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カテゴリ: 文化の大切さ

 以前、クラーナハ展を鑑賞しにこの「国立西洋美術館」を訪れたころは
、前庭の彫刻にも無関心で、漫然と見すごしていましたが、今回、勉強さ
せていただきましたので、次回はゆっくり鑑賞したいと思っています


   オーギュスト・ロダン
 フランス、Ⅰ840-1917

 私は美しい

 1885年頃 (原型)
 ブロンズ
 70×32×33㎝
 松方コレクション

 1887年頃に写されたロダンのアトリエの写真に、《地獄の門》石膏
像が写っている《地獄の門》の制作過程を物語る重要な写真である。ここ
には、ティンパヌムのすぐ下で、むなしく背後の空間に身を投げ出されそ
うになりながら、張り出しをつかもうともがく男、いわゆる《堕ちる男》
が見られる。この人物は彫刻の枠から飛び出し、まるでだまし絵の中の人
物のように、彫刻の内部とその外側の世界をつなぐ存在である。この人体
像は「うずくまる女」と組み合わされて、右柱の上部にも見ることができ
る。
この組み合わせは《私は美しい》の題名で知られる単属像となった。
ここでは「堕ちる男」は身を起こし、両足でしっかりと女性の身体を支え
ている。よく見ると、「堕ちる男」」も「うずくまる女」も組み合わせの
過程で、わずかに腕や脚の位置が変更されているのがわかる。この二人像
は、1886年、「発情の習作」という題名でパリの画廊に展示された。
ロダンのアサンブラージュとしては、最も早い時期の作品ということがで
きる。台座には、ボードレールの詩「第17歌、美」の最初の4行が刻ま
れている。「おお死すべき者どもよ!私は美しい、石の夢のように、/そ
して人々がかわるがわる触れては傷ついた、私の胸は、/物質と同じよう
に永遠で無言の愛を/詩人の心によびさますように作られている」

               私は美しい
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  オーギュスト・ロダン
 フランス、Ⅰ840-1917

 美しかりしオーミエール

 1885-87年 (原型)
 ブロンズ
 50×31×24㎝
 松方コレクション

 この作品は、1889年、アンジェで開催された展覧会で初めて発表さ
れたときには、「老女」という題名であった。以来、この作品については
批判、賞賛ともに数多くの言及がなされている。それほどに、この老いて
肉が垂れ下がり、手足は骨と皮ばかりになった女性の身体表現が見る者に
強い衝撃を与えてきたといえるだろう。《美しかりしオーミエル》という
題名は、フランソワ・ヴィヨンの『遺言集』(1461年頃)の中で、かつ
て絶世の美女とささやかれた老女に由来している。文学にに由来するもの
であるが、作品はむごいまでの写実性を併せもっている。《地獄の門》の
左の柱下部には、同じモデルによる老女の姿が、若い女性や幼児とともに
表現され、女性の一生が示されている。

 当時の批評ではそのあまりの醜い表現に恐怖を訴えるものもあったが、
ロダンはあくまでも本作を通じて美を示そうとした。ただその場合の美
は、一般に考えられる心地よさとは別のものであった。芸術家は「魔法
の杖の一振り」で一般には醜いと思われているものをとらえて美に変え
ることができる。
このように説くロダンは、本作を示しながら、美/醜と個性を別物と捉え、
真の芸術家は個性、つまり目の前にある自然の真実を捉える者のことを
いうと断言している。

         美しかりしオーミエール 
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  オーギュスト・ロダン
 フランス、Ⅰ840-1917

 接 吻

 1882-87年頃 (原型)
 ブロンズ
 87×51×55㎝
 松方コレクション

 本作は、1881-82年に《地獄の門》の一部として構想されたもので
、1887年、単体像として初めて発表されたときには「フランソワーズ
・ド・リミニという題名であった。イタリア名フランチェスカ・ニミニは
ダンテの『神曲』「地獄篇第5歌」に登場する女性で、接吻の相手はパオ
ロ・マラテスタ。年老いた夫のいるフランチェスかは、夫の年の離れた弟
バオロと読書をしていたときに互いの愛を確認してしまう。そこに突然現
れた夫によって、その場でふたりは殺され、地獄で永遠に背中合わせに風
に運ばれ、漂う罰を受けることとなったのである。『神曲』では、さめざ
めと涙を流すフランチェスカの姿が描写されている。 

 この二人象は、第3マケット左扉の中央にその姿が認められるとおり、
早い段階から《地獄の門》の主要モティーフのひとつとなったが、最終的
には《地獄の門》から取り外された。理由としては、この作品が不倫とは
いえ真実の愛の歓びを呼び起こすものであって、《地獄の門》全体の壮絶
な悲劇性とそぐわないと判断されたからと考えられる。結局《地獄の門》
には「バオロとフランチェスカ」の主題で別の二人像が加えられた。

 1898年のサロンでは、(接吻)の大型の大理石像が(バルザック)
石膏像とともに出品された。出品前から後者がスキャンダルを
巻き起こすことを予想していたロダンは、かたわらに甘美で伝
統的な主題の(接吻)を置く
ことにより、評価を落ち着かせようと
考えたのだった。ロダンが意図したとおり、《接吻》はその造形の簡潔
な美と印象的なふたりの組み合わせにより大成功を収めた。

            接 吻
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  オーギュスト・ロダン
 フランス、Ⅰ840-1917

 カレーの市民

 1884-88年頃 (原型)
 ブロンズ
 180×230×220㎝
 松方コレクション

 本作はロダンの記念碑彫刻としては最初に設置が実現したもので、英仏
海峡に面したカレー市の依頼で制作された。主題は、カレー市で14世紀
にイギリス軍の攻撃から町を守った6人の英雄たちの史実に由来する。ロ
ダンは完成に至るまでに、全体構成を示す二つのマケットと個々の人物の
裸体および着衣習作や各部位の秀作を多数残している。市側からは中心人
物ユスターシュ・ド・サン・ピエールひとりを英雄的に扱った像を要望さ
れたにもかかわらず、ロダンが第1マケットから主張し続けたのは、6人
全員を等しく同じ高さに配置する構成であった。
さらにロダンとカレー市民の間の意見の相違は人物表現、台座の高さ、設
置場所など様々な点に及び、そのたびに両者の間には厳しいやりとりが交
わされた。とくに人物たちの堂々とした英雄的な態度にはほど遠く、苦悩
と失意に打ちのめされた様子で表現されていることに市側は当惑したが、
結局ロダンは本作を6人の複雑な心理劇として完成させることに成功した。
各人物の個性が際立つ群像であるが、ロダンは《地獄の門》でも見られた
ような、同じ型からなる形の反復をここでも利用している、記念碑《カレ
ーの市民》は、1895年、1.5メートルほどの高さの台座に載せられ
、カレー市のリシュリュー広場に設置された。ロダンが当初希望していた
のは、台座をなくし、現実の人々の視線と同じ高さに設置することであっ
たが、この案はロダンの没後1924年になって、カレー市庁舎前に移設
されたときにようやく実現した。

            カレーの市民
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  オーギュスト・ロダン
 フランス、Ⅰ840-1917

 オルフェウス

 1908年 (原型) 1921年(鋳造)
 ブロンズ
 146×80×126㎝
 松方コレクション

ロダンは本作と別にギリシア神話のオルフェウスとエウリュッディケの
物語から、大理石彫刻を制作している。愛する妻を失ったオルフェウス
が、冥界から妻を取り戻すという物語は、象徴主義の画家たちに好まれ
た主題で、ロダンもそうした傾向を共有していたといえる。
大理石像が、背中に妻を背負い左手で眼を覆ったオルフェウスが、不安に
苛(さい)まれながら力なく歩みを進めている場面であるのに対し、本作
は激情に駆られたドラマティックな表現となっている。
本作では、冥府の王ハデスとの約束を守らずに地上に出る直前で
妻の方を振り返ってしまったために、
妻が冥界に引き戻されてしま
った後の場面であろう。竪琴をかきむしるように掲げ、懇願する右
腕を虚しく宙に突き出している。

 この作品については、1902年にプラハで最初に展示されたときには、
「殉教者」と呼ばれる女性像がオルフェウスの上部に据えられた二人像(石
膏)として展示され、後にオルフェウス単独像に変更された。腕の長さや
跪づいた足の位置、手や指の細部など、さまざまな箇所で人体としては不
自然な形がとられているが、彫刻としてバランスをとるためにあえて自然
な身体の形を無視しているともいえる。

         オルフェウス
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   オーギュスト・ロダン
 フランス、Ⅰ840-1917

 バルザック(習作)

 1908年 (原型) 1921年(鋳造)
 ブロンズ
 106×45×38㎝
 朝日新聞社より寄贈

 本作は1891年に文芸家協会から記念碑として発注され、制作が進め
られた。1850年に死去したバルザックの特徴を把握するために、生ま
れ故郷のトウールでこの地方の人の特徴をつかもうとするなど、ロダンに
とっては偉大な文豪と正面から取り組む機会となったが、習作の段階から
文芸協会との軋轢が続いた。ロダンが提示した本人とは似ていない尊大な
顔つきや腹の出た醜悪な姿を、協会側は習作の段階から受け入れることが
できなかったのである。
ロダンの意図はバルザックの姿を写実的に彫刻するよりも、芸術に向かう
精力的な姿勢や自信を、無駄のない本質的な形で表現することにあった。
完成作品は、1898年のサロンに、ガウンに身をまとった高さ3m近い
石膏像として出品された。そしてそこで文芸家協会は、本作の受け入れ拒
否を正式決定したのである。この決定に対してロダンの周囲の彫刻家、画
家、批評家たちは反発を示し、本作を巡っては激しい論戦が展開された。
彼らは《バルザック》のバランスの取れたフォルム、頭部と身体のコント
ラストを賞賛し、彫刻の未来を予告するものとして高い評価を与えた。
逆に批判者たちは不格好なフォルムを解けた塩の塊やずた袋、融けて垂れ
下がった蝋燭になぞらえ中傷した。
本作ではグロテスクとも批判された誇張された頭部に対して、弓なりに反
った体、袖を通さず肩から掛けられた部屋着が簡潔な形を強調する。画的
に作り出される陰影の美しさは、写実派のエドワード・スタイケンがロダ
ンの求めに応じて、月光の下で撮影した写真によく表れている。

        バルザック(習作)
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  エミール=アントワーヌ・ブールデル
 フランス、1861-1929

 弓をひくヘラクレス

 1909年 (原型) 1921年(鋳造)
 ブロンズ
 250×240×90㎝

 ブールデルは「ヘラクレスの十二功業」から、スリュムバロス湖の畔に
住む怪鳥の群れを、弓1本で退治したという第6番目のエピソーどを選び、
本作を制作した。左足を岩にかけ、大きくしなった弓を体全体をバネのよ
うにして引く力強い肉体は、極めてバランスのとれた構成で表現され
る。

制作の過程で、基本的な構成を変えることなく,頭部や岩の高さ、ヘラク
レスの姿勢が少しずつ変更されたことを、多くの習作群が物語る。小さい
サイズの習作制作の後、1910年の国民美術協会のサロンに出品され、
好評を博したのは拡大作である。当時の批評では、モデルの外見を性格に
写し取るだけの写実とは異なる現実感覚が、様式的に確立された理想主義
と融合した記念碑的な作品と称賛された。
サロン出品後も変更が加えられ、第2ヴァージョンが製作された
が当館所蔵の2作品(「習作」と「拡大作」)はともに、岩
の部
分に他の功業の浮彫が施される前の第1ヴァージョンである。習
作で慎重に組み立てられた構成や人体の細部は繊細さを感じさせるが、拡
大作では力強さが加えられ、見る者を圧倒する。1925年の現代産業装
飾芸術国際博覧会では、小さいヴァージョンがアールデコを代表とする装
飾美術家リュールマンによる家具と組み合わせで展示された。

                 弓をひくヘラクレス

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  アリスマティード・マイヨール
 フランス、1861-1944

  

 1902-09年 (原型) 
 ブロンズ
 106×57×108㎝

 フランス近代彫刻史におけるロダンの影響力は圧倒的であり、彼の後の
世代の彫刻家たちにとっては、ロダン芸術の継承か断絶は常に意識せざる
を得ない課題となった。
南フランス、スペインとの国境に近いバニュルス=シュル=メール出身の
マイヨールもそうした彫刻家のひとりであった。マイヨーるは画家を志し
てパリにでるが、18
95年頃から彫刻制作を始め、彫刻家としてサロン
で高い評価を受け、次第に公共の制作を受けることになる。
 本作はサロンド・ドートンヌで最初の成功をもたらした《地中海》(19
05年)に続く作品である。膝を立てて座る裸体の女性が両腕の間に顔を沈
める像で、《夜》という題名が付けられた。ロダンにもうずくまるポーズ
の裸体女性像は数多くあるが、それらが盛り上がった筋肉や腱を露(あら)
わにし、抑圧された感情をほとばしらせるかのように表現されるのとは異
なり、マイヨールの作品ではすべての面が滑らか曲線で構成され、安定感
のある静謐(せいひつ)な印象を見せる。丸い背中から水平に張りだした
両腕、球状の頭部、三角形を形作るように折り曲げた両足など、単純化さ
れた形が調和のとれた輪郭線でつなぎ合わされている。サロンに出品され
た本作を見て、ロダンは生命に満ちた「建築」的な肉体表現を賛美したと
いう。

                       夜
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 以下の彫刻は、国立西洋美術館所蔵の作品です。美術館の前庭とか、館
内に展示されているものばかりですが、迫真の造形美だと思います。
《彫刻》2でもひきつづき紹介をさせていただく予定にしています。
 学芸員の方に、館内に展示されているブロンズの彫刻象を観て「この彫
刻群は本物ですかと、質問したことを今は恥じています。この青銅の彫刻
は鋳型に溶融金属(銅)を流し込んで成形しますので、鋳型が本物であれ
ば鋳造した作品もしかりです。従がいまして、注文に応じて作品は幾つで
も造られるということです。

 ジャン=バティスト・カルポー

 フランス、Ⅰ827-1875
 ナポリの漁師の少年

 1857-58年(原型)
 ブロンズ
 90×46×53㎝

 カルポーは19世紀中盤にローマ賞を受賞しイタリアで勉強したのち、
注文によりナポレオン3世の家族の肖像やオペラ座の正面を飾る彫刻を制
作するなどして活躍した彫刻家である。
生き生きとした表情や躍動的な動きを見せる人物表現が、余りに世俗的で
あると酷評を受けることもあったが、こうした写実的な特徴が次世代に影
響を及ぼし、近代彫刻の萌芽(ほうが)を示す彫刻家とされる。

 《ナポリの漁師の少年)は大作《ウゴリーノ》とともに、カルポーがロー
マ賞を受賞し、奨学金を得てローマに滞在している間の課題として製作さ
れた。カルポーにとっては初期の代表作である。モデルについてカルポー
は滞在先のナポリで見つけた11歳の少年としている。
実際に、ポーズは少しずつ異なるが同じ帽子をかぶり、ときに網のような
ものを繰る裸体の少年象を、イタリア時代の素描帖の中に見出すことがで
きる。裸体の漁師の少年を表した彫刻としては、フランソワ・リュードな
どサロンで成功を収めた先行例がいくつかあり、これらの作品からの影響
を否定することはできない。細かくしなやかな体つきの少年は跪(ひざま
ず)き、貝の音を聞くように耳にあてているが、ねじった上半身から下半
身への流れのあるポーズは、ヘレニズム期の《うずくまるヴィーナス》な
どに見られる伝統的なものである。本作はサロンで発表されると好評を得
る一方で、いたずらっぽい横目で歯を見せて笑う少年の表情が品位に欠け
ると批判された。こうした評価は、後にオペラ座に設置された《ダンス》
にも向けられることとなる。

         
         ナポリの漁師の少年
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 オーギュスト・ロダン
 フランス、Ⅰ840-1917

 青銅時代

 1877年(原型)
 ブロンズ
 181×66㎝
 松方コレクション

 《青銅時代》はロダンが初めてイタリア旅行から戻ってすぐに制作した
作品で、彼の主要作品としては最初のものである。イタリアで目にした古
代彫刻やミケランジェロの作品をはじめとするルネサンスの彫刻や絵画に
触発され、その成果を表したものである。この作品は、1877年1月に
ブリュッセルの展覧会で発表されるとすぐに高い評価を受ける一方で、ス
キャンダルに見舞われた。左足を軸足として軽く腰をひねるポーズは、古
代彫刻にもみられ伝統的なものであったが、そのあまりに生々しい写実性
と主題の曖昧(あいまい)さにより、批評家たちから生きたモデルから直
に型取りしたものと勝手に判断され、批判を受けたのである。この批評は
パリにも届き、同年のサロンに応募した際、本作は同じ理由で批判された。
まったく根拠のない批判に対し、ロダンはモデルに同じポーズをさせた写
真を提示し反論を試みている。
この作品が真価を認められ、政府の買い上げとなったのはそれから3年後
であった。本作は1870年の普仏戦争を想起させる「敗北者」と題され
たこともあったが、ロダンは後になってこの作品に人間存在の起源を示す
《青銅時代》という題名をつけ、歴史上の具体的な内容とは異なる普遍性
を与えている。

           青銅時代
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 オーギュスト・ロダン
 フランス、Ⅰ840-1917

 説教する洗礼者ヨハネ
 1880年(原型)、1944年鋳造
 ブロンズ
 201×58×127㎝

 《青銅時代》に続く初期の大作であり、1880年のサロンに石膏像が
、翌年ブロンズ像が発表された。主題は聖書からとられた洗礼者聖ヨハネ
であるが、伝統的なヨハネ像がしばしば手に持つ杖はなく、皮衣も身に着
けない裸体で表現されている。両足を前後に大きく開き、訴えかけるよう
な表情から、預言者として荒野で人びとを先導する姿が想起される。
この作品の制作の契機について、ある日、モデルの仕事を得ようと偶然ア
トリエを訪れたイタリア人の粗野で力強い肉体に神秘性を見出したロダン
は「これは歩く男だ!」と叫び、すぐにこの主題を思いついたと語ってい
る。
 背中や脚部などに筋肉のうねりが顕著に表されているが、歩くという動
きに対して身体の各部分の形は不自然に見える。開いた両足には体重の移
動がなく、人間が前進する動きではない。また右肩の関節の位置は解剖学
的に正確とはいえず、よく見ると腕も異常に長い、しかし部分的に見ると
不自然な身体の各部は、総合されたときに美しいシルエットと強い説得力
をもって観者に訴えかける。右足を前に出すのと反対に上体を右にわずか
に回転してできる身体のねじれには、ロダンが古代やルネサンスの彫
刻から学んだ身体表現の法則が転用されている


        説教する洗礼者ヨハネ
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 オーギュスト・ロダン
 フランス、Ⅰ840-1917

 地獄の門

 1880から90年頃/1917年(原型)、1930-33年(鋳造)
 ブロンズ
 540×390×100㎝
 松方コレクション

 ロダンは、1880年、建設予定の装飾美術館のための門の注文を受
ける。高さ5メートルを超える門を飾る浮彫りには、ダンテの『
神曲』「地獄篇」が主題として選ばれたが、これはロダン自身の

選択だったと考えられる。
最初は、フィレンツエ大聖堂の礼拝堂の扉に見られるドナッテロ作《天国
の門》にならい、扉をいくつかのパネルに分け、それぞれのパネルに物
語を展開させる案が考えられた。しかし第2マケット以降、システィー
ナ礼拝堂のミケランジェロによる壁画《最後の審判》のように、全体に
多数の人物像を渦巻くように配した構成がとられるようになった。
ダンテの詩に登場する特定の人物は極力はずされ、最終的には「ウゴリー
ノ」、「パオロとフランチェスカ」、「フギット・アモール」など一部の
登場人物が残されるのみとなった。
《地獄の門》全体には200体を越える人体像を見出ですことができるが、
その中心となるのは、ティンパヌム中央の置かれた「考える人」である。
門の最上部には「三つの影」が置かれている。「ここへ入るものは、あら
ゆる希望を捨てよ」のメッセージを告げているこの像は、見る者の視線を
「考える人」へみちびく役割も果たしている。結局、装飾美術館建設計画
は頓挫し、《地獄の門》はロダンの生前にブロンズで鋳造されることはな
かった。
この作品の制作過程や詳細については、1900年の展覧会に、丸彫りの
人体像を取り払った土台だけの《地獄の門》が展示されたほか、ロダンの
アトリエを訪れた何人かの友人や批評家たちによる報告が残り、その制作
過程をある程度たどることができる。ロダンが亡くなったとき石膏像のま
ま残されていた《地獄の門》の鋳造を最初に注文し実現させたのが、松方
幸次郎であった。

            地獄の門
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 オーギュスト・ロダン
 フランス、Ⅰ840-1917

 アダム
 1881年(原型)
 ブロンズ
 198×76×84㎝
 松方コレクション

 1880年にフランス政府から依頼を受けた《地獄の門》には、その左
右に《アダム》と《エヴァ》が設置されることが計画されていた。
ダンテの『神曲』「地獄篇」を主題とした「門」では、現世で罪を犯した
多数の人々が苦悩と悲しみの中に浮遊している。アダムとエヴァは人類最
初の罪人として、「門」の主題につながる。《エヴァ》が両腕を胸の前で
組み、顔を背けるポーズで苦しみながらの抵抗を示しているのに対して《
アダム》は大きく首をうなだれ、両腕も力なく落とし、諦めの表情である。
この《アダム》の肩と腰を大きくねじったポーズは、数年前に初めて訪れ
たイタリアや、ルーヴル美術館で目にしたミケランジェロの人物像に由来
する。
システィーナ礼拝堂の天井に描かれたアダム像、あるいはフィレンツエ大聖
堂の《ピエタ》、ルーヴル美術館の《奴隷》などが源泉として挙げられる。
滞在するフィレンツエから恋人ローズに向けて手紙を書いたロダンは、ミケ
ランジェロの彫刻の前でスケッチをするのではなく、宿に帰ってから記憶
をもとに素描を描いたといっている。ロダンにとってミケランジェロとは
単に模倣の対象ではないのである。記憶の中に一度落とし込まれ、自分の
ものとして出てきた形が《アダム》や《エヴァ》、《青銅時代》などに結
びついたといえるだろう。結局、《地獄の門》は当初計画されていた装飾
美術館の建設が変更になったため、ロダンが亡くなるまでアトリエに置か
れ、両脇に《アダム》と《エヴァ》を配置する構想も生前に実現すること
はなかった。

             アダム  
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 オーギュスト・ロダン
 フランス、Ⅰ840-1917

 エヴァ
 1970年(原型)、1945年(鋳造)
 ブロンズ174×67×77㎝
 松方コレクション

 《アダム》と《エヴァ》はともにロダンがイタリア旅行から帰ってまも
ない1881年から制作が始められており、重量感のある身体のねじれな
どに見るとおり、フィレンツエやローマで見たミケランジェロの圧倒的な
人体表現の記憶が最も強い時期の作品である。《エヴァ》のポーズの源泉
としては、システィーナ礼拝堂の《最後の審判》中の《エヴァ》との関連
が指摘される。《エヴァ》のモデルになったのは、ロダンお気に入りのモ
デル、アブルッツエージ姉妹のうちのほとりである。ロダンによると、1
881年に制作が始められた《エヴァ》は制作の途中でモデルの妊娠が発
覚し、結局はモデルがアトリエに来なくなったことで未完のまま残された。
このヴァージョンは未完のまま、のちに鋳造された。当館所蔵の
《エヴァ》は、このときのヴァージョンをもとに大理石で彫られ
た作品が原型となっており、《エヴァ》の背後に岩があることか
ら「岩の上の《エヴァ》とも
呼ばれる。
第1バージョンよりも表面が滑らかに仕上げられ、頭部などの細部も形が
明瞭である。しかしロダンはのちに、この「石による完成版」よりも未完
の《エヴァ》の方が表現性が高いという考えを示している。

             エヴァ 
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オーギュスト・ロダン
 フランス、Ⅰ840-1917

 考える人(拡大作)

 ブロンズ
 186×102×144㎝
 松方コレクション

 《地獄の門》の上部中央に据えられ、地獄の諸相を見下ろす「考える人
」は、当初題材である『新曲』「地獄篇」の作者である詩人ダンテを表す
ものであった。そしてこの像が《地獄の門》から切り離され、拡大版が単
独像として初めてコペンハーゲンの展覧会に出品されたとき(1888)、
その題名はダンテやボードレールを意識して「詩人「」とされた。
こうして単独像としての歩みを始めた《考える人》は、特定の詩人を示す
のではなく、広く(思)する人、さらには「無名の創造者」として普遍的
な意味での「考える人」になっていった。
他方、ロダンが彫刻家であると同時に「詩人」でもあるという言い方は、
同時代の象徴主義の批評にしばしば見られる。ここではロダンは「偉大な
る絶望詩人」、「情熱の詩人」魂の詩人」と称されている。詩人ダンテに
始まった《考える人》は、彫刻を含むすべての創造者とされ、魂の詩人と
しての彫刻家ロダン自身へとつながるのである。
 《考える人》は約70㎝のサイズをオリジナル・サイズとして制作され
、1902-03年に職人のルボセにより拡大された。本作は拡大される
ことで、腕や足の各部、背中の筋肉表現などがより誇張され、観る者にさ
らに強い印象を与えることとなった。注文に応じ多数のブロンズ
像や大理石像が制作され、市民の募金によって本作をパリのシン
ボルとして設置する計画がもち上がり
、1906年にはパンテオン
の前に設置されることにもなった(1922年に撤去)。

            考える人        
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 1930年から1937年の作品群

 さまよう画家


 藤田が17年ぶりに日本に帰国するのは1929年9月のことである。
藤田自身の後の回想によれば、老齢となった父親(当時70代半ば)と再会
を果たし、親不孝を詫びるためというのが理由とされているが、当時生活
を共にしていたユキによれば、この帰国は日本での個展の開催と作品の売
却を目的にしたものだという。帰国の直前、藤田は過去の税金の滞納を告
発され、膨大な額の税金を納める必要に迫られ、その金策のための帰国だ
ったというのである。この二つの現実的な理由に加えて、もう一つの別な
理由が挙げられるかもしれない。藤田自身に対する誤解と、それを基にし
た不正確な作品評価をただすための帰国、という理由である。先に述べた
ように、藤田はその奇抜な外観や派手なパフォーマンスによって、しばし
ば宣伝屋のレッテルを貼られ、高い人気も作品そのものの実力ではなく、
宣伝上手によるものであるという、中傷ともいえる批判をしばしば同じ日
本人から受けていた。藤田の作品が日本で公開されたのは、1922年と
24年の帝展での出品の2回のみで、そもそも実作品に触れる機会がほと
んどない日本では、作品について正確な批評を下す知識も経験も持ちえな
いというのが当時の状況であった。一方でパリにおける藤田自身の言動に
ついては、在住の日本人たちを通して面白おかしく日本に伝えられ、一面
的な人物評とあいまって作品の評価にまでつながっていった。藤田にして
みれば、自らの成功をねたむような批判は無視することが出来ても、精根
を傾けた作品をおとしめられるのは、我慢できなかったに違いない。一方
的な風評をこれ以上放置することはできない。画家としてのそれまでの歩
みと作品に対する自らの思いをはっきりと日本で伝える必要がある。その
決意が17年ぶりの帰国の背後にあったのではと想像されるのである。
その強い思いを言葉にしたのが、帰国して3日目に行われた公演であり、
それをもとに14回にわたって連載された新聞記事であり、さらにはその
記事をまとめた画集の文章である。「在佛十七年―自傳風に語る―」と題
されたこのやや長めの文章は、全編が自身への批判に対する反論として読
むことができる。そこに書かれたことは、煎じ詰めれば、いかに自らの人
生を芸術に捧げ、渡仏して17年の長きにわたり苦難を乗り越えながらすべ
ての努力を絵画に傾注してきたか、ということに尽きる。「自分はただ一
介の画学生として、いつまでも変わることのない若さで勉励を続けてゆく
のだ」といった表現には、藤田らしいが外連が感じられるが、「人の羨望
とか、嫉妬とかは小さなことであって、僕には、それ等を顧みている暇は
ない」というあたりは、本音が思わず漏れている。
他にも「いわゆる世間的自己宣伝は一度もしたことがない」であるとか「
僕は物質は望まない。栄華とか、世間的の虚栄は常人の望むことだ」など
と、いささか弁解じみた言葉も散見されるものの、全編を通じて絵画に対
する真摯な藤田の思いは十分に述べられている。ただ、それが素直に当時
の日本で受け止められたのか、これも藤田流の宣伝にすぎないと皮肉な目
で眺められたのかは分からない。帰国を記念して東京で開催された二つの
展覧会は、大成功に終わり、父・嗣章とは故郷の熊本やかつての赴任地、
朝鮮にまで旅行し、念願の親孝行も果たした。最早思い残すことはないと
ばかりに、藤田とユキは3か月余りの短い滞在で日本を後にするのだが、
その少し前に開かれたパーティーで、スピーチを求められた藤田は、今後
二度と日本に戻ることはないだろうと、感傷を交えながら語ったことをユ
キが記録している。「在佛十七年ー自伝風に語る―」にも、よく読むと日
本との決別を匂わせるような表現が時折見られ、あるいは藤田は最初から
この帰国を最初で最後の機会と決めていたのかもしれない。自分は結局日
本では受け入れられない存在である。といったある種の諦観が彼の心を占
めていたのだろうが。だが、1930年代の藤田の人生は、彼のそんな思
いとは全く逆の方向に進んでいく。
 1930年1月中旬に日本を発った藤田とユキはアメリカを経由して
2月半ばにパリに戻っている。アメリカ滞在はごく短く、何らか
の活動をした形跡はないが、この年の11月に藤田は再び単身

アメリカに渡り、ニューヨークとシカゴで個展を開催しており、あ
るいはその事前調査のような意味もあったのかもしれない。パリに
戻っても藤田の腰は落ち着かない。
結局1930年代の藤田は、フランスで活動したのは1930年2月中旬
から10月末。1931年3月から10月末。そして1939年の5月か
ら翌年5月までの、3年にも満たない時間にすぎない。それ以外の7年ほ
どは日本、中南米、中国といった国々を転々とする日々になる。住む場所
が次々と変わるだけではない。藤田と生活を共にする女性も、ユキからマ
ドレーヌ、そして堀内君代と代わっていく。私生活での目まぐるしい変化
は、当然彼の作風にも少なからぬ影響を与える。モノクロームに近かった
彼の画面に鮮やかな色彩がしばしば登場し、個人の邸宅の壁を飾る小ぶり
の作品ではなく、公共空間で大勢の人々に見られることを前提とする大画
面作品を頻繁に描くようになる。
しかし、その変化は一つの方向性を持った変化のようには見えない。いか
にも藤田らしい流麗な線描と淡彩で構成された肖像画や裸婦が描かれるか
と思うと、濃厚な色彩と強い筆触の構想画のような作品が混じる
など、試行錯誤というべきか、暗中模索というべきか、向かうべ
き確固とした方向性
が見出せない藤田の戸惑いを感じさせる作品
群がこの時期生まれている。
第一次大戦後の束の間の平和と繁栄を謳歌した1920年代が終わり、ニ
ューヨークでの株価暴落から世界恐慌、そして戦争へと向かう激動の19
30年代を迎えて、藤田の生活と創作も大きく揺れ動いていた。

 横たわる裸婦

 藤田の裸婦は理想と現実の一致点に存在しているが、この作品のように
デッサンの段階ではほとんど理想化が施されず、モデルの生々しい存在
感が前面に出ている。ベッドに仰向けになるモデルの姿を、やや斜め下
から、そしてかなり接近してとらえているが、モデルの肉体の量感が半
端ではない。油彩の段階になると様式化されていることもあって。量感
よりもフォルムの表現により重点がおかれるが、デッサンの段階で
は画家の目の前の存在を写し取ることに意識が注がれていて、
モデルの存在感が圧倒的である。
斜め下から
モデルを見るこの構図は、もう一つの「横たわる裸婦」に通
じるところがあるが、同一ではなく、今のところこのデッサンを元にし
たと思われる油彩は見つかっていない。

 横たわる裸婦
 1931
 52.0×92.5㎝
 紙/油彩

         横たわる裸婦 個人蔵
CIMG0100














 パリの小学校

 藤田には子どもを描いた作品が多くあり、初期から晩年までほぼ継続し
て子どもが題材になっている。特に1950年以降は子どもの絵が多くな
る、子どもに恵まれなかった藤田は、描かれた子どもたちが自分の子ども
のようなものである、という趣旨の発言をしている。彼自身大変子どもが
好きだったようで、近所の子どもや友人の子供たちとの交流を何よりの楽
しみとし、また子供たちも藤田を大変慕っていたという。
ただ、この作品が描かれた1930年前後はそれほど子どもの絵は描かれ
ていない。また単身像はあっても、この作品のように群像として描かれた
ものはさらに少なく、珍しい作例である。
シルヴィ・ビュ一ソンのカログ・レゾネによれば。1930年のアメリカ
滞在中に描かれた学校の校庭で遊ぶ子どもたちの絵があり、それが唯一の
先行例といえる。
 体操の時間だろうか。先生の身振りをまねて、子どもたちが手を広げて
互いの距離を取り合っている。《校庭》№130でも子どもたちは同じポ
ーズを取っており、藤田にとって印象的な姿だったと思われる。面白いの
は子供たちの半数以上が坊主頭になっている点で、日本であれば可能性が
あるが、パリの小学校で実際にこのような光景があったのだろうか。かな
り高い位置から見下ろす視点を取っており、自宅のアパートからつい覗い
てしまった、というような、日常の一瞬を切り取った自然な感覚にあふれ
ている。

 パリの小学校
 1931
 21.0×25.7㎝
 布/油彩、墨

      パリの小学校 下関市立美術館
CIMG0092





















 校庭

 フランスの小学校と思しき校庭で先生と児童が体操をするさまを描いた
作品は戦前にも見受けられる。戦前作と同様、本作も戯画的な面白みが特
徴であり、時代錯誤的な教師の衣服もこれにマッチしている。
鮮やかで強い赤や黄などは、これまでの作品ではそうそう同画中には使用
されなかったものである。とはいえ、このような戯画的な調子と色彩で見
る者に面白さをアピールする絵は、ニューヨーク滞在中、日本にいるフラ
ンク・シャーマンと君代宛てて送った絵手紙をはじめ、藤田の若干私的な
制作でもよく見られる。潜在的に備わっていると思わせるこのユーモアの
感覚も、藤田がフランスで広く受け入れられた遠因であろう。

 校庭
 1956
 65.3×54.1㎝
 布/油彩

          校庭 ポーラ美術館 
CIMG0101
















































 第六章 空海を知る言葉


 密教を深める同志として出会えた喜びは深く、空に漂う霧もやがて峰に
消えゆくように、この私も突然帰国することになりました。いまここで別
れれば、再びこの世でお会いすることもできないでしょう。夢でなく、心
の中にいつも、あなたのことを何度も想い訪ねるでしょう。


            「拾遺雑集」



 空海の人生を眺めてみると、いつも旅をしています、留まることを知ら
ず、道を歩いている姿が目に浮かんできます。それは、まるで小さな映画
館で単館上映されるロード・ムービーのようです。出会い、喜びはあっと
いう間に去っていきます。そして、悲しみも別れも過ぎていきます。しか
し、心に贈られた思いや修行で積んだ身体は堅固(けんご)であり、その
先の空海の人生にとってかけがえのないものになります。
 これは空海が修行を積んだ唐の青龍寺を去る際に、修行仲間だったとい
われる義操阿闍梨(ぎそうあじゃり)との別れの場面を表したものです。
 「夢でなく、心の中で、あなたのことを何度も想い訪ねるでしょう」と
いうラストを締め括る空海の言葉は、確信に満ちています。
 夢というものは「再び会うことがないもの」の象徴です。しかし、心と
心は通い合えるものであり「何度でも会うことができるもの」として空海
はとらえています。
 心が形をもっていないため、常にふりまわされ、そのとらえようのなさ
に私たちは打ちのめされます。しかし、その心をコントロールすることが
できれば、私たちは仏という存在に一歩近づくことができます。
 空海をはじめ、仏教の祖師たちは、みな旅をしてきました。それはなぜ
なのだろうか? と問うことが現代人にとっては重要です。ブッタが王宮
から出たように、三蔵法師がインドへと旅立ったように、私たちも旅立つ
ことが何かのスタートになるかもしれません。仏教への関心がはっきりと
目覚めた心の状態―『菩提心』は、人を旅させる原動力となるのかもしれ
ません。そこには旅への理由や理屈などありません。もし、そんなとらえ
方で旅をするならば、そこには終着点があります。しかし、菩提心をもっ
た菩薩たちは、皆行き着くことのない旅を続けています。
 仏教は基本的に「苦」の思想に満ちあふれています。旅をすることとは
、この「苦」との出会いの連続であると私は考えます。あえて「苦」と対
面することによって、それを克服していく、その道中なのです。
 しかし空海はそもそも「苦」というものを肯定的にとらえられるメンタ
リティーをもっていました。そのことが空海の言葉の端々(はしばし)に
見られます。その詩で謳っているように、義操阿闍梨と「再び会うことは
ない」とわかっていながら、決してセンチメンタルにはなりません。
 現代では考えられないくらい遠い国だった唐。その地を旅立つときの気
持ちは、とても複雑だったと想像されます。そして、空海という人物がも
つスケール感からすると、中国からインドへと向かいたいという思いもい
ちどは抱いたように思えます。しかし、恵果との約束を果たすために、空
海は日本へ帰国する決意をします。
 天から与えられたミッションは空海を日本へ、そして高野山へと導いて
いきます。このような旅路は空海すら想像していなかったのではないでし
ょうか。旅とは本当に不思議なものです。

 真言密教は奥深く不思議に満ちているため、文章や言葉で表現しつくす
ことができません。ですから、曼荼羅のような図面をかりて私たちに伝え
ているのです。

           「請来目録」


 仏の世界を言葉で表現することはできず、その教えを説くことはできな
いと考えたのが仏教の思想でした。しかし、密教はその教えは「説かれて
いる」と考えたのです。それが果分可設というものです。
 この空海の言葉は果分可設を説明するのに代表的な文句として、度々密
教の専門書では引用されるものです。
 では、具体的にどういうことなのか、と言いますと、曼荼羅の世界を理
解しなくてはなりません。曼荼羅には大きく分けて二種類あります「胎蔵
界曼荼羅」と「金剛界曼陀羅」です。この二つの曼荼羅はもともと別系統
の曼陀羅で、「胎蔵界曼荼羅」は大日経の世界を図面にしたもので、
「金剛曼陀羅」は「金剛頂経」の世界を図面にしたものです。
 
大日如来を含めた八仏《宝幢(ほうどう)。開敷華王(かいふけおう)
・無量寿(むりょうじゅ)・天鼓雷音(てんくらいおん)《四如来》、普
賢・文殊師利(もんじゅしり)・観自在(かんじざい)・慈氏(じし)《
弥勒》(四菩薩)》を中心とした中台八葉院(ちゅうだいはちよういん)
を中央に配し、放射状に広がっていく曼荼羅です。外側に行けば行くほど
、仏教の神々とは関係のない神様になります。中央の八葉は、蓮の華(は
な)をイメージしており、最終的な悟りが大日如来としてシンボリックに
表現されています。

 次の曼荼羅は、九つの枠に仕切られていて、そのため「九会(くえ)曼
荼羅」とも呼ばれています。中央の成身会(じょうしんえ)から時計回り
に回って右下の降三世三昧耶会(ごうざんさんまやえ)と至る過程を「向
下門(こうげもん)」といい、仏が衆生に伝えていく道筋を示しています。
 また、降三世三昧耶会から成身会(じょうしんえ)へ反時計回
りをしていく過程を「向上門(こうじょいうもん)」といい、衆
生が仏になる道筋を示しています。
 そのように見ていくと、金剛曼荼羅は「仏から人へ」「人か
ら仏へ」という互いが働きかける力を示したものという説明も
できます。

 ここで説明しているのはあくまで基本的な見方です。
 皆さんにはぜひ本物の曼陀羅をお寺でじっくり見ていただき、
思いを馳せていただきたいです。


 仏教の教えは塵(ちり)や砂のように無数に存在しますが、その中でも
「真言」が最もすばらしい。

        「五部陀羅尼問答偈讃宗秘論


 真言について説明するのはなかなか難しいです。ただし、真言というも
のは梵字悉曇(ぼんじしったん)や陀羅尼などの特殊な言語表現だけを指
すものではありません。むしろ、私たちの日常にあふれたものだと認識し
ていただければと思います。
 たとえば神社仏閣にある狛犬(こまいぬ)や金剛力士像をよく見てくだ
さい。一方は口を開けて、もう一方は口を閉じています。これは「阿吽(
あうん)」を示した表現であり、もともとサンスクリット語の「ア」
と「フーン」字が語源となっています。

 
 サンスクリット語の梵字「ア」はアルファベットでもひらがなでも始ま
りです。これは一文字で大日如来を示す文字でもあります。本不生(ほん
ぶしょう)といって、人類が誕生する以前から存在し、私たちの滅亡後も
存在し続ける永遠性をもつといわれています。ですから、密教ではこの「
ア」を最重要視するため、阿字観を基本の修行とします。

 ※阿字観の掛け軸を診ながらたまに瞑想しています。金剛寺のネット通
販で購入しました。本当は寺院で使っているような布貼りのものがほしか
ったのですが、あきっぽい自分自身の性格を考えて、手軽に購入できる紙
のもので間に合わせました。
 実際、自宅で阿字観をやる場合、なかなか環境というものがつくりづら
いです。私は寝室にかけて行っていますが、ベッドの上に坐るしかなく、
あまり下半身が安定しないため、集中力に欠けます、理想は畳部屋で一人
の環境がつくれることです。

 続いて、サンスクリット語の「フーン」という梵字は一番最後に出てく
る文字です。ひらがなの「ん」とも似ています。言語というのはさまざま
ですが、世界に共通する並び順というものがあるのかもしれません。
 空海は「吽字義(うんじき)」の中で、この吽字について述べています。
吽字とは四つの字の合成語で、阿(あ)、訶(か)、汗(う)、麽(ま)
からなると考えています。非常に簡略化した表現にすると、阿は源(みな
もと)、は因縁、汗は損減(そんげん)、麽は増益(そうやく)です。
吽の中にこれだけの要素があり、すべてのものを内包している字ととらえ
てよいでしょう。私はこの字の成り立ちを思うとき、金剛界の五智如
来を思い起こします。つまり、吽字もまた大日如来であるという
ことです。
 このように、狛犬の中に、または金剛力士像の中に、大日如来
は顕現しており、また、私たちの発している音の中にも仏は存在
していると考えるのが、密教の特色です。「阿吽」の組み合わせ
は、金剛界と胎蔵界、理と智とも考えられます。この二つはセッ
トとして完成されています。もともとは別々だったものをワンセ
ットにすることで世界観が増幅され、より真理に近い世界を演出
しています。
 また、私たちが目にする身近なお経の中にも真言
は存在してい
ます。経典に書かれている一字の中に千もの意味が隠されている
と考えています。
ということは、その言葉の真意というものは解かれるということはなく、
だからこそ、私たちはその経典から永遠に学ぶことができるのです。
 今では文字や言葉というものがあまりに日常化してしまったためために、
本来もっているそれらの力というものが認識できなくなってしましました。
しかし、今なお一つの文字が及ぼすパワーが存在する、と考えるのが「真
言」なのです。

 私は以前からあなたがこの地に来られることを知っていまして、本当に
長いこと待っていました。今日出会うことができて、何とうれしいことか。
ほんとうに、うれしい!私の命も尽きようとしているのに、法を授ける人
がいなかったのです。ただちに香花(こうげ)を支度して、潅頂壇(かん
じょうだん)に入るようにしなさい。

             「請来目録」


 唐での空海の師、恵果は夢告(むこく)によって、空海が日本から来る
ことを知っていました。「香花を支度して」とは、潅頂(密教の法を授け
る儀式。頭頂に水を注ぐ)をする際に行う「投花得仏(とうけとくぶつ)」
という行為の準備のことを指します。これは潅頂するときに目隠しをして
曼荼羅に花を投げ入れることです。そしてその花が落ちた場所によって、
その人が深い縁を結ぶ仏が決まるというものです。今日では、この儀式が
形骸化され、どの仏に落ちても『大日如来』とされます。そのことに何の
意味もないので、個人的にはぜひ本来の「投花得仏」を復活させてもらい
たいものです。
この儀式を復活するだけでも、密教の神秘性というものは格段に上がりま
す。
 さて、このようにして潅頂壇にあがった空海ですが、一度目の潅頂のと
きに花は「大日如来」に落ち、恵果は「不可思議、不可思議」といって空
海を讃えます。二度目も「大日如来」に落ちたことで、「遍照金剛」とい
う密号を恵果から授けられました。「遍照金剛」とは密教の世界では『大
日如来』を指す別名のことです

 「胎蔵界」と金剛界という密教の大きな流れを恵果から受け継いだ空海
は、それにふさわしい形で応えました。しかし、空海と恵果は出会ってか
ら半年ほどで別れなければなりませんでした。恵果の寿命はわずかしか残
されていなかったのです。空海にとって密教の法のすべてを授けてくれた
師は、あっという間に面前から消えてしまいました。このときの空海の気
持ちはどれほどつらかったでしょうか。特に密教は師弟関係を最も大切に
していましたから、これほど切ない出会いと別れはなかったのではないか
と想像します。
 仏教では「法に巡り合うことの難しさ」を開経偈(かいきょうげ)とい
う形でお経を読む際の冒頭に謳います。しかし、空海はそれ以上に「師に
出会うことの難しさ」を作品の端々で書いています。それは恵果という師
の存在がいかに大切なものだったかを物語っています。
 現代においても、この師弟という関係の重要性をもっと説いてもよいと
思います。先生というものの権威がなくなり、生徒が先生を尊敬しなくな
って久しくなります。しかし先生がどの分野においても畏敬の念をもたれ
ていないというのは悲しい状況です。
 私たちが教えを乞うとき、それはどんな立場の人であれ、「先生」です。
そして、その先生に向かって礼を尽くし、尊厳するという態度は一人の人
間として、ごく当たり前のことではないでしょうか。
 空海が恵果に対して示した態度は、絶対的であり、今日ではなかなか想
像しがたいものでありますが、密教ではごく普通の態度です。私たちも日
常生活において「教えていただく」という行為の中に、ぜひこのような尊
敬の態度を身につけたいものです。それが本当の師と巡り合うための準備
だと思うのです。師弟というものについて、問い直すためのよい言葉とし
てイメージしてみてください。

  空に浮かぶたったひとつの雲 帰る家もなく遥かなる峰を愛す

        「遍照発揮性霊集 巻第一」


 空海はたびたび自身を「雲」にたとえています。仏教では僧のことを
「雲水」とも言います。この言葉は行雲流水(こううんりゅうすい)か
ら来ています。雲が過ぎ行き、水が流れるが如く、一ヵ所に留まる
ことはないという意味です。
 「遍照発揮性霊集」には、僧としてではなく、空海が一個人
として記した詩が存在
します。基本的に個人詩集として編纂さ
れていますが、なかなか本音というものが垣間見られることは
ありません。そういう意味で、この詩は空海の人格がさらけ出
された数少ない言葉の一つです。
 誰にもしばられず自由に生き何も持たないからこそ、満たされている。
そういった精神の理想を描いているように思います。またこのような雲に
思いを馳せ、空を翔けることを夢想する少年のようにも感じます。高野山
という都から隔絶した地で、空海は禅定(心を統一して瞑想し、心理を求
めること)に入ります。そして、様々な面会を断るほど、自身の行を大切に
していたようです。このことは数々の書簡に残されています。
 ところで、「空海」という名はいつから名乗っていたのか、じつは定か
ではありません。一説によれば、教海(きょうかい)、如空(にょくう)
という名を経て空海に至ったといわれています。しかし、もし、教海や如
空という名だったら、今日のような巨大な存在になっていたでしょうか?
ちょっと想像できません。
 「名」に重要性はあらゆる宗教で説かれています。そして、空海も「名
付けることは命を与えること」と考えていました。
 空海が文章論や字書(じしょ)を遺したことは、言葉や文字のもつ可能
性を誰よりも感じていたからではないかと想像できます。そこにも名のも
つ重要性は同様に説かれています。
 名ということから考えると「空海」という僧侶は僧名はこれ以上ないほ
ど「わかりやすく」「好感度が高く」「グローバル」です。そして空海は
そのことを完全に意識してコピーライティングしていると思います。
 ここで先の空海の詩をもう一度読んで見てください。「空」に浮かぶ「
雲」そして「峰」です、もう少し想像が許されるならば、高野山上空から
「海」が見えてもいいのではないでしょうか。
 空海がこのように自然の詩を詠む事は、むしろ密教を語る以上にふさわ
しく思えます。そもそも宗教家としてはあまりに自由であるため芸術家と
して見た方が空海という人は理解できます。
 「空」と「雲」というコントラストは、当時の人にも現代人にも容易に
想起できる心地良さがあります。空海自身も、このイメージをとっても気
に入っていたように思えます。思考というものが透明になるまで研ぎ澄ま
され、ごくシンプルにつくり出された詩だと思います。
 この詩は日常の些末なことを思い煩っているときにイメージしていただ
くと、軽い瞑想状態に入ることができます。空海が見た雲と空の形はどん
なものだったでしょうか。そして、その先には「空と海」が見えたのでし
ょうか。みなさんも、自由に想像して大空を翔けてみてください。

 もう、食事の用意はやめてください。必要ないんですから。これからあ
の世に行くのに、人間の食べ物をとってもしょうがない。

           「空海僧都伝」


 高野山で最も重要な場所は「奥の院」で、そこは空海が永眠している御
廟(おびょう)です。奥の院には毎日午前五時三十分と午前十時三十分の
二回、食事のお供えがあります、このお世話係は唯那(ゆいな)と呼ばれ、
僧の中でも特別な役割をもち神聖視されています。しかし実際にこの奥の
院で何が行われているのかはわかりません。また、御廟に眠る空海がどの
ような状態にあるのかも謎です。
 真言宗では空海は死んだわけではなく入定(にゅうじょう)し
ているのだ、と考えられてます。つまり、まだ現在も生きている
のです。未来のいつの日か弥勒
菩薩と共に空海は甦るのだ、とい
う信仰があるほどです。
勒菩薩とは、ブッタの死後、56億7000万年後に私たちのもとに出
現して救ってくれる仏です。その弥勒と空海とがいつの間にか歴史の中で
重なってきました。それは、空海自身が弥勒菩薩を信仰していたというこ
とと関係しているようです。ですから、この言葉は、そのような入定信仰
と弥勒信仰とが結びついた「弟子たちの願望」が込められていると
いってもいいでしょう。実際に空海が言ったかわかりませんが、
私にはリアリティーがあるように思います。

 「人間の食べ物をとってもしょうがない」とは死を間近にした空海がい
かにも言いそうに思えます。例えば空海を「遍照金剛」すなわち大日如来
ととらえればこの文章に無理はありません。もし空海が「自身即ち大日如
来」であると考えていたならば、仏として当然の発言です。あの世ではま
ったく違った次元と空間で生きるのですから、この世の食事をとっても意
味はないわけです。
 しかし、私はこの入定信仰というのは空海にとって悲劇だと思っていま
す。なぜなら、死後の空海は仏としてではなく弘法大師という「神」とし
て祀られ、密教の思想よりも神としての存在が人々の心をとらえているか
らです。
 空海は単に仏教の法を求めて唐にわたりました。そして、最高の仏教を
日本にもたらしました。そんな空海ですら、弘法大師信仰が定着してしま
うとは考えていなかったことでしょう。
 私は空海のことを「空海」と呼び捨てにしています。「お大師さん」と
言ってしまうと、何やら盲目的に信仰しているような、そして、空海の思
想から全く出られないような気がするからです。
 空海がもたらした密教は、現在の日本において、そして、これからのグ
ローバル化する社会において、とても有効な教えです。なぜならば、密教
とはあらゆるものを内包してしまう力を持ってい
るからです。つまり限り
なく大きな乗り物(器)であるため、さまざまな教えをすっぽり収めること
ができるのです。
 空海という存在は密教を学ぶための一つの入口にすぎません。もちろん、
空海ファンとして密教を楽しむということでいいと思います。ですが、せ
っかく素晴らしい教えがあるあるのですから、その教えを日常生活の中に
取り入れてこそ、本当に楽しむことができるのではないでしょうか。
 「人間の食べ物をとってもしようがない」という空海が放ったメッセー
ジは、私には、仏として生き切った一人の僧の気合に感じます。




















 第五章 愛を感じる言葉

 あなたを生み育ててくれた父母の恩は、天よりも高く、地よりも深い。
その恩は果てしなく尊いものです。

              教王経開題

 「四恩(しおん)」の一つ、父母の恩についての言葉です。誰もが共感
する思いを素直に表現していますね、
 四恩とは、父母の恩、衆生の恩、国王の恩、三宝の恩を指します。それ
ぞれについて解説してゆきましょう。
 父母の恩とは、私たちが生まれ出てきたことへの恩、もう少し深く考え
ると、それにつながる先祖たちへの恩ということになるでしょう。
 ブッダは悟りを開くために、家族を捨て出家してしまいましたが、父の
死に際してはお棺をかつぐことで、決してその恩を忘れていなかった、と
いうエピソードが残っています。
 仏教では、家族や夫婦、子供たちへの愛に執着してはいけないと教えて
います。ですから、愛に対しては否定的な立場をとっています。しかし、
愛することを否定しているというわけではなく、思いを引きずることを戒
めているのです。
 父母への感謝の思いは誰もがもっているものですが、あらためて問うて
みると、なかなかか痛い思いがします。私自身、父母に対して何一つして
あげられていないと感じるからです。結局、迷惑と心配ばかりかけて今日
まで至っています。空海もそのように感じて、この言葉を綴ったのではな
いでしょうか。
 衆生の恩とはすべての生命に対する慈しみの心です。日常生活している
とつい忘れてしまいがちな思いですね、この恩を現実的に適用することを
考えると、「他人の恩」とした方がよいと思います。
私たちは身内には優しいですが、他人に対しては厳しすぎ、ときに棘々(
とげとげ)しい状態になっています。

電車の中で肩と肩がぶつかっただけでももめたりしますよね。
そういう心の狭さからは抜け出したいものです。ですから、街中ですれ違
うだけの他人であっても、何らかの恩を受けているのだと想像することが
大切です。
 国王の恩とは、現代に置き換えれば、社長の恩ということにもなります
し、身近なところではリーダーの恩、広くとらえれば国家の恩ということ
になります。私たちの思考を広げると、「国のために生きる」という一生
も悪くないと思いませんか?
ちょっと時代感からはズレていますが、そういう無私の精神というも
のは
他人や国を幸せにします。
特に国家という意識が希薄になってきた今日では、問い直す契機と
して考えていただきたいことの一つです。
 
三宝の恩とは、仏・法・僧に対する尊崇の念、わかりやすくいえば信仰
心です。宗教というものは「信じて、祈る」行為です。もし、信じること
がなければ、それは何も生みません。ただし、信仰というものはいきなり
生まれるものでもありませんし、無理に信じるものでもありません。最初
は形だけでよいと思います。
手と手を合わせて合掌して下さい。その際に少しだけアレンジした合掌を
してください。右手と左手の指の先端だけを交差するようにします。これ
は金剛合掌といって密教では定番の印(いん)になります。

 私は子供のころ、父母の愛情をたっぷりと受け、貴物(とうともの)と
呼ばれて育ちました。

             「御遺告


 空海は讃岐の生まれです。讃岐は当時の都から離れた場所にあり、地方
から中央への道が開かれていたとは考えづらく、地方豪族の子が
都の大学に入るということは、身分的にも難しいことだったと思
います。
 空海の
本名は、佐伯真魚(さえきまお)といい、現在の香川県善通寺
(ぜんつうじ)で生まれました。父は地方官史の役人で佐伯直田公(さえ
きのあたいたぎみ)、母は中央の学問家阿刀宿禰(あとのすくね)の家系
につながる人だということがわかっています。当時中央には佐伯連(さえ
きのむらじ)という貴族がいましたが、この佐伯氏とは血縁関係になかっ
たようです。つまり中央とのつながりは基本的になく、本来ならば空海は
地方豪族として生きるしかなかったのです。ただ、母方が阿刀(あと)氏
の血縁であったということが唯一の細いつながりでした。
 ここで使われれている言葉「貴物」は、両親の子供に対する呼びかけと
して最大の賛辞であり、とても神々(こうごう)しいものです。親
が子どもに対してこういう眼差しを向けることでしか天才の出現
はなかったのではないか? と想像してしまいます。

 現代では早期教育として子どもに英語学習などを行っていますが、教育
以前の問題として子どもをどうとらえるのか? ということがじつはとて
も大切なのではないでしょうか。子どもは親を通して現れた神仏であると
感じるのならば、その教育方法もおのずと見えてくると思います。
 空海の文章を通して感じることは、両親、兄弟、親戚、友人たちから、
たっぷりと愛情を受け、支えられてきた人なんだろうな、というこ
とです。
原文を読んでいただけると、そのことを実感していただけると思います。
どんなに絶望的な内容を書いても、その底には絶対的な肯定感という物が
満ちているからです。その肯定感は、空海が育った環境に起因していると
私は思います。もし、「貴物」として育てられていなければ、このような
文章表現や世界観を構築できるはずもありません。
 人が才能を開花させるとき、そこには愛が必要です。愛が無明の中に一
筋の明かりを灯(とも)し、道を開いてゆくのです。子どもにいくら才能
があっても、それが発揮されるには環境が大切です。その子どもが輝くよ
うに「自心」を育てていかなければなりません。
 空海は幼少の頃からずば抜けて頭が良かったそうです。だから「貴物」
なのですが、そのことを信じることができた親も凄いと思ます。
普通なら自分の子が「まさか!」と思って、その感情を封じ込め
てしまうのではないでしょうか。何といってもまだ平安時代です
から、生きるための選択というもの
は基本的になかったでしょう
し、ましてや、「心のままに生きる」という概念は一般的になか
ったはずです。
 密教と出合う前から、空海は自由闊達(かったつ)に自心のままに生き
ていました。「貴物」の名に恥じず、大学入学を果たした空海に、両親は
天才を確信したに違いありません。しかし、その大学を退学した空海に対
しては、もはや両親の想像をはるかに超えていたはずです。その
落胆ぶりが目に浮かびます。それでも子どもを貴物と考えられる
か?なかなかの難題ですね。


 哀しくって、哀しくって。言葉で言い尽くせないほど、哀しくて哀しい。
悲しくって悲しくって。心で表し尽くせないほど、悲しくて悲しい。悟り
をひらけば、哀しみや悲しみに執(とら)われないというけれど、愛する
人との別れには、涙を流さずにはいられなかったのです。

          「遍照発揮性霊集 巻第八」



 哀しい哉、哀しい哉(かな)、哀(あわれ)が中の哀なり、悲しい哉、
悲しい哉、悲(かなしみ)の中の悲みなり。

 まずは原文の美しさを味わってください。その哀しみや悲しみが伝わっ
てくる文章です。「哀しい」と「悲しい」の対比表現、連続した韻によっ
て、シンプルな中にリズムが躍動し、音楽が奏でられているように聞こえ
ます。
 空海の甥で弟子にあたる智泉(ちせん)の死に直面したときに、空海が
残した言葉です。非常に直情的といいますか、ストレートな思いをそのま
ま文章にしています。師弟関係が密教では親兄弟との結びつきより
深いと考えると、この悲しみ方がより実感できると思います。
 仏教では、感情とはコントロールすべき対象
であり、剝(む)き
だしの感情に対しては否定的な見解をもっています。それは前述し
た十善戒においてもそうですし、基本的に心の乱れを起こさない
方法を説いている宗教といっていいでしょう。
 空海はもちろんそんなことわかっています。にも関わらず、こ
のような感情表現を残したことに、一介の僧を超えてアーティス
トとしての顔が見えてきます。

 執筆に限定しても、「文鏡秘府論(ぶんきょうひふろん)」「三教指帰
(さんごうしいき)」「聾瞽指帰(ろうこしいき)」「遍照発揮性霊集(
へんじょうはっきしょうりょうしゅう)」「高野雑筆集(こうやざつぴつ
しゅう)」「篆隷万象名義(てんれいばんしょうめいぎ)」など、詩文と
いうジャンルにおいて多彩な表現で作品を残しています。
 空海は仏教というフィールドを軽々と超えていきます。あまりに
大きな欲を昇華させるためには、僧以外の顔を持つ必要があった
のでしょう。

 この言葉の原文は「遍照発揮性霊集」という詩文集からの引用で
す。
詩文集といっても、基本的に宗教性が濃いものですが、時々、宗教家では
なく芸術家の顔が見える瞬間があります。この文章はその際たる例です。
 私は、空海が書いた文章の中で、最も美しく、不変的で、人間的なもの
だと感じています。この暗さ、この悲しみに、当時の物語を夢想します。
 どんなに修行を続けても、どんなに悟りをひらいても、身近な人の死に
あらがえる人間などいないものです。それならばいっそのこと自分自身の
弱さを肯定してしまおう。そういった潔さがあってよいと思います。もし
、そこに菩薩がいたら、きっと涙を流したでしょうし、共に泣いてくれな
い仏の存在など、逆に想像できません。

 時には、泣いて泣きまくる日々があってもいいのではないでしょうか。
そういった日々さえも永遠に続くわけではありません。大欲の考え方に照
らし合わせてみれば、「大泣(おおなき)」もある
と思います。その方が
かえって、前向きに生きられそうです。
 私たちは誰も死をまぬがれません。愛しい人、そうではない人であって
も人生の中で一瞬すれ違うほどの時間しか共有できないのです。
そして、自分自身の生も一瞬でしかないのです。


 父と子がお互い深く愛している、それだけではまだ、親と子の本当の愛
ではありません。夫婦が愛し合っている、それもまた、真実の愛ではない
のです。

        「秘蔵法鑰(ひぞうほうやく) 巻上」


 愛とは現代において永遠のテーマです。古今東西の宗教で、芸術で、形
を変えて表現されてきました。そういう意味では仏教も愛を語っている宗
教です。しかし、今私たちがとらえている愛の形とは違ったものだという
ことは頭に入れておきましょう。
 仏教で愛という概念が良い意味で使われることはありません。仏教で語
られる愛とは「渇愛(かつあい)」です。喉の渇いている状態、たとえば
対象となる異性に対する、飽くなき渇望ですが、それは否定されるべきも
のなのです。ですが、恋愛を否定しているわけではありません。単に性の
乱れを否定しているのです。愛してはいけないという戒があるわけではあ
りません。しかし根源的にも愛は苦を生むという考えがあります。または
愛憎といって、あまりに愛するがゆえに、それが憎しみにもなり得るもの
です。
 そもそも仏教にとって愛が評価されないのは、出家者を前提に考えてい
るからです。世間と隔絶したのにそれに染まってしまうのでしたら、出家
の意味はありません。人間にとって最も執着するものが愛という私的な感
情であるので、それを断ち切ることで修行が完成すると考えられているの
です。
 現代の愛に近い意味としては、「利他」「慈悲」「大悲」などです。個
人的な感情ではなく、広く普(あまね)く遍満するものこそ、仏教の愛な
のです。
 さて、仏教では否定的な見解だった愛ですが、密教ではそのことが大逆
転してしまいます。愛は貪(むさぼ)りであり、執着(しゅうじゃく)で
あり、煩悩であるとみなされてきましたが、いやいや、そうではないんだ、
愛を積極的に活用していけば、衆生を救うことができる!という議論に変
わってきていきます。
 その代表的な仏が、愛染明王(あいぜんみょうおう)です。確
かに自己の愛にとどまらず、人間愛、地球愛にまで育ててゆけば。
愛ほどパワーをもつものはないでしょう。
 この愛染明王は、今は恋愛の仏として女性たちに大人気です。
密教の仏の中で大日如来の次に活躍
する、金剛薩埵(こんごうさ
つた)の化身として姿を変えたものです。
愛欲の激しさを赤色の炎で示し、菩提心が堅固であることを表す日輪を背
にし、金剛杵(こんごうしょ)、鈴(れい)、弓矢などをもっています。
ちなみに愛染明王の真言は「オン・マカロギャ・バソロ・シュニャ・バサ
ラ・サトバ・ジャク・ウン・バン・コク」です。お参りの際にはぜひ唱え
てみてください。
 密教では、それまでの仏教では否定されてきた概念をむしろ積極的に生
かして現実適用しようと提唱します。つまり煩悩即菩提です。
 負のエネルギーが強くても、それをプラスに変えていけば有効なエネル
ギーとして使うことができるのです。
 
ですから大切な人を大いに愛してください。しかし、そこに留まるだけ
ではなく、もっと社会性をもった愛へと発展させてください。このことを
実行するのは困難かもしれませんが、愛を祈ることは誰にもできます。
もし、あなたが空海の言葉を活かすならば、まずは祈ってみてください。
 生きとし生けるものすべてに、愛があふれますように。













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