名。対馬領主宗氏の20代当主。津島府中藩初代藩主

       宗 義智(そう よしとし)
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 生涯

 家督相続

 永禄11年(1568年)、宗家15代当主・宗翔盛(まさもり)の四男
(異説として五男)として生まれる。長兄に宗茂尚(しげひさ)がいたため、
宗家第17代当主・宗義調が隠居したときには茂尚が家督を継いで当主と
なったが茂尚が早世し、さらにその後を継いだ次兄・宗義純(よしずみ)
も早世したため、天正7年(1579年)1月、義調の養子となって家督を
継ぎ、宗家の当主となった(天正8年(1580年)相続説もある)。

 天正15年(1587年)5月、
隠居していた岐阜・義調が当主として復
帰したため、義智は家督を義調に返上することとなった。これは同年に豊
臣秀吉による九州征伐が始まったためであり、義智義調と共に秀吉に従
ったため対馬国一国を安堵された。

 このころ、秀吉から李氏朝鮮を服属させるようにとの命令を受け、義調
や小西行長、島井宗室らとともに交渉に尽力する。天正16年(1588
年)に義調が死去するなどの悪条件もあって、交渉は思うように進まなかっ
た。

 天正18年(1590年)朝鮮から来日した使節を服属使として秀吉に
謁見(えっけん)させた。秀吉はこれを朝鮮が服従したものと受け止め、
朝鮮には民の征服事業の先導が命じられることになる。だが、この朝鮮使
節は義智が本来受けていた命令とは違い、秀吉による全国統一に対する祝
賀使節を送るようにと偽りの要請をして実現した使節であった。朝鮮は建
国以来、明の冊封国であり、秀吉の明征服事業の先導を了承する可能性は
なかった。窮した義智は朝鮮に伝えるべき明征服の先導命令を、明への道
を貸すようにと偽り要請した(假途入明)。しかし、これも実現しなかった。
 
 文禄・慶長の役と関ヶ原


 朝鮮との交渉は結果的に失敗し、天正20年(1592年)からの文禄の
役では舅・小西行長の一番隊に属して日本軍の才先鋒として戦った。
 一番隊の編成

 ・ 小西行長 7,000人
 ・ 宗義智  5,000人
 ・ 松浦鎮信 3,000人
 ・ 有馬晴信 2,000人
 ・ 大村喜前 1,000人
 ・ 五島純玄   700人

 総計    18,700人

 義智は5,000人の軍勢を率い天正20年(1592年)4月12日
に対馬北端の大浦を出港し釜山に。上陸する。
翌13日に総攻撃をかけて攻略したのを皮切りに、4月14日に東菜、4
月15日に機張、左水営、4月16日に梁山、4月17日に密陽、その後
に大邸、仁同、善山を次々と攻略し、4月26日に慶尚道巡辺使李鎰(り
いつ)を尚州で撃破。4月27日に慶尚道を越え忠清道へ進軍、弾琴台の
戦いで迎撃に出た申リツ率いる朝鮮軍を壊滅させ忠州を攻略。京畿道に進
み5月1日に麗州攻略後、5月2日に竜津を経て漢城東大門前に到達。翌
5月3日には首都漢城に入場する。

 諸将と漢城会議を行った結果、5月11日に義智はさらに北に向かって
進撃し、5月18日に臨津江の戦いで金命元らの朝鮮軍を撃破。5月27
日に開城攻略、黄海道の瑞興、鳳山、黄州、中和を次々と攻略。平安道に
進退し、平壤城を朝鮮軍が放棄すると6月16日にはこれを接収した。こ
こで進撃を停止する。

 7月16日、明の遼東副総兵・祖承訓が平壌を攻撃してきたが撃退。こ
のとき義智は小西行長とともに敗走する明軍を追撃し、明将史儒・千総張
国忠・馬世隆などを討ち取った。7月29日、李元翼率いる朝鮮軍が平壌
攻め寄せてきたがこれも撃退する。

 文禄2年(1593年)1月7日、明は李如松を提督として約4万人の明
軍に1万人の朝鮮軍を加え平壤攻め寄せた。明軍が平壤城の城門を突破す
ると日本軍は北部丘陵地域の陣地に退避する。ここで李如松は「退路を与
えるから城を明け渡せ」と伝えてきた。日本軍は受け入れ南に向かって撤
退を開始するが背後から追撃を受け厳しい退避行となった。漢城を目指し
て進撃する明軍に対し、日本軍は諸方面の各軍を漢城に結集した後、出撃
し、これを大いに破った。これが碧蹄館の戦いである。明軍ではこの敗戦
の結果講和の機運が起こり、日本軍も兵糧が不足したため、講和交渉の開
始を約し釜山周辺城まで撤退した。

 義智は行長と共に明側の講和担当者・陳惟敬らと和平交渉に奔走したが、
双方の求める和平条件は合意に至る筈も無いかけ離れたものであったため、
国書の内容を双方に都合の良い条件に改竄(かいざん)するなどして和平
成立を目指したが、こうした欺瞞(ぎまん)行為をともなう交渉は実るこ
となく、各国に混乱を与え交渉は決裂。慶長の役を防ぐには至らなかった。
 
 慶長2年(1597年)2月、秀吉は朝鮮再出兵の号令を発した。日本軍
の作戦目標は全羅道を悉(ことごと)く成敗し、忠清道・京畿道その他も
なるべく侵攻することで、目標の達成後は城郭を建設し、在番の諸将を定
め、その他の軍は帰国させる計画であった。当初義智は左軍に属し再び文
禄の役と同じメンバーで行動した。
義智ら日本軍は全羅道に向かって進撃を開始し、慶長2年(159
7年)8月13日南原攻略戦を開始。4日目に攻略を果たした(南原
城の戦い)。次に全羅道の首都全州に向かい占領。全羅道を制圧し
た。さらに日本軍は忠清道を制圧し、京畿道まで侵攻し作戦目標を
達成すると、当初の予定通り文禄の役の際に築かれた城郭群域の外
縁部に城郭を建設するため撤収した。
以後、義智は在番の将として南海倭城に在城していたが、慶長3年(15
98年)8月18日秀吉が死去すると、朝鮮に派遣されていた日本軍に10
月15日付で帰国命令が発せられた。義智は小西行長と昌善島で集合し、
共に帰国する手筈であったが、このとき順天倭城に在番していた小西行長、
松浦鎮信、有馬晴信、大村喜前、後藤玄雅は明・朝鮮水軍に撤退を妨害さ
れ順天から動くことができなかった。これを見た宗義智は、島津義弘、立
花宗茂、高橋統増、寺沢広高らとも
に水軍を編成し順天に救援に向かう。
このとき露梁海峡で待ち伏せていた明・朝鮮水軍と交戦した(露梁海戦)。
小西行長らは、この戦いの間隙をぬって脱出に成功。義智は小西行長らと
ともに釜山を経て帰国を果たし、前後7年に及ぶ朝鮮出兵は終結した。

秀吉没後の慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いで西軍に与して伏見城攻
撃に参加し、大津城攻めや関ケ原本戦で家臣を代理として参加させた。し
かし戦後、悪化した朝鮮との国交修復を迅速に進めることを望んでいた徳
川家康から罪には問われず所領を安堵され、対馬府中藩の初代藩主となっ
た。この時、正室の小西マリアを離縁している。

 江戸時代

 文禄・慶長の役のために悪化した朝鮮との寒けを修復するように徳川家
康から命じられた義智は、慶長14年(1609年)に朝鮮との和平条約を
成立させた(巳酉約条または慶長条約)。この功績を家康から賞され、宗氏
は幕府から独立した機関で朝鮮と貿易を行うことを許されている。

 慶長20年1月3日(1615年1月31日)に死去した。享年48。跡
を長男・義成が継いだ。

 宗 義成(そう よしなり)

 宗 義成(そう よしなり)は、対馬府中藩の第2代藩主

 生涯

 慶長9年1月15日(1604年2月14日)、初代藩主。宋
智(そうよしとし)
の長男として生まれる。慶長20年(1615
年)に父が死去す
ると、上京して大御所の徳川家康、第2代将軍の
徳川秀忠と謁見(えっけ
ん)したうえで家督相続を許され、第2
代藩主となった。同年4月から始
まった大坂夏の陣にも徳川方と
して参戦し、丹波方面の守備を担当した。


 元和3年(1617年)3月、従四位下に叙位される。その後は
検地や菩
提寺である万松院の創建、朝鮮通信使の待遇簡素化によ
る財政節減、銀山
開発などを積極的に行って藩政の基礎固めに専
念した。

ところが寛永12年(1635年)、父が李氏朝鮮と巳酉条約を結
んだとき
に国書を偽造していたことなどが幕府に露見し、宗氏は
改易の危機に立た
された。しかし第3代将軍・徳川家光は朝鮮と
のパイプ役として宗氏を使
うことが得策と考え、家光の直裁によ
り家老の柳川調興らが処罰されるに
とどまり、宗氏は改易を免(
まぬが)れたのである(柳川一件)


 明暦3年10月26日(1657年12月1日)に江戸で死去。享
年54.
跡を長男・義真が継いだ。

             宗 義成(そう よしなり)
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 深沢物語・清水茂平の生涯
 
  五日市憲法の謎を探る

 はじめに

 昭和43年、東京経済大学の色川大吉教授が、五日市町深沢の深沢家土
蔵より、五日市憲法草案を発見、命名されてから、丁度20年が経過した。
この憲法草案は五日市の知名度を高め、当地の文化水準の高さを立証した。
また起草者千葉卓三朗やパトロン深沢直生(なおまる)、助手権八父子の
人物像も、明治初年の民権ブーム期の世相にあわせて、多くの研究者の手
で究明され、著書、講演、テレビ等を通じて紹介された。
 ところで写真にならぶ三基の墓は深沢家三代のもので、中央が有名な「
権八深沢氏の墓」であるが、左側の父直生(なおまる)はとにかく、右側
の祖父清水茂平(もへい)は研究の届かない「未知の人」であった。深沢
資料は、東経大図書館に保管され、地元の人々の眼に触れにくくなってい
たが、今回当館で、マイクロフィルム撮りを行ったので、ようやく茂平像
の一端を窺(うかが)いみることができた。どうやら茂平は近代深沢家の
基礎をきずいた経済人であるとともに、教養識見とも並々でない人物と見
うけた。

 深沢家三代の墓

    左・父 名生、中央・権八 右・祖父茂平
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      左衛門尉 清水茂平墓
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 1 清水氏と深沢村

 江戸時代(後期)の深沢村は戸数略23戸、人口130名前後、村高は
45石強の小村である。
 支配は天領(幕府の直轄地、代官支配〕と私領(大名・旗本領〉を交互
にくりかえしているが、天保15年(1844)以降明治維新まで、旗本本
多対馬守の領地であった。
 茂平は主にこの時代に深沢村名主として、村政を担当した。深沢家は、
明治元年御一新の風潮の中で、深沢村の地名を名乗ったもので、それまで
は清水姓であった、前年(慶応3年)死没した茂平にとって深沢への改姓
は預かりi知らないことである。実は深沢村の住民の多くは清水姓であった。
現在深沢地区の有力者、南沢氏、榮原氏はともに清水姓で明治の改姓の折、
夫々(それぞれ)深沢村内の小字名《家の所在地》をとって姓とした。
小字(こあざ)でなく村名を姓とする家は、その村の№1であることを自
他ともに認めた場合で、深沢家は家系上も清水一族の草分け[本家]であっ
たらしい。というのは屋敷内に集落神である白髭明神(しらひげみょうじ
ん)を祀(まつ)っていることで、集落神を斎(いつ)く家が村長(むら
おさ)の家と見るのが自然である。なお東国の白髭さまは、渡来系の人々
の祀る神といわれる。清水氏は五日市地方に多いキシ姓(貴志、岸、岸野、
来住野、水住野)とともに渡来集団の系譜をひく可能性が多い。(渡来人に
ついて誤解のないように注釈を加えると、日本人の先祖の中核は大陸より
の渡来人であり、古代関東地区に入った渡来人は在地の人の上に臨むエリ
ート集団とみなすことができる。)
 清水一族『ごく小さい同族集団だったろう》が、いつ深沢の地に入り込
んだか、文書資料がないので不明だが、中世のある時期、沢を逆のぼって
この山奥に安住の地を見つけたものではあるまいか。関東の中世はとくに
動乱の時代で人々は開拓の適地を求めて争いあった。清水氏が可耕地の乏
しい深沢に入り込んだのは自衛その他やむを得ない事情があってのことで
あろうが、推測の限りではない。
 中世期の清水氏が地侍であったかどうかも不明であるが、ごく一般的に
いって、秋川谷の各地域の草分け(開拓)の有力者は14、五世紀は「南
一揆」と称する地侍集団に加盟することによって、自衛策を講じていた。
中世は武力によって所有権が犯される暴力時代であるから人々(特に地域
リーダー)は好むと好まざるとに拘わらず、一旦緩急あれば武装せざるを
得ない。特に集団安全保障に頼る以上義務としての出陣が促(うなが)さ
れたことであろう。
 暴力時代は同時に深刻な宗教時代で、人々は安心立命を神仏に求めた。
一族のリーダーは必然的に神仏と深い関係に立たざるを得ない。清水家は
白髭明神のほか深沢村の鎮守穴沢天神社の神官でもあった。これは後述す
る経済的文化的因縁を清水家(深沢家)にもたらしている。文書資料がなく
推測で模索する中世期の話はこの程度にして、江戸期に話をすすめよう。
 江戸前期の深沢村は文字通りの貧村であった。文書資料〔貞享2年(1
865)・伊奈石川家文書〕に深沢村が二宮村他6か村と争った秣場所(
まぐさば)出入り一件がある。現在の秋川市域の村々まで肥料燃料を求め
て深沢地区に入り込んでおり、この入会権をめぐって、地元深沢村と入会
村が争った事件である。幕府は地元村を抑え、入会村の共同利用権を保証
している。これでは山村深沢村にとって唯一の財産である山も思うにまか
せない。村人は、稔(みのり)の乏しい山畑に桑を植えて蚕を飼い、雑木
を伐(き)って炭を焼いたが、ともにささやかな副業の域を出なかったよ
うである。天保期、五日市市場に搬出した炭の量が2か年計4210俵と
いう記録を見たが、これは檜原(ひのはら)養沢村の5%にも及ばない。
 一般に秋川谷で、山に対し燃料。肥料の自給以上の活用を図りはじめた
のは江戸中期の育成林業が始まってからである。多摩川材(秋川も含む)
が安い地廻り材として江戸の市場に食い込み、多摩川、秋川を頻繁に筏が
流れ下ったのは18世紀半ばからである。山裾の百姓達は切畑(下級畑)に
杉や檜(ひのき)を植えその育成を図った。また村や集落単位で共有林を
仕立てた。
 深沢家はこの育成林業にきわめて敏感に反応している。深沢家文書の中
に植林した山を年季で質にとったり、購入したりした証文が数10通ある。
この他2百通近い金融文書があり、土地集積が跡付けられる。これらの内
山すその下級畑には茂平の父茂八あたりから積極的に植林を進めた形跡が
ある。これが成木した時、家産は大きく増殖した。深沢家が他村にまで名
を知られる有力者になったのは新興の育成林業を巧みに家業化したからに
他ならない。林業は多くの人手を要する。また入会権との関係が微妙であ
る。この点地元の世襲名主家で、村内きっての威勢を保つ深沢家にうって
つけの家業であった。入会慣習は複雑な形態をとるが大別すれば、他村の
入り込む村々入会と、自村だけの一村入会がある。一村入会に対しては名
主家の威勢が届くはずである。村では橋木山(はしきやま)という名の共
有林を作り、宮林と呼ばれる神社の財産林を作った。(穴沢天神には4町
歩程の宮林があった。)名主兼神主兼材木商の深沢家はこれらに対し主導
権を握れる立場にある。

 2 茂平の生涯

 茂平は弱冠に21歳で名主となり、死亡時まで30余年在職している。
その家高(いえだか)《検地帳記載高》は増倍しているが、この数字には、
他村分や質地の山・畑は含まれていないので、家産の実態を見ることはで
きない。なお家高は名生(なおまる)時代(明治5年)高10石余(居村)、5
石余[他村]に増えている。
 ちなみに文久3年ころと推定される深沢村の検地帳で茂平名を集計する
とB表のようになる。これは深沢村の総面積の20%を超える。ところで
主力を占める。切畑についていえば、値打はひとえに内容(利用状況)であ
る。伐期近い杉檜が育ち、搬出に便な場所であれば、その価値は計り知れ
ない。
 深沢家資料を読み注意を惹(ひ)かれたのは、茂平も、その父茂八も高
尾村の名主高尾家より嫁をもらっていることで、高尾家は享保頃より秋川
谷の筏師惣代を務めている。筏師(いかだし)とは筏乗りではなく、元締
と呼ばれる材木商をさす。茂八・茂平父子が高尾家と結ばれたことは故な
しとしない。彼等は秋川林業の先達(せんだつ)高尾家と組んで、筏商売
《材木取引》に精を込めた模様である。

          A 清水茂平年表
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        B 茂平の村内所有地(文久3年頃) 
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 領主の貧窮

 次に注目される点は、領主本多氏との関係である。茂平は新領主に早速
60両を用立てているが、これは本多氏が江戸商人より借りていた借金の
肩替りを頼まれたもので、さらに5年後に35両を用立てている。年貢文
書を点検してみると深沢村45石の年貢1年分は約15両になる、茂平の
用立て金は村の年貢6か年分以上に当る。
名主茂平と本多家の用人とのやりとりをみると面白い。茂平が賃金額を列
挙し、「お下げ金未だなし」とイヤミに結んでいるのに対し、領主側では
もとより返済の意志はなく、「村内の分限者が他にあれば申し出よ」と、
次のたかり相手を求めている。なお本多氏は嘉永6年高9千石の旗本より、
1万5百石の大名に累進しているが、これは功績があって加増されたので
はなく、改出(あらためだ)し(特高の評価換え)にすぎない。大名になっ
たものの、軍役は増し「万石以上160人」財政の綻(ほころ)びは広が
った。
 多摩地区の本多領は綱代、三内、横沢、上・下・北大久野。深沢、入野、
戸倉の9か村であるが、嘉永2年村高100石につき50両の拠出金を割
当てられている、これは年貢の先取りである。また文久3年領主の上洛支
度金25両の借金が9か村に申込まれている。これは10か年賦返済の約
定付きであったが、第1年目に「2両2分の返済を半金の1両1部に負け
てもらいたい」という用人の手紙『他家文書』が残っている。
 「もういい加減にしてくれないか」というのが村方の心情ではあるまい
か。この時点で、幕府も武士階級の命運も尽きていたのである。
 茂平ら在地の有力者が嘉永6年の黒船来航の際うけた衝撃の中には、頼
りにならない支配層に対する不安感が織り込まれていたと思われる。それ
を裏返せば、地域を超えた日本に対する責任意識の芽生えである。茂平の
孫権八らが奔走した明治の民権運動はこの意識の延長線上に開花したもの
である。

 千人同心株の購入

 茂平は嘉永2年千人同心株を購入している。あっ旋(せん)は親戚の高
尾家で、高19表一人扶持の株を110両で買っているが、これは相場よ
り大ぶ高値である。この頃秋川沿い村々では、同心株購入が流行(はや)
っていた。五日市(萩原)横沢(野口)の両名主家でも買っている。茂平の
場合、同心株を経済的な投資対象と割り切っていたように思える。という
のは、70歳の父茂八を名儀人とし、安政5年その父が亡くなると19歳
の倅(せがれ)雅樂之助(名生)の名儀に替えている。おそらく同心勤務
の日光警護、御進発(長州征伐)の上洛など、すべて代人で済ませていた
のではあるまいか。
 道心株を家産の1つに考え、まるでNTT株のように売買する風潮は、
封建期の末期現象であるが、あと10数年で幕府が倒壊するとは明敏な茂
平も考え及んでいない。この投資の帳尻は必ずしも合っていないように思
える。

 神官・茂平

 茂平は穴沢天神社神官として装束を着用する資格を吉田家より裁許され
た正規の神官である。この許状をうけるためには、はるばる京都に上洛し、
多額の費用と暇を費やす。それに値するメリットがあったものとみえる。
穴沢天神社は深沢村の入口にある。この境内には享保期の見事な庚申塔(
こうしんとう)があるが、これは講中の建碑である。
それに対し安政4年の碑が2基ある。A表に期したように、ともに茂平個
人の建立したもので、道祖神は疫病や諸々の禍を村内に入れない塞(さえ
)の神である。この碑の中で神官茂平は「左衛門介源茂平」と名乗ってい
る。疫病神を追い払うため、武威を張ったものであろうが、同時に村人も
睥睨している。もへいでなく、しげひらと読ませるのであろう。道祖神の
字は、「近江守従三位下藤原朝臣(あそん)盛章謹書」とある。これも神
官茂平に関わる人脈と推測される。なお彼は茂平という世襲名の他に弘化
2年より、左衛門という百姓離れした名を使いはじめた。名主文書に残る
のはみな左衛門である。今1つの碑は丸い川石に「山路来て何やら床し薫
草・はせを」と刻み、裏面に「天則堂社孝健」とある。天則堂は彼が少し
前に新築した自宅を指すものか。社孝は彼の屋号であろう。茂平の戒名は
「深沢院社孝居士」という。穴沢天神付近の道は現在は自動車を楽に通す
平坦な町道であるが、かつてはこの句の情景がピタリとはまる山道であっ
たらしい。茂平は「夜明け前」の主人公のような国学に通じた名主とも思
えないが、長男に百実太郎とか雅樂之助とか名付けるところをみると百姓
離れしたセンスの持主であることがわかる。自宅に人を集め句会を催す。
体のことはやったであろう。倅名生も俳句をよくし、孫権八は漢詩に長じ
ている。この文化人三代のうち、筆跡は祖父茂平が最も達筆である。

 ある奇禍と茂平の死

 左衛門茂平は慶応3年7月21日に病没するが、実はその年の正月の不
慮の災難に遭遇している。その1件は五日市村の御用帳(森田家文書)に
記載されていた。
 正月6日の暮6ツ時、茂平と高尾村の代助(茂平の甥か義弟に当る)の
両名が、材木売上代金を懐中に駕篭(かご)で甲州道中府中宿八幡原にさ
しかかった所、歩兵体の5人組に襲われ所持金425両を奪われた事件で
ある。
 これは大金である。インフレの幕末とはいえ10から20両あれば、中
くらいの家が建ち、山畑の1反歩も買えた時節である、茂平は粒々辛苦の
生涯が一瞬にして瓦解する絶望感を味わったことであろう。半年後の彼の
死にこの盗難事件が無縁であったとは思えない。しかしまた観点を変えて
みると、領主が2両2分の借財を返済できないとき、領民の中には4百余
両の大金を懐に江戸と村を往き来している者がいる、新しい時代の曙光は
ここにもはっきり認められた。

           左衛門盗難届 
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 郷土が生んだ江戸時代の優れた民政家「田中丘隅(きゅうぐ)」

 はじめに

 秋留大地に生を受け
 この地と父母兄弟をこよなく愛し
 貧しい農民に深い同情の眼差しを向け
  『民間省要』を世に問い
 将軍吉宗の愛顧を被り
 治水に優れた手腕を発揮し
 武蔵国三万石の代官として生を全うした人

 江戸時代の中期の人で、名著「民間省要」の著者であり、またすぐれた
民政家でもあった田中丘隅は、あきる野市が生んだ第一級の人物といえる
でしょう。
 丘隅は寛文2年(1662)に平沢村((あきる野市平沢)に生まれ、享保
14年(1729)江戸の役宅で没しました。上の文は、秋川ファーマーズセ
ンターロビーの田中丘隅コーナーに掲げてあるもので、彼の一生を簡潔に
表しています。
 近年丘隅の治水などでの優れた業績や、著書『民間省要』への評価が一
段と高まり、本年3月には本市平沢の廣済寺(こうさいじ)にある田中丘
隅回向墓(えこうばか)が、東京都有形文化財に指定されました。
後述のように、丘隅が生地平沢村に居た時期は20歳ころまでで、その後、
没するまでのおよそ40年間は、川崎宿(神奈川県川崎市)を中心に生涯を
送ったため、川崎市では以前から丘隅を川崎宿再興の恩人として顕彰し、
市民にも広く知られた人物でありました。その点では、生まれ故郷であり、
人間形成の大事な時期を過ごした地元あきる野市での知名度は、残念なが
ら十分とはいえません。この拙稿が市民の方々の丘隅への関心を高める一
助となれば幸いです。

 1 平沢村時代の丘隅

 田中丘隅が生まれた寛文2年(1662)は、江戸開府から60年を経た時代で
す。およそ100年余り続いた戦国の動乱も、秀吉の小田原征伐で関東の雄
北条氏を滅亡させることにより、武蔵野の地にも平和が訪れました。
秀吉の指示に従って徳川家康が関東に入国し、秀吉死後、関ケ原の戦いを
経て、徳川氏の覇権が確定的となり、江戸幕府が開かれました。あきる野
市域をふくむ武蔵野一円は徳川将軍家の直轄地(天領)となり、また、将
軍家直属の家臣である旗本・御家人らにも分給(ぶんきゅう)されました。
農民側からすれば、領主が北条氏から将軍家、あるいはその旗本・御家人
にかわったことになります。そして、新しい時代の中で農村支配の体制も
整っていき、寛文年間には当地域一帯に検知が実施され、農民の土地所有
や年貢負担の基本台帳ともいうべき検地帳が、改めて作成されました。丘
隅が生まれたのは、そのような時代であったわけです。
 丘隅の父は八郎左衛門といい、平沢村の名主窪島(久保島)家の当主で
した。文政年間に著された「新編武蔵風土記稿」によれば、窪島家の先祖
は相模に済み、甲斐の武田氏の家臣でした。武田氏滅亡後は武蔵国平沢村
に移ってこの地を支配しましたが、その子孫はいつの頃からか農民となっ
て現在に至ったとあります。
 ところが丘隅のほぼ70年にわたる人生は多彩で、それを反映してか、後
世に伝わる名前も多く、例えば本稿で用いている丘隅は、平沢の廣済寺に、
兄の祖道(そどう)らが立てた回向墓にその名が刻まれています。もっと
も、生前は休隅という名が多く用いられていますから、こちらの方がいい
とする説もあります。
 さて、彼が58歳の時に書いた自伝的回想録「走庭記」などによれば、彼
は少年時代から頭がよく、体力的にも優れていました。「生まれて偉、長
ずるに及んで経綸天下(けいりんてんか)の志あり、概然(がいぜん)と
して管中(かんちゅう)の人となりを慕う(廣済寺回向墓碑銘)、「幼な
して奇才あり、兄祖道と書を近隣滝山の大膳精舎(だいぜんしょうじゃ)
に読む、早に神童の名あり」《「先哲叢談(せんてつそうだん)」》などが
それで、「走庭記」でも次のように述介しています。
 「さても古(いに)しえ、血気にまかせ若輩なることども思い出して、
独り赤面に及ぶ事こそおかしけれ。余十二、三歳になるころ、夏にもなれ
ば村の童集まりて相撲をとりはべりしに、十八、九、廿(歳)ばかりの者。
余に勝つこと更になくして、十五、六歳に至れば、尚近隣の腕をこく者共、
皆その場を譲り去るに似たり。予が従兄に中半といえる有力の者あり、よ
くよく碁盤して蝋を消す。また、村下に霧山長蔵といえる男有り、彼は世
上に名有(なあり)の相撲なりし、ある時、中半と長蔵、相撲をとりける
に、三番にして長蔵二番勝ちたり。今一番と所望して、また長蔵勝たりけ
るを、余出て彼長蔵をつづけて三番まで投げたりけり。是より人おそれて、
心面白くなり、かくれ出てこれをとる。既に顕(あら)れて父のしかりに
逢い、それよりして相止み、一生誓いて筋力を慎む」
 この他にも「(以下現代文に意訳)下男の六兵衛という水泳の達者な男
と、雨で満水となり大波逆巻く急流の多摩川を泳いで渡った」とか、「青
梅の裏宿にいた仁兵衛という狩人から鉄砲を習い、2,3か月で一日28発
撃って、27羽の鳥を撃ち落とせるようになり、人はさかんに鉄砲撃ちを私
に勧めるものだから、私もいい気になって鉄砲をかついで毎日のように峰
を走り鹿を撃ち、谷を行く猪を仕留めて喜んでいたところが、母がこれを
知り諌めたので、私も非を悟り、以来、鉄砲を持ったことも生き物を殺し
たこともない」など、また「血気盛んな若いころは、家業の農家にも精を
出す一方で、商売《関東の各地へ出かけ、絹の仲買のようなことをしてい
た)にも励み、これらに精通し失敗することはなかった。そのかたわら、
若いころから好んで書を読み学問への志があったので、農業や商売の間、
行く先々までも腰に書物を離すことなく、寸暇を惜しんで勉強した」とも
述べています。
 また「このように私はいつも学問に関心を寄せていたが、、田舎のこと
ゆえ、思うように学問に励むことができなかった。そのうえ、昼夜家業に
骨を砕(くだ)き、姉妹(兄祖道の他に姉二人、妹4人の姉妹がいた)の
生活の面倒をみ、父母を安心させることの方が急務で有ったので、このま
まだと一生愚眼(ぐがん)を開けぬとかと、ずいぶん悩みもし悔しいと思
ったものである」「人は生まれつき正しい心を持っているものである
が、学問がないと、得てして欲に迷って道を踏み外してしまう。私は子供
のころから学問を志し、それなりに努力も怠らなかったので、道を誤るこ
とがなかったのである」とも述べています。

 2 川崎宿の再興

 丘隅が絹仲買の商売で各地に出かけた先の一つに、東海道川崎宿があり
ました。恐らく商売熱心で才気煥発・誠実な人柄が見込まれたのでしょう、
丘隅は川崎宿本陣田中家の養子に迎えられました。丘隅22,3歳のころのこ
とです。その後、およそ20年を経た宝永元年(1704)に丘隅は本陣当主
の座を継ぎ、引き続いて同4年には川崎宿の問屋役と名主役に付き、実質
的に宿のリーダーとなりました。それまでの川崎宿は伝馬(てんま)の負
担と宿を差配する宿役人たちの勢力争いなどのために、相当に疲弊してい
ました。時の関東郡代伊奈半左衛門忠達は、これを是正するために丘隅に
宿の権限を集中させ、彼に宿の再興を委ねたのです。
 丘隅が早速取り組んだことは、六郷川の渡船の権限を川崎宿に持たせる
ことでした。六郷川は多摩川の河口近くでの別称で、東海道筋の川崎宿と
対岸八幡塚村との間には、慶長年代から貞享年代(Ⅰ596-1686)までのお
よそ90年間、長さ220mの大橋が架かっていました。しかし、時々出水の
ために流失・破損があり、その都度修復されてきましたが、貞享年間の流
失を最後に、幕府は多額の出費を嫌って架橋を止め、渡船に代えました。
造船および船頭の経費は幕府から支給され、船賃は渡船を扱う請負人の収
入になりました。
 丘隅はこの渡船を川崎宿の請負になるように願い出て許可され、渡船賃
収入と幕府から支給された宿救済金3,500両によって宿の再興に努力した
のです。この他、丘隅は宿の繁栄のために遊女屋の設置も行い、こうした
努力が実って川崎宿は再興されました。
 
 3 江戸遊学と「民間省要(みんかんせいよう)」の著述

 正徳元年(1711)、50歳になった丘隅問屋役を猶子(ゆうし)太郎右
衛門に譲り、長年の夢であった江戸遊学を実現させ、著名な儒学者荻生徂
徠(おぎゅうそらい)の門に入りました。又同門の成島道筑(なるしまど
うちく)の指導も受け、もっぱら経世済民(けいせいさいみん)の学の習
得に励みました。
 享保4年から5年(1720)にかけて丘隅は「走庭記」を書きました。内容
の幾つかは前述の通りですが、60年近い己の人生を反省し、それをもとに
14か条にわたる教訓として子孫に伝えようとしたわけです。父母への孝養
を尽くす丘隅の心情などが、文中の随所に見受けられます。
 「走庭記」をかいて間もなく(享保5年の秋)、丘隅は西国巡礼の旅に出ま
した。途中、紀伊の那智山の麓で就眠中に「奇異(きい)の霊夢(れいむ
)」を見てから著作への心がはやり、9月に帰郷してから夜を日に継いで
書き進めて、翌6年9月に脱稿しました。名著『民間省要』の誕生です。
 彼はその序文で著作の意図をおよそ次のように述べています。
 「自分がこれを書いたのは、利益や名誉のためではない。ただ国恩のた
め、社会同胞のために役立ちたいからである。近頃、博識の人があちこち
で、民間(農民)のための本を書き残しているが、権威や文才を振りかざし、
ひたすら理屈のみに走って、庶民のことなどは眼中にない説が多い。それ
はあたかも理屈ばかり先立ち、技が伴わない武芸のようなもので、実践で
は何の役にも立たないと同じことである。その点、私の本は誰の説でもな
く、あくまでも自分自身の日頃の実践や考察から生まれた事理を書いたも
のである」
 永年の豊富な実体験を土台にした著作だという丘隅の自負は、まさにそ
の通りで、とりわけ後述するように、貧しい生活を強いられる農民に深い
同情の眼差しを向けると同時に、代官所役人を中心とした農民を搾取し私
腹を肥やす悪役人たちを厳しく攻撃しています。

 4 「民間省要」の内容

 全17巻(乾之部7巻・坤之部8巻・目録1巻・口伝巻1巻)から成り、宿
駅の損益、飢饉・凶作に対する方策、課税、治水などの項目をあげながら、
前述のように悪政に対しては鋭い批判をすると共に、農民側に立ってその
日常生活を、克明に描き、為政者の非道を戒めるなど丘隅独自の経世済民
論を展開しています。
 見方を変えれば、、幕藩体制下にあって農民自身による農民問題論の最
初に体系化された著書という画期的な意義と同時に、民衆生活の実情をリ
アルに叙述しその苦悩を訴え、かれらを抑圧しかれらから収奪する者を厳
しく糾弾することに止まらず、そこから脱却や解決策をも具体的・積極的
に示している独自性が、不朽の名著と称せられる所以(ゆえん)でもある
でしょう。
 そのためでしょうか、本書の影響力は大きく乾之部が「国家要伝(こっ
かようでん)」と題して筆写されて別に伝わり、また乾之部の中の「百姓
四季産((ひゃくしょうしきのさん)」が抜き書きされて「農業四時艱難
記(のうぎょうしじかんなんき)」と題されて諸国に流布され、さらにこ
れを読んだ越後の「微禄の貧士」によって《粒粒辛苦録(りゅうりゅうし
んくろく)》と名付けた農政書として、世に流布されてもいました。

 5 吉宗の上覧に供される 

 「民間省要」脱稿の翌年の享保7年6月に、体をこわした丘隅は湯治に出
かけますが、その途中で成島道筑に本書を託します。当時、江戸城中で表
坊主(おもてぼうず)などの役職を務め、将軍吉宗に学問を講書すること
もあった成島は、これを吉宗に献上しました。このことで丘隅は吉宗の知
るところとなり、吉宗は時の江戸町奉行大岡越前守忠相に丘隅の登用を促
したものと思われます。大岡は関東地方御用掛(じかたごようがかり)も
兼務し、吉宗の享保の改革の実務を担当していました。
 丘隅が「民間省要」で熱心に訴えることの中に検見制(けみせい)を廃
止して、毎年の収穫度を調べ、その度合いに応じてその年の年貢高を決め
るの検見制です。丘隅は年々の収穫度に関係なく一定の率で決めるのが定
免制です。丘隅は検見制の弊害《検地役人の収賄など》を「九万八千の邪
神」という表現で厳しく糾弾し、定免制(ていめんせい)の採用こそが役
人収賄による幕府の収入減を防ぎ、農民の生活を安定させると主張してい
ます。享保の改革が実施されたので、定免制の採用なども丘隅の主張を入
れての結果とも考えられますが、幕府の意図は年貢の増徴にあったとされ
るので、一考を要するところでもあります。

 6 丘隅の登用

 享保の改革の眼目の一つである、新田開発の奨励などのために、大岡越
前守忠相は民間の有能な人材を登用しています。武蔵野新田世話役として
活躍した押立(おしだて)村(府中市)名主川崎平右衛門定孝などと並んで、
田中丘隅も登用されました。このことは、丘隅の生きた時代と吉宗の将軍
職就任、さらに享保の改革などが、歴史の上でタイミングよく重なり合っ
た結果といえるでしょう。
 「有徳院御実紀(ゆうとくいんごじつき)附録]巻九に「ここ川崎の駅長
休隅右衛門喜古(よしひさ)といへる者あり、地理はさらなり、駅馬脚夫
(えきばきゃくふ)の事にも熟し、みづから近世の得失を論じ、民間省要
十六巻をあらはしけるに、成島道筑遍たよりを得て、うちうちに御覧に備
えければ御心に応じ、まづ彼がなす所を試(こころみ)らるべしとて、武
蔵国埼玉郡の河渠(かきょ)を治むべしと仰下され」とあって、この頃か
ら丘隅が幕府役人として本格的に活動し始めたことがわかります。丘隅は
60歳を過ぎていました。
 丘隅の治水事業の中で、今日まで伝っているものの一つに、享保11年(1
726)に行った酒匂(さかわ)川改修工事でがあります。酒匂川は神奈川県
内を流れる川で、富士山麓や丹沢山塊からの流水を水源とし、小田原市を
流末として相模湾に注いでいます。昔から水害の絶えない川で、特に宝永
4年(1707)の富士大噴火では、降灰で河床が埋まり翌年の大雨では大泥流
となって下流21ヵ村に大きな被害をおよぼし、、さらに享保2年の洪水で
も沿岸村々に大打撃を与え、荒廃がますます進んでいました。幕府も手を
こまねいていたわけではなく、改修工事を繰り返して来たのですが、一夜
の大雨で破壊されてしまうという、その繰り返しでした。
 治水技術の腕を見込まれてこの改修事業に臨んだ丘隅は、彼が考案した
といわれる弁慶土俵の効率的な使用など、いろいろな工夫を凝らして、数
か月後にこれを完成させ、洪水に負けない堤防を作りに成功したのです。
丘隅は自らが撰文した記念碑をこの両岸に建てました。
それは文明東堤碑(ぶんめいひがしつつみひ)・文明西堤碑と呼ばれ、南
足柄市内などに現在も残っています。
 それから3年後の享保14年の春に、丘隅はそれまでの業績・手腕を認め
られて、武蔵国内の幕府領3万石を管轄する支配勘定格(しはいかんじょ
うかく)に任じられました。しかしながら、「九万八千の邪神〕に代わっ
て、これから農民のために働こうとする矢先その年の12月に、惜しくも江
戸浜町の役宅で病死しました。亡骸は田中家菩提寺の妙光寺(川崎市)に
葬られ、兄や縁者たちによって回向墓が生まれ、故郷平沢村
の廣済寺に建てられました。
 丘隅の優れた治水技術は、多摩川対岸羽村の出身である甥の森田通定(
みちさだ)に継承されました。通定は「治要弁」を著して、これを後世に
伝えています。





































 





















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