高橋直之のホームページへようこそ

経営コンサルタント(中小企業の経理・会計の支援,パソコン会計ソフトの導入お手伝いします。御社のホームページをTOPに表示します。:電話080ー3244ー3795)〜研究開発〜環境〜中小企業診断士〜)  2014年6月に軽井沢に移住してきました。since2005.02.03

自分史

2006年古希70歳からの10年

2007年に71歳で百名山を完登した。その感想は別に記載した。
2009年6月杉並から国立に転居した。母操が8月に高幡の老人ホームに入居が決まったので介護のしやすい国立に移動した。
2008年1月には牧子が卵巣がんで国立がんセンターにて手術と抗がん剤 治療を受けた。苦しい闘病を経験した。牧子は国立の隣町の内藤に居を構えていたので私たちが近くで生活することになった。5年経過観察の時を経て2016年5月現在で8年を無事過ぎた。
2010年2月に母操の歌集[霜月の風」を発刊した。これには直彦、牧子も協力した。
2010年5月に直彦が石黒保子さんと婚約し10月に挙式をした。
2012年4月操が死亡96歳だった。2012年7月孫娘「晴」誕生した。私が命名の栄誉に与る。
2013年旧軽井沢三笠ハウス大規模修繕を13年目で実施した。2018年12月に5年目なので塗装の無償保証期間になる。
2014年5月軽井沢に転居。国立には5年住んだ。同年8月に西穂独標と焼岳に登る。
2015年5月に日本棋院軽井沢支部の同好会に入会する。英会話教室参加する。8月旧軽井沢三笠ハウスの理事長を退任する。
2016年囲碁と英会話を継続する。
2016年7月で80歳傘寿となる。これを記念してブログ日記と自分史のを含む小冊子の発刊計画している。
20016年2月にアンコールワットとベトナムに旅行する。3月から水泳教室風越公園に参加する。



還暦からの10年

自分史 還暦からの10年
平成20年5月10日
高橋直之
1996年(平成8年)、60の還暦を迎えた。9月三菱重工業蠅鯆蠻退職した。これを期に第2の就職の話があったがそれを選ばず、中小企業診断士の資格も取得していたので独立することにした。まず、修行のつもりで蠑霾コンサルタントの取締役になりパソコンの講師など勤めた。その頃ウインドウズ95が世にでたときである。中小企業診断協会の「パソコン活用研究会」に入り、Word,Excell,データベースなどの学習をした。
3年間勤めたがその会社の儲けはあまり芳しくなく解散するこになった。経営の難しさ経験した。私自身はパソコンの技術を習得でき、得る所があった。
2000年に友人の会社クレスの技術顧問、蠕亢兇亮萃役になり中小企業診断士の資格を生かし経営コンサルを勤めた。螢レスは機械のメンテナンスの代行する会社である。ここでは営業のツールとしてホームページを造りそれがうまく機能しており会社に貢献したので社長から感謝された。この会社は最初は赤字が出たがその後黒字になった。蠕亢兇魯僖愁灰鷁餬弖侏の指導をした。雇用補助金を貰う書類を作成し手伝い貢献した。この会社は設立から黒字で経済的成績が良い。ただ経営的には旧態である。
2001年螢▲Ε鵝Ε廛┘鵐討鮴瀘し、息子が社長、私が取締役となる。私は会計・経理、税務を担当している。会計王という市販のソフト使って管理している。この会社はデジタルコンテンツの企画編集制作と劇団「大人の麦茶」の興行をしている。
いまのところ経済的基盤が脆弱であるが仕事は忙しいほどである。今後改革が必要である。
2002年の経営支援塾(有)を設立し取締役となる。この会社は成績が良くなく今年2000年3月で手を引いた。
中小企業経営に携わりいろいろ経験した10年であった。営業が強いところは成長し存続する。
この10年は趣味に百名山めざし目標を達成した。また毎年海外旅行1回を実施した。これらはブログに記載した。2005年にブログを始めた。
これからの10年をどう生きるか。模索中。

1960年会社員時代

自分史 1960年〜会社員時代
高橋直之 2007.3.11記
1960年(昭和35年)は日本経済の高度成長真っ盛りである。池田勇人内閣の所得倍増、全学連、安保阻止で岸首相辞任、三池争議などのキーワードでまとめられる時代であった。政治、経済、法律、文学など文科系の学生は全学連などで活動していた。私は理科系であり、もともと興味も薄く、実験など授業があり参加しにくい状況であった。
石炭から石油へのエネルギー需要の変化と労働争議の勃発である。
冷蔵庫が普及し、テレビ、洗濯機、冷蔵庫が家電の3種の神器と言った。
西田佐知子の「アカシアの雨が止むとき」、坂本九の「上を向いて歩こう」、マヒナスターズの「誰よりも君を愛す」が流行した。浩宮誕生。1年前に美智子さん結婚。

三菱造船蝓文什澆了杏重工業蝓砲望赦贈械鞠4月私は入社した。本社の東京をスタートに広島造船所、長崎造船所と研修が始まった。1年間は技師見習いである。最初の3ヶ月は工場実習を受ける。その後長崎研究所に配属される。配属先の長崎研究所で9ヶ月間1つのテーマで研究する。船に使用するプラスチック材料(FRP、ナイロン、ウレタンフォーム)などの実用化研究に3年間従事した。船の軽量化、スピード化のためプラスチック材料が多く利用された。FRPが出始めた頃である。潜水艦の船首にレーダードームというソナーに探知されないようFRPで試作が行われた。船の中で強度メンバーにはまだ使う段階でなく艤装品に適用することから始まった。船に装備されるボートの格納箱のFRP化、断熱材としてLNG船の発泡ポリウレタンなどの現場発泡の研究開発実験を始めた。
化学技術者が造船所に少なく数人しかいないのでいろいろな化学関係の仕事をやる。仕事は始めてのことばかり。自分も初心者でベテランでない。この様な状態は自分が旨く技能が磨けるか不安になるものである。振り返って考えるとこの経験は捨てたものでない。全て自分が開発しその軌跡が残ることになる。しかし最初の3年ぐらいはやはり素人の域を出ない。
造船に化学技術がかなり使われている。原動機部門ではボイラーの水処理は厳密な化学処理がなされており熱交換チューブの腐食防止のための技術研究がなされている。
造船が化学機械、エンジニヤリング、製鉄機械、発電装置など総合機械メーカーに変身をしつつあった。
入社から3年たつ。広島造船所に研究部門を設置することになり長崎研究所から分離し技術者が転勤した。私はその中に入っていなかった。私は個人的には材料の研究より化学機械のエンジニヤリングの技術分野の仕事の志望が強かった。広島行きを志願した。同期の人が行く予定をチェンジして私が転勤することになる。昭和37年10月である。昭和38年4月姫野もと子と結婚する。
この転勤は私の今後の仕事に転換をもたらした。1つの転機になる。チャンスを生かすことが大事だと思う。
広島では公害防止の研究が始まる。四日市ぜんそくが問題になる。大気汚染防止法ができた。発電所の排気ガスから亜硫酸ガスを除去する技術研究が始まった。(つづく)
広島研究所時代1963年(昭和38年)から1979年(昭和54年)
2007.04.08
この頃の数年前の昭和34年本格的なテレビの時代に突入する。現天皇、皇后のご結婚が
この年で、この世紀の祝典を見たいがために、一気にテレビ受像機が普及する。
僕らは頑張った。戦争に敗れ、価値観が変わり、民主主義が広まる。自分を捨てて、豊かな生活のために、働きづめに働く。高度経済成長から経済大国になる。時代は変わりもはや戦後でないとなる。働き過ぎは社会の害毒などといわれる。
私の仕事について語る。

脱硫技術の開発
高度成長期は公害問題で四日市ぜんそく、水俣病が発生する。
私は発電所の排ガスによる大気汚染防止の研究開発に没頭する。その頃大気汚染防止技術はどれがよいか研究開発が進行していた。石灰で洗浄する方法、アンモニアで洗浄して硫安にする方法などがあった。東亜燃料の和歌山の技師が広島に泊まりこみできて我々の技術のデモンストレーションを1週間見ていった。また和歌山の堺工場の煙突の下にパイロットプラント(実験装置)を設置し新しい装置のテストを実施した。洗浄して大気から除去するとともに回収物を有効に又無害にすることが求められていた。脱硫技術といわれ、様々な方法、装置について試行された。
イギリスのロンドンのテームズ川上のスモグは石炭発電所の排ガスを石灰乳で洗浄した排ガスが棚引いたものである。この方法を換骨奪胎して現代にマッチする技術に仕上げるのが役目であった。
その頃住宅建設が進み建材に石膏が用いられ需要が伸びていた。またセメント材料にも石膏が使われた。そのため回収物を利用しようとそれの品質まで高めることを目指した。一方アンモニア法では回収物が肥料の硫安になるのでその品質が厳しくチェックされた。一時回収硫安の品質か悪く肥料としてのテストに不合格が出たりして問題となった。発芽テストで生育不良である。アンモニア法回収硫安はその後余り需要が伸びないことも分かり脱硫技術は石灰石膏法に集約することになる。以上の2つはアンモニア水や石灰水を使うので湿式法といわれた。
他に水を使わない乾式法がありそれについても研究開発が進められた。活性炭法とマンガン法があった。これら4つの方法について研究開発が数年競争してなされた。金もたくさん使い、失敗もたくさんあった。経済性、回収物の有効性などで最終的に石灰石膏法に凱歌が上がる。石灰石膏法が主流になってからも数年間この方法の改良研究が続けられた。たかが亜硫酸ガスをアルカリ液洗う方法に血のにじむ研究をと思われる人もいるだろう。どの方法製品でも技術がいり沢山の技術を集めたその塊であることを実体験、経験した。「プロジェクトX」番組で新幹線、ビデオの開発物語をみて我々もこれと同じような開発をして日本の技術開発に寄与してこれた誇りを感じている。

脱硝技術の開発
脱硫研究が一段落した頃窒素酸化物による公害の研究の時代となる。これも排ガスに含まれ光化学スモグの原因である。はじめは湿式で始まる。そのご乾式法が勝ちを制した。窒素酸化物を除去する方法を脱硝技術という。これも我々が作った造語である。
これの開発物語もある。かいつまむと触媒を使いアンモニア注入し300度cで窒素酸化物を窒素に還元する方法である。
この研究を数年続ける。川崎製鉄所水島に出張しパイロットプラントによる研究開発をする。煤塵の影響、温度による性能変化を調べる。つまり防止のための板状触媒の開発をする。この研究は触媒の探索研究であり触媒化学の要素技術が基礎に必要である。排ガスには触媒を劣化する物質も含まれ触媒の寿命が研究課題になった。寿命の予測研究には長時間のテストが必要であり開発も大変であった。

発電所の煙突を見るたびにこの発電所に脱硝装置、脱硫装置が付いていることを感慨深く想い眺めている。

1980年
時代は流れ公害が一段落してエネルギー問題がでてきた。石油の高騰・枯渇不足でトイレットペーパー不足買占めという社会現象がおきた。石油は後50年ぐらいで亡くなり天然ガスは100年といわれた。新燃料開発にすすむ。余談だがその後20年たった現在も石油埋蔵量はあと50年といわれている。20年の間に新たに油田が見つかっているのであろう。
石油精製プロセス・触媒の研究に従事する。
新燃料油研究組合に参画する。石油会社と共同研究して国の補助金を貰い5年近く研究する。天然ガスからガソリンを合成する研究である。石油の埋蔵に比べ天然ガスの埋蔵が多いこともあり進められた。モービルのゼオライト触媒がメタノールをガソリンに効率よく変換できることが発表された。またカナダのオイルサンド、米国コロラドのオイルシェール、ベネゼラもオリノコ原油(重質油)からの軽い油の回収のための研究組合ができこれにも参画した。
これらの研究のお陰で触媒研究の技術者も育ち研究者も増加することができた。私は主任研究者になり管理的な仕事に就く。またカナダ、米国、ベネゼラなどに出張し技術交流を深めたりした。
その後30年たつがエネルギー問題と環境問題は切り離せない我が国の重要な課題である。我が国は石油依存を脱却しているがいまなお重要性は変わらない。天然ガス、原子力などのエネルギー政策とともに省エネルギーにも向かわないと何時又エネルギー問題が起こるかしれない。環境、食料と安心安全な世界を築くには政治と技術の知恵が必要。無駄な投資はできないはず。中国が成長しエネルギー消費が増えるとまたエネルギー戦争が起こる。
原子力の問題は発電コストが安いといわれているが後始末(廃棄物)の問題が解決されていないので本当に安いか問題である。原子力は、環境問題で温暖化問題でCO2の排出が少ないといわれている。しかし原子力は安全性の問題がいつも付き纏う。バランスと安全を考えると私は原子力に反対の立場である。自動車と比較され事故による死者が少ないといわれるが不可欠であろうか。これからは安全安心を望む機運にある。貧困の克服、経済の成長と環境と安全安心は食物でも当てはまる。
私が会社員の頃は経済至上であった。国は豊かになったが歪みも出た。これの反省が必要である。
ギリシャ、ローマの歴史を視ると人間の幸福は戦争から人を守る、食料の不安をなくすことが政治、為政者の務めであった。安心安全は人類にとって古来から大事なものである。経済と政治と技術をコントロールし、いかに幸せに暮らすか。タミフルの問題、教育の問題医療問題など優先順位を考える。ギリシャが滅び、ローマも衰退する。日本も沈没?しないように。

エネルギー開発のほかに、技術開発による省エネルギーおよびムダの排除(省資源)が求められる。
生き方も大事。スローライフ。日曜日に薬局以外商店は休む。自家用車を規制し、バス、自転車を使う。健康にもよい。作り過ぎない廃棄物が出ない。使い捨て禁止。レジ袋の有料化。再利用。太陽熱利用。もったいない思想。小さな家(簡素なもの)、小さな自動車などなど。

エジプトの文明は5000年である。
ギリシャでは2500年前の劇場が今も使われている。
ローマの下水道しかり。
たかが60年の自分史に比べ桁が違う。

変わるもの
 生き物 物
変わらないもの
 哲学 真善美 

誕生から社会人になるまで

高橋直之のプロフィール     平成19年7月29日記
誕生から社会人になるまで
高橋一正、ハルの長男として昭和11年7月4日朝鮮釜山で生まれる。妹が3人いる。浩子昭和13年6月18日、恭子 昭和18年12月18日、雅子 昭和25年3月16日生まれる。かなり歳が離れている。父は、昭和10年3月高千穂高商を卒業と同時に満州中央銀行に就職する。日本がアジアに進出していた時代の要請と給料の高い外地就職を望んだのであろうか。昭和10年10月に祖父高橋粂之丞の養女高橋ハルと結婚する。つまり血の繋がらない妹との結婚である。住居を満州の新京、今の長春に構える。
母は、佐賀県杵島郡東川登村の出身で祖母の連れ子として釜山に渡り、釜山高等女学校を昭和6年卒業し東京の駿河台女学院家政科に入り昭和8年卒業する。その頃父と出会っていた模様。
直之1
母
家族














 



祖父母の大家族の中の父母。朝鮮の釜山にて。昭和10年ごろ。
右から和田トモエ叔母、沖コトネ叔母、高橋艶子叔母、前列左から川崎清子叔母、祖母キサの隣高橋静子叔母です。
下の写真は私が1歳と1歳半の正月の時の写真。新京にて。
直之直之2
 

祖父は心臓弁膜症の病気で、昭和16年福岡に転居、19年に屋久島に転地療養のため移住した。20年5月61歳で亡くなる。

祖父高橋粂之丞は立志伝中の人のようで、四国の愛媛県で農業をしていたが、それを止めて、大正の初め頃 1家で渡韓し朝鮮釜山で郵便局を開いた。昭和2年頃、祖父は子供4人と再婚したキサの子供4人の大家族を養っていた。父は一人男子で連れ子のハル(私の母)と結婚する。前記の写真に写って無い人は原田種年、種久の叔父です。
私は最初の孫であり一番可愛がられた。昔の人の寿命61歳で死んだ祖父は屋久島に療養に行っていたので私とは一緒に長い時間過ごせなかったにもかかわらず思慕が私の心に残っている。祖父たちと阿蘇の旅行のときの写真です。火口の近くでロバに乗った珍しいものです。
父は、祖父の病気療養もあり昭和18年満銀を退職し1家で内地に帰国する。結果的には終戦前の帰国になった。そのため幸いにも終戦時の引揚げの苦労はしなかった。終戦まで満州中銀にいた人たちは抑留されたり命からがら脱出帰国の辛酸を舐められたとの話を聞いた。思うに2年後の帰国であれば我々子供が残留孤児になっていたかもしれない。人の運命はどう転ぶか分からない。
直之小学校



昭和18年、私は福岡博多の吉塚の国民学校に入学した。昭和16年には小学校が国民学校に変わっている。父が安田銀行小倉に再就職したので福岡から小倉に移住した。小倉の中島国民学校に11月転校する。空襲警報が鳴り米軍の爆撃機B29が飛来し防空壕に避難したり空襲による火災を防ぐため家を間引き壊されたりした。B29が飛来するとサーチライトが夜空に照らし出され高射砲が撃たれるが飛行機はそのはるか上を飛び当たらない。小倉は激しい爆撃はなかった。子供であったので花火を見るようなきれいな夜空の記憶が残る。父に召集令状が来て、小倉の基地に行く。戦争が激しくなり小倉の空襲が頻繁になり、父を残して母の故郷の親戚森千代さんを頼り佐賀県朝日村の田舎に疎開した。昭和20年8月3年生の時3回目の転校で甘久に落ち着いた。朝日国民学校である。そこでもたまに警戒警報を聞いた。田舎の学校はのんびりしていた。学校の傍らの川をプールのように仕切り水泳をしたりした。
昭和20年8月15日終戦となる。やっと苦しい暗い時代も終わったんだという皆の明るい気分を子供心に感じた。学校の行き返りの道は長く遊び遊びしながら近くの友達と一緒に山道を登下校した。戦争も終わり何時までも親戚の家に居候するわけにも行かず隣町の武雄に21年6月引っ越した。小学校4度目の転校である。24年武雄小学校を卒業する。
24年4月〜8月まで武雄中学校に通う。父は富士銀行長崎支店に転勤した。長崎は原爆の後で住宅事情が悪く家がなくしばらく別居した。アパートが建てられ昭和24年9月入居できた。戦後建てられたコンクリートの4階建ての近代的アパートである。水洗式のトイレがあり、台所にハッチあり食事を出し入れできた。
私の片渕中学3年間我が家は一番下の妹雅子も生まれ祖母も含め7名の大家族で育ち盛りの子供を抱え家計のやり繰りに母が苦労していたようである。質屋に着物を入れに行く姿が記憶にある。
高木武彦君と無二の親友になり一緒に勉強したり、高木君の蔵書太閤記を借りて読んだりした。夏はねずみ島に毎日通い水泳を楽しんだ。朝鮮戦争が起こり特需の始まりと日本経済の復興がなされた時代である。
家族26年




昭和26年11月父は門司支店に転勤、家族は翌年昭和27年5月に移動、私は4月〜門司東高等学校に首席で入学した。大学受験の勉強を一生懸命した。東大を目指したが失敗する。小倉の予備校に通う。昭和30年3月卒業し1年浪人して九州大学工学部応用化学科に入学した。
大学時代は山登りなど楽しんだ。九重に九大の山の家に何回か行く。理科系のため全学連の活動 スト参加など参加しなかった。
昭和35年3月卒業した。その頃の就職事情は売り手市場であった。三菱重工に就職する。
父が銀行員で転勤が多く子供は転校が多い。多感な青春時代。人並みに悩みがあり読書に励んだ。ヒルテイの「眼られぬ夜のために」「幸福論」など愛読した。YMCAに参加し聖書の研究をした。
妹浩子とは2つ違いであるが後の2人とは年齢が離れているせいかあまり遊んだ記憶はない。上の写真は門司の家での写真です。
大学に入ってから家をでた。

私の戦後70年(回想)

1945年昭和20年8月小学3年生9歳であった。疎開先の佐賀県武雄市にて敗戦を迎えた。物心つく頃。戦争が終わったという皆んな回りの明るい雰囲気を感じた記憶が残っている。田舎で物の無い貧しい時代遊び回る。
1949年(昭和24年)銀行マンの父の任地である長崎市に移住する。片淵中学校に入学する。
いま思えば原爆の惨状などかけらもなく復興していた。原爆の話を聞く事もなかった。
これが米国占領下の日本であった。
1950年(昭和25年)朝鮮戦争勃発する。学校で韓国に中国軍が押し寄せ、特需があり造船所の華やかな進水式見学など大きな変動を感じた。
1951年サンフランシスコ条約で日本は世界秩序へ編入された。
好むと好まざる関係なく、疑問を挟む事もなく日本は復興していく。
1952年(昭和27年)16歳。父の転勤で門司に移る。高等学校に入学する。
中学3年間、高校3年間は体育が苦手で勉強ばかりしていた。高校には首席で入学した。東大受験を目指していた。最終的に1年浪人して九大と早稲田理工に合格した。近くて国立の九大に入学する。
1956年(昭和31年)20歳のときである。4年間の大学生活を楽しむ。周りの同期生は九州一円から集った優秀な人々であった。理系のため実験などあり勉強はサボる事できなかった。授業は難しくテストも厳しく難儀した。普段あまり勉強しなかった。卒業後同期生の話では皆そういう話をした。
就職は売り手市場であった。担当の先生の采配と成績で就職先が割り当てられた。
私には三菱造船と荏原製作所が割り当てられた。三菱造船には九大理学部の先輩が入社しているという話で大手であり三菱造船長崎に入社した。
1960年(昭和35年)24歳の時である。
3年後三菱造船広島造船に転勤した。若かったせいか、長崎の仕事より広島の仕事が私にとって魅力的で将来性がありと判断して会社に申し入れ、これが認められた。
広島での仕事は公害防止関係のプラントの開発であった。化学工学を一から勉強し直した。
自分なりの研究開発で力を発揮した。排煙脱硫と窒素酸化物の除去など、日本で初めて世界でも初めての技術であった。
プロジェクトXというTVのドキュメントの世界に類似している。
高度成長の良き時代であった。
その後のサラリーマンの会社生活、第2の人生について別に記した。
簡単な戦後70年である。
今迄私の歴史観はアメリカ流歴史観を受け入れてきた。これが妥当なのか考えるこの頃である。
歴史(教育)で歴史観、価値観、生き方が変わる。
3歳の孫がいるがこの子の世代には原爆、戦争、原発(エネルギー)、隣国との関係、国の形ついて正しい選択を歴史から学んで欲しい。

2014年回顧

手帳を見返し今年の出来事を下記にリストアップする。
今年のビッグイベントは5月の軽井沢への引越しと夏の西穂高登山である。
1月18〜19日岳の会で水上温泉雪歩き
22日岳の会有志石割山ハイキング
2月22日岳の会幕山ハイキング
23日男性料理教室
3月22日岳の会御岳山ハイキング
23日玄海で操法事
30日岳の会身延山ハイキング
4月4日九大同窓会
4月13日岳の会高尾山ハイキング
26日岳の会浅間尾根五日市ハイキング
5月17日岳の会倉岳山ハイキング
5月25日軽井沢に引越し
8月13日〜15日西穂高焼岳登山
24日旧軽井沢三笠ハウス管理組合総会
風越公園の体育館でトレーニングとプールに月に2回ぐらい参加する。
追分にある「木もれ陽の里」施設で腰痛対策としてリハビリ(ストレッチ体操と筋肉トレーニング)を10月から始める。10年来の慢性腰痛で腰に若干の痛みが取れない。腰を中心のストレッチ体操は効果があるようだ。
森の中や街中を歩いたり、バスや電車で図書館や買い物をしたりの軽井沢生活にも慣れてくる。
短い爽やかな夏が終わって秋の紅葉が過ぎると長い寒い季節がやってくる。
今年は初めて経験する軽井沢の冬である。

今年の回顧を昨年と比べる。ハイキング、家族旅行が半減する。今年前半6月までは岳の会のハイキングに参加した。夏の北穂焼岳縦走は久しぶりの3000m級の山でした。クリアでき私の記念碑である。これで登山も卒業か。
自分史永和会、走友会はご無沙汰である。
年3回の同窓会は皆勤である。

株式会社アウン・プエンテの支援として経理を手伝う。月次決算 と税務を毎月実施。
中小企業の経営指導は難しく厳しいものである。経済的基盤確立が課題である。

旧軽井沢三笠ハウスの理事長を今年度まで引き受けた。理事2名が交代し、新理事が決まる。役員輪番制の始まり。これの定着を図る。理事の役割を果たすには問題意識と学習が必要である。コミュニケーションをよくしノウハウを伝えていくことにする。懸案事項をまとめた。管理費のコストダウンによる組合の経済的基盤の確立、防災対策などである。後継者育成し引退予定します。

軽井沢は東京に近い。その割に田舎らしいところもある。隠居生活の我が身には夏が過ぎると観光客も少なくなり静かな暮らしがおくれる。
この冬の暮らしを思案している。寒いのでインドアである。
考えられるもの………
⚫️読書である。日頃読めない古典など時間をかけて読み楽しみたい。
⚫️囲碁仲間をみつける。碁会所を開拓する。
⚫️隠居生活:英会話、料理をマスターする。
⚫️ジョギングをどうするか。


初孫の誕生

takahasi hare
2012070416140000生まれて2日目の写真
2012年7月3日16時に東京女子医大で初孫・姫「高橋晴」誕生。「はる」といいます。私の誕生日7月4日が予定日であったが、1日早く生まれました。私へのこの上ないプレゼントです。母子とも健康で赤ちゃんの体重3500gあり、しっかりした顔をしている。孫は可愛いものである。24時間もの陣痛の末の誕生 本当にご苦労さんとしか言えない。

自分史永和会 センター祭りで展示

平成20年7月19日〜20日に永福和泉地域区民センターで開催された「センター祭り」に自分史永和会は1年間の成果である自分史関連資料を展示した。会員は今5名で各自自分史関連資料を持ち寄り発表し研究研鑽しています。「自分史編集にパソコンを活用しよう」を合言葉にしています。興味ある方はご参加下さい。月1回の開催です。杉並地域活動ネットの自分史永和会に例会案内、活動報告を載せています。自分史永和会 画像をクリックすると拡大します。






坂本清助さんのブログ「KE2センター祭り2展示内容の変化」「KE5センター祭り5展示資料」に坂本さんが自分史永和会を紹介しています。


Y氏はヨルダン便り、スリランカ便りを発表。

・ ブログで綴る自分史の紹介 高橋直之 平成20年7月19日
下記は 私のCategoriesのリストです。左にある「Categoriesの項目」をクリックすると詳細見ることができます。
技術
 エネルギー問題雑感3 石油高騰の対策
  エネルギー問題雑感2
  エネルギー問題雑感
  技術革新をどうすすめるか
2008年03月08日 技術革新の鍵: 技術革新・戦略の立て方
2005年07月05日 研究開発コンサルティング: 研究開発業務、実績
2005年07月03日 技術経営(特許): 特許明細書を作成・指導
2005年07月02日 技術経営: 技術導入、共同研究
2005年06月29日 研究開発(4): 方針設定と管理
2005年06月23日 研究開発(3): 研究開発の具体的進め方
2005年06月15日 研究開発管理のプロセス(2):企画から実用化まで
2005年04月11日 研究開発の原理原則(1): コスト削減と高付加価値製品への展開
2005年03月05日 科学立国の危機: 予算、理科系人材育成

百名山
  昨年(2007年)で100名山登山終了
海外旅行記
2007年4月エーゲ海クルーズとギリシャ大周遊10日間 


4 2005年
海外旅行記
2006年5月北欧旅行記、2005年12月中欧旅行記
2005年4月トルコ旅行記
5 2006年
料理
6 2007年
高橋直之のプロフィール
 |太犬ら社会人になるまで
 自分史 1960年から会社員時代
 9島研究所1963年昭和38年から1979年昭和54年
 ぜ分史 還暦から10年
その他
 健康ジョギング読書感想考えること、ブログの作り方

自分史永和会

2006.11.12自分史永和会の11月例会に出席。

杉並区の地域活動団体の1つの当会に2005年12月から入会している。
活動内容はすぎなみ地域活動ネットの団体名「自分史永和会」に載っている。団体一覧の教育・学習の「自分史永和会」にたどり着いてください。日時場所内容がわかります。
自分史編集と資料収集をしている。パソコンを活用している。パソコンに不慣れな人にも会員が指導しています。現在5人の会員でこじんまりと和気藹々と活動しています。関心のある方、入会ください。


会員の坂本氏を紹介する。会の代表をしておられる。(11月から山口氏に変更)
坂本氏は「太平洋戦争と戦後の情報処理実務体験記」ホームページ容量100MBにまとめられている。最近「情報処理実務体験記 団塊の世代の人々へ」に更新されている。

坂本氏のホームページは自分史そのものです。自分史は現在を充実するための過去を記録し活用されている。誰でも過去のことを一過性で忘れ去っている。過去に学び反省し活用することで現在の生き方が充実するように思う。これが自分史研究会に入った私の動機である。

同窓会

同期会

昭和35年(1960)卒業九州大学工学部応用化学教室同期会

2006年4月21日(金) 12:00から14:00 @日本外国特派員協会 有楽町電気ビル北館20F

出席者19名
天野、石井、岩佐、上田、梅田、大塚、河内ススム、河内政、副島、高橋、竹下、谷村、茶谷、永淵、中村保(幹事)、東、宮田、山本、横田

ビュフェスタイルの飲食で会費7000円。各自近況を話し歓談した。横田君遅れて参加。

次回2007.4.20同じ場所 幹事 永淵、竹下
Archives
Recent Comments
Profile
aun1/愛犬リク
略歴
1936年7月4日生
1960年3月九州大学工学部応用化学卒
1996年9月大手M重工業蠶蠻退職
1994年4月中小企業診断士取得、96年〜自営
2001年9月7日株式会社アウン・プエンテ取締役
東京都杉並区在住
得意な分野:研究開発、化学工業、環境、経営、パソコン会計・経理、など
主な著書
●生産管理実務便覧(共著)/通産資料調査会
●廃棄物の処理技術(共著)/工業調査会
●石油化学原料対策(共著)/石油学会
趣味:百名山(2007.9完登)海外旅行、ジョギング
団体:自分史永和会
訪問者数
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

知人のホームページ
  • ライブドアブログ