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カテゴリ: 羽村が生んだ文豪

 長編「大菩薩峠」は第4巻目の後半に入っています。
 著者は中里介山、史実など自分自身のためになる話が随所に出てきます
ので、興味深く読んでいます。
それにしてもこんなにも長い文章がなぜ書けるのだろうかといつも感心も
し、不思議にさえ思っています。
文才がそうさせるのでしょう。

天気も良かったので、中里介山の墓にお参りしようと思い立ち、禅林寺を
ナビで検索し、車で出かけました。
東京都羽村市の郷土博物館も割と近いところに所在していました。

山門をくぐって境内にある説明板を読みますと

臨済宗建長寺派 禅林寺

当寺の開基は島田九郎右衛門という人。
当地の島田氏の先祖で、屋敷が、寺の前の道路の向こう側一帯にありまし
た。
 文禄2年(1593)正月の創建、九郎右衛門が自分の寺として開いた
と伝えています。

開山は春覚禅師。
鎌倉、円覚寺の世代、三伯玄伊禅師の法を嗣いだ和尚さんです。
山号は東谷山、この辺りの地名、東ヶ谷戸によったものです。
寺名は、開基の戒名、島田院殿からすれば、島田院となるところですが、
建長寺の「天下禅林」の額から二字をいただいて禅林寺としたと伝えられ
ています。
本尊は如意輪観世音、ほかに豊臣秀吉縁と伝える観音像。

現在の本堂は昭和33年、庫裡は天保年間の建築。
山門は文久2年(1862)の建築で、天井の絵は桃門玄鯉禅師の作、雨
乞龍と呼ばれています。

この寺は(大菩薩峠)の作者中里介山居士の菩提寺です。
介山居士に「遊於処処」という作品があります。
そのなかの「故園」という文章に「禅林寺に守山和尚をたずねてみると折
柄、檀家総代を集めて、観音堂建立の相談であった。
和尚の案内でお堂の敷地を見せてもらい・・・・」と書いている観音堂と
いうのがすぐ前の建物です。

中里家は寺の前の方の、ずっと奥まったところにありました。
山門の傍らの梅は、中里家の庭にあった樹です。       

             臨済宗建長寺派 東谷山禅林寺山門
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        臨済宗建長寺派 東谷山禅林寺
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       臨済宗建長寺派 東谷山禅林寺 本殿
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    大きな泰山木が樹名に背かない迫力で植わっています
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 境内にある天明義挙の碑、わきにある説明文によりますと

江戸時代中期以後、商品経済の発展とともに、農民間の経済的格差が顕
著になります。
江戸時代三大飢饉の一つと呼ばれる天明期は、浅間山の大爆発や未曾有の
大飢饉の影響で、豪農たちは米や雑穀の買い占めや売り惜しみを行い
ました。

天明4年(1784)2月、羽村の名主・組頭層を中心に、四十ヶ村を巻
き込み、狭山地方(武蔵村山付近)の豪農商層の蔵などを打ちこわしまし
た。

 世に天明一揆とも天明の打ちこわしともいわれる農民一揆です。

明治27年(1894)、一揆の犠牲者九名を「義民」としてたたえ、記
念碑が建立されました。

                            天明義挙の碑
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 中里介山の墓に行くには、臨済宗建長寺派 東谷山禅林寺の正面左側に
、狭い奥へ進む道があり、さらに雑木林の丘陵に作られた階段を登り切っ
たところに沢山の墓地がありました。
中里介山の墓は案内標識が立っていますのですぐにわかりました。墓のそ
ばには説明文がありました。

羽村が生んだ偉大な文豪中里介山(本名中里弥之助)は、明治18年(1
885)4月4日、羽中4丁目11番地付近にあった水車小屋で生まれ、
羽中4丁目5地付近にあった家で育ったといわれています。

小学校卒業後、電話交換手、小学校代用教員、新聞記者などの仕事に就き
ながら苦学しました。
 大正2年から上求菩提下化衆生を理想に、長編小説(大菩薩峠)を書き
続けましたが、未完のうちに昭和19年4月28日、59歳で没しました。
この小説は、国民文学の傑作といわれ、その後の時代小説に大きな影響を
与えました。

          中里介山居士の墓
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          中里介山居士の墓  
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          中里家の墓
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 墓誌には、中里介山の戒名が「修成院介山文宗居士」と記されています。
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 墓前で般若心境を唱え、供養をさせていただきました。
 それから文章がすらすらと書けるようになりますようにとお願いをしてき
ました。

  帰りに、羽村市指定有形文化財の「稲荷神社本殿」に立ち寄りました。
 
創建年月は不詳ですが、江戸時代後期の地誌「新編武蔵風土記稿」に「稲
荷社」と記述されています。

東ヶ谷戸(ひがしがいと)の鎮守で、祭神は宇迦之御魂之神、建速素サノ男
尊、玉祖命(タマノオヤノミコト)です。
もと禅林寺の西南にあったのを明治39年にこの地へ移し、平成2年に拝
殿覆殿等を大改築しました。

本殿の形は一間社流造で、社殿前面に彫刻が施され、江戸時代後期社寺建
築様式の典型的建築です。

宮大工小林播磨(藤馬)等の作で、木割帳等の記録により、弘化3年(1
846)に着手し、嘉永元年(1848)に竣工したものと推定されます。
神輿も同人等の作です。
と説明板に書かれていました。

                          稲荷神社本殿
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 「大菩薩峠」今九巻目を読書中ですが、八巻を読み終えて印象に残った
文章があります。

岐阜県の不破の関は律令下に設けられた関で、東国に対する軍事的な防
衛を目的として東山道の不破(現在の不破郡関ヶ原松尾)に置かれた。
東海道の鈴鹿の関に(三重県鈴鹿関町)北陸道の愛発の関(福井県敦賀
市)とともに三関と称せられた。

三関が設置されたのは、天武天皇(673)年とされている。
壬申の乱において大海人皇子が不破道を制圧することに成功し、戦局を
優位にすすめたことが、「日本書紀」に見られるように、おそらく軍事的
な経験が不破の地に注目させることになったのだろう。

東山道に沿って、国府、国分僧寺の国家施設が直線に配置されていたこと
は、不破郡が全体として大きな戦略的価値を持っていたことを示しており、
その中心に不破の関があった。

三関には「鼓吹軍器」(防衛のための兵器)が常備され、国史四等官複数
が守護責任者として赴任した。

関の閉鎖と開放の手続きは、政府の派遣する固関史によっておこなわれた
が、東国からの侵入に備えるというより、天皇の病気や死、長屋王の変や
、恵美押勝の乱など政府内の非常事態が東国に伝播することを阻止するた
めであったという。

延暦八(789)年桓武天皇の命により三関は廃止された。

すたれた山三関を詠った松尾芭蕉の句に

 秋風や藪も畠も不破の関

                                   
不破の関跡
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 もう遠い話になりますが、岐阜県大垣市の紡績工場へ仕事に行ったこと
を思い出しています。
当時はまだ紡績産業が盛んだったころで、仕事が終わってから、不破郡垂
井在住の友達の家に一晩泊めていただいたことを懐かしく回想しておりま
す。
その節は大変お世話になりありがとうございました。
貴殿の発展と御家族の多幸を心よりお祈りいたします。














 夕食後に風呂を済ませて、テレビをつけるとBS放送で歌謡番組をやっ
ていました。

 懐かしい歌手が出演していましたので、和歌山城とか海岸べりをドライ
ブしたことを思い出しました。

 その歌手とは和歌山県出身の古都 清乃でした、「和歌山ブルース」と
いう歌が昭和43年に爆発的に大ヒットをしました。

 現役で長い歌手生活を送っていらっしゃるには、よほど普段に精進をし
ておらるのではと、思いをはせてしまいました。
 継続は力なりの実践者だと思います。


 歌詞をここで紹介しなくてはいけないような気分です。

 ♭♪

   逢いたいみたい   すがりたい
   そんな気持ちに   させるのは
   ぶらくり丁の   恋灯り
   真田掘(さなだぼり)なら   ネオン川
   和歌山泣きたい   ああやるせない

   誰にもいえぬ   おもいでを
   夜がやさしく   くれたもの
   あなたとわたしの   和歌の浦
   夢は消えない   いつまでも
   和歌山泣きたい   ああやるせない 

   流れる涙   紀の川に
   捨ててしまった   女でも
   慕情をこめて   ブルースを
   唄う花ちる   城下町
   和歌山泣きたい   ああやるせない


 今日は久しぶりに秋晴れの絶好の日よりになりましたので、車で羽村市
郷土博物館に出かけてきました。

 博物館の中は、中里介山に関する資料、遺跡から出土した縄文土器の
展示、玉川上水に関する資料、養蚕の詳しい解説、など盛りだくさんの展
示物がありました。

 博物館の裏庭には、中里介山の記念館に使われていた門が移築されて
いました。

                         羽村市郷土博物館の正面玄関
                   

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               中里介山の胸像

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                                               家族の写真

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                電話交換手のころ

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                   博物館の裏庭に中里介山記念館の門だけを移築

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 昨日、中里介山の詳しい経歴などをお話ししましたので、今日は写真だ
けにしておきます。

 博物館を辞してから、多摩川の取水堰(水門)ら玉川上水に注ぐ風景を
見てきました。
 現在はコンクリートと鋼材を使った頑丈な水門ですが、江戸時代はすべて
木で造られていました。

               写真手前が玉川上水路

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 今もこの玉川上水は都水の一部として使われています。

 この取水堰の手前の公園には、この上水路開削の責任者であった玉川
兄弟の記念銅像がありました。

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                               玉川上水路の風景

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 上水路の幅が予想よりも広いのには驚きました。
 下流に行くほど幅が狭まって行くそうです。


                           都水道局の給水調整塔がめだちました。

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 自宅に帰る途中、文化センターの図書館によって、予約をしておいた
中里介山著の「大菩薩峠」の愛蔵版(第一巻)を借りてきました。

                                本の表紙の挿絵です。

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 少しづつ読んでみようと思っています。


 生涯学習センターに展示していた「Nの会」の水彩画ですが、今日はM・A
さんの作品を紹介させていただきます。

                                                 私の人形

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                石のある風景

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                 昔の井戸

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 それではここで小生が以前描いた水彩画を添付させていただきます。


                 大日如来像

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