今回は、イギリスの大人気自動車番組「Top Gear」でおなじみのジェームズ・メイが2011年に英「Telegraph」に寄稿した馬力競争に関する問題をテーマにしたコラム記事を日本語で紹介します。


S65 AMG

たまに、もしメルセデス・ベンツ Sクラスに搭載されている8つのエアバッグが同時に作動したらどうなるのだろうか、と考える。もし窓が全部閉まっていたとしたら、行き場のなくなった空気はどこに行くのだろうか。ひょっとしたら、乗員の頭は圧力によって押し潰されてしまうのではないだろうか。

そもそも、そんなにたくさんのエアバッグが果たして必要なのだろうか。もちろん、付けられるものは付けたほうがいいと考える人もいるだろうが、エアバッグの多くはエアバッグ競争によって生み出された遺物でしかないのではないだろうか。1990年代当時、エアバッグは車の必需品であり、エアバッグが付いていたからこそ車が売れた。

運転席エアバッグが普及すると、今度は助手席エアバッグが登場し、助手席エアバッグが付いている車が売れるようになった。それからすぐ、シートエアバッグやカーテンエアバッグ、ニーエアバッグ、トランクエアバッグなどが続々と登場した。今の車には、海底深くに沈んだ戦艦すら引き上げられるほどの量のエアバッグが付いている。

しかし幸いないことに、今やエアバッグ競争は停滞状態に至っている。

同じような例はほかにもある。かつてはサンルーフ競争もあったし、エアコン競争もあったし、CDプレイヤー競争もあったし、木目競争もあった。最近では、カップホルダー競争なんてものもあった。カップホルダー競争では最終的にサーブが勝利している。当時のサーブには、蒸気機関車のワルシャート式弁装置なんかでは相手にならないような複雑な構造のカップホルダーが付いていた。

とはいえ、カップホルダーは車自体に大した影響を持たない。しかし、今の自動車業界では、車の中核を担うものを競い合う闘争が始まっている。それこそが、馬力だ。

馬力は素晴らしいものだ。しかし、馬力があれば便利な一方で、馬力が過剰になるとそれが危険へと繋がるおそれもある。

私は、運転する楽しさは、パフォーマンスの絶対的な量ではなく、パフォーマンスの伝わりかたに依存すると考えている。マツダ・MX-5はさして速い車ではないのだが、運転しているときに伝わる感覚は際立っており、ハイパフォーマンスカーと呼ぶことができる。

音楽にも同じようなことが言える。私もショパンの嬰ハ短調「遺作」をピアノで演奏することはできるのだが、私がベーゼンドルファーで演奏するよりも、マウリツィオ・ポリーニが安物ピアノで演奏したほうがずっと良い演奏になるだろう。

にもかかわらず、我々はやたらとスペックにこだわるようになり、車の本質を見失いかけている。しかしどうしてだろうか。私は諸悪の根源を見つけた。

時は1972年まで遡る。その年の私の誕生日、プレゼントとしてスポーツカーのトップトランプを貰った。フォルクスワーゲン・シロッコやロータス・エリートがまだ登場していない頃の話だ。

当時、私はコートに隠したトップトランプをこっそり学校に持っていった。最近では芸能人のトップトランプが人気のようだが、当時人気だったのは車や戦闘機で、カードに記載されていた情報は少ししかなかった。エンジンの形式、排気量、最高出力、最高回転数、最高速度、そして価格だ。

トップトランプを知らない人のためにルールを説明しよう。プレイヤーは裏返しにした手札からカードを一枚引く。そのカードが相手プレイヤーの出したカードよりも強ければ勝利となり、相手のカードを奪うことができる。逆に、相手のカードよりも弱かった場合、相手にカードを奪われる。

一見、分かりやすそうなゲームではあるのだが、そう単純ではない。カードの強さは車のスペックで決まる。基本的に数字が大きい方が強いのだが、価格に関しては安いほうが強い。つまり、ゲーム設定次第では、1,689ポンドのトライアンフ・スピットファイアが17,487ポンドのフェラーリ・365GT BBを負かすことも可能だ。

とはいえ、365GT BBが手札にあれば勝利はほとんど決まったようなものだ。360馬力というスペックは、同じフェラーリのデイトナ(352馬力)にも、ポンティアック・ファイアーバード トランザム(294馬力)にも勝っている。

つまり、自我が形成される幼少期に、馬力こそがすべてだと信じ込んでしまう。230馬力のポルシェ・911RSや114馬力のランチア・フルヴィアHFを大したことない車だと思い込んでしまう。

そうして現状に至る。かつてトップトランプで遊んだ子供たちは40代になって、600馬力のメルセデスこそが、人生というゲームで勝利するための最強の手札だと考えるようになってしまった。

トップトランプが自動車業界を破滅に追い込んだのだ。


Why are we so obsessed with meaningless performance figures?