2006年08月18日

【重大発表 エジンバラ国際映画祭が、ボイコット計画に呼応してイスラエル出資金を返却】Scottish Palestine Solidarity Campaign

 イスラエル大使館との関係に対する巨大な大衆的批判を受けたエジンバラ国際映画祭実行委員会は、イスラエル大使館からの公式出資契約を取り消し、そしてイスラエルの小切手を返却した。

 エジンバラ国際映画祭の芸術監督( Artistic Director )を務めるShane Danielsen氏は、不満をぶつけてきた人たちに向けて発した文章にて、最近彼もまた占領下パレスチナでイスラエル兵の銃床によって「危うく顎を砕かれそうになった」こと、しかし「銃火や凶悪な兵隊の怒号を超越したところに」立つイスラエルの映画人たちを支援したいと思っていることを、述べている。

 実行委員会に対して、イスラエル大使館からの資金援助を受けないよう求める電子郵便や電話が、脚本家たちや俳優たちそして大衆から押し寄せて来た。若しそれが為されない場合には、エジンバラ最大の祭典をボイコットすると警告したのである。

 Scottish Palestine Solidarity CampaignStop the War Coalitionのエジンバラ支部は全ての大規模映画祭典に対して、それがイスラエル大使館との関係を止めようとしない場合には、抗議行動を行ないつつその実行委員会を批判している。

 映画祭のウェブサイトは以下の文書が掲載されている(訳注1)。「この資金援助は約3ヶ月前に受けたものであり、レバノンに於けるこの殺戮が始まるよりもずっと以前のことでありました。その後の劇的な状況変化につきましては、勿論私たちも理解しておりまして、それを踏まえた上でイスラエルからの出資を拒否する旨、昨朝決定いたしました。」

 人権蹂躪に対してEIEF実行委員会が遅まきながらではあるが対応転換したことを、Scottish PSCは評価している。然し乍ら、EIEFが元よりイスラエル大使館との繋がりを受け容れていたことは遺憾である。直近のカナ虐殺(訳注2)に対応するだけでは全く不十分である。何故ならイスラエルはパレスチナ人の持つ人間としての権利を数十年に渡って蹂躙してきたからである。イスラエルによるパレスチナ人そしてレバノン人殺しは昨日も止んではいないのである(訳注3)。

 StWCそしてSPSCエジンバラ支部は、当該イスラエル映画やイスラエル映画制作者を排除せよと常に主張するものではない。過去から現在に至るまでイスラエルが為してきたパレスチナでの民族浄化政策と周辺国への侵略を取り上げた作品に取り組む全ての映画人に対して、吾々は芸術的にも政治的にも支援を行なっていく所存である。

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訳注1:関連。
8月4日:エジンバラ映画祭に圧力か?】smack dialy(2006/8/4)

訳注2:関連。
「みんな抱き合うようにして死んでいた」−カナの虐殺ふたたび】ナブルス通信(2006/8/5)

カナ、1996−2006年、忘れないために】低気温のエクスタシー(2006/8/3)

以下、小泉内閣メールマガジン第232号より抜粋。

(前略)どうしても一人では立ちいかない人に対しては、能力のある人が支える、みんなで助け合っていく、そういう状況が必要なのではないでしょうか。
 私の好きな言葉ですが、明治時代の歌の一節に、次のような歌詞があります。

 「友の憂いに吾(われ)は泣き、吾が喜びに友は舞う」

 友達の悩み、憂いについては同じように憂え、しかし、自分の喜びに対して友達は喜んでくれる。これは、お互いが助け合って、支え合っていく生き方です。
 他人の意欲、業績に対しては拍手を送る。 しかし、どうしてもやっていけない苦境に陥った人に対しては手を差し伸べる。 個人においても、 企業においても、国においても必要なことでないかと思っております。

***

【仇浪騒ぐ】岸 巌 作詞、内海磐夫作曲、官立第一高等学校 第十七回記念祭寮歌、1907年


仇浪騒ぐ濁り世の 汚れを永久に宿さじと
春や昔の花の香に 結び置きけん友垣や
十七の東風吹けば ゆかしく萌ゆる若緑


野露の村雨晴るる間を しばし木陰の宿りにも
奇しき縁(えにし)のありと聞く 同じ柏の下露を
くみて三年の起き臥しに 深きおもひのなからめや


み空に星の冴ゆる夜は 円(まど)かに更くる夢と夢
一つに結ぶ露の玉 雲紫の朝(あした)には
崇(たか)き希望(のぞみ)の胸と胸 同じ調べに躍るかな


友の憂ひに吾は泣き 吾が喜びに友は舞ふ
人生意気に感じては たぎる血潮の火と燃えて
染むる護国の旗の色 から紅(くれない)を見ずや君


流るゝ水に記しけん 消えて果敢(はか)なき名は追はじ
めぐる幾世の末かけて ただ我が魂(たま)の清かれと
昔ながらの月影に 歌ふ今宵の記念祭

***
以下、片岡利明「爆弾世代の証言」三一書房、1985年より抜粋 

 私にとって一番大きな壁は、武器を使うことにより人を傷つけたり命を奪ったりすることへの深い抵抗感でした。初めに書いたように、私は両親の死を想像しただけで泣くほどの弱虫で泣き虫でした。暴力は大嫌いで、なぐり合いのケンカなど、子どものころから一度もしたことがありませんでした。好きだった昆虫採集も、趣味のために虫を殺すのがいやになり、やめてしまいました。前述したようないきさつで私は教会を離れていたのですが、信仰まで捨ててしまったわけではありませんでした。私の闘いの出発点はキリスト者としての信仰でした。私の闘いは、今の時代におけるキリスト者の行き方の模索でした。ですから自衛手段としての武装は割合すんなりと肯定しえても、攻撃的な武装闘争に従事することには大きな抵抗があったのです。「殺すな」という倫理は、私の幼いときから育まれた道徳であると同時に、信仰上の戒律でもあったのです。
 七〇年四・二八闘争の時だったと思います、私はこの日、べ平連の集会とデモに参加していました。清水谷公園を出発したデモ隊は、解散地の飯田橋で路上にバリケードを築いて機動隊に投石戦を挑みました。この日は雨で私は傘を持っていました。デモ隊と機動隊が一進一退をくりかえしていたとき、一人の機動隊員が逃げ遅れて私たちに包囲されました。彼はこづき回されて道路に転がりました。このころ、警察官に対する私たちの憎しみは頂点に達していました。ここだれもがそうだったのではないかと思いますが、その男がいかに憎むべき「権力の犬」でも、一人の生命ある人間を私のこの手で殺すようなことは私にはできなかったのです。
 こういう私が武装闘争を実際に決意するのは大変なことでした。頭でその必要性は判るけれど自分にはできない、と悩み、迷いつづけていました。この葛藤を私がふっきったのは、テレビによる“体験”でした。夜の7時半ころから始まるNHKのドキュメンタリー番組で、あるときベトナム戦争による難民の姿を特集しました。フィルムは、米軍の攻撃で村を焼かれた人たちの姿を映し出していました。その画面の中で、老人に抱かれた小さな赤ん坊が死んでいきました。赤ん坊の悲しそうな眼は、私を見つめているように感じられました。私はこの小さく無力な子どもの生命を奪ったベトナム侵略戦争に対して、叫び出したいような怒りを感じました。この不正義の侵略戦争を支えるため、私たちの反対を押しきって米国に飛んだ佐藤首相に激しく重い殺意を感じました。彼の訪米を阻止しようとして阻止できなかった無念さに、私はテレビを見ながらボロボロと涙を流し続けました。そして、「坊や、このカタキはきっと討ってやるぞ」と心の中で誓いました。私はこのとき、自分の心をずっと縛りつづけていた「人を殺してはならぬ」という抑制を解いたのです。人を殺すことは悪です。しかし、殺さなければ不正義となるときもある、そういう時代に自分は生まれついたのです。その事実をうけいれた私は、もはや自分の信仰と武装闘争が矛盾するものとは感じませんでした。私はそれ以後、ほとんど迷うことなく武闘への道を歩み始めるのです。



訳注3:関連。
「停戦」その日、レバノンでは。】tnfuk [today’s news from uk+](2006/8/14)







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