atusisugoiのblog

カテゴリ: 戦争の悲惨さ

 2018年8月28日付の新聞の一部を読んでみます。
これを機に、イラクについて少し勉強してみたいと思います。

 IS拠点だったモスル解放1年

 残る戦禍暮らし一歩づつ

 戦火の傷痕は少しも癒えてなかった。7月、過激派組織「イスラム国」
(IS)が最重要拠点としたイラク北部モスルを再訪した。
 1年前はイラク軍などによる解放作戦のさなかだった。ISが最後まで
抵抗をつづけた旧市街では空爆や砲撃、爆発が続き、多くの建物が押し潰
されたかのように全半壊し、無残な姿をさらしていた。

 建物 壊れたまま

 それから1年。路上に散乱した家財道具や砕け散ったコンクリート片は
片付けられていたが、壊れた建物はほとんどがそのまま放置されていた。
ISのモスル支配の象徴だったヌーリ・モスク。1年前に近くで取材した
ときは銃撃音や砲撃音が鳴り響き、黒煙が上がっていた。今は打って変わ
って静かだ。モスクの屋根にISを罵倒する落書きがあり、周辺には焼け
焦げて使えなくなった車両が折り重なるように捨てられていた。

 戻り始めた住民

 救いは、住民が戻り始めていることだ。建設作業員のイスマイル・サブ
リさんは、6月30日避難先から旧市街の自宅に戻った。玄関の鉄扉には
20発以上の銃撃痕、テレビや冷蔵庫が奪われ、水道は使えない。「でも
家があるだけ幸せだ」
 裏通りを歩くと、キュウリやジャガイモを押し車に乗せて売り歩く男性
や、飲料を台車で運ぶ子どもたちとすれ違った。
 崩れ落ちそうな建物で、鍋やほうきを並べて雑貨屋を営む男性もいた。
一歩づつ、暮らしは再開している。
 街の中心部にはメソポタミア文明を育んだチグリス川が流れる。岸辺で
男の子らが水遊びに興じていた。カメラを向けると、おどけた顔をして次
々と川に飛び込んだ。
 ISの侵攻前、モスルは人口約200万人のイラク第2の都市だった。
時間はかかっても、かつてのにぎわいをとり戻してほしい。次に訪れると
きは、もっと多くの笑顔に会いたい。悠久の大河を前に、そう願った。

                        生きる
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                     壊れたまま
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 ここで、イラク国について、あらためて勉強してみたいと思います。


 国名

 正式名称はアラビア語で、アル=ジュムフーリヤ・アル=イラーキヤ。
通称はアル=イラーク。イラク南部に位置する古代メソポタミアのウルク
が国名の由来。また、アラビア語で「豊かな過去を持つ国」の意味。
日本語の表記は、イラク共和国。通称、イラク。漢字表記では伊拉久と当
てる。

 歴史

 メソポタミヤ

 現イラクの国土は、歴史上のメソポタミア文明が栄えた地とほとん
ど同一である。メソポタミア平野はティグリス川とユーフラテス
川により形成された沖積平野で、両河の雪解け水による増水を利
することができるため、古くから農業を営む定住民があらわれ、西のシ
リア地方およびエジプトのナイル川流域とあわせて「肥沃な三日月地帯」
として知られている。
紀元前4000年ごろからシュメールやアッカド、アッシリア、そしてバ
ビロニアなど、数々の王国や王朝がこのメソポタミア地方を支配してきた。

メソポタミア文明は技術的にも世界の他地域に先行していた。例えば硝子
である。メソポタミア以前にも硝子玉のように偶発的に生じた硝子遺物と
して残っている。しかし、ガラス容器作成では、まずメソポタミアが、つ
いでエジプトが先行した。
Qattara遺跡(現イラクニーナワー県のテル・テル・リマー)から紀元前16
世紀のガラス容器、それも4色のジグザグ模様をなすモザイク硝子の容器
が出土している。高温に耐える粘土で型を作成し、塊状の色ガラスを並べ
たあと、熱を加えながら何らかの圧力下で互いに溶け合わせて接合したと
考えられている。紀元前15世紀になると、ウルの王墓とアッシュールから
は西洋なし型の瓶が、ヌジ遺跡からはゴブレッド破片が見つかっている。

 イスラム帝国

 西暦634年、ハーリド・イブン=アル=ワリードの指揮のもと約18
,000人のアラブ人ムスリム(イスラム教徒)からなる兵士がユーンラテ
ス川河口地帯に到達する。当時ここを支配していたペルシャ帝国軍は、そ
の兵士数においても技術力においても圧倒的に優位に立っていたが、東ロ
ーマ帝国との絶え間ない抗争と帝位をめぐる内紛のために疲弊していた。
サ―サン朝の部隊は兵力増強のないままに無駄に戦闘をくりかえして敗れ
、メソポタミアはスリムによって征服された。これ以来、イスラム帝国の
支配下でアラビア半島からアラブ人の部族ぐるみの移住が相次ぎ、アラブ
によってイラク(イラーク)と呼ばれるようになっていたこの地域は急速に
アラブ化イスラム化した。

8世紀にはアッパース朝のカリフがバグダードに都を造営し、アッパース
朝が滅びるまででイスラム世界の精神的中心として栄えた。

10世紀末にブロワイフ朝のエミ―ル・アズド・ウッダウラは、第4代カ
リフのアリーの墓廟をナジャフに、またシーア派の第3代イマーム・フサ
インの墓廟をカルバラに作った。

 モンゴル帝国

 1258年にバグダードがモンゴルのフレグ・ハンによって征服される
と、イラクは政治的には周縁化し、イラン高原を支配する諸王朝(イルハン
朝、ティムール朝など)の勢力下に入った。

 サファヴィー朝


 16世紀前半に興ったサファヴィー朝は、1514年のチャルディラー
ンの闘いによってクルド人の帰属をオスマン朝に奪われた。さらにオスマ
ン朝とバグダードの領有をめぐって争い、1534年にオスマン朝のスレ
イマン1世が征服した。

en:battie of DimDim(1609年―1610年)。1616年にサファ
ヴィー朝のアッバース1世とイギリス東インド会社の間で貿易協定が結ば
れ、イギリス人ロバート・シャーリーの指導のもとでサファヴィー朝の武
器が近代化された。1622年、イングランド・ペルシャ連合軍はホルム
ズ占領に成功し、イングランド王国はペルシャ湾の制海権をポルトガル・
スペインから奪取した。1624年にはサワヴィー朝のアッバース1世が
バグダードを奪還した。しかし、1629年にアッバース1世が亡くなる
と急速に弱体化した。

 オスマン帝国

1638年、オスマン朝はバグダードを再奪還し、この地域は最終的にオ
スマン帝国の統治下に入った。

 18世紀以降、オスマン朝は東方問題と呼ばれる外交問題を抱えていた
が、1853年のクリミア戦争を経て、1878年のベルリン会議で「ビ
スマルク体制」が築かれ。一時終息を迎えたかに見えた。しかし1890
年にビスマルクが引退すると、2度のバルカン戦争が勃発し、第一次世界
大戦を迎えた。19世紀の段階では、オスマン帝国は、現在のイラクとな
る地域を、バグダード州、バラス州、モールス州の3州として統治してい
た(オスマン帝国の行政区画)。

一方、オスマン帝国のバラス州に所属してはいたが、サバーハ家のムバラ
ーラク大首長のもとで自治を行っていたペルシャ湾岸のクウエートは、1
899年に寝返ってイギリスの保護国となった。

1901年に隣国ガージャール朝イランのマスジェデ・ソレイマーンで、
初の中東石油採掘が行われ、モザッファロッデイーーン・シャーとウイリ
アム・ダーシーとの間で60年間の石油採掘に関するダーシー利権が結
ばれた。1908年ダーシー利権に基づいてアングロ・ペルシャン石油
会社(APOC)が設立された。1912年にカルースト・グルベンキ
アンがアングロ・ペルシャン石油会社等の出資でトルコ石油会社(TPC
、イラク石油会社の前身)を立ち上げた。


 イギリス帝国

第一次世界大戦では、クートの闘い(1915年12月7日―1916年
4月29日)でクート・エル・アマラが没落すると、イギリス軍は8ヶ月
間攻勢に出ることが出来なかったが、この間の1916年5月16日に
イギリスとフランスは、交戦するオスマン帝国領の中東地域を分割
支配するというサイクス・ビコ協定を結んだ。


1917年に入るとイギリス軍は攻勢に転じ、3月11日にはバグダッ
トが陥落した。しかし戦闘は北部を中心としてその後も行われた。

1918年10月30日、オスマン帝国が降伏(ムドロス休戦協定)パリ
講和会議(1919年1月18日―1920年1月21日)。1919年
4月、英仏間で石油に関するen:Long-LBerengerOilAgreement
を締結。
サンレモ会議(1920年4月19日―4月26日)。で現在の
イラクにあたる地域はイギリスの勢力圏と定められ、San R
emo Oil Agreementによってフランスはイラクでの25%の石
油利権を獲得した。
トルコ革命(1919年5月19日―1922年7月24日)
が勃発。
大戦が
終結した時点でもモ―スル州は依然としてオスマン帝国の手中に
あった。1920年6月にナジャフで反英暴動が勃発する中、8月10
日にイギリスはセーヴル条約によりモースル(クルディスタン)を放棄さ
せようとしたが、批准されなかった(モースル問題)。1921年3月2
1日、ガ―トルード・ベルの意見によってトーマス・エドワード・ロレ
ンスが押し切られ、今日のクルド人問題が形成された(カイロ会議)。








 白糸台2丁目17番地に旧陸軍調布飛行場白糸台掩体壕があるとの情報を
得ましたので、実際に現地を訪れてみました。

 現場説明表示板に基づいて記述してみます。

 終戦後、調布飛行場周辺の掩体壕も、多くは取り壊され、現在、三鷹市
の都立武蔵の森公園内に2基(大沢1号・2号掩体壕)、府中市内に2基、
計4基の有蓋掩体壕が残るのみとなりました。

 そのうちの1基がこの旧陸軍調布飛行場白糸台掩体壕(以下、「白糸台
掩体壕」といいます。)

 「白糸台掩体壕」は、旧所有者が繰り返し補修を行ってきたことから、
これまで良好な状態で保存されてきました。

 府中市では平成18年(2006)の平和都市宣言20周年記念を機に、「白
糸台掩体壕」の保存・公有化を決定し、平成19年12月から平成20年3月ま
で、その構造などを確認するための調査を実施しました。

 その結果、戦闘機「飛燕(ひえん)」とほぼ同じ規格で作られていたこ
とが判明したほか、排水設備や砂利敷き、誘道路、実際に機体を収納して
いたことを示すタイヤの痕跡などが発見され、平成20年(2008)に市の
史跡に指定しました。

 ※ 戦闘機飛燕(ひえん)は旧陸軍の「キ61三式戦闘機」の愛称です。
   川崎航空機製で、ドイツのダイムラーベンツの技術を元に、国産化
   した液冷エンジンを搭載した、スリムなデザインが特徴の戦闘機で
   す。
   エンジン出力は1,100馬力、最高時速は590㎞/hで、旧陸軍の戦
   闘機の中では速度性能と航空能力に優れており、昭和18年(19
   43)に陸軍の主力戦闘機として正式採用されました。
  
   アメリカ軍のB29爆撃機による本土空襲が激しくなる中、迎撃が
   可能な数少ない戦闘機のひとつであり、時には敵機に体当たり攻撃
   を仕掛けることもありました。

 その後、コンクリートや鉄筋の保存修理工事を経て、平成23年度(201
1)に保存整備を実施し、平成24年(2012)3月より一般公開を開始しま
した。

                                    「白糸台掩体壕」

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 後ろから見ると、屋根に相当する部分がコンクリートで覆われています。
 一見分かりにくい構造物ですが、このにくさが戦時中は狙いだったと思
います。

                                「白糸台掩体壕」(裏面)

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                       「白糸台掩体壕」(復元図)

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 アメリカ軍による本土空襲の激化に伴い、残り少ない貴重な戦闘機を空
襲から守り、隠しておくための格納施設が、全国の軍用飛行場周辺に作ら
れました。
 この施設のことを一般的に「掩体壕」と呼んでいます。

 コンクリート製の屋根のあるものを「有蓋掩体壕」、周囲を土堤で囲っ
たのみで屋根がなく、上は木や草で作った覆いをかけたものを「無蓋掩体
壕」と呼び、区別しています。

 「有蓋掩体壕」は、①饅頭のように土を盛り、よく固める ②その上に
紙やむしろ、セメント袋などを敷き、柱や梁の部分は板枠で型をとる ③
鉄筋を置いてコンクリートを流し込む ④コンクリートが固まったら、内
部の土を掘り出して上にかぶせ、草木などで偽装する という手順で構築
されたと考えられます。

 労力も物資も乏しい戦時下に、粗悪な資材を用いてきわめて短期間のう
ちに作られたもである。といえます。
 また、こうして作られた掩体壕だけでは数が足りず、格納しきれなかっ
た飛行機は浅間山や多摩霊園、下石原八幡神社、調布市飛田給方面などの
樹木の茂った場所に設けられ「分散秘匿地区」まで運ばれました。

 かって全国に1000基以上作られたといわれる掩体壕ですが、その多くは
既に取り壊され、現存しているものも、経年による劣化や開発工事などに
よって、消滅に危機にあるものが少なくありません。


                                   「有蓋掩体壕」と五式戦闘機

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 ※ 五式戦闘機とは

   前記「飛燕」のような三式戦闘機の液冷エンジンは、製作不良(材
   質、加工技術面の難しさによる)・整備困難などから本エンジンの
   供給不足に陥り、機体のみが余っていた三式戦闘機に急遽空冷エン
   ジン、を搭載し戦力化したものであるが、時間的猶予の無い急な設
   計であるにもかかわらず意外な高性能を発揮、整備性や信頼性も比
   較にならないほど向上した。

   五式戦闘機は大戦末期に登場し、また生産数も少ないために実践で
        の活躍は少ないが、末期の日本陸軍にとり相応の戦力となった。

   離昇出力は、1500馬力と四式戦闘機には及ばないものの空戦能
   力・信頼性とも好評であった。


                                              「無蓋掩体壕」

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 調布飛行場周辺では、昭和19年(1944)6月から9月にかけて、有蓋約
30基。無蓋約30基、あわせて60基の掩体壕が作られました。

 
        調布飛行場周辺に造られた掩体壕配置図

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 建設は陸軍と建設業者が中心となり、地元住民や中学生も作業に動員さ
れました。


    戦後、掩体壕跡地は、子供の遊び場となった(昭和29年)

009

 


















 「白糸台掩体壕」と調布飛行場関連年表

 
 昭和12年(1937)  7月7日     盧溝橋事件、日中戦争開
                       戦

 昭和14年(1939)  9月1日     第二次世界大戦開戦

 昭和15年(1940)  9月27日    日独伊三国軍事同盟締結

 昭和16年(1941)  4月30日    東京調布飛行場竣工式    

 昭和16年(1941)  12月8日    真珠湾攻撃、太平洋戦争
                       開戦

 昭和17年(1942)  4月15日   飛行第144戦隊を改編
                      し、飛行
                      第244戦隊に配備 

 昭和17年(1942)  4月18日   B29爆撃機による本土
                      初空襲


 昭和18年(1943)  7月         三式戦闘機「飛燕」が正
                      式採用
                      飛行第244戦隊に配備
                        
 昭和18年(1943)  9月        イタリア降伏                 

 昭和19年(1944)  6月        調布飛行場周辺に誘道
                        路と有蓋・無蓋の掩体壕
                        が作られる


 昭和19年(1944) 7月~8月      サイパン・テニアン・グ
                        アム島・が没落(本土空
                           襲激化)

 昭和19年(1944) 11月24日      B29爆撃機による東京
                                                               初空襲(中島飛行
                                                               場標的)

 昭和19年(1944) 11月~     飛行第244戦隊が、     
                                                               来襲するB29戦闘                  
                                                               機の迎 撃にあたる                

 昭和20年(1945)  3月10日    東京大空襲

 昭和20年(1945)  4月~6月    沖縄戦

 昭和20年(1945)  5月       ドイツ降伏

 昭和20年(1945)  8月6日     広島に原爆投下

 昭和20年(1945)  8月8日     ソ連が対日参戦

 昭和20年(1945)  8月9日     長崎に原爆投下

 昭和20年(1945)   8月15日    終戦                                            

 昭和20年(1945)  9月17日     調布飛行場が進駐軍に
                                                                                 接収

 昭和21年(1946)  12月       調布水耕農場完成

 昭和26年(1951)  9月          サンフランシスコ講和
                                                               日・米安全保障条約締
                                結

 昭和36年(1961)  6月30日    調布水耕農場閉鎖

 昭和38年(1963)  12月      ワシントンハイツが関東
                                                                村住宅地区に移転

 昭和39年(1964)  10月      東京オリンピック開催

 昭和47年(1972)  5月15日    沖縄返還

 昭和48年(1973)  3月          調布飛行場の飛行場地
                                                                 区がアメリカ軍より全面
                                                                 返還

 昭和49年(1974)  12月      関東村がアメリカ軍より
                                                                                全面返還

 平成13年(2001)  3月31日    東京都調布飛行場として
                                                                                正式開港

 平成24年(2012)  3月       白糸台掩体壕保存整備竣
                                                                                工一般公開






















 





















 


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