パウロ 十字架の使徒 青野太潮
イエスの最期(十字架の死、復活)
パウロの心に、神が御子を啓示した。私たちの心のうちで輝いて・・・。イエスの殺害をこのからだに負って歩きまわっている。(ガラテヤ1:15,コリント二4:6)
十字架につけられたままのキリストを宣教する(コリント一 1:23,2:2,ガラテヤ3:1)
殺されておりながら今もなお生き続けている。復活。脆くて弱い「土の器」である私達キリスト者の身体にも息づいている。

呪いこそ解放、そして祝福
「律法によって」呪われた存在、律法の下で奴隷となっているわれわれ人間は解放され、祝福されたのだ」(ガラテヤ3:13)「十字架の逆説」贖罪は伝承、儀式である。行為でなく信仰。救い、ゆるしの意味。

「神の義」
「神の恵みにより」「無償で」「信仰をおして」という信仰義認論。(ローマ3:21)
イエスの福音、神の「ゆるし」の福音。「悔い改め」を条件とせず無条件。

アウグスティヌス キリストの受肉
1 神の創造したキリストの位置
2 神の恩恵が人間キリストに
3 人間の傲慢が、神のあれほどの謙遜によって反ぱくされ、癒されうる。従順の範型 子なる神が父なる神に十字架の死に至るまで服従。



ローマ書講解バルト
見えないのだが(死)信じる(生、復活)ことが信仰と認識する。(ローマ3:22)
罪人、神の栄光を持たない、神の恵みで、キリストイエスにある救いにより、贈り物として義と宣告される。


使徒的人間(カール・バルト)富岡幸一郎著、、講談社を読んで
パウロは言う。
「人間の自由意志 とは罪を 犯す 他 は何も なしえないものである」「わたしの肉には 、善 が住んでいない ことを 知っています 。…」「私は何と惨めな人間であろう。」

「バルトは人間存在のうちに自由は存在しない」「人間キリストが死に引き渡される。ゴルゴダは宗教の終わりである。十字架上の死とともに宗教活動がそこで終わった。人間も死んだ。」

「この時、神の「自由」が地上の出来事としてあきらかにされる。それがすなわちキリストの死の中からの復活である。」
この復活のイエス・キリストは、人間の死と罪の「古い世界」に接線のように接する。

「イエス・キリストは「死」から生きかえった人間である。」
キリストの復活の力により、われわれは限界を撤去され、解放され、監禁を解かれてその他者に帰属するのである。
この帰属を「自由」と名付けた。