2004年04月26日

【亡霊の街、不安定な停戦】ガーディアン紙(2004/4/24)

ファルージャからバグダッドへ避難してきた人々への取材を中心に、なにが起こったのかについて概観している記事です。

補足:
ブラックウォーター社がどんなとこか
http://blackwaterusa.com/

4人の社員(ていうか傭兵)殺害事件の前にあったこと
http://www.jca.apc.org/~kmasuoka/places/iraq0404.html

(2004/4/26 earthspider記)

亡霊の街、不安定な停戦

米軍の攻撃を生き延びたファルージャ市民に、ローリー・マッカーシーが聞いた。この反乱のなかでもっとも血なまぐさい戦闘において、医師の語るところでは600人に達するイラク人が殺害されたという。
2004年4月24日土曜日
ガーディアン紙

原文
http://www.guardian.co.uk/Iraq/Story/0,2763,1202163,00.html

ファルージャでの戦闘がはじまった3日目の午後早く、自宅に帰ってきたメネム・ラティフ・フセインにできることはほとんどなにもなかった。正面の門前の車道に、16歳の息子、ウィサムの遺体が横たわっていたのだ。
遺体の傷はひとつで、強力な一撃が頭蓋骨の後部をずたずたにしていた。即死だった。

「息子は門のわきに立って外を見ていて、近くで爆撃があったんだ。砲弾にやられたのか、スナイパーに狙撃されたのかはわからない」フセイン氏は言った。

「神に感謝したよ、息子は殉教者になったのだから。それから息子を墓地に埋めたんだ」

午後遅くに自宅に戻ると、今度はウィサムの18歳のいとこ、サール・アーメドが行方不明になっていた。その朝、婚約者の家族の安否を確かめに街の向こう側へ出かけていたのだ。数時間後、フセイン一家は彼の遺体を横たわっていた通りから運び出した。撃たれたのは一発で、スナイパーの弾丸が心臓をつらぬいていた。彼もまた、倒れた場所で死んでいた。この時点で、墓地に行くのはあまりに危険になっていた。

「舗装されていない地面に埋めるしかなかった。あとで遺体を掘り出して、ちゃんと埋葬するつもりだ」41歳のフセイン氏は語った。

今週、彼が見た死はこの2人だけではない。自宅の車道から彼が見たのは、向かいの家の門のところに立っていた18歳の少女がスナイパーに撃たれ、殺されるところだった。義理の兄弟が助けに駆け寄ったところ、彼も撃たれて死んだという。

次に、通りのはしにあった家が強力な爆弾の直撃を受けた。「友達の家だったから、走って向かった。庭で3人の男がベンチに座っているのを見た。みんな死んでおり、爆発で体が半分になっていた。妻は気が狂ったようになった」彼はいう。

数日後、フセイン氏は妻と4人の生き残った子ども、数十人のほかの家族とともにファルージャを脱出した。現在彼らはバグダッドの西、アル・カドラにあるイラク赤新月社のキャンプで、テント暮らしをしている。

「平和に暮らしていたのに、彼らがやってきて爆弾を落とした」フセイン氏は昨日語った。「戦争がはじまったときから、まったく地獄のようだった。なぜ彼らはやってきて、私たちの息子を殺したんだ?」

熾烈な戦闘

この3週間にわたり、米海兵隊第1遠征軍の約2000名の兵士が、戦闘機と戦闘ヘリコプターの支援を受けつつ、昨年の開戦以降のイラクにおいて、もっとも熾烈な市街戦闘を遂行している。

戦闘の犠牲者は恐るべき数に達している。ファルージャの医師たちは600名に達する人々が亡くなったと語る。米軍当局は4月1日から現在までにイラクで100名以上が戦死し、その多くはファルージャの戦闘で死んだと語る。今月のイラクでの米軍戦死者の数は、一年前のサダム・フセインに対する戦争における戦死者数を上回る。

30万人が住むファルージャ市内では、ただひとつの病院へ通じる道を海兵隊が2週間以上にわたって封鎖している。数十軒の家が破壊され、モスクが爆撃され、聖職者はユーフラテス川に面するサッカー場を間に合わせの墓地につくりかえた。

3週間たつにもかかわらず、戦闘についての取材を独力でおこなうことはまだほとんど不可能に近い。市内への通行は厳重に規制されている。依然として海兵隊はファルージャを囲んだ警戒線を張っており、市内の大半と近隣の村の多くはイラク人抵抗戦士で満ちている。

しかし、バグダッド駐在のガーディアン紙記者が数十人の民間人、医師、聖職者や政治家に取材をおこなったところ、この米軍のイラクにおけるもっとも血なまぐさい戦闘の全貌がじょじょに明らかになろうとしている。

ウィサムとサールが死んだ日、バグダッドのある米軍司令官は「油断なき決意」と名づけられたファルージャでの新たな戦闘の目標は「敵と戦うこと」だと語った。

その前の週、ブラックウォーター警備会社で米軍下請けとして働いていた4名のアメリカ人がファルージャの大通りで殺され、手足を切断された。バグダッドの西部と北部のスンニ派地域において一年にわたり続いてきた対米ゲリラ戦争の、恐ろしい絶頂点であった。
米軍司令官らは「圧倒的な」反撃を予告した。

4月4日の晩、攻撃は秘密裡に開始された。海兵隊がファルージャを包囲し、東端の工場地区に移動した。部隊は司令部を複数の工場に設置し、スナイパーを送り出した。月曜日の朝、48歳のタリク・ザイダンが工場地区のレンガ工場に出かける前に、事務所から電話がかかってきた。米軍が工場の建物に押し入り、3名の警備員を逮捕し、彼の事務所を接収したのだ。

「日曜の晩、ヘリコプターの戦車の音が聞こえた。何か大掛かりなことがはじまったことはわかったが、米軍が街に侵攻するとは考えてもみなかった」彼は語った。

その日、彼は自宅で待って過ごした。「静かだったが、午後9時に米軍は市内に侵攻しようとした。街じゅうの人々が米軍を打ち負かすために戦いはじめた」街を横切るヘリコプターと戦闘機の音が頭上に聞こえたという。

「私の区画の5軒の家が破壊された。後ろの家はロケット弾2発の直撃を受けた」ザイダン氏はいう。彼はその後家族とともにバグダッドへと避難した。「外へは出なかったが、通りで武器を運ぶ戦士たちが門から見えた。米軍と戦っていたんだ。彼らが殺され、死体が通りに横たわっているのを見た」

木曜日、海兵隊はF-16戦闘機を使い、市の中心に位置するアブドゥル・アジズ・アル・サマッライ・モスクの隣にある公民館を爆撃した。住民によれば40名の人々が殺され、その後米軍は同じ場所で6時間にわたり銃撃戦を繰り広げたという。医師たちが語るところによると、最初の3日あるいは4日間におけるイラク人死者数は300名をこえたという。

街の医師たちが語るところでは、死者の大半は民間人であり、女性や子どももいたという。米軍司令官らはこのことを認めず、米軍の攻撃目標は正確であると主張しつづけている。

「死者の95パーセントは軍務年齢の男性であり、戦闘で殺されたということは明らかだと考える」米海兵隊ブレナン・ビルネ中佐は戦闘のさなかで語った。「海兵隊員は火器を正確に扱うよう訓練されている」

戦闘が激化するにつれ、医療物資や食料を積んだ救援物資車両がバグダッドから到着しはじめた。木曜日には、バグダッドから数人の医師が4台の救急車とともにやってきた。そのうちの一人の外科医は30歳で、5日間にわたり負傷者の治療にあたったという。

亡霊の街

「叫びだしたくなった。まるで亡霊の街のようだった」抵抗戦士のことをおそれ、匿名を希望する医師は語った。「車の姿はまったくなく、ムジャヒディンのほかは何も見なかった」

「2つの手術室がある診療所で働いていた。患者を治療するにはイラクでもっともひどい場所だった」バグダッドの自分の病院で彼は語った。「たくさんの民間人がおり、女性たちもいた。一人の女性は妊娠しており、砲弾の破片が腹部に突き刺さっていた。子どもは死んでいた」

ユーフラテス川の西岸にあるファルージャで一番大きい病院は、海兵隊によって閉鎖された。国境なき医師団の緊急コーディネーターであるイブラヒム・ユーニスが語るところでは、閉鎖により多くの負傷者が不十分な治療しか受けられないことで亡くなったのだという。

「米軍は、病院の給水塔の屋上にスナイパーを配置し、1階建ての建物に部隊を入れたのです」2週間前の戦闘の際、ファルージャを訪問したユーニス氏は語る。「病院には4つの手術室がありましたが、もう誰も使えませんでした。もし使えたなら、多くの命が救えたことでしょう」

ユーニス氏によると、国境なき医師団は米軍が病院を軍事目的で利用し、ジュネーブ条約を侵害した理由について独立調査を要求しているという。

戦闘のあいだファルージャにいたほとんどの人々は、ムジャヒディンを英雄として語っている。戦士たちのあるものは聖職者たちに率いられ、イスラム教徒として闘っている。米軍当局が主張しつづけているように、元バース党員として、あるいは外国のテロリストとして闘っているわけではないのだ。他の人々は部族の規範にもとづいて闘い、また米軍の手にかかり殺されたイラク人のために復讐したいという思いで闘っている。

先述した若い医師を含め、ほんのひとにぎりの人々だけがゲリラ戦士たちをあえて批判する。「ムジャヒディンは勇敢で、何者をも恐れない」彼はいう。「だが、こういったことすべてが正しいのだろうか。死んでいったものの責任はだれにあるのだろう。アメリカ人は無論のことだが、ムジャヒディンにも責任はあるのだ」

ファルージャの戦闘はイラクの人々の大半に共感を巻き起こしている。この1年間の占領に対し、苛立ちと失望を募らせている人々の共感を。

「ムジャヒディンに闘ってほしくないという人は大勢いる。家や職場を捨てることを余儀なくされた人々だ」49歳の引退した建築家、サバー・ノーリ・アル・ジュマイリは語る。彼は最初の週にファルージャから避難してきた。「だが、これはアメリカ人のせいだ。占領に対して闘うのは、民衆の権利なのだ」

アル・ジュマイリ氏はサダム統治下で、あるアラブ・ナショナリスト政党を支持した廉で政治犯として投獄されていた。サダムの失脚を歓迎はしたものの、スンニ派コミュニティにおける学識ある専門家の多くと同様、そのあとに続いた占領については良い点を見ていない。

「私たちはこの国のために闘った。しかし、これが私たちの望んだものなのだろうか」彼はいう。いま彼の家族は、バグダッド西部のアメリヤにある、かつての防空シェルターに住んでいる。ファルージャに帰る機会を待ちながら。

戦闘がはじまって5日後、米軍は「攻撃的作戦の一方的停止」を宣言した。統治評議会のスンニ派グループの一つであるイラク・イスラム党の政治家代表団が交渉のためにファルージャに入り、車にぎっしりと載った家族たちが、あまり使用されたことのない田舎道に沿って街の外へと殺到しだした。

交渉がつづくなかで、しばしば破られる停戦が2週間にわたり続いてきた。交渉の仲介者たちがみな、この戦闘がさらなるゲリラ抵抗勢力を抑えることになると確信をいだいているわけではない。

「米軍がファルージャでやったような力の振るいかたは、逆に人々を闘いに駆り立てる」イラク・イスラム党の古参党員であるハジム・アル・ハッサニは語る。「彼らはテロリストではない、普通の人々だ。そして子どもたちが死んでいき、皆が闘いはじめたのだ」

昨日、20名のイラク人民間人が爆撃で埋められた死体を探すため、家々の瓦礫を掘りはじめた。しかし米軍司令官は依然として、抵抗戦士たちには「数週間ではなく、数日」の余裕しかない、と警告している。それまでに重火器を引き渡すか、さもなくばいまだにファルージャを取り囲む海兵隊が、新たに猛攻撃を開始する、というのだ。

ファルージャの戦闘における重要な日付

・3月31日、ブラックウォーター警備会社で働いていた4名のアメリカ人米軍下請け業者がファルージャ中心部で殺害され、手足を切断される

・4月1日、在イラク米軍の作戦副司令官であるマーク・キミット准将が「圧倒的な」反撃を予告し、「我々はこの都市を制圧する」と語る

・4月4日、「油断なき決意」作戦が開始され、夜間に海兵隊第1遠征軍の部隊2000名がファルージャを包囲しはじめる

4月8日、米軍のF-16戦闘機がアブドゥル・アジズ・アル・サマッライ・モスクに爆弾を投下し、40名のイラク人が殺害される

・4月9日、米軍が「攻撃的作戦の一方的停止」を宣言する

・4月19日、米軍当局者とファルージャの指導者たちが停戦に合意し、ゲリラ戦士たちが重火器を引き渡すと定める。米軍がファルージャの病院への通行を認めることにはじめて同意する

・4月22日、米海兵隊ジェームズ・コンウェイ中将がゲリラたちは武器を引き渡すのに「数週間ではなく、数日」しかないと述べる

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