atusisugoiのblog

カテゴリ: 歴史を訪ねて

 新・平家物語は、当初感動した場面だけをピックアップして、ここに書
こうと思っていましたが、読み進んでいくうちに、吉川英治文学の巧緻な
表現と臨場感に誘われ、いまもつづけています。自分では、写経のつもり
です。
 また、パソコンで文字を扱うと、右手と左手をともに使用しますので、
脳の働きがよくなると聞いていますから、健康も兼ねて日課にしています。
 空しく戦場に散った人々に対する供養の意もあります。

 ここで文芸評論家の尾崎秀樹氏の、『新・平家物語の旅』の紀行文を読
んでみたいと思います。
 
 大原は、降りつくした山峡だった。「こんな所にも人が住むか」と、
怪しまれるような草屋根が、ところどころ見え、四山から落ちあう水
は、岩
間を奔(はし)り、道をせばめ、輿も行きなやむばかりである。
 
CIMG0276


















 












 吉野の花は、立春から六十五日ごろが、盛りだという。-谷を前にし
た崖ぎわの草のよい所に、二つのまろい背中が見える。満山の花に面を
向けたまま、いつまでも、ただ黙然と、すわっている

CIMG0277

















 衣川(ころもがわ)の館は、中尊寺堂塔からも、また、伽藍御所から
も、ともにものの十町とは離れていない。義経自身は、心ひそかに、「
この地に、秀衡殿も亡き今は・・・・・」と、近ごろはもう、ある観念
に徹していた。

CIMG0278









































 ここの関守、富樫左衛門尉以下は、もし義経主従が、北国路を来れば、
道は必ず、安宅を通ること、また、そのいでたちは、修験者姿であろうこ
とを、早くから察して、厳重な警戒体勢をしいていた。

CIMG0001































 吉野山悲恋

 十年ほど前に義経の生脱説話に従って、高館(こうだて)から宮古を経
て三陸沿岸を北上し、三厩までたどったことがある。その一、二年後には
、今度は松前から江刺を抜け、沙流川上流の平取まで行った。そしていた
るところに義経説話が根を下しているのを知った。
 土地の人たちは、実際に義経主従がその土地を通ったと、なかば信じて
いるようだが、宮古市の西北にある黒森山、判官稲荷、横山八幡、田老(
たろう)町の吉内屋敷跡、普代(ふだい)の鵜鳥(うのとり)神社、久慈
市に残る源道のいわれ、八戸の義経居館、弁慶が一宿したといわれる三戸
の法光寺、野辺地の馬門温泉に残る滞在説話、三厩の義経神社や馬屋岩と
たどってゆくにるれ、渡しもまた次第にそのとりことなってゆくから不思
議である。
 おそらくこの伝承は、奥州浄瑠璃の語り手たちが、御曹子島渡りを語り
ながら歩んだ跡が、いつしか実在感をもって跡付けられたに違いない。
それにしても民衆の判官びいきは際限なくロマンを紡ぎ出してゆくものだ。
 兄の頼朝に疎まれ、腰越状を残して京へもどった義経は、土佐坊昌俊の
追討をうけて、郎党十数名を率い、静や百合野をともなって堀川館を去り、
摂津の大物浦から船出するが、嵐のために遭難、百合野は波にさらわれ、
義経は住吉の浜に漂着して吉野へ隠れる。
 そして静とも吉野山の大峯口で別れ、多武峯(とうのみね)、十津川、
伊勢、奈良を経て鞍馬山へもどり、さらに仁和寺の守覚法親王とも相談し
て、藤原秀衡をたより奥州へ落ちてゆく。

 これは「新・平家物語」が描く義経逃亡のコースだが、吉野には義経主
従にちなむ史蹟が少なくない。
 義経の一行が雪の吉野路をたどって吉水院(吉水神社)へ着いたのは、文
治元年十一月十七日だ。一行は五日間そこに潜んでいたが、頼朝の詮議は
きびしく、吉水院を立ち去る。そして大峯口で別れた静は、山道を踏みま
よううちに蔵王堂の僧兵に捕えられ、勝手神社で法楽を舞わせられる。
 花の季節に吉野を訪れたことがあるが、今回の取材は秋の初めで、色づ
いた樹々が吉野山の別の表情をしめしていた。私は峰を吹き過ぎる冷たい
風に身をすくませながら、蔵王堂から吉水神社、勝手神社、横川覚範の首
塚、水分(みくまり)神社をまわり、さらに金峰神社から西行庵から西行
庵を訪れた。
 金峰神社は美芳野の里と呼ばれた頃からの土地の守り神である。
本堂脇の小道を少し下がると、義経の隠れ塔がある。義経主従は
この塔に隠れていたが、追手が迫ると屋根を蹴(け)破って逃げ
出したので、蹴抜(けぬ)けの塔ともいわ
れるらしい。
 そこからさらに山道を登ると、途中から西行庵へ下る道がある。そのあ
たりは奥の千本とよばれるだけに、花の季節はたとえようもなくすばらし
いが、秋ふかい季節もまた寂寞としておもむきふかいものがある。
 西行庵はそのおもむきに魅かれ、奥へ奥へと誘われたあたりにポツンと
建っているが、芭蕉も秋と春の二度、ここを訪れている。藤村が「
山家集」を抱いて西行庵を訪ねたのは二十二歳の春だった。

 吉水神社には「義経潜居に間」や「弁慶思案の間」と呼ばれる部屋もあ
る。室町初期の改築だが、この吉水院は後醍醐天皇の行在所(あんざいし
ょ)がおかれたところでもあり、豊太閤の花見の本陣でもあって、いくつ
にもかさなった歴史の厚味を感じさせる。吉野は源平、南北朝の哀史にち
なむ史蹟が多く、「歌書よりも軍書に悲し吉野山」という支考の句を思い
おこした。
佐藤忠信が奮戦した花矢倉は、「義経千本桜」で知られる。蔵王堂はあい
にく本堂を修理中で、全貌をとらえにくかったが、秋の修学旅行らしい生
徒の一団が境内をうずめていた。

 女人禁制の大峰の結界を前にして、泣く泣く義経と別れた静は、鉦や笛
や鼓の音に誘われ、この勝手神社にたどり着いた。

CIMG0002






















 奥の千本にひっそりとある西行庵(吉水神社)

CIMG0003




















 一条敷の弁慶思案の間(吉水神社)

CIMG0004







































 蹴ぬけの塔とも呼ばれている義経の隠れ塔

CIMG0005






































 安宅の故事

 義経の一行が平泉へ下るコースはいろいろに伝えられるが、安宅関跡は
謡曲や歌舞伎で知られているだけに、動かない印象を一般に与える。
 当時の安宅の関は、日本海岸の浸蝕で遠く海中に没してしまったようだ。
しかし住吉神社の裏手の砂丘には、義経や弁慶、それに富樫などの銅像が
立っている。「義経記」では「勧進帳」の舞台は小矢部川に小撫川が合流
するあたりの如位の渡しとなっているが、潮騒の音を聞きながら松原を歩
いていると、義経主従がそこにあらわれても不自然ではない感じになる。
 歌舞伎十八番のひとつに選ばれた「勧進帳」は、能の「安宅」を歌舞伎
化したもので、「義経記」にもとづいているようだ。頼朝に疑いをかけら
れた義経は、弁慶ら四天王に守られて、山伏姿に身をやつし奥州へ落ちの
びる途中、安宅の関で関守の富樫左衛門にとがめられる。その危
難を弁慶の気転と冨樫のはからいでうまく脱する
というわけだが、
「義経記」では安宅の関で弁慶が富樫に問いつめられ、東大寺勧
進の山伏だと釈明する。そのくだりと如位の渡しで渡し守に見とがめられ
、弁慶が義経を打擲(ちょうちゃく)する箇所、および直江津の浦で代官
に笈(おい)の中をたしかめられる部分が、ひとつになって話ができあが
ったのであろう。
 それにしても勧進帳の読上げから山伏問答となり、折檻を経て富樫のは
からい、最後には弁慶の延年の舞や飛び六法による引っ込みとつづく中に、
いろいろな見どころがあり、曲調にもすぐれ、にごとな様式美を形づくっ
ている点で、「勧進帳」は歌舞伎十八番にあげられるだけの内容」
と形式を備えている。

 松原の一角には歌碑や文学碑も多く


   松おほき安宅の砂丘そのなかに
     清きは文治三年の関

 という与謝野晶子の歌碑もあった。

 安宅の関跡 そばの砂丘に立つ弁慶と富樫の銅像が、往時を偲ばせる。

CIMG0006



















 盛衰の果てに

 平泉の中尊寺にある弁慶堂は、月見坂の途中の左手にあたる。もとは愛
宕堂(あたごどう)だったが、山麓の弁慶堂が朽ちはてたために、弁慶と
義経の像をここへ移して以後、弁慶堂とよばれるようになった。
 弁慶が針ねずみのように矢を射られて、壮烈な立往生をとげたところは、
衣川が北上川に合流するあたりの一角だといわれるが、現在では月見
坂の登り口にその墓がある。土地の言い伝えによると、立往生し
た弁慶は、実は七つの道具を背負った藁人形で、盛岡の
郷土舞踊
の剣舞はそれを形どったといわれる。たしかに弁慶がそこで立往生して
しまったのでは、蝦夷地への生脱説話は成り立たない。東北の田舎では
、竹籠の中に藁束を入れ、川魚などを串に通してそれにさしこみ、焼く
風習があるが、この藁束をベンケイとよぶのは、弁慶の立往生に由来す
るとも聞いた。
 義経の判官館は高館(たかだち)とよばれる、藤原清衡の時代には絶好
の要害地とされていたらしいが、現在では北上川に浸蝕されて狭くなり、
義経堂も切りたった断崖の上に位置している。しかしそこからの眺望はみ
ごとで、北を流れる衣側の上流は、前九年の役、後三年の役で知られた古
戦場でもある。
 芭蕉が「奥の細道」紀行で平泉へ入ったのは元禄二年五月十三日のこと
だ。高館に足をとめ、時の移るのを忘れて歴史の興亡を思いやった。陽暦
に直せば六月に十九日、もう夏である。

   夏草やつわものどもが夢の跡

 文治五年閏四月三十日、泰衡に襲われた義経はこの高館で妻子を
殺し、みずからも腹を切って果てたといわれる。「新・平家物語」
では大物ノ浦
で消息を絶った百合野が、生きながらえて平泉を訪れ、姫を
もうけるが、その二人を義経が道づれにし、持仏堂に火を放って自害する
こしらえになっていた。
 清衡、基衡二代の居館は「柳の御所」とよばれ、秀衡・泰衡舘は「伽羅
の御所」と称された。しかし現在では柳の御所や弁慶屋敷は、北上川の川
底と化しており、伽羅の御所も記念碑を残すだけとなった。
 義経たちが目にしたもので今も残っているのは、わずかに金色堂ぐらい
で、北上の流れもすっかり形を変えてしまったが、川をへだてた束稲(た
ばしね)山の景観や、無量光院の背景をなす金鶏山、毛越寺(もうつうじ
)の後山にあたる塔山などの眺めは変らないと思われる。
 それにしても三大秀衡が造営した無量光院は、宇治平等院の鳳凰堂を模
したといわれ、基衡夫人が営んだ観自在王院は東西四百尺、南北八百尺の
規模をもっていたと伝えられる。とくに平安期の寝殿作り形式による浄土
庭園の遺構を残す毛越寺などは、大泉池のほかは礎石を残すだけに、かえ
って夢を誘われる。 「新。平家物語」は武家政治の基礎をかためた頼朝
が、建久九年十二月二十七日、相模川の橋供養の帰路、落馬し、それがも
とで他界するまでを叙しているが、その源平興亡の歴史は覇道であり、最
後の平安を得る者は庶民以外にはないことを語っている。

 平安朝の庭園の遺跡として注目される毛越寺の園池には、藤原三代の
栄華の名残も・・・・。

CIMG0007





















 高舘跡の切りたった断崖の上にある義経堂。

CIMG0008





































 吉野山の桜がみごとだと聞いた麻鳥は、老妻の蓬とともに花見に行く。
一度は無頼の徒にまじった息子の麻丸も実直な職人に更生し、娘の円も施
薬院の医生である安成と結ばれた。麻鳥夫妻は老後を案じることもなく、
花の下で激動の時代をふり返り、よくもまあ踏み殺されもせずにここまで
やってきたと思い、どんな栄華の人よりも幸せだったとしみじみ語りあう。
吉川英治はこの麻鳥夫妻の述解を最後にもってくることで、人間の幸せと
は何かの問題を読者にあらためて問うているのではないか。人はなぜ位階
や権力をもとめて血を流しあうのでしょうかという蓬の言葉は、時代をこ
えて現代の読者にもふかい共感をよびおこすに違いない。
 作者は初め壇ノ浦以後の平家敗滅の姿を描いて、戦後の混乱した世相に
ひとつの示唆を与えたいと考えていたようだ。法然の登場をもって全巻を
しめくくるといった構想も抱いたらしい。だ「新・平家物語」は青年清盛
の青春から筆をおこし、雄大な歴史叙事詩に発展した。
 私もその源平盛衰の跡をたずねて、平泉の地まで歩いたが、その間に去
来した思いは、激動の時代に生きた人人の非情な運命についてだ。吉川映
治は「新・平家物語と私」の中で、昭和史の激動をふり返り、おたがいに
これほど大きな生きた歴史を体験した時代はなかったといい、それぞれの
家で、また肉親の間で、その歴史につながって生々しい傷手(いたで)を
受けた深刻な国民的体験が、
歴史や古典を見る新しい目を養ったことにふれていた。「新・平家物語」
はその国民的体験の総和をも暗示する叙事詩なのだ。













 新聞で、調布市にある深大寺の宝を本堂にて展示(11月1日~8日ま
で)されるというニュースをみて、この気持ちの良い、秋晴れの晴天に
誘われるように、この文化財を観に出かけたくなっています。
 11月3日(土曜日)にでもと考えたりしています。

 本堂再建100年記念
 深大寺国宝や文書展示


 火災を免れた深大寺の宝を展示(本堂於)

 調布市にある創建1300年の古刹・深大寺(張堂完俊住職)の本堂再建
100年を記念した企画展が12月1日から始まる。幕末に発生した寺の
火災をのがれ、昨年、国宝に指定された釈迦如来像(白鳳仏)のほか、火災
の様子などをつぶさに記録した文書や徳川3代将軍・家光からの朱印状な
ど二十数点の貴重な寺の宝が展示される。
 深大寺は733(天平5)年の創建と伝えられている。本堂は幕末の18
65年(慶応元年)に火災で焼け落ちた。その後、檀家らの尽力で1918
年(大正7)年に再建され、今年で100年になる。
 寺には約5千点の文書が残っているものの、調査や研究は十分に進んで
いない。企画展に合わせ、学芸員の菱沼沙織さんらが文書の一つ、「深大
寺焼失諸記」を精査したところ、80代住職「堯欽(ぎょうきん)」が宗
本山の上野・寛永寺へ詳細なてんまつを報告をしているこ
とが分かった。
 火災は1865年6月7日の真夜中、庫裏(くり)の台所で発生し、本
堂、長屋、物置が次々焼けた。駆け着けた檀家が延焼を防ぐために、鐘楼
堂を打ち壊したとも記されている。けが人はなく、火事の際、本堂にあっ
た御朱印や檀家の過去帳、位牌などを運び出したという。この際、白鳳仏
もいっしょに運び出したとみられる。
 企画展は本堂であり、焼失諸記のほか、寺とつながりが深かった小田原
北条氏や徳川家からの朱印状、幕末から明治に活躍した絵師、河鍋暁斎(
かわなべぎょうさい)筆の唐獅子の板絵などが展示される。また鎌倉時代
の1267(文永4)年につくられ、「深大寺の寺名が残る最古の資料とさ
れる「深沙王堂馨(じんじゃおうどうけい)」(相模原市の善勝寺藏)も公
開される。
 白鳳物は高さ8センチ、重さ53キロ。制作されたのは甚深大寺創建前
の飛鳥時代の7世紀後半から末で、畿内で造られた後、寺に伝わったと見
られる。寺院伝来の仏像として都内唯一の国宝仏だ。白鳳仏は本堂そばの
釈迦堂で展示されているが、今回、あらゆる方向から全体像が見られるよ
うにと、複製を本堂に置く。
 菱沼さんは「貴重な文化財ばかりで、ぜひこの機会に見に来てほしい」
と話す。

 深大寺には江戸時代末期から昭和にかけて5000点にものぼる文書が
現存していますが、この文書群の調査・研究ははまだ十分に進んでいませ
ん。それは、古代、中世に比べ近現代は歴史研究で軽(かろ)んじられる
ことが多いことに起因しているからでしょう。文書全体の把握や記録撮影、
内容の読解はこれからの調査にゆだねられています。
 多摩川流域の天台寺院の多くは、深大寺を本寺として、約40ヶ寺から
なる末寺で構成されており、末寺から提出されている文書からは、末寺の
歴史や近現代の寺院組織の実態解明が期待されます。また、深大寺は当時
の神奈川県、東京府、神代(じんだい)村等々と文書をやり取りしている
ことから、深大寺文書を読み解くことは、寺の歴史だけに留まらず、地方
自治体の様子をも明らかにするものとして、その研究はさまざまな可能性
を秘めています。

  火災の様子や、被害について本山の寛永寺へ報告する様子などが
 記された「深大寺焼失諸記」の表紙

CIMG0058







































            同見開き
CIMG0185





















 深大寺に伝わる河鍋暁斎の作品の一つ、唐獅子

CIMG0059




















 「武州深大寺」の文字が見える「深沙王堂馨(じんじゃおうどう
 けい)」仏具の一つで、なぜ善勝寺に伝わったのか不明

CIMG0060















 2018年11月3日(土曜日)

深大寺に向かうため、京王線の「調布駅」に到着しました。 地上にあっ
た調布駅は乗降客が地下二階からという構造で、地上は駅ビルになってい
ました。
この駅が新しく生まれ変わって姿を、初めて駅前から見たのですが、あま
りの都会的な様変わりに驚きました。
 駅前はゆったりとした空間を保ち、落ち着いた雰囲気を醸しています。
駅前広場では、植木とか、野菜の即売、それにちょっとしたイベントなど
もなどもあるようです。

 ここからバスで10分くらい走り、深大寺入口というバス停を降車する
と、案内標識がありますので、すぐ参道に入ることができます。
 参道は急に緑も多くなり、道の両側には深大寺名物の蕎麦屋さんがたく
さんあり、列を作って客が待っているという光景も目にました。
 途中、深大寺水車館があり、ここへ立ち寄った後、深大寺へと近づいて
ゆくと、道の両脇に立ちならぶ店と、人出の多さのなかに外国人客なども
交じり、にぎわいをみせ、観光地の雰囲気が満ちていました。
 このあたりの蕎麦屋さんに入り、昼食を摂ることにしました。ざるそば
を注文し、30年くらい前にここへ来たことをおぼろげに思い出すと、懐
かしさとうれしさでビールも頼んでしまいました。

         京王線「調布駅」
CIMG0079





































            駅前の景色
CIMG0080




















大きな武蔵境通りから、少し細い車道に入ると、両脇に蕎麦屋さんがつら
なり、なかには水車を備えた店もあります。風情があってなかなかいいも
のです。
 昔は、水車は動力として、蕎麦(そば)の実から粉に加工する役目をし
ていましたから、その名残の演出ですね。

        水車のある蕎麦屋さん
CIMG0082





















    前掲 蕎麦屋さんの水車をアップしてみました。
CIMG0083




































         深大寺水車館の水車小屋
CIMG0084





















 水車小屋の内部は外部の水車の回転力で木製のシャフトに取り付けた
歯車を介して、垂直の木づちを上下方向に動かし、蕎麦の実の皮をはぐ
仕組みです。


CIMG0087




















水車小屋の内部は外部の水車の回転力で木製のシャフトに取り付けた
歯車を介して、
臼(ウス)に回転力を与え、皮のとれた実を精粉にする
仕組みです。


CIMG0086



















  深大寺第八十八世住職 張堂完俊・調布市館長によるお言葉を読んで
みます。

 深大寺は、白鳳期(はくほうき)にさかのぼる釈迦如来像を安置する
関東有数の古刹です。昨年、永く市民に愛されてきた本像が国宝に指定
され、戦後最大級慶事として歴史に刻まれました。そこで、調布市と深
大寺は、武蔵野の歴史への理解を深め、世界中の人々に白鳳の美を伝え
ていくことを目的として白鳳物の周知活動をしています。
 さて、平成30年は慶応の大火から本堂が復興し、再建100年を迎
えます。本展はこれを記念し、約5000点にものぼる深大寺文書の一
部と焼失をのがれた数々の寺宝から、深大寺の激動の幕末、明治を垣間
見ようとするものです。
 国宝釈迦如来像をはじめ、これらの事報は深大寺はもとより、地域社
会にとっても大切な文化財です。今後も地道な調査、研究を続け、深大
寺と地元の歴史が明らかになることを祈っています。

 国宝 釈迦如来(白鳳仏)像

 ー旧国宝から重要文化財、そして国宝へー

 深大寺の白鳳物として知られる本像は、銅造りで、両足を下ろして台座
に腰掛ける姿から「銅像釈迦如来倚像(どうぞうしゃかにょらいいぞう)
」と呼ばれ、制作年代は7世紀後半ないし末と推定されています。
 本像は慶応元年(1865)の大火までは本堂に安置されていましたが、
火災後は、本堂よりもいち早く慶応3年(1867)に再建された元三大師堂
(がんざんだいしどう)の須弥壇(しゅみだん)内に長い間仮置きされて
いました。そして明治42年(1909)10月31日、南北朝時代の永和2
年(1376)銘の梵鐘(現重要文化財)調査に訪れていた東京帝国大学理学
部人類学教室の柴田常恵(じょうえ)らによって見いだされると、当時の
学会に衝撃をもたらし、大正2年(1913)4月14日に古社保存法によ旧
国宝に指定されました。この慶事は、5年後に実現した本堂再建の機運を
高める大きな契機となったことでしょう。
 戦後になり、昭和24年(1949)1月26日に法隆寺金堂壁画が焼失
し、翌年、文化財保護法が施行されると、本像は他の旧国宝と一緒に重要文
化財になりました。そして近年、白鳳仏研究が進展したしたことにより、本
像は白鳳仏の代表作の一つとして再評価を受け、平成29年(2017)9月
15日付で新たに国宝に指定され、東国最古の国宝仏の誕生となりました。


         深大寺釈迦如来(白鳳仏)像
CIMG0253






































        国宝釈迦如来(白鳳仏)像
CIMG0167





































   国宝釈迦如来(白鳳仏)像が安置されている釈迦堂
CIMG0170




















 深大寺の山門まで、150メートルくらい手前の風景です。
CIMG0125




















  
CIMG0124



















  山門(市指定有形文化財)

 棟札銘より元禄8年(1695)の再建であると知られる、境内で一番古
い建造物です。慶応の大火の時には、山門が全焼するのを防ぐため近くに
ある鐘楼堂を壊(こわ)して火が移らないようにしたことが、深大寺文書
から知られます。


           深大寺山門 
CIMG0129




















                                   深大寺山門
CIMG0264





















 鐘楼

 慶応の大火後、明治3年(1870)ここの再建された。半鐘は平成13
年鋳造されたものである、今も、毎日朝・昼・夕の3回撞(つ)かれて
いる。


             鐘楼
CIMG0131



















  梵鐘(ぼんしょう)(国指定重要文化財)
 総高 125.5㎝

 銘文により永和2年(1376)に大工山城守宗光(やましろのかみむね
みつ)によって製作されたことがわかります。都内で3番目に古い梵鐘
です。



CIMG0135
































 
           庫裡
CIMG0138



































 ムクロジの木

 無患樹あるいは無患子(ムクロジ)と書く。実は追い羽根(羽子板で
羽根つきをして遊ぶその羽根のこと)の先に取り付ける玉となる。
非常に堅(かた)く鬼にぶつければ鬼と厄も一緒に退散するという。
果汁は石鹸の代用になり、湧水の地に多い。

     境内の「無患子(ムクロジ)の木」
CIMG0141





































       境内の「無患子(ムクロジ)の木」
CIMG0142




































     境内の「無患子(ムクロジ)の実
CIMG0143




































           深大寺本殿
CIMG0145



















 宝冠阿弥陀如来像
 木造/漆箔/像高69.3㎝

 宝冠阿弥陀如来像(本堂本尊、鎌倉時代・市文化財)は、頭部に宝冠を
戴(いただ)くもので、天台密教で用いる金剛界曼荼羅に描かれている
特徴的なお姿で、大変
な貴重な像である。


    宝冠阿弥陀如来像(ほうかんあみだにょらいぞう)
CIMG0182



































 小生の名付け親は、島根県の江の川べりの山間に所在する、「阿弥陀
寺の住職さんだよ」と、生前母から聞いた覚えがあり、国を離れてから
もぜひ一度その阿弥陀寺を訪れてみたいと思いながら、実現しておりま
せんが、この度、調布市の深大寺本殿の本尊が阿弥陀如来であることを
知り、現場で、手を合わせ、「オンアミリタ・テイセイ・カラウンと唱
えました。この言葉は、梵語であり、阿弥陀如来の真言だと、書物で知
ったからです。本当にこのような形で阿弥陀如来さまに会えたことを大
きな歓びとしています。


    宝冠阿弥陀如来像(ほうかんあみだにょらいぞう)
CIMG0259


































 座像にして2メートルの元三大師像(大師堂本尊。秘仏)は、僧
形の古像では我が国最大の法量を誇る。建築物では元禄8年(1695)建
立の山門は古刹の表玄関に相応しく、衣裳的に優れた建築として知られ
ている。


           元三大師堂
CIMG0153



















 元三大師像(慈恵大師像)

 延暦寺18台の座主で天台宗の中興の祖である。正月3日に亡くなっ
たので「元三大師」という。疫病厄除け、悪魔調伏の力を持つと信
じら
れ、多くの彫像が作られている。深大寺像は、鎌倉末から南北朝の作と
いう。

 ※この像は、深大寺にあるものではありません。

           元三大師像(大師堂本尊。秘仏)
CIMG0267



































                      もんじゃの木
CIMG0147





































           元三大師堂
CIMG0154


















  

   




















       









































五日市鉄道からJR五日市線へ
 --2路線が廃線に-


 はじめに

 現在のJR五日市線は、浅野セメント(昭和22年5月から日本セメント
株式会社のばく大な資本によって建設されたといっても、過言ではありま
せん。浅野セメントは旧大久野村地内の勝峰山から採掘した石灰石あるい
は西多摩工場で生産されたセメント、これらを輸送するのに鉄道を必要と
しました。そのために、五日市鉄道が建設されたといってもよいのです。
 初め、五日市鉄道は石灰石・セメントなどの貨物輸送を「主」とし、旅
(乗)客輸送「従」としていました。しかし、戦後になると西多摩地域の青
梅・五日市周辺の開発が進んで宅地が広がっていき、人口流入となります。
遠方への通勤。通学者が増加して、五日市線を利用する乗客が増えていく
のです。すなわち、五日市線は乗(旅)客輸送を「主」としていくという過
程を述べていきたいと思います。

 (1)五日市鉄道の建設

 明治22年(1889)、新宿―立川―八王子間に甲武鉄道が開通します。
同28年(1895)になると、立川―青梅―日向和田間に青梅鉄道が全
通します。
青梅鉄道建設の主目的は、宮ノ平(日向和田)における石灰石の採掘とその
輸送にありました。大正11年(1922)5月になり、五日市鉄道株式会
社が設立されますが、その前年の10年(1921)7月に鉄道敷(建)設
の免許は、すでに下りていました。
 そのルートは北多摩郡拝島村から西多摩郡五日市町までと、および西多
摩郡増戸村から大久野くの村まででありました。
 認可された拝島―五日市間のルートには、初め南線と北線の二つの案が
ありました。そのうちの、人家集合の地を通る南線は曲線が多くなって距
離が長くなる、建設費が北線よりも多額を要するということから、ルート
は台地上を通る北線と決定しました。このルートは五日市へ向かって増戸
村まで東西がほぼ一直線であります。それというのも、当時の鉄道建設の
主な目的は貨物輸送にあり、曲折して集落を通るよりも、物産の主産地と
消費地(中継地)とを、できるだけ直線で結ぶことが優先されていました。
そのため、五日市鉄道も直線が考えられ、北線になったといってもよいで
しょう。
 大久野村地内勝峰石灰山に至る支線についても、最初は二つの案があり
ました。一つは増戸村坂下で分岐して勝峰石灰山に至るものであり、もう
一つは増戸村伊奈で分岐して平井川沿いに進むものでありました。伊奈か
ら分岐するルートについては、人家の間を通るため曲線が多くなって距離
が長くなり、建設費が多額となる。このような理由によって、伊奈からの
分岐は却下され、増戸村坂下で分岐することとなりました。
 鉄道の敷設にあたり、五日市鉄道株式会社は浅野セメントから多額の出
資を受けていますが、五日市鉄道の株式関係を昭和2年(1927)11月
にみていくことにします。

      大久野線分岐点跡(平成5年3月)
CIMG0347
















 それによりますと、五日市鉄道全体の4万株のうち、浅野セメントの浅
野家2名による1万6860株、これに浅野セメント取締役金子喜代太の
2000株、浅野セメント関係者と思われる舟塚芳次郎の2000株を加
えると合計で2万086株となり、浅野セメント側の者だけで52.2%
もの株を所有しています。いかに、浅野セメントの資本が投入されて、勝
峰山からの石灰石輸送と西多摩工場で生産されるであろうセメンんとの輸
送に、力を入れていたことがわかります。
 一法、西多摩郡の五日市鉄道役職者の株所有は取締役社長内山安兵衛の
1000株を筆頭に、取締役小机武550株、ほかのの取締役・監査役3
50株以下100株以上と零細でありました。
 株主は総勢266名で、うち西多摩郡在住者は213名で80.1%と
なり、ほとんどが西多摩住民でした。さらに、このうち150株未満の者
が197名で92.5%となり、五日市鉄道の株主は西多摩在住で小規模
な所有者たちばかりでありました。

 表1 五日市鉄道の車両  昭和2年11月

 機関車 6両連結タンク式6輪車                2両
  〃  6両連結タンク式12輪車            1両
 客車  3等4輪客車         定員40人         2両
  〃  手動制動機付3等4輪客車   定員40人          2両
  〃  3等客車・手荷物車合造4輪車 定員24人・積載高1トン2両
 貨車  有蓋貨車                       2両
  〃  有蓋貨物緩急車                    1両
  〃  無蓋貨車                       6両
  〃  無蓋貨物緩急車                   3両
  〃  無蓋貨物緩急車                2両 
  〃  材木車                        2両
  〃  材木車                       2両
  〃  材木車                        1両

 大正14年(1925)4月、五日市鉄道は拝島―武蔵五日市間
が開通し
ます。そして、増戸村坂下から勝峰石灰山に至る支線は、
5か月遅れの同
14年9月に武蔵五日市―武蔵岩井間が開通しま
す。


 表2
 五日市鉄道輸出貨物調査

 大久野            石灰石        432,000トン
         貨物計               461,400トン
 五日市            木材薪炭       114,600トン
         貨物計               130,122トン
 増戸             伊奈石材       218,000トン
         貨物計               291,700トン
 西秋留            砂利砕石         36,500トン  
         貨物計                 42,700トン
 東秋留            砂利          73,000トン
         貨物計                  74,800トン


 貨物合計                       1,000.755トン

 鉄道が開通して、昭和2年(1927)11月の時点で、五日市鉄道が所有する
車両についてみていくと表1のようになります。機関車が3両、客車は6両
でその全定員は合わせて208人、貨車は有蓋貨車3両・無蓋貨車11両・材
木車5両合わせて19両、総計で28両でありました。このように客車よりも
貨車が多く、貨物主体の鉄道であったことがわかります。
 五日市鉄道が開通する前の大正11年(1922)と思われる時期に、鉄道によ
って輸出入される貨物の調査が行われています。この調査によって、五日
市方面から輸送される予定の貨物を見ると表2のようになります。ここで
は各駅(停車場という表記もある)のトップとなる貨物と各駅の貨物計を掲
げました。
 大久野・五日市。増戸の貨物量が多いのですが、東秋留・西秋留の砂利
玉石、増戸の伊奈石、五日市の木材薪炭。しかし、なんといっても大久野
の石灰石が群を抜いています。やはり、石灰石中心とした貨物主体の鉄道
であったことがわかります。

     大久野線を走る蒸気機関車(昭和30年頃)
CIMG0344






























 (2)五日市鉄道の延伸

 武蔵岩井―拝島が開通する以前の大正11年(1922)11月、拝島―立川間の
敷設延長願いが出されており、そのときの延長理由をみることにします。
青梅鉄道は、すでにその輸送力が、ぼう満状態にあり、五日市鉄道によっ
て輸出入される貨物・乗客のほとんど全部が青梅鉄道を通過することにな
ると、その輸送は不可能になるといっています。そのため、拝島―立川間
に独自の延長線が必要であると主張するのです。
 この延長願いは、大正13年(1924) 2月に免許が下り、昭和5年(1930)7
月、五日市鉄道は拝島―立川間の延長を完了させ南部鉄道の立川停車場(
駅)に接続して営業を開始します。この路線は拝島から分岐し、青梅鉄道
の南側を走る独立線でありました。武蔵岩井―川崎間が直接に結ばれ、石
灰石が南部鉄道を通して浅野セメントの川崎工場へ運ばれるようになった
のです。青梅鉄道もまた、南部鉄道と接続したのです。
 五日市鉄道は石灰石を主体とした貨物を立川方面そして川崎方面へと輸
送しましたが、沿線住民への便宜をもはかっており、乗客輸送のために青
梅鉄道の南側に並行して迂回しながら走る鉄道を敷設したのであります。
そこで、貨物と乗(旅)客輸送の関係をみていくことにします。
 昭和7年(1932)の場合、貨物は金額にして16万3288円余り、旅客
は43万3746人で金額にして6万2616円余りとなり、貨物が旅客の2,
61倍の収入を得ています。12年(1937)の場合をみると、貨物・旅客ともに
数量を増し、貨物は21万2464円余り、旅客は51万2258人で金額にして
8万1033円余りの収入となります。
これを貨物と旅客の燈でみると貨物が旅客の2,62倍と収入を増加させて
おります。
 これをみても、五日市鉄道は乗客輸送のことを考慮してきているとはい
え、やはり貨物主体の鉄道であったことは明白であります。
 こうして、いつかいつ鉄道は展開して行くのでありますが、昭和12年
(1937)7月、日本は中国との間で、日中戦争となり、同16年(164
1)12月には太平洋戦争へと突入します。
 このようななか、五日市鉄道は昭和15年(1940)9月、輸送の円滑化をは
かるため、同じ資本系列である浅野セメント系の南部鉄道に買収・合併さ
れて、南部鉄道になります。そして、太平洋戦争の激化とともに、同系列
の青梅鉄道(昭和4年青梅電気鉄道)・南部鉄道は、石灰石・セメント輸送
の重要性から、同19年(1944)4月、国鉄に編入され南部鉄道の五日市鉄
道分は五日市線となります。
 このとき、五日市線の拝島―立川間は青梅線と閉口して走り青
梅線が複線化進行中のため不要な路線ということになり、19年
10月に廃線となりました。

 (3)JR五日市線へ


 国鉄五日市線は昭和46年(1971)2月、大久野線(支線)の武蔵岩井
駅が廃止となり大久野駅は旅(乗)客営業が廃止となり、大久野駅は旅(乗)
客営業が廃止され
貨物営業のみとなりました。大久野線には乗客輸送
の役割がなくなり、その輸送はバス輸送に委ねられていくといえます。
これには自家用車の普及も考えてよいでしょう。
 さらに昭和57年(1982)11月、大久野駅の貨物営業も廃止されて
廃線となります。これは日本セメント(昭和22年4月まで浅野セメント)
西多摩工場の製品輸送がトラック輸送に転換していくからであります。

    西多摩工場と勝峰山 解体が始まった平成5年
CIMG0341

















 それでは、大久野駅の貨物発着量をみていきますと、発送数量は昭和3
1年(1956)が24万トン余りでありましたが、55年(1980)は1
万トン余りと激減しています。貨物の到着数も、31年が23万5000ト
ン余りで、55年は1万6000トン余りに減少していきます。こうして
、大久野線および五日市線は貨物輸送の役割を失っていったといえます。
 さて、昭和40年代も後半になると、北多摩地域の開発はほぼ一段落し
、50年代にかけて、南多摩地域の町田・八王子と西多摩地域の青梅・五
日市周辺の開発が急速に進み、宅地が広がっていきます。
 青梅・五日市方面は人口流入となり、都心へ向けての通勤、通学者が増
加していきます。そこで、五日市線周辺住民が利用すると考えられる各駅
の乗車人員をみていきたいと思います。これが表3であります。
乗車人員は確実に増加してきているといえます。昭和30年(195
5)を55年(1980)と比べた場合、武蔵五日市駅が約
2.5倍、武蔵
増戸駅が約3.8倍、武蔵引田(旧病院前)駅が約2.3倍、西秋留(現秋川)駅
が5.9倍、東秋留が約5.7倍と増えてくるのでありました。乗客輸送に変
わったといってよいのです。

 表3五日市線乗車人員(旅客)数 〔単位:千人〕

 年代〔昭和) 武蔵五日市 武蔵五日市 武蔵引田 西秋留 東秋留
 30年(1955)  685    218    244   187   297
 35年(1960) 1.051    321    314   252   383
 45年(1970) 1.630    544    387   686   969
 55年(1980) 1.707    837    556   1.107  1.696 

 さらに、昭和60年(1985)から63年(1988)の武蔵五日市駅と武蔵増
戸駅の乗車人員をみていくと、表4のようになります。人員は、やはり増
加しています。これを表3の55年(1980)と俵4の63年(1988)とで比
べてみると、武蔵五日市駅が1.1倍、武蔵増戸駅が約1.4倍と増加はおさま
っていません。

 表4 五日市駅・増戸駅乗車人員数

             武蔵五日市      武蔵増戸
 昭和60年(1985)               1.761千人      1.041千人
 昭和61年(1986)             1.817千人      1.077千人
 昭和62年(1987)            1.821千人        1.077千人
 昭和63年(1988)           1.868千人           1.156千人

 このように、五日市線は乗車人員を増加させてはいましたが、国鉄は全
体をとおしてみた場合、経営合理化を迫られておりました。昭和62年(19
87)4月、日本国有鉄道の分割・民営化があって、五日市線はJR東日本
五日市線となって現在に至っています。

 おわりに

 以上のように五日市鉄道がJR五日市線(拝島―武蔵五日市間)になって
いくという経過を述べてきましたが、今後の西多摩はどのように変貌し、
それに伴いJR五日市線はどのような変容を示していくものでありましょ
うか。



















 今日は午前中陽ざしがいっぱいあり、快適な天候でしたが、午後から急
に雲ゆきが不安定となり、時々太陽の陽ざしがかげり、急に暗くなったり
していました。そのため予想より気温があがらず、比較的しのぎよい一日
でしたが、蒸し暑いのがかないません。
 午後、府中市役所に行き用事を済ませますと、ついでに最近の府中新庁
舎建設工事の状況について知りたく、資料を入手して見ました。
 それによりますと、基本設計が、完了しましたと、大きく見出しにあり
ますので、これから実施設計をし、それから建設工事計画書を作成後、い
よいよ着工の運びになりそうです。この期間だけでも1年間はかかると予
想できます(個人の見解)ので、着工から6.7年はかかるのではと、思っ
ています。
 出来るだけ早く着工しなければ、あらゆる面でコストアップとなります
から、もう少し速やかに推し進めていただきたいものです。

      府中街道側より見たパース
CIMG0199

















その後、市庁舎の玄関の方へ出ますとブロンズの像がありますので、撮影を
しました(府中街道側)。

     府中市役所前に設置されている二人の女性像
CIMG0177




































    府中市役所前に設置されている二人の女性像  
CIMG0178



















 なぜかといいますと、新庁舎の建設工事が、着手しますと、この場所は
大幅に変わってしまうと思ったからです。
 そのうちに絵も描いておこうとも考えています。

 ここ市庁舎前から歩いて5分くらいの所(府中本町の脇)へ、行って
みることにしました。この場所は6,7年前から、遺跡の発掘調査を行っ
ていたところです。本日、車でそばを通ってみますと、どうやら発掘調査
跡に柱が無数に立っていましたので、気になってここへきてみますと、「
国史跡武蔵国府跡(国司舘地区)史跡広場」でした。

 ここは、今から1,300年ほど前に武蔵国府の国館があったとこ
ろです。
さらに、今から430年ほど前に、徳川家康の府中御殿も置かれ
た府中市の歴史を象徴する国の史跡です。保存・整備に当たって
は、発掘調査の成果をもとに、国史跡の指定を受けている国
跡を中心に整備を行いました。
 園内は、国衙(こくが)地区連携ゾーンと古代の空間再現ゾー
ンに分かれています。古代の空間再現ゾーンには、古代の武蔵国
府に都から赴任してきた国司の宿泊兼執務室である国司舘の建物
を2,4mの柱によって復元しています。また、古代万葉集に登場
する草木を植えた「国司の庭」もあります。

 国衙(こくが)地区連携ゾーンから空芝生広場は、多目的に使
用できる広場で、現代から古代の空間を望むスペースとなってい
ます。
 なお、国司舘の復元模型と、徳川家康府中御殿を含めたCG復
元は、平成30年11月竣工予定となっておりますので、先行的
に史跡広場を開園しました。現在はまだ模型とCG復元はありま
せんが、園内は自由に散策できます。御自由にご覧ください。
 と、案内されていました。


         国史跡 国府跡
CIMG0179




















         国史跡 国府跡
CIMG0180




















         国史跡 国府跡
CIMG0182




















         国史跡 国府跡
CIMG0195



















 芝の上で、くつろぐ風景

        国史跡 国府跡
CIMG0194



















  
      国史跡 国府跡の案内掲示板
CIMG0193



















 古代武蔵国府の国司館(こくしのたち)

 ここには、都から武蔵国の国府に赴任してきた国司の執務室兼居宅が置
かれました。現代でいえば、東京都知事の公館にあたります。発掘調査の
成果により、国司舘は、7世紀後半から8世紀前半に造営されたと考えら
れています。
 下の地図で国庁と国衙の文字を青色で囲っている所は、大國魂神社の北
側(交番のある側)に史跡として既に所在し、公開されています。このブロ
グへも過去に記事として掲載いたしました。
 一方、国史跡武蔵国府跡国司舘(こくしのたち)地区と記入された位置
が、今回新しく発掘調査が終了した跡地に、史跡広場を造り、ここで、皆
さまに昔の歴史をしのんでいただき、また憩いの場所としても楽しめる広
場に生まれ変わりました。

       国府域の発掘調査成果
CIMG0183





























 発掘された国司館

 国司館跡は、造営当初、東西棟の建物が2棟建てられました。その後の
奈良時代前半には、東西棟の四面廂(しめんひさし)建物の主屋(しゅお
く)《正殿(せいでん)、桁行(けたゆき)5間×梁行(はるゆき)4間》
と南北等棟の副屋(ふくおく)《脇殿(わきでん)、桁行8間×梁行3間》
が真南北、真東西で建てられていることから、秩序ある配置をもって造営
されていることがわかりました。
 ここは、国史跡武蔵国府跡(国衙地区)の南西側に位置し、酷が中枢地区
との密接な関連がうかがえます。ここから初期の国司館と考えられる建物
群が発掘されたことは、武蔵国府成立期の状況や日本の古代地方行政組織
の成り立ちを解明する上で、とても重要な意味があります。

         発掘された国司館 
CIMG0184
























 発掘された徳川家康府中御殿跡

 古代国司館跡の西側からは、発掘調査によって、掘立柱建物跡、柵跡、
厩(うまや)と推定される建物跡、大型石組井戸跡などが発見されました。
さらに井戸跡から、江戸時代前期(17世紀前半)のものと考えられる三葉
葵紋鬼瓦(みつばあおいもんおにがわら)が出土したことなどから、この
場所に徳川家康が滞在した府中御殿があったことを特定できました。

       発掘された徳川家康府中御殿跡  
CIMG0185














 3,4年前に新しく西側の位置にも出来た大國魂神社の鳥居

CIMG0197




































 塀越しの向こうに大國魂神社本殿の屋根の一部分が見えます。
     
CIMG0198





























 NHKの番組で、歴史上の人物を捉え、知識人が議論を展開する番組で
対馬府中藩初代藩主「宗 義智」について一部分だけですが、視聴した結
果、「生きるための知恵」というものに感銘しましたので、もう少し詳し
く対馬藩につて知りたく思い、資料(ウィキペディア)を読んでみました。

  宗 義智(そう よしとし)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけ
ての大名。対馬領主宗氏の20代当主。津島府中藩初代藩主

       宗 義智(そう よしとし)
CIMG0044




































 生涯

 家督相続

 永禄11年(1568年)、宗家15代当主・宗翔盛(まさもり)の四男
(異説として五男)として生まれる。長兄に宗茂尚(しげひさ)がいたため、
宗家第17代当主・宗義調が隠居したときには茂尚が家督を継いで当主と
なったが茂尚が早世し、さらにその後を継いだ次兄・宗義純(よしずみ)
も早世したため、天正7年(1579年)1月、義調の養子となって家督を
継ぎ、宗家の当主となった(天正8年(1580年)相続説もある)。

 天正15年(1587年)5月、
隠居していた岐阜・義調が当主として復
帰したため、義智は家督を義調に返上することとなった。これは同年に豊
臣秀吉による九州征伐が始まったためであり、義智義調と共に秀吉に従
ったため対馬国一国を安堵された。

 このころ、秀吉から李氏朝鮮を服属させるようにとの命令を受け、義調
や小西行長、島井宗室らとともに交渉に尽力する。天正16年(1588
年)に義調が死去するなどの悪条件もあって、交渉は思うように進まなかっ
た。

 天正18年(1590年)朝鮮から来日した使節を服属使として秀吉に
謁見(えっけん)させた。秀吉はこれを朝鮮が服従したものと受け止め、
朝鮮には民の征服事業の先導が命じられることになる。だが、この朝鮮使
節は義智が本来受けていた命令とは違い、秀吉による全国統一に対する祝
賀使節を送るようにと偽りの要請をして実現した使節であった。朝鮮は建
国以来、明の冊封国であり、秀吉の明征服事業の先導を了承する可能性は
なかった。窮した義智は朝鮮に伝えるべき明征服の先導命令を、明への道
を貸すようにと偽り要請した(假途入明)。しかし、これも実現しなかった。
 
 文禄・慶長の役と関ヶ原


 朝鮮との交渉は結果的に失敗し、天正20年(1592年)からの文禄の
役では舅・小西行長の一番隊に属して日本軍の才先鋒として戦った。
 一番隊の編成

 ・ 小西行長 7,000人
 ・ 宗義智  5,000人
 ・ 松浦鎮信 3,000人
 ・ 有馬晴信 2,000人
 ・ 大村喜前 1,000人
 ・ 五島純玄   700人

 総計    18,700人

 義智は5,000人の軍勢を率い天正20年(1592年)4月12日
に対馬北端の大浦を出港し釜山に。上陸する。
翌13日に総攻撃をかけて攻略したのを皮切りに、4月14日に東菜、4
月15日に機張、左水営、4月16日に梁山、4月17日に密陽、その後
に大邸、仁同、善山を次々と攻略し、4月26日に慶尚道巡辺使李鎰(り
いつ)を尚州で撃破。4月27日に慶尚道を越え忠清道へ進軍、弾琴台の
戦いで迎撃に出た申リツ率いる朝鮮軍を壊滅させ忠州を攻略。京畿道に進
み5月1日に麗州攻略後、5月2日に竜津を経て漢城東大門前に到達。翌
5月3日には首都漢城に入場する。

 諸将と漢城会議を行った結果、5月11日に義智はさらに北に向かって
進撃し、5月18日に臨津江の戦いで金命元らの朝鮮軍を撃破。5月27
日に開城攻略、黄海道の瑞興、鳳山、黄州、中和を次々と攻略。平安道に
進退し、平壤城を朝鮮軍が放棄すると6月16日にはこれを接収した。こ
こで進撃を停止する。

 7月16日、明の遼東副総兵・祖承訓が平壌を攻撃してきたが撃退。こ
のとき義智は小西行長とともに敗走する明軍を追撃し、明将史儒・千総張
国忠・馬世隆などを討ち取った。7月29日、李元翼率いる朝鮮軍が平壌
攻め寄せてきたがこれも撃退する。

 文禄2年(1593年)1月7日、明は李如松を提督として約4万人の明
軍に1万人の朝鮮軍を加え平壤攻め寄せた。明軍が平壤城の城門を突破す
ると日本軍は北部丘陵地域の陣地に退避する。ここで李如松は「退路を与
えるから城を明け渡せ」と伝えてきた。日本軍は受け入れ南に向かって撤
退を開始するが背後から追撃を受け厳しい退避行となった。漢城を目指し
て進撃する明軍に対し、日本軍は諸方面の各軍を漢城に結集した後、出撃
し、これを大いに破った。これが碧蹄館の戦いである。明軍ではこの敗戦
の結果講和の機運が起こり、日本軍も兵糧が不足したため、講和交渉の開
始を約し釜山周辺城まで撤退した。

 義智は行長と共に明側の講和担当者・陳惟敬らと和平交渉に奔走したが、
双方の求める和平条件は合意に至る筈も無いかけ離れたものであったため、
国書の内容を双方に都合の良い条件に改竄(かいざん)するなどして和平
成立を目指したが、こうした欺瞞(ぎまん)行為をともなう交渉は実るこ
となく、各国に混乱を与え交渉は決裂。慶長の役を防ぐには至らなかった。
 
 慶長2年(1597年)2月、秀吉は朝鮮再出兵の号令を発した。日本軍
の作戦目標は全羅道を悉(ことごと)く成敗し、忠清道・京畿道その他も
なるべく侵攻することで、目標の達成後は城郭を建設し、在番の諸将を定
め、その他の軍は帰国させる計画であった。当初義智は左軍に属し再び文
禄の役と同じメンバーで行動した。
義智ら日本軍は全羅道に向かって進撃を開始し、慶長2年(159
7年)8月13日南原攻略戦を開始。4日目に攻略を果たした(南原
城の戦い)。次に全羅道の首都全州に向かい占領。全羅道を制圧し
た。さらに日本軍は忠清道を制圧し、京畿道まで侵攻し作戦目標を
達成すると、当初の予定通り文禄の役の際に築かれた城郭群域の外
縁部に城郭を建設するため撤収した。
以後、義智は在番の将として南海倭城に在城していたが、慶長3年(15
98年)8月18日秀吉が死去すると、朝鮮に派遣されていた日本軍に10
月15日付で帰国命令が発せられた。義智は小西行長と昌善島で集合し、
共に帰国する手筈であったが、このとき順天倭城に在番していた小西行長、
松浦鎮信、有馬晴信、大村喜前、後藤玄雅は明・朝鮮水軍に撤退を妨害さ
れ順天から動くことができなかった。これを見た宗義智は、島津義弘、立
花宗茂、高橋統増、寺沢広高らとも
に水軍を編成し順天に救援に向かう。
このとき露梁海峡で待ち伏せていた明・朝鮮水軍と交戦した(露梁海戦)。
小西行長らは、この戦いの間隙をぬって脱出に成功。義智は小西行長らと
ともに釜山を経て帰国を果たし、前後7年に及ぶ朝鮮出兵は終結した。

秀吉没後の慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いで西軍に与して伏見城攻
撃に参加し、大津城攻めや関ケ原本戦で家臣を代理として参加させた。し
かし戦後、悪化した朝鮮との国交修復を迅速に進めることを望んでいた徳
川家康から罪には問われず所領を安堵され、対馬府中藩の初代藩主となっ
た。この時、正室の小西マリアを離縁している。

 江戸時代

 文禄・慶長の役のために悪化した朝鮮との寒けを修復するように徳川家
康から命じられた義智は、慶長14年(1609年)に朝鮮との和平条約を
成立させた(巳酉約条または慶長条約)。この功績を家康から賞され、宗氏
は幕府から独立した機関で朝鮮と貿易を行うことを許されている。

 慶長20年1月3日(1615年1月31日)に死去した。享年48。跡
を長男・義成が継いだ。

 宗 義成(そう よしなり)

 宗 義成(そう よしなり)は、対馬府中藩の第2代藩主

 生涯

 慶長9年1月15日(1604年2月14日)、初代藩主。宋
智(そうよしとし)
の長男として生まれる。慶長20年(1615
年)に父が死去す
ると、上京して大御所の徳川家康、第2代将軍の
徳川秀忠と謁見(えっけ
ん)したうえで家督相続を許され、第2
代藩主となった。同年4月から始
まった大坂夏の陣にも徳川方と
して参戦し、丹波方面の守備を担当した。


 元和3年(1617年)3月、従四位下に叙位される。その後は
検地や菩
提寺である万松院の創建、朝鮮通信使の待遇簡素化によ
る財政節減、銀山
開発などを積極的に行って藩政の基礎固めに専
念した。

ところが寛永12年(1635年)、父が李氏朝鮮と巳酉条約を結
んだとき
に国書を偽造していたことなどが幕府に露見し、宗氏は
改易の危機に立た
された。しかし第3代将軍・徳川家光は朝鮮と
のパイプ役として宗氏を使
うことが得策と考え、家光の直裁によ
り家老の柳川調興らが処罰されるに
とどまり、宗氏は改易を免(
まぬが)れたのである(柳川一件)


 明暦3年10月26日(1657年12月1日)に江戸で死去。享
年54.
跡を長男・義真が継いだ。

             宗 義成(そう よしなり)
CIMG0045































このページのトップヘ