2016年10月

「いつか、そのうちに本気を出すよ」

「いつか」も「そのうち」も、やってくることはない。 

鴻上尚史の『「空気」と「世間」』を読んだ。

鴻上は「世間」を、「世間」研究をしてきた中世史学者 阿部謹也を踏襲して5つのルールを導き出す。

①贈与・互酬の関係
②長幼の序
③共通の時間意識
④差別的で排他的
⑤神秘性

そして「空気」とは「世間」を構成するルールのいくつかが欠けたもの(もしくは「世間」が流動化して、どこにでも現れるようになったのが「空気」)と言う。

阿部謹也の定義している「世間」も取り上げている。

〈「世間」という言葉は自分と利害関係のある人々と将来利害関係をもつであろう人全体の総称なのである。具体的な例をあげれば政党の派閥、大学などの同窓会、花やお茶、スポーツなどの趣味の会などであり、大学の学部や会社内部の人脈なども含まれる。近所付き合いなどを含めれば「世間」は極めて多様な範囲にわたっているが、基本的には同質な人聞からなり、外国人を含まず、排他的で差別的な性格をもっている。 〉

「空気」についてはお馴染みの山本七平の『空気の研究』にも言及し、

〈つまり、物質の背後に何かが「臨在」していると感じ、知らず知らずのうちにその何かの影響を受けるという状態になっているのではないか、というのです。「臨在」とは、「まさにその場にいる」という意味です。
これが「空気の基本形」、つまりは「空気」が発生するメカニズムではないのか、と山本さんは考えます。
そして、「空気」とは、「対象の臨在感的把握」によって生まれる、と結論するのです。
対象であるものが、単にそのものではなく、その後ろに、何か霊的なもの、宗教的なもの、絶対的な何かが存在していると感じてしまう、ということです。〉 


この論理だと「空気」は「世間」の亜種のようだ。

どうも釈然としない。

「空気」が「世間」を構成するルールのいくつかが欠けたものの例として太平洋戦争時の戦艦「大和」の出撃を取り上げている。

「全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う」

ここで使われている「空気」を「世間」と言い換えると

「世間よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う」

この場合の「世間」とは「海軍という世間」か「日本という世間」、そして「世間」の方が決定が不動で確固たる印象を持つといい「空気」の方は将来的には変わるかもしれないという可能性を感じる、と書く。
従ってこの場合「世間」のルールの一つ「共通の時間意識」が揺らいでいる、と。


「空気」と「世間」を同列の扱うのには違和感を感じる。
「空気」と「世間」は似て非なるものである、というか似てもいないし全く異質なものだと思う。

「世間」は「共同体」であるとの前提がまずある。(と僕は思う)
5つのルールが満たされた時に「共同体」が出現するのではなく「共同体」を維持するためにルールが存在する。
そこには「関係性」というものが重要な要素であると思われる。

一方「空気」は「場」が決定するというか「場」に現れる。
鴻上氏が書くようにテレビのバラエティの司会者がその「場」の「空気」を作る時もあるだろうしタレントの絡みが「空気」を作る時もある。


「世間」は「関係性」が強固(または所与のもの)であるのに対して「空気」は「関係性」が希薄(またはその場で作られていくもの)である。

書かれてあることは概ね首肯できるものであるが「空気」が「世間」が流動化したもの、という点については納得できない。

鴻上は「世間」を論じた阿部謹也と「空気の研究」を表した山本七平との交流がなかったのが不思議であると書く。

阿部謹也も山本七平も「世間」と「空気」は全くの別物と考えていたから、別に交流する必要は無いと考えていたんじゃないかと、僕は思うのですが…。
 
 世間

国民意識は歴史的存在だ、時代によって内容も境界も変わるものだと伝えたところで、ナショナリストがその言説を信用することは期待できない。歴史的には新しい意識であっても悠久の歴史を主張し、その悠久の歴史を当事者も固く信じ込む。それがあたりまえのことであるかのように信じ込む信念の強さは、自由主義や社会主義とは比較にならない。
ナショナリズムほど鮮やかに組織的な自己欺瞞に成果を収めた政治イデオロギーは存在しない。どれほどウソに基づいているとしても、当事者にはそのウソは見えないのである。

日本は天皇の成立期(天武天皇:「記紀神話」の成立、アニミズムから、中国の“天”を模した一神教的なものへの変革)、 内藤湖南が述べた内乱期(「だいたい今日の日本を知る為に日本の歴史を研究するには、古代の歴史を研究する必要はほとんどありません。応仁の乱以後の歴史を知っておったら、それで沢山です。それ以前のことは外国の歴史と同じぐらいにしか感ぜられません」と述べている)、西欧化を目指した明治維新で分断されている。

ナショナリストは「連綿と続く悠久の歴史を誇る日本」を思い描いてるのであろうが、彼らの言う“伝統”は、ほぼ明治期に作られたものである。 

「ねぇ、ちょっと確認しておきたいんだけど」
「うん?」
「多数決って正否を問うことじゃないよね」
「え、そう?」 
「そう。多い方が正しいなんてことないじゃない?」
「そう言われればそうかな」
「そう。正しいか間違っているかは多数決で決まるわけじゃない」
「だったら最後は多数決で決める民主主義は、正しいわけじゃない?」
「正しいわけないじゃない。ヒトラーを生み出したのは民主主義だよ」
「じゃあ誰が“正しさ”を決めるの?神?」
「神は語ったことなんてないじゃない。神の声を聞いたって“人”でしょ、語ってるのは」
「でも信じてる人、いるよね」
「“信じる”と“正しさ”は違うよ」 

「ところでゼノンの『アキレスと亀』の話、知ってる?」
「うん、アキレスは亀を追い越せないって話だね」
「そう。その話を聞いて多くの人がそれを“正しい”って言えば正しいことになるのかな」
「正しくないよね。アキレスは亀を追い越せるもの」
「でもアキレスは亀を追い越せないに納得してしまう人がたくさんいれば?」
「うーん、正しくないけど」
「大阪都構想やTPPを誰が“正しく”理解してた、もしくはしてる?」 

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すでに誰か考えてる?
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