atusisugoiのblog

カテゴリ: 歴史を訪ねて(2)

 五日市憲法草案と深沢権八

太郎」-五日市憲法ってなんですか。
父-昭和43年に東京経済大学の糸色川大吉先生たちが、五日市町深沢
にある深沢家の土蔵から見つけた私擬(しぎ)憲法草案のことだよ。
花子-私擬(しぎ)憲法って何。
父-国民が自分たちでつくった憲法さ。憲法というのはね、国の基本の決
まり、国の仕組みの大枠をきめる面と、国民の権利=人権を守る面と二
つの面がある。もっともこの二つは同じものの表と裏という関係になるん
だがね。
花子ーいつ作ったの。
父-書かれたのは、明治14年の前半ごろといわれている。その頃の日本
は徳川幕府を倒した一部の人たちが権力を独占していたから、国会を開
けという要求が強くなってきた。国会を開くには憲法が必要になる。新生
日本の設計プランだね。そこで朝野の学者や有志達が憲法勉強して、い
ろいろの私案をつくったんだ。現在わかっているだけでも40以上の憲法
案があるんだよ。
太郎-国の設計図なんてスゴいね。五日市憲法は誰がつくったの。
父-発見された草案には陸陽仙台先代千葉卓三郎草と書いてある。まっ
たく無名の人で色川先生方がいろいろ調べて、宮城県志波姫町の出身
者で、父は旧仙台藩士ということがわかった。その当時五日市の勧能学
校(公立小学校)の教員をやっていた。色川先生は一緒に発見された文
書類から五日市の卓三郎を援け。共同して作ったものと判断されて、五
日市憲法草案と名付けられたのさ。
花子-なぜ評判になったの。
父-無名の民衆がつくった憲法で内容もすぐれているということなのだが-
いま明治初期の自由民権運動を見直す動きが強いのだ。それは日本が
太平洋戦争に敗れて再出発した戦後の民主主義のルーツを探ろうという
ことなんだろうね。現在の民主主義が健全に発展してゆくためには、改め
てその原点に立帰り、それがどうして挫折したのか理由を極める必要が
あるということだね。五日市憲法はたまたま発掘のタイミングもよく色川先
生のお人柄もあって共鳴のブーム現象を起したのだと思うよ。
太郎ー内容のどこがよいのですか。
父ー昭和54年に建てられた「五日市憲法草案の碑」が役場前にある。そ
こに掲げられた6条文を読んでごらん。いまの憲法そっくりだよ。いや部
分的には進んでいるところもある。実は五日市憲法の研究が進み、この
間も法政大学の江村栄一先生の発表されたところによると、ポルトガル
憲法そっくりの条文が多いという。その他参考にしたものは纓鳴社草案、
福地源一郎案、植木枝盛案、デンマーク憲法、オーストリア憲法、永田一
ニ論文と非常に広範囲にわたっているとのことだ。おそらく卓三郎たちは、
手に入る限りの資料を探し求め、その中の人権擁護の部分を自分たち
の憲法に盛り込もうとしたのだろうね。そのため、国民の権利の部分は
特別に充実しているが、反面内容に矛盾があったり、重複があったりで
荒けずりのところは仕方がないね。江村先生も、「未完の人権憲法」と評
された。
 今日はね、お前達に千葉さんの一番弟子である深沢権八について話
そうと思うんだ。深沢家は憲法草庵を所蔵していた家だし、権八は父親
の名生(なおまる)と一緒に卓三郎のファンでパトロンであった人だ。権
八さんは大変な秀才ですね。15歳のとき深沢村の村長さんになった-。
花子-ヤーダ私とおなじ年、中3ぢゃないの。
父-学習活動を組織したり、民権運動に熱中した明治13年には19歳。
太郎ーなんだ撲と同じか。こっちは浪人中だ。
父-生物は進化すると扶養期間が長くなると進化論に書いてなかったか
な。-冗談はさておき「智恵の庫」という権八のノートが深沢家の隣の真光
院というお寺にあった。これは権八が明治14-21年頃にわたって書溜
めたもので、書籍新聞雑誌の抜き書きや自分の考えを綴ったものなんだ。
卓三郎は明治16年に31歳で死に、権八も明治23年、29歳で死んでしま
った。このノートは権八が卓三郎の影響下にあって憲法作成に協力した
頃から、千葉という強力な師を失って独り感じ考えたときの心の軌跡がわ
るんだ。これからの話はちょっとむずかしくなるかも知れないが、我まん
して聞いてくれないか。

 (2) 「智恵の庫」から見た深沢権八

 この智恵の庫の内容をみるように、第1人権・法規・政治に関するもの
〇印、第2経済・社会に関するもの▢印、第3思想・文化△印に分けてみ
た。当然ながら第1グループに属するものが多いが、まずこれからみよう。
冒頭に2.「日報社の憲法意見」がある。これは憲法草案で、かれがどこ
から転記したのか不明であるが、内容は立憲君主制の下に三憲分立をも
って臨む当時としては標準型の憲法構想である。人権中心の五日市憲法
に比べ、体裁上はバランスがとれた案であるが、権八は転写したのみで
一切の意見を付していない。
つぎに3.「ロベスピエール(フランス革命ジャコバン党々首)の演説」と、
8.米国の独立を歌った「自由に歌」がある。
 「われに自由を与えよ、しからんずば死を与えよ」などという勇ましい
壮士風の文句が目につき、しかも権八はしきりに朱点をうち朱丸をつけ、
欄外に「日本何ゾヘンリーナキカ」などどと書き込んでいる。ヘンリーと
は米国独立時の論客パトリック・ヘンリーのことで、権八は卓三郎の死後
、追悼の詩を作り」雄弁は人推す米のヘンリーのことで、米のヘンリー卓
論は自ら許す仏のルッソー」と、千葉をこのヘンリーに擬している。注目
に価するのは10・「勅論」で、これは明治14年10月に出された国会開設
の詔勅である。
この詔勅によって自由民権運動は禁圧、転換を余儀なくされ、卓三郎ら
の苦心の結晶、五日市憲法も陽の目をみる機を失った。
「故サラニ躁急ヲ争ヒ、事変ヲ煽シ、国安ヲ害スル者アラハ、処するに国
典ヲ以テスヘシ」などという文言をかれはどのような感慨をもって手記
したか。その几帳面な字面からは何も窺えない。その後いくばくかの日時
を経たと思われるが、13.「グランビル候ノ演説」が記されている。
これは英国外相が亡命者の人権を擁護し、虚無党弾圧の国際会議への
出席を拒否した演説で、成熟した英国流民主主義の格調の高さを示して
いる。これを書き抜いた権八の見識も《自由の歌》時代より成熟したので
あろうか。さらに時をおき、32.「婦人の権利」で米国の女性が結婚後も
夫から独立した財産権をもち、主体的な離婚権をもつことを記しており、3
3「刑法の改正」では英国で姦通を刑法や警察権介入の対象から外したこ
とを記している。権八が繊細なフェミニトであったかどうか、これだけでは
わからないが、すくなくとも豪傑風な民権家とは無縁であることを示してい
る。
本物の人権感覚の持ち主なら、男の陰で無権利状態に生きる女の姿に
無関心ではいられまい。千葉卓三郎は五日市の同志に対し「アジヤ気風
の人が多い」という辛辣な評言を残している。アジヤ気風とは色々に解釈
されるが少なくとも権八は含まれていないようだ。
 第2グループに目を移すと、まず9・「中外輸出平均比較概略」というも
のがある。これは国民一人当たりの年間輸出額の書抜きで英国35,6
円、米国30円、仏国28円これに対し日本75銭で、「もシソレ此上1人
二付き25銭ノ輸出ヲ製作スルアラバ、800万円余の金を(産)出スル都
合ナリ」とある。26.「外国債沿革」は、日本発行の外債額とその発行
理由を書いたもので、現在郷土館に展示中の千葉卓三郎の雑記帳にも公
債額のメモがある。こうした記載の中に後進国日本に生きる明治人特有
の憂国の心情が窺える。
国の負債をわが家の借金のごとく感じたものであろう。明治の民権家が
コロリと国権家に変貌する秘密もここにあるようだ。智恵の庫の末尾にあ
る49.「全国蚕糸の産額」も、明治20年に産額が大きく伸長した事を朱記
している。深沢家には専用の蚕室もあり、家計に占める養蚕の比重は大
きいはずであるが、権八のノートには家業や家計に関する記述は一切見
当たらない。対象はみな国家や世界である。思うに深沢家は村では卓越
した家産をもち、村人から親玉と呼ばれた父名生が健在で、権八は家業
やそれにまつわるダークな人間接触から解き放されていた。いわば手を
汚さなくてすむ幸せな立場にあったからであろう。しかしこれは秀才権八
の一つの盲点ともなった。常に広い視野と高い視点を持つ秀抜な資質の
裏側に苦労知らず、世間知らずの一面もひそんでいたようだ。
というのは23.「北垣京都府知事の激励」という記事である。これは明治
18年、折しも松方デフレの最中、京都府庁で大量の人員整理があり、解
雇された判任官某が北垣府知事の邸にきて知事に再就職の紹介を乞う
たところ知事はこれを拒否し、独立と廉恥を重んずべきことを説いたとい
う記事である。「・・・・寧ロ我死スルモ依頼心を起シ人に頼テ事ヲ成サン
ト思勿レ、此一言ヲ記憶セバ余ガ紹介ヲ待タズシテ能ク足下ノ立身ヲ期
スルヲ得べシ」と知事の言葉を書きしるしている。権八がこの知事の言に
感銘をうけて記したことは他の記事から類推して明らかである。知事はこ
の文の中で、150名の解雇者にいちいち斡旋は出来ないといっている。
表題は激励であるが内容は突放しである。思うに権八は独立と廉恥に惚
込んだと想像される。あるいは福沢諭吉の独立自尊を連想したのかも知
れない。世は松方デフレの真只中である。恥をしのび、身を屈してすがる
弱者に独立と廉恥を説くのは、強者のむごい論理であり、少なくとも賞讃
の対象にはなりにくい。
深沢家は有力な山持ちであるが、一般にデフレ期にはすがってくる村人
を山へ送り、安い日傭いで山の手当をしながら、じっと時をかせいでいれ
ば、家産はみずから肥えるのである。権八の家計事情はとにかく、もとも
とヒューマンなかれのこと故、経済上の苦労が身についていれば、この
記事に対する反応も自ら異なったろう。誇り高いエリートが、うっかり示し
た冷たさである。
 この辺で第3グループに目を転じよう。ここまでまず目につくのは漢籍
への造詣である。30.は孝行、忠節、和順、友愛、信義、勤学、立志、
誠実、礼讃、仁慈他10の徳目を立てて、孝経、詩経、書経、易経、礼記、
論語、大学、中庸、孟子のいわゆる四書五経(ここでは春秋の代わりに孝
経)からその徳目に合致する名句を抜粋している。これがかれのオリジナ
ルか、引き打写しか筆者の学識では確かめられないが、四書五経は漢学
の基本原典であり、幼少期からこの素読を始めるのがエリートの要件であ
った。村の若者ならせいぜい往来もの止まりである。権八は村人とは別世
界に住んでいた。かれは量質ともに優れた漢詩を残している。漢学の素
養が基礎となって西洋伝来の思弁的な学説も理解が早かったと思われる。
45.「ベンサムノ便宜主義トスペンサーノ道徳感情主義ノ関係」はか
れの西洋思想への理解が上っ面なものでないことを示し権八は20「書
籍名」の中で、ベンサムの立法論功、ミルの理学、スペンサーの社会平
権論を挙げているがどうやら読破しているようである。権八の記載は本
の丸写しでなく、かれの理解に基づき書かれた文章で、その解釈もきわ
めて正確である。なお48.「ソクラテス」は3行記事であるが、ソクラ
テスの主張を簡潔に要約している。
たとえ引写しであっても理解を以って写していることがわかる。この外24
.「カント、ヘーゲル等西欧学説と、これに対応する仏教上の学説」。51.
「ソクラテスとその弟子名」などには十二分の関心を抱きながら、立入るた
めの書籍、良師にめぐまれず、戸口にたたずむ権八の姿を見るのである。
第3グループを通覧すると、かれの本質的な性格がこうした思弁の世界
に向いていたことがよくわかる。
 権八は感受性の最も鋭敏な10代に自由民権運動の波に遭遇し、そこ
で出逢った千葉卓三郎に魅せられ、導かれてその才能を開花させた。し
かし、さすらい人卓三郎と違い温室育ちの権八は反体制を貫けるタイプ
ではない。理解力の広い進歩的教養人というのが夭折したかれの本質
であるように思われる。なお五日市憲法草案の筆跡は「智恵の庫」と一致
する。五日市憲法起草にあたって千葉を援けた五日市人は多かったとい
うが、内側から実質的に千葉を支えるに足る学識を持った者は少なかっ
たようである。残念ながら権八以外の資料未だ接しない。

                                    智恵の庫内容一覧表 ( )内後注

  №         表題            区分  所要行数

  1 板垣退助無上政度/大略(世界政府構想)       〇     27
  2 日報社憲法意見《私擬憲法案》         〇    200
  3 ロヘスピーヤの演説              〇             21
  4 普将モルク軍事意見                                      〇           5
  5 政談社民選議院意見、未完                             〇      27
  6 魯国形勢(アレキサンドル2世遭難の背景》                〇               68
  7 露清訂新条約                   〇      76
  8 自由の歌 米国独立                                      〇      26         
  9 中外輸出平均比較概略             〇       6
 10 勅諭(国会開設を扼したもの、明治14・10・12)  〇      18
 11 神教的ノ元素アル国例とナキ刻国例                  〇      13 
 12 魯国大帝ヘーテル最後ノ遺言          〇       4
 13 グランンヴィル候(英国外相)ノ演説         〇      37    
 14 布哇国皇帝                          5
 15 博覧会記聞                  △            6
 16 ビーコンスフヰルドト公伯林ノ会ヨリ帰リテ             〇        3
 17 ハクストン・モーリッシュ氏ノ話(グウラットストーン氏について)                        24  
 
18 井原西鶴 好色一代男                △        3
 19 十善 十悪 三界                                         △           12
 20 書籍名(14冊)                 △          28
 21 紙幣下落ヨリ生スル弊害             ▢         9
 22 五箇条の誓文                  〇       16
 23 北垣京都知事の激励(明治18年)           ▢      26
 24 カントヘーゲル等の学説とこれに対応する仏説明     △        5
 25 政弊(共和制、君主制それぞれの欠点)       〇        8
 26 外国債沿革                   ▢        5
 27 自由党の主意                  〇          4                   
 28 南海自由ノ歌                  〇       23
 29 立憲改進党約束               〇         12 
 30 孝行忠節等20項目について漢籍古典よりの引用   △      278
 31 香港太守ヘンラトツシー(日本をエジプトに比す)      ●         2   
 32 婦人ノ権利(ネフラスカ州の法律)           〇         10  
 33 刑法改正の要点(英国・合意ノ姦通不問)        △       12
 34 琵琶歌 西郷追慕の作 勝海舟          △       27
 35 十八高僧                    △       19
 36 海舟終焉の記(明治17年)                △       49             
 37 伏見義民文殊九助ノ碑文 勝海舟               〇        21
 38 弁論学抜摘、演説者心得            △      36
 39 馬土撤拉(メトウサレム)                                      5
 40 寧禄(ニムロド)                                  5
 41 合衆共和ノ原因                  〇         4            
 42 租税ノ起因                  ▢         6
 43 一局議員の説                 〇      13
 44 死刑可廃絶                  〇      28
 45 便宜主義ト同義感情主義トノ関谿          △      35
 46 主権ノ事                   〇      18
 47 政治家リコルコス                   △      10
 48 ソクラテス                    △       3
 49 全国蚕糸                   ●▢       4        
 50 中島淡海ノ詩4編               △      12
 51 政事大家(ソクラテスとその弟子の名)      △        11

                          深沢家旧宅
CIMG0153




















 近いようで、なかなか行くこともない、安房夷隅(いすみ)に、かねてから
一度訪れてみたいと思っていましたが、先だって、千葉の孫たちの家に遊
びに行ったとき、ちょうど大学生になった孫が車の免許を取得したといいま
すので、それではドライブをしようということになりました。
 
 練習を兼ね、その孫が運転することになり、目的地に向け、出発しまし
た。

家内は助手席にちゃっかりと坐って、内心は少々心配な気分もあったかと
推測されますが、孫に運転指導などをしながら、はりきっているようでした。
花輪インターから京葉高速道に入り、市原で降りて、一般道へ入り、外房の
道を問題なく快適に走行し、最初の目的地であるいすみ市郷土資料館に
無事到着しました。

             いすみ市郷土資料館
CIMG0490



















 ところが、薄暗い資料館に入ってみますと、担当者が出てこられ、現在展
示物の入れ替え作業中で、休館日といわれましたので、やむなく「どこか見
物ができる場所を教えてください」とお願いしますと「万木城跡」公園が良い
とのことでした。

 さっそく紹介していただいた、「万木城跡」公園を、孫がネットで検索し、車
を走らせること10分くらいで大きな駐車場に到着しました。、そこからゆる
やかな丘陵を、細い坂道に沿って進んで行くと、公園らしい台地に出てきま
した。
ここまで来ると、こんもりとした雑木林の向こうに「万木城跡」が見えます。
城跡には、城を模した建造物が展望台になっていました。

          「万木城跡に建造された展望台」 
CIMG0511



































          公園から眼下に広がる風景
CIMG0509


































 公園内に設置されている説明板を読んでみます。
 「万木城跡」(夷隅町指定史跡)

 万木城は中世の城郭で、現在までその遺構をよく留めています。
 この城の立地は断層崖の急傾斜を三方に盛った台地によっているが、こ
の丘陵の三方には夷隅川の曲流に囲まれていて、外堀の役目を果たし、守
るには要害の地ということができます。
この中世城郭は戦国時代の末期、すなわち十六世紀の中頃には、完備した
城郭があったことは、永禄八年(1565)行元寺文書の存在から傍証できる。
この城郭が比較的単純であるというのは、土居の配置が単純で、ただ周囲
の一部にめぐらせていたこと、空堀の構造がなかったと思われることなどで
あるが、これは地盤の基底が硬い泥岩質で急崖をめぐらしている崖端城と
も云える要害が然らしめたものであろう。
万木城については、不明な点が多く、詳らかになし得ない。

 土岐三代説(頼元ー為頼ー頼春)
 土岐五代説(頼元ー頼房ー頼定ー為頼ー為春)
 土岐九代説(時政ー光頼ー頼金ー頼為ー頼元ー頼房ー頼定ー為頼ー
         為春)

等、さまざまで、いずれも確証がないため、謎に包まれたままです。
いずれにしても資料によれば頼春の頃天正末年には、小田原北条氏に属
し、小田原落城により、北条氏と運命を共にした事はまちがいない。
城址には、当時のものと思われる井戸や、落城の時に焼けて米が炭にな
って当時米庫であったと思われる南側の台地の土中にまで散在しています。

     「万木城跡」に城を模し、建造された展望台
CIMG0532


































 もう一ヶ所に設置されている、説明文には、小野派一刀流開祖、小野次郎
左衛門忠明の武勇伝でについてです。

 小野派一刀流開祖
 徳川将軍家剣術指南役
 小野次郎右衛門忠明
   (御子神 典膳)

 剣豪で知られる「御子神 典膳」は、安房の国御子神(現:安房郡丸山町
御子神)に生まれ、幼少から武芸に秀でていた。
御子神一族は、安房の国里見氏の家臣であったが、典膳は故あって上総
の国、萬喜城主、土岐弾正小弼為頼、頼春父子に仕えて、萬喜城にあっ
た。
 天正十七年(1589)敵対関係にあった里見氏と土岐氏に戦いが起こっ
た。
敵将、正木大膳時尭(大多喜城主)と戦った。
時尭は里見氏八代里見義頼の次子であり、関八州に名声が高かった豪
傑であった。
この時尭と互角に戦ったことで、典膳は一扼房総で名を馳せることになる。

やがてこの豪勇が、一刀流開祖「伊藤一刀斎」の耳に入り、萬喜城下にて
立ち合うが、一方的な惨敗をきしたという。
直ちに典膳は、一刀斎に弟子入りを乞い、許されて氏の諸国漫遊に同行
する。

 その後、一刀斎流の後継者を決めるため、兄弟子の「小野善鬼」と小金
原で真剣勝負を行い、勝って後継者となり、二代将軍秀忠に仕えた。
 慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いに向かう途中の信州上田の城攻めで
活躍し、その功績により、将軍家の剣術の指南役を務める。
この頃から、名を「小野次郎左衛門忠明」と改め、徳川政権下になると下
総国(現:成田市寺台附近)の地頭職に就き、六百国を賜わったという。
 現在成田市寺台永興寺裏の墓石に寛永五年(1629年)十二月七日歿
と刻まれている。
 この萬喜城は若き御子神典膳ゆかりの城である。

            展望台から眺める風景
CIMG0514




















           展望台から眺める風景
CIMG0515




















            「万木城跡」公園   
CIMG0536



































           気になる一軒家のある風景
CIMG0537


































  「万木城跡」公園 をあとにして、今度は太東崎(たいとうさき)灯台を見物
に行きます。

 千葉の孫たちの家に、逗留していた時のことを思い出しています。

一番下の孫は、母親とディズニーランドへ、真ん中の孫は家内と一緒に
幕張に所在する、商業施設「ララポート」に買い物へ、そして一番年長の孫
は、アルバイトへとそれぞれ別行動の日になりました。

小生は、この付近に国指定史跡があることを知りましたので、、カーナビ
に鎌ヶ谷市東初富1丁目20番地を入力し、車を走らせました。

走行距離4㎞くらいで、初富小学校の脇に出ましたが、校舎の西側に目
指す史跡があると聞いていましたので、車のナビに表示する磁石を確認
すると、方角が北を指していましたので、T字路になっている細い道を左
折したところ、すぐに小さな工場のような建物と、住居が所在、っしかしこ
こは袋小路となっていました。
この敷地の裏手には、建物越しに雑木林の名残ともいえる景色が垣間
見えましたが、やむなくユータンをして、今度は校舎の南側から右折する
と住宅街に入り、突き当たりを右折すると、すぐに説明板が目に留まりま
した。
駐車スペースはないため、路駐し、急いで説明版を読み、史跡を写真に
収めました。
 
 国指定史跡
 下総小金中野牧跡〔野馬土手〕

 この土の高まりは「野馬土手」といいます。
江戸時代に野馬牧場の柵として、土を積みあげて作られたものです。
 鎌ヶ谷市のあたりは江戸時代、下総小金中野牧といい、幕府が馬を育
てるための大きな牧場でした。

馬は牧の中で放し飼いにされ、水飲み場のほかは、餌も与えられず、ほ
とんど野生馬だったことから「野馬」と呼ばれました。

多い時には約1,000頭の馬がいたといわれています。
野馬は年に1回「捕り込め」という囲いに集められ、幕府の役人たちが健康
状態などを調べ、良い馬は江戸に送られました。

これを「野馬捕り」といい、人気のある行事で、見物人もたくさん来たようで
す。
捕り込めは柄山公園北口の近くにも一つ今でも残っています。
広い牧の中で放し飼いにされている野馬を簡単につかまえ、「捕り込め」に
追い込む仕事はとても大変でした。
そこで、野馬を簡単に集める工夫として、多くの野馬土手が作られました。

 この土手(写真参照)もその一部で、江戸時代に作られたときの形をとても
よく残しています。
また牧と村の間には、野馬が入らないようにするための土手が作られました。

 これらの野馬土手や捕り込めは、江戸幕府が馬を育てるため、牧場の周辺
の農民たちに作らせたもので、当時の様子を知る上でも貴重な遺跡であるこ
とから、国史跡に指定されました。

               初富小学校の校庭
CIMG0062



















初富小学校の校庭の西側に土手になった雑木林が見えます。
これが野馬土手といわれているものです。

         下総小金中野牧跡(野馬土手)
CIMG0063




















            下総小金中野牧跡(野馬土手)    
CIMG0064




















 校庭の外側からの見た野馬土手の景色です。
向うに細い道が見えますが、この道沿いが野馬土手だったようです。

            下総小金中野牧跡(野馬土手)
CIMG0061




















  江戸時代の牧の範囲と、現在野馬土手が残っている箇所
CIMG0059
































 武蔵国府からは機能的・個性的な形をした土器も発見されています。
 枡型土器は米の計量器、耳皿、箸置き、ミニチュア土器は祭祀具の
一種と考えられるものです。
 形の歪んだ土器は製作段階の不良品と思われますが、何とか容器
として国府の人たちに使用されたようです。

 067                                              






















066





















065



















064



















             (11世紀の土師器羽釜)
 国府のマチに暮らした人々の多くはかまどを据えた竪穴建物に住んでい
ました。
 かまどでは写真のような土師器で水を沸かし、米などを蒸していたと考えら
れています。

068




































          国衙盛行期の土器
 平安時代前期の9世紀から10世紀、国府の町には前代に引き続き数多く
の竪穴建物が造られました。
 10世紀末にはそれまでの国衙が廃絶し、形態を変えた新たな国衙として、
別の場所に整備されたと考えられています。
 9世紀から10世紀に国府で使われた土器です。
 10世紀には、須恵器の生産地の主体が北武蔵から南多摩の窯へ移り、
土師器の焼成方法と須恵器の成形技法を併せ持った「土師質土器」と呼
ばれる土器が登場します。

076



















073




















072

























                   国府成立直前の土器
 7世紀半ば、府中西方の地に地元の有力者を葬るために上円下方墳(武
蔵府中熊野神社古墳)が造られました。
 7世紀後半から8世紀前半には、本町のハケ上に初期の国司館が築かれ
たと考えられています。

 こうした頃、その後に国府のマチが展開する地域では、ハケ下の湧水に
近い台地を中心に、幾つかの集落が点在していました。
 写真の土器は7世紀後半の竪穴建物跡から出土したものです。
 土師器はまる底の坏、須恵器は小型で半球型の蓋と、蓋受けが付く
坏などを特徴としています。

 078






















            (国府成立期の土器)
 7世紀から8世紀初頭、府中で母家下の湧水の利用が困難な台地の北
方に、大型井戸が掘削されました。
 この井戸を頼りに人々が住むための竪穴建物が多く築かれ、計画的な
国府の町が成立しました。
 写真の土器はこうした国府の成立期に使われたものです。
 この時期、国府での需要に応じて都の土器をモデルに製作されたといわ 
れる「盤状坏」が登場し、これが国府の成立を象徴する土器に位置づけら
れる。

 082                                             





































081




















080




















          (1,000年前の影をとどめた土器)

 奈良・平安時代に多くの人が暮らした武蔵国府では大量の土器が消費、
廃棄されました。発掘調査では、ほとんどの土器が割れた破片で発見され
ますが、比較的大きなサイズにも関わらず、造られた当時の形をほぼとど
めた土器が発見されることがあります。
 写真の土器は1,000年ほどの時をタイムスリップしたような感がありま
す。

 094



















            青磁・白磁
 武蔵国府跡からは、平安時代の最高級食器に位置づけられる唐代の中
国で作られた青磁と白磁の碗が発見されています。
 写真の青磁は9世紀に中国浙江省北部の越州窯で作られた碗の破片で
す。
 白磁は河北省の定窯または邢窯での製作が推定される碗の出土破片を
基に、複製したものです。
 青磁・白磁ともに、都から赴任した国司たちによって国府にもたらされたも
のと考えられます。
  
 088                                                                                                                            






















 089
 
 










 







                                  緑釉陶器

 緑釉陶器とは鉛ガラスの成分に近い釉薬が施された焼き物で、色彩を
表す顔料に銅が使われ、緑色に発色しています。日本での生産は8世紀
の終わりから本格的に開始され、11世紀代に終焉を迎えました。
 
 その焼成窯は現在の愛知県、岐阜県、滋賀県、京都府、山口県で発見
されています。
 
 武蔵国府からは愛知県の猿投窯製が中心とした緑釉陶器が数多く発見さ
れており、灰釉陶器とともに国府で好まれた焼き物であったようです。

 092                                                                                                                         

















                  他国からもたらされた土器

 律令国家体制の中で、武蔵国を含む東国の庶民は、調、庸の物納税を
都へ運ぶのをはじめ、西辺防備の防人や東北経営の移民、兵士役といっ
た辺境への移動を強いられるなど、多くの負担を課せられました。
 
 そうした中で、武蔵国の政治・経済の中心の国府には様々な人や物資
が行き交いました。
 これを裏付けるものとして、武蔵国府跡では隣国の甲斐・相模や、東海、
西日本などの遠隔地の土器が発見されています。

 084                               
 
 


















 085                                              






















086





























 後、少し出土品が残っていますが、今日はこの辺にしておきます。
 明朝は気温も19℃とかなり冷えますので早目に休もうと思います。
 絵画のサークルもありますので睡眠も十分取らないとなりません。

 今日は広島の娘たちは家族で葡萄狩りに行くと言ってましたがさぞ楽しか
ったことでしょう。
 バーベキューもできると宣伝をしていた農園行って、肉もほおばったのか
もしれませんね。

 家内を含めた仲良し三人組は10月7日に葡萄狩りを予定してるそうです。
 

 昔、甲府の方へ部の旅行で葡萄狩りに行きましたが、食べ放題といわ
れましても象のようにはたくさんは食べることはできませんでした。
 久しぶりに懐かしい若かったあの日を思い出しています。
               




このページのトップヘ