atusisugoiのblog

カテゴリ: 新・平家物語

 平家の女人群像の中で、一般の人びとに親しく愛されているのは祇王、
妓女の姉妹かもしれない。嵯峨野を歩く若い女性たちが必ず立ち寄る祇王
寺は季節を問わず賑わっている。
 周知のように祇王、妓女の姉妹は京の白拍子として、全盛時代の若き
清盛の寵愛をうけた。白拍子は遊女であって歌舞音曲をよくし、貴人の宴
席に侍(はべ)る中世の一種の芸人兼、接客業で、音楽に合わせて今様(当
時の流行歌)を自らうたいながら踊ったものである
 平家時代の最高権力者であった後白河法皇が、若い部屋住み時代今
様きちがいといわれたもので、あけても暮ても今様ばかり、夜を徹してう
たい、「声をわること、三ヶ度」と自ら、「梁塵秘抄」に記している。後
白河法皇は若いときは馬鹿だと言われていた。とても帝位につくような位
置にはいなかった皇子で、自らも帝位なんぞは望みもしない。ただただ今
様一筋の呆けた皇子ということになっていた。それが時の政治的な事情か
ら、ほんのつなぎの帝位につけられたのである。
 人間の運命くらい不思議な、予測をゆるさぬものはない。そのような皇
子が思いがけなく帝位につけられ、三年で譲位はするが、以後院政の座に
ついて、天皇五代にわたって平家の全盛時代から滅亡、鎌倉幕府の確立ま
で、激動の中世末期を権謀術数をつくして朝廷の権威を守り、維持するこ
とに生命をかけることになったのである。
 平清盛を鰻上(うなぎのぼ)りに立身、出世させ、木曾義仲をおだてあ
げ、源義経をあやつり、頼朝と取引し、まるで軽業(曲芸師)のような危な
い橋を渡って心のやすまる暇もなかった一生を送ることになった。
 法皇が今様きちがいであったから、この時代は白拍子がめざましい出世
をした時代でもあった。祇王、妓女の姉妹もみめ美しく、歌にも舞にも巧
者であり、貴人の話相手になることの出来る機智も品位もそなえた女たち
であったろう。
 日本の古代は姉妹が一人の男性の寵を受けることが普通のことであっ
た。中世でも白拍子と貴人ということになれば、姉妹は仲よく清盛の寵愛
を受けていた。そこに新しいライバルとして仏という名の白拍子が現れる。
 彼女は祇王、彼女が清盛の並びない寵を受けているのを見て、唯一度で
もいい自分の舞と歌を当代第一の権力者に見てもらいたい一心で、何度と
なく館(やかた)を訪れるが、多忙な清盛の前で舞わせてもらうことが出
来ない。その度にうちしおれて退出するその姿があまりに哀れなので、祇
王が清盛にとりなしてただ一度でいいからと頼んでようやく機会をあたえ
られる。仏という名は今の人々には少し奇異に思われるかもしれないが、
今様そのものがもとは仏教の和讃から出たもので、例えば「「梁塵秘抄」
に収録されている有名な今様に「仏は常に在せども、現(うつつ)ならぬ
ぞあはれなる、人の音せぬ暁に、仄(ほの)かに夢に見えたまふ」とある
ように、大根(おおね)には仏教思想の布教という精神があったのである。
 ようやく清盛の前で舞うことのできた仏はもちろん懸命に舞ったであろ
うし、祇王、妓女姉妹よりは年も若く花の蕾の風情があった。好き心旺盛
な、望んで何事もかなわぬことのない清盛の心が動かぬはずはない。こう
して寵愛は若い仏の上に移ってゆく。きのうに変わるわ忘られた存在とな
った祇王、妓女の姉妹は、心を決めて館をあとに嵯峨野に隠遁して尼とな
った。
 もえ出(いづ)るも枯るるも同じ野辺の草いずれか秋に逢わではつべき、
 この歌があとの障子に書き残されていた。これを見た仏は居たたまらず、
 自分も二人のあとを追って出家し、女たち三人は尼となって、平家滅亡
の動乱の世を細々と生き、清盛の菩提をとむらって果てたといわれる。
 ここにはっきりと平家物語のなかの女性の生き方が打ち出されているの
を私は思う。男たちは戦って死に、女たちは生きて耐え、仏前に男たちの
後世をとむらう、というのが、平家物語の男と女の典型的なあり方なので
ある。
 男たちは現世であわただしく世を享楽し、女を愛し、うたをうたい、舞
楽にうつつを抜かし、勝機をいつも逸するようなへまな戦いようをして、
秋の野分に吹き散らされる木の葉のように海に散るが、女たちは夫を討た
れ、子供を殺され、自分は世のはずかしめに絶えながら永遠の仏理に生き
る。
男たちは瞬時の現世を。生き、女たちは永遠を生きた、のである。男の生
命と女の生命の特質がここには鮮明な対照を描いている。
 この対照は身分の上下に関わりなくいつでもそうなのである。身分の低
い白拍子の祇王、妓女、仏御前、反対に身分の高いことでは国母の高貴さ
に昇りつめた建礼門院徳子といっても、生き方においては同じであった。
いやむしろ、彼女の方が、はるかに恥辱と苦悩にもてあそばされた末に、
尼僧となって貧窮の生活を生き抜かなければならなかった。
 徳子という女性はどのような性格の人であったのだろうか。恐らく父清
盛の烈(はげ)しい性格よりも、母の二位ノ尼の性格の方に似ていたので
はあるまいか。徳子は夫の高倉天皇のたくさんの愛人たちにも、それほど
嫉妬をしたという話も残っていないし、小督(こごう)の話にしても、父
清盛が目の仇にして傷(いた)めつけるのを、心から気の毒に思っていた
らしい。高倉天皇と父清盛との間で、心を使うことも多かった。幼い安徳
天皇を抱いて、屋島や、海の上の船の行宮(あんぐう)での暮しも心労の
多い、不安なものであったはずである。
 その果てに一族壊滅の壇ノ浦が来る。現実の壇ノ浦を眺めるとその狭さ
におどろかないではいられない。いくら昔の小さい軍船であるとはいって
も、あの狭い海上に敵味方の数十隻の軍船がひしめいての戦いは、どのよ
うなものであったろう。
 徳子、建礼門院は、母の二位ノ尼が安徳天皇を抱いて、水の底にも都は
候ぞ、と慰めて入水(じゅすい)したとき、おくれてはならないと一心に
念じて、懐石やすずりなどを袂に入れて自分も海にはいる。しかし平安朝
の女房衣裳というのは、海に入って死のうとするにはもっとも都合の悪い
もので、裾ひろがりにふわりと水に浮くようになっているのである。当然、
彼女は死ぬことが出来ない。源氏の船から、長い棹の先に鉤(かぎ)のつ
いたものに長い美しい髪をからめとられて、生け捕にされる。極端な恥辱
のなかに都に帰ってくる運命を耐えなければならない。
 建礼門院が都へ送り返される道中のことや。都に帰ってから大原の里の
荒廃した庵室に落ちつくまでのことは、平家物語のなかでもほとんど語ら
れていない。しかし片々たる話は残されていて、それを研究した人の説に
よると、大原寂光院の背後の高い石段の上にある建礼門院の陵とされてい
るものも、果して彼女の奥津城(おくつき)であるかどうか疑わしいとい
うのである。
 建礼門院が都に帰る道中は、必ずや源氏の武士のきびしい監視と警備の
もとにおかれていたであろう。自殺などされてはならない大せつな(とは
いっても安徳天皇の死んでしまったあと、彼女の政治的な人質としての価
値はもはやまったくなかったが)捕囚であった。彼女は、そうでなくても
自殺など考えもしないほどの虚脱状態で送られていたであろう。まったく
夢に夢見る心地とは、そのときの彼女にあてはまる言葉であったと思われ
る。
 都に到着してまもなく、彼女が東山の長楽寺の阿証上人を導師として出
家したことは事実である。そのころ女院は吉田あたりの僧房に仮住居して
いられた、という。平家の頭領であるはずの宗盛父子は不甲斐なくも捕ら
われて鎌倉に送られた。平家に血のつながる子どもは乳呑児まで探し出さ
れて首をとられた。賞金目当てに平家とはなんの縁故もない子供まで殺さ
れるような、血なまぐさい毎日を、女院はじっと絶えてわが子安徳帝の菩
提をとむらう一心で生きていた。
 現実的なことをいうなれば、そのころ女院は、かつては国母と仰がれた
身が、その日の糧(かて)にさえも困っていたのである。食べるもの、着
るものにさえ不自由している女院に、食物を送り、衣類を秘かにさしあげ
ていたのは、公卿に嫁している妹たち二人ばかりだけであった。それも源
氏をはばかり、世間の目をはばかりながらの、細々としたものでしかなか
った。
 大原の寂光院に荒れ果てた小さい堂(庵室)のあるのを世話する人があっ
て知り、そこに引越しされたのも、当時の地理を知ってみるとよくよくの
覚悟をされたからにちがいない。京都から大原へ行くには現在のような高
野川沿いの道はなくて、大原御幸で後白河法皇がたどってゆかれる、あの
険阻な鞍馬口からの山越え道しかなかったのである。


















 文芸評論家の尾崎氏は、吉川英治、著作の書が、国民文学である、とい
われるゆえんを、次のように書いています。
今、小生は、氏の「新平家物語」を読んでいますが、この記事を心にとめて
、改めてこの本に、臨みたい気分です。

                     大正2年ころの吉川英治
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 吉川英治は明治25年、横浜に生まれている。父は直広、母はいく、父方
の母は小田原藩の下級武士、母方の家は佐倉藩の上級武士である。この
小田原と佐倉の間に古くからの人的交流があったという事も面白い現象だ
が、父直広という人物は、維新の変革後、武家の商法で転々と職業を変え、
没落していく典型の一人である。

 母いくは、攻玉熟女子科という当時としての高等教育を受けながら、仲人
口に騙されて前歴のある、職業も定かでない直広に嫁いでしまった。
 それでも開港地横浜の開かれた雰囲気と活気は、吉川家にも及んだ。県
庁の酒税関、牧場経営、家熟、魚市場の書記を転々とした直広は、居留地
の商館や税関に出入りし、ブローカーめいたことをしているうちに、高瀬理
三郎と識(し)り、横浜桟橋合資会社を創立することになる。これで吉川家は
小康を得て、英治が十一歳の時まで、かなり余裕のある生活が送ることが
できた。
家の近くに会った植木商会の花畑、根岸の競馬、中国人の葬儀など、横浜
ならではの風俗、風物が幼い英治の脳裏に刻みつけられ、また貸本屋に熱
中する読書好きの少年を育んだのである。けれども不幸は突然やってくる。
小学校四年を終え、高等小学校一年生の秋、英治は父に呼ばれてーもう学
校へ行く必要はない、ことを告げられる。父直広に即して考えると、この破局
は彼自身の性格悲劇に由来しているように思われる。誇り高い武士気質、
酒食に溺れやすい性向、移り気で焦点の定まらない思考、劣等感と背中合
わせの虚勢など、不幸に追い討ちをかけられてゆくうちに、多くの美質も逆
の裏目に出て、先輩高瀬理三郎に背き争うことで、訴訟事件を引き起こしそ
れに負けたのである。
 
 吉川栄治の奥行きのある性格形成は、この父親を凝視し、自らの内にも
潜む性格の矛盾・相克を克服していったところにあるのではあるまいか。そ
して絵筆を取ったという父の芸術家気質と、おそらく母の中に会った読書好
き、作文好きー母いくの書いた直筆の手紙が記念館に飾られているが、その
巧まぬ真情の披瀝は胸を打つーの資質が、逆境のなかで、何百万分の一の
可能性として、現実化し、実現したところに、作家吉川英治の言質があるよう
に思われる。

  以後、川村印章店の仕込み店員、印刷所の少年工、小間物行商人、ヨイト
マケ、税務監督局の給仕、日雇い、按摩、雑貨商続木商店の仕込み店員そ
して横浜ドックの工員と、転々と職を変えながら、悲惨のどん底にあった吉川
家の家計を支えるために、英治少年がなめた辛酸の数々は言語を絶する。
もちろん、これに類した悲惨な物語が今日でも絶無ではあるまい。けれども十
数歳の子供の肩に、一家の生計がかかり、貧困の中で妹を死なせ、あるとき
は金がなくて一昼夜以上、食べるモノがなかったといったどん底の生活は、今
日あるまい。

 おそらくこのどん底で一家離散と最期の崩壊を免れたのは、英治少年の家を
思う心と、母いくの人間業を越えた忍従であったろう。その英治少年が、最後に
自由意思を表明できるためには、横浜ドッグで、いわゆるかんかん虫(自由労
働者)に等しい境遇で、九死に一生を得る事故を引き起こし、病院にかつぎこ
まれるという事件を経験しなければならなかった。英治少年はそこまで悲運
のどん底に降りてゆかねばならなかったが、そのどん底で命を取りとめるとい
う強運を有(も)っていたことになる。
 この強運こそ、無数の多くの同じ境遇の少年たちの中から選ばれて、国民作
家として自ら実現してゆく神の配慮でもあったろう。

 病床から立ち直ったとき、彼が上京の希望を述べると、-苦学も楽ではない
ぞ、といいながら、父もその上京を許し、母は一円七十銭の金を出してくれたと
いう。
そこまで家のために勤めた少年を、自由にさせることは、その時点で肉親の義
務として両親に映じたことであろう。逆に英治少年にはそう感じさせる犯しがた
い尊厳が備わっていたように思われる。そのとき英治は十九歳であった。

 上京は新しい世界を拓いてくれた。
螺旋(ラセン)釘工場、手堤金庫製作所と移りながら、やがて金属象眼の下絵
描きの徒弟となる。その徒弟生活から独立したのは大正二年のこと、大正三
年、二十二歳にして、浅草の新堀端に一戸を構え、上京以来初めて両親、弟
妹と一緒に住むことになる。

 十一歳で始まった苦難は、二十二歳にして微かな前途への光明と多少の安
定をもたらすことになった。二十二歳といえば、今日、大学を卒業する年齢であ
る。戦後の日本は、子弟を大学へという親の願いを反映して、四十%の青年が
大学教育を受けている。豊かな社会で過保護に育った青年たちは、むしろ、悩
みなき生活を嘆いている。明治以後、辛酸をなめた貧苦の中の青春が培った
貴重な美質と美徳はいまはない。
ないことの幸福に拍手すべきか。幸福の中の不安は、失われた美徳に代わっ
て人間の根性を養うものは何かという現代のパラドックスであろうか。学校教育
は子供たちに、何を与えているのであろうか、という根本問題がそこにある。

 ともあれ、戦前の日本で、大衆文学という名で呼ばれた文学の世界が、長谷
川伸、吉川英治、山本周五郎と、貧苦の中に生きる人生への共感として成立し
ていることは、一考に値する問題である。
それに比べれば、純文学の世界とは、精巧なる閑文字の世界にすぎない。閑文
字には閑文字の存在理由と責任があるのだが、その両者を突きつめなければ
国民文学という主題は浮かびあがらない。

 吉川英治は、この十二年間の辛酸のなかでも、読書と作文への趣好を手放し
ていないが、上京して、象眼細工として多少の安定を得ると同時に、「日本新聞」
の川柳欄に投稿し、その撰者井上剣花坊との個人的接触が始まる。剣花坊を
介して、柳樽寺川柳会の同人となる。この同人となることで、吉川英治の文学的
青春が開花することになる。吉川雉子郎の誕生であり、シュトルム・ウント・ドラン
グ時代の開始である。

 そこでの交友が、彼の文学的感受性と表現形式を練磨し、自由を満喫し、酒を
覚え、女を識る。そしてより大切なことは、同人正木十千棒たちと箱根の山を越
えて、初めて関西に旅をしたことであろう。
箱根、琵琶湖、京都、須磨、明石、姫路、堺、奈良、と巡歴したことは、それまで
抑圧されていた吉川英治の世界を一挙に解放し、広い視野を養うえで決定的
な効果を持ったことであろう。
歴史文学の作家誕生への転機は、この旅にあったと推測される。

 もう一つの重要なことは、「古川柳隅田川考」というエッセイの結実である。そ
れは川柳を単に楽しむのではなく、川柳を介して歴史と風土への省察に昇華さ
せる作業であり、学問である。
 文学的青春の開花、交友と旅と省察と、不幸であった十代の少年時代の後に、
社会人の自立と文学への志向を満たす環境と基盤を、運命の女神は与え給う
たのであろう。

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