atusisugoiのblog

カテゴリ: 出土品に光を

百草観音堂を後にして、細い坂道を、車でゆっくりとしたスピードで上ると、右
手に、以前、2回ほど訪れたことのある、「日野市立小島善太郎記念館」の門
が見えました。

心で、小島善太郎画伯に敬意を表するとともに、娘さんである、敦子さんにも
お元気でお過ごしくださいと会釈をし、通過しました。
細い坂道の一番高い場所からわずかに下った左手に「百草八幡神社があり
ます。

                                 百草八幡神社鳥居
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             百草八幡神社本殿    
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               百草八幡神社側面
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八幡神社に向かって左側面の方から、少し傾斜になった雑木林の落ち葉を
踏み踏み登っていくと、松連寺詩碑が建立されています。

この碑は天保11年(1842)に建立。菊池五山(詩)・市川米庵(書)。

 松連寺詩碑

松連寺詩碑と題する五言律詩を刻んだこの碑は天保12年(1841)九月慈岳
山松連寺第八代住職魯庵により建立されました。
百草八幡神社社殿裏手のこの場所も、当時は松連寺が管理していました。
魯庵はさびれた寺を興隆させるための地形を活かして、松連寺十八景の整備
を進めました。
本碑もその一環として、江戸の文人との交流の中で生まれたものでしょう。
碑には次のように刻まれている。

          松連寺詩

       五山僊史題 金洞山樵書井題額

       天平留寳躅佛日照千年開士 新剮鑿 将軍舊
       祷虔群山繞一水碧蜿蜒心地空今古真
       堪了萬縁
 

       天保十二年歳次辛丑秋九月
       慈岳山第八世住持沙門魯庵立石
       廣群鶴

       天平の寳躅を留め 佛日は千年を照らす
       開士新たに剮鑿し 将軍舊く祷虔せり
       群山の青は繚繞として一水の碧は蜿蜒たり
       心地今古を空しうし 真に萬縁を了するに堪えたり

 松連寺の歴史のふるさと眺望の素晴らしさを巧みに詠み、さりげなく魯庵の
功績にも触れています。
この詩は天平年間に松連寺が建立されたとする伝承に基づきますが、疑問
の余地があります。

 碑の冒頭にある「五山僊史」は漢詩人の菊池五山、「金洞山樵」は書家の市
河米庵。
共に江戸後期を代表する文人であります。
菊池五山が「松連寺詩」を作り、市河米庵が書を担当した。
石に刻んだのは、碑文の末尾にある石工の名匠「廣群鶴」。
「廣群鶴」は「広瀬群鶴」の略名で、谷中(台東区)を仕事場として、代々その
名を継承し、多くの石碑や墓碑を刻んだ。
18世紀後半以降、昭和にかけての作品が知られるが、本碑は、建立時代か
ら考えると広瀬群鶴の手になるものでしょう。
それぞれの分野の第一人者による本碑は多摩の詩碑の白眉とも評されてい
ます。
      
              
              松連寺詩碑CIMG0043



































            
               松連寺詩碑CIMG0038




































 八幡神社正面に向かって、左側に松連寺乃碑が建立されていました。

この碑は文政13年(1830)に松連寺八代住職魯庵によって建立されたもの
です。
選 書篆は小田原藩士岡田雄(岡田左大夫光雄、御番頭、右筆)による。
碑高1.7m、総高2.7mの精巧な作り方である。

松連寺は明治6年(1873)に廃寺となり、百草出身の横浜貿易商青木角蔵
翁が買い取り、明治20年に百草園として公開した。

 この碑文によると、松連寺はこの地に天平年中に道慈により建立された寺
であり、鎌倉幕府を開いた源頼朝の先祖の頼義、義家が奥州の前九年、後
三年の役に際して祈願し、先勝後、伽藍坊門を立てました。
昔は5百石の祭田があったが、名前のみが残っています。
新田義貞が北条氏を討った分倍河原の戦いで、寺は焼失したが、年を経て
慶長年中に新たに庵を作り、海印を庵主としました。

後に、黄擘派瑞聖寺の末寺となり、光鑑を主僧、慧極を中興開士とし、北宗、
無文、悦門、関捩、自穏、祖門、魯庵と八代続きました。
小田原城主六代大久保忠増の室、寿昌尼は、慧極、北条とともに慈岳山松連
寺を建立した。

寺宝には源義家の木造や軍器をはじめ、真慈悲寺と背銘のある阿弥陀仏など
多数あります。
魯庵のころには寺は衰退していたため、松連寺十八景を新たに作り、宝物を展
観し昔の歴史を広く知らせました。
この魯庵を当地の代官中村八大夫知剛が助け、殿堂を修繕し、この碑の費も
負担したとあります。

 江戸時代初頭には、桝(増)井山松連寺に源義家にの関わる寺宝や、真慈悲
寺と背銘のある阿弥陀仏等が相伝していましたが、享保2年(1717)に慈岳山
松連寺に引き継がれた。
松連寺を別当としていた百草八幡神社は、中世には鎌倉の鶴岡八幡宮と関係
があったとされ、義家と墨書された古い神像等を伝えているとされています。

魯庵が松連寺を整備し、江戸の文人を招致したため、紀行文が多く残され、「江
戸名所図会」等にも記されました。
現在松連寺のことがかなり判明するのは、この碑をはじめとする魯庵の業績に
負うところが大きい。

 なお、碑文では松連寺が奈良時代に建立されたように読めますが、その点に
は疑問があります。
また、分倍河原合戦にて消失したとあるが、その痕跡はまだ発掘調査では見つ
かっていません。

               松連寺之碑
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 引き続き府中市立ふるさと府中歴史館で、資料で勉強をさせていただき
ます。
 
 正面が大國魂神社、手前右側が府中市立ふるさと府中歴史館   
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          府中市立ふるさと府中歴史館   
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 大化の改新(645年)以降、古代の律令国家は、現在の都道府県にあた
る地方行政単位として全国を60余りの国に区分し、大国、上国、中国、下
国の4等級に格付けしました。

 武蔵国は、現在の東京都、埼玉県のほうは全域と神奈川県の川崎市・横
浜市の大部分を含む広大な国で、21もの郡(現在の市町村)を管轄する大
国でした。

今から1,300年前、府中には武蔵国の国府がありました。
赤い円柱の柱は、実際、発掘調査時の柱跡位置に建てられています。

 武蔵国府跡地は大國魂神社の東側に位置し、隣接してるといったほうが
わかりやすいと思います。
 以前、訪れた時の写真です。

          国史跡 武蔵跡国府跡
008




















この国衙からたくさん出土した焼き物に再度、光を当ててみようと思います。

 国府成立直前の土器

 7世紀半ば、府中西方の地に地元の有力者を葬る上円下方墳(武蔵府中
熊野神社古墳)が造られました。


      
          武蔵府中熊野神社古墳資料館
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            武蔵府中熊野神社古墳
008



















 世紀後半から8世紀前半には、本町のハケ上に初期の国司館が築かれ
たと考えられています。
こうした頃、その後に国府のマチが展開する地域では、ハケ下の湧水に近
い台地上を中心に、幾つかの集落が点在していました。
 
展示品は、7世紀後半の竪穴建物跡から出土した土器です。
土師器は丸底の坏、須恵器は小型で半球型の蓋と、蓋受けが付く坏など
を特徴としています。

  土師器(丸底の坏)・須恵器(半球型の蓋と蓋受けの付く杯)
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 国府成立期の土器

 7世紀末葉から8世紀初頭、府中ではハケ下の湧水の利用が困難な大
地の北方に、大型井戸が掘削されました。
この井戸を頼りに人々が住むための竪穴建物が数多くきずかれ、計画的な
国府のマチが成立しました。
展示品はこうした国府の成立期に使われた土器です。この時期、国府での
需要に応じて都の土器をモデルに製作されたといわれます。
「盤状坏」が登場し、これが国府の成立を象徴する土器に位置づけられてい
ます。
            「盤状坏」
CIMG0118



























 国府盛行期の土器①

 国衙が成立した8世紀の前葉、国府のマチに造られる竪穴建物の数は
増加します。
そのあとは小地域ごとに盛衰があるものの、奈良時代の全般を通して国府
のマチには数多くの竪穴建物が作られました。
展示品は8世紀前葉から後葉に国府で使われた土器です。
この時期、国府で使用された須恵器の多くは、北武蔵(現在の埼玉県)の窯
で焼かれた製品で占められています。
               
              須恵器
CIMG0120

















  国府盛行期の土器②

 平安時代前期の9世紀から10世紀、国府のマチには時代に引き続き数
多くの竪穴建物が造られました。
10世紀末にはそれまでの国衙が廃絶し、形態を変えた新たな国衙として、別
の場所に整備されたと考えられています。

展示品は9世紀から10世紀に国府で使われた土器です。
10世紀には、須土器の生産地の主体が北武蔵から南多摩の窯へ移り、土
師器の焼成方法と須恵器の成形方法を合わせ持った「土師器質」と呼ばれ
る土器が登場します。
               土師器質土器
CIMG0122

 

















 国府衰退期の土器③
 平安時代後期の11世紀、国府のマチの竪穴式建物は著しく減少します。
そして12世紀には、人々の生活形態がそれまでとは大きく変化したのか、発
掘調査で発見される遺構・遺物が非常に少なくなります。
展示品は11世紀から12世紀の土師器です。
この時期、須恵器の生産はほぼ終わり、坏や埦、皿といった小型の食器類
は土師器土器が主体となります。

                土師器土器
CIMG0124






























 府中市歴史資料館内では、縄文時代に使用した土器から江戸時代に使用し
た焼き物までを変遷史のような形で展示されていました。

 縄文時代中期の土器(今から4,800年前)

 煮沸具(煮炊き用の器)には、炉や竃(かまど)に直に据えて使用されるもの
と、囲炉裏に吊るされたものに大きく分けられます。

                           縄文時代の生活(イメージ図)
CIMG0322




















              縄文時代の生活(イメージ図)
101 (2)
















              煮炊き用の器
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             煮炊き用の器            
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            縄文土器 浅鉢
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 古墳時代(今から1,700年前)の土器

           土師器  埦
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 奈良時代(今から1,300年前)

          土師器の壺
CIMG0057

































  室町時代(500年前)

        土師器坏 ・須恵器坏
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          土師器坏・皿、陶器皿   
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 江戸時代(今から300年前)

           磁器碗・磁器皿
CIMG0058


















 1,000年前の形をとどめた土器について

 奈良、平安時代に多くの人が暮らした武蔵国府では、大量の土器が消費、廃
棄されました。
発掘調査では、ほとんどの土器が割れた破片で発見されていますが、比較的
大きなサイズにもかかわらず、作られた当時の形をほぼとどめた土器が発見
されたこともあります。
展示品はそうした1000年ほどの時をタイムスリップしたような土器たちです。

                          1,000年前の形をとどめた土器
CIMG0093













          
 武蔵国府で使われた高級焼き物(1)

 灰釉陶器、植物灰を原料とする釉薬が施された灰白色の硬い焼き物。
8世紀後半に尾張(愛知県西部)の猿投窯で生産が始まり、9世紀l後半には
美濃(岐阜県)や三河(愛知県東部)、浜北(静岡県西部)にも生産が拡大し
ました。
武蔵国府跡からは、灰釉陶器が多く発見されており、役人たちを中心に国府
の人たちが好んで求めた焼き物です。
         
       CIMG0096国府で好んで使われていた高級焼き物



















      
       国府で好んで使われていた高級焼き物CIMG0097

         













    

 武蔵国府で使われた高級焼き物(2)
        
 武蔵国府跡からは、平安時代の最高級食器に位置づけられ唐代の中国で
作られた青磁と白磁が発見されています。
 白磁は河北省の定窯または邢窯での製作が推定されている。
碗の破片を基に、複製したものです。

 青磁、白磁ともに、都から赴任した国司たちによって国府にもたらされたもの
と考えられています。

             白磁複製品
CIMG0099























 武蔵国府で使われた高級焼き物(3)

 三彩陶器・二彩陶器

 奈良時代から平安時代初頭にかけて、日本国内の官営工房では唐代の中国
で作られた唐三彩の技術を学び、奈良三彩と呼ばれる焼き物が製作されました。
奈良三彩は、釉薬の材料にに鉛、銅、鉄を使って緑・黄・白の三色を出し、国家
や貴族による祭司や仏事の用具など特別な用途に使われる希少品でした。

武蔵国府跡からは、国司がもたらしたと考えられる奈良三彩の小壺や、黄釉や
緑釉に緑彩が施された二彩陶器も出土しています。

          二彩陶器・三彩陶器CIMG0101の破片








          奈良三彩小壺(複製品)
CIMG0102




















              緑釉陶器
CIMG0103




























                緑釉陶器
CIMG0104



















                
               緑釉陶器CIMG0105
 
 
 




















  

















 以前、武蔵国分寺跡資料館を訪ね、国分寺で使われていたという『瓦』
のことが気になり、もう少し詳しく理解したいと思い、資料館の資料をひ
も解いてみました。

 瓦のつくり方 

 古代の瓦は布目瓦ともいわれますが、これは粘土を型からはずしやすく
するために
用いられた麻布の痕が残ったものです。

 女瓦は桶巻き作りにより、一度に3~4枚作れますが、粘土素材が大き
くて扱いにくい欠点がありました。
このため、武蔵国分寺の場合には創建期にわずかに行われた程度で、以降
の主流は、かまぼこ状の型を用いて一枚ずつ作る手法でした。
男瓦のほうは、一度に二枚作れる桶巻きつくりがずっと行われました。

こうして作られた生瓦は登り窯で焼かれました。
多くは青色か褐色がかった灰色で、平安時代の後半になると赤色を帯びた
灰色の瓦が多くなります。
実に色とりどりに屋根を飾っていました。

             瓦のつくり方図解
220


















 国分寺の瓦を焼いた窯跡

 武蔵国分寺で使用された瓦は、創建用および塔再建用、さらには再建期
以降の修理用を含めると100万枚ほどの膨大な量であったと推察されま
す。

 地下式登り窯は、瓦窯の焚口部が狭くなり、それに続く燃焼部、瓦を焼
くための階段を設けた焼成部、窯奥の煙出しの各部からなるのが基本的な
構造で、窯の大きさは、全長6メートル前後、窯底の傾斜角度が30度前
後のものが標準的です。

         地下式の登窯
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 造瓦作業

 平安時代の造瓦規定が記されている「延喜式」によれば、瓦工1人が1
日90枚の瓦(女瓦)を作ることや、瓦工1人に夫(仕丁)2人が補助作
業員として従事したことがわかります。

この規定を武蔵国分寺に当てはめてみると、瓦工は延べ6,700~7,
800人、仕丁は延べ13,400~15,600人が必要になります。
さらに、造瓦作業はこれ以外に材料(粘土)の採掘・精製、燃料(薪)の
採取、瓦の焼成などの作業があり、この人数を大幅に上回ることは明らか
です。当時の武蔵国の人口は13~18万人と推計されていますので、こ
れと比べると造瓦作業の動員された人数は、かなりの数であったことがわ
かります。
この労働力の大部分は、労役として重用された仕丁(農民)でまかなわれ
ました。

 創建期・再建期の瓦

 金堂跡や七重塔跡など武蔵国分寺の中枢部の発掘調査成果や、瓦窯の調
査・研究の進展により、奈良時代の創建当初に用いられた瓦と、平安時代
前期の七重塔の再建を中心とした整備・拡充期に用いられた瓦の区別がつ
くようになりました。

 創建期の瓦は概して軟質で、黒色や青灰色であるのに対して、再建期の
瓦は硬質で青灰色であるなどの違いがります。
また、軒先の文様も異なっています。

鐙(あぶみ)瓦は、創建期には単弁八葉蓮華文を主流としていましたが、
再建期には単弁六葉蓮華文を主流としていました。

 宇瓦は、創建期では重弧文、均整唐草文、偏行唐草文など、再建期では
均整唐草文や偏行唐草文などが中心で、ヘラ書きなどは再建期以降にあら
われます。
 
         男瓦(有段粘土紐桶巻き作り)           
216












            偏行唐草文字瓦
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           鬼瓦復元想像図
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                 鬼瓦
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                  鬼瓦  
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            鐙瓦(単弁八葉蓮華文)
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               宇瓦(偏行唐草文)
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                 隅切瓦
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                 堤瓦
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             面戸瓦(竪穴住居跡出土)
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 武蔵国府跡
 武蔵国府は、奈良時代の初めころから平安時代の中頃(今から約1,300
年から1,000年前)にかけて、武蔵国を治めた役所(武蔵国庁・国衙など
)が置かれた、古代武蔵国の政治・行政・文化・経済の中心であった。

 以前このように記述をしましたが、国府跡からの出土品に対してはあま
り触れていませでしたので、ここで少し追加的に写真で紹介し、光を当て
てみたいと思います。
そうすることによって、発掘関係者の労が少しでもねぎらわれたら幸いで
す。
 また遥かなる古代人への供養にもなると考えています。

 平成10年4月に、府中市宮西町1丁目でビル建設工事中に遺跡が発見され
ました。
 工事を中断して発掘調査を行ったところ、常滑焼の大甕2個の中に古銭1
5万枚という膨大な量が収められていました。

 銭種は永楽通寶などのいわゆる渡来銭で、大半が中国で作られたもので
すが、「皇朝十二銭」と呼ばれる奈良・平安時代に日本国内で作られたも
のも含みます。

 
041









































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 常滑焼の大甕の中から出土した銭の拓影
全部で105種類の銭が確認され、最も古いものが貸泉(14年)、最も
新しいものが朝鮮通貨(1423)でした。
また、、最も多く出土した銭は皇宋通寳(1038年)の9917枚。
次いで、元豊通寳(1078年)の9549枚でした。

              常滑焼の大甕
CIMG0010

























             通貨の種類
CIMG0014

























 上記、常滑焼大甕は平成10年4月にケヤキ並木通り西側の宮西町1丁目
のビル建設工事に先立つ緊急調査で出土した2基の甕のうちの1基です。
2基の甕は地面に穴を掘って甕を正位に据え、多量の銭を満杯に収めた上
に片岩を丸く加工して作られた蓋石がかぶせられた状態でみつかったもの
で、2基は約4.5メートル離れていました。

 この甕の中には60,026枚(銭の種類は105種)の古銭が収めら
れていたもので、もう1基の甕から出土した90,427枚を合計すると
15万枚という膨大な量です。
収められていた銭種は永楽通寳などのいわゆる渡来銭で、その大半が中国
で作られたものですが、「皇朝十二銭」と呼ばれる奈良・平安時代に日本
国内で作られたものなどを含みます。
この甕から出土した銭のうちでは朝鮮通寳(1423年)が最も鋳造年が
新しいことや甕の製作年代から、この銭と甕が15世紀前半以降に埋めら
れたことがわかります。
 多量の銭を扱う場合、銭の穴に紐を通して100枚前後をひとまとまり
とし、これを「緡(さし)」と呼びます。
大量出土銭では緡の状態で見つかることが多いのですが、この甕に入れる
際に緡から外してばらまらにして収められたようです。
銭が収められた大甕は「六古窯」の一つである知多半島一帯に分布する常
滑窯で焼かれたもので、常滑では、鎌倉・室町時代には甕や、すり鉢など
が盛んに生産されていました。
府中市内ではこれらの銭甕の他、埋葬に用いられた甕(骨壺)なども出土
しています。
現在まで東京府中市内で大量出土銭は7か所でみつかっていますが、いず
れも甕の出土した宮西町やその周辺に限られています。
全国各地でこのように意図的に大量の古銭が埋められた事例が知られてい
ますが、いずれもそのほとんどは貨幣経済が発展して日常的に銭を用いる
ようになる鎌倉・室町時代(13~16世紀)に埋められたものです。
銭の埋められた場所は中世の経済・交通の要衝にあたる都市や街道筋など
で、多くは当時の有力な社寺の付近であることが多いようです。
 この時代に多量の古銭が埋められた理由については諸説ありますが、い
くつかの目的・用途が考えられます。
戦乱の時代に銭を略奪などから護るために隠したとか、将来に使用するた
めに地中に隠し蓄えた「備蓄銭」という説、神仏などへの供え物として土
地に埋めた「埋納銭」という説や、その土地を墓地として使用する前に行
われた祭祀行為の一つという説などがあります。


        (日常使われていた煮炊きする鉢)
045                                               
















            (瓦       塔)
 仏教文化の浸透に伴って生みだされた造形物の一つに瓦塔があります。
 瓦塔とは奈良・平安時代を中心に製作された土製焼き物の五重塔で、木
製の層塔を精巧に模したものです。
 同様に仏堂を模して造られた瓦堂も存在します。
 
 瓦塔や瓦堂は全体が一体で作られるのではなく、相輪、軸部、屋蓋(屋
根)など個々の部品を焼いてから組み立てられたものです。
 瓦塔は、高さ約1.5mほどから大きいものでは高さ約2.3mのもの
が知られています。

 瓦塔、瓦堂は西日本では少なく、主として関東・東海・北陸地方などの
東日本で造られました。
  府中市内の武蔵国府関連遺跡では分梅町他2か所からいくつかの破片が
出土しています。

 近隣では、東村山市の宅部山遺跡出土のもの(東京国立博物館蔵)がよ
く知られており、埼玉県から群馬県にかけての東山道武蔵路沿いの集落跡
でもよく見つかっています。

 瓦塔、瓦堂は本物の塔や仏堂の代用品いわばミニ寺院であったという説
と、内部が空洞になっていることから、経典や小仏像などを納めていた厨
子という説があります。

 いずれにしても村落の片隅に安置されていたものと考えられます。
 古代の人々は仏の功徳にあずかろうとこれを日々礼拝の対象としていた
のでしょう。
                                               
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                                   (五鈷鈴・六器皿)

 府中街道の東を発掘調査をしたところ、中世(室町~戦国時代)の地下
式横穴から五鈷鈴・六器皿がセットで出土をしています。
 これらは青銅製の密教法具の一種です。
 五鈷鈴は柄部のみの出土で、鈴身は出土していませんが、鈴と柄は別々
の造りであったことが分かります。

  六器皿はやや高い高台を有し、底部内面に低い立ち上がりをもつもの
で、薄手のつくりです。
  この銅製品は五鈷鈴の鈴身、六器の皿と対になる碗がそれぞれ欠けて
いて、本来セットで使用されていたものが、各々の部分が単独で埋納され
たものと考えられています。 

 これら本来の機能を失ってからも地下式横穴などに埋められる事に意味
があったと考えられます。

 さらに付近の土坑からは、青銅製の花瓶2点と双耳香炉が1点(いづれ
も仏具)出土をしています。

 これら青磁の皿や仏具を埋納する行為は寺院と密接な関係がうかがわれま
す。

 さらにこれら出土状況から隠匿を目的としたというより地鎮など祭祀的
な意味合いが強いといえるものです。

 全国各地で見つかっている多量に埋められた銅銭もかっては備蓄用と云
われていましたが、現在では何らかの儀礼や祭祀行為との関係で説明され
ています。
 

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            (青磁の皿)

 青磁の皿は横穴墓がある程度埋められた後、10枚を重ねた形で横置き
で納めれていました。
 また青磁皿とともに鉄製の薬研も一緒に添えられるように出土していま
す。
 青磁皿はやや肉厚で、いずれも緩やかに外反する口縁端部が稜花模様に
造られ、これに沿って2~3本の不連続な沈線や唐草文が施され、見込みに
は花文(牡丹)などが施されたものもあります。
 底部外面には、10点のうち7点に「十」の朱書きが認められ、1点には「
吉」と記されていました。

 これらは15世紀後半~16世紀初めに中国大陸(明)で焼かれ輸入さ
れたものです。

 同タイプの青磁稜花皿は、多摩ニュータウン№107遺跡、神奈川県小田
原市小田原城跡など多くの遺跡で出土していますが、複数枚数が一括で埋
められた事例は少なく、まとまった事例として、府中市周辺では東村山市
久米川町出土のものが知られています。


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 残りの出土品につきましては次の機会に紹介させていただきます。

 ※ 説明文は府中市ふるさと資料館の資料に基づきます。




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