atusisugoiのblog

カテゴリ: 旅の中の歴史

 「万喜城跡」公園を後にして、今度は、太東崎(たいとうさき)へと向かいま
した。
孫の運転も、なかなか上手いもので、快適にいすみ市の郊外を走っていま
す。
やがて、太東崎に到着しました。

 太東崎灯台
 傍らの説明書きによりますと、昭和25年11月に和泉字和泉ケ谷山頂(海
抜63m)に設置されました(初点灯は同27年5月)。設置当初は灯台守が
いましたが、そのあと無人になりました。
 昭和47年、激しい海蝕により灯台敷地が危険な状態になったため、今ま
までの位置より100m後退した現在位置に移設しました。
 現在地付近は、海抜58mで灯台の高さは15.9mあります。
灯台の光の届く距離は22海里(約41㎞)です。
            
           太東崎灯台
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           太平洋を望む風景
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           太平洋を望む風景 
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          海岸沿いにある河口の風景
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 この礎石は戦時中米軍の侵攻を探知するため、日本海軍により電波探
知機が設置され、その付属の基礎です。
 本体の礎石は、7・8mの円形地下操作室でしたが、すでに海中に崩落し
ました、とあります。

         電波探知機設置跡の基礎
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 この凹地は、機関銃座跡です。戦時中ここに電波探知機械があったので、
米軍機P51戦闘機の攻撃目標になり、これを迎撃した機関銃座跡だった
そうです。
            機関銃座跡
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 トイレの壁に、大きな掲示板が取り付けてありました。
 その中の資料を読んでみますと、

 この地は南房総国定公園区域です。
 眼下に広がる海は日本でも有数の魚介の生息する磯根があり、豊かな
自然環境を持つ地域です。
 江戸時代の有名な浮世絵師、葛飾北斎の代表作の一つである「神奈川
沖浪裏」の波の作風に大きな影響を与えた、欄間彫刻師(俗称)波の伊八
は、この海をモデルに画いたと云われています。
なお、波の伊八の作品は、、いすみ飯縄寺(いづなじ)・行元寺(ぎょうげ
んじ)に現存します。

 宮彫師
 波を彫っては天下一
  いすみ市の波の伊八

 初代「波の伊八」こと武志(たけし)伊八郎信由(よし)は宝暦2年(1752)
安房国長狭郡(ながさごおり)下打墨村(しもうつつみむら)現在の鴨川市
打墨の代々名主を勤める家に生まれました。
 彼は子供のころから手先が起用だったようで、左甚五郎の流れを汲むと
いわれる彫刻師島村流の島村丈右衛門貞亮の弟子となり腕を磨き、共作
も含め、十代の頃から房総半島をはじめ東京都や神奈川県などに50点以
上の彫刻を残し、文政7年(1824)に七十三歳で没するまで、彫刻を彫り
続けました。

 彼は別名「波の伊八と呼ばれるように、多くの波を彫っています。
金の波は、横波を写実的にとらえ、立体感や奥行きがあり、躍動感に満ち
ています。
市内にも、波図の代表作でもっとも有名な行元寺(ぎょうがんじ)の旧書院
欄間彫刻「波と宝珠」や、飯縄寺(いづなじ)・ 本堂欄間彫刻「牛若丸と大
天狗の図」をはじめとして、大作が残されています。  

 波の彫刻に残る逸話

 彫刻を依頼されて伊八は、しばらく仕事をせず、酒を携え、寺の馬を借り
ては九十九里浜や、太東崎を巡っていたといわれています。
 一向に仕事に取り掛かる様子を見せない伊八を、住職をはじめ弟子や寺
の関係者は心配しました。するとある日、大胆に鑿(のみ)を振りはじめ、現
在の彫刻が出来上がったといわれています。
 また、生まれ故郷の鴨川でも、馬に乗り海岸まで行っては、馬を海に入れ、
崩れる横波を観察していたといわれます。
 そうした経験からあのような立体感があり、波の裏側まで表現された横波
が生まれたのではないでしょうか。

           横波の観察
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 ※イラストは俳優でタレントの車ダン吉

 北斎と伊八

 行元寺の欄間彫刻「波と宝珠」北斎の富嶽三十六景「神奈川沖浪裏」の
構図が酷似していることから、二人の関係が注目を集めています。
飯縄寺(いずなでら)の本殿は寛政八年(1796)行元寺の旧書院は文化
六年(1809)に完成していますが、富嶽三十六景は文政六年(1823)に
制作がはじまりました。
飯縄寺の本堂天井絵の龍は、北斎の師匠でもある堤等琳(つつみとうりん
)の作で、行元寺の襖絵には、同じく等琳の弟子堤等隋(ずい)の鷹の絵
が描かれています。

 神奈川県横須賀市の真福寺に伊八の欄間彫刻が残っていますが、ここ
は北斎にゆかりのある寺院です。
 北斎は文化三年(1806)に房総半島を旅していますが、その時に、飯
縄寺や行元寺を訪れたのではないかといわれています。
これらのことから、伊八が北斎の作品に影響をおよびした可能性は十分考
えられるのではないでしょうか。

        「波と宝珠」 行元寺の欄間彫刻  
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     富嶽三十六景「神奈川沖浪裏」
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 熊野神社の神輿彫刻  

 部田熊野神社の神輿で、彫刻は伊八最晩年の作として大変貴重なもの
です。
木札によると伊八とその弟子嶋邑久八郎の合作であることがわかります。

         神輿彫刻 いすみ市郷土資料館所蔵
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 向拝の龍

 光福寺祖師堂正面向拝に伊八作の龍の彫り物が、それ以外にも堂内欄
間などに「鶴」「兎」「鯉」をかたどった彫刻が彫られています。

        中央欄間の龍 (長福寺の中央欄間)
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  中央欄間の龍

 本堂欄間彫刻には寛政元年あ(1789)の作で、左右の欄間には麒麟が
彫られている


          公衆トイレ
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 太東崎(たいとうさき)灯台を後にして、ここから近い距離で、しかも帰り道
に存在する「飯縄寺」に立ち寄ることにしました。
藁ぶきの屋根が、古い時代の山門であることがわかります。

           「飯縄寺」山門  
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 「飯縄寺」本堂は内外陣境にある欄間彫刻の銘文で明らかのように、初
代武志伊八郎信由、俗称「波の伊八」の作例を持つ寺院として知られて
います。現在の本堂は棟札などの資料から寛政九年(1797)の完成と考
えられ、彫刻と一体になった勝れた建造物と言えます。

          「飯縄寺」本堂
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            「飯縄寺」本堂   
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         「飯縄寺」本堂内部入口上部に掲てある天狗
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 牛若丸と大天狗の図
 鞍馬山で牛若丸が大天狗より巻物を伝授される図で、高さ1メートル、幅
4メートルのケヤキの一枚板に彫られ、銘文から初代武志伊八の作と認め
られる。
作者の運力の冴えが見られる雄勁(けい)な大作で、県内宮彫作品としては
最優といっても過言ではないと、説明書きがありました。

        波の伊八作 (牛若丸と大天狗の図)     
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           波と飛龍
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                      波と飛龍
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                             堂内に掲げられた絵画
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              堂内に掲げられた絵画
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             堂内に掲げられた絵画   
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                 祭祀
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               祭祀
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                 祭祀
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 近いようで、なかなか行くこともない、安房夷隅(いすみ)に、かねてから
一度訪れてみたいと思っていましたが、先だって、千葉の孫たちの家に遊
びに行ったとき、ちょうど大学生になった孫が車の免許を取得したといいま
すので、それではドライブをしようということになりました。
 
 練習を兼ね、その孫が運転することになり、目的地に向け、出発しまし
た。

家内は助手席にちゃっかりと坐って、内心は少々心配な気分もあったかと
推測されますが、孫に運転指導などをしながら、はりきっているようでした。
花輪インターから京葉高速道に入り、市原で降りて、一般道へ入り、外房の
道を問題なく快適に走行し、最初の目的地であるいすみ市郷土資料館に
無事到着しました。

             いすみ市郷土資料館
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 ところが、薄暗い資料館に入ってみますと、担当者が出てこられ、現在展
示物の入れ替え作業中で、休館日といわれましたので、やむなく「どこか見
物ができる場所を教えてください」とお願いしますと「万木城跡」公園が良い
とのことでした。

 さっそく紹介していただいた、「万木城跡」公園を、孫がネットで検索し、車
を走らせること10分くらいで大きな駐車場に到着しました。、そこからゆる
やかな丘陵を、細い坂道に沿って進んで行くと、公園らしい台地に出てきま
した。
ここまで来ると、こんもりとした雑木林の向こうに「万木城跡」が見えます。
城跡には、城を模した建造物が展望台になっていました。

          「万木城跡に建造された展望台」 
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          公園から眼下に広がる風景
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 公園内に設置されている説明板を読んでみます。
 「万木城跡」(夷隅町指定史跡)

 万木城は中世の城郭で、現在までその遺構をよく留めています。
 この城の立地は断層崖の急傾斜を三方に盛った台地によっているが、こ
の丘陵の三方には夷隅川の曲流に囲まれていて、外堀の役目を果たし、守
るには要害の地ということができます。
この中世城郭は戦国時代の末期、すなわち十六世紀の中頃には、完備した
城郭があったことは、永禄八年(1565)行元寺文書の存在から傍証できる。
この城郭が比較的単純であるというのは、土居の配置が単純で、ただ周囲
の一部にめぐらせていたこと、空堀の構造がなかったと思われることなどで
あるが、これは地盤の基底が硬い泥岩質で急崖をめぐらしている崖端城と
も云える要害が然らしめたものであろう。
万木城については、不明な点が多く、詳らかになし得ない。

 土岐三代説(頼元ー為頼ー頼春)
 土岐五代説(頼元ー頼房ー頼定ー為頼ー為春)
 土岐九代説(時政ー光頼ー頼金ー頼為ー頼元ー頼房ー頼定ー為頼ー
         為春)

等、さまざまで、いずれも確証がないため、謎に包まれたままです。
いずれにしても資料によれば頼春の頃天正末年には、小田原北条氏に属
し、小田原落城により、北条氏と運命を共にした事はまちがいない。
城址には、当時のものと思われる井戸や、落城の時に焼けて米が炭にな
って当時米庫であったと思われる南側の台地の土中にまで散在しています。

     「万木城跡」に城を模し、建造された展望台
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 もう一ヶ所に設置されている、説明文には、小野派一刀流開祖、小野次郎
左衛門忠明の武勇伝でについてです。

 小野派一刀流開祖
 徳川将軍家剣術指南役
 小野次郎右衛門忠明
   (御子神 典膳)

 剣豪で知られる「御子神 典膳」は、安房の国御子神(現:安房郡丸山町
御子神)に生まれ、幼少から武芸に秀でていた。
御子神一族は、安房の国里見氏の家臣であったが、典膳は故あって上総
の国、萬喜城主、土岐弾正小弼為頼、頼春父子に仕えて、萬喜城にあっ
た。
 天正十七年(1589)敵対関係にあった里見氏と土岐氏に戦いが起こっ
た。
敵将、正木大膳時尭(大多喜城主)と戦った。
時尭は里見氏八代里見義頼の次子であり、関八州に名声が高かった豪
傑であった。
この時尭と互角に戦ったことで、典膳は一扼房総で名を馳せることになる。

やがてこの豪勇が、一刀流開祖「伊藤一刀斎」の耳に入り、萬喜城下にて
立ち合うが、一方的な惨敗をきしたという。
直ちに典膳は、一刀斎に弟子入りを乞い、許されて氏の諸国漫遊に同行
する。

 その後、一刀斎流の後継者を決めるため、兄弟子の「小野善鬼」と小金
原で真剣勝負を行い、勝って後継者となり、二代将軍秀忠に仕えた。
 慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いに向かう途中の信州上田の城攻めで
活躍し、その功績により、将軍家の剣術の指南役を務める。
この頃から、名を「小野次郎左衛門忠明」と改め、徳川政権下になると下
総国(現:成田市寺台附近)の地頭職に就き、六百国を賜わったという。
 現在成田市寺台永興寺裏の墓石に寛永五年(1629年)十二月七日歿
と刻まれている。
 この萬喜城は若き御子神典膳ゆかりの城である。

            展望台から眺める風景
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           展望台から眺める風景
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            「万木城跡」公園   
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           気になる一軒家のある風景
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  「万木城跡」公園 をあとにして、今度は太東崎(たいとうさき)灯台を見物
に行きます。

 土方歳三資料館の資料を拝見しながら、以前行った日野市指定有形
文化財である日野宿本陣のことを思い浮かべました。

 日野宿本陣は、嘉永二年(1849)正月の大火によって古くからの母屋
は焼失してしまいました。
 現存する建物は、佐藤彦五郎俊正が十年に及ぶ歳月を費やして準備
を進め文久三年(1863)に上棟し、翌元年(1864)から住み始めたもの
です。

 日野宿本陣には近藤周助に師事して開いた「佐藤道場」がありました。
 ここでは、のちの新撰組局長となる近藤勇や副長の土方歳三、井上源
三郎たちが激しい稽古に励みました。
  剣の流儀は「天然理心流」です。

 土方歳三の姉(ノブ)がこの佐藤家に嫁いでいたこともあり、歳三はこの
道場に通い始めたといいます。

                日野宿本陣

007




















 
 本棚にある「司馬遼太郎全集(32)随筆評論集」という本(昭和42年発
行)¥880が眼にとまりましたので約40年ぶりに何気なくその本を取り出し
てページをめくると旅の中の歴史「新撰組の故郷」という随筆がありました。

 最初はこの随筆の一部を引用しようと考えていたのですが、読むうちに
引きずり込まれるようにして、すべてを書いてしまいました。

 新撰組の不思議は、あの時代、なぜあのような機能的な組織をもちえた
かというところにある。
 日本人の組織といえば、たとえばあのころ藩というものがあった。
 しかしこれは多分に養人組織で、ある目的に向かって研ぎ澄まされたよ
うな機能性をもつといったような組織ではない。
 むしろこの藩という組織が、日本人の組織感覚を鈍感にさせたところさ
えあった。

 戦国が終わって武士が軍人と云うより官僚になったわけだが、あれだけ
の人数が行政のために必要だったわけではなく、とにかくも戦国のころの
人数を養うことが目的で藩というものがあったといっていい。
 一人で十分やれる職務に数人が任命された。
 たとえば殿様の道具を出し入れするという、少年給仕一人で十分な仕事
に何百石取の立派なお武家さまが数人がかりでやっているというようなこ
ともあった。

 そういう時代の末期に、突如新撰組という鋭い機能性を持った組織が出
現するのである。
 しかも組織を常に鋭利にしておくために、常に内部粛清を繰り返した。

 日本史におけるこういう組織と感覚の出現という点からみれば、新撰組
は十分文化史学的な研究テーマになりうるように思える。

 一時期新撰組を調べていた頃、この点がどうもよくわからなかった。
 近藤勇が首領になってからの新撰組は、まず局長(近藤)という最高職
がある。
 これは最高の命令権は持っていても一面統率上、象徴的性格もあり、実
際の指揮は副長(土方歳三)がやる。
 その副長には副長助勤という数人の将校がついている。
 ヨーロッパの近代軍隊における中隊の組織に似ている。
 副長が中隊長であるとすれば、副長助勤中隊付き将校に相当する。
 中隊付き将校というのは中隊長を補佐する一面、それぞれ小隊長として
小隊の下士官兵をひきいているのだが、副長助勤もまたそれぞれ小隊を
もっているのである。

 いったい、こういう組織はどこから学んだのであろう。
 どうも新撰組の組織は土方歳三が作ったように思われる、彼には洋式
軍隊の素養はない。が、当時すでに幕府は洋式歩兵というものをもってい
たから、又聞きながらもそういうものから機能的組織というものをあるいは
学んだのかもしれない。

 そのような想像をしつつ、七、八年前、東京都下南多摩郡日野の石田と
いう村(現東京都日野市石田)にある土方歳三の生家を訪ねた。

 歳三の生家は農業だが、石田の代表的な素封家で、村では当時も今も
「お大尽」というあだ名がついている。
 農業のほかに、うち身の薬も製造販売していた。
 薬品の名前を「石田散薬」いう。
 
 石田散薬の原料は「そこの浅川という川の河原でとれる草です。」と土方
家の人が話してくれた。
 朝顔に似た草で、葉にトゲがある。

 ※(資料館の展示品では薬草の名前は牛革草と記してあったと思います)。

 この草を土曜の丑ノ日に刈り取って少し乾かし、あとは黒焼きにし、薬研
でおろして散薬にする。

 その作業を歳三の当時、一日でやったそうで、そのためには村中の男女
を動員せねばならない。
 刈る者、運ぶ者、干す者、黒焼きをするための作業をする者、薬研です
りおろす者、など作業別に人間を区分し、組織を作りあげ、効率よく動かし
てゆく。
 その総指揮を歳三は十三、四のころからやらされていたという。

 それを聞いたとき、これが新撰組という機能体の原型ではあるまいかと
思った。

 すくなくとも、こういう体験が、歳三の組織感覚を育てたであろうし、そうい
う点で他の武家育ちのものとは違った何かをもっていたに違いないと思
った。

       歳三が家伝の石田散薬を得意先におろすとき
     に背負った薬箱。

003























 ところで、副長助勤の「助勤」という奇妙な言葉である。
 無論辞書にもない。

 これは新撰組のこういう連中の造語かと思ったりしたが、後に他のこと
を調べているとき、偶然幕府の官学である昌平黌の寄宿舎の組織のなか
にそういう役職名があることを知った。
 
 昌平黌の寄宿舎はいわば自治組織で、人望のある先輩格の者が宿舎
長になる。
 それを補佐していくつかの部屋の責任者になる者が、舎長助勤というの
である。

 なるほどそこからとったのかと思ったが、近藤も土方も多摩の百姓剣客
のあがりで、昌平黌などそういう最高学府とはなんの縁もない。
 ただ新撰組の草創期に山南敬助という仙台の人がいて、この人がどう
やら昌平黌と多少の縁があったらしいということにおもい至って、ひょっと
するとこれは山南の知恵ではあるまいかともおもった。

 新撰組というのは官設の非常警察隊だが、そのやったことどもや、そ
の功罪はともかくこれほどまでの機能的組織をつくりあげたということの
ほうが、日本人というものを考えてゆくうえでより重要なように思われる。

                 歳三の像

089























                                          
                 函館戦争

086






















               函館戦争

085
















           























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