平成29年2月4日、「大洲市蔵川」と「大洲市梅川」の境界にある
「荒間地峠」へ行って来ました
※ぎり2月・・・Σ( ̄▽ ̄;)
蔵川の広域農道沿いの路肩に駐車
峠へ行く登り口

2枚の看板と石碑(一番下)が見える
石碑は桜を植樹した際の記念碑で、下の看板はポイ捨て注意のもの
上の看板は平成2年に「緑の少年隊」が建てた史跡の説明版

ほとんど文字が消えてる・・・(=ω=;)
仕方がないので10年以上前に来た時に解読したものを再掲載
水溜まり(の跡)

現在は水がありません
ここで追いはぎが血の付いた刀を洗っていたそうな(( ;゚д゚))
※一揆の件については後述<(_ _)>
峠へ続く山道

この道は現在でも使われているようで、わりと整備されていました
始めのほうは分かれ道もなく道なりに進んで行くだけ


道幅は4〜5尺ぐらいか
工作機械が入ったのか、広くなっているところもあった
大きな常緑樹


「ウラジロガシ」じゃろうか?
※ブナ科コナラ属の常緑高木
ひょっとしたら、この辺りが追いはぎの伝説にあった「中休場」
なのかも( ̄∇ ̄)b
分岐点

左の道は下っているようなので右へ
石の祠があった

やはりこっちの道で正解やったみたい
定番の馬頭観音像かと思ったら

「大日如来像」じゃった
じつはこちらも定番(^ー^;)
※馬頭観音、大日如来が組になっている場合も多い
また分岐点


左の道は作業道ぽかったので右の道へ
林道へ出た


すぐ側に三差路があった
上の道は作業道っぽいな
うろうろしていると山道発見!(*^_^*)ノ

道しるべの支柱らしきものが
国土地理院の地図によるとこの辺りの標高は420メートルぐらい
さらに上る



さっきも書いたけど、林業、農業等に利用されているのか道はわり
と整備されてる
峠でも毎年祭祀があったりするのかもしれない
何か道が平坦な感じになってきた


この辺りになるとあちこちに作業道が付いていて混乱
道に迷いそうになったのでスマホのGPS機能で峠の位置を確認
しながら進む
※上の写真辺りが「荒間地隧道」の真上
看板が建っているところに出た

石碑や石仏も見える
荒間地峠に到着!( -д-)ノ
標高は約500メートル
真新しい石碑

「蔵川の義民 吉右衛門 新之丞碑」
この荒間地峠には百姓一揆にまつわる以下のようなお話が伝わって
いるのです(uдu)
※説明版「蔵川地域づくり委員会」作成より
元々は大洲市誌より引用した文章とのことです
「荒間地の地蔵」
明和7年(1770)3月23日、蔵川村の農民160人は宇和島藩領
に「逃散」して翌24日には野村に達した。租税の軽減を願い出て
聞かれなかったためと伝えられるが、詳細は不明である。
説得によって一応帰村したものの首謀者の詮議は厳しかった。
これらを明らかにすることができないため、藩は庄屋・組頭を投獄し
たので、日ノ平の百姓吉右衛門・新之丞両人が頭取であると名のり
出た。
二人は10月19日、徒党の罪で打ち首に処せられた。(「加藤家年譜」)
荒間地峠にさらされたが、その期間7日の間、新之丞の妻は30町も離れ
た峠から毎夜夫の首を抱き帰り、添い寝して未明には峠に戻すことを繰り
返したという。
以来農民はその恩義を感じて、村の西方観音堂と東方桜休場に両人の名を
刻んだ石仏を寄進して六地蔵をまつった。また、年々村施餓鬼の際には
どの家でも一升念仏(米一粒ごとに念仏して一升に及ぶ)を唱える習わしが
あった。
※1町は約109メートル、1里は36町=約3.9キロ
首謀者のひとりである新之丞の妻は峠から約3.3キロの道のりを7日間
も往復していたのですね(lil+Д+)ノ
首を抱き帰りってあるけど、タイマツとか明りはどうしてたんやろう
六地蔵と馬頭観音像

馬頭観音像はこちらでした(*'∀'*)ノ
「馬頭観音像」

「これより二十〇下水あり」
追いはぎの伝説にあった水溜まり以外に水場があったのようです
台座部分

「天保六乙未(1835)七月廿三日」
逃散事件から約65年後に建てられていました
六地蔵


これらの地蔵も馬頭観音と同時期のものでしょうか
それぞれ寄進者の名が刻まれていました
馬頭観音像に持っていた緑茶をかけ、六地蔵共々手を合わせてお2人
の冥福を祈って来ました
六地蔵の裏にあった前の説明版の残骸

この残骸からも、蔵川の方々が昭和、平成とずっと供養を続けてきた
ことが伝わってきます
帰り道

ゆっくり歩いて下っていましたが、「新之丞の妻は夫の首を抱き抱え
てこの道を通っていたのだ」ということを不意に思い出しまして、
それからは走って下りたのでした
「荒間地峠」へ行って来ました
※ぎり2月・・・Σ( ̄▽ ̄;)
蔵川の広域農道沿いの路肩に駐車

峠へ行く登り口

2枚の看板と石碑(一番下)が見える
石碑は桜を植樹した際の記念碑で、下の看板はポイ捨て注意のもの
上の看板は平成2年に「緑の少年隊」が建てた史跡の説明版

ほとんど文字が消えてる・・・(=ω=;)
仕方がないので10年以上前に来た時に解読したものを再掲載
蔵川の史跡
刀を洗った水溜り
この水溜りには二つの言い伝えがある。
一つは、江戸時代の中頃、蔵川で一揆が起こった。
その一揆の首謀者として「新之丞」、「吉右衛門」が捕らえられました。
その二人は「荒間地峠」で「斬首、さらし首」の刑に処せられました。
その時に首を切った刀をこの水溜りで洗ったということです。
もう一つの言い伝えは、荒間地峠の下に「中休場」という所があり、そこ
では追いはぎが人を殺し物を盗んだりしていた。
その人を殺した時の血の付いた刀を洗うところがないので、少し下まで
降りて洗ったところがこの水溜りだそうです。
この水は飲むとお腹が痛くなると言われている。
'90緑の少年隊
水溜まり(の跡)

現在は水がありません
ここで追いはぎが血の付いた刀を洗っていたそうな(( ;゚д゚))
※一揆の件については後述<(_ _)>
峠へ続く山道

この道は現在でも使われているようで、わりと整備されていました
始めのほうは分かれ道もなく道なりに進んで行くだけ


道幅は4〜5尺ぐらいか
工作機械が入ったのか、広くなっているところもあった
大きな常緑樹


「ウラジロガシ」じゃろうか?
※ブナ科コナラ属の常緑高木
ひょっとしたら、この辺りが追いはぎの伝説にあった「中休場」
なのかも( ̄∇ ̄)b
分岐点

左の道は下っているようなので右へ
石の祠があった

やはりこっちの道で正解やったみたい
定番の馬頭観音像かと思ったら

「大日如来像」じゃった
じつはこちらも定番(^ー^;)
※馬頭観音、大日如来が組になっている場合も多い
また分岐点


左の道は作業道ぽかったので右の道へ
林道へ出た


すぐ側に三差路があった
上の道は作業道っぽいな
うろうろしていると山道発見!(*^_^*)ノ

道しるべの支柱らしきものが
国土地理院の地図によるとこの辺りの標高は420メートルぐらい
さらに上る



さっきも書いたけど、林業、農業等に利用されているのか道はわり
と整備されてる
峠でも毎年祭祀があったりするのかもしれない
何か道が平坦な感じになってきた


この辺りになるとあちこちに作業道が付いていて混乱
道に迷いそうになったのでスマホのGPS機能で峠の位置を確認
しながら進む
※上の写真辺りが「荒間地隧道」の真上
看板が建っているところに出た

石碑や石仏も見える
荒間地峠に到着!( -д-)ノ
標高は約500メートル
真新しい石碑

「蔵川の義民 吉右衛門 新之丞碑」
この荒間地峠には百姓一揆にまつわる以下のようなお話が伝わって
いるのです(uдu)
※説明版「蔵川地域づくり委員会」作成より
元々は大洲市誌より引用した文章とのことです
「荒間地の地蔵」
明和7年(1770)3月23日、蔵川村の農民160人は宇和島藩領
に「逃散」して翌24日には野村に達した。租税の軽減を願い出て
聞かれなかったためと伝えられるが、詳細は不明である。
説得によって一応帰村したものの首謀者の詮議は厳しかった。
これらを明らかにすることができないため、藩は庄屋・組頭を投獄し
たので、日ノ平の百姓吉右衛門・新之丞両人が頭取であると名のり
出た。
二人は10月19日、徒党の罪で打ち首に処せられた。(「加藤家年譜」)
荒間地峠にさらされたが、その期間7日の間、新之丞の妻は30町も離れ
た峠から毎夜夫の首を抱き帰り、添い寝して未明には峠に戻すことを繰り
返したという。
以来農民はその恩義を感じて、村の西方観音堂と東方桜休場に両人の名を
刻んだ石仏を寄進して六地蔵をまつった。また、年々村施餓鬼の際には
どの家でも一升念仏(米一粒ごとに念仏して一升に及ぶ)を唱える習わしが
あった。
※1町は約109メートル、1里は36町=約3.9キロ
首謀者のひとりである新之丞の妻は峠から約3.3キロの道のりを7日間
も往復していたのですね(lil+Д+)ノ
首を抱き帰りってあるけど、タイマツとか明りはどうしてたんやろう
六地蔵と馬頭観音像

馬頭観音像はこちらでした(*'∀'*)ノ
「馬頭観音像」

「これより二十〇下水あり」
追いはぎの伝説にあった水溜まり以外に水場があったのようです
台座部分

「天保六乙未(1835)七月廿三日」
逃散事件から約65年後に建てられていました
六地蔵


これらの地蔵も馬頭観音と同時期のものでしょうか
それぞれ寄進者の名が刻まれていました
馬頭観音像に持っていた緑茶をかけ、六地蔵共々手を合わせてお2人
の冥福を祈って来ました
六地蔵の裏にあった前の説明版の残骸

この残骸からも、蔵川の方々が昭和、平成とずっと供養を続けてきた
ことが伝わってきます
帰り道

ゆっくり歩いて下っていましたが、「新之丞の妻は夫の首を抱き抱え
てこの道を通っていたのだ」ということを不意に思い出しまして、
それからは走って下りたのでした
