2007年11月27日
放浪記
何かを創造するということは、その背景に、創造した本人でも気づかない程の無数の創造が存在していたということなんだと思う。
過去の創造が現在の創造を生み、現在の創造が未来の創造を生む。
そしてひとつの創造が もうひとつの創造を生むのではなくて、
ひとつの創造は多数の創造を生む。どんどんと派生していく。
創造って、絵を描いたり。音楽を作ったり。料理を作ったり。
じゃなくても、創造なんだと思う。というか、私達のしてることって殆どが創造活 動なんじゃないかと思う。
疲れて何にもしない日があるとする。でも、それって次の日の元気な自分を創造してることかも知れない。(都合よすぎか・・・)
なんか、上手くいかなくて途中までやりかけたことを白紙に戻すのだって、長期的に見れば創造だ。
捨てたり、休んだり、破壊したり、「創る」こととは対極にあることって、実は
「創る」ために必要なエネルギーなんだと思う。即ちそれも創造のうち。
すぐ忘れてしまうような他愛のない話をしたとしても、その後で心が温かくなったら、それもそれで創造だ。内容なんて覚えてなくていい、くだらなくていい、それでも残るものがある。
そして私の願い。自分の行動が 誰かの創造に役立てばいいな。と思う。
自分は何も形に残すことはなくても、些細な形で創造のエネルギーを創ることはできるんじゃないかと思う。
そして、毎日の生活の中の名前を知っている大切な人達、名前を知らない大切な人達、みんな創造者だ。その人達の創造のお陰で、今私は今の時間を生きている。
avril24tom58 at 17:37|Permalink│Comments(1)
2007年10月06日
von voyage.
旅に行きたいのは、やまやまですが 一番良いのは、日常を旅することだと思うようになりました。例えば、ヴェネツィアに行ったって、マラケシュに行ったって、
自分の心の眼が開かれていなければ、全く旅をした意味がないわけです。自分の住んでいる陳腐で平坦な区域、日常。それを、どう旅するか。どう味付けするか。そっちの方が楽しいのかも・・・と。自分の歩く道を同じ歩幅で歩いたとしても、見開く眼をミクロにしたり マクロにしたり そんな作業を通せば、日常だって新奇で魅力的な旅路になる。毎日会う同じ人でも、その人の中に新しいものを見出せば良いんです。事柄は、ただ存在するのではなく、見る私や 見るあなたの眼に本当は宿っているんです。
高校の時の教科書に「アミ二ズム」という言葉が出てきた日本人はありとあらゆるものの中に神を見出す」という意味だったか。私は普段神を意識することはないし、
信仰心もない。けれど、「神様はたくさんいるんだよ、いろんなものに宿っているんだよ」という精神は何となく分かるような気がする。幼い頃母が作ってくれた毛糸の帽子。卒業記念のアルバム。可愛がって擦れた縫いぐるみ・・・神様というか 信じられるものは宿っているように思う。「もの」でも「いきもの」でも、その中に誰かを思う気持ちがこめられたものって 魂があると思う。本当は無いのかもしれないけれど、「作った人」と「それを使う人」の間に生まれる信頼とか情が 「神様」に権化しているのかもしれないなぁ。と。だから、神様って決して偉いものではなく、
極めて庶民的なところに根付いているんじゃないかと、思うようになりました。
最近、外に出て風にあたるのがすごい好きです。音も好きだし、運ばれてくる匂いも好き。風は空気が動くこと。形もない、無色透明な動きが お金でも買えない、たった一度きりの瞬間的な贅沢って感じがします。それと、風って自分が受けるものでもあるけど、自分が作ることも出来るんですよね。物理的に、自分が動けば空気が動き、風が作れる。当たり前のことだけれど・・・ 物理的にじゃなくても、風は作れる。自分の行動次第で、流れが出来る。流されてもいいけど、流れからやってくるものにぶつかってもいいけど、自分で風を起こして、流れを作ることができる。今日は、これからどういう風を起こすか決めてはいないけれど、新しいいい風流そうと思います。
avril24tom58 at 17:56|Permalink│Comments(2)
2007年08月20日
買い物の傾向
うん。買い物は好きだ。それなりに。
一口に買い物をすると言っても「衝動買いするタイプ」と「計画的に買うタイプ」とさまざまな人がいると思う。また、物を買うよりも飲んだり、タバコを吸ったり、飲食したり、カラオケしたり・・・その瞬間を楽しむためにお金を使う人もいると思う。
別に、お金を使う行為が自分にとってエネルギーになれば良いのであって、どう使おうとそれは個人の勝手だと思う。
自分はどちらかというと、形に残したいタイプなので、飲食などに使うよりも断然
「モノを買う」タイプだ。更に、欲しいと思ったものはすぐ買わず、冷却期間を置いてから買うタイプだ。(というのも、大抵私は大きい単位のお金を持ち歩いていなくて、単純に買えないだけなのだ)家に帰ってから、その欲しいと思ったものが数日間頭から離れないようであれば、「絶対に手に入れよう」という静かな闘志が芽生える。すぐは買わないが、欲しいものは絶対に手に入れるとい結構な執着心があるように思う。
今、「FRAU」っていう雑誌で、買い物についての特集がくまれていて、面白いなぁ。と思って読んでみた。その中で色んな方々が自身の「買い物論」を展開しているのだが、なかなか参考になった。
印象に残ったのが、木村佳乃さんの「そのものの活用法を最大限に生かしてあげることまでを想像してから、買った方がいい。」という言葉。なるほどな。物は、基本的に使われるためにある。使い方次第では何倍にでも大きい価値のものになるんだろうと思う。例えば一着の服だって、一通りの着こなし方にしか使われないよりも、たくさんの魅力を引き出す多彩な着こなし方に活用された方が、存在価値があるというものだろう。
またディータ・ヴォン・ティーズ曰く、「買い物とは、自分にとって完璧なものを探すこと。そして、最初から完璧なものの答えはなく、探して初めて見つかるからこそ面白い。」だそうだ。確かに・・・。「欲しい」って思うのは、自分にとってそれが完璧だからなんだよな。理屈ではよくわからないけど、自分の美意識にジャストフィットするものじゃないと買う意味がないって思うもん。そして、最初から「これがいい」という理想像はわからなくて、お店なりなんなりに足を運んで初めて欲しいものと出会えるんだよな。ほんと,物を買うっていうのは一種、恋みたいなものだと思う。欲しいものは一目ぼれに近い。
今日もまた、自分にとって完璧なものと出会った。単なる買い物で終わらないように ちゃんと存在価値が高まるような使い方をしてあげないとな。と思うのです。自分にとっても物にとっても「生活を豊かにする」という意味付けをちゃんとしないと、単なる浪費になる。せっかく買ったのに全く活かされないんであれば、お金も物も自分も粗末にしていることに等しい。・・・そんなこと言いながら、結構無駄なお金を過去使ったことがあるかもなぁ。と反省する私なのでした。
一口に買い物をすると言っても「衝動買いするタイプ」と「計画的に買うタイプ」とさまざまな人がいると思う。また、物を買うよりも飲んだり、タバコを吸ったり、飲食したり、カラオケしたり・・・その瞬間を楽しむためにお金を使う人もいると思う。
別に、お金を使う行為が自分にとってエネルギーになれば良いのであって、どう使おうとそれは個人の勝手だと思う。
自分はどちらかというと、形に残したいタイプなので、飲食などに使うよりも断然
「モノを買う」タイプだ。更に、欲しいと思ったものはすぐ買わず、冷却期間を置いてから買うタイプだ。(というのも、大抵私は大きい単位のお金を持ち歩いていなくて、単純に買えないだけなのだ)家に帰ってから、その欲しいと思ったものが数日間頭から離れないようであれば、「絶対に手に入れよう」という静かな闘志が芽生える。すぐは買わないが、欲しいものは絶対に手に入れるとい結構な執着心があるように思う。
今、「FRAU」っていう雑誌で、買い物についての特集がくまれていて、面白いなぁ。と思って読んでみた。その中で色んな方々が自身の「買い物論」を展開しているのだが、なかなか参考になった。
印象に残ったのが、木村佳乃さんの「そのものの活用法を最大限に生かしてあげることまでを想像してから、買った方がいい。」という言葉。なるほどな。物は、基本的に使われるためにある。使い方次第では何倍にでも大きい価値のものになるんだろうと思う。例えば一着の服だって、一通りの着こなし方にしか使われないよりも、たくさんの魅力を引き出す多彩な着こなし方に活用された方が、存在価値があるというものだろう。
またディータ・ヴォン・ティーズ曰く、「買い物とは、自分にとって完璧なものを探すこと。そして、最初から完璧なものの答えはなく、探して初めて見つかるからこそ面白い。」だそうだ。確かに・・・。「欲しい」って思うのは、自分にとってそれが完璧だからなんだよな。理屈ではよくわからないけど、自分の美意識にジャストフィットするものじゃないと買う意味がないって思うもん。そして、最初から「これがいい」という理想像はわからなくて、お店なりなんなりに足を運んで初めて欲しいものと出会えるんだよな。ほんと,物を買うっていうのは一種、恋みたいなものだと思う。欲しいものは一目ぼれに近い。
今日もまた、自分にとって完璧なものと出会った。単なる買い物で終わらないように ちゃんと存在価値が高まるような使い方をしてあげないとな。と思うのです。自分にとっても物にとっても「生活を豊かにする」という意味付けをちゃんとしないと、単なる浪費になる。せっかく買ったのに全く活かされないんであれば、お金も物も自分も粗末にしていることに等しい。・・・そんなこと言いながら、結構無駄なお金を過去使ったことがあるかもなぁ。と反省する私なのでした。
avril24tom58 at 17:46|Permalink│Comments(0)
2007年08月06日
鳥への憧れ
音楽聴くのも好きなんですが、それよりも一番好きだと思ったのが、
鳥のさえずりや、風の音、雨が降る音。全く人為的じゃない音を聴く方が心地よくて あんまり音楽をかけなくなりました。
鳥って、何を伝えようとして あんなに綺麗な鳴き声を出すんでしょうか。まあ、「君が好きだよ〜」とか「腹減ったよ〜」とか、そんなところなんでしょうが、始終鳴いているので もっと色んなことを喋っているのかもしれません。案外、「今日だるいんだよ。」とか「あの鳥に文句言ってやる。」とか しょうもないことを喋っているのかもしれません。
にしても、鳥はいいなぁ。恐らく鳥は、生きている喜びそのものが美しい声となって現れるのでしょう。「あぁ、いい天気だなぁ。生きてて良かったなぁ〜〜!」買い物をして高級品を手に入れたわけでなくても、褒められたわけでなくても、充分なのではないでしょうか。(勝手な想像で、案外気苦労が絶えないのかも知れないけど)
そんな鳥の姿に羨望を覚える今日この頃。私も人間だけど、鳥のように もっとシンプルなことに喜びを憶えたい!って思います。よく考えると、買い物しなくたって
外に出て空気を吸って、空を見て、風にあたって、頭の中の雑念を取り払うと、
「今私がいる状況をもっと楽しもう。今いる状況のいいところを探そう」という気になれます。ちょっとは鳥に近づけたかな・・・(笑)
鳥見て 人間としての人生 取り乱さずに生きたいものです。
鳥のさえずりや、風の音、雨が降る音。全く人為的じゃない音を聴く方が心地よくて あんまり音楽をかけなくなりました。
鳥って、何を伝えようとして あんなに綺麗な鳴き声を出すんでしょうか。まあ、「君が好きだよ〜」とか「腹減ったよ〜」とか、そんなところなんでしょうが、始終鳴いているので もっと色んなことを喋っているのかもしれません。案外、「今日だるいんだよ。」とか「あの鳥に文句言ってやる。」とか しょうもないことを喋っているのかもしれません。
にしても、鳥はいいなぁ。恐らく鳥は、生きている喜びそのものが美しい声となって現れるのでしょう。「あぁ、いい天気だなぁ。生きてて良かったなぁ〜〜!」買い物をして高級品を手に入れたわけでなくても、褒められたわけでなくても、充分なのではないでしょうか。(勝手な想像で、案外気苦労が絶えないのかも知れないけど)
そんな鳥の姿に羨望を覚える今日この頃。私も人間だけど、鳥のように もっとシンプルなことに喜びを憶えたい!って思います。よく考えると、買い物しなくたって
外に出て空気を吸って、空を見て、風にあたって、頭の中の雑念を取り払うと、
「今私がいる状況をもっと楽しもう。今いる状況のいいところを探そう」という気になれます。ちょっとは鳥に近づけたかな・・・(笑)
鳥見て 人間としての人生 取り乱さずに生きたいものです。
avril24tom58 at 17:00|Permalink│Comments(1)
2007年07月18日
刹那的に生きる事なんて出来まい。
よく、「刹那的に生きる」という言葉を使うことがあるが、本当の意味で刹那的に生きることなんて出来ないだろう。と思う。
この間、普通に音楽を聴いていて思ったこと。
音楽は時間の芸術だと言う。絵や彫刻などの半永久的に形を留めるものとは違い、
常に変化していくことで紡がれる、不定の芸術。
形がなく、空を流れる雲のように知らぬ間に消えて無くなってしまう。
けれど、そんな流れていくものでさえ私達人間は一つの芸術、モノとして扱うことができる。
それは何故だろう。
それは、私達の頭に「記憶力」というものがあるからではないか。
音楽が流れている間、私達の頭の中では「今。瞬間。刹那。」そんな時間帯だけではなく、常に過去の記憶と未来への予測が交錯しているのだと思う。だからこそ、形のない音楽を一つの芸術として捉え、楽しむのだと思う。メロディーは、積み重なれた過去と未来の予測で成り立っているのではないだろうか?
私達は今を生きている。今、楽しい。今、悲しい。今、忙しい。
私達をとりまく環境、感情は常に、今限りのことではなく、大きな時間軸の中に浮かんでいる。
私達は今を生きていると同時に、過去と未来の間をずっと生きているのだと思う。
過去と未来はいつも境界線が曖昧で、交差している。本当は、今という時間が一番あてにならないのかも知れない。今という時間は常に過ぎ、掴みとることが出来ない。
過去は記憶の中に。未来は想像の中に。私達の頭が現実を捉えるのならば、過去も未来も現実の一部なのかも知れない と思う。
avril24tom58 at 17:57|Permalink│Comments(2)
2007年05月27日
私の人生は誰のものなんでしょう?
私の人生は、私のものだ。と思う。
けれど、その大半は他人の手によって作られている。と思う。
自分で選びとったこと、自分の意思でなんとかしたこと。その方が数少ない気がす る。自分で決定したことだと思っていても、どこかで妥協して流され、受動的に選 択したことだって沢山ある。
自分の選択など 本当に自ら望んだことなのか、そうでないのか境界線は曖昧だと 思う。
でも、それも良いのかも。
生まれた時は、人間である基本だけ持ち合わせ、なんでも取り込む器のように外の 世界の良い悪いを蓄積していった。誰もが。そしてこれから生まれる誰もが。
どこで一人ひとりの個性が生まれるのだろうか。
「あの人はあの人だ。」その個性の材料となるものは、案外あの人以外のものかも しれない。料理をするみたく、色んなものを混ぜて一つの味を作る。料理をするみ たく、色んな個性を混ぜて一つの個性を作る。
人生の中で傷つけられた記憶はどうなんだろう。
その記憶が今も未来も、ずっと自分を苦しめ続けるとしたら。
「私の人生は、私のものだ。」
私の意志でなんとでもなる・・・でも、本当にそうだろうか。
「実際は私以外の人間の悪意が、私を支配し続けるのではないだろうか。」
そんな思いを抱えた人が、この世にどれほど存在することか。
自分の人生が、他人に与える影響を考えなくてはいけないと思う。
他人によって、自分の人生が彩られ、時には侵害されていることを頭の片隅に。
自分のいつだったか忘れてしまった言動が、誰かの人生に影響を与えているのかも知れない。
もう忘れ去られた言動が、常に私の心に宿ったままでもある。
「私の人生は、私のものだ。」
私のものだけれど、私のみで所有することは出来ず、濫用することも出来ず、時には他人の所有物でもある。
そして私は、他人の人生を侵害するような真似は絶対にしたくないと、思う。
侵害されて、苦しんでいる人がいたら、その人の人生を守りたいと思う。良いものにしたいと思う。
avril24tom58 at 17:23|Permalink│Comments(2)
2007年05月09日
サンマが2t
現実世界での私は、一体どのような言動をとっているのかというと・・・
私は、スーパーのレジという業務に携わってはや一ヶ月が経ちましたが、
いっぱいいっぱい。 マイペースで、決してキビキビとはしていない私です。
言動がおかしいです。
だって・・・「サンマが2点で96円です。」 を
「サンマが2トンで96円です。」
と・・・莫大な量の言い間違えをしてしまいました。私の頭の中には、漁船とサンマ漁獲の光景が広がりました。お客様は気づかれていたのか、いないのか、無表情。ひどい・・・私は、自分で言い違えたことにより、にやけてきてしまい、終始素敵(?)な笑顔。お陰で後の業務が円滑に進んだのです。
更に、昨日なんと旧旧千円札がやってきたのです。野口英世、夏目漱石に混じり、伊藤博文の顔が・・・いいのか。こんなとこで出してしまって。その後、伊藤さんは次に並んでいた青年の手に渡ってしまい、まじまじと眺めることができなかったのでした。
はぁ・・・がんばらねば。
avril24tom58 at 18:00|Permalink│Comments(3)
2007年04月30日
新月と流れ星
最近、やっと晴れるようになって、夜は月も星も 輝きを増して、すごく美しいです。淀みがない光で。人間以外のものって、言葉では何も語らないけれど、強い影響を与えるんですね・・・ 済んだ半月を見ていたら、じーんときて「慈愛」という言葉が喉から出そうになりました。
最近思うのは、月と人間て同じようなものなんじゃないか?
ってことです。
月は28日で満ち欠けをする。人間も、満たされたり満たされなかったり。
月はルーティーンワークで、きっかり28日ずつ満ち欠けするけれど
人間は不規則に満ち欠けするだけの違い。
すっごくハッピーハッピー良い日だ、という満たされた日もあれば
プラス要素が全く見出せない日もあります。(というのは、気持ちのもちようでもありますが・・・)まあまあ可もなく不可もなく、という日もあり、人間の一日も様々です。
「プラス要素が見出せない日」というのは、何をやってもうまくゆかず、体の調子も心の調子も悪く、タイミングも悪い・・・という日ですが、
それは「新月」の状態だと思ったのです。
新月は目に見えません。でも月はちゃんと存在しています。
「プラス要素が見出せない日」は、自分自身に暗雲がたちこめ、自分に対して否定的になってしまいますが、でも
「自分はちゃんと存在している。」んだなぁ・・・って、思うのです。
まず、自分自身がどんな状態であれ存在していれば
新月の状態がちょっと長く続こうとも
必ず月みたく、また「ひょっこり輝きだす可能性がある」のだと思うのです。
本物の月みたく輝く期間がどのくらいとか、周期はわかりませんが、ずーっと新月の状態が続くとは思いません。
そして、月みたく自然と満ち欠けをしているのではなく
「自分の意志」次第で、満ち欠けをコントロールできるのが人間という存在だと思うのです。
まず、自分がいて初めて「世界」というものを知覚します。自分がいなくても世界は成り立つのだろう、と私(私たち)は勝手に憶測してしまうけれど、結局のところ
自分を逸脱した世界は見ることができないんですよね。
そう、だから「自分が存在すること」
これが一番根本にあることだと最近思うようになりました。
「自分が存在すること」を否定しようとしてしまう瞬間を、誰でも体験したことがあるかもしれませんが、
まず満ちていても欠けていても、月のように、絶対に自分は実体を持っている。
その実体さえあれば、大丈夫なのだと 最近強く思うのです。
私は、私の可能性を 自分の中で見限ってはいけないし、自分はこういうやつなのだという枠を持ってはいけないのだと思います。自然にできてくる能力、資質、適正、性格・・・それらは自分の宝物だと思って、大切にすればいい。でもそれだけにすがっている必要もない。もっと大きな枠で自由に自分を生きればいいんだと、思うんです。
細い三日月だって綺麗じゃないですか。見えない新月でも、これから見えてくる可能性があって素敵じゃないですか。半月も、満月も・・・人間も同じだと思うんです。
この間、夜チャリを漕ぎながら夜空を見ていたら、青い光の流れ星がすーーーーっと目の前を流れていきました。別に願い事もしませんでしたし、見ていただけですが
流れ星が流れる時に、月が満月であれ三日月であれ、新月であれ、そんなことは関係ないのだな、と思いました。時と場合を考えずに、ふっと流れるのが流れ星。
自分がずーーーーっと長いスランプ状態に陥っている時に すっごいチャンスが
めぐってくることだってあるんです。
欠けた月も また良し。見えぬ月も また良し。
悪しきは、月を見ようとしないこと。
そして、たまには流れ星も流れてくる。
そう思ってやっていこうかなぁ って思います。
avril24tom58 at 16:39|Permalink│Comments(2)
2007年03月20日
teddy bear and color pencil /forgotten present
子供に買ってきたプレゼント。もうずっと昔のこと。
テディーベアと色鉛筆。プレゼント用の綺麗な箱に入って、ピンクのリボンがしてある。
プレゼントは、最後まで開けられることがなかった。
ずっと、しまわれたまま。
熊のぬいぐるみは、本当は子供と遊びたかった。でも、ずっと叶わないままだったから
隣にある色鉛筆で絵を描こうと思った。
本当は素晴らしい絵があるのに、誰も箱の中のことは知られていない。
箱の中は、誰も見たこともない 素敵な絵が入っている。
箱の中から出たい。熊は願う。
本当は、誰だって箱の中に入っているようなものだと思う。箱入り娘でなくても。
自分の身体という箱の中に、自分という精神が押し込められていて、
生きている間は抜け出せない。
どんなに素晴らしい世界が、自分の中にあろうとも 気づかれないこともある。
いつも、そういうことが不条理だと思う。たまに自分の身体から抜けてみたくなる。
それでも、熊のぬいぐるみは色鉛筆があれば、それが自分の世界で生きる術。決して不幸ではない。
・・・これから、ちょっとあんまりブログ書けないと思います^^ でも、時々は更新しようと思います!
avril24tom58 at 15:52|Permalink│Comments(2)
2007年03月14日
永遠に生きる花束
「永遠に生きる花束」
ある国がある。その国の人間の下には、生きている間、いい事をする度に空から一輪の花が落ちてくる。小さなことでもいい。自分と他者を幸せにするようなはたらきを行うと、花が落ちてくる。
その花には、秘密がある。
その花は、永遠に生き続ける花なのだ。
人々は そうやって一輪の花を手にする度に、家に持ち帰り、今までの花々と一緒に花束にしていくのだ。それがこの国の習慣である。
倒れている自転車を元に戻した。
未来の自分のために、小さな努力を続ける
悲しみを共有する・・・
偽善ではなく、意味を理解し、心から行った時に永遠の花が空から落ちてくる。
一人の人が死ぬ時。花束は、抱えきれないくらい大きくなっている。
その人が生きて よい行いをした分だけ 美しい花束になっている。
その国では、一人の人が死んだあと、その人のお墓に その花束を供える。それは、その人が死んだとしても、その人が生きたことは永遠に無くならない事実・・・それを証明するものである。そして その人の、よい行いは当人が死んだ後も生きた世界に影響を与え続ける・・・永遠に生きる花束が、その象徴なのだ。
誰かと別れて会えなくなっても、
誰かを亡くしても、
それはとてつもなく悲しいことだけれど、しかし事実としては残るのだ。一人ひとりの心の中で生き続ける。永遠に生きる花はファンタジーだが、私達が生きる世界も
すでに無くなった(亡くなった)ものの影響力を受け続けて形成されている。
明日は卒業式。早いな・・・私はまだまだ学校に通いたいです。明日でみんな一緒に顔を合わせるのも最後・・・明日、みんなと会えるのを楽しみにしています。私がこれから生きる中で、みんなと過ごせた2年間は絶対に自分の中で生き続けると思う。なんて(笑)
avril24tom58 at 16:58|Permalink│Comments(6)