2025年01月30日
オーディオひとりごと・・・This is 「制動力」! 最後の難問:「意思」のアバター &「AI」よ今でしょ! ・「糸でんわ」のDCバランス
「あのな こんど買うたアンプ 低音 凄いで」
「電源トランスのまたデカいことデカいこと 腰 いてもたわ」
「それとな 片チャンネル50万μFの電解コンデンサーやでぇ」
「やっぱ 制動力 じぇんじぇん違うでぇ」
これ 出所不明の方言にしても よく耳にする話
ほんまやろか? (翻訳すると「正しい考えだろうか?」)
前回の「水洗トイレの貯水タンク」の話 思い出して欲しい
ってことで ぼちぼちと 考えを進めることといたそう。。。
さて 前回からの続きになるが
そもそも「糸でんわ」は
なぜ 引っ張ろうとする「意思」が必要なのか?
それ無くして「伝送」そのものが成立しない のである
そこには 何か重要な意味が潜在している事は明らかだろう
なに? 当たり前ですと? ノー天気 善い事である
だが 当たり前だからこそ もっとも根源的な問い
しかもこれは「糸でんわ」モデルに止まるものでは無かろう
自然エネルギーのアバター「制動力」を発生させる「意思」とは?

Return to Forever 日本ポリドール'72 / LumixG1 + Yashinon DX 45mm F1.7
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人は 自分の声を
(人は 音楽が奏でられている場の情報を)
一方からもう一方へ伝えたいと意図した
(自分の部屋へ移動させようと意図した)
その為には どうすればよいかを学び
必要とする物を集め 目的に適うよう組み立てた
それは 振動板と振動板を
糸で結んだ簡単なものであった
(場の情報を電気に変換しテープに記録する機構と
それを円盤上に溝として刻み そこから音楽と相似形の情報を
取り出す機構と 増幅回路を組み合わせたものであった)
だが 「送れ!」と声を発し
出来上がったものを観察したが 送るべきものが伝わらない
何故だろうと長考した
そうだ 「意思」だ と気付いた
初めに音声を送ろうと意図した まさにその「意思」
常にそれが この「伝送系」を支配している と
学んだのもその「意思」あればこそであり
部品を集め 意図する方向へと組み立てたのもその「意思」である
そもそもその「意思」無くば 何も生じない
原初の「意図」に沿うべく意図すべきだと
そこで人は 意図して糸を引き始めた
だが 送ってはいるが 音声が弱々しく 明瞭では無い
しかも 良くなったり悪くなったりと安定しない 何故かと考えた
人は 当初の学びの中で知ったことを思い出した
明瞭な音声を伝送するためには「どう引っ張るべきか」を
それは 出来るだけ強く引っ張ること
そして 常に 一定の力を目指すこと
もしその力が揺らいだら 修正すべく意図すること
さらに これらが微塵も揺るがぬよう
いかに強い意思を持続させるかにかかっている と
そもそもそれは 「音声を伝えたいと強く意図したから」である
(音楽を自分の部屋へ移動したいと意図したからである)
そうして 人は 強い意思を持って引っ張るほどに
(常時 最適化への強い「自律的能動性」を発生させるほどに)
音声が より大きく 且つ 明瞭に
伝送されている と 気付いたのである
(楽音情報が より「制動力」を帯びるようになったのである)
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楽音エネルギー(楽音情報)という自然エネルギーを自分の部屋に移動せしめようと意図すること
それは 自然エネルギーのアバターを自分の部屋に現出せしめようと願うことである
とうぜん(自然エネルギーのアバターである)「制動力」を自分の部屋に現出させることを目指さねばならない
それには強い意思が必要である
不遜にも 自然の摂理を我が部屋で実現したいと意図するからである
本来 楽音エネルギーは 演奏の場で消え去るもの
その自然の摂理に抗えるのは「強い意思」だけである
なぜ アンプ等の再生系で「制動力」を発生させる為には
人の意思を模した「自律的能動性」が必要なのかの仮説
(=「糸でんわ」はなぜ 引っ張ろうとする「意思」が必要なのかの仮説)
これで 真理に達したと言えるのだろうか。。。ウーム;
ある意味「溝」は エネルギーの解体である

LumixG1+CarlZeiss Planar45mm(G) f2.0
♪〜♪〜♪〜♪〜 My Point of View ♪〜♪〜♪〜♪〜
ボケ老人の 忘れないうちの臨時更新である
今回のシリーズ「This is 「制動力」!」は お堅い話にも拘わらず意外や好評である ただ 金田式なファンなら 何を言わんとしているか。。。ようするに Reg とか SAOCとか あとは何かなぁ? 個人的にはGOAの「G」も入れたいが。。。解かっていただけるものと思うが でなければちょっと分かりづらいかもしれません でもまぁ少なくとも「糸でんわ」については共感いただけるのではなかろうか まぁ 中途半端な金田式をやってきた吾輩が云うのもなんですがね。。。
さて 電気理論通りに作れば「制動力」は発生する 音楽を自分の部屋で鳴らす事ができる 「意思」など必要ではない 俺が部屋に居なくとも スイッチを入れておけば 勝手に鳴っているではないか 「糸でんわ」とて輪ゴムを引っ掛けておけばよい
そう仰る方がいたとしても 尤もなことである
だが その機械は そうなるべく「意思」をもって作られたのではないか
そもそものオーディオ電気理論もそう「意図」されたからではないか
それでも「意思」無くして問題ないと? 「制動力」は発生すると?
「初めに意図ありき」で始まったことは分るが
アンプだけは通り一遍の電気理論で充分だと?
オーディオはどうあるべきかの根源的な問いである
NO.240傍熱管ヒーターReg ピュアな「制動力」は何処から?

LumixG1+CarlZeiss Planar45mm(G) f2.0
そこで いよいよ AI の出番である
(但しAIに意思や意識があるか 具わるかは諸説ある)
「自律的能動性」を高い次元で最適化できる可能性は大いにある
もしそれが実現すれば「制動力」は前代未聞か
だが AI は 常に エジソンの下僕で在るべきである
決して アナログ(エネルギー空間)に介入してはならぬ
あくまで制御に徹すべきである
デジタルが介入すると そのポイントで
それ以前の「制動力」はすべて「解体」されてしまう
レコードとは 1度っきり解体されたエネルギーを
ずーっと最後まで「回復」することを続けているのである
デジタルが介入した時点で 積み上げたすべてが「解体」
つまり白紙に戻るわけである
残された「回復」のチャンスは少ない
くれぐれもお忘れなきよう
♪〜
なお この内容は まだ熟考中につき
随時 補筆されたり修正されたりするかもしれません
ご了承くだされたく
とりあえず きょうはこれでおしまい あでぃおす!
♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜 追記コーナー ♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜
ここにあった追記は
「追記」の部屋:1ページ 2501-02
へ 丸ごと移行しました
♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜
2025年01月25日
オーディオひとりごと・・・私家録音盤 :「制動力」の萌芽&水洗トイレの貯水タンク?
このところの更新内容を見て
吾輩を 本物の「音キ*チ」とお思いではないか?
とんでもない話である
その類いの人間は この類のレコードは持ってはおらぬ
「私家録音盤」である
と言っても 音はさほどヒドくはない
が 優秀録音とはお世辞にも言えぬ
吾輩 「音は音楽の下僕である」とは さらさら思っておらぬが
ジャズスピリット溢れる素晴らしい演奏は
音は 意に介さずである
Tal Farlow / Fuerst Set & Second Set
米盤 XANADU Records (1975)

FUJIFILM X-T5 XF16-55mm F2.8
Guitar -Tal Farlow Piano -Eddie Costa Bass -Vinnie Burke
Vocals -Gene Williams (fuerst-3)
Photography - Don Schlitten
Producer -Don Schlitten, Ed Fuerst
Recorded By Ed Fuerst , December 18, 1956
■Fuerst Set■
Jordu
Have You Met Miss Jones?
Out Of Nowhere
Opus De Funk
■Second Set■
All The Things You Are
I Remember You
Yesterdays
Let’s Do It
Verveの エディ・コスタ(p)との超有名盤2枚と 同じメンバーで1956年の録音である が こちらは規格外の長尺演奏で 存分に妙技を楽しめる タルは スタンダードナンバーでがんがん押しまくるのが潔く 実に好ましい 吾輩にとってジム・ホールと甲乙付けがたいギターである
しかも ノイズも意に介さずである
レコード特有のプチノイズ
それを「プチ 可愛い」と思わずしてどうする
レコードを愛するとは
ノイズも含め 丸ごと愛でて
記憶の中に納めることである
Fuerst Set 盤面 と DL-103

FUJIFILM X-T5 XF16-55mm F2.8
サナドゥに多い金ぴかジャケとレーベル ジャケは素人っぽいが悪くはない 吾が所蔵盤で「XANADU」はと諳んじたが この2枚を含め五指に余る程度である 巷間にてもバリー・ハリス JR・モンテローズ ソニー・クリス アート・ペッパーあたりがせいぜいだろう 吾輩もご多聞に漏れずだったが 最早収集は卒業である
この2枚 アマゾンの効能書を拝借すると「2枚のヴァーヴ盤。。。エディ・コスタとの有名な共演盤のこと。。。と並ぶ内容の私家録音盤 音質も良好でリラックスした雰囲気の中で長尺の演奏。。。どれも10分から15分ある。。。を繰り広げているが いずれもスリリングな展開で飽きさせない メンバー各人のソロも満喫できる貴重なドキュメントだ」とある
うーむ AIが生成したような毒にも薬にもならぬ能書きだが その通りである 私家録音らしい実にアットホームな雰囲気 ノリノリで思わず長くなるソロ 大手スタジオ録音盤のソロはたいがい線香花火で終わるところだが これはファンとして有難い 録音したエド・ファーストは「良い録音機を持っていた」とあるがどんな機械だったのだろうか まさかアンペックスではあるまい
「ノイズレス」という幻想は 実に罪深い
単に「ヌル null」でしかないものを
意味があるかのごとく偽るのである
真の「静寂」とは 何も無いことではない
5月の空に カッコーが啼く
それを「静寂」と言わずして何という
気配 余韻 消えてしまった後の喪失感でさえも「静寂」である
ヴィレッジ・ヴァンガードの聴衆の 吐息を感ずるウエットな空間
ファイヴ・スポットの演奏がまさに始まらんとする
その胸騒ぎの気配も「静寂」である
トランジェントにすぐれた音が立ち上がる空間
それも「静寂」なのであ〜る
♪〜♪〜♪〜♪〜 My Point of View ♪〜♪〜♪〜♪〜
経年でだいぶボロになった「鳥の家」を作り直した
シジュウカラの家である
一昨年までは 庭の柿の木の枝に括り付けていたのだが
ここ数年 蛇に目を付けられ 被害もあった
それで 昨年からベランダの柵に取り付けることにした
高さがあるゆえ心配したが 大成功である
昨年は十数羽の子供たちが元気に巣立っていった
シジュウカラの家

LumixG1 + Yashinon DX 45mm F1.7
シジュウカラの家は 出入口の孔は 直径28mmから30mm以内が良いとされている それを上回るとスズメが入ったりするかもしれない
このところちょっと暖かいので
巣立っていった子供たちが大きくなって
たぶんペアで だと思うが かわりばんこに
ときどき この小屋を 覗きに来ている
「とーちゃん 家 新しくなったよ!」「やったー!かーちゃん」
新しい家 気に入ったようである
春が待ち遠しいことである
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Second Set 盤面

先日の更新「This is 「制動力」!」は
いつもよりアクセス数は良かった
久しぶりのことである
アクセスは気にしていないと言いながらも嬉しいものである
さて 吾輩が「これが制動力というものか!」と明確に認知したのは もちろん現行のNO.248+NO.240からである 完成した当初からだったが 後に NO.248を 左右共通Regから左右独立Regにしたあたりから強く「制動力」を感じるようになったのである そしてその後NO.240の「傍熱管ヒーターの改良」をやったところ 強烈なストレートパンチを食らって前後不覚に陥ったというわけである
それ以前の NO.192 や NO.218+NO.228では 「情報量」は部分的に増えた感はあったが やはりまだ均一では無かったのか 言葉に出来るほど明確に感じた記憶がないのである それよりもむしろ 工房のサブシステムの「GOA8W」の方がずっと「制動力」を感じたと言える これ 電池駆動を止めて AC電源を整流平滑しただけでドライブしているのだが 不思議と制動力を感じるのである 「G」は制動力の湧き出る泉なのであろうか と言ってもやはりNO.248+NO.240ほどではないはずである それを検証しようと これをRegを入れたらどうなるかと計画していたのだが 今は小休止である
どんな音が「制動力」を感じる音かというのは言語化はなかなか難しいものがある 「情報量」がぐっと増えると言ってしまえばそれまでだが やはり良くなった状態から過去を振り返ると「以前は箱庭的だったなぁ」と思うわけである 低い方から高い方まで力が漲ってくるわけである 空間も大きくなる もちろん次の内容にも関係してくるわけである
さて その「自らを取り込もうとする空間」も まだメインで使っていたころの NO.77プリ+GOA8Wで 意識し始めたという記憶があるのだが その後のNO.192 はともかく NO.218+NO.228あたりでも さほど脳裏に無い所をみると あまり大したこと無かったものと思われる むしろNO.77プリ+GOA8W時代が その感覚の萌芽が始まっていたと記憶するのである NO.77プリも情報量は多い それも一因かと思われる
やはり「手前に拡張して来る空間」は「制動力」ひいては「情報量」(またこの逆)と関連がある まぁ当然のことである
さて アクセスが多かったという事は やはり普段から「制動力は何処から来るのか?」と思っていた方が多かったのか もしくは 吾輩の考えに共感を覚えた方が多かったと解釈してよいのか。。。さーて?
とりあえず きょうはこれでおしまい あでぃおす!
1.27 追記
すぐ上の「制動力の萌芽」の話はあまり面白くなかったと反省である
金田式の何番がどうのこうのって言われてもねぇ。。
また「自らの方に拡張してくる空間」も金田式をやっていれば 似たような感覚をお持ちだろうから 吾輩の専売特許でもなんでもないわけである 特にオンケンのドライバー+ホーンをお使いの方は まさに体験されているのではないかと推測つかまつるわけである
と言いながら 話は戻るが NO.228で初めてSicMosを出力段に使ったアンプを聴いたわけだが。。。そうそう電源の整流もSicダイオードだった。。。確かに高域の情報量は改善されたが やはりそこだけの 部分的な改善であった 決して全帯域ではなかったと振り返るわけである そうやってみると やはりACを整流平滑しただけの電源では たとえ大容量の平滑コンデンサーを使ったとしても「制動力」的に心許ないという結論に達せざるを得ない訳である いや そういう電源の音の方が好きである 自分のスピーカーに合っているという方も当然 居ることは否定するものでは無い あくまで好みの問題なのだから
無論 なかには電源の平滑コンデンサーを大容量にすれば ACの脈動をしっかり平準化するのだからアンプのエネルギーの要求にも。。。つまり「低音のエネルギーへの渇望」にも。。。しっかり対応できると考える方もおられることと思う 当然のことである
だが吾輩は そこには「「自律的能動性」がないでしょ 引っ張ろうとする意思がないでしょ」と言いたいわけである
悪い例えだが「ACを整流平滑しただけの電源(=平滑コンデンサー)」は 水洗トイレの貯水タンクみたいなものである ある程度 力のある水流は作るが どぼどぼと流すだけである 水流を阻害する要因があろうと無かろうと 意に介さずどぼどぼ流すだけ そこには「糸でんわ」におけるところの「引っ張ろうとする意思」つまり 吾輩が言うところの「自律的能動性」はこれっぽちもないわけである 水流を最適化せんとする意思は全くないのである
少なくとも「糸でんわ」においてはこの「意思」がなければ 伝送そのものが成立しない それは何か重要なことを意味しているのは明らかである
さーて 終わりの言葉を受けて ここでまたまた問題が浮上した 上で当たり前に述べたことに対する 実に根源的な問題 こーれーはー超難問である たが解かねばにっちもさっちもいかぬ 「糸でんわ」モデルもや成立するかどうかの根本的問題 何故それが制動力を生むのかの根源的な問題 はたして残り少ない余生で時間が足りるのやら。。。ターラーリ;
後日追記:この問題 墓場に持っていこうと思ったが いちおう解答らしきものが浮かんだ 次回の更新はこれかな。。。。
やれやれ 今日も面白くない話だった 乱筆容赦
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2025年01月18日
オーディオひとりごと・・・This is「制動力」! 伝送の法則
常日頃「音は 音楽の下僕である」と 宣うあなた
リマスター盤が出るたびに
血眼になって求めていることは知っておる
「音も 音楽も」と 肩肘張らねば善いものを。。。
と 今回は「音キ*チ」丸出しの記事ゆえ
先制パンチである 容赦あれ
さて 吾輩は違う考えだが
一般的に「制動力」とくれば低音である
低音とくれば 最近ではバートンの「ブルー」に一目置く
が それでは「またか!」の誹りを受ける
であるが故 これらの盤である
ようするに ベースが良い盤である
ブラウン ムラーツ ホランド ベース 低音 「制動力」

FUJIFILM X-T5 XF16-55mm F2.8
座右に在った盤で 低音が良いものをディスプレイしてみたのである ジュニア・マンスの方は日本盤だが まだSX68時代のプレスで レイ・ブラウンのベースは 家を鳴動させるかの如くで 素晴らしいものがある
あとの二枚も制動のきいた低音が素晴らしい さて 「制動力」が聞こえてくる盤 また 装置 聞こえてこない それら この境界線は何か 聞こえてくるにしても階調がある その理由は何か 電源か回路か スピーカーの振動板の軽重か箱か 部屋か個人の感覚か すべてが関係しているにしても 決定的なものは何か そんな高度な答えを得るためにオーディオを始めたわけでは無いが はや半世紀以上 大半は見習い期間だったわけだが オーディオ人生も終盤になって 難問として浮かび上がってきたのである
と言っても 特に良いとされる盤では無い
日常的に回していて そう思う盤である
何が言いたいのかというと
「制動力は何処からやって来たのか」である
吾輩は「制動力」とは何だろうか と ずいぶん長い間考えた
それは 吾があちこちのページに 残骸として散らばっている
「「情報量」は則ち「制動力」である」も その欠片の1つである
アンプを造ったり 改良したりする中で
「制動力」というものが自ずと浮上してきたのである
目の前にある音が それを語り始めたと言ったほうがよい
自分の中に在った 漠然とした感覚に
言葉を与えたのである
金田式NO.240 古典的真空管アンプ 自律的能動性 有り 無し

LumixG1+CarlZeiss Planar45mm(G) f2.8
なぜ一般に「制動力」と言えば低音なのか それは エネルギー空間(エネルギーが伝達されたり交換されたりする場所・系)には 例の 楽器の(弾くにはより大きな力を与えなければいけない)低音弦が 再生側で常に持つところの「低音のエネルギーへの渇望」がある 故に その系に 幾ばくかでもエネルギーが満たされると(回復すると)まず低音が 渇きが癒された充足感を表わすのである だが 注意深く聴けば 全帯域にわたって改善されていることに気付くはずである そうでなければ「制動力」とは言えないのである AC電源を整流平滑しただけのスカスカなエネルギーに頼る古典的真空管アンプは制動力に難ありと言うのが吾輩の見立てである 自然エネルギーを50hzか60hzでサンプリングしたままのエネルギーでは如何にも心許ないのである オーディオ人生で1度も「制動力」を聴いた事が無いなら その意味を自問すべきである
一方で レコードの「溝」とは
楽音エネルギーが「運動」に抽象化さたもの
それはある意味「エネルギーの解体」である
という考えも芽生えていた
当然 再生側はその「解体されたエネルギー」の再構築(回復)を
ひたすら目指さねば ならないのである
そこで「制動力」である
「制動力」が あるか否か 感じるか否かは
「解体されたエネルギー」がどれだけ再構築(回復)されたかの
尺度である ようするにバロメーターなのである
「制動力」を強く感じれば感じるほど
解体された(楽音)エネルギーが
自然エネルギーとしての 在るべきレベルに
近づいていることになるわけである
つまり 100% 回復されて
本来 在るべき姿になったという事であ〜る
♪〜♪〜♪〜♪〜 My Point of View ♪〜♪〜♪〜♪〜
「制動力」とは相対的なものである
自然界には その名では存在せず 各人の感覚の中に在るだけである
従って 原音と比較することでしかエネルギーの「再構築(回復)度」は判断できない
また 卑近な話では 人様の装置の回復度と比較するか 自らの新旧を比較するしかないのである
ピーコック クラーク ペデルセン ベース 低音 「制動力」

NO.240の傍熱管ヒーターRegを改良した直後である もう3年も経ってしまった いまだショック冷めやらぬである たとえ傍熱管といえども 真空管ではヒーターこそもっとも重視すべき系である さもありなむ 「最初に電子生まれる処」である ヒーターRegの「制動力」が 熱エネルギーを介して電子に受け渡されるのである 驚くべきことに これが実にストレートなのである ピュアな「制動力」を痛切に感じた場所である
上で言った
「原音と比較することでしか」ということは
1、楽音エネルギーは自然エネルギーであることを前提に
(まさか人間が弾くから人工エネルギーであるという粗忽者はおるまい)
2、「制動力」とは 自然エネルギーが再生側において
自らを擬態した状態を言うのである ようするに
自然エネルギーのアバター(化身)が再生側では「制動力」として現れる
と考える訳である
そうすると 必然的に
「「制動力」は則ち「情報量」である」の「情報量」が
自然エネルギーのプロパティであることと矛盾なくリンクするのである
「情報量」と「制動力」が 同じものである とする考えはわかりにくいだろうか スピーカーの振動板が 如何なるスピードで あるべき位置に到達し そこで停止すべきか(此が「制動」である)の 基本的な情報を持っているのがまさに「情報量」なのである
比較することでしか測定することが出来ない
オーディオが科学として遅れている証左である
やれやれ 吾ながらお堅い話だった これじゃあアクセスは望めない 吾がブログ 閉鎖に向かってまっしぐらである。。。とほほ
とりあえず きょうはこれでおしまい あでぃおす!
1.19 追記:
毎度の事 アクセスは低調にしても 一定数の方は見てくださっている 稚拙な内容にもかかわらず辛抱強く訪問くださっている 感謝に堪えないことである
しかし 訪問くださっている方たちのお顔が見えないので どんな方たちなのか また 吾が考えにどんな印象を懐いておられるのか。。。と いつも思っておるわけであります
それはそうと 今回の更新で 本文の内容は勿論ですが サブ的な内容として一番下の写真のコメントでアンダーラインを引いた部分
(傍熱管)ヒーターRegの「制動力」が 熱エネルギーを介して電子に受け渡されるのである 驚くべきことに これが実にストレートなのである
この部分 本文に劣らず 吾輩にとって言いたかったことであります
固定観念として 傍熱管は ヒーターとカソード間に「熱伝導」が挟まれるのであるから 電源の「制動力」がそんなにストレートに伝わるものではなかろう という考えがあったわけです これは吾輩だけでなく おそらく一般に そういうイメージではなかろうかと思うわけです が しかーし。。。なわけです しかもここは実に「ピュアな制動力」が発生(伝達)するので驚かされます
この「電源の「制動力」」という言い方も 今回の結論から推し量るに「解体されたエネルギー」に自然エネルギーを再注入するという そういう意味合いになるわけですから ここでこう使っても問題無いように思えます
また「電源の「制動力」」と言っても 「制動力」が発生する電源とは如何なるものかと よくよく考える必要があるわけです
ところで「エネルギーの解体」をレコードの「溝」の専売特許のような書き方を吾輩はしておりますが デジタルの符号化もまさにそれでしょう いや 吾輩に言わせれば デジタルこそ解体どころか「こなごな」でしょうが
とうぜんデジタルにおいてもエネルギーの再構築(回復)が問題になるわけで 恐らくアナログと同じテーマを孕んでいるものと思われる(が まったく興味無し)
だが レコードの場合は カートリッジの発電機構が「運動」をダイレクトに変換するわけで デジタルのように あーでもないこーでもない では無いわけであります しかも その変換系は「エネルギー空間」ですから「制動力」の生まれる余地が無限にあるという まぁアナログではすべての系がそうだとも言えますがね
そう考えると
「溝」も「運動」という「符号化 」であってデジタル的な考え方の元祖と言っても良いでしょう ただやり方は アナログが非常にシンプルで 創造における思考の純度は素晴らしく高いようにみえます 同じことをシンプルにやってる訳ですから いや 同じじゃないですね レコードの方が音が良いのですから
はっきり言って デジタルは 音は知らんけど けっきょく「物」に行き着くだけに見えて オーディオとしてはぜんぜん面白くないのであ〜る 知らんけど。。。
1.20 追記:
昨日の追記を書き終わって ふと思ったのである
金田先生は DCアンプを発表されて もう半世紀になるわけだが 最初から 音の判定に「原音との比較」をやっておられたのである 自ら録音されたマスターテープの音と 完成したアンプの音を そして 回路や半導体 抵抗やコンデンサー等々 あらゆるもを そうされていたのだ(と思う) これは当時としては実に非凡なことだと思うわけである 昨今では 吾輩のような珍凡人すら「原音と比較するしかない」という考えに辿り着くわけだが 当時は「原音」なんて目指しても無駄 という発想が当然だったと推察されるのである
ところで「原音と比較することでしか」であるが 先生はその際に「制動力」をどの様にお感じになっているのか また それをどう定義付けられておられるのか もしかすると全く違う世界観をお持ちなのかもしれない 非常に興味のあるところである
いや 先生はそんなことはやすやすと超越されているのではないか なぜなら先生は基準となる原音が座右にあり比較するだけでよいのである 一方 吾輩は「原音」そのものを知らない。。。いや そりゃコンサートには行ったが いまレコードで聴いて居る音そのものの原音は知らないのである
先生は実に非凡である 方向性がまったく揺らがない 吾輩は半世紀前に 先生が轢かれたレールを辿っているだけである その感 強まるばかりである
さて 今回の内容 とうぜんの事 あらたなテーマを浮上せしめるのである
「「制動力」なんて貴様の中に有るだけだろ」である
とうぜんの疑問である
吾輩もこのコーナーの冒頭で「各人の感覚の中に在るだけ」と予防線を張っていたのである
だが それを「制動力」と呼ぶか否かはともかくとして 自然エネルギーである楽音エネルギーを「解体状態」から元の状態へと修復せしめるのが 吾々再生側のすべきこと については誰も異論はないはず(ガチガチの音色派はともかく) そして その修復の状態に諧調や段階が在る事にも異論はないはずである
そうは言う物の 不思議なことに吾輩 経験の蓄積でか そこそこ 原音に近づきつつあるのか否かが わかるようになってきたのである 自己暗示と言われればそれまでだが 今聴こえてくる音が「制動力」を帯びているかが判るようになってきた 原音を知らないのにである オリジナル盤を聞かなくてもオリジナル盤より良い音かどうかがわかるようになってきたことに似て 特殊能力を備えつつあるのだろうか(そんなワケない!)
ようするに 今回の更新で「制動力」を定義したかに見えて 実はまだまだ脆弱な状態であると思うのである
これを誰でもが「なるほどこれが「制動力」の音か」と 客観的とは言わないまでも 音として認識できる方法は無いものかと あらためて思うわけであ〜る
1.21 追記:
さて ここからは頭の中の整理のための備忘である
昨日までの話 「制動力」とは自然エネルギーのアバターだという事だったが ここでは ことをシンプルにしたいのである
そこで 何時もの「糸でんわ」モデルで考えを進めていきたい
この「糸でんわ」という伝送系に
「制動力」(自然エネルギーのアバター)を注入しているのは誰か?
である
まさか「神である」 というような抹香臭いことは言うまい
答えは 吾輩である(と言っても 神の摂理に従うしかないのだが。。。)
そもそも ダラ〜りとした糸を ピンと張らせようとするのは 他あらぬ吾輩(と誰かもうひとり 吾輩のアバター?)である
しかし 吾輩が ただ居るだけでは「でくの坊」である
必ずや
引っ張ろうとする意思と
それを常に持続させ 一定の張力に保とうとする意思
が必要である
必ずしも一定を目指さなくとも良いだろうという意見もあろうが その考えはすぐに馬脚を現すのである
吾輩はこれを「自律的能動性」という言い方をしている(今のところである もっと最適な言葉があるかもしれぬ)
これ無くては「制動力」 つまり自然エネルギーとしての楽音エネルギーは回復しないと考えているわけである
しかし「糸でんわ」モデルには「エネルギーの解体」が無いではないかと考える偏屈が居るやもしれぬ
が それは違う 音声は それを受ける振動板によって ここでも振幅という「運動」に変換(抽象化)されるのである そしてあくまで伝送されるのはこの「運動」である 「運動」=「振幅」の大小 なんと これはレコードの「溝」と同じである(たぶん)
もしかすると「伝送」とは エネルギーそのものを伝送するよりも 何か抽象化されたものに変換して伝送する方が 効率が良く 損失が少なく 精度が高い のかもしれぬ それは言える
もしエネルギーそのものを伝送するとなると 物凄い大仕掛けな装置が必要になるであろう しかも その過程で膨大な損失が発生するであろう(そういう意味では まさに「デジタル」は。。。音は犠牲になるが。。。伝送に適したシステムと言える おかげで ネットは観れる ストリーミングはできる わけである)
ある意味 レコードも 伝送のための方式と言えないこともない レコードが 何回もペッタンこやって作られるにしては 音質劣化が少ないのも「抽象化」のお蔭である レコードを「原始的」と宣う輩がいまだに居る 何を見てるのか と 呆れるばかりである (創造における思考純度の高さを見給え!)
さて ここまでは さほど無理のない考えだろう
と ここまで考えて 落としどころが見えなくなった アンプに移し変えて だからこそ「電源が Regが」と言いたいのだが それでは面白くない さて如何したものか
そうそう 思い出した 以前の「糸でんわ」モデルでは 「糸を引っ張る力」すなわち「張力」をアンプで言えば「電圧」と捉えていた(それは変わらない)そして「張力」が高ければ高いほど「制動力」が強まるとも考えていたのである しかし 今回の「制動力」の定義づけで 「張力」と「制動力」を切り離すことが出来たわけである 「張力」がいくら強まろうとも「制動力」がそれに連動するわけでは無い(一定程度の関連はあるも連動するわけではない なぜなら)そこには 常に一定の張力で引っ張ろうとする「意思」が必要なわけである また 張力がブレたらそれを修正しようとする意思も必要である つまりのつまり「制動力」と そういった「自律的能動性」をごく自然に矛盾なくリンクさせることが出来るようになったのである それが 上の部分の文脈の意図するところである
そうそう これで良いのである
さて これでアンプに話を転じるまでも無い 推して知るべしであ〜る
1.22 追記:
さて 自然エネルギーのアバターである「制動力」 その発生のメカニズム
吾輩の「糸でんわ」モデルによる考察はいかが思われたであろうか おそらくまだ「糸でんわ」と「高度なオーディオ」とは違うと思っている方が大半ではないかと思うのである 無理も無い事である
しかーし「糸でんわ」モデルというシンプル極まりない伝送系には 糸の結び目1つにも意味が内包されている もしかするとその結び目は 吾々のオーディオではスピーカーのネットワークくらいの意味があるかもしれない いやそれ以上かもしれないのである
吾輩はこの「糸でんわ」モデルにはオーディオのすべて(の真実)が内包されていると考えているわけである
さてさて 今やすべてが「AI」である きっと未来のオーディオもそれが技術で制御されるようになるのは明らかだ(もうなっているのか?) たとえばモーターやアンプの制御に「意思」を持ち込むことである 吾輩が「糸でんわ」モデルで語ったところの「常に引っ張ろうとする意思」に類するものである それをAIにより最適化するわけである 恐らくそれは「制動力」を極限まで高めることになると思われる これはオーディオの伝送系のあらゆるところに導入できるかもしれない ただ 制御する対象は「アナログ」であって そのエネルギー空間にはデジタルはいっさい介入してはならないと思うのである ましてや 信号をデジタル化しては総てが「こなごな」にされ高次な復元は不可能である(それは痛いほど分かっているでしょ?!)
1.23 追記:
新たな問題 そいつは「いい子」ぶってるが ほんとか?
さて 残された問題は 吾々再生側で「制動力」を発生させるためにはどうしたらよいのか? だけである
ご存じのとおり この方法は数限りなくある
ただ それらは「音を良くするためにはどうしたら良いか?」という漠然としたものであったが今後は「制動力」に的を絞ることが出来るわけである(少なくとも吾輩は)
しかし これとて数限りなくあるわけである
今回の「制動力」の定義づけは 俯瞰すれば 以前からしばしば述懐していた「「制動力」→「立ち上がり」→「情報量」」という連環に 残されていた曖昧な部分を 言語化したに過ぎないのではあるが 吾輩の中では霧がスキッと晴れたような感覚である
「制動力」によってSPの振動板が速く動き 在るべきところで静止する それによって1粒の倍音が次の倍音になってしまう前にきっちり描写できる いやこれはなにも高域に特化したことでは無い 中域も低域もおなじなのである
であるからして「制動力」が強まり「情報量」が増えると全帯域がいきいきとしてくるわけである
吾輩の経験では「情報量」が増えるたびに図太さが増量したのである けっして痩せたり神経質になったりしない 全帯域にわたって生気が漲るわけである いやそれは 本来あるべき自然な状態に近づいたに過ぎないにしても。。。である
と ここまで述べて また 新たな問題が浮かんだのである(やれやれ) 今度も難題である ふつうこの状態は良いとされている 吾輩も良いとしてきたし それは確かに そうらしく存在している が「ほんとにそうだろうか?」である
なにかに喩えたいが なんだろ そうそう よく「音場はスピーカーの後方に拡がる」と言われているがこれに似ているやもしれぬ
この言説 まことしやかに流布されているが 吾輩にとってはこれはウソとまでは言わないが それではぜんぜんダメである 音場&空間は吾輩の方に拡張してこなければダメである 空間が吾輩を取り込もうとする そうでなければダメ 空間や音場が「対象物」ではダメなのである コンサートに行けばそうじゃないか! ホールの空間にあなた自身が包み込まれているんじゃないか!!!
という そいつはこれに似ているやもしれぬ しかもこいつは 気付かれないように巧妙に善良さを装っているふしがある。。。うーむ
1.24 追記:
新たな問題 そいつは「いい子」ぶってるが ほんとか?
この件 何のことか あからさまに言うのは憚られるものがある 吾輩が共感して 贔屓にしているブログでも 時たま そうおっしゃっていたりするわけである まぁボチボチである
それに引き換え「音場はスピーカーの後方に拡がる」は それなりのメーカーだったり オーディオラボだったりがそういう言説を流しておるわけで これはちょっと座視できないものがある
にしても どうして「後方」という発想になるのか理解に苦しむ そりゃ吾輩のところでも 音源によっては 奏者の位置関係によって そういう在り方をする場合があることはある だがそれは奏者の一部であって全部ではない スピーカーとつらいちだったり 手前に出てくる音像もある(とりあえず今は「吾輩を取り込もうとする空間」には触れないでおく)にも拘らずまるでそれが最上の再生で 良い音の基準であるかの様な言い方はいかがなものか 自らの音 また再生の在り様について「これで正しいのだろうか」と内省したことがないのだろうか
吾輩 コンサートホールの例を挙げたが 自然環境であっても空間が前方にあったり 発音体の音場が後方にのみ拡がるという事はないのである すべては貴方を取り囲んでいるでしょう!である
想像するに そういうメーカーやラボは 音に其なりの努力を重ね もうこれ以上大きくは改善されないという処まで到達した だからこれが良い音の上限であると思ったのであろうか 実にのーてんきである
何故そういう発想や 認知になるのか考えてみるのも無駄ではない
分かりやすくするため音の構成要素を 音像 音場 空間 の3つに単純化してみることにしよう。。。つづーく
♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜
2025年01月11日
オーディオひとりごと・・・またまた「カモメ」の出番
またまた出番である
音質チェックとなれば まずこの盤である
だが 生っちょろい独盤などでは無い
1972年プレスの日本ポリドール盤 オンリーである
アイアトー・モレイラの呪術的ドラミング
その「金属質感」が 如何にリアルか
それは クラシックの 弦の倍音にも通じて
本質を見極める上で 極めて大切な事なのであ〜る
Chick Corea / Return to Forever
日本ポリドール 72年プレス盤

LumixG1 + Yashinon DX 45mm F1.7
Chick Corea,Composed By, Electric Piano Airto Moreira,Drums, Percussion Stan Clarke,Electric Bass, Double Bass Joe Farrell,Flute , Soprano Saxophone Tony May,Engineer
Return To Forever
Crystal Silence
What Game Shall We Play Today
Sometime Ago - La Fiesta
語り尽したと言いつつ これほどサウンドと曲が完璧に融合している盤を知らないのである この盤を基準とすると他はみな駄作である(匹敵するはスティリーダンの「ガウチョ」くらいか)サウンドは録音技師トニー・メイなればこそである 一部の隙も無い モレイラのカオス的ドラミングも凄いが スタン・クラークのこぶしのきいたベースも凄い 空間をきりっと引き締めるのである ジョー・ファレルの迸る才能 フローラ・プリムの魔術的歌唱 もちろん御大も筆頭に 褒めたらキリがない 昨今では「フュージョン」のごみ溜めに 一緒くたに放り込まれたかに見えるこの盤 だが ジャズ史に燦然と輝く「至宝」と言って過言では無い 若い方には へなちょこデジタルリマスターなどでなく ぜひこの72年ポリドール盤を 出来れば高域のトランジェントの優れた装置で 聞いてもらいたいものである もしこの盤がどうってことなく聞こえるなら その装置は壊れておりデジタル向けである
なぜこのポリドール盤一択なのか それはカッティングが素晴らしいからである レコードはそれ次第である このカッティングマシン特有のノイズフロアを感じるが これこそが良い音の「しるし」である 独盤よりカッティングレベルが高いことは言うまでも無い 口が酸っぱくなるほど言ってきたが この盤こそ吾輩が言うところの1970年前後の「日本におけるカッティングの特異点」の元祖である 今のNO.248-EQの初代が完成して この盤を初めて回した時の驚きは忘れもしない 信じられないような「金属質感」が放出され ツイータが飛びそうになった 慌ててVRを下げたものである
この盤を ここ数日 四苦八苦して完成させた
「接点のみ」プラグ付きフォノコードで聴こうと言うわけである
コード自体は モガミのPCOCCコードだが
購入時の能書きは 忘却の彼方である
素材さえ判かれば あとはどうでもよい
完成したフォノコード と 空中でそのまま凍り付いた噴出水

LumixG1 + Yashinon DX 45mm F1.7
テーマとは関係ない 公園にて朝のルーチン中に発見 寒いはずである
現用の クラフトの低抵抗コードはぶっとい音がする
それ故 「情報量」は満点で無いのは解かって使っている
当然 新しい方に期待するのは「情報量」である
しかも 全帯域にわたるそれである
このコードが 信号電流を伝送しつつ
Regからの「エネルギー供給」をも兼ねている
願わくばそれが故の「全帯域にわたる情報量の覚醒」を期待する
が その考え自体が試されるとも言えるのであ〜る
♪〜♪〜♪〜♪〜 My Point of View ♪〜♪〜♪〜♪〜
本文トップの写真 自分で言うのもなんだが 「ヤシノン・レンズ」もいい味を出している 古いカメラ まだまだ使える
さて 同じ盤が何度も登場し読者から「またか!」とお叱りを頂きそうだが 毎度同じ弁明にしても 拙ブログは 珍しいレコード 貴重なレコード 等を紹介する場ではなく あくまで「個人とレコードとの関わり」に主眼をおいている事をご理解いただきたいのである
さてさて 本文の終わりでコケた通り コードは完成後間が無く まだ聴いてないのである
腕が落ちて 四苦八苦し 写真を失念したが 数枚はあった
完成までの経緯は 御託を並べるより写真が一目瞭然である
だが どうだろ 同じことをやりたいと思う人は 皆無と思うが
「こんなしょーもないことで音 良ーなるはずないやんか!」
ごもっともで御座る
1,フォノコードを55cmに切る

5cmは予備長である 小さく写っている2つが取り換えるプラグで 既に廃版になって久しいモガミの音の悪い「穴開きプラグ」の前の部分である 後ろの部分は無用である 元々此のためにあったプラグではないか
5ピンのコネクタも必要悪だが 意外に接点はしっかりしていそうである 音の悪さは感じられない(いまのところ)
2,ホットピンの先端から信号線を引き出しぐるりと纏わせる

写真の都合で少し飛んだがこの間 半田こての熱で被膜を剥いたのである そしてこの雨傘の骨状になった上からハンダをかぶせていく そしてピンの先端の穴にもハンダを流し込む 芯線を1本でも切ったらやり直しである 吾輩ここで四苦八苦した 要諦はコテの温度である 冬のロフトの工房の気温を忘れていたのである
3,無駄なハンダを削り整形する

盛った半田層を削り整形する 削り過ぎても足りなくてもダメ その理由は自ずと解かるはず 削るにつれ半田の中から信号線が浮かんでくる これと 本体側の「接点のみ」ジャック上で EQ基板から伸びた入力ラインの先端とを接触せしめるのである そして必ずその「接点」にテンションがかかるように工夫を要す G側は構造物を跨いで先端で ハンダと芯線が僅かに内側に回り込んでいるのが見えるだろうか この構造物上の何処で半田付けするか この作業全体の成否を決する場所である
4,完成である

黄色いアームのアース線は コード本体に付属するものをそのまま使用したが 芯線数の少ないか細い オマケ程度の線である が 意外と知られて無いが ここは音に影響あるのである 電線屋はその事を知らないのかもしれぬ アームのパイプや本体に発生する誘導電流を如何に速く逃がすか これは非常に重要と思う 誘導電流は音に影響し。。。つまり音声信号に「誘導」を及ぼすのか。。。音を曇らしたり汚したりするのである 現用のクラフトのアースコードは20芯のダイエイ電線である 長いならもっと太くてもよい 方向性はもちろんアーム側が「D」である 完成した方もダイエイにしたいが 試聴次第である
超高級なプラグでも所詮「構造物」は そこを信号が流れる限り 音を歪めるのである 低音がモリモリ出る 高音がシャキーンと伸びる それは「色」が付いたに過ぎず 「情報量は全帯域均一であるべし」という概念からは離れるばかりである これが行き着く先は 空間と発音体が相似形にならない ビックマウス歌手 オバケピアノ メタボベース 中華ナベドラム? である
吾輩の「接点のみ」における構造物は
1,単に接点を支えるため
2,接点にテンションを与えるため
にあるだけである
それはそうと 本体側のジャックは 例のチャチくて軽いが故に 自らの嵌合力で自律的に振動を抑えるジャックで それを「接点のみ」に改良済だが これには普通のプラグを普通に挿すこともできる これは言っておかねばならない しかも普通のジャックより音は良いはずである
さて こんな事やるよりも「アームのパイプ内の信号線を延長して
アンプの入力基板までを半田付けしたほうが良いのではないか?」
当然の疑問である
だが それとてハンダと言う仲介物から逃れられないのである
「強固な接点」 信ずる者は救われる である
とりあえず きょうはこれでおしまい あでぃおす!
1.12 追記:
年頭から ちまちました話で恐縮至極で御座る
「ゼロサイドアーム+光カートリッジ導入!」
なんて見出しだったら アクセスもそこそこ来たかもしれないが 今回も低調で御座る そりゃそうだわなぁ 盤も相変わらずのやつだし 言ってることも「耳だこ」だから 読まないでもまたあれだろ ってことだと思うよ 無理も無い話で御座る
ところで 音質マニアには 何かをいじって音質チェックするときは これっていう盤があるんじゃないかって思うね 「定点観測」っていうか 自分なりの基準があって あの曲のあそこんとこは どう鳴るんだろう って感じかね ようするに 録音のいいやつで スピーカーの限界まで鳴らしてくれるやつって言うかね
他の方のブログなんかみても やはりそういう例が多いよね
っても やっぱり人それぞれ その人の盤っていうのがあるようだ
吾輩の場合は あんまり持ってないのもあるが「カモメ」がまず来て 次はバートンの「ブルー」 その次はなんだろ やっぱりエヴァンスとかジャレットのトリオとソロ キースは特にスタンダートVol2かな それからドルフィーの「ファイヴスポット」 あーでも今回のはフォノコードだから けっこうクラシックの弦物が2番手あたりに来そうだ ハープシコードのやつとかも となればワルヒャとシェリングは外せない あとレオンハルトのフローベルガー ピアノ・ソナタとくればシェリングとヘブラーだね それから肝腎要なディーリアスの管弦物 あとチェロとピアノのソナタとかかな

新しいコード 弦の倍音は今のより改善される可能性は高いが 室内楽の小編成の 中低域の内声部がどうだろってのがある
やっぱり「ふっくら」しないと駄目だね さっぱりし過ぎとかになるとちょっと厳しいものがある ジャズだったら勢いでOKってこともあるが クラシックはそうはいかない
なんか 「情報量は全帯域」と言いながらも あまり好ましくない「音色志向」になってるけどね。。。
この盤 日本盤と独盤だが 日本盤が意外とよい 仄暗い感じがショパンにピッタリだ 独盤は明るいね
まぁそんなで あまり盤が浮かんでこない
けっきょく 日常 聴きたいやつが どう鳴るか。。。だね
こうやって見ると「音質定評盤」はあんまりないなぁ 絶対的な定評のあるやつ TBMのやつとか クラシックでは カンターテドミノとか?もってないけど。。。かね
世間様が音が良いと太鼓判を押している奴は避けているってのもある そういうの いい音で鳴って当たり前だからね 悪さが隠れてしまうわけだ 人様にデモるときだろうかそういう盤は 普通の盤がビックリするくらいでないと改善されたってことが判り難い 「カモメ」なんかも 特別音が良いって定評があるわけじゃないだろう 悪いって言う評価もないにしても ところが違うんだよね この盤は 驚くべき素晴らしさだよ
じつにとりとめのない話だったなぁ。。。
1.14 追記:
エネルギー供給系の改善効果で驚いたのは やはりNO.240での「傍熱管ヒーターRegの改良」である(傍熱管ですよ!直熱管ならまだしも!) 吾輩 いまだにこのトラウマでアンプ造りに回帰できない状態だ まぁ金田式の部品調達が行き詰ったってのもあるが 本音は前者にある
ずっと吾輩のブログを見て下すっている方なら覚えておいでかもしれないが もともと電源部が別筐体で その中にあったヒーターRegを 増幅部本体側に移し それに伴って Regの整流をSicダイオードにし 平滑Cを47000μFだったか5倍くらいに増やした あと出力側のCを電解からOSコンに変えた ただそれだけだった 交流点火をRegにしたと言うような根本的改変ではないのである が 恐ろしく音が変わったのである どう変わったか 「制動力」である 言うまでもなく「制動力」は「情報量」につながるというのは吾輩が口が酸っぱくなるほど言ってきたことである
この「「制動力」は則ち「情報量」である 逆もまた真なり」は ひっくり返して「「情報量」は則ち「制動力」である 逆もまた真なり」という言い方も出来るわけである この考え 言語化したのは 知る限りでは吾輩が初めてかもしれない
これはNO.248-EQを完成して「情報量」がめちゃくちゃ増えた するとどうだろ スピーカーから素晴らしく制動の効いた低音 いや低音だけでなく全帯域が素晴らしく鳴るようになった
いや これは当たり前のことであるが なぜEQの情報量が増えるとスピーカーが素晴らしくなるのか それはEQの「情報量」がパワーアンプを突き抜けて スピーカーをドライブしているわけである 直接スピーカーに繋がっていなくとも「情報量」は機器を突き抜けて「制動力」を下流に伝えることが出来るわけである と気付いたわけである 気付いてしまえば当たり前のことだが その当たり前に気付くと気付かないのでは その後の方向性がぜんぜん変わってくるのである
とまぁ これも耳だこな話だった 冒頭の話しに戻るが ようするに吾々はまだレコードの半分ほどしか「情報量」を引き出してないのじゃないかという 寂寥感と言えば大袈裟だが 挫折感というかが 吾がトラウマの実相であ〜る もうやることが無いのである
まぁある意味 今回のコードで「情報量」が増えるなら 「制動力」も良くなるだろう。。。という結論にもなるわけだが。。。。どうだろね?
そうそう 此を忘れてはいけない 諸兄にお聞きしたいが「制動力」とは何だとお思いですか? われわれ よくこの言葉使ってます なに気なしに
吾輩はこれを随分長い間 考えて来ました
それはわがページのあちこちにまとまりなく散らばっているわけですが
ようやく ぼんやりと形が見えてきました もちろん「ダンピングファクターだ」なんてメーカーの傀儡みたいなことを言うつもりはさらさらありません 次回はこれについてですかね。。。
♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜
2025年01月01日
新年あけましておめでとうございます:「接点のみ」あれこれ
令和7年 元旦
新年あけましておめでとうございます
今年もよろしくお願い致します
Bill Evans / Trio '65

LumixG1+CarlZeiss Biogon28mm(G) f4.0 1/320
イスラエルとバンカーがいたトリオである ラファロがいたトリオばかりが耳目を集めるが こちらも名演ぞろいである 一曲目の「イスラエル」はとりわけ好きな曲である この盤 着古した下着のように吾輩の記憶に纏わり付いて なんとも言えぬ ぬくもりを帯びた 愛着のある盤である
Israel
Elsa
Round Midnight
Our Love Is Here To Stay
How My Heart Sings
Who Can I Turn To?
Come Rain Or Come Shine
If You Could See Me Now
今年も 皆様にとって(ついでに吾輩にとっても)
音楽と オーディオが
実りの多い年でありますように
お祈り申し上げます
♪〜♪〜♪〜♪〜 My Point of View ♪〜♪〜♪〜♪〜
さて 今年がどんな年になるか まったく予測不能につき
とりあえず ジャズの至宝 エリック・ドルフィーの
「ファイヴ・スポット」で景気付けである
ドルフィー三昧!

FUJIFILM X-T5 XF16-55mm F2.8
「ファイヴ・スポット」でないのも混じってるがまぁよい
これだよこれ! シンバルがザワ付き 熱く語りつつも
ホワーッと空気と混じり合うような金属質感
打撃直後は 金属が100%で
消えゆくにつれ 空気が100%へと逆転するのである
RVGはシンバルが意外と良いのである
「接点のみプラグ」付きフォノコードへ試行錯誤中

FUJIFILM X-T5 XF16-55mm F2.8
写真にも小さく写っているが モガミの 今では希少な ホットピン先端に穴の開いている「穴開きプラグ」である この先端からフォノコードの信号線を通し ピンの先端にぐるりと 雨傘の骨状に半田付けをし その後 微妙に難しい「整形」を加えなければならぬ そして イコライザー側から延びた入力ラインと RCAジャック上で直に接触させるわけである この接触の仕方も 常時接点にテンションがかかるように工夫を要す そこいら辺に幾つかノウハウが要る とうぜんG側にも同じ様なノウハウがあるわけである テンションを掛けることで 接点にもかかわらず 半田付けと変わらない。。。いや半田と言う仲介物が無いのだからそれ以上だ。。。音を実現できると考える訳である これも「圧着カラゲ」の延長線上にあるとも言える
そのシンバルを更に改善すべく
永らくお蔵入りだったモガミのPCOCCコードに付属の既存のものを
モガミの「穴開きプラグ」に取り換え「接点のみ」する
要するに「構造物」は何であれ 信号を歪めるものでしかないと
もちろん 長さも最短にし コンセプトは
プラグ&ジャックに必要なのは 接点である事だけ
である それにしても この音が DL-103で出るのが魔訶不思議である
とは言え 理由は解明済みである
とりあえず きょうはこれでおしまい あでぃおす!
1.3 追記:
あーでもこーでもないと改善策を考えるのは愉しいものである
が「どんな音になるかなぁ?」と自分なりに予測するのも大切だ 何かやれば必ず変わるのだから 方向性を違わない為にはそれ有ればこそである
なんて偉そうなことを言ってるが 今回の「接点のみ」でどう変わるかまったく予測不能である なぜなら現用のフォノコード。。。クラフトの低抵抗タイプで40cm強に切り詰めてある。。。のプラグ(&本体側のジャックとペアで)は既に「接点のみ」になっており 同じやり方では改善は期待できないのである ということで
1,現用のクラフトの低抵抗フォノコード(40cm強)を モガミの低容量のPCOCCコードに変えるのであるから 期待するのは カートリッジDL-103VICへの給電の改善である 金田式DL-103VICでは フォノコードが 本体内Regから カートリッジ近傍の2SK43への給電ラインを兼ねているのである で これによって全帯域が(全帯域でなければ「情報量」とは言えない)改善される可能性が高いものと期待しているわけである 現用のクラフトのコードはもう何十年も経っており 信号側もG側もだいぶ酸化が進んでいるものと思うわけである
2,1,に関連して 低抵抗から低容量に変えると 通常は高域が改善され 低音の立ち上がりや量感までもが改善されたりする と言われている 低音の倍音成分の応答が上がり 耳には基音までも立ち上がり良く聴こえるのは在り得ることだ が 今回の場合は それは不確定要素であるからして あまり期待はしておらず 1,による改善をより期待するのである
3,ようするに1,による電源やReg系の「エネルギー供給系の改善」は 全帯域。。。(「渇望!」する)低音はもちろん 中域 高域まで。。。の応答が改善されるが故に「情報量」(即ち「制動力」)が改善されると思うわけである
4、万が一 全帯域で無く高域だけの改善であった場合は「線が細い」「うるさい」となる可能性もあり このコードは没になるやもしれぬが 最後はあやふやな「音色」判断で許容できるかどうか。。。になるわけである
さて モガミの低容量PCOCCフォノコードは120cmもあり 購入当時 没になったのはそれも一因だと思う また アンプがまだ非力。。。「情報量」が全帯域均一では無かった。。。こともある 経験的に コードはどんなものでも。。。たとえば2497でも。。。長くても出来れば50cm以下にしたいのである それ以上だと そのコード特有の周波数依存性のクセがどんどん表面化するわけである 極端な話 10cmくらいになれば コードはなんだって大して変わらないような感じさえするものである(と言いながらアンプ内は躍起になって短くしたのであるが)
3cmくらいのシェルのリード線を変えて「ガラッと変わった!」などというのは ほとんどプラシボか 元がヒド過ぎたとしか思えないのである 短い場所では線材より接点等の品質の方が大事だと吾輩は思うわけである
純真なオーディオマニアの足下を見るような高価なコードに取り替えて自己暗示に耽るより そのコード自体を最短に切り詰める それ以上の方法が在るだろうか しかも 良いコードがタダで2本になるのである
もうちょっと簡潔に書けなかったか反省である 長ければ長いほど自己矛盾が露呈する 過ぎたるは猶及ばざるが如し(←これ線材には当てはまらないのである!)
蛇足:プラグ&ジャックはどんな高級品でも構造物自体が音を歪めるのである いろんな能書きはあっても 程度問題で つまりは無意味である もっとも善いのは 現状の物を改良することである 方法は単純である
1,構造物を信号が流れないようにする(市販の物は構造物を誇示!)
2,「接点」を強固にする
3,そこに線材が繋がっておれば それを最短にする
これ以外に確実な方法があるだろうか?
そうそう これも蛇足だが 1,〜3,を行えばプラグ&ジャックは「接点のみ」になるのだから 出来るだけ「チャチイ」もので良いとするのが吾輩の考えである 重くて大きいものは振動に弱いのである いったん振動しだしたら止まらない 「接点」が煽られるのである かえってチャチくて軽い物の方が 自身の持つ嵌合力。。。ようはテンションである。。。で接点の振動を抑えることが出来るのである
1.5 追記:
昨日から始めたのであるが 久しぶりに半田コテを握るとあって 勘が戻るのにちょっと時間を要したのである と言ってもまだ半田付けはやっておらず まず120cmあるPCOCCコードを55cmと65cmに真っ二つにしたわけである 小市民な吾輩にとって安くも無いコードをぶった切るのもちょっと「清水の舞台」だったが ともかく 55cmの方を使うのである 先端の処理等で5cmは予備長である
その後 コードの プラグを取り付ける側の先端の被膜を半田コテの熱で溶かして剥いたのである この被膜が硬い事固い事 テフロンかなんかだろうか 当時の能書きはとっくに忘れたが この硬さは音的には良さげだが 剥いてる際に芯線を1本でも切ってしまうと台無しである もし切ったら初めからやり直しである そのための予備長でもあるわけである
とまぁ まだ準備段階だから どおってことない話である 機会があればページにてご紹介できるかもしれない
そうそう これは言っておかねばならない いま作業をしているのは「接点のみ」のプラグ側であるが 「接点のみ」のジャック側のほうは いろいろ工夫はあるも ごく普通のプラグ。。。つまり「接点のみ」でないプラグ。。。も基本的には繋ぐことができるのである 音も普通のジャックに繋ぐより良いはずである だが ホットピンが長すぎるものは繋げるかどうか自信はない 構造を考えれば納得できるものと思う
1.6 追記:
新年早々ちまちました話で恐縮である もうちょっとドカーンとやりたいのはやまやまではあるが。。。しがない年金くらしでは。。。とほほ
さて そのちまちました話 昨日 四苦八苦して完成した 出来具合は80点くらいである やはり半田付けの温度の勘所が戻っていない スーッと半田が馴染んでいかなかったのである やはり現用のものを造った時が 気合といい集中力といい 段違いであった が まぁよいとしよう
それもそうだが あまりにも四苦八苦したせいか ほとんど写真を撮ってないのである やれやれである
試聴結果のほうは しばらくエージングしてからになるものと思われる 完成間際は変な音がするものである 現用の物も 直後は一瞬 音が潰れたような感じで酷くヒズミっぽかったものである こういう慣らし運転的なことを「エージング」という便利な言葉で逃げるのが常だが あれはどういった原因なのか まぁ自分なりに考察はしているが オーディオとは分からないことだらけである
♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜
2024年12月24日
オーディオひとりごと・・・マイルスをDIGする理由(パート2:「kind of blue」)
心残りだが
今年は オーディオ的には まったく進歩が無かった
「思考」が というよりも「造る」という意味である
「造る」という地金が無ければ
鉄も鍛え様が無いわけである(反省)
一方で「思考」の方は 無くはなかったと思う
Miles Davis / Kind Of Blue
CBS/SONY SONP-50027 SX68サウンド盤(Re.1968)

FUJIFILM X-T5 XF16-55mm F2.8
Release Date: Aug 17, 1959 Fred Plaut, Engineer
Miles Davis, Trumpet Cannonball Adderley, Alto Saxophone
John Coltrane, Tenor Saxophone Bill Evans, Piano Paul Chambers, Bass Jimmy Cobb, Drums Wynton Kelly, Piano
So What
Freddie Freeloader
Blue In Green
All Blues
Flamenco Sketches
1969年か70年に買った盤である 通算 何回聴いただろうか 500回は確実 1000回に達したやも知れぬ ジャケはボロだが盤はぴかぴか プチッというノイズは両面で1度でもあるだろうか レコードは実にロングライフである 吾輩より余命はまだじゅうぶんあるはずだ 購入当時 SX68SOUND盤であることなどこれっぽちも意識せず 餌箱に在った盤を求めただけ 音体験もシステムも貧しくそんな事 知るよしも無かったのである
この盤 ジャズを聴き始めてすぐに入手した この盤が当時から既に「伝説」と化していたことの証左である が そんなことより これ程 長い間 聴き続けられることの意味である それこそ真に名盤たる所以である
それにしても当時 ジャズの新参者だった吾輩でさえも この盤の「モーダルな新しさ」が解かったのだから不思議である それでいてワクワクする様な愉しさとカッコ良さもあった マイルスのサウンドが時代の先端を行きつつも 人を魅了して止まない理由である(但しジャケはダサ杉!)
今年は 半分は「無音」だった
だが「無音」でこそ分かったことがあった
ひとつは 吾輩がどんな音楽に心を奪われているかである
そういう音楽は「回さなくとも聞こえてくる」のである
この「Kind of Blue」もそうだ(菊地雅章さんの言う通りだ)
もうひとつはオーディオ絡みである
昔から 電源が重要視されてきたが
余りに常識的で 理由など考えることもなかった
だが その答が静寂のなかにぽっかり浮かんだのである
もはや耳ダコとしりつつ
レコードの「溝」は 楽音エネルギーが「運動」に抽象化されたものである
それは ある意味「エネルギーの解体」である
当然 再生側は 解体されたエネルギーを注入し再構築しなければならない
であればこその エネルギー源としての電源の重要性 である
(12.25追記:アンプは信号の「増幅器」と言うよりも「エネルギー回復器」が適切かもしれぬ そして これは吾輩の例のロジック「「低音弦」はより強い力で弾いてやらねばならないが故に 再生側には 常に「低音のエネルギーへの渇望」がある」に繋がってくる そして Regの「自律的能動性」や 吾輩が「傍熱管ヒーターRegの改良」で発見した件の事実について更に考察することを促しているわけである)
これで腑に落ちたわけである
自分から言うのも何だが これも「造る」と「思考」の融合である
気付いてみると なんだかアンプとは
その為だけにあるような気さえしてくるのである
アンプを末席に置く人も居るが なにをかいわんやである
今年のエポックメイキングな出来事はそれくらいだろうか。。。
「定点観測」と言えば聞こえは良いが。。。

どれもこれも ご老体で御座る

pioneer s-lh5 は値段の割にはポテンシャルは高いと思う(但しフィルターCはAudynCapに交換済) ロフトの工房でGOA8Wで鳴らしているが こいつの中域の大らかな厚みは可能性大と思っており 下に降ろしてNO.248-EQでドライヴしたいのは言った通りだ ジャズはもちろんクラシックもイケるはずで これでディーリアスの厚みのある弦楽を聴いてみたいのである だがひとこと苦言を言わせてもらうと ホーン鳴きが極わずかにある。。。他と比較してはじめて気付く程度にしても。。。これが「コスト」と言うやつのワルサで メインSPになれない理由である 吾輩 ホーン鳴きはどんな極小でも絶対に許せないのである
さて 来年は これらご老体が
どんなナラティヴを語るってくれるのやら
はたして「造る」は 再び招来するのか
何か新しい道具が導入されるのか
それとも 御多分に漏れず 妄想だけに終わるのか
混沌とした世界情勢の如く
まったく予測不能である
さて 皆様方におかれましては
今年1年 ご訪問いただきまして ありがとうございました
来年も良い年でありますよう お祈り申し上げます
♪〜♪〜♪〜♪〜 My Point of View ♪〜♪〜♪〜♪〜
「Kind of Blue」をはじめ やはり「名盤」の良さは格別である
いまさらこんな名盤を出すのも こそばゆい感じがした
が もはや外聞など どうってこともない
John Coltrane / Ballads この盤も齢50年である

この話は何度もしたのだが
昔 この盤をかけてもらうためだけに
京都の老舗ジャズ喫茶「しあんくれーる」に行ったのである
あぁやっぱりね と思ったものである
JBLのスピーカーから エルヴィンのシンバルが ”シィィィーン” と
余韻を伴ってエンディングを迎えたのである
それから 数十年が経ち ようやくあの音を超えることができた
長かったが あっと言うまでもあった
あの日 店で同席した もはや吾輩の中で「顔の無い客たち」は
いま どこでどうしているのやら
いまだ あの音に囚われているのだろうか
光陰矢の如し シィィィーン。。。。
とりあえず ことしはこれでおしまい あでぃおす!
12.28 記
以前 パワーアンプがNO.219で ACを整流平滑しただけの電源だったころ 御多分に漏れず 平滑電解コンデンサーにフィルムコンをパラって明らかに高域が改善されたことがあった だが 改善されたこと自体は喜ばしかったのだが よくよく考えてみると 「まだ上には上がある」 「もっともっと改善できるはず」という事が 返って露わになったと言える

その後10年もして 今のNO.240が 左右独立Reg付きの電源になって 同じように平滑電解コンデンサーにフィルムコンデンサーをパラってみたが 期待したほど。。。ようするにNO.219で改善されたほど。。。には改善されなかったのである いまもそのCは 取り外すのも面倒で着けたままだが ようするに 皆無とは言えないにしても 日々体調などで音質がブレる その誤差の範囲内といったらいいか その程度の違いだった(と思う)
ようするに変わったかどうか自分でも明らかに認識できなかったので 明言する自信が無いのである まぁ変わり方はその程度なのである
これの意味するところは明らかである
こういうことをやって音が変わっても 決して喜ばしいことでは無いということである 変わらないアンプの方がましなのである 変わったアンプはまだまだ「余地」があるという事実を晒しているだけである(要するに 変わらなくなるまで何処かを改善し続けなければならないという意味だ)
上で言ったような事は「解体されたエネルギーの再構築」という観点からすると そのアンプがどの段階まで行ってるのかを判断する1つの材料になるのではなかろうか。。。さて どうだろね?
12.31 記
韓国の飛行機事故は悲惨な事である 機体に問題は無かったのだろうか それにしても 滑走路の延長線上に強固な壁(土手?盛土?)を設けると言うのは素人でも在り得ないと思うのだが 万が一オーバーランが起きた場合のことを想定していない空港とはなんなんだろうか。。。後情報で 当局の発表ではこの設備は「規定通り」で他の空港にも設置あるそうである(まったく正気の沙汰ではない!)。。。人災が濃厚である まだ結論はでてないが「ボーング」という企業にも潜在的ななにか問題がありそうである こういう事故は対岸の火事では有り得ない
さて リタイア組には正月と言っても普段と変わらないのは自他ともに同じである 「来年こそ」などと思う事も無いのである
昔の話をしてもせんないが 北陸の寒村での子供の頃は 小正月は 隣近所が集まって 田んぼの雪の上に青竹で大きな櫓を組んで「どんど焼き(左義長)」をしたものである。。。書初めを燃やしたり 餅を焼いたりした。。。 いちおう子供ながらに 灰が高く上がるのを願って「字が上手くなりますように」などと祈ったものである
今の地域は そういう行事もなさそうだが 子供たちはなにをしているのやら。。。
さて この正月 オーディオ絡みで 何か出来ることがあるだろうか。。。
そういえば モガミのフォノケーブルを「接点のみプラグ」に改良するつもりで ほったらかしにしているのがあった この際 片づけてしまうのも一興かと。。。。。。。(←長すぎる)
♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜
2024年12月15日
オーディオひとりごと・・・徒歩10分の季節 & 吾が「night lights」が圧倒的な理由
今日も痺れるような寒さである
いつ始まって いつ終わったかもわからないまま
秋は過ぎ去り 気付いたら真冬である
とは言え 季節の名残は
吾がカメラに 残像として 痕跡があるはずである
今日は それを プレイバックしてみよう と
そんな話である
橋にて

FUJIFILM X-T5 XF16-55mm F2.8
散歩道筋にある橋から眺める
欅の落ち葉に 防護柵が影を落としている
落葉は 確かに秋があったという証拠である
このポイントは 運が良ければカワセミの捕食に出くわすことがある
春や初夏に観ることが多いが 昨年は今頃だったかもしれぬ
しばらく見てないが どこでどう生計を立てているのやら
まあこう寒くては 骨の折れる事だろう
公園にて

LumixG1+Vario14-45mm Auto
こんな美しい落葉に遭遇するのは稀である
今朝 枝を離れたばかりだろう
いつも遅すぎて 良い時期を見逃してしまうこの場所
まだ夜露の湿りっけのある一瞬の美である
池にて

LumixG1+Vario14-45mm Auto
ちょっと割り込ませた 古い写真
わが少年時代の影法師
「吹雪の沈下橋を渡る少年」の幻影はそろそろ現れるだろう
川鵜が日がな一日 水面を見詰め狩人を営み中である
この季節になるとなぜかフラッシュバックする情景である
水面に写る冬

FUJIFILM X-T5 XF16-55mm F2.8
散歩道にある池
鏡のような水面に揺れる柳と月
霜が降りて すっかり寂しくなった柳
涼風にそよぐ初夏が恋しいものである
残照

FUJIFILM X-T5 XF16-55mm F2.8
夏の入道雲を思わせるが 寒気の塊である
雲の上辺に 沈んだ太陽の残照が映える
陽が落ちて急激に気温が下がってきた
そろそろ 退散するとしよう
草紅葉と月

FUJIFILM X-T5 XF16-55mm F2.8
幾度となく振り返る
月の美しさが 名残惜しいことである
家から歩いてわずか10分以内の所にも
季節は息づいているものである
♪〜♪〜♪〜♪〜 My Point of View ♪〜♪〜♪〜♪〜
新しいカメラはやはり良い 本文の下の2枚など 実際見た色調がそのまんま画像として定着した感じである 原画だとさらに分かり易いのだが 明から暗まで 諧調がなめらかで 消滅するぎりぎりまで粘っている感じである このズームも 単焦点に迫る なかなかの描写力である
さて 散歩から帰って
夕餉までの小一時間 アンプに灯を入れるといたそう
このイコライザー ご存じの様に シャーシから完全自作したのである
内部には無酸素銅のアース板に基板が載っており
フローティングによる振動対策も兼ねている
フォノコードのG側はまずこのアース板に接地する仕掛けである
最早 懐かしさとともに語るしかない
金田式NO.248 EQ

右側面の予備RCAジャックは電圧伝送用である 以前はこれを2A3アンプに繋いでいたのである これにGOA8Wのアンプを繋いで ロフトの工房のpioneer S-LH5を鳴らしてみたいのだが 一人で降ろすのは決死の覚悟である いや 10年前はできたがもう不可能である 寄る年波には勝てないものである(とほほ)
さて 何を聴こうか。。。
久しぶりにこれなんかどうだろう
まぁ あいもかわらず「古色蒼然」ちゃぁ そうだが。。。
Gerry Mulligan / Night Lights

日本フォノグラム(Fontana)1972年プレス 1100円廉価盤 BT-2008
この和製廉価盤 駄盤扱いで既に「燃えるゴミ」になったのか
最近めったに見られなくなった
が ここだけの話 とんでもなく素晴らしい音なのである
これぞ オリジナル盤と寸分違わぬ音と推測するが
オリジナル盤と同じメタル原盤によるプレスではないのかと
その確率は。。。100%である
12.16追記
すぐ上で100%と言ったが それどころか。。。である
日本フォノグラム(Fontana)1972年プレス 1100円廉価盤 BT-2008

これが吾輩の愛聴する盤である 下に4枚 Discogs から盤面の写真をちょっと拝借して載せたのだが 吾輩の盤は 内周の状況から どの盤よりも 見るからにカッティイングレベルが高そうである 不思議なことにオランダ盤よりも高そうである 米盤は論外である するってーと吾輩の盤 輸入メタル原盤によるプレスだと思うが出処はいずこなのであろうか もしかして日本でカッティングしたか いや 廉価盤の場合はまず在り得ないのである それはともかく これが吾輩の盤が圧倒的に音が良い つまり めちゃくちゃ図太い音がする理由である(図太さでは吾輩の所蔵盤の中でもベスト3に入るか)また 日本フォノグラムのこの「BTシリーズ」が音が良い理由の一端を垣間見せているのではなかろうか

吾が盤は1972年プレスだからこの盤は5年後である もう「文明の衰退」が起きているわけである 72年プレスの原盤はもう摩耗してしまったのだろうか なぜ使わなかったのか 不思議である

初版は日フォノならぬ日本ビクターである 吾輩の廉価盤のランナウト部分とかなり似ているが 数ミリから1cm弱こちらが広いと見える やはりカッティングが違うようである

ヒドい写真である 吾輩の盤フォンタナレーベルであるから欧州系のはずで このオランダ盤と親戚筋のはずだが内周の状況はまったく違う 実に不可解である
もしかするとテスト的なカッティング(原盤)を複数回やって なかにカッティングレベルが高すぎて没になった。。。というか正式にリリースされなかった。。。原盤があった それが 吾輩の盤 72年の日フォノBT2008用にあてがわれた とか?(まぁむりくりだね)とにかく謎!

おそらくこれもオリジナル盤扱いであろう だがこれだけ吾が盤とランナウト部分が違うと 音はこじんまりしているものと思われる 大枚を出してまで米盤を買うのは。。。いや ひとそれぞれだ 言うまい言うまい
ご覧のように 吾輩が愛聴している廉価盤と同じカッティング状況を示す盤を この話をするたびに探して調べているのだが 未だに解明しないのである 米国にも無ければオランダ本国にも無い ましてや日本に在るわけもない まったく日フォノは何処から仕入れてプレスしたものやら 吾輩の盤 フォンタナレーベルであるのが1つのヒントであろうとは思う と言うのもこれと同じことが吾輩のドルフィーの「ラストデイト」にもいえるのである これも日フォノフォンタナレーベルの「BTシリーズ廉価盤」で音はとてつもなく素晴らしい カッティング状況も上と同じである 謎が2つである
この話 いつか句切りを着けたいとおもっている のだが おりあるごとに蒸し返すのは ジャズファンの間で未だ蔓延してる「オリジナル盤志向」への意趣返しなのかもしれない オリジナル盤の良さ それはある意味事実なのだが そうでなければ音的に棒にも箸にも引っ掛からないようなことは決して無いわけで もっと日本盤にも目を向けようよ。。。日本人がどれだけもの造りに丹精込めてきたか知ってるでしょ。。。と思うわけである
12.20追記
いよいよ万事休す もう語りたいことが何もない もともと在庫は少なかったにせよである
なにか新しい機械を入れるのが手っ取り早いだろうが 先立つものも無い
次回の更新になにを話すのか にっちもさっちもいかぬ
と ここまで喋って 頭の中にまた「速度比例」が浮かんできたのである
先生はいまや光カートリッジ一択で邁進されておられるが 吾輩はいまだその音に「うーん どうなんだろう」と思うわけである この話は前にもしたが 導入した方たちの絶賛されることはよくわかるのだが 吾輩もそのことは先生の試聴会ではそれなりに聞いた だが誰も 高域の繊細感 とりわけ倍音のそれや。。。ようするに一粒一粒が切り立って鋭利ではあるが刺刺しさを感じないということや。。。ジンバルレガートのハーモニーが空気と混じり合うような金属的質感などなど ようするに「情報量」に言及される方が いや言及されるだけではどうってことない それがどうであるかを言語を尽くす例をいまだ聞かない訳である また自分でもそういった機会に恵まれていないわけである ようするにそのカートリッジの「振幅比例」からいまだ吾輩の望む音を聴いて居ないし また人様がそのことに触れている機会に恵まれていないのである
吾輩の盤 マリガンの「night lights」が素晴らしく図太い音がするのもカッティングレベルが高い事 ようするに「速度比例」のお陰なのである また吾輩がバカみたいに繰り返している「手前に 吾が身を包み込むように拡張する空間」もこれも「速度比例」の恩恵であると考えるわけである 吾輩はあのカートリッジの「振幅比例」と言うロジックが音に何をもたらすのかまったく想像できない訳である なんなのであろうか? あのカートリッジは素晴らしいと思うのだが その素晴らしさの根拠を。。。磁気歪が無いこと?。。。を是非言語化。。。凄い凄いでは解からない。。。してもらいたいと思うこの頃である
とりあえず きようはこれでおしまい あでぃおす!
♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜
2024年12月08日
オーディオひとりごと・・・マイルスをDIGする理由
「ところが マイルスのレコードからは
彼が吹いていない時でさえも
それが聴こえてくる」
と 「sorcerer」のライナノーツに
菊地雅章さんが 書いている
なるほど。。。
吾輩が マイルスの盤を 求め続けるのは
この 聞こえないはずの音を
追いかけているからに 違いない
Miles Davis / Dig Prestige 1951 OJC

FUJIFILM X-T5 XF16-55mm F2.8
Miles Davis (tp) Jackie McLean (as) Sonny Rollins (ts) Walter Bishop Jr. (p)Tommy Potter (b) Art Blakey (ds)
October 5, 1951 at Apex Studios, NYC
Dig (Jackie McLean)
It's Only A Paper Moon (Harold Arlen, Yip Harburg, Billy Rose)
Denial (Miles Davis)
Bluing (Miles Davis)
Out of the Blue (Miles Davis)
OJC盤である 日本盤からの買い替えだが その日本盤をどこに仕舞ったやら見つからない 「お蔵入り」である プレステッジはOJCが入手可能なら 是非ともそうしたいものである カツティングが素晴らしいのである
この音源は プレステッジ初の「microgroove」だの マクリーンのデビュー盤だの スタジオにパーカーが遊びに来ていたなどと話題の多い盤である 長時間収録が可能になって新しい地平線が拓けたとする世評は間違いない マイルスはまだ「吹いていないのに聴こえる」とまでは行って無いが 大海に漕ぎ出して間も無いマイルス 偉大なるスタイリスト の 歴史に刻印されるべきアルバムではなかろうか
菊地雅章さんが ヴァークリーで学んでいたのは
68年から69年の事らしい
彼は 毎日 「miles smiles」(feb 1967)「sorcerer」(oct 1967)
「nefertiti」(jan 1968) の三枚を聴いて居たとも書いている
( )内はリリース年月である
まさに同時進行で
衝撃的だったに違いない
Miles Davis / Sorcerer SONY SX68サウンド盤(R.1969)

FUJIFILM X-T5 XF16-55mm F2.8
Miles Davis (tp) Wayne Shorter (ts) Herbie Hancock (p)
Ron Carter (b) Tony Williams (ds)
May 16-24, 1967 at Columbia Studio B, NYC
1.Prince Of Darkness (Wayne Shorter)
2.Pee Wee (Tony Williams)
3.Masqualero (Wayne Shorter)
4.The Sorcerer (Herbie Hancock)
5.Limbo (Wayne Shorter)
6.Vonetta (Wayne Shorter)
7.Nothing Like You (B. Dorough, F. Landesman)
only #7 August 21, 1962 in NYC.
Miles Davis (tp) Frank Rehak (tb) Wayne Shorter (ts) Paul Chambers (b) Jimmy Cobb (ds) Willie Bobo (per) Bob Dorough (vo)
ソニーのペラジャケSX68サウンド盤(SONP盤)である これは既に所有していた1977年再発の米盤(PC9532)からの買い替えである PC9532は下のコーナーでも盤面を紹介しているが 音は悪くないのである カッティングレベルも不満は無い このPC9532盤 もっとも入手しやすい盤ゆえ お楽しみの方も多いと推測する では 何故買い替えなのか マイルスの「黄金クインテット」をはじめとして 50〜60年代のCBSものの「SX68サウンド盤」化計画の一環である 欲しいものでは残すところ「nefertiti」だけである
nefertiti / YS-990-C

しかし その「nefertiti」は日本コロンビアの初版(YS-990-C)を持っており これも音は良いのである
さーてどうしたものか。。。
(余談)日コロのYSシリーズの60年代は 吾輩が持っているものはすべからく音が良い が SX68SOUNDの音とは違う 楽器の中核をなす低中域が太く粘りがあり充実した音である その代わり高域は割とあっさりしている だがレンジ感はあり「情報量」も多い 昔の日コロ時代のMPSのピーターソンを聞いたことがあればお分かりのことと思う(両開きジャケのやつ) 吾輩 マイルスの「E.S.P」もYS盤とSX68盤を持っている 世界観は違うが 甲乙つけ難い音である ご覧の通り 盤自体はオリジナル盤の雰囲気を色濃く残している 音はどうだろうか 吾輩は大好きである
さて 吾輩 この聞こえないはずの音が聴こえるためには
プーさん(菊地雅章さん)がいみじくも書いている様に
「絶対的な静寂を持つ空間」が必要だと思うわけである
マイルスもスタジオ内にその空間を創造しようとした
とも書いている
脱帽である
プーさんは 本当の意味でオーディオが解かっている
吾輩が オーディオに求めているのは
まさに そういった トランジェントに極めて優れた
そして それが故に「真に静寂な空間」なのであ〜る
♪〜♪〜♪〜♪〜 My Point of View ♪〜♪〜♪〜♪〜
トランジェントに優れた音が立ち上がらないでは
「真に静寂な空間」は訪れない
これは 吾輩が苦節50年を経て終盤でようやく辿り着いた考えでもある
大事なのは お飾りだけのS/N比などでは計れないということである
そこから派生して「空間の無いモノラルには真の静寂は無い」と思うのである モノラル最大の欠点である(もしモノラルで聴いた方がいたら通報してくだされ)
プーさんは 60年代末の。。。オーディオ黎明期である。。。ライナーノーツで ほとんど同じ感覚に属することを既に書いているのである
立ち上がりのなまった「とろい音」では 聞こえないはずのマイルスは まさに「聴こえない」のである 彼はオーディオというか 音が解かっている 流石である
さて 凡庸な2枚を並べたところで 意味がないとは思う
が オリジナル盤を並べて絶賛する方がよほど無駄かもしれぬ
SX68サウンド盤

音は語り尽くした SX68サウンド盤の音そのものである 下の米盤の音も良いが 世界観が違う やはりSX68サウンド盤のほうが緻密で 吾輩のシステムと相思相愛であると言える
米盤 PC9532 R.1977

70年代末の再発盤である 内周の状況からも推測できるが 音は良い SX68サウンド盤とさほどカッティングレベルが違わないことも見て取れる オリジナル盤は聞いたことはないが さほど遜色ないのではないか カッティング用のマスターテープは同じなのかもしれない
60年代のマイルス黄金クインテット盤を始めとして CBSのマイルスはどれも音が素晴らしいのであるが 少し前のコールマンがいた頃の「my funny valentine」だけは いただけない ライヴ録音時の録音レベルなのか はたまたカツティングレベルなのか分からないが 「どうしたんだ?」と思うほど音圧が低いのである ヴォリュームを上げても腰が入らない訳である 演奏が素晴らしいだけに歯がゆく残念である
ちなみに アマゾンでのCD評でも「オーディオシステムを試すようなアルバム」と感想があるが まさにそれである レコードを知らないデジタル世代には最適な言葉が見つからないものと見てとれる この現象 SX68サウンド盤も同様のところを見ると どうも録音レベルが低いのかもしれない マスタリング時になんとかならなかったものかと思うが マスターテープに問題があり出来なかったのかもしれぬ
で かねてから音圧の高い盤を探しているのだが情報に乏しい アマゾンでは SACDだと割と良い印象を持った人も居るようである リマスターの際に改善したのかもしれないが デジタルメディアは 昨今のアナログの再評価で。。。流行としてでなく音質でのこと。。。身銭を切るほどのものでは無いのは明らかになったわけである ので聞いても仕方がない
マイルス盤では「my funny valentine」だけが心残りである
12.9 追記

吾輩 「SX68サウンド(sound)」を熱く語っているが 所詮 生半可な知識で知ったかぶりをしているだけかもしれない 実は お気付きの様にレコード会社の内部事情にはそれほど詳しくないのである
で 吾輩 すべて耳で判断しているのであるが。。。それとレコードを時代的時系列で購入してきたという経験知も加えてだが。。。とうぜん間違いはあるものと思う 音の印象と言うのは カッティングで変わるが その前の録音がもっとも大きいのである 録音が音にどう影響しているのかは もはやエンジニアの世界である
さて「SX68サウンド」もいろいろあるようだ 真空管アンプでカッティングした最高の音質と言うのは「SONP+五桁の番号」が基本であり その五桁の番号も「下3桁が300番まで」くらいであるとされているようだ
そして ジャケの左上に「SX68SOUND」と明記され始めたのは「下3桁が100番」くらいから ということらしい これはあるサイトで読んだのである(そのサイトも伝聞であるらしい)
すると上の写真では手前から1番目は「SX68SOUND」とは明記されていないが 「SONP+五桁の番号」で「300番まで」であるからこれは正真正銘そうである(これはマイルスの「カインド・オブ・ブルー」である 低音がふくよかで最高の音質である)
今回の「sorcerer」も該当する
そして次の2枚は300番を過ぎているので真空管ではない。。。ならトランジスタか。。。ということになる
だが 2枚目はブルーベックの「ディズニー」で* これはそうかもな と思うが 3枚目はバートンの「バラッズ」である これは吾輩には「真空管」に聴こえるのである ただこないだも言ったように「ブルー」より空間は小さいので それがトランジスタだと言えばそうかもしれない が あくまで後付けである そして4枚目はブルーベックの「ニューヨーク」 これはどうだったか忘れたが 良い音だったと思う 案の定 300番未満である
そして一番下が「SX68MARK 2」であるから これはトランジスタアンプだと吾輩は認識している 音も別物である
以上を総合すると
「SX68サウンド盤」でもカツティングアンプがトランジスタもあるということになるが なにぶん手持ちのサンプルが少なく かつまた吾輩の駄耳では明確な聞き分けは出来ておらぬのが現状で御座る それとトランジスタらしき「SX68MARK 2」との仕分けもはっきりしないことになるわけで この辺り ソニーさんの技術者がご存命なら公表頂けると有り難いものである
2枚を比べてどちらがどうだと言うのはある程度可能だが 1枚だけで 此は真空管 此はトランジスタ と言うのは非常に難しいものである 録音の状況でガラリと変わるのが音である 一定の判断基準など存在し得ない また 再生装置自体に相当な忠実度が要求されるだろうと思うものである
言い訳が長くなったが「SX68サウンド盤」についての吾輩の認識に間違いがあればどなたでもご指摘いただけるとありがたい(検索すれば答えは出るかもしれないが それとて確実な情報かはわからないゆえ)
*ブルーベックの「ディズニー」(SX68サウンドのモノラル盤)は YS盤も持っている ジャケ違いのステレオ盤である この音源のステレオはこの盤しか無いものと思われる(最近CDではステレオが出たらしい) 音は「ステレオ」ということもあるが圧倒的にYS盤が好い
12.12 追記
いやはや この「SX68サウンド盤」は素晴らしいの一言
聴くたんびに惚れ惚れする いや度胆を抜かれる
案の定 番号は「SONP50213」である
間違いなく真空管アンプでのカッティングである
SX68サウンド盤の音の美質をよく表している
という意味で 代表格ではなかろうか

ソニー盤に多くみられるところの
吾輩が「カッティングの特異点」と呼ぶ70年前後である
これもオリジナル盤より音が良いかもしれぬ。。。その確率は。。。ウーム
とりあえず きようはこれでおしまい あでぃおす!
♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜
2024年11月30日
オーディオひとりごと・・・「ブルー・バートン」オリジナル盤
「オリジナル盤こそ良い音への最短距離だ」
「オリジナル盤が常に最良とは限らない」
などと 昔から様々な意見があったものである
たしかに レコードというものは
オリジナルなマスターテープに近い(時間的にも物理的にも)ほど
音が良いのであるから
オリジナル盤が最強であるのも当然の事である
かといって しばしば「最良とは限らない」場合があることも事実である
それは何故か レコードの音は
カッティングの出来に依るところもまた大である
と 言わざるを得ないからである
Ann Burton / Blue Burton artone 1967

FUJIFILM X-T5 XF16-55mm F2.8
with
Louis van Dyke(piano) Jacques Schols(bass)
John Engels(drums) Piet Noordijk(alto sax on B2)
ジャットといい 盤といい オリジナル盤の佇まいは良い それだけでも入手する価値はあろう が 吾輩は そんなウワベなぞ歯牙にもかけない「音キ*チ」である 入手しても音が悪ければもう2度と針を落とす事は無いのである さて 写真では すっくと立ったオリジナル盤の下敷きになっている2枚がソニーの「SX68サウンド盤」である 「ブルー」と「バラッズ」ともにもう50年以上の付き合いである 吾輩が社会人になって いや 生まれて初めて買ったボーカルもので 両盤とも初版のペラジャケ盤であるが 「ブルー」の方は ここ数年のこと エピックレーベルの両開きジャケ盤(これもSX68サウンド盤)と 予備として同じペラジャケ盤も手に入れたので 同じ音源が4枚となって御座る いっぽう「バラッズ」の方はペラジャケ初版が1枚である どちらも極めて良い音であるが 吾輩はよりいっそう引き締まった音場の「ブルー」をかねてから推しているわけである
さて 今回は 上で言ったような「至極当たり前な事」を証明するために
大枚。。。と言うほどでもないが。。。を はたいた
という 馬鹿げた話である
♪〜♪〜♪〜
ご存じのように 吾輩 この盤に関しては ずーっとソニーの「SX68サウンド盤(SONP盤)」が良いと言い続けてきたのである しかも
「オリジナル盤より良い確率90%以上」 更には 傲慢にも
「情報量から判断して オリジナル盤なぞ聴くまでも無い 事 フッフッフッ」
と 「フッフッフッ」まで言っていたのである もちろん オリジナル盤なぞ 聴いたことも 見たことも無かったうえの事である
しかーし そうは言ったものの 万が一。。。である
まぁ 言った手前もあるが ここはひとつ 吾輩の考証が 如何程のものか 確かめてみるのも無駄ではない と思ったわけである 冥土の土産にもなるやもしれぬ。。。と
で オリジナル盤でもファーストイッシューらしき盤を たまたま競合が少なかった事もあり リーズナブルな価格で入手することが出来た とまぁそう言う訳で御座る
では 試聴結果は 盤面の写真の下のコメントにて 代えさせていただくとして
あとは諸兄の判断にお任せするといたそう
オリジナル盤の盤面と音

オリジナル盤は 内周の無音溝の広さからして 下の2枚のSX68サウンド盤に比して カッティングレベルは そこまでは高くないと見てとれる まさしくそれ故か ある意味 ボーカルの耳障りの良さとして聴けなくはない また シンバルの金属質感もSX68サウンド盤ほどは輝かしくはないが グレードはしっかりと保っているのである それはそれとして このカッティングレベルが低い分をヴォリュームを回すことで補えば 「音の純度」という点では SX68サウンド盤に何ら劣ることは無いという事実が立ち上がってくるのである 細やかなハスキーヴォイス ベースの透徹した響きもしっかりと現れてくる 偏にこれは オリジナルなマスターテープに近いという明らかな証左である
だが だがである いったいこのピアノはどうしたというのか? SX68サウンド盤における強い打鍵の高域の濡れたような光沢はこの盤では見る影もない それどころか 処によって ピーンと張り詰めるべきところが腰砕けである 歪んでいるのである 決して吾輩のカートリッジやアンプせいでは無い おそらくこれはカッティング用のアンプが非力なのではなかろうかと想像する この部分だけでこの盤が丸ごと台無しかどうかは価値観次第だが SX68サウンド盤を聴いた耳には実に期待外れである それほどSX68サウンド盤のピアノは美しいのである いや もしかするとソニーの方がマジックで こちらがトゥルーやもしれぬ なにしろマスターテープに最も近いオリジナルレーベルなのだから。。。と 判断は人それぞれに委ねられるわけである
♪〜♪〜♪〜♪〜 My Point of View ♪〜♪〜♪〜♪〜
さて ではSX68サウンド盤の音である
もう 耳だこは承知の上である
とにかく 吾輩 この盤にぞっこん心酔している訳である
ペラジャケ初版・・SX68サウンド盤(SONP盤) 1970

もう何度述べたか数えるのもバカらしいが このSX68でカッティングされた盤の音である 吾輩はボーカルもののレコードはそれなりに持っているのであるが 録音(とカッティング)の素晴らしさはNO.1と言っても過言ではないと思う ボーカルとトリオの配置に見る絶妙の「音響的構造」 過剰の一歩手前で抑制されたバートンの張りのあるハスキーボイス 濡れたような光沢を放つダイクのピアノの高域 銀をまぶしたような輝きのあるシンバル そしてブインと空気を震わす透徹したベースの響き そして ピーンと緊張感を帯びた空間 まさにボーカルものとしての理想的な世界観が形作られているのである
この研ぎ澄まされた「音響的構造」は B面最後のナンバー「サニー」におけるバートンの筆舌に尽くしがたい絶唱で大団円を迎える訳である
だが 言っておかねばならないのは これは ソニーのカッティングの素晴らしさに負うところが大であると言うことである そして「良いカッティング」には「カッティングレベルが高い」という要素は必須と思われるが この盤は見本のような盤である 「情報量」はカッティングレベルに負うところが大である もう言い尽くしてきた事である
エピックレーベル両開きジャケ・・SX68サウンド盤 1972

音は上のペラジャケ初版とまったく同じである 寸分違わない おそらくプレス用のカッティング原盤は同じである エピックレーベルのこの盤の方が後からリリースされたと記憶するのだが SX68であるから70年代も中頃にはなっていなかった時期だと思われる
(追記)Discogs で調べたところ1972年であった オランダ側の権利関係移行に伴うレーベル名義の変更だったのではないかと思うが忘却の彼方である
もし此れから「ブルー」を入手されるならエピックレーベルでも必ず「SX68サウンド盤」を求められることをお勧めする 両開きジャケの内側に明記されておる由 お間違いなきよう 但し 再生は難しい 低音にしっかり制動を掛ける必要あり(ソニーのSX68サウンド盤は全般的にそうである)
さて このソニー盤2枚のカッティング用のマスターテープである 当然 オランダから送られてきたのであろうが ご本家がカッティングに使用したものと あまりグレードは違わないように聴こえるのである 普通はダビングした やや落ちるものを送ってくるのが常だと経験的に思うのである ご本家が紳士的だったのか それとも カッティングレベルが高い事で「情報量」も蘇生し得るということか まさに其れこそアナログ再生の真髄であって その可能性は非常に高いと言えるのではなかろうか。。。
それにしても オリジナル盤は 録音とカッティングの
落差が大きい 此れはエンジニアの技量の差なのであろうか。。。
12.2追記
「ブルー」をまだお持ちでないなら ご紹介した両開きジャケの豪華なエピック盤(SX68盤)をお勧めする(エピック盤でもCBSソニー盤でもSX68で無いものが当然ある) が 既にオリジナル盤をお持ちなら そのまま浮気せず聴き続けたほうが良いと吾輩は思う 既にSX68サウンド盤をお持ちなら 何も迷うことは無い 貴殿は最高の選択をしたのだから オリジナル盤なぞ無視して良いのである
たしかにSX68サウンド盤は再生は難しい。。。アンプによっては低音がぶかぶかになるやもしれぬ。。。とはいえ カッティングレベルが高い事だけでも 歌の訴える力がぜんぜん違うことに気付かされるはずである(知らず知らずに気付かされている ということもある)
吾輩はこの盤に対してひときわ思い入れが強い やはり人生 初めてのボーカルものということで この盤から貰ったものは 後々聴くジャズの方向性に 随分と影響を与えたと 今にして思うわけである(ネクラな方向性か?)
もしかすると この歌のことを(「バラッズ」も含めてのことだが 吾輩は「それまでのエンタメ的歌ものから 私小説的世界へと解き放った」と絶賛しているのであるが) あまり好きでは無い方もいるやもしれぬ
まことに人それぞれである
12.4補足:「SX68サウンド盤」だからというわけでは無いが 「ブルー」の再生の難しさの1つとして(「ブルー」は初期では無いが 初期のステレオ盤にままあった)各音像が「左右泣き別れ」的に きっちり別れていることがある ボーカルは真ん中 ベースとピアノは曲によって左右入れ替わるも きっちり別れており 反対側SPには ほとんど音は漏れ出ていないの感じに聞こえるかもしれないのである あえて「かもしれない」と言ったのは 吾輩の場合 過去はそうだったが 今は違和感は全くないからである
現在はどうかというと 左右の音像をつなぐキャンバスとしての「空間」があって その中にぎっしりと「情報量」が左右をつなぐものとしてあるわけである こういう構造にあるのだから ベースもピアノもSPの中心付近に向かって拡がっていては「音響的構造」としてはスッキリしないものになるわけである であるから 左右にスッキリ分けて「研ぎ澄まされた音響的構造」を造ったことは非常に良い選択だったと感心するわけである
昔からステレオ初期盤の「左右泣き別れ現象」をとやかく言う意見も多かったのであるが。。。もちろん吾輩もやれやれと思ったことは1度や2度では無い。。。いまそれらの盤を聴いてみると違和感をかんじないものも多いことからすると 再生側がまだ製作者側が意図した「情報量」に到達しておらず未熟なのだということに思い至ったのである 考えてみれば 制作側の彼らはマスターテープでプレイバックして 本来の極めて情報量の多い音を知っているわけであるから 彼らこそ左右にきっちり振り分けても ちっとも違和感は持っていないであろうと想像するのである(彼ら 出来上がったレコードは出版側の事であり ましてや再生側の事情など。。。どれほど自分たちの意図が再現されているか。。。あまり気にしていないのではないかとおもうが どうだろ?)
いや もちろん物事には例外があるわけで 酷い泣き別れで 棒にも箸にもかからない盤はあることはあるのではないか なんだろか? ブルーノートの50年代末あたりの無理やりステレオにしたやつか?。。。ぜんぶ聴き直さないとわからんなぁ。。。
12.3 追記
昨夕のお散歩写真1枚である
新しいカメラ まだ性格がよくわからない なかなか難しい
春には桜で埋め尽くされる水面だが。。。

FUJIFILM X-T5 XF16-55mm F2.8
夕闇が迫りつつあった
前のカメラなら 撮影を諦めるケースにしても
どーも光量が落ちると 更に難しくなるようである
高画素はここいら辺がやはり。。。
まぁ ぼちぼちやるしかない
とりあえず きようはこれでおしまい あでぃおす!
♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜
2024年11月23日
オーディオひとりごと・・・カーク・イン・コペンハーゲン & ピュア・ストレートの時間軸(パート3)
もう冬になったのだろうか
ここ数日 ぐっと冷え込んでいる
紅葉もだいぶ落ちてしまった
が まだ モミジとイチョウは楽しめそうである
間もなく 草紅葉も拡がることだろう
さて レコード回しは しばらくご無沙汰だったが
久方ぶりに この盤に「お出まし願い奉る」といたそう
「吾輩のジャズ」 そのネジを巻き直すためである
だいぶ弛んできたのである
過去にも幾度か登場願ったが その度に この盤から
ぐつぐつ煮え滾る 熱いものを貰っているのである
Roland Kirk / in Copenhagen 1963

FUJIFILM X-T5 XF16-55mm F2.8 (32mm f4.0 1/50 iso-3200 0 ClassicNega)
(フィルムシュミレーションは「クラシック・ネガ」である 最強!)
Kirk In Copenhagen/Mercury 1963
Roland Kirk(Tenor,Manz etc)
Tete Montoliu(p)
Niels Henning Orsted(b)
Don Moore(b)、J.C.Moses(ds)
Big Skol(harmonica)
60年代の初頭のモンマルトルでのライブ録音だがモノラルである が それで良い 実に高密度でソウルフルである サイドは テテにペデルセン他 悪いはずがなかろう それにしても カークは 他のジャズメンに有り勝ちな常套句とは無縁のようだ ジャズ初心者でも まさかそんな御仁は居るまいと思うが けっして「ゲテもの」などと宣うなかれである 万が一 受け容れ難くとも ジャズをじっくり一巡して戻って来れば 彼の真価がストンと腑に落ちるのである
この盤 演奏もジャケも 丸ごと好きである
見給え このジャケット
表現者の端くれ(の端くれ)としても 妬ましいくらいである
何故かこの盤の世評 彼の作品中でも さほど高くは無い
が 吾輩は この盤を手にしただけで
腹の奥から沸々と 熱いものが上がってくるのである
♪〜♪〜♪〜♪〜
さて 妄想「0SideForce」 の続々編である
吾輩には 下のアームが「0SideForce・ Long Tipe」だったらなぁぁぁ
と思うのである 重病である
まぁ 外付けL型アングルは こんな感じになるという見本に過ぎない
外付け FR-54


L型アングルの取り付け位置を左右に微移動するか アーム軸が入る穴を左右に数ミリ余裕を持たせ「有効長」に微調整するが良い 手作業では誤差がでやすい 吸収する方法を事前に考えておくべきである ただアーム側でも数ミリは許容範囲である 水平も狂い易いが ここは細心の注意を払うしかない とは言え むしろPL本体が狂ってるケースが多いものである 写真には写っていないが アームベースの下は L型アングルの上下とも金属製のリング(ワッシャ?)を幾重にも重ね付属のナットで締め上げて重量付加&防振対策としている が これを見て 大概 不安に思うのではなかろうか「これで妙な共振とか無いのだろうか 音質はいまいちだろうなぁ 低音が緩いんじゃないかぁ まったく安けりゃいいってもんじゃ無いぜ オーディオは 」と
心配無用である 対策の方法はいくらでもある 本人次第である
いつも出来合いの製品しか買わず 過剰な部分に「安心保険料」をたっぷり払っていると そう思うのである
が 仮にこの方法に若干 問題があるとしても ピュアストレートアーム自体の「時間軸の正常化」は その不足を補って余りある そう思わざるを得ないのである
「0SideForce」は発売されてもう何年も経つのだが
その間 自作オーディオに盲進しており
その「考え方」に着目する機会を逸したのである
悲しいかな もともとが疑り深い人間なのもある
さーて「0SideForce」を 褒めちぎるだけ褒めてきたが
それもまた「妄想」の一環であることをお断りして
筆を擱くといたそう
♪〜♪〜♪〜♪〜 My Point of View ♪〜♪〜♪〜♪〜
本文トップの写真は FUJIFILM X-T5 + ズーム XF16-55mm F2.8
フィルム・シュミレーション「クラシック・ネガ」で撮ったのである
まさに最強である
吾がささやかな書斎におけるこの舞台設定も 定番となりつつあるが 室内に射しこむ自然光の強い明暗は 撮影を難しいものにしているようだ
絞り優先F4.0以外は総て機械任せだが ISO感度は指定すべきだったか?
もしかすると より「クラシック・ネガ」が荒れたのではないか?
絞り開放にし シャッタースピードを今の半分くらいに落とせば ISO感度1000以下になったやもしれぬ。。。ウーム;
というように いまだにフィルム時代が身に染み着いており。。。言うまでも無くフィルム時代は感度がフィルム依存の固定だった。。。最新のカメラは まだまだ暗中模索で御座る
しかし フィルムシュミレーション機能は最強である
自分で言うのも何だが
カークのこのジャケにピッタリではないか!(自画自賛;)
で 下の写真2枚は
ご多分に漏れず その機能に溺れてみたのである
「クラシック・ネガ」

(32mm f2.8 1/50 iso-500 0 clasNeg)
スタンダード「プロビア PROVIA」

(32mm f2.8 1/50 iso-400 0 std)
2枚とも没にした写真だが シュミレーションの比較である
上「クラシック・ネガ」は少し荒んだ感じで 実に味がある
ただ本文トップの写真の方が効果が大きい
光量が少なくISO-感度が上がってより効果的になったのか
下「プロビア PROVIA」は まっとうに美しい世界観である
偉そうな事を言うが
ほんらい「機能」とは「必然性」に従属すべきと思うが
なに ちょっとした お遊びである
11.27 追記
昨日 免許更新の講習を受けてきた 認知症のテストも始めてである 幸いにも合格した(自己採点では満点のつもり?) もちろん予習はした 警視庁のホームページに出題のイラストが公開されているのである テストの進行方法も掲載されている
予習しなかったらたぶんヒドい事になっていたはずだ おそらく半分も出来なかったのではなかろうか(半分でもゆうゆう合格だが) 最近は記憶力の衰えは凄まじいものがある 本を読んでいて 次のページをめくると さっきのページの内容は消えているわけである
ところがである 自分が辿り着いた「論理的な思考の結果」は金輪際忘れない オーディオが良い例である 今回の「0SideForce」のことも決してわすれないだろう ようするに自分の内部に水脈のない「お仕着せの事柄」はさっぱりと忘れてしまうわけである
予習をすることを「いかがなものか」という考えもあろうが そもそも認知症なら 予習をして 覚え方を工夫しよう という そうゆう自己制御作用もなかなか難しくなるのかもしれない
と そんな事を思ったのである
話は変わるが 久しぶりにレコードを購入した。。。ことし何枚目だろう たぶん片手で足りるはず。。。マイルスが2枚 どちらも買い替えで 1枚は米盤から日本盤へ もう1枚は逆である 近々ご紹介するつもりである
とりあえず きようはこれでおしまい あでぃおす!
♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜
2024年11月17日
オーディオ(ライクな)ひとりごと・・・哀悼:ベニー・ゴルソン & ピュア・ストレートの時間軸(パート2)
だいぶ木々が色づいてきた
が 今日はあいにくの鉛色の空である
そうこうしているうちに 呆けた顔に冷たいものが落ちてきた
朝のルーチンを早々に終わらせるしかない
しかして 書斎にて またもやレコードの「静物化」である
さて 今日は 何にいたそう。。。
窓から射し込む この鉛色の光に相応しい盤とは
ということで ベニー・ゴルソンである
彼はこの9月に鬼籍に入ったのであった
Curtis Fuller (& Benny Golson) / Blues-ette savoy

FUJIFILM X-T5 XF16-55mm F2.8 (29mm f4.0 1/24 iso-2500 -0.3 std)
「five spot after dark」・・まったくゴルソンは作曲の天才である 他にどんな曲があるかなど したり顔で書くまでもなかろう まさにスピリチュアルな土臭さと洗練の化合物である 彼の存在は「こんなジャズが聞きたい!」という願望への飽くなき回答であった
当時から 名だたるジャズメンはたくさん輩出したが 冷めた目で見れば ミュージシャンの質としては「玉石混交」だったと思う が ゴルソンは間違いなく「玉」でも上位に入るミュージシャンだったと思うが如何
さて このジャケ好きである サヴィオはユニークな意匠の盤がある 飾るのも乙なものである 暗い書斎に天女がぽっかりと浮かぶ様ではないか
この盤 50年以上の付き合いである たぶん新宿の「びさ〜る」あたりで聞いて 一曲目でノックアウトされ 慌てて求めたものと思うが 忘却の彼方である 所蔵盤が10枚に達するころ既に持っていたのではなかろうか
ソニーのSOPL盤(SX68サウンド)である オリジナル盤とは音は違うと思う 米盤はシャキッ&ズバッだろうが この盤はふっくらとして それでいてシンバルに独特な輝きがある 素晴らしく情報量が多い とは言え 余計なお世話だが「SX68サウンド盤」は再生は難しい アンプが低音にしっかり制動を掛けられないなら米盤を求めるほうがよい 電源はデカければ良いものでもない むしろ「自律的能動性」こそがカギである にしてもジミー・ギャリソンを充てたのは誰だろうか 何回聴いても惚れ惚れする盤である(今回は聴いておらぬが;)
この盤 カーティス・フラー名義やもしれぬが
なーに 構うもんか
吾輩にとって 実質 ゴルソン盤である
同世代のジャズファンと同様
50年以上に亙る友であったと言ってよい
ベニー・ゴルソン 享年95歳 安らかに眠り給え
ここ数日 急激に色づき始めた

FUJIFILM X-T5 XF16-55mm F2.8 (16mm f4.0 1/160 iso-160 -0.3 std)
寒々とした朝の公園 鉛色の空に陽が戻りつつある
ところで 最近 この公園では子供の姿はまったく見られない どころか 「ここでボール遊びするなかれ」みたいなお上のおふれが立ててある 老夫婦らしきお宅の庭にボールが入って子供が取りに入ったのが その住人の逆鱗に触れたらしい 寛容さの欠片も無い奇妙な話しである それはさておき こんな身近な公園の紅葉でも綺麗なものである 万物流転なり
さて 朝のルーチンで 身体を動かしながら思うのである
とっくのとうに「耳だこ」は承知の上だが
レコードの「溝」は 楽音エネルギーの「運動への抽象化」であり
ある意味「エネルギーの解体」である
と 吾輩は 遅まきながら気付いたのである
ならば カートリッジ以降 解体されたエネルギーを
ひたすら再構築するのがオーディオの役目であるはず
ところが カートリッジ(+トーンアーム)という再生の初っ端から
「時間軸の変調」では 由々しきことである
一旦 失われて仕舞えば 下流では決して回復出来ない
これは 誰しもオーディオに
足を踏み入れるやいなや 気付く事では無かろうか
繰り返すが オーディオの役目とは 如何に
抽象化によって解体された「制動力」を注入するか
それに尽きる と 言わなければならないのである
♪〜♪〜♪〜♪〜 My Point of View ♪〜♪〜♪〜♪〜
蒸し返すようだが 今より「立ち上がりの速い音」が在ろうとも思えぬが ただただ妄想の心地好さに溺れる訳である
さて 妄想「0SideForce」の取り付け方・・・続編 である

妄想と知りながら プレーヤー・ケースを新規にあつらえる段になると
たちまち 正気に戻るのである
やはりここは 今ある物を活用するという
そこそこの「現実味」は持たざるを得ない
が そもそも「本体は買えない」のに「取り付け方」とは笑止千万である
アームを取り付けるL型アングル

下の写真はだいぶ古い状況(2011年)だが トリオのプレーヤーケースの前面に取り付けた際の状況である このFR-54はいまは隣のDP80のケースの奥にアングルもろとも移設した
2011年の春ごろで 震災直後である

思い出したが 震災で右端の2A3アンプが棚からダイブした 後にリメイクして今のアンプになったが 内部の配線が外れて火を噴いてもおかしくない危険な状況だったのである くわばらくわばら 当時はこのFR-54からGE6072A真空管式CREQへとモノラル専用システムとしており まだACを整流平滑しただけの「古典的真空管アンプ」に可能性を懐いていたのである
さてすぐ上の写真 自慢するのも変だが ケースのサイドに付けているとはいえ ケースそのものにはキズは付けていない ビス穴もなければ(見える所を)汚してもいない かといって もちろん宙に浮いている訳でもない そこは貧者の工夫である(思うに SAECのブラケットでさえも まったくキズを付けないのは無理ではないか ぎゅーぎゅー締めて挟むのだから。。。どうだろ? まぁどっちにしてもこういうの高価すぎるなぁ 足元を見てるとしか。。。)
ようは 如何に強度を損なわず 振動を防止するかである 完璧が無理なら なーに そこを「音質調整具」として工夫すればよいのである 問題を転換する あれである かっての帝国陸軍が撤退を言い繕ろった「転進」である
ショートタイプなら 何もせずいまのDP80用のケースに収まるだろうが ロングタイプは無理そうである だがL型アングルなら 有効長299mmの位置が取れるところなら ケースの周り何処に付けても問題ないだろう ようは 使い勝手だけである(吾輩の場合はNO248EQへのアームコードが短いので前面に付けるよりほか無い とは言え ここが取り付け場所として最もフレキシブルである)そうそういい忘れる処であった 安全策として ホコリ除けのプレーヤーカバーは蝶番から外してしまい 手で被せたり外したりするのが善いわけである 面倒だが防振対策としてもその方が良い これは聴けば一発で判る
尤も ケースがキズ付いて構わないなら L型アングルをサイド面に直にビス留めしてしまえば良い そうすれば (少し薄めでビス留めの)DK300付属アームベースに載せるよりは防振的には最強である
そうそう このトリオのプレーヤーの既設アーム ストレートだからシェルをオフセットの無い ようはS字型アーム用の普通の物を着けると「ピユア・ストレートアーム」になるのではないか。。。?
うーむ ロフトの工房に放置してあるが 如何したものか。。。。
さて この妄想 いつ 冷めるのであろうや(とほほ;)
11.18 追記

FUJIFILM X-T5 XF16-55mm F2.8 (16mm f2.8 1/56 iso-120 0 std)
写り具合をみるために ちょっとお散歩写真である
縮小画面では分かりにくいが やはり階調が隅々まで粘りに粘って流石であるわなぁ あと16mm(35mm版換算24mm)はちょっと違うね いままで(35mm版で)28mmまでしか使ったことがなかったので 広〜いわなぁ これでも左右ちょっとトリミングしたにもかかわらずだ 最広角側の絞り開放で手持ちだからまぁ合格じゃないかな
吾輩 ブログのコンセプトからいって あまり広角レンズは使わないのだが 勉強してみるかぁ。。。
そうそう この写真(幅460px)はクリックすると大きくなるようにしてある 大きくなった写真は「1920px × 1365px 」の画素数 これでもオリジナルの1/10ほどの縮小判である
追伸:話は変わるが フィデリックスさんで こういうアーム増設用のアングルを発売してくれると良いと思うがのう ロング・タイプだけでもいいから 出来れば同梱してもらえると なお有難い もちろんSAECみたいな形態になると思うが そこはフィデリックスさん あっと驚く合理的なヤツを考えてくれそうじゃないか。。。しかも低価格で。。やはりケースを新調するとなると敷居が高いのである 場所も喰うし 物を増やしたくない
販売促進にもつながると思うがのう。。。どうじゃろ?
むかしパナソニックか何処かが出してなかったかなぁ ケースに挟むブラケット付きみたいなやつ
あっいや これも妄想ですから。。。(たら〜り;)
11.20 追記
「ピュア・ストレートの時間軸」を考え 回を重ねているが 針先で起きていることは想像できるが その「程度」となると 人の感覚からは かけ離れているので なかなか難しいのである たしかに低域は振幅が大きくなり摩擦も増えるのであるから 針の曲がりやカートリッジボディの振動も起きるに違いない では高域はどうなのか? 影響がでるほどにそれほど摩擦が大きいものなのか?。。。
などと 考えて あっこの筋立ては間違いだね と気付くわけである
レコードを再生していて どんな場合でも 低域と高域は同時に鳴っているわけである レコードの溝はおそらく大きな低域のゆるやかなカーブのなかに 高域の細かいカーブ(振動)が刻み込まれているのである レコードの溝と言うのは 幾重にもカーブが刻まれており カーブがカーブを含み それがフラクタルのように果てしなく。。。これは無限ではないだろうが 物性の限界までだろうか。。。刻まれているのである
これこそ レコードの情報が無限であると言うことの根底にあるわけである
ようするに 低域の大きな振幅で針の位置がズレると その低域のカーブに張り付いている高域のカーブでも「時間軸のズレ」が起きる これは当然と言えば余りにも当然なわけである
とりあえず きようはこれでおしまい あでぃおす!
♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜
2024年11月09日
オーディオ(ちょっとだけな)ひとりごと・・・CTI レコード & ピュア・ストレートの時間軸:妄想・0Sideアームの取り付け方
この処 ずいぶんレコードとはご無沙汰である
ご覧の通り 手に取ってもそのまま飾るだけである
まるで静物で 吾が身にとってもこの静寂は不可解である
とは言え レコードには回すまでも無い盤もあることはある
ジャケットを眺めるだけで良い
すると 音もいにしえから聞こえて来るが それが目的ではない
何かに耽りたいのである
そのレコードにまつわる数々の何か
と 言うには余りにも断片的ではある
音もそうである
この季節の ふと思い立って枝を離れていく落ち葉の様に
まばらに 途切れ途切れ 聞こえるのである
Wes Montgomery / Down Here On The Ground CTI

FUJIFILM X-T5 XF16-55mm F2.8 (40mm f5.6 1/58 iso-2500 0 std)
この写真(右下)好きである ピート・ターナーのジャケット写真はどれも好きだ 構図や色彩がシンプルで美しいが 美しいだけでは無いと感じる 何か訴えてくるものがある ただそれは 自分だけの中に仕舞っておく方がよさそうである 左のモノクロのアンセル・アダムスの写真と重なる部分もあるのかもしれない 人それぞれに感じ方はあるものと思う
下にも載せたが CTIシリーズはこのジャケットが強く訴えて かなり売れたものと思うが いまやどれだけの人が所蔵しているのやら。。。
その記憶の断片のなかでも もっとも輝いているのは
数多の盤の中から その盤を選ぶに至った心の動きであり
遂にその盤を得た高揚感である
ふと思い出したようにその盤を回すことがあっても
音に浸りたいと言うよりも
断片的な記憶を なんとか紡ぎたいと試みるだけである
CTI シリーズの数々

FUJIFILM X-T5 XF16-55mm F2.8 (55mm f2.8 1/80 iso-160 0 std)
早朝 まだ湿度が高い時分に ウッドデッキに並べてベランダから撮ったのである それ故か なにかベールが一枚かかったような感じに撮れた 残念?いやむしろレンズを褒めてやりたいものである
左上の2枚を始め どれもこれも思い入れの深い盤である 並べるだけで心が温まるのである
これらは懐かしきCTI盤である(所蔵盤の一部のはず)
このなかの数枚は何年か前に回した記憶はある
おそらく愛着のある最も古い盤だったはず
古いものは 日本初版であるから
1969年ごろに入手し その後発売の都度買い増して来たのである
ジャケットと内袋は若い頃の手垢で黄ばんでいるが
それも愛してやまない理由であろう
それはある意味 ほとんど記憶の中に閉じ込めていたからかもしれぬ
まさにコレクションとは
記憶の断片の寄せ集めに過ぎないのである
♪〜♪〜♪〜♪〜 My Point of View ♪〜♪〜♪〜♪〜
レコードはとんとご無沙汰だが オーディオは忘れたわけでは無い
ギターアンプもそうである 常に頭の中にある
アイデアは何の脈絡も無いところにぽっかり浮かぶのである
ところで「物」の話になるが いまもっとも興味のある それは
フィデリックスのピュア・ストレートアーム(0SideForce)


画像はフィデリックス社からお借りしました
ショートからロングまで3種ある どれが一番良いか 共振モードの単純そうなショートが好いと考えるのは普通だが やはりロングはかっこいい 低域はこっちが凄いかもね だが ロングは今のDP80のケースには長すぎるのだ(どっちにしても夢のまた夢?)
である
既に導入した方によると 驚天動地の改善 であるらしい
もちろん非常に高価ゆえ 吾輩は当面 指をくわえて見ているしかない
がしかし フィデリックス社の効能書きは一理も二理もある
オフセット付きのアームでは常にカンチレバーに外側への力が掛かるわけである(フィデリックス社はカンチレバーが「外側へ曲がる」という表現である)それが時間軸の変調をもたらす まさに青天の霹靂である
ちなみにこれを吾が「糸でんわ」モデルに移し替えると 常に糸を片側に引っ張った状態(見えない手で「く」の字に引っ張るような状態)で交信するようなものである
そうすると 糸には常に信号の流れる方向とは違うストレスが掛かって 根元の振動板の振動に変調をもたらす それが時間軸の変調というなら まさにそうであろう
上手く言えないが もう少し考えてみる
1,上の「く」の字に引っ張るような状態だと「糸でんわ」の振動板は 糸の根元を境に 引っ張られる側 と 弛む側が生じ 同じ信号にもかかわらず同相で振動しない 言い換えるとどちらかが 遅れるようなこと。。。つまりエネルギーを滅殺すようなこと。。。になるのではなかろうか(「糸でんわ」の場合には これが送信側と受信側で起きるからややこしい)
そう考えると 一方向にテンションがかかり しかもそれが激しく変動するカンチレバーの根元のコイルも 磁界のなかで同じようなことになるのではないか つまり 同相であるべきものがズレを生じると言うような まさに時間軸のズレである 何れにしても 溝をなぞった忠実であるべき運動が歪められるのは容易に想像出来ることである
1,では「糸でんわ」の振動板やコイルの磁界内の動きを想像したのだが 糸やカンチレバーそのものはどうなのか 吾輩は「糸でんわ」の糸はカンチレバーそのものではないかと思うのである 2,に続く
2,糸に「く」の字のストレスが掛かった状態だと 信号が糸を伝わる時 信号そのもののエネルギーが「く」の字を直線へと修正する方へもエネルギーが使われるのではないか ほんの一部かもしれないが(とも言えないかも)エネルギーの損失になるに違いない
するとカートリッジのカンチレバーにおいても同じことが言えるのではないか もしかすると カンチレバーの外側への曲がりを減じたり ときには更に増すような方向にエネルギーが使われることもあるかもしれない どちらにしても楽音エネルギーが使われるなら損失である
そう言えば ネットのどこかで「0SideForce」にしたら音が大きくなったという感想をみたかもしれない エネルギーの損失が無くなるなら納得である ただこれは時間軸のズレが無くなり「立ち上がり」が速くなっても起きることであると想像する
◆重要◆フィデリックス社の表現では 針が受ける溝との摩擦抵抗が 変動することによって針先の位置が前後し これによって時間軸が変動する とある うーむ実にシンプルだ 確かにこれはあるに違いない 吾輩は 2、ではエネルギーの側面から考えたが「針先の位置」か そりゃそうだ! カンチレバーの曲がり方が小刻み変動するのだからね!
だが 吾輩の1、の考えはこれに近いかもしれぬ 糸の根元は 信号を拾う針先でもあるのだからね。。。と同時にカンチレバーの先のコイルが磁界と交じあう接点でもあるのでは。。。
と ど素人ながらに考えたわけである だが こう言ったことを検証するには大掛かりな測定器等必要と思われ とても素人の範疇ではないのである まぁそれにしても ここからはダイレクトカップル方式の優位性も垣間見えてくるような気がするのである
さて 本来「糸でんわ」はピュア・ストレートなのである
そう考えると答えが見えてくるのではないか
(脱線するがホントは レコードも円盤で無い方が良いのであろう ではどんなカタチか 想像するだに恐ろしい ピュア・ストレートである たら〜り;)
さて 時間軸のズレはどんな音をもたらすのか 恐らく
立ち上がり(下がり)の遅れ→「制動力」即ち「情報量」を損なう
まさに そういうことではないか!
追伸:「0SideForce」の音の良さは ようは「かんざし類」というか余分な構造物がないことや宝石軸受けや独自の支点構造にも大いにあるのだろうが 決定的なのは「オフセットが無い」ということなのか ぜひ検証してみたいものだ(が先立つものが無い)
宝石軸受けやワンポイント構造は吾輩のオーディオ・クラフトのアームもそうだから。。。しかも吾輩はストレートパイプを使っている。。。そんなに差は無いだろうと思っていた だが どうもそうではないと思うようになってきたのである それが上の記述に繋がるわけである
とは言え 弁護すると 正直なところ オーディオ・クラフトのアームも実に「情報量」の多いアームである 低音のキレも高域の繊細感も素晴らしいものがある 空間再現だとて素晴らしいのはもう口が酸っぱくなるほど言ってきた で やはりS字型パイプよりストレートパイプのほうが良いと思う(DL103とベストマッチである)が いかんせん「オフセット付きのシェル」である サードパーティでいいから 「ピュアストレート型のシェル付きパイプ」を造って発売してくれないだろうか そうすれば おそらくそれほど「0SideForce」に劣ることも無いと思うのだが(希望的観測?) 生きている間に検証したいものである(とほほ)
書斎の奥まで陽が入るようになった。。。

FUJIFILM X-T5 Fujinon XF16-55mm F2.8 (32mm f4 1/50 iso-1250 0 std)
彼女 窓越しに何を見ているのやら。。。
11.14 追記
買えやしないが 妄想を膨らましている
「0SideForce : LongTipe」の事である
今のDP80のケースはDK300と言うやつで 予備のアームベースが付いているのだが それにロングタイプ用の穴(有効長299mm)をあけようとすると アームベースのぎりぎり端っこになるため 裏側にアームの固定ナットが入らないものと思われる 無理して周りを削れば入るかもしれないが この硬い圧縮合板を削るのはほとんど不可能であろう
なら 方法はこれしかない 別売のアームベースを求める。。。これはむちゃくちゃ高価である しかも「置くだけ」であるから余りよろしくない。。かむかしあったSAECのアームブラケットみたいのを工夫するしかない
実は いまのDK300のケースにはダブルアームとしてのFR-54を奥に取り付けているのがその方法なのである ホームセンターで求めたL型アングルをケースのサイドに取り付けて そこにアームを載せているのである アームの軸が入る穴はヤスリで削って開けたが少々大変であった
そのアングルはスティール製で厚みは5mmくらいあって割としっかりしている 鳴きは止めているせいか 音はそんなに悪いとも思われない 何処かに写真があったはずだから次回の更新で載せるといたそう
もし付けるとすればケースの前面である アームコードが40cm程度しかないから 奥では右側に置いてあるNO.248EQまで届かないのである
吾輩は人様の情報はまず疑ってかかるようにしている しかして大概の情報は捨て去られることになるわけである(この道が長いと誰でもそうであろう)だが 今回の「0SideForce」はフィデリックスの考証の確かさもあって 信じないほうが無茶である
自分で言うのも何だが 吾輩の「糸でんわ」モデルでも納得の結果である
と言いながらも 今より「立ち上がりの速い音」が在ろうとは なかなか信じがたいことである(自信過剰?)
なぜなら ハープシコードの高速倍音が潰れた様子はどこにも無いのである フィデリックス社の理論だと針が溝の振幅を拾い始めた瞬間に「カンチレバーの曲がり」が伸びて針の位置がズレ 腰砕けになるはずである
わが身を包み込む「厚みのある空間」が高周波情報から来るものとして そこに「時間軸の変調」が起きるなら そもそもそんな空間は現出しないだろう それとも もっと摩擦が大きくなる振幅の大きい音では判るのであろうか(その可能性は高い F社HPにも低音の改善 著しい とあったような)
仮に導入して ”やっちまったぜ とほほ ” にならぬとも限らないのである(そもそも高嶺の花でしょ 妄想から目覚めよ!)
とりあえず きようはこれでおしまい あでぃおす!
♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜
2024年10月30日
オーディオ(かなぁ?な)ひとりごと・・・レンズ遊び 11.1追記:画像品質について
重病である こんどはレンズ遊びときた
やれやれ カメラ小僧(じじい?)の様相を呈しつつある
がなーに ちょっと試しに 着けてみただけである
悪くないのではないか
コンタックスGレンズはもともとピントリングが無い
ので アダプター側にそれが設けてある が
その使い勝手や 使い心地は 余り褒められたものでは無い
だいいち 不格好である
と 思ったが キリッとして
なかなか 好いではないか。。。
Fujifilm X-T5 + Contax(G) Planar 45mm F2

LumixG1 + Yashinon 45mm F1.7
X-T5にプラナー装着の図 最近は真っ黒けなカメラが多いが やはり昭和世代な吾輩には「工業製品」は 銀ピカのメタル感が好ましいのである
さてこのプラナー45mm(APS-Cでは35mm判換算68mm) 愛用してもう35年位になろうか 愛着どころか もはや身体の一部と言っても過言ではない ひんやりとした金属の質感(ContaxG1は本体はチタンだったはず)手にしっくり馴染むフィーリング そこそこの重量感で本体とのバランスも悪くない ということで ビオゴン28mmも着けてみるといたそう こっちは35mm判換算で42mmになるから いよいよ標準レンズとして御目見得である
この写真 古いほうのカメラに「ヤシノン45mmF1.7」で撮ったのである が 部屋の照明と自然光のブレンドだったためか ちょっと黄みがかっている これがこのレンズの個性なら人がレンズに合わすのが道理である ただ 古いレンズゆえ 色の再現性はやはり現代レンズに劣ることは承知である が 絵はまぁまぁではないか 吾がPCのディスプレイ品質では新旧のカメラでさほどの差は無い スマホの画面の方が品質差は出やすいのかもしれない
上の組み合わせで試し撮り(X-T5 + Planar 45mm F2)

FUJIFILM X-T5 ContaxG Planar 45mm F2 (f8 1/28 iso-500 -0.8 std)
素人丸出しの写真とはいえ 比較の意味で いつものアングルで撮ってみた 若干上下をトリミングしたが無加工である ただ ブログ掲載には容量大ゆえ編集ソフト側でリサイズ(縮小)してある(画質=解像度を落とさず縮小する方法はないものか現在模索中・・・追記あり)
この手の写真はいつもは余計なものの映り込みを誤魔化すためボケを出すことが多いが これはF8まで絞ってみた とは言えプラナー 鋭利なところは無く軟らかさが持続するのである(解像感なら購入した前玉の大きいフジノンのズームレンズのほうが遥かに優れているはず) 色の深さやハーフトーンなど流石に古いルミックスG1とは月とスッポンの描写だが 若干写り過ぎのきらいが無きにしも非ずである ブログ写真はレコードのジャケットのようなほどほどのリアルさで良いのである お散歩写真ならまだしも リアル過ぎては却って「日常感」が出てしまうのである いずれにしても 室内のこの手の絵はそれほど差が出るとは思えない やはり風景であろう
葉っぱに針を落とせば。。(X-T5 + Fujinon XF16-55mm F2.8)

FUJIFILM X-T5 Fujinon XF16-55mm F2.8 (55mm f4 1/80 iso-5000 -0.3 vel)
葉っぱに針を落とせば秋が聞こえてくるのであろうか。。。
ズームレンズ「Fujinon XF16-55mm F2.8」の絵である
暗かったのでスタンドを点けて すべて機械任せである フィルムシュミレーションは「velvia」 X-T5で撮った絵はこれまで全て手持ち撮影だが これはやはり三脚を使用し ISOを落とすべきだったのか。。。いや シャッタースピードはまだまだ落としても補正でブレないはずだが。。。と ようするにまだ模索中なのである
望外にもこのところアクセス数が上がっている
吾輩としては「カメラねた」で上がるのは喜んでばかりは居られない
が やはり オーディオフリークは
カメラフリークにも通じる ということであろう
とは言え 弁解がましいが
吾輩 「カメラねた」を続けるにはチト物量不足である
骨董カメラやレンズを多く持っているわけでもなく
プロが持つような専用の機材も無い
あくまで日常写真の範疇である
てことで 今後はあまりカメラが前面に出ることは無いのではないか
「ないか」などとボヤかしているのは
まだ 決めかねているからである
まぁ 無理に「決める」こともあるまいが。。。
♪〜♪〜♪〜♪〜 My Point of View ♪〜♪〜♪〜♪〜
本文でくどくど弁解がましかったが
ようするに 最近は八方塞がりなのである
・オーディオは膠着状態(自称 充電中)
・レコードの収集は終了(聴く方に専念 残り時間が僅少だからね)
・「音」は語るも「音楽」は言葉にしない(キリッ!)
・おまけに「夏はレコードを回さない」が今も続いている(うへー!)
というわけで 語るべきものは何もないのである
では ギターはどうか
これはひたすら練習あるのみで 極めて個人的な事である
そういうところに たまたまカメラが天から降ってきたのである
いまさら言うのも何だが
そもそも拙ブログのポリシーは「イメージと音楽が出逢う処」であって
カメラ ようするに「物」が表舞台に出ることは無いわけである
(「エヴァンスの来る春」が終局の姿である)
さーて いかにも吾がブログ 「世紀末」を予感させる今日この頃である
それとも このまま 細々と 古ぼけたレコードを 写真と
オーディオに絡めつつ 思い出したように アップしていくのか。。。
にっちもさっちもいかぬ状態である(たらーりー;)
とりあえず きようはこれでおしまい あでぃおす!
11.1 追記:掲載写真の品質について
「ライヴドア・ブログ(無料版)」で画像を張り付ける際の 表示サイズの規定値は サムネイル画像の最大横幅が480pxまでとなっている もしそれを超える画像をアップした場合は 画像自体をクリックすれば別ウインドウで表示されるのである
つまり(新しいカメラの画像サイズが大きいので)現状 編集ソフト側で横幅サイズを480pxかそれ以下にリサイズ(画素を間引きして縮小)してからアップしているのだが ブログ側でも制限されるので 結果的に同じ事であるようだ(=どちらも画素を間引きして縮小しているのだから表示品質は同じということ)
ただ 画像をクリックした際に別ウインドウで表示される画像は「1920px × 1200px」か もっと大きくすることも可能なようである(1画像5MBまで)
ただし拙ブログの最近のページは 画像をクリック出来ない設定にしている(画像上でマウスをクリックしても反応しない)ので拡大表示は出来ない これはソースコードの書き方で可能にもできるが どうするか思案中である わざわざクリックして拡大して見る人も居ないだろうから必要ないと思えるのだが
結果的には画像の表示品質をいまより上げることは出来ないというのが現状の結論である
もしかするとブログ・コンテナーの幅を拡大する等々の奥の手があるかも知れない(「ブログ設定」→「カスタムJS」→「カスタマイズ」の「CSS」を書き換える等)が 当面はやる気は無い ライブドア社が規定値を変えてくれるのが最も良いと思うが 画像が大きくなると表示時間が遅くなるので 当分の間 難しいものと思う
表示に時間のかかるブログは人が寄り付かないというデータがあるそうである 無理もないことである
もちろん ご覧になってる方のヴィデオカードやディスプレイ等の品質でも左右されるのは 今までと同じであることは言うまでも無い
追伸:他社のブログのことはあまり知らないが 一般に 横幅は1000px位までで 1画像当たり200KB以内 1ページ1.6MB以内 が表示速度などで推奨されているようだ 表示速度が早いことは検索の上位に入るかどうかとも関係しているらしい わがライブドア無料版は480pxだから ちょっと載せられる画像が小さめかもしれない いや実際はこれ以上幅の大きい画像も貼れるが ブログの表示枠をはみ出してしまうのだ ブログ・コンテナー(ブログを容れる枠)を拡げる方法があるかもしれないが まぁそこまでしなくても今ので十分だ
追記:
もう大谷ドジャースはワールドチャンピオンへ王手である
第3戦もやはり「立っているだけで何かが起き」たわけである
とはいえ 嬉しいことだが 今日も勝ったらバッターボックスの大谷はもう見られないのである
うーむ 今日くらいヤンキーズを勝たせてもよいのではないか?(余裕しゃくしゃく)
いや いかんいかん それがきっかけでヤンキーズ四連勝なんてことになるやもしれぬ ジャッジが復活しない間に決めてしまうしかない ここは鬼となって徹底的にヤンキーズを破砕すべきだ いやそれもいかん 中東のどこぞの国みたいになるやないか うーむ
とはいえ 今日も念力を送り続けるのであった。。。
追伸:
今日は負けてあげたとしか考えられない
ピッチャーがナックやなんて。。。ねぇ
大谷はだいぶよくなったみたいだ ヒット1本 良かったー!
明日も立ってるだけでよかよか
続報:
祝 大谷ドジャース WS優勝!
よかったよかった
明日から観れないのはちと寂しいが
とにかく夢がかなってよかったー!
♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜
2024年10月25日
オーディオ(かなぁ?な)ひとりごと・・・試し撮り
やけに健康的なバレルの「Blue Lights」になってしまった
いやなに ちょっと色味を見る為である
悪くないのではないか
ズームレンズの最望遠側の絞り開放なのである
ファイルが巨大故に 編集ソフト側でリサイズ(縮小)してある
ので 解像度を云々しても始まらない が
まぁ プラナーと絵はそんなに変わらないね
なら OKである
Kenny Burrell / Blue Lights

FUJIFILM X-T5 Fujinon XF16-55mm F2.8 (55mm f2.8 1/80 iso-500 +0.3 std)
総て機械任せで フィルムシュミレーションの設定はまず「Std」である
”スタンダード” つまりこれが規定値でフィルムで言えば「PROVIA」である
「Velvia」でも撮ってみたが ワオー!だった
ぼちぼち載せていくこととしよう
Bill Evans / Solo Sessions Vol.1

FUJIFILM X-T5 Fujinon XF16-55mm F2.8 (48mm f2.8 1/75 iso-640 +0.7 cc)
あれ?っと思った方もおられるか?
そうである 実に渋い コクがある と言った方が良いか
フィルムシュミレーションが変わって「CLASSIC CHROME」である
富士フィルムさんの効能書きによれば “インクと紙の匂い” だそうだ
20世紀のグラフジャーナルの色味を彷彿とさせる らしい
どうだろ? そう言われてみるとたしかに。。。
だが この方向性には対象がちょっと軽すぎたかもなぁ
(ドキュメンタリータッチに仕上げるのがよさげ?)
とは言え吾輩 この色にはかなり可能性を感じて御座る
ご覧の通り さっそく カメラの機能に溺れるわけである
過去の偉大なるフォトグラファーたちからは
「しょせん小細工なり」の誹りは免れまい
彼等は 決して技巧に溺れることは無かったのである
こんなことで写真が上手くなるなら
世の中「フォトグラファーだらけ」である
自嘲あるのみ
♪〜♪〜♪〜♪〜 My Point of View ♪〜♪〜♪〜♪〜
写真は美しいだけではダメだ
ブラッサイが 30年代のパリの夜をモノクロフィルムで撮った傑作の数々を見れば そう謂わざるを得ないのである
Brassai (写真集より)

FUJIFILM X-T5 Fujinon XF16-55mm F2.8 (26mm f2.8 1/38 iso-5000 velvia)
上の写真からは想像できないが そもそも彼は「汚いもの」にも多くレンズを向けているのである 美しいものだけが対象ではない 吾輩が崇拝して止まない理由である ほんの一部しか掲載できないのが誠に残念である
まったく胸がバクバクするほどである 夜の臭いと強い記憶を植え付ける写真である こんな写真が死ぬまでに撮れるものであろうか(たらーり;)
とは思うものの 平凡が服を着て歩いている吾輩は 美しい写真を撮りたい一心で「カメラの有用な機能」を なんとか自家薬籠中とすべく もがくわけである
それに若い頃 高価でとても手が出なかった「provia」や「velvia」である
当時は安いフィルムでも一枚一枚身を削るようにして撮ったものである(じじいの余計なお世話だが 同世代なら痛いほど分かるはず)
今は ひとこまひとこまが軽々しく消費される訳である
とは言え これをデジタル時代の恩恵と言わずしてなんと謂おうや
しかもあなた ブラッサイは借り物のカメラで撮ったと言うではないか!
「新しいカメラ!ヤッホー」などとはしゃいでいる場合では無い(とほほ)
とりあえず きようはこれでおしまい あでぃおす!
追伸:
明日からいよいよドジャーズvsヤンキーズのWSである 大谷には なんかやってくれそうな運命的なものを感じるが 日本人の贔屓目であろうか
さーて 天秤はどっちに傾くのか
ともかく明日からはアメリカの方に向け念力を送ろうと思う今日である
かめはめ波ー!(だっけ?)
追記:ヤッター!ドジャース先勝である
やはり大谷 やってくれました!
なんやかや言って 同点もフリーマンのサヨナラ弾も 大谷がきっかけだろう
感動したー!
明日も大谷 やってくれること間違いなし
じゃが 今から念力送らんと明日までに届かんわなぁ(そんなアホな)
10.28 追記
大谷 第3戦の明日は打席に立つのか?(立てるのか?)
監督はああ言ってるが
大事を取って 休むべきの声もある
イヤー 振らなくて良いから立ってくれれば良いのである
大谷が 打席に立つだけで 何かが起きるのであ〜る
大谷 がんばれー!
(続報)大谷 打撃練習中の報
まさに鉄人「大谷」である!!
♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜
2024年10月18日
オーディオ(じゃない)ひとりごと・・・新しいカメラ
だいぶ秋めいたとは言え
まだ夏の面影も引きずっている
夏でもなく かといってほんとうの秋でもない
ので レコードの背景になる題材に困っているのである
(blog主しか解らぬ悩み?)
てことで またもや「カメラ」である
さーてさて 漸くにして 新しいカメラが加わった
「更新」ではなく「加わった」である
手に馴染んだ道具は そう簡単には御払い箱に出来ない
吾輩 左様な未練がましき人間なり(とほほ)
新しく加わったカメラ

FUJIFILM X-T5 Fujinon XF16-55mm F2.8(35mm判換算24-82mm)
小型軽量のボディに 思いっきりデカいズームレンズをあてがってやった
重量バランスが悪い? 昔のことを事を思えば 何てことはない
もちろん コンタックスGレンズのアダプターも入手済みである
関係無いが 富士フイルムは ペンタ部の刻印を " FUJI " にするべきでは?
「FUJI Camera」である
軍艦部

露出補正 & シャッタースピード & ISO感度設定
などのダイアルを備えた軍艦部
何処かで見た景色 懐かしい
カメラはこうでなくちゃあ
こんな事を感じるのは吾輩だけだろうが
この姿に なんとなく「ニコンF」の残像を見たのである
軍艦部のマニュアル機っぽい雰囲気
露出以外は機械任せにしない(出来ない)吾輩にとっては
実にありがたい機能である
あと フィルムメーカーならではの「フィルムシュミレーション」機能
このカメラを選んだ理由
これにとどめを刺す と言わねばならない
♪〜♪〜♪〜♪〜 My Point of View ♪〜♪〜♪〜♪〜
偉そうなことを言う様だが
超高級カメラでもないのに ひけらかすのはちょっと躊躇われる
もともと「物」を前面に出すのは好きではない
カメラが良くなったからと言って 表現の自分の壁が突破出来るわけでもないのである(痛いほど思う)
物が前面に出れば出るほど 吾が身は背景化してしまうわけである
って言う割には レコードやアンプを前面に出しているが あれらは吾輩にとって「物」ではないのである(都合の良い論理)
そう カメラは道具(物)だが レンズは「いのち」である
さて いかに優れたカメラでも
自分自身を撮ることはできないのであった
本文の写真2枚は 現用のボロボロのルミックスG1に 古の名機ヤシカエレクトロ35から外したレンズ「ヤシノン45mm F1.7」(マイクロFゆえ35mm判換算90mmとなる)を着けて撮影したものである
(今後はこれが常態化 コンタックスGレンズはX-T5用となる)
絞りF2では軟らかい描写 内部の清掃をしたとは言え ちょっと破綻も出つつある が 60年は経つレンズである さほど見劣りしないのではないか。。。どうだろね?
yashinon 45mm F1.7

これはいつものコンタックスGプラナー45mmF2で撮影
メッキのピカピカが「昭和」してる 美しい
絞りリング付近に付いている赤いポッチ 年配でなきゃ何だかわかんないかもなぁ。。。
さて 上で「ニコンFの残像」といったが
ニコンは金属製ダイキャストボディでズシリとくる
かたやプラスチックに塗装である(たぶん)
軽さなど決して「善」ではなかった「昭和」である
まさに隔世の感あり
さてさて 新たに望外な高性能の道具を得たのみならず
(単焦点入手までの取り敢えずとは言え) 安直なズームレンズの選択である
「写真が更にヘタにならねばよいが。。。たらーり;」
である
とりあえず きようはこれでおしまい あでぃおす!
♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜
2024年10月05日
オーディオ(じゃない)ひとりごと・・・いま「カメラ遍歴」ということは。。。
このところ 浮世の雑事が立て込んで
久しぶりの更新となった
で ネタが無いので 止む無く「カメラ」である
とは言え 吾が拙い「カメラ遍歴」 いわば回想に過ぎず
だが 「カメラ事情」に何か変化があった気配
いーや まだ手許にも来ておらず
60年代末からデジタルになるまで・・・その1

手前が名機ヤシカ・エレクトロ35 レンズが素晴らしい 当時の一眼レフのレンズより描写が良い 右奥はコンタックスG1 この交換レンズはバリバリの現役である 左は言うまでも無かろう 吾が原器である
ニコンF時代の露出計

60年代末からデジタルになるまで・・・その2

これも名機 このシリーズ ヴァリエーションが多かったがこれは「スポットマチックF」である 持った感じが実にグー!である
吾がデジタル1号機にして現用機

もう15年くらいになるこのカメラ 画素数は1000万程度だったかもな?(あまり気にしてない)交換ズームレンズ2本付いて 今じゃ標準ズーム1本さえ買えないような 激安価格だった
コンタックス(G)のプラナー45mm F2を装着した状態である 拙ブログの写真はこれとビオゴン28mmF2.8がほとんどである
コンタックス(G)レンズとニッコール 50mmF2 現用レンズ群

マイクロフォーサースのマウントアダプターが見える
ヤシカエレクトロ35のレンズをルミックスG1用に改造したもの

ヤシノン45mmF1.7 素晴らしい描写
これらは いまもなおすべて所有し稼働品である
が とりたてて語るべき事も無い
凡庸なカメラ遍歴である
さて そこにどんな機械が加わるのやら。。。
♪〜♪〜♪〜♪〜 My Point of View ♪〜♪〜♪〜♪〜
カメラに特別な思いがあったのはニコンFまでである
カメラは道具に過ぎないのである ちゃんと写れば良い
性能もほどほどが善いのである
が いまはほどほどを見つけるのが実に難しい
異常なまでの高機能・高性能である
「ぜんぶおまかせくだされ」ですと?
そういう機械を手にすると頼り過ぎるきらいがある
いや頼り切る前に 使い切れないのである
ま 身の丈に合わせた 「ほどほど」が善いのである
漸くにして秋の訪れである

いま 吾が胸中を過るは
「良い機械を得て 写真がさらに下手にならねばよいが。。。」である
とりあえず きようはこれでおしまい あでぃおす!
♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜
2024年10月01日
「追記」の部屋
Link画像のレコードにくっついてる葉っぱを「追記」のシンボルとした
この部屋は 元のページに関連した事を 思いつくまま 徒然に書いていく 専用のページである
♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜
★元ページ

2025.1.30「This is 「制動力」!
(クリックして元ページへジャンプ)
★元ページ本文 追記コーナー
2.11_12 追記:Les McCann Ltd.
だいぶリンクの表示を変えたので 問題がありましたらコメントください
さて このところ 本文と関係ない追記ばかりである
いっそのこと新しいページにした方がよくは無いか?
というのがここ最近の迷いである
それはおいといて
ページのネタ探しをやって 棚を漁っていたら この盤にぶつかった
もうここ数十年 聴いてない盤である
アーシーでファンキーな 良い盤という記憶はある
Les McCann Ltd. / In San Francisco (p)75 東芝盤

LumixG1 + Yashinon DX 45mm F1.7
この盤 ライヴ録音だったと思うのだが
演奏は無論の事
聴衆のザワメキや空気感あたりが 如何ほどかと興味ある
ライヴものはそれが楽しみである
近いうちに 聴いてみるといたそう
2.10 追記:I am 多忙 now!
このところ忙しくて レコードが聴けないのである
ので 例の件 ろくすっぽ試聴していない
結論はまだまだ先になりそうである
接点のみプラグ付きフォノコード

これらがどう鳴るか 気になるところだが。。。

演奏がまさに始まらんとするとき
聴衆の胸騒ぎが醸し出す 言いようのない気配
それがいかにリアルで臨場感に満ちているか
それが 問題なのである
2.9 追記:本文の追記を削除他
■重要■
昨日までは Rink画像をクリックすると 同じタブに遷移先のページ(「追記」の部屋のこと)が表示されましたが セキュリティを高める為 別のタブに表示されるようにHTMLを書き直しました
以前は遷移先(追記の部屋のこと)と遷移元(本文のページ)が内部で情報を参照できるように関連付けられていたのを切り離したわけです
もし 「追記」の部屋に飛ばないなど問題ありましたらごコメントください
さて 本文「This is 「制動力」!」にあった たくさんの追記はそっくりこちらに移行(コピペ)しました
本文には こちらへのリンクがあるだけです
また 右側のLink画像の下のページ表示に赤文字の更新日と内容を入れました
お客様がすぐ見たいものにアクセスできるという 見易さを優先してのことですが 吾輩が危惧するのは 本文も追記も「どちらも見られなくなること」である
その可能性は高い!(たらーり;)
あと このやり方 見せ方も これでよいのか。。。と思案中です
1,わざわざ「追記の部屋」なんか作らなくても 追記自体を新しいページにすれば更新が楽になるではないか?
2,だが そうすると 内容が「無いよー!」になるではないか?(ただでさえ薄っぺらなのに。。。)
3,だが 1、だと アクセス数は今よりマシになるかもしれない
4、だが 2、は 大いにあり得る ここは1つのテーマに的を絞った方がよかろう
5、うーむ いかがしたものか。。。
まぁ考えてもしょうがないね。。。とほほ
2.8 追記:「追記」の部屋の2ページ目仮設
この「部屋」は 現在のページだけでは将来パンクしそうである そこで右側のLink画像の下に2ページ目に飛べるLinkを予備として作ってみた 「空白」となっているが ここと同じページに飛ぶようになっている
将来 どんどんページが増えていくとよいのだが。。。
あくまで追記は元ページに関係したこと 思考の延長線に在ることにしたい 希望である とは言え たまには脱線もやむなしである
最近 いちばんアクセスが多いのは「追記の部屋」である
有難い事である
毎週 週末に新しいページを更新しているが さいきん あーだこーだやっているせいか 作文が遅れている ちょっと間に合わないかもしれぬが ご容赦願いたい
こうやって好きなことを自由に書けるのは有難い事だ
そうでなくなると息苦しい。。。生き苦しい?。。。世の中になる(どこかの国を見給え!) 表現の自由は何よりも大切だと思うのである
が 吾輩の記事を読んでムカーッとくることがあるかもしれない 特に最近 古典的真空管アンプを「制動力が無い」と しつっこく主張してるので 眉をひそめている方も多いかと思う(2A3アンプお蔵入りで自分もがっくり)
が それは貴方という個人に対してではなく 吾が意見として不特定多数に向かって言っている事である そう考える理由もなるべく詳らかにしての事である もしそれが間違っているなら 忌憚のない教えを乞いたいと思うのである
正直に告白すると
1,作曲家・演奏家を自分の好みでランク付けすること
2,レコードやCDの演奏を自分の好みで優劣を付けること
3,ある演奏を自分の感性でダメ出しすること
4,あるレコード(CD)を自分の基準でダメ出しすること
これらは 多かれ少なかれ人様の感情にさざ波をたてるかもしれない
とくに吾輩は4,が要注意である
だが ある人にとっては有益な情報となり得るかもしれない
やはり表現の自由が優先されてよいのである
2.7 追記:Eric Dolphy / Last Date
昨日の追記でリンクさせた吾輩の ページ だが 内容を要約すると
1,吾輩の所蔵盤は 日本フォノグラム「Fontana」レーベル 1973プレス 1200円廉価ステレオ盤 PAT-502
2,この盤は「疑似ステレオ」が定説であるが B面2曲目「You Don't Know What Love Is」に関しては 「本物のステレオ録音」ではないか
3,そして この盤は オリジナル盤になんら劣ることのない音ではないか
と言いたいのである
この話も「耳だこ」だと仰る方もおられることと推察するが この演奏 人の「生き方」にまで影響を与えるような畢生の名演であるという事で お許しを願いたいわけである
まぁ「疑似」だろうが「もの本」だろうが そのことに変わりは無いが 寂聴さんも気付いておられるように 「音」は音楽の本質にまで影響を及ぼすわけである そのオーディオの極意にいきなり踏み込んだ寂聴さんの感覚は凄いと思うわけである
まったくジャズ入門1枚目がドルフィーとは「恐れ入りました!」である
今東光と寂聴 寂聴とジャズの話は 若いころ読んで感心したはずだが 久しぶりに接して意味深いものを感じた バッハが好きになったという話も 共感できる話だ 吾輩の中でもジャズとバッハは親しく共存しているのである
しかし いきなりドルフィーでは 他のものでは満足できなかったと勘ぐるが どうしたんだろねぇ。。。
2.6 追記:人それぞれ
いつも拝見して楽しませて頂いているあるブログで とても興味ある記事があった これは吾輩の ページ だが このページで採り上げた下のレコードに関する記事だった

で 吾輩の記事はいいのだが どうもその方の記事は その記事の一週間ほど前に更新された記事に発端があったようだ
その発端の記事には「ジャズは芸術か娯楽か」といったような内容が ブログ主が意図したかどうかは分からないが 含まれてしまい それに対してさざ波が起きているようなのである
こんな大きな問題 音楽を語らない(れない)吾輩には 意見を云うつもりは毛頭 無いし すでに評価の定まった問題を今更取り上げるのは無意味だと思う だが その物議を醸した発言には「聞捨てならぬ!」と感じた人は当然いたはずである
だがその発言 誰かに対して言ったわけでなく あくまで個人の見解 個人の好き嫌いの話として もともとは内輪での思いが外に漏れ出てしまったのである 従って「セーフ!」なのではないかと吾輩は思う 基本的に何を差し置いても表現の自由が優先すると思うわけである
たとえそれを読んだとき ムカッと来た吾輩が仮に居たとしても それは吾輩に投げられた言葉では無いのである しかもそれは 今後もそのブログを「気持ちよく観たい」という 吾輩の願望がそうさせるに過ぎないのだから ただ見過ごせばよい (あるいは無視か?)と吾輩は思うのである
それよりも その発言は まわりまわって発言者自身にいつしか帰ってくる どんな形であれ必ず帰ってくるのである それは そのことについての最新の記事。。。便り?。。。が物語っているのではないか。。。
いずれにしても 昨今 じつにセンシティヴな問題ではある
が それよりも何も その「便り」である
「静寂」の意味をあらためて問う 実に良い内容だと思う そして 「音とジャズ」への開眼もあるという まさに共感せずには居られないのである
2.5 追記:「追記」の部屋では 新しい追記をトップに
今後はタイトルのように 新しいものトップに持ってきます
本文では 新しい「追記」を見るのは一番下までスクロールさせないといけません 文脈上そうせざるを得ないのですが この「追記」の部屋では すぐに見れることを優先します
いくらか見易くなったかな。。。どうでしょう?
小休止。。。

LumixG1 + Yashinon DX 45mm F1.7
三脚を使うべきだった 部屋がちょっと暗かった 実質90mmの手持ちで1/50秒はちょっと厳しかったね。。。
左のレコードはタル・ファーロウのヴァーヴ盤です
2.3 追記: 「糸でんわ」のDCバランス
これは前にも言及したことではあるが 疑問に思う向きもあろうかと思い 念のためである
「糸でんわ」の伝送において「制動力」を発生させるためには「いかに強い意思を持続させるかにかかっている」と本文で吾輩は言ったのである だがなぜ「強く」かつ「持続」させねばならぬのか?
そう思うのも無理からぬことである なにも強くなくとも引こうと言う意思さえあればよいのではないか? 「強い」はレトリックじゃないか?と
もっともで御座る だが
1,「糸でんわ」においては引っ張ろうとする「張力」はアンプでは電圧に相当する
2,この「張力」が 手がぶるぶるして変動するのは電圧の変動「リプル」である
3,そして 糸を両側から引っ張ろうとする二人の息が揃わず「張力」の均衡点が変動するのは「DCバランスの崩れ・変動」に相当する
4,2,3,は伝送される音声に変調を及ぼし音声を不明瞭にするか汚くするはずである ヒドい場合は伝送そのものが破綻する可能性がある
5,であるからこそ 一定の力で引っ張ろうとすること 張力がブレたら修正しようと意図することを「いかに強い意思をもって持続させるかにかかっている」わけである
すなわち アンプ等においても「そうあるべきである」のは言を俟たない訳である 強い「制動力」は発生しないのであ〜る
「糸でんわ」モデルは 決してオカルトでは御座らん!
2.3 追記:小休止
こないだも言ったが 今回のシリーズ「This is 「制動力」!」は意外や好評である
やはり「制動力」は低音につながり 「音キ*チ」のこころをくすぐるようである
ただ 吾輩の様に「オームの法則」くらいしか電気理論を識らなくとも やはりアンプの実物を造って「ここをこうすればこうなるのか」と経験したことがなくては なかなか内容が判り難いかもしれない(けっして高度な内容では無いにしても)
で いま訪問くださっている方たちがどんなオーディオをやっておられるのか分からないので クドくなったり 何度も同じことに言及するのは やむを得ないとはいえ もうちょっとスッキリさせる方法がないものかと思案中である
今考えているのは 今回のシリーズは「追記」も見てくださる方がいつもより多いので この「追記」も 追記だけ集めたページを独立させ そこに本文をリンクさせたほうが良いのではないかなどと思案している が そうなれば「追記」という表現はやめてテーマに因んだタイトルにできるのであるが うーむ どうだろね。。。?
とまぁ いろいろ考えているわけである そこで 今日は
小休止。。。。

FUJIFILM X-T5 XF16-55mm F2.8
2.4 追記 :AIに意思はあるか?
上の話では まるでAIに意思・意識があるような書きぶりだったが 詳しくは知らないが たぶん今のAIには無い
これも新聞で読んだ程度知識だが いまのAIは「大規模言語モデル」にもあるように 大量のデータを学んで 次の最良の言葉を文脈から引き出すようなことで 意思や意識があるわけでは無い(らしい)
将来 意思や意識を持つようになるかも諸説あるようだ そもそも人間の「意識」のメカニズムさえよく分かっていないらしいのである
回路図や 構成素子の特性を AIに学習させ たとえばアンプなら 回路のあらゆるポイントで そうあるべき電流や電圧を監視させ ズレていたら 本来あるべき状態に制御する これがAIに出来るのか 出来たとしてもAIでなくとも出来るのか 吾輩には分からない
が 未来(近い?遠い?)にはきっと驚くようなことが起きるに違いないと思うのである
1.31 追記
なぜ「意思」が必要なのか?
なーんて タイトル付けが良くない
ので「なぜ(人間の)「意思」のアバターが必要なのか?」に変更した
にしても「そんなことどーでもいいじゃねーか」かもしれぬ
まそれはさておき 本文の物語的な部分の文脈 大まかに言って3つくらいに分けたいと思った
1番目は、「振動板と振動板を糸で結んだ簡単なものであった」まで
2番目は、「そこで人は 意図して糸を引き始めた」まで
3番目は、「いかに強い意思を持続させるかにかかっている」以降
である 何が言いたいかと言うと
1番目は、まぁ これはいいか 導入部だから で
2番目は、普通のアンプを意味する 普通のオーディオと言っても良い
3番目は、「制動力」のあるアンプ ないしはオーディオ
分かり易く言うと こういうことになるかなと
自然エネルギーのアバター「制動力」を強く発生させるには3番の文脈が必要ではないか。。。と言いたいのである
さて 長年 空想だったAIがいよいよ現実(以上)になってきた
AIという「人間の意思のアバター」 それを求めるのは 人類があらゆるものを制御し そこに最適化を求めるという必然なのかもしれぬ 人類の進化の必然。。。。(短期的にはIT企業の利益の追求に見えるにしても。。。)
なら アンプに オーディオに 制御力を発生せしめるため(AIとは限らんが)「人間の意思のアバター」が必要なのは必然ではないか。。。と どうだろね?
自分で言うのもなんだが 自然エネルギーのアバター「制動力」 この概念 だいぶ深まってきたなぁと
「人間の意思のアバター」(自律的能動性)と
「自然エネルギーのアバター」(制動力)の融合
こいつは 必然なのかもね。。。!
2.1 追記
吾輩のこのシリーズでの話 もしや「オカルト的」と思っている方が多いのだろうか。。。?
それはともかく 自分で言うのも何だが これまでの話 事態をさらに複雑化させたように思う
というのも 本文で「再生系は 常に (音楽を自分の部屋に移動したいと言う)原初の「意思」が支配している」と吾輩は言って さらにその「意思」のアバターを強固にすればするだけ「制動力」が強まると言ったのである ならば アンプだけでなく 全再生系で そのことを具体的に 証明ないし 例示しなければならないのでは?
と思ったわけである
電気のデノ字も知らぬ吾輩には余りにも荷が重いのである
が 例えば 再生系の入り口だけに限っても
1,レコードの「溝」のカッティングレベルを高める
2,カートリッジの変換効率を高める(金田先生のDL-103VICは好例?)
3,TTモーターの回転を最適化する(中途半端な制御より「慣性」重視へ これは有望 自然エネルギーをより多く注入すること=制動力だからね)
など考え着いたが そこで 大問題である
これらに措いて「その「意思」を強固にする」とはなんぞや である
いや もともとそれらは そう「意図」されて造られているのだから 1,〜3、を更に強めることが「強固にする」ことである のか否か たぶんそうであり 自分なりに言語化できそうだが それを科学的 電気的?に証明することは吾輩にとって「アイ・キャン・ノット!」 三歳児並の頭では どうにもこうにもである
要するに「オカルト的」と言われても 抗えることが「アイ・キャノット」ということであ〜る。。。とほほ;
2.2 追記
さて「糸でんわ」では 糸を引っ張らない事には「伝送」は 棒にも箸にも引っ掛からないのだが アンプ ないしは オーディオは どうだろうか?
別の言い方をすると アンプ ないし オーディオでは 「糸でんわ」における「糸を引っ張る」とは何に相当。。。どんなイヴェント? アクション?。。。するのか?
これも 難問である
だがやはり 電源SWを入れる事 なのか?
この可能性は高い
やはり 音楽を聴こうとする「意思」が SWを入れさせるのであるからね
そうしてみると アンプ ないし オーディオでも「意思」が必要である
いや タイマーを掛けとけば「意思」は要らんだろう と?
いや その場合も タイマーに時間を設定するという「意思」が必要である
という風に こいつは何処までも遡って「意思」は付いて回るのである
てことはやはり 音楽を自分の部屋に移動するという「原初の「意思」に「伝送系」は支配されている」と言えるのではないか。。。うーむ
だが 其処には「糸でんわ」と違って「強い意思」なんて必要ではない SWを軽く弾くだけで良いのである
するとアンプ ないし オーディオでは「強い意思」を発生せしむるシステムを別途 用意してやらねばならぬということになる
結局 それが「自律的能動性」で 原点に戻るわけである
なーんてことをずーっと考えている吾輩は ヒマ人(+ボケ老人)だと思われそうだが 考えているのはキーボードの前だけで 普段は これでなかなか忙しいのであ〜る(弁解;)
2.2 追追記
いま外は雪
みぞれっぽいね これじゃなんにもできない 雪なら濡れないが
でもまぁ 音楽日和ではあるか。。。
さて 音楽という自然エネルギーがどれだけ自分の部屋で実現したかを計ること つまり 吾輩の言う「制動力」が原音と比較してどのレベルに達したかを知る事
そもそも 原音を知らない 持っていない 吾輩は お手上げである
が 先生は勿論の事 金田式ファンの方で生録をやっておられる方なら そこは自家薬籠中のことと推察するわけである
ようするに 何が言いたいかと言うと「これが「制動力」の音だ!」と 誰もが判る方法がないものかと思うわけである
ただ 吾輩の場合はひとつだけある 誰にでも進められる方法ではないにしても
NO.240を造られた方で 初段のヒーターをオリジナルのまま「AC点火」にしておられるを 「RegによるDC点火」に変更される また 出来るだけヒーター用電源を強力なものにして Regを初段管の近傍に置く
そうすると吾輩が感じた程度には「制動力」は お感じになられるものと推察つかまつるわけである(たぶん)
しかし これとて 感じ方に個人差があるだろうし 環境も違うから完ぺきとは言えない とはいうものの かなり有力である
しかし これとても「原音と比較して」となると 吾輩はお手上げである
ウーム 何か良い方法が無いものだろうか。。。(これ いくら考えても無駄ですよね。。。とほほ
追記:「糸でんわ」のDCバランス
これは前にも言及したことではあるが 疑問に思う向きもあろうかと思い 念のためである
「糸でんわ」の伝送において「制動力」を発生させるためには「いかに強い意思を持続させるかにかかっている」と本文で吾輩は言ったのである だがなぜ「強く」かつ「持続」させねばならぬのか?
そう思うのも無理からぬことである なにも強くなくとも引こうと言う意思さえあればよいのではないか? 「強い」をレトリックとして使っていないか?と
もっともで御座る だが
1,「糸でんわ」においては引っ張ろうとする「張力」はアンプでは電圧に相当する
2,この「張力」が 手がぶるぶるして変動するのは電圧の変動「リプル」である
3,そして 糸を両側から引っ張ろうとする二人の息が揃わず「張力」の均衡点が変動するのは「DCバランスの崩れ・変動」に相当する
4,2,3,は伝送される音声に変調を及ぼし音声を不明瞭にするか汚くするはずである ヒドい場合は伝送そのものが破綻する可能性がある
5,であるからこそ 一定の力で引っ張ろうとすること 張力がブレたら修正しようと意図することを「いかに強い意思をもって持続させるかにかかっている」わけである
すなわち アンプ等においても「そうあるべきである」のは言を俟たない訳である 強い「制動力」は発生しないのであ〜る
「糸でんわ」モデルは 決してオカルトでは御座らん!
2.3 追記の部屋 誕生
こないだも言ったが 今回のシリーズ「This is 「制動力」!」は意外や好評である
やはり「制動力」は低音につながり 「音キ*チ」のこころをくすぐるようである
ただ 吾輩の様に「オームの法則」くらいしか電気理論を識らなくとも やはりアンプの実物を造って「ここをこうすればこうなるのか」と経験したことがなくては なかなか内容が判り難いかもしれない(けっして高度な内容では無いにしても)
で いま訪問くださっている方たちがどんなオーディオをやっておられるのか分からないので クドくなったり 何度も同じことに言及するのは やむを得ないとはいえ もうちょっとスッキリさせる方法がないものかと思案中である
今考えているのは 今回のシリーズは「追記」も見てくださる方がいつもより多いので この「追記」も 追記だけ集めたページを独立させ そこに本文をリンクさせたほうが良いのではないかなどと思案している が そうなれば「追記」という表現はやめてテーマに因んだタイトルにできるのであるが うーむ どうだろね。。。?
とまぁ いろいろ考えているわけである そこで 今日は
小休止。。。。

FUJIFILM X-T5 XF16-55mm F2.8
右サイドに「追記の部屋」として 上に書いたような追記のまとめページを仮に設けてみました レコードの画像をクリックするとページに飛びます
今は ここに書いた内容と重複してますが 将来独立させるかもしれません とりあえずです
2.4 :AIに意思はあるか?
上の話では まるでAIに意思・意識があるような書きぶりだったが 詳しくは知らないが たぶん今のAIには無い
これも新聞で読んだ程度知識だが いまのAIは「大規模言語モデル」にもあるように 大量のデータを学んで 次の最良の言葉を文脈から引き出すようなことで 意思や意識があるわけでは無い(らしい)
将来 意思や意識を持つようになるかも諸説あるようだ そもそも人間の「意識」のメカニズムさえよく分かっていないらしいのである
回路図や 構成素子の特性を AIに学習させ たとえばアンプなら 回路のあらゆるポイントで そうあるべき電流や電圧を監視させ ズレていたら 本来あるべき状態に制御する これがAIに出来るのか 出来たとしてもAIでなくとも出来るのか 吾輩には分からない
が 未来(近い?遠い?)にはきっと驚くようなことが起きるに違いないと思うのである
2.5 追記:「追記」の部屋では 新しい追記をトップに
今後はタイトルのように 新しいものトップに持ってきます
本文では 新しい「追記」を見るのは一番下までスクロールさせないといけません 文脈上そうせざるを得ないのですが 「追記」の部屋では すぐに見れることを優先しました
いくらか見易くなったでしょうか。。。どうでしょう?
♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜
2024年09月15日
オーディオひとりごと(備忘)・・・さて 何から回そうか
もういいかげん涼しくなってもよい頃合いだが
一向にその気配が無い
と思いつつ 散歩道に足を踏み入れると
桜の落葉が 敷き詰められていた
そう もうすぐである
レコードが回り始める秋
待ちに待った季節である
Bill Evans Trio / Jazzhouse

Bill Evans (p) Eddie Gomez (b) Marty Morell (ds)
Recorded live at Jazzhus Montmartre,Copenhagen;November 24, 1969
How Deep is The Ocean
How My Heart Sings
Good Bye
Autumn Leaves
California,Here I Come
Sleepin'bee
Polka Dots and Moonbeams
Stella By Starlight
Five
Helen Merrill With Clifford Brown

Recorded at NYC, December 22,23 1954
Don't Explain
You'd Be So Nice To Come Home To
What's New
Falling In Love With Love
Yesterdays
Born To Be Blue
'S Wonderful
まずは ヘレン・メリルのこの盤か
この盤は 冷たい空気にぴったりである
真っ先に回ることだろう
いや まずビル・エヴァンスだろう
「枯葉」の収まったコペンハーゲンでのこの盤 も良いが
やはりジム・ホールとのデュオ(Duo & Intermodulation)
に とどめを刺すのではないか
いやいや やはりエヴァンスのソロから始めるのがよろしかろう
いずれにしても 手垢のついた盤が
嚆矢となるに違いないのである
♪〜♪〜♪〜♪〜 My Point of View ♪〜♪〜♪〜♪〜
さてさて 本文には使い古した写真。。。ヘレン・メリルの盤。。。も掲げたが やはり季節に欠かせない盤というものがある 特に秋口は 冷たい空気が頬に触れるやいなや 精神も鋭敏になるのであるから 回したい盤は目白押しとなるわけである
本文には漏れたがアル・ヘイグの最高傑作「Jazz Will-O-The-Wisp 」(1957)もやはり秋になると定番と言ってよい そして 芋ずる式に彼のピリオド盤も回ることになるという塩梅である あとはコルトレーンの「バラード」もか あのエルヴィンのシンバルワークのハーモニーが シィーンと冷たく尾を引く様は これも秋には欠かせない趣きである
ま いずれにしても 手垢のついた盤ばかりが回るのである
そう もやは「沢山は要らない」のであ〜る
(追記)おっと忘れるところであった この盤もこの季節には回さないではおれまい
June Christy / Something Cool

50年代末の日本初版と思しき盤 音は素晴らしい
”チーッ”とクリスティの声にハモるミュート・トランペットがいやがうえにも秋の冷たい空気を感じさせるのであった。。。
♪〜♪〜♪〜♪〜
さて 吾輩 電気オンチにも拘わらず これまで「アンプ造り」をあーでもないこーでもないとやってきて いろいろな(自分なりの)知見を得られたわけであるが。。。たとえば「「情報量」とは即ち「制動力」である」もそうである。。。だが この1つだけは「あーやっぱりそうだったのかぁ」と 自らその結論に達して大いに感じるものがあったという事がある
それは「空間」である
いまはこの「空間」を「分厚い空間」と言う表現を使う事が多くなったのであるが 実はである この「空間」が アンプの「高域の情報量」しかも 可聴帯域の上限に近い 乃至は 可聴帯域外の高周波的情報 と大いに関係がある(のではないか)と言う結論に達したわけである
この結論は もしかするとオーディオ界の「常識」という位置づけにあるのやもしれぬが この結論に 試行錯誤の結果 自ら達したという事に意味を見出すわけである
もっともアンプの製作途上は「空間 空間 空間!」などとは決して思っていないのだが ある事をやって「空間」が拡張すると それが高域の「情報量」を増やした事に起因していたということが多かったわけである 最近の例では ツイータのハイパスフィルターにSEコンデンサー2000pをパラった時もそうだったのであり 勿論その根底には「圧着カラゲ半田付け」がある事は言うまでも無いのである
リスニングポイントにある吾が身をも取り込もうとするかのような「厚みのある空間」が。。。これ「奥行き」ではなく手前方向に拡張すると言っておかねばならない。。。自然界の複雑な音による場合もそうであるし ホールや大聖堂の空間を感じさせる響きもが どのような音で構成されているのかを考えてみる必要があるわけである
つまり 空間を感じさせる音の多くは反射波であり 重要なのは その反射波の大部分を占める周波数帯である ようするに物体のどんな面の。。。強調したいのは面の大きさよりも小ささである。。。反射波が多く含まれているかである 想像力を働かせば楽器や人の声が出すコアな音はほんの1部に過ぎないと気付くわけである
もしかするとこの空間を感じる感覚は れいの「場のアナログ量」を感じる感覚とおなじかもしれぬ と思うのである
Coral H-105 ” カシッ カシッ シィィィーン ”

9.19 追記
今のカメラはもう15年以上使っているのである 技術革新が超高速な昨今 15年前と言えば石器時代みたいなものである だが当時はミラーレスが出たばかりで 銀塩カメラ時代のレンズ遺産が簡単なアダプターで使えるとあって飛びついたわけである(コンタックスのGレンズのこと)
だが流石にそろそろ買い替え時だろうと物色しているのであるが なかなか良いもの(=自分に合ったもの)がみつからなかったのである だが ここにきて2機種くらいに絞られてきたのである
吾輩はもともとが古風?な人間であるから できるだけマニュアル的要素の強いものが良いわけである 極端な話 露光だけお任せであとは全部自分でやっても良いくらいである なんなら露光だって 昔の事を思えば平気である
余計なことだが 日常の「記録写真」に 今のカメラの性能は過剰である 選択を難しくしているのはそれである
まぁ そんなで どうなる事やら。。。。
9.21 追記
大谷は凄い!まさに「国宝」である!
今季大谷は ピッチャーとしてはリハビリ中なので「バッターとしてヤル」と決め オフから自律的&能動的にトレーニングをしてきたのであろう その結果としてこの成績である まさに超人的としか言いようが無い
が 実は吾輩 盗塁はともかくHRのほうは 残り試合からすると なかなか厳しいかもなぁ と 思っていたが あれよあれよという間に達成である 凡人の想像を絶する すべてが規格外だったわけである
でもって「いつ50・50達成か?」など やかましい外野の声も振り切ったわけだから あとは思う存分 彼自身の言葉通りの「ヒリヒリするような」9月、10月を送ってもらいたい
と日本人みんなが思っているのじゃなかろうか
でもって 今日これから(11:00から)ドジャーズ戦だが 今日も記録の更新があるやもしれぬ 目が離せませ〜ん!
さて 話はかわって こないだのコルトレーンの「バラード」でのエルヴィンのシンバルが ”シィーン”と 韻を含んで尾を引く話
これってエヴァンスのヴァンガードでのライヴで モチアンのシンバルがやはり同じように尾を引くのであるが このふたつ 皆さんはどう感じておられるか分かりませんが 吾輩 似ていると言えば似ているが 違うと言えば違うと思うのである
「バラード」の方はより複雑な金属的倍音を含んでおり 質感としてより「冷たい」。。。ようするに金属の冷たさみたいな。。。感じである 空気と混じり合うようなハーモニー感もこちらのほうが有ると言ったほうがよい いっぽうで「ヴァンガード」のモチアンのシンバルは超高域の倍音成分がちょっと丸められたややまろやかな質感である もっとも「ヴァンガード」の全体がそうであるが とは言っても「情報量」は「ヴァンガード」はなかなか素晴らしいものがあって おそらく超高域が減衰しつつもかなり低いところまで情報量が温存されているといった感じである そういう観点では「ヴァンガード」はなかなか優れた録音であると思うのである これは「場のアナログ量」が豊富なライヴ録音だからかもしれぬ(もしかすると「場のアナログ量」と「可聴帯域外の高周波的情報」は同じ物じゃなかろかと思い始めた今日この頃である)
さて みなさんは どう思われるでしょうか
えっ?そもそも この二つを比較したことが無いと?
それはそうでしょう
これはほんとに個人的な視点ですからなぁ。。。たらーり;
とりあえず きようはこれでおしまい あでぃおす!
♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜