atusisugoiのblog

カテゴリ: 超能力者

 法然が「三昧発得」の後は暗夜にともし火がなくても眼から光を放って聖
教を開いて読んだり室の内外を見たりした。
法蓮房も眼のあたりそれを見、隆覚律師などもそのことを信仰していた。
或時ともし火の時分に法然が、長閑(のどか)にお経を見ているようであっ
たから、正信房がまだ燈りも差上げなかったのに、とそっと座敷を窺うと左
右の眼の隈から光を放って文の表を照らして見てお居られたが、その光の
明かなること、燈火にも過ぎていた。
あまりの尊さにかような内証は秘密にして置いた方がよいと抜き足して出
てきたそうである。

 又或時夜更けに法然が念仏をするその声が勇猛であったから、御老体
を痛わしく尊く思って正信房が若しも御用もやと、やり戸を引き開けてみる
と、法然の身体から赫奕(かくえき)と光が現われ、坐っている畳二畳に一
杯になっている。
その明かなることは夕暮れの山を望んで夕陽を見るようで、身の毛もよだ
つばかりに立ちすくんで了った。

法然が、「誰じゃ」と問われたから、

「湛空(たんぐう)」と答えると、

「皆の者も斯様にしてやりたいものだ」といわれたそうである。

 或時法然が念仏していると勢至菩薩が現れたことがある。
その丈一丈余り、画工に云いつけてその相を写し留められたことがある。
 又或時草庵を立ち出でて帰って来ると絵像でもなく、木造でもない弥陀
の三尊が垣を離れ、板敷にも天井にもつかずして居られたが、その後はこ
う云う姿を拝むのが常のことであったという。

 元久二年正月一日から霊山寺(りょうぜんじ)で三七日(みなぬか)の別
時念仏を始めた時も、燈火がなくて光があった。
第五夜になって行道すると勢至菩薩が同じ列に立ち入って行道した。
法蓮房は夢のご如くにそれを見たが、そのことを法然に云うと、

「そういうこともあろう」と答えられた。

 余の人には見えなかったという。

 同じ年の四月五日に法然が月輪殿に参って数刻法談をして帰る時、兼
実が崩れるように庭の上に降りて法然を礼拝し、額を地につけてやや久し
くあったが、やがて起き直り、涙にむせびながら云われるには、

「上人がただいま土を離れて虚空に蓮華を踏んでお歩きになり、後ろに頭
光が現れておいでになったのを見なかったか」と。

 右京権大夫入道と中納言阿闍梨尋玄の二人が御前にいたけれども、そ
れを見なかったということである。
池の橋を渡る時に、頭光が現れたのでその橋を頭光の橋と称ぶことになっ
たそうである。

 又或人が法然から念珠を貰って夜昼名号を唱えていたが、或時ふと竹釘
に懸けて置くとその一家が照り赫(かがや)いていた。
その光をただして見ると法然から貰った念珠から出た光で、その珠毎に歴
々と光を放ち暗夜に星を見る如くであったという。

 法然の弟子の勝法房というのは、画を描くことが上手であったが、或時
法然の真影を描いてその銘を所望した処が、法然がそれを見て、鏡を二面
左右の手にもち、水鏡を前に置いて頂きの前後を見比べていたが、ここが
違うといって胡粉を塗って直し、

「これで似たぞよ」

といって勝法房に与えられた。

銘のことは何とも云われなかったが、勝法房が後日また参って所望を申し
出た時法然は自分の前にあった紙に、

  我本因地    以念仏心   入無生忍
  今於此界    摂念仏入   帰於浄土

    十二月十一日

   勝法御房

 と書いて授けられたから、これを前の真影に押して敬い掲げた。
これは主楞厳教(しゅりょうごんぎょう)の勢至の円通の文である。

 又或人が法然の真影を移して銘を頼んだ時もこの文を書いてやったこと
がある。
 又讃州生福寺に止まって居られた時は勢至菩薩の造を自作して、法然
本地身。  大勢至菩薩。  為 度 衆生 故。  顕 置此道場。
と記されたそうである。

 法然が勢至菩薩の応現であるということはその幼名によっても思い合わ
せられる処であって、自分もまた感応するする処があったものと見える。
 かくて法然自身にさまざまの奇瑞が現れたという伝説があると同時に、
法然を信ずる側にも感得夢想が現れたということも甚だ多い。
或人は法然が蓮華の中で念仏をしていると見た。
或人は天童が法然を囲(めぐ)って管弦遊戯(ゆうげ)していると見た。
或者は又洛中はみんな戦争の巷であるのに法然お住所だけがひとり無為
安全であるのを見た。
或者は又嵯峨の釈迦如来が法然の道を信ぜよとお告げがあったのを見た。
この類の奇瑞、信仰数うるにたえざるものあるも無理がない。


 かくして法然は、上は王公から、下は庶民に至るまで、その徳風が流溢
して来た。
文治四年八月十四日のこと、後白河法皇が河東押小路の御所で御修経
のことがあった。
その時の先達として法然上人が選ばれた。

 まずその日集まる処の御経衆には法皇をはじめとして、妙音院入道相
国(師長公)、叡山からは良宴法印、行智律師、仙雲律師、覚兼阿闍梨、
重円大徳という顔触れ、三井の園城寺からは道顕僧都、真賢阿闍梨、玄
修阿闍梨、円隆阿闍梨、円玄阿闍梨という顔触れ、それに法然上人とそ
の門弟行賢大徳が参加するのだが、山門寺門の歴々は慣例上是非ない
ことであるが、法然が特に召されてこの席に列なるということは非常なる
特例である。
ただその席に列なることでさえ非常なる特例であるが、この一座の上に立
って先達を勤むるということは特に破天荒というべきである。
この時代のやかましい宗教界、名刹の上下でさえも焼き討ちが始まる宗教
的確執、我慢の時に於、何等の憎位もない平民僧の法然が、彼等の上に
立って先達を勤ることが是認せられるということは殆ど想像以上の一大奇
跡と云わねばならぬ。

 その以前今日の御催しの時に東寺へも御沙汰があって、東寺からも僧を
召されるというような噂を伝え聞いて、天台側から抗議が出た。
「今度の御経衆に東寺の僧を召し出される風聞がございますが、そもそも
この御経衆は慈覚大師が初めてとり行われた法則でございます。他門の
僧を召されることはよろしくござるまいと存じます」

 東寺は弘法大師の真言宗である。
山門寺門の天台側からこの抗議があって見ると、仮令(たとい)法皇の思
召でもそれを押し切る訳にはい行かなかった。
 処が法然が召されるという噂があったについても山門寺門では故障異
議を申し出ることがないのみか、「あの上人ならば仔細を申すことはない」
との事であった。
そこで法然が召されて単に御経衆に列るだけではない、一座の先達を勤
ることに誰一人異議がなかったのである。

 固より法然は天台門から出た人ではあるが、今は自ら浄土の法門を開い
た別宗の人の形になっている。
それが召されて第一座を占め、先達を勤ることになって不足の云いようが
ないということは前にも後にも例のない程の圧倒的な人格の力といわねば
ならぬ。
法然はこれを固く辞退したけれども勅諚が頻りに降って辞するに由なくそ
の勤めを行うことになった。
 
 その時の席順は正面の東西に席を設けて東の第一座が法然上人、西の
第一座が後白河法皇、法然の次が入道相国(太政大臣師長)それから叡
山の良宴法印以下が各々その位によって列座したのである。
昔奈良朝の時、行基菩薩はあれほどの大徳であったけれども、世俗の法
によって婆羅門増正の下に着座した。

この例によると叡山を代表して良宴法印が法然上人の上座に着くべきであ
るが、法皇の別勅によって法然上人が第一座につかせられ、山門の代表
者も甘んじてそれに席を譲ることになった。
太政大臣は固(もと)よりその次席である。
そこで法然は礼盤(らいばん)にのぼりて啓白、その式を行われたのであ
る。

 九月四日に観性法橋から進呈せられた御料紙をむかえらるる式がある。
これも法然が申し行われる。
同じく八日写経の水を迎えられること、同十三日御経奉納の式がある。
これ皆国家の大事と同じような行幸があり、儀式がある。
そのはなばなしい一代の盛儀に特に隠遁の法然を召し出して先達とせら
れたこと、帝王帰依の致す処とは云え、個人の徳望の威力古今無比といわ
ねばならぬ。

                                 CIMG0127                                                               
































































 法然はこれほどの学者であり天才であったけれども、学問と才気が到底
自分の心身を救うことはできなかった。
名聞(みょうもん)利養が如何ばかり向上するとても解脱、出離の道を示
してくれない。学問が深くなり、名誉が高くなるにつれて、彼の心の煩悶
はまして来た。

 一切経を開いてその道を求めんと繰り返し読むこと五返、釈迦の一代教
迹(きょうしゃく)の中に己れの心の落ち着き場と、踏み行くべき足跡を
見つけようとしたが、つらつら思い見れば見る程、彼もが難くこれも難い。

 そのうちに恵心僧都の「往生要集」は専ら善導大師の釈義をもって指南
としている。
そこで善導の釈義を辿って遂に一心専念弥陀名号(いっしんせんねんみだ
みょうごう) 行住坐臥不問時節(ぎょうじゅうざがふもんじせつ) 久
近念念不捨者(くごんねんねんふじゃしゃ) 是名正定之業順彼仏願故(
ぜみょうしょうじょうしごうじゅんひぶつがんこ) という文につき当た
って末世の凡夫は弥陀の名号を称することによって、阿弥陀仏の願いに乗
じて確かに往生を得るのだという確信に至り着いた。

そこで立処に余業を捨てて一向念仏に帰したのである。
これぞ承安五年の春、法然四十三歳の時。
或時法然が、「往生の業には称名にすぎた行いはありませぬ」といわれた
のを師の慈眼房が「いやいや称名より観仏が勝れている」といわれた。
法然は押し返して、「称名は弥陀の本願の業でございますからそれが勝れ
れております」
という。
師の慈眼房はなお承知しない。
「わしが師匠良忍上人も観仏が勝れているということをいわれたのだ」と
いった処が、「良忍上人も先にお生まれになったからです」と法然が云っ
たので、師の慈眼房はその不遜に腹を立てた、法然は押し返して、「され
ば善導和尚も、上来雖説定散両門之益望仏本願意在衆生一向専称弥陀仏名
(じょうらいすいせつじょうざんりょうもんしえきもうぶつほんがんいざ
いしゅうじょういっこうせんしょうみだぶつみょう)と釈をなさいました。
称名が勝れているということは明かでございまする。聖教をばよくよく御
覧になりませんで」
といった。

 法然は一向専修の身となったので、叡山を立ち出でて西山の広谷という
処に居を移したが、やがて間もなく東山吉水の辺に静かな地所があったも
のだから、広谷の庵をそこへ移して住み、訪ねて来る者があれば、布教を
し、念仏を進められた。そこで日々に信者が集って念仏に帰するものが雲
霞のごとく群ってくる。
これが浄土法門念仏の発祥地であった。

 その後加茂の川原や、小松殿、勝尾寺、大谷など、その住所は改まると
も勧化(かんげ)怠りなく遂に末法相応浄土念仏が四海のうちに溢るるに
至った。

 東山大谷は法然上人往生の地である。
その跡というのは東西三丈余、南北十丈ばかり、その中に建てられた坊舎
であるから、その構えの程も大抵想像がつく。
如何に質素倹約のものであったか思いやられて尊い。
今の御影堂の跡がそれである。

 法然が或時云う。
「わしは大唐の善導和尚の教えに従い本朝の一心(せんしん)の先徳のす
すめに任せ、称名念仏の務め長日六万遍である。死期漸(ようや)く近づ
くによって又一万遍を加えて、長日七万遍の行者である」
といわれた。

 法然が、七万遍になってから後は昼夜念仏の外に余事を交ゆるというこ
となく、何か人が来て法門の話でもする時にはそれを聞く為か、念仏の声
が少し低くなるだけのことで一向に念仏を差置くということはなかった。

 法然が或時語って云う、
「われ浄土宗を立つる心は凡夫(ぼんぷ)の報土に生るることを示さんが
為である。他の宗旨によってその事が許されないから、善導の釈義によっ
て浄土宗を立てたのである。全く勝他の為ではない」

 
法然が又或時播磨の信寂房というのに向かって、

「ここに宣旨が二つ下ったとして、それを役人が取り違えて鎮西へ遣わさ
るべき宣旨を坂東へ下し、坂東へ遣わさるべき宣旨を鎮西(ちんざい)へ
下すことになった時は、受けた人がそれに従い用うることができますか」
と尋ねた処、信寂房が暫く思案して、「それは恐れ多い宣旨とは申せ、取
り替えられたものはどうも従い用い奉ることは出来ますまい」といわれた。

そこで法然が、

「如何にも御房は道理を知れるお人である。帝王の宣旨を釈迦の遺教とし、
宣旨が二つあるとすれば、釈迦の教えにも正像末の格別があるようなもの
である。
聖道門の修行は正像の時の教えであるが故に上根上智のものでなければ称
することは出来ない。これを仮に西国への宣旨とする。浄土門の修行は末
法濁乱の時の教えであるから、下根下智の輩を器とする。これを奥州への
宣旨とする。それを取り違えてはならない。
大原談義の時聖道浄土の議論があったが、法門については互角の議論であ
ったが、気根比べにはわしが勝ったのじゃ。聖道門は深いというけれども
時が過ぎれば今の機にはかなわない。浄土門は浅いようであるけれども当
根に叶い易いと云った時、末法万年余教悉滅余教悉(しつ)滅弥陀一教利
物偏僧の道理に折れて人々が皆心服したのだ」
と。

                                     二尊院
CIMG0020



















 支那でも浄土の法門を述べる人師は多いけれども、法然は唐宋二代の高
僧伝の中から曇鸞、道綽、善導、懐感、小康の五師を抜き出でて一宗の相
承をたてた。
その後俊乗房重源が、入唐(にっとう)の時法然が云うに、
 「唐土に右の五祖の影像があるに相違ない。必ずこれを持っておいでな
さい」

 そこで重源は彼の地へ渡った後あまねく探し求めると、果たして法然の
云うた通り右の五僧一幅に描いた画像を見つけることが出来て重源は法然
の鑑識の透徹していることに感心したそうである。
この重源将来の画像はその後二尊院の経蔵に安置せられていた。

                二尊院絵図
CIMG0030



















 法然が黒谷で華厳経の講義をしていた時に青い小さい蛇が机の上にいた。
それを居合わせた法蓮房真信空に向かって、「この蛇を取ってお捨てなさ
い」と法然が云えば法蓮房は生来非常の蛇嫌いの人であったけれども師命
背き難く、こわごわその蛇をまえ、明り障子を開き塵取りに入れて投げ捨
て障子をたてさせて帰ってみると蛇が尚元の処にいた。
それを見ると体中から汗が出てわなわな顫(ふるえ)上がった。
法然がそれを見て
「なぜ取り捨てないのか」
と叱る。
法蓮房は今あった儘を然々(しかじか)と答えると、法然は黙って何も言
わなかった。
その夜法蓮房の夢に「大竜は形をあ現わして、われは華厳経を守護する処
の竜神である。恐るるな」と云うと思って夢が醒めたということである。

 この類の奇瑞がまだた沢山ある
 「上西門院は深く法然に帰依していたが或時法然を請じて七ヵ日にとの
間説戒(せつかい)があったが、円戒の奥旨を述べていると一つの蛇がカ
ラガキの上に七ヵ日の間じっとして聴聞の様子に見えた。
見る人が怪しがっているうちに結願の日になるとその蛇が死んで了ったが、
蛇の頭の中から一つの蝶が出て空に昇と見た人もあり、天人の形で昇ると
見た人もある。

 又法然が叡山の黒谷で法華三昧を行っていた時普賢菩薩(ふげんぼさつ
)が白象に乗ってま眼のあたり
道場に現われたこともあれば、山王の影が現わしたこともあったという。

 或時は蓮華が現れ、ある時は羯磨(かつま)が現われ、或時は宝珠が現
われるといったような奇瑞

善導大師に就ては殊に傾倒が深かったと見え、紫雲棚引く曠野世界の中に、
善導大使と対面なしたという夢を見たが、醒めて後、乗台(じょうだい)
という画工に夢に見た処を描かせた。
それが世間に流布して「夢の善導」という図になっているが、その画像は
後に支那から渡ったところのものに違わなかったということである。

 生年六十六歳、建久九年正月七日別時(べちじ)念仏の間には特に様々
の異相奇
瑞が現われたということが、自筆の「三昧発得記(さんまいほっとくき)
」というものに見えているということである。











 午後から御瀧(おたき)神社に出かけてみました。

 御瀧山不動尊金蔵寺と御瀧神社が併設されていますが、一般的には御瀧
神社と呼ばれています。

                           御瀧山不動尊金蔵寺

 CIMG0036     



 




















 
  境内に御瀧山不動尊金蔵寺の縁起の碑がありました。
 CIMG0035




















  
 御瀧山金蔵寺は今より、室町時代応永三十年称光帝御世に能勝阿闇梨に
よって創建されました。

 縁起によりますと、当時この地に光輝を発すること連夜に及び、近郊の人々
等不思議に思い又、その神々しさに畏怖しておりました。
 たまたまこの地を通りがかった能勝阿闇梨は村人の願いによりこの地に留
り、修法祈念をこらしますと阿闇梨の夢枕に高僧たちいでて曰く「我が一刀三礼
の不動明王像此の地に伏蔵す」と。
 
 阿闇梨改めて護摩共を修して尊像を掘り出すと、その所より清水湧き出して瀧
となりました。
 尊像を御堂に奉安し瀧水にて身を浄めて供養しましたところ、当時近郊に蔓延
しています疫病がしずまり村人など富貴を得たと記されています。

 江戸時代に入るやこの地が幕府直轄領と定められ居住の禁止に伴い住居を元
村に移しました。

 禁止令が解除されると共に再び隆昌に向い今日の基礎を作りました。

 現在も瀧は湧き溢れて船橋を流れる海老川の源流として知られ、また、病魔、
断病として飲料されています。

 小生もこの瀧の水を柄杓を使って飲んできました。
 

CIMG0038





































                 御瀧神社

 CIMG0037                                            





















 不動明王とは、大日如来の教えを実行するために、弘法大師伝く「不動尊は
黒色にして極念怒なり、左手には索を持ち右手には宝剣を持ち盤石の上に座
す。 並びに大火災の中にあり大功の日のごとし」
の姿形をなし障難を百由句の外に退け化用を三摩地の中に施し、真言を呪す
れば、その光徳は拡大無辺にして厄除開運の功顕はかりがたしといわれてい
ます。

 この記事を書きながら、真偽は定かではありませんが古文書などにそのような
記録があるのだと思います。
 また、霊感の発達した人はいつの世も実際に存在するので、このような現象は
信じてもよいと思います。
 空海も超能力者であったと歴史は伝えています。
 勉強になりました。ありがとうございます。

このページのトップヘ