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カテゴリ: お祈り

 鎮西の聖光房弁長(また弁阿)は筑前の国加月庄の人であったが、十
四の時天台を学びその後叡山に登り、一宗の奥義を極めたが、建久八年法
然六十五、弁阿三十六の時吉水の禅室にまいり、法然の教えを聞いたが、
その時心の中で思うよう、

「法然上人の智弁探しと雖(いえど)も、自分の解釈する処以上に出でる
筈がない」と。

そこでまず試みに浄土宗の要領を叩(ぬかず)いて見ると、法然が答えて、

 「お前は天台の学者であるから、まず三重の念仏を分別して聞かせよ
う」

 
と数刻に亙(わた)って細々と念仏の要旨を説き聞かせたので聖光房の
高慢の心が直ちに止み、長く法然を師として暫く座下を去らずに教えを受
けた。

 建久九年の春には法然から撰択集を授けられ、

 「汝は法器である。これを伝持するに堪えている。早くこの書を写して
末代にひろむべし」

 と云われたそうである。

 同年八月に法然の命を受けて、伊予に下り帰洛し一宗の奥を極め元久元年
八月上旬に吉水の禅室を辞して、鎮西の故郷に帰り、浄土宗を隆(さか)
んにした。

 安貞二年の冬肥後の国往生院で四十八日の念仏を修したときに、後の人
の意義を戒めんがために、一巻の書を著した。
「末代念仏授手印(まつだいねんぶつじゅしゅいん)」といいよく法然相
伝の義を伝えた。

 築後の国高良山の麓に厨(くりや)寺という寺があった。
聖光房がそこで一千日の如法念仏を修した処、八百日に及んだ頃、高良山
の大衆が、「この山は真言の宗旨だ。この山の麓で専修念仏はけしからん、
念仏の輩を追い出せ」という評議が決まったが、聖光房は心を決めて待ち
構えていると、その翌日思いの外一山の大衆がいろいろの供物を捧げてや
ってきたというような話もある。
 築後の国山本郷という処に善導寺という寺を建てたが後には改めて光明
寺と名づけ一生ここで念仏伝道した。
 この人は毎日六巻の阿弥陀経、六時の礼讃(らいさん)をたがえず、ま
た六万遍の称名怠ることなく、初夜のつとめを終って一時ばかりまどろん
だ後起き出でて夜明くるまで高声念仏が絶えることがなかった。

常に云うには、

 「人がよく閑居の処を高野とか粉河(こかわ)とか云うけれども、わし
は暁のねざめの床程のことは無いと思う」

 又安心起行(あんじんきぎょう)の要は念死念仏にありといって、「い
ずるいき。いるいきをまたず。いるいき。いずるいきをまたず。たすけた
まえ。阿弥陀ほとけ。南無阿弥陀仏」

と常に云っていた。

 嘉禎四年二月二十九日様々の奇瑞のもとに七十七で大往生を遂げた。
意のことが数々あるけれども記さず。

                           大本山善導寺 山門   久留米市
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              本   堂
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             釈迦堂
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             境内の大楠
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 勢観房源智は、
 「先師法然上人の念仏の義道をたがえず申す人は鎮西の聖光房である」と
いわれた。
そこで勢観房の門流は皆鎮西に帰して別流を樹てなかったということであ
る。

 そのほか安居院(あぐい)の聖覚法印、二尊院の正位房なども自分の宗
義の証明には聖光房をひき合いに出したそうである。
聖光房の門流を「筑紫義」という。


 西山の善恵房澄空は入道加賀権守親季(ちかすえ)朝臣の子であったが、
十四歳から三十六歳まで、二十三年間の間法然について親しく教えを受け
た。
 この人は弁論の巧者の処がった。
自力根性の人に向かって、白木の念仏ということをよく云って、自力の人
は念仏をいろいろに色どっていけない。
色どりのない念仏往生のことを知らない。
というようなことを説いた。

 津戸三郎は上人が亡くなってからは、不審のことはこの善恵房に尋ねた。
関東にはその教化消息そが伝わっている。
 この聖は非常に恭敬な修行者で、何か不浄のある時などは四十八度も手
を洗ったことがある。
毎月十五日には必ず忘れないで阿弥陀経を読み、念仏をしてねんごろに回
向した。
 西山の善夆寺から、信州善光寺に至るまで十一ヵ所の大伽藍を建てて、
或は曼荼羅を安置し、或は不断念仏をはじめて置く。
これにみんな供料、供米、修理の足をつけて置いた。
これとても全く勧進奉加(かんじんほうが)をしないで諸人の供養物をな
げうってこう云うことをしたのである。
 宝治元年11月26日年七十一でこれも様々の奇瑞のもとに大往生をと
げた。


 法性寺の空阿弥陀仏は何処の人であったかわからないが、延暦寺に住ん
でいた坊さんであったが。

              延暦寺根本中堂
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叡山を辞して都に出でて法然に会って一向専修の行者となって経も読まず
礼讃も行わず、称名のほかには他の勤めなく在所も定めず、別に寢所とい
うてもなく、沐浴便利の外には衣裳を脱(と)かず、それでも徳があらわ
れて人に尊まれた。
ふだん四十八人の声のよいものを揃えて七日の念仏を勤行(ごんぎょう)
し、諸々(もろもろ)の道場至らざる処なく、極楽の七重宝樹(しちじゅ
うほうじゅ)の風の響、八功徳池の波の音をおもって風鈴を愛し、それを
包み持ってど
こへでも行く度毎にそれをかけた、また常に、

 如来尊号甚文明(にょらいそんごうじんぶんみょう)。十方世界普流行
(じつぼうせかいふるぎょう)。但有称名皆得往(たんうしょうみょうか
いとくおう)。
観音勢至自来迎(かんのんせいしじらいごう)。

 の文を誦して、「ああ南無極楽世界」といって涙を落したという。
 念仏の間に文讃をいろいろ誦することの源はこの人からはじまった。


 四天王寺の西門内外の念仏はこの聖が奏聞を経てはじめておいたもので
ある。

 法然が云うには、

 「源空八徳を以って人を教化せんとするがなお不足である。法性寺の
空阿弥陀仏は愚痴であるけれども、念仏の大先達として普(あまね)く
化道が広い。わしがもし人身を受けたならば大愚痴の身となって、念仏
勤行の人となりたい。」

 といわれた。

 空阿弥陀仏は法然を仏の如く崇敬していて右京権大夫隆信の子左京大
夫信実朝臣に法然の真影を描かせ一期の間本尊と仰いでいた。
知恩院に残っている絵像の真影がそれである。

 往生院の念仏房(又念阿弥陀仏)は叡山の僧侶で天台の学者であっあが、
これも法然の教えを聞いて隠遁して念仏を事としていたが、法然滅後念仏
に疑いが起こってもだえていたが、ある夜の夢に法然を見て往生の安心が
出来たという。
承久三年嵯峨の清凉寺が焼けたのをこの聖が造営した。
その西隣の往生院もこの聖が建てたものである。
建長三年十一月三日年九十五で大往生をとげた。

 
 真観房感西(進士入道)は十九の時はじめて法然門室に入り、多念教化
を受けていたが、撰択集を著わす時もこの人を執筆とした。
又法然が外記大夫という人より頼まれて導師となった時も一日を譲ってこ
の真観房に勤めさせたようなこともあったが、惜しいかな正治二年閏二月
六日生年四十八で法然に先立だって死んでしまった。
法然はおれを捨てていくのかといって涙を落としたということである。

 石垣の金光房は浄土の奥に至っているということを法然から賞(ほ)め
られていた人であるが、嘉禄三年に法然の門弟と国々へ流された時陸奥の
国へ下ったが遂にそこで亡くなられたから、その行状が広く世に知られて
いない。


 大体以上の如く主なる法然の門下或は宿縁のある人の行状を記し了った。
この外法本房行空、成覚房幸西は共に一念義をたてて法然の命に背いたに
より破門されてしまった。

覚明房長西は法然が亡くなってから出雲路の住信房にとどこおり、諸行皆
本願であるというような意見になって撰択集に背いてしまった。
この三人とてもなかなか立派な処のある人ではあるけれども、法然の遺志
を慮(おもんばか)って門弟の列に載せないことにした。
見る人それをあやしまれないように。












 白河の法蓮房信空(称弁)は中納言顕時の孫、叡山へ送られて、黒谷の
叡空上人に就いていたが、叡空が亡くなってから、源空上人に就いた。
内外は博通、智行兼備、念仏宗の先達、傍若無人と云われた人である。
享年八十三。安貞二年九月九日、九条の袈裟を掛け、頭北面西にして法然
の遺骨を胸に置き、名号を唱え、ねむるが如く往生を遂げた。

 西仙房信寂も、元叡空の」弟子であったが、後には法然を師として一向
専修の行者となったが、同朋同行の多い処では、煩いが多いから、誰も知
らない処へ行って静かに念仏をしようと思って、諸方を尋ね歩き、河内讃
良という処の尾入道という長者の土地へ住むことに定めそれから又京都に
登ってきて所持のお経などを人に頒(わか)ち与えてしまい、ただ水瓶ば
かり持って法然の処へ来て隠居することを物語り、
「この世でお目にかかるのは只今ばかり、再会は極楽で致し度うございま
す」
 といって出て行った。
法然はその心任せにして、時々あれはどうして暮しているかなどという噂
をしたが、三年たつとこの僧がひょっこりやって来た。
法然が驚いて、
 「どうしたのだ」
 と尋ねると、西仙房が云うことには、

 「そのことでございます。あちらに隠居しまして、はじめの年位は心乱
ることがなく行い済ませましたが、この春あたりから、つれづれの心が出
て来て、煩(うるさ)いと思っていた同朋同行や、親しかった間の者など
が恋しくなり、余り徒然にたえぬまま、あの時持っていたお経でも開いて
みたならばこの心をなぐさめるよしもあったろうと人に頒(わか)ち取ら
せたことさえ後悔せられて、果ては時々くる小童などにそぞろごとを云い
かけて心をなぐさめていたが、愈々徒然の心旺(さか)んになって、故郷
を思う心ばかり多く極楽を願う心は少なくなってしまいました。
これでは全く予期する処とちがった無益の住居と思って折角好意を持って
くれた地主にも辞(ことわ)りもわず逃げ上がってきました」

 法然はその率直な言葉を喜んで、

 「道心のないものにはこの心は無いことだ」

 といって、賞(ほ)めた。

 それから西仙房は姉小路、白河祓殿辻子という処に妹の尼さんが住んで
いた。
庵の後ろに廂(ひさし)をかけて自分の身一つが納まるだけに藁でもって
囲いをして、そのうちに籠って紙の衣を着て、食事便利の外には一向に念
仏をしていた。
小さな土器(かわらけ)を六つ並べて香をもり、火を消さず、とり移しと
り移して、念仏して、人にも会わなければ全く別世界を劃していたが、元
久元年の冬臨終正念にして端座合掌、高声念仏して息絶えた。
その室内が三年程香ばしかったという。
着ていた処の紙の衣によき匂いがあるので、訪ねて来た者が皆それを分け
て貰って行った。
最期の時には貴賤男女が沢山集まって結縁したが、大番の武士、千葉六郎
大夫胤頼(たねより)それを見て忽ちに発心出家した。
上人給仕の弟子法阿弥陀仏である。

 嵯峨正信房湛空(さがのしょうしんぼうたんぐう)は、徳大寺の左大臣
(実能)の孫であったが、これも聖堂門を捨てて法然の弟子となり、一筋
に浄土門へ行った。
法然が流された時も、配所まで伴(とも)をして行ったがその時船の中へ
法然の像を張って置いた。
それが「船のうちのはり御影」といって、後嵯峨の塔に残っていた。
生年七十八。
建長五年七月二十七日よき往生を遂げた。

 播磨の国朝日山の信寂房はやはり法然のお弟子であったが、明恵上人の
墔邪輪を破る文を作り著わしたが、義理明晰を持って聞こえている。

 醍醐乗願房宗源(号竹谷)は多年法然に仕えて法義を受けていたが、深
く隠遁を好み道念をかくして、医者であるといって名のり又音律のことな
どを人に語ったりしていた。
けれどもその徳隠れなく、或る貴女がこの僧に深く帰依していたが、その
貴女より、沈(じん)の念珠を贈られた。
宗源もこれを愛して、この念珠で日夜念仏していたが誰もこのことを知ら
なかった。
ところがある修行者が雲居寺に通夜をしてまどろんでいると堂の前へ、無
数の山伏が集まって何か騒いでいる。
それを聞くと山伏の一人が「あの醍醐の乗願房の救われるのをさまたげて
やろうではないか」という夢を見たので、乗願房の庵室へ訪ねて来て、そ
れとなく尋ねてみると、なる程その珠数を持っている。
修行者は乗願房から謂(い)われを聞くと走り寄って乗願房の持っていた
念珠を奪い取って火の中に投げ込んでしまった。
乗願房が驚いて尋ねると、修行者が初めて夢のことを委しく語ったので、
乗願房は却って修行者のなしたことを喜んだという話がある。
醍醐の菩提寺の奥、儒樹下の谷という処に長く隠居をしていたが、後清水
の竹谷という処に移り建長三年七月三日生年八十四で往生を遂げた。

 長楽寺の律師隆寛は粟田関白五代の後胤少納言資隆の三男であったが、
慈鎮和尚の門弟であり、後浄土に帰して法然の弟子になった。
毎日阿弥陀経四十八巻を読み、念仏三万五千遍を唱えていたが、のちには
六万遍になった。
或時、阿弥陀経転読のことを法然に尋ねた処、

 「源空も毎日阿弥陀経三巻を読みました。一巻は呉音、一巻は唐音、一
巻は訓でありました。けれども今は一向称名の外のことはいたしません」


 といわれたので四十八巻の読誦を止めて毎日八万四千遍の称名を勤めら
れた。

 建久三年の頃叡山の根本中堂の安居(あんご)の結願に誰を導師にとい
う沙汰のあった時に隆寛がその器量であるという評判であるところが、一
方には、「あれは法然の弟子となって、専修念仏を行とする上は、我が山
の導師とするは不都合である」と非難するものがあったが、何分外にその
人がないというわけで異論をなだめて招請されたが、壇に上がって大師草
創のはじめより、末代繁昌の今に至る迄珠玉を吐くような弁舌に衆徒が感
嘆随喜して、その時はまだ凡僧であったけれども、東西の坂を輿に乗って
上下することを許された。

 法然が小松殿の御堂にあった時、元久元年三月十四日律師が訪ねて行っ
た。
法然は後戸(しりど)に出迎えて、懐から一巻の書を取り出して、

 「これは月輪殿の仰せによって選び進ぜた処の撰択集である。善導和尚
が浄土宗をたてた肝腎が書き記してある。
早く書き写して見なさるがよい。若し不審があらば尋ねおきなさるがよい。
但し源空が生きている間は秘密にして置いて他見せしめないように、死後
の流行は已むを得ないことだが」

 といわれたので、急いで尊性、昇蓮等に助筆をさせて、それを筆写し、
原本は返上されたことがある。

 並榎の堅者(じゅしゃ)定照が訴えにはじまって法然の門徒が諸国へ流
されるうちに、この律師は最も重いものとして見られていて、自分も覚悟
していたが、果たして配所は奥州ということであって、森(もりの)入道
西阿というものが承って配所へ送ることになり、家禄三年七月五日都を進
発したが、森入道は深く律師に帰依していたので、そっと門弟の実成房と
いうものを身代りに配所へやって、律師は西阿が住所相模の国飯山へ連れ
て行き、そこで大いに尊敬して仕えていた。
同年の冬、病にかかった時筆を執って身の上のことを書き起したが、それ
を羇中吟(きちゅうぎん)という。
間もなく春秋八十歳で念仏往生を遂げた。

 この律師が鎌倉を立って飯山へ下ったっ時に武州刺史朝直(ともなお)
朝臣、その時二十二歳、相模四郎といったが、律師の輿の前で対面して仏
道のことを尋ねている。
刺史朝直(ともなお)朝臣はその教えを聴いて事実の信念を起し、毎日六
万遍念仏を誓ったという。
この律師、道心純熟し、練行積って三昧発得(さんまいはつとく)の境に
達した。
この律師の教風を「多年義」とも、「長楽寺義」とも云う。

 遊蓮房円照は入道少納言通憲の子、二十一歳にして発心出家、はじめは
法華経をそらに覚えて読誦していたが、後には法然の弟子となって、一向
に念仏する。
法然も、

 「浄土の法門と遊蓮房に会ったことは、人界に生を受けた思い出ある」

 といわれたそうであるからなかなか堅固な行者であったろうと思う。

 勢観房源智は備中守師盛(のりもり)の子、小松内府重盛(平清盛の嫡
男)の孫であって、平家が滅びた後、世を憚って母御がこれを隠していた
が、建久六年十三歳の時、法然の処へ進上した。

                        紫宸殿前での、平重盛と源義平の戦い
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法然はこれをまた慈鎮和尚に進上せられ、そこで出家をとげたが幾許もな
く又法然の処へ帰って十八年間を通じて常に給仕をしていた。
そこで法然もあわれみが殊に深く浄土の法門を教え、円頓戒を附属した。
そこで道具、本尊、房舎、聖教、皆相続されることになった。
法然の最期の時が近づいた際に勢観房は、

 「年頃にお教えにあずかって居りますが、なお肝腎のところを御直筆で
一つ残して置いていただきとうございます」と願った。
そこで法然が筆をとって書いたのが上人の「一枚消息」、所謂(いわゆる
)一枚起請である。

 もろこし我朝。もろもろの智者たちのさたし申さるる。観念の念にもあ
 らず。又学問して念仏の念をさとりなどして申す念仏にもあらず。ただ
 往生極楽のためには。南無阿弥陀仏と申してうたがいなく。往生するぞ
 とおもいとりて申すほかには。別の子細そうらわず。ただし三心四修(
 さんじんししゅう)など申すことの候は。決定(けつじょう)して南無
 阿弥陀仏に往生するぞと。おもううちにこもり候なり。このほかにおく
 ふかきことを存せば二尊のあわれみにはずれ。本願にもれ候べし。念仏
 を信ぜん人は。たとい一代の法をよくよく学せりとも。一文不知の愚鈍
 の身になして。尼入道の無智のともがらに同(おなじ)うして。智者の
 ふるまいをせずして一向に念仏うべし。

 師の法然が亡くなってからは加茂の辺りささぎ野という処へ庵を構えて
住んでいた。
何故にこんな処に住んでいたかというと、その以前法然が病気の最中に、
いずくよりともなく車を寄せたものがあって、中から貴女が一人降りて法
然に面会した。
その時、看病の僧達は外出したものもあり、休息しているものもあって、
勢観房だけがただ一人障子の外で聞いていると、その貴女の声で、

 「まだ今日明日のこととは思いませんでしたのに、御往生が近いような
様子、この上もなく心細いことでございます。さて御往生の後は念仏の法
門のことなどは、どなたに申残し置かれましたか」

 と尋ねられる法然が答えて

 「源空が所存は撰択集に載せてあります。撰択集にちがわないことを云
う者こそ源空が宗旨を伝えたものであります」

 それからしばらく物語などあって貴女は帰って行かれたが、その気色は
どうも只人とは思われなかった。

そこへ外出の僧達も帰って来たから勢観房は車の後を追いかけて見ると河
原へ車をやり出して、北を指して行ったが、かき消す様に見えなくなって
しまった。
帰ってから法然に、
 「只今のお客の貴婦人はどなたでござりますか」
と尋ねると、法然が、

 「あれは葦提希(いだいげ)夫人(ぶにん)である。加茂のほとりにい
   らっしゃるのだ」

 といわれた。
そんな因縁でこの地へ居を定められたのだが、この人は隠遁を好み自行を
もととして、どうかすると法談をはじめても、所化(しょげ)五六人多く
なれば、魔縁をひくだろう、ことごとしいといって止めてしまったという
ことである。
生年五十六。
暦仁元年十二月十二日に往生をとげた。

 近江国蓮華寺の禅勝房は、天台宗を習ったが、自分の器ではこの教えに
よって救われることはなりがたいと思って、熊谷入道の処へ行って、念仏
往生の道を聴いたが、熊谷が一通り教訓を加えてから、くわしいことは我
師法然上人にお尋ねするがよいと手紙をくれたから、京都へ出て吉水の庵
で法然の教えを受けたものである。
そして法然給仕の弟子となり信心堅固の誉れがあった。
この僧がいろいろ法然に向かって不審を尋ねたに就いて、法然がよく親切
に返答を与えている。

 その中で、

「自力他力と申すことは、如何様に心得たらよろしゅうございますか」

 法然答えて、

 「わしは云い甲斐なき遠国の土民の生れである。全く天子の御所へなど
昇殿すべき器のものではないが、上より召されたから二度までも殿上へ参
ることになった。これと云うのは上の力である。これと同じことに極重悪
人、無他方便の凡夫はどうして報身報土の極楽世界などへまいるべき器で
はないが、阿弥陀仏の御力なればこそ、称名の本願に答えて来迎にあずか
ることに不審は無い筈ではないか」

 又、問うて曰く、「持戒の者の念仏の数遍少ないのと、破戒の者の念仏
の数遍多いのと、往生してからその位に深い浅いがございますか」

 法然坐っていた畳を指さしてこれに答えて曰く、

 畳があれば破れたとか、破らないとかいう論があるあるが、畳がなけれ
ば、破れたの破れないのと云うがものは無いではないか。そのように末法
の中には持戒もなく破壊もない。凡夫のために起こされた本願であるから
、ただいそぎても、いそぎても、名号を称(とな)えるがよい」


 この僧が法然の膝下を辞して国へ帰ろうとして暇乞いの時、法然は京み
やげをあげようといって、

 「聖道門の修行は、智恵をきわめて生死を離れ、浄土門の修行は愚痴に
かえりて極楽に生ると心得らるるがよい」

 
といわれた。

 それから本国に帰って深くその徳を隠し大工を職として家計を立ててい
たが、隆寛律師が配所へ下らるる時、この国見附の国府という処に止まっ
ていると、其処(そこ)へ近隣の地頭共が結縁の為に集って来た。
その時律師が皆の者に向かって尋ねるには、
 この国の蓮華寺という処に、禅勝房という聖が居られる筈だが」
 と尋ねたけれども、誰も知らない。
「そんな聖はござりません。ただ大工の禅勝という者は居りますが」
 と答えたので、隆寛律師はどうもあやしいと思ったけれども、手紙でも
って尋ねて使いをやって見ると、禅勝はそれを見るや、とりあえず走(は
)せつけて来た。
律師は庭に下り迎えて手をとって引きのぼせ、互いに涙を流して昔のこと
を話し合った。

 日頃、たたき大工だとばかりあなどっていた坊主が、斯様な高僧に尊敬
されるのを見て土地の武士共が眼をまわしてしまった。
その後は国中の貴賤、尊み拝みて大工もして居られなくなったから、広く
念仏の布教をするようになった。
生年八十五歳の正嘉二年の十月四日立派な念仏往生をとげた。

 俊乗房重源は、上の醍醐の禅定で、真言宗に深かったが、法然の徳に帰
してその弟子となった。
大原談義の時も、門弟三十余人を連れて列席した。
治承の乱に南都東大寺が焼失した。
重源がその造営の大勧進人に補せられた。
総てに於て計画にぬかりのない人であったから、時の人に「仕度第一俊乗
房」と称せられていた。

 建久六年三月二十日造営の功を了(お)え、供養をとげられた。
天子の行幸があり、将軍頼朝も上洛した。
法然の勧化(かんげ)に従って念仏を進め、上の醍醐に無常臨時の念仏を
すすめ、その他七ヵ所に不断念仏を興隆した。
 建久六年六月六日東大寺に於て往生した。


















 或時宜秌門(ぎしゅうもん)の女院が中宮で一品(いつぽん)の宮をご懐
妊の時に、法然は御戒の師に召され、公胤は御導師としてまいり合わせた
ことがあった。
御受戒が終わって法然が退出しようとした時に、僧都の請いによってしばら
く問答することになった。
僧都は法然に向かい、
 「上人には念仏のことをお尋ね申すのが本来であろうがまず大要なるに
つきて申してみると、東大寺の戒の四分律であるのは如何なる謂われでご
ざろうか」
 
 そこで法然は東大寺の戒の四分律であるべき道理をつぶさに話して聞か
せた。
僧都が却って考えてみると法然の云われたことが少しも違わなかったから、
次の日又参会の時、
 「昨日仰せになったことは、まことにお言葉の通りでございました」
 といって、法然を尊敬し、それから浄土の法門を話したり、その他のことを
語った。
その時僧都が玄惲(げんうん)をぐえんくいと読んだので法然がそれは惲と
かけばくいと読ませるが、惲と書いてうんと読むのがよろしいと訂(ただ)し
た。

すべて斯様な誤りを七ヶ条まで訂(ただ)されたので、僧都が罷(まか)り出
でて後弟子に語って云うには、
 「今日法然房に対面して、七ヶ条の僻(ひが)事をなおされた。常にあの
人にあっていれば学問がどの位つくかしれぬ、あの人が立てた処の浄土
の法門が仏意に違っているということはない。仰ぎて信ずる外はない。あの
上人の義を謗(そし)るは大きな咎である」
 といって、自分の拵(こしら)えた決疑抄を三巻を焼いて了った。
そういう因縁があって法然歿後の法要の導師を勤め前非を懺悔し、念仏
の行怠りなく、建保四年閏六月二十日に七十二の年で往生を遂げられた。

 栂尾(とがのお)明恵(みょうえ)上人(高弁)は墔邪輪(さいじゃりん)三
巻を記して撰択集(せんじゃくじゅう)を論破しようとした。

 ※  撰択集とは、建久9年(1198)、関白九条兼実の要請によっ
      て、 法 然 が撰述した2巻16章の論文。
    「浄土三部経」の経文を引用し、それに対する善導の解釈を引き、
      さらに法然自身の考えを述べている。
   法然真筆の昌頭文「南無阿弥陀仏、往生の業、念仏為先」の書か
      れた草稿本は京都廬山(りょさん)寺に蔵されている。
   
   末法においては、称名念仏だけが相応の教えであり、聖堂門を捨
      て て浄土門に帰すべきで、雑業を捨てて念仏の正行に帰すべき
   と説いている。
   それまでの観想念仏を排して阿弥陀仏の本願を称名念仏に集約
      することで、仏教を民衆に開放することになり、日本浄土教におい
      て、重要な意義を持つ文献の一つである。
   
                 廬山(りょさん)寺
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 廬山寺の敷地内は、紫式部の居住地だったと言います。

             廬山(りょさん)寺の庭園   
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廬山(りょさん)寺の庭園にある、紫式部歌碑

 めぐりあひて 見しやそれとも わかぬ間に
  雲がくれにし 夜半の月かな

            紫式部歌碑
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これに対して、法然の門徒がこぞって難を加えたによって重ねて荘厳記とい
う一巻を作って、それに答えたけれども却って、名誉を落されたということで
ある。
入道民部卿長房卿は明恵上人に帰依の人であったから、その墔邪輪を信
じて高野の明遍相僧都に見せようとした時、僧都が、
 「何の文ですか」
 と尋ねたのに、
 「撰択集を論破した文です」
 と云われたから、明遍、
 「わしは念仏者でございます。念仏を難破した文章を取る訳には行きませ
ぬ、眼に見る気は致しません」
 といって、返されたが、後にはこの民部卿入道も撰択に帰して、「いずれの
文が邪輪なるらん」といわれたということである。

 その後に仁和寺(にんなじ)の昇蓮房が、かの墔邪輪をもって明遍相僧都
に見せた処、僧都は云うのに、
 「凡(およ)そ立破(りゅうは)の道はまず所破(しょは)の義をよくよく心得て
それから破する習いであるのに撰択集の趣をつゆつゆ心得ずして破せられ
たる故にその破が更に当らないのである」
 という意味で取り合わなかったという。
この僧都は論議決択(けつちゃく)のみちにかけては日本第一の誉れのあっ
た人である。

 明恵上人も後に菅宰相為長卿許へ行った時に墔邪輪のことが話に出た
時、
 「そういうこともありましたけれども、ひが事であると思って今は後悔してお
ります」
 といわれたそうである。

 禅林寺の大納言僧都靜遍は、池の大納言頼盛卿の子息で、弘法大師の
門であり、はじめは醍醐の座主勝憲僧正を師として小野流の流れを受け、
後には仁和寺の上乗院の法印仁隆に会って広沢の流れを伝え、事相教相
抜群の誉れのあった人であるが、一代がこぞって撰択集に帰し、念仏門に
入る者が多いのを見て、嫉妬の心を起して、撰択集を破し、念仏往生の道
を塞ごうと思ってその文章を書く料紙までも整えて、それから撰択集を開い
てみた処、日頃思っていることに相違して却って末代悪世の凡夫の出離
生死の道は偏(ひとえ)に称名の行にありと見定めてしまったから、却って
この書を賞玩して自行の指南に備えることとし、日頃嫉妬の心を起こしたこ
とを悔い悲しんで、法然の大谷の墳墓に詣でて泣く泣く侮謝し、自ら心月房
と号し、一向念仏し、その上に「続撰択」を作って法然の義道を助成した。

                                      西醍醐寺
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 毘沙門堂の法印明禅は、参議成頼卿の子息で、顕密の棟梁山門の英傑
とうたわれた人であるが、道心うちに催し隠遁の思いが深かった。
はじめて発心の因縁というのをきくと、或時最勝講の聴衆にまいったが集ま
る処の貴賤道俗が、きょうを晴れと身栄を飾り、夢幻泡沫のこの世にあるこ
となどを念頭に置くものは一人もなく。僧は僧で別座を設けて従者を具し、童
を従えておさまり込む。
集まる身分の高いも者は高い者、低い者は低い者、皆それぞれ英耀をして
走り廻っている有様を見て、つくづくと人間の浅ましさを感じ、隠遁の思いが
胸に定まったということである。
法然の念仏興行も余り流行するものだから、ついそねみ心が起ってその勧
化(かんげ)などを聴かず、でも自分の出離の道といっては、いまだ定まった
解決もつかずに籠っていたが、或時法然の弟子の法蓮房に会って、念仏の
法門を話した時に、法蓮房から法然著わす処の撰択集を贈られたのを開い
て見てはじめて浄土の宗義を得、称名の効能を知り、信仰の余り改侮の心
を起し、撰択集を一本を写しとどめて、双紙の袖に「源空上人の撰択集は末
代念仏行者の目足なり」と書きつけ、尚その上にまた述懐の鈔を記して法然
の行を賞め申された。

 法然が亡くなってから、順徳院の建保年間、後堀川院の貞応嘉禄年間、四
条院の天福延応年間などたびたび一向専修の宗旨を停止(ちょうじ)の勅命
を下されたけれども、厳制すたれ易く興行止まりがたく、念仏の声は愈々四
海に溢れた。

 ここに上野国から登山した並榎の堅者(じゅしゃ)定照という者が深く法然
の念仏をそねみ「弾撰択」という破文を作って隆覚律師の処へ送ると律師は
また、「顕撰択」という書を作って「汝が僻破の当らざること暗転の飛礫の如
し」と云うたので、定照愈々憤りを増し、事を山門にふれて、衆徒の蜂起をす
すめ、貫主に訴え、奏聞を経て隆寛、幸西等を流罪にしその上に法然の大
谷の墓をあばいて、その遺骨を加茂川へ流してしまうということをたくらんだ。

 それが勅許があったので、嘉禄三年六月二十二日山門から人をやって墓
を破そうとする、その時に六波羅の修理亮(しゅりのすけ)平時氏は、家来を
伴(つ)れて馳せ向い、
 「仮令(たとい)勅許があるとしても、武家にお伝えあって、それから事をな
されるがよいのに、みだりに左様の乱暴をなさるのはよろしくない」
というて止めたけれども承知をしない。
墓を破り、家を壊し、余りの暴状に見かねて、
 「その儀ならば我々は武力を以てその乱暴を防ぎ止める」
といって争ったものだから、叡山の使者も退散して、その日は暮れた。

 その夜法蓮房、覚阿弥陀仏等月輪殿の子息である妙香院の僧正の処に
参って、
 「今日の騒ぎはとにかく鎮まりましたけれども、山の憤りがまだはげしゅう
ございますから、これは一層早く改葬をしてしまうがよろしゅうございます」
 という相談をして、その夜人静まって後、ひそかに法然の棺の石の蓋を開
いてみると面像生けるが如く、如何にも尊い容(すがた)がその儘であった
から皆々随喜の涙を流した。

 都の西のほうへ法然の遺骸をかきたてて行くうちに、道路の危険を慮(お
もんば)かって、宇都宮弥三郎入道蓮生、塩谷入道信生、千葉六郎大夫入
道法阿、渋谷七郎入道道編、頓宮兵衛入道西仏等の面々今こそ出家の身
ではあるが、昔は錚々(そうそう)たる武士達が馳せ集まったので、弟子達
軍兵済々(せいせい)として前後をかこみ、その数一千人余り、各々涙を流
し悲しみを含んで輿を守護して行った。

 嵯峨へ行って然る可(べ)き処に置き、そのありかを秘密にするということ
を各々誓いを立てて帰った。
山徒は本意を遂げざることを怒って、尚その遺骸の行方を尋ねているという
噂があったから、同じ二十五日の暁、さらに西山の粟生野の幸阿弥陀仏の
処へ遺骸を移して、そこで荼毘に附した。

荼毘のところに三肢になった松があって、それを紫雲の松と名附けられ、荼
毘の後に堂を建てて御墓堂と名づけて念仏した。
今の光明寺である。

                                          光明寺
金誡光明寺



















 遺骸を拾い、瓶に納め、幸阿弥陀仏に預けて置いて、その後二尊院の西の
上に雁塔を建ててそこへ遺骨を納めることにした。

 三月二十六日に讃岐の国塩飽(しあく)の地頭、駿河権守高階保遠(する
がごんのかみやすとう)入道西忍が館に着いた。
西忍はその前の晩に満月の光輝いたのが袂に宿ると夢を見てあやしんで
いたのに法然が着いたと聞いて、このことだと思い合わせ、薬湯を設け、美
膳をととのえ、さまざまにもてなした。

ここで法然は念仏往生の道を細かに授け、中にも不軽大士(ふぎょうだいし
)の故事を引いて、如何なることをも忍びても、人を勧めて念仏をさせるよう
にしなさい。
敢(あえ)て人の為ではない。といって教えた。

 讃岐の国子松の庄に落ついて、そこの生福寺という寺に住し、そこで教化

を試みたが、近国の男女貴賤市の如く集まってくる。或は今までの悪業邪
慳(あくごうじゃけん)を悔い改め、或は自力難行を捨て念仏に帰するもの
甚だ多かった。

「辺鄙なところへ移されるのもまた朝恩だ」

と喜ばれたのも道理と思われる。

この寺の本尊阿弥陀如来の脇士として勢至の像を法然自ら作って文を書い
て残しておいたということである。

 法然が流された後というもの、月輪殿が朝夕の嘆き他所(よそ)の見る目
も傷わしく、食事も進まず、病気もあぶないことになった。
籐中納言光親卿を呼んで、
 「法然上人の流罪をお救い申すことが出来ないで、後日を期し、御気色を
窺って恩免をお願いして見ようとしたけれど、こうしているうちに、もうわしの
からだがいけなくなった。今生の怨みはこのことだ。せめて御身達わしの心
を汲んで上人の恩免のことをよくよくお取り計らいなさるように」といわれた
から、光親卿は涙ながらにそのことを承知して、御安心なさいというているう
ちに四月五日臨終正念にして、念仏数十遍禅定に入るが如く月輪殿で往生
を遂げられた。
行年五十八歳であった。
かくてこの師弟は遂に死期に会うことが出来ないで、離れ離れに生別死別
という悲しいうき目を見せられて了った。

 このことを配所にあって聞いた法然の心の中推し計るばかりであった。
 法然が、配流のことは遠近に聞こえたうちに、武蔵国の住人津戸三郎為
守は深くこれを嘆いて、武蔵野国から遥々(はるばる)讃岐の国まで手紙
を差出したが、

法然はそれに返事を書きて、

 「七月十四日の御消息。八月二十一日に見候ね。はるかのさかいに。
かように仰せられて候。御こころざし。申つくすべからず候。・・・・・」

 と書いて今生の思い知るべきことと、往生の頼むべきことを痛切に書いて
いる。

 直聖房という僧は矢張り法然のお弟子となって念仏の行をしていたが、
熊野の山へまいっている間に法然が流されるという話を聞いて急いでその
跡を追おうとしたが俄(にわか)に重病に罹(かか)ってうごけなくなった。
権現に祈ると、

 「死期はもう近づいているお前は安らかに往生するがよい。法然上人は
勢至菩薩の生れかわりだからお前はそう心配することはない」

というおつげがあったから安心して往生を遂げたということである。

 法然はこの国にあって道の傍ら国中の霊地を巡礼して歩いたが、そのう
ち善通寺にも詣でた。
この寺は弘法大師が父のために建てられた寺であるが、その寺の紀文の
中に「ひとたびももうでなん人はかならず一仏浄土のともたるべし」とあるの
を見て、この旅の思い出はこのことであるといって喜んだ。
              
                                   善通寺(東院伽藍)
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               善通寺金堂(本堂)     
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 藤中納言光親卿は、月輪殿の最後の頼みによって様々に、法然上人恩
免の運動をして見たけれども、叡慮お許しがなかった。
しかし上皇がある夢を御覧になったことがあり、中山相国(頼実)もさまざま
に嘆いて門弟のあやまちをもって咎を師範に及ぼすことの計り難いことを
おいさめ申すことなどもあって、遂に最勝四天王院供養の折大赦行われた
時、御沙汰があって、承元元年十二月八日勅免の宣旨が下った。

その条に

 太政官符       土佐国司

  流人藤井元彦

 茂木正三位、行権中納言、兼右衛門督(かみ)、藤原朝臣隆衡宣。奉勅。
 件(くだん)の人は二月二十八日事につみして。かの国に配流。しかるを
おもうところあるによりて。ことにめしかえさしむ。但し、よろしく畿の内に居
住して。洛中に往還することなかるべし。諸国よろしく承知して。宣によりて
これをおこなえ。

  承元元年十二月八日            符到奉行
                     左大臣史少槻宿禰
                      権右中弁藤原朝臣

 勅免があったとはいえ、まだ都のうちに出入りをすることは赦(ゆる)され
ないで、畿内のうちに住むことだけを赦されたに過ぎない。
配流された地方土民たちは別れを惜しみ京都の門弟たちは再会を喜ぶ。
かくて配所を出でて、、畿内に上り、摂津国押部に暫く逗留していたが、こ
こで念仏門に入った老若男女は夥しかった。

 左様にして都のうちへまだ出入りを許されない間摂国勝尾寺に暫く住ん
でいた。
この寺の西の谷に草庵を結んで住んでいると、僧達の法服が破れてみにく
かったから弟子の法蓮房に京都の壇那へ云い遣わして装束を十五具整え
て施された。
寺僧はよろこんで、臨時に七日の念仏を勤行した。

                             間摂国勝尾寺
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 またこの寺のは一切経がないということを聞いて法然は自分所持の一切
経一蔵を施入したところ、住僧達喜びの余り老若七十余人は華を散し、香
をたき、幟(はた)を捧げ、蓋(きぬがさ)を押してお迎えをした。
この経論開題供養の為に聖覚法印を呼び招くことになった。
法印はこの指名を受けて指定再会を喜びながら導師を勤めたが、その時の
表白文が残っている。

 かくて勝尾寺の隠居も最早四ヵ年になった。
京都への出入がまだ許されない。処が建暦元年夏の頃上皇が八幡宮に御
幸のあった時一人の倡妓があって、王者の徳失のことを口走りだした。

 このことが法然流罪に関連して評議された。
そのうち又上皇が夢を御覧になったり、蓮華王院へお詣りになった時、何
者とも知れず衲衣(のうえ)を着た高僧が近づいて法然の赦免について苦
諌奏上することなどがあって驚かれている処へ、例の光親卿の運動や、そ
の他があずかって、同じき十一月十七日にお許しの宣下が下り、そこで初
めて法然が再び都の土を踏むことが出来たのは同じき二十日の日のこと
であった。

 都へ入ってからの法然は、慈鎮和尚の計らいで大谷の禅房に住いをする
ことになった。
初めて都へ来た時に供養をのべんとして群参の者その夜のうちに一千人
あったとのことである。
それから引き続いて幽閉の地にいたけれども訪ね来る人は連綿として絶え
なかった。


 
 建暦二年正月二日から法然は食事が進まず疲労が増した。
総て三四年この方は耳もよく聞こえず、眼もかすんでいたが、この際になっ
て明瞭にかえったようで、人が皆不思議に思った。
二日以後は、さらに余の事を云わず、往生のことを話し、念仏の声絶えず
、眠っているときも口と舌とは動いていた。
三日の日に或る弟子が往生のことを、「御往生は如何(いかん)」と尋ねる。

 「わしはもと極楽にいた身だから又極楽へ帰っていくであろう」と。

 「また法蓮房が問うて曰く、「古来の先徳皆その後遺跡というものがあり
まする。しかるに上人にはまだお寺を一つお建てになったということがござ
いません。ご入滅の後は何処に御遺跡といたしましょうか」 

 「一つの廟所と決めては遺法が普(あまね)くわたらない。わしが遺跡と
いうころは国々至る処にある。念仏を修する処は貴賤道俗をいわず、あま
がとまやまでもみんなわしの遺跡じゃ」

 十一日の巳の刻に弟子が三尺の弥陀の像を迎えて病臥の側に立て、
「この御仏を御礼拝になりますか」といった処が、法然は指で空を指して、

「この仏の外にまだ仏がござる。拝むかどうか」

といった。それはこの十余年来念仏の功が積って極楽の荘厳仏菩薩(しょ
うごんぶつぼさつ)の真身
を常に見ていたが、誰れにも云わなかった。
今最期に臨んでそれを示すといったそうである

 また弟子達が仏像の手に五色の糸をつけて、
「これを劣お取りなさいませ」といった処が、法然が、

「斯様なことは常の人の儀式である。我身に於てはそうするには及ばぬ

 といって、取らなかった。

二十日の巳の時から紫雲が棚引いたり、円光が現われたり、さまざまの奇
瑞があったということである。

 二十三日から法然の念仏が或いは半時或いは一時、高声念仏不退二十
四日五日まで病悩のうちにも高声念仏は怠りなかったが二十五日の午(う
ま)の刻から念仏の声が漸(ようや)くかすかになって、高声が時々交じる。
まさしく臨終であると見えたとき、慈覚大師の九条の袈裟を架け、頭北面西
にして、

 「光明遍照(こうみょうへんじょう)。十方(じつぼう)世界。念仏衆生(ねん
ぶしゅじょう)。摂取不捨(せっしゅふしゃ)。」

 の文を唱えて眠るがごとく息が絶えた。

音声が止まって後、なお唇舌を動かすこと十余反ばかりであった。
面色殊に鮮かに笑める如き形であった。
これは当に建暦二年正月二十五日午の刻の正中のことであった。
春秋満八十歳、釈迦の入滅の時と年も同じ、干支もまた同じく壬申(みずの
えさる)であった。

 武蔵国の御家人桑原左衛門入道という者、吉水の房で法然の教えを受け
てから、国へ帰ること止め祇園の西の大門の北のつらに住いして念仏をし、
法然に参して教えを受けていたが、報恩の為にと上人の像をうつして法然
に差上げた。
法然がその志に感心して自らその像に開眼(かいげん)してくれた。
法然が往生の後はその像を生身の思いで朝夕帰依渇仰していたが、やが
て往生の素懐をとげた。
当時御影堂にある木造がそれである。


 法然の最期の前後にその門徒の人々が様々な夢を見たり、奇瑞を見たり
したことがある。参議兼隆卿は上人が光明遍照の文を誦して往生する処を
夢み、四条京極の簿師真清は往生の紫雲と光と異香とを夢に見、三条小
川の陪従信賢が後家の養女、並びに仁和寺(にんなじ)の比丘尼(びくに)
西妙はその前夜法然の終焉の時を夢み、その他花園の准后の侍女参河
局、花山院右大臣家の青侍江内、八幡の住人右馬允(うまのじょう)時広が
息子金剛丸、天王寺の松殿法印、一切経の袈裟王丸、門弟隆寛律師、皆
それぞれ法然の往生を夢みて一方ならぬ奇瑞を感得している。

 法然の住居の東の岸の上に、屏(おお)われた勝地がある。
或人がこれを相伝して自分の墓と決めておいたが、法然が京都へ帰った時、
その人がそれを法然に寄進した。

法然が往生の時ここへ廟堂を建てて石の空櫃を構えて収めて置いた。
この廟所についても多くの奇瑞が伝われている。
この地の北の庵室に寄宿している禅尼、地主、その隣家の清信女だとか、
清水寺の住僧別当入道惟方卿の娘粟田口禅尼というような人がふしぎの
奇瑞を感じたということがある。
今の知恩院の処である。

 四条堀川材木商の堀川の太郎入道という者があった。
深く法然に帰依していたが、法然往生の時は廟堂の柱を寄進した。
その後へ西山の樵夫(きこり)だというて結縁に来たという物語がある。

 法然が臨終のとき遺言をして孝養のためにに堂寺を建ててはならない。
志があらばあんまり群集しないで念仏をして報恩のこととでもするがよい。
群集をすれば闘諍(とうじょう)の縁となるからということをいましめておいた
が、でも法蓮房が世間の風儀に従って念仏の外の七日七日の仏事を修す
ることにして他の人もそれに同意した。
初七日には信連望が導師となり、壇那として大宮入道内大臣(実宗)楓誦
の文を読んだ。

 三井の僧正公胤(そうじょうこういん)も懇ろに導師を望んだ。
この人は法然に服しなかった人であったが上人誹謗の罪を懺悔し、先に認
(したた)めた浄土決疑抄(じょうどけつぎしょう)という書物を焼いて、法然
七十七日の仏事の導師となったものである。

 この三井の僧正公胤浜田大僧都であったときに、法然の議論を破るとい
って、「公胤が見た文章を法然房が見ないものはあるとしても、法然房が見
た程の文章を公胤が見ないのはあるまい」と自讃して浄土決疑抄三巻を著
わして撰択集(せんじゃくしゅう)を論難し、学仏房というのを使いとして法然
の室へ送った。
法然はその使いに向かってそれを開いて見ると、上巻の初めに「法華に即
住安楽の文がある。観経に読誦(どくじゅ)大乗の句がある。読誦の行をもっ
てしても極楽に往生するに何の妨げもない筈だ。然(しか)るに読誦(どくじゅ)
大乗の業を廃して、ただ念仏ばかりを附属するということは、これは大きな
誤りである」
 と書いてあった。

その文を法然が見て、終りを見ないで差置いて云うのに、

 「この僧都、これほどの人とは思わなかった。無下のことである、一宗を
樹つる時に彼は廃立(はいりゅう)のむねを知って居るだろうと思われる
がよい。然るに法華をもって観経往生の行に入れられることは、宗義の廃
立を忘るるに似ている。若しよき学生(がくしょう)ならば観経は爾前(にぜ
ん)の教えである。彼の中に法華を摂してはならないと非難をせらるべき
筈である。今浄土宗の心は、観経前後の諸大乗経をとって、皆、悉(ことご
と)く往生の行のうちに摂している。何ぞ独り法華だけが漏れる筈がない。
普(あまね)く摂する心は念仏に対しこれを廃せんが為である」

 といった。

 使いがかえってこのことを語ると僧都は口を閉じて言葉がなかったという
ことである。



























































 南都北嶺の宗徒による念仏阻止運動が次第におさまってきたが、まだ
念仏の流行を快しとせざる空気が至る処充満していた。

 建永元年十二月九日のこと後鳥羽院が熊野へ行幸のことがあった。
その時法然の弟子住連、安楽等が東山麓の谷で別時念仏を始め、六
時礼讃ということを勤めた。

                                            後鳥羽院
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              鴨川畔 後鳥羽院歌碑
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それは定まれる節や拍子もなく、各々哀歓悲喜の音曲をなし、珍しくもまた
人の心をうつものが多かったから、聴衆も多く集まり、それを聞いて発心す
る人も少なくなかったうちに、御所の留守の女房連が、それにききほれて、
遂に断りなく出家をしてしまった。

後鳥羽院遷幸のあと、そのことを聴かれて、大いに逆鱗あり、翌年二月九
日住連、安楽を庭上に召されて罪を定むる時、安楽房が、

  見有(けんう)修行起瞋(きしん)毒。 方便破(ほうべんは)壊競(え
  きょう)生怨(しょうえん)。如此生(にょししょう)盲闡提輩(もうせ
  んだいはい)。
  毀滅頓狂教(きめつとんきょう)永沉淪(えいちんりん)。超過大地微塵
  劫(みじんごう)。未可得離三途身(みかとくりさんずしん)

 の文を読み上げてので、逆鱗愈々さかんにして、ついに官人秀通に仰せ
て六条河原で安楽を死刑に行われてしまった。
 安楽を死刑に処せられた後も逆鱗おさまらず、それにこれを機会として多
年法然の念仏興行に多大の嫉妬と反感を持っていた勢力が喰い入ったも
のか、遂にその咎が師の法然にまで及んで来た。

 法然は「藤井元彦」という俗名を附けられ土佐の国へ流されることになっ
た。
その宣下状に云う。

  太政官符    土佐国司

   流人藤井元彦
   使左衛門府生(さえもんのふしょう)         従二人
   門部二人                  従各二人

  右流人元彦を領送のために。くだんの人をさして発遺くだんのごとし。
  国よろしく承知して。例によりてこれをおこなえ。路次の国。またよろしく
  食済具馬壱疋をたもうべし。

    建永二年二月二十八日             府到奉行
                           右大史中原朝臣
                           左小弁藤原朝臣

 追捕の検非違使は、宗府生久経、領送使は左衛門の府生武次であった。
法然帰依の輩がこの大事件を聞いて嘆き悲しむこと例うるにものなく、門
弟のうち皆々住蓮、安楽が既に死刑に処せられた上は、上人のお咎めとし
ては念仏興行の理由ばかりであるから、表面上一切の興行をお止めにな
って、内々で御教化をするようにして、上へ御宥免(ごゆうめん)を願うよう
に致したい。

御老体を波路遠くまでおいでなさるようなことになってはお命の程も思われ
る。
どうかさようにお計らいをお許し下さいましといって赦免の運動を試みよう
としたが法然はそれを聞かなかった。

 「流されることもさらに怨みとすることはない。わしももう年八十に近い。
たとい皆の者と同じ都に住んでいてもこの世の別れは遠くない。たとい
山海をへだつとも浄土では遠からず会えるのだ。嫌でも人間は生きる間
は生きている。惜しがっても死ぬ時には死ぬのが人の命じゃ。必ずしも
処によるということはない。ましてこの念仏の興行も都ではもはや年久し
いことだ。これから辺鄙に赴いて、田夫野人をすすめることが年頃の本
意であったが、まだいろいろ事繁くしてその本意を果すことが出来なかっ
た。それを丁度この度の事件で果すことが出来るようになったのは有難
い朝恩といわねばならぬ。人が止めようとしても法は更に止まるものでは
ない」


 といって進んで配所へ赴くことになり、その際にも丁度一人の弟子に対し
て一向専念の教えを述べはじめた。

               土佐へ配流
CIM土佐配流


















それを聞いてお弟子の西阿弥が驚いて上人の袖を控え、
 「念仏は御停止でございます。左様なことをおっしゃっては御身にとりて一
大事でございます。皆々御返事をしてはなりません」
 と師の身を思うて云い出すと、

法然は西阿に向かい、

「そちは経釈の文を見たか」

 西阿は答えて、

「経釈の文はどうありましょうとも、今の場の世間態が-・・・・」

 と口籠ると法然が、

「われはたとえ死刑に行わるるともこのことを云わなければならぬ」

 官人は小松谷の房へ行って、「急いで配所へ御移りになさるように」と責
めた。
そこで遂に法然は都を離れて配所の旅に赴くことになった。

 月輪殿は名残りを惜んで
法性寺の小御堂に一晩お泊め申した
月輪殿の嘆きは尋常でなかったけれども、今は主上の御憤りが強い時で
あるから却っておいさめ申しても悪い。そのうち御気色をうかがって御勅
免を申請うということを語られた。
月輪殿の傷心のほどはよその見る眼も痛ましいものであった。

              月輪殿 (九条兼実)
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                                          月輪寺
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                  月輪殿絵図
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 三月十六日に愈々都を出て配所への旅立ちになる。
 信濃の国の御家人角張成阿弥陀というものが力車の棟梁として最後の
御伴であるといって御輿をかついだ。
同じようにして従うところの僧が六十余人あった。

 法然は一代の間、車馬、輿などに乗らず常に金剛草履をはいて歩いて
いたが、今は年もとった上に何分長途のことであるから、輿に乗せられた
のである。

 何しても絶代の明師が不足の難に遭うて遠流の途に上るのだから、貴賤
同俗の前後左右に走り従うもの何千何万ということであった。
 それにしても土佐の国までは余りに遠い。
月輪禅定の骨折りによって、その知行国である讃岐国へ移されるように漸
(ようや)く嘆願がかなったのである。

 月輪殿は歌を詠んで名残りを惜しまれた。

    ふりすててゆくはわかれのはしなれど

       ふみえあたすべきことをぞもふ

 法然の返辞、

    露の身はここかしこにてきえぬとも

       こころはおなじ花のうてなぞ


 鳥羽の南の門から川船に乗って下ることになった。
 摂津の国経の島に着いた。
ここは平清盛が一千部の法華経を石の面に書写して海の底に沈めたとこ
ろである。
島の老若男女が多く集まって来た中に、年七十余りになる老翁が六十余
りの老女を連れて、
 「わしはこの浦の漁師で子供の時分からすなどりなどを業とし、朝夕魚介
の命を取って世を渡る家業をしていますが、ものの命を殺すものは地獄に
落ちて苦しめられるとのことでございますが、どうしたらそれを遁れられまし
ょう。お救い下さいまし」
と法然の前に手を合せた。

法然が、

 「それはお前さん達のような商売の者でも南無阿弥陀仏といって念仏
をしさえすれば仏様のお願いによって極楽浄土に生まれることが出来
ますよ」

 といって教えた。

二人とも涙にむせんでよろこび、その後は昼は浦に出て常の如く漁師をし、
夜は家に帰って二人とも声を合せて終夜念仏をし、辺りの人も驚く程であ
ったが非常に平和な生涯を終えたということである。

 また同じ国の室(むろ)の泊(とまり)に着いた時に小舟が一艘法然の船
に近づいて来た。
何者かと思えばこの泊の遊女の船であった。
その遊女が云うのに、

 上人のお船だということを承って推参いたしました。世を渡る道というもの
は様々ありまするうちにも、何の罪で私はこういう浅ましいなりわいをするよ
うな身となったのでございましょう。この罪業重き身がどうして後生を助かる
ことが出来ましょうか」と。

 法然がそれをあわれんで、

 「左様左様、お前さんのようにして世渡りをするということは罪証まこと
に軽いものではない。祟(たた)りや報いが計り難いことじゃ。若しそれをし
ないで、世を渡るべき方法があるならば、早速その商売をお捨てなさい。
若しその方法もなくまた身命(しんみょう)を顧みずしても道に進むという
程の勇猛心が起こらないならば、ただそのままで一心に念仏をするがよ
い。阿弥陀様は左様な罪人の為に弘(ひろ)く誓いをおたてになったのだ
。・・・・」
 

 ということを懇(ねんごろ)に教えたので、遊女は随喜の涙を流した。

法然はそれを見て、

 「この遊女は信心堅固である。定めてよき往生がとげられるに相違ない」

といった。
 
 その後上人が許されて都へ帰る時に訪ねてみると、この遊女は法然の教
えを受けて後はこのあたり近い処の山里に住んで、一心に念仏をし立派な
往生を遂げたということを聞いて、法然は、

 「そうであろうそうであろう」

と云われたとか。


































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