イギリスの大人気自動車番組「Top Gear」でおなじみのジェームズ・メイが英「The Sunday Times」に寄稿した試乗レポートを日本語で紹介します。

今回紹介するのは、フェラーリ・488GTBのレビューです。


488GTB

スーパーカーは人類の発展とは無関係だ。もちろん、そんなものはたくさんあるが、スーパーカーはその典型的なものだ。スーパーカーはわがままで尊大で、なにより空虚で、こんな車を買うのは馬鹿しかおらず、実世界では何の役にも立たない。しかし私はそんなスーパーカーが好きだ。

しかし、フェラーリ・488GTBのような車は、驚異的な空力性能や最新の電子制御システムやその他諸々が満載されており、あまりに有能ゆえに、レーシングドライバー以外にはその真価を発揮することは難しい。

これは超高性能車全てに言えることだが、最近のフェラーリにはどこか不足を感じる。どれほど車と一体となろうと努力しようが、フィオラーノのフェラーリのテストコースでステアリングを握って四苦八苦している時には、488の真の実力を理解することはできない。

F1カーと同様に、488は速く走るたびに良くなっていく。しかしそれは理論の上の話に過ぎない。可変式の空力部品や駆動力配分アルゴリズムは乗っている人間が容易に認識できるものではない。それゆえ、488の限界は数学に対する信頼をもってしなければ生まれない。488を信じなければならない。もちろん、488は速く走ってくれるだろう。しかし、私にはそれが信頼できない。普段、自転車や平凡な乗用車に乗っている私からすれば、そんなことをそう簡単には認めることができない。

これは難問だ。1975年の308GTBに始まるフェラーリのミッドシップV8車の歴史は、必ず先代よりも速いことをポリシーとしていた。この速さは、スペック上の速さではなく、フィオラーノでの本当の速さのことだ。サーキットでの速さはなによりもシャシの良さに依存するが、それでもパワーも重要だ。

ではこの、賛否両論ある新型ツインターボV8について話そう。フェラーリの親会社であるフィアット出身のフェラーリの新会長、セルジオ・マルキオンネは、フェラーリのCO2排出量をバランスさせるためにハッチバックを発売するようなことは絶対にしないと宣言している。

しかし、フェラーリのCEOにして開発担当でもあるアメデオ・フェリーサは、過給器の使用は不可避だったと語っている。自然吸気のV8エンジンでさらなるパワーを得るということは、排気量を大きくしたり(ピストンが巨大化してしまうため難しい)、レブリミットを上げたり(部品の強度の限界があるため難しい)、気筒数を増やしたり(エンジンが巨大化してしまうため難しい)することを意味する。つまり、何よりも賢明なのは、ターボチャージャーを使うことだった。

我々のような年代の人間にとって見れば、ターボとはどこか応急処置的で粗い手段のように見えたり、あるいはディーゼルエンジンのためのものに思えたりするかもしれない。アメリカのマッスルカー好きならば、排気量に変わるものなど存在しないと言うことだろう。

しかし、ターボチャージャーは明らかに排気量に代わるものとなる。ターボチャージャーはエンジンの燃焼に必要不可欠な空気を強制的に送り込むことにより、パワーを増大させる。かつて存在したターボラグという恐怖は電子制御技術の発達により消滅し、スバル車のような田舎っぽいウェイストゲート音は排気音に掻き消されている。

結果、458イタリアよりも排気量は600cc近く減っているにもかかわらず、出力は100PS以上向上している。それに、エンジンは軽量・小型化され、搭載位置も低くなった。

しかし、12歳の子供が駐車している488のエンジンカバーをのぞき込むと、エンジンはしょぼく見えてしまう。その小さなエンジンからはもはや威厳が感じられなくなってしまった。

トランスミッションも他の全てと同様に非常に神経質に作られている。例えば、変速感を強く出さないためにトルクは低速ギアでしか出なくなっている。それに、エグゾーストノートや限界を超えた時の音は明らかに硬派な人間を喜ばせるためにチューニングされている。とはいえ、新しいターボエンジンを従来の自然吸気エンジン風に偽ろうという欺瞞は存在しない。

かつての458は最後の数千回転に隠れた楽しみが存在した。エンジンは活き活きとして、やましさを感じながらも悦びが感じられた。

James

しかし、こんな楽しさはターボエンジン化により失われた。高回転域ではターボチャージャーの限界となり、排気系に問題が起こる。その代わり、中回転域では最高の仕事をしてくれる。実際、488では458以上に実用パワーが出ているそうなのだが、実際に運転してみると当惑してしまう。

要するに、悦びを感じる暇もなく予想以上に早くレッドゾーンに到達してしまうし、ステアリングにあるギアチェンジを催促するライトは、458のような邪魔なものではなく、むしろ必然的なものとなっていた。488は確かに速いのだが、そこに感じられる速さはどこか機械的な速さだ。

とはいえ、エンジン音には吠えるような楽しさが残されているし、新世代のタービンらしさも感じられる。しかし、耳ではなく心の中でこの音を聞けば、このエンジンの驚くほどの滑らかさを感じ取ることができるだろう。現代的で進歩的なのだ。もう過去は終わり、次世代に道を明け渡す日が来たのだろう。

私は488GTBの予約を辞退し、代わりに最終型の458スペチアーレをオーダーしたのだが、488の見た目はとても気に入った。458は美しくて女性的だが、488はフロントエンドがどこか角張っていて男性的な格好良さを醸し出している。デザイナーは空力性能担当の技術者との戦いに勝利したようだ。唯一、ドアハンドルを除けば。

何を考えているのだろうか。聞くところによると、このドアハンドルの形状のおかげで空気がリアインテークに直接流れるそうだが、実際のところはデザインチームが遊び呆けてドアハンドルの形を忘れてしまったようにしか思えない。その場しのぎで付けたドアハンドルに、後付けの理由を加えたようにしか思えない。

他にも記載するべきことを書いておこう。エアコンは少し弱い。乗り心地はこれだけの車にしては驚くほど良い。それに、私の愛車の458のように運転席側のパワーウインドウスイッチが使おうとした瞬間に取れてしまうようなこともなかった。

ナビは依然としてメーター内に小さく表示されるだけだが、かなり分かりやすくなった。とはいえ、どんぐりの背比べであることに変わりはない。

しかし、何より重要なのは以下の疑問だろう。488GTBも注文できたのに、あえて458スペチアーレを注文した私は正しかったのだろうか。

その答えはイエスだと言いたいところだが、そうもいかない。488は素晴らしい車であるだけでなく、今の時代に合っている車だ。私はターボのフェラーリの登場を本当の終わりだとは思ってはいない。これはあくまでも始まりの終わりだ。

どうも、フェラーリの工場で働く怠け者の社員はまだ私の458スペチアーレを作り始めていないようで、おかげでここで決心を変えることもできた。しかし、そうするつもりはない。

どちらも膝が震えるほどに素晴らしい車だ。それぞれが全く違っており、それぞれに酔わせてくれるキャラクターがある。こちらのフェラーリを契約してしまったのは間違いだったのだろうかという問いは、保険や携帯電話の契約とは全く別の話だ。とはいえ、どちらにしても母親には意味のない車だと言われることだろう。

しかし、488GTBは疑いの余地なく実力では458を打ち負かしている。とはいえ、どちらを買っても誰も褒めてなどくれないだろう。


James May drives the 2015 Ferrari 488 GTB