atusisugoiのblog

カテゴリ: 歴史散歩

 今朝(12月19日)の最低気温は、-3.4℃と昨日に引き続き寒い朝を迎え
ています。
南の庭に植わる椿は寒さに強い樹で、これを見よしとばかりに花を咲かせて
います。

                 「 椿 」
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椿とは反対に、棚に置いている、「おじぎ草」は寒さに非常に弱く、いまにも枯
れそうで、葉をたたみ、枝ごとお辞儀をしているように垂れています。
この「おじぎ草」は、3鉢目として購入したものです。
あえて室内に入れませんが、どうか枯れないように、頑張って!と願っていま
す。
枝の先のほうに花が咲いているようですが、ここに種をつけているようです。

             「おじぎ草」
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 菊は、季節的に花が咲き終えると葉は落ちて枯れたように見えますが、宿
根草ですから、来年の秋には必ずまた咲いてくれると確信をしています。
今年最後の一輪が張り切って咲いています。

 2015年1月14日現在、このように仮死状態ですが、これから長い冬を越
すことができるのでしょうか、酷なようですが見守っているところです。
 今朝も冷え込みが厳しく、庭のバケツの水が氷っていました。

            寒さに耐える「おじぎ草」
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                「 菊 」
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 一方では、この時期一番に咲く「蝋梅」が今年も開花を始めました。

               「蝋梅」  
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1月23日の時点で、満開になりました。
例年ですと、この蝋梅の花の蜜を食べに野鳥が来て、花を落としてしまうの
ですが、今年は未だこのように健在です。
野鳥はなぜ啄ばみに来ないのか、却って案じるくらいです。
それにしても今年はたくさんの花をつけてくれました、蝋梅に感謝です。

 家内はこの枝を花ごと手折り、花瓶に挿していました。
玄関に入ると、香りがとてもよく快適な気分になります。

             蝋梅の花が満開です
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              蝋梅の花が満開です
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  中里介山著小説、大菩薩峠は九巻目に入っています。


             大菩薩峠(九巻)の表紙
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 この巻で少し興味を持った文章がありましたので一部分を引用しようと思い
ます。
 
 「どこの国の農民も、農民としては皆うだつの上がらないのは同じだが、こと
にこの近江の国の百姓はみじめなものです」
と、青嵐居士が不破の関守氏に向かって言うと、「どうしてですか」

「それは、京都をつい背後に控えているだけに、戦争というと、この国が唯一
の要路となるのです。
東国の兵がこの国を通過せずして京都に入ることができません、西国の兵も
ここを通過せずして東征はできません、そこで、乱世においては国土が絶えず
兵馬に蹂躙せられ、人民が残暴を蒙りますから、土地を安堵して生活を営む
ということができません、いつ剽掠を蒙るか、掠奪されるかわからないのみなら
ず、人力も絶えず挑発せられて争闘の犠牲とならなければならない、生民その
堵に安ぜずというのが、この近江の国の住民の運命でした」

「なるほど」
「しかし、人間というものは運命に妨げられると共に、運命に逆らって新境地を
打開する力を与えられているようでありまして、かく不幸なる境地に置かれて、
堵の安ぜざる変通力が、一転して商業のほうに着目し、転向することになりまし
たのです」

「なるほど」
「土着の土地を相手にしないで、他領他国を目的とする、自分の生れた土地で
生産して、それから恵まれることを断念して、他国へ進出して富を吸収して来る
という新方向を案出したのも、自然の経路とはいえ、この国の住民が馬鹿でな
い証拠です」

「なるほど」
「そこで近江商人の名が天下に聞えるに至りました。
勤勉を実直にして、知らぬ他国から金を儲けて産をなし、その産を蓄積すること
に於て、また非凡なる忍耐と進取の才能を持っておりました。

他国に向かっての積極的進出と、自ら守ることの堅実な消極的忍耐と、両方を
この国の人間が持つことができたという次第でーそこで、自分の国の乱れると
いうことが、商人として成功する逆縁となりました。

今日、大阪に於ける、江戸に於ける、近江商人というものの財力の、いかに根強
くして盛んなるかを思い合わせてごらんなさるとよくわかります。

「なるほどそうおっしゃられると、それがいわゆる近江商人の勢力の一大原因で
あるかのように感ぜられます。
国土が騒乱の巷になるがゆえに、住民が他国へ進出する機縁となる、逆縁がか
えって利縁となったという次第ですな」

「そうです。しかし、そんならば、すべて自分の国が乱れているところの人民は、
外に向かって大いに発展をするかと申すと、それは一概には申せません、まっ
たく疲弊しきって、奴隷以下に没落してしまう国民もあるのですから、要するに
気質の問題ですな」

「なるほど」
「江州人は、素質的に、逆境を打開する勤勉の気風を備えていると見なけれ
ばならない理由もあるのです。
たとえばです、これから越前のほうへ向けて出る途中に、難渋な峠が三つもあ
る、たいていの人だと、それを聞いてうんざりし、せめて三つの峠が二つになれ
ばいいと、こう言って嘆息するところを、江州人は、峠がさらに二つばかりあれ
ばよい、そうすれば、人がいよいよ難渋がって出かけない、そこを自分は出か
けて行って、商売をひとり占めにしてしまうー 大体こういった気風なのですか
らそこに近江商人の気風があろうというものです」

「なるほどー おおよその人は地の利を恃むのだが、江州人は地の不利に恵ま
れるというわけですな。もとよりそれは素質とも相関係しましょう」
「もちろん天の時、地の利といいますが、江州人には、天の不祥事と地の不利
益の場合に、恵まれるのです。
彼らは己の国土を対象としないで、他国進出を目標としています、そこに彼らの
発展があります。
しかし、こういう、恵まれずして恵まれたる土地の反面には、恵まれたようで実は
恵まれない不幸の民が多いことを思わなければなりません。
近江商人が最も恵まれた成功者だとすれば、近江農民は最も恵まれざる落伍
者ということもできますー 」

「なるほど」
「江州人だとて、皆が皆、そう他国へ進出して成功するものばかりではありません、
この国に残って、兵馬の奴隷となり、あるいは痩畑の番人とならなければならぬ
運命に置かれた農民こそ、最も恵まれざるものというべきでしょう」

 という、くだりは近江商人気質を知るうえで、大切な歴史的背景だと思いました
ので記述してみました

 日本橋一丁目に「東急百貨店日本橋店」があり、よくこの店のおしゃれな玄関を
お借りして友人と待ち合わせをしたものですが、残念ながら平成11年に閉店とな
りました。
この跡地に平成16年、「コレド日本橋」が開業しています。

 コレド日本橋の隣に、近江を代表する、歴史ある「西川ふとん店」が健在です。

 創始者 西川 甚五郎について、滋賀県観光情報などによりますと、

                                   近江の町
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 西川産業(ふとんの西川)の祖として知られる西川家は、八幡山城築城の時に
工務監督を務めた旧家です。
初代仁右衛門が19歳で商売を始めた永禄9年(1556年)が創業年で、天正15年
(1587年)八幡に蚊帳・畳表などを商う屋号:山形屋を開設しました。
元和元年(1615年)には江戸日本橋に出店。
初代4男甚五郎が寛永5年(1628年)に2代目を継ぎ、製造や販売方法に工夫を
凝らし西川家の基礎を固めました。

3代目のころから、成績優秀、永年勤続、等の従業員に別家にとして独立させる
仕組みを確立させ、7代目は、年2回の決算期に純益の3分の1を従業員に分配
する現在のボーナス制度を取り入れ、従業員のスキルを大いに引き出しました。

13代目はアメリカ留学の経験を生かし、社員教育に英語・簿記などを取り入れる
などしました。
また参議院議員としても池田内閣の国務大臣・北海道開発庁長官を務めるなど、
政治経済に活躍したなどにより、近江八幡の名誉市民第2号に選ばれています(
第1号ウイリアム・メレル・ウオーリズ)。

ウイキペデイアによりますと、
 ※ウイリアム・メレル・ウオーリズ

 アメリカカンザス州レブンワース生まれ。
英語教師として来日後、1908年(明治41年)京都で建築設計監督事務所を設立
し、日本各地で西洋建築の設計を数多く手懸けた。
学校、教会、YMCA、病院、百貨店、住宅など、その種類も様式も多彩である。

1941年(昭和16年)に日本に帰化してからは、華族の一柳未徳子爵の令嬢満喜
子夫人の姓をとって一柳米来留(ひとつやなぎめれる)と名乗った。
「米来留」とは米国より来たりて留まるという洒落である。

近江商人発祥の地である滋賀県八幡市を拠点に精力的に活動したことから、「青い
目の近江商人」と称された。
また太平洋戦争直後、連合国軍司令官ダグラス・マッカーサーと近衛文麿との仲介
工作に尽力したことから、「天皇を守ったアメリカ人」とも称される。

 建築家でありながら、ウオーリス合名会社(のちの近江兄弟社)の創立者の一人と
して、メンソレータム(現メンターム)を広く日本に普及させた実業家でもある。
そしてYMCA活動を通し、また「近江ミッション」を設立し、信徒の立場で熱心にプロテ
スタントの伝道に従事した。

 ※八幡山城跡についてもこの際、勉強しておきたいと思います。

 市街地のすぐ北側標高285メートルの八幡山山頂にあります。
安土城が落城してから3年後、豊臣秀次が築いた城です。
最上部に本丸を設け、その南東に二の丸、北に北の丸、南西の尾根に挟まれた
南斜面中腹に秀次城館跡と家臣団館跡群と思われる曲輪群が、階段状に残って
います。
現在は石垣を残すのみですが、本丸跡には、秀次菩提寺の村雲御所瑞龍寺が
京都から移築されています。
また、秀次館跡からは金箔を施した瓦が多数出土し、特に秀次の馬印である沢
瀉紋(おもだかもん)の飾り瓦が発見されるなど、築城当時の豪華さがうかがえま
す。

 ※豊臣秀次

 豊臣秀吉の姉ともの子、秀吉の養子となり関白を継ぐ。

 以前、司馬遼太郎の著作で、秀次が関白になった頃の、荒れた生活をリアル
に描写している歴史小説を読んだ記憶が残っています。
秀次は、酒を飲むと酒乱の気があり、自分の気に入らないことがあると見境なく、
まわりを取りまく女性に難癖をつけ、殺害したといいます。
それが毎日のようにでは・・・たまりかね、秀吉が秀次に切腹を命じたと記してい
ますが、はたして真実はどうだったかはわかりません。


 さらに、大菩薩峠九巻を読んでいきますと、近江聖人の話しが出てきます。

 ≪近江聖人≫

 中江藤樹の異名。
 江戸初期の儒学者(1608から48)。
 陽明学派の祖。
 名は原。
 はじめ朱子学を修め、伊予の大洲藩に仕え、のち故郷の近江に帰り、王陽明
の致良知説を唱えた。
門人に熊沢蕃山らがいる。
代表的な著書に「孝経啓蒙」 「翁問答」 「鑑草」などがある。
と、解説しています。

 ※致良知説

 陽明学の主要命題。
 人間の先天的道徳的知覚力・判断力を発揮せよという説。
 良知を最大限に発揮させること。
 良知はもと孟子の唱えたもので、王陽明は、これを陽明学の根本的指針とした。

 近江がうんだ偉人

 ① 野田屋長兵衛

 天正13年(1585)豊臣秀次によって、開町した近江八幡は、楽市楽座や、諸役
免除のもとに発展し、徳川時代になった後もその特権は引き継がれ、市内鍵の手
町に「諸役伝馬等免除」の高札が掲げられました。

 しかしある時、京都からやってきた役人が、この立札を持ち帰ったため、町民は、
これまでの特権が消滅するのではと心配し、取り返そうと試みますが、後難を恐れ
いまひとつ力が入りませんでした。

このような町民の姿を見た「野田屋長兵衛」は、京都に返還を求めて出向きますが、
断られ、明和7年(1770)、再び訴状をもって抗議するため、役人の前で自刃し、53
歳の生涯を終えました。

野田家は代々、家伝の膏薬「天膏薬」を販売するなどしていましたが、本業は紺屋
でした。
5代目となる彼は商人よりも義人として生きた人物でもありました。


 ※ 昨日(24日)の夜にプログを書いている際、突然変異現象となり、このような
大き目の文字サイズと、画面になってしまい、小生は困惑をしています。
対応方法がわかりませんので、このまま続けます。

 ② 野間 清六

 江戸中期に下総(茨城県)に出店し、幕末頃には、結城の御三家と云われるほど
勢力を誇りました。
明治時代に入っての当主が、書画等を愛好する文化人としての活躍を希望したた
め、自主廃業をしますが、滋賀県社会福祉事業団により「ボーダレス・アートミュー
ジアムNOーMA」として開館されています。

 ③ 西川 庄六

 2代目西川利右衛門の子「庄六」を初代とし、蚊帳、綿、砂糖、扇子などを商いま
した。
3代目の頃になると、江戸日本橋4丁目にも出店し、薩摩藩島津氏の指定御用商人
になるなど、本家(西川利右衛門)に次ぐ豪商となりました。
8代目は文人墨客とのかかわりも深く、一燈園「西田天香」氏らとの交流もありまし
た。
現在も、東京、大阪、京都に本支店を持つ「メルクロス株式会社」として営業中です。

 ④ 森五郎兵衛
 初代五郎兵衛は、伴伝兵衛家に勤め、別家を許され、たばこや、麻布を商いまし
た。
やがて、日本橋や、大阪本町で、呉服、太物のなど取扱商品を増やし、江戸日本橋
や、大阪本町にも出店するほど活躍しました。
 現在も、東京日本橋室町に近三商事(株)として営業しています。

※ 大菩薩峠は、九巻で終わりということが、図書館に問い合わせの結果判明しま
   した。

 この小説は、中里介山が大正2年(1913)29歳で「大菩薩峠」を新聞に連載開
始、以降昭和16年(1941)まで書き継がれ、この間29年に及ぶがついに未完に
終わりました。

 56歳で腸チフスにかかり、死去したためです。
さらに続編を読みたかったくらい魅力ある小説です。
中里文学の一部だけですが、勉強させていただきました。

 2013年12月26日の自分のブログ記事を振り返ってみる機会がありましたので、
読んでみますと、なんと「大菩薩峠」の三巻目を、図書館で借用してきた模様が書か
れてありました。
約1年余がかりで、読破したようです。
ずいぶんゆっくりさんですね・・・・・・・。



















 さらに続けます。

  中世の青梅

 日本史における中世とは、いわゆる鎌倉幕府の成立から室町幕府の崩
壊までをおおむねいいます。
土地の給与を通じて結ぶ御恩と奉公という武家の主従関係『封建制度』の
生まれた時代です。

 中世における青梅については、御多分にもれず乏しい資料が残るのみ
です。
しかし、そんな中にも、当時この地を支配した豪族に三田氏の事跡からう
かがい知ることができる文化的・精神的水準の高さや強大な経済力などは
目を見張るものがあります。

 青梅は古くから、武蔵国を守護する神の山「御岳山」を擁し、杣の保と呼
ばれる山林資源を持つ土地を背景に、府中の国府などとも宗教的・経済的
に強いつながりがあったと思われます。

 三田氏のような有力者は、たぶんこういった社会情勢を背景に台頭して
いったのでしょう。
 このように中世の青梅の実像は断片的にしかわかりませんが、政治的・経
済的・文化的にも大いに発展したすばらしい時代であったことだけは確かだ
と思います。

 三田氏の支配領域

 中世の頃から、この青梅地方を中心とする多摩川の流域は杣の保(そま
のほ)と呼ばれていました。

 「杣」とは、山とか山方の意味で、「保」とは「庄」とか「郷」のように行政的
な区画の単位のことです。

杣の保の領域は、おそらく村から奥多摩、日原にかけて広大な多摩川流
域であったと思われます。

 鎌倉時代、青梅の勝沼に現れた三田氏は、杣の豊富な山林資源を背景
に次第に拡大してこの杣の保の地を支配するようになったのです。
またこの地方は古く三田領とも呼ばれていました。
しかし中世における資料の中には杣の保とはあっても三田領と称したもの
は現在のところ見つかっていません。
三田氏が支配していた領域を後になって自然に三田領と唱えるようになった
ものと考えられます。
特に近世に入ってからの検地帳をはじめとする資料には、三田氏領と記さ
れたものが多くあります。

 勝沼城

三田氏が本拠地としていた平山城。
築城された年代などは不明。
三田氏は古くより勝沼を本拠地としており、永禄4年(1561)に北条氏と戦
うため山城であるから辛垣城へ移っています。
 三田氏滅亡後は北条氏によって使用された時期があったとされており、現
在残っている城跡は北条氏による手がかかっている可能性が高い。
 後に師岡氏が城主となり、城名を『師岡城』と改名したという伝承があるが、
それが確認できる資料があります。

           勝沼城推定復元俯瞰図
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 長享の乱

長享元年(1487)から永正2年(1505)にかけて山内上杉家の上杉顕定(
関東管領)扇谷上杉家の上杉定正(没後は甥。朝良)の間で行われた戦い。

この戦いによって、上杉氏は衰退し、駿河今川氏の客将、伊勢宋瑞(北条早
雲)の関東地方進出を許す結果となりました。

長享の乱の折の書状
長享の乱の際に山内上杉顕定から三田弾正忠(氏宗)にあてられた書状。
この書状で顕定は重要な拠点である椚田(くぬぎた)城(八王子)に敵(扇谷
上杉朝良、伊勢宗瑞らの陣営)が攻撃を仕掛けてきたら、すぐに援軍として
城に入って防備を固めるように三田氏に命じており、当時、三田氏が山内
上杉氏の陣営に味方していたことが確認できる。

             長享の乱の折の書状
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 青梅市郷土博物館にて、引き続き資料を読んでいきます。

 関東の戦乱

 室町時代の関東には鎌倉幕府という機関が置かれ、室町幕府将軍・足利
氏の一族である鎌倉公方・足利氏と関東官領・上杉氏によって統治が行わ
れていた。

しかし、両社はやがて対立するようになり、関東は15世紀初めから、たびた
び戦乱に見舞われた。
その中でも鎌倉公方足利成氏(しげうじ)が関東官領・上杉憲忠を殺害した
ことに始まる「享徳の乱(1455~1483)」は大規模なもので、下総国
古河(茨城県古河市)へ本拠を移した足利市(古河公方)を中心とする勢力
と、上杉氏を中心とする勢力に関東は二分され、30年余り戦いが続いた。

一方、京でも「応仁の乱・文明の乱(1467から1477)や「明応の政変
(1493)」などの発生により室町幕府の支配体制が揺らぎ始め、日本が戦
国時代に突入していった。

 享徳の乱は最終的に両勢力が和睦し、関東には一時平穏が訪れたが、そ
れも長くは続かず「長享の乱(1487から1505)」と呼ばれる戦乱が発
生した。

またこの頃に戦国大名、北条氏の祖である伊勢宋瑞(北条早雲)が伊豆国で頭
角を現し始め、関東も本格的に戦国時代に突入することになる。
        
              伊勢宋瑞(北条早雲)CIMG0034





























 その頃、青梅地域では平将門の末裔と称する三田氏がこの地域を統治して
いた。
三田氏はいつからこの地域の領主になったかははっきりしないが、15世紀初
め頃(室町時代中期)から資料に三田氏が登場するようになってくる。
16世紀初めの三田氏宗のころになると、周辺地域に勢力を広げ、武蔵国の有
力な国衆(国人領主)となっていた。

         三田綱秀出陣の図(乗願地蔵)
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                    三田氏兜前立(乗願寺蔵)
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 過日、著者「中里介山」が、「大菩薩峠」の執筆活動をしたといわれる「雲
峰寺」を見学しようと考え、小雨煙る中、大菩薩峠方面に向かい車を走ら
せました。
まず道中に存在する青梅市郷土博物館に立ち寄り、「戦国時代の青梅」~
三田氏の滅亡と北条氏~
と題した、企画展を見学することにしました。

博物館の前の青梅の大木が待ち構えるようにして歓迎をしてくれました。

 青梅の樹木のそばの説明書きには、

市内天瀬町にある古刹青梅山金剛寺の庭に東京都指定の天然記念物「金
剛寺の青梅(将門誓いの梅)」があります。

 ※ 将門が馬の鞭(むち)に使用した青梅の枝が、地面に刺さりこれが梅の
   大樹になったといわれています。
 
この銘木はその実が秋を経ても熟することなく、青々としたまま枝上に残って
いることからその名があります。
人々がその奇異をめでたことから土地の名(東京都青梅市)のおこりとなった
といわれています。

博物館前の青梅の木は「金剛寺の青梅」から増やしたもので、当館開館を記
念して、市内森下町の小林文右衛門氏から御寄贈いただいたものです。


                    公園から青梅市郷土博物館に向かう道                            
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      青梅市郷土博物館前の由緒ある青梅の木
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    青梅市郷土博物館前を多摩川の清流が眺められます。
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 企画展のパンフレットの表紙に概要が述べられていますので、読んでみま
す。

 戦国時代の青梅では古くからこの地を支配していた三田氏が周辺に勢力を
広げ、武蔵国の有力な国衆(国人)に成長していました。
しかし、大永年間(1521~1528)になると戦国大名・北条氏が武蔵国へ進
出してきたため、三田氏もその傘下に入ることとなります。

 永禄3(1560)年に関東領・上杉憲政を奉じた長尾景虎(上杉謙信)が
関東へ出兵すると、三田氏は北条氏から離反し上杉氏の陣営に馳せ参じまし
た。
長尾景虎は北条氏の本城・小田原城を包囲しますが、攻め落とすことができ
ず帰国します。
その後、対北条氏の最前線に位置していた三田氏はすぐに北条氏の攻撃に
晒される事となり、間もなく滅亡しました。

 三田氏滅亡後の青梅は北条氏一族の北条氏輝が支配し、青梅の武士達は
氏輝の指揮のもと関東各地へ出陣しました。
北条氏は関東の大半を支配下に治めましたが、天正18(1590)年に豊臣秀
吉の攻撃を受け滅亡しました。

 このような時代背景に、企画展では三田氏や北条氏を中心にした関連資料
が展示されていますので、資料に基づいて、記述しようと思います。

           















































 いつも散歩で立川の根川緑道あたりまで足を延ばしていますので、もう
少し立川市のことが知りたいと思い「立川市歴史民俗資料館」を訪れまし
た。

 門を入ると正面に土蔵が真っ先に目に入ります。
 立川市歴史民俗資料館はその手前左手にある立派な建物です。



      
                立川市歴史民俗資料館


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 この土蔵は、資料館の敷地ともに、井上重雄氏から寄贈されたものです。
 江戸時代に建てられたものと推定されます。
 当初は資料館の南側にありましたが、資料館の建設工事の際に、現在
地に移築し、補修しました。

 土像は、外の温度や湿度に影響されにくいので、現在も収蔵庫として利用
されています。




                                                井上家土蔵

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                脱穀機

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                   荷 車

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               リヤカー

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       土蔵の横に井戸が存在していました。
       太いロープに滑車と釣瓶が眼にとまります。

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 展示物を見る前に「資料館見学の手引き」の一部分を読んでみますと、

 江戸時代の立川について

 江戸時代、立川市域には柴崎村(市南部)と砂川(市北部)の二つがあり
ました。
 柴崎村は、自然発生的にできた村で、古代から人々が暮らしていました。
 江戸時代に編纂された「新編武蔵風土記稿」には19世紀初めの柴崎村
のようすが、広さ東西約30丁(3272m)、南北21丁(2290m)、民家は
248軒、水田は少なく畑が多い、と記録されています。柴崎村は、ほとんど
が幕府の直轄地(天領)で、幕府の直接支配を受けていましたが、尾張藩
の鷹場の一部でもあり尾張藩の支配も受けていました。
 その他、多摩川の鮎を将軍家へ献上する鮎運上なども負担していました。

  一方、砂川村は、江戸時代の新田開発によって開かれた村です。
 寛永四年(1627年)ころから本格的に開発が始まり承応三年(1654年)
に玉川上水が完成すると、3年後には砂川分水が引かれ、新田の開発はさ
らに進みました。
 
 新田村は計画的に作られたものが多く、砂川村の場合も、屋敷地は五日
市街道の両側に沿って真っすぐに並んでいました。
 「新編風土記稿」には、東西約1里(3927m)、南北約7丁(764m)、民家
は271軒、山林や水田はない、と記録されています。
 砂川村も天領で、やはり尾張藩の鷹場支配も受けていました。

 079



















 展示室には、柴崎村の名主、鈴木平九郎によって書かれた公私日記が
ありました。
 天保八年(1837)から安政五年(1858)までの20年間、日々の天候、
名主としての公的な記録のほか、年中行事、農作業、物価の相場、村内
の事件、社会情勢など、多岐にわたって克明に記録されています。
 
 公私日記から二つの事件について紹介しますと。


 
 「多摩川大洪水の記事」、前夜半から出た水は宇右衛門宅一帯を襲
った。

 同二十七日大雨洪水二十八日暁八ツ半時より七ツ時迄之間満水にて
宮沢木下前切所より差上がり候水中神ふくしま下通り当村台え水入宇右
衛門長蔵等も雑具取片付候 内引水に成滝の下忠蔵も同断夜明に相成
候ても郷地前壱ヶ所中下金子田弐ヶ所根付通〆四ヶ所より瀬筋附普済寺
へ 落合

  安政5年(1858年) 7月27日付

083




















 「ペリー来航の記事」、西洋文明を初めて見た人々の驚きとその対応に
狼狽する幕府の様子がうかがわれる。

 当日三日浦賀表江異国船渡来 北アメリカ州之由にて願向有之運船三
艘長サ七八拾間ツ 他に蒸気船一艘長弐三拾間走る車 飛鳥のことし持
参え 書簡差出 御返答之儀等は下説の知る所に非ずといえとも浦賀より
本牧鼻迄乗込猶羽田向迄蒸気船乗廻し固の船茂一切不寄附内海り浅深
測量勝手に探り傍若無人之振舞八月九日頃より追々御固め本牧細川候
大森毛利候御殿山大越前候高輪酒井雅楽候深川立花候佃田阿波候浜
御殿讃岐小屋諸色井氏糧運送等有之中暑病人斃馬等多く御府内にても
相図次第中迄火事装束にて駆附被仰触人気騒立来躍り誠に以入国以来
寄代之銘事也
 
     嘉永六年(1853年)6月10日付


084





















 

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