atusisugoiのblog

カテゴリ: 新・平家物語

 歴史の詩と真実

 古典「平家物語」は、全体としては平家没落の大抒情詩であるが、
 「傲(おご)る平家」に対する新しい歴史の担い手として、義経に多く
の筆を費やしている。
 古典平家は、都へ入ってくる以前の義経の前半生については、ほとんど
触れていない、叙述ぶりは、まるで彗星の出現のようである。おそらくそ
れが世人一般の、わけても都の人たちの印象だったのだ。この青年を、人
はほとんど知らなかったのである。
 この若武者の過去について、古典「平家」が触れているのは、ただ一ヵ
所。
 「一年(ひととせ)平治の合戦に、父討たれて孤(みなしご)にて有し
が、鞍馬の児(ちご)にて、後には金商人の所従となり、粮料背負て奥州
へ落惑(おちまど)ひし小冠者が事か」
 というくだりだけである。しかもこれは地の文ではなく、壇ノ浦で対峙
している平家方が義経軍といい合いになった折の言葉である。この表現は、
義経の数奇な運命を語っているとともに、定かならざる生いたちへの蔑み
をも表わしている。
 そういう「小冠者」が。いまをときめく常勝若武者だからこそ、義経の
輪郭は、驚異と畏怖の念をともなって、くっきりと印象づけられる。古典
「平家」の語り手は、そういう効果をはっきりと承知して話を進めている
ようである。
 ところで、平家を西海に追いつめて討伐が成功したと同時に、義経の運
命は急転回する。頼朝の勘気と猜疑である。頼朝は大功あるこの弟を、凱
旋将軍として鎌倉へ迎え入れることを禁じる。義経は、釈明文を大江広元
に送ってとりなしかたを頼む。有名な腰越状である。しかし頼朝はききい
れない。鎌倉口まで来ていながら、頼朝に会うこともできない。頼朝の返
事は、「いそぎのぼらるべし」と過酷である。また都へ行け、という。従
がわざるをえない。
 このあと、義経の運命は、ひたすら没落の一途である。後白河法皇から
頼朝追討の院宣を受けたものの、兵を集めるのに遷延しているうち、こん
どは逆に、法皇は義経追討の院宣を頼朝にくだす。義経は政争政略のなか
で翻弄される。都を落ちて西国へと逃げてゆかざるを得ない。
かつて彼が平家を追いつめた行路が、いまは彼自身の没落の道となる。
古典「平家」は「朝(あした)にかはり夕に変ずる世間(よのなか)の不
定こそ哀なれ」」と、感慨深く語っている。
 義経はなおも敗亡の道を歩まねばならない。大物浦の遭難のあと、彼の
姿は吉野山中に見え隠れする。そして「平家物語」は、そこで筆をおさめ
て、それ以降の義経を追ってはいない。前半生の筆を省いたと同様、その
末期にまでは筆は及んでいない。
 しかしやがて、まさに「平家物語」の語らなかった部分が、さまざまな口
承や伝説としてよみがえる。義経は滅び去らない。語り伝えは、各地に発
生し、つぎつぎと伝えられて数百年も生きつづけた結果、「平家物語」か
ら二百年ものちに、義経誕生から死までの一貫した物語が出来あがる。
「義経記」の成立である。
 「義経記」は、むろん正式な史書ではない。ここでの義経は、大勢の人
びとの思い出の中に生きつづける義経像である。
 だから、話は派手に理想化される。全篇これ「判官贔屓」で盛大に語ら
れる。
 それならば、「新・平家物語」の作者は、義経をどう描きだしたか。
 「私も判官贔屓になりそうである」と、ある日作者は、随想に書きしる
している。しかし、結果としては、そうはならなかった。というより、作
者は意志的に、そうはなるまい、とつとめたようである。
 「義経記」の語り口がその代表例であるように、義経は国民的英雄とし
て広く人の口にのぼる。歌舞伎をはじめとする民間芸能はあげて、美男の
義経を主人公に設定し、その悲運や悲恋を倦かず語りつぎ、たとえば、弁
慶との間にみられるような主従関係のうるわしさを繰返し描きつづけた。
 が、じつは、物語や芸能の義経の豊富華麗に反して、義経の実像を決定
づける材料は、きわめて乏しい。実情は多くの謎に包まれている。
 そして「新・平家物語」の作者は、義経の生涯を派手に物語ることをつ
とめてさけて、その謎に挑戦する。
 おそらくこれは、多くの人から国民的文学を期待されていた作者が、国
民的英雄を描出するにあたってみずからに課した、一つの責任のとりかた
だったのであろう。

 前回にも紹介したが、吉川英治氏は、
 「新・平家物語」は、古典平家物語に拠っていない」
 と、発言している。この言葉に託していたであろう作者の抱負について
は、すでに記したが、そのこととはべつに、新「平家」は、古典「平家」
のみを典拠といしているのでないことの自注の意図も含まれていたろう。
 作者は、「平家物語」、「源平盛衰記」、「義経記」はいうに及ばず、
「吾妻鏡」にはじまる史書一般、あるいは「玉葉」を代表する公卿日記、
そのほか民間伝承等々、じつにおびただしい文献を駆使している。
 したがって、新「平家」は、事実関係においても、古典「平家」への批
評ないし批判の役割を担うことになる。
 たとえば作者は、「随筆」でつぎのように記している。
 「義経の屋島急襲には、古典そのまま、うのみに出来ないことが多いの
で考えさせられている。たとえば、大風浪の中を、今の大阪から阿波の小
松島附近まで、わずか四時間で着いたことになっているが、いくら追い風
でも潮流に乗ったとしても、いささか誇張ではないかと疑われる。
また、船五艘に百五十騎が乗込み、上陸直後、戦闘に移って、そのまま徹
宵で今の高松市の近傍まで駆けつけ、またすぐ戦闘に移ったという点など
も、肉体的、時間的に、どうかとおもう。たとえば、当時の船の積載量か
ら見ても、馬匹の輸送などは、そう簡単たなわけにはゆかない。そんな詮
索などはしないで、原話のままの方が、勇ましいにちがいないが、この小
説は、平語のように、琵琶へのせて語るものではないから、現代の読者に
は、何とも古典のままではお目にかけられない」と。
 このように吉川氏は、事実主義に立って資料を読みとる。こういう氏の
実証主義は、壇ノ浦ではいよいよ精密に発揮され、「吾妻鏡」や「玉葉」
などの文献からみて、前月十五日の夜が月蝕であった事実をつきとめると、
その暦数から、合戦当日の潮流の干満時刻を化学的に算出し、それを基標
として、義経、知盛両将の海戦のかけひきを描いているのである。
 こうして新「平家」の作者は、科学的証明主義をできるだけ推進してい
ったあげく、証拠のそろわないことに対しては、断定的仮説を立てること
を用心深く控えている。その一つの例証が、安徳帝の入水のくだりである。
安徳帝はまさしく壇ノ浦で藻くずと化してしまったのか。あるいは難を逃
れて生きつづけたのではなかったか。
安徳帝終焉地とかいう遺蹟伝説の類は数十も存在する。作者は、いくつか
の可能性のあることを記して、にわかな決定を避けている。
 歴史小説は、作者の恣意的な想像力の産物であることはできない。吉川
文学が広汎な読者の信頼を得ている一つの理由は、絵空事でないという信
用である。大部分の読者は、吉川氏の作品によって、「本当の歴史」を読
みとろうとしているのである。
 しかし、絵空事でない、ということは、単に史実を列挙配列していくこ
とと同じではない。
 その一つの例証-
 「吾妻鏡」によると、静の生んだ義経の子は、「台命二依ッテ由比ヶ浜
二棄テシム」となっている。が吉川氏はここを書くにあたって、静の身柄
一切を預けられた安達清経が、これを沖の間から世間の闇へと、ひそかに
助け落としたとしている。なぜ、そうしたか。氏はその事情をつぎのよう
にのべる。
 「私には、いくら頼朝がしたことでも、どうにもこのことがいやなので
ある。
「君命で棄てさせた」とはあるが「殺した」とは記録にもない。そこに作
家の空想を容(い)れうる余地は充分ある。ぼくの空想が否定される確証
は何もない。ここからあの辺の小説は編まれているものである」
 ここに史眼がある。あるいは作者のやさしさがある。
 絵空事でない実証性が、こういうヒューマニズムによって支えられてい
るところに、吉川文学が成立する。絵空事でない「新・平家物語」が、読
者に励ましや慰めを与えるのも、一にかかって、作者のやさしい史眼によ
っているのである。



















 青梅市立美術館から山間のほうへ車で20分くらい走った辺りに吉川英治
記念館があります。

 入館時にいただいた資料などによりますと

 「宮本武蔵」「三国志」などの作品で国民的作家となった吉川英治は、昭
和19年3月、都心の赤坂区(現港区)から西多摩郡吉野村(現青梅市)に移
り住みます。

 形の上では戦時下の疎開のようですが、この3年前、太平洋戦争以前に
既に家を購入するなどの準備をしたうえでの決意の移住でした。

 吉川英治はこの吉野村の家で昭和28年8月までの9年5カ月を過ごします
が、70年の生涯におよそ30回の引っ越しをしたという吉川英治にとって、一
番長く住んだのがこの家でした。

 昭和20年、日本が敗戦を迎えると、吉川英治はそれを機に創作の筆を断
ち、その後2年間、晴耕雨読の生活を送ります。

 それとともに地元の住民との交流を深め、俳句の指導や公民館建設への
尽力などの足跡を残します。

 それは同時に、吉川英治自身にとっても、青梅の豊かな自然と住民たちの
素朴な人情によって癒される日々でもありました。

 やがて吉川英治は執筆を再開し、大作「新・平家物語」をこの地から世に
問うことになります。

 吉川英治にとって青梅は、敗戦の挫折を乗り越え、再び作家の道を歩み
始めた再生の地となりました。


                       吉川英治記念館長屋門
                                      
275





















 元は養蚕農家の屋敷で、母屋は弘化四年(1847)頃の建築を明治初期
に建て替えたものです。

 英治が一部を改造し、また、開館後に屋根を杉から銅に葺き替えました
が、ほぼ昔のままの姿です。

                  母  屋

277




















                  書    斎

295




















                                              書    斎
                                            
423




















                   書     斎

426




































                   展 示 室

301




















           昭和35年(1960)に文化勲章受章

307































               文化勲章(表彰状)

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  敗戦と同時に筆を折っていた吉川英治は、人間の幸せとは何か、という
テーマを歴史の題材の中に求めて昭和二十五年から七年間、「週刊朝日」
にこの「新・平家物語」を書きました。

 骨肉相喰む人間の欲望、人間愚を作者自身涙を流しながら書き綴った
この作品は、権力も名も欲せず自己の天分を守って生きる麻鳥夫妻の平
和への祈りによってしめくくられ吉川文学の最高峰と絶賛されました。


                                     新・平家物語原稿

325
















               新・平家物語原稿

326


















              新・平家物語挿絵
                                       
399























                週刊朝日に連載

400













 英治は母からの手紙をどんなときにも肌身離さずに大切に持ち歩いてい
たそうです。

 作家活動がおもわしくないどん底の時代でも母は頑張って働いてくれ本当
に私にとっての母は心の支えでしたと述懐されたそうです。

 母が息子英治に宛てた手紙の内容は次の通りです。

 只今京都よりの御手紙拝見出立後度々おはがき有がとふ 今ばん正木

様の御家へ晋をつれ御伺い候処私がお伺ひおり候時 正木さんよりおはが

きがつきました 正木様の御家でもおかわりこれなくいろいろよも山の御話

承りかへりましたら お前さんよりの御手紙にて 相かわらず父さんはれい

の処へ参り留守故少しも早く御返事さし出し度と存まわらぬ筆にて当地の

模様を御通知申します まづまづ別だんかわらず素助も日々はたらきおり

日本橋の方も未だ留守の事を知らせませんが仕事がおそいがよそのでも

やりやしないかゆうと正一に申たそふです 今日北さんの小僧さんが様子

を見に参られました 今「ウデワ」をかいております こちらの事は少しも心

おきなく 又とはないおりですからゆるゆると御見物なさいまし 昨日正木様

よりはがき被下されました 故父より御礼まで一筆出しました 又こちらへ

かへる日どりがわかりましたらうへ まへまへ一筆被害下さいまし河崎様

へは定めし御世話様に相成候御事と御前様よりよろしく御礼申上被下度

何れ其内御前様の着宅上方々御礼申上候に付万事宜しく御つたえ願入候

先は取急ぎ御返事迄 なんですか素助とちよが兄さんへおはがきを出すそ

ふです さようなら 母より

 英 次 殿

 こちらは昨日よりずいぶんさむさつよく候天気都合は誠によろしくあなたが

おたちとなりましてより当地は雨も雪もふりませんです どうかおかえりまで

お天気をつづかしたいと申しております
 


             母から英治への手紙


345
















                                           母から英治への手紙

346





















                                          母から英治への手紙

347


















                                          母から英治への手紙

348




























                                          父     母

353












                                                 家 族

373


















                長女結婚

390










































  吉川英治の本は、太閤記と宮本武蔵を途中までくらいしか残念ながら読
んでいませんが、機会を見てぜひ読もうと心に決めています。

 司馬遼太郎は、高いところから物事を俯瞰するような考え方でストーリー
を組み立てますが、吉川英治は物事の中に入り込んで自らがドロドロにな
りながらストーリーを組み立てるといわれています。

 記念館を出るとすぐ近くの民家の人が生わさびだとかわさびの加工品など
を売る店を出していました。

 おそらく昔から代々引き継いだ家なのかもしれません。
 大きな甘柿を買ってから帰路につきました。

 吉川英治も秋にはこのような大ぶりの柿を食べていたのでしょう。






 















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